年譜

宮本百合子




一八九九年(明治三十二年)
二月十三日。東京市小石川区原町で生れた。父中條精一郎(建築家)母葭江。
生後十ヵ月から満三歳まで両親と札幌で育った。

一九〇五年(明治三十八年)
東京市本郷区駒本尋常高等小学校へ入学。父はイギリスへ行っていた。小さいベビー・オルガンが一台うちにあって、茶色絹のバラの花簪をさした若い母がそれを鳴らし、声はりあげて「ウラルの彼方、風荒れて」と歌った。軍艦のついたエハガキに、母がよく細かい字をぎっしり書いてイギリスの父へやっていた。正月で、自分はチリメンの袂のある被布をきせられていた。母が急に縁側へ出て槇の木の下に霜柱のたっている庭へ向い「バンザーイ! バンザーイ!」と両手を高く頭の上にあげ、叫んだ。声は鋭く、顔は蒼く、涙をこぼしている。自分はびっくりして泣きたくなり、だが母についてバンザイと云った。そしてわきに並んで手をあげたら袂がそれは重かった。――日露戦争はこんな形で自分の記憶にのこっている。

一九〇七年(明治四十年)
〔六月〕、父かえる。

一九一〔一〕年(明治四十〔四〕年)
本郷誠之尋常小学校卒業。お茶の水高女入学。
夏休みに小説の処女作を書いたが、いつの間にか何処かへなくしてしまった。
段々手当りばったりにいろんなものをよみはじめた。「平家物語」「方丈記」西鶴(!)などを盛にうつしたり、口語訳にしたりして表紙をつけ手製本をつくった。
与謝野晶子の「口語訳源氏物語」のまねをして「錦木」という長篇小説を書いた。(尻きれとんぼ)森の魔女の話も書いた。
両親たちは自分たちの生活にいそがしい。家庭生活や夫婦生活のこまかいことがませた自分に見え、親たちを批評するような心持になった。
お茶の水の女学校もつまらない。陰気な激しい心になって暮した。よく学校へ行くのをやめたり早退けしたりして上野の図書館へ行った。佐竹ヶ原の草の中へころがっていたりもした。昔の婆やが酒屋の裏にスダレを下げて賃仕事をしている、そこに一日いたこともある。
一葉だの、ワイルドだのの影響があった。母が或る時土産に二冊本をくれた。アラン・ポウの傑作集だった。以来、時々これで本をお買いと一円か二円くれた。

女学校の四年ごろからロシヤ文学に熱中しだした。トルストイが最も自分を捕えた。西洋史で教わったローマ法王グレゴリー〔七〕世を主人公にした史劇みたいなものを書いた。わが幼稚なる衒学時代の開始、日本の文壇は人道主義が盛だった。

一九一六年(大正五年)
女学校五年、祖母の棲んでいる福島県下の田舎へ小さい時から毎年行っていた。その印象をあつめて「農民」という小説を書いた。女学校卒業、目白の女子大学英文予科へ入学。
「農民」を書きなおし、「貧しき人々の群」という題にした。二百枚ぐらいあった。母によんでもらい、仲よしにもよんで貰った。坪内雄蔵先生のところへそれを持ってゆくことになり、『中央公論』の瀧田樗蔭に会うことになり、少しちぢめて九月の『中央公論』に載せられた。薄謝と書いた紙包に百五十円入っていた。
女子大は一学期でやめていた。

一九一七年(大正六年)
「日は輝けり」(中央公論)「三郎爺」(〔東京日日〕)「地は饒なり」(中央公論)「一つの芽生」
単行本『貧しき人々の群』が玄文社から出版された。

一九一八年(大正七年)
単行本『一つの芽生』が新進作家叢書の一部として新潮社から出た。
「禰宜様宮田」(中央公論)
人道主義的作家見習いにはなったが、当時の所謂文壇とはちっとも交渉がなかった。わずかに久米正雄、芥川龍之介などを知るだけで、自分が文壇の中へ入ろうとは思っていなかった。

民族的滅亡に追いこまれているアイヌのことを書きたいと思って北海道へ行った。三月から八月まであっちこっちアイヌ村を歩いた。八月に父が札幌へ用事で来て、一緒に帰る汽車の中でアメリカへ出かけるがついてこないか、と言った。行く気になった。九月二十六日東京を出発した。
十一月十一日、ニューヨークの小さなホテルの露台に立ってヨーロッパ大戦休戦当日の光景を見下ろした。

一九一〔九〕年(大正〔八〕年)
ニューヨークで結婚。
「美しき月夜」(中央公論)
十二月帰朝。

一九二〔〇〕年(大正〔九〕年)
この年から足かけ四年ばかりは泥沼時代だった。小市民的な排他的な両親の家庭から脱出したつもりで四辺を見まわしたら、自分と対手とのおちこんでいるのは、やっぱりケチな、狭い、人間的燃焼の不足な家庭の中だった。
檻の野獣のように苦しんだ。対手をも苦しめた。対手は十五年アメリカで苦労したあげく、休みたがっていた。僅かに「黄昏」「古き小画」などを書いた。

確か大正十一年の夏と思う。山川菊栄などが実際の発起者で、与謝野晶子、埴原久和代、其の他多勢とロシヤ飢饉救済会の仕事をした。

一九二三年(大正十二年)
関東大震災の被害は直接は受けなかった。
三宅やす子の『ウーマンカレント』を中心とし小規模の救援事業をした。
野上彌生子とこれらの数年間に知る。

一九二四年(大正十三年)
春ごろから少し書くことができるようになった。「心の河」「イタリアの古陶」等。
湯浅芳子を知る。
夏、離婚した。長篇「伸子」の第一部「聴き分けられぬ跫音」を書き、『改造』へのせた。

一九二五年(大正十四年)
「伸子」を三、四度にくぎって『改造』へ連載。他に「吠える」「長崎紀行」「白い翼」などを書いた。

一九二六年(昭和元年)
「伸子」完結。「一太と母」(女性)「未開な風景」(婦人公論)等。

一九二七年(昭和二年)
「伸子」を単行本にする為に手入れをしながら「高台寺」(新潮)「帆」(文芸春秋)「白い蚊帳」(〔中央公論〕)「街」(女性)「一本の花」(改造)等を書く。
十二月初旬、湯浅芳子と共にソヴェト・ロシアへ出発した。十二月十五日モスクワに着く。

一九二八年(昭和三年)
単行本『伸子』が改造社から出版された。春「モスクワの印象」(改造)。秋「赤い貨車」(改造)をモスクワから送った。
この夏、八月一日、故国で次弟英男(二十一歳)が自殺した。彼が姉にあてて書いたまま出さなかった最後の手紙に、何ものをも憎むなという文句があった。
彼の予期しなかった死=没落と日夜目撃してその中に生きるソヴェトの燃えつつ前進する新社会相は、両面から自分の眼を開いた。ひとりで闘ってきた闘いを結びつけて行くべき方向と形と意味が理解された。政治的行動に、これまでと全く違う見方を得た。芸術家として自分はどこまでも現社会制度との非妥協性をすてない。憎む心をすてない――と。
この秋、洋々たるヴォルガ河を下り、湯浅とコーカサス、バクー油田、ドン・バス炭坑見学をした。

一九二九年(昭和四年)
正月から四月いっぱい、猛烈な胆嚢炎でモスクワ〔大学〕第一附属病院に入院した。
五月から十一月末までベルリン、ウィーン、パリ、ロンドンなどを見物した。ヨーロッパの資本主義国の文化の過去と現在の老朽はおどろくべきものだった。本当は、医者にチェッコのカルルスバード鉱泉へ行けと言われたのだが金がなかった。

一九三〇年(昭和五年)
二月「ロンドン印象記」(改造)。秋「子供・子供・子供のモスクワ」(改造)を送る。
『戦旗』に二三原稿を送った。或るものはついたが或るものはつかなかった。
初夏、クリミヤ及びドン地方の大国営農場「ギガント」へ見学旅行した。
湯浅は日本へ帰ることになり、自分はどうしようか迷った。遂に帰ることにきめた。
十月二十五日モスクワを立ち、十一月〔八〕日東京着。
十二月〔中旬〕、全日本無産者芸術団体協議会作家同盟に加盟した。
平凡社から『宇野千代集』と合冊で『中條百合子集』が出版された。

一九三一年(昭和六年)
「三月八日は女の日だ」(改造)「スモーリヌイに翻る赤旗」(大阪毎日)「ソヴェト五ヵ年計画と芸術」(ナップ)その他ソヴェトに関する印象、紹介などを書く。又三月には田村俊子、野上彌生子と合冊で『中條百合子集』が改造社から出版された。
一月。作家同盟中央委員になり、〔七月〕常任中央委員になった。
九月。プロレタリア文学運動では、日本の半封建的な社会事情によって婦人の社会上、文化上の重荷が非常に多く文学上の成長もはばまれている。この状態を特別考慮して婦人の、特に働く婦人、農村における婦人の文学的成長を助ける意味で「婦人委員会」が組織された。同時に作家同盟では、農民文学に対する委員会、児童文学に対する委員会、青年の文学的創造力を指導するための委員会、朝鮮、台湾等の植民地の文学を、それぞれの民族文化との関係に於ける独自的発達を支持するための委員会が組織された。私はこの婦人委員会の責任者となった。
これらの委員会が組織されたことはプロレタリア文学運動が日本文学の歴史の中ではじめて労働者とともに、婦人、児童、農民、植民地の人々等の文化上の存在権を確認した出来ごとであった。私はこれらの委員会の重要な本質を理解することができた。しかし、婦人委員会の活動を広汎に活溌に具体的に指導してゆくことは、私の当時の経験では困難なことであった。しかし婦人委員会ができてから小説、詩の分野で若い作家詩人がいくつかの仕事を発表するようになった。『女人芸術』その他協同主催の文芸講演会などでは、特に婦人委員会の社会的文学的意味が理解され、文学を愛する婦人のための激励となった。
十月。「全日本無産者芸術団体協議会」は芸術団体の他に科学者、哲学者、教育者、社会医学関係の団体をも包括する「日本プロレタリア文化連盟」となった。満州事変と云われた日本帝国主義の満州侵略戦争がはじまり、日本の専政権力に反対するプロレタリアは、世界の国々の反ファシズム運動と結合しようとした。日本プロレタリア文化連盟の結成もこの角度から重要な意味をもった。作家同盟も団体加入した。各参加団体の中に組織されていた各委員会が協議会を持ち、婦人協議会の責任者となった。日本プロレタリア文化連盟からは、参加団体それぞれの機関紙の他に、「プロレタリア文化」が発刊された。この月党の組織と結合した。
十一月。婦人協議会から勤労婦人のための雑誌刊行が計画された。勤労階級の婦人のための雑誌としては、これまで『戦旗』があり『婦人戦旗』が発刊されはじめていたが、それをやめて『働く婦人』が発刊されることになった。これは婦人協議会から編輯部を構成して各団体が独特な能力で編輯に協力してゆくやり方であった。この『働く婦人』の編輯責任者となった。作家が雑誌の編輯事務にたずさわるということは、当時の私として苦痛なことであった。けれども階級的な作家の一つの経験であると思って翌年一月の創刊号から三月号まで編輯した。それ以後は佐多稲子が責任者となった。即ち四月に私が検挙されたことが責任者の交替をもたらしたのであった。この年は非常に多くの紹介・啓蒙の文筆活動を行った。旅行記『新しきシベリアを横切る』内外社。

一九三二年(昭和七年)
二月。宮本顕治と結婚。本郷動坂に家をもった。
〔四〕月七日。文化団体に対する弾圧。私は駒込署に検挙され(〔八十〕日間)、宮本顕治は非合法生活に入った。
九月。日本プロレタリア文化連盟婦人協議会会議中、全員検挙、一ヵ月検束された。
日本のファシズムと侵略戦争に反対し、勤労階級の社会的発言の一つの現われとして活動をはじめた「日本プロレタリア文化連盟」参加の各団体は三月下旬の全国的弾圧のために、重大な破壊をうけた。同時に勤労階級の政党である共産党に対する惨虐な抑圧はますます激しく、指導者の拷問虐殺が行われるようになった。
この二つの事情が連関して当時のプロレタリア文化運動は勤労者の生活の現実がそうであったように、文化的な方法を通して勤労階級の政治的な抗議や要求も行われる場合がふえてきた。日本のように民主生活の諸形態がなかった国では、ファシズムのもとでこのような合流は余儀なかった。非合法の党機関紙が自由に読めないために、読者もプロレタリア文化出版物のどこかに彼らの階級的意識を指導し、鼓舞し組織するモメントを発見しようと努力した。編輯者もまた不如意な階級的出版の状態からできるだけ読者の要求をとりあげたく思った。
一九三二年の後半期から三三年にかけて日本のプロレタリア文化運動が著しく政治的偏向をもったということが今でも一つの先入観になっており或は偏見となっている。そしてこれがプロレタリア文学運動誹謗の種子とされているけれども、この日本風な現象については日本風な専政支配の野蛮さと、大衆の生活に多様な階級的文化の組織がなかったこと、僅かに文化サークルが組織されかかっていたばかりであったことなどを考え合わせなければならない。
十月。左翼に対する弾圧激しく『働く婦人』『プロレタリア文化』『プロレタリア文学』等の発行は杜絶えがちになった。岩田義道が警察の拷問によって虐殺された。
    執筆
小説「鋪道」を『婦人之友』に連載中、検挙によって中絶。

一九三三年(昭和八年)
二月二十日。小林多喜二が築地署で拷問虐殺された。通夜の晩に小林宅を訪問して杉並署に連れてゆかれたが、その晩はもう小林の家から何人かの婦人が検束されて来ていて、入れる場所がないということで帰された。
〔『大衆の友』号外〕小林多喜二特輯号を編輯した。
十二月〔二十六〕日。宮本顕治は九段上でスパイのため売り渡され、検挙された。スパイは当時日本共産党東京地方に活動していた渾名亀こと高橋であった。

一九三三年は文学的には殆ど活動不可能の状態であった。左翼に対する弾圧は、ジャーナリズムの上にプロレタリア作家の活動する余地を与えなかったし、私個人の生活事情から言っても落ち着いた日は一日もなかった。プロレタリア作家同盟が解散しようとする前で、指導的な中央委員の間に激しい意見の対立を生んでいた。ごうごうとして蔵原惟人、小林多喜二、宮本顕治などの文化、文学運動の指導上の欠点として「政治主義」が批判され、山田清三郎、林房雄その他の人々がプロレタリア作家同盟を壊滅させるために精力的に働いた。
ソヴェト同盟が第一次五ヵ年計画を完成してその過程でインテリゲンチャ、技師、学者等従来プロレタリア階級の発展に対していくらか距離をもっていた社会的分子を完全にプロレタリアの社会的達成の協力者とすることができた。この現実に立ってソヴェトではプロレタリアの作家同盟が解散され、同伴者作家、農民作家等のグループを広汎に統一した全ソ作家同盟が組織された。そして社会主義的リアリズムの創作方法が提唱された。日本ではこの社会主義的リアリズムの創作方法に対する解釈を、全く芸術における階級性の抹殺という方向で行った。そして日本のプロレタリア文化、文学運動の「政治主義」を批判する口実とした。
社会主義的リアリズムのこのように歪曲された解釈は、一般にさまざまな形でのリアリズム論争をまき起した。武田麟太郎の風俗描写的リアリズムをそのはじめとして。――すべてのリアリズム論争の特徴は、階級性の抹殺であった。佐多稲子、江口渙、私等は以上のような「自己批判」に納得できず、作家同盟の常任委員会で常に当時の書記長その他の見解に不一致であった。しかし理論的に未熟であり、運動に経験のないために客観的には明瞭に誤っている結論に従うほかなかった。
    執筆
一月。一連の非プロレタリア的作品。
八月。「マクシム・ゴーリキイの人及び芸術」小説「小祝の一家」(文芸)

一九三四年(昭和九年)
一月。中旬に麹町署に検挙されている宮本顕治の奪還計画というものが新聞に公表された。二三日たって私が検挙された。
二月。作家同盟解散。
六月。一月以来駒込署、小松川署、杉並署、淀橋署と移されていたが、六月十三日、母危篤のため急に帰された。肺壊疽をわずらって順天堂病院に入院していた母は、私が病院にかけつけて十五分ののちに死去した。私は半年の留置場生活で健康を害して、心臓衰弱に苦しんだ。この年はプロレタリア芸術家の転向の問題が注目をひいた。村山知義の「白夜」その他、運動と個性の分裂をモメントとして権力に屈したインテリゲンチャの告白がいくつもの小説となってあらわれた。治安維持法そのものの非人道性をとりあげた作品はなかった。これはどういう形で日本のインテリゲンチャ及び勤労者が、その時以来ひきつづき一九四五年まで治安維持法にいためつけられつづけたかということを理解するための歴史的な鍵である。これらの問題についていくつかの文学評論、批評を執筆した。
    執筆
一月。小説「鏡餅」(新潮)
八月。鈍根録(改造)
十月。ツルゲーネフの生きかた。(文〔化〕集団)
十一月。夫婦が作家である場合。(社会時評)
十二月。バルザックに対する評価。

一九三五年(昭和十年)
〔前年十一〕月。淀橋区上落合の家に引越した。〔同十二月初〕旬、夕刊で宮本が市ヶ谷刑務所に送られたことを知った。大急ぎで綿入を縫って面会差入れした。一年の警察生活で宮本は白紙のまま起訴された。一週間に一遍ずつ市ヶ谷に面会にゆくことが日課になった。宮本がともかく警察で殺されないで市ヶ谷に行ったということは私を大変安心させた。小説の書ける気持になった。小説「乳房」を中央公論に発表した。(〔四〕月)この小説は後にソヴェトで革命文学の文集に集録された。
五月〔中〕旬、前年の母の死によって中絶した取調べの続きだといって淀橋署に検挙された。
十月。「日本共産党の外郭団体であるプロレタリア作家同盟の活動に従事し、共産主義を宣伝した」という理由によって起訴された。市ヶ谷刑務所におくられた。
    執筆
この時、評論集『冬を越す蕾』が入獄中に出版された。
一月。「バルザックから何を学ぶか」を『古典の再認識』のために執筆。作家は何でも書けばそれが現実を反映するというリアリズム論への反駁として。
一月。不満と希望。(社会時評)
一月。村からの娘。(社会時評)
四月。新しい一夫一婦。
五月。乳房。(中央公論)
九月。小説「突堤」(これは淀橋署に拘留中に書いた。)その他。

一九三六年(昭和十一年)
一月。市ヶ谷刑務所から東京地方裁判所に通って予審がはじまった。
一月三十日、父の急死によって葬儀のために仮出獄した。
二月。二月二十六日事件を裁判所で知った。小使がつい、予審判事に戒厳令という言葉を言ったために。
三月。下旬、予審終結。ひどく健康を害していたために市ヶ谷からじかに慶応大学病院に入院した。
六月。公判、懲役〔二〕年、執行猶予〔四〕年を言い渡された。予審と公判とを通じて私は文学の階級性を主張することができなかった。
七月。保護観察所によって保護観察に附せられた。警視庁の特高課長であった毛利基が主事をしていた。毛利基は宮本の関係した党内スパイ摘発事件のとき、スパイを潜入させその活動を指導するための主役の一人であった。
はじめて保護観察所によばれたとき、この毛利が鉈豆煙管をさげて出てきて、「どうだね、悪いことをしたと思うかね。」と言った。そのときの感情は生涯忘れないだろう。
八月。マクシム・ゴーリキイの伝記を書きはじめた。熱中して三分の一ほど書いたが、健康がつづかず中断した。
一九三二年から四年間、たびたびものの書けない状態におかれたことは、私に啓蒙的な文筆活動を文学的にたかめてゆく機会となった。書けない間、自分の書いたもの人の書いたもの、文学というものなどについて自然、深く考えるようになったから。――集中して仕事をするために弟の家族と生活することの不自然を感じて、十二月下旬、目白に引越すことにした。
    執筆
五月。わが父。
七月。芸術が必要とする科学。
マクシム・ゴーリキイの発展の特質。(文芸評論)、逝けるゴーリキイ。(文芸評論)、ゴーリキイの描く婦人。(文芸評論)
九月。作品のテーマと人生のテーマ。(文芸評論)
十月の文芸時評
十月。「或る女」についてのノート。(文芸評論)
十一月。自然描写における社会性。(文芸時評)、暮の街(社会時評)
十二月。未開の花。(社会時評)、含蓄ある歳月。(作家論)

一九三七年(昭和十二年)
この年七月、蘆溝橋事件を挑発のモメントとして日本の天皇制権力は中国に対する侵略戦争をはじめた。日本の全文化が軍部と検事局思想部の露骨な統制のもとにおかれるようになった。翼賛会の初代の文化部長岸田国士、つづいて同じ位置についた高橋健二その他の人々は、文化の擁護のために何事もなさなかった。一九三〇年代のはじまりに「文学の純芸術性」を力説した菊池寛、中村武羅夫等の人々が、この時期に率先して文化の軍事的目的のために奴隷化をあっせんしたことは歴史的な事実となった。また、プロレタリア文学理論に反対して「文芸復興」を主張した林房雄などが、いち早く上海でビールに酔って報道記を書いたことも注目される。「ペンクラブ」も国際的連帯をたって「日本ペンクラブ」となり、日本浪漫派の人々は亀井勝一郎、保田与重郎、中河与一を先頭として「日本精神」の謳歌によって文飾されたファシズム文学を流布した。女詩人深尾須磨子はイタリーへ行って、ムッソリーニとファシズムの讚歌を歌った。私は目白の家で殆ど毎日巣鴨へ面会にゆきながら活ぱつに執筆した。表現の許される限りで、戦争が生活を破壊して、小学校の上級生までが勤労動員させられはじめた日本の現実を描きたいと思った。この年に書いた小説はどれも、作者のその基本的な熱望の上にたっていた。しかし表現はむずかしくてどの作品もかろうじて全篇を流れる気分として戦争に対する反対を表し得たばかりであった。文芸評論でいわゆる日本的なものの本質の究明とエセヒューマニズムとの闘いが意図された。
この年の一月目白三ノ三五七〇の家に引越した。一九三一年の秋の末から、段々宮本と会うことの多くなった頃住んでいた家が、じきそばにあった。新しく引越した家は朝夕の出入りにその二階やのわきを通る位置にあった。目白の家でこの年はどっさり執筆した。
    執筆
一月。子供のために書く母たち。(社会時評)、ジイドとそのソヴェト旅行記。
二月。若き世代への恋愛論。パアル・バックの作風その他。文学における今日の日本的なもの。「大人の文学」論の現実性。鴎外・芥川・菊池の歴史小説。鴎外・漱石・藤村など。三月の第四日曜(小説)。ジイドとプラウダの批評。
四月。ヒューマニズムへのみち。
五月。山本有三氏の境地。
六月。猫車(小説)。迷いの末。(横光利一厨房日記評)藤村の文学にうつる自然。
単行本。この年竹村書房から小説集『乳房』、白揚社から評論集『昼夜随筆』が発行された。

一九三八年(昭和十三年)
この年一月から翌年の四、五月ぐらいまで作品の発表が不可能になった。戦争がすすむにつれて出版物の検閲は、ますますひどくなって編輯者たちは何を標準に発禁をさけてよいか分らなかった。それほど日本における言論の抑圧は急テンポに進行していた。内務省警保局で検閲をしていた。その役人とジャーナリストたちとの定期会見の席で、あるジャーナリストから編輯上の判断に困るから内務省として執筆を希望しない作家、評論家を指名してくれといったために、当局としては個人指名までを考えてはいなかったのに、数名の人の生活権をおびやかすような結果になった。これは内務省の検閲課の役人が中野重治と私が事情を聞きに行ったときに答えた言葉であった。この時、実質上の執筆禁止をうけた人は、作家では中野重治、宮本百合子、評論家では六、七人の人があった。内務省では、すぐ手紙をよこして自分の立場を釈明してきた人々があり、その人に対しては早速適当な処置をとると云った。中野と私とは、そういう方法はとらないことにした。そして私は私の監視者である保護観察所の所長に会って、執筆禁止の不当なことと、生活権を奪ったことについての異議を申したてた。当時は、一般ジャーナリズム、文化人がまだこのような言論抑圧に対して、その不当を表明するだけの気持をもっていた。各方面から内務省の態度が非難された。保護観察所は文筆関係者と内務省検閲課の役人とを招いて、懇談会を開いた。これは直接にはどれだけ効果があったことか分らない。何故なら保護観察所へよばれた人々は殆どいつも唖になった。何か一言云えばそれを「観察」されて、思想的点をつけられるからみんな馬鹿のようになって、互の顔ばかりみている。この時も発言したものは直接関係者だけであった。この年六月宮本の父が亡くなった。作品を発表されなくなったことは、私の経済的安定を失わせたし、精神的にも打撃であった。私は落ちつかなく毎日を送った。夏頃、健康が悪くなって寝汗をかき、微熱を出した。獄中で結核にかかり、一時重患におち入ったことのある宮本は、私の健康回復法としてきびしい規律的生活のプログラムを与えた。そのプログラムには、夜十時就寝、一日三回の検温、正しい食事、毎日午前中に巣鴨拘置所へ面会にくること、などが含まれていた。これを三ヵ月ほど実行している中に、微熱は出なくなった。十二月に盲腸炎を起し、慶大病院で手術した。

一九三九年(昭和十四年)
三月。〔一〕昨年末の作品発表禁止がとけそうな気配があるといって文芸春秋が小説を依頼した。丁度宮本の弟が中国に出征させられたときであった。私は「その年」という小説を書いた。文芸春秋社で内閲に出した。そしたら各行毎に赤線が引かれて戻ってきた。線のひかれないところは「である筈だのに」とか「そうしている中に」とかいう文章でこれは纏まった言葉とも云えない。編輯者も私も苦笑してその原稿を保留した。六月頃、文芸春秋に「からたち」随筆四、五枚を書いた。これは発表された。七月中央公論に、三宅花圃と一葉とのことを書いた随筆を書いた。それも発表された。こうして理由なしに禁止された作品発表は、まだはっきりしたわけが分らぬ中にそろそろ印刷されはじめた。私は書ける間に出来るだけ書くという心持をもった。小説「杉垣」(中央公論)、「藪の鶯」、「清風徐ろに吹来つて」、「短い翼」等明治から現代までの日本文学の動きと婦人作家の生きてきた道を追求する仕事を文芸に連載しはじめた。この年は戦争の進行につれて軍需生産を中心とする日本経済の「軍需インフレ」の無責任な活況が起った。インフレ出版、インフレ作家というよび名さえ起った。しかし文学の実質は低下の一線をたどった。戦争遂行目的のために作家と文学の動員されることはますますはげしくなって「文芸家協会」は「文学報国会」となり、作家のある人々は、積極的に報道員となって中国に行った。日本の戦争の侵略的な帝国主義の本質とその戦争遂行のために治安維持法によって全人民に理性的な考え方と発言とを禁じている日本の現実に目をつぶって軍隊とともに中国を歩き廻ったとしてもそこにどんな人間らしい文学も生れないのは当然であった。文学の文学らしさをもとめる心持が同時にはげしく感じられてきた。この年は婦人作家の活躍した年といわれ、その理由は婦人作家の社会性が狭くて、自分の小さい生活と芸術境地を守りつづけてきているために、男の作家が軍事的社会風潮におしながされ、真実性のない長篇小説などを流行させているのに対して、一縷の芸術性を発揮したものと評された。「綴方教室」や「小島の春」のような素人の文学「女子供の文章」の真実性が云われた。しかしやがて、文学の最後の小石のような真実も戦争強行の波におされて婦人作家も南や北へ侵略の波とともに動くようになった。
    執筆
三月。その年。(小説)
九月。杉垣。(小説)この初冬。(〔随筆〕)
まちがい。(〔随筆〕)
十一月。芭蕉について。(作家論)
十二月。おもかげ。(小説)ひろば。(小説)
単行本。明日への精神。(実業之日本社)三月の第四日曜。(金星〔堂〕)

一九四〇年(昭和十五年)
この年の日本の国内にどれほど軍事的な窒息的な空気がはびこっていたかということは、この年〔十〕月に書いた小説「朝の風」をよむとしみじみわかる。人間の理性と自然な情感に立った日常生活が失われてきたと同時に、文学はいよいよ人間性を失った。すべての文学は戦争鼓吹の文学でなければならなかったが、戦争そのものが非人間的な本質だったから従軍作家の誰の書くものもそれぞれの作家の文学的力量を生かしきらず、その人びとの人間の味さえも殺した。私小説にゆきづまり、日本文学の社会性のせまさ、弱さに、自繩自縛されたいわゆる純文学者たちは、戦争という大事件とそのヒロイズムによって、貧弱な文学の基ばんを拡げ新しくすることができるだろうと自分たちに期待したことは、幻想にすぎないことが証明されつつあった。一九三八年〔三〕月に石川達三が中央公論に発表して禁止された「生きている兵隊」という小説はそのテーマが戦争の野ばん性に圧倒されてしまう人間性を描いていた。そのような作品さえもそこに人間性の諸問題が残っているという意味で情報局は禁止した。これは日本の全人民が、「考える」能力を持つ者であることを情報局と軍部が否定した意味であった。
ヨーロッパではドイツファシズムの侵略が大規模に展開しつつあった。前年九月ワルソーに突入したナチス軍は四〇年の春ノルウェーに進出し、五月マジノ線を突破して一ヵ月の後フランスを降伏させていた。第二次ヨーロッパ大戦は次第にクライマックスに向いはじめた。日本の天皇制権力とその軍閥は目前のドイツファシズムの勝利に誘惑されて野心を夢みはじめた。
    執筆
一月。朝の風。(小説)生活者としての成長。(評論)
三月。昔の火事。(小説)
五月。夜の若葉。(小説)
十月。若き精神の成長を描く文学。(評論)昭和の十四年間。(日本評論、日本文学入門へ)
十一月。世代の価値。(評論)
十二月。今日の文学の諸相。(文芸評論)
その他文芸時評、婦人問題に関する執筆多数。
単行本。小説集『朝の風』(河出書房)

一九四一年(昭和十六年)
この年一月から再び作品発表を禁止された。日本の権力は戦争反対どころか、「自主的」な「文化的」なすべての心情を非国民的と扱うようになってきた。すべての新聞、ラジオ、出版物は嘘と分っている戦争煽動に動員された。そして十二月八日に太平洋戦争に突入した。十二月八日の払暁、戦争に対して反対の見解をもっていると思われていた千余名の人々が日本中で検挙された。私は十二月九日理由不明で駒込署に留められ、〔翌年〕三月検事拘留のまま巣鴨拘置所に送られた。六月下旬警視庁の調べがはじまった。何でもかでも共産主義の宣伝のためにしたという結論におちつけようとする調べであった。六月下旬に検事が来たとき私の調べの事情をはなし、自分が全く作為的な調書をとられていること、もし公判になれば、自分はそれをひるがえすということを話した。検事はそういう調べについて困ったことだといったまま帰った。七月二十日すぎ、その年の例外的な暑気と女監の非衛生な条件から、熱射病にかかり、人事不省になった。生きられないものとして運び出されて家へ帰った。三日後少しずつ意識回復した。しかし視力を失い、言語障害がおこり、翌〔々〕年春おそくはじめて巣鴨へ面会に行った。その時はじめて着た着物が、おもかった心もちが忘れられない。作家でこの年投獄された者は私一人であり中野重治は非拘禁のまま執拗に警視庁の調べをつづけられた。評論家、ジャーナリスト、歌人、俳人で検挙された人たちも少くなかった。
    執筆
この年は文学評論集『文学の進路』(高山書〔院〕)、『私たちの生活』――婦人のための評論集――(協力出版社)が出版された。

一九四二年(昭和十七年)
この年はまだ健康を回復せず眼も見えず、読書もひとりでできなかった。十月中旬に、宮本の誕生日のためにやっと大きな字でみじかい詩を書いた。読書もできず、手紙さえも自分で書けない状態は私の感情を圧縮した。珍しくこの年はいくつかの詩ばかりを書いた。これは文学的作品であるよりも訴えであり、嘆息であり、つまり門外不出の作品である。
日本の軍事行動はシンガポール占領、ビルマ、ジャワ占領と、最も侵略の拡大された時期であった。軍需産業の病的な拡大のために企業整備がはじまり、民間の日常必需品の統制が開始された。前年十月に成立した東條英機内閣はこの時期、彼等にとってもっとも甘美なファシスト独裁の夢をみていた。

一九四三年(昭和十八年)
健康状態如何にかかわらず私の作品は発表禁止であった。経済的に困窮した。
宮本顕治が一九四〇年に結核のために重態になったが、幸い、回復できた。この年の夏チブスにかかり、再びなおることができた。
太平洋戦争第三年目で真珠湾の幻想は現実によってくずされはじめていた。日本の支配権力は戦争反対者に対する弾圧をますます激しくし、単に自由主義に立っている人々をも入獄させた。文化、自由、平和、階級、侵略というような文字はすべての出版物から消された。一億一心、八紘一宇、聖戦、大東亜共栄圏というような狂信的用語が至るところに溢れた。文学はこれらの言葉の下に埋没した。
この緊迫した状態のもとで宮本の公判がはじまった。当時宮本は公判廷に出ても席に耐えないでベンチの上に横になる程疲労していたが、公判は続行された。すでに他の同志たちは分離公判が終結していた。被告宮本ただ一人、傍聴者は弁護士と妻と看守ばかりという法廷であった。戦争に気を奪われ左翼の存在を忘れさせられた人々は殺人の公判には傍聴に入っても治安維持法の公判廷には姿を見せなくなった。治安維持法の意味を知り、公判に関心をもつ人々は危険をおそれてあらわれなかった。
翌年の〔十二〕月一審判決まで不思議に人影の少い、しかし意味の深い「公開裁判」の法廷がひらかれつづけた。
私としては実に多くのことを学んだこの公判の期間をとおして、一九四三年一月スターリングラードにおいて死守の命令をうけたナチス軍が消息を絶ったというニュース、反ファシスト軍がイタリアのシチリア島に上陸して戦果をおさめ、ムッソリーニが辞職したニュース、イタリアの降伏などはまるで息づまる格子の間からさしこむ明るい光のようにうけとられた。ファシズムは勝利しないという希望が強くわいた。しかもその喜びは決して表現することを許されないものであった。私は公判廷と弟の家事との間を往復して暮していた。

一九四四年(昭和十九年)
この年〔十二〕月に宮本の第一審判決があり、関係被告中ただ一人無期懲役を求刑された。直ちに〔上告〕した。この判決決定の日、裁判長は法廷の慣習を破って判決決定書の主文を先によんだ。このことは誰の眼にも妥当な法律の適用でないという感情をもたせた事実を語っている。前後二十余回に亙って宮本が病苦をおして「懇々」という形容詞をつけてよいほどスパイ摘発の意味と事実を論告したにもかかわらず、主文にあらわれた判決理由は十一年前宮本が検事局によって起訴された理由と九分通りまで同じに、事実と異った捏造によって書かれていた。このことは私に天皇制ファシズムの法律の本質をしんからのみこませた。
日本全土に空襲の恐怖と疎開さわぎがはじまった。七月サイパン島で全員戦死の発表が行われ、侵略戦争の現実の姿がむき出されはじめた。この月に東條内閣は辞職して小磯、米内の協力内閣ができた。この年のはじめ国民総動員が行われ十七歳以上を兵役に編入することにした。次第に破局に近づくけいれんがあらわれはじめた。
弟の家族は疎開した。私が残った。八月にパリが陥落した。アンドレ・モーロワの『フランス敗れたり』が日本でひろく読まれたのは、これから間もない頃であった。この本は政界裏のぞき的なサロンゴシップで真にフランスの悲劇と人民の反ファシズム闘争を反映したものではなかった。

一九四五年(昭和二十年)
一月三十日東京に本式の空襲がはじまった。それから〔五〕月まで私の住んでいた本郷区の各所が連続的に破壊され、〔四〕月には巣鴨拘置所だけを残して周辺が焼野原となった。その空襲の翌朝、同居していた人に頼んで拘置所を見に行って貰い、それだけが残ったことを知った。治安維持法被告の非転向者は空襲がはじまると何時も監房の戸をかたく外から錠をかけられた。他の被告の監房の鎖ははずされた。私は宮本が「爆死」しなかったことをよろこんだ。〔五〕月初旬に大審院上告が却下された。無期徒刑囚として宮本は網走刑務所に移された。
この空襲と宮本の網走行の異常な伴奏として五月二日のベルリン陥落、つづいてドイツ無条件降伏が伝えられた。日本のどんなに多くの人間がその頃胸をとどろかせて朝々の新聞を拡げたろう。新聞には地図入りでベルリンに迫るソ連軍と連合軍の進路が示された。北フランスでどんどんと追いはらわれてゆくナチス軍の敗退の足どりがしるされた。レニングラードの市民の英雄的な闘い、遂に陥落しなかったモスクワ。ひとつひとつの民主的人民の勝利の前進が日本の狂気のようなファシズム下の生活の中へもひびきわたってきた。
日本では本土決戦というようなことがいわれはじめた。
網走へ行って住もうと思って、七月私は福島県の弟の家族の疎開先まで行った。その時はもう津軽海峡の連絡船が動かなかった。
八月六日広島に、九日長崎に原子爆弾がおちた。広島に応召中だった宮本の弟達治が負傷し、死んだが死体はみつからなかった。八月十五日の正午、天皇はラジオで日本の無条件降伏を宣言した。ポツダム宣言は受諾された。急速な武装解除が行われた。九月〔二〕日にミズリー艦上で降伏文書調印が行われた。
十月四日、連合軍総司令部の指令によって、治安維持法の撤廃、政治犯人の釈放、言論、出版、集会の自由が命令された。
十月十〔四〕日、宮本が網走刑務所から解放されて東京へ帰ってきた。府中刑務所の予防拘禁から解放された徳田球一その他の同志たちの間に活動が開始された。『アカハタ』第一号がパンフレットの形で発刊された。日本にはじめて共産党の機関紙が合法的に出版された。代々木に党本部の事務所がもたれた。私も入党した。
十二月、この本部の二階広間の畳の上で、合法的第一回、実質的には第四回大会がもたれた。五百余名の人々が集った。この大会は二年後の一九四〔七〕年第六回大会がもたれたとき、凡そ十万近い党員を代表する数百名の代議員の出席している光景を予想できなかったほど、小規模なものであった。しかし、長年の弾圧と辛苦の果に集ったそれらの人々の雰囲気には感銘ふかい歓喜と新しい勇気とがみちていた。
日本の勤労階級は公然と自身の政党をもつようになった。勤労者の文化的創造性も、自身の組織がもてるようになった。新しい民主主義の立場に立って日本民主主義文化連盟が各種の民主主義文化団体の協議組織として出発した。民主主義文学の団体として新日本文学会が組織された。
十二月、宮本と松江市、米子市、大阪、山口市等の講演旅行に行った。
十二月に新しい日本の民主的文学へのよびかけとして「歌声よおこれ」を新日本文学創刊号のために書いた。近代文学のために「よもの眺め」を書いた。主としてジュール・ロマンの「ヨーロッパの七つの謎」の書評であり、資本主義国家が第一次大戦後欧州の社会主義化をおそれて、ナチスに投資したことがどれほどの悲劇を招く原因となったかということ、また、ジュール・ロマンの「善意の人々」は理性的な方法を知らなかったために、どんなに善意を翻弄されたかということから私どもの学ぶべき点を書いた。

一九四六年(昭和二十一年)
極端な帝国主義日本を武装解除し、民主化しようとする混乱と多忙とが始った。文化の面では文学の新運動ばかりでなく、戦争中もっとも戦争協力を強いられたラジオ、新聞の民主化に着手され、GHQの協力によって日本のラジオの民主化のために民間各界の代表をあつめた放送委員会が組織された。その委員の一人にえらばれた。ポツダム宣言によって日本の婦人が選挙権を得た。婦人の政治的、社会的啓蒙、民主化活動も同時にとりあげられて、CIEの個人的顧問であった婦人たちを中心として佐多稲子、壺井栄、山本安英その他の婦人芸術家をも包括する婦人民主クラブが組織された。その下準備のために多くの時間がさかれた。
三月、総選挙が迫るにつれ、特に婦人のために社会状勢のあらましを知らせる『私たちの建設』という小型の本を書いた。共産党の人民の政党としての意味を説明するラジオ放送をした。選挙期間にはいく度も婦人と作家の立場から政治的な演説をした。私の懇談的、講演的な演説は、いわゆる政治演説とは自ら違った。
八月、岩手、秋田地方へ朝日主催の自由大学講師として宮本と二人で出席した。
九月、四国地方の党会議に出席をかねて旅行した。
この年は文化、生産の各場面に民主化のための闘争が起って、十月から十二月のはじめまで、もっとも高い波であった。年末に新日本文学会の第二回大会で「一九四六年の文壇、文学」を報告した。
    執筆
一月。春桃。
二月。逆立ちの公私。私たちの建設。(婦人のための啓蒙)“どう考えるか”について。
六月。信義について。
七月。ある回想から。播州平野。(長篇小説)
八月。青田は果なし。
九月。風知草。(連載第一回)
十月。琴平。現代の主題。風知草。(第二回)
十一月。郵便切手。図書館。風知草。(第三回)
単行本。『伸子』〔第一部〕。(文芸春秋社)私たちの建設。(実業之日本社)

一九四七年(昭和二十二年)
一月から〔八〕月まで中央公論につづけて「二つの庭」を書いた。これは二十数年前に書いた「伸子」の続篇であり、また、或る意味での日本インテリゲンチャの歴史ともいえる。十月から展望に「二つの庭」に続く「道標」を執筆している。
この年前半期は大体一ヵ月を三分して三つの仕事をした。創作、講演、集会への出席。そして〔四〕月選挙のときは岡山へ行った。これは私の健康にとって全く無理であった。七月に過労のため血圧が高くなりまた視力があやしくなった。そのため三ヵ月ほど休養した。
後半期は講演を全廃した。組織の会合にも欠席することを許して貰った。小説だけにしたこの仕事の割あては今日もつづいている。
一九四七年度の毎日出版文化賞が「播州平野」と「風知草」に与えられた。
    執筆
一月。二つの庭。(中央公論)作家の経験。
三月。政治と作家の現実。小説と現実。
五月。一九四六年の文壇。風知草。(文芸春秋社)
六月。本当の愛嬌ということ。
十月。道標。(展望連載)
十一月。真夏の夜の夢。デスデモーナのハンカチーフ。
単行本。『伸子』〔第二部〕。(文芸春秋社)播州平野。(河出書房)作家と作品。(山根書店)
貧しき人々の群。(新興出版社)歌声よおこれ。(解放社)幸福について。(雄鶏社)
宮本百合子選集第一巻、同第三巻。(安芸書房)
新しい婦人と生活。(民主主義文化連盟)真実に生きた女性たち。(創生社)婦人と文学。(実業之日本社)

一九四八年(昭和二十三年)
中心的な執筆は、小説「道標」である。民主的文学の分野には、昨年末から批評と創作の協力的前進の問題が起っており、勤労者の文学サークルの間にはリアリズムのみなおしの問題も起っている。これらの文学上の問題は、昨年四月以来次第に表面に出てきた日本のファシズムの危険と昨今の戦争挑発の現象とからみあっている。批評と創作の協力的向上の問題についての評論「両輪」を新日本文学〔三〕月号に書いた。戦争挑発と闘い、平和を確保するためにすべての文化人、作家、芸術家が共同の組織をもち、労働階級の組織と協力する必要がはっきりしてきた。小説の他に「平和のための荷役」(婦人公論)、「世紀の分別」(改造)、「日本婦人の国際性」の新しい展開について『女性線』に書いている。
単行本。
宮本百合子選集第四巻、同第五巻。(安芸書房)二つの庭。(中央公論社)女性の歴史。(婦人民主クラブ)女靴の跡。(高島屋出版部)道標(第一部)。(筑摩書房)
〔一九四八年十月〕





底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年5月30日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「現代文学全集 第五十六巻」改造社(1931年までの年譜)
   1931(昭和6)年3月発行
   「宮本百合子研究」津人書房
   1948(昭和23)年10月発行
※見出しとして立てられた年表示の内、「一八九九年」などの西暦の部分はすべて、ゴシックで組まれています。
※「〔〕」で囲まれた箇所は、底本の編集に際して、明らかな誤りとして訂正されたものです。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2007年7月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について