蓬生

與謝野寛




(一)


 みつぐさんは門徒寺もんとでら四男よなんだ。
門徒寺もんとでらつても檀家だんかが一けんあるでい、西本願寺派にしほんぐわんじは別院並べつゐんなみで、京都の岡崎にあるから普通には岡崎御坊で通つて居る。格式は一等本座いつとうほんざと云ふので法類仲間はふるゐなかまはヾく方だが、交際つきあひや何かに入費いりめの掛る割に寺の収入しうにふと云ふのは錏一文びたいちもん無かつた。本堂も庫裡くり何時いつの建築だか、随分古く成つて、長押なげしゆがんだり壁が落ちたりて居る。其れを取囲とりかこんだ一町四方もある広い敷地は、桑畑や大根畑に成つて居て、出入でいりの百姓が折々をり/\植附うゑつけ草取くさとりに来るが、てらの入口の、昔は大門だいもんがあつたと云ふ、いしずゑの残つて居るあたりから、真直まつすぐに本堂へ向ふ半町ばかりの路は、草だらけでだれも掃除の仕手が無い。
 檀家の一軒も無い此寺このてらの貧乏は当前あたりまへだ。併し代々だい/″\学者で法談はふだん上手じやうず和上わじやうが来て住職に成り、とし何度なんどか諸国を巡回して、法談でめた布施ふせを持帰つては、其れで生活くらしを立て、御堂みだう庫裡くりの普請をもる。其れから御坊ごばうは昔願泉寺と云ふ真言宗しんごんしう御寺おてらの廃地であつたのを、此の岡崎は祖師親鸞上人しんらんしやうにんが越後へ流罪るざいきまつた時、少時しばらく此地こヽ草庵さうあんを構へ、此の岡崎から発足はつそくせられた旧蹟だと云ふ縁故ゆかりから、西本願寺が買取つて一宇を建立こんりふしたのだ。其時在所ざいしよの者が真言しんごん道場だうじやうであつた旧地へ肉食にくじき妻帯さいたい門徒坊もんとぼんさんを入れるのは面白く無い、御寺の建つ事は結構だがうか妻帯をさらぬ清僧せいそう住持じうぢにしていたゞきたいと掛合かけあつた。本願寺も在所の者の望みどほりに承諾した。で代々だい/″\清僧せいそうが住職に成つて、丁度禅寺ぜんでらなにかのやう瀟洒さつぱりした大寺たいじで、加之おまけに檀家の無いのが諷経ふぎんや葬式のわづらひが無くて気らくであつた。
 所が先住の道珍和上どうちんわじやう能登国のとのくにの人とやらで、二十三で住職に成つたが学問よりも法談が太層うまく、此の和上わじやうの説教の日には聴衆きヽて群集ぐんじふして六条の総会所そうぐわいしよえんが落ちるやら怪我人が出来るやら、其れ程に評判であつた。また太層美僧びそうであつた所から、後家や若い娘で迷ひ込んだ者も大分にあつた。在所の年寄仲間は、御坊さんのうら竹林たけばやしなかにあるぬまぬし、なんでもむかし願泉寺の開基が真言のちからふうじて置かれたと云ふ大蛇だいじやたヽらねば善いが。あヽ云ふ若い美くしい和上わじやうさんのられたのはあぶないもんだ。斯う噂をして居たが、和上に帰依きえして居る信者しんじやなかに、きやう室町錦小路むろまちにしきのこうぢ老舗しにせの呉服屋夫婦がたいした法義者はふぎしやで、十七に成る容色きりやうの好い姉娘あねむすめ是非ぜひ道珍和上どうちんわじやう奥方おくがた差上さしあいと言出いひだした。物堅ものがたい和上もわかいので法力はふりきうすかつたせゐか、入寺にふじの時の覚悟を忘れて其の娘をもらふ事にめた。
 其頃御坊ごばうさんの竹薮たけやぶたけのこを取りにはいつた在所ざいしよの者が白いくちなはを見附けた。其処そこへ和上の縁談が伝はつたので年寄としより仲間は皆眉をひそめたが、う云ふ運命まはりあはせであつたか、いよ/\呉服屋の娘の輿入こしいれがあると云ふ三日前みつかまへ、京から呉服屋の出入でいりの表具師や畳屋の職人が大勢おほぜい来て居るなかで頓死した。
 御坊さんは少時しばらく無住むじうであつたが、翌年よくとしの八月道珍和上わじやうの一週忌[#「一週忌」はママ]法事はふじが呉服屋の施主せしゆで催されたあとで新しい住職が出来た。是がみつぐさんの父である。此の住持じうぢは丹波の郷士がうし大庄屋おほじやうやをつとめた家の二男だが、京に上つて学問がたい計りに両親ふたおや散々さん/″\泣かせたうへで十三の時に出家しゆつけし、六条の本山ほんざんの学林を卒業してから江戸へ出て国書を学び、又諸国の志士に交つて勤王論を鼓吹した。其頃岡崎から程近ほどちか黒谷くろたに寺中ぢちう一室ひとまを借りて自炊じすゐし、此処こヽから六条の本山ほんざんかよつて役僧やくそう首席しゆせきを勤めて居たが、亡くなつた道珍和上とも知合しりあひであつたし、う云ふ碩学せきがく本山ほんざんでもはばいた和上わじやうを、岡崎御坊へせうずる事が出来たら結構だと云ふので、呉服屋夫婦が熱心に懇望こんまうした所から、朗然らうねんと云ふみつぐさんの阿父おとうさんが、入寺にふじして来るやうに成つた。
 其丈それだけなら申分まうしぶんは無かつたのだが、呉服屋夫婦は道珍和上にめあはせようと為た娘を、今度の朗然和上に差上さしあげて是非ぜひ岡崎御坊に住ませたい、最愛の娘を高僧かうそうに捧げると云ふ事が、何より如来様の御恩報謝ごおんはうしやに成るし、又亡く成つた道珍和上への手向たむけであると信じて居た。娘に此事を語り聞かせた時、娘は、わたしは道珍様が御亡く成りに成つた日から、もうあまの心に成つて居ますと云つて泣き伏したが、もう朗然和上と夫婦との間に縁談がきまつて居つたあとだから、親の心に従つてつひに其年の十一月、娘は十五荷ので岡崎御坊へ嫁入よめいつて来た。娘のとしは十八、朗然和上は三十四歳、十六もちがつて居た。
 此の婚礼に就いて在所の者が、先住のためしを引いて不吉ふきつな噂を立てるので、豪気がうき新住しんじう境内けいだいの暗い竹籔たけやぶ切払きりはらつて桑畑にしまつた。
 れから十年ばかつて、奥方の一枝かずゑさんが三番目の男の児を生んだ。従来これまでに無い難産なんざんで、産のが附いてから三日目みつかめ正午まひる、陰暦六月の暑い日盛ひざかりにひど逆児さかごで生れたのがあきらと云ふおそろしい重瞳ぢゆうどうの児であつた。ぎやつと初声を揚げた時に、玄関げんくわん式台しきだいへ戸板に載せてかつぎ込まれたのは、薩州の陣所へ入浸いりびたつて半年も帰つて来ぬ朗然和上が、法衣を着た儘三条の大橋おほはし会津方あひづがたの浪士に一刀眉間を遣られた負傷ておひの姿であつた。
 きずは薩州やしき口入くちいれで近衛家の御殿医ごてんゐが来てつた。在所の者は朗然和上の災難を小気味こきみよい事に言つて、奥方の難産と併せてぬまぬしや先住やの祟りだと噂した。もともと天下を我家と心得て和上わじやうは岡崎の土地などを眼中に置いて居ない所から、在所の者に対して横柄わうへい態度たいども有つたに違ひ無い。其上そのうへ近年は世の中の物騒ぶつさうなのにれて和上の事を色々いろ/\に言ふ者がある。最も在所の人の心を寒からしめた馬鹿々しい噂は、和上は勤王々々と云つて諸国の浪士に交際つきあつてる。今に御寺の本堂を浪士の陣屋に貸して、此の岡崎を徳川と浪士との戦場いくさばにする積りだらう、と云ふ事である。で何かに附けて在所の者は和上を憎んだが。檀那寺だんなでらの和尚では無いから、岡崎から遂ひ出すわけにも行か無かつた。
 和上と奥方との仲は婚礼の当時からうもしつくり行つて居無かつた。第一に年齢としちがせゐもあつたが、和上は学者で貧乏を苦にせぬ豪邁がうまい性質たち、奥方は町家の秘蔵娘ひざうむすめひまが有つたら三味線を出して快活はれやか大津絵おほつゑでも弾かう、小児こども着飾きかざらせて一人々々ひとり/\乳母を附けて芝居を見せようと云ふ豪奢がうしや性質たち、和上が何かに附けて奥方の町人気質かたぎを賎むのを親思おやおもひの奥方は、じつと辛抱して実家さとへ帰らうともせず、気作きさくな心から軽口かるくちなどを云つてまぎらして居る内に、三人目の男の児を生んだ。
 此度このたびの難産のあと、奥方は身体からだがげつそりよわつて、耳も少し遠く成り、気性までが一変して陰気に成つた。和上のきづ二月ふたつきで癒えたが、其の傷痕きづあとを一目見て鎌首かまくびを上げたへびの様だと身をふるはせたのは、青褪あをざめた顔色かほいろの奥方ばかりでは無かつた。其頃在所ざいしよ子守唄こもりうたに斯う云ふのが流行はやつた。
坊主ばうずひたひへびる。
    へびから赤児あかご。』
赤児あかご』は重瞳ぢゆうどうの三男をしたのである。奥方は何と云ふ罪障つみの深い自分だらうと考へ出した。本堂の阿弥陀様ばかりでは此の不思議なおそろしい宿業しゆくごふが除かれぬやうな気がするので、門徒宗でやかましい雑行雑修ざふぎやうざつしゆ禁制きんせいを破つて、ひまがあれば洛中洛外の神社仏寺へ三男をいて参詣した。以前は気質きしつの相違であつたが、今は信仰しんかうまでが斯うちがつたので、和上は益々奥方が面白く無い。伏見の戦争が初まる三月みつき程前から再び薩州やしきに行つたり明治五年まで足掛あしかけ六年の間一度も帰つて来なかつた。伏見戦争のあとで直ぐ、朝命てうめいを蒙つて征討将軍のみや随従ずゐしうし北陸道の鎮撫に出掛けたと云ふ手紙や、一時還俗げんぞくして岩手県の参事さんじを拝命したと云ふ報知しらせは、其の時々とき/″\に来たが、すこしの仕送しおくりも無いので、奥方は嫁入よめいりの時に持つて来た衣服きもの髪飾かみかざりを売食うりぐひして日を送つた。実家さとの方は其頃両親ふたおやは亡くなり、番頭を妹にめあはせた養子が、浄瑠璃につた揚句あげくみせを売払つて大坂へ遂転したので、断絶同様だんぜつどうやうに成つて居る。在所の者は誰も相手にせぬし、便たよかたも無いので、少しでも口をす為にあますヽめに従つて、長男と二男を大原おほはら真言寺しんごんでら小僧こぞうつた。奥方の心では二人の子を持戒堅固ぢかいけんご清僧せいそうに仕上げたならば、大昔おほむかしの願泉寺時代のたヽりが除かれやう、ぬまぬししづまるであらうと思つたので、開基かいきと同じ宗旨しうし真言寺しんごんでらと聞いて、可愛かあいい二人の子を犠牲いけにへにする気で泣き乍ら手放てばなした。
 明治五年の夏、和上は官界を辞してぶらりと帰つて来た。フロツクコオトを着て山高ぼうかぶつた姿は固陋ころうな在所の人を驚かした。再び法衣を着たことは着たが、ながの留守中放題はうだいに荒れた我寺わがてらさまは気にも掛けず格別修繕しようともせぬ。毎日洋服を着て書類を入れた風呂敷づつみ小脇こわきはさんで、洋杖すてつきいて、京都府下の富豪や寺院をてくてくと歴訪れきはうする。其れは隣村となりむら鹿しゝたに盲唖院まうあゐんと云ふものを建てる趣意書を配つて応分の寄附金を勧誘くわんいうするためであつた。
 其の翌年にみつぐさんが生れた。

(二)


 今日けふは日曜なので阿母おつかさんが貢さんをおこさずにそつと寝かして置いた。で、貢さんの目覚めざめたのは朝の九時頃であつた。十歳に成る貢さんはひとり衣服きものを着替へて台所へ出て来た。
阿母おつかさんお早う。』
阿母さんはもう座敷の拭掃除ふきそうぢも台所の整理事しまひごとませて、三歳みつヽになる娘の子をせなひ乍ら、広い土間へ盥を入れて洗濯物せんたくものをしてる。
『お早うでも無いぢや無いか。よく寝られて。昨夜ゆうべは。』
『ふん、寝坊をしちやつた。阿父おとうさんは。』
『涼しいあひだにと云つてお出掛でかけに成つたの。』
『阿母さん、昨日きのふ校長さんが君んとこ阿父おとうさんは京のまちで西洋のくすりや酒を売る店を出すんだつて、本当かて聞きましたよ。本当に其様そんな店を出すの。』
『阿父さんの事だから何を為さるか知れ無い。むかしから二言目ふたことめには人民の為だもの。』
『今日は何処どこへ入らしたの。』
『神戸の夷人ゐじんさんとこ。委しい事は阿母さんなんかに被仰おつしやらないけれど、日本で初めて博覧会と云ふものをさるんだつて。』
『ふうん。』
『お前御飯ごはんうする。』
『お昼と一処でいゝ。』
『ぢやうおそれから阿母さんは今一枚洗つて、今日けふ大原おほはらまでにいさん達の白衣はくえを届けて来るからね、よく留守番をてお呉れ。御飯ごはんにはさけが戸棚にあるから火をおこして焼いておべ。お土産みやには山鼻やまはなのおまんを買つて来ませう。』
『お日様ひさんの暮れぬうちに帰つて頂戴よ。』
貢さんは井戸端へ下りて自分で水を汲んで顔を洗つた。其れからたヽみの破れを新聞で張つた、はしらゆがんだ居間ゐまを二つとほつて、横手の光琳の梅を書いたふるぼけた大きい襖子ふすまを開けると十畳敷許の内陣ないぢんの、年頃拭込ふきこんだ板敷いたじきが向側の窓の明障子あかりしやうじの光線で水を流した様に光る。幾十年と無く毎朝まいあさめた五種香しゆかうにほひむつと顔を撲つ。阿母さんが折々一時間も此処こヽに閉ぢこもつて出て来ぬ事がある丈に、家中うちヾうこの内陣計りはあたヽかいやうななつかしい様な処だ。貢さんは黒塗くろぬりの経机の前の円座ゑんざの上に坐つて三度程ぬかづいた。
『南無、南無、南無阿弥陀仏。』
 本尊の阿弥陀様の御顔おかほは暗くて拝め無い、たヾ招喚せうくわんかたち為給したまふ右の御手おてのみが金色こんじきうすひかりしめし給うて居る。貢さんは内陣を出て四畳半の自分の部屋にはいつた。机の上に昨日きのふ持つて帰つた学校のつヽみが黒い布呂敷の儘で解きもせずにつてる。其れを見ると、力石様りきいしさんのお濱さん処へ遊びに行く約束だつた事を思出した。
おそく成つた、遅く成つた。かう。』
 独言ひとりごとを言つて吃驚びつくりした様に立上ると、書院の方の庭にあるかきの樹で大きな油蝉あぶらぜみ暑苦あつくるしく啼き出した。つかまへてお濱さんへの土産みやげにする気で、縁側えんがはづたひに書院へ足音を忍ばせて行つたが、戸袋とぶくろに手を掛けてかきの樹を見上げた途端はずみに蝉は逃げた。
阿房蝉あはうぜみ。』
 斯う大きな声で云つて振返ると、書院の十畳の方のの障子が五寸程いてる。兄のあきらの居間だ。其のあひだから長押なげしに掛けた晃の舶来の夏帽が目に附く。のぞいて見たが、あきらにいさんは居無い。台所のはうはしつて来た貢さんは、其処に阿母さんが見えないので、草履を穿いて裏口うらぐちから納屋のうしろへ廻つた。阿母さんは物干竿ものほしざをに洗濯物を通して居る。
『阿母さん、あきらにいさんが帰つたの。』
 阿母さんは一寸ちよつと振返つて貢さんを見たが、だまつて上を向いて襁褓おしめの濡れたのをのばしてる。
あきらにいさんの帽が掛かつてましたよ。』
鄭寧ていねいに云つて再びこたへを促した。阿母さんは未だだまつてる。見ると、あきらにいさんの白地しろぢの薩摩がすり単衣ひとへすそを両手でつかんだ儘阿母さんは泣いて居る。貢さんは、阿母さんの機嫌を損じたなと思つたので、そつせなを向けて四五あし引返した。
みつぐさん。』と阿母さんの声は湿うるんで居る。
『はい。』
『お前はね、よく阿母さんの言ふ事をお聞き。なんぼ貧乏な生活くらしをしても心は正直しやうぢきに持つんですよ。』
『はい。』
あきらにいさんの様に成つては仕様が無いわね、阿母さんの衣服きものあたまの物を何遍なんべんも持出して売飛ばしては、唯もう立派な身装みなりをする。こんな阿父さんも御着に成らん様な衣類きるゐや、靴や時計を買つてさ。学問でもする事か、フルベツキさんに英吉利西のことばを習つても三月足らずでめてしまふし、何かなしわかい娘さん達のなかで野呂々々と遊んで居たい、肩上を取つたばかしの十八の子の所作しよさぢや無い。たヽつてる御方おかたがあつてさるのかも知らんけれど、あれでは今に他人様ひとさまの物に手を掛けて牢屋ろうやへ行く様な、よい親の耻晒はぢさらしに成るかも知れん。今度は阿父さんの財嚢かみいれから沢山たくさんなおかね、盲唖院の先生方せんせいがたの月給に差上げるお銭を持出して二つきも帰つて来ないんだもの。阿父さんは見附次第みつけしだい警察へ出すと被仰るけれど、其れでは明るみの耻に成る。阿母さんは大原おほはら律師様りつしさまにお頼みしてにいさん達と同じやう何処どこかの御寺おてらへ遣つて、あたまを剃らせて結構な御経おきやうを習はせ度いと思ふの。ね、貢さん、阿母さんや此の脊中せなか桃枝もヽえたよりにするのはお前一人ひとりだよ。阿父おとうさんはあんなかただからうちの事なんかかまつて下さら無い。此の下間しもつまうちを興すもつぶすもお前の量見ひとつに在る。其れに阿母さんも此の身体からだの具合では長く生きられさうにも無いからね、しつかり為て頂戴よ、貢さん。』
『はい、わかつてます。阿母さん。』
 貢さんの頬にははらはらと熱い涙が流れた。阿母さんは萌黄もえぎ前掛まへかけで涙をき乍ら庫裡の中へはいつた。貢さんは何時いつも聞く阿母さんの話だけれど、今日はつめたい沼の水のそこの底で聞かされた様な気がして、小供心に頼り無い沈んだ悲哀かなしみ充満いつぱいに成つた。で、蚯蚓みヽずが土を出て炎天の砂の上をのさばる様に、かんかんと日の照るなかあるいてづぶ濡れに冷え切つた身体からだなり心なりをかせ度く成つたので、書院の庭の、此頃のひでり亀甲形きつかふがた亀裂ひヾつた焼土やけつちを踏んで、空池からいけの、日がつぶす計りに反射はんしやする、白い大きな白河石しらかはいしの橋の上に腰をおろした。
『阿母さんが死になさるのぢや無いか知ら。』
 ふつとこんな事が胸に浮んだ。今日に限つて特別に阿母さんの身体からだが鉄色の銚子縮てうしちヾみ単衣ひとへの下に、ほつそりと、白いほね計りに見えた様な気がする。『なあに。』と直ぐに打消したが、ぞつと寒く成つて身体からだふるへた。次いで色々の感想が湧いて来る。
うちでは阿母さんが一番気の毒だ。………併し阿父さんも、あんな羊羹色ようかんいろのフロツクしか無いんだもの、知事さんの前なんかで体裁きまりが悪るからう。…………阿父さんは、晃兄さんには仕方が無いけれど、阿母さんに何故あゝ慳貪けんどんに物を被仰るんだらう。…………晃兄さんも習字があの様に善く出来て、漠文の御本も善く読める癖に、何故なぜ真面目まじめに成つて夷人ゐじんさんのことばが習へないのかなあ。…………うちものを泥坊するのはく無いが、阿父さんが吝々けち/″\しておあしをお遣りなさらんから、兄さんも意地に成るんだ。…………兄さんも阿母さんから、初中しよちう内密ないしよ小遣こづかひを戴き乍ら…………阿母さんが被仰る通り女の様に衣服きものなんか買ふのは馬鹿々々しい。』
 はてしなくんな事を思ひ続けて居ると、何処どこかで自分を喚ぶ声がした。庫裡くりはうへ向いて、
『阿母さんなの。』
 と大きな声で尋ねたが、返事が無い。立上らうとすると汗をびつしより掻いて居た。裏口うらぐちへ行かうとする時、又なにか声が聞えた。桑畑の中からだ。途端にお濱さんを思ひ出した。約束の時間に自分が行か無いので、ち兼ねてお濱さんが迎へに来たのだと考へた。
 貢さんはうさぎぶ様に駆け出して桑畑に入つて行つた。はたけなかにお濱さんは居ない。ぬまほとりに出た。旱の為に水のつた摺鉢形すりばちなりの四はうがけの土は石灰色いしばいいろをして、静かにたヽへた水の色はどんよりと重く緑青の様に毒々しい。お濱さんは居なかつたがおなじ様に鼠色ねずみいろ無地むぢ単衣ひとへを着た盲唖院の唖者をしの男の子が二人、ぬまの岸の熊笹くまさヽが茂つた中にしやがんで、手真似で何か話し乍らうなづき合つて居た。其れが貢さんには、蛇のあな発見めつけたのでらうぢや無いかと相談して居るやうに思はれた。
るい事なんか為てはかんよ。』
 と、五六けん手前てまへからしかり付けた。唖者をし子等こらは人の気勢けはひおどろいて、手に手にあか死人花しびとばなを持つたまヽはたけ横切よこぎつて、半町も無い鹿しヽたにの盲唖院へ駆けて帰つた
 貢さんは見送つていやな気がした。

(三)


 元気の無ささう顔色かほいろをして草履を引きずり乍ら帰つて来た貢さんは、裏口うらぐちはいつて、むしつた、踏むとみしみしと云ふ板ので、雑巾ざふきんしぼ[#ルビの「しぼ」は底本では「じぼ」]つて土埃つちぼこりの着いた足を拭いた。
『阿母さん、阿母さん。』
 二三度んで見たが、阿母さんは桃枝もヽえおぶつて大原へ出掛けて居無かつた。貢さんは火鉢の火種ひだね昆炉しちりんに移し消炭けしずみおこして番茶ばんちや土瓶どびんわかし、しやけを焼いて冷飯ひやめしを食つた。膳を戸棚に締つて自分の居間にると、又お濱さんに逢ひ度く成つた。一走ひとはしり行つて来ようかと考へたが、あたまおもく痛むやうなので、次の阿母さんの部屋の八畳のへ来て障子を明放あけはなして、箪笥の前で横に成つた。暑い日だ、そよと吹く風も無い。軒に縄を渡して阿母さんがしたうり雷干かみなりぼしを見て居ると暈眩めまひがする。じつと目を閉ぢようと為たが、目を閉ぢると、此の広い荒れ果てたてらに唯つた独り自分のると云ふ事が、野のなか捨児すてごにでも成つた様に、犇々と身にせまつてさびしい。其れをまぎらすために目を開いて何か唱歌でも歌はうと試みたが、のど硬張こはゞつて声が出無かつた。と、突然低い静かな声で、
みつぐ、貢。』
『あ、あきらにいさん。お帰り。』
 起上おきあがつて玄関げんくわんはうはしつて出ようとすると、
此処こヽだよ。みつぐ。』
あきらにいさん、何処どこなの。』
 貢さんは玄関と中の間の敷居しきゐうへに立つて考へた。
此処こヽだよ。』
 低い静かな声は本堂から聞える。其処そこは雨がひどく洩るので、四方の戸を阿父おとうさんが釘附くぎづけにして自分の生れ無い前から開けぬ事に成つて居る。御参詣おまゐりの人も無い寺なので、内の者は内陣ないぢんで本尊様を拝む。本堂の五十畳敷だと云ふ広間ひろまは全く不用な塲処だ。内の者は皆此の広間の有る事を忘れてる。殊に貢さんは生れて一度ものぞいて見ないのだから、遠い遠い不思議な世界から声を掛けられた気が
あきらにいさん、うしてんな処へはいつたの。何処からはいるんです。』
 少時しばらく返事が無い。
あきらにいさん。』
 と、貢さんは大きな声をて喚んだ。低い静かな声は、
『内陣へまはりな。左から三枚目の戸だ。』
 貢さんは座敷をとほつて一段高い内陣へどんどんと足音をさせてあがつた。
『左から三枚目。』
 と、又声が為る。昔から釘附くぎつけに為てあると計り思つて居た内陣と本堂との区劃しきりの戸を開けると云ふ事は、すくなからず小供の好奇かうきの心を躍らせたが、愈々いよ/\左から三枚目の戸に手を掛ける瞬間しゆんかんなんだか見無いでもいものを見る様な気が為て、こはく成つたが、思切おもひきつて引くと、荒い音もずにすつと軽くいた。
『あツ。』
 貢さんがのぞいたのは薄暗うすぐら陰鬱いんうつな世界で、ひやりとつめたい手で撫でる様にあたる空気がえて黴臭かびくさい。一間程前けんほどまへに竹と萱草くわんざうの葉とがまばらにえて、其奥そのおくは能く見え無かつた。
何処どこに居るの。あきらにいさん。』
ほとけさんの前の蝋燭ろふそくに火をけてお出で。』
 貢さんは兄の命令通いひつけどほ仏前ぶつぜんの蝋燭を取つて、台所へ行つて附木つけぎで火をけて来た。
あきらにいさん、なかきたなか無くつて。』
『其処の直ぐ下に阿母さんの穿きなさる草履があるだらう。』
 蝋燭をかざして根太板ねだいたの落ちた土間どまを見下すと、竹の皮の草履が一足いつそくあるので、其れを穿いて、竹の葉をけて前に進むと、蜘蛛の巣が顔に引掛る。根太ねだたヽみ大方おほかたち落ちて、其上そのうへねずみの毛を※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしちらしたやうほこりと、かうじの様なかびとが積つて居る。落ち残つた根太ねだ横木よこぎを一つまたいだ時、無気味ぶきみきのこやうなものを踏んだ。
此処こヽだよ。』
 中央ちうあうけやきはしらの下から、髪の毛のいゝ、くつきりと色の白い、面長おもながな兄の、大きなひとみきんが二つはいつた眼が光つた。あきらにいさんは裸体はだか縮緬ちりめん腰巻こしまき一つの儘後手うしろでしばられて坐つて居る。貢さんは一目見ておどろいたが、従来これまで庭の柿の樹や納屋なやの中に兄のしばられて切諌せつかんを受けるのを度々見て居るので、こんな処へれてはいつて縛つて置いたのは阿父さんの所作しわざだと思つた。阿母おつかさんが裸体はだかの上から掛けてつたらしい赤い毛布はずれ落ちて居た。
みつぐ、お前、にいさんの言ふ事をいて呉れ無いか。』
あきらにいさん、御飯ごはんでせう。御飯ごはんなら持つてよう。阿母さんが留守だから御菜おさいは何も無いことよ。』
いま握飯にぎりめしつたばかりだ。御飯ごはんぢや無い。』
『ぢや、お茶。』
『お茶も飲ましてもらつた。』
衣服きものを持つて来てげようか。』
衣服きものは自分でるがね。』
なになの。あきらにいさん。』
『おまへ本当ほんたういて呉れるか。』
 兄が此様このやうねんことばを鄭寧にしてものを頼んだ事は無いので、貢さんは気の毒に思つた。
『ふん、何んでもきます。』
難有ありがたいな。ではね、包丁はうちやうを取つて来てね、此のなはつて御呉おくれ。』
いとも。』
 元気よく受合つて台所から庖丁を取つて来た。左の手に蝋燭ろふそくを持つて兄の背後うしろまはつたが、三筋みすぢ麻縄あさなはで後手にしばつてはしらくヽり附けた手首てくびは血がにじんで居る。と、阿父おとうさんが晃兄さんを切諌せつかんなさる時のこはい顔が目にうかんだので、此の縄をつては成らぬと気が附いた。
これつて、僕、阿父おとうさんに問はれたらなんと云ふの。』
『お前にも阿母おつかさんにも迷惑めいわくは掛け無い。わしの友人ともだちが来て知らぬれ出したとお言ひ。』
あきらにいさんはまたげて行くつもりなの。』
『此処はわしのうちぢや無い、かたきうちぢや。兄さんの家は[#ルビの「こ」は底本では「こん」]んな暗い処ぢや無くてあかるい処に有るんだ。』
あかるい処つて、何処どこ。大坂か、東京。』
『そんな遠方ゑんぱうぢや無い。なんでもいゝ、早く縄をつて自由にてお呉れ。痛くてたまら無いから。』
 阿母さんも居ない留守るすに兄をにがして遣つては、んなに阿父さんからしかられるかも知れぬ。貢さんは躊躇ためらつて鼻洟はなみづすヽつた。
『切れ無いかい。貢さん。意久地いくぢが無いね。約束したぢや無いか。』
『だけれど、みんな留守るすだから。』
『お前、わからないなあ。』
 兄は歎息といきをついた。
『あゝ、阿父さんの所為せゐでも無い、阿母さんの所為せゐでも無い、わしの所為せゐでも無い。みんな彼奴あいつのわざだ。みつぐ意久地いくぢがあるなら彼奴あいつさきるがいゝ。』
 兄がおとがひで示した前の方の根太板ねだいたの上に、正月の鏡餅おかざりの様に白い或物がつて居る。
なに。』
 と、蝋燭ろふそくの火をげて身をかゞめた途端とたんに、根太板ねだいたの上の或物は一匹いつぴきの白いへびに成つて、するするとかさなつたたヽみえてえ去つた。刹那せつな、貢さんは、
ぬまぬしさんだ。』
 かんじて身をぶるぶるとふるはした。
『貢さん、貢さん。』
 と、お濱さんが書院しよゐんの庭あたりでんで居る。貢さんは耳鳴みヽなりがして、其のなつかしい女の御友達おともだちの声が聞え無かつた。兄はにつと笑つて、
『驚いたか。』
 貢さんはだまつてへびの過ぎ去つたくらおくかたを眺めて居る。
くらうちには彼奴あいつの様ないやなものがる。此のうちの者は皆彼奴あいつ餌食ゑじきなんだ。』
 よくはわからぬけれど、兄の言つて居る事が一一道理いちいちもつともな様に胸にこたへる。斯んな家に皆が一日も居ては成らぬ様な気が為た。
『晃兄さん、早くおげなさい。縄をりますから。』
難有ありがたう。お前もね、わしの年齢としに成つたら、兄さんがあかるい面白い処へれてつてらう。』
本当ほんたうに面白いの。』
『面白いとも。』
単独ひとりでは行かれ無いの。』
『行かれる。兄さんは単独ひとりで行くんだ。』
屹度きつとれてつて下さい。』
『わしの年齢としに成つたら。其れ迄は辛抱しんぼうして吉田の学校を卒業するんだよ。』
をんなでも行かれるの。』
『行かれるとも。其処そこは女の方がおほいんだ。』
『阿母さんもれてつてげなさい。』
くどいね。早く縄をつておれ。』
 貢さんは勇々いそ/\として躊躇ためらふ所なく麻縄あさなはを切り放つた。お濱さんは玄関の方へまはつて来た。
みつぐさん、貢さん。』
『お濱さんが先刻さつきからお前をさがして居る。早く行つてお出で。』
 兄ははしらつて立上り、縄の食ひ込んだ、血のにじんだ手首てくびさすり乍ら言つた。貢さんは、
『今行きます、お濱さん。』と甲高かんだかな声で言つて、『あきらにいさん、お濱さんも僕と一緒に伴れてつて上げて頂戴ちやうだい。』
『馬鹿。よその人にんな事を言ふんぢや無いよ。』
 兄のにらむのも見返みかへらずに、貢さんは蝋燭と庖丁とを持つて内陣ないぢんぶ様にあがつて行つた。
 お濱さんは裏口うらぐちから廻つて、貢さんの居間ゐまえんに腰を掛けて居た。眉のうへで前髪を一文字にそろへて切下げた、雀鬢すゞめびん桃割もヽわれに結つて、糸房いとぶさの附いた大きいかんざしを挿して居る。れぼつたい一重瞼ひとへまぶたの、丸顔の愛くるしい娘だ。紫のあらしま縒上布よりじやうふの袖の長い単衣ひとへを着て、緋の紋縮緬もんちりめん絎帯くけおび吉弥きちやに結んだのを、内陣ないぢんからりて来た貢さんはうつくしいと思つた。洗晒あらひざらしの伊予絣いよがすり単衣ひとへを着て、白い木綿の兵子帯を締めた貢さんは肩を並べて腰を掛けた。お濱さんは三つ年上としうへで十三に成るが、小学校は病気の為におくれて同じきふだ。お濱さんの父は、もと越前の藩士で今は京都府の勧業課長を勤めて居る。
『お濱さん、僕、朝から行かうと思つてたけれど。』
『あたし待つててよ。しどいわ。』
わるかつた。僕、留守番を云ひ附かつたの。』
『あたし、そんな事は知らないでせう。待つて待つて、泣いて、阿母さんにしかられたのよ。』
『泣くなんて、可笑しいなあ。』
『でも、貢さんがうそをつくんですもの。』
うそをつくものか。僕は行きたかつたけれど。』
『あたし、先刻さつきからんでたのに、あなた何処どこに入らしつたの。』
『さう、先刻さつきから喚んでたつて。僕、聞えなかつた。』
『お昼寝ひるねでせう。』
『昼寝なんかない。』
『お雲隠はゞかり。』
あきらにいさんと話してたんだ。』
あきらにいさんが入らつしやるの。』
『ふん。』
 お濱さんは、一寸手で桃割を撫でて、頬を赤くしながら、
『貢さんは矢張やつぱりうそ御吐おつき為さるのね。晃兄さんが入らつしやるのに、留守番だなんて。』
 と云つた。貢さんはこまつたらしく黙つて俯向うつむいた。此時まへの桑畑の中に、白いかすりを着てはしつて行く人影ひとかげがちらと見えた。
『あら、あたし、ちよいと用があつてよ。』
とお濱さんは云つて、不意に駆け出した。貢さんも急いで草履を穿いて、お濱さんの跡を追つて行つた。二人が桑畑を抜けて街道へ出た時には、二町もさきの路を、あきらにいさんが洋杖すてつきを手に夏帽を被つて、悠々ゆう/\と京の方へ出てくのであつた。
――(完)――





底本:「新声」新声社
   1909(明治42)年3月号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にをあらためました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:武田秀男
校正:門田裕志
2003年1月24日作成
2012年1月24日修正
青空文庫作成ファイル:
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