神楽坂

矢田津世子




     一

 夕飯をすませておいて、馬淵の爺さんは家を出た。いつもの用ありげなせかせかした足どりが通寺町の露路をぬけ出て神楽坂通りへかかる頃には大部のろくなっている。どうやらここいらへんまでくれば寛いだ気分が出てきて、これが家を出る時からの妙に気づまりな思いを少しずつ払いのけてくれる。爺さんは帯にさしこんであった扇子をとって片手で単衣の衿をちょいとつまんで歩きながら懐へ大きく風をいれている。こうすると衿元のゆるみで猫背のつん出た頸のあたりが全で抜きえもんでもしているようにみえる。肴町の電車通りを突っきって真っすぐに歩いて行く。爺さんの頭からはもう、こだわりが影をひそめている。何かしらゆったりとした余裕のある心もちである。灯がはいったばかりの明るい店並へ眼をやったり、顔馴染の尾沢の番頭へ会釈をくれたりする。それから行きあう人の顔を眺めて何んの気もなしにそのうしろ姿を振りかえってみたりする。毘沙門の前を通る時、爺さんは扇子の手を停めてちょっと頭をこごめた。そして袂へいれた手で懐中をさぐって財布をたしかめながら若宮町の横丁へと折れて行く。軒を並べた待合の中には今時小女が門口へ持ち出した火鉢の灰をふるうているのがある。喫い残しの莨が灰の固りといっしょに惜気もなく打遣られるのをみて爺さんは心底から勿体ないなあ、という顔をしている。そんなことに気をとられていると、すれちがいになった雛妓に危くぶつかりそうになった。笑いながら木履ぽっくりの鈴を鳴らして小走り出して行くうしろ姿を振りかえってみていた爺さんは思い出したように扇子を動かして、何んとなくいい気分で煙草屋の角から袋町の方へのぼって行く。閑かな家並に挟まれた坂をのぼりつめて袋町の通りへ出たところに最近改築になった鶴の湯というのがある。その向う隣りの「美登利屋」と小さな看板の出た小間物屋へ爺さんは、
「ごめんよ」と声をかけて入って行った。
 店で女客相手の立ち話をしていた五十恰好の小肥りのお上さんが元結を持ったなりで飛んで出て、
「おや、まあ、旦那、お久しうございます」
 と鼠鹿の子の手柄をかけた髷の頭を下げた。「お初はちょいとおへ行ってますんで、直きに戻りますから」
 お上さんは爺さんがずっと面倒をみているお初のおっ母さんである。梯子段のところまで爺さんを送っておいて店へひきかえした。
 六畳ふた間のつづきになっている二階のしきりには簾屏風が立ててある。それへ撫子模様の唐縮緬の蹴出しがかけてあった。爺さんは脱いだ絽羽織を袖だたみにしてこの蹴出しの上へかけてから窓枠へ腰を下してゆっくりと白足袋をぬぎにかかった。そこへおっ母さんがお絞りを持って上ってきた。
「さっきもね、お初と話していましたよ。今日でまる六日もおいでがないのだから、これあ、何か変ったことでもあるのかしら、あしたにでも魚辰さんへ頼んで様子をきいて貰いましょう、なんてね、お案じ申していたところでしたよ」
 魚辰というのは馬淵の家へも時たま御用をききにいく北町の肴屋である。
「なにね、この二、三日ちょいと忙しかったもんで、それに、家の内儀さんがね、どうも思わしくないのでねえ」
 爺さんはお絞りをひろげて気のすむまで顔から頸のあたりを撫でまわすとそれを手綱にしぼって一本にひきのばしたのをはすかいに背中へ渡して銭湯の流し場にでもいる時のように歯の間からしいしいと云いながら擦っている。
「お内儀さんがねえ、まあ、そんなにお悪いんですか」
 隣りの箪笥から糊のついた湯帷子を出してきたおっ母さんはいつまでも裸でいる爺さんの背中へそれを着せかけた。
「何んしろ永いからなあ。随分弱っているのさ。倉地さんの診察みたてじゃあこの冬までは保つまい、って話だ」
「それあ、旦那も御心配なこってすねえ」
 おっ母さんは爺さんの脱ぎすてた結城の単衣をたたみ止めて、いかにも気の毒そうな面をあげた。けれど、その表情には何んとなく今の言葉とはちぐはぐな、とりつくろった感じがある。
 茶卓の前へ胡坐で寛いだ爺さんをみて、
「旦那、お夕飯は?」と、おっ母さんがきいた。
 爺さんは大がい家で飯をすますことにしている。すんでいないといえば小鉢もののようなつきだしでさえ仕出し屋から取りつけているここの家では月末にそれだけを別口のつけにして請求してくる。目ざしに茶漬で結構間にあうところを何も刺し身で馬鹿肥りをするにもあたるまい、と爺さんは独りで勝手な理窟をつけて、その実はつけの嵩んでくるのが怖さにめったに妾宅では御膳を食べることをしない。
「いや、茶の熱いやつを貰いましょう」
「はいね」
 と気軽にうけておっ母さんが梯子段を降りかけたところへお初のらしい小刻みな日和の音が店の三和土へ入ってきた。
「お帰りかい。旦那がお待ちなんだよ」
 それだけを地声で云うて、あとは梯子段の下でおっ母さんが何やら内証話をきかせているらしい。「まあ」だの「そうお」だのと声を殺したお初の合槌が二階まできこえてくる。やがて、湯道具の入った小籠を左手に抱え、右手に円い金魚鉢を持ったお初が、
「あら、父うさん、しばらく」
 と、のぼりきらないうちから声をかけてきた。
「莫迦にゆっくりだったじゃあないか」
 腕をまくりあげて爺さんは鷹揚に団扇を使っている。
「いえね、おは疾っくにすんだのですけど、丁度おもてを金魚屋が通ったものですからぐずぐずしてしまって。どお、父うさん、奇麗でしょう」
 お初は立ったなり金魚鉢を爺さんの眼の高さにつるした。
「つまらんものを買うてきて。無駄づかいをしちゃあいかんぜ」
 爺さんはお初の手から金魚鉢を取って窓枠へ置いた。緋色の長い尾鰭をゆさゆさ動かして二匹の金魚が狭い鉢の中を硝子にぶつかってはあともどりをする泳ぎをくりかえしている。
「無駄づかいどころか、この頃は髪結いさんへ行くのだって四日に一度の倹約ぶりよ。ねえ、父うさん、こないだからおいでを待っていたんですけど、博多を一本買うて頂きたいわ」
 金魚をみていた爺さんの眼が鏡台をひき寄せて派手な藍絞りの湯帷子の衿元を寛げて牡丹刷毛をつかっているお初の方へと移っていった。
「また、おねだりかい」
 こう口先きだけはたしなめるように云うても眼は笑ってお初のぼってりとして胸もとの汗ばんだはだえをこっそりと愉しんでいる。
「ねえ、父うさん、いいでしょう。お宝頂かせてよ」
 お初は鬢へ櫛をいれながら鏡の中の爺さんをのぞきこんでいる。
「何んだ、銭かい? まあ、帰りしなでもいいやな」
「いいえ、父うさんは忘れっぽいから今すぐでなければ厭よ」
 髪を直し了ったお初はちり紙で櫛を拭きながら爺さんをみてこう急きたてた。
 お初がこんなにせっつく金をせびるには、子供の頃おっ母さんに欲しいものをおねだりした時の癖が出てきているのである。
 その頃、おっ母さんは向島の待合大むらというのに仲居をつとめていてお初を花川戸の親類の家にあずけておいた。観音様へ月詣りをしていたので、そのたびに花川戸へ寄ってお初をつれ出してはお詣りをすませて仲見世をぶらつくのが慣しになっている。仲見世にはお初の欲しいものが沢山ある。絵草紙屋の前にしゃがんで動かないこともある。大正琴にきき惚れている人だかりへまぎれこんで、おっ母さんを見失ったこともある。「何んか買うてよう」とねだれば、決り文句のように「また、あとでねえ」と宥められる。その「あとで」をあてにして次のお詣りに早速ねだると約束をけろりと忘れたおっ母さんは「また、あとでねえ」と宥めるように言うのである。そこでお初はしつっこくねだるようになる。人形屋の前でおっ母さんの袂へしがみついて離れないようになる。これにはおっ母さんも呆れたように笑って、渋りながらも帯の間から青皮の小さなガマ口を出して人形を買うてくれるのである。――
 初めのうちは云い出し難かった爺さんへの無心も、いつの間にか子供の頃の慣しで容易になり、爺さんの方でも、つい負けて出してしまうという具合である。
 爺さんに貰ったさつを帯の間へ挟んで鏡台の前を立ったお初は梯子段のところまで行って、
「おっ母さん、お茶はまだですか」と呼ばわった。その声に釣られたようにおっ母さんが茶盆へ玉子煎餅の入った鉢と茶道具をのせて上ってきた。
「どうぞ、御ゆるりと」
 敷居のところへ片手をついてこう辞儀をすると梯子段の降り口の唐紙をぴたりと閉めて下った。
 おっ母さんの物腰には大むらの仲居をしていた頃の仕来りがぬけない。お初たちが茶のみ話をしているうちに、よく隣りの間へ夜のものをのべることがある。それをお初がむきになって停めたりすれば、せない顔付きで「どうせ、遊んでいるんだのに……」と云うて、手持ち無沙汰げに渋々と下っていく。母のそつのなさをみせられるたびにお初は自分を恥じて顔を赧める。おっ母さんは自分を何んだと思っているのだろう。――恥じの中でこんな肚立たしい気もちにもなる。母のとり扱いをみていると自分は全で安待合へ招ばれたみずてん芸者という按配である。お初には母のそつのなさがどうにも我慢がならない。そのくせ面と向っては愚痴ひとつ云えぬお初なのだ。六つの年から母の手ひとつで育てあげられた、その恩義というのを母自身の口から喧ましくきかされてきたお初にとっては何かにつけてこの恩義が※(「竹かんむり/冊」、第4水準2-83-34)しがらみになっている。これを、つくづくと邪魔だなあ、と思う時があっても、お初には自分から取りのけるということが出来ない。そこで仕方なく我慢して、大ていのことはおっ母さんのなすがままにまかせている。しかし、夜のものの世話までされるのは、お初には何んとしても承知が出来ないのだ。子供の頃、何かの用事で大むらへおっ母さんを訪ねていくと勝手口へ出てくるお倉婆さんというのが、
「おきんさん、お前さんとこのジャベコが来たよ」と奥へ声をかける。妙なことを云う婆さんだと別に気にもかけずにいたが、ある時、その訳をおっ母さんにきかされてからは婆さんを見るのが厭でならない。東北生れの婆さんは女の子をこんな風に呼び慣れているそうである。呼ばれるたびにお初は身内がむず痒いような熱っぽいいらいらした気分になる。――丁度それによく似た厭な気分をお初はおっ母さんに感じるのである。そうとも知らないおっ母さんは「お初は、まあ、気がねなどをしてさ」などと独り言を云うて揉み手をしながら降りていく。そして、梯子段の下で癖の二階の気配に耳をすますような恰好をしてから、店つづきになっている四畳半の火の気のない長火鉢の前へつくねんと坐って通りの方を眺めているのが例になっている。
 今もそんな風に通りをみていたおっ母さんは、欠伸をしながら柱にかかっていた孫の手をはずして円めた背中へさしこんで、心地よさそうに眼をつむって掻いている。

     二

 馬淵の爺さんが妾宅を出たのは十一時が打ってからであった。毘沙門前の屋台鮨でとろを二つ三つつまんで、それで結構散財した気もちになって夜店をひやかしながら帰って行く。電車通りを越えてすぐの左手の家具屋の露地を曲ると虎丸撞球場というのがある。この前まで来ると爺さんは何とはなしに心の緊張を覚えるのが常である。手に持った扇子を帯へさしこみ、衿元のゆるんだのを直したりする。それから懐へたたんで入れておいた手拭いで顔をひと撫ですることを忘れない、つまり、爺さんがためには虎丸撞球場のこの明い軒燈は脱いでおいたいつものお面をかぶる合図ともなっているのだ。小半丁ばかり歩いたところに家がある。格子を開けると、足の悪い女中の種が出迎えた。跛をひきひき爺さんのあとから跟いてきて、脱ぎすてた羽織や足袋の類を片付ける。爺さんはちょっとの間気嫌の悪い顔付きでむっつりと黙りこんでいる。よく仕事の上での訪問づかれで戻った時など爺さんはこんな顔をするのである。
「どうも、莫迦に蒸すねえ」
 湯帷子に着換えた爺さんは団扇を使いながら内儀さんの病室にあてた奥の六畳へ入っていく。やすんでいるとばかり思った病人は床の上へ坐って薄暗い電球を低く下して針仕事をしている。
「お疲れさまでした」
 針の手を休めて内儀さんが徐かに顔をあげた。爺さんが外から戻った時のいつもの挨拶である。ものを云うた拍子に咳こんで、袖口を口へあてたままでいる。明りの加減か、永年の病床生活の衰えが今夜はきわ立ってみえる。下瞼のたるみが増して、なすび色の斑点しみが骨高い頬のあたりに目立っている。咳をするたびにこれが赤ばむ。
「仕事なぞをせんでもいいに……」
 爺さんは優しいたしなめるような調子で云った。
「それがね、あなた、遊んでばかりいると、この指さきが痛んでしようがないんですよ。こうやって、まあ、お針を動かしていると、どうやら痛みも止ったようです」
 咳の納ったところで内儀さんはこう云った。そして、脂っ気のないかさかさした指から徐かに指ぬきをはずしながら、「わたしの手は、もう、根っからの働きもんとみえますねえ」と云うて、力のない笑いようをした。
「そうさなあ。俺だって半日も算盤を使わないでいれば妙にこの手が退屈するものなあ。稼ぐに追い付く貧乏なし、ってな、昔の人はうまいことを云うたものさ」
 爺さんはこの諺が今の場合あてはまっているとは思わないが、どうもほかにうまいことも思い付かないので、これをちょっとの間に合せにした。爺さんが渡仙わたせん(羽後の名立たる高利貸の渡辺仙蔵)の手代をしていた頃、大番頭の丸尾さんというのが大そう主人の気にいりで、しもの者にも受けがよい。しもの者が何かの粗忽をした時などは頭ごなしに呶鳴りつけるようなことをせず、一同揃うて御膳を頂いている折りなどに諺を混えたりしてそれとなく意見をされる。こまごまと云われたことは忘れてもその折り折りの諺だけが妙に残る。馬淵はいつもこれに感心していた。そして丸尾さんを倣う心がいつの間にか爺さんの内には根になっていて、その頃から頭に残っている二つ三つを何かというて使ってみたいのである。
 爺さんは内儀さんに問うた。
「何を縫うているのだい?」
「小村さんから届いていた袷が余りおくれていますのでねえ」
「なあに、袷には当分間があるんだし、そんなにつめてしちゃあ躯にさわらあな」
 団扇の風を爺さんは優しく内儀さんの方へ送った。小村さんというのはすぐ裏手の、馬淵の持家に入っている後家さんで、これがお針の師匠をするかたわら御近所の賃仕事をひきうけている。そのうちの二三枚を馬淵の内儀さんが分けてもらって小遣い銭の足し前にしていた。若い頃、賃仕事に追われがちだった内儀さんの指さきが今もその仕来りからお針が離せないのである。「何もよそのお仕事までなさらずともよい御身分ですのに」と、時たま裏の後家さんが探ぐるように云うたりすれば、内儀さんは愛想笑いをみせながら、「ほんの退屈しのぎでございますよ」と云うのがおきまりになっている。しかし、心の中では、「こんな手だって、あなた、動かしていさえすればお宝になりますもの。遊ばせておいたのでは、つまりませんからねえ」と、こんなことを云うている。
 根がしまつ屋の爺さんには内儀さんのここんところが大いに気にいっている。お初などには真似の出来るこっちゃない。何んというても、うちの内儀さんだわい。――こう満足した爺さんの心が今も団扇持つ手へ働いて、つい内儀さんを煽いでやることになったのである。
 枕元に置いてある猪を型どった蚊遣の土器かわらけから青い烟りの断え断えになっているのをみて内儀さんが種を呼んだ。
「いやあ、もう、遅いからやすむとしよう」
 爺さんはこう云って蚊遣の土器をひき寄せて渦のまま灰になっている分を払い落して、残った小さいのに蛍のような火の付いているのを「あっちちち」と云いながら指の腹で揉み消している。無駄事の嫌いな爺さんは、こうしておけば気がせいせいするのだ。
「それでは、おやすみといたしましょう」
 と、内儀さんはそこへきた種の手をかりて手水へ立った。廊下を軽く咳こみながらゆるゆると歩んでいくうしろ姿がどこやら影が薄い。爺さんはそれを見送りながら「内儀さんも永いことはないなあ」と不憫になってきた。一生一度の思い出に、紋付の羽織を着て上方見物に行ってみたい、と口癖のように云うていたが、それをはたしてやらなかった自分が少々うしろめたい気もする。だがまあ、おとむらいにいくらか金をかけてやれば、それで気がすむというものだ。爺さんは背中へ団扇の手をまわしてぱたぱたと喧しく蚊を追い払った。
 手水から戻ってきた内儀さんが思い出したように爺さんをみて云った。
「そうそう、あなたのお出かけのあとへ安さんがおみえんなりましてね」
 山吹町通りへ唐物店を出している爺さんの弟の安三郎のことである。
「ふむ、何んで安がまた来たんだい」
 爺さんは気のなさそうな顔で問うた。安さんの来たのを余り悦ばないようである。
「太七さんのことをお話なさってでした」
 枕のところの小さい黄楊の櫛を取って内儀さんは薄い髪を梳している。その眼が窺うようにちら、と爺さんをみた。
 安さんの次男坊で商業の二年生になる太七を馬淵家の養子にしてはくれまいか、とこの頃では当の安さんがそれを頼みに何辺か足をはこんでいる。あと取りがいないでは寂しかろう、と内儀さんを唆かし、どうせ養子を取るなら血のつながっているものの方が親身になれるから、と爺さんを口説いているのだった。それを爺さんはいつもよい加減に聞き流しにしている。自分の不遇時代にせっぱつまった揚句の三十両の無心を安がどんなそっけなさで断ったか。――爺さんはその時のことを思うと肚が煮え立つのである。当時、京橋の方で手広く唐物の卸し問屋をしていた安さんは、生憎遊んでいる金が無いから、と云うてこの無心を突っぱねたのだった。それが今おちぶれて、身上をあげた爺さんへ縋りついてくる。爺さんの面白くないのも無理がない。
「何んぼ、安が来たって、太七の話は駄目だ」
 爺さんはそっけなく云い放った。それを聞いて内儀さんは「爺さんは、まあ何んて頑固なのだろう」と思うのだが、ほんとうはそれ程爺さんを批難する気もちも起らない。息子を養子にしたい安さんの下心が内儀さんにもうすうす分っていて、これを爺さん同様うとましく思っているからである。
 爺さんに子供を貰ってはくれまいか、という親類はこのほかにもある。爺さんのあにさんにあたる郷里の小学校長と内儀さんの従弟の代書屋である。この校長さんの方などは、爺さんが渡仙の手代をしていた頃は、高利貸しの弟はもたれぬ、などというて家へも寄せつけず、その扱いようは蛇蝎をみるが如しであった。それがいつの間に心がほぐれたのか季節の見舞いは欠かさぬようになり、盆暮には心をこめた郷里の名物が送られるのである。
 爺さん夫婦は養子の話が出るたびに顔を見合せて苦が笑いをする。どうも素直には話にのれぬ気がするのだ。安さんは兄さんや代書屋を貶して、あれたちは財産めあてなのだから、と暗に警戒を強いるし、兄さんの方ではまた安さんや代書屋に兎角難くせをつけたがる。それへ代書屋が内儀さんを突っついて何んとか色をつけて貰おうと焦せる。爺さん夫婦にすれば、どの親類も下心があって近づいてくるように思われるので、どの親類をも易々と信用することが出来ない。それに爺さんには、自分の不遇時代にとった親類のいかにも冷淡なあしらいようが心にこたえているので、今更お義理にも親類のためを思うなどいう気もちにはなれないのだ。それどころか、親類のものたちがつめ寄れば寄る程、爺さんの心は金をしっかと抱いて孤独の穴倉へとのがれていく。ここまで貯めるには若い時から並大抵の苦労ではなかった、と爺さんは今更のように懐古して、心に抱いたお宝をしんみりといとおしむのだ。
 爺さんは渡仙の店で働いていた頃は猪之さんと呼ばれて、しっかり者の主人にみっちりと仕こまれた。渡仙は高利と抵当流れで儲けて、一代で身上をあげた男であった。その儲けっぷりを世間では悪辣だなどと評するのだが、誰ひとり彼の仕事に勝つものが出てこない。どんな悪評があろうとも彼は結局羽後で随一の高利貸し渡仙であった。
「どうも、世間の者あこの俺を高利で食っとる云うて白眼視するがな、三井三菱とこの俺と較べてどれだけやり口が違うというのだ。奴らは背広を着とるが、この俺あ前垂れをかけとる、というだけの違いじゃあないか」
 渡仙は店の者のいる前でよくこう云うて嗤った。また、「義理、人情で算盤玉ははじかれない」と云うて貸し金の取り立ては一歩も譲ろうとはしない。世にいう渡仙は梟雄のたぐいであった。その度胸のよさと商売上のこつと節約ぶりを猪之さんはそっくりそのまま頂戴している。尤も、その節約に実がいりすぎて爺さんのはちとしわくなっている。

     三

 渡仙の手代をしていた頃から猪之さんは近所のものへ小金を貸しつけ、そのうち持ち金が利子で肥ってくると少しばかり商売気を出して玄関脇へ「小口金融取扱います」と小さい看板を出した。それまで仕立物の賃仕事で暮しむきの不如意を補うていた内儀さんもこの頃になってやっとひと息ついたところであった。それだからといって手を休めて安閑と遊んでいた訳ではない。却って内儀さんの手は前よりも稼ぎ出したのである。ただ、そこには金に追われていたこれまでの苦労に代って、こんどは金を追いかける心愉しさが手伝っているので、これが内儀さんの気を安くしていた。猪之さんには内儀さんのこんな稼ぎっぷりが意に叶っている。石女なのが珠に瑕だが、稼ぎっぷりといい、暮しの仕末ぶりといい、こんな女房は滅多にいるものじゃあない。諺にも、「賢妻は家の鍵なり」というが、どうして、うちの内儀さんときては大切な金庫かなぐらのかけがえのない錠前だわい、と猪之さんには内儀さんを誇りにする気もちがある。これが内儀さんにもうすら分っていて、御亭主の信用を地に堕すまいとする気から余計に賃仕事の稼ぎ高をあげようと努める風がみえる。纏った金を持って上京してからは、猪之さんも亦渡仙のように抵当流れで儲け初めた。抵当ものは土地を主としてその鑑定のかけひきは渡仙の手を用いる。彼処が悪い、此処が気にいらぬ、と文句をつけて、先方が評価をぐっとひき下げても、なお意に叶うまでぐずぐずと苦情を云う。この土地の鑑定に猪之さんはよく出張した。北海道や九州辺りへも行くことがある。最初からものにならぬ、と決めてかかっている抵当物でも鑑定だけは是非ひきうけるという風である。これには猪之さん独特の手があるからだ。二等の汽車を三等に、それに滞在費を加えると相当の旅費が手に入る。先方へつくと何分不案内な土地でしてな、と迎いの人に案内をさせ、あわよくばその案内人の家へ泊りこんだりして宿賃を浮かせる算段をする。汽車旅をする人たちはどういうものか気が大まかになって新聞や雑誌の類を読み捨てにしていくことがある。猪之さんはこれを勿体ながって、足元に転っているサイダアや正宗の空瓶と一緒に信玄袋へおしこんで土産に持って帰るのを慣しとしている。普段もこんな調子で、爪楊枝一本無駄にはしない。使い古してささくれたのは削ってまた共衿の縫目へ差しておく。一枚の紙も使いようだというて、字を書いて洟をかんで、それを火鉢で乾してから不浄へ用いる。こんな仕来りが老いるにつれて嵩じてくる。そして、人はよく爺さんの家に女中のいるのを奇異の眼でみるのである。
 種のきたのは内儀さんが床の上の暮しを初めるようになってからであった。一昨年の秋口のことである。永い間の栄養不足と過労が祟って内儀さんの肺疾が今ではずい分と悪い方である。医者は病人を起してくれるな、という。賄の方をみてくれるものがいないので不自由をする。桂庵から女中を雇ったのでは高くつくと思った爺さんはつてを頼って孤児院から種をつれてきた。はなのうちはそれでも僅かばかりの給金をやっていたが、そのうち種の方でこれを辞退するようになった。生れつき足の悪い種はこれをひけ目に思う気もちがあって、存分に立ち働きの出来ぬ身を主人夫婦にすまないと思うている。この気心が爺さんには呑みこめている。そして、急ぎの用事などで種が不自由な足をひきずり出すと「そうそう、お前は足が悪かったっけな、どれ、俺がひとっぱしり行ってこう!」
 と云うて、用事を自分で足してしまうことが度々である。種はこう云われることで自分のひけ目さを一そう強く感じる。このすまなさを何かで償いたいとの心がけから内儀さんの賃仕事を手伝ったり、内職の袋貼りなどで得た稼ぎ高を自分の食い扶持の足し前にしてくれるように、と爺さんの手へそっくり渡しているのだった。
 時折り、竹鋏を持ち出した爺さんに塵芥ごみ箱の中をかきまわされて大根の尻っぽだの出し昆布の出殻をつまみあげられては、
「勿体ないことをしくさる。煮付けておけば立派なお菜になるぜ」などと叱言を云われる位がつらいだけで、常は、孤児院の世話になっていた頃にくらべれば、種がためにはお大尽のおひい様の気らくさにも思われる。こんな仕合せな気もちでいられるのも元をただせば内儀さんのいたわりに負うところが多かった。内儀さんとすれば、種が自分を生みの母親とでも思いこんでいるのか骨身を惜しまず、しもの方の世話までしてくれるその心根がいじらしい上に永い間、お初のことやら病気やらで思いやつれた孤独の身が今では種を唯ひとりの頼りに生き永らえているようなものである。これが種にもうっすら分ってくる。不仕合せな内儀さんに寄り添う心が強まってきて、一そうまめに仕える。十四の年齢としまで孤児院にいて、水汲みや拭き掃除を一人で受けもっていた種にとっては病人の世話ぐらい易いのである。
 床の上に坐った内儀さんは種に髪を梳してもらいながら「ああ、わたしにもこんな女の子があったらなあ」と思うことがよくある。それがつい溜息になって出ると内儀さんはてれかくしのつもりか「種が優しくしてくれるので、わたしは全で自分の娘のような気がするよ」
 などと云うたりする。櫛を持った種はそれを聞きながら何やらぞくっとする程嬉しくて、一そう努めようとする気もちから内儀さんの髪がひっぱられて釣り目になるのもかまわず脚をふんばってはせっせと梳してやるのだった。
 母を知らぬ種が内儀さんを慕い、内儀さんが種を頼りにする気もちが次第に結ばれていって、いつとはなしにそれが母娘のような間柄になっている。爺さんに隠れてうまいものを食べることもある。家計を少しばかりごまかして内儀さんが種へ染絣を買うてやることもある。種が内職の稼ぎ高のいくらかを別にしておいて、それでこっそり内儀さんの好きな豆餅を奢ることもある。こんな隠し事が度重なるにつれて内儀さんと種の仲は一そう親密に結ばれていく。
 夜分は爺さんが留守がちなので内儀さんも種も賃仕事の針を動かしていることが多い。
 内儀さんがこんな風に話し出す。
「どうもねえ、山吹町の人たちは底に何かたくらみがあって此方の気嫌をとりに来るようで、わたしは厭なのだよ。種はどう思うかえ?」
「左様でございますねえ。あちらの旦那様もお坊ちゃんも金壺眼できょろきょろ御らんになる様子ったら、ほんとうにもの欲しそうですよ。金壺眼のお人は慾ばりの性わるですってね。院長さんがそう仰言ってでした。孤児院にも勘坊っていう金壺眼の子がいましてね、それあ慾ばりだった。どんなに私御膳を盗まれたかしれないもの」
「御膳を盗むのかえ?」
「はあ、ひとりずつお茶碗へ貰ってきて、それをテーブルの上へ置いてこんどお汁を貰いにいって帰ってくると、もう勘坊が食べてしまって無いんです。金壺眼の子ってほんとうに性わるですねえ。でも、こちらの旦那様がお身内なんですもの、御養子にお貰いになるのでしよう?」
「それがねえ、うちは口でばかり山吹町は御免だ、って云うてなさるけど、肚ではもう決めていなさるかもしれないのだよ。山吹町のを貰うくらいなら種を養女にしたいのだがねえ」
 こう云うて内儀さんは思案にくれる。種を養女にしたい、などと口では云うても内儀さんの心はこのことにてんで無頓着である。内儀さんが思い悩んでいるのは、安さんの次男坊か従弟の倅かである。種に云われてみれば、どうも金壺眼の太七を貰う気もしないので、やはり思いは代書屋の倅の方へ走るのである。早く養子を決めておかないことには自分の死んだあとへお初にでも乗りこまれて、この家を我がもの顔にされたのでは間尺にあわない。内儀さんの思案はこれにかかっている。そうとも知らない種は内儀さんの口を信じこんでいる。その内、旦那から更めてこの話が切り出されるだろう。種は待つ気もちでいる。養女になれば、やがてこの家のものを受け継ぐことになる。――こんな思惑が日毎に募ってくるにつれて、種はこの家の娘になった気もちになってくる。そして、馬淵の家のお宝へ執着する心からだんだん爺さんに倣って嗇くなり、内職の稼ぎ高を一銭でも余計にあげようとはげんだ。
 内儀さんからお初の話を滅多に聞くことのない種は、何かの急用で袋町へ爺さんを呼びにやらされる時はへんにお初へこだわって、内儀さんへ気兼ねをすることがある。使いから戻っても内儀さんは何んにもきかない。いつもの穏やかな顔でやすんでいることもあれば、床へ坐って針を動かしていることもある。ただ、そんな時の内儀さんは妙に気力のぬけた鈍った表情をしていて、種が何か話しかけても億劫そうに頷く位である。
 種の前でもお初へは触れることのすくない内儀さんは、爺さんの前では余計に口を噤もうとするところがみえる。時たま、爺さんが何かのはずみでお初の名を口に出すことがあっても内儀さんは素直な顔で頷いているだけだ。これまで、さんざお初のことで思い悩んできた内儀さんにとっては、お初は、もう今では諦めの淵の遠い石ころになっている。
 春の終りに近い或る日暮れ時にこんなことがあった。
 晩御飯をすませた爺さんはもう袋町へ出かけている。うす陽の残っている縁の障子に向って床の上の内儀さんは針を動かしている。後かたづけのすんだ種がその傍に小さい茶ぶ台をすえて、竹べらでせっせと内職のかん袋を貼っている。ふと、内儀さんが針の手を停めて、じっと何かに視入っているような気配を感じて種は目をあげた。障子の裏側を一匹の毛虫が匍いのぼっていく。内儀さんの眼はそれに吸い寄せられている。小指程の大きさの黒い体をうねうねさせて、みている間に二つの桟をのぼった。黒い硬い毛が障子にふれてカサカサというような微かな音をたてる。内儀さんは眸を凝らして視ている。毛虫が四つ目の桟を越えた時、内儀さんは障子へ手をのばした。毛虫はひとうねのぼった。内儀さんは持っていた針を突き刺した。毛虫は激しくうねった。うねりながら針に刺された体が反りかえった。緑色の汁が障子を伝って糸のように垂れた。内儀さんの眼は毛虫を離れないでいる。やがて、うねりが止んで、針に刺されたままの黒い体が高く頭をもたげて反りかえった。

     四

 秋風が肌に沁みるようになってきた。
 袋町のお初の家へ馬淵の爺さんはここ数日姿をみせない。内儀さんが余程悪いのだろう、と母娘のものは話しあっている。早くまあ仏様のお仲間いりをしてくれればいいに、とおっ母さんはこっそりと独り言を云うて仏壇へお燈明をあげる時も内儀さんがもう仏様にでもなったつもりでお念仏を唱えている。
 お初は内儀さんが悪いときいてからは妙に気が落付かない。その寿命を縮めているのが自分のような気がしてならないのだ。あとで報いがこなければいいが、と今から怖気おじけている。内儀さんの片付くのを待つ気もちのおっ母さんは、母娘のものが馬淵の家へ乗りこむその日を嬉しそうに話しているけれど、これがお初には一向に面白くない。あんな爺さんは旦那だから我慢をしているものの御亭主にしたいなどとは爪の垢程も思っちゃいない。――お初は爺さんの内儀さんになった自分を考えるだけでもみじめな気がする。ただ、おっ母さんのいかにも嬉しそうな落付きのない様子をみていると、お初は自分も嬉しそうにしていなければ済まないと思うて笑顔になる。
 二、三日前のことである。
 髪結いの帰り、今日は寅の日なのを思い出して毘沙門へお詣りに廻ったお初が戻ってくると妙に浮かない顔で何か思案事に心を奪われているという様子である。店で洗粉の卸し屋と話しこんでいたおっ母さんが声をかけても聞えないような風で梯子段をのぼっていく。
「どうしたのさ」
 あとからおっ母さんが案じ顔で二階をのぞきこむと、窓枠へ凭りかかって呆んやりと金魚の鉢を眺めていたお初は気がついたように笑って、
「何んでもないのよ、おっ母さん、さっきね、坂で昔のお友だちに会ったの。嬉しかったわ」
 と、何気ないように云った。何んだ、そんなことかい、とでもいうような顔でおっ母さんは店が気になるのかさっさと降りていった。母への気兼ねからお初は剥き出しには話をしなかったが、実は、さっき会った友だちに妙に心を惹かれていたのである。
 お詣りをすませて毘沙門を出てきたところを、「あら、お初っちゃんじゃないの」と声をかけられた。小学校の時仲好しだった遠藤琴子だとすぐに気が付いた。小石川の水道端に世帯をもってからまだ間がなく、今日は買物でこちらへ出てきたのだ、という。紅谷の二階へ上って汁粉を食べながら昔話がひと区切りつくと、琴子は仕合せな身上話を初めた。婿さんの新吉さんは五ツちがいの今年二十八で申分のない温厚な銀行員。毎日の帰宅が判で押したように五時きっかりなの。ひとりでは喫茶店へもよう入れないような内気なたちなので、まして悪あそびをされる気苦労もなし、何処へ行くのにも「さあ、琴ちゃん」何をするのにも「さあ、琴ちゃん」で、あたしがいないではからきし意気地がないの。まるで、あんた、赤ん坊よ。――と、いかにも、愉しそうな話しぶりである。それに惹きいれられて、お初が琴子の新世帯をああもこうも想像していると、
「お初ちゃんはどうなの?」
 ときかれた。
「ええ、あたし……」
 と云うたなり、うまく返事が出てこない。それなり俯向いて黙りこんでいると、お初のあたまから履物まで素ばしこく眼を通していた琴子は、ふっと気が付いたように時計をみて、
「もう、そろそろ宅の戻る時間ですから……」
 と、別れを告げた。
 紅谷の前に立って琴子のうしろ姿を見送っていたお初は何やら暗い寂しい気もちになって今にも泣きたいようである。仕合せな琴子にくらべてわが身のやるせなさが思われる。どんな気苦労をしてもいいから、自分もまた琴子のように似合いの男と愉しい世帯をもってみたいものだとつくづく思った。
 もの心のつく頃から母の手を離れて花川戸の親類の家で育ったお初は近所の人の世話で新橋の相模屋という肉屋の女中になったのが十六の年であった。お初がまだ赤坊の頃、お父つぁんは流行はやり病いで亡くなった、と母にはきかされていたが、親類のものたちの話し合うているのをきけば、朝鮮あたりへ出稼ぎに行っている様子であった。どちらにしても、お初には大して父親への執着がなく、まあ、生きていてくれたらいつかは会えるだろう、と思う位である。お初の働いていた相模屋は前々から借財がかさんでいて、その債権者の一人が馬淵猪之助であった。当時五十二歳の猪之さんは貸し金の取り立てで相模屋へ足をはこぶうちお初をみかけて、そのぼってりとした、どことなく愛嬌のある顔つきが可愛くなってきた。そこで何かのはずみに主人へこのことを話してみると大そう乗気になって、「ひとつ、面倒をみてやって下さらんか」という。主人の肚では、このお初の取りひきの成功が馬淵との貸借関係の上に何分の御利益をもたらすもの、と北叟笑んでいる。この肚を疾っくに見すかした馬淵の方では「義理人情で算盤玉ははじかれぬ」とはなから決めてかかっているので顔でにやにやしていても利子の胸算用は忘れないでいる。
 主人からこの話を大むらのおっ母さんへ橋渡しをすると、願ったり叶ったりの仕合せだというので、おっ母さんが何遍か相模屋へ出かけてきては馬淵と会見する。そのうち、神楽坂裏へその頃流行りの麻雀屋を持たせてもらって、大むらをやめたおっ母さんがお初と暮すようになった。
 おっ母さんのかねがねの念願はお初に金持ちの旦那をとらせて小料理屋か待合でも出してもらって、ひとつ人を使う身分になって安気に暮してみたい、というのだったが、馬淵は一向にこちらの気もちを汲まず、水商売はとかく金が流され易いから、と云うて麻雀も下火にならぬうちによい値で店を譲り、今の小間物店を出してくれたのだった。おっ母さんにはこれが不服でならないけれど、面と向って文句を云う訳にもいかない。しょうことなしに蔭で、お初へ爺さんの悪口をきかせるのがせめてもの腹いせであった。
 金魚の鉢を眺めているお初の眼にはしらずしらずに涙のわいてくることがある。狭い鉢の中を窮屈そうに泳いでいる金魚が何やら自分のように思えてくるのだ。秋風が立ち初める頃尾鰭の長い方が死んでから残った一匹もめっきり元気がなくなって、この節では硝子に円い口をつけたままじっとしていることが多い。
 広い世間を肩身狭く、窮屈に渡らなければならない自分が、お初はみじめでならない。馬淵の内儀さんが亡くなって、そのあとへ自分がなおったとしても世間の人たちは妾の成り上りとしか思わないだろう。爺さんの内儀さんになってもそんな思いをする位なのだから、まして今の暮しが肩身の狭いのも無理がない。お初はどっちへ向いても窮屈な自分を考える。どうせ、この世を狭く窮屈に渡らなければならないのなら、呑気な今の妾ぐらしの方が気が安い、と思ったりした。
 今日は魚辰へたのんで様子をきかせてみよう、と母娘のものが話しているところへ、
「ごめんよ」
 と三和土を入ってくる爺さんの下駄の音である。さきになってとっとと二階へ上って、
「どうもねえ、うちの内儀さんもいよいよ駄目だよ。ゆうべっから、もう、ろくすっぽ口もきけない仕末だ」
 と、腕ぐみをしたまま暗い顔で考えこんでいる。お初が何か問うても「うん」とか、「いや」とか頷くだけで、そんなちょっとの間も心は内儀さんへ奪われているという様子である。
「ひとつ、元気をつけて下さいましよ」
 おっ母さんがお銚子を持って上ってきた。
「そうだなあ」
 と爺さんは苦が笑いをして猪口をうけている。そこへ、店で誰れかが呼んでいるようなのでおっ母さんが降りていってみると、種が息を切らしながら立っていて、
「旦那様にすぐお帰りなさるよう云って下さい!」
 と、突っかかるような調子で云った。

     五

 馬淵の内儀さんが亡くなってからふた七日が過ぎている。
 この頃、爺さんは袋町へも行かないで、終日家にこもってお位牌のおりをしていることが多い。花の水をかえたり、線香の断えないように気を配ったり、内儀さんの好物だった豆餅を自分から買うてきてお位牌へ供えたりする。夜分もお位牌が寂しかろうとその前へ種と並んでやすんでいる。内儀さんが亡くなる前まで着ていたとんぼ絣の湯帷子が、壁のところのえもん竹にかけてある。爺さんのやすんでいるところからそれがまっすぐに眺められる。爺さんには、そこに内儀さんがつつましやかに立っていて何やら話しかけているような気がしてくる。内儀さんの声は低く徐かで、何か意味のとれぬ愚痴のようなことを云うている。爺さんはそれをききながら「ああ、いいよいいよ」と胸の内で慰めている。「お前さんもなあ、不憫な人だったさ。新らしい着物一枚着るじゃあなしよ」爺さんはこう話しかけてほろりとする。欲しいと云うていた紋付羽織もとうとう買うてやらなかった。箪笥の底に納いこんであった双子の袷も質流れを格安に手にいれたもので、三十何年の間つれ添うて内儀さんに奢ってやった目ぼしいものといえばまあこの袷ぐらいなもの。これに較べてお初は欲しいというものは何んでも身につけている。――爺さんは亡くなった内儀さんが不憫でしようがない。それにひきかえ、「贅沢三昧」のお初が妙に忌々しかった。
 爺さんが袋町へ無沙汰がちになっているのは何もお初が急に忌々しくなって、これにこだわっているというのではなく、亡くなった内儀さんへの一種の狷介な心からである。爺さんが裡には若い時から苦労を共にしてきた内儀さんへの感謝に似た気もちが始終ぬくもっていて、これが死なれたあとには余計に思われるのである。それで、内儀さんへ義理を立てるような気もちから四十九日がすむまでは袋町へ足を向けない覚悟でいる。
 お位牌のある部屋で夜分など爺さんが書きものをしている傍でお針を動かしながら種は独り言のように内儀さんの思出話を初めることがある。
「お内儀さんはまあ、どうしたことか山吹町の旦那様やお坊ちゃんのことをよくは云いなさいませんでしたが、俗にいう虫が好かない、というのでございましょうねえ。山吹町の旦那様のお帰りになったあとで、よく熱をお出しになりましてねえ……」
 爺さんは筆を動かしながら聞いている。その徐かなものの云いぶりがどこやら内儀さんに似ているように思うている。内儀さんは生前山吹町の人たちをとやかく云うたことがなかったが、それも自分への気兼ねからで、種へは肚の中をかくさず話していたものとみえる。安が帰ったあとで熱を出したという程なのだから余程毛嫌いしていたのだろう。それ程内儀さんが厭がる家から何も養子をとろうというのではないし……。爺さんは筆を動かしながら独りでこう得心している。その実、内儀さんが亡くなってからこのかた、しげしげと訪ねてくる安さんの根気にまかされて爺さんは、どうせ養子を貰うなら安のところからでもいい、というような気になっていた。それが種に云われてみると、どうも、この気もちがはぐらかされてしまうのである。亡くなった人の言葉というのに何やら冒すべからざる値うちがあるように思われて、これに気圧される気もちがある。
 種はまたこんなことも云う。
「お内儀さんはよく頭が痛いといっておやすみになった時に寝言のようなことを仰言ってでしたが、それがまあ、袋町のことばかりで、つらいつらいと云いなさっては夢の中で涙をぽろぽろこぼしていなさいました」
 聞いている爺さんは内儀さんのそのつらさが汲まれて、何んとも云いようなく胸がふさがってくる。苦労をさせて可哀そうなことをした、と思う気もちの裏で、それが何かお初の所為せいのように思われてくる。
 これまでは影のようにひっそりとしていた種の存在が、内儀さんが亡くなってからというもの急に馬淵の家では目立ってきた。客の応対から賄の世話、時には爺さんの算盤の手伝いまでするという風である。内儀さんからみっちりお針を仕こまれているので今では一人前の仕事が出来る。裏の後家さんから内儀さん同様賃仕事を分けてもらっては暇ある毎に精を出している。糸屑一本無駄にはせぬその仕末ぶりが大そう爺さんの気にいっている。内儀さんが生前目をかけていたのも尤もなことだと思う。爺さんには種がだんだん意に叶ってくる。
 四十九日があけると爺さんは袋町へ行った。二、三日遠のいていると、もう魚辰の若いもんが言伝てを頼まれてくる。そのうちおっ母さんが何やかやと用事にかこつけては馬淵の家を訪ねてくる。爺さんは内々これを快としていない。どうもおっ母さんのやってくるのは魂胆があってのことで、それがこんどは見えすいているようである。爺さんがひと晩泊りの出張で留守をしている時など、主人顔で上りこんで、金庫をいじくったり、箪笥の中をのぞきこんだりして、「へえ、お形見がこないと思ったら空っぽなんだものねえ」と下唇を突き出して厭味な笑いようをしたという。爺さんは種からそれを聞いて肚を立てた。とりあえず、客間の金庫の前へ種をつれていっておっ母さんが触ったという錠前のところを眼鏡をかけて検べてみたが何んともなかった。尤も、種の告げ口というのが、いく分事実に衣を着せる傾きがあって、こんどもおっ母さんはもの珍らしさから、ただ手のひらで金庫のすべっこい肌を撫でてみただけなのである。
 お初は、おっ母さんに口喧ましく云われるのがうるささに、今ではどうせのことに一日も早く馬淵の内儀さんになってしまいたい気もちに駆られている。これを爺さんに切り出すきっかけを待っているのだが、仲々その折りがない。相変らず爺さんは夕飯をすませてから出かけてきて十一時が打つと帰っていってしまう。爺さんがいつまでものんべんだらりとしていて話をはこぼうとはしないので、お初は階下したで気をもんでいるおっ母さんの姿に急かれるような気がしていらいらしてくる。そのくせ、爺さんの顔をみていると妙に言い出せない。こんな日がくりかえされて、おっ母さんの気嫌が悪くなる。
「何んて口下手な娘だろう」
 と、愛想をつかして「その内、爺さんがどっかから内儀さんに向きなのを探してくるこったろうよ」
 などと厭味を云うのである。
「そんなにお爺ちゃんのことが気になるならおっ母さんがお内儀さんになればいいじゃないの」
 こう云ってお初は耳根を真っ赤にして、袂を絞りながら二階へ駆け上っていく。
「まあ、何んてことをいうの。このは……」
 おっ母さんは銅壺の廻りを拭き止めて、呆れたように梯子段を見あげている。やがく俯向いて銅壺のあたりをゆるゆると拭いていたが、人差指に巻きつけていた浅黄の茶布巾を猫板の上へおいて、襦袢の袖口をひき出して徐かに眼を拭いた。
 お初ひとりを楽しみにこれまで苦労をしのんできたおっ母さんには、これからの好い目」が当然のことのように思われているのに、お初は一向にこの心を汲まずおっ母さんの仕合せなぞどうでもいい、と思うている。女親の手ひとつで育てあげられたその恩を、あの娘は全で古元結か何んぞのように捨てている。――おっ母さんにはお初の今の言い草が恨めしくてならない。赤い眼をあげて梯子段を眺めては、また袖口をあてて泣いている。
 亡くなった内儀さんの百ヶ日がきた。
 朝、爺さんは袋町へ寄って墓詣りにお初をもつれ出した。郷里にある本家の墓の世話になるのを嫌って、爺さんはこんど雑司ヶ谷へ新らしく墓をたてたのだ。雪もよいの寒む風が頬に痛いようである。森閑とした墓地径を二人は黙って歩いている。爺さんは時折り咳をする。マスクを口の方へ下して洟をかむ。ラッコの衿を立てて、白足袋の足を小刻みにせかせかと歩いている。お初は藤紫のショールの端で軽く鼻のあたりを覆うて、小菊の束を抱えて爺さんに跟いていく。枯枝に停っていた一羽の雀が白いふんをたれながら高く右手の卒塔婆の上へ飛んだ。
 墓の前へ出た。爺さんは二重廻しと帽子をお初へ持たせておいて紋付の羽織を背中の方まで端しょって墓の前へしゃがんだ。この前供えておいたお花が霜枯れして花活けの竹筒に凍てついてしまって仲々とれない。ようやくのことで爺さんはお初の持ってきた小菊を活け終わると、マスクを鼻の方へあげてお念仏を唱えながら永い間手を合せている。爺さんが拝んでいる間、お初はさっきの雀がどうなったかしら、と頸をかしげて卒塔婆の方をみている。風に胸毛を白く割られた雀は卒塔婆のてっぺんに停って、きょとんとしている。
 お詣りがすんで、墓地の小径をひきかえしながらお初が、
「ねえ、父うさん」と話しかけた。
「何んだい」とマスクの顔が振りかえった。お初は何やらためらっていたが、
「いいえ、何んでもないの。きょうはとてもお寒いのね」と云った。
「そうだなあ。どこかで熱いものでも食べていこう」
「あら、御馳走して下さるの。そんならね、川鉄の鳥鍋がいいわ」
 マスクの顔が振りかえった。
「莫迦が! きょうでやっと百ヶ日だというに、何んで俺が鳥を食う……」
 こう呶鳴っておいて爺さんはとっとと歩いていった。爺さんが呶鳴ったのには、自分の精進が忘れられている、ということよりもお初の贅沢心に急に肚が立ったからである。だから、あんな女は家へはいれられないというのだ。爺さんの白足袋はせかせかと歩いていく。亡くなった内儀さんのことが思い出される。種がいとしまれる。ふと、爺さんは、種を養女にしたらどんなものだろう、と思いついて、
「これあ、存外莫迦にならない話だわい」
 と独り言を云うた。





底本:「神楽坂・茶粥の記 矢田津世子作品集」講談社文芸文庫、講談社
   2002(平成14)年4月10日第1刷発行
底本の親本:「矢田津世子全集」小沢書店
   1989(平成元)年5月
初出:「人民文庫」
   1936(昭和11)年3月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2008年8月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について