追憶

宮本百合子




 二日も降り続いて居た雨がようよう止んで、時候の暑さが又ソロソロと這い出して来た様な日である。
 まだ乾き切らない湿気と鈍い日差しが皆の心も体もるくさせて、天気に感じ易い私は非常に不調和な気分になって居た。
 一日中書斎に座って、呆んやり立木の姿や有難い本の列などを眺めながら、周囲の沈んだ静けさと、物懶ものうさに連れて、いつとはなし今自分の座って居る丁度此の処に彼の体の真中頃を置いて死に掛った叔父の事を思い出して居た。
 私が七つの時に叔父は死んだ。
 そして其の死は極めて平凡な――別に大した疑問も多くの者が抱かなかった程明かな病名と順序を持ったものであった。
 彼は悲しまれ惜しまれて丁寧に葬られた。
 けれ共十年立った今では死んだ者の多くがそうである通りに彼の名も彼の相貌も大方は忘られて、極く稀に兄弟や親族の誰彼の胸に「昔の思い出」として淡い記憶の裡に蘇返るばかりである。
 其故只一年位ほか一緒に居なかった私而かもまだ小学に入った許り位の私にとって彼の現れそして去った間の事には、新たな涙を今も流す程の事として残されては居なかった。
 それは当然の事として去年あたりまでは過ぎて来て居たのである。
 けれ共此頃になっては、何かにつけて思い出す三十二三の彼と私との間に織られた記憶の断片が種々な点で私にとっては忘れ難いものになって来た。
 其の原因が何であるか私は分らない。
 又分らせ様とも仕ないけれ共、漸う育ち掛けて来た感情の最大限の愛情を持って対した私と、宗教的に馴練されたどちらかと云えば重苦しい厳粛な愛情を注いで居た彼との間に行き交うて居た気持は、極く単純ではあったにしろ他の何人の手出しも許されない純なものであった事を思い出す。
 私は両親に対してより以上の愛を彼に捧げて居た。
 彼の死の二三日前まで一刻も私は離れて居た事がなかった。
 彼の影の様に暮して居た私は今になって暫くの間弱められて居た彼へ対しての愛情がより種々の輝きを添えて燃え出して来た事を感じて居るのである。
 誰でも多くの人はその幼年時代の或る一つの出来事に対して自分の持った単純な幼い愛情を年の立つままに世の多くの出来事に遭遇する毎に思い浮べて見ると、真に一色なものでは有りながら久遠の愛と呼び度い様ななつかしい慰められる愛を感じる事が必ず一つは有るであろう事を信じる。
 彼はその私の久遠の愛の焦点であった事を断言する事が出来るのである。
 彼は私の親族中只独りの宗教家であった。
 而かも献身的な信仰を持って居た人であったので、周囲の者の目には様々な形に変えられて写り記憶されて居るで有ろうけれ共私に対しての彼は常に陰鬱に深い悲しみが去らない様な態度を持って居る人であった。彼の目は大きい方ではなかった。
 けれ共其の黒い確かな瞳には力が籠って居て多少人を威圧する様な、しっかり自分の立ち場を保って動かされない様な感じをさえ持って居た。
 青黒く肉の薄い顔。
 高い額の下に深い陰を作って居る太い眉。
 重々しい動作と低くゆるゆると物を云う声。其等は彼特有のすべての表情を作って居たらしく――人の話に依れば確かに一度見れば忘れない印象を与えるそうだったが、私に対しては記憶の裡の叔父の顔と今生きて居る或る盲目に成ろうとして居る男との顔が混同して、宙に顔の細かい部分部分まで思い浮べる事は非常に難かしい事なのである。
 其の男の顔中に漲って居る底奥い沈鬱さと色が大変よく叔父に似通って居るからなのである。
 一番思い出さるべき顔の様子までその様に自分のものは不明瞭であるから、これから書いて見様とする種々な時に起った様々な事柄の互の間には何の連絡もなく、理由も時間も明かでない事の方が多い。
 また彼の死ぬまでの経歴等と云うものも私は云う積りではない。
 私は只、私と居た一年足らずの間に私の稚い記憶の裡に生き死にをした彼に――私の愛した叔父に会おうとするのである。

 長らく米国に居て宗教の研究をして居た彼は突然何の前知らせもなしに帰朝した。
 此の不意の出来事には、彼地で家庭を持ち死ぬまでを暮す積りで居るのだと予想して居た多くの者共を非常に喫驚びっくりさせた。
「まあよくお帰りになった。
と云う一句は実に種々な意味を以て囁かれたのであった。
 彼は只帰り度く成って帰ったと云っては居たけれ共今思えば――それは非常な憶測かも知れないが――只単純にそれ丈の理由であったろうとは思われない。
 何故なら彼は暗示を受け得る人であったと云う事を父は屡々話す事が有るからである。
 勿論暗示を受けると云う事は宗教家にのみ与えられる特典ではない。
 けれ共彼は当時英国に居た私の父の所へ便りをする毎に、「水に入ると必ず危険が起る」と云う暗示を受けたからと云う注意を忘れなかったそうである。
 父は唯一人の弟の好意を拒む理由も持たなかったし、又「神を試みる」には年を取り過ぎて居たので云う言葉通りに守って居たと云う事がある。
 其れ故彼が自分の死の近いのを感じて生れた国に帰って来たのではなかったかと云う事が思われる。
 兎に角彼が皆の驚きの裡に帰って来て間もない日の事であった。
 其の時分父が洋行して長い留守中だったので、思い掛けず此の叔父の帰宅した事はどの位私にとって嬉しい事で有ったか分らない。
 私は喜びで夢中になった。
 そして、朝から晩まで肩にすがったり、手にブラ下ったりしながら、海のむこーに在ると云うまるでお話の様な国の話に聞きほれて居たので、朝からお昼まで学校のかたい机に向って居るために彼と分れなければならないと云う事は実に此上ない悲しい辛い事であった。
 私は学校へ行かないと駄々をこねた。
 最う知って居る事を習いに学校へ行くよりお叔父ちゃんのお話の方がためになると理屈を並べたけれ共とうとう叔父が学校へ迎に来て呉れると云う約束をして貰って出掛ける事になった。
 私は行く道から帰りの事を考えて居た。
 そしてそれからの三時間がどれ位ノロノロと馬鹿らしく立って行った事か。
 先生のお辞儀が済むと狭い出入口で前の子を押しつける様にして馳け出して見ると、いつも女中の立って居る所に今日は約束通り叔父が笑いながら待って居てくれた。
 私は笑み崩れながら跳び付いた。
 そうすると叔父は私の頭を押し叩いてくれた。私の満足は頂上に達して踊る様に歩き出そうとすると、今までの様子を傍に立って珍らしそうに見て居た私よりズーット大きい男の子はいきなり賤しいかすれ声を立てて、
「ヤーイ、ヤーイ、チャンコロヤイ
 男の癖に髪を長くして居やがらあ。
と云うと赤んべーをしてどしどし逃げ出した。
 私は非常に驚いた。
 そして間誤付きながら叔父の顔を見ると、子供ながら動かされた程だまって逃げて行く子供の方を見守って居る彼の顔は悲しそうに又厳かであった。
 私は心配であった。
 けれ共今まで気が付かずに居た叔父の髪の長い事を知ると非常に好奇心を動かされて、高い処にある彼の頭を眺めた。
 其処には実に奇麗な――ああちゃんのと同んなじ様だと思った程の光った髪の房が肩の上まで下って居た。
 私が目を大きくした位それは立派だった。
 素直で厚くて重そうでお飾りの様であった。
「何て好んだろう。
 まあほんとに奇麗にそろって光って居るんだろう。
 左様思うと私には、男の子が罵った理由がまるで分らなくなった。
 何故男の人は髪を長くしては可笑しいのか。どうしてチャンコロになるのか。
 私は自分の大切な者を悪く云われた口惜しさが胸一杯になった。
 けれ共彼はだまって私の手を引いて歩き出した。
 私はどうかして泣くまいとして口を引き歪めたり、しかめ顔をして堪え様とした。
 私の周囲には泣き顔を見られたくない沢山のお友達が居たからである。
 が、とうとう堪えられなくなって一粒涙がこぼれ出すともう遠慮も何もなくなって私は手放しの啜り泣きを始めた。
 手を握って居ながら叔父はまるで別な事を考えて居るらしかった。
 彼は一層陰気な顔になってうつむきながら私を慰め様ともすかそうともしずに歩いた。
 泣きじゃくる私と、考え沈む彼とはお寺の多い通りを多勢の子供達の驚きの的となりながらのろのろ、のろのろと、動いて行ったのである。
 泣きながら私はぼんやりと大変お天気の温かな事を感じて居た。

 外には雨が降って居た。
 そして昼であった。
 只それ丈が分って居る丈でどうした訳でその様な時に叔父が床に就いて居たのかまるで分らないが、私はその傍にゴロンところがって足をバタバタ動かしながら種々な事を話して居た。
 ――大変にその室が暗かったから多分雨でも降って居たのだろう。
 私は種々喋った末何の気なしに甘えた口調で友達の一人が自分を酷めて困る事を告げ、或る慰めと同意をかすかに期待しながら、
「ほんとうにいやな人なのよ、
 私憎らしくって仕様がないわ。
と云うと、思いがけず私の延して居た腕に飛び上る程の痛みを感じた。
 ハット思った心が鎮まると漸う私は彼に抓られたのだと云う事が分った。
 私の云った事が此れ程の報酬を受けなければならない程大変悪い事であったろうとはどうしても思えなかったので、すっかり怯えた心持に成って仕舞った。
 自分の大切に思って居る人から叱られる事は私には一番たまらない事である。
 もう(ママ)ぐにも逃げ出し度い様になりながらも、左様しては悪いだろうと云う遠慮が起って非常に途方に暮れた心持になった事があった。
 此の一事は私の無遠慮な言葉に制限を与える様になった。
 それから後は、彼に何か話す時今まで感じなかった様な用心深さと緊張が胸一杯になって、彼に「何でも喋る」と云う打ちまかせた態度から僅かながら遠のかせられた。
 此の事を思う毎に若し私が十年立つ今まで、彼と一緒に、少なくとも折々は会いもし口も利く生活をして来たら、かなり有りのままに自分自身を表わして居る私の今の生活がどの様に変化させられただろうと云う事を興味深く考える。
 私がクリスチャンになって居た事丈は恐らくどっち道間違い無い事であったろう。
 左様でなく終った事は私にとって不幸であったか幸福であるかは分らない。

 彼は朝から晩まで大抵は自分の部屋に閉じこもって本の裡に暮して居た。
 其の時分は、今私の書斎になって居る陰の多い、庇が長い為に日光が直射する事のない、考えるには真に工合の好い五畳が空き部屋になって居たので、其処がすぐ「お叔父ちゃんのお部屋」に定められて居た。
 非常に砂壁の落ちる棚の上だの部屋の周囲にはトランクから出した許りで入れるものもない沢山の本が只じかに並べてあって、鳶色をした薄い同じ本が沢山荒繩にくくられてころがって在ったりした。
 その鳶色の本を今見れば彼が非常に苦心して出版した『神の大いなる日』と云う書籍の残本であったのだけれ共、その時分の私には只「同じな沢山のご本」と丈ほか見えなかったのである。
「お叔父ちゃんの御本」は皆テラテラした紙に面白い絵の沢山書いてある好い香いのするものであった。
 赤や青や時にはほんとに奇麗な金や銀の表紙の付いて居る其等の本は、灰色の表紙と只黒い色でポツポツと机や枝のしなびたのが付いて居る教科書よりどれ位子供心に興味を持たせ読み度いと思わせるものであったか分らない。
 どんなにか面白そうであった。
 けれ共皆悲しい事には英語で、私の読める片仮名と平仮名ではなかったので只の一字も感じる事さえ出来なかったけれ共、実にちゃんと並んである字の下に赤や青の線が随分沢山ついて居るのは全く解せない事であった。
 まして、切角白くしてある所へゴチャゴチャと汚ない程種々なものが書きつけてあるのを見ると私はすっかり喫驚して仕舞った。
「お叔父ちゃん、
 随分いけないわねえ此那に御本よごして……
 先生に叱られない?
 彼は只笑いながら頭をポトポトと叩いてくれた丈で私の大疑問は解決されないで終った。
 けれ共私は羽根のある可愛い自分がお伽噺で読む通りの子供達の群や天に昇って行く美くしい人々の絵を見ると、今まで読んだ沢山のお話が皆実現されて来る様に感じた。
 或時は自分自身の肩からスクスクと羽根が生えて、多勢の人達の歌ったり踊ったりして居る大変面白そうな国まで飛んで行く事を夢想したり、子供の頭から皆光りが差して居るので自分のは如何うかと思ってソーッと鏡を見ると只黒い小さい頭がある丈なのに非常に失望した事もある。
 其等の空想的な宗教画は少なからず「私のお話」の材料になるに益だって、折につけて口から出まかせの私独りのお話は前よりも数多くなりより架空的になって行って、此れまで此上ないものとして読んで居たあたり前の人間と人間が「けんか」をしたり戦をしたりする丈のものは非常にあき足らなくなって来た。
 魔法のお婆さんはより歓迎され、一寸目ばたきする間に大きな御殿を作れるお姫様が待ち迎えられる様になったのである。
 私は彼に種々の御話をきかせた。
 どの様なものも皆彼を喜ばせたらしかったけれ共、何か一つでも悪い事をした者は必ず何処かで、
「神様御免下さい、
 もう致しません。
と云わなければ其の話は終りを告げる事は出来なかったものである。

 彼が中耳炎を起したのは帰って半年立つか立たない時であった。
 大学に入院して切開して貰ったのだけれ共、後から聞くと、自分は斯うやって死ぬ運命を与えられて居るのだから病院へ等入って、終るべき命を無理算段で延して置く事は望まないと云ってなかなかきかなかったそうである。けれ共私の母や親類の者は気を揉んで、散々説きすかして子供をあやす様にしながら入院させたそうである。
 そして、手術室に入ろうとした時、他の人の手術をされた血だの道具などが凄い様子で取り散らしてあるのを見たら気が遠くなって成って行く様な、忽ち自分自身の命が気遣われ出したと後は死ぬまでよく繰返し繰返し云ったと云う事も聞いて居る。
 叔父が入院して居る間中動けない時には毎日毎日欠かさず一度ずつは学校から帰ると(ママ)ぐお見舞に行くのが常であった。
 どんな病室であったかまるで覚えては居ないが、何でも入口から室までの廊下が大変長く静かで、両側の白壁に気味悪く反響する足音におびやかされて、中頃まで来ると、馳け出さずには居られない気持になったのを思い出す事が出来た。
 うっすり思い浮ぶ彼の室は非常に狭い廊下の突きあたりから二番目の灰色の扉の付いた部屋であった様だ。若し間違えては否ないと云うので、戸の傍に掛って居る札の自分に読める名字を確かめてから看護婦のする様にコツコツと拳で叩いてから大人になった様な心持で入って行った。
 その部屋へ行く途中の手術室の前を通るときに、チラチラ見える人影や何かに好奇心を動かされて、のぞきたいと思いながらこわくて止めた事は幾度だか分らない。
 今でも好きな病院特有の薬臭さが其の頃から気持よくて、出入口に一歩足を入れるともう軽い興奮を覚える様であった。
 殊に彼の明るい天井の手術室の辺に漂うて居た消毒薬の香いは、今でも此の鼻の先に嗅げる程はっきりした印象となって残って居るのである。

 或る大変吹き降りのする日に、学校から帰ると母の止めるのもきかずに合羽を着小さい奴傘を差して病院に出かけた。
 多分独りだったと思う。
 まだあんなに道路の改正されない間の本郷の大通りは雨が降るとゴタゴタになって今では想像もされない程ひどい路であった。
 ころばない要心にどんな大雨でもそれより外履いた事のない私の足駄――それは低い日和下駄に爪皮のかかったものである――では、泥にもぐったり、はねがじきに上ったりして大層な難儀をしなければならなかった。
 小一時間も掛って漸う赤門の傍まで来た時、車をよける拍子か何かに、引ったくる様にして持って来たリンゴを風呂敷の包み目から二つ程、ドロンコの中にころがして仕舞った。
 どんな工合にしてそれを持って行ったか覚えないが、とにかくどうにか斯うにかして病室にたどり付いて、母に教えられてある通り猫の様にカタリとも云わせずに戸をあけて入ると、叔父は薄目をして、
「おようか。
とぼやけた声で云った。
「おようさん」と云うのは叔父の妹で真に好い人であったが若くて死んだ人である。
 此の叔母ちゃんに就ても私は種々な思い出を持って居る。
 けれ共、じきに叔父は私だと云うのを知って、大変によろこんで呉れた。
 雨が降るから来まいと思って居たのに大変強い児だとか、左様云う心を持って居るとどうだとか種々云いながら、私の気の毒そうに出した泥団子の様なリンゴを見ると、いきなりそれを握って、
「有難う、
 ほんとにありがとうよ。
 何よりも嬉しい。
と云って、いつもの様に目を上に向けてお祈りを仕始めた。
 だまって傍に立ってそれを見て居た私は、何とも云えない感情が胸一杯に湧き上って、大声を上げて泣きたくて泣きたくて、どうにも堪えられない心持にさせられて居た。
 彼の時の息がつまる様な胸が痛い様な苦しい感じは今でも私の心にはっきり戻って来る事がある。
 私は喜ばれて嬉しかった。
 けれ共泥リンゴが何故その様に好い物であるかは分らなかった。
 私は種々考えたし聞きたいとも思ったが、この事は只自分丈の思い、喜ばれて居る事で他の人に云うには惜しい事だと云う様な心持になって、つい誰にも母にさえも話さなかった事である。

 叔父の寝台の傍で聞いた宗教的な種々の話は実に沢山であった。
 アダム、イブの話。
 ノアの箱舟。
 クリストの子供の時の話。
 Babel の塔。
 其の他種々の話を、彼は我々が日常の出来事に対して云う通りな静かな事実を有りのまま物語って居る様な口調で話した。
 子供にお噺だと云う感じを一寸も持たせなかった程、真面目に深重な様子であったので、私は彼の言葉のままに世界を作り無花果を食べ、大きな石を積み上げ様とする人民になりすまして居た。
 そして、まるで心をその事々に奪われた様になって、枕をかついで、
「あー高くなったねえ、
 今度は何か上げ様、
 石かえ、
 聞えませんよそいじゃあ駄目だ。
等と叫んだり、自分が蛇になって二人の弟のアダムとイブに、
「貴女そりゃあ美味しいのよ、
 おあがりなさい。
 神様がけちんぼうだから食べるなっておっしゃるのよ。
等と云うので母に心配がらせた事も少くはなかった。私があんまり空想的な想像にばかり心を支配されて居る事を母は案じたのである。
 その数多い話の中で一番私を喜ばせもし又自分の何も知らない事を悲しませたのは、ノアの洪水の話であった。
 私は生れて一度も大水を見た事はない。
 それだのにどうして世界中の滅びる様な洪水を想像出来様。
 けれ共、大きな箱舟の中に牛だの馬だの鳩だのと一緒に世界にノアがたった一人決して死なずに、今日も明日もポッカリ、ポッカリと山を越したり海だった所を渡ったりして行クと云う事が、無性に羨しかった。
 どんな偉い王様も、獣も皆溺れるのにノアだけ生きて広い世界中を旅行すると云う事は何と云う幸な事であろう。
 若しお叔父ちゃんの話す様に神様は偉いなら、お願いさえすればきっと自分もノアにして下さるだろうと云う事を思わない訳には行かなかった。
 そうなったら、彼の本と彼のオルガンとお母様、お父様、くんちゃん、みっちゃん、誰と誰を皆連れて行ってあげ様などとさえ思った事があった。
 此の時分に私は神様と云う事を度々きかされた。
 そして、漠然と神様があるのかもしれないと云う事を感じる様になったけれ共、悪い事をすると好い所へつれて行って下さらないと云う神様と、美味しいお菓子や御飯を下さる神様とは、どっちがほんとうの神様かしらと思い迷うた事が決して一度や二度ではなかった。
 その様な風であったから、神様を有難いとしみじみ思う事も出来ず、彼の希望して居ただろう様な、宗教的感化を受ける事は殆どなかったと云ってよい位であった。
 けれ共、彼の心の中には、いつとはなしに私を自動的に宗教的な生活を望ませる様に仕度いと云う願いもあった事はかなり確かな事である。
 今日まで彼の居なかったと云う事は、私の生涯に意味のある事である。
 若し彼が今日まで居、私も又今通りに生育して来たものとすれば、彼と私との間には互に辛い争闘を起さなければならなかったろうし又小さかった時分の種々の思い出に苦がい涙を味わせられた事であったろう。
 私は正直に打ちあける。
 彼の日の彼の時に彼が去ったと云う事は互のために誠によい事であった。
 私は今彼に久遠の愛情を感じ、彼によって与えられた静かな愛を心の裡に保ち続けて居られる。
 二つの霊の交通は彼の時の純なまま愛に満ちたまま何物にも色付けられる事なしに、墓に入る日まで私の胸に響き返る事が出来るのである。

 大変深く切った疵も少しずつなおりかけて来ると、独りでボツボツと食べる病院の飯は不美味いと云ってはお昼頃大きな繃帯で印度人の様に頭を(ママ)いた叔父がソロソロと帰って来る様になった。
 その頃は長かった髪も頭の地の透く程短かく散斬りにし、頬の肉が前より一層こけたので、只さえ陰気であった顔は一倍凄くなった。
 黒っぽい木綿の着物に白い帯をした彼が、特別にでも自分だけは粗末な品数の少ない食卓にしてもらって、子供達の話や母の慰めを満足したらしく聞きながら、一口ずつ噛みしめて食べて居た様子がありありと目に浮ぶ程である。

 或る日いつもの様に庭木戸の方から入って来た彼は、縁側にドサリと腰を下すと持って来た杖がころがったのに耳もかさず、妙にソーケ立った様な顔をしてだまって溜息を吐いて暫くしてから、
「余程弱ったものと見えて今日は来る道に目が廻って仕様がなかった。
 高等学校の角で三十分もしゃがんで居た。
とさもげんなりした様に云った。
 此の時位私の心に彼に対して憐みの湧いた事はなかった。
 今までは叔父と云えばどうしても自分より偉く強く、どんな時でも困る苦しい事はない人だと云う様な気がして居たのが根底から引っくり返されて仕舞ったのである。
 彼の棒を並べた様な垣によっかかって、人の足元の塵を浴びながら叔父ちゃんが苦しがって居るのに、沢山通る人の一人もどうしたのかと云ってさえ上げる人はないのか。
 何と云うひどい人の集まりだろう。
 何故自分が行ってそんな悪い人達を睨みながら大切にお叔父ちゃんを連れて来て上げなかったろう。
 私は自分自身の手ぬかりの大いさに苦しめられると共に「悪い大人共」に対する憎しみで体が震える様であった。
 そして彼に対する大人らしい同情が一層愛情を強く燃えたたせて、彼の味方は世界中に自分がたった一人有るばかりだと云う肩の折れそうな責任と誇りを感じたのであった。
 その時から私の知って居る以外の大人共は非常に減ぜられた価値を持って私の前に現われて来たのである。
 其那事があってからじきに叔父は家に帰って来た。けれ共頭の繃帯は少し薄くなった丈で常に気分が悪そうに悲しそうであった。
 時には、やつれた髭の長くなった頬に止め度なくボロボロと涙をこぼしながら、抱かられて訳も分らず悲しくなった私と一緒に長い事啜泣きして居た事もあった。
 その時分には、彼の私に対する愛情は前よりも余程熱情的になって来て居たらしい。
 彼が無言で涙組んで居るのを見ると、私には言葉には云えないでも彼の心はすっかり感じられる様になって二つの感傷的な心は、非常な調和と帰一を見出し得て居た。
 もうじき死のうとして居た彼の心には種々の霊感、感激、暗示に満たされて居たのであろう。
 彼の最も深い苦悩と歓喜は此の時に一番群がり湧いて居たのであろう。
 若し彼が言葉を持って居たらさぞ動かさずには置かない事々を物語ったで有ろうけれ共彼は只祈る事丈を知って居た。
 実際彼はそのころ祈祷の明暮れを送って居たのである。

 其の日は大変天気が好かった。
 多分十月の末であったと思うが、高々と澄み渡った空の下に木々の葉が皆金色に踊って居る様な日和であった。
 私は叔父に連れられて家を出かけた。
 何処へ行くと云う的もなく、二人は家の前の細道を曲って人通りの少ない坂を田圃の方へ下りて行った。
 叔父はいつもの通り頭に繃帯をし、杖を持って居、私は、十位までよく着て居た赤地に細い白線で市松が小さく小さく切ってある遠方から見ると真赤に外見えない様な着物を着て居たと覚えて居る。
 田圃や畑の間を少し行くと思いがけず私共は両方が林になって居る大変急な細道に行かかって居た。
 幅が狭い上に梢で遮ぎられた日光がよく差し透さないので、所々に苔の生えた其の道を弱いたどたどしい二人が登り切るのはなかなか大した事であった。
 只何かの時にと持って居る叔父の杖は大変益に立って、滑ろうとする足を踏みしめる毎に、躰の重味で細い杖が折れそうにまで撓むのを、どんなにハラハラして私は見て居たかしれない。
 息をはずませながら私は叔父の袂を引っぱって一足一足と踏みしめて、漸う最後の一歩を登り切ると、其処にはひろびろと拡がった高原が双手を延ばして私共を引きあげて居た。
 私は生れてから此那にも草の一杯生えた、こんなにも人の居ない林のある処を見た事がない。
 今立って居る処から四方へ延び拡がって居る草原は、黄緑色にはてしなく続いて、遠い向うには海の様な空の中に草の頭がそろってしなやかにユーラリ、ユラリとそよいで、一吹風が吹き渡ると、林中の葉と原中の草が甘い薫りを立ててサヤサヤ、サヤサヤと鳴り渡る。はっきりした茶色の幹を輝かして立って居る一群の木々の間からは真紅の小さい葉どもがチラチラして、その奥の奥からはチチチチチ、チチチチチと云う小鳥の声があっちにゆったり落着いて居る山の方まで響いて行く。
 私は歓びと驚きで胸が張ち切れそうになった。
 太陽のよっぽど近くまで来たのではあるまいかと思った程四辺は明るく金茶色に輝いて、天は私が爪立てたら触れそうに感じられた。
 静かに分けて行くと、黒い丸い小さい実をつけたり、御飯粒の様な凋んだ花を付けた高い草が私の胸の所で左右に分れて、ブーンと風音をたてながら小虫が飛び出したりした。
 私はうれしさに我を忘れて一気に向うまで馳け抜けて見ると、丁度カステラの切り目そっくりな※(「涯のつくり」、第3水準1-14-82)がけが目の前に切ったって居る。
 私には見当もつかない程低い低い下の方から(ママ)ぐの足元まで這い上って居るその※(「涯のつくり」、第3水準1-14-82)の面は鋭い武器で切られた様に滑らかそうで、赤土の堅い層の面をポカポカなそれより黄色い粉の様な泥が被うて居た。
 そこからは弟達の玩具の通りな汽車の線路や、家や、私のお噺の国に住わせたい様な人が小さくチョコチョコと働いて居るのが見られた。
 私があっけに取られて居る後から追い付いた叔父は私と並んでその※(「涯のつくり」、第3水準1-14-82)のとっぽ先に腰をかけた。
 けれ共私は、自分の足の先が宙に浮いてブラブラして居るのに気がつくと、地面ごとあの下の方までころがって行きそうな不安や、若し此の草履を落したら誰があすこから拾って来て呉れるかしらと思うと、気味が悪くなって、ジリジリと後へ下って傍の草地へ座ってしまった。
 叔父はすぐそばに見える山について種々の事を話してくれた。
 自分がまだ子供だった時夜足駄を履いて登った事があって、天狗が居ると云う事だと聞くと私の驚きは頂上になった。
 赤面の棒鼻をした白髪の天狗が赤い着物を着羽根の団扇を持って何処の木の上に止まって居るだろうと、只なだらかに浮いて見える山の姿に目を凝した。
 勿論偉い天狗様は見え様筈もなかったけれ共、叔父は天狗の事から又神様の事を話し出した。彼は非常に興奮した口調で殆ど叱責する様に私には分らない種々の事を説き聞かせた。
 そして終には、教会の説教台に立って、幾百かの聴衆を前にして居ると同様に、手を動かし眉をあげて、いよいよ声高に云うのを見て居ると、私は何よりも先ず激しい恐怖に捕われて仕舞った。
 生れて始めて斯う云う処に来た事丈でさえ異った気持にされて居たのに、叔父の様子と声は七つの子供に対しては余り厳格であり解し得ないものであったので、今にも(ママ)ぐ逃げ出したい気持になって居た。
 けれ共逃げ様にも行く道は分らなかった。
 私は途方にくれて、きっと気が急に違ったに相違ない叔父の素振りをおずおずながめて居たが到頭堪え切れなくなって、
「帰りましょうよ、
 ね叔父ちゃん、
 帰りましょうってば。
とせがみ出した。
 必死の力を出して骨の出た彼の肩をゆすったり、手を引っぱったりして、漸々彼を立ち上らせたのは、余程立ってからの事であった。そして行きより非常に長くかかって家に帰り着いた。此の忘られない事のあった※(「涯のつくり」、第3水準1-14-82)は何処の所か私には長い事分らないで居たので、或時は其等の事は皆自分の空想なのでは有るまいかと云う気持にさえ成った事があるが、いつだったか目黒へ行く時田端へ出る近路だと連れて行かれた処は、丁度私の記憶の中の彼の野原であった。
 此の時私は訳もない安心で何となし心が軽々となった。
 其処は、佐竹さんの所有地で道灌山のすぐ傍にあたる所であったのだ。
 それから後屡々私は弟達と遊びに行った。林の奥では彼の時の様に小鳥が囀り日は同じ様に黄金色に光って居る。
 筑波山の天狗は何時まで生きて居るだろう。
 私と叔父が一緒に出たのは之が最後であった。

 大変に悪くなったのは、十一月の二十五日の晩であったと覚えて居る。
 大病人を抱えた家の中は皆足音を忍ばせながらも走って歩くほど混雑して居たので、只邪魔になるほか能のなかった小さい私は、弟共と一緒に一番奥の間に宵の口から寝かされた。
 不安だと云うのでもなく、可哀そうだと云うのでもなく、家中のどよめきに連れて只ソワソワして居た私は、深く夜着の中にもぐって居ながら、遠くの足音にも耳をすませたり、一寸人が近くまで来ると、咳払いをしたりわざと欠伸あくびをしたりして専ら気の毒な自分が寝もやらずに居る事を知って貰おうとしたけれ共、誰一人障子に手を掛けて見様とする者さえなくって、自分の事などは見向きもしない様にセッセと行く所へ行ってサッサと帰って行って仕舞った。
 私のいら立ちが激しくなるにつれて家中のざわめきは益々ひどくなって、台所で女中が弾んだ声で、
「富田さん富田さん
と叫ぶのに混ってバタバタ云う草履の音や氷を欠く響きが只事ならず段々更けて行く夜の空気を乱して聞えて来た。
 向うの方は昼の様に明るく、不断はついて居ない灯まで廊下の角々や風呂場にあかあかと光って居る。
 何と云う賑やかな面白そうな事だろう。
 私は起きて行って見たくなって来た。
 初めの間は母に叱られるのを考えて足をムズムズさせながらも我慢して居たが、其等の騒がしい音は丁度楽隊が子供の心を引き付けるより以上の力で病室へ病室へと私の浮足たった霊を誘い寄せるのであった。
 私の我慢は負けて仕舞った。
 そして到頭隣りのリンゴをもぐ様な心持になって起き上って、廊下へ一歩出ると、あんまり真暗闇だったのと、これから取り掛ろうとする大冒険の緊張で、犬っころの様な身震いをした。
 足の裏の千切れて仕舞いそうなのを堪えて探り足で廊下の曲り角まで行くと右側の無双窓の閉め忘れた所から吹き込む夜の風が切る様に私に打ちかかって、止め様としても止まらない胴震いと歯鳴りに私はウワワワワと獣の様な声を出して仕舞った。
 もう真から気味の悪い思いをして漸う廊下を抜けて、叔父の部屋の傍まで来たかと思うと、いきなり私の心を引っさらって行く様な物凄い呻めき声が起った。
 私は縮み上った。
 そして、此那気味が悪いのに何故来たのかと云う気持にもなりながら、矢張り怖わいもの見たさで、少し隙き間の出来て居た襖の陰にぴったり貼り付いて中をのぞいた。
 部屋の中は平常叔父の使って居たのとは違って大きい光った油壺の照り返しまで付いた洋燈が灯って居るので他所の部屋の様に明るくて、大きい影坊子が向うの壁の上に重ったり離れたりして居る。
 沢山の人が居ながら皆自分が病気の様にだまって居る。
 お祖母様もお叔母ちゃんもああちゃんも……黒い洋服を着て居るのはお医者様だろう。
 オヤオヤ変なものだ何が彼那に光って居るのだろう。
 私は大変珍らしく暖くなった様な心持になって、自分がかくれて居るのだと云う事等は、すっかり忘れてあれこれと見廻して居ると、祖母の陰になって顔の見えない叔父の声が突然非常に大きく、
「嫂さん。
と投げつける様に叫んだ。
 苦しくて苦しくて堪らない息を吐くと一緒に夢中で出た様なその声は太く短くかすれて居た。
「え?
 え? 何ですか。
 母は体を曲げた様であったがあんまり恐ろしかったので私は隙き間から目を離して、しっかり瞼をつぶって仕舞った。
 此の次はどんな声がするだろうと思うと、急に心臓の鼓動は激しくなり喉元で息をしながら動きもしずに立ちすくんで居ると、急に明るい光りが薄い瞼を透して感じられたのでハット思って目をあくと、目の前にはいつもより大変大きく見えた母が立って居た。
 あんまり意外だったので、声も出なかった私は、ボンヤリ立って居ると、
「まあお前は……
 さあ彼方へ行って寝て居ましょう。
と云いながら母は元の部屋まで送って来て、パタパタとたたきつけると、
「今御用がすんだらすぐ来ますよ。
とすぐ又独りぼっち置いて行ってしまった。私は暫く眠られないで怖わい思いをした。
 けれ共いつの間にか子供の正体ない眠に落ちて、翌朝一人でに目をさまして見ると、昨夜の事は嘘の様に静まり返った家中は水を打った様であった。
 女中の話で昨夜の夜中に叔父と母や其の他の者は又病院に行って仕舞ったと云う事を知ったけれ共別段驚きも悲しみも私の心には起らなかった。
 学校が無かったのか行かなかったのかして、弟とその時分しきりにして遊んで居た「お姫様と小馬」と云う私共丈の遊びをしたりして居ると多分昼頃だったと思う、母が眼を腫らして茶色の雨ゴートを着たなり一人でポツンと帰って来た。
 叔父は到頭亡くなって仕舞ったのであった。
「お叔父ちゃんが死んだんだって?
 死ぬと云う事のはっきり分らない私は、勿論非常な悲しみも感じ得られなかった。
「おとといまで彼那にお話をして下すったお叔父ちゃんが死んじゃったって?
 どんなんなったの。
 え?
 こわい事?
 私はすべてが信じられなかった。
 彼那強そうな体のお叔父ちゃんが勿論繃帯はして居たにしろ急に死んでもうじきお葬式をして埋めて仕舞うと云う事は、あんまり手順が早すぎる様な心持がした。
 死ぬなんて一体どうなるものかしら妙な事だとより思えなかったのである。
 私は母のするなりに黒いリボンをかけられ、あまり笑ったりはしゃいだり仕ない様にと云われるままに慎しんで居る丈だった。
 この時分の心持を今私の目前に育って居る丁度同い年位の弟にくらべるとまるで及びも付かない程私の心は単純であった。
 彼は第一もう「ああちゃん」などと云う言葉は五つにならない位からやめて居るし、人が死ぬと云う事に対しても、勿論空想化されては居ても非常に或る丁重な感じと悲しみを感じ得る心になって居る。
 そして世の中には死ぬと云う事が有るべきものと云う迷わない断定も持って居るので、其の時の私の様に死ぬと云う事が殆ど分らないと云う様な事はないらしい。
 それに私の性質上母はその様な特殊な事件はなるたけ知らないですむ様にばかりさせて来たので、生れて始めて私は死ぬと云う事に会わせられたのであった。
 私は妙にそわそわして落着けなかった。
 にわかに人の出入の多くなった台所へ行って追いやられたり表座敷へ行って叱られたりして居るうちに、門の方にガヤガヤと人声が仕出すと、奥から出て来た母は其処いらをうろうろして居た私に、
「其処へ入っておいで。
 見ちゃあいけませんよ、
 きっとですよ。
と玄関わきの小部屋を指さしたまませわしそうに走って行った。
 私は云われる通りその部屋に入って襖を閉めると間もなく何かが玄関の土間に下された様な気(ママ)がした。
 すると、多勢の足音が入り乱れて大変重いものでも運ぶ様な物音が私の居るすぐ前に襖一つ越して響くと、急に私は震える程の恐れにとりつかれた。
「死んだお叔父ちゃんが来たのだ。
 何とも云えず物凄い感じが私の目の前を飛び違った。両手を握り合わせ瞳を大きくして息をつめて居る間に音はしずまって、母が迎に来てくれた時には家中は啜泣きと悲しい囁きに満たされて居た。
 だまって手を引かれて私は屏風の円くなって居る前に座った。
 障子を閉め切って澱んだ様な部屋の中に、銀砂子を散らした水色の屏風の裏が大変寒く見える前に私は丁寧に手を突いた。
 そして一番偉い方だと思って居る先生にするよりもっとあらたまった静かなお辞儀をした。
 手を膝にのせてその水色を見つめて居ると、物恐ろしさは段々消えて、
「ほんとにお叔父ちゃんは死んじゃった。
と云う絶望的な、もうどうしても取り返しのつかない心持がはっきりし出して、私は大人の様な静かなそれで居て胸を掻きむしられる様に苦しい涙をこぼしたのであった。
 その次の日から朝、お水と塩を枕元の机に供えるのが私の役目になった。
 朝になると私は目が醒め次第暗い叔父の枕元に新らしいそれ等の供物を並べた。
 生きて居る叔父に食べ物を並べてあげる通りどこかでお礼を云われて居る様な彼の大きな掌が、
「ありがとうよ、
 好い子に御なり。
と頭を叩いて呉れる様に感じて居た。
 そして、常に叔父の云って居た事が間違わなければ、好い事をした人は好い所へ行く筈だから、
 お叔父ちゃんも今にどっか好い所へ行くのだろう。
と云う想像が非常に私を安心させて居たのである。

 納棺の朝頃であったと思う。
 どうかして周囲には人が誰も居ないで私丈がいつもの様に火鉢にあたりながら呆んやり座って居ると、後の唐紙をあけて、大変髭の濃い顔の角張った人が入って来た。
 私は一寸振返ったけれ共知らない人だったので黙って居ると、屏風の中に入って何かして居た其の人はやがて片身を外へ出して、
「百合ちゃん一寸おいで、
 好いものを見せてあげ様。
と手招きをした。
 私は何の気なしに、
「なあに。
と立って行くと屏風の中に入れられた。
 其処には厚い布団に寝かされて大変背の高くなった叔父の体が在ったけれ共別に変な感じも持たずにその人の後に居ると、顔の辺りに掛けてある白い布をめくりながら、
 御覧。
と云って身をねじ向けた。
 何だろうと思ってのり出した私は、
 アッ、
と云うなりつまずきそうになりながら屏風の外へ飛び出すと、激しい怖れでガタガタ震えながら自分で気がボーッとなる程大きな声をあげて泣き出した。
 私の声を聞き付けて馳け付けた母に抱かれて泣き止みはしたけれ共その時からどうしても棺の傍へもよれなくなって仕舞った。
 何と云う気味の悪い顔色で有ったろう。
 絵に見、自分の想像の中のお化けそっくりの細い骨だらけの痩せ切った顔の様子は少し開いた口の形と一緒にいつまでも私の瞼にこびり付いて離れなかった。
 私は生れて始めて見た死人の顔にすっかり怯えると同時に、死と云うものに対して極端な恐怖と嫌悪を感じ出した。
 此の妙な人の仕た一事によって七つの子の死に対する無邪気さは私の心からあらかた持ち去られて仕舞ったのである。
 彼那恐ろしげな顔をした形をした者共が好い事をしたからと云って一所へ集ったって何で奇麗な事が有ろう。
 一体何故人は死ななけりゃあならないのか。自分も彼あ云う風にきたなくなって仕舞わなけりゃあならないのか。
 死ぬなんて何と云ういやなこわい事だろう。私は自分の死と云う事さえ遙かに想像する程になった。
 そして、この時に起ったこの心の激変――子供心の非常に動かされた死に対しての観念は長い間私の心の奥に潜んで居て四五年立ってから不思議な力を以て、更に思いがけない今の私には殆ど夢の様な反対の方向に私を動かして居たのである。
 彼の荒武者の様な男の人の様子は種々な意味で私の記憶に明かに残って居る。
 何の為に彼那妙な事をする気になったのか。其の人の事を思うと一種異様な感じが私の胸に突き上って来るのである。

 斯様にして彼は死にやがて葬むられたのである。
 彼を知って居る者は皆彼の不運を歎いたけれ共其の死に様に関して唯一人の疑いを挾む者もなかった。
 勿論それまでの成り行きは決してどの様な特別な形式も取られては居なかった。
 彼は勧められて病院に入り養生をしたらしくあった。けれ共此頃、彼の心に湧いて居た事々が僅かながら解りかけて来た様な心持で種々考えて見ると、彼の死は非常に平穏な形式に依った一種の自滅ではなかったかと云う事を考えさせられる。
 誰も私に云ったのでも注意したのでもない。
 けれ共私はそう感じるのである。
 彼が死んだ時専ら種々の手当てをして呉れて居た或る医師が、
「何と御止めしても御聞きなさらずに運動をなさったので……
と云った事を聞いて居る。
 それは勿論医者として親族から受けなければならない不快な感情や責任を軽める逃口上であると云えない事はない。
 云った当人は確かにその心持であったのだろう。
 けれ共それが私に一つの疑問を持たせる緒口となったのである。
 誰でも知って居る通り中耳炎の切開後などは殊に安静を保って居べき必要がある。
 それをまだ疵がすっかり癒着もしない内からかなり遠い大学から林町までの徒歩を許すと云う事は考えられない事であり又我々なら許されたとて容易に決行する勇気は持たなかったに違いない。
 私共が一旦病気になって生き様と云う願望が激しく燃え上った時ほど医者の奴隷になる事はない。
 どれ程丁寧に臆病に寧ろ馬鹿馬鹿しい程の心遣いを以て自分自身を取り扱うか。
 私は一昨年の病気以来深くその生き様とする願望の忍耐強さ従順さを感じて居る。
 其れ故若し彼が真個の全快を希望したなら恐らく彼はだれでもと同様に子供の様になりながらじいっと一枚一枚繃帯の薄れて行くのを楽しみにして居た事であろう。
 子供らしいと云われる事かも知れないが必ず左様あるべきなのである。
 其れを苦しい思いをし止められるのを振り切って、毎日何の為に林町まで歩いて来て居、癒りもしないのに病院を出てしまったのか。私は話に聞く彼の気性又は帰朝後一致されなかったすべての周囲の状態を思い浮べると、病院の飯は不美味いと云うのは極く極く表面的な理由であったろうと云う事に思い及ぶのである。
 彼は死ぬまで彼自身でありあらせ様とした。此頃は、或点までは彼が随意的の死にを(一字不明)たのであろうと云う断定に近づいて居る。
 私は彼が聞けば笑いそうな想像、あてずっぽうを云って居るかもしれない。
 けれ共彼にとってはもう皆な済んでしまった事なのである。
 よろこびも悲しみもなく彼の上の土は肥え草は茂って行く。
 それ丈は常に間違いのない事である。





底本:「宮本百合子全集 第二十九巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年12月25日初版
   1986(昭和61)年3月20日第5刷
初出:「宮本百合子全集 第二十九巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年12月25日初版
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2008年8月4日作成
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