日記

一九二二年(大正十一年)

宮本百合子




一月一日

(日曜)晴
 昨夜、二時頃吉田さんの処から帰って来ると、神保町で停電し、とうとう春日町まで歩いた。あめがポツポツ降り出して来たのでいそいで歩き、ひどく疲れる。
 眠ったのは五時頃だろうか、今朝は、四方拝のおことわりで、早く起きたので、半分頭が曇って居る。何も徹夜の覚悟をしなくてもよさそうなのに妙なものなり。
 林町では、両親、スエ子と常盤館に行かれたので、自分の苦痛は余程軽められた。年始にAの行かれないこと、若し行って誰かに会ってきかれるかと思うと、切角行っても、いそいでかえらなければならないこと、其等が、先から自分にはひそかに苦となって居た。それが、しないですむとは何とよかったことだろう。去年より心持が家、生活に落付いて居る故か、さほど新奇な心持もしない。雑誌を読む。此頃の疑問。男性の芸術家は女性を描く、これにオーソリティーを認める。而も、何故、女の描いた男性は認められないのか、つまり女性である自分は、女のことほか書けないと定って居るものなのか? と云うことである。根本に果して、女性の精神で描き得ないものがあるのだろうか。
 此も元日のつづき。
 去年の日記に所謂九星の表がついて居た。
 元から厄年に不幸に会いつづけて居る自分は、或運命を感じて居るので、その星にも興味を感じ、今年の九星表、占のようなものを先に買った。ところが、何でも、今年自分の運は、あまりよくないように書かれて居たらしい。ところが、元旦に雪と予報してあるのが、昨夜暁から今朝、降積ったのを見出した。此がきっぱり当るとどうも万事当りそうで癪だ。ところが、日が出てからは、ちっとも降らず夕方は日さえ見えたので、とにかくそこに幾分の余裕はつく。今日、雪だとは云えない。昨夜雪だったのだ。と、微妙な心理。

一月二日

(月曜)晴
 午前中林町に行く。午後、関さん、K、俊ちゃん[#下島俊一、精一郎の従弟]来る。関さん近よれば近よるほど愛らしい人。しかし、ペツォルド夫人があくまでも関さんを自分の型にはめようとして居るのを聞き云い表し難い心持がした。関さんはペ夫人の愛の絆に苦しみ、自分は母のそれに苦しめられる。然し深く考えて見ると、それ等の故に却って次代のものが磨かれつよめられて行くのだと思う。次の時代と云うものは、反抗児によって支えられて行く。――此事は、文学の上にも大切な一考すべき点なのではないか。

一月三日

(火曜)晴
 午後から、思いがけず笹川さんが来る。眼や額の辺に、云い難い陰気なかげが出来て居て、気の毒な感を起した。関さんに近づいて行く心持も分る。じめじめした地下に居た者が、かっと皮をやくような太陽に照らされたいように、あの陽気さにすっかり気分を蒸発させてしまいたいのだろう。
 馬がどんなに人間の心と交渉をもつかと云うことを話す。皆にいじめられた新兵は、馬に自分の感情を吐露すると云うこと。
 新年号の種々な小説、自分には芥川氏の「俊寛」がひどく感銘した。悦びにも悲しみにも掻き乱されない心。
 有島さんや野上さんの、頭から来た処はいつも自分に考えさせる。ホール・ビーイング、此がむずかしい。
 夜、「渋谷家」を書きなおし始める。なおし始めたら、赤くなってまるで仕方がない。いっそ書きなおせと思って始めたのである。けれども、まだ椅子になれないうえに、夕飯がどうかしてもたれ、頭、甚だダルである。まず調子ならしのため、今夜は少しで我慢するよりあるまい。又明日から緊張した日が始る。

一月四日

(水曜)晴 風強
「渋谷家」を書きなおし始めたけれども、どうもうまく行かない。やはり、元のをなおして置こうと云うことになる。かきなおさなければ、活字に出来まいと云うので、Aが、書きなおして下さると云う。自分は、彼の仕事があり、それに時間が足りないのに私のをして貰うことはいやに思う。けれども、彼がよいと云うのだからよいではないかと、いやな声を出すから、云われるままにする。
 久米氏の志賀直哉氏評、よき純な芸術には必ず流露感があり、それが詩であり芸術である、と云うのをよみ、実にもと思う。
 一体、自分は志賀氏をそれほど偉大な芸術家だとは思われない。まれに書きひっそりと生活して居るから、一種のただありかたさに涙こぼるる、なのではないか。
 さむく、手かじかみ、此もよく書けない。
 仕事として春から初冬のよいことが分った。真冬は堪らない。
 こおった夜に聞える近い半鐘、余韻のないカンカンカンカンと云う淋しい音。

一月五日

(木曜)晴
 実に寒い。臥床の中にうすら寒さで目があくと、夜具の襟から息が白く見える。冬はよいのだけれども、日本の建物がいやだ。
 一旦ちぢんでしまった頭は、よほど経たないと暖く血管を充実させない。A岩波に地図を持って行く。
 とりのことを思い自分のことを思うと、実に世の中の親子の関係にもさまざまないきさつと差異があるものと思わずには居られない。又少々風邪けで、鼻ずこずこ、頭の工合よろしからず。
「渋谷家」をなおす。
 随筆を四五枚。
「渋谷家」、平気で出し、ともかく人によませようとしたのに驚く。とうていAには写してもらう気のせずやはり自分ですることにする。

一月六日

(金曜)晴
 消防の出ぞめ、朝早く二つばんがやかましく長くなる。いかにも正月の六日頃らしく、そとで万歳、獅子の囃がきこえる。
 手洗鉢の氷あつし。昼前一寸林町へ行く。母上きのう、常盤館より帰京。よほど大尽をやって来られたらしいが、それでも不満で、疲れたらしくて居られる。スエ子が熱を出し、一層母上をこまらせたのらしい。
 大隈さんが八十五で危篤と云う。今日の新聞はそれで一杯。

一月七日

(土曜)晴
 朝一寸仕事をして居ると、笹川臨風氏来訪。三四時間話して行かれる。経験や、趣味的な性格などで面白き人。なかなか道楽もしたらしい。
 その話の中に、女が亭主の道楽に感づき、「云って下さい却ってさっぱりするから」と云う。それを云ったら大変、さっぱりするどころか、何でも彼でもをそれに引つけて考える。だから秘密は何処までも秘密にして置かなければいけない。それに女は仕合わせに生れ、心配でも何でも長つづきがしない、はっとうれしいことで直ぐ忘られるから。何と云っても、すまないと云う気が男にはある。女にはまさかと云う気がある。家庭をこわす気はないのだ。つまりよくあやつって内も外もよくしたいと云う気があるのだ。と。女が逆に道楽をした場合、亭主に其那ことはありませんと云えば、なかれかしと思って居るのだから信じる。若し二人ともそうだったらどうだろう。自分は臭いものにはふた主義の、日本の、或時代の夫婦を実によく現して居ると思う。これを自分の時代と比べて見ると深く考えさせられる。

一月八日

(日曜)晴
「我に叛く」をなおす。実に心づいたこと。夏書いたので、種々な形容詞が夏向きに出来て居る。こんなでは困る。
『覚醒』のために、先日書いたのを送る。
 午後から、銀座へ歩きに行き、京橋で星により、尾張町の角から、日比谷へ出てかえった。途中、すきや橋の手前の七宝屋によってリリアンのサビエットリングを買う。いかにも外国人向の店で、小指に指環をはめ、変にフカフカ口をきく男が、ガラスのショーケースの上に、まるで空気をクッションにするように音を立てずに見せたものを置く。巴里院が、ひどくきたないようになって居るのに驚く。Aが、私の誕生日に父母を呼ぼうと云う。自分は、彼が内心どんな変化を起したのかは分らないが、母上がプレエンにそれをとり、和解して下さることを希望する。時が経ち、その時の意地がなくなると、あんなに不自然なのはいやになるのだろう。うれしく思う。
 ゲームをして思うこと。相手がどうしても勝ってやれと熱中し、うの目たかの目になると、一緒に息をつめる気がなく、どうにでもなれ、勝ったらいいと云う気になる。又、此方で彼方の利益のために注意してやるのに、此方にそれをかえさない、どんどんやる。あの帰航の船長のビリヤードを思い出す。人の性格、きたなさ、と意志の頑固さ。

一月九日

(月曜)
 朝早く、Aと一緒に起き、図書館へ行く。思うように方言が見つからず、長いことさがしてやっとあり、うれしくうつして居ると、使丁が入って来て、急用だから、かえるようにと云う。暫く自分は信じられない気がし、やがて不安になって早速しまう。入口に来ると俥をよこすと云ったと云う林町へ廻るように。誰が悪いのか、母か国男か、たまらない心持になり、まち遠しくて行くと、トランクの中箱が一つどうとか斯うとか云うのである。母が向島へ行くのをやめてさがし木の下にやっとたのんで、と云われる。それはありがたいけれども、わざわざ図書館から呼びよせずとものことと不快に思った。
 自分があることについて十驚くと、それに関係のあるものにも十の驚き、自分のめいわくを思い知らせようとする気持は悪意のあるのではないだろうが、いやしい心持だ。
 夜、霙、「剪燈新話」をよむ。面白い。なるほど、芥川さんの或話、村松梢風の或話が種を此処に出して居ることが面白い、ことにぼたん燈籠は、此と、話のとはまるで違った国民性を現して居る。支那のは肉感的、日本のは凄い。

一月十日

(火曜)晴
 大隈氏逝去。
 グレースが非常に美しい朝であった。
「庭の景色」、二枚
「加護」をなおす。
 昨日のこと、一寸小説になると思う。考える。又、うっかりありのままを書き大問題でも惹起してはたまらないからかえて、何か、トランクの箱ではないものにする必要あり。
 母親が、自分のうけた迷惑をさんざん浴せ、浴せられた方は亭主にそのことを云う。亭主は癪にさわらせ、近々によんで一緒に夕飯でも食べようと云って居たのを暫く中止する。

一月十一日

(水曜)晴
 二三日前よりはあたたかい日と思われる。「渋谷家」をなおすのにどうしても十五日までには行きそうもないから、先ず先に「午市」の方を書くことにする。
 いろいろなおし乍ら、教訓を得る。いつも締きりがせまって書いたり、書いてすぐ送ったりするので、どうしてもそれで完全と云うものはない。どうしてもあとから字を加え、それも、その時にしろゆっくり、時間をかまわず書いたら其那ことはなかったろうと思われるものばかりである。いろいろ考える。段々自分も真の芸術に近づいて行けそうに思われる。あまりせっぱつまった約束は少くとも小説では決してしないこと。
 ゆっくり一字ずつ心をこめて書きもう二度となおせないことを期すること。てあたりばったりではいけぬ、いけぬ。
「午市」の書きだし。
 A、おへその下の辺が痛むと云って、いやな顔をして居る。どうしたのか、若しコントロールのためにそうなったとすれば、自分にも大半の責任がある。塩湯をわかし三度も入る。もし明日も工合がわるかったら、慶応で見て貰うようにと思う。

一月十二日

(木曜)晴
 今日もあたたかである。朝どうしたのか、あんなに起きようと思って居たのに、体が上らず、とうとうおそくまでねてしまった。
 可笑しい夢、西瓜とココア
「午市」。昨夜、よさのさんの訳された源氏を少々よみ、新たな興をおぼえる。光きみの性格、あの時代の社会が面白い。じょ景などになかなかいいところがあり、いかにもあれについての絵巻がかけたとうなずかれる。きれいな時代、一方、葬式などのこと、又人の行方などのまるで無法律であったらしいのも興がある。
 同じ女性でも紫式部時代にはあれを書けたろうが、我々の時代には、もうあんなものはさかさになっても書けない。全人格的に異った内容をもって居るのに、しかもなおその美がまざまざと目に来る――美だから、それが生き通じるのではあるまいか、斯う思って見ると、古文学の価値が、自分にも味われる。目下のつまらない雑誌小説より、少くとも、来月一杯という期限はなく、自身たのしみ味い乍ら、書いたものだもの。

一月十三日

(金曜)曇
 天気予報には、雨か雪とある。昼近くまだ何も降り出さない空には、かすかに奥から日の色のうつる、白雲と淡い青空とのしまがある。風がかすかによごれたような庭木の葉末を渡る。
 今日『時事』に出て居た野上さんの評は言葉はとにかく、心は同感される。
 早く春になり、朝起きるにもひややかな衣服の肌ざわりのすがすがしい頃となったらどんなによかろう。頭へさぞ血が廻ると思われる。今まで冬がよく春や夏がいやだったのにあべこべとなる。面白い。生活が、生物的に自然になった故だろうか。
 Aはっきりせず。困ったもの。生理的にああ絶えず苦情があっては、のどかに仕事などには没頭出来まいと案じられる。
「午市」、十枚になる。うれし。
 次の、「火のついた踵」、想次第にまとまる。「火のついた踵」の次には何……降誕祭にしようか
 夜になって風がひどく吹き、風呂場の屋根はまるで、大きな金の熊手でかきさらうような音を立る、どこかの枝がさわるのだろう。「源氏ものがたり」面白い。

一月十四日

(土曜)曇
 昨日朱葉会インビテーション。然し今日午後からでも二人で行って見ようと思ったが、何だか時雨ぐれたいやな天気なので、Aも気がなく自分もやめ。
「午市」少々
 しぐれた昼の空にかりの声がある。(源氏のえい響にや)
 A、午後から、死んだじゅうしまつの雌を買いに行き、ついでに文鳥を一つがい買って来た。
 実に、他のとりの中に入れるとめだって派手だ。漱石氏の文鳥と此文鳥とは体の色が異うように思われる。
 嘴が、絵の具をつけたように紅く、体が柔いうすねずみで、頬が真白く黒い頭をして、如何にも桃の咲く時分を思わせる。安積の春の景色を思い、行きたくなった。此春には、Aの父が来られるだろうし夏は、Fに行き、さらい年の春にでも三日四日行きたい。囲りの人さえ居なければいい処だ。
 夜、七時頃から雪が降り始め、空をすっかりくもらせる程しげくもないので、町中の灯をてり返し空が桃色に赤らんで見える。月夜だとあたたかそうな人家の灯が却って、上気のぼせるように見え、さすあかりで降りたての雪がキラキラ光って居るのが美しい。

一月十五日

(日曜)曇
 朝起きて見ると五寸ほども雪が積って居る。
 雪の朝は、木造のかよわい日本の家も土佐絵風な美をあらわす。
 さむし。
 源氏を皆よむ。元と違って、種々な点で面白い。何と云う女性の異って来たことか!
 自分などには信じられない気もするが、女心で察し見れば、又それもうなずかれる。
 式部自身はどんな生活をして来たのだろう。ああやって極く数の少ない上流人が栄華をきわめ、貧者は、全く一燈を仏の前にささげるのさえ辛々だったのだろう。
 物の、死人の葬り方。さすが物語りの時代だ。
 今日は「午市」やすみ。
 種々な意味で考え、人生は、或は自然は、力あるもの、生くる価値あるものを生かすように出来て居ると思う。迫害とか、圧迫とか、種々な不幸などと云うものは、結局に於て、その人の中に、何が永遠的なものであるかを考えさせ、軽重を取捨させ、貫くべきものの潜勢力を一層強固ならしめるものであると思わずには居られない。静に考えて見た場合、自分などは確かになおうきことのつもれかしと云うだけの勇気を要すると思う。実際、人間は再び立てないような苦痛に会うものだろうか、自分には分らない。或は疑うと云ってよいかもしれない。
 勿論、物質的にはあると思う。景気、不景気などと云うものに煽られればそうだけれども、人間の精神が、再び生き生きとした力を恢復出来ないような苦痛があるだろうか
 静かな頭で考えて見て、斯う思われることも、女性特有? のヒステリーでくらまされ、世の中と云うものが狭く、小さく苦の世界になるのは情けないことだと思う。源氏の中の女の生活などを見ると、全く、此の情緒で生活して居るのではあるまいかと思う。情操とまでは白熱しない場合が女性に多い。故に、チラチラと動き易く、小さく、円周が小さい。
 男心と秋の空、と云うが、それは、女の主観的詠歎ではないか? 所謂くよくよ。

一月十六日

(月曜)曇
「午市」、今日も雪のままくれる。日が照らず、家の戸障子が重い。午後から日が出る。雨だれの音。
 おとりが、失った家の三万円ばかりの金を思い出し、昔は家に縫女まで置いた生活をして居たのが忘られずに居るのが憫然で又恐ろしい気がする。横領した者と親類になって居る良人に嫁した娘が気がねして東京に居ることもかくして居、封筒には名をかかず、などと云われる心持。何かになると思う。

一月十七日

(火曜)曇
 ○「午市」
 昨日いよいよAは二百円で女子学習院へ専任と定った。青山の方へ引越すことにし、行きかえりに気をつけて貰うことにする。
 今のうちは此家もさほどいやに思わないが、春先から夏、全く堪らない。先のように、やたらに引越したいと思うのではないけれども、学校の近くでAが落付くからと思うと、早くよい処を見つけ、納りたい。林町とは遠くなるがよかろう。
 ゴーキーの作品集を読み感深し。源氏のあとによんだので、いかに近代の生活が異って来たか、又国民性が異うかなどと云うことを思わずには居られない。もう早十七日になった。が、今年は初めから緊張し、仕事をやって居る故か、あまり心疾しくなし。ゴーキーの“chums”をよみ、河村明子のことを思う。書きたい。
 引越しのしたくに夜具風呂敷を買う。
 ものを読み緊張して居ると、自分と云うものが人生にあるサーカムスタンスが分って来る。そうでないと、自分だけの感情、自分だけの意識で、幸、不幸、苦痛などを判断する。

一月十八日

(水曜)雪
 ○はっきりしない空が十一時頃から雪になって来た。午後から朱葉会を見に行こうと云って居るのに、困った天気だ。
 下の子供が
雪やこんこんあられやこんこん
 降っても降っても又積る、
と云って居るのが聞える。昨夜からゴーキーの my childhood をよみ始む。
 昨日の大隈さんの葬式場日比谷で、佐藤功一氏が喀血して人事不省に陥った。四十二、何とかしてなおしてあげたい。「歎異鈔」のことや何かで自分には心の近い人だ。
 午後朱葉会を見る。トーンがよわし。高間惣七氏[#「高間惣七氏」は底本では「高間惚七氏」]の妹は兄さんかぶれでぬたくったのか、小寺氏が色彩は多く、光りのない浅いのが気の毒。とにかくロシアの婦人は、低級でも自分の趣を出して居る。まだまだと云う感深し。
 夜、大関柊郎氏来訪、いろいろ芝居や何かのことを話す。

一月十九日

(木曜)晴
 髪を結い乍ら、ふと林町行きを思い立つ。
 俥屋が出払って居るというので吉祥寺の中を抜けて行こうとしたら、雪が一杯ですっかり廻り道になった。
 向島の祖母上が来て居られる。母上の前歯が一本ずり下がって来て居る。国男さんは奥で一生懸命に勉強して居る。「美術」を出たらドイツに行くのだそうだ。
 二時頃まで居、かえりに、俥の中から、一人、すらりとしたハイカラーな中学生が雪をけりながら来るのを見た。ひょいと顔をあげたのがいかにも英男さんに似て居る。おやと云う間に通り違った。
 夜、A、文鳥と他のとりとを別にすると云って、夕飯を夢中ですますほどの騒ぎをしてしまった。
 それでも到頭三人がかかりで追ってつかまえ中にしきった小さい籠の中に入れてしまった。
 電報電信の男が来、何か童話を書けと云う。ことわると、感想ものか、短篇ものをくれろと云う。低級思い知るべし。

一月二十日

(金曜)晴
 非常にさむい。昨日、鉄砲にうたれた雀が落ちたと云う庭に、今朝見ると血がにじんで居て心地わるい。
 A万年筆を何処へかやってしまい自分のを持って行く。
 自分の仕事のことを考え。とにかく女は、結婚したら、自分の良人を主にして行かなければ安ぜられない心持があると思う。私にしろ彼が帰って来れば、それ以後は、彼を主にして行く。部屋に入れないなどと云うことは、なし得ないのだ。けれども、男はそうではないだろう。あっちへ行って居ろと平気で云えるのだ。いやでも主に立てて行かなければならない人が、快よくない者であっては堪るまい。微妙な心理。my childhood 中にも書いてあるように、ロシア一般の貧民中の下の階級の生活を描き、彼等の心持を描くために書いたに異いない――子供の見た世界と云うより子供を一人中心にして、周囲を大人が見たように書いてある。
 あれを見ると、自分の幼年時代などと云うものが、如何程平(ママ)に、種々な感情の冒険はあっても、何の実際的苦痛なしに行ったものだと思う。人格に与えられて居る影響。

一月二十一日

(土曜)晴
 午後から藤沢の妻君が来ると云う。朝八時頃起き、すっかり部屋の掃除をし、肴町まで買いものに行く。雪がひどいさむさに凍り固ったようになり、屋根も白く、眩しい。
 待っても待っても藤沢さんが来ないので、自分はれてしまった。なかなか寒いから、それでおやめにしたのだろうか。
 夜、国男さんが伊吹山さんの弟と来て、ジェームスダンの切符を買わせられる。マイ・チャイルドフッド
 今朝は零下七度二分と云う。

一月二十二日

(日曜)晴
 昨夜おそくなってから、東京社の原稿を思い出し、今朝出かける前に書く。十二時半頃出、倉知により、四時頃まで。うまくなし。午後を棒にふったような心持がする。
 夜、朝日やその他、返事を書くような処へ皆すませる。

一月二十三日

(月曜)晴
 今年は近年にない寒さだと云う。信越線などは、雪にうずもれて、人夫が汽車を掘り出すと云うさわぎだ。
 朝、「午市」をなおしてしまう。
「渋谷家」を書きなおすかと思うと、うんざりだが、仕方がない。自分のためだ。
 今夜から、かかろう。
 午後から、山本さんの処へ行く。頭の工合だる。
 新聞で、氷点下四度と云う隅田川を、十四の少女が泳いだと云うのをよむ。恐ろしい。東洋人の心理か?
 山本さんが、帰りに神明町まで一緒に来、いろいろ自分の煩悶を話した。良人が嘗て遊んだ人、いつでも、彼が、その女達の方を重宝がって居るような心持がする。苦しんだのを、彼女等はこの美しさで、自分はくすぼった処でうまみを見つけて行こうとさとったと云うことを話す。自分は、煩悶と云っても、そのようなことを、只の一度も経験しなかったので、同情もし、そう解決したことに尊敬も感じた。つくづく一人一人尊いものを、少くとも通りすぎた丈では分らないものを持って居ることを感じた。男が、女に対して一人でもそう云う献身を感じるだろうか。
 自分が苦労知らずであるのを痛感させられた。

一月二十四日

(火曜)曇
 ○昼頃、小林さんが来、おかあさまが来いと云われると云う。自分も三越の菓子のことをききがてら行く。炬燵こたつ部屋で、母上と話す。
 彼女は、私の芸術に対する態度、暖い胸と落付いた眼とで純に客観することがどう思っても理解出来ない。私はボルシェビキだと云われる。自分のことについていつもよかれと希って居て下さることは分り感謝なのだけれども、彼女がその心持を自認し私がそれを認めないかと[#「認めないかと」はママ]、彼女の芸術家態度の定義に賛同しないこととを混同して苦しんで居られる。
 ああ云う風に熱烈で、広くない正義派で、不満なのを自己の正しさのみに原因すると感じて居る方は、不幸だ。もう一歩、その理論を拡げるなり、感情でつきつめるなり、しなければ、いつも頭が天井につかえて居るだろう。
 種々な点で、気の(ママ)に思う。が、若し自分がアメリカと云う一つの区切りで彼女からある距離を持ち得なかったら、どんなことになったろうと、恐ろしく思った。彼女は、自分自身の考で、名誉とか新しみとか云うものを私に加えるためやって下さったのだろう。然し、自分の一生にとって大事の第一であったことは、独りでする余地があったことだ。私は、彼女の期待の、最も正しい方面に育った事実にかかかわらず、彼女の眼から見ると、失敗、又は反逆になるのである。苦しい親と子とであると思う。
「午市」を送る。

一月二十五日

(水曜)晴
 ◎今日、「火のついた踵」について考える。むずかしい。けれども、眼の前に下ってはなれないから、此をやるほかない。
 ○『タイムス』のリテラリー・サップリメント始めて来る。Front Page のフローベルについての論文をよみ、深く考えさせられる点、彼が、事実に忠実であろうとして、一作のために千五百冊もの本をよみ、これが芸術のためか、単なる事実に忠実であろうとしたか自分で反省しなかった、と云うこと、そして、そのような情熱、又は熱中は、芸術家にとって、決して健全なものとは思われない、と云うこと――此などは自分が随分注意すべきであると思う。作家としての力――時間の感じを人に起させる文――一行違っただけで、実に一年が過ぎたと思わせる書きぶり。
“Flaubert came as near to genius as a man can come by the taking of pains”と云う文字を見、自分は暗然とした。

一月二十六日

(木曜)晴
 ○午後から会田さんが来る。林町の方に用があるので、綿入れをして居られないと云う。
 いろいろのことを話し、母上が、国男が結婚するような意志のないと云うことを非常によいことのように思って居られると云うことをきく。あれのように、自分の肉体についてデイフェクトを感じて居る者が、そう云うのを、純だとか、崇高だとか云って喜ぶと云うのは、随分変体な、彼にとっては悲しむべきことであると思う。
 会田さんを、母はちっとも価値を認めて居られないが、彼女には又母上より人間らしい平凡でも、他人の害にならない処がある。いろいろのことを考え、自分が彼の傍にいつか立ってやらなければならないことのあるのを思う。

一月二十七日

(金曜)晴
 朝飯がすんで掃除をし乍ら、英男が来年英国へ行き国男が二三年後にはドイツへ行くと云うのをきいていろいろに考える。母上は、単純に、日本で中学高等学校と苦しめるのは、無意味だし、青年の煩悶を自分で見て居られないから英男はやり、国男は、独立生活を営む力を得るためと云うから、と考えて居られるが、此が一生のうちに、どんな重大なこととなるか、その点は強調して考えて居られないようだ。自分が彼方に居たからこそ結婚出来たように、彼等もそれぞれ感じ、自分達の生活をしようと云うのではないか、母上は、国男や英男が、仮令たとい独逸人、英国人の女性を妻にして来ても、不平は云われないことを考えられなければならないのではないのか。あちらには学校ばかりがあるのではなく、独りに向って開かれたあらゆる生活があるのだ。それを深く考えなければならない。英男などを見ると、自分は何とも云えない心地に打たれる。どうぞよい姉でありたく、あらせるだけ親密であって欲しい。
「火のついた踵」、次第に明らかになる。

一月二十八日

(土曜)
 my childhood をよみ終る。子供が自分の与えられた圏境に従って、とにかく生きて行くように手段や感情を増大して行くと云うことが、恐ろしいほどはっきり判る。子供は、特にああ云う不運のうちに生れた子供は、大人と子供と云う差こそあれ、我々の考えて居るように決して保護されるのがためになるばかりでない一箇の人間として独立して居る。それを考えると、自分などが子供に対して抱いて居る心持はつまり女性の弱々しい心配であって、父母の性格、教育、そんなものが重大であるよりもっと強い力で生きて行くべきものは育って行くのを認めないのではいけないのだろうか。自分が産んだら、もう一人の大人で、一箇の人間で、彼自身の道を持って居る――然し、母親が、赤坊を自分のものと感じる心持、全心を集注させられる心持、子を庇って、良人を敵にする心持――此で、日本人と外国人と心持が異って居るのではないだろうか。Ruling passion. Van Dyke。面白い、然し、ゴルスワージーなどのものから見ると、ブィブィッドを欠く。
 夜、藤沢の細君、二度も死のうとしたと云うこと、仕事をしたてに借金とりが来、表がコトリと云うと、二人でお前ゆけ、お前ゆけと云う。それが心配で機械で傷をすると云う話。

一月二十九日

(日曜)曇
 昨夜中から、A、絶間なく下痢し、今朝はへとへとになって、絶食、何が悪かったのか分らない。大したことではなさそうだからよいとしても、自分は、こけた彼の頬、土気色の額、蒼白い唇を見ながらつい種々のことを空想した。つまり彼がずっと床につくような病人になったら自分達はどうして行くのだろうと云うことだ。自分の収入は、決してならし月二百円はない。二百円でも健康でやっとなのだから、いざとなったら自分は矢張り林町へなり何なりたよらなければならないのかと思うと不甲斐ない頼りない気がした。自分の小説で良人を養って行くことは出来ないのだろうか、深く考えさせられた。自分があの振袖を質屋へでもあずけ、とれず、今頃はどこでどんな店に売られて居るか、賃仕事でもしながら想像するような場面も浮んで来る。
 先達中から、市内に、謎のような幸福のために、と云う葉書が配られる。知名な人の処へ、同文の九枚を誰かに送れ、九日間にしないと大不運が来る、と云って来るのだそうだ。きっと自分の処にも来るだろう、と思って居ると、今朝来た。全体なら、大した気にすべき処を、平気で、思わず微笑した。第一の原因、近頃、警察でやかましく云って、謎気が薄らいだこと、第二、文字が余り無学文盲の書いたらしいこと、第三、自分の幸不幸が此那葉書一枚でどうなるものかと云う心持。(書くと一寸面白い)と思う。

一月三十日

(月曜)
 ○級会、非常に都合よく行き、皆楽しそうににぎやかにして居るのでうれしかった。千谷さんがうちで会うのとは異い、自由に昔のままなのがおどろかれた。玄関を入って来た時、美しい、衣服の裾をさばき亢奮したような大股で自分を見、手をふったのに、目のさめるような美を感じた。
 六時過に帰り、つかれて早く眠った。

一月三十一日

(火曜)晴
 強く風が吹き、さむさなかなかきびしい。早、布団の綿入れを手伝い、午後になって Ruling passion をよんでしまう。インテレクチュアルで上品であるが、文学者の心から見ると、一種アメリカらしいインテリゲンツァの型にはまって居ると思わざるを得ない。純文学としてよりも寧ろ、外交官であり、有名な釣好きであり、趣味の人として彼の書いたものと云う点が面白いと云うべきなのだろう。一寸した小品と云う感じで、小説には届かない。
 夕飯の仕度をして居ると静江が来、三輪へ急に行きたいと云う。行かせる。とりがあわて、Aにろくにあいさつもせず出かけて行くのが気の毒なような憐れなような心持を起させた。娘は、若くても独立的生活を営んで居るので、自信があり、自分を支配した態度で居るから面白い。
 静江が、余分な金を姉から貰うについて、母を呼び、貴女さえ田舎に居、金を貰ったら此位のことはしてやれるだろうに、と云う小言であったとか、他人の自分に話すのだから可哀そうになる。
 夜、珍しく二人で、実に静かで、顔を真ともに見るのが恥しいような妙な心持を覚えた。

二月一日

(水曜)
 朝、小寺さんの処へ出かけるまで、バルザックの Catherine de Medici を読む。特に思ったことは、バルザック時代の文章は印象的でなく、マッシイブであること。
 第二、フランスの人民、民衆が如何に、革命になれ、それを知り、それに冷静な意識を持って居るかと云うこと。つまり、政治は人民直接の問題で、その改新派が勝つか、保守党が勝つかによって、直接自分の生命に関係があるので、その底潮を見守り、適宜に其間に処しようとする驚くべき賢しさ、大胆があるらしいのである。とにかく、一般が、必要な革命なら、位置、年齢にかかわらず認め、自分はその仲間に入らないでも息子がその一味になるのは止めずに、最善をやって見ようとする心持は、それは、時代に適合して生存しようとする本能とは云え、日本人よりはすぐれた意志を持って居ると思う。我々の困ることは、若いものと年よりとの間の、完全な意志の隔絶である。
 小寺さんは、話してみると、苦しんだだけ真剣な処がある。只、疲労した感がある。野上さんのようになっても大芸術家になるのはむずかしく、彼女のように精力をまず実生活ですりへらしてしまって、勉強する力もないのは又困る、むずかしいものだ。

二月二日

(木曜)曇
 ○ちらちらと雨もよいなので、風呂の火を早く入れる。とりが林町から帰り、おとうさまの仕度を手伝って呉れるようにと云う。四時頃から五時までにしまい、六時頃かえる。
 今日は、一日一人で久しぶりでつまらない淋しい心持がした。自分が話そうとすると、いつでも誰か居ると云う心持、一人ではないと云う心持、それはどの位気づよい、又心のどかなものだか分らない。自分が、先、Aが帰るとやたらに話したくなってしかたがなかった訳だと思う。毎日毎日一人で朝から夕方まで暮して居る若い妻の心持なども面白い材料と思う。
 小寺さんの作品を今日は一日かかってよむ。

二月三日

(金曜)曇 暖
 朝小雨が降る。今日で大寒があけ、立春と云う。久しい間、空が曇れば雪か霙と思ったのが、うるおいのある雨にぬれ、非常に柔かく、やさしく春の来たと云う感に打れる。
 掃除をすませ、障子をあけ放し、樹からぽたぽた雨のしずくのたれるのを見乍ら、楽しく、遠い汽車の音、電車の響に耳を傾ける。先達って中より何だか空気が軽く敏感になり物音を遠く、かすめて響かせるように思う。あつい着物を脱ぎたいような衝動を感じさえする。
 午後しとしとと降って居た雨はいつかあがり、もやが一杯にこめ、光りがなく、いくら眼鏡を拭ききよめてもよく物が見えないような心持がする天気になった。
 倉田さんの或プロテストをよみ、種々考える。第一、彼が、作品に使って居る会話は、カルチュアと観念でリファインしたものであると自信されて居るが、自分には、わざとらしく、人間が話すのは、あんなこしらえた文句でなくても、心を打つ美しいものがあると思うのは、何故か。
 父の心配について、あの若者を、説明した或部分は成程とうなずけるけれども、あのまま読んだのでは決して、胸に来る愛すべきものなどはなかった。其処がむずかしいと思う。説明があとから来たので、そうか、そう云えば、では困る。

二月四日

(土曜)晴 暖
 ○風が強く吹く、午後一時半頃Aに須田町で会い、学習院の門衛が葉書をよこしたことを話し、急に青山に行った。四丁目の停留場で長いこと待ち合わせ、大きな質屋の看板のかかったところから入って見たら、なかでコツコツかざり職の何かして居る見るかげもない家だ。それで五十五円、敷六月と云う、おどろいて失望し、四時頃帰るのに、がっかりしてしまった。
 夜、米、欧へ出かけると云う小林氏来訪、十時頃まで話す。
 Catherine de Medici, duma からうつって来た時代が面白く感ぜられる。

二月五日

(日曜)晴
 朝ゆっくりして居ると、『時事』で青山一丁目によい家のあるのを見つけ、A大いそぎで出かける。なかなかうちをさがすのは容易でない。「一つの家」のように幾月も只家賃を払って居られるようにゆとりのある生活者でもあれ丈の苦痛があるのを、我々のように、きりつめた生活をして居るものにとっては、一層のことである。生活改良や改善と云うことも、只枝葉的に、着物の裾をくくって見たり、髪に網をかぶせて見たりしたの丈では、結局に於てどうもならないのだと思う。もっと、少くとも今よりは大多数の人が目覚めて、共通に協力し合い、補助し合って、住家など(ママ)問題からかかって行かなければと思う。皆が肩をかして、重い一つの大石をゆるがす決心がいるのだろう、自分のためばかり思わず、人類のあるべきと云う生活を目ざすのだ。青山一丁目の四つ角の少し先の石屋を右に入り左に曲り、真中位の古い家だ。ひどくはなって居るが学校に近いので、又牛込の払方まで行き、たのんで来る。それでも朝から午後までに三十人も来たと云うので、A心配し、又夕方出かける。樹の多いのだけがとりえで、自分には何だか陰気で変に思った。

二月六日

(月曜)晴
 今朝は又、手洗に氷が張った。少しさむい。朝、「火のついた踵」に関して、イブセンの A doll's House をよみ、うまいのに驚いた。教えられることが多い。性格の描写のしかた。に関して、言葉のつかいかた、内容より。
 夕、寺田さんが葺屋町の浪華家と云う家へ呼んで呉れられ同席に与謝野夫妻も見えられた。寺田氏はなかなかの達弁家、交際の範囲も広いらしく、話題にとみ、縦横に興味をひきつけられる。イタリーのあのタランテラ踊のこと、言葉――ナポリ語のこと、下位春吉君のこと、オピアム・イーターのこと、あんなに喋ったら、あとでぼーっとなりはしないかと思う位、晶子夫人が笑うとき、鼻柱眉の間に強く横しわをつけ、眉をつらせ、一種独特の表情やや肉感的――をされる。

二月七日

(火曜)晴
 朝食事をすませてから直ぐ林町に行く。そして、大工のことや種々話し、本や箱のしまつをしてもう帰ろうとすると、Aから電話で、借家証をよこすから印をもらえと云う。そして帰って見たら、せっせと、履歴書を書いて居る。今朝藤岡さんの夫人が来られ、明日入用だから出して呉れと云われたのだそうだ。食事もしないで朝から飛び廻って居たと見え、神経質になり、せかせかして居る。
「貧しき人々の群」をまとめる前、うんと書きためてあるものを見ると、ものとしては三文の価値なくとも、すてがたい心持がした。まるでめちゃで、分らず、道を見つけようとして手あたり次第に藪を分けて居ると云う形、今度はまずやっと小道に出、足元に気をつけ、景色を見、一歩一歩と行く心持。Doll's House は、日本でやかましく云うほどイブセンのけっさくとは思わない。ノラの性格が、自覚前と、後と、あまり断片のように思われる。あのことで、とにかく事実に於て、カタストロフェがすんでから、人格的にあれ丈の破壊をあえてするのには、それまでの良人に対する態度が、何だか、あまり、心から無邪気すぎ――無反省すぎはしないか。
 ああ云う性格の人が、ああ云うはげしさで、自覚したとしたら、我々の目から見ると、一種の激情とほか思えないような幼稚さがある。

二月八日

(水曜)雨
 ○又びしょびしょ雨で陰気な日だ。昨日来た、『婦人画報』の記者は、女、大、で一緒であった堀越氏であった。まるできれいになり、華やかになり見違えてしまった。四月に原稿を三十枚と云う。引越しさわぎで「火のついた踵」も、ものになりそうにないから、書くことにする。
 ○何心なく古雑誌の切れをよんで見たら四十四年の『新小説』で、「南地心中」、草平、三重吉などが書いて居る。
 さすが、鏡花だ。草平その他は如何に明治四十四年代の文壇の低級であったかを示す。
 Times Literary Supplement の中に“When a writer is completely and even ecstatically conscious of success he has, as likely as not, written his worst.”と云う言葉があり、自分を深く反省させた。
 自分の貧しい反省にもそれがある。

二月九日

(木曜)
 ◎今日は山縣さんの国葬で休日。Aと自分、小林さん、上遠からの大工、青山の家で会い、種々たのむ。自分は何にもせず、庭を掃除するAの後について、犬のように歩き廻った。
 山縣さんの死は、実に我々の胸に響くことが少い。ちっともそれに対して動かされる熱意がないから、大隈さんの時と比較して驚ろかされる。

二月十日

(金曜) 晴
 A、明治をやすみ、午前中から午後にかけて雑誌を整理し、小林さん、とり青山の家へ行く。

二月十一日

(土曜)晴 暖
 朝、それでも六時頃に目が覚め、仕度をし、出かけたのが八時、お濠の景色が非常に美しかった。天気がよい朝なのでうっすらと野辺に靄がこもり、卵金色に光り、松のかげや小石が非常に優しくしかも活々として居る。禁酒宣伝と書いた襷をはすにかけた救世軍の士官が、楽しそうに三人何か喋り、笑い、入り混り乍ら、歩いて行った。荷物がなかなか来ない。やっと十一時頃、なかなか遠いので、左官屋の荷車をかりて運ぶ。それでも十二時には皆七八人の男がかえり、あとは小林さん、我々英ちゃんとで片づける。
 夜、八畳に坐り、ちっともそれでも他処らしくない気がした。丁度先位古いのと、間取りがよいのと、全体が気持よいからだろう。
 これでもう引越さなければならないと云う心持が去り、落付いて此処が家と思えよ(ママ)い。

二月十二日

(日曜)晴
 朝から本棚の整理
 腰が痛くなった。
 A、非常に楽しそうなり。

二月十三日

(月曜)晴
 夜、転居通知を書く。
 もうそろそろ例の病気になってもよい頃だのに、おなかが変な位で一向けぶりもない。妙に不安な、気にかかる状態にある。誰でも、そう云う時は結婚して居ると、斯う云う不安を覚えるのだろうか。
 いつぞや大変おくれた時、自分の持った不安は、殆ど嫌厭でどうしても子供なんか持ってたまるか、と思う心持であったのだ。が、今はそうではなく、もう生れてもいいのかもしれないと云う漠然とした好奇心、期待が加って居るのだ。自分が小さい衣服を縫ったり、毛糸細工をしたりして居る姿を描く。不思議なもので、そう云う時、思うのは、きっと可愛い丸々とした男の子だ。斯様な心理は、微妙な、女ほか知らない境地であろう。話の材料として面白し。
「家」を少しどうにか書き、『明星』にでも送りたい心地す。

二月十四日

(火曜)曇
 朝飯をしまい、今日は少しゆっくりして銀行に行く。ところが、直ぐ払い出しは出来ないと云う。それを使って買物や何かをする積りだったのですっかり番狂わせになり、やっと見つけた二十銭で一丁目まで来、三宅やす子さんの処を訪ねる。見たところの悪い悪い家なので何とも云えない心持に打れた。此度の我々の家などに苦情を云えたものではない。あの家に、ああ云う恒方さん、やす子さんが二十年も生活して来たのか。自分が、家、生活などと云うものについてまだまだ贅沢な標準を持って居るのに驚いた。
 暫く話しをし、かえる。かえりの坂が急ですっかり息が切れ、はっはっと押し出すように苦しい息をつく。
 職人今日で皆相すみ、やっとさっぱりする。が仕事のやりぶりを見、やっぱり叩き大工は一生叩き大工で終るだけの心ほか持ち合わせないことを痛感した。自分の仕事を、出来る丈よく、完全にやり終せようなどと云う気はない。只間に合わせ、センスなどと云うものは皆無なのだ。
 三宅さんの話の中から思ったこと。子供、又は、良人を、自分の生活、生命の全部と思って居る人は、それの生死、愛憎と云うことが如何ほどか大事だろう。自分が書くことと読むこととを失ったら何によって生きて行くかと思うような、頼りなさ、興味の喪失、を感じるのだろう。
 そう云う人が、良人に死に別れ、子に別れる心持は実に日も暗くなるほどのことであろう。

二月十五日

(水曜)雨
 岡本かの子さんの処へ行く約束をして居るのに、目をさますと雨ふりで困った。合羽を林町へ縫いなおしにやってあるので、着て行くものがない。俥で行かなければならないことになるのだ。つい、おっくうに感じ、しきりに雨足をながめ、十時半頃、かなり強い地震があったので、此ではれると思い、急に障子がぱっとしたような心持がした。日本の着物は不自由のみならず、物質に余裕がないと、どうしても、生活が消極的になり却って又失うようなことになる。例、自分は合羽を一つ限り持たず、ゴムの工合よさそうな足袋カバーもない。故に俥に乗らなければならず、却って、多くを失う。――
 小説を書かないで居ると、頭にしまりがなくなったようでいけない。ああ云う仕事は、一通りの緊張ではなく、全く我を忘れて、自分の創造の世界に没入して仕舞おうとし、しまうので、平常の自分とはまるで異った自己の力を意識する。その仕事にたずさわって居る間、意識しないほどの緊張があり、すんで、始めて、快い弛緩と、新陳代謝の快感を感じるのだ。何にもしないと、頭が封じられ、力を失い、活気がくさり、泥沼になる。

二月十六日

(木曜)雨
 ○昨日、衆議院で、又なぐり合い、け合いがあった。動物園以下、以下。以下! そんな処へ、女権問題、母性保護法などをのめのめと出すのが目覚めた女性か?(「黄昏」について少々)

 ○近頃の微妙なる心持。昨夜、林町から祖母が来、泊る。午後食卓でいろいろの話の末、子供のことになり、とりが、近頃、自分の例の病気が長引いて居るのを一寸ほのめかし、自分が心付いて居ることを私に思わせた。それから、すっかり陰気になり、何とも云えない気分になった。自分でもどうなのか分らない。Aにも信頼は出来る筈でなかった。何と云う呪わしいことか、と云うような激情が起って、身動きしても胸が痛むようであった。いろいろ想像し、楽しい色彩を加えて居るのは、大丈夫と云う安心があっての上で、いざ、どうかとなると、自分は全く嫌厭、自分の破滅、生活の全プログラムの破壊を感じずには居られなかったのだ。とりが、そんなことを仄めかしたのが、すっかり心地わるく憎いようにさえ感じる。
 けれども、夕方、Aが、その杞憂を笑い、大丈夫なことを断言して呉れると、自分は余程心持が楽になった。此那心持は、母になったのかと云う疑を持った時、誰でも持つものだろうか、それを待ち歓ぶ人には、喜びの音ずれだろうが自分には仮令一瞬でも地獄だ。

二月十七日

(金曜)晴
 ◎昨夜中から激しい風が吹き、今朝は上天気。

二月十八日

(土曜)晴
 ◎青山へ来て目につくことは一般に人の服装が金目をかけて居ると云うことである。
 午後、石勝の隣の家具屋によいサイドボールドが七十円であると云う。行って見る。七十円のものかと思う。けれどもなくてはならないので買い、茶の間に据える。三畳との境がないので落付かず、いかにも日本の茶の間という感、よろしからず。
 夜、おなか変、行ったら色のついたものを見、まるで、からだ中うれしさでとけ燃えるような心持がした。押えようとしても、ひとりでに声が出、笑、まっすぐに人の顔が見られない程。
 けれども、今朝起きて見ると、又、何ともない。どうしたのか、何となく気分が落付かず、仕事が出来ない。女のこう云う心持は男には永劫分らないことだろう。
 大抵の女は、生活に無意識で此那心持を味わわないか、又此心持を特別な状況と意識しない程度に日常の生活が、それに捕われ、それを中心にして居るのかもしれない。

二月十九日

(日曜)晴◎
 ぽかぽかと暖まり春らしい日になって来た。伊吹山秋子さんが、上海に居る人と結婚すると云うので、午後からぜひ来て呉れと云って来てあるので、午前中に林町へ行き、おひるをすませ、二時過から出かける。
 秋子さんが、髪を下げ、リボンを結び、赤い裾のついた紫の着物をきてまるで亢奮し、娘の一さかり今をさかりと云う風に見えるのに、直子さんは髪を淋しく結い、少しほか笑わず、ひっそりと、クリティカルに、まるで正反対に見える。思いがけず、お茶の水で一年上だった穂積さんと云う、顔の赤い、ウンシャンな人に出会った。心はよい人らしい。それが、秋子さんと、良人との間に一度破綻が起ったときとりもったとのこと、面白し。
 直子さんは上海に居るとき、父の神前で、有名な放蕩者と婚約を結ばせられ、結婚の日が定った二日前とか、島田を結わせると云って家をにげてしまったのだそうだ。倉田百三さんとは七年も友人以上の関係があるとのこと、それを云って、先方は断ったのだそうだが、不幸な、人、百三さんのああ云うデタラメが見えない処に、何とも云えない女の心持がある。

二月二十日

(月曜)曇◎〜

二十一日

(火曜)晴
 昨日から病気。長引いて居た故か、今朝おなかがひどく痛く、実際、さっぱりと起き、仕事をするAを羨しく思った。実に、此ばかりは困る。どうにかして前後の苦痛をとり、煩わされたくないものだ。そろそろ約束の小説を書かなければならないのだが、今日は仕方がなし。
 珍らしく六畳に炬燵を入れ、つたのからんだ垣を見乍ら、しっとりとした灰色の空に、蕾の出た桜を見乍ら、手紙や日記を書く。小ぢんまりとした日本の部屋は、此那風に、安まった心持で居るによく、八畳のようにしたのは、健康でないと楽でない。
 此、六畳に居ると、何処か近くの女が、着物の話をして居るのに驚く。去年とか一昨年とか、どんな紋付をこしらえたが、今年の流行はもう違って、どんな色が流行るとか、なかなか我々などは考えても見ない敏感で注目して居るらしい。
 きのう、電車の上から、芝生にタンポポが生え、花が咲いて居るのを見る。
 夜十一時頃、荒木さん、速達です、と云って葉書が来た。見ると、とりあてに、十一日から静江が学校を出て行方不明であると云う知らせだ。自分は、思わず胸を轟かせてAと相談した。とにかく起して見せなければなるまい。自分が起き、とりを起し、おどろかせてはいけないと思って、おとりさん、速達が三輪から来たのだがねと云って渡した。何でございましょうと、熱心に首を動して見て居るうちに、丁度行方知れずと云う辺に来ると、彼女は床の中に腹這って居た体を、むくりと動かした。そして尚熱心によみ、終ると、ああ困ったことが出来ちゃったと云って、大きな伸をするような風を[#「風を」は底本では「風をを」]した。自分には、寧ろ彼女が飛び起きないのが不思議にさえ思われた。――
 不幸な娘、とりは先日から、金を姉が快く出して呉れないことや、風邪のあとが思わしくないのやらを苦にして居たのは知って居たらしい。学校をやめて、先輩に使って貰うと云っても居たとか、それにしろ、母親にすがっても仕方なし、姉は何だしと思って自分で、どうなり決心して学校を抜け出した気持は可哀そうだ。とりは、肺でも悪いと云われたのではあるまいかと心配する。けれども、自分には、彼女にしろ、おとよにしろ、人の手前しか良人とか親戚の手前ばかり気にして居るのがよく判らない。ああも人の一生を、都合とか思わくで支配出来ると思うのかしらん。
 母親は保養しなければならず、戸主で嫁には行けず、その為に金を出して呉れる姉は不平だらだらで、体が悪くては、彼女でなくても悲観するのが普通だろう。家と云うものの為に、人一人を滅茶にするのは大間違だと云い乍ら、とりは娘にそれを期待して居る。
 柳原※(「火+華」、第3水準1-87-62)子氏[#伊藤白蓮]が兄に、自分の行為を後悔し、貴方のお同意を経なければ、今後行動はとりませんと云う誓約文を書いたのが新聞に出て居る。人間、人間、余りに、脆弱なる人間が四辺に満ち充ちて居る。live manly! 先ず自分の生活をも創造出来ないで、才何ものぞ。Whole being として強い人間は少なし。
 昨日、リリアンから手紙が来、自分が彼女の母でも死んだら、此方で一緒に暮してもよいと云う申出をしたに対し感謝すると同時に日本の女は、皆そんなよい心を持って居るのか、皆セルフサクリファイスの美徳を持って居るのかなどと云って来たのを見、彼女の程度をある程度まで透視した。Charming little lady だろうと云う心持。Aが、彼女に、私が childish だと云う心持ともに、如何にも人の見方が表面的であるのを思う。何にも分らず、知らず childish なのだと思ってあつかって居るとすれば大した間違いだ。自分は彼の性格を知り、それが自然であるからそうして居るのだ。一つの材料、良人、妻を子供だと思い、そのようにあつかい、或は mistress を持つ。妻はこれを知り、良人を理解し、大きな心で子供になって居る。この心持を三方から描く。静江のこと、会田のこと、気の毒な、又どこかに力の弱い人いかに多いか。
 二十一日、昼頃から宮原氏来訪、いろいろ話をする。

二月二十三日

(木曜)
「黄昏」一を書く。気味わるい程暖か。
 夜が心持よい時候になって来た。頭の工合大いによろしいのでうれしい。『明星』に、「雪解」を送る。

二月二十四日

(金曜)曇
 夜の中に少雨があったと見えて、庭が美しく潤うて居る。梅花一輪、沈丁の花が、今にも咲きそうに蕾をふくらませる。胸をそそるながめだ。マコーレーの「ローマ法王史」よみ始む。
「黄昏」。
 昨日、普通選挙請願書に民衆の署名をさせると云うので、議会では河野広中が演説をし、日比谷では、幾千と云う警官と、十幾万と云う民衆が例により検束のしっくらをやった。傍聴席から議席に蛇をなげつけた男があるとか、代議士を検束したとか、さてもさてもと云う感。

二月二十五日

(土曜)晴 七十三度
 非常な暖さだ。まるで初夏が来たようで、羽織をぬぎ帯をしめる。
「黄昏」。
 午後、村松正俊氏がギリシア語の用で来訪、玄関に入ると鼻を突くヘアトニックの香と春帽の鼠色と靴の様子で、大体の風采の想像がつく。
 夜、久しぶりで何処へか出て見ようと云うので、西大久保の佐伯さんを訪ねた。が留守。
 ミスウェルスを訪ねたら此も留守。
 今日の暖かさにつかれたものと見えあまり歩いたのでもないのにすっかりくたびれた。

二月二十六日

(日曜)曇
 きのうから見るとずっと涼しく、空は、銀張りのように、厚みと重さとが光に混って感じられる。
「黄昏」、
 A、大工仕事をし、風呂に水を入れる箱を、古ながしでこしらえる。
 傍で、動物の知慧について書いた通俗ものをよみ、人間の高等数学的知識の本能とでも云うようなことその他について考えの胚種を受けた。
 哲学の領域か、心理的の研究の材料か、もっと進めて見るべし。
 夜、「誓言」をよみ、田村俊子氏が若し今日の文壇に第一歩を出したとしたら、決してあれ丈の声名は仮令一時にしろ得られなかったと思う。今日の一般は、ああ云う浅い感情の翻りを見せられた丈では満足しない。ああ云う心持で生活したことが、あの人の今をあああらしめた所以ではないか。

二月二十七日

(月曜)雪
 今朝、Aが先に起き、私の上に自分の布団をかけて呉れるのを朧気おぼろげ乍ら感じて居た。どうしてだろうと思って目を覚して見ると、まあ、何としたことだろう雪が降って居る。此二三日の暖かさで此雪が来ようとは思いがけなかった。さすが春の雪で、積らず、咲きかけた沈丁花や梅の枝に少したまって、地面は雨まじりのようにとけてしまう。雀がふくれ、花の見える雪がくれの梅の小枝に止って居るのを、実に日本の風景画として見る。
 基ちゃんが来る。久しぶり、おひるを一緒したので、いかにも愉快そうだが仕事は駄目。
 とりは又、きのう娘がおつやの祝に雛をくれと云って来たと云ってさわいで居る。太田道灌を買い三輪まで持って行くと云う。
 夕方三十分程うとうととし、夕飯後、「黄昏」を書く、やっとすます。

二月二十八日

(火曜)晴
 朝、「黄昏」をなおし、昼頃送り出す。
 福崎氏夫人、妙に歯がはっきり見えない口の中が暗いような、先、マリア館で一緒だったような特殊な表情。
 白山銀行に行き、思いがけず横山さんに会う。

 夜、橋川時雄と云う豊一さんの友人来訪、北京に三年半居、内部から支那研究をして居る人、面白し、なかなか洞察が鋭い。
 支那人と日本人とも大さで違うこと、
 日清戦争のとき、支那人の書いた従軍記に「日本人が、馬に似た猛獣に乗ってとうっとやって来たから、とても怖しくて辛棒が出来ずに逃げ出した」とあると云う話、いかに殺気立ち、悪霊のようになってかかって行ったか。
 思いやられ、直截な、心を打つ比喩に、エキスプレッションにおどろく。

 明日三宅やす子氏。

三月一日

(水曜)晴 寒
「貧しき人々の群」を書いた時分、自分の芸術観は確に、十八歳の女の名誉心と何処かで一致して居た。
 近頃、所謂名声なるものが種々な点で実に皮相的になり易いのを知り、仕事に対して、宗教的な熱誠がこもって来た。
 若いときのように自分の心にハーッと熱中するのではなく、自分と宇宙と云うもの、宇宙の最大の帰納である人間の生活と云うものとを、しっかり相面した処にしずめ、観、その間から、実に一つの創造として世界を拵えあげて行くことが、感じられて来たのである。一面から云えば、クラシカルな、リーゾニングと、ゆたかな想像、描写の腕が如何に必要か。
 我心と云うものが、実に微に入り、細を穿うがち乍ら、漂膨として世界に拡って行くこと。

三月二日

(木曜)
 昨夕刊で、柳原※(「火+華」、第3水準1-87-62)子氏の兄が、貴族院を辞したことにつき種々考える。
 有島武郎氏が五十万と云われる私財を皆すてて、借家生活を営むことに決心したと云う。感深し。
 我々の生活では、どうかすると、理論一片の空論家になるか、又は低いシュードリアリスティックな現実肯定者となり易い。毎日の生活を緊張させ、延長的にいつも人類の本源と合致させて暮すのは、生活の最低標準を其処まで引あげるのは容易でない。
 雪がとけ、草が芽をもやすように、自分の頭には活気が漲り出した。燃えつきるものではなく、底から何かを生産させる力だ。
 A、啓明会、金が出るらしい。ペルシア行の前提位に考えて居ると云う話、いつか行けるのだろう、Aのためによろこばしい。自分も行きたい。彼一人より収穫があろう。又一面、世間のことを念頭におけば、A一人でやった方が或はよいかもしれぬ。只、一人行き危険があり、死ぬにしても自分の見ない処で死なれるのかと思うとたまらない心持がする。若し行ったら、きっと神仏の加護を祈るだろう。
 読むばかりではたまったものがくさる。

三月三日

(金曜)晴 暖
 岩波からAの第一回の校正来る。
 おひなさまの日、林町では、さぞきれいにかざったことだろう。こちらのうちでは、おひなも何もなし。
 朝、昨日から書き始めたエッセイを少しつづける。
 頭余りよくなし、サムガアはわるい。

 種々なものをよみ、考える結果が次第に分類され、必要なシステムを持つようになって来た。十年先の書きたいことのために、今が密接につながって居ることを知って来たのだ。二十五歳が来年に迫って、始めて自分には仕事の筋目が、おぼろげに見えて来たのか。
 春が来て樹に花が咲く。咲く花は冬の雪の下で育て来たのだ。その期間の見えない者。

三月四日

(土曜)雨
 午前中執筆、午後、和、読、夜、外国語。
 ゲーテの我生活、P、三四〇、(ママ)皇帝の光景の叙述をよみ自分の心に、ゆうぜんと「黄銅時代」が浮んで来た。面白い。書きたし。実事に執することから自由になり、ああ云う大きな事件とあみ込ませて、外国に居る若い娘と恋と新生活の渇望を描く。広く、高い処から。
 午後から三越に行き、福崎さんのおくりもの、青木さんのお祝、その他、福井から来られたとき、林町の子供に持って行くものを買う。
 Aの校正
 夜とりのところへ速達が来た。

三月五日

(日曜)晴
 朝早く三輪に行き、午後かえって来て、静江がわるくて、三輪に引とったから当分、どうなるか、看護のため、つき添って居なければならないから暇をくれと云う。――家に居るものが落付かず、出たり入ったりして居るのは、まことに困るし、又、あれも、なかなか思うようではないので、これをいい機会と思い、少し不自由をする覚悟で快くひまをやった。
 妙な心持――私共の方は困ったことだが、まあそれもよかろうと云う心持だし、彼女の方は、私共二人で、さほど不自然もないのだろうからと云う心持。
 夜、食後林町に行く、だれか心当りはないかと思ったのである。が、やっぱりあまりしんみにはなれない。全く、自分等の家は自分等だけでよかれあしかれやって行くのだと云う感を深めてかえって来た。
 どうにかして女中などと云うものなく思い切り単純に生活したい。
 Aの校正

三月六日

(月曜)曇
 朝八時、Aと一緒に起きる。先、女中が居なかった時分とは、気分大いに異う。
「自然はその中に随分無価値無意義なるものを包括して居る」ゲーテ、
 此考は自分に疑問を起させた。宇宙に、何等か相対的関係に於て無意識――在が、無と等しいようなものがあるだろうか。そのものを単独に見ては、さほどの意味を有しないようなものでも、前後左右、時間と空間との相互関係で、何かの意味あればある丈の役に立って居るものではないか。此選択をしたところに、ゲーテの、或、その時代の先駆者の、理想主義の美しさと、同時に(ママ)くるしさ、狭き人生を与えたのではないか、或は日本人とドイツ人の差か。ゲーテの青年時代に解釈されて居た芸術の内容と云うもの、価値に対する観念は、少くとも理論に於ては、如何に現代が進歩をとげて居ることだろう。
 夜、Aの仕事、

三月七日

(火曜)雪
 朝、一寸床を出たら寒くなり困った。と思ったら雪が降り積って居るには驚いた。寒中の雪のようにこまかくサラサラとこそして居ないが、沈丁花の花や梅がすっかり雪に閉されてしまった。自分の仕事も仕事だが、Aのが片づかなければ結局同じだからやってしまうことにする。
 頭が明せきでないのか、Aは自分の主義さえ明にしない文を書く。
 女性が家庭生活の甘美、又潔らかさと云うようなものにセンチメンタル又は、架空的な先入主を持って居ると云うことが幾何かのよい家庭を作って居ると同時に、いくばくかの才能を無駄に浪費して居る。
 家庭生活と云うものが自分にとっては、もっとも密接なフレンドシップの(ママ)力と云う以上、エンタイア・デボーションは感じられない。

三月八日

(水曜)晴
 三四寸積った雪も、流石さすが春の淡雪で、もうとけ、雨だれの音がしずかに聴える。
 仕事のこと。種々な意味で目先のことばかり考えて居たのでは駄目だ。テーマにしろ、技巧にしろ。現今流行の長篇、又はそれに対抗する短篇味の強調等、人類の文化の上で、只或時代には、ああ云う一傾向が現れた、と記録されるに止り、未来の人間が見て、そんな過渡期もあったのか、とのみ思わせられるのでは仕方がない。
 もっと腹を据えて、遠い先を見込んだ芸術、人間の本性、要求、進展にきっと向った視点を持って居なければ大変だと思う。自分には近頃フラグメンタルな仕事に自分をいそがしくして居る人間が、時として味わされる、いそがしさの快感を知った。駄目だ。忘れてしまわなければ、駄目だ。斯様な点に至ると、Aは凡人だからな。金のある凡人が「生活のためには書かない」と納って怠惰になり、金のない凡人が、いそがしさと、収入とにくらまされて、仕事のための努力と、金欲しさとの努力を混同する。

三月九日

(木曜)曇
 恐ろしきエゴイツティック
 或男、中年、自分が若いときにあまり仕事をせず近頃漸く仕事もまとまり出す。
妻 まだ若い。男のように決算を始めるのではなく、此から収穫して行こうと云う時、楽しみも苦しみも、広く人生に当って行きたい時、
男 妻の人生の学習に共同出来ない。する丈の余裕がないと云って、妻のその態度を遊戯的だと叱り、自分はもう先がないのだから、自由にさせて呉れと云い、その何よりの恐怖である処の死でおびやかし、犠牲をさせようとする。
妻 私は、貴方と一緒に、新しい広い人生を見、味おうと思って結婚したのよ。貴方、私と結婚するときに左様那風に思っていらっしゃったの? 私、貴方に自分の活気を皆吸われ、死ぬまでにと思って、かき集める人に侍って居なければならないの?
 それなら一そ早々死んで呉れたら、と云う、ぞっとするような望が妻の心に浮き上る。

三月十日

(金曜)雨
 朝すっかり戸じまりをしてから林町へ行く。道で、襟治により会田さんへのえり三円七十銭のを買って行く。今朝、Aが、そんなに早く行くには及ぶまい、ゆっくり夕方でも行けばよいだろうと云ったのは、いかにも他人らしい感情のこもらない心持だ。いろいろ考えて見ると、母もわるいがAも足りない。実に明かに感じられる。自分から他人の垣を越えようとせず、ある垣を此方からもキープアウトして居る。深い感情が、広く行き渡らないのだ。むずかしいものと思う。自分に対してもどんな感情を持って居るのか、つきつめて考えて見ると懐疑的になる。
 いずこも同じ憂き人間の世で、林町へ行くと、又、父上まで、女は度し難い、アメリカへやってさぞ大きくなるかと思ったらさほどでもないし、芸術家ぶって居てもまだ芸術家にはなって居ず、と云うようなことを云われ、自分は反抗以上に淋しい心持がした。大きくなると云うのは、どう云うことを意味されるのだろう。自分は近頃、Aに対しても親に対しても、いとしさと、縁の切り難さと、同量の寂寥で対するようになって来た。自分自身を養うことのいかに独りか!

三月十一日

(土曜)晴
 何故、女性が真の大芸術家になり得ないか、
一、愛す、と云う立場に立ち難いこと、
 先ず、親に愛され、兄弟に愛され、良人に愛され、子に愛される。
 愛されれば幸福で心が平静だが、愛すと云う清濁あわせのむ位置になると、苦しく、危うく、我を失ってしまう点。私が苦労をせよと云われるのは、此点を学ぶことではないか。自分がそれに堪えるか否かの問題
 真個に苦しみの最中に在るとき、念仏が出来ない、と同じに、ほんとうにその苦しみが目前に脅して居るときには、小説が書けない。只字を並べるでは、口の先で云う言葉と同じキカイ的作業で出来るだろう。但し、念仏、作、は、そんなものではない。しんからの問題だから。

 Aの「ペルシア文学史考」、校正ずみ。がっかりす。

三月十二日

(日曜)晴
 午後、きみ、手伝として来て呉れる。いろいろな意味で居ない方がのんきだとは云えるかもしれない。が、一人でも、一緒に人が居ると思うと自分の心持のゆとりは非常に異う。ひとりでは夜などとても家には居られまい。
 A、夜、Y、M、C、Aの、head が来朝して話をするのをきくと云って出かける。『女性日本人』より原稿料。よさのさんに送ってあげよう。口数を多くきくと、頭、がらん堂なり。

 ゲーテが種々な作を、ゆっくり、長くかかり、書いたのを見、何と云う日本の、少くとも現代の所謂文学者は、せかせか喘いで居ることかと思う。皆、貧乏からだ。皆、目先の派手に気を引かれる国民だからだ。
 ゲーテが、自分が高処たかみにのぼったり、やかましい音、いやなものを見て感じる、おく病やだらしなさを、ためるために、強制的練習法をとった。これを、我々近代人は、何と見てよいのだろう。

三月十三日

(月曜)曇
 柳原※(「火+華」、第3水準1-87-62)子氏が、剃髪して京都の寺に行くとか云う記事が出て居る。あの、誇はあっても独立の出来ない女性を中心にして、無数のかげがうごめいて居るような心持がする。宮崎氏は、どうしたのだろう。実に矛盾と弱力と、妙な日本道徳の根がこびりついて居るものと思う。※(「火+華」、第3水準1-87-62)子氏の心持もはかられず、パッションで、恋人の元に走り、又同じ激情で、寺に入るのではないか、可哀そうな、しっくりと衷心をきいて見たいような心持す。あんなに強がりを云うのが間違いだったのだ。自分の弱い処をそのままに暮して行けば、あんな不自然な万事にはならなかったのではないだろうか、才がわずらいをしたのではないか。人間としての彼女より、才女としての才女が先にたった不幸。永遠に嘆くイブと云う感が、女性の生活の底に漂って居る。自由や力感が最小限か、最消極に働いて居る女性が万人のうち九千九百九十九人であろう。原因は、女性の無力、確に此はある。又、愛にあまり敏感であること、此もある。生理的受身の理由もある。或程度までの女性が、芸術や学問のために、結婚生活を破棄するのはもっとも、とうなずかれる。持って、自由を最大限に味えるようにするには、此方の心の強さと拡がりとが先ず要求されるものだ。すてて仕舞えば一部から切り取るので、心は、大きくなる要に迫られない。
 ミセス、マアガレット・サンガーが、両三日前に上陸した。十三日の新聞には、きっと吉岡彌生だろう、名前はかくして、女ばかりが集って、産児制限反対運動を起そうとして居るとつげて居る。石本恵吉男夫妻が主人役となって、ミセスに好意を示す。彼女を上陸させるさせないについて長い間ごたごたし、講演はしないと云う条件で上陸させた。此那つまらないことを今から三十年も経って考えて見たら面白いことだろう。※(「火+華」、第3水準1-87-62)子さんの問題も。

三月十四日

(火曜)雨
 自分は純粋な心から、Aが、余りひとづき合のよくないのを、只彼の深い人格と周囲とのうまく行かない故だとのみ思ったからこそ、自分の深い信頼と愛とが、或程度まで彼をかえると思って結婚したのだ。けれども、彼は、石だ。変らない。他人の中に入って面白くなく、何となく人にぎごちない思いをさせる彼は、私の周囲に世間が来た時、小さいしっとや偏狭や片いじで、私を苦しく思わせる。元はそれで、直ちに、理解しない親や世間がわるいと思った。が、今は、そのわるさも、彼の冷やかさ、彼の自分を理解させない心も、両方見えて来た。自分は苦しい。結婚が、自分の結婚したい時期に起るが故に、いかほどの盲目を起させるかと云うこと。
 愛がなくてもやって行ける時に真実の愛は来ると云うドストイェフスキーの言葉が、何と云う真実か、
 自分が、彼にわずらわされないほど大きくなければならないことは分って居る。けれどもなかなか出来難い、顧みて、彼を性格的に変えさせられると思った自分の信念に、涙の出るいとしさと、寂しく笑わずには居られない自惚の若々しさを思う。
 別々になるか、彼を超えるか。
 自分には、愛されずには居られない心がある。これが、彼のような人にあっては弱味となって働く。交際、節度、夫妻の間でこれが行われる程度にしたがって、男なり女なりの人間としての心の端正さが現れる。
 結婚するまで、人は、あらゆる人間の可能がそれによって門戸をひらかれると思う。空想する。ところが二人の人間があったのだからうまくゆかないことは多い。これから、徐々に運命と、真個の人類の慧智との問題、その必要を信仰が芽ぐみ始める。
 ○どうしても家事の末梢神経的なことは自分を苦しめる。
 ○いくらでもよき人を雇えるならとにかく、我々中以下の生活では、主婦と云う地位が、実にわずらわしい。同じ家庭生活を営むにも男と女とはその仕事の分布に於て何と云う異いがあることか。
 自分は、自分の運命に向った態度を始めて反省する。只経験のない男と女、愛するものと二人きりの生活をあこがれたのではないか。そこによこたわる実際の煩わしさが如何に自分の神経にさわるかなどと云うことは考えず、女性の共通本能で、生やさしく家庭生活をあこがれたのではないか。
 ◎自分が、調和的な性格でなく either or の決定を迫られて生れて来たのではないか。
 ○貞操、性的潔白と云うようなことには、深い反省がいる。人間として。自分にとってあれほど古典に感じられるテニソンが、自分の生れるたった七年前に死んだのを見、驚いた。一八九二年。一八九九年。

三月十五日

(水曜)晴
 十五日、ゲーテの伝、森氏をよみ終り感激す。
 シレレルの手紙、自分の苦悶が訴えられて居るようで涙が出るほどだ。概念と直観との間に彷徨する魂、何故か、自分の場合では、ペダンだ。今の、所謂いわゆる文壇に対する不満がある処へ、直観に自信をおくことは出来ない程度に心力が弱いため、つい、概念を持ち出すのではないか。

三月十六日

 木曜 晴
 十六日、野上さんの処へ始めて行く。やっぱり何と云っても、他の人々と比べれば第一人者、智的教養の深さが、自分には到底及ばないことを思わせる。熱に於ては自分が勝って居よう。然し、インテレクトナレッジ? は到底及ばない。その点で、実にたより強く思われ、自分が安心して、或程度まではリードされる。よい先輩。古典の頭は、実に遠い。オキュターブ・レネ Ren※(アキュートアクセント付きE小文字) のイラストレートしたディバァイン・コメディー大いによく、よんでみる気を起させた。

三月十八日

(土曜)晴
 類を以て集る、と云う言葉。
 恋愛結婚が、人間の未完成のとき行われ、一方が、相手と同量の進歩をし得ないとき、苦痛が起る。自分が、男にのろいことの如何程だかを、深く知った。
 縫ものをする。
 夕方から、サッカレーの「バニティー・フェア」。ゲーテの伝を注意してよみ、フレンチ・レボリューションをよみ返したら、少くともあの年代のヨーロッパの相互的関係、思想的進展をよほどはっきり分るようになった。
 生理的に生きて行くことはいかにたやすく、真実に生活することは、何と云うむずかしいことか。
 自分などは、只、生きて行くには何の苦痛もない。ひとの或種類、又Aは、自分の苦痛や何かは我ままだと思うだろう。

三月十九日

(日曜)晴
 日向はあたたかで、のぼせるようだ。
 生活について、深い懐疑が抱かれる。原因の一つは、いろいろの用事――家政的――で、ほんとうに心が落付けないことにもよろう。が、もう一つは、仕事をしないで居ると、じっと自分の生活、人間の見かた、理想とを相てらし、省察するようになるのだ。
 仕事を只せかせかとして考を深く自分について掘り下げないことは、だらだらを伴う。
 Aが、進歩的でなく、もうきまり、まとまり、ある丈の力を使って、納って生活して居る、又そう云う心持で居るのが、自分にはひどく苦痛になって来た。Aによって開発される望はない。只彼にあたって、角力が羽目板にぶっつかるように、ぶつかって自分をきたえるほかない。いろいろの意味で、自分がやわであったことを痛感する。自分が理想家で、男にのろくて、眼が据って居なかったから、Aをうんと高く買ったのだ。彼からは離れ得る。しかし、それで自分の性格的な男にのろいのはうちかてたことになるか?

三月二十日

(月曜)曇
 先日来の苦しい心持が鎮まり今朝は、落付いた気分になった。何が此転換をさせたのか。或女が、結婚した男に不満を感じる。もう別になりたい程つきつめる。而も、その男と離れてから、自分が、又心弱く他の男との交渉に入りはしまいか、それを思うと我ながらいやになる。同じ別れるなら、自分が、もうすっかり異性から独立した自由人となり、どんなことがあってもつっ(ママ)かり、支配されないようになってからと思う。即ち、此全部か、絶対の無、比較してあれよりか此と云う心持ではない。此心持は、勿論、自分の弱点を深く自覚したからにもよろう。が又、その男に対する愛がおろそかなものではない証(ママ)だろう。
 サッカレーのヴァニティー・フェアは、かつて一寸目を通したときと又異った愛と、真実とがこもって居る。ああ云うものをよむには、やはり或程度まで大人にならなければならない。

三月二十一日

(火曜)晴
 まるで心づかなかった休日、
 A、鳥のせわをし、橋川氏への原稿を書き、誰か来そうだと云って居ると、思いがけず、武井大助氏夫妻来訪、
 留守中自分が折々手紙をあげたのをよほど心持よく感じられたのだろう。夫人ひどく日にやけ年とって見えた。
 夜、けいおうの生徒三人お菓子を持って来る。
 ドンキホーテにかかる。
 ヴァニティー・フェアをよんでも思うことだが、昔の人と、今の人間と、とどのつまりの人格価値標準はちっとも異っては居ない。けれども、作家がそれをとりあつかう場合、何かひどくもととは異った分解と帰納とがあるような心持がする。自由人と云うような(ママ)念をあの時代の人は、我々のように、純粋にそれ丈感じず、部分的な、正直、熱誠、落付きなどと云う諸徳目を認め、総合したのではなかろうか。
 はっきりしないが、或動かせない思考方法の差を感じる。
 野上さんより手紙。会ったことをよろこび、非常に伯母らしい文句で、友情を示された。自分は、純粋にそれを受けられる。

三月二十二日

(水曜)晴
 朝非常に寒く、氷が張ったそうだ。
 昨日から「小さき家の生活」の続き、此家に関して、少しずつ書き始めた。
 昼頃会田祖母スエ子来、明治神宮へ行き、墓地を廻り、来るよし。彼女が、いろいろ私をひくようなことを云う。が、何だか全部信じられず、アユと云う心持がしていや。

三月二十三日

(木曜)晴
 朝、『良婦の友』とか云う雑誌に、育児に関する感想を二枚書かなければならず。
 夜あけがたつまらない人殺しの夢を見、今朝は下痢をし、めちゃめちゃ。とにかく、二枚分だけは書く。
 古風な銅版画の面白味が少し分りかけたらしい。
 夕方、星の六階でコロンビア会。種々な人に会う。ベルリナに久しぶりで会いうれしく思った。
 石原さんが見える。日本人の女では二人きり。彼女が、かさかさした体つきをし、指にうんとダイヤや真珠の大きな指環をはめ、皮肉な冷笑をもって肩をすくめたりして居るのを見ると、自分は、妙に苦しいような淋しいような心持がした。
 夜、ずっと銀座の方をぬけ日比谷まで歩く。家について三十分もしないうちに雨が落ちて来た。通りあめ。春の気候らしい。十二時頃までかかって、朝書いたものをすっかりやりなおし。気がのらず、一筆一筆書くとろくなものは出来ず。山川と云うジャパン・アドヴァータイザーの男が一宮さんを呼ぶことを提議する。戸の内さんも一緒だしするから、賛成をする。

三月二十四日

(金曜)晴 風強
 きみを、明日にかけて暇をやる。北海道から兄、祖母が出て来たのだそうだ。
 家のことに金がかかるから本は買えない、と云うような状態、又Aに、一種の遠慮をして、又遠慮をさせるような性格の彼と、一緒に生活して居て自分の芸術的教養は、どんなになるか、此点を考えると、大きな問題になって来る。
 自分の心持では斯うだ。Aと別になりH町へ住むとする。そうすれば、彼女等は、やっぱり自分の先見が当って居たと思い、私が結婚したのは、彼等にあやまらなければならないことであったと認めようとさせ、又、彼等の思想で私を支配しようとするだろう。自分はこれはいやだ。又、Aにも、そう云う牽制は与えられたくない。アクティブにどんどん自分のよみたい本は買い、ききたい音楽はききたい。つまり彼にはさほど必要でない芸術的要求を満したいのである。その為には、全く、自分が生活の主人になりたい。その為には、自分で食べる丈の金がなければ、とれなければ、誰にも頭を下げずにすむ主人とはなれない。その金は、それならどうしてとるか。

三月二十五日

(土曜)晴
 国のおとうさんが来られれば、此日曜に到着される予定になって居る。Aも、やっぱり心にかかると見えて、しきりに、そのことを云って居る。まだ何とも通知がないから。

 自分が、生活の主人になりたいと云う要求は、どこに行って落付きを得るのだろうか。結婚する前、結婚こそしたら自分は自由になり、自分の意志する通り生活が出来るものと思った。が結婚して見ると、又、新たな一つの圧が加わる。つまりいつでも、何か、自分のそれに対して一歩譲らなければならないものを持って居るからだろうか。
 此考えは、自分のうちに、次第に深くなって来る。慎重に考えるべきことだ。すっきりと I myself の生活をしたい。
 午後おそく林町よりよばる。行って見ると、スエ子の送り迎えにきみを七日からかせとのこと。此方もこまるが仕方がないから、承諾す。女中、客、家事、何のことかと思わざるを得ず。
 明日、青木氏結婚

三月二十六日

(日曜)晴 風強
 朝早くおきる。昨日福井から電報がつき、今朝父がつかれると云うことを云って来た。がかんじんの時間の処が誤って居て確に分らない。八時迄にと云ってA行く。無事到着機嫌よく来られたのは何より結構。
 自分の、主婦と云う地位は、自分の専念に目ざす処に何のイムポータンス積極の、があるかと疑わずには居られない心持激し。
 結婚生活が、単に二人がよく勉強出来るため、などと云うよりもっと雑事をとり込むと云う形式とほか思われないこと多し。いろいろで、すっかり落付き仕事が出来ないから、の反動的感情か。
 彼の芸術にひたらない性格によるためか、
 このような心持を自分はAに一つも話さない。話しても、自分で動的に結果を作り得ないことは、只亢奮の繰返しであると思う。

三月二十七日

(月曜)晴
 昨日より The death of the Gods メレジェコフスキーを読み始む。英訳がわるいのか、「先覚」のようには行かない感がある。

 夕方から銀座へ出かける。にぎやか。女の人が、驚くほど流行のさきがけをしたなりをして居るのを見る。
 女の傾向が、ああ云う風になるのか。

 Aが父と、今月は私が二つも三つも小説を書いたから、大変やり繰りに都合がよいと云うのをきく、忘られない印象をうけた。感情で云えば、淋しい、失望した、いやな心持である。先日記でよんだことも思い出す。Aは、私に書かせて、金も欲しいのか。

三月二十八日

(火曜)晴
 朝Aと父、三越、婦人公論来る。里見※(「弓+享」、第3水準1-84-22)氏の男より女へと云う一文をよみ、深(ママ)し。つまり女は子を産むことのほか、何をやっても男のようには出来ない、と云うのである。此は自分に何とも云われない感を起させた。まして此頃の心持に対しては、真の自分と云うものは何を、どうした境遇で、最も仕事が出来るのだろうか。
 風が強く、松籟しょうらいが小田原の海辺を思い起させた。
 夜大掃除、うち中砂だらけになったから。

三月二十九日

(水曜)晴◎
 疲れを覚ゆ。野上さんに近頃の心持を書いて出す。
(ジュリアン)のつづきをよむ。
 紀元三四世紀のローマ皇帝などの、人間的なライラーテをおそろしくよむ。
 ギリシアとローマとではあの点だけでも違うと思う。ヘレニズムの真の澄朗さ健やかさはローマ時代には、暗い烈しい本能の吐露となる。何故?
 今日国男、美術学校を受ける。入れただろう。ぜひ入らせたい。入れなければ、友達が除隊にさえなるのに面目ないから日本には居ないと云って居る。

三月三十日

(木曜)晴
 きみの母が不快、手伝って呉れと云って来る。妊娠して居ると云うから気の毒に思いやることにする。なかなかひとをたのんで居たのでは仕様がない。それに自分の仕事はまとまった。先ず気分がなければ出来ない。恐ろしくなる。とにかくAの父のかえるまでは我まんして何も云わずに置こうと云う心持。此那ことではまるで、家のことをしに結婚したようなものだ。

三月三十一日

(金曜)雨
 A、父をつれ、もとの家の方へ行く。

四月一日

(土曜)晴
 第二会場を見に行く。雑ぱくさはよき趣味の欠乏に於て明に現代を示して居る。三宅坂、赤坂見つけの桜美しい。うちの六畳から隣りの八重桜の梢ばかりを見てまだまだ花は咲くまいと思って居たら、もう外では満開である。かえると水津さんが待って居られる。林町から来いとある。いろいろ話をしてから夕飯迄行く。つまり今度Aの父をつれて行くのに先のことに何の区切りもつけてないのにあまりずるずるべったりである、押しつけがましいと母が云われる。すっかり結末をつけ、しんから優待したいと云われると父が話される。その心持の真実さは判るし、自分達も、母の性格のディフェクトを思わず、子としての特権(?)を利用しすぎた傾向が無自覚にしろあったと思ったから、行届かない点は、Aにもよく話し、わからせ、あしたでも来ましょうと云った。
 母子の関係はむずかしい。自分に人生観と目標仕事がある丈むずかしい。国男さんが、行きに来て一緒に行き、かえりには又オートバイで送って呉れた。
 国男さんの試験はよく出来たらしい。父のおかげでフェボラブルな条件もあろう。入れば何より。

四月二日

(日曜)晴
 午後からAと林町へ行く。二人であの家の玄関を入るのは久しぶりのことである。Aは、種々な感が胸を圧するのか陰気にだまり込んで、長い電車の中でろくに口も利かなかった。三人母、彼、父と西洋間に置いて、自分が食堂でおゆきに会い行って見ると、彼が涙をこぼして何か云って居る。父もハンケチを出して居られる。母ばかりは上気したような顔色をし眼を輝やかせ、椅子にかけた足の爪先を神経的に動かし乍ら、強いて動じない風で理屈を云われる。自分は、彼女の口ばかりで云って居るような理屈や落付きと真剣さのない眼の絶間ない動きに深い不快を覚えた。浅薄なものだ。自分が正しいと云う概念、負けたのではないと云う意識でさっぱり素直にはなれないのか。辛い気がした。
 六時過帰宅、父には、母の病気見舞と云って出たのだ。

四月三日

(月曜)晴
 朝二人が明治神宮へ行くと云う。自分達は先散歩に出て横をかすって来てしまった。一緒に行こうと決心する。なかなか人出だ。
 神宮の建物は、さすがに大きな材木をつかい、念を入れてはあるらしいが、一見、何となく神さびたと云う感が来ない。此点では春日明神におとること数倍、勿論年代を経ないと云うことも大した原因であろう。然し、何となく、建物自身にも工匠の、魂魄がこもって居ない造営物と云う感がある。時代の(作られた)せいか。又、見た日の圏境によるのか。
「神々の死」。チャプター、チャプターがどうも断片的に感じられる。ずうっと感興の糸を引き、強調し次第にはまり込むようには書かれず、あまり長くない一チャプターごとに新たな自然、人の紹介で一寸まごつかせられる。自分には「先覚」の方よしと感ぜられる。

四月四日

(火曜)晴 夜雨
 人生に愛と光明とが必要であり必然の姿であると思えば、自分がそれ自体になろうとする努力は必要だ。芸術に志すものは信仰を以てそれ自体芸術となるだけの精進、或は努力が必然であるのではないか。
 いろいろなことを思う。母の自分の仕事に対する心持、又、Aの心持。それが、どうも自分には純粋芸術の立場ではないように思われる。いつか、その見解を異にする点で、根本的な衝突が起るのではないかと云うような心持がする。
 午後から林町へ行く。今夜、父を呼ぶと云うので手伝いかたがた早めに出かける。電車の込むことおびただし。父上は相変らず暖く彼等を迎えて下すった。母上は僅かの自負と皮肉とを含んで。祖母はうれしそうに見えた。
 同胞達もはにかまず、スエ子まで珍らしく仲間に入って団欒する。帰って来たら安心してっとした。自分には、Aの父がいやに思われるのもいやなら、彼等林町の一族がいやに思われるのも辛いのだ。笹川春雄氏に会う。伝説の時代をかえして貰い背景を描くと云う男女蔵[#市川男女蔵=市川左団次]達の新舞踊を話す。

四月五日

(水曜)晴
 朝、泉岳寺へ行こうと云う。さほど興味もないが行こうと云うのでついて出かける。丁度一ヵ月ばかりの祭日にあたって居るとか、だらだら坂を上ったつき当りの万松山と云う額の出た寺内には一杯露店が出、大石内蔵助良雄と云う新しい銅像が俗悪をきわめて居る。墓を見るのにも一銭、宝物遺物を見るのも七銭とか出来る丈、かどかどで金をとろうとする工面。墓を見、モーモーと立つ線香のけむを見、内匠頭一人のために、此丈の人間が死んだことを思い、その死人のおかげで金をとり、名物になって居るのを思うと、妙に、不快な心持がした。
 偶像崇拝とでも云うのか、あれ丈の人間だって、大抵は話しのたねに見て廻るのだと思う。
 国男さん、いよいよ美術学校建築科本科に入ったよし何よりよろこばしい。結構結構。
 若し万一だめなら外国に行くかと思うと、今日の午後は心が怪しく曇って居た。外国に行くのはよいが、面目ないような動機ではたまらない。
 きみ、祖母がかえると云って、夕刻からとまりがけで会いに行く。

四月六日

(木曜)曇
 きみ朝戻って来る。夕方から林町へ行かせなければならないから、又当分出られない。それで三人で第一会場を見に行く。万国街が当だ。Aが気をせかせ、あまり注意せずに札を買ったので、立ったままろくに見るものも見られなかった。ボーデビルのようなもの、埃及エジプトの筋肉顫動ダンスを見て、すさまじい気はするが自分は別に何とも思わず、Aは、ひどく下劣だと云う。それ丈刺戟が男にはちがうと思う。
「神々の死」、何だか不自然なような心持がする。

四月七日

(金曜)雨
 A、学習院の卒業式予行に出かける。

四月八日

(土曜)晴
 日当は暑い程つよい日が照る。バラが枝が多くて咲かないと云うので、よけいだと云う分を切る。何でも此と同じなのだと思う。いろいろな欲や、見栄や小善心で生活は枝だらけになり、一つのまとまった大きいことが出来ない。
 明日国男さん来ると云って来る。どんなにさっぱりした心持か。何だか林町の家族とはなれその喜びの渦の中に居られないのを物足らず淋しく覚えた。
 父、十三日にかえられると云う。

四月九日

(日曜)晴
 午後、国男、英男、スエ子来。きみも来る。せわしい思いをして皆の好きなとりの料理をしてやる。英男、国男のよろこんで食べること。見る目も愉快で、スエ子より却って子供らしい食欲や、歓びを示す。あんな点でも男の子と女の子とは、ああも違うものか。
 父それから散歩に出られ、われわれが三時の果物をたべ終る頃、大学に行ったAと一緒に戻って来られた。青山の墓地に行き、「此等は皆故人だ。自分もやがてそうなろう」と思ったら、急にふらふらとし、倒れ、暫く人事不省であったのだそうだ、驚く。
 やかましいのがさわり、脳溢血でも起されては大変だと思うので皆をかえし、ゆっくりやすませる。大したことはないらしい。先ずよかった。東京へ幾年振りかで出、もう三四日でかえろうとする時、行き倒れになったりしたのではたまらない。

四月十日

(月曜)晴
 A、学習院卒業式出席。
 珍らしくフールドレッスにシルクハットをかぶった姿を見、自分は云い難い感を得た。
 彼がモーニングでも着て居るときにはいかにもしっくりと似合い、体も、持って居る丈の大きさにのびのびと見える。ところがドレッスなどをきこむと、却って大きくなるどころか小さく見え、貧弱に精神薄弱と云う感を起させるのだ。
 フールドレッスがしっくり合う人間ではないのか
 モク猴の冠?
 衣服が人格を反映することの大きさは、敏感なものにとって趣味以上ではないだろうか。
 トルストイが、衣服は精神を支配する。ユニフォームは、最も完全な箇性滅却法だと云ったのをいまでもはっきり覚えて居る。一つの型の日本服をまとった日本の女は、どうしてもその型を心の上にも脱せられないのか。
 夜、銀座に三人で出かけ、おみやげものを買う。

四月十一日

(火曜)雨
 明日英国皇太子が着京せられる。雨にはふらせたくないと、自分迄も思う。どうもあやしい、と云って居ると、午後から、小さい雨が陰気に降り出して来た。
 しょぼしょぼと降るみ降らずみと云う形。
『良婦の友』から、愛慾号と云うのに、二人に、家庭生活について書いて呉れろと云って来る。愛慾篇、労働篇にまねたのだそうだ。うけ合わない。愛慾号と云う名がひどく自分の神経にさわるのだ。
 Aの父には、Aのような処、――一種のひややかさ――表面か或はしんからの――
 例えば土産ものなどを買っても、いき込まないのだ。暖く明るく感情を表現しない。

四月十二日

(水曜)晴
 プリンスオブウェールスの着京されるのを奉迎に行くと云って居るので、早く起きる。あいにく時計を枕元に置かず、日差しの見当で仕度をする。昨夜のあんばいでは、どうもあやしく、今日はきっと雨だろうと思って居た。が、朝になって見ると、眩しいほどの上天気である。結構。切角来られるプリンスも、泥田のような街道に、黒くしょぼしょぼ雨に打たれた人間を見るのはうれしくあられまい。
 女中なしで、朝早く、食事の世話を全部するので、つかれがたまったようだ。何か書こうとしても、しんから身が入らない。父の滞在は、彼のため、自分丈のためにもよろこびではあったがもう、あす、立たれると思うと、自分の心には、立たれるまでだと云う感が起らずには居ない。つまり、いろいろよけいな仕事や、心労も彼が立たれるまでで、それからは、ほんとうに自分の心持、自分の希望通り生活して行く時が来ると云う翔望である。何だか、大病人、もう死ぬとわかった大病人を、人が、親切にまめに、夜も眠らず看病するのは、斯う云う心持ではないかと思われる。もう此限りだのに思いはのこしたくないと云う心持。
 十六七の時分を思い出した。生活慾がつよく、本能的に生活を享楽する。この年頃では、病人とか、いそがしさとかいうことまで一種のよろこびであった。此は顧みて面白いと思う。何か打ちこむ当のほしいとき、全精力を集注させたい精力オーセイを感じるとき、出来た病人さえ、愉快を以てあつかわれるのだ。今日は、どうかして疲れを感じ(風邪の気味)気持がひどく消極的なのでこんなことも思い出す。気候の故と見え、国男さんも風邪のよし。
 夜、プリンスオブウェールス歓迎のアーチ、花電車を見に行く。美し。彼は少しふけたように見える。

四月十三日

(木曜)晴
 夜、七時過の汽車で父帰国される。すぐあとへ、正直、さとるの関係して居る女についてしらべて欲しいと云って来る。Aの柄にはない役なり。
 何とも云われず、吻っとする。此、のんびりした心持、世界がなりをしずめたようだ。筋骨がのびる程の気分。気をはって居たことを思うと、やはり他人に対する心づかいの大きさを知る。いつも斯様な又はもっともっと細かい姑などと居る人の心持が思いやられる。

四月十四日

(金曜)雨
 ひどい雨、嵐に近い。A学校始る。今度からは、たった十四時間と月曜が大学だけ。よろし。
 すっかり机の上をきれいにし、原稿紙をひろげると、まねかれるように心が書くことに向く。
 林町に居た時分、勉強部屋に入った時の心持を思い出す。多勢で、ごたごた賑やかな処から、急にきちんとした、ひっそりした、紙と机と書籍との中に入る変化が、非常に心持に関係があるのだ。
「黄銅時代」に熱が起り、原稿紙の上を、二人の男と女が、小さく動いたり、笑ったり、接吻したりするように見える。
 A、宮内省に御礼に行き、さとるさんの女の様子を見に行く。女が、巧く話にかかり、真面目に彼の身の上を案じていろいろ話したと云うのをきいて、そんなことをしたのがいやになった。
 少くともあの場合、どちらが人として尊いかと云えば、Aよりは女の方だ。まして、そんなに図太い女ではないらしく、どっちかと云うとサトルさんが、悪らしいと云うのをきいて、なおその心持を強くされた。

四月十五日

(土曜)晴
 からりとしたよい天気だ。
 明日、小林、石田氏出航

四月十六日

(日曜)晴
 朝正直さんが、サトルの結果をききに来る。

四月十七日

(月曜)朝晴 夕雨 雷電
 なるたけ早くたけをさんを迎えに行かなければならない。それでも遠いので、ついたら十時であった。道、村山「カイタの歌える」をよんで行く。天才の刹那の閃き。彼は、閃きを多く持ち、照る太陽のような、偉大な持続的光明は持たなかったことを思う。つまり、パッパッとものを照し我も輝、ひとを驚すことは出来る。けれども、土を養い、水をぬくめ、あらゆる生存の根源となるような、原質的な創造は出来ない。此の出来る人こそ真の天才で、万々に一の一現れるものなのだ。
 相変らずたけを、暗く、土くさく、善良にぼんやりして居る。小さい、悪意のないきのこの如し。
 せっかく、楽しみにして来た東京も、あまり過度に歩かせられるので、つかれ、ちっとも楽しくはないらしい。
 午後三越に行く。あっちらこっちら歩き、種々の、人間の着るのかと思う程あでやかな衣類を見る。自分は『ファウスト』、たけをさんには教育に関する本、教材になりそうなのを一つ買う。

四月十八日

(火曜)晴
 何と云うひどい雷だったのか。夜中で半分夢中だったからあの位、胸をドキドキさせた丈ですんだが若し昼間か夕刻で、稲妻とあの音とを交り交りにきかされたら、全く魂も身にそわずと云う有様になったろう。八時に家を出、たけをさんを上野まで送って行く。行ったらもう皆ついて居、立つ迄二時間、自分も待って居た。
 自分が立つのではなく、ステーションに居るのは全く面白い見ものだ。例えば、車夫とか赤帽とかに、まるで支配される者も居れば、相当の心力を示して自分が使って居るものもある。まごつくものの表情、ちらりと人を見る顔、女の、きらびやかな、しかし深みは一向にない風。
 帰途電車の中で「ファウスト」をよみ始め、すっかり感興を覚えインスパイアされる。もと一寸よんで、つまらなかったのは、こちらがあれを実感と照し合わす丈の内容を持ち合わせなかったからだ。午後、二人で丸善に行く。買わないつもりでも自分は、My days & dreams. Carpenter を買った

四月十九日

(水曜)晴
 朝まず『良婦の友』にやる原稿を書き終る。(一つの花)

四月二十日

(木曜)晴
 朝、七時過に起きたら午前中の時間が沢山ありよろこびを覚ゆ、「二つの家を繋ぐ回想」を書きつづける。
 ゲーテ「ファウスト」
 ベートーフェンは一生結婚しなかった。而も、一生の間にいかほど多くの女性が、彼の内的生活に影響したか、それを考えずには居られない。
 男性では仕事と平行する恋愛生活、然し女性では? 生活を共にする男の傾向

四月二十一日

(金曜)晴
 昨夜、Aいそがしく母上への手紙が出来なかった。三時頃帰って書くから、それ迄待って居ろと云うので自分はいやな淋しい心持になった。たまに一日、朝から親の家に行き楽しもうと思うのに、午後まで待てとは理解がない。自分はがんばり、学校から手紙をよこさせ午前十一時頃行く。父上は九州、それで明日の銀婚式もいつ祝うか判らなくなった。せめて自分が卓子でもきれいに飾り、子供達の賑やかさでも味わせ味おうと思い、花を買いなどして行く。花瓶大変おきに入りうれしい。何と云っても二十五年結婚して立ったのを思えば感慨なきあたわずであろう。まして、国男さんが学校にも入り、スエ子は小学に入り。よくぞこれまで来たものと思う。自分は、思わず父の、良人として、父としての真情の暖かさを賞めた。婦人の独立と云うような話も出たが母の老いたのを痛感する。自分の生活について相談するのは国男であるのを覚える。
「ファウスト」

四月二十二日

(土曜)晴
 朝、ゆっくり眠り目覚める。非常に暖い日。袷になる。向いの家の八重桜がみっちりと満開し、蕾のうちは、軽くのびて見えた幹が、黒ずみつやつやとあぶらぎって見ゆ。
 国男さん来。英国皇太子の御退京を送って。いろいろ話をし、先頃から心にある自分の生活に対する心持を話す。Aが帰って来ると、ちっともそれ等を忘れたのではなく思いつづけながら静かな心持で居られるのを自覚し驚く。彼と離れるか、否か、と云う切迫した心持が奥にあり乍ら、却って一大事だと、それがすっかり決定するまではちっとも知られたくないと云う気が強く支配するのだ。自分が、何人にも支配されず、自由に、しんから自由に経験し生活したらどんなに愉快だろう。二十四歳まで修業の最中であり乍ら、彼の小成に安んずる感化をうけ、一緒におさまってよいものか? 種々の反省。親から自由になると思って良人の許に走せた誤謬。その良人からも自由になって始めて自分は一人の人間として独立し得るのではないか。
 Aがかたまって居ること、嫉妬心の強いこと、古臭い日本の考えを持って居ること。自分が彼に支配されすぎる危険、皆がこれに心付いて居るのを知り慄然とした。自分の裡に在る愛さずには居られない要求、仮令Aと別れても、これがどうなるか、性格の問題になると思う。来年若し四月に父上が英国に行かれれば、自分も行くか。只それから三四年、国男が来るまでどうするかが疑問。Aのそばに五年此からこびりつき、中流の狭い古い生活にしばられて三十になることを思っては、ぞっとする。自分の、愛欲で曇った理想は、又その光りを見せて来た。どうしたら、もっともよく――出来る丈少なく彼を痛めて――此状態を変え得るか。
「ベートーフェンの一生」
 目下あまり無理をせず平均月百円はとれる。これで生活は出来ないものか。

四月二十三日

(日曜)曇
 A、ひまがあると、庭の掃除をし、草を手入れし、水をまき、こまこまと体を動かして居る。頭に何があるのだろう。淋し、淋し。自分の思い考えて居る丈のことは何も彼の頭にはなく、自分がいつか恐らくせずには居られない決意は、彼に全く不意のものとしか、従って、不自然なものとほか、思われないのだろう。
 自分の理想に忠実になり、境遇をかえたとし、又先のような、只観念の生存ほかなくなるのではないだろうか。斯様に苦しみつつ生活して居る時に、複雑な人性の差、上へ上へと翔ぼうとする人間の苦しみ、その他を味う。然し、若し此矛盾と苦痛とがなかったら、又あの単純な、一部分の生活ほかなくなるのではないだろうか。それが恐れである。自分を打ちあて輝かせるものを失うわけ、それですり切れるか、益※(二の字点、1-2-22)輝くか、此が自分の天才の星によって決せられる処ではないか。
 彼が現状より、よりよくなるとは思われない。益※(二の字点、1-2-22)どちらかと云えば、凡俗になる方だろう。年もとれば猶保守的になり、嫉妬深くもなろう。此点も考えなければならない。自分が内に、仕える神、あくまでも育とう育とうとする精神をもっと小量にめぐまれて居たらどんなによかったか、少くとももっと男への甘さと調和され、日常の生活は安穏に行く。自分が馬鹿或は悪い女となってもよいから、彼に積極的結果を齎す、解決が欲しい。深く考えて見よ、自分は結婚してから、殆ど一日として、彼と共に、精神に於て朗らかであったことはない。
 彼と只二人、私の心から芸術に対するアスピレーションも理想も何もぬき、只女としてさし向ったとき、その時丈満ち足りた平和が来る――それ程、彼は小さいのだ。
 自分の感動の嵐が相手を見ず捲き込んだ。
 夜、食後、自分は到頭心にあることを切り出した。Aには自分の切迫した真情が判らないか、或は判っても、又例のヒスだとして、まぎらしてしまうつもりか、又はおそれてか、夜、眠られなくなってしまうと云って、いいかげんで切りあげる。心辛し。徹夜してでも話し合うと云うどうして熱意を持って呉れないか。彼には愛とか善とか云う概念だけ分って居るのだ。(二十三日の続き)
 先日来起った、実に微妙な心持の変化――或は生活に大きな変転を齎すかもしれない変化――が、すっかり過去の記憶を動顛させてしまわないうちに、自分は、「二つの家を繋ぐ回想」、を、すっかり書こうと思い。始む。

四月二十四日

(月曜)雨
 昨日一日自分等は切り出したことについて話した。が結局、どうにもならない。若し離れて生活するようなら、自分は、すっかりの仕事をすてて田舎に入り、自然を楽しむ。今まで、人から、ほんとうに理想的な夫妻だと思われて居たのに、それを裏切り、どうして、人を教える身分にある自分が面と向って、世の中に生活して行かれるか。Aの云うことは前から自分の予想して居る通りのことであった。若しこれで埋れるなら、それ限りの人なのだからとは矢張り思えない。彼が幸福でなくては、少くとも彼自身の生活をして居なければ結局自分も安らかではないことを痛感する。逃げられず、避けられない運命であるのを、自分は深く思った。此をよくして行くほかない。自分と云うものを、彼に煩わされず、強く育て上げて行かなければならない。夫婦の関係と云うものが、話した結果、自分の心では、若し高下が感じられてよいものとすると、ずうっと下、頭を圧さないものとなった。自分が親と生活したように、生活すればよいのだ。「二つの家を繋ぐ回想」、を書きつづけて居るうちに、自分の心に深い疑いが起った。いつも自分がAに牽かれるのは、彼の偉大さ、強き正などと云うのではなくて、彼のみじめさ、自分だけが慰め手だろうと思うような狭さ、孤独な人を愛す唯一人の自身などと云う感動である。自分はそれなら、何によって、彼とつながって居る。可哀そうさ、自分がなければ、何になるか判らない弱者への恐怖的愛? 馬鹿な子ほど可愛い、と云う心持、卑小なる良人ほど可愛いか? あわれ、あわれ。
 日常生活をインフェリオルなものとして居ると、自己肯定が多くなる、何よりの危険。総ての偉大だった人々の魂! どうぞ自分を護り正路を歩かせて下さい。知らないうちに一人よがりになり、曖昧になり、おさまるかと思うと、死ぬ如し。

四月二十五日

(火曜)晴 風強
 青山離宮を見る。立派。と云うのだろう。しかしマテリアルがよく手がこんで居る丈でインスピレーションが一寸もないから美の感なし。

四月二十六日

(水曜)晴
 ひどい地震。ただ独りではっと思い、家がつぶれるか、何処へ逃げよう、
 Aは帰って来られないし、と瞬間に考える。横浜で死者。震幅一寸と云う。

四月二十七日

(木曜)晴 七十二度
 自分はどうにかして、一つの可なり広い部屋を、自分丈のものとしよう。
 二つつながった机は、彼と読書、手紙などを書いたりするに使い、部屋は、全く創作のため。其処に絵、音楽、愛する芸術家の像を置こう。すきな丈心を飛ばせよう。津田青楓氏が画室の欲しいわけを覚り、あげるお金のないのを残念に思う。

 朝早く仕度をし、丸善に行き、Aが学校で使う楽譜、グリンカのマズルカ等を買う。かえりに独りで家に帰ってボソボソ飯をたべるのかと思うといやになり、事務所によって見た。あいにくお客で駄目。又ぽくぽくかえって来る。
 自分が才筆だと云うことを云われる。どうしてそうなのだろう。私自身には判らない。才筆どころか、思うように感じが滲み出さず、辛く、辛く思う位だのに。
〔欄外に〕強い温度の故か、頭は空想的になり、種々旅行のことを思う。コスモポリタン。放浪人の心のすさみを持たなければ、世界を廻って生きるのは楽しかろう。

四月二十八日

(金曜)晴
 昨日ほど途方もない暑気ではない。自分の部屋を持つため、隣の家も、家賃によっては、かりようと云う相談になる。三間あるらしいが、どう使ったらよいか、静かなことを云ったら、此八畳が一番だろうが、自分ばかり飾りも出来ずものも置けず、いやだ。
 教育者協会への原稿、
 珍らしく朝飯にカフェーをのんだ。机に向っても、妙に、頭の中が力が入らず、軽くさわさわして感じる。亢奮したのか、笑い喋るにはよいが、ものは書けない。カフェーばかりのんで居たアメリカの生活を思い出す。此、脳細胞の踊りに心付かなかったほど、あちらでも生活は、頭、心全部が揺れさわめきして居たのか。
「サムソンとデリラ」のことを思う。とくにサムソン。彼が女に迷い、だまかされ、髪を切られて盲目にされ、暗い、永遠の闇の中で粉挽車をぐるぐる日は日ねもす、夜は夜もすがら挽いて居る間、何を考えたか、さわって見て、一厘ずつ一分ずつのびる髪に、いかほどひそやかな震える希望を感じたか。
 彼が、あの粉挽車をつかまされなかったら? 考えた心持が我胸に響く。

四月二十九日

(土曜)ひどく暑。八十三度
『改造』の「文芸管見」林町へ午前中から行く電車の中でよむ。技巧、内容の問題――里見氏としては、自分のバイタルなことにふれて来たわけだ。いろいろ考える。そして、彼方で独りゆっくり、ベートウベンの、第五シムフォニーをきいた。又、ストリング、クォルテット、その他。これで一つ或思いが来、イタリー古代の、あの名は思い出せないが、白と黒との大理石を、実に驚くべき調和で使った建築を思い起し、なおその考は強まった。即、フィフスシムフォニーは、何で、自分を、あれ丈の感動、すんで吻っとし、そのままでは心が重く居たたまれないようにさせるのか? 音ではないか。ベートウベンによってのみ響く音によってだ。そこで、言葉は神、と云うことが、文字を使う芸術には云われるのが当然ではないだろうか。技巧などと云うことを、浅薄にとらず、言葉、我が書く文字は神、唯一無二絶対なものであると云う信頼、良心、は必要だ。又制作の心が純であればそうなると思う。言葉に牽かれて筆が進むのではなく、文字が、心が流れ出し、筆に写る。いやしくも文字を使うものは、その文字と云う材料=建築の大理石――に、自己独特の美調和、神を認め、創造するのが、つまり、内容で(ママ)はないか。

四月三十日

(日曜)雨
 一日うち、昨日から見ると、秋が来たような寒さだ。鳥の巣を拵えてやり、宮原さんが来たりして、夜、三浦環さんの帰京のことから、話が我々のことになって来た。丁度食事をしまったままで話すうち、今夜は時に自分の問題がなかったので公正にきけ、又話せ、いろいろ今まで達しなかった理解に達した心持がした。つまり、私が、仕事を真先に立て、Aもそれは認めて居乍ら、自分の心持が徹底しない為に、仕事専一になり切らない、と云うこと。私がAの為に死なないのは、Aに判って居る、それでよいのも判って居る。それだのに私は、Aはそう思わない、ああ思わないと、自分で思って、する丈思い切ってしないと云うことなのである。其点はつまり、自分が、一種あさましいひがみを持って居たことになる。すっかりAの善意を信じ切れず、親にするように信じて勝手に振まわず、それを、Aの狭小さにのみきせて居たと云うことである。自分を知るものがあまりAに支配されすぎるのは為にならないと云う、その外面の表われも、一方は、私の心持で、強調して見えたようなことはなかったろうか。自分のだらしなさで、Aにひどい嫉妬心でもありそうに思わせたことはないか。

五月一日

(月曜)晴 程よい。
 ジムバリストをきく。すてきなり、カルメンファンタジア等。実際イマージネーションが湧く。あの音のデリケートなつかいかた、一体に、地味で、真面目で、ケレンがなく、弾き方も自然で人格的にエルマン以上だと云う評がある。もっと度々音楽をききよい耳を作りたい。建築の真髄が少し自分にわかって来たように、音楽ももう一歩進みたい。
 巖本さんからの手紙、何とも云われない、女らしい、あの人の肉体そのままのしなやかな、サムプルな、もの。良人を、自分を愛して呉れるアポローと思って居、「ありがたいことに中野そっくりの」お嬢さんを持ち、彼女は、輝やかしい生活の頂上にあるように見える。うらやましいような気がしないでもない。外国に居る人間の書く文字は、内地に、ひっそくして居るものの持たない新鮮さがある。雰囲気のせいであろう。

五月二日

(火曜)
 ゲーテの「ファウスト」、偉大には違いない。然し、種々な点で、我々の持つ感じとは、創作の態度上、違った点がある。自分には一寸、なぜ、あれ程、ギリシアの神話時代にこだわらなければならないのか、今の処分らない。但し、あの中性の、智慧によって生れた小人は愉快。真実だ。
 どうしても、自分には、「ファウスト」より、「ジャン・クリストフ」の方が心を直接に動かされる。性格的に違うのだろう。

五月三日

(水曜)晴
 昨夜は二人とも眠くて仕方がないので、七時過、床に入り、十二時頃まで熟睡し、一寸目をさまし又眠って、今朝自分は八時過起きる。十二時間眠ったわけだ。非常に頭の工合よく、活気づき、午前中に、『婦人之友』に送る小さい原稿を書き終り、(九枚)一旦断った『金の鳥』のお話も書いてやる気になる。
「渋谷家」もなおす気。
 沢山眠った日の快よさ。Aがいつも早起きでバタバタやったり、からから格子をあけたりするので眠りたりない気で床をはなれる。心に弾力なく、今日も――と云ういやな心持がする。此では仕事も出来ない。今日はうれしい。いつもたっぷり眠らせて欲しいな。家が狭いから、一人がかたかたすると、家中がたがたになる。

五月四日

(木曜)晴
 朝、八畳の傍の垣の外で、男が行ったっきり出て来ない。表通りへうちの裏から出て行ったのだろうとさわいで居る。気味わるし。そんなに、あっちこっちから通りぬけが出来るのでは困るな。
『金の鳥』と云うのに巨人象のことを書いてやろうとは思ったが、なかなかむずかし。子供あいてのことは、なれないから何と書出してよいのかちっとも見当のつかない気分がするのである。
『一つの芽生』、五百部検印。
「処女地」の評に、(読売)社会問題に注目し云々と云うようなことがやかましく云われて居るが、芸術家はそうまでブルジョア、プロレタリアに煩わされなくてはいけないのだろうか。自分には、社会主義は人類の心で、人間なら持つものだが、現代の日本に於けるプロレタリア崇拝熱は、いささかも同感し得ない。小さい、狭い、激昂した波、又十年も経れば、どうにかなってしまうのではないか。
 その証(ママ)に所謂プロレタリアが、自身の力を団結させて学校なり何なり改善の組織、積極的人生改造には当り得ず、それが第一だと思って居ないではないか。野上さんから手紙が来、自分は心を打たれることがあった。

五月五日

(金曜)曇
 心持落付いてよろし。朝のうち、渋谷正隆について考えなおし、筋を書き、午頃から、林町へ出かける。道で文房堂により、原稿紙をきくとないと云う。困りものなり。
 野上さんの手紙で、自分は、小遣を取ると云う気が第一ではなくても、あった方もいいし位の軽い心持で筆を執ったことを思い、種々の考えに打れた。
 貧乏――まあ我々の位でも――に堪えると云うこと、自分は、あまりどちらかと云えば金や物にはこだわらない方だ。けれども、とる道があると、とぼしいのに安んじては居ようとせず、無邪気だが欲を起す。なくても忘れ、ある道も忘れと云うところまで行かないのだ。あれで、自分の心にあるやわなところのいろいろを知った。
 もう何も思わず、只管ひたすら仕事――第一義の――に仕えて行こう。人間の日常生活では、第一義、第一義と目ざして行ってもよい加減、二次三次になる。自分のようにまして、通俗(一字不明)を持ったものは。彼方の家まで自分のにすると云うような望みは、もうどうでもよいものになってしまった。いろいろな意味で、健康すぎる肉体――を思う。現世的。精力をつかい切る丈の仕事をしないのか

五月六日

(土曜)曇

五月七日

(日曜)雨
 朝はおそい。
 Aは、例によって、庭掃除。二人で庭の草をむしる。又、裏の小さい盆栽の手入れをしたり、おもとの葉をそろえて糸で、乱れないように結いたり。
 夜、白鳥庫吉氏が、フランスに行かれるのに托す、ブックリストを、二人でチェックする。
 Aが一日家に居ると、ゆっくりものもよめず。

五月八日

(月曜)曇
 仕事のしたい気分になって居るのに出かけなければならないので少しいやな気がした。タイプライター重くて困る。
 父母の銀婚式の集りの相談。国男さんが父上とうまく折合わないと云うこと、その他、祖母に縫物をたのんだ処が、年よって、頭がにぶく、幾度云っても、身たけ、衿、肩あて等が分らない。母は、親切に云わず、皮肉な嘲弄的な口調で
「まあ、驚いた。今申上げたじゃあありませんか」
等と云い、手をつけない。不快。鋏をとり、自分が切る処はきって、まごつかないようにしてあげる。ああ云うことをされるのはいくら老人でも胸に来るだろう。可哀そうに。昔からの怨みとでも云うものが、彼女(母)の胸では、まだ消えて居ない。
『新小説』、近藤栄一、やまとたけ尊。よい、男らしい把(ママ)力のしっかりした、愛のある処があり、変にペタクタしない筆致も快い。女には、何としても、ああ云うものは、書き難いな。
『中公』、「墓を発く」。自然主義の影響のある細筆。光彩乏し。

五月九日

(火曜)雨 曇
『女聖』に原稿を約束したのが辛くなる。が、今度、ねっきりはっきり此っきりで、此は書かなければなるまい。自分が一旦自分で約束して、内心の変化があろうとも、そう雑作なく相手にめいわくをかけてはいけない。
 夕刻、そろそろ夕餐の仕度にかかって居ると、六畳で、
「やあ、此は珍らしい人が来た!」
と云うAの声がする。出て見ると、渡辺氏が来られたのだ。先、父上上京のとき、来たら泊っていらっしゃいと云ったが、今、来るとは思わなかった。あいにく台所自分一人なので、一寸困ったなと云う感。
 Aが、気にし、自分を痛わるのはいいが、どうせしなければならないのだから、来た人にまで感じられるような痛わりかたはして欲しくないと思う。

五月十日

(水曜)晴
 少し朝おくれ、あわてた。
 三丁目の辺まで買物に出かけ、かえって来ると、門に自転車が置いてある。何かと思うと格子の中に小僧が居、春陽堂から原稿料を持って来たと云う。二円也、
 自分は、金の多少より、勿論少ないことによって起された感ではあるが、受用は人をいやしくすると云ったゲーテの言葉を身に徹えて感じた。自分から仕た仕事と云うのではなく、一寸たのまれ、ふわついた気で書き、彼方では、より以上の無良心で僅かの金をよこす。真剣な良心が働いて居ない。自分の心を思い、又先方の一通りな態度を思い、自分は深い恥辱を覚えた。もう、自分は出来る限りあんなつまらないものに、気を動かされない決心をした。小説だけ。それでいやなら、仕方がない。自分も変遷して行くと思う。十七八頃、種がなく、ペンが動かず、書くなと云われ書かない。少し自由がきくようになり、暗黙に入用があり、ものの程が分ると、さっさと書く。はっとし、もう二度とその方には行くまいと思う。今其だ。雑誌なら雑誌の程、力の入れ加減等を知ると云うことは、一方から云うと確にわるい。

五月十一日

(木曜)晴
 六時起床。垣の外を変な、何だか判らない呼売をして通って行く男がある。エー、ヤークレケキと云うような喉音。
 渡辺氏は、博覧会に出かける。
 蕾が出来、いつ咲くかいつ咲くかと思って居た大きなバラ、一つ半開となった。うれしい。私の大好きな、赤みを帯びたクリーム色らしい。芝を庭に植え、大きい陰になる木を一本植え、バラを作った庭が欲しい。自分には歩くせきもないように石や曲った木のある日本俗庭は不用だ。
 カーペンタア My days & dreams 文章の簡明なのに、驚く。又、クロポトキン等とどこか似た処がある。所謂文学者でなく、ソシアリストは、共通な単純、明瞭を特性として持つのだろうか。
 夜まつが来、吻っとした。

五月十二日

(金曜)雨
 今朝、渡辺氏、去る。ゆっくりした気分となり、雨にぬるる薔薇の花を見る。
 きのう、ひとりで淋しく、頭が妙になり、六畳で空を眺めて居たら、青空、白雲、青々と繁った柳の梢の緑が、非常に美しい調和に見えた。何故ああ云う裾模様をつくらないのだろう、自然、智、愛と云うようなものを、一つの衣服の中に、うるわしくあらわせ、そう云う風にこってこそ着物に頭を使う甲斐があるのではないだろうか、単に色の調和でも、感じが、ずっと出るのだ。バラの色をながめ同じことを考える。
 着物の中に宇宙を包むこと。
 種々な点から、自分について一つ思ったこと――自分は、感受性と、旺盛な生活力で芸術が生め、クリーア・ブレエンと云うようなものはない。――そうではないだろうか。透徹した眼などと云うものは無く、考えずには居られない脳髄と、感じずには居られない胸と、エキスプレスせずには居られない熱情とを持った極の自然人。

五月十三日

(土曜)晴 ◎
 芸術と、自助生活との間に考えるべきこと。常に此頃心にある。
 夜、『時事』、『国民』の記者が来、Aの啓明会のことにつき記事写真をとって行く。自分は写真を断る。

五月十四日

(日曜)晴 夜高垣氏。
 髪を切りにAが行くと間もなく訪客、
 午後から、大学に行き、ひどくおそくかえり、八時過高垣氏来訪。
 野上さんのお能はことわり、おなかがいたく、蒼い顔をする。
『時事』のAの写真よく、『国民』に自分の名を先に出してあるのを見全くいやな心持になった。

五月十五日

(月曜)曇
 能に行かれなかったことにつき野上さんに手紙を書く。

五月十六日

(火曜)雨『文生新聞』三時
 梅雨が来たようにさむい。My days & dreams をよみつづける。いろいろなことで自分の裡に、いかほど祖父(西村)の血がテムペラメンタル・テンデンシーがあるか思わずには居られない。
 芸術家的社会改造家とでも云う一面が、哲学、倫理学のぞうけいとともに彼にはあったのではないか。
 自分は、より多く芸術的傾向を持って居る。しかし著しい共通があるらしい。

五月十七日

(水曜)
 行かなければならない処がたまり、不愉快なり、出あるくのは、たまにはよいが、全くいや。そのために頭は落付かず、たまらなく悲しい。
 六月一杯にはどうしても「渋谷」をすませる。
 自分が芸術的に一つ飛ばなければならない処に来て居ることを感じる。もう一歩大きいスフェアに出ること。
 夜林町に行く。
 ダンテ「ディビナ・コメディア」斯う云うものを楽しんでよめるには、或年が必要であると思う。先一寸名をきいても、自分には些の愛も起らなかった。よみ始め、心が素朴な、真心にかえって行くような心持がする。

五月十八日

(木曜)晴 午後五時Y・W・C・A
 アメリカの都会で見たよりずっと支那の女学生は愉快で、快活に見えた。が、反動によって、彼女等が、女権と云うことにいかほど刺衝されて居るか。
 又、仲間の一人が、左様なことについて話すのを、教師が通訳する其場合、一寸不明な点にまごつくと、生徒が皆心を合わせ、適当な言葉を見つけ、訳させようと熱中する。つまり、自分等を、実に一団のものと考え、やはり妙に思われてはいけない、斯うと云うナショナル・フィーリングを出すのだ。
 此等のことで、所謂今の女の社会運動家などと云うものが如何程、自己、人間としての我に深く沈潜し考え、創造する余地なく、外へ、外へ、熱して居るか、暗示の多くを与えられ、一つの大きな材料と思った。

五月十九日

(金曜)曇
 人間の理想が、いかほど、時間を超えて共通なものであるのか、と云うことを、カーペンターの、My days & dreams をよみ、ダンテをよみ思う。
 時代の有様は、法王の圧迫、キャピタリズムの圧迫と代っては居るけれども――地獄天国の感と自由人、自由社会対誤れる文明、コンマアシャリズム――となっては居るが、根源の、よきもの、愛、神の正しさを追求する魂の方向に変りはない。社会主義的の思想傾向を、人類の追求してやまない善人の求道心の一発露として、通観した場合、現代のソシアリストの叫ぶような闘争的金(ママ)玉葉とかつぎあげる浅薄さに陥れるだろうか。もう一歩其処から深まり根本の不死の生命に触れ得たら、今の騒乱は、もっとコンストラクティブな、マンリーなものになりはしないだろうか。此事は、思想としてではなく、実に一つの実感として、強く自分に迫って来た。此超時間の感が、自分に雑誌のメーキング・ラビッシュをやめさせ、一生をかけ、真を狙って行く生きかたをさせるようになった力の一部分なのである。

五月二十日

(土曜)曇
 丁度、まる三年目のアニバーサリーが回って来た。
 あの頃を考えると、何と云う今とは異って居たことかと思う。新たな生活に入ろうとする二ヵ月目に近い熱意、ああやってホイティアから出て行き、レークジョージに行った心持、若し、あれを自分が敢てしなかったら、今、自分の境遇はどうなって居たか。と思わずには居られない。日記を見ると、去年の五月二十日は安積に居、明日帰ろうとして居る。一昨年は、たったAが帰ってから一月も経つか経たないのに、Aと一緒に生活することが、勉強させないのだ、と母に云われ、自分も苦しんで居る。混乱して居たのだと思う。やっと去年の秋頃から、或はつい近頃から、やっと自分は少し生活を支配する力を得て来たのだ。Aも苦しい思をしたことだ。
「心の質問」を書き始めようとする。
 天品と云うもの、天品には一つの嘘もなし――無くてよいものは一つもない。

五月二十一日

(日曜)曇
 Aのおできが一体に地膨れをし、なかなか痛いらしい。神経も絶間なく刺戟されるので疲れ、頭もぼんやりして見える。午後、ドクターモットの話をききに行く。久しぶりでああ云う話をきくと心持に力を与えられたような心持がした。
 夜、大阪の『女聖』に、最近出来た詩のようなものを送ってやった。どうしても小説が書けない。たのまれ、思いつきでするのだと思うとどうしても心がとがめ、思いがまとまらず、書けないのだ。
 渋谷正隆は、今度の集には入れず、「南路」を入れ、まとめることにする。心にかかって居ると、新しいものが出来ない。
 A夜早くやすむ。
 自分は風呂に入り、床についたが、頭が、紅茶のせいでさえ、眠れず。いろいろ仕事のことを思う。

五月二十二日

(月曜)曇
 陰気な、陰気な、光彩のない天気。斯様な自然を、一年の二分の一はながめて暮す日本人に、霊魂の弾みと云うようなもののないのは無理ないことであると思う。
 北海道には、斯様那天気が多くあっただろうか。青い輝いた空、ちらちらする緑葉に包まれて暮したい。輝き、明るさ、が、どれ程人の心の歓、活力、希望と一致するか、夜の灯火では与えられない健康な自然の喜悦が、我々の心に迫って来るのだ。
 岩波から、Aの『ペルシャ文学史考』の検印千五百枚持って来る。彼もいろいろ仕事のことを考え計画して居るらしい。
 Aの処へ、学生が返してよこした Book lover と云う本を見、大変ためになった。ギリシアの古典などでどんなのがよいか当がつかなかったものが大体判った。よむべき本は多く、実に多く、第一流を当にして選んでも、一生のうちよみ切れると云うことはないだろう。

五月二十三日

(火曜)雨
 陰気な日、部屋の中が暗く淋しい。終日かなり強い雨の音とあまだれの雨に包まれ、さわがしい水すだれの中に入って居るような心持。
 昨日から「南路」をなおす。
 ある雑誌をよみ、ジムバリストの技巧は、一々の音が、ちゃんと指から頭に照返って居るから不安がない、と云う一句をよみ、自分の作物の上にも、大いに得ることがあった。
 指から――文字から頭、心、と直接な距離を保つための緊張、頭自身の明瞭さ、心の落付きと云うものが、欠けた時、人は只、文字の上を滑る。
 志賀直哉氏の作品のよい処がよほど此で判った。
 明瞭な、鏡のような頭脳。――どうも自分には、無数に絃を張った胸の方があるようだ。然し、ベートウベンの作品は、何が、モーティブ――心的になって居るだろう、あれは頭からか?
「南路」をなおし、駄目、駄目? と思う。今まで何をして居たのだ。

五月二十四日

(水曜)晴
 Aは、遠足の筈なのを休んで一日在宅。顔の腫物は、よほどよいが、まだものを食べるにも苦しいようだ。岩波に送る広告文を書く。自分は、「加護」をすっかり揃える為、上野へ行く。四五月だったと思い、一生けんめい見るがなかなかない。八月だった、あの時分のあわただしい生活で、それ程時の観念もあやふやになって居たのか、と思う。
 かえりに、文房堂により、表紙にしようとする紙を見る。オリーブのようなので、少し変ったよいのがあった。
 夜ダンテをよむ。種々の考、ブルジョアと云い、プロレタリアと云い、あらそいは、問題は、もう一歩奥に触れらるべきものを持って居ると思う。社会は、其処――表面の問題――に止ってよいのだろうが、芸術はそうでは足りないと思う。
 宮島新三郎氏が、近代人の頭に適するスタイルの単純化というようなことを云って居られるが、□□(二字不明)価値は、実はもっと深く、真の真心から出たものは、余計な飾やひまがないと云うことなのではないか。社会主義的傾向は、喋々されるよりもっと本能の願望であると思う。本能の要求だなどと云っても承知しないのは、そう云って、ぼんやりしたものにし胡魔化したものが多いからではないか。

五月二十五日

(木曜)晴
 近頃思う事。人間には、実に複雑を愛する心と、単純をよろこぶ心とがある。少くとも自分には、それが対立した要求となって居る。つまり紐育のアスターホテルのようなもののよさも、忘られず、又自然の、我手で我食う草を採ると云う境遇もしたわしいのだ。機械、機械、発明発明と行く心、片面の、野へ、素朴へ、必要の極限へ、と云う心。近代人の一種の煩悶である。そう云うリアクショナルの力が与える平均、どう弁ずべきものなのだろうか。
          ――○――
 美しい天気。久しく途絶えて居たバラの花が、一つ、今にも満開になりそうに咲いた。午前八時頃の特別に爽やかな日光。
「加護」の一部分を書きなおして居ると林町から来いと云う。よろこんだ。Aが丁度六時迄大学に居るので、正門前で一緒になり帰った。留守に『読売』の人と、宮原さんがブランデスの本を持って来て呉れられたよし。多謝。――然し、宮原さんの頻繁な訪問は、自分によい感を与えない。

五月二十六日

(金曜)曇
 朝「加護」をなおす。『読売』の清水氏来訪、心を入れ、書いて貰うことを話す。ために亢奮し少し仕事がつかえた。
 夜、Aの、イングリッシュ・リテラチューアの筆記をよみ合わせ、一つ詩のようなものを書き、小品を書きかける。
 近頃、黙っては居ても、宮原氏が、我々に、一緒のバーデンとなって居ると思う。自分は今年あまり福井には行きたくなく、安積にでも行き、あとは東京でゆっくり本でも読んで居たい。けれども、Aの居ないとき、又、彼がやたらに来、自分も話相手がないばかりに熱中して喋り合ったりすることがあるかと思うと、いやになる。
 一そ、Aと二人で行く方がよいと思う。貞操などと云うことがいかに真実な形に於ては本能だかよく判る。

五月二十七日

(土曜)晴
 毎日バラの花が咲く。ずっと夏まで咲いて呉れたらよいと思う。が、此はそう云う種類ではないのだろう。朝、「加護」を書く。
 夕頃A上野の夜景を見に行くと云う。行く。不忍池の周囲、外方に一つ、輝いたパール作りのような家を見、愛らしく美しく思った。
 随分電気を使って居るのだから、もっと皆が相談し、我がちにやらず、調和をとったら、すばらしい光景が現れるのだろう。
 趣味と効果に於いて大きなウェーストをして居る。

五月二十八日

(日曜)晴 朝林町へ電話、
 朝、林町へ電話をかける。肩がはったとかで、常わ会にも出られず、あしたにしたいと云われる。そうきめ。
 午後早く出て行かなければならないと思うせいか、気がまとまらず、「加護」一向進まず。
 吉田さんの処へ集ったのはそう大勢でもなかった。いつか、ホイティアで逢った大館氏が居、すてばちのような口調で、あらゆることを罵倒(日本の)して居るのをきき、哀れな淋しい心持がした。まつのことをたのむ。
 夜は、にわかに夏めいた家の中に変化をつけるため、Aと二人で本棚を動し、カーテンをつるし眠るまで動く。
 夜、床につき目がさえ、種々の考えがむらがり起って、四時頃まで目覚めて居た。

五月二十九日

(月曜)晴
 暑いこと、暑いこと、おはなしにならず。朝のうち「加護」を書いてしまう。
 一時頃、母上スエ子をつれて来られる。いつか先の先、片町の家へ一寸来られたきり三年間に二度目の来訪なのである。
 彼女もうれしそうに見え、自分もよろこんだ。いろいろ六時頃まで話す。近頃は、Aに対しての心持も少しは、変って居られるらしいので、心持よい。安積に行きたいこと、国男さんが外国に行くときには私も一緒に行きたいことなどを話す。
 岩波から、到頭『ペルシア文学史考』出来て来る。それでも、岩波が出して呉れると定った時ほどはうれしくない。Aが、何だか自分のものではないような気がすると云う。全く、世の中へ送り出した以上、自分のもので自分のものではないと云える。

五月三十日

(火曜)晴
 創作の上でいろいろなこと。
 一、ジムバリストは、エルマンより、頭の確かさで、多くの賞讚を得て居る。譜を理解し、もっともよくそれを生かすことを第一の目的とすると云う点。
 エルマンは自分の出る妙音によって、あぶない処まで力にまかせて行くと云う。自分の仕事に対すると、自分の感動、自分の書けて行く快感によって書きすすめるのではなく、しっかり対(ママ)つかみそれの実(ママ)に迫って行こうとする意気込みと云うことになるのだ。自分が才筆と云われ一向わからなく思ったが、才筆と云うことを、右のようなセルフ・イントキシケートにあてはめれば判る。自分でよう力のつよさと危険さ。所謂頭のよい人ははっきり対(ママ)が対(ママ)として対立し、自分とごっちゃにはならないのだろう。自分は感情的で、鈍重で、総体でぐっと、つかみかかり一緒くたになるおそれがある。
 大きな芸術品は、両者の最もよい調和にあるのだと思う。ダンテをよむと、オリジナルの作者のも carry も、全くその仕事を愛し時間やその他をこえてやったと云うよい、真面目な感をうける。

五月三十一日

(水曜)大雨
 朝、「美しき月夜」を書いてしまう。ひどい雨で外出は大変だが、フランス現代美術の展覧会が今日きりだと云うので出かける。
 第一、色のあざやかなこと。つまり色彩感覚の鮮明なことがうらやましく自分の心を打った。勿論よいもわるいも(一字不明)あるが、比較的箇性があり、日本の帝展とは違う、なかでも、ロダンの作品は、自分に深い感銘をのこし、彫刻の真、心と云うものが迫って来たように思った。胸像の中にあるスピリット。勿論ロダンの技巧はユニックには違いないが、実に心と直接な働きであると思う。実に自由にこだわらず表現する力。恐ろしく羨しい。
 思いがけず丹野さんに会う。うれしい。見ばえのしない、女中のような風采の中に、すなおな、やさしいところを持って居る人だ。自分の裡にある一種の俗臭は、誰からゆずられたものか、辛く思った。
 自分の生れ、育った家、父母の性格等。思うことが多い。

六月一日

(木曜)晴
 もう一年の半分まで来た。早い。自分の内心では随分変化をし、半年の時間は有効にすごされた。が、あまりプロダクトはない。
 新潮社へ、まとめる丈の原稿を送ってしまってさっぱりする。
 次のものにかかる仕度。

六月二日

(金曜)晴
 国男さんと一緒に、今度は自分の力で、外国を旅行したいと云う希望、計画が、活々と頭に浮び、考えを領し、殆どリミテッドと云う有様。音楽でもきかなければ忘られまぎらされそうもない。
 とにかく五年の辛棒。それまでに自分は一まとめの大きな小説を書き、一年か二年留守をするのだ。
 世界の中心から遠く、せまい、威力のない生活をすることは恐ろしく思う。

六月三日

(土曜)晴
 今日林町では父母の二十五年記念――銀婚式がある。自分は午後早くから出かけまつ、Aはあとから。Aが、すばらしくよい花を持って来て呉れ、うれしかった。お貞さんが、料理屋ではいやだと云うので、家ですることにしたと云う。さわぎさわぎ。大勢人は居、ものはあっても、うまくそろって居ないから大騒ぎである。
 顔ぶれは、いつもの通り親類のつまらない連中ばかり。倉知が例によりひとりで切り廻しいろいろ喋り、三越のプロパガンダをし、ちっとも、祝う二人の心持に通じるような話はしない。実にいや。下等と思う。父母が、まあとにかくも国男さんは学校に入り、Aもどうにかなり、自分達の二十五年もよろこび祝おうと云うのに、その心持を同情し、よろこびを分つものは居ない。
 只よばれ、食い、かえる。又は、自分の優越さをほこる。実につまらないものどもだと思う。

六月四日

(日曜)晴
 朝、新聞社から人が来ると云うので、早く起きる。来ず。
 Aは、虫ぼし夏ものの入れかえにいろいろ手伝ってくれ、六畳一杯にひろげる。
 自分は、林町から借りて来たタイプライターで、Aが啓明会へ出すと云う Book list を書く。まるで、女と男と反対。可笑し。
 ひまを見て、ギブスの Wars it can be told をよみ始む。実にあれ丈の戦争を経験しなかった幸福と、真剣さを経験しなかったおめでたさとは、将来の日本に大きな文化的意義を持つと思う。

六月五日

(月曜)晴
「火のついた踵」のため、my Ideal をとり、絵を見に林町へ行く。
 関さんはかえって来て居ないで駄目、
 夕方までいろいろききかえる。

六月六日

(火曜)晴
 内閣総辞職
 原首相が殺されてから、高橋是清が総理大臣となり、始めは人気があったが、追々不信任案が生じ、二ヵ月ほど前、元田、中橋をぬいて改造案を起したが通らず、ずるずるで、ともだおれ、今日となったのだ。
 目下、自分の心では、さほど、次の内閣に期待する心持もない。やはり、same old day をくり返すのではないか。若しそうでないとなったら、目がさめるだろう。
 高橋内閣の間に、とにかく、治警第五条が撤廃され、女性の政治運動がゆるされた一条は眠り、さほどの意見も持たないにしろ。
 午後、急に思いつき、まつを林町にやり、室内装飾の本と関さんの楽譜をかりて来て貰う。
 楽譜はどうも私の思って居たようなものではないらしい。

六月七日

(水曜)晴
 此から仕事をしようと思って居る処へ、古田中氏夫妻来訪。思いがけない珍客なので、歓迎し、昼飯を一緒にし、二時過まで話す。古田中氏が、遊んで困ったと云うのは、どうなったのだろう。話しのうちに、理知の判断で、大きい幸福のために自分の心は押えたと云うことが、あらわれて居るようにも見える。
 所謂芸術に理解のある男であると思う。しかし、私の発育については、かなり真面目に見て居て呉れることをうれしく、ありがたく思った。孝子さんの方は、良人にひかれて、と云う形で、やって居るらしい。
 夕方、『女性』に原稿を書いて呉れと云って、成瀬慶氏来。思いがけず、河村明子さんの世話をした人で、いろいろ話が出た。実に不幸な人生を送った人。それでも父と和解して、二ヵ月後死に、その死ぬ処には、父が駄目と判って上方にゆき、恐らく、西洋洗濯をやって居る店の者位が居たのだろう。自分が、一寸想像したように、あの人自身下劣なことはなく、父が、ひどく酷薄であったのだ。可哀そうに。才のあった人だのに、実に可憐な一生を送った人と思う。「火のついた踵」の部屋、漸くわかる。

六月八日

(木曜)雨
 昨夜からの雨がはれない。びしょびしょと、五月雨が来たのか。
 芥川氏の『点心』が出た。買いたい。
「火のついた踵」少々、調子よく行きそうなり、うれし。
 六時から、日比谷の電気倶楽部で、第三木曜会あり、これから持続して会をやって行こうと云う相談。
 橋本賢助と云う人は、独特だ。何処まで頭が深いか、少々疑問、ああ云う調子を包んで、不快でなくやって行くのは、少くとも男の集りだけのことはあると思う。
 穂積さん、武井、高垣、清原、高島、高野、高柳、西、西崎、石原その他の人々。
 いろいろな話がきけるばかりでなく、自分の勉強にもなり、結構なことだ。

六月九日

(金曜)曇
 梅雨期が迫って来たので、天気はちっともはっきりせず、晴れたり曇ったり。「火のついた踵」。
 昼から林町へ行く。スエ子が神経質で、学校へ行くと熱を出し、夜眠らないと云う。やはり年をとられてから生れた子は弱いのか。一年位何でもないから、母と二人で神経衰弱にならないように、休み、うちで規則を正しく字、数、読方等を教えておやりなさったらよいでしょうと云った。
 七時頃帰ると、天文台に連れて行かれると云う話だ。始めてなのでよろこび行く。狸穴。入った構内の夜の有様が、実に面白い。北海道のように、バアレンで、広く、裏の方へ入ると、シュロが二本、原始的に生えて居る崖の下に、一面町の人家の灯が見える。円い、天井が幅狭くずっと開くような鉄の屋根が、ぐるぐる廻る。中に、小さい望遠鏡をつけた大きなテレスコープがあり、握りに玉のついた棒の幾本かで、調節する。見えるようにすることを「受ける」と云う。しきりにせきをする年よりの先生、助手(若々しい)建物のひっそりし、浮世ばなれのした風。地上の時間を、天体のために、重要視して居る人達の生活を深く面白く思った。見たのは、月、火星、木星、土星
 月は、月面写真を、満月のため、もっと平面的になったもの。
 火星は、夜肉眼で見るのと大さはあまり違いない、
 木星、小さいダイアモンド飾、真中に光りの帯があり、四つの衛星を持って居る。
 土星は、あの環を平面に見るので、丁度ダンゴの串ざしのような形、いずれも小さくキラキラ輝き、まるで天の花。

六月十日

(土曜)曇 雨
 一日ひどい雨が降る。十二日から梅雨だと云う先駆。
 部屋がしめっぽく、どことなく、変な臭いがするので、すっかり古い花をすて、線香をもやす。
 夕飯前、和本箱を見、西行の伝記、栄花物語、その他を見出す。月のゆくえとか、池の藻屑とか小説のような名の本を一寸あけて見ると、皆、政治的色彩を帯びて居るらしい。徳川の初期の戦争談、足利、南北朝の政談。日本の文学が、独特な長い時期を持って居たことを思う。

六月十一日

(日曜)晴 強雨
 昨夜眠られず、種々考えて居るうちに、猿を面白いファンタジアにして見る見当がついた。うれしい
 A、例によって、いろいろ家の世話をして動いて居るので落付けず、朝書けない。不快。誰に当りようもなし。
 午後、コロンビア会に彼がスペシアルゲストとして呼ばれて居る。自分は留守、野上さんの処へ返事を出す。
 風がひどく、机じゃりじゃり。
 加藤さん。遂に、内閣組織の大命を拝す。どんな仕事をするか。成程、世界にふれたと云う点で、彼は、国内の党頭よりはよいだろう。

六月十二日

(月曜)晴
 朝「火のついた踵」、
 夜、Aの英文学手伝い。
 近頃、書きたいことが多いので、一日の量が少く思われて仕方がない。大抵、五六枚から七枚。あとは、何だか、腹に力がぬけたようになり、書く――真剣で――ことは出来ない。
 どうにかし、もっとやれないか。

六月十三日

(火曜)晴
 昨日あたりからすっかり夏の季節。昨日の午後八十度、今日は七十八度ばかり。
 あけがた、どうかして胃が変になり、苦しく、ゆたんぷであたため、助かった。
「火のついた踵」、
 夕方、前田駿一郎来。二十二歳だと云う。平凡な男以上に、どれ丈秀れた処があるか、七時過から九時二十分頃まで。文学をすると云ったって、何も知っては居ないのだ。
 それを、Aがひどくナーヴァスになり、まるで、すね、早く眠る。自分の周囲にはよくもよくもつまらない男が集ると思い、淋しくつまらなく、夜いつまでも寝られなかった。
 嫉妬と云うことが、無制限であると、ついには、理由なく嫉妬されると云う点で、同情が一致してしまう。或一つの考、いやなものなり。実に男は、独善的であり、専制であると思う。自分の心を反省しようとはしないのだ。

六月十四日

(水曜)晴
 昨夜、夜なかまで起きて居、今朝十時頃起きる。今日一日Aと顔を合わせたくなし。
「火のついた踵」。大抵しまいに近づく。
 あまり暑く、とても八畳に居られないので、玄関へ、円卓子を出し、書いて居ると思いがけなくもうちゃま[#父]がいらしった。うれしかった。全く思いがけなかったから。むぎ湯や果物をあがり四時頃(三時から)まで居ておかえりになる。
 Aは、あいにく会議があったと云って、六時近くにかえって来る。

六月十五日

(木曜)晴 八十二三度 野上さんの処
 朝、「火のついた踵」の最後の一句。
 林町でおひるをたべ、午後野上さんの処に行く積りで出かけて見ると、父上は、おやすみだと云って家にいらっしゃる。賑やかにおひるをすませ、野上さんの処へ行く。四時過まで居、いろいろ考えさせられることがあった。最も大きなものは、
一、自分のあの華々しかった出立に対し、自分が、今までやや不正当に対して居たと云う感――、それの与える不純な、わるい点だけを強調して考え一方、地歩の与えられたことや努力の買われる境遇が開かれて居ると云う点に対する感謝とハムブルな心持とがかけて居たのだ。公平な態度と云うのは、両面を見、生かせる価値を生かして行くことにあるだろう。
二、自分は野上さんの処へ行ったら、ほんとうの意味で芸術談でもしたく思う。あの人は、いいお喋り(下等の意味でなく)の相手と云う方であること。

六月十六日

(金)梅雨になる。
 ひどくつかれ、何もする気なし。朝まぼしくAの枕を、自分の顔の半面に当るようにして眠って居たら、妙な夢を見た。
 学校、教室(五年頃の)。甫守。自分は、ひどく華やかに赤いスウェーターをパンとき、何か英詩をよまされる。一寸見た時は、バイロンの Roll on と云う、海の詩だと思ったのに、よみ始めると、ちっとも意味のない――少くとも自分には解らない語が、ローマ字で綴ってある。いくらすらすらよもうと思ってもよめず、汗をかいた。
 一昨夜だか、国男さんが、首を縊った夢と共に、強い印象にのこって居る。どうかして居ると、苦しそうな声で「ういさま、おかあさま!」と呼ぶ声がする。驚いて行って見ると、此処の家の風呂場で、風呂桶に裸体で立って居る彼が、細い強そうな紐で、首をつって居る。苦しく、静脈が膨れ上ったの、体中の、のたうつのまで見え、実ははっとし「ああ首をつった」と思い、痛いような悲しさがこみ上げて来たので目を覚す。
 体中に精力が欠乏し、何か濃いスープでも飲みたいような心持だ。

六月十七日

(土曜)不定
 何しろ梅雨なのだから、丁度自分が病気の時、いやでも何でもすむまで待って居ると云う心持で、通過るのを待つよりほかない。昨夜早く眠り、今朝も、おそくまで眠ったので、よほど疲れもなおり元気に近くなった。
「二つの時代」を書きたく思い、そろそろ材料を集めて居る。九月までに、最初の一つ位は、まとめたいと思うが――。

六月十八日

(日曜)曇
 二三日前から、女学の図書の中、一寸よんでよいと思うものをかり出して見て居る。西村泊翁[#西村茂樹]の伝をよみ、又思想を考え、母上の見た父と云うものが、可成迄アイデアライズされて居るのを知った。あの母、周囲で父が崇高な人格に見えたのは無理もないが、哲学者ではなく、政治、教育者で、道徳は、彼の天性か、当時の世体に対する反動と、武士の伝統的思想であったものか、はっきりしない。天才ではないな。透明な我を忘れた処がない。只、あらゆる場所に、実際と云う対象を失わない家康の悪がしこい処はない事務家的冷静を保って居た人だ。種々な仕事も功名心が多分にあり、人に対して、固陋なところがあった人だ。あの顔を見る毎に、自分は、何故もっと、偉大な直覚がしみて来ないかと思い思いした理由が、明かになったような気がする。此で二つの時代の、主要な人物に対するべき私の態度も異って来なければならない。そして、一層むずかしくなる。何故なら、偉大なものは、一面、単純であるが、あの程度の偉さの人は、雑で、入りこみ、純でない。故に、ホールビーイングを丸く浮上らせるには、苦心を要する。

六月十九日

(月曜)晴
 起ると、体がだるく仕方なし。とにかく出かけはしたがどうしても図書館へ真すぐ行く気になれず林町へ行く。泊翁全集や母上の歌稿やらをかり、午後行って、目録の中から入用と思う本をさがす。実にカードシステムがわるく、徒に多くの時間を費す。英語の方は、本も少いせいか、まだよいが、日本のイロハのしまいまで順に思い出すのさえ大変なのに、それが二通り、三通りあり、各々内容の量を異にして居る。どうしてもっとデパートメントをちゃんとわけて、文学、美術、医、化、天文等にし、中を又小わけにしないのだろうと思う。そうすれば、ずっとはっきりする。日比谷はこれでやって居るのだろうが、此は又大した本は持たない。どうかしてもう少し金持が、図書館の必要、改善、キューレーターの養成と云うことにつとめなければ駄目だ。古い小役人が、威張くさって、ろくでもない旧套の習慣を繰返して居たのでは。

六月二十日

(火曜)晴
 十時頃図書館へ行く。まだ早く、人も多勢居ないし、上野の山の木かげの小道は涼しかった。明治の小説界の変遷や、桜痴[#福地源一郎]の小説、花袋が、まだどこかの本屋の小僧をして居た時分の東京のことなどをよむ。実に日本が日清戦争までにどれ程の変化を経たか、驚くべきものがある。フランスやイギリスが、五十年も百年もかかって経験したことを、十年五年の間に試み、過してしまって居る。一年が十年だ。変遷に変遷を重ね、反動に反動を重ね、而もそれが主として上流施政者間の思想に終始したので、民衆の力は、実際どれ丈くん練されたか疑問である。思想そのものとしても、明治時代の独特の粗笨そほんさはまぬがれないと思う。又日本人独特のあわれなる創造力のなさも。日本では、アインシュタインをよんだものが学者となる。アインシュタイン自身は出ない。

六月二十一日

(水曜)曇
 青山から上野までの往復はかなりこたえる。つかれ、今日は買物に出るのもいや。午後から母上の来られると云うのを幸、やすみ、うちで日記をかき、ものをよむ。
 うちに居るのはよし。外に働くものが多く粗雑な頭脳の所有者となるに無理はない。肉体の活動と、思想の活動とは一致しない。どっちかがどっちかを食う。
 午後母上来、千歳会がおそくなったと云って五時頃来られる。いろいろの話、A、六時頃かえる。田部さんが勅任官待遇になったと云って皆さわいで居て、あんなことをやかましく云う処に居るのかと思うと、つくづくいやになったと云って変な顔をして居る。純粋にいやなら、始めから入らないがよし。自分には、彼独特の理論化された嫉妬が感じられ、不快になった。母上、本の代にでもしろと云って、三十円置いていらっしゃる。A夜出て行き、まつのために蚊帳、ステーショナリー等買って来る。自分は涙が出た。まして、あのしわいAが、書簡箋は、上にゴッホの絵のついた今まで買ったこともないようなものを買って来て居る。いやな、淋しい気がした。「百合ちゃんの方へとってお置き、急に金持ちになっていいね」と云う風に、どうして云って呉れないのだろう。彼のいやな、勝手な、きたない処がまる出しになったようで、辛い。金はどうでもよい。心持が、どうしてもう少し細かく動き、自分の堪えて居る要求、必要などと云うものを透視しないのか、愛があっても、男と云うものはそうなのか。
 男でも愛が深く心が正しければそうでないのにAだけがそうなのか? 自分は、自分を思って呉れる母の志などと云うものがちっとも、Aにはないのを感じる。入ってもいらなくっとも、まあある丈いいじゃあないかと云う暖い心持と、そう使う必要はない、持って居たって居なくたって同じだと云う心持とは大きに異う。

六月二十二日

(木曜)曇
 すずし、めいせんの一重一枚では肌さむいようだ。今年の夏、田舎へ行くのはいやだな。皆で落付いて、Aは学校にでも行って勉強したい。
「二つの時代」、段々頭で形をとる。「星座」が、どの位、時代をくっきり浮上らせて居るかと思って見たが、さほど成功とも覚えず、有島氏の文才が表にあらわれすぎ、才走った文字が不必要にある為、大きい落付きにとぼし、題材が異うせいかもしれないが、「明暗」は実に大きい感じ、迫らない感じをもって来るなと思わずには居られない。「星座」にある甘たるさ、一種のペダン、小ぜわしさがない。大作はああでなければなるまい。よむものに、大きさを感じさせ、先ず、頭を、ずうっと開かせるような直感。よいものを書きたし。実際、一度去ったらもう戻らない言葉よ、我心を表して呉れ、と云いたくなる。
 図書館で、自分のような人間はしんみり勉強が出来ない。おかあさまから貰った金で、かり出しにしよう。此からも入用だから。
 芸術で、全く新たな人間なり生活なりを、自分よりそとの彼方に、築きあげると云う感が、非常にはっきり分った。時とともに来た悟りと云うべきものが。彫刻のように、明かに、作品と自己とは相対的で、自分の心と腕とで、表現して行くのだ、と云う心持、言葉で云えば、分り切った理屈だが、実感として、自分に価値ある新たな発見だ。

六月二十三日

(金曜)
「火のついた踵」、すっかりなおす。おしまいの分、ことによくなり、自分の始め頭に来た通りのものとなった。
 大、毎に書く約束。

六月二十四日

(土曜)◎
『大毎』のには、「猿」を書こうと思い、朝から上野へ行く。近頃行きつけたら、早、五重塔のわきを、ゆっくり、ゆっくり歩いて行く心持を、楽しむ余裕が出来た。十二時過まで居、林町へより、図書館のことをたのみ、かえる。国男さんがデコレーションのことにつき書くのに、自分で勉強して居られないから、私に内容をまとめて呉れと云う。自分も面白いから、一日だけ、そのためにさくことにしたが、あの人としては、それ丈、自分の知識で損をするわけだ。
 二葉亭四迷の訳をよみ、動かされることが多い。只、どうして芸術家として立つことに丈にきめられなかったか、
 サアカムスタンスに対する反抗であったとほか思えない。反抗で、文学者と云われるのをきらった程、一面から云うと、芸術家的テムペラメントが純一でなかったのではないか。

六月二十五日

(日曜)曇 晴
 A、一日、自分の研究をして居る。見てもうれしく、自分は、云い難い悦びを感じた。内容は何かわからない。
 種々なことで、自分が、女仲間からは箇性と云うものを持って、自由になって居るが、男に対しては、一体、可愛い女――つまりよく思われたい欲を持って居るのに気がついた。
 此は、今まで、気づきつつ知らなかった、と云うのが適当だろう。
 そう云うことが一般にあるのは知って居、わかって居る。が、自分が事実どの位までそうだか考え、反省しては見ない。此がさっぱり自由になると、自分はもっと落付いた、大きい人間になれるのではないか。よい自識であると思う。
 或ものをよみ青鞜前期が、性的の、人間の持つ特殊な潔癖と云うようなものに対し、強いて、平気に、センシビリティーを失おうとした形跡のあるのを知った、あわれ。今から見れば、低級なものだ、それを称揚した男も。あわれ。
 第三木曜会での仕事とし、自分は世界の女流文学(小説家)を研究することにきめた。日本でもそう云うものはない。必要だ。

六月二十六日

(月曜)不定
 上野へ行く。二時過から国男さんの処へ行き、decoration の内容を渡し、一緒に松坂屋で茶をのむ。Aの洋傘、ソックス。自分の下駄も欲しいと思って行ったのだが思ったようなのがなく驚いた。ものが揃って居ないな。

六月二十七日

(火曜)曇 雨
 Little women

六月二十八日

(水曜)雨
 朝、「猿」を始める。中頃まで。
 午後、髪をとき、銀杏返しにでも結って見ようかなどと笑って居る処へ、よさのさんの紹介で、タイピストで、ロシアの飢饉救済有志婦人会の人が来る。賛助員になって呉れ、と云われ。受ける。只、よさのさんの名刺には代人にお会い下さいとあり、話をきけば、私と同じように、すすめられ、よいでしょう、と云われた位の関係であるらしい。「代人」は、そう云う位のいきさつとは思われず。
 夜、Aは、啓明会に呼ばれ、珍らしく夕餐留守。仕事があるので林町へ行く気にもならなかった。
 Little women しまい。クレバレー、ダンと云うもの、芸術的価値はさほどないが、十五六七の女の子のよむのには(普通の意味で)よいものとされよう。Humorous な、アメリカ特有の明るい調子は、きっと、英国のと比べたら、著しい差だろう。

六月二十九日

(木曜)曇
 朝、「猿」を終までとにかく一通り行く。午後ジョン・ハリファックス、ジェントルマンをよみ始む。「リットル・ウーメン」より、古い丈(?)活々して居ない。今の若い男の子や女の子が、此を真個に面白がってよむだろうか。Books for young と云うようなものをよむと、よい、ハアティーな話を、若い十四五六の者によませる為に書きたい、と思う。肩をこらさず、自由に活々と、彼等の心になって。いつか、二十年! も経ったら書けるか?
 其中に私は自分の Humor や冒険心やイタズラを皆満足させるのだ。

六月三十日

(金曜)晴 四〇〇字三枚 ロシアの Demonstrations 朝日、新居格
 暑い暑い日。朝一寸本をよみ、払いの金を渡してから、林町へ行く。「猿」や「火のついた踵」を母によんで貰う。
 おゆきが来、ぺちゃぺちゃと喋り、うるさくつまらないのでさっさとかえって来てしまった。
 二つとも、面白いよいと云われたのでうれし。

七月一日

(土曜)明日九時から能、細川家舞台(麹町富士見町五ノ七)
 朝、うんと早く起き、「猿」をすっかり書きなおして、『大毎』の人が来てもすぐ出せるようにする。午後から、おばあさま来。何だか蒼い疲れたような顔をして居られるので心配し直ぐ休ませてあげた。眠り、五時頃Aがかえるまで熟睡される。時々あまりよく眠られるので、気味がわるくなり、自分はそっと襖をあけては覗いた。
 泊りたそうなので、林町から、蚊帳を持って来て貰う。
 朝早いのに、せわしく、疲れて床につく。

七月二日

(日曜)
 朝、目をさますとすぐ、祖母、青山の墓地へ行こうと云い出される。自分は墓参りは大きらい。あの傾き落ちた墓石と、映り繁った樹木を見ると、いやな臭いが鼻をつくような心持になる。然し誰か行かないではすまされない。お供をする。祖母にとっては、いつ行きじまいとなるか判らないと云う心持から。子供のように、私の顔を見、行きたい処へ行ってしまうと、今度は帰りたい! まつをつけて、午前中に御送りする。夕刻、ロシアキキン救済の荒木と云う女の人が来、発起人となって呉れ、外に人がなくて困るから、と云って来る。ことわる。然し、どうぞと云う。賛助すると云った以上、少しの迷惑は仕方ないと思って、若し外にないならと受けることに話した。が、あとからAが、是非断った方がよいと云う。勿論仕事の質、その純粋さから、私がああ云うことに先棒になるのはよろしくない。一旦、外に人がないと云う言葉に侠気を出した自分も、何と云っても単純な世間知らずだな、と思い、他の人々をメンションして、断の速達を出した。

七月三日

(月曜)雨
 今日は、東伏見宮の御葬儀。A休み。一日うちに居る。自分は、「火のついた踵」をすっかり改めて、中公に送り、家のことを書かなければならないと思って居たが、足がはれ、心持わるく何も出来ず。
 明治三十年の『太陽』の増刊、紅葉の「二人女房」、「当世書生気質」、「浮雲」等をよみ、驚く。たった二十年位の間に文学の進歩し、自由になったことと云ったら、昔の人は、驚くほかなかろう。ああ云うものを書いて居た坪内先生が、あの坪内先生だとは思えない―― 私共位の年の人間には此が、只二十年と云う時間的な距離を超え、まるで父母未生以前と思われるのだ。斯様な一般の程度から、今日まで時代が進んで来たことを見考えると、人間のアダプトして行く力、進展して行く心の大きさを思わずには居られない。

七月四日

(火曜)雨
 朝「火のついた踵」をなおして居ると、原城氏来。ロシアの饑(ママ)の仕事につき、すっかりまとまったと云って来られ、今更引けず、受ける。
 此につき思ったことは、自分は、Aの云うなりになりすぎると云うことである。つまり、自分の信念と云うものが結婚前ほど、はっきりせず、自信を以て独立独行せず、Aの、常識(下級の)に伴って行動しすぎると云うのである。所謂損をしない世間の渡り方をしようとしすぎる。自分がちやほやされる丈はして、自分がそのために払うべき税はぬけようと云う心持。実に考えなければならないことと思う。
 良人には気を許しすぎる。
 自分はどう考えるか? 先ず此をはっきり考えなければいけない。人間が正反対の場合、一処に生活出来るか。どこでつながって居るのか。
 夕刻小林さん、わざわざ別府を持って来て呉れる。

七月五日

(水曜)曇
 朝、中公に送る。
 里見※(「弓+享」、第3水準1-84-22)氏の「乙上主義」をよんで感あり。種々な方面で人間はああなり勝なものだ。

七月六日

(木曜)晴
 あつし、あつし、図書館へ行こうとして家を出、林町へ行ってしまった。音楽がききたくて。
 母、二三日前、脳貧血で卒倒しかけた由、衰えつかれたような顔をして居られた。いろいろの話。自分が、岡目八目と云うものの真価を、あまり考えなさすぎたことをつくづく思う。つまり、それを超える価値高いものまで、自惚で、自分の眼に間違いはないと思ったこと。勿論、その心に対する先方の真価が、あればよい。が、なかったとき、又ないのをそろそろ自分で知り出すとき、自分の有頂天になって居たことが反省される。勿論、一人の人間として、或者の価値がないことはわるいが、あると思い込んだ自分も、少くともその時は、あまり広い心と、深い眼を持って居たとも云えないことになる。純粋さと、人よしと、ひとりよがりとの大きな差、又その混同し易いところ。最上のものとつとめて中の下になる人生。

七月七日

(金曜)晴 風強
 鼻っぱしの強いのと、精神の強いのとは違う。ほんとうの精神の大きさ、つよさ、明るさで、人間は発育して行く、人生をかえることも出来る。けれども、只鼻っぱしの強いだけでは、その鼻が折れたとき、一層強く深く現状にはまり込む。
 真個に自由な、独立な人間としての生活に入るように、自分は静に、完全に準備しよう。深いこと一つ。――相手とのいちゃつきがすむと、それがないと、現在に、心的な不満、最善でない、と云う反省が湧く。――相手は只、セックスの相手として丈、執着するのではないか、多くの人間が、こびりつくもち
 勉強をして評論でも書けるようにしよう。

七月八日

(土曜)不定
 北町の大掃除の日。午前中にすます。
 深く生活のことを考える。自分が只一人の女として丈生きて行って満足なら、或は、最小限で、彼に満足して居られるかもしれない。けれども、又、静かな、思想を湧きたたせるもののない境遇に入るのもいやだ。自分で、自分の食って行く位とれないものか。
 今度、生活を改めることがあれば、自分は決して感激だけではしない。Aに対して見、自分は、実際の生活が、如何に、只管の感激ばかりでは行かないか、はっきり判った。情にまけるのは美しい。けれども、負ける場合、どうかを考える丈の落付きは入用る。その意味で、自分は、実にヤワであったのだ。
 森鴎外氏、危篤との新聞。実に思う。思う。人間の一生は、すぐ立つ。やれる力にも限りがあろう。然し、それ故にこそやれる丈はやって見ずには死なれない。
 自分は、坪内先生に、細かく書き、実際問題として、相談しよう。心にたまって居ると、書くものも書けないから。
 親子の間は必要な場合、真個に対等な人と人とになり得る。男と女、而も一旦肉体がつながった男と女との間に生れる、奇妙なきずな。その日その日とすんで行く、すまされて行く、甘さ。

七月九日

(日曜)不定
 午後からききん救済会の相談があって大同へ行く。やはりあの位知識階級の人が集ってもなかなからちがあかず、とにかくまとめ、自分の仕事はわかって、四時かえる。
 山川さんが、疲れ切ったようにして居、自分は心配になった。
 会って見ると、書かれたものにあるような傾きすぎたところが少く、落ち切り、実に心持よい人だ。女らしい見栄、すまし、がちっともなく、どんな智識階級に入ってもおとりが見えないとともにどんな女事務員のような中に入っても、他処ものらしく見えない。只、服装などではない、人間味だ、その人の。
 かなり体は弱り、もうそう長くも生きられない由。おしいことと思う。若し彼女に何事かあれば、その後をうけ、あれ丈しっかりした足場で、とにかく、一部の重鎮となる女の人は居ないだろう。

七月十日

(月曜)不定
 図書館に行く。午後二時頃まで。あまり気ものらず、借りたい本はなく、暑いので早く切りあげて来る。
「ジャン・クリストフ」一巻終、
「二つの時代」につき考える。

七月十一日

(火曜)曇
 歯痛――。一年ぶりの不愉快。

七月十二日

(水曜)曇
 晴て居るが夕刻は珍らしい涼しさだ。休みが近づいたのでAも何処やらゆっくりして居る。縁側に腰をかけ、空を見て居たら、久しぶりで散歩でもしたい心持になった。Aも気がある。早速、髪をなおし、三月ぶり位で銀座に出かけた。
 盆で、仏壇を飾る種々なものを売る夜店で、一杯になって居る。妙に陰気な植物性の匂いが町に溢れて居る。古本やでかな垣魯文や涙香の二十年代のものを見つける。参考品として買う。涙香の洋装、赤い背の本を見たら、自分の子供のときを思い出した。三畳の本棚の、『新小説』や『文芸倶楽部』と混ってあんな本を一つ二つ見かけたものだ。
 星で冷たいものを飲んで居ると菱田夫妻に会う。主人の「え? え?」と言葉の間に挾む調子が有江によく似て居る。
 或程度の見識、処世術、精力をもって、郷に入っては郷の生活をする成功者の一人。夫人もなかなかあんかんとはして居ない人らしい。

七月十三日

(木曜)晴
 朝食を終ったばかりの処へ、英男来。やっと今日で試験がすんだよし。Aの旅行が定ったのでその仕度を備えに三越へ行かなければならないと思って居たので、幸、十一時頃から出かける。なかなか暑い日だ。買物をし、食事をし、かえりに丸善によって、小林さんへの祝、カフスボタンを買う。
 帰ると、ひどく足の工合、わるく、鉱泉をつけると、まるでたまらなく痛い。まつは歯が痛いと云って、しおれて居る。

七月十四日

(金曜)曇
「二つの時代」の第一部は、『大毎』に出そうと思ったのだが、どうもすっかりまとまる迄――少くとも一部分は――何処にも出さない方がよいと云う気になって来た。出せば何とか批評が来る。あとが不純になりはしまいかと云う心持がして来たのである。『大毎』と思ったのも一つは、始めにわいわいされない為と云う下心もあったのだが。
 異性とともにある心の弾み。
 自分は欧州旅行のことも考える。賑やかに、所謂楽しい旅行は男づれでなければ出来まいが、静かな心で芸術や生活を味って来ようなら、女の、気心の合った人とでなければ駄目ではないだろうか。

七月十五日

(土曜)晴
 朝起ると、足の工合、まるで異常、筋が一つつれたように感じる。大阪でペストがあるのを知って居るのが気が気でなく、すぐ思い立って順天堂に行く。
 林町に半日居、繃帯で歩けないから、Aに来て呉れないかときいたら来ないと云う。俥でかえる。

七月十六日

(日曜)晴
 此頃、自分の心には、種々の苦悶がある。自分の日常生活について。
一、近頃の自分の生活は、半ば放棄、半ばあきらめの生活ではないか。真の意味に於ける結婚生活は此那ものであろうか。
二、自分の生活批判の標準が――自己に対する判断が、実に不足であること。つまり、厳格に、人対人の真価の問題にのみ目を止め、理想から、容赦せず彼と自分とを批判するか、又、世間並に、どうせ世の中は思うようになるものではない。悪い方から見ればよい、と納って行くか、どっちと云うことが、はっきり、明瞭でないのだ。故に反省は発作のように起り、苦しむ。実に自分は決定すべき必要を感じる。
三、然し、境遇を操つることによって、自分は決して今より楽な場所を得ようとはしない。只、明らかな意識をもって、よいと信ずること丈は出来る自由を持ちたいのだ。いつも、人間の愚さ、卑少だけを思い知って居る生活だけではなく。
 人間が、情実にからまると思い切ったことは出来ないで困る。毎日顔を合わせては互に弱くなる人間の通性。
 凡人万歳の世の中なり。
 男女の間のことが、純正に行かないのは、男女の間のみに在る不思議な牽引、どんな男とでも女の生きられる獣性とでも云うか――が決断を鈍らせ、申訳をさせようとして二義的なものは、頂上にあげようとする。
 人として尊敬や希望を失い、此本能だけでつながって居るのは醜の醜、又可憐なる人間の極かもしれない。

七月十七日

(月曜)晴
 夕方から林町で佐藤功一氏も一緒に話し、話し時を忘れて家にかえったのは、もう二時頃であった。
 Aが、いろいろな場所で楽しめず、活々と話にも入れないのは、それ丈の内容であると云うことをつくづく知った。話すたねがない。故につまらない、故にけなす。

七月十八日

(火曜)晴
 まつを林町にやる。
 先、自分は人間が、物質的独立をすべきより以上のことがあると信じて居た。つまり、自分が芸術家である以上、よい作品を作るなら、どんな人の生活的負担となって居ても恥るべきではない、と思って居たのだ。純粋に、人間の生活が第一義を目ざす時代になれば、それで何の不快もなかろう。然し、今日の時代、自分は、物質的の自立は、つまり魂、理想の自立と一致することを感じ始めたのだ。今日の社会ではそうでなければ、自由に我心で生活して行くことは出来ない。一方から見れば、浅間しいことだ。が、事実である。Aのような人間に対しては特に其点を強く感じる。
 日常の生活を、自分の信ずる方向、意志で営んで居ないと不安で、仕事の出来ないのは自分が我ままで弱小だと云うことか?
 自分の見ようとして居た或人生の実相が、事実は認め得たと思った真相とは遙に異ったものである場合、自分が見損ったと云うことは、見そこなう自分の愚、短見を自覚したと云うことだ。非難、失望は、反省となって自分にも反って来る。けれども、自分はその落切った処から、新たな道を踏出せる。それを、平気な、重い、変化し得ない仲間の重りで引止められる時、自分は、更によき一歩のために、その鎖を一撃、苦しくとも断たないではいけないのではあるまいか。
 今の自分は、目覚め、振い立とうとするのに、大きな、ドシンとした角石に足をつながれて居るような心持だ。鎖を切ったら、その重い、光、活力のない石はどうなるか、ドブーンと、人間界、意識の底に、落ち沈んでしまうのではないか。ダンテの、眼や口まで泥沼に陥った人間を見るような心持がする。苦しく、堪え難い。最もわるいことは、よって此苦しみの来る原因は、彼が、まるで此那ことは思いもかけないと云うことだ。
○ 愛する者は、自分の愛する者の心に入り切ろうとする。
  然し、それがどうしても、不可能であると、――純粋の価値として、本能として――わかったとき。
○ 一口に美徳とする忍耐も、考えるべき多くの点を持って居ると思う。っと現状を保ち、我も他も生地を出して行かないのが真の忍耐か。
  よいと思う方へ敢然と進み、それに伴うどんな苦痛も堪えて行くのが真の忍耐か。
  忍耐の積・消極、女、苦に堪えない者は、前者を奉仕とか何とか云って美しげに装うだろう。
○ 家庭的な愛情、これさえあれば万事よくなると云う幻想、自分は幾度此と、本質の他の要求、との間に戦いを経験して居るだろう。
○ 結婚生活の第一の要件は夫妻が、同じ量に――殆ど――人生を愛せるか否かと云うことにある。
○ 彼のまるで知らない顔。意識か無意識か。少くとも自分には無邪気とは思えない。無邪気なら私の此心持を察しない筈はない。「今に、又忘れなおる。自分は自分のやる丈をする」と納って居るのか。
○ 言葉にならず、潜精力となって来る斯様な心持は恐ろしいものだ。
○ 苦しい思いに圧せられ、心は、ぴったり外界と交渉を保つ、水門の扉をしめたようになった。
 朝夕、ぷたぷたプタプタと板に当る内奥の水の揺音をきく。底から、自分は、静かに、気長く、一層苦しさは増し乍ら、或力の湧き出て来るのを覚えた。……。……。やがて、水は堰を切ろう。外に、晴やかな自然、草や木、日光、自分が五年前見たものと同じ自然が在ることは解った。一群の水が、頭を揃え、どっと水門を越えた時! 思っても心が軽々となる。深い、夢のような、苦しい一の経験から飛出したことをどんなに快く感じるか、それも、満ちて来る力の自覚とともに、わかった。

七月二十一日

(金曜)
 二十日夜、まつの留守。一寸したことから話が出、自分は到頭、自分の心持をAに話した。ちっとも、深く心を打たれ、成程自分はそうだったかと思うことがない。嘲笑し、私の真しな話は同情がないからシンセリティーがないと云い、話しても駄目だ。どうにでもしろ、と云う。自分は、Aが、浅薄で、人間の真を見きわめようとしないのには驚いた。自分が、自分は人間としての責任を考え感じるから此のように苦しむのだと云えば、Aは、エレメンタリーのことが出来なくてどうして根本のことが出来ると、妻としての責任を、強いようとする。何と云うことだ。
 問題は、我々が性の差のない二人の女性として、人格の点から、合致して共棲し得るか得ないかと云うことになる。ただ性のきずなばかりで丈つながって居るのなんぞ。Aが、共に問題を感じ共に苦しみ解決しようとせず、すてばちで人をおびえさせ、おく病にさせようとする!

七月二十二日

(土曜)
 A、今日午後八時、大阪に立つ。自分は木曜の夜、淋しい、澄んだ心持で林町に来た。Aは夕食をすませると、大島さんのところへ行き、家にはまつ一人、何だか自分は二度と帰らないと云うに近い心持で、長い間の伴侶であるトランクと来たのである。
 夜、床に入ったら、泣けて泣けて仕方がなかった。淋しい。切り離れた心持。その創面を風が吹くと云うようなのだ。
 立つ前に、ぜひ一目会いたく、足の工合のわるいのを無理に青山へ行く。「わざわざ来たの?」と云われ、自分は云うに言葉が見つからなかった。私が行かなければ、そのまま立つつもりだったのだろうか。

七月二十三日

(日曜)
 午後一時の急行で、母上、スエ子、英男、安積に行くと云い大さわぎ。父上と二人で大きな行李などを下手にからげた。あとはさっぱり、父上、夕飯に来られ、つめたい水があったと云っては、おっかさんが居たらよろこぶだろうと云われ、優しさに羨しい心持がした。
「ジャン・クリストフ」をよむ。

七月二十四日

(月曜)
 順天堂行き。国男さん、明日オートバイで鎌倉に行くと云い、なおさせたのを試運転に父上を送る。午頃かえり、工合わるいと大きにこぼす。
 自分は、Aとの生活、感情に漠然とした曖昧さを持つとともに此家の、雑多な、思想のない生活にもあきたらない。心の遣場のない不安。
 早く足がなおればよい。

七月二十五日

(火曜)
 九時近くに坪内先生が来て下さる。種々話し、やっぱり自分の思うように、当分別々に居、私はもっと世の中へ出て行くことを必要と認めて下さる。
 もっと苦しむこと、もっと他を見ること、打たれること。自分は先ず手始めにあの girls でも、小説を書く傍ら、或はそれ前に訳して見よう。

七月二十六日

(水曜)
 生活の二重の潮、
 底潮は自分の、今、迷い苦しむ、切れ目のない重さだ。表面の或厚さだけ、外界に反射し、影を浮せ、輝き流れる。
 信念の生活と、幸福などと云うものが決して一致しないことを知って、一方に思い切れない弱さ。実に人間の歴代の弱さ。
 自分は、近頃、本当の人間の生活に起るリリッシスを感じる。Aが、一寸親切にして呉れると、それが、しんからうれしく、うれしい丈、なぜ、大局が違うかと一層苦しむ。

七月二十七日

(木曜)◎

七月二十八日

(金曜)
 近頃の心の苦しさ。限りなし。Aは、可愛く、いとしく、恋しく、私の女の心とは切っても切れずつながって居る。彼が出る前は、手紙なんか書かないと云って行き乍ら毎日一つずつ書いて呉れるのを見ると、胸にせまり、断ち難いきずなを覚える。自分はどうしたらよいのか。
 全く、深く迷いの裡に入る。
 心の苦しさに足の不自由など何でもなし。

七月二十九日

(土曜)非常の暑さ
 順天堂の医員で一人いやな、のろのろとして親切でない男あり。先ず、一服し、さもものうそうに指の先で見る。おそくなりそうなので心配して、事ム所に(ママ)き、河崎さんに会って始めてよさのさんが、まるで利己的で駄目なのを知る。石本さん[#加藤シヅエ]も熱中し、始めてだのにあちこち、講演会に勧誘に行くと云う。斯う云う仕事をすると、人の心がわかり、実に感に打たれる。
 夜十時頃まで大同に居て仕事をする。
 Aが、奈良から、鹿のエハがきを送ってよこし、それはよいが、此那平和なものなら、足も痛くならないだろうと云って来る。何ということか!
 Aが居ないので安心して心持よく仕事が出来るにはうれしく、又淋しい。

七月三十日

(日曜)あつし。
 午前十一時頃より関先生の宿に行く。河崎氏も来る。夕方まで種々話す。矢張り、四五年共にあった先生は、同じ今日も先生である。性格的にちっとも違って居ない。
 夜、封筒かき。実に一つの大きな事をまとめるには隠れた力の献身が大切だ。あとのしめくくり、大体の節を立てるもの。皆が一寸手をかけ、大体楽をしようとしてはちっとも何もまとまるものではない。
 父、カーターの魔術に祖母をつれて行かれる。会田さんは青山まで、結婚のことをききに行く。いつまでもああやって落付く先をさがして居る憐れな人。

七月三十一日

(月曜)
 一日ロシアの仕事をする。

八月一日

(火曜)
 西村さんが上京したと云う手紙がつき、早速、宿屋へ電話をかける。留守、夜、先方からかかり、明日会う約束をする。

八月二日

(水曜)
 西村氏来訪。話しの間、知らず知らず自分は近頃の苦痛を話してしまった。彼は、よい理解を持って呉れられる。北海道にでも行き、時や彼を忘れて仕事をしたい心持を話す。
 自分の心持が、ずうっと、激しい変化を生じて居るのに、Aが或程度までは予想し、然し、実際は何も知らずに旅行して居るのを考えると、いやな、苦しく情けない心持がする。ちっとも憎いのではなく、殉情的に考えれば堪らない心の決断がいる。然し、自分は何のために生れたか、
 芽生の時からあった無理は、樹木が、大木となればなるほど大きく明かなものとならずには居まい。
 私が十に異ったのに、A、貴方は何故三とまで転身して呉れなかったか、此処に涙がある。けれども、一方から考えると我心、なぜお前は自分の恋によって、私の生活に波濤を起したか? 苔は土の上に生え、土の上に枯れるべきものだ。雲は空に湧き消える運命を持ったものだ。

八月三日

(木曜)
 本性と云うものが、人格の根に横り、いざとなった時、現れる。
 自分の自立自由でなければすまない本性が何故ときどき身を挺して、愛する者に仕えようとする殊勝さをあらわすのか、その心持に溺れ、ひとの生活を、一時の殉情のために、乱すことの罪。
 木が、適当の土、気温の場所でなければ育たないように、人間がその本性で育つべき処をちゃんと得、守って行くのが正しい生活ではないか。

八月五日

(土曜)
 夕方ポスターを父上に十枚書いていただく。俊さんも来、手伝って呉れる。
 午後から、あついのに絵ハガキを整理しに出かけた使、出来ないと云う。商売人の無責任な違約を何とも思わない根性には愛素もつきる。すっかり支配され、ために一日、落付かない、いやな徒費にしなければならないのだ。

八月六日

(日曜)晴 九十五(温度)
 非常な暑気。車にのって居ても汗がだくだくと流れ、午後二時頃は、人通りが絶えて居る程であった。朝、大同に行き葉書を送る。
 職業婦人の、悲惨な一面を、鈴木氏の話から、はっきり知るように感じた。男のつまらない野心を痛感すること。すれて、信頼出来なくなること。つまらないはんぱ仕事をあずけられ、一般にしっかりした目覚のないこと等。まして、例の病気の時、辛いのを堪えて働かなければならない苦痛は、当然どうにかなされるべきものではないか。
 父、午後一時の急行で安積に行かれる。さぞさぞ汽車の中はあついことだろう。
 ロマン・ローランのベートウベンの伝を一寸よむ。夜、二時過まで国男さんと、種々話す。男らしい、さっぱり自立したところが出来、たのもしい心持がする。

八月七日

(月曜)九十六(温度)
 黙って居ようとしても心に満ちると、自分はAのことを云わずには居られない。云うと、悪い方面ばかりを摘発するような結果になる。
 嘗て、全力をあげて守り、弁解し、認めようとしたものを、放棄せざるを得なくなった悲痛。自分はもう一口も、Aの不完全さについては云うまい。一言も云うまい。それで自分の心の辛さは一分も減じず、一方、云わずに居られないほど絶えず心に思い、絶えず愛して居ることを明すだけだ。ああわが愛、わが痴恋?
 大杉栄を刺した神近市子氏の心持を理解することが出来る。可愛ゆさは可愛ゆく、しかもその心を、自分の意に満ちる丈握り、或は信じられない苦しさから、一素、一思いに、と剣を振う心持。その一突で、宇宙が動顛し、愛するものの真の面影、自分が切望し、描き、身も心もその祈願のためにやせるほどの、憧れの面影のままを、見ることは出来ないか、出来るのではないだろうか、と云う思いつめた心持、書いて見たい。野枝さんの、奪えるものなら奪って見よと、わざと三人並んで眠った心持もわかる。
 あわれその二人の真実な女。

八月八日

(火曜)晴
 さすが三秋の風が吹く。朝九時半までに京橋に行き、石本夫人とともに一時頃市庁の後藤氏に会う。自分の想像では、どちらかと云うと、赧顔の、強い、明快な平民的な男だろうと思って居た。が、入って来た蒼白い、力のない老人を見ると、髭に見覚えはあっても、陰性なよろしくない感じを受けた。自分では駄目だ、渋沢に行けと云って、いろいろ方針を授けて呉れる。不親切ではない。ただ、二十分も居てかえるのに左様ならと云って頭を下げないのにはおどろいた。ああ云う□□(二字不明)何々になるものなのか。
 石本夫人は、おじいさんに巻かれたと云って、私が正面から感心するのは、可笑しいとしきりに笑われる。とにかく金を集めることが主で、それの蔓を教えて呉れるのは、悪意と冷淡では出来まい。その蔓のたぐり方を、成程と、素直に感服するのを、スマートでないと笑うところに、自分との人の性格の差が存する。
 Aは、あしたか明後日かえるだろう。心苦し。実に、N氏が心配して呉れられるのはよいが、それが又自分としてはあまり快くないようなものになっては困る。高垣氏が、先、ニューヨークで、自分は同情なんかされるのはきらいと云われたその心持。今わかる。

八月十日

(木曜)
 A思いがけずに十時過にかえる。日にやけて。顔を見ると苦しく、笑うにも笑われず、泣くにも泣けない心持がした。
 午後西村氏来訪。夕飯まで一緒にし、あと八畳でスタンドだけで話して居るうちに、問題は二人の間のことになった。あまり緊張し苦しいので、二人は(NとA)散歩してかえると云って出かける。A十一時頃帰宅。

八月十一日

(金曜)
 午前中まつケイオーに行き、午後夕飯過林町へ行く。

八月十二日

(土曜)
 順天堂行。唇に妙なおでき出来、不快。

八月十三日

(日曜)
 夜、食堂に坐って居ると、鳴く虫の音がいかにも秋めいて来た。夜はしずかな涼風も流れる。午後、N氏、手紙を見たと云って来られる。彼は、自分の不徹底を見ぬいて居る。手紙を見、二度三度、斯う云うことを繰かえして居るうちに年を取ってしまう人かな、と思ったと云う言葉には思わず涙を落した。彼の従ともなり切れず、又よろしくない境遇と知ってかえられない自分は、何と云う弱者か、弱者か! 苦しみ、わが心を圧し切る。
 若し再び生きられるものなら、自分は悦んで死ぬだろう。新しい芽生のような人生を新たに踏み出すだろう。
 Aが病気ででも死んで呉れたら。
 苦しさにつまり、一切を滅すると云う気で死ぬ者の心持がよくわかる。
 どれも、最後の決定をして呉れるものではなし。
 夜、Aが、食事に来、淋しいから帰れと云う。

八月十八日

(金曜)
 夜、十一時の夜行で、那須に行くことに決定する。夕食後、トランクの仕度をする為に林町に行く。父上はおひろ様の送別でお目にかかれまいと思って居るとよい塩梅に帰って来られた。あまり急な思い立ちなので驚いて居られる。
 金を下さる。
 列車の中は相当にこんで居、傍に、六七人団(ママ)で、東山辺へ行くらしい男達が居た。中に一人六十近い、丸い、頭をすった鼻の丸いおどけた男が居、口かずは少くしきりに子供らしく悪戯いたずらをする。眠って居る仲間に紙きれを結びつけたり、種々なことをして。
 黒磯では三時半つき。まだ真暗な中を、自動車で、那珂川の手前まで来、そこから、つぎの自動車たてばまで三四丁ひどい山坂を歩かせられる。客の配分がわるいとか何とかで一時間もまち、やっと温泉につく。
 せまい、坂の多い、道の真中に古びた湯気の立つ浴場のある路を、ぐうっと自動車がのぼるには驚いた。第一流と云っても、小松屋の乱雑さが驚かれた。一杯で部屋がない。暫く待って呉れと云って、帳場のわきに置かれる。だんだん時が経つままに、自分は、辛棒がならなくなった。他の客と、合部屋か何かで、気がねをしいしい二週間も居るのでは、これ丈で病気になってしまう。仕方がないから安積にでも行きだけに行こうかときめ、番頭に話すと、今までのどうにかなる、と云う態度は、どうにかしよう、となり、一先ず番頭の家の茶の間に入って呉れと云う。明朝、小林区署の官舎で、かりてあるのがあく、そこへ行けば不自由でも、湯はあり、部屋は八畳でゆっくりして居るから、と云うのである。行って見ると、心持のよい処なのでそうときめ、かなめ焼とか云うやきもの土産を売って居る店の奥の茶の間につれて行かれる。がっかりし、絶えず、ひとに見て居られ、落付かず、疲れ、眠り不足なのとで、泣きたいような心持がした。夜はのみにせめられ、電気はつけっぱなしだし、ひどいことなりけり。

八月二十日

(日曜)
 何でも話す。それは、非常なことを思って居ない証(ママ)だ。此言葉は真実であると思う。斯うやってAと二人で温泉に来、しずかなところで、二人きりで居るのは、いかほど幸福に見え、彼は事実幸福であり、又私も或程度の幸福はいなめない。しかし心の底にある自分の深い考、或変化に赴こうとする潜んだ力は、ちゃんと、沈黙のうちに発育して行く。
 Aの細かい、サウンドでない、ちっとも精神のない生活は、自分に淋しい心を抱かせる。

八月二十一日

(月曜)晴 驟雨
 朝六時頃目を覚した。此辺で一ついけないことは、朝ゆっくりと眠って居られず、うんと早く、他とのつり合のために起きなければならないことだ。なんとなくむっつりして居ると、Aが大丸温泉へ行くと云う。ひとりで行くから待って居ないかと云い、自分も一寸その心持になったが、長い退屈な時を思うと独居する気にもなれず、急について行く。なかなか難儀だった。やっとつき、一服すると、今度は噴火口まで延そうと云う。却って、大丸まで二里の山路を歩いたので行けた。然し、此方の坂路から、遠く長く、彼方の山の腹を縫う細道を見たらうんざりした。
 硫黄のまっ黄色の鮮やかなこと、それが周囲の緑色の対照で何と云う美しさに見えるか。あんな純粋な色を絵筆につけられたら、一はけで、目もさめるようなトーンが出るだろう。噴火口からは、地うなりを立て、もうもうと瓦斯をはき、黄色いところへ、二条、三条、血のような赤色を流した硫黄があふれ出る。見て居ると、何だか人間的で、苦痛、と云うような感をつよくうけた。かえり路には、夕立に会い、山路でころび、珍らしい経験をした。山路が上りと下りとではまるで違った処のように見えまして雨でも降ると一帯の様子がすっかり違うのは面白い。

八月二十二日

(火曜)
 なかなか涼しく、ひとえ一枚では肌さむい位。名所案内のようなものに実朝の歌をよみ愛を覚えた。よい歌のよみてであった。
 那須にのぼり面白く思ったのは、あんな山としてはすごい、恐ろしい山が一向凄しい感を与えないことだ。すっかりコムマアシャライズして居るからではないか。
 むかし、あのひどいつづら折りなす山の路をぬけて往来した旅人こそ、あの山の驚異、すさまじさ、自然に対する恐れに打たれたのではないか。つかれが出、体も足も動かせないようだ。うちに居、「ジャン・クリストフ」をよむ。教えられること多し、自分が肉体的にも丈夫なのが、すべて凡庸の根源ではないかとさえ思う。あったかい寝床につっこんで居ようとする中流人の根性に対する作者の強い言葉がむねを打った。昼頃何だか三味線の音がする。見ると、十二三の男の子が弾きうたって来るのだ。あんなのも、よい境遇と教育で、ほんとうの芸人になれるのにと思い、妙な心持がした。

八月二十三日

(水曜)雨
 いかにも山里の初秋の雨と云う風情、大きい雨滴が落ちるのではなく一帯に濃いもやがこめ、やがて音もない雨となる。
 Aと温泉などに居る退屈さが、しみじみと身にこたえた。独善的だから、隣との交渉はなく、さりとて、自分は、金の勘定をしたり、同じ見物案内のようなものを繰返して見たり、ろくに話もはずまない。夏中したいと思って居た仕事が出来なかった恩をきせられ、なまけのエキスキュースを与えるか、と思うと、実にいやな心持がする。あんなに本をよむことのきらいな学者が何処の国にあるか。二度と此那旅行はしたくなし。只、毎日毎日と流れる時間があるばかり、快活な、心の満ちた生活は、何処にもありはしないではないか、Aは、生活の真実な欲がないのだ。静に、能うべくんば小さい手柄位で、じっと生存して居たいのだ。

八月二十四日

(木曜)雨
 昨日終日降りくらし、今朝も雨戸をしめる程に降りしきる。
 笹森の端から、しぶきが部屋に入る。かけいを流れる湯の音、かおり。いかにも山の湯の雨なり。
 戸外に出られないと云うばかりでなく、Aと毎日鼻をつき合わせて居る生活にたまらなくなって来た。早くかえり、母上とも相談し、のびのびと生活するようにしたい。見えないたがが四方から自分の体も心もせばめつけるように感じる。
 内から湧き出したいものがうごめくのに、どうにも身うごきが出来ないと云う心持。
 北海道へ行くことのよしあしは、考えを要する。N氏の同情や理解はうれしく感謝するが、彼の家庭に、何かいざこざの種をまきはしないか。
 他人の苦しみの原因となるのはいやだ。此方にそれほどの絶対的必要がない場合はまして。

八月二十七日

(日曜)曇
 部屋が別館の方で明いたからそちらへ移って呉れないかと云って来る。丁度、飯後、Aは明日どうしてもかえると云い、自分はもう少し居たいと云って居た処なので、Aは妙に目角を立て「此部屋だけの金を払って居るんだから動く必要はない。どうせ後に人が入るのだから」といきまき、恥しい心持がした。先方は、あまりはなれ、雨ふりや何かで不便なので、段々まとめ、こちらにもよい部屋に入るようにと云う心持なのだ。独りにでもなれば町中もよかろうからと見に行く。四階のはじ。湯殿まで遠くてこまりそうだが部屋のようすはまるで異う。町をぬけ、見晴しの台で、後の曖昧屋の女がキーキーふざけて居る声をきき乍ら話す。自分はAが「休中、すっかり旅行で費してしまう。自分の為に来たのでもないから」と云ったのにすっかり立腹した。「自分の為でなくていやなら、すぐおかえりになるといいわ。始めから来て下さらなくってよかったのだ」私独りで留ろうと云ってもAはそれも不安らしい。もう決してAと一緒に旅行はしまい。ゆっくり風景でも、気分でも味いたのしんで旅をすることは出来ないのだ。いやだから自分も二十八日に立って安積へ行くことにきめた。朗らかにひとも自分も置けない人。

八月二十八日

(月曜)曇
 よい塩梅に日が出て居る。黒磯の停車場で、Aは上り、自分は下りで、安積に来る。那須の十日間、私の心は一日も晴やかで、のびのびとして居なかった。どうかして、新鮮な、快い雰囲気にふれたいと云う希望が、まるで強い、スエ子や英男の溌溂とした姿が、自分に云い難い期待を感じさせた。子供の無邪気な大元気ででもなければ、どうしたって、此心全体を包んだ苦しい憂鬱がはれるものではない。
 二時間の汽車、
 皆、思いがけないのですっかりよろこんで呉れた。
 那須の風景を見た眼で来ると、此処の景色の平凡なのに心付き驚いた。那須の篠原に満ち流れて来る濃い霧、火山の色、灌木のスロープ。リバーサイドパークのような並木道、此処は、あまり開拓され、原始的でないからいけないのだ。

八月二十九日

(火曜)曇
 スエ子、関の姪、英男、自分と四人で、マリぶつけをしたり、おっかけっこをしたり、キーキーとさわぐ。少しは心が軽くなるかと思って。
 然し、やはり、寂しさも、苦しさも、じっと心の底にしずめ、よいものをよみ書く、恢復には及ばない。仕事をしたい心しきりなり。
 十月の日々に何を書こうか。
 仕事をすることで、自分の魂は力をつけられ輝きをますのだと思う。
 スエ子英男、思ったほどよくなし、
 苦情ばかり云い、快活で、動的でなく、スエ子ヒステリーのようなり。もっと母が理智的に健康でなければいけない。
 田舎の者に、一段上から対す母の態度。五十ほどの繭のこと、米の価のこと、畑のこと、種々。

八月三十日

(水曜)夕立
 なかなかの暑気、心淋し、寂し。少し詩のようなものを書く。
 夜、母と臥床の中で種々話す。
 参らないものは何と云う強いことか、母などには、親が子の身の上を思うように、自分の為にならず、立派でないとわかり乍ら男の身の上を思いやり泣く女の心がわからない。故に、強く正しく批評出来る。
 又、女の好奇心と云うこと、冒険心、それに負けたとき自分の感情にまけたことであるのを知らないこと。
 自分が、Aは、私が彼とはなれれば、田舎にでも引込んでしまうと云うと云ったら、「其那ことはあるまい。決してしないと断言する。若しやったら、私は見あげるよ、どんな処からでも拾いあげる。それ丈真実な愛が持てる人なら、見上げたもんだ。私の不明をあやまろう」。然し、それをきく自分は体のさむくなる心持がした。自分には、彼を最もよく知って居ると云う自分は、彼がその切羽つまった時、どうするか、何の動機でどうするか、はっきりわかり、信じることが出来ないのだ。大きなかけであると思う。一生の賭であると思う。

八月三十一日

(木曜)晴
 近頃自分の生活は、日記(所謂)をつけるには、あまり内的に多く苦しく、外面にはあまり多人数の生活すぎる。
 西村氏に手紙を書き、家を注意して貰うことをたのむ。斯様に、心が疑問や苦痛に満ち乍ら、日々顔を合わせて生活することのうちには、いかほどの偽瞞があるかわからない。
 結婚生活に於て、二人が同じ歩度で進歩出来ないのは何より苦痛であり、破綻の源である。

九月一日

(金曜)不定
 朝曇天、昼頃から小雨、陰鬱な光のない自然を見守り乍ら、頭には矢張りいつもの考えがつきまとう。
 自分の人としての不思議な弱点に対して、深い自省を持たなかった為、真心からの愛まで、人として進むべき道を行く為には制さなければならないようなことになる。
 皆、一方から考えれば、自分の人生に対する態度の不徹底さから生じたとほか思えない。彼をせめる気はなし。
 水をのみたいものが、目前に流れる水の面を見乍ら、のめば石となるか、死ぬかしなければならない地獄のせめが、始めて自分の心に、真実を以て迫って来た。
 愛したい心は満ち、それは真実なものでも、よってもって自分の生きて居ると思う一点を守り立てるためには、その愛をぐっと耐えて自分の潜精力として行かなければならないこと。
 若し自分にかけて居る未知数がなかったら、私は、死ぬか、無我夢中になってAに一生を投げ与えるだろう。
 いかに恋が、思案の外であるか。
 ヨハネの黙示録をよみ、あれ程壮麗、ゴージャスな空想を天空に描き得る人は、どんな浄純な心霊のひとかと驚く。

十月十九日

(木曜)晴
 雨もあがったので、今日はいよいよ立つことにする。祖母上は、待ちかねて居たので、朝のうちから、順序なく、大さわぎをされる。一時の急行。
 自分は途中、「ナナ」をよむ。自然主義の始祖としてのゾラが、科学的システムを芸術にとり入れ、「科学進歩の為、理想とか、絶対とか不可知とか云う言葉は世にその跡を絶って、人は正直になり率直になり、且つ幸福を享けるのである」と断言して居る処。
 いかに、時代と云うものが天才の方向を(力そのものはあるだろう。が、方向を定めるのは、時代、圏境であると思う)定めるか。今日見れば、寧ろ、単純と思われる思想が、その時代に於ては先駆であったのだ。始めたものだけに、ゾラはモーパッサンより規範は大きい。が、その味いに到ると、師は弟子に帽をとらなければなるまい。
 七時すぎ無事着。

十月二十日

(金曜)
 風烈しく、東京とは少くとも七八度違うだろうと思われる温度。おさとさんから、片倉製糸工場の話をきく。
 主人(大将と呼ぶ)に対する表面的な絶対服従。かん誘員(小僧からたたきあげ、十七八で帳つけとなり、外へ出て勧誘員となるときには、まるで成年のような風をする)が、つれて来た女工達の親権を与えられ、従って、悪く権利を利用すること。女工が、外出をやかましく云われるので、塀のさけ目からも、垣をこえても出ること。
 ばつと云うこと。二升につき十九匁出さなければならないのを出さなかったり何かするとすぐばつになる。赤点、黒点、黒はよく、黒点かぱりかぱり。
 工場は、毎年十二月初旬に一先ずすっかり解散し、又、糸をとる来年の四月頃女工をあつめ着手する。

十月二十一日

(土曜)晴
 九月に、一旦父上と帰京し、再、四五日で来る積りであった為、スーツケースの中に此日記をのこした。会の方の仕事の為、来られず、今日までこれが開かれなかったので、日記は一ヵ月以上ブランクとなってしまった。自分にとっては最も内容のあった一ヵ月、心の転化の多かった一ヵ月がブランクで残されたことはおしい。
 今日から日を追うて、あとへ戻ることもよいが、気ぬけしたものとなる。先へ進める。
 風がなく、晩秋の快よさを集めた日なり。午後三時頃、絶え間なく虫の声がし、耕地は人気なく、全部の風景は、うすい黄色をかけた茶色。朝、あざやかに色づいた柿の葉が、蒼空に実に目も覚めるばかり浮立ち、吉野桜の葉は遠くから見ると、紅葉のよう。秋の水の面、黄金色の葦、その周囲に紅葉した桜の枝と、遠く沈んだ緑色の杉叢、軽い、水彩画風の陵丘の姿が、調ととのった遠景となる。

十月二十二日

(日曜)晴 昨日よりやや寒し
 風景は、かすかに霧がかかったとかからないとですっかり心持が異う。遠近がぼやけ、近くの色彩、高低が変化なくなったのである。梅の梢などは一日一日と紅くなる。
 おさとさんが、今日会社へかえり、河崎氏のところへおいて貰うことをきくことにする。
 春、誰も居ないのに、庭の牡丹が満咲き、休みでかえったおさとさんばかりが独りで石に腰かけながめたとき、美しい淋しい情景を描いた。三本ある大きな古い牡丹。自然の謙譲な真剣さを感じる。
 祖母上は、此方に来てから毎日、二階にあがり戸棚をあけて、鍋壺のこと、桶のことに、寸暇もないほど心を労して居る。傍で見て居ると、何処にも、精神の輝きがなく、小さい堅そうな頭の中一杯、台所道具でつまりそれに Haunt されて居るように感じられる。気の毒と、浅間しさ。
 あの祖母と、理論的ではあってもやはり、ぬけ道のない世間苦になやまされて居る母との血をうけ、自分のうちにもああ云う下賤なところがあるかと、口をきくのも我からいやに感じた。

十月二十三日

(月曜)晴 暖
 家へかえりたし。かえりたいけれども、祖母上がもう少し落付いてからでないと、一緒に来た自分の義務がつくされないような心持がする。明日一日居、あさってかえろう。予定の一週間が満ちるから。やはり家よりほかに落付く処なし。昨日より、バッジの、「埃及文学史」を少しずつ書きぬき、参考書も加えてまとめる下拵えをし始める。小説を書かないときの暇つぶしとして。勉強として、斯う云うこと、その他がうんとあるに食うためこまごましたものを書いて居る暇はない。暇をあらせると本道が危うくなる。
 作に対するに一定の明かな主義と云うものが、自己の心の確かさにつれ自ら、自分にとっては生じるものであるのを、つくづく思う。外の人が作った何々主義と云うのではなく、人生に向って行く、自己の態度の体系とでも云うべきもの。
 昼頃Aより電報、彼も待って居るらし。
 三時頃、畑を見ると、もうずっと、樹の影やうねのかげが長く地に曳き、明暗の複雑な地面から、そそけ立ったような、きびの枯木が赫く、暖かそうに陽をうけて居る。
 黄色みかかった鮮やかな緑色のひばの垣の前に、色づいてまるで大黄のように厚く黄色い桔梗の形よい茎葉。

十月二十四日

(火曜)晴
 今日は小春日和、暖く袷に羽織なしで居られる。明日立つのを思い祖母上と、庭や裏を廻る。やぶがきたなくなって居る、肥料小屋がくずれた、あの木を切らなくては此木が育たない。「だれもわれのものではないから、かまわないんだぞ」と見るものから苦を引き出して居られる。あわれなり。何とか少し信心でもし、あの小さい白髪の頭に光が差さなくては、まるで、人間でないような気がする。どうにかし安心したいと云う要求もないらしい。昔の人なら因業なおうな、と云うところだろう。あわれ。林町にああやって居る心の底には此那毒を潜ませて居るかと恐ろし、消えぬ怨みのようなもの。
 二三日前から不眠がひどくなり、困る。
 庭から苺を切って、コップにさす。指に芳しいうつり香がして、心地よろし。秋気爽やかと云う感。
 昨夜二時頃、天井を見ながら、一つの小さい随筆の材料を思いあてる。まとめ、先ず『女性』の責をはたそう。
 人として、正直に、誠実を持ち、楽しく暮そうとすることは云うに易く、行うにかたく、仕事などと云うものにとらわれ(意識を)すぎて却って仕事を出来なくする。

十月二十五日

(水曜)曇
 十一時すぎの急行で帰京、ステーションに早くつきすぎ待って居る間、変な男が、つきまとうような風を見せ、大いに不安を感じた。議会開会が近づいて来た故か、同じ車室に向いあって四五人の陣笠連がのり合わせた。憲政党のものと見え、しきりに演説会のこと、政友会の悪行を密告された話、敵をたたく話、友人の中に政友会が出来こまった話、その他を高声にする。自分は少くともその程度の政治屋の気分、態度、話題、いつも忘れない自党、自家広告の仕ぶりを見られてためになった。退屈することも少なかったと云えよう。まるで平常接しない世界が近づいたのであったから。
 停車場でAを見かけたと思い急いで近づいたらまるで別な人であった。林町へ一先ずゆきそれから青山にかえる。
 東京は雨は降らなかったらしい。
 まだ中秋と云う感じで、田舎ほどわびしくはない。
 田舎に居ると、色、空気で秋のすすむことを知り、都会では、只光の透明さによる。

十月二十六日

(木曜)
『婦人界』の記者来訪
 正月のに小説の短いものをと云う。ことわり、丹野氏をすすめて置く。

十月二十七日

(金曜)
 大同の事ム所へ行き、三越、伊藤、白木と見て、カーテンの布Aの寝台をさがす。思わしいものなし。
 部屋の気分に拘束されると云うようなことは大乗から云えば、下品の下の問題だ。
 けれども、それを超越するためにだけでも多くの精力を費して居ては仕方がないから、決心し、自分はすっかり六畳を城としAには八畳に納って貰い、すっきりとしようときめた。
 何でも自分が決心をしなければ駄目なり。鎌倉へ行く丈の面倒と費用をかければよいと、今日、種々なものを見て廻ったのだ。
 がもののないことはおびただしいものだ。便利――変化等を要求して生活することが、まだ皆の要求となって居ないので便利なことは贅沢、変化はエキスペンシブ・ライフと一致することになって居る。ベッドステッド一つ、簡易で便利なもののないのに驚いた。外国のものと云うばかりでなく、あれを使ってねるまとまりの要求がないのだ。

十月二十八日

(土曜)晴
 午後三越に行き、スタンド、カーテンの布を買い、帝展に行く。あまりの人でゆっくり見る気せず。
 岡田氏母堂並夫妻に会い、夫人の衰えきたなくなったのにおどろいた。
『新家庭』の記者が十二月号に小品を呉れと云う、ことわる。

十月二十九日

(日曜)晴
 朝、Aがかえるとすぐ二人で家かたづけ。卓子を二つに分け一つを六畳に持って来る時、自分は嬉しいような悲しいような妙な心持に打れた。
 すっかりまとめると、なかなか心持よし。とくに六畳は北からの光線が入るので、何とも云えずさっぱりと、しかも落付いて居る。
 自分は、どうしても一人で自分の部屋を持たなければ安ぜられない。
 自分を静観すること、空想をめぐらすこと、其等は、たった一人で居ないと、どうしても他から乱されると感じずには居られないのである。
 三年ぶりで自分の部屋を持ち、うれしさかぎりなし。ただAが此処で眠るのはいやなり。

十月三十日

(月曜)晴
 暖く心持のよい朝。私共は自分達の結婚第四回目の十月三十日を迎えた。今までのうち、今日ほど、笑声の多かった記念日はなかっただろう。三月ばかり前頃の心持を考えると、今日二人で笑顔をし乍ら此日を迎えたのが奇跡のように思われる。奇跡は此世にあり得る! 不合理の合理であり得るのが、尊い人間の生活だろう。朝のうちAは小鳥の籠を掃除し、午後から玉川へ歩きに出かけた。ずうっと小供のうち、非常に遠い電車を玉川までのり、柿の赤く熟したのを売って居る堤の腰かけ茶屋の前を通ったのを覚えて居る。今大きな構えをした本式の茶屋が軒をつらねて居る。河水はさすがに清く、空気はすがすがしく、河原の砂に腰かけて居ると、のどかな気分になった。かえりに吉田さんの新居を見、夕飯は家でする。
 近頃どうかして食慾なく、疲れを覚えるので、食前、ブドー酒を小盞に※(3分の1、1-7-88)ほどのんだら、顔がのぼせたように、あつくモタモタとし、ちっとも深くすずしく物を考えることが出来なくなってしまった。低級になったようで苦しく悲しい気がした。酒をのめる人の顔は、のんだあとどんな風になるのだろう。

十月三十一日

(火曜)晴
 風少しあり。晴れた空に柳の、少し茶がかった枝が、優寂な趣を見せて居る。枝幹が茶がかり残った緑葉が、スッスッと斜に緑青でもかすったように見える。
『思想』の「竹取物語の研究」を非常に面白くよみ、能の集注が、brain のものとして作歌作曲の場を与えられたのより、謡いての発声法に集注がありそれが独自な魅力となって居る、と云うのもなるほどとうなずく。自分には謡曲に伴うクラシカルな圧の感じ、そこから出て来る落付、幽寂の感はたしかに知り愛して居たのだが何からそれが来るか、明にしては居なかったのだ。津田氏の日本文学の時代別研究も、若し、和辻氏の中に抜萃されて居る調子で全般を貫いて居るなら、むしろ読まないに如かず、著者も亦書かないに如かずであったろう。却って文学の愛らしさ美しさが覆いかくされる。

十一月一日

(水曜)雨
 風とときどきの雨。午前中家に居、午後大同に出かける。三時すぎより第一相互の方にゆき河崎先生石本氏に会いいろいろ話し、角まで自動車で送らる。電車より楽なり。
 夜、ゴドウスキーのピアノをきき、音響に胸をとどろかされた。あのサンサーンの第五伴奏よりのトッカタのコードの音! ショパンのソナタ35の葬送行進曲を、全部ピアノで弾いた美しさ。
 まるで自分達で弾くのとは出からして違う。久しぶりで久野先生に会い、相変らず若々しいのにおどろくとともに、せかせかしいのにも気の毒な感に打れる。小倉末子氏、大橋、三島、久米、倉知、瀧田その他の人々に会う。
 始めての会は斯う云う聴衆ゆえ気分があつまり快い雰囲気をつくるがやや社交的傾向あり。

十一月二日

(木曜)晴
 A、まつが自分にあまり親切でないと云う困ったものなり。むずかしい。細心と細心とがかち合うのか。Aが神経質なのか。苦情にかぎりはない。
 朝から机に向い、ダーヴィッシのことを書くために考えて居るうち、ペルシア神話のうち、シャナーマのソーラーブ譚をよみ美にうたれ、書く気になる。楽し。

十一月三日

(金曜)晴
 元の天長節、ツーさんが三四日前に帰京して居るので、およろこびのティーパーティーをかね林町へ行き、会う。ちっとも変らず顔を見た時よろこびが迸しった。おみやさん、基ちゃん、工藤等来り会す。おみやさんのようなのもあわれな現代の女性の一人であると思う。誰も、彼女に人としての魅力を感じない程、人として生故の昔にすりへらされてしまって居るのだ。つくづく愛を以て考えれば書かずに居られない訳であろうと思う。
 平賀深造が死したよし。驚きに堪えず。奈良の十二月とか云うしゃれた料理屋で国男と二人をよんでくれ、今なくなった万岳楼へつれ込まれたのを思う。あんな悪強そうな人も死んだのか、十六の年結婚したとしさんはどんな気持で一生をつれそったのかと思う。
 日比谷公園の菊花大会の広告を見、五つ六つ頃天長節の団子坂と云えばどんなに賑やかなものであったか、をそぞろに思い出す。黄八丈の着物。

十一月四日

(土曜)晴
 ペルシア史を少しよむ。
 太古アリアン人がカスピアン海の方、ターキスタンの方からずっとイラン高原に移って来た時代がわかり遙かな、愛を覚える気持になった。
 B. C. 2500 年頃、遊牧の民が、新しい土地に、冒険と忍耐と希望に満ちてそろそろと移り住んで来た有様。
 シャナーマをよまなければ、必要な人間の名がわからず、困る。此那ものさえない我々の書籍箱は、本箱と云うに価しないものとつくづく思う。うちのことなどにかまけて居るのは要するに小乗なり。もっと本のほんとうの本がなければならない。数にあらず。

十一月五日

(日曜)晴
 朝からA、妙にひねくれて居る。自分に云わせれば仕事をして居るから、と云うが、若し人間が、真個に自己の仕事を愛し、よろこびを感じてやって居るなら、却って、いやなことも忘れ、ひねこびた人間も快活になるのではないか。出来ない――頭が負い切れない仕事をしようとして気ばかり世間的アムビションにわずらわされるからではないか。
 まつ暇をとりたしと云う。Aがいやなのなり。自分にはよくわかる。Aは人の上に立てない下品のところがあるから。
 夜、宮内省の音楽をききに行きその情趣のない、妙にすました演奏ぶりに殆ど不快を覚えた。下手なくせにホーティーで、芸術を愛するものらしい心のリファインメントがちっとも感じられない。宮内省の附属になどなって真にみがかれることが少いとああなるものか。おそろしいことなり。
 夜、野上さんから手紙が来、火曜に、福岡さんの処へ行くから家へよろうと云われる。嬉しく、途で気を揉むといけないから五丁目の家まで迎に行ってあげましょうと、云ってあげる。

十一月六日

(月曜)曇
 まつは、家がどうしてもいやと云うより、他に、小金のある老人夫婦の養女格となる話ある為、そちらに行きたく此方がいやになったのなり。無理なし。人間が一生、ひとの手伝をして生きるのは幸福ではなく満足も出来まいから。ただあとの代りが必要、どんなのがよいか、何処にあるかわからず困る。又それも長くて三四年だろうから。手伝がなくてはやれないのは困ったことなり。何とかならぬものか。
 代りたいときは出来る丈早く代らせないと彼女も自分もうまく落付けず。
 夜、モリソン・ライブラリーの石田氏来。若い人で、おそろしく能弁な人。中央アジアの研究に趣味を持って居るらしく相当に絵画の理解もありライブラリアンらしいもの知りである。然し喋られること、喋られること! Aはさぞたまらなかったろうと苦笑。珈琲をのんだのでつづいたとあとで笑った。ペルシア Past & Present その他をよむ。
 夕方、Aにペルシア語字典で、大切な箇有名詞をすっかり調べて貰う。

十一月七日

(火曜)晴
 まことにおだやかなよい日なり。起きると、六畳に卓子を置いたり、咲きだしたバラを切ったりして部屋を心持よくし、福岡さんの処へ行く。十時半頃。まだ見えないと云う。種々洋服の話などをして居ると、十二時頃やっと見える。玄関で、張の強いはっきりした声をきいた時、自分はうれしい気持がした。
 大きな袋に編棒を入れて居られるのが見える。国元から母上が来て居られる由、雑談をする時が増したので、その間に編物をすると云われる。
 五丁目からゆっくり歩いて家まで来、三時頃まで話す。自分が時によれば「私は此が好きですわ」とさえ云われないときがあると云って、涙を出された。自分は深く動かされ、自分の持つ種々な不満などは、実に万人が万人もつもので、その為に苦しみ、種々することを、何の誇るべき価値もないと感じた。苦しむことと苦しみに圧せらるることは違う。一緒に日本橋まで行く。めったに外に出ないらしく窓から外を見て居る様子に自分は深い愛を覚えた。

十一月八日

(水曜)曇
 きのうの話、野上さんはギリシア神話からプロメシウスの話をとってヘレニズムとクリスチャニズムとの対抗を描きたいと思い着手して居られる由。
 自分のは同じ太古の神話? からとってももっとはるかに人間的なもの。面白し。
 午後から雨しきりに降る。中を日本橋までゆき、それから石本さんのところへゆく。
 今日ですっかりロシアの仕事を終り、茶話会をしてしまうと云うのである。
 ヨサノ、深尾、荻野、柳、河崎、星野、石本、自分等。きのう野上さんと会ったあとなので、彼女と、此等の人々との相異を深く感じた。要の話のほかは、冗談と着物のこと。
 丁度石本さんが美しい毛糸のケープをきて居たので皆がこれを作ることをのぞみ 色や何かのことでしきりに話がはずむ。第一着物のことを云い出すのが女性の本性なのか。少し心細い気がした。夜、Aのためタイプライター。

十一月九日

(木曜)晴
 すっかり雨が晴れ、うちのバラが又美しい三輪の花をつけた。忘れ得ないよろこびを与える。四季咲なのだろうか。少し田舎で、畑に野菜を同じ悦びで見られたらどんなによかろう。
 女中のことにつき林町へ手紙を書く。ペルシア、パスト&プレゼントも終。
 夜、哲学辞典と云うのを出して居る本屋が、Aに、ペルシアの部につき執筆して呉れるようにと云って来る。丁度六時。まつ、買物の為にと云って、出て行く。
 A、胸のしっぷす。右肺に雑音がすると云う。
 明日遠足で、天気がよければ一日家に居られると楽しみにし、早く、A床につく。十二時近くより雨ふり始める。まつかえらず。
 一時過床に入り暫く彼女のことを考える。他人の仲ばかりに居、誰一人として、さほど親身になっても居ないだろう人間の間を、浮草のようにうろうろして居ると思うと、憐れで、深い心遣いを覚えた。まつ、おみや、会田、皆不幸な者なり。

十一月十日

(金曜)晴
 あいにく雨。
 自分は、材料をととのえる。
 午後柳氏来訪、年齢の差異についての反省――自分の若かったとき、老人なら今との心の差と云うようなことを書いて見てくれと云われ、面白そうなので、又最近考えた、又考えを要する時代なのでうける。
 先夜石本さんの処で感じたことを、彼女も感じ、種々な流行と云うことなどについて、考察的な態度であるのに、快く又、自分の生活のとかくだれ易い――外界に対して――のに顧るところがあった。一寸も世の中に顔などは出して居ない人に偉い人のあるのはおそろしいことなり。世の中の柱。

十一月十一日

(土曜)晴
 A、夜食事によそに呼ばれて居るので、自分は午後から林町に行く。まつのことにつき話したけれども、母上さほど集注せず。さっそく彼女の力でどうなると云うのでもないし、又するような気分でもないのによけいな心配をさせるでもなしとそのままにしてしまう。要するに此那ことは相談するほどのことではないのだろう。
 夜七時過、祖母、おけさ、ばあやをつれて帰って来られる。安積山嶽などにすっかり雪が降つもったとのこと。柿や野菜を、うんと持って来る。まるで農民の移住のようなり。ツーさん、伊吹さん来。そろそろ帰ろうとして居ると、関さんから電話でおかあさんが大変悪いので直ぐ来て呉れるように、父に云って下さいと云う。きよがおどろきピンも何もぬけそうにとんで行った。
 誰も、鑑子さんのわるかったこと丈は知っておかあさんのわるかったことは知らない。どうしたと云うことなのだろう。驚きあやしみつつ帰宅。

十一月十二日

(日曜)晴
 A、胸を湿布す。そう大したことではないのだろうが。
 縁側で日向ぼっこをしながら林町でさがして貰っても出来ないし又そう容易にあるものでもないから、職業紹介所に云って聞いて見、此方の要求を話して置いたのが一番よろしかろうと云うことになる。
 誰か居ないでは困り、居れば出る入るで面倒がある。アパアトメントの生活が恋し。いやな人手がなくても生活出来ると云う点で。
 まつを林町にやる。
 久しぶりで二人ぎり。
 夜ペルシアのことにつきよむ。
 先達せんだって、『新小説』をよみ、あの近藤栄一氏のスサノオノ命に、何だかくっきり、あの時代の雰囲気があらわれて居ずいやだったので、自分はすっかり、まざまざとペルシアの気分を獲得したのち、書きたいのだ。
 まつ頭痛がすると云って早くやすませる。弱いのと、神経と一緒になって居るらし。

十一月十三日

(月曜)晴
 今朝の新聞で、関さんの母上は、あの人を見舞に行って左様ならとかえろうとするとき倒れ、そのままになってしまったのだそうだ。何と云うことだろう。驚きやまぬ心持がした。自分を見舞に来、さようならと云って、頓死した母を見、私なら天地が変るほどの感に打れる。実に人間の手の届かない神秘な力がぐっと胸をつかみ、その急な死に、何か自分の足りなさ、自分の悪が、起因になって居るように感じずには居られないだろう。此気持は東洋的であり、又仏教的であるかもしれないが、それ丈のことを、徒な偶然とは看過出来ない何ものかが私のうちにある。
 関さんにも、内的に大きな変化が来るだろう。とにかく人間が一生のうちに一度ほか遭遇しない大きな悲しみの一つだ。たった五十歳で、そんな死を親にされてはたまらなし。
 大橋房子氏から送られた「愛の純一性」、あの人の殉情家的な傾向が、流達な理智の文の間にも見える。

十一月十四日

(火曜)晴
 まつ昨夜、写真をとりに行くと云って出てゆき、夜中かえらず。困ったあわれなものなり。すっかり気が浮立ち、わきまえがない。A、学校の遠足を休み、家に居、シシティシズムについて調べものをして居る。
 昼頃から、柳氏にたのまれたことにつき書き出す。興がのり、よいエッセーが出来そうなり。今までのと違い、大体骨組を小説のように書きつけそれに思想をつけつつ運んでゆくことを見出す。何でもないことだが、思索の切れないため、或まとまりを持つため、大変よろしい。エッセーを書くに新たな面白味を感ず。
 まつを午後から、林町へやり、喪服をかりて来て貰う。

十一月十五日

(水曜)晴
 朝早く目ざめ、早めに青山斎場へ行く。関さんの母上の葬儀である。
 予定の十時になっても葬列は見えず、父上、国男、高村光太郎氏、瀬沼氏、等に会う。自分の心持ではもっと来べきと思われる人が見えないのにおどろいた。参会者も、知識階級のどういう程度を加えて居るかと、淋しい気のする程度、読経後、芳賀矢一氏が、声涙ともに下ると云う有様で、貧しさのうちに、献身的一生を送った故人の追悼の辞をのべられる。自分も涙せきあえぬ気持になった。
 実に気の毒、死んだ人も、死なれた人も。印象の強い二つの葬式――一つは本野氏一つは此、関氏の。人生の二つの相をまざまざと見た。実に真心を持ち得る葬送であった。
 墓地より茶屋への帰途、鑑子氏のイタリー語の先生なる青年が「鑑子さん、帯は誰がしめたの?」「自分よ」「少し右が下りすぎて居るようだな。着物はうまく体について居るけれども」と云う愚劣なる発言をなす。親が死んだのに誰が帯の形を云々するか! いやな若者。

十一月十六日

(木曜)雨
 しょびしょびと雨が降り、なかなか寒くなって来た。火鉢を入る。
 きのうは、七五三の祝日と見え、ろくに眼鼻立ちもかたまらないような小さい子供に、うんと振袖や何かを着かざらせ、往来を歩いて居るのを見た。中の以上の階級はあまり見えず、却って小さい商人の子・妻と云うようなものらしいのが多く見える。智識階級はもう此無意味なのを知って居、興味を持たないのだろう。一般、教育などに無頓着な一部の人間が、今だに此恐るべき浪費をあえてして居る。
 一昨日のつづきを書き一先ず終りまでゆく。が或蕪雑さに心付いて夜書なおし始める。
 書きつつ自から コンストラクションの確実さと云うことについて得たことあり。即興的に筆を走らせて行っては心づかなかったことだ。一つの思想について一区切りずつちゃんと配置されると云うこと。筆の勢で並べられるのではなく、書かれようとする内容の種類順序に従って、aの下にはaに属すべきものがBの下にまぎれ込まず入るべきと云うこと。小説の上にもよいことを感じたと思う。実に、微に入り細を穿ちつつ、滔々として進むと云う偉大さが実にないと思う。つまり心の偉大さが足りないのなり。あわれ。あわれ。

十一月十七日

(金曜)晴
 午前中、昨夜のつづき。林町から電話がかかり、行く。きみ来られない由。はつをきくことにする。
 父上山形におたち。かえりにはオートバイで送って来て貰う。

十一月十八日

(土曜)晴 ○
 きのう林町へ行く道からハネカーのショパンの伝をよみ始める。面白し。ショパンを、月光に打れた蒼白い青年として常識して居ることの、或非実際を知る。
『女性日本人』に書く原稿はあまり大事をとりすぎる為かまとまらず。
 夜、散々加筆した原稿をながめ涙の出そうな気になった。わが心、わが心。
 幾分の生理的影響によって思わしく行かないのだろうと思い、やめ、ショパンをよむ。

十一月十九日

(日曜)晴
 石井、大工をつれて来、敷居鴨居のことを命ず。田舎から来たと云う大工、云われたことを間違え、四枚硝子戸を当てるとどっちにもあかないような鴨居をこしらえ又やりなおす。何にしろもう出来上って居る鴨居にあお向で溝をつけるのだから無理で気の毒に見ゆ。

十一月二十日

(月曜)晴
 午前、午後仕事。
 夜、Aと二人ミスソーヤーに会いに行く。知らずに自動車の昇降口から入り徳川屋のショファーが私共を見つけて林町の両親が来て居ると云う。八時に来いと云ったからとて、私共少し下で待つ。なかなか見えず、名刺を置いてホールに行く。ミスソーヤーの英語はむずかし。ボストン風。文学の話をするのにまるで子供あつかいは心苦しかりき。一つは言葉の不自由さによるなるべし。
 十一時すぎ日比谷の四角に出ると、ひどく風が吹まくり街路樹の葉が皆吹たまりとなって居る上、停留所には一人の姿もなし。歩いて行くと思いがけずポストのかげや、一寸引こんだ店の軒下に若い女や男が襟巻で鼻をかくして立って居る。まるで冬景色なり。

十一月二十一日

(火曜)晴
 朝すっかり再目をとおし政教社へ持って行き林町に行く。あいにく母上留守なり。四時頃かえる。A、今夜中にスーフィーを書きあげるため、一生懸命、就寝、自分は一時半。Aは四時頃のよし。

十一月二十二日

(水曜)晴
 目下アインスタイン、ジョルダン等、世界的学者が来て居る。写真で見るアインスタインは実に豊かに暖かな心情の所有者と見える。自分は、ドイツ語もわからず、相対性原理を充分理解する丈の予備知識すら持たないので遠慮し、公開のレクチュアもききに行かない。
 何だか、いそがしい今日の流行にのってさわがずとも、真理は十年の後にもかわるまいと云う心持。さわいで不完全に理解するのは惜しい心持がある。
『朝日新聞』に書いて居られる石原純博士の同真理の説明は平易によく書いてある。単純にして明瞭。此が大事のことなり。
 午後、商大の高瀬氏来訪、話し、経済のような社会科学が、学として完成するにはどれ丈哲学的要素を重大とするか、哲学者として相当の権威を持たなければ、経済学としても価値ある体系は作れないと話され、考えるところあり。文学者は、もっとも広大な知識の所有者である必要がある。

十一月二十三日

(木曜)晴
 文を書くとき、音楽の如く、と云うことは大切であると思った。よい音楽家によって弾奏される音楽をきくと、必ずそこには明瞭な音のシラブル・シャプターが感じられる。一つも無駄と云う音はない。頭から流れ出す文字がルーズになると無駄だらけになり得る。輪廓の明かさ、整然さ、而して流れ動き心に訴える真情。此が手に入ればほんものなり。深き深き対象に対する愛、それ等の動きをビジュアライズし得る絵画的素質、並、統一し、整理する頭の確かさ。至らざること遠い、と云うに遠い気がする。此等を助長させる日常のデリカシーが欠けて居るのだろう。物質的に精神的に。
 昨夜、『日本及日本人』の秋期増刊から科学者の事業年表と云うようなものを写しつつ、我々の持つ知識の未だ新らしいものなのに驚く。十九世紀以後、人はやっと、生理学的な重大問題を知り始めたらしく見える。一番始め、天文学が発達したのも面白い。人間共通の、神秘的傾向の第一の発露として。
 ミスアレキサンダーの処へ行き、バハイの話をする。何でも彼でも、バビ誰々が斯う云った、と云う引証して物を話すのを見、深い感に打れた。

十一月二十四日

(金曜)晴
 気になって居た大橋房子氏への手紙をおわり、彼のところにも書くべき通信をする。――仕事をするのに心がかりがあってはいやな為。
 ト翁の、「ハジ・ムラート」をよみ得るところあり。一昨日あたりから、自分の心にはある決定に似た運動がおこり始めた。自分の芸術に関し。よき芸術家として自分はどう云う方面に自己の道を拓いて行くべきか、と云うこと。自己の訓練、作品をまとめるときの心得、手に入れることなどではなく、もう一歩、それらのあらゆるものをどの方面に集注するかと云う点。十八九のとき持って居たような漠然さではなく、自分はどうしてもリリカルな作者ではないことに心づいて来た。又生活も何も野上さんのように、文学のうちにまとめることも出来ない。もっと動き、もっと移り、而して、実に永劫な連鎖を持つ社会の変遷と云うようなものがひどく自分の心を牽くのだ。或時代と云うようなものを、ずっと此方から観察、批評、評価し、これを、新しい光の下に再生させて行くこと。学問の足らなさを思い、下らなく世間的にならせられたのが口惜し。

十一月二十五日

(土曜)曇
 勉強して居ると午後神戸に居、今『女性改造』に働いて居られる小見山氏来訪、自分にとりつがれお会いしたらAにペルシアの音楽をききにきたとの由、Aに会わせ、のちゆっくり二人で話す。『改造』があれほど新進の雑誌で居ながら依然として社長はデスポティックであること、只売らんかなのみであるをきき驚く。妙な、淋しい心持に打れた。自分の作品などをたのむ気もしないようなり。自分でどんどん出せる金が欲し。
 賀川さんが金を得てから貧民とはなれ、生れようとするものに貧民窟生活をさせたくない心持で居られるときく、深く考えることあり。むずかしい、ああ云うソシアル・リフォーマーの戦わなければならない或危期であろう。自分諸共に仕事からはなれるか、又子供だけはなすか、幼年時代はそう行くまい却って悪い影響の明かである丈苦しいと思う。母の心からいつか書いて見たし。よくよく書いて見たし。
 夜、カフェーをとりに吉田さんのところへ行く。ピーター専横でいや。今日から自分の読書に必ずノートをとることにする。大きな仕事はこの位コンスタントな注意が必要と云うAの言葉は真個。

十一月二十六日

(日曜)雨
 朝七時半起床。昨夜一時すぎなのにめずらし。
 スーラーブの話、筋、シーンをまとめやっと、或程度まで明かになった。
 水津氏来。歓迎する。が、Aのいそがしいのを知って居るので、困る心持がした。Aはずまず。ために自分がだれないように話題を見出して行こうとしてつかれ、つかれてしまった。
 夜、『ロンドン・タイムス』の文芸を見る。なかなか面白いものが近頃出る。日記の終りを見るととにかく買いたい、よみたいと思った本がうんとありなかの一冊も実際の自分の手には入って居ない。
 ひどい風。
 水津氏の話。男が三十九歳頃から沈滞期に入るとのこと。彼自身も自分の眼にはひどく透明さ、活発さ、獲得力が欠乏して、所謂納った状態に見える。
 どうかしてAだけは仕事のせわしさによってでも活々として欲し。

十一月二十七日

(月曜)晴
「スーラーブ」を書き出す。例によってはじめは難産なり。いつものように、只一寸前ぶれをして又説明に後へ戻ることを出来る丈かえた趣でしたい為。
 大、毎日の野村治輔氏、手紙を受とらなかったと云って来られる。気の毒なり。されど先方の行き違い故仕方なし。
 一時頃、A帰ると云うので待って居三時すぎになる。ついに午後は滅茶。夜、又、学校の番なので食後まつに、種々法律的な必要を話してきかせて居るうち、ついに男があの橋本のものであることを云う。恥しくて云いかねて居た由、そうと知り可哀そう故、何とも云いはしなかったのだ。どうぞうまく行って呉れればよし。もう此方の言葉が事件を否定しない、し得ない――必要でも――のを知りやはり月末に出してやることにする。江崎先生よりおさとさんのことにつき来すぐ廻してやる。自分のように小さい範囲でもやはり世話をする、と云うことは起るものと、感あり。
 視学か何かを殺した老女教師が、精神喪失として無罪になったが、人生に対する怨はつのり、半狂人の如きよし。ああ云うたよりない Old maid のあわれさ。人間として死して居るのは泉沢のみならずとおどろく。
 書きつつ、又フト見た夏目氏のものより。自己の弁証的思弁的傾向に心づき反省するところあり。育った傾向によるものか。vivid に活かすこと。何より自分には大切なり。

十一月二十八日

(火曜)晴
「スーラーブ」。始めの方。思うように行かず。母上、ときわ館へ来た次手と云って四時すぎによらる。A、五時すぎ帰宅。皇后陛下が来られたのなり。
 夕食のとき、いろいろ話をし自分の名を二三度メンションしたら、荒木君は、二度三度の光栄に浴した、と云ったとか云い、A自身も愉快気なり。いけない。いけない。だんだんああして、かたにはまるか、困ったものなり。自分としては只かるくきき流して置くほかないと思う。刺激しない為。

十一月二十九日

(水曜)晴
 夜妙な夢を見、あげくに、妙な男が来たりしたので、すっかり駄目。
 この間うち自分が珈琲をのみすぎきっと神経をどうかしたと知り、今日はのまず。きっと二三日したらよいだろう。迂かつなことをしたものなり。恥し。随筆六七枚を書く。
 夕食のとき林町から電話。正直さんの夫婦が来るから来ないかとのこと。幸だと行く。感じの悪い、一目でおやと思う程度、正直と云う名にふさわしい素朴なところで新らしい妻に対して居る彼は見て美し。母、祖母、かえるとすぐ、ずけずけと評す。いやなり。あんなにして連れて歩いたりするものではないと思う。見る方も今が云いどきだと云うようなの、つくづくいやしい。かえり国男さんオートバイで送って呉れる。
 留守に女が来たよし。世話をして居る女同行で来たとか。Aが何だか要領を得ないことを云ったらしく、明日又来ると云ったそうだから来たら会い話さなければなるまい。家政婦などと云う触込みで来たのではつまり女中と同じことをして、給金だけは多いと云うことになるのではないか。つまらないことではないかと云う気もする。二百円足らずの月給で、家に四十三円女中に三十円出して居られたものならず。

十一月三十日

(木曜)曇
 クロイツェルソナタをきく、なるほどトルストイが彼の小説に描いたわけと思う。私共は、あれをきき生の躍動を促さずには置かないところに深い芸術的愛を覚え、彼のように、一体に音楽が肉慾をいざなうもの、感傷に堕させるとは思われず。私共が凡人の故か、トルストイのあのややせまい宗教感が彼のつまずきであったか。
 今日、きのうの女来るかと思い、仕事は頭の工合もある故しないこととして待って居た。が来ず。Aの貧乏くさいような、気前のよいような話をきき、気がのらないのだろう。考えると困るが面白し。そうやって、あっちこっち廻っていろいろな人を見て行きすぐ利害で打算する女の心持、とりに来て貰おう。仕方なし。
 関さんが台所のことまでしなければならないので、夜になると、八度も熱が出、それでもほかに仕てがないから黙ってして居るとの話をきのうきき、林町の父母の、深くない、キャピタリスト或は中流人の心持をたよりなく思った。つまり一寸感動し、世界とか人類とか云っても、一人の若い音楽家の困る場合、それならと云って下女を見つけてやるとか、又税金が問題なら少しでも補助してやるとか、そう云う真のたすけとなることをしようとは思いもせず、技倆だけを楽しみ知って居ることを、自分等の誇の一種のようにする!

十二月一日

(金曜)晴
 二十九日の夕刊に、ギリシア革命政府要員は、トルコとの戦に負けた将軍六名を、軍法会議で反逆罪として死刑に処してしまったとある。黒シャツのまま皇帝に会い、自己の立場を声明した革命者等、我々から見るとかなり不合理と思われる処刑のしかた。ギリシア人式、革命的、傍観者として、やや無責任な言を弄すれば、甚だドラマティックなり。黒シャツを着た党員の示威運動から、ひどく人間的、私憤的な軍法会議場の判決、恥辱のうちに死ぬ将軍等と、外交的意味を以て? それを救おうとする英国大使の黙劇。興味あり。英の国交断絶も要するによいきっかけで手を抜くのか? 少し気概のある外交を見たし。もうちっと、ほんとうに意義のある。正義が口実だからいやなり。

○『女性改造』にやる原稿をまとめるため、A昨夜も二時すぎまで起きて居たので、朝ひどくおそく起る。それから、すっかり部屋の模様を変え、又手なれた古机を持ち出し、本棚を動して、坐るようにする。小崎氏夫妻見ゆ。実に揃った夫婦と云う感、力の均衡も、体の大きさも、奇のない気持がひどくする。却って其ほど調和し、自然だと云うことなのだろう。まつの夫となる金沢三平来。話して見、正直なところと、ずるい――悪気はないが――ところと入まじった男。まつの方が何と云っても単純なり。

十二月二日

(土曜)晴
「スーラーブ」。

十二月三日

(日曜)晴
「スーラーブ」。

十二月四日

(月曜)晴
「スーラーブ」。一の一とおり終まで行く。
 午前中に来るはずの女来ず。A夜行って見て来てくれる。宿が下宿に定めてあったらしいが、所をききに来た交番まであとをついて来、始めてあいさつをしたよし。とにかく暫く置いて見たら分るだろう。風邪で来られなかった由。明日来ると云う。まつに祝の羽織をやる。何だかばあさんが、好きなような嫌いなような妙なばあさまだと云い出す。又すぐいやになるにあらずや あやしいものなり。
 哲学辞書のためにやったスイフィーの原稿をなくしたと云って浜田と云う人が大学に居たよし。A、その弱点を利用する気はなく利用して、ムハムマッドをムハンマッドにすると云ったのをムにさせ、ペルシア語を木版にすることを承知させたらし。私から見ると少し可笑し。浜田と云う男の一時的恐縮がわかって居るので。きっと、暫くたつと元のように威張るだろう。一寸した力のめりはり。
 夜、四八度

十二月五日

(火曜)晴
「スーラーブ」。一の後の方を書きなおす。今度はよい。
 朝、鈍卵色に黒藍色のあやしい空から、パラパラと霰が降った。自分はバラが気になった。がすぐやむ。
 午後、新らしい女中、来る。此でやっと安心なり、それでも何だかうしろにかげを引いて居るような女で心がかりなり。恋人や何かのあるのはよいとしても、それがはっきりわかり、どう云う状態になって居るかしれないと不安な心持がするのだ。まつ夕食後大さわぎをして金沢の家に行く。良人になる男が荷物をとりに来る。どんな心持で行ったか。新らしい女はてると云う。二人で話し、まつが写真か何かをやって居るらしい声がした。なかなか単純で面白いところがある。
 夜は三畳の方に電気を引いたり何かさわぎて暮す。
 あいまに、夏目さんの文学評論をよみ、得るところ多くあり、心づくこと。
 暫く小説を書かないで居て筆をとると、始めの間は、妙に頭が大まかで、叙景にしろ、描写にしろ細かく適切に出て来ない。がまんしてやって居ると、段々頭の細まで活動し始め、隅々までちゃんと行届くのである。故に、技巧上のこと、表現のことから云えば、いつも書いて居なければいけないことは明かだ。書きすぎれば又、なかみが軽くだめになる。
 昼。五十度。

十二月六日

(水曜)晴
「スーラーブ」(二)
 てる、静かにして居て女らしい故仕合わせなり、する丈のことをしてくれればよし。
 二三日前から、万有還銀術の鳥羽翁のところに研究に出かけて居た九大の丸沢博士が、その成功は、助手の何とか秋一と云う男の詐欺手段であったことを発見したと云って、新聞はさわぎになった。助手の男が、フイゴか何かの中に銀を入れ、そら出た、そら銀になったと云ったのだ。丸沢博士は、遙に九州から来、川口署か旅舎かで、対決――秋一と――すると云い、ひどく意気込みや、度をはずしたように見える。私の心持で行くと、学術的に興味を以て研究し、それが詐欺では成就するが真個には駄目だとわかれば、駄目だったか、と、どこまでも学者の態度を失わないで結着をつければよいのではないかと思われる。対決とか何とかさわぐと、研究の動機がまるで世俗の慾から出でもしたようで、傍の見る眼も苦しい。
 夜食後、八畳に行くと、Aシリアスな話があると云う。何かときくと、昨夜風呂場で私が妙な咳をなさるのねと云った時、血が出たのだそうだ。それから、少し気にして居ると、今日、二三度、出ると云う。どっと吐くほどではないのだろうが、相当に鮮やかな色のついたのが出ると云う。それで自分で病をきめ、私に気の毒だから、と云う、つまり、私がどうでも自分のよいと思う処理を自身につけるようにと云うのである。私は元気を出し、笑って、彼の古くさい、又子供らしい感傷を排けた。真個に病気なら病気で気をつけるだけ注意し、養生してなおせばよい。彼の心持とすれば、生活のことを思うから苦しむのだろう。自分にしろ思わぬではない。然し相手は金だ。どうにもならないで、どうかなるものだろう。
 昼、四十九度、

十二月七日

(木曜)曇
 朝、夢を見た。Aが血を出すからと云って医者をよび、わきに居る女中に気がねしてわざわざ、少々ブラッドが出るそうでと云ったのまではっきりして居る。目がさめると、それが夢だけではなく、事実で、此から手紙をやり真個に医者に来て貰うのだと思うと、妙な悲しい心持で、涙を流した。うつらうつらし、昨夜のことが真個とは思えなかった。
 世間的に見、若し真にAが肺病なら、不幸だ。けれども、そうも思ないとわかった。彼の心持が浮薄でなく、自分もそうでなく、人生と云うものを何だか異った真剣さで見られるところに、一種の悲痛な快感があるとさえ考える。彼の病を、仮定して考えれば、自分にだってうつって居ないとは云えない。ちゃんと、人間の運命を頭の上に感じてやる丈をやろうとする心は真なものなり。肥って、苦がなく、甘えて居るのとは異う。
 寺沢氏(女、学、の医者)は、一時頃来てくれると云う。十一時前、それでは一時間も書こうと思って私は机の前に座った。そして、心を落付ける為、朝書いたばかりの『女性日本人』を見た。萌黄と赤の実に古い、四十五年時代の遺物のような表紙を見、一つトク名で注意してやろうか等と思う。それから原稿に向う。書きよいところであるのは分って居るのが、どうも書こうとすることが、きっちり脳に写らず、ぼやけた写真を見るようだ。やめ、今度は、よみかけの、文学評論をとりあげた。アジソンとスチールの比較で、二人のウィットは、一方は細かで仕あげが見事だが後者は無邪気で、活発で、男性的であると云う半頁ばかりをよむ。いつの間にか、心づくと自分は、此本も伏せて居た。そして両手を膝に置き、古び、インクの汚点が木地の色ほどしみた机の、滑らかな面を凝視して居る。始めて、私は、自分があわてないようにし、見え乍ら如何程、内心は動乱して居るか悟った。そして、此を書き始めた。何をしても手につかないと云うこと。私の場合では、其を露骨にあらわしてはAのためによくないと云うので一層辛いものとなる。それでも、約束の十二時迄は、此部屋から出まいとしAが私の混乱を知ると、自分も乱れよう――、時計を見い見い坐って居る。細かい心持になるものなり。恐ろしさが迫り、何でもなくてくれるように心から祈る。一刻前に悲痛な快感と対した意気は、不思議な寂しさに代るようなり。
 時は、次第に流れ、往来には相変らず子供の声がし、人が通る。女中は何も知らず。然し、考えて見れば、私共二人にとって、一生の運命を或程度まで支配するクリシスが迫って居るのである。すっかり生活状態を代え、従って、まるで異った人生の局面が展開されるか、又、案外地がわれず此ままに行くか、寺沢氏の言葉が宣言であると思う。恋するときのような夢中が少ない丈、深刻なり。人生の、廻り舞台を見守るようなり。寺沢氏来。くわしく見、とにかく肺にそれ程重大なディフェクトがあるとは思われずと云う。只右の肩、肺尖の音が少しわるいから、鎌倉の養生院に居る知人に話して、見させようと云うことになる。自分も見て貰う、何ともなし。ほんとうに救われた心持がした。冷静に考えて見れば、まだ全然決定したわけではなく、その人に見て貰ったら、一年位休養しなければならないことになるかも知れない。しかも当座の安心が永久につづくもののように、ほっとした心持になるのだ。あわれな、又愛らしいものと思う。とにかく一週間の休養を持つことにする。

十二月八日

(金曜)晴
 今朝は手洗鉢にあつい氷が張って居た由。夕刊を見ると零下幾度とか云うことだ。昨夜A、床につこうとして身動きをする拍子にまた相当に咯血。どこから出るのかわからないとは云うものの肺だろう。精神衝動でA手足がつめたくなり、体をふるわせる。湯たんぽを入れるやら何やらさわいだ。それでも十二時近くなってから私より先にあん眠し、いびきをかき始めた。それで、今日はかなり用心すると同時に失望したらしい。自分には、若しAがそうときまり仮令一年でも休養しなければならないとなったら、どうして生活を保って行くか、それが大きな疑問になって来た。その為に小説を書くのはいや。どうしてもいや。あまり悲し。それ故何か他に仕事はないかと思う。きまって百円位とれる仕事はないか。自分にこれ丈の技はないか、林町で一時立替えて貰うのは自分としても容易なことだがAの平常を思うと、一層彼を悪い人間だと思わせるほか効果はなさそうにさえ思う。
 真個にどうしたものか。今朝から大工が来、硝子障子を立てられるようにして行った。『女性改造』の主任が来たりし、せわしく、おまけに女中は不なれなので、一日せわしく心を使ったが、今、九時少し前、Aは床に入って眠りにつき、自分は一人片よせた机に向って此を書いて居、真面目な不安を覚える。そうとすれば、すっかり変った生活法――Aは転地をしなければいけまいし、自分もいずれはそちらへ行かなければなるまいから――でどの位入用か、精算し計画を立てなければならない。これ等につき思うこと、自分は、若しAが病ときまりでもしたら、どうかして、一日のうち幾時間かは、まるで自分の境遇に無関係なものをよみ、或は書く時間を持たなければいけない。それでないと、よくある、自己の境遇だけにかぎられて、つまり、良人の病と云うものによって知らされた人生の或一面、又は或心持、又は或事件だけに人生の見かたを定められてしまうおそれがある。境遇が苦しければ苦しいほど此は大切だろう。一方から云うとひとりでに、他面の要求が強くなると云えるかもしれない。

十二月九日

(土曜)晴
 午後一時頃寺沢氏来、やはり肺に明かな故障は見えないと云われ、とにかく慶応の奥田喜久三氏をよび見せる。半身裸体になった彼が、医者の前で心配相になり、命のままに、熱心に咳をし、深呼吸をし、どうかして大丈夫なことを知りたい、と云うようにして居るのを見、つくづくあわれになった。涙が出そうにさえなった。女の病気を弄ぶ心持とは異うと思い、悲惨になった。あれ一つ見ても女と男と、人生に対する気のしめ方が違うと思う。その人もとにかくどうかあるとは思えないと診断する。Aそれですっかり元気になり、二日ぶりで愉快そうに笑って夕飯をたべた。真個にありがたし。ありがたし。始めて吻っとし晴々とした心持になった。

十二月十日

(日曜)晴
 すっかり硝子戸が入りよろし。富樫来。A疲れ易いことは易いが、昨日から一度も血をかず。熱も少い。何でもないように、祈るほかなし。

十二月十一日

(月曜)晴
 A、変化なし。今日はかなりつづけて机に向って居たがさほど疲れないらしい。水曜に岸博士来の筈。

十二月十二日

(火曜)晴 四十七度
 Aの熱、今日は殆ど高低なくつづく。しきりにバハイズムのことを書いて居る。
 昨夜、寝しなに思ったことだが、自分が二つの時代のように或時代をはっきり現した作品をまとめたいと思う場合、こまかい材料のないので非常に困ることがある。つまり大体、東京明治時代とか何とか云うのはあっても、一年ずつそのときに何があったか、どんな流行があったか、こまかく書いたものはない。故に、自分は後の自分の仕事のためにも、又後世の人のためにも昔の人が、浮世かがみと云うようなものを書いた心持で、折にふれ、面白いと思ったこと、又生活に広い影響をなげたものを、新聞から切りぬいたり何かしてまとめて置いた方がよいと思いついたのだ。さし当り、朝日に出て居るアインシュタインの一平筆漫画でも切ぬく。つまらないようなことだが、所謂活きたリテラチューアで、あとでどんなに役立つかしれない。此を書いて居ると、まだやっと二十前後の若僧の声で、いかにも義務的に南妙法蓮華経の百万遍をやって居るのが、ひどく耳につき散漫になった。

十二月十三日

(水曜)晴
 A、よくなり始む。しきりに学校、学校とさわぐ。よくなって自分の仕事をして居られるのに行かないのはどうこうと云い、しきりに義務を云々するが、自分から見れば姑息でたまらず。今日鎌倉の岸博士が来られる筈故すっかり診て貰い、何ともないとでも云われればともかくそうでなかったら出て行き、又わるくなりどうする気か。
 然し少し深く考えて見ると、私としては幾分の利己的少くとも自己中心的な考があるらしい。つまり種々な意味で病気をされては私が困る――と云う心持。それ故、もう云うまいときめる。子供ではなしAは自分で考えてやればよいのだ。今朝の新聞に有島氏が一つ門中に三つも四つも家のある一つにこされ、部屋は五つほかなく、庭もないところだとよみ、深く深く動かされる。自分のうちにあるつまらない贅沢心、人の金をかりてまで家を作りたい――勿論よい書斎を持ちたいと云う意味ではあっても――Aの凡心と、よほどしっかりしないと、つまらない小ブルジョアになり下る傾向あり。恐ろしく思う。Aが、良人の心として許して居るもの、世間並の派手さなどは、此方からどしどし拒む勇気を要す。女などは、髪をきれいに結ぶ欲を持つ丈、男ほど純一に、深大になり得ない。一寸真剣になり、むきにはなれるが、自分にきびしくなる必要、必要、必要、無限にあり。
 夕方、鎌倉の岸博士来。やはりAの左胸部に浸潤があるとわかった。少くとも来年の二月頃まで休養を要すると。
 きっとそうだろうと思って居た故か、或は当時の緊張をすぎた故か自分はちっとも驚かなかった。そう診断されれば、Aの素人らしい元気にまかせるところがなくなり却ってよろしいと思った。
 只、斯うやってA家に居ると、見舞と云って来る人無数にあり。すっかり一日が、接客の為に忙殺される。たまらず。病気よりいやなり。

十二月十四日

(木曜)晴
 午前中出かけ久しぶりに外気を愉しむ。すっかり歳暮の気分なので意外のような心持す。――自分の気分にはちっともそう云う華やぎ、祭さわぎがないので、又もう一年が暮れるのかと痛切に思わせられることによって、又何もしなかったと悔をもって送る一年。
 赤坂見つけのところで縁側に敷くゴザを命じ、林町に行く。レコードをかえ、四時すぎにかえる。
 A平熱、すっかりバハーイズムをすませて送り出したよし。

十二月十五日

(金曜)晴
 今居る照、どうもよろしからず。それは私も認める。Aが、しきりにあれでは駄目と云い、昨夜もちゃんと家のことをひとりで出来る人をさがそうと云うことを話したが、今朝『時事』の広告を見、適当なところと思われるのがあったので、話し行かせて見る。てるは突然でやや驚いたらしく、私も気の毒に思う。しかし置けないものを我慢していつまで置いても仕方がないから。夕方帰って来て話すのを見ると、鏡花氏の家であった。あの女には、夫人も炊事を助けられると云うから適当なところと思う。夕、あちこちへ女を求める葉書を書く。
 学習院の書記の尾崎氏とか来、いろいろ学校の話をする。
 弁当に小使をつかって作る話、彼は多忙で人が足らないから反対するのだそうだが上官の命令で、自分が菜作りをやらなければならない、おまけに食費は払うと云うようなこと。
 書記などと云うと、教授連は、まるで下に見て居て対等にあつかわないのだそうだ。A頻りに自分の彼等から受けるポピュラリティーについて云う。いやなことなり。あんな馬鹿なところに居ると、普通のことを偉いこと、珍しいこと、すぐれたことのように思うようになるからたまらない。ずんずん低下する(人間としてのレベルが)ばかりではないか。

十二月十六日

(土曜)晴
 昨夜A少々発熱。今日は大事をとり声まで小さいのを出して居る。
 てる、泉さんのところはどうしてもいやと云う。ことわりに行く。此から行くところもないのに戻すのは実際きのどくでしかたがないが、代りの女と顔を合わせも不愉快だろうし、やはり、今日本郷に戻すよりほかなかろう。日常の生活と云うものは此那にいろいろつまらない、而して全神経を使うことばかりに満ちて居るのかと思う。いやなり、いやなり、穴の中にでもいいから入ったきりで仕事がしたい。仕事が出来ないとなおなおしたいものなるや。
 てる、気の毒ながら午後から本郷にかえす。不自由だろうと思い金二円ばかり余計にやる。
 林町からとり来。
 種々なことで気をつけないと自分の頭は、ごたごたになる。

十二月十七日

(日曜)晴
 A、変なし。
 派出婦人会から二三人女が来たがどうもすれて居て、妙にあつかましくて、いやなものなり。どうしても種々な家庭をまわって歩いて相当な金はとるので、ああなのだろう。
 健康で生活力に漲って居る妻と、病夫との生活について思う。一生続くとしたら悲惨なものなり。海の音、そして鎌倉辺を背景とし書いて見たく思う。恐ろしいものが出来るだろう。
 自分は病人はきらいだ。まして良人である場合。
 自省して見ると、微妙な種々のことがある。
 Aがまるきり床についてでも居れば又感じは違うだろうが。
 頭を調えるために勉強する。神経衰弱のようだ。なっては大変。
 夜埃及エジプト文学をよむ。文学そのものとしてよりも、原始宗教心、人類の発達史的の立場から、興味をそそることが多い。

十二月十八日

(月曜)晴
 なかなか寒気きびしくなる。朝は大抵零下のようなり。
 A今朝から昼まで床に入って居ることにきめ、スープを床でとる。
 新たに新聞広告をしたが、よい女中が来るかどうか。
 平塚氏を中心とした新婦人協会が平塚さんの隠退とともに婦人連盟となり、それが又離れて二つになろうとすると新聞で見る。むずかしいものなり。つまり各人の力が充実してそのコントリビューションで、何とかとにかくやって行けると云うのでなく、先ず会をまとめ、自分も目的――生活の――をさずかろうとするからことが面倒になりつまらない分裂 分裂が繰返され婦人運動の面目をつぶすことになってしまうのだ。仕事本位になりその自覚がきっちりしないうちは千度やりなおしても衝突の繰返しになるだろう。





底本:「宮本百合子全集 第二十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年5月20日初版
   1986(昭和61)年3月20日第5刷
入力:柴田卓治
校正:青空文庫(校正支援)
2013年9月21日作成
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