鴻ノ巣女房

矢田津世子




 隣りの紺屋の婆様から、ぎんはこんな昔語りをきいた。
 或る山の中に男が一人小屋がけをして住んでいた。働いても働いても食うに事かく有様で、おのれの行末を考えては心細がっていた。或る晩大風があってほうぼうの大木が倒され畠の粟や稗がみんな吹きこぼれて、あっちこっちで助けてけろ助けてけろという叫び声がする。男は行きつけの旦那衆の手伝いをして家に帰って寝たが、夜中にどこからか助けてけろ助けてけろというかぼそい叫び声がきこえる。はて何処だべと思いながら夜を明かした。朝になって山へ柴刈に行ったが、まだゆうべの助けてけろ助けてけろという声がするから、だんだん尋ねて行くと、きのうの大風で倒れた古木の洞に住んでいた鴻の鳥が、木の間に体がはさまってどうすることも出来ずにキイキイ鳴いているのであった。男は苦労してその木を伐り倒して鳥を助け出し、傷んだ羽根を撫でてやったが鳥はつかれていてうまく飛べない。やっと飛び上ったかと思うと、ばさばさと地に落ち、飛び上ったかと思うと、地に落ちる。男は稼がなければならぬので思いを残しながら振りかえり振りかえり立ち去った。鳥は涙を流してその後ろ姿を見送っていた。或る雨あがりの日、男が山へ柴刈に行くと、若いきれいな女がやっぱり柴刈をしていた。女は笑いかけて、お前に行き会いたかったと声をかける。お前は誰れだと云っても、女はただ笑ってばかりいて、せっせと柴を採る。夕方になって男が帰りかけると女もついてきた。俺はこんな貧乏者だからお前のような女子に来られては困ると云っても、拝むようにしてどうか置いてけれせという。そしてふところから紙捻を出して、その中から米粒を二粒出して鍋に入れて煮ると、鍋が一杯になって二人で夕飯を腹いっぱい食べた。女は昼間は山へ柴刈に行くし夜は機を織ったりして休む間もなく働いている。だんだん日がたつと女は家にいて朝から晩まで機を織るようになった。そのうち二人の間に女の子が生れ、三年たつと女はやっと機を織り下して、良人に、これを町さ持って行って売ってきてけれせと云った。男はなんたらこんなもさもさした毛織物なんぼの値があるべえや、それも売れればよいがと心配顔をすると、女はこれは私の精をこめて織ったものだから三百両であったら売ってもよいという。町の大店の旦那様の処へ行くと、大そう喜んで家の宝にするとて言い値で買い取ってくれたので、男は驚いて大金を持って帰って来た。そして、この織物のおかげで、ひどく裕福に暮せるようになった。或る夜、その女が云うには、娘ももう食べ物をやっておけば大丈夫だから私に暇をくれろという。男は驚いて何して今頃そんなことを云うのかと尋ねると、これまで私もずいぶん稼いだけれど今では精も根もつきはてたから元の性に還りたい。実は私はいつぞやお前に助けられた鴻の鳥である。なぞにかして御恩返しをしたいと思って私の代りに一人娘を残して行く。そして、あの機を織る時、私の体の毛はみんな抜いて織ったので今ではこのようになったというて、赤裸になった体をみせ、わずかに残っている風切羽で山のほうへばさばさと飛んで行った。
 今年四十二歳のぎんは、この昔話をきいた晩、泣けて仕様がなかった。枕につっ伏して声をしのんで、ながいこと泣いていた。
 ぎんがこの「あたりや」に女中奉公してから、もう、十年あまりになる。「あたりや」もこの六本木通りでは相当に名のきこえた唐物屋だったけれど、ここ数年来輸入物の仕入れがむずかしくなったところから、とかく商いも不如意がちになり、それかといって今さら軍手や割烹着類を店ざらしにするような小商人になり下がるくらいならと依怙地な老主人は店を閉ざしてしまったが、今ではその店内にぎっしりとミシンをならべて、ぎんが頭になって請負のミシン作業に精を出している。ほんの手内職のつもりではじめたことが、いつのまにか本職になってしまった。この家の一人娘の遺品だという古ミシンをつかって、片手間に近所の人たちの簡単服だのエプロンだのの賃仕事をしているうちに、出入りのクリーニング屋から話がついて、衛生服や医務服の下請をするようになった。ぎん一人では手もまわりかねるので、中古を買いこんだり賃借りをしたり、いまは通いの娘たちも汗みずくの忙しさである。
 年寄りの主人夫婦から一切をまかされているぎんは、ミシンにばかりかかりつめているわけにはいかない。年寄りが喜びそうな惣菜をこしらえたり、お針をしたり、洗濯をしたり、鼠捕りをしかけたり、市場へ買い出しに行ったり……。市場で、ぎんは「負けれせ」という呼び名で通っていた。ひね生姜一つ買うにも値切らずにはおかなかったからである。まったくぎんは値切ることにかけては名人だった。ちょいした瑕やあらを見付けては、国訛りのぼっそりとした調子で「負けれせ」というのが口癖なのである。あの「負けれせ」に会っちゃ敵わねい、と物売り達は投げるように手を振って、ぎんが買い出しに来る頃合いをみて「本日は負からずデー」と張紙などして、からかったりした。
 ぎんは器用なたちだったので、大抵の繕い物は自分の手でした。傘の張換えだの骨の折れなどを雑作なくなおした。それから鍋や薬鑵などのイカケもすれば、瀬戸物の毀れを接ぎ合せることも出来た。
 主人夫婦はこうしたぎんの始末振りをひどく気に入っていた。非常時の折から物品愛護のよい手本だと賞めた。ぎんはニコニコ笑っていた。主人夫婦の言葉は、なんでも有難かった。ぎんにとっては主人夫婦はただただ無類の結構人だった。
 旦那様のほうは中風の気味で臥せがちだったが、せっかちの口やかまし屋で、しょっちゅう小言ばかり云っていた。そのうえ手に負えない癇性で、畳に顔をこすりつけるほどにして調べてはササクレをいちいちつまみとらせたりする。奥様は信心深くて念珠を手から離したことがない。慈悲の心に篤く、申し分なく優しい人柄だったけれど、出入りの者たちは「けちんぼう」だと蔭口をきいていた。情をかけるにも口だけで、一向に喜捨をしたためしがない。奥様自身は、まことさえあれば仏様の御心に通じるものだからと云い慣わして、人へ恵むということをあまり喜ばない。お貰い物が殊のほか好きで、それへ熨斗紙を掛けかえたりしては他家への遣い物にしたり、あれこれとひとりで忙しがっている。ぎんには主人の云うことなすことが、みんな尤もだった。そして、この吝嗇な奥様と根っから始末屋の女中はよく気が合って、いよいよ物おしみするのだった。
 ぎんの一日は目まぐるしかった。内のことも外のことも一人で取り仕切らなければならない。年寄り夫婦の用事はひっきりなしだったし、店の娘たちの世話もやけた。それに品物の受け渡しや厄介な帳づけの仕事がある。ミシンの請負からあがる利益で主人夫婦はたっぷりと暮し、貯金も出来るというのでほくほくだった。
 近所では働き者のぎんのことが評判である。あたりやさんではいい女中を当てたものだと、羨ましがった。あんなに扱き使って八円の給金じゃあ因業すぎると、主人夫婦を悪く云うものもあった。
 ぎんはニコニコして働いていた。頬骨の出た釣り眼の長顔なので、黙っているとひどくこわい険のある顔にみえる。これを苦にやんで、始終ニコニコとほぐしていた。娘のころチブスにかかって髪が生えかわってからチリチリの縮れっ毛になってしまった。それをひっつめて、うしろにお団子にしている。右肩が怒っていて、ちっと片輪にみえたが、これはレース工場にいたとき機械の片側調べを長年していたからで、今ではその肩をわざと落して癖づけようとしてもなおらなかった。奥様のお下りの盲縞でこしらえた上っ張りを年中着ていた。朝晩はその上から襷をかけ、大きな前掛で腰をひっくくった。誰もまだぎんの齢を云いあてたものがいない。しかし、誰れの見当も五十から六十の間ということで一致した。不思議なほど手足だけが綺麗だった。
 通いの娘たちが帰ったあと、ぎんはひとりでミシンの夜業に精を出した。つい十二時すぎまでかかりつめていて、近所から安眠妨害だと文句を云われることもあった。たまに早仕舞いをしたときは銭湯へ行ってゆっくり手足を伸ばしてくるか、隣家の紺屋へ遊びに行って同じくに生れの婆様から昔話ムカシコをきくのが、このうえない安楽だった。
 台所つづきの三畳間がぎんにあてがわれた寝場所だったが、まるきり陽の目をみないこの小部屋はしょっちゅう黴臭く、壁や畳がジトジトと湿っていた。北向きのたった一つの格子窓からは路地のすぐ向うに紺屋の勝手口が見えた。子沢山のおかみさんが立ち働きづめでキンキン声を張り上げて、ひっきりなしに子供や婆様を叱りつけていた。ぎんが寝るころになって洗濯をはじめることもあった。窓の両側の壁には子供のかいたクレヨンの図画だの、雑誌から切り取った西洋美人の絵だの、新聞の附録の古い一枚カレンダーだの、工場にいたころの友だちと撮した写真などがピンで留めてあった。写真の中の友だちもぎんも眉毛のかくれるほどの大きな束髪に結って、どういうつもりか揃って右手を袂の中に隠していた。
 部屋の隅には古行李やボール箱が積み重ねてあった。ひびの入った電燈の花笠や、摘み細工のぼろぼろになった柱懸や、インキ瓶のようなものまで、丁寧に納まってあった。主人から、もう捨ててもいいよと許しの出た物は、なんでもみんな頂戴しておいたのである。
 古行李には、ぎんが持物の中でも一番自慢にしているもの、奥様のお下りのラッコの毛で縁どったショールが納まってあった。これは舶来物の飛切品だと奥様は今も惜んでいる。しかし、紺屋の婆様の鑑定によると、ラッコとは真っ赤な嘘で、兎の毛をうまく染めたものだという。虫のせいか、あちこちボッコリと毟り取ったように毛が抜けて、見るかげもなかった。
 毎度、虫干しの季節になると、ぎんはこの三畳間に細引を張って、持物に風を通すことを忘れなかった。そんなとき、紺屋の誰かが格子窓から覗くと、ぎんは一つ一つに勿体をつけて自慢した。店の娘たちが汗になってミシンにしがみついているところへ、出しぬけにラッコのショールで現われて、みんなの度胆を抜いたりした。
 この小部屋いっぱいに床をしいて、身を横たえたいっときは、ぎんにとってはまったく極楽の有難さである。胸に手を組み、奥様口ぐせの念仏を聞きおぼえに唱えながら、いつのまにか快い眠りに誘われる。夜中にむっくりと起き出して、暗がりをきょろきょろ見まわすことがよくあった。夢だったのかと、うっとりとした心地で、やがてまた、しずかな眠りに入る。
 まったく不思議な話だが、長い年月、ぎんにはきまってみる一つの夢があった。広い立派な西洋間である。壁には大きな額がかかっている。綺麗な飾り椅子があちこちに置いてある。高い大きな窓がいくつもいくつもあって、それにはみんな真っ白いレースのカーテンがかかっている。小模様の織目の細かい上等品である。ふんわりと揺れはためく。裳裾の房がパタパタと鳴る。揺れるカーテンにコスモスの花が咲いている。淡紅い今にも消えそうな花が、白い花むらの中にぽつぽつと咲いている。背中の赤ん坊がなかなか泣きやまない。まあるいおしりが下って、おぶい紐が肩に食いこんで、重ったるい。あやしながらコスモスの花の中を歩いて行く。
 行っても行っても花ばかりである。花の波がゆったりゆったりと揺れる。真っ白いところに淡紅いぽつぽつのあるコスモス模様のカーテンである。裳裾の房がパタパタと鳴る。すると、カーテンはふんわりと揺れはためく。
 夢の中の西洋間は、雑誌の口絵で見かけたことのあるえらい方のお邸のようでもあるし、工場にいたころ友だちに誘われて見た活動写真の中の場面のようでもある。その活動では背の高い素敵な西洋美人が伯爵の恋人と囁きかわすところがあったり、馬に乗って散歩するところがあったりして、今でも思い出すたんびにぎんは悩ましくって溜息が出る。そんなとき、無性に、寺島捨吉が慕わしかった。
 ぎんがこの小間物行商人と馴れ染めたのはレース工場にいたときのことである。大阪にあるその工場の女工になったのは十八の齢であった。北秋田の潟に近い小さな町でぎんは生れた。父親は町役場の小使をつとめ、母親は水汲み下女だった。ぎんは小学校を中途でやめさせられて校長先生の家へ子守りにやられた。
 校長先生には「赤髭コ」という諢名がついていた。寒中でも真っ裸になって井戸端で水をかぶる人だった。赤ん坊をおぶったぎんが学校へ遊びに行くと、子供たちが寄ってきて、こんな悪口を云うのだった。
「おめえとこの赤髭コな、けさ、髭コの先さタロッペ(つらら)下げてきたど。」
 そして「赤髭コ、赤髭コ、髭コのタロッペ塩辛しょっぺえってな。」とはやしたて、雪の中をどこまでも追いかけてくるのだった。
 夏になると校長先生の庭にはいろいろな花が咲いた。おいらん草だの百日草だの雛菊だのが咲き盛るのだった。校長先生は越中に腹巻といういでたちで、暇さえあれば草花の手入だった。コスモスの花時になると、子供等が垣根に背伸びして、よくとりにきた。先生自慢の輪の大きなコスモスだった。それが垣根のぐるりにゆさゆさ揺れていた。子供の頭がかくれてしまうほど背の高いコスモスだった。
 父親の都合でぎんは校長先生の所から暇をもらい、酒屋の小女中にやられた。町に「ガラ八の内儀じゃっちゃ」という看護婦や女工や女中などの口入れを商売にしている寡婦がいた。十六の春、ぎんは近在の娘たちといっしょにこの「内儀じゃっちゃ」に連れられて大阪へ出た。紡績の女工になった。同じ町から出てきた友だちに誘われるまま一年半ばかりの後、レースの工場へかわった。そこで十二年あまり働いた。
 大正の初め創業したこの工場は、当時輸入した二台の機械でどうやら覚束ない歩みをつづけてきたが、次第に活況を呈して、ぎんが退くころは工場の建て増しをしている最中だった。普通、服地とか袖口とか裾よけとかになるレース地は、絹物、ジョーゼット、木綿、人絹などいろいろあって、機械にかける前、十ヤールに縫合せる。機械済みのを仕上げのミシン場へまわして、あとは晒しに出す。ぎんは入りたてミシン場で働いた。それから機械場へまわされた。一台に二人、裏と表につくのである。糸の切れ、針の折れを視て歩く。眼玉を皿にして注意する。しょっちゅう片側歩きなので、しぜん肩が凝ってしまう。六台に一人あたり、班長が休みなしに見廻っているのでくさめをするまもない。ぎんものちには班長になり、女では一人っきりの監督にまで上ったけれど、機械に附き添う愉しさは格別であった。
 工場にはたった一台、米国から取り寄せたという特製の機械があったけれど、これはぎんでなければ動かせなかった。他の者では機械がいうことをきかないのである。無理をして針に刺されるのが怖さに、誰れも手を出さなかった。これは織目の緻密な総レースをつくり出すのである。仕上り品は主に極上品のカーテン地として売り出された。ぎんは、この機械のことで明け暮れた。どんな小さな埃りでも指のはらで丁寧に払った。針の一本一本を唇でためした。そして、機械にかける前、糸を舐めるのに精をきらした。舐めると糸が切れないという「まじない」を故郷くにの年寄衆にきいていたからである。針の間からゆるやかに大巾の模様レースが流れ出してくる。白いこの流れに機械の騒音が吸いこまれて、ひとり静けさがここにばかり凝っているようである。視戌っているとしんしんとした静けさが心の奥底にまで沁みる。すると、心の奥底にもまた白い模様レースが流れはじめる。ぎんは、ぼけたように機械を忘れて立っていて、よく小突かれた。監督になってからも、この機械からは離れられなくて、ずっと掛持だった。
 機械に引き添いながら、ぎんはいろいろな模様レースを心の中で織った。子供のころ見なれた山の端の茜雲や、青空にふんわりとかかった白い薄雲や、いつかの明方見たことのある遠い空の燃えるようなだんだら雲を次ぎつぎと織っていった。それから夏の雨上りの虹の橋や朝露のつぶつぶを光らせた浅緑の草むらを織ってみたいと思った。その草むらにとまっている玉虫や羽根のすけてみえるかげろうを織りこんでみたら、どんなに綺麗かと思う。そしてまた虹の橋に霧がかかったところや梢を鳴らす優しい風の音もレースに織ってみようと、胸をふくらませるのだった。
 ぎんが工場づとめをしている間に両親が次ぎつぎに死に、たった一人の兄は北海道へ渡って鉱山入りをしたまま消息を絶ってしまった。チブスで動きのとれなかったぎんは、とうとう親の死に目にも会えなかった。寺島捨吉と知り合ったのは、こうした不幸のあとだったのである。
 その頃、工場には女工たちのために三棟の寄宿舎が出来ていた。外出しにくいので、しぜん行商人が入り込む。捨吉は小間物類一切から下駄草履のようなものまでつづらに詰めては商いに来る。色の浅黒い三白眼の、ちょっと小粋なところのある男だった。広島弁で面白いことを云っては笑わせる。自転車につづらをつけた捨吉の姿が通りに見え出すと、女工たちは窓から乗り出したり手を振ったりしてキイキイ声を張り上げる。なかなかの人気だった。
 この捨吉が、ぎんへはこっそりと並ならぬ優しさを見せるのである。毛ピンやネットのようなものを負けてくれたりハイカラな文化草履を卸値で分けてくれたりする。ぎんの手足を綺麗だとほめて顔が火照るほど嬉しがらせたりした。
 或る日、非番でぎんが寝転んでいるところへ、つづらの捨吉が入って来た。部屋の者が出はらっているのを見て、あんたにだけ聞いてもらいたい話がある、と声を低めて、身の上話をはじめた。自分ほど不幸な男はいない、子供の頃ふた親に死別して、因業な伯父夫婦にこき使われた。女房運が悪くって、最初のには逃げられるし、二度目はそりが合わなくて別れるし、三度目のにはつい先達て死なれてしまったと、眼をうるませ、おろおろ話した。孤児同様な我が身にひきくらべて、ぎんは貰い泣きした。男の唐突な涙もろさ、おろおろした気弱さに、心が動かされるのだった。
 そんなことがあってから、ぎんは、つづらの捨吉を特別な優しさでみるようになった。そして休日にはどきどきして媾曳の場所へ急ぐのだった。人出のない郊外へ、男は出たがった。逢うといつもおろおろ声で「僕ほど不幸な男はいない。」と愬え、ぎんを当惑させた。男の涙もろさや気弱さは、ぎんにとっては愛情の誓いになった。
 夜に入ってぎんが帰りを気にし出すと、男はびっくりするような剣幕で引き止めた。暗い畑道を歩きながら男に手をまかせ、ぎんは不安と臆病さからしょっちゅうどきどきしていた。その臆病さが身を守って、あやまちもなかった。男は、堅人だと云ってからかった。女のそうした身の堅さに却って掻き立てられ、いよいよ執心した。
 工場の中でも評判になって居たたまれず、ぎんは捨吉と港寄りの小林町に家をもつことになった。一人者だときいていたのに、暮してみると男には子供があった。三度目のおかみさんの子だったが、死別したはずのそのおかみさんもしゃんしゃんしていて、今は堺のほうの旅館で働いているということまで分った。子供はどこに預けておいたのか、間もなく男が引き取って来た。ようようつかまり歩きをし出したばかりの男の子で、俊雄と呼ばれていた。
 男が大酒飲みだということもだんだん分った。酒癖が悪くて喚き出すと手に負えなかった。三白の眼をすえ「馬面うまづら」、とか「シャグマ」とかいって、ぎんを呼びたてるのだった。小間物の行商もとかく怠けがちだったが、そのうちどこで仕入れるのか信州綿というのに肩代りした。こんどの行商は気骨が折れる、一軒一軒で口上だからと、捨吉は不機嫌だった。玄関に上りこむなり荷をひろげて、山繭の屑糸からとれた丈夫な絹綿だと云い、足でふんづけたり手綱によじってみせたりして、「これこの通り!」と買手へ請合顔して見せるのだった。綿の中味は人絹屑の加工物をつかい、どうせ知れたまやかしものであった。どこで手に入れたのか、知名の人の名刺を勿体ぶって財布から取り出して見せ、こんなに支持してもらっているからと、買手の度胆を抜いてかかる。名刺には子爵男爵と肩書のついたのもあった。それほど儲けにもならず、寝食いの日が多かった。
 工場の友だちが遊びにくるたびに、ぎんは肩身の狭い思いをする。はじめっからあんたの貯金が目あてだったんだからと、その友だちは親身になって忠告した。今のうちに別れないと飛んだことになるとも嚇かした。しかし、ぎんは別れる気がなかった。男は仕入をすると云っては、あらかた金を持ち出した。家をあけることが多くなった。たまにくつろげば酔って「おい、シャグマ」と喚き立て出て行けがしの愛想づかしだった。
 どのような男の仕打も、ぎんには我慢が出来た。子供のために堪えられたのである。子供はぎんになついて、可愛かった。まわらぬ口で母チャン母チャンと呼びなれていた。ねむくなると、涎れの顔をぎんの胸にこすりつけてきた。そしてから乳を吸って機嫌よく寝入った。ぎんはこの子が可愛くってたまらなかった。朝から晩まで、子供のことでいっぱいだった。人に会いさえすれば子供自慢だった。
「うちの子は、まあ、なんて早智慧なんでしょう。けさもね、鳩ポッポを教えたらもうすっかりおぼえこんじまって、さあ、俊ちゃん、小母さんにポッポッポを唱って上げれせ。」
 子供が涎れの口をとがらせて覚束なげに唱い出すと、ぎんはもう眼をなくして武者ぶりつき、子の顔や手や出臍のおなかにまで口をつけてぶうぶう吹いてやるのだった。
 或る日、めずらしく捨吉が子供を抱いて銭湯へ行った。帰りの遅いのが気になって覗きに行くと、とっくに上ったという。濡れた手拭いとシャボン箱が番台に預けてあった。それっきり父子は姿を見せなかった。親類だという夫婦者がきて、世帯道具の一切を荷車につけて行った。子供の母親と縁が切れていなかったと初めてきかされ、ぎんは途方に暮れた。子供を思って泣いた。
 しばらく独り暮しをしていたが、友だちに勧められて上京することに決心した。東京で経師屋にかたづいているその友だちの叔母を頼って行くことになった。レース工場へは義理が悪くて帰れなかった。
 郷里くに者の経師屋は、姪という振れこみで、ぎんを「あたりや」に世話した。時々、親類顔で覗きにきては、暮し向きの愚痴を並べ、小遣いを借りて行った。それもだんだん狎れっこになって、月末には無心を欠かさないようになった。
 誰れにでもぎんは従順だった。人の言葉に従ってさえいれば間違いがないと信じ切っていた。そして始終心の中に誰れかを立てておかないと気がすまないのである。子供のころは校長先生や酒屋の旦那様だった。工場の機長だったこともあるし監督だったこともある。捨吉父子はいっとう長く心の中にいた。そして今は「あたりや」の主人夫婦ほど有難い人はないのである。
 別れて十年あまり、俊雄はこの春中学へ上ったという。父子の者はいま広島の海江田市に住んでいる。ぎんが「あたりや」に落着いて一年ばかりたつと、捨吉から手紙がきた。そのころはまだ堺にいた。工場の友だちに居所を訊き合せたということが分り、相変らず愚痴だった。ぎんは男の涙もろさを思い出した。おろおろ声が聞えるようだった。貧乏している子供が可哀そうでたまらなかった。そして、有り合せをすぐに為替に組んで送ってやった。それが癖になって、今では子供の学費という体裁で毎月せびられている。
「お前さんのようなお人好ってあれあしない。赤の他人にそんなに貢いでさ。笊に水だよ。」
 主人夫婦はどうにかして、送金を思い留らせようとして、いろいろに意見を云った。ぎんはニコニコして聞いているだけだった。
 広島へ行ってからの捨吉は家屋売買のブローカーのようなことをしていた。手紙には子供と二人っきりの佗び暮しだと書いてあったが、工場の友だちからの知らせで、子供の母親も一緒だと分った。
 子供からもよく手紙がきた。大きな字で「オバサン」と書き出してあった。ぎんは物足りなく寂しかった。まわらぬ口で「母チャン」と呼んで、涎れの顔をこすりつけてくる俊雄が思い出された。から乳をよろこんで吸うときの、乳房へあてがう小っちゃな手の感触が、悲しいほどの疼きで思い出された。そして「母チャン」と、なんべんも口の中で云ってみるのだった。
 俊雄からは手紙のたびにねだりごとだった。ランドセルがこわれてしまったの、東京鉛筆が欲しいの、遠足へ行く小遣いを呉れだのと、ひっきりなしだった。ぎんはわくわくしながら、手紙をよむとすぐに支度をして送ってやった。クレヨンの図画が届くと、会う人ごとに見せびらかした。「わたしンとこの子はね……」と、眉をひらいて、ありったけ自慢した。通いの娘たちは、またおぎんさんの「わしンとこの子」がはじまったと目まぜして、クスクス笑い合うのだった。
 クレヨンの図画には汽車と、もう一枚林檎が描いてあった。ぎんはそれを自分の部屋の壁に貼って、朝晩ながめくらした。
 輸入物の品不足で「あたりや」が小僧を廃し店を閉めるほどの不況に追い込まれた頃、一時ぎんも身の振りかたに迷ったことがあった。経師屋夫婦は、もっと割のいい奉公口を探してやろうと云うのだったが、ぎんは他へ住みかえる気がしなかった。ただ心にあったのは、もう一度、大阪の工場に帰ってみたいということだった。思案しぬいた揚句、ぎんは監督へあてて願いを出してみた。友だちが郷里に帰ってかたづいてしまった現在では、その古株の監督が唯一の知り合いであり、頼りであった。
 機械へ向ける気持だけは、いつになっても変らなかった。針の間からゆるやかに流れ出てくる真っ白い大布の模様レースを思い出しただけで、無性に心が弾んだ。ぎんは、もう一度、針を扱いたいと希った。舌のさきで、ちょいちょいと糸を舐めてみたいと思った。指のはらで機械の埃りをはらい、眼を皿にして忙しく引き添い歩きたいと思った。レース機械へのこの執心は、ぎんのもっているただ一つの積極性であった。しかし、願いは入れられなかった。事変後、製品の統制で現在は機械の台数も以前より少くなっている。総レースを織り出す特製のほうは昨年から使用を停止していると、監督から懇切な報告があった。
 主人夫婦から許しが出て、ぎんはミシン内職にかかりつめるようになった。通いの娘たちは親しんで、よく働いた。仕事がだんだん立てこんで、ぎんはミシンにかかったなり応待したり製品の受け渡しを指図したりした。ニコニコ顔が利いて、取引先きの受けもよく、愛嬌者だと評判もよかった。
 ミシンの手を動かしている最中、ふと、眼前に広い立派な西洋間がひらける。大きな額や綺麗な飾り椅子がある。高い窓がいくつもいくつもあって、それにはみんな真っ白いレースのカーテンがかかっている。小模様の織目の細かい上等品である。ふんわりと揺れはためく裳裾の房がパタパタと鳴る。揺れるカーテンにコスモスの花が咲いている。淡紅い今にも消えそうな花が、白い花むらの中にぽつぽつと咲いている。花の波がゆさゆさと揺れる。裳裾の房がパタパタと鳴る。すると、カーテンがふんわりと揺れはためく。
 ぎんには、そのレースが織目の細かい上等品だということも、小模様が一つ一つコスモスの花だということも、たくさんの襞がふんわりと揺れうごくさまも、ありありと見えるのである。裳裾の房が耳の中でパタパタと鳴り、手を伸ばすと揺れはためくカーテンのやわらかな感触が伝わってくるのである。通りを走る電車の響きや人声やミシンの騒音の中に、その真っ白いカーテンだけがふんわりと音もなく揺れるのだった。
 蚊帳も団扇もしまいこんで雨戸を閉め切る時節となった或る夜、ぎんは寝床の中で俊雄の手紙を読み返していた。難かしい字が多くなって、このごろは判じよむのに骨が折れた。「伯母上様」と書き出しから、もう漢字であった。中学に上るとえらくなるものだと、ぎんは感心した。友だちはみんな万年筆を持っているのに、僕だけ買ってもらえないと愬えてあった。お父さんが今病気でお医者にかかっていると知らせてあった。僕は赤ん坊のお守りをしたり勉強したりで、とても忙しいと附け加えてあった。
 ぎんは、あした早速万年筆を買って送り出そうと思った。俊雄の喜ぶ顔を想像した。しかし、浮んでくるのは、涎れあぶくを吹いているよちよち歩きの男の子である。すると、まわらぬ口で「母チャン」と呼ぶ可愛い声がきこえてくるのだった。
 この春生まれたという赤ん坊へも何か玩具を送ろう。それから子供の父親へも見舞いの金を送ろう。貧乏して、どんなに困っているだろうと、ぎんは眼をうるませた。
 そして、カキカキした大きな字の手紙を頬に敷いたまま、いつのまにか安らかな寝息をたてはじめた。枕のはしでかなぶんが忙しげに手をもんでいた。

 それから十二日目に、ぎんは卒中で死んだ。
 遺品を調べてみたら、金は五円の報国債券五枚を入れて、しめて百二十八円五十三銭あった。妙に思われたのは、これまで虫干しでも見かけたことのなかった六尺四方の豪華なレースのテーブル掛であった。





底本:「神楽坂・茶粥の記 矢田津世子作品集」講談社文芸文庫、講談社
   2002(平成14)年4月10日第1刷発行
底本の親本:「矢田津世子全集」小沢書店
   1989(平成元)年5月
初出:「文芸」
   1941(昭和16)年10月号
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2008年8月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について