大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録

宮本百合子




 九月一日、土曜
 私共は、福井に八月一日より居、その日、自分は二階、Aは階下で勉強中。十二時一二分すぎ、ひどい上下動があった。自分はおどろき立ち上ったが二階を降るのが不安なほど故、やや鎮るのを待って降りる。あまり日でりがつづきもう一ヵ月余も雨が降らない故だろうと云う。一日中時々ゆりかえしがあり、自分は不安で仕事が手につかず。

 九月二日 日曜
 自分は、今日たけをさんの学校にゆくつもりなのを仕事の都合でやめた。安樹兄、福井市にゆき(豊一氏の妹の夫の葬式の為)始めて東京大震災 不逞鮮人暴挙の号外を見つけ驚きかえる。自分等葡萄棚の涼台で、その号外を見、話をきき、三越、丸の内の諸ビルディング 大学 宮城がみなやけた戒厳令をしいたときく。ぞっとし、さむけがし、ぼんやりした。が全部信ぜず、半分とし、とにかく四日に立つと、前きめた通りにする。吉田氏帰村し、驚き模様をしらす。大抵林町青山は無事と直覚すれど不安なり。

 九月三日 月曜
 激しき雷雨あり、まるでまっしろに雨がふる。雨を冒しA俥で福井にゆき、汽車の交渉と、食糧(鮭、カンづめ等)を持って来る。汽車東海道は箱根附近の線路破かいされた為金沢から信越線にゆき、大宮頃迄だろうと云う。鎌倉被害甚しかろうと云うので、国男のこと事ム所の父のことを思い、たまらなし。

 九月四日 火曜日
 午後四時五十七分福井発。
 もう福井駅に、避難民が来、不逞鮮人の噂ひどく女などは到底東京に入れないと云う。安樹兄、信州の妻の兄の家に止って居ろと云うが、荷物の大半をおき、只食糧だけ持ってのる。ひどいこみようなり、到底席などはなし。大阪の東洋紡績の救護隊総勢二十人近くなかなか手くばりをして、賑に来て居る。となりに居た海軍大佐金沢午後七時〇五分着同三十分信越線のりかえのとき、急行券を買う、そのとき私共と同盟し自分は私共の切符を買ってくれるから、私共はその人の荷物を持ち、席をとることとする。金沢迄無事に行くことは行ったが、駅に下ると、金沢の十五連隊の兵、電線工夫等が大勢、他、救済者が、皆糧食を背負い、草鞋バキ、殺気立った有様でつめかけて居る。急行は何方につくのかときいて見ると、ブリッジを渡った彼方だと云う。A、バスケット、かんづめ包をふりわけにし、自分は袋、水とう、魚カゴを下げ、いそぎブリッジを渡って、彼方できくと、彼方側だと云う。又、今度は時間がないのでかけて元の方に下り、人にきき、元と同じ側に待つ。金沢の兵、電気工夫等一杯、頭をなぐられなぐられやっとのる。自分席あり、A席なくバスケットにすわる。海軍の人の荷物を人づてに渡す。軽井沢近くまではどうか斯うが無事に来たが、くつかけ駅から一つ手前で、窓から小用をした人が、客車の下に足を見つけ、多分バク弾を持った朝鮮人がかくれて居るのだろうとさわぎ出す。前日軽井沢で汽車をテンプクさせようとした鮮人が捕ったところなので皆、さむいような、何とも云えない気がする。駅で長いこと停車し、黎明のうすあかりの中に、提灯をつけ、抜刀の消防隊がしきりに車の下をさがし、一旦もう居ないと云ったのに、あとでワーッとときの声をあげて野原の方に追って行った。居たと云う人、居なかったと云う人。不明、然し、この下でバク発するかと思い、而も逃げ場もないときの心持はまともに味った。高崎、大宮以後十二時間の延着で、田端に夜の(五日)九時すぎつく。金沢からのり合わせた男、荷もつはあり、自動車はないと云うので、自分がカイ中電燈をもって居るのをだしに、あまり智識もなさそうな男二人をさそい、荷を負わせてつれて行く。自分はAと、もう一人信州の男と、三人で、着剣の兵に守られた処々を通り林町の通りに出、門を見、自分にかけよるきよの声をきく、父上の無事を知ったら何とも云えない心持がした。西洋間に尻ばしょりのままとび込むと渡辺仁氏が居らる。倉知貞子叔母、死んだらしいとのこと、国男無事のよし。Aと二人、青山に行けずとまる。

 六日
 A青山。鎌倉から小南の兄かえり、叔母上、季夫圧死し、仮埋葬にした由

 七日
 午後A来。荷物半分負うて行く。

 八日
 自分基ちゃん、歩いて青山に行く。
 歩いて林町より三時間かかり青山に来る。やけ野原(イキ坂、神保町、九段)の有様、心を**にす。五番町英国大使館の前に、麹町区役所死体収容所が出来、あらゴモで前かけをした人夫が、かたまり、トタンのかこいをした場所に死骸をあつめて居る。夜、青山の通を吉田、福岡両氏をたずね、多く屋根の落ちかかった家を見る。ひどい人通りで、街中

 九日
 英男、荷物を持って自転車で来る。夜豪雨。ヒナン民の心持を思い同情禁じ得ず。
 A、浅草、藤沢をたずぬ、A、浅草にゆく。さいの弟の避難先、寺田氏の避難先をわからせる。

 十日 雨
 さい、妹と二人赤羽に行き、到頭弟が北千住に行ったことを確む。
 国男自動車で藤沢を通り倉知一族と帰京、基ちゃん報知に来てくれる。自分雨をおかし、夜、二人で、(モトイと)林町に行きよろこぶ。
 自転車に日比谷でぶつかり、足袋裸足となる。

 十一日
 大学のかえりA林町により、歩き青山に戻る。石井に五十円やる。

 十二日
 さい弟を訪ね北千住に行く。(晴)
 女、前の、夜番。

 二十三日
(倉知へ一寸より道ちゃんと行く)
 みな安積から帰る。大宮から自動車で来、やけ跡も見ない故か、ふわふわたわいない心持。

 二十四日
 夜からひどいひどい雨、まるで吹きぶりでひとりでにバラックや仮小屋のひとの身の上を思いあわれになる。A午頃福井からかえった由 林町に居て知らず。古川氏にたのまれた原稿を書く。

 二十五日
 ひどい雨、英男朝四時頃、岡部氏に行きがけ青山に原稿を届けてくれる。A一緒にかえる。自分夕方Aとかえり、夜原稿が不満なのでなおす。

 二十六日
 古川氏の原稿をしまう。とりに来ず。違約か。午後縫いものを始む。

 二十七日
 罹災民に送ろうと思う着物縫いにかかる。殆ど一日。処々へ見舞。
 甲府の渡辺貴代子氏来罹災民への衣類寄附の為、三宅やす子、奥むめおその他と集ってしようと云う。主旨賛成、但、彼女の粗野なべらんめえ口調にはほとほと参ってしまった。

 二十八日
 英男縫いものの材料としてまとめて置いたぼろを持って来てくれた。一包だけ。
 母上には困って居る人間の心持がわからないのだろう。困る。心持がわるかった。

 九月六日に聞いた話
 ◎朝、鎌倉の倉知の様子を見に行った小港の兄、自転車にのって行かえり、貞叔母上、季夫、座敷の梁の下じきになって即死し、咲枝同じ梁のはずれで圧せられ、屋根から手を出し、叫んだのを、留守番の男が見つけききつけかけつけて出そうとして居るうち、ツナミが来たので、あわててそのまま逃てしまった。咲枝気絶してしまって居たところに、逗子に行って居た一馬がかえり、その手を見つけて、掘り出し救った。春江は歯医者にでも行って居た為に助かる。
 ◎国男は一日の朝、小田原養生館を立ち大船迄来、鎌倉へ行こうとして居るとき、震災に会い歩いて鎌倉へ行った。為に、被害の甚大な二点を幸運にすりぬけて助かった。
 ◎木村兄弟が来、長男の男が上の男の子を失ったと云う。
 ◎笹川氏来 芝園橋の川に死体が並んでつかえて居、まるでひどい有様で日比谷にも始め死体が一列に並んで居た由。
 ○看板に、火がぱっとつき、それで家にうつる。それを皆でこわす。
 ○産婦が非常に出産する。日比谷で、幾人も居る。順天堂でも患者をお茶の水に運び、精養軒へ行き駒込の佐藤邸へうつる迄に幾人も産をした。
 ◎隅田川に無数の人間の死体が燃木の間にはさまって浮いて居る。女は上向き男は下向、川水が血とあぶらで染って居、吾嬬橋を工兵がなおして居る。
 ◎殆ど野原で上野の山の見当さえつけると迷わずにかえれる。
 ○本所相生署は全滅。六日夜十一時頃、基ちゃんが門で張番をして居ると相生署の生きのこりの巡査が来、被服廠跡の三千の焼死体のとりかたづけのために、三十六時間勤務十二時間休息、一日に一つの玄米の握り飯、で働せられて居る由。いやでもそれをしなければ一つの握り飯も貰えない。
 地方から衛生課長か何かが在郷軍人か何かをつれて来たそうだがあまり恐ろしい有様におぞげをふるって手を出さず戻ってしまい人夫も金はいくらやると云ってもいやがってしない。ために巡査がしなければならない。
 ○焼け死んだ人のあるところは、往来を歩いただけでも匂いでわかる。変に髪のこげたような匂いとその、ローストビーフのようなところ等。そして、みな黒こげで、子供位の体しかなくもがいた形のままで居る。只足の裏だけやけないので気味がわるい。
 ○橋ぎわに追い込まれ、舟につかまろうとしても舟はやけて流れるのでたまらず、溺れ死ぬ、或は、他に逃げ場を失って持ち出した荷物に火がつき、そのまま死ぬ、被服廠の多数の死人も、四方火にとりかこまれた為、空気中に巨大な旋風が起り、火をまきあげたところへ、さっと荷物におちるので、むしやきになった。その旋風のつよさは、半蔵門に基さんが居たとき、三尺に五尺ほどのトタン板がヒラヒラと舞う。
 三日の晩松坂屋がやけ始め 四日の朝六時に不忍池の彼方側ですっかり火がしずまった。
 父上が先の森さんのうちの前で見ると、九十度位の角度に火が拡って居た。
 ○不逞鮮人に対する警戒はきびしく思いちがいで殺された人間(鮮人、邦人)が多い。二日三日の夜には、皆気が立ち、町内の有志が抜刀で、ピストルを持ち、歩いた。四日頃からそのような武器を持つことはとめられ、みな樫の棍棒を持つことになった。
 やりをかつぎ、闇からぬきみをつき出されたりした。
 ◎野沢さんの空屋の部屋で、何かピカリピカリと電気が見えるので変に思って行って見ると、日本人の社会主義者が一人つかまった。
 今度、放火したり、爆薬を投げたりしたものの中の大多数は日本人の社会主義者だと云う話がある。真ギはわからないが、若し日本の社会主義者が本所深川のように、逃場もないところの細民を、あれほど多数殺し家をやき、結局、軍備の有難さを思わせるようなことをするとしたら、実に、愚の極、狂に近い。
 鮮人の復讐観念が出たのなら、或程度までそれぞれの理由も察せられるが。又、鮮人がしたとしても、問題はこの事件の落着にとどまらず、朝鮮と日本の在る限り、重大な、持続的な問題である。
 八日、基ちゃんと、青山にかえる途中、乃木坂行電車の近くで、大森の基ちゃんの友人に会い、実際鮮人が、短銃抜刀で、私人の家に乱入した事実を、自分の経験上はなされた。
 つかまった鮮人のケンギの者にイロハニを云わせて見るのだそうだ。そして発音があやしいと忽ちやられる。
 林町の方で三十七八の女が白粉瓶に毒薬を入れて持って居るのを捕ったと云う話、深川の石井が現に、在郷軍人の帽子をかぶって指揮して居るのを見たと云い、恐しいものだ。

 本田道ちゃんの話
 丁度昼で三越に食事に行こうとして玄関に出て来ると、いきなり最初の地震が来た。あぶないと云うので、広場の真中にかたまって三越の方を見ると、あの建物がたっぷり一尺右に左にゆれて居るのが見える。化粧レンガはバラバラ落ちて来るしガラスはみなかけ落ちるし大変なことと思い、二度目がしずまると、家にかえって見た。そして、又 office に行き丁度三時頃家へかえり切りになる。地震は、相変らず時々来るが、火事はまかさ来まいと思い、荷作りなどをしないでも大丈夫だと、下の婆さんに云って一先ずガード下に地震をよけて居るうちに、五時頃、段々火の手が迫って来るので、大きな荷物を四つ持ち、鎌倉河岸に避難した。始めは、材木や何かをつんで置いたところに居たが、あとで気がついて竹で矢来をくみ、なかに、スレート、石のような不燃焼物のあるところにうつり、包を一つスレートの間に埋めて居た。が、火の手が迫って来ると、あついし、息は苦しいし、大きな火の子が、どんどん来る、後の河には、やけた舟が漂って来て棧橋にひっかかる。男が棹でおし出してやる。いざとなったら、後の河にとび込む覚悟で、火の子を払い払いして居るうちに、朝になり、着のみきのままで林町に来た。
 下の婆さんは、ガード下に居たとき近所の人に、小さい女の子と、酒屋の十ばかりになる小僧を一寸見てやって下さい、とたのまれたので、その子にすがりつかれたばかりに何一つ出さずにしまった。
 ばあさん曰く「憐れとも何とも云えたものじゃあありませんや、一寸此処に待っておいで、おいでと云っても、可怖いから行っちゃあいやーとつかまえてはなさないんでしょう。私も、自分の荷物を出そうとして、ひとの子をやき殺しちゃあ寝ざめがよくないと思って、我慢してしまいましたが……それもいいがまあ貴女、その小僧が朝鮮人の子だって云うじゃあありませんか、私口惜しくって口惜しくって、こんなんなら放ぽり出してやればよかったと思ってね、傘一本、着換え一枚ありませんや。」
 その婆さんが話したが、呉服橋ぎわの共同便所の処で三十七人死んだ、その片われの三人が助かった様子、中二人は夫婦で若く、妻君は妊娠中なので、うしろの河に布団をしずめて河に入れて置いたが、水が口まで来てアプアプするので、仕方なく良人も河にとび込み舟に乗ろうとすると、舟は皆やけて居る。やっと、橋の下に一つやけないのがあったのを見つけ、それに二人でのり、手でかいて、逃げ出した。そのあとにのこった三十七人が、火にあおられ、救ろう助かろうとして居るうちに、やけ死んでしまったのであった。
 その男は、後親類のものに会ったとき泣いて今度のような目にあったことはないと云った由。

 深川の石井の逃げた様子。
 すぐ舟に家族のものと荷もつだけをのせ、大川に出た。ところが越中島の糧秣廠がやけ両国の方がやけ、被服廠あとがやけ四方火につつまれ川の真中で、立往生をした。男と云えば、船頭と自分と二人ぎりなので五つの子供まで、着物で火を消す役につき、二歳の子供は恐怖で泣きもしない。
 そのうちに、あまり火がつよく、熱と煙のため、眼が見えなくなって来た。(そのため、方角もわからず逃げ場を失って死んだものが無数だろうとのこと。)それで手拭で片目を繃帯し、川の水をあびあびやっときりぬけて、巣鴨の方の寺に行った。
 荷もつに火がつくので水をかける、そのあまりをかい出すもの、舟をこぐもの分業で命からがらにげ出したのだ。

 吉田さんの話。
 Miss Wells と、日本銀行に居た。これからお金を貰おうとしたとき地なりがしたので吉田さんはああ地震と云うなり、広場にとび出してしまった。Miss Wells はついて来るものと思って。見ると三越がゆれて居る。自動車は、広場のペーブメントで二三尺も彼方此方ずれて居る。もう死ぬものと覚悟したら少しは度胸が据ったので、三越の窓を見ると、売場ふだをかけてあるのがまるでころころ swing して居、番頭が、模様を気づかってだろう、窓から首を出したり引込めたりして居る、そうかと思うと、夫婦でしっかり抱きあって居るのもあれば、又、どの道、身じんまくをちゃんとして、と云う風に、着物をちゃんときなおして居る番頭も居る。
「どうでしょう、大丈夫ですか」と傍の男にきくと、
「私は下がわれると大変だと思って、地面ばかり見て居ます」と云う。
 気がついて見ると Miss Wells が居ないので、堂々めぐりをして見ると Miss Wells は、玄関のところに立って居る。
 内の方が安全だと云うので入り二度目の地震が来るまでに金をうけとり、Miss Wは銀座をぬけようと云うのに反対して、呉服橋から丸の内に出ると、内外ビルディングが丁度つぶれ、負傷した男が血まみれで、逃げようかどうしようかと、救を求めて居る。
 もうその為電車はきかないので歩いてかえり始めると、警視庁の裏、青山の方、神田の方、もう一つ遠い方で火が見える。
 その夜は空が火事のあかりで、昼間のようでゴーゴーと云う物凄い焔の音がした。
 着物をきかえるどころではなく夜は外でたべ、ねむり八日に始めて二階に眠ろうとする。
 ミスWは、Mrs. ベルリナに地震のサイコロジーを知りたいからそのつもりで居て呉れと云われたことが頭にあるので、先ず始めは落付き、傍の人や動作を観察し、すっかり心に覚え込み、先ずこれでよしと思ったら急にこわくなり膝がガタガタに震え出した由。

 父上の経験
 その日は一日事務所に行かず。丁度地震の三十分ほど前内外ビルディングに居、人に会うために、ヤマトと云うレストランの地下室で電話帳を見て居た。ところへひどくゆれて来、ガチャガチャ器具のこわれる音がする。父上は、多分客や Waiter があわてて皿や何かをこわしたのだろうと思うと二度目のがかなりつよく来た。これは少しあぶないと、地ママ室の天井を注目した。クラックが行くと一大事逃げなければならないと思ったのだ。ピリリともしないので、少し落付いたら、食事をする気で居ると、何ともそとのさわぎがひどいので出て見て驚いた。早速、郵船を見ると、どうもガタガタに外がいたんで居るし、内外はピシャンコになって居るし、もう警視庁うらに火が出たし、あぶないと思って、事ム所を裏から大丈夫と知り東京ステーションで Taxi をやとおうとするともう一台もない。しかたがないので、本郷座のよこに来ると今客を降したばかりの白札のに会う。のせろ、いやだめです、かえらなければならない。そう云わずに行けと押問答をして居ると彼方側からも一人駒込に行くからのせろと云う。それでは二人で行きましょうとやっと家にかえった。
 かえって見ると、おばあさん二人は竹やぶににげ、英男が土蔵にものを運び込んで、目ぬりまでし、曲って大扉のしまらないのに困って居た。
 井戸に、瀬戸ものをつるしまでし。なかなか十五六の男の子としては大出来の功績をあげた。
 二日
 事ム所まで行って(勿論歩いて)見ると、三崎町辺、呉服橋ぎわ、その他に人間の死体がつみかさね、やけのこりのトタン板をかぶせてある。なるたけ見ないようにして行く。二人の老婆をどうして逃そうかと、松坂屋に火のついたとき、心配此上なかった。

 さいやの経験
 地震のとき、自分の三畳に居、はっとして、窓から戸外にとび出し門を出て気が遠くなった。近所の男にブランデーを貰って気がつき、それからは却って平気になって夜でも、明りのない蚊帳の中で目を醒して居る。弟が、ひどく心臓をわるくし、本所の奉公先から、浅草猿若町の医院に入院して居た。それを赤羽まで書生が背負って行ってくれ、あと兄が福島から来、三日、のまず、食わずでたずねた揚句、やっと見つけて、北千住につれて行った。よく助ったものなり。さい、十二日朝カンづめ類を背負い出かける、前晩も眠らず。

 大瀧全焼して、林町に一族で避難して来る。

 ○大学、化学実験室辺から火を発したらしい。皆、四周はしっかりして居るのだが、天井が落ちて中は駄目。
 幸、高楠先生関係の本、歴史の本、その他少々たすかり、啓明会のは、大部分見出された由、大学が(この図書館の貧弱な日本で)図書館を失ってはまるで手も足も出ないだろう。
 マックスシュラーの文庫は、到頭開放しないまま灰燼にしてしまった。
 ○何にしろ東京が此那有様なので、種々の注意は皆此方に牽かれ、全滅した小田原、房州の諸町へはなかなか充分手がまわらない形がある。

 ○東京は地震地帯の上にあって、いつも六七十年目百年目に此那大地震がある。建てても建てても間もなくママされるそれをいつまでくりかえすのか。

 ○今度の朝鮮人の陰謀は実に範囲広く、山村の郷里信州の小諸の方にも郡山にも、毒薬その他をもった鮮人が発見されたとのことだ。

 九月二十四五日より大杉栄ほか二名が、甘粕大尉に殺された話やかましく新聞に現れた。福田戒厳令司令官が山梨に代ったのもこの理由であったのだ。他二名は誰か、又どうして殺したか、所持品などはどうされたか。
 高津正道、佐野学、山川均菊栄氏等もやられたと云う噂あり。実に複雑な世相。一部の人々は皆この際やってしまう方がよいと云う人さえある。社会主義がそれで死ぬものか、むずかしいことだ。だまし打ちにしたのはとにかく非人道な行為としなければなるまい。

 国男の話詳細。
 小田原養生館滞在、一日の朝、前日鎌倉へ行こうとして、山田氏に来られ駄目になったので、出かける。汽車、電車が案外早かった為、予定の一つ前のに間に合った。大船では発車、三分前、プラットフォームに出て歩いて居たが、もう入ろうとして車内に入ったばかりのところに、ゆるい地震が来ひきつづき、立って居られないほど、左右に大ゆれにゆれて来た。彼は、席の両はじにつかまり、がんばり、やっと、一次のはすぎる。もうそのとき、今迄居たプラットフォームはくずれ、出ようとした汽車の車掌が血まびれで、何処からか這い出して来た。下りの方のプラットフォームには、沢山の人が居、それが泣き叫ぶ声、救を求める声、言語に絶す。それから国男はすぐ汽車を出、レールにつかまって第二のゆり返しをすごす。それから鎌倉の方に行くものを誘い、歩いて、トンネルくずれ、海岸橋陥落のため山の方から行く。近くに行くと、釣ぼりの夫婦がぼんやりして居る。つなみに家をさらわれてしまったのだそうだ。倉知の方に行くと門は曲って立ち、家、すっかり、玄関の砂利の方にくずれて居る。家屋を越えて行くと庭に川島が呆然として居、呼んでも返事もせず。やっと心づき「お話ししなければならないことがある」と云ってやって来、叔母、季夫が圧死し、咲枝、一馬に助けられ、材木座の八百屋わきのトタン屋根の仮小屋に避難した由を云う。国男すぐ川島をつれ、途中ローソク、マッチの類を買って避難所に行く。
 その翌日あたりから、朝鮮人が来ると云う噂が立ち、センセンキョーキョー、地震のとき、春江ちゃんの行って居たサイトウさんのところでは、奥さんが死なれその良人、子供二人、姉妹たち、皆一緒に居る。一日に玄米二合ぎり、国男空腹に堪えず。そっと咲枝ちゃんとビスケットなどをかじる。
 三日雨
 四日ぱっと照る。
 両日の間に叔母上の死体を、小島さんのところに来た水兵の手でママり出し、川島、棺作りを手伝って、やっと棺におさめ、寺に仮埋葬す。その頃、東京から小南着。
 五日頃から、倒れなかった田舎の百姓家に避難し、親切にされる。幸、熱も始め一二日で出ず。
 八日、倉知叔父自動車にて着。
 九日、皆、藤沢をまわり、二子の渡をとおり、*の家につく。
 十日、国男だけ林町に送られて来る。
 藤沢に行く迄に網の目のように地われしたところがあるそうだ。われ目にはさまった自動車。
 ○倉知、叔母、ゆれ始めたとき女中と、二番目の小さい子と一緒に、おにげなさいと云うのにきかず食堂に居、二人(咲枝と季夫)をかばって、海に背を向け、大棟で背を打たれ、臀部に柱のおれたのか何かだかささったまま季夫チッ息して死す。咲枝は足を下にしかれ、夢中で手で天井を破って顔を出して居た。女中と二番の子が海岸橋を渡り切って下馬に来たとき、あとから渡った厨川白村氏がつなみにさらわれ沖に持って行かれた。





底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年5月30日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
初出:同上
※「*」は不明字。
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について