禮嚴法師歌集
與謝野禮嚴
與謝野寛編輯校訂
禮嚴法師歌集の初にしるしおく文。
一、今年八月十七日は父の十三囘忌辰なれば、かねて兄達に謀りて、父の歌集一巻を刷物とし、紀念のため、有縁の人人に供養せんは如何にと言へば、皆よしと言ひつ。さてその歌は寛に編めよと兄達の命じければ、父が若き頃より壮年に到る草稿を京都なる兄大圓より、晩年の詠草を周防なる兄照幢より乞ひうけて、読みもてゆくに、歌の数は長き短き打まじへて三万首に近からし。こは偶ま残りける詠草なれば、この外、旅中などにて詠み捨てられつる、又は反古となりて失はれつるも多かりけん。二十ばかりにて江戸に遊び諸国を行脚せられける頃の作、維新前十年がほど国事にいたづかれし頃の作、その後薩摩大隅の間に布教せられし頃の作、それらのほとほと伝はらぬも口惜し。
一、さて一わたりは辛うじて読み終へつれど、さばかり大数の歌を二たび三たび繰返して撰びなんこと、わが暇の許さざりければ、今は専ら晩年の詠草のみを読み返して、そが中より撰びたるを本とし、壮年の頃の歌をも少しばかり加へて、ここに六百参拾首を輯め、禮嚴法師歌集とは名づけつ。父が一生の歌の零砕に過ぎざるいささけきひと巻に斯かる名をしも負はするは、我等はらからのえ忍びぬ所なれど、さしあたりて全集を刷物とする余裕なければいかがはせん。
一、父は世の長人にて七十六歳まで在りければ、生前にすら若き頃の友の残りゐ給へるは稀なりしを、まして歿後十三年を経つる今には、父が若き日を知り給へる人ほとほと無かるべく、はた晩年に風雅の交りを与にし、歌を問ひて教へ子となられし人人も、おほかた鬢上に一茎の霜をや点し給ふらんとぞ覚ゆる。あはれ世は斯かるさまに移ろひゆくならひとは云へ、旧りしものの次次に忘られゆくは憂痛きかな。我等おろかなれども、年ごろ子としていかで父母が名を顕さであるべきと思へるに、このささやかなる一巻とても、おのづから父が歌の片端を世に出すよすがとはならざらんや。はた、すくよかに世にいませる父が晩年の友垣教へ子なりし人人の、そのかみをしぬび給ふ助縁ともなりなんかし。
一、寛ひそかに思へるは、父が歌の今日まで世に聞ゆる所なきは如何にぞや。こは父の性格が、老年期の初までは新思想の人にして、進取の気概に富まれたるにかかはらず、その後は反りて世外に独処し、念仏風雅の閑適を楽みて、一生の行事のすべて世の耳目に触るるを避けられしに因るならん。さはれ、晩年に詠まれたる述懐の諸作を覗けば、おのづから世を恨み己を果敢なみ給ふ声の、惻惻として霜夜のこほろぎにもたぐへつべきが打まじれり。身は老いかがみて、比叡の麓の清水に漱ぎ、歌の中山の松風を枕とし給ひながらも、終に寒岩枯木の人とはなりおほせ給はず、一片の壮心掩はんとして掩ひ難くやありけん。「折にあへば如何なる花か厭はれん時ならぬこそ見劣りはすれ」、「憂きことよ猶身に積れ老いてさへまだ世に飽かぬこころ知るべく」、かかるは如何でか無為空寂をよろこぶ世捨人の歌ならんや。寛はそこに父が人としての閃光を認め、一味の哀みの身にせまるを覚ゆ。父は古事記、万葉集、古今集などの学者なりければ、技巧に於ては古典に累せられたる所すくなからねど、叙情にも叙景にも折にふれたる素直なる感情を主題とするに力められ、とりわき述懐の歌に煩悩起伏の醜き自己をあからさまに披瀝せられたるなど、花鳥風月の旧株を守れる近世の歌人以外に立ちて異色を放つと謂ひつべし。但し一生の作を通じて恬澹なる気味あるは、父が一面の性癖に本づき、且つ幼きより父母の感化を受けて心を内典に傾けられたるにも由るべし。祖父母の二男に生れて鐘愛ことに深く、十三歳の冬早くも産を分たれて新宅の工を終らんとする頃、脱塵の志止みがたく、強ひて父母に乞ひて出家せられしを初とし、後年、王政維新のため、宗門のため、社会公益のために、幾多の辛労を重ねながら、その功はすべて他人に譲られたる謙虚の態度に至るまで、この恬澹なる一面の性癖に由れることならん。
一、父が伝記は寛別に詳しく一冊に編したるものあり。ここにはその概略を言はんとす。父は文政六年九月十三日、丹後国与謝郡加悦村の里正細見氏の二男に生れき。十三歳加悦村浄福寺に養はれて住職禮道の二男となる。弘化二年四月京都に上りて西本願寺の学林に懸席し、同年五月西本願寺に於て得度す。京都に学ぶこと数年、偶江戸の国学者八木立禮大人の来りて、摂津国多田の荘に帷を下し給ふと聞き、行きて師事し、国書歌文の教を受く。八木大人は幕臣の二男にして本居春庭翁の門を出づ。其妻敏子刀自また歌と書とを善くせり。翌年師夫妻を奉じて丹後国に帰り、与謝郡清滝村に暫く師を留めて講筵に侍す。次いで京に上り、畿内を漫遊して、伊勢の神宮を詣で、東海道を行脚して江戸に出づ。この旅行によりて見聞を広むる所多く、又時勢の推移に就いて深く憂ふる所あり、慨然として君国の為に微力を致さんことを思ひぬ。それより丹後国に帰りしに、仲立するものありて若狭国大飯郡高浜の専能寺に養はれて住職す。そこにても師八木大人夫妻を屈請して講莚に侍す。居ること二年、故ありて寺を去り、京都に出でて本願寺の役僧となり、兼ねて畿内附近の地に説教す。安政四年五月十五日山城国愛宕郡岡崎村の願成寺に入り、同年八月六日住職す。其年、京都新車屋町二条下る山崎惣兵衞の長女初枝を娶れり。当時攘夷論と共に幕府の外交を批難し、勤王討幕を唱ふるなど、世諭鼎沸して、諸藩の志士京都に集る者日日に繁く、幕吏の頻りに之を物色するあり、うれたき事ども多かりし中に、父は窃に其れ等の志士と往来して画策する所ありしが、わきて薩摩藩には八田友紀、村山松根、黒田嘉右衞門、高崎正風の諸歌人を通じて交友多く、小松帶刀、土師吉兵衞、椎原小彌太、内田政風、西郷吉之助、大久保一藏、吉井幸輔、伊地知正治の諸氏と交るに至り、常に薩摩の藩邸に出入して京都の形勢、諸藩の動静を内報し、その他細事に亘りて薩藩の為めに幾多の便宜を計りぬ。例へば相国寺に交渉して立所に薩兵三千人の陣所をしつらひたる、伏見鳥羽の戦ひ初まれる中に、一夜にして参万金の軍資を調達したるたぐひ、一一に挙ぐべくもあらず。父の意は薩藩を通じて微力を王事に致さんとするにありしなり。また父は薩藩を経て種種の建言を朝廷に奉りしが、明治元年一月四日の夜、おなじく薩藩を経て参与所に奉りつる三箇条の建言の如きは、二日を出でずして実施せられき。その一に曰く。急遽の際兵力に乏しければ、臨機の策として西本願寺に命じ、近国の寺院より僧兵を召さば、千五百人乃至二千人を集むるを得べし。そをもて皇居の御警衛に当て給はんことを。この事立所に行れて、西本願寺の法嗣光威上人みづから法衣の上に帯刀せる僧兵を率ゐ、正信偈を唱へつつ皇居の四方を練りありきぬ。世の人之を帰命無量寿隊と言へりき。二に曰く。方今の形勢にて最も急要なるものは軍資なり。目前の欠乏を救ふ一策としては、町民にして皇居の諸門を衛る法内と謂ふ者四家あり。その四家に命じて、町家の富裕なる者、就中呉服商などより御用金の貸上げを謀らしむる事。三に曰く。京都に御朱印寺と称するもの百余箇寺あり。彼等に献金を命じ給ふも又一策なりと。是等もまた直ちに参与所の納るる所となりしかば、翌五日父は先づ西本願寺に赴きて寺臣島田左兵衞、松井中務の二人と謀り、立所に五千金を献ぜしめ、更に西本願寺の信徒譽田屋、柏屋その他を勧誘して三日を出でずして更に参万金を納めしめき。猶かの法内より町家に勧誘し、朝廷より御朱印寺にも命ぜられしかば、白木の箱に献金の札を立て競うて参与所に集るもの、同月十五六日頃に亘り陸続として絶えざりき。父はまた年頃、西本願寺をして王事に力を致さしむることを計るは、仏恩に報ずる所以なるを思ひ、然かするには先づ豐臣氏以来杆格を来せる薩藩と和し、又長州藩と往来し、両藩を輔けて朝廷に報効せしむるに如くなしと思ひければ、前の年既に両藩と西本願寺との間に周旋して和親を結びたりき。又しばしば法主光澤上人に謁して天下の形勢を説き、一意王事に尽し給ふことの緊要なるを述べたれば、東本願寺の佐幕に傾きたるに反し、西本願寺は終始順逆をあやまつこと無かりき。さてまた父が其後の建言を納れて、一月十九日参与所より、北陸道鎮撫の勅使高倉三位、四條大輔二卿の随従として使僧七人を出だすべき由を西本願寺に命ぜらる。即ち父は六人の使僧を選び、参与所及び法主の特命によりそれに主となりて同二十三日京都を出立す。若狭国小浜に至れば勅使より命あり。北陸道諸藩の情勢未だ一定せず、民心もまた恟恟たり。加ふるに北越の反勢日を追ひて猖獗ならんとす。北陸道は西本願寺の信徒多き土地なれば、使僧等は常に先発して社寺奉行及び各宗の寺院を集め、王政維新の御趣旨、幕府の罪状等を演達し太政官の大号令を諭示して、更に之を諸民に伝へしむべし。また行先ごとに国情を探りて報告し、兼ねて軍資の献納を勧誘すべしと。即ち各地に於て日夜前条の御趣旨を演説し、また諸藩の重臣と会して朝旨を誤解せざると共に王事に奮励すべきことを勧めしが、加賀国大聖寺に到る間に於て、寺院及び民家より軍資を献納したるもの参万金に達せり。越中高岡に到りて敵勢のために前途を阻止せられ進みがたければ、勅使の一行は江戸に向ひて出発し、父の一行は太政官へ復命のため四月十九日帰京の途に就く。京に帰れば播州姫路藩より西本願寺の連枝本徳寺を経て依嘱する所あり、即ち西郷大久保の両参与に議り、かの藩のために佐幕の嫌疑を救解せり。同年六月、岩倉卿の邸に到り建言して云ふ。北越地方の敵勢今猶熾んなるは、太政官より発布せられたる神仏判然の趣旨を農民等に於て誤解し、神道を揚げて排仏毀釈の挙に出づるとなせるもの、その一因なり。この誤解を融和して農民の後援を断たば叛徒の保ちがたきこと想ふべし。農民の誤解を融和するは、真宗の信者多き地方なれば、西本願寺に勅書を賜り、門末の僧侶をして御趣旨を諭示せしむるを上策とすと。即ち数日を出でずして西本願寺に勅書を賜りしかば、再び父は西本願寺使僧として勅書を奉じ、七月中旬京都を出発し、北越の各地に於て神官僧侶を集め、神仏判然の御趣旨、王政維新の宏謨、民心の一統に就いて演説す。長岡城の潰滅するに及び民政局を越後三条に置かれければ、父はまたその局に出仕を命ぜられ、西本願寺の諭達と共に窮民を賑はすことに力を尽し、翌明治二年十一月に至りて帰京復命す。翌年二月、伊地知正治氏東京より書を送り、北陸道某県、東山道某県、両地何れかの大参事に推挙すべき由を言ふ。父は、天下の大変に際し尊王報仏の心止みがたくして聊か国事に微力を致したるのみ、桑門の身固より仕官に意なしと言ひて之を辞せり。此に於て父の思ひけるは、王政維新の実を挙ぐるは一面に人智を開発し、一面に産業を興すに在り。また民心を和げ、安んじて業に就かしめんとするには、窮民に新業を授け、はた医薬を裕かにして疾病の憂なからしむるに在りと。即ち奈良朝に於て種芸、種智、悲田、施療の諸院を開きたる例に則り、諸種の新しき施設を先づわが京都府より試みんとし、府の大参事植村正直氏を初め、友人金閣寺住職伊藤貫宗、銀閣寺住職佐佐間雲巖諸氏に議りて、その協賛を得つ。由つて父は先づ市内各区及び各郡を巡囘して小学校の必要を演述し、著著その創設を見るに到りしかば、はては滋賀県大参事松田氏の招請に応じ、その県下をも遊説し、大津小学校を初め二三の小学校を開始するに到れり。之より先き人智を開発するは古道にのみ由るべからず、宜しく西洋の新智識を布くべしとなし、率先して洋服を著け、神戸居留の外人に交りて舎密(物理、化学)の学を研究せしが、明石博高氏と共に京都府庁に舎密局を設くるに尽力し、局の嘱托となり、府下の諸鉱山を巡囘zして鉱石の分析を試みぬ。また四男巖をしてフルベツキ博士に就き洋語を学ばしめ、神戸の外人某に就きて西洋の染色術をも学ばしめつ。また窮民をして巻煙草を巻かしめ、鹿子絞りを纈らしめ、また各郡を遊説して養蚕と製茶とを奨励せり。是等の事、父の性癖として必ず自ら実験するを常とせしかば、わが願成寺の宅地二町歩を開いて桑樹と茶とを栽培し、母と共に傭役の男女を督して養蚕製茶の事に従へり。また母及び兄達が暇あれば煙草を巻き、鹿子を纈り、或は京人形の製造に従へるさま、わが六七歳頃の記憶に存せり。父はまた明治四年より病院の創立に志し、伊藤貫宗、稻葉宙方、佐佐間雲巖諸氏と共に、京都府下に於る各宗の寺院を勧誘して出資せしめ、明治六年十一月一日に到りて英国の医師を主任とし開業式を行へり。現に存する所の府立療病院是なり。療病院の名もまた父の命ずる所なりと言ふ。明治四年の春、姫路藩に於て神葬祭を行ふ布達を出だしけるに、両本願寺の信徒数万蜂起して騒擾せしかば、藩庁の乞により、父は西本願寺の使僧として出張し、四月より七月に亘りて各地を巡演し、民心を鎮定すると共に、藩庁と協議して神葬祭を延期せしめたり。明治五年一月、病院の出資勧誘のため南山城を経て丹波に入りしに、各所の穢多ども新たに平民に編入せられたるに驕気を生じ、良民に対し粗暴のふるまひ多かりければ、府庁の依嘱により、彼等を集めて平民に編入せられたる朝恩の広大なるを訓諭し、報効の手初として国中三箇所の険道を平坦にすべき旨を勧めたるに、彼等悦服して立所に三千人を出して修治せり。また父は、大坂の長與専齋、大井卜新二氏、神戸の外人ボオドイン氏寺の後援を得て、京都市内に一店を設け、洋薬を主として石油、洋酒等をも鬻ぎ「ポン水」と称して今の所謂ゆる「ラムネ」をも製造して販売せり。また府知事植村氏其他諸有志に勧めて博覧会を仙洞御所に開き、またボオドイン氏の設計により、円山に鉱泉場を開きて諸人の衛生に資せり。以上舎密局、小学校、病院、博覧会、鉱泉場等は、全国に於て京都府の率先して施設する所、また京都府下に養蚕、製茶を奨励し、洋薬、石油等を販売せるは、実に父を以て嚆矢とする所なり。而も是等のこと一として容易に好果を収め得たるは無かりき。目を著くる所独早くして時運は未だ到らず、常に保守姑息の徒の多数を頼みて嫉視妨害するあり。また無能にして漫罵詆笑を事とする徒の頻りに投機者流を以て父及び父の同志者を呼ぶあり。此間に処するの苦心は如何ばかりぞ。寺は寺格の高きにかかはらず、無檀の古刹なれば、些の資財あるにあらず、清廉無欲にして極端に公益をのみ思ふ急進空想の人なる父は、万余の債を負ひて、明治十二年堂宇地所を挙げて競売に附せられつ。年頃経営せる所も概ね失敗に終りぬ。ただ円山の鉱泉場のみは今も面かげを残せど、早く他人の手に移りて、その実質も父が営める初とはいたく異れり。さはれ父が京都に於ける公共事業に絶縁しつる後も、新思想の有力者つぎつぎに起りて、我国の新事業は常に京都府民によりて先鞭を著けらるるの観ありしは、時運の到ると共に他人に由りて父の志の大成せられつるとも謂ふべきか。明治十三年、再び法衣を著けて西本願寺の役僧となり、同四月、鹿児島本願寺出張所の顧問として派遣せられ、県下の布教に従事す。翌年県知事渡邊千秋氏と謀り、戦後の窮困せる士族に新業を授けんとし、基金として西本願寺より参万円を寄附せしめ、翌十六年鹿児島興業館を創設するに到りしが、そは今も現存せり。十四年以後、大隅国加治木説教場主任を兼ね、布教の傍、鉱業、養蚕業、西洋葡萄及び楮の栽培等を奨励し、楮と葡萄とは苗木を東京より取寄せて寺内に移植し、無料を以て需要者に頒てり。また士族の子弟の為に儒書及び舎密学を講じ、各村の公共事業費を作る為に頼母子講を設くるなど、施設する所すくなからず。十七年夏、医の薬物の分量を誤りしに由りて大患を得、京都にある子大圓の来り迎へて切に東帰を勧むるに遇ひ、少しく癒えて後、職を辞して京都に帰れり。翌十八年、本願寺の支院、愛宕郡一乗寺村養源寺に隠栖し、爾後また世事に与らず、念仏と詠歌とを以て優遊自適し、稀に後進の為に国典を講ずるのみ。明治二十七年、寺務を見るを厭ひて愛宕郡高野村に僑居し、同二十九年の冬、洛東歌の中山なる清閑寺の幽静を愛でて、そこに移れり。同三十年の冬、周防徳山なる子照幢のもとに遊び、翌三十一年六月より病を得、八月十七日午前三時に身まかり給ひき。享年七十六。遺骨は京都西大谷なる妻初枝の墓に合せて葬れり。
一、父の幼名は詳ならず。法名は禮嚴。雅号を尚絅、又は尚歌堂といへり。人となり、内に豪気を負ひ、志操堅実にして清廉、外は温厚優雅の風姿あり。平生読書を好み、小閑あれば即ち巻を放たず。学は仏、儒、老、荘、国典等に渉りしが、就中、唯識、六国史、万葉集、古今集、韻鏡等に精通せり。説教を善くし、又特に遊説の弁に長ず。その人を説くや、徐ろに種種旁系の問題を出して対者をして先づ所感を言はしめ、討究数次の間、おのづからわが言はんとする主要の意見を却て対者をして言はしむるに及び、徹頭徹尾我は之を賛ずるの位地に立つが故に、毫も他を不快ならしむることなく、よく悦服随喜せしむるを得たりと言ふ。父が維新前後の事功は、私欲に澹泊にして公事に熱烈なる稟性と、この温顔善弁の徳とに由るならんか。さはれ、軽薄なる世情に対しては、時に痛憤の抑へ難きものやありけん、みづからの嗔恚を戒めらるる歌の此集に多きを見れば、父はまた克己の心を修めて内に善く忍ぶの人なりけらし。また、さばかり他人に対して善く忍び給ひし父の、折にふれて、子等に向ひ激怒を発せられしは、我等の放逸なる性精を矯めんとの御心しらひなりけんと思ふに、かへすがへすもかたじけなし。
一、父は若狭国高浜の専能寺に養子となられし頃、一男あり、響天と云ひ、大都城氏を襲げり。京に来り、山崎氏を娶りて大圓、照幢、巖、寛、修の五男、靜子の一女を挙げられたり。大圓は和田氏を冒し、照幢は赤松氏を冒し、寛は家を襲げり。
一、此集に父の写真を載すると共に、記念として母の写真をも載せたり。母、名は初枝、天保十年二月二十一日京都の商家山崎氏に生れ、明治二十九年九月二日五十八歳を以て身まかり給ひき。人となり、都雅快濶にして細憂に拘拘たらず、貧寒の間に居りて絃を弾じ、大津絵を歌ひ、奇謔常に人の頤を解けり。
一、また、此集に挿みたる父の筆蹟の初なるは壮年の頃の詠草、次なるは晩年の詠草及び短冊なり。
明治四十三年七月十五日、
東京駿河台に於て、
與謝野 寛しるす。
禮嚴法師歌集
わが嗔恚のこころを戒めて。
かりそめに土水火風もて造る身ぞと思へば何か嗔らん
毒を持ついかり心に世の中の人を害ふ毒虫ぞわれ
風に散る花も木葉も嗔らずとながめ悟ればわが法ぞかし
正眼にて観れば月日も雨風も世に嗔りなき友にはありけり
雲は行く水は流れつ腹黒きおのが嗔りにかかはりもせで
春の花秋の紅葉の色も香も身をなぐさめつ嗔り無ければ
嗔らずば我を守らぬものもなし海山かけて天の下には
過ぎし世に向ひて怒り試みよ空しく消えて跡形もなし
獣にも角生ひ蹄牙歯あるはむかし嗔りしなごりとぞ聞く
あとの波は前の波とも知らねどもえにしよりこそ又起りけれ
なにごとも嗔れば破れ睦魂のあへる中にぞ道は成るとふ
諍はで何れの道もむつまじくつとむれば世の為とこそなれ
折にふれて、老を歎きつつ詠める。
いなと言へど攫みかかりて皺よりてすべなきものは老の奴ぞ
松生ふる荒磯ならねどしくしくに寄りくるものは老の年波
かりそめと思ひ結びし草の庵いつか頭の霜枯れにけん
人かずによみ洩されて老いぬれば浮世の外に生き残るかな
前つ世の如何なる罪のむくいきて拙かるらん老が身のすゑ
老いて世にすてられんとは思ひきやあはれ六十路もたはぶれの夢
われこそは浦洲の鳥のうらさびて世にもまじらず身は老いにけれ
たのみなき老のあはれを敷栲の枕ぬらして泣く寝覚かな
いたづらに人かずならず老いにけり我やうき世の飯袋なる
年老いて物忘るるは住の江に貝を拾ひしむくいなるらん
草も木も花こそうつれ常磐樹のかはらぬ世こそあらまほしけれ
老いぬれば痩せさらぼへる身を愧ぢて人住む世には出でじとぞ思ふ
六十ぢあまり過ぎしは夢のうき世にて覚めし現は今日ひと日のみ
老いぬれば傾く月を見るにさへ末長からぬわが身さびしも
大椋の池にうかるる鴛鴦のをしき月日をいたづらに経ぬ
あぢきなき我や潮干のみをつくし何のしるしか世に残るらん
我ばかりからき世嘗めし身のはては路の蓼生に骨曝さん
身の老いし歎きにまさる憂きもがなそよ其事とまぎれもぞする
かぞふれば七十ぢ三とせ老い暮れぬさりとて世にはわざも残らず
言問はぬ木すら花咲きみのれるを人に生れて木に如かずけり
いつまでの老が命ぞ世の憂きもこの身を土になすまでぞかし
人並に生くる甲斐なし若狭路の後瀬の山の後の世ぞ待つ
愚かなる心に身をば守られきて怨言ばかりに世を終るかな
花の歌の中に。
春くれば花こそ先づはしたはるれ思ひ捨てても世の中ぞかし
うちはらふ莚の塵もかをるかな咲き埋みたる花の下庵
人の世に心とどめて花見ればさかりの間こそすくなかりけれ
明治二十九年の冬、洛東歌の中山清閑寺に移り住みて、次の年の春に詠める。
天地はものこそ言はね鶯を啼かせて山に春ぞ告げける
鶯は稀に来啼けど竹ばしらかたぶく庵に雪はふりつつ
山寺の茅葺ごしに雪折の梅も咲きけり春や来ぬらん
山深み月日も知らず雪ふかみ春と知らねど鶯啼くも
わが老と積りし山の雪のみは年は立てども消えずもあるかな
花を待つ下ごころには春雨のそそぐしもこそうれしかりけれ
わが山の谷間の花の薄明り雨夜の月にむささびの啼く
春雨に花のとぼその霧曇り都のかたも見えぬ窓かな
こころよき春のうたたね降る雨を夢とうつつの中空に聴く
春日かげ長閑に霞む山寺に苔路きよめて花を見るかな
老の身は後たのまれず花のみは春は往ぬともとはに咲かぬか
花の枝の下なる窓を朝目よく開くれば月に鶯の啼く
うち見れば世を終るまで惜まれつ花はわがため絆とぞ思ふ
七十ぢにあまる春までながめても花は老せず若やかに咲く
霞みつつ日は落ちにけり山かげの花のみ白き春の夕ぐれ
年を経て世にすてられし身の幸は人なき山の花を見るかな
ものいはぬ仏と住めばものいはぬ花もたふとし歌の中山
身につもる思を何になぐさめん常磐ににほふ花も咲けかし
うつせみの世に捨てられて山に入れば我より前に花ぞかをれる
花の色よ老だに隠せ若からば陰には千世の春も経ぬべし
そよ吹けば香こそはまされあだながら花にも待ちぬ松の下風
かなしくも濡れつつ散りぬさくら花この春雨に濡れつつ散りぬ
山風のはらへば積り積りして簀子に花の絶えぬ庵かな
風ならで訪ふ人もなき山の戸は掃はぬ花の塵もかぐはし
花はみな昨夜の小雨にちりはてて朝晴しろし宇多の中山
ほろほろと霞ごもりに山鳥の啼く音のどけき花の昼かな
山ふかき埴生の花をたまたまも訪ひし貴人内へと申せ
かなしさも忘るるばかり山寺の庭をきよめてちる桜かな
家ざくら散り過ぎぬれば鶯も臥処荒れぬと思ふらんかも
西に入る春の日かげはわが住める庵より低し宇多の中山
子をあまた持てれど、皆遠き国にあれば、老の心細さに、折にふれて恨みかこつことも多かり。
暑き日はわが子を思ひ老いはてて身の寒ければましてしのばゆ
子にまよふ親の耳には山にてもおなじ心の鳥の音ぞする
誰をかは頼まんうからやからにも疎まるるまで老いにけるかな
親と子のともに住めるも多き世に生きて別れて遠く隔つる
久方の天のはらからむつびあひて親を守るこそうらやましけれ
遠く住む子等にも告げよほととぎす身のさびしさにその父は泣く
子と云へば老いては名だに恋しきを国へだつこそ恨なりけれ
子を持てば子の為にさへ後かけてわれ悪しき名は立てじとぞ思ふ
子にこころ暗む折こそわれ故にまどひし親の闇も知らるれ
足撫槌手撫槌神も名にし負へば子は古も愛くやありけん
風に散る花を見てすら惜む世に子等にはなれて住める我かな
子はあれど住む国遠し常はあれ病みてくるしむ折には恋し
子と言へばせめて命の際ばかり膝をも枕きて死なんとぞ思ふ
過ぎし世の如何なる咎か報いきて我には疎き子を持たるらん
世を去りてなからん後に思ひいでよひとりわびつつ親は死にきと
親と子の世にはえにしの薄けれどなき後にこそ思ひ知るらめ
折ふしは親の上をも語るやと子を思ふごとに泣き咽びつつ
子を思ふ心はさこそ闇ならめ道の隈囘も見えぬ親かな
山かげの雪間にあさる山がらす汝が声ならで音づれもなし
菜花三首。
都より西を霞に見わたせば野は黄なるまで菜の花の咲く
家にのみあるもいぶせし春の野に菜の花さけば心ゆるぎぬ
世の中に知られぬ宿も菜の花の香を覓めてこそ蝶の飛ぶらめ
人人と加茂の御社に詣でて。
露ながら葵かざせばほととぎす折なつかしく神山に啼く
蝉二首。
晴れんとて本間明れる夕立に降りつぐ蝉のむら時雨かな
寝おびれて啼く声すずし宿る木のしづくや蝉の夢冷しけん
菖蒲五首。
三島江や雨のなごりの露の香を袖にうつして引くあやめかな
秣草には刈りは刈るとも隠れ沼のあやめは残せ枕結ふべく
引く袖ににほふ菖蒲の露のかぜ沢の入日にかわかずもがな
あやめ葺く萱が檐端の夕風にちりこそにほへむら雨の露
屋に葺かん折し来ぬればあやめ草にほふ風さへなつかしきかな
歌の中山に住みける夏。
夕日かげかがやく色にまばゆくもわが山躑躅花さきにけり
橘のかをれる庭は風ながらはた雨ながら塵ながら見ん
夢さめて清きみ山の蝉きけばかはりたる世のここちこそすれ
夕立は麓すぐれど高嶺よりあらしの払ふ宇多の中山
折にふれて、み仏のめぐみのかたじけなさに詠める、かずかずの歌。
ひと枝の花を手向けん香る木を焚きてむくいんみ仏の前に
前の世に如何なるちぎり結ばれて斯かる光明に遇ふ身なるらん
み仏のめぐみに漏れて生れなば牛ならましを馬ならましを
わくらはに遇ひし御法の花の香は聴きしめてこそ身ににほひけれ
知らでこそ仏をよそに思ひしか我も光明の中に住む身を
犬猫の身にも生れず人の世に御法きけとて出しましけん
忘れても仏はわれを放たじと聞く身しもこそ涙こぼるれ
昔出でしわがふるさとの都路に急がんためか年の老いゆく
罪おほき身もよき人と一つらに住ます蓮のその誓はも
数ならぬ身もみめぐみを念ふとき心すなはち仏とぞ聞く
水にすむ影は手にだにとられねど月のやどりは疑もなし
樹にふるる風の音さへ御法なるたのしき国に今ぞ到らん
心だに僻まずもがなみほとけの子と説く数に洩れぬ身なれば
世に気息のかよふ限は唱へまし仏の御名ぞ命なりける
浮き沈むわれを幾世か待ちませし心ながきは阿弥陀釈迦牟尼
耳も目も思ふままならず老いにけり仏の国や近くなるらん
ひんがしに出でては西に月も日もみちびきますを知らで迷ひき
われは世に免れぬ罪のあればこそ今は仏に生擒られけれ
明治十六年夏、薩摩より京に帰りて、次の年、比叡の麓一乗寺の里に世を避けて。
世の中のさわぎに代へて山松の声きく身こそうしろやすけれ
翡翠も世をや厭ひしのがれきてわが山の井に処定めつ
身の憂さを思ひ放てば放ち鳥籠をのがれし世こそ広けれ
比叡の山雲のやどりの松が根に痩せたる老のかばね曝さん
落葉にもうき世の塵のまじらねば煙も清き松の下庵
おなじ里に住みける秋。
あかなくに傾く月の人ならば今しばしとも引きとめてまし
わびしらに啼くや雨夜のきりぎりす薄明りなる月や恋しき
惜む間にいつしか西にかたぶきぬ月吹きかへせ秋の山風
夏蔭とたのみし桐のちりそめて野分おどろく朝ぼらけかな
秋ごとに老せぬ月は見しものを頭の霜といつなりにけん
避けたれどここもうき世か枕よりあとより虫の声せめて啼く
秋ふけてやや肌寒してる月の影よりむすぶ夜半の初霜
月に世を思ひかへても遁れきてみ山の秋に夜を更かすかな
恋せぬはすべなきものかあたら夜の月を簀子にささせつるはや
ふふめりし葛花さきぬ秋風をかへる裏葉に見るぞ涼しき
野の末にうき世は遠く避けたれど月ばかりこそ疎まざりけれ
かすかなる窓の戸あけてわが影とふたりして見る山の端の月
つたなきを世にこそ蔽へ心までてらす月にはいかが隠さん
蓮は実をむすぶも清きやり水に月ひとり澄む山寺の庭
音づれてさびしきものは枯蓮のうら葉たたきて行く時雨かな
山霧に月はくもりて蓮の実のちるおとさむし山寺の庭
世には似ずにほひめでたしわが山は紅葉も人に媚びぬなるらん
山寺の棚橋くぐるやり水も見えぬばかりに紅葉こぼるる
旅中。
ひとり行く影さへ細き夕づく日きゆる末より降る時雨かな
落葉。
蜘蛛の糸にかかりて黄ばみけり秋の形見の楢の一つ葉
蝶。
うかれきて花の木の間にぬる蝶は誰が山踏の夢路なるらん
高野川のほとりに住みける頃。
春の夜は隙間がちなる宿もよし閨もる風に梅が香ぞする
見たるままを。
岡の辺や土とる穴の片くづれさかさまに咲くしら梅の花
山吹。
たふれたる野末の庵も旅人のかいま見てゆく山吹の花
鶯三首。
夢路かと猶たどられぬあけぼのの花のねぐらの鶯のこゑ
春雨のにほふしづくに羽ぬれて花のに鶯の鳴く
袖に染むものならませば鶯のこゑや都の苞にしてまし
生れける丹後国の与謝にまかりて。
和野の鼻まはれば見ゆる橋立の松原づたひ鶯の鳴く
燕。
うつばりに黄なる嘴五つ鳴く雛に痩せて出で入る親燕あはれ
春の歌の中に。
野を寒み枯れたる梅を折り焚きて老いし畑守昼を待つらん
西山別院に幡山教圓を訪ひて宿れる時。
木葉ちる桂の寺に宿とればわれもと帰る夕がらすかな
耳とほくなりし頃。
きこえねば楽しげもなし老いぬれば鶯にすら耳疎くなる
雪三首。
朝晴れし雪のけしきは長閑にて松の日影にしづくこぼるる
朝日さす枝はしづくになりにけり積れどあたら松の上の雪
朝ぼらけみ山おろしの吹くすゑに一むら曇る松の雪かな
冬月。
さ夜千鳥なく声さゆる加茂川の白洲の霜は月にぞありける
一乗寺の里に住みける冬。
焚かん木は風に折らせて山かげの冬ごもりこそ事なかりけれ
しぐれてはわが山の井ぞ濁りけるやがて夕食に汲まんと思ふを
山窓の夕日は消えて比叡おろし風先しろくふる時雨かな
こもりたる楢の葉柏ちりはてて時雨のみこそ猶たたきけれ
釜処には煙たてかねわびぬれば火桶一つに過す冬かも
月かげはかつ晴れたれど大空の風に残りて降る時雨かな
冬ふけし稲城の竹も笛吹きて鳴る音さむし夜あらしの風
おきわたす霜と有明の月かげとかたみに白きわが庵の前
折にふれて、父母を懐ひて詠める。
聞きおきし親の諌めと花の香は老いて身にこそしみまさりけれ
貧しきも老の憂目もふた親にわがつらかりし報なるらん
いくたびも惑ひを悔いてわび申すわが罪ゆるせ冥路の父母
父母の世にあるほどにかもかくも今おもふごと思はましかば
子のこころ親のをしへになびかぬは己が背きし報なるらん
おなじ世に二たび遇はぬ父母に何しか我は疎くつかへし
いつはとは月日もわかず手向せんおほしたてたる父母のため
身に添ひて父はいませりはぐくみて母いませりと思ひ事へん
失題。
あはれなり角ある牛も若草の妻恋するぞ人にかはらぬ
明治の御代をよろこび祝ひて。
何事も面がはりする新世に老いぬればこそ稀に遇ひけれ
四方の海浪の音もなしわたつみの神も仕ふる君の御代かな
神南備の森の柏木かしこきが皆あらはれて守る御代かな
みたらしの流の清く世の中もかはらであれや禍事なしに
道ありて世をめぐみます天地にそむかずてこそ生かまほしけれ
若き人人の、歌のことを問ひける折。
歌は身のなぐさみにすな何事も事の眼前の真ごころを詠め
事設けて歌はつくらじ世の物の心にうつるままをこそ詠め
言の葉はつくらぬぞよき天地のすがたのままの歌はたふとし
大きなる歌の聖はいにしへも今も抂げぬをよしと誨へき
世の中の数には入らぬ言の葉も独ごつこそ楽しかりけれ
折ふしはうき世ごころの結ぼれを野山ながめて歌ひてぞ解く
人並のまねびも為得ずしきしまの国の道にも惑ひもとほる
うばらの花を見て。
はしけやしうるはしき花の色と香に刺のある木とは思はれぬかな
刺はあれどうるはしく咲く花うばら我は色なく老いてしぼむを
青き豌豆を煮もし飯にもまじへて食ふを好めば。
蚕豆とおなじ折しも花さきて蔓に実をもつ豆の味はも
画讃。
やさしくもあやめ卯の花さし添へし箙背負ひて弓引くや誰
称名。
朝起きて南無と称ふるこころよさ未だものいはぬ口の初言
梅花三首。
川岸の葦のわか葉に梅ちればあたりの草も香に匂ふかな
夜は香のまさるおもへば人恋ふる心に似たる梅の初花
梅かをる窓のひさしに月させばやすらはでこそ起き明しつれ
大隅国の加治木にありて。
磯ちかく旅寝をすれば夜もすがら網引やすらしの音ぞする
衣。
よき衣伏籠にかけてそらだきの香を染めてこそ著まくほしけれ
しばしば処をかへて家居も定らねば。
世にからく汐路ただよふ水母にもわれよく似たり住処なければ
蚕の繭の二ごもりにもわれ似たり人の家のみ宿とすまへば
古事記を講じける時。
千速ぶる神も荒びの罪しあれば千座戸課せ神やらひせし
世は斯くぞ宇多の宇迦斯に兄弟あれど兄は帰服はず弟ぞ仕へし
年頃みをしヘかかふりし西賀茂神光院なる月心大阿闍梨の入寂し給ひしを悲みて。
かりそめの雲がくれとも知らざれば隠れし月の惜まるるかな
おなじ寺の茶所に世を避けて住みし大田垣蓮月尼は、念仏風雅の友として昔より魂合へるなからひなりしが、明治八年十一月ばかりに八十六歳にて身まかりにけり。
しら蓮の月てふ君に別るればわが心さへなきここちする
世を歎くことありて。
人ごころ嗔りへつらひ物事をかすめ偸むぞ世の常のさま
流れての末こそ濁れおのづから澄めるは水の心なれども
涅槃会に。
われは我が身の行く方も知らなくに西へ入るさの月ぞみちびく
西へしも隠れば無しと歎くかなその二月の望の夜の月
越前国にまかりける夏、井出曙覽の家の会にて。
夕立のなごり涼しき川の洲の闇に下りゐて月を待つかな
涼しくもてる夜の月のかげ見れば衣しめりて秋ちかづきぬ
世の上のさがなきことを外にして杜鵑のみ聞くには如かじ
あやめ草はなたち花もほのぼのと匂ふ折よく啼くほととぎす
露おびて咲けるさ百合の涼しさに垣根見めぐる夏の朝かな
背にあまる麦生の中を垂髫児等が蛍おひゆく夏の夕ぐれ
水層まし巌浪たかし五月雨のふる川柳根を洗ふまで
草にさす雨夜の月の薄明り蛍と見るは露にかあるらん
草の露ひるま涼しくきこゆなり風吹く窓のしづ機のおと
萱びさし間なくしづくの打つ音に涼しくなりぬ夏の夜の雨
嘉永元年、父のみまかりける時。
身を分けて幾世めぐみし父なれや別れの骨にしみて悲しき
親となり子と生れしはみ仏の国にみちびくめぐみなりけん
父母の外にわが身はなかりけり肉食みて人となれれば
おなじき六年、相州浦賀に異国のいくさ船わたりきて、世の中さわがしかりし折。
聞きなれぬ国なればこそ駭けどその亜米利堅もおなじ日のもと
若くて大和に遊びし折。
和津が野に馬のりすてて青丹よし奈良路を近み徒歩ゆわれきぬ
ふるさとに芽ぐむ柳も浄御原きよき昔の鞠場なるらん
夢三首。
夢に見るその海山と見る我と一つとやせんあらずとやせん
有るは無く無きは見えつつ左右に面白きものは夢にぞありける
現とは何をか言はんおしなべて寝なくに人の夢は見るものを
薩摩大隅をわたりありきて、煩はしき事ありし頃。
笑めば笑む怒れば影も怒るなりうつる鏡に似たる世の中
骨あれば世にも逆ふを海にすむ水母しもこそうらやましけれ
案山子。
冬辺より春も笠きて立ちつくす山田の曽富騰花を守れかし
春風三首。
伏見山梅さく頃は加茂川の流れかをりて風吹きのぼる
打むれて蝶のしたふや梅が香を吹きゆく風の流れなるらん
心なく花ふきちらす風もあり小簾になごりを留むるもあり
若き頃、洛東黒谷に借りずまひして。
膝を容るる畳は五つ穴窓はふたつある庵に鶯を聞く
そぞろありきして。
墨染もよぼろも洲にはすずめどもたのむはおなじ加茂の河風
加茂堤川ふきのぼる風もよし松をわたらふ月夜もよろし
麻ごろもしめるも涼し夕立の風のなごりや濡れて吹くらん
高野川に近く住みける夏。
夏草は刈りはらはねば葺かずとも菖蒲よもぎに埋るる庵
家は荒れておほしたてねど竹垣の朽目より咲くなでしこの花
夏草にかくれて住めばいにしへの木の丸殿も思ひこそやれ
蓮を植ゑて。
山寺にうつしうゑたる白蓮は来ん世も清くにほひもぞする
やり水に蓮の花のかをる夜は枕ただよひ寝られざるかな
折にふれて、おのれを戒め、かつは人人にも示しける、くさぐさの歌。
をりをりは驚かぬ身をせむるかな親はらからも過ぎし世を見て
なれる身もなせる心も知られねばおのが僻目を真と思ふらん
月と日はたえせず照す世の中を闇と見るこそ悲しかりけれ
心より影をまことと僻み見て迷ひの路はひらけ初めけん
我と言ふ名に迷ひ出でて麻糸の有無にはなれぬ身こそつらけれ
無き世をばありと僻むはおもかげぞ風の吹きしくしら露を見よ
一人だにとどまるは無き世に住みて老いゆく命などか歎かぬ
喚びたまふ仏の船をたのまずば浮世の浪にくつがへらまし
引くいきも又つきかへす人の世に身にたもつべき我物は無し
うつそ身を魂のはなるる時やいつ離れて行くを何処とか知る
かばねこそ荒野の露に曝してめ霊の行方を知らでやはあらぬ
悟り見よ何に心をくるしめん己れある身と思はずもがな
仏あり法ありと説く夢さめて空にかへるぞ真なりける
長き夜の眠といへど覚めぬればしばしの夢の間にこそありけれ
魘はれて苦しかりしも覚めぬればかさねて夢を見ぬ世うれしも
人の、如何に心を修めなばよろしき、と問ひければ。
楽しきも憂きもつらきも世の中は心一つの置きどころから
道知れる人の心をこころにてわれはがほせぬ人ぞ貴人
鈍人もさかしらせねば貴人ぞ貴人さびようたて僻むな
身のままの本性に逆はぬ事とわざ行ひゆかばつつみ無からん
或る時。
おもしろのこの木のふりや曲るにもほどのよければ人の咎めず
西山にまかりて。
行末もむかしも聞かんその名さへ慕はまほしき千代の古道
明治二十七年の冬、人の乞ふままに。
秋津島やまとの民は外国と戦へば勝つ神随ならし
雪ふかき荒野の上に御軍の臥すと思へば我も寒けし
おなじ年、わが子大圓の征清軍隊慰問使として真言宗より遣され行くに。
もろこしへ心たぐへて親も行く一人の旅とゆめな思ひそ
国のため軍に向へ父母にこころなおきそ道をつとめて
次の年の夏、韓国にあるわが子寛の重き病煩ふよし聞きて甚く打歎きしが、十一月二日夜更て門叩くを誰かと問へば、寛の声なりけり。
病には命換ふやとかなしみき生き顔を見る老のうれしさ
除夜に、人の家に宿りて。
今日年の暮るとも知らで宿るかな檐に来て啼く鳥と我とは
なさけある人のめぐみを命にて家に年せぬあはれ飢人
柳。
時と散るもろさは風の咎ならでひとり流るる川柳かな
高野川に近く住みける頃。
雁来紅の花はまがきに匂ひ出でぬ雁も来啼かん薄霧のうへに
草の庵にしなへうらぶれながむれば涙は秋のものとして散る
わが庵は竹の柱もかぼそきに屋根もたわわに積るしら雪
行くさ来さ先づ目にかかる冬枯の霜にひと花にほふ撫子
盛りよりあはれは深し咲き残る霜の垣根の菊のひともと
有明の月の叩くと窓見れば冴ゆるあらしに椋の葉の散る
雪ふれり隣の友に物申す酒あたためつわが宿に見よ
老が身も晴れたる朝の野にぞ来し小松の雪の見まくほしさに
寒き夜はいかにしぬがん老が著る春の衣も綿さはに縫へ
明治二十五年の春、久しくまからざりし丹後国の与謝に下りて。
与謝の海かすみ立つ日は浦島の釣のむかしもおもかげに立つ
国見るも限とおもへば与謝の海うらなつかしき天の橋立
見も聞きも涙ぐまれて帰るにも心ぞのこる与謝のふるさと
物思ふ頃、三月になりても鶯の啼かざりければ。
鶯も世にものおもふ事やあるあたら初音ぞ啼きおくれつる
おなじ頃。
折に遇へば如何なる花か厭はれん時ならぬこそ見劣りはすれ
おもふまま身のならませば花を見る春の心に世は過さまし
明治二十三年二月、大和国月ヶ瀬の梅見にまかりける路にて。
伊賀大和ふき来る春の山風に梅が香しみて霞む空かな
おなじ時、笠置山をよぎりて。
拝めばたふとかりけり笠置山くすしき巌はみな仏にて
明治二十六年きさらぎの初、雪ふりける日、人人と修学院村道入精舎に遊びて、百首歌しける折。
竹の雪たわわに積る葉末より落つるしづくは降るにまされり
一乗寺の里に住みける頃。
比叡の山霞のおくに声はあれど花をはなれぬ谷の鶯
萱むしろ芝生に敷きて花見つつ歌ひたのしむ身こそ安けれ
桜狩り山にうかると見し夢のさむるもおなじ花の木のもと
おぼろ夜の月には水も霞むらん蛙なくなり前の山の井
わが山の霞のおくに分け入ればあさる雉も山鳥も鳴く
山を近みをりをり雉山鳥の羽音のどけき老が庵かな
菜の花に蝶のむつるる現さへ夢に見らるる老が庵かな
妻初枝と、吉野、高野などをめぐりて。
あくがれて花に幾夜の旅寝すと知らで家には我を待つらん
夕立五首。
はたた神ゆふだつ沖の汐ざゐに鯨うち上げて荒浪さわぐ
大島や麓ゆふだつにはか雨めぐりの磯は汐の濁れる
荒磯の浪に馴れたる離れ鵜も風ながれするゆふだちの雨
うつくしき砂をたたきて打けぶりむら雨すぐる浜の松原
風早の浦のゆふだち足早み釣舟さわぐ浪立つらしも
夏の歌の中に。
杉むらにかがなく鷲の巣に隣る庵こそ夏は涼しかりけれ
江口びと簗うちわたせその簗に鮎のかからば膾つくらな
沢の辺に咲く花がつみかつ散ればやがて咲き次ぐ撫子の花
川岸の根白高萱かげもよし釣しがてらやここに涼まん
堀江川入江の蓮は五月雨に花もよひして茎伸ぶる見ゆ
桂川波の上わたる夕風にひかり吹かれて飛ぶほたるかな
文久三年長月二十九日、母の身まかりしに、都にありて臨終にもえ遇はざりけり。
我よりも母は忘れじ旦暮に乳にとりつきしをさな心を
ありし世に法のみちかひ聞きしまま来れと招く道を行きませ
失題。
うつせみの世ははかなしや風すらも西は東風にぞ吹きかはりぬる
山階宮の御歌会にまかり侍りて、人、世、心、身、忠、孝、信などいふことを。
苦むるこころの鬼の奴こそうき身はなれぬ影にしありけれ
心にも素直に身をば守らせて人といふ名を朽さずもがな
いかばかりあらぬ方にも迷はまし心まかせの世ならましかば
笛吹くも吹かずも我は獅子舞のあとに付くこそ心やすけれ
夏刈の麻の紵がらの軽き身をわれから重くするや何ゆゑ
見るたびに花をあはれと思ふほど我身も人の思はましかば
わび人は世をひたすらにかこつかな世はまた我をいかに歎たん
物おもひも苦みもなく片ゐざり匍ふみどり子の心ともがな
仕へたる君のこころを心にてわが身にあらぬ我身とぞ思ふ
報いずばわが物としもならざらん親のめぐみに成りし身なれば
まことなき心は言にあらはれぬ命かけても偽はせじ
西行法師。
鈴鹿山世をふりすてて妻子にもかへたる道に奥やありけん
元政上人の遠忌に。
分け入りし心や常に深草のかすみの谷の花に住むらん
一乗寺の里に住みける頃、はた、歌の中山に移りて後も、年年に子規の啼くをめでて詠める、くさぐさの歌。
山にゐて皐月待つ間はほととぎすわが庵にきて羽ならしせよ
ほととぎす初音なくやといたづらに今日も暮しつこの山の辺に
小柴垣いふかひもなき庵ながら山ほととぎす聞くにはよろし
汝が啼かんよすがの雨は竹に降る空頼めすな山ほととぎす
み山辺の老木にもがもほととぎす夏来る毎に宿して聞かな
いかばかりあはれの鳥ぞほととぎす聞く人毎に物思ひする
ほととぎす啼くとも知らで入りし山声ぞ落ちくる厳橿がうへに
ほととぎす初音し聞けば苗代に斎種まきおろす時ぞ来にける
涙知るあはれの鳥よほととぎす物思ふ夜のあかときに鳴く
ほととぎすわが独寝る床ちかく宿りては啼け妻と聞くがに
独住むみ山の月にほととぎす啼く夜しもこそさびしかりけれ
ほととぎすほのめく声は夏山の若葉に藤の花かをる頃
五月雨はさびしきものをほととぎす独聞く夜は静ごころなし
惜まれし花にもかへてうれしきは初夏山に啼くほととぎす
つらかりし昔の世さへほととぎす聞く世しもこそ思ひいでぬれ
世の中にをかしきものはほととぎす夢にまぎるるあかつきの声
ひと声になぐさめられてみ山路も越えやすかりき山ほととぎす
ほととぎす来鳴きとよもすわが庵の老木の榎こぬれしみみに
つらしとは待つ夜のかずに思ひ知る恋にも似るか山ほととぎす
啼きさして山子規わがここだしのばく知らにいづち行きけん
ほととぎす汝は前の世の何なれや幾日啼くにもあはれと我が聞く
世に知らぬみ山の月の涼しきに子規さへなぐさめて鳴く
ほととぎすあはれの鳥と言ひつつも啼かねば待たれ啼けば悲しも
ほととぎす待たねど宇多の中山は必ず来啼く雨の夕ぐれ
世を捨てし老が耳にも聞く時は山ほととぎす涙ぐましも
ほととぎす物思ふ夜はわがこころ鳥さへ知るか常ゆけに啼く
ひとりゐて黙もあらんと思へどもまた音づるる山ほととぎす
洛東岡崎の里に住みける頃。
避けたれど猶世の中か韓碓のかせぎけぢかき岡崎の里
山越しの風を時じみわが小田の夕霧ごもりかりがね啼くも
はだれたる雪かとばかり見てぞ行く月の影ちる竹の下路
引板かけて早稲田守るべくなりにけり穂末におもる秋の初風
草の花さきて匂へど蜩は来啼けど野辺はさびしくなりぬ
むらがりし霧は谷間にしづまりてほのぼの白む秋の野の庵
秋風の身にしみじみとさびしきは薄霧のぼる雨のゆふぐれ
葛の葉の玉巻く風も見えそめてうら悲しきは初雁のこゑ
わび人の住める野末の霜枯に松の戸ほそく立つ煙かな
小山田の稲城はなれぬ稗鳥を吹きおどろかす引板の夕風
冬枯の檐端あらはにさびしきは瓜生の霜に柳ちる頃
清閑寺に住める頃、清水坂に、おもてに猿を繋ぎて世のいとなみとする家あり。山の出で入りにそを見るが悲しくて。
身一つも世はうし苦し手を合す猿を見るにも涙こぼれぬ
餌乞して手を合せたる飼猿を我とし見れば身にせまるかな
馬。
牧の馬蹴あげ荒るれど益荒男は手綱たぎつつ鞍無しに乗る
煙。
立ちのぼる野辺の煙をわがはてと思へば安し心きよけし
柳二首。
根は水に洗はれながら加茂川の柳の梢はけぶり青めり
うすぐもり風もにほひて霞むかな六田の淀の青柳の原
春雨。
花ぐもり降るとも見えぬ春雨に牛の背ぬれぬ門田鋤く間に
落花二首。
寒けきは心づからかみ吉野の耳賀の峰に花の雪降る
春深き清滝川は水よりもあらしにさわぐ花のしら波
歌の中山に住みける冬。
うるはしく紅に白きをうちまぜて残る紅葉に初雪ぞ降る
天霧ひ時雨の降れば狭丹づらふ紅葉は散りぬ山はさびしも
日ならべて大雪ふれり奥山の松の木末も土につくまで
膝を枕にわが命終らんと思ひし子の照幢を、明治十九年の春、周防徳山なる徳応寺の養子に遣すとて。
身の果はいづくの土と朽ちなんもそなはれる世と思ひ定めよ
形こそさもあらばあれ墨染の色をうき世の水に洗ふな
世世経とも法に仕へん身にしあれば有漏路の塵に心染めざれ
譲るべき道は人にと慎みてわれ知り顔にこころ誇るな
時まなくまめに仕へよみ仏に奉りたる身にこそありけれ
身を蔽へあたはるままの衣きて我にふさはぬ奢このむな
食ふ間のあぢはひのみか食物は生きなんためか心して食へ
むさぼりはなにより起る大空に心を放ち求めてを見よ
この心この身を生めり世のかぎり我を知れらば何か歎かん
世に安き人を外目に羨むな我をも人のかくこそは見め
世の中に命まかせて天地を家とすむこそ心やすけれ
維新前後二十とせばかり、御国のために甲斐なき身も聊か報いまつらんと思ひ立ちて、薩藩を初め諸藩の間に立ちまじり、心を砕くこと多かりしかば、家を思ふに暇なくて、わが岡崎の寺は屋根より雨漏り、畳皆がら朽ちはてて、白く黴びたる床板の落ちたる裂目よりは竹萱草などさへ生ひ出てぬ。もとより檀徒といふものふつと無き寺なり。一とせ旅より帰りきて、この荒れたる中に家守る妻子のあはれなりければ詠める。
直土に藁解き敷きて寝ぬること常と思へば悲しきものを
いとほしき妻と子等とに食はすべき飯もなきまで貧しきや何ぞ
春されば花うぐひすと人は言へど心も向かず飯に饑うれば
荒寺の柱をつたふ雨の音板たたくにも心くだけぬ
男子はも国を歎けど若草の妻の歎くは家のため子の為
有馬なる出湯には身もふれなくに朝夕いかに袖のしをるる
世の中のさわぎならねど寝をぞねぬあなかま風の竹に鳴る夜は
一乗寺の里に住みける夏。
菜の花の殻うち落し実をとりて赤く野火たく夏の夕ぐれ
あやめ草引く手ににほふ田の溝の小水葱が花も移し植ゑてん
うたたねに夜は更けぬらし漏る影の簾にうすき夏の夜の月
風吹けばしづくとなりてはらはらと秋告げて散る楢の木の露
かよわくて夏痩したる老が身にてる日を避けよ夕立の雲
わが庵は竹の林の奥なれば知らでや夏のおとづれもせぬ
おなじ頃、蓮の咲きければ。
山寺の杉間すずしくかをるかな花さき出でつやり水の蓮
よそに見て蓮の音をちらさめや来ん世にかをるわが魂にせん
落葉二首。
桑やなぎ風に黄ばみて散る頃は日影もかなし野辺の夕ぐれ
こもりたる樋守が家の川柳ちればあらはに月のさし入る
寒月。
枯れすすき霜にきらめく影更けて荒き裾野に月白く照る
高野川のほとりに住みける春。
月よめば春は遠けどあらたまの年立つ日には山の霞める
柳のみ春しりがほに青むかなこぼれし壁をわび人は守る
降るままに柳をつたふ春雨のしづくの珠を蜘蛛の貫く
たらちねの少女子すゑて守るばかりわが守る花を折りゆくや誰
高野川わがむすぶ手もかをるなり花のしづくや水に散るらん
おなじ頃、或夜門さしたる後、友の来て叩かで帰りぬと聞きて。
帰りけん霞の閉づる柴の戸はなど叩かぬやうぐひすの友
物おもふ頃。
苔の上にひとり咲き散る花なれば惜む人なし見る人もなし
老いぬとて捨てんものかは古川の朽柳にも芽は萌えにけり
桜四首。
楯倉や御祖の宮の河合に咲きおどろかす一もとの花
靱負ひて太刀を佩きたる物部のよそほひしたる山ざくら花
朝のかぜ吹けば野寺の茅葺に雪のはだれと散るさくらかな
亡き世にも苔の下にて花を見んさくらばかりに心のこれば
宇田淵と詩仙堂に遊びて。
かきこもる木陰かすかにともす火のうつるも涼し山のやり水
山かげの滝の音きよし蜩の啼くこゑ聞けば秋ちかづきぬ
蝉の音に夏こそ残れ山窓はにほひすずしき葛の初花
播津国住の江の遠里小野にまかりし時。
露おけば白く涼しな住の江の遠里小野の草な刈りそね
妙心寺中の蟠桃院なる稻葉宙方の身まかりけるに。
六十路あまり共に浮世を夢と見き君こそ先づは覚めて往にけれ
山城国愛宕郡高野村の猪口徳右衛門は、若き頃より禅を修しけるが、身まかりければ、手向けつ。
なきがらを世に打捨てて一つだに物見ぬ本つ身に帰りけん
明治二十四年一月九日、西賀茂神光院なる覺樹老比丘の入寂したまへるに。
かりそめの影なりながら法の月雲がくれこそ悲しかりけれ
薩摩国より帰れる時。
繁糸のいとも苦しや世の中は長しみじかし心みだれて
人わざのしげきを捨てて身を安く世を過さんと求めぬはなし
身のあらんかぎり思はず仮初の世にいつまでのうかれ心ぞ
たまたまに浮世の夢は見しかども心とむべき里だにもなし
人に示す。
何事もみな我からぞいささめに人を悪しとは言ひなくたしそ
人とわれ隔てごころの起る時おのれに告げよ道に惑ふと
天地の人も一つを隔てしてわれはごころに身をぞ過まる
わが物と何を定めん難波潟蘆のひと節のかりそめの世に
家あれば家をうれたみ田のあれば有るが歎きの種とこそなれ
田も家も無さを悲むうらうへに有れば歎きぬわが妻子まで
相国寺荻野獨園老師の七十の賀に。
老の陰かくさで照せ法の月めぐみを有漏の露にやどして
倉田保之の七十の賀に。
七十路の歳にたわまぬ猛男には老の奴も怖ぢおそるらん
酒。
須須許理が世に醸みそめしことなぐしほど過さずば事やなからん
水車。
ゆくりなくうき世につれてめぐるらん水におさるる井出の小車
天田鐵眼の髪おろして林丘寺に入りし時。
入りて見よ心のおくに何かあらん山や山なる水や水なる
水のいろ香もなき雲の身にしむは世に静なる人にこそよれ
わが尚絅といふ名は、若かりし日に、国学の師八木立禮大人の詩経より撰びて賜ひけるなり。
つたなさに上に襲は掩へども下に錦を著ぬがはづかし
鳥羽重義の六十の賀に寄松祝といふことを。
今年よりうき世のがれてしげれ松千とせは己が齢とぞ聞く
河内国花田の里の愛染院に宿りて。
立ちのびて照る日ささふる蔭もよしやがて穂に出ん麦の下窓
大和国八木の里にまかりし時。
秋涼し天の香山夜あくれば耳無かけて白き霧立つ
東山西大谷を過ぎて。
古塚の苔の上しろく露おきて宿るも清し有明の月
山階宮の御歌会に、虫を。
荒れはてし壁のくづれの柱根におなじ夜寒のこほろぎの啼く
秋草三首。
異草は枯れゆく秋の初霜に痩せさらぼへる犬蓼の花
咲くままに萎れざりせばなかなかに見あきやせまし朝顔の花
秋風にこころほどけて藤袴ほころびにけり著る人なしに
秋風三首。
草の花うつくしよしと啼く蝉の声もまじれる秋の初風
いたづらに過ぎにし世さへしのばれて秋風ふけば心さびしも
荻の葉におとづるるこそさびしけれ風は心の無しと思ふに
雁四首。
かりそめの世とや知るらん秋風にかりかりと啼く天つかりがね
有馬山いなの古江に雨すぎて蘆間の月に雁のおちくる
秋かぜは肌に寒し水門田に雁の来て啼く時ちかづきぬ
淡路の海朝霧ふかし磯崎を漕ぎ廻みくれば雁ぞ鳴くなる
失題。
著るきぬの裾も乱れず紐しめて袴の折目世は正しかれ
家。
壁草に藁ぬりこめて竹ばしら茅の屋根こそ住みよかりけれ
一乗寺の里に住みける冬。
板葺はあなかま音におどろきて鳥も立つまで打つ霰かな
時雨二首。
晴れぬるか沖に青雲ほの見えてしぐれし風ぞ波に流るる
有馬山さわぐ印南野の風さきに笹原たたくむら時雨かな
霜。
磯かげや朝日も知らずおく霜は汐のさすにぞ敢へず消えゆく
雪三首。
見るかぎり八十島しろし薩摩潟沖縄かけてつもるしら雪
吹雪する黒牛潟の汐かぜに浪高からし船の寄りくる
葛城や時雨の雲の絶間よりほのかに見ゆる峰のしら雪
明治二十五年二月五日、ふと老が身のおぼつかなさを思ひつめて痴れがましく打咽び、世をも子等をも恨みなどしつつ、昼つ方より夕までに二百首ばかり詠みける中に。
うつそ身もさこそ葛葉の露ならめ憂き世の中を恨みてぞ散る
わが死なば山になびかん浮雲を行方しられぬ形見とも見よ
千とせをも猶世は足らじ命こそ人笑へにも生きまほしけれ
誰問はんわが後もこそ悲しけれ世にありてさへ疎まれし身を
わが後を思ふ人ありて問はませば苔むす石ぞさびしからまし
老いぬれば世に疎まれつ月の行く山の端にこそ入らまほしけれ
わが憂きに人もはかなく思ふかな物のあはれは老いてこそ知れ
さりとても身をば心のはなれねば猶火はあつし水は冷し
路の辺の蓼生に骨はさらすとも思はぬ人のなさけ受けめや
憂きことよ猶身に積れ老いてだにまだ世に飽かぬ心知るべく
老いぬれどはぐくむ人もなかりけり身は草木にもあらじと思ふに
枕守るともし火ならで泣寝する老のあはれを見る人もなし
馴れこしは七十路までの月なれば行く路てらせ死出の山辺の
七十路の春こゆるまで生きたれど馴れこし世には猶飽かずけり
あさましくわが身ばかりを歎くかなひと日も人の為ならずして
明け残る有明の月とわが老は世にあさましきここちこそすれ
独ゐて物を思へば隙間洩るこゑなき風も泣くかとぞ思ふ
うとまれて春に知られぬ老が身は花の都のかたはしに置く
わが身世におもかげばかり陽炎のあるかなきかに消え残りつつ
われながら心の関にとざされて越えやすき世を滞るかな
世にわびて人かずならぬ老が身は亡き後さへもあはれとぞ思ふ
物おもふ涙の袖をありあけの月に干せどもかわかざりけり
あはれとは子だにも思へ老い朽ちし親は何をか我とたのまん
享けがたき人に生れていたづらに果てん我身のなげかしきかな
七十路に老いくづをれて妻子にも放たれんとは思ひがけきや
近からばひとり苦む老を見て捨ててはおかじ人ならば子も
国遠く住むとも老がおもかげは子等が夢にも見えけんものを
世にわびて心の細るをりふしは松吹く風も涙さそひぬ
繁糸の苦しきものは世なりけりとあれば斯かりあふさきるさに
刈りし後穂には出でても実らねば人の手ふれぬひつぢ穂やわれ
老が身は人わらへなる腰折れの歌よまんより黙もあらぬか
梅花二首。
内日さす都めぐりの里つづき咲く梅しろき朝ぼらけかな
梅が香をそよ吹き入れて衣架のころもに香る春の朝風
明治二十三年の春。
六十路あまり八とせの春は越えぬれど心老いせぬものにぞありける
人人と、嵯峨へ花見にまかりて。
山のかぜ花に吹くなりひと羽に千里おほはん大鳥もがも
花守もこころ狂ひし人と見ん桜のもとに酔ひて寝たれば
明治二十五年の秋、周防国徳山なる照幢の許に遊びにまかりける途中。
周防の国玖珂の鞠生の浦漕げばうらさびしくも秋の浪立つ
周防の海かぜふきかはりみなの曲黒雲いでて秋の雨ふる
そこに冬までありて、京に上らんとする時。
おもひやれ浪路を帰る老が身のわかれは死出のここちこそすれ
山の庵に誰待つ人はなけれども帰りてとらん新しき年
その年の暮に。
つくろはず檐の老木を門松にことなく年の暮るる庵かな
明治二十六年の元且に。
立ちかはる年の吉言にみ仏の御名をとなへて祝ふ春かな
桃花。
桃の花したてる路を行けばかも垢つく衣も袖にほふらし
大圓、照幢等の、老が身に事ふることのまめやかなるも嬉しく、はた仏の慈悲、天地のめぐみの深きをも喜びて、折折に詠める。
家もなく功もあらぬ老なれど子持たるゆゑに危げもなし
老が身を何かは思ひかこたまし子等うちよりて我を養ふ
おもしろや夢と現のなかぞらに又まぼろしのなぐさめも見つ
身に物の無きをわが世と知りしより心も安し事も足らひぬ
尊しなひと日三たびの食物を命のためと誰がめぐむらん
来ん世はあれかりのうき身もたふとしな鳥獣にも生れざりしは
来ん世をば何か歎かん心よりおくにたのしき道はありけり
斧の柄の朽ちし昔を思ふにも世や長かりし山に住む身は
世をわたるたつきも知らぬ身にしあれど心一つは楽しくぞ思ふ
天地は物こそ言はね四つの時いやつぎつぎに事は足らひぬ
つくづくと思へば安きわが世かな成らぬを捨てて成るに任せば
世に洩れてすぐすは安し痩畑に人の捨てたる老茄子われ
歎かじな定めなきこそ世の中の変りてめぐる姿なりけれ
身を悔いば限もあらじおむかしく思ひくらせば楽しくありけり
さびしさを心としめし柴の戸を敲くと思へば山の松かぜ
うつらうつら月日ゆくこそ楽しけれ世に滞る心は無しに
やがて尽きんわが世うれしな父母の跡慕ふべき日も近づきぬ
七十路を四つ越えしこそ嬉しけれ猶生きば生き今死なば死ね
われ老いぬ年は七十ぢ四つ越えぬ今は世になき身ぞと思はん
消えはてて跡なき身こそうれしけれ浮世の夢は涯し無ければ
都。
そなはりし都の人の姿見よところからこそ身はたふとけれ
耳うとくなりて。
わが耳のちかからませば世の中の事を聞くにも物思はまし
梅雨。
降りつづく皐月の雨の川社こころましませ流れもぞする
近江国に遊びける夏。
風そよぐ堅田の舟の磯めぐり浪もしづけし夕月もよし
鳰の浮く蘆間の水を漕ぎわたり涼しくもあるか真野の釣舟
涼しきは真帆にうけたる比良おろし吹かれてゐざる鳰の釣舟
鷺二首。
入日さす鳥羽の松原しら雪のふると見るまで鷺の来て寝る
川の洲に鷺のむれ白くゆふだちの濁りにあさる夏の夕暮
一乗寺の里に住みける夏。
焼けしうへ一雨そそぐゆふだちのしめり涼しく土の香の立つ
ゆふだちに濡れし鴉の羽たたきに桐の花ちる夕あかりかな
枕つく妻屋もささで夏の月入るまでを見ん夜の涼しさに
明治二十六年の夏、子等の集ひきて、祖先を初め、無縁となれる身内の亡き魂をまつりて供養しけるうれしさに。
ありし世をしのぶにゆかし亡き人の魂の行方と蓮葉を見て
はらからか親か啼く音の身にしみて袂ぞしめる山ほととぎす
父母のむかししのびて盆すれば袖こそしめれ花を折るにも
親のため盆する宵の松虫はわが待つ魂の声かとぞ聞く
亡きかずにいつか入らんと父母の魂まつるにも我世をぞ思ふ
夏田家。
しらしらと咲きめぐりたる夕貌の花の垣内に馬洗ふこゑ
某の別墅にて。
まがり木に檐をもたせて造れども夏は涼しき草葺の屋根
山階宮の御歌会に侍りて、夏海といふことを。
紀の海や夏の追風に由良の埼漕ぎごころよき朝びらきかな
子規。
滝なして水沫さかまく宇治川に鮎釣りがてら聞くほととぎす
明治二十七年七月十二日、人人と一日百首催しけるに、いみじく暑さ日なりければ。
暑さには己が家すら草まくら旅ごこちして置きどころ無し
宇治に遊びて。
菟道川や蛍を見ると板橋の桁にもたれて更けぬこの夜は
蜩四首。
夏深き鳴滝山のひぐらしは水の音よりすずしかりけり
秋風に肌すずしく午睡して聞きごころよきひぐらしのこゑ
ひぐらしのうつくしよしと鳴くなへに野に来て見れば千草花咲く
かへりこぬあたら月日をいたづらに過すは我と山のひぐらし
虫三首。
夕かけて桐の木蔭に虫ぞ啼く落ちし一葉やおどろかしけん
ふぢばかま尾花折りそへ帰る野のうしろに啼ける蟋蟀のこゑ
露の野に啼くきりぎりすきりきりと管巻くもあり機織るもあり
森田昌房と、大原に鹿を聞きにまかりて。
声きけばあはれせまりてさ男鹿は角あるものと思はれぬかな
上田重女の身まかりて四十九日の忌に。
消ゆと見て歎きはせしかしら露の玉は蓮に結びかへけん
明治二十八年十一月二十五日、西賀茂の神光院にまかりける時、路の辺の墓を見て。
誰か世に生き残るべき墳墓の古きを見れば涙ながるる
明治二十九年九月二日、妻初枝の身まかりければ。
おくれじと思ひもあへぬ妻わかれ我を残していづち行きけん
明日しらぬ老が行方を歎くかなあはれ今年は妻なしにして
えにしありておなじ宿守るきりぎりす影だに見えず声も聞えず
今朝は家に見えねばさびし子の為にその垂乳根の母の面影
いささめの雲隠れとは思へども見えねばさびし秋のかりがね
その喪に籠りけるほど。
秋の日もうらさび暮し夜は唯いきつぎ明す身にこそありけれ
臥しかねて秋の夜寒にくるしむは壁なる虫と床の上のわれ
その忌の終る日。
身まかりて四十日九日わが妻の潔斎もあはれ今日かぎりかな
世にあれば怨言も言へど亡き後の妻屋を見れば悲しとぞ思ふ
またの年の秋も更けて。
千とせもと契りし人はなくなりて一人も聞くか荻の夕風
なにゆゑに涙のもろき我ならん月見る毎に眸のしめれる
山松の梢を月ははなれけりなどか我身の世に曇るらん
明治三十一年の秋。
妹にわかれ三とせ著ふるす古ごろも肩のまよひを縫ふ人も無し
折にふれて。
人ごとに貴き卑しき品はあれど命の種によしあしは無し
さがなくも人は言ふともよしゑやし我は黙して事なくぞ経ん
否も諾もわれは辞へじかにかくに人の心は人に任せめ
画讃。
ゑらゑらにうたぐるばかり酔へる人声づくりして首のみぞ振る
山家。
巌高き山のほそ路つづら折わが松の戸を覓めくるや誰
歌の中山に移り住みて詠める、くさぐさの歌。
事しげき憂き世のがれて隠れ栖む巌秀もおなじ天地の中
事しげき都は常に見わたせどうき世の塵をはらふ山かぜ
わが住める山の峡より見わたせば都は雲の下にぞありける
山科を越ゆるあらしの音づれにこたへて動く庭の柴垣
隠れ栖む宇多の中山なかなかに身を捨ててこそ世は知られけれ
汲むほどは足らぬ日もなし巌間水すみよかりけり歌の中山
住む庵は歌の中山おくまへて入らまほしきは敷島の道
門に立つ古りし榎に栖む鳥の朝啼く声にわが目さますも
たのまれぬ老が命をおもふにも今年は花の惜まるるかな
柴の戸をおほふ高嶺のしら雲はいつ紫の雲にかはらん
ひとり栖む山を静けみ真木の戸もささで白める月を見るかな
忘るなよ七十路こえて馴れし月かげこそ老が目には疎けれ
初尾花そよげば老がそら目にもとまりて涼し秋の初風
訪ひきても人は帰れどわび人を思ふまことは月にこそあれ
物おもふ秋の夜頃は草の虫ねに出でてこそ老も泣かまし
守るとては心なやます身を捨てて西へや月に伴はれなん
秋ふけてみ山もさやに小竹の葉のさやぐ霜夜を独ぬるかな
明治三十年六月十七日、山階宮晃親王殿下の、若宮菊麿王殿下おなじく御息所と共に、わが清閑寺に成らせ給ひ、日もすがら物語らせ給ひける忝さに。
夏草の露の庵ゆゑみ車を無礼くも今日は濡しつるかな
ほととぎす初音にそへて大王にたてまつらまし清き山かぜ
秋野。
いざ行かん露もつ尾花をみなへし目うつりのよき野辺の秋見に
武人。
おほぎみの御楯となるを待ち申す命は早くたてまつりつつ
失題。
かつは笑みかつは怒りみ世の中は童ごとして経るにこそあれ
相聞十二首。
夜日となく人の見ぬ間の面杖は恋に心のかたぶけばつく
しのびこしその愛しきを外に立てていを寝んものか母は知るとも
韓くにの虎にのるべき益荒夫も肝ぞとらるる恋のやつこに
年を経ておき旧したる菅笠の乱れし恋はつかね緒も無し
おもひ寝の夢にのみみて垂乳根の母のゆるさぬ恋をこそ祈れ
命だに死ぬには如かじ顕れば身のいたづらになりもこそすれ
つれなさの人の心に懲りながら思ひやまぬは夕ぐれの空
狭莚に袖かたしきて吾妹子とながめし月は夢にぞありける
さもこそはとけて逢ふ夜の稀ならめ心をさへに隔てつるかな
結びつぐ人し無からば片糸はいかによるとも甲斐なからまし
物もひに痩せこそまされ憂き人のつらさは我に現れにけり
別れゆく今朝の姿を見ざりせば妹にこころを留めざらまし
明治三十年の冬、周防国徳山なる照幢の許に遊びにまかりて、そこに年を迎へて。
ふたもとの年の門松いはへいはへひともとは君ひともとは親
世を知らぬ老が今朝くむ水にすら若してふ名は憎からぬかな
おなじ年の春、徳山にありて、金子正煥の六十の賀に。
人の世の六十路は越えつ身の憂きを遁れて遊べ花鳥のうへに
おなじ頃。
山落つる水を田に引き牛入れて都濃の里びと苗代づくる
のどけしな野寺の鐘の音さへもほのかに霞む花の夕ぐれ
またおなじ頃、何となく身の終りの思はれければ。
月花にうかれつくして身の果は露のかをりに骨も清けん
何くれと世に言挙はせしかども物言はぬ身と今ぞなりなん
この夏、雨の久しく降らねば。
沖辺より西南風ふくらし南の海日にけに川の水の涸れゆく
おなじ夏、長くわづらひて徳応寺に打臥すほど。
暑き日もわが臥す床の涼しきはこの竹蔭のあればこそあれ
口鬚も髪もけづらじ天地の世に生みいでし心まかせに
辞世。
(寛いふ。父の病おもりぬと聞きて、大圓は京より、寛は東京より下りしに、八月十六日の午後三時頃、父は寛に扶けられて起き直り、大圓、照幢その妻彌壽子などを床の辺に居させて、わが命も今日は限ぞ、もろともに別の歌よまんと言ひて、次の歌どもを口授し給ひ、また子等の詠み出でつる歌をも聞きて打笑まれしが、十七日の午前三時ばかりに、念仏の声かすかになりて安らかに息はて給ひき。)
なにかわれ言挙はせん天地の足りそなはれる中に死ぬとて
鷲の山まよひ出でし折は忘れしか月見てかへる秋は来にけり
花と言へば身の終るまでなぐさみぬ来ん世のかをり俤にして
生けるほどは花に眠りて過しけり今日さめゆくは夢にかあるらん
(寛いふ。この最期の二首は、父が枕のもとなる大きなる壷に、彌壽子が生けたる萩桔梗などの匂へるを見やりて詠み給ひけるなり。)
禮嚴法師歌集 完
父君のはかなくなりたまへる前の日、御枕のもとに子等をつどへて、永き別の歌よめとのたまひければ、泣く泣くもきこえまゐらせける。
大圓
もろともに仏の道をよろこびて後の世までも親子とや言はん
照幢
親といひ子といふも世のかり名にて入我我入のさとり楽しも
寛
親といへばなほ人の世のわかれなりまた遇ひ難き仏とぞ思ふ
訂正追加。
一、此集の印刷を終れる後丹後の加悦村に九十六歳になれる老媼某現存し、父の幼時を記憶し居りて、童名は長藏、元服して後の幼名は儀十郎と云ひし由を語れりと、従姉細見千枝より報じ来れり。
一、また、父が若狭国の専能寺に養はれ給ひし頃男響天に先ち一女峰野を挙げられしが、二歳にして夭折せし由、兄響天より報じ来れり。
一、此集の三十二頁なる大圓の清国に赴きけるをしのばれし歌の中に「子のかみをいくさにやりて山里に風の吹く日は物をこそ思へ」と云ふ一首ありしを、印刷の際脱漏せり。
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