憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず

吉野作造




 去年十二月一日より東京に開かれたる全国中学校長会議において、高田新文相が特に訓示を与えて立憲思想養成の急務を説きたる事と、水戸中学校長菊池謙二郎氏がって大隈内閣の居据いすわりと立憲思想との関係の説明を求めて文相に肉薄した事とは、著しく世間の耳目を惹いた。訓示の一節にいわく。

(上略)中等教育ニハ種々ノ方針アルベキモ、余ノ見解ヲ以テスレバ、立憲思想ノ養成ヲ刻下ノ急務ナリト信ズ。我ガ国ニ於テハ、憲法施行以来日尚浅ク、国民ノ憲政ニ通ゼザルコトハ過般ノ総選挙ニ於テ見ルニ明ラカナリ。立憲政治ノ運用ヲあやマラザルト否トハ、国家ノ重大問題ナレバ、特ニ中等教育ノ任ニ当ルモノハ充分其点ニ関シ留意セラレンコトヲ希望ス(下略)。

 従来歴代の文部当局者も中学校長会議に同様の訓示を発せし事これまであったかどうかは、予の明知せざる所なれども、多年野に在りて立憲思想鼓吹の必要を唱え来りし高田氏の事なれば、今度特にこの点を力説高調して中学校長諸氏の注意を喚起したのは怪しむに足らない。
 これまで同じような機会に同じような訓示を発した事は仮りに無いとしても、民間における立憲思想の養成を必要とするの説は、決して新しきものではない。しかして教育機関の協戮きょうりくによりてこの思想を民間に普及する事が最も手短かにして且つ最も有効なる方法なりという事も、実はよほど早くから認められておった。中学校教科課程の中に法制の一科を加えたのもこの趣旨に基づくのである。しかしながら、これらの施設は果たしてその目的を達したであろうか。我が国の憲政はその創設以来既に四半世紀の星霜をけみして居る。しかもその間憲政に対する国民の思想はどれだけ進歩したであろうか。今日この際文相の口より改まって立憲思想養成の必要を聞くのは、たまたま民論開拓の過去の努力の不成功を証明するものではあるまいか。
 いずれにしても立憲思想の養成は今日なおいわゆる「刻下の急務」である。この点において予輩は全然高田文相と同感である。しかしながら、口に言うは甚だ易いただ問題はいかにして立憲思想養成の目的を達すべきやである。幾度繰返してその必要を絶叫しても、いかにせば果たしてくこの目的を達するかの具体的方法を示さずしては、せっかく訓令の主意をもっともと感じた教育家諸君も、イザとなって手の着けようがあるまい。しからば文部当局者は果たして教育家の実地指南たるべき細目の成案をって居るのであろうか。
 立憲思想養成の具体的方法の攻究は立憲政治その物の正確なる理解を以て始まらねばならぬ。不正確なる理解を基礎としては、決して適当なる方法の組み立てられよう筈はない。しかして予は平素我が国のいわゆる識者階級間に立憲思想に関する理解の極めて不明瞭不徹底なることを遺憾とする者である。高田文相は従来立憲思想の鼓吹と普及とには少なからず尽力した人だと聞えておったが、菊池水戸中学校長の直截なる質問に対しては、決して単純明快な答弁を与えられなかった。予はこれら高級の教養ある方々に向ってすら、今日なおまず憲政の本義そのものを説くの必要ありとの感を深うしたのである。
「国民ノ憲政ニ通ゼザル事ハ過般ノ総選挙ニ於テ見ル」も明らかであるが、しかし憲政の何たるやに通ぜざるは独り一般下級の国民ばかりではない。上級のいわゆる識者階級また然りである。立憲思想と全然相容れざる専制的議論は、今日しばしば公然として在朝在野の政客の口に上るを見るではないか。一国文化の指導者たるべき識者にしてなお且つ憲政に対する不正確なる理解に甘んずとせば、いかに一般国民の思想を鞭撻しても憲政有終の美をすことは出来ぬ。かくて今日は上下一般に向って最も率直に最も大胆に最も徹底的に立憲政治の真義を説くべき時ではあるまいか
 これ予が自らはからず、敢てここに憲政の本義に関する愚見を披瀝ひれきして大方の叱正を乞わんとする所以ゆえんである。

序言


 憲政のよく行わるると否とは一つには制度並びにその運用の問題であるが一つにはまた実に国民一般の智徳の問題である。けだし憲政は国民の智徳が相当に成育したという基礎の上に建設せらるべき政治組織である。もし国民の発達の程度がなお未だ低ければ、「少数の賢者」即ち「英雄」に政治上の世話を頼むといういわゆる専制政治もしくは貴族政治に甘んずるの外はない。故に立憲政治を可とするや、貴族政治を可とするやの問題の如きも、もと国民の智識道徳の程度如何いかんによって定まる問題で、国民の程度が相当に高いのに貴族政治を維持せんとするの不当なるが如く、国民の程度甚だ低きに拘らず強いて立憲政治を行わんとするの希望もまた適当ではない。しかしながら近代の諸国においては三の例外は無論あるが概して国民の智徳は相当の高度の発達を遂げて居るこというをたない中にはそれ程でないものもあるけれども少なくともその中の少なからざる一部分に高度の発達を遂げたものが必ず存在するが故にこれらの人々を通じていわゆる民権思想というものはいずれの国においても頗る発達を遂げて居るしたがて今日は高度の文明を有って居る国においてはもちろんの事それ程でない国においても専制的貴族政治は到底引続き行わるることを得ないという状況に定まった。国民一般の発達の程度未だ立憲政治に適すべくも見えないような国においても、世界の大勢に押されて貴族政治はもはやその命脈を保ち得ざる有様である。して見ると、これらの国においては、立憲政治を行うに時機なおやや早きの嫌いありとしても、今日これを行わねばならぬという勢いに迫られて居る。しかしてこれ実に世界の大勢にして今更反抗し得べからずとすれば世の先覚者たる者はすべからく一方には憲政の創設確立に尽力すると共に他方には進んで国民教導の任に当って一日も早く一般国民をして憲政の運用に堪うるものたらしめんことを努むべきである。これを努めずんば、たとえ一方において立憲政体の形式極めて完備すといえども、他方その運用は決して円満完全なるを得ない。故に憲政有終の美を済すの根本の要件は、殊に政治上の後進国においては、国民一般に対する智徳の教養を第一とする。しかしてこの国民智徳の教養ということは、実は一朝一夕の事業ではない。顧みて我が国の状態を思うに、吾人は国民の準備未だ整わざるに早く憲政を施行したるが故に、今や破綻はたん百出、経世の志ある者をして日暮れ途遠しの感を抱かしむるのである。が、しかしながら、今更針路を逆転して昔の専制時代にかえることも出来ない。しからば吾々はますます奮って改善進歩の途を講ずるより外致し方が無い。しかしてこれがためには、ただに政治家ばかりではない、実にまた教育家・宗教家その他社会各方面の識者の共同的努力に俟つこと極めて大なるものがあるのである。
 同じく立憲政治のやや完全なる形式を備えながら国民智徳の高いと低いとの差によって憲政の運用上両極端の現象を呈して居るものは北米合衆国と墨西哥〔メキシコ〕とである。この両国は新大陸において南北相隣して居るだけ、その対象の色彩が極めて著しい。北米合衆国は、いうまでもなく憲政の運用に最もよく成功し、物質的方面においても精神的方面においても、今日国運の興隆頗る目覚ましいものがある。一部の人は亜米利加アメリカの最近の政治は、国民中の多数を占むる労働者その他の下層階級の専恣せんしに媚び段々に政治の質が下落したという。けれどもこれは全然誤りである。政治家が労働者の意思に迎合するの傾向あるは事実に相違ない。まったく労働者の意を迎えずしては、政治家として到底その志を伸ぶることは出来ないようである。しかしながら亜米利加の政治家はいたずらに労働者に迎合するもののみではない彼らは労働者の投票によって志を伸べんとするものであるけれども他の一方においてはまた労働者の友となり労働者の先覚者となってその精神的指導者たらんとするの抱負を有するものである。亜米利加の政治家は、形式的には労働者のしもべなれども、実質的においては労働者の指導的精神である。労働者もまた、形式的には政治家を役して我が用をなさしむるけれども、精神的には政治家の人格言論を理解し判断し、その最良なる者に聴従して自家の立脚地を定むるだけの見識を有って居る。さればこそ労働者の勢力を占めて居る国でありながら、ルーズヴェルトの如きまたウィルソンの如き曠世こうせいの英雄が国家最高の地位に挙げらるるのである。我々は、亜米利加の最近の政治において決して憲政の失敗を認むることは出来ないのである。これに反して墨西哥の方は如何いかんというに、近年新聞紙上にあらわるる電報によっても明白なるが如く、年が年中紛乱を重ね、国民はために非常な塗炭の苦しみをめて居る。顧みれば墨西哥は建国以来ほとんど変乱の絶えたことはない。この国が西班牙スペインから独立したのは今より約百年の昔であるが、それ以来今日まで大統領の地位は常に血を以て争われ、歴代の大統領中無事に天命を全うし得た者は極めて少ない。多くは暗殺の厄にかかり、さらでも海外に放逐せられて悲惨なる最後を遂げたのである。最近ポルフィリオ・デアスは三十余年の永きにわたって大統領の地位を専占し、その間墨西哥の平和的産業の発達を計ったというけれども、この三十年間の継続的平和も、畢竟ひっきょうは反対党の買収、投獄、放逐、暗殺等によってあがなったもので、決して健全なる平和ではなかった。一九一一年、多年時めいたデアスもマデロの逐うところとなってより、紛乱は再び始まった。マデロはまた一昨年の二月幕将ウェルタの殺すところとなり、ウェルタに対する憲政軍の反抗となり、一転してまた憲政軍の頭目カランザとヴィアとの反目抗争となり、一昨年の五月ウェルタの外国に亡命してから昨年の六、七月頃までの間に、首府墨西哥の主人を代うること前後八回の多きに及んだ。去年の秋米大陸諸国が協議の上カランザを承認しこれを助けるという事にしたから、これより段々収まりがつくかも知れないが、しかし隣邦合衆国の如き幸福な政治を見るに至る見込の極めて遠きことは、もとより言うを俟たず、否多少の紛乱は今後しばらくは続くであろうと思う。かくの如くにして国民は今や戦乱の蹂躪じゅうりんするところとなって実に名状すべからざる惨況にある。かくの如く相隣しておりながら一方は隆々たる勢いを以て栄え一方は紛乱に紛乱を重ねて居るものはそもそも何の理由によりて然るか。憲法上の制度は、墨西哥の方は全然合衆国を真似たのであるから、形式的設備の点よりいえば両者全然同一である。しかもかくの如き両極端の差を生ずる所以のものは、これ畢竟両国民の智徳の程度に大なる高低の別があるからである
 しからば何故相隣して居る国なるに拘らずこの両国民はかくも大なる差を生ずるに至ったかというに、これには深い歴史上の原因がある。第一には、これらの両国は申すまでもなく欧羅巴人の移民によって建った国であるがそれら移民の本国が各両国において同一でない。亜米利加大陸は、ちょうど合衆国と墨西哥との国境線を堺とし、北部は初めより主として英国のいわゆるアングロ・サクソン族の移住し来ったところであり、南部は総て==ブラジルが葡萄牙ポルトガル人の移民より成るの唯一の例外を除き==専ら西班牙よりの移住民である。この点より言えば、墨西哥と合衆国との差はちょうど西班牙と英国との差と同じ事である。今日欧羅巴において、英国人と西班牙人とはその政治的能力において大なる逕庭けいていありとせられて居るが、この差異が新大陸にも反映して居るのである。第二に、これら両国よりの移住民は元来本国においていかなる階級に属しておったかというに合衆国に移住した英国人は本国において概して最も優等なる階級に属しておったものである。彼らは官位財宝においてこそは、何ら優るところあったものではないが、智識道徳の点においては全英国民中最も卓抜せる階級に属するものであった。即ち彼らはピューリタン(清教徒)である。そもそも米国建設の初めをなす者は、本国における宗教的圧迫の苦痛を脱せんがために一六二〇年九月メー・フラワー号(「五月の花号」)に搭乗して英国の港プリマウスを出帆したる、かの七十四人の男子及び二十八人の婦人より成るいわゆるプリグリム・ファーザースの一団である。彼らが清教徒として基督キリスト教徒中最も厳格なる生活を営み、最も熱烈なる信仰を有するものなることはすでに我々の知るところ。しかして彼らは実に北米の地に一新自由境を開拓して神意の完全なる実現を期せんとの、大抱負を以て移住して来たのである。これが今日なお合衆国民の中堅をなすものである。もとよりその後各国の種々様々の移住民が這入はいって来た。これによって合衆国民の品位は多少下落しつつありまたは少なくともその憂いありと言われては居るけれども、今日なおこの清教徒の理想と抱負とは、他の移住民をも同化せずんば止まざらんとするの勢いを有って居る。これに反して墨西哥の移民は如何というにこの方は本国における無頼の徒にあらざれば労働者あるいは兵卒等皆下層階級の者が主となって居る。元来移住民というものは下層社会から出るのが常で、合衆国の如きはむしろ稀なる一変例である。墨西哥のは普通の場合と同様で、さらでも英国人よりは劣る西班牙人中の、その中の殊に劣等なる階級から出て来たのであるから、この両者の間に大いなる差異のあるのは止むを得ないのである。終りに第三に、これら両国移住民の移住後における家族関係の点もまた参酌する価値がある英国より渡来し来った者は本国における宗教上の圧迫をのがれ自由の新天地を拓かんとして渡来した者なるが故に概してみんな家族を率いて移住して来た然らざるも守操堅固なる清教徒の事なれば移住後も土人と結婚するというが如き者は一人もなかったしかるに墨西哥に移住した者は労働者兵士等皆妻子を有って居る者ではないのみならず道徳上何ら守るところあるものではなかったからたちまち土人と雑婚しために多くの混血児を生じた。今日いわゆる墨西哥人というのは、これら混血児の事である。しかしてこれらの混血児は、ただ両親の弱点のみを伝えて、道徳的品性においては最も劣って居るものである。これをかのピューリタンのともがらが、人種の純潔を保ちつつその高尚なる理想を子孫に伝えたのに比すれば、もとより同日の談ではない。
 かくの如く米と墨とは国民の値打においてすでに大いなる逕庭がある。従って墨西哥において憲政の運用に多少たりとも成功せんとせば、殊更国民の教養に尽力するという必要があるのに、建国以来同国の先覚者はこの大責任を切実に感じなかった。亜米利加の建国には、ジョージ・ワシントンの如き高潔なる人物があるのに、墨西哥の建国はイツルビーデと[#「イツルビーデと」は底本では「イツルピーデと」]いう、自ら新大陸の那翁〔ナポレオン〕と称し、野心と虚栄と俗望とを包むに悪辣なる手腕を以てした一奸雄かんゆうを以て始まって居る。これ墨西哥が紛乱に紛乱を重ねて、到底近き将来において憲政の運用に成功する見込なしとせらるる所以である。
 これと同じような事は、今日までのままで進めば、支那についても言えると思う。これを要するに殷鑑いんかん遠からず、我らの近くに在り。我々はこれらの例に徴して、切に憲政の成功にはいかに国民の教養が先決問題として肝要であるかを知らねばならぬ。
 立憲政治成功の第一要件は、国民の教養にある事前述の通りである。しかしてこれは各方面の識者の共同努力によって初めて成就せらるべき問題である。故にこの点は、極めて重要にして且つ根本的な問題であるけれども、一政論家としての予輩が特に説かんとする方面ではない。国民的教養という事は、吾人もまた国民の一として、その一部分を分担して共に大いに尽力せんと欲するものではあるが、しかしここに特に説かんとするのは、主として直接に政治に関係する方面である。即ち国民文化の発達の程度が相当の域に達し、または国民的教養の事業が現に多くの識者によって熱心に努力せられて居るという前提の下に、更に憲政の円満なる成功を見るためには、憲政に伴う諸制度にいかなる改善を加うる事を要し、またその運用の任に当る政治家はいかなる心掛を持つべきかという方面を、特に説かんとするのである。ただこの方面を細論するにくわしき結果、国民的教養の先決問題たる所以を看過せらるるは予輩の本旨にあらざるが故に、ここに本論に入る前に、まず以て管々くだくだしく国民的教養の必要を説いた所以である。

憲政とは何ぞや


 憲政、即ち立憲政治または憲法政治というのは、文字の示す通り「憲法を以てする政治」、「憲法に遵拠して行うところの政治」という意味である。そこで憲政という時は、ここに必ず憲法の存在を予想する。このいわゆる「憲法」なるものの存在すると否とが、実に立憲政治と他の政治とを分かつ標準である。しからばここにうところの「憲法」とはいかなるものか。この憲法というものの意味を明らかにせざれば憲政という意味もまた明瞭にならない。
「憲法」という言葉を単に字義の上から解釈すれば、「国家統治の根本法則」ということになる。しかし憲政という場合における「憲法」は単にこれだけの意味ではない。何となれば、この意義における憲法は、いやしくも国家の在るところには必ず存在するものであって、時の古今、国の東西を分かたないからである。すべての政治をあらかじめ定めた法律に遵拠して行うといういわゆる「法治国」の思想は、比較的に新しいものであるが、この法治国思想の起らない前といえども、国家統治の根本の原則というものは大抵の国においては存在するを常としておった。故に憲法の意味を単純に文字通りに解釈しては、近代における特別の現象たる立憲政治の意味をば明白にすることは出来ない。もちろん憲法といえば必ず国家の根本法則でなければならぬ事は論ずるまでもないただ近代の政治上の言葉として憲法という時はなおこの外に他の要素をも加味して居るものでなければならぬのであるくわしくいえば、国家の根本法則たる性質を有し、しかも更に他の特別の要件を具備するものを「憲法」というのであると見なければならぬ。こういう意味の「憲法」を有する国を我々は立憲国といい、またこの憲法によって行う政治を立憲政治というのである。我々が立憲国といいまた立憲政治といってここに一種の特色を認むる所以のものは、即ちその標準となるところの「憲法」そのものが一種特別の要件を有して居るからである。しからば問う我々のいわゆる憲法とはいかなる要件を備うる国家の根本法則を指称するのか。この問題に対し、予輩は次の二種類の要件を以ていわゆる憲法の特色なりと答うる。
 第一いわゆる憲法は普通の法律に比して一段高い効力を付与せらるるを常とする憲法の効力が法律よりも強いとか高いとかいう事は普通の立法手続では憲法の変更は許されないという事を意味するのである。法律は同じく法律を以て廃止変更する事は出来るが、独り憲法は普通の法律を以てこれを改廃する事は出来ぬ。例えば我が日本の制度においては、普通の立法手続はまず両院において各々出席議員の過半数を以て議決し、次に、天皇の裁可を得て完成するのであるが、憲法の改廃に就いては特にその手続を鄭重にし、両議院各々その総員の三分の二以上出席し==普通の場合においては総議員の三分の一以上の出席を以て足るが==且つその出席議員の三分の二以上の多数を得るにあらざれば議決をする事が出来ぬとなって居る。その外憲法の改正については、発案権は両院に与えていないとかその他いろいろの特別の制限があるが、これと同じような特別手段の規定は他の各国にもある。もっともいわゆる不成典主義の国においてはもとよりかくの如き特例は無い。不成典主義というのは、我が国の憲法の如く憲法的規定即ち国家統治の根本的諸規定の全体もしくは大部分を一個の法典にまとめていない場合をいう。かくの如き主義の下においては、いわゆる憲法的規定は普通の法律や裁判の判決や政治的慣行等の雑然たる集合の中に存在しているのであるから、もとより普通の法律で従来の憲法的原則を動かしあるいは新たに重大なる憲法的原則をめる事も出来る。しかしこれは例外に属し、普通の常例ではない。現今不成典主義を採って居る国は、文明国中では英吉利イギリス洪牙利ハンガリーとの二者に限り、他はことごとく成典主義を採って居る。この成典主義を採って居る国においてはほとんど例外なく皆憲法に普通の法律よりも強い効力を付与している
 何故に憲法の効力を普通の法律よりも強いものにして居るか一つの理由は憲法が国家において最重要の根本法則であるからである。国家の根本法則は極めて大事なものなる故に、これを普通の法律から区別する方がよいという考えは、実は昔からあった。しかし近代の国家が特に憲法を重しとする所以は右の理由の外にもある即ちせっかく憲法に由って定まった権利の畛域しんいき後から軽々しく蹂躪せられまいとする考え即ちこれである。近代の憲法は、表向きは何といっても、実際のところは従来政権を壟断ろうだんしておったいわば特権階級とでもいうべきものに対する、民権思想の多年の奮闘の結果として現われたものたる事は疑いはない。もっとも見様によっては憲法の発達には三様の別があるということも出来る英国の如く永き漸進的の争闘の結果徐々に進化したもので、亜米利加におけるが如く本国の覊絆きはんを脱して逃れ来れる自由民によって新たに創設せられたるもの、仏蘭西〔フランス〕を筆頭とする欧羅巴大陸の如く、革命の直接または間接の結果として急激に勃興発達したものである。右の中、亜米利加における憲法は、自由民がまったく新しき天地に始めて創設したもので、何も在来の特権階級とこれを争うたというのではない。これに反して外の多くの諸国の憲法は、英国のそれの如き漸進的なるものと仏蘭西のそれの如き急激的なるものとの差はあるけれども、上下両階級の争闘の結果であるという共通の特色をって居る。更に露骨にいえばこれらの国における憲法は、いわば古い上の階級と、新しい下の階級との争いのその妥協の成果であると見ることが出来る。しかしてその妥協たるや、当時の相争う両階級の勢力の関係で必ずしもその趣を一にしない。即ちあるいは古い階級の方が他日この上権利を縮められはしないかと恐れる場合あり、またあるいは新しい階級がせっかくこれまで押通して来たのに他日再び押戻さるるような事があるまいかと心配する場合もある。その心配するものがいずれの一方であっても、とにかく他日この上にも不利益な境遇に陥れらるる事を避けんがために、出来るだけ現状の変更をむつかしくして置こうという考えになった。しかし大体においては、古い階級は防禦者であり、新しい階級は攻撃者であるを常とする。従ってこの争闘において新しい階級は、常に新進気鋭の元気を有するに拘らず、古い階級の如く歴史的、社会的の便益に乏しきの結果として、とにかく捗々はかばかしき勝利を得にくいものである。時勢の後援によってヤット一歩進んでも、いつその領分を奪還せらるるかも分からない。しかしてこの新しき階級に向ってその一旦占めた領地を安全に保護してやるものは即ち憲法である。かくして憲法変更の手続というものは、自ら普通の法律よりもむつかしく定めらるるという事に成ったのである。故に憲法の効力が普通の法律よりも高いという事になった政治上の理由は、俗用の言葉をりていえば、民権の保護に在るといえる。憲法のこの形式的効力は、政治上においてこの意味に運用せられねばならぬものである。
 第二には憲法はその内容の主なるものとして(イ)人民権利の保障(ロ)三権分立主義(ハ)民選議院制度の三種の規定を含むものでなければならぬ。たとえ憲法の名の下に、普通の法律よりも強い効力を付与せらるる国家統治の根本規則を集めても、以上の三事項の規定を欠く時は、今日これを憲法とはいわぬようになって居る。従って憲政という時は、我々は直ちに人民の権利とか、独立の裁判権とか、民選議院とかいうような事を連想するのである。つまりこれらの手段によって我々の権利自由が保護せらるる政治を立憲政治というのである。今これを一つ一つ簡単に説明することにしよう。

(イ)人民権利の保障

 日本の憲法にあっては特に第二章に臣民の権利義務と題して十五カ条の規定が集められてある。題目の示す通り、その中には義務の規定も含まれてあるが、大部分は居住移転の自由とか、信仰の自由とか、言論、著作、印行及び集会、結社の自由とか、所有権とか、信書の秘密を侵されざるの権利とか、すべて国民の物質的並びに精神的の幸福進歩を計るに欠くべからざる権利自由を列挙し、これらのものは政府においてほしいままにこれを制限しない、制限せんとせば必ず法律の形を以てこれを定むるという事に明定して居る。かくの如き種類の規定、即ち右列挙するが如き重大な権利自由は政府が議会に相談することなしに勝手にめることはせぬ、必ず法律でめるというような規定は、各国の憲法においてその最も重要なる部分としてあまねく掲げられて居るところのものである。法律でめるというは即ち議会が参与するということである。議会がこの事にあずかるのは、取りも直さず、議会に代表者を送るところの人民が間接にこの重要なる問題の議定に容喙するを得るので、従って人民は間接ながら自家の権利自由を自ら保護する事が出来る理屈になる。こういう趣意でこの種の規定は今日各国の憲法に通有の特徴となって居るのであろう。もっとも特別の沿革的理由によってこれを欠くもの例えば仏蘭西の憲法の如きものもあるけれども大体においてはこの種の規定は近代の憲法には欠く事の出来ないものとなって居るちなみに言う。仏蘭西では一八七〇年第二帝政廃止の後、王政を恢復すべきや、共和制を採るべきやの憲法的問題で非常に議論が長びき、従って憲法制定のためにも五カ年の長い年月を要した。そこで議論の紛々たる部分はそのままとし、差当り欠く事の出来ぬ重要なる原則のみを三つの法律に収めて以て憲法の体裁を作って居る。一つは公権の組織に関する基本法と称し、立法権行政権の分解及びその運用の大綱を定め、第二は元老院の組織に関する基本法と題して主として元老院の事が定めてあり、第三は各種の公権の関係に関する基本法と題して上下両院及び大統領の相互間の関係が定められてある。この三つの法律は皆集まってもいわゆる憲法としての完全な体裁はこれを備えていないのである。けれども仏蘭西は憲法制定においては決して新しい国ではない。否欧羅巴において成文憲法を始めて設けた(一七九一年五月三日)のは仏国である。且つこの第一憲法に先だって既に有名なるいわゆる人権宣言の発布をすら見て居る(一七八九年八月二十六日)。その後憲法を変える事およそ十一回。故に大体憲法はいかなる内容を持つべきかという事は、仏国人の頭には明白に解って居る。故に形式において整わざる憲法でも、仏人はこれを適当に運用するだけの経験はほぼ積んでおったのである。

(ロ)三権分立主義

 三権分立の観念は、理論的に定義すると随分やかましい問題になるが、大体をいえば、行政と司法と立法との三つの作用は別々の機関においてこれを行うという事である。昔の、例えば封建時代におけるが如く、法を作るものも、これを実際に施行するものも、またはこれを個々の場合に当てはめて裁判をするものも、皆同一の人であってはいけないというのである。しかし行政は政府で司り、立法は議会その任に当り、司法は裁判所でこれを取扱うという事は、今日ではほとんど問題にならぬ程自明の理と認められており、今更これを立憲国の特色だなどと取立てていうのは、むしろ野暮臭き感がある。そこで今日憲法の特色としてこの方面で主として着眼せられるのは裁判権の独立という方面である。何故なれば、行政の政府に属し、立法の議会に属するは極めて明白にして各自独立相対峙するの勢力たるも、司法権の独立だけはややもすればしばしば行政権の直接の圧迫を受け、三権分立の趣意が動もすればないがしろにせらるるの恐れがあるからである。けだし司法機関は立法機関と異なり、政府に対して相対峙する関係に立たない。裁判官は一面官吏として政府の系統の中に属する。従って動もすればその左右するところとなるの憂いがある。かくては三権分立の主義が十分に貫徹されない。ここにおいて近代の憲法は裁判機関をば専ら上官の訓令の下に動く行政機関とは全然別種の機関となして独立の判断をなさしむると共に、また裁判官の地位を保障して以て行政官に対する司法権の独立を全うすべく、いろいろ周到なる用意を用いて居る。これまた今日の立憲国の一特徴として挙げられるところのものである。なおついで述べるが三権分立の趣意が司法権の独立という方面に最もよく表われて居る事は総ての国に通じて変らないがただ行政機関と立法機関との関係については今日国によってよほど趣を異にして居る。行政機関と立法機関と独立対峙すべきはもとよりいうをたないが、しかし二者の関係が全然相交渉するところなしとしては、立憲政治の円満なる進行は期せられない。そこで議会に対する政府の責任という問題が起る。しかしてこの問題は議会の反対に逢えば常に必ず政府が辞職するという慣例の出来た国においては、やがて政党内閣の慣行を生じ、しからざる国においても弾劾の制度を見るという風に、立法機関の意思をして結局行政機関を拘束せしむることによって解決せられて居る。この事は後になお詳しく述べる。しかるに北米合衆国の憲法及びこれに倣って作られた中南米諸国の憲法においては三権分立の主義を極端に主張し三つの機関は全然相関係するところなく対立せしめられて居る。亜米利加においては政府と議会との極端なる分離の結果、政府の役人は全然議員を兼ねることを得ず、否、彼らは大統領が教書を以てする場合の外に全然議会に出てその意見をべる事すら許されてない。これがために非常な不便を蒙って居る事は人の知るところである。独り政府と議会との関係ばかりではない裁判所のこの二者に対するまた全然独立である。されば議会の正当に作った法律でも、高等法院がこれを憲法違反なりと宣言すれば、一方には完全なる法律としてその効力を有しておりながら、一方には裁判所はこれを無効の法律としてその適用を拒むという奇観を呈する事もまた人の知るところである。いずれにしても、余りに極端にはしって国政の円満なる進行を妨げて居るが、しかし三権分立の趣意を徹底的に貫こうとすれば、実はここまで行かなければならないのである。かほどの厳格なる意味においてはこの主義は近代憲法の特色ではない。近代憲法の特色としては、主として司法権の独立に着眼すべく、全体としての三権分立主義はこれを大体の観察に止むべきである。

(ハ)民選議院制度

 民選議院制度が近代憲法上の特色として認めらるるに到った所以は、一面においては三権分立主義を執れる結果である。即ち三権分立主義は、立法権の行使はこれを政府・裁判所以外の他の特別機関に委すべき事を主張するからである。しかしながらここに特に民選議院制度を憲法の特色として掲ぐる所以は単に立法権を行うために政府や裁判所とは全然独立の機関として設けられたという点よりもむしろ主としてこの立法権の行使が人民の公選によって挙げられたる議員の団体に任せられて居るという点に存する。故に我々はこの点をば一種別個の特色として掲ぐるのである。しかのみならず、実は世間でもこの点をば他のすべての点に優って憲法の最も主なる特色として認めて居るようである。否往々これを以て憲法の唯一の特色なりとすら考うるものもすくなくはない。それほどにこれが大事な特色なのである。されば歴史上からいっても憲法の要求または憲法政治創設の要求はしばしば我に民選議院を与えよという叫びによりて主張せられておった。現に我が国においても、憲法要求の第一声たる明治七年一月十八日の建議は、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平、小室信夫、古沢迂郎、由利公正、岡本健三郎八氏の署名を以て民選議院設立建白書という形で提出された。また明治十三年四月十七日、片岡健吉、河野広中両氏の連名にて太政官に執奏を願い出でてしりぞけられた第二の建議も、国会開設願望書というのであった。これけだし当時の人々が民選議院の制度を以て立憲政治の全部または少なくともその大部分と考えていたためであろう。この種の考えは無論西洋にもあった。しかしてかかる誤解の生じたのも畢竟ひっきょうこの制度が立憲政治の数ある特色の中特にぬきんでて最重最要のものであったからであるしからば何が故にこれが最重最要であるかというにこの機関のみがその組織に人民の直接に干与し得るものであるからである。他の機関は、政府にしても、裁判所にしても、これを組織するものは政府の任命にかかる専門の官吏である。これら官吏の任命に関して人民はほとんど何ら直接の交渉を持たない。しかるに議会はまったくこれと異なり、これを組織する議員は人民の直接に選挙するところである。従って人民は自由にこれを左右し以て十分に民意を発表せしむることが出来る道理である。もし立憲政治というものが、後にも説くが如く、人民の幸福利益を、人民自らをして主張せしむるために出来たものであるとするならば、民選議院の如きは最もよくその本旨にかなうものといわなければならぬ。こういう理由からしてこの制度は近代の憲法には到底これを欠く可からざるものとして尊重せられて居るこの制度を欠く時はいかに他の制度に関して完備せる規定を設けておってもこれを近代的意義における憲法とはいうことが出来ない
 以上を以ていわゆる近代の憲法なるものの欠く可からざる要件を尽くした。かくの如き要件を具備すれば、ここに憲法が存在するのである。かくの如き憲法を有してこれを政治の遵則とするものを、我々は立憲政治というのである。

憲政有終の美を済すとは何のいい


 以上予はいわゆる憲法なるものの意義を説き、この憲法に遵拠して行うところの政治がいわゆる立憲政治であるという事を明らかにした。しかしここに更に考えねばならぬ事は、いわゆる「憲法に遵拠する」というは一体何を意味するかという事である。そもそも憲法に遵拠するという事は先にも述べたるが如くただ憲法法典を制定しこれに基づいて種々の政治機関を組織するという事だけではない。即ちあるいは議会を作り、あるいは裁判所を設け、以て憲法法典中にそれぞれ規定するところを形式的に充たすというだけではないのである。もとより憲法は千載不磨の大典である。その条項はみだりにこれを紛更するを許さない。また勝手に曲解してもならぬ。その規定するところの条文には最も忠実に従わねばならぬこともちろんである。が、しかし、ただその条項に形式的に忠実ならんとするのみが憲政の全部と思うならば、これ大なる誤りである。しかるに憲法創設の当時は多くの人は皆この誤解に陥った。憲法という法典さえ発布になれば、我々は一転して黄金世界に入る事が出来る。議会さえ開くれば我々は一躍して十二分の幸福をくることが出来ると考えた。憲法の発布、国会の開設というものその事に、不当に過大なる期待をかけたということは、我が国でもそうであったが西洋でもまた同一、いわゆる東西その軌を一にしておったのである。西洋の或る国ではいよいよ憲法が発布になったというので、これを人民に知らすところの新聞号外は、翌日あしたからパンの値段が半分に下がるとか、牛乳がただで飲めるとか書いてあったそうだ。ツマり非常に生活を楽にするところの一種天来の福音として憲法を迎えたのであった。これと同じような話が、明治二十二、三年頃の我が国にもあったことは人の知るところである。しかしながら単純なる憲法の発布単純なる議会の開設はそれだけで以て直ちに人民の権利自由を完全に保障し我らの生活を十二分に幸福になし得るものではない制度そのものはそれだけでは決して吾々に実質的の利益を提供するものではないのである。これもとより明白なる道理である。果たせるかな爾後じごの経験は明らさまにこの道理を吾人に示した。けれども初め人々はこれに多大の期待をけたので、その期待の空に帰するを見るや、彼らは大いに失望した。しかして期待の大なりしだけ、また落胆は実に非常なるものであった。西洋では失望が転じて呪詛じゅそとなり、呪詛は再転して憤激となり、ために第二の革命を起したような例もある。要するに憲法施行後の暫くの経験は吾人に教うるにこれによって多大の幸福をもたらし得べしとする当初の信念の妄なることを以てした。かくして我らは憲法施行後の経験によって、制度の確立そのものは、未だ以て十分に人民の権利自由を保障しその幸福を進むるものでないという事を悟った。少なくとも在来の制度は決して満足なるものでないということをつくづく感ずるに至ったのである。
 憲法の制定・議会の開設そのものが我々の期待にそむき、我々に失望を与えたということから来るところの我々の不満に、細かく見ると自ら二つの種類がある。第一は、いわゆる従来の憲法的制度というものは本来我々の権利を保障し我々に幸福を来すものではないこれによって自由幸福をち得べしと考えたのがそもそもの誤りであるという説であって、即ち全然憲法制度の効用を否認するものである。予はこれを名づけて絶対的悲観説といおう。もっともかくの如き極端な説は、欧米においてもいわゆる識者という階級からはあまり唱えられていないようだ。ただ不幸にして我が国においては今日なおこの種の信者を少なからず見るのであるが、しかしこの説のあやまりなる事は深く論ずるの必要はなかろう。仮りにこの説に多少の真理ありとしても、今更憲法をやめて昔の専制政治にかえるという事は事実不可能であるから、我々は、憲法政治はもはやこれを廃止するを得ずという前提の上に立って、国家の繁栄と人民の幸福とのためにおもむろに最善の努力を加うべきでないか。第二の不満は、現在の憲法的制度を以て必ずしも第一説の如くその本来の目的を達するに適せざるものと視るのではないがただその制度に欠点ありまたその運用の方法に適当ならざるところありしがために予期の如き成績を挙げないのであると観るの説である。前者の絶対的に対して予はこれを相対的悲観説と名づけたい。これはもとより一種の悲観説ではあるけれども、現在の制度に幾多の改善を加え且つその運用を適当に指導するときは、自由の保障、幸福の増進という本来の理想を実現すること必ずしも不可能にあらずと信ずるものであるから、一面においてまた一種の楽観説であるともいえる。この説は今日多数の人によって唱えらるる通説である。しかしてわがいわゆる憲政有終の美を済すの論は実にこの説に根拠して起るものである。何となればこの説は多少の努力を条件として結局の成功を信ずるの立場に在るからである。
 いわゆる憲政は憲法の制定を以て初まる、けれどもその有終の美を済すには実に国民の多大の努力奮闘を要すること前述の通りである。一挙にして有終の美を済し得ざるところに、わば憲政の有難味があるとも言えるのであろう。要するに我々は立憲治下の国民として、その有終の美を済すためになお一層努力せねばならぬ。しかしながらその努力は盲目的ではいけない一定の主義方針に基づく奮闘努力たるを要する。しからばその一定の主義方針とは何であるかというに、これは言うまでもなく、もともと憲法の制定を見るに至らしめた根本の思想でなければならぬ。いわゆる憲法の奥の奥に潜んで居るところの根本精神でなければならぬ。この根本の精神に従って、我々は制度の足らざる所に改善を加え、且つその運用を適当に指導する事に全力を注がなければならない。一言にしてこれをいえば、いわゆる立憲政治は憲法の条文に拠って行うところの政治なると共に、またその精神に拠って行うところの政治でなければならぬ。我々は憲政の運用に当って、憲法法典細かに定むるところの規定と相背いてはいけないが、更に進んでその規定の裏面に潜む精神にうて居るかをも深く省察せねばならぬ。憲法法典の条項は法律学者にとってはなるほど唯一の大事な典拠であろう。しかし憲法政治の成果そのものを大事とする我々国民にとっては、条項よりも実はむしろその精神が大事なのである。もとより条項を離れて精神がないとも言える。しかし条項の活用もまたその精神をよく酌み取るにあらずんば、決して正しきを得ることは出来ない。これ今日欧米各国において、相当に完備せる憲法法典を有するに拘らず、その運用の得失について絶えず問題の起る所以である。憲法の未だ布かれざりしいにしえにあっては、憲法を与えよというて天下の人は争った。憲法のすでに与えられた今日においては、更にその精神に遵拠してこれを運用せよというて、天下の物論は依然として囂々ごうごうたりである。憲政の前途もまた多事なりといわねばならぬ。
 しからば憲法の精神とは何か。これは一概に論ずる事は出来ぬ。国によって必ずしも同一ではない。詳細の事は個々の憲法につきその条項をつまびらかに研究し、またその制定の来歴をも明らかにして、初めてこれを知るべき問題である。しかしながら総ての憲法に通ずるいわゆる立憲政治一般の根拠を成すところの精神というものは大体においてまたこれを知る事が出来ぬでもない。けだし近代の憲法政治は疑いもなくいわゆる近代の精神的文明の潮流と離るべからざるの関係にある。近代文明の大潮流が滔々とうとうとして各国に瀰漫びまんし、その※(「酉+慍のつくり」、第3水準1-92-88)うんじょうするところとなって憲法政治は現われ出たものである。されば近代諸国の立憲政治には共通の一つの精神的根柢の存する事は争われない。もっとも旧時代の遺物たる特権階級の今日なお勢力を振るう国においては、世界の大勢に促されて憲法を発布したるに拘らず、依然これを旧式政治の思想を傷つけざるように運用せんと欲して、自国憲法の精神が、何ら他国の憲法と共通なる基礎を有せず、むしろ自国特有の色彩を有する旨を誇示高調するものも少なくはない。我が国において往々見るが如き、純然たる国民道徳の基本観念たるべき国体観念を憲法学へ援引して、西洋流の立憲思想による憲法の解釈を阻まんとする風潮の如きは即ちこれである。露国などもまたこれと同様で、殊更に西欧憲法に通有なる諸原則の適用を阻まんがために、わざわざ共通の称呼を捨てて、古風な文字を憲法条文中に使って居る。かくの如く、人によっては、各国立憲政治の共通なる精神的根柢の上に築かれたという性質を承認しないものがある。しかし少しく近代の文明史に通ずるものは諸国の憲法一として近代文明の必然的産物たらざるなきことを認めざるを得ないこれまた史実の明白に我々に示すところでもある。もとより各国それぞれの憲法は、一面共通なる精神を基礎とすると共に、他面各々その国特有の色彩を帯びて居る事は論をたない。これら各国特有の色彩は、これを概括する事はもとより困難だが、その共通なる精神的根柢に至っては、近来世界の文明史上より推断してこれを知る事が出来る。これ実に近代の憲法を理解し、その運用を指導する上に極めて必要なる準備智識である。いわゆる憲政有終の美を済すの途は、実にこの共通の精神を理解する事を以て始まらねばならぬ。しかして予はこの各国憲法に通有する精神的根柢を以て民本主義なりと認むるものである

憲政の精神的根柢==民本主義


 民本主義という文字は、日本語としては極めて新しい用例である。従来は民主主義という語を以て普通に唱えられておったようだ。時としてはまた民衆主義とか、平民主義とか呼ばれたこともある。しかし民主主義といえば、社会民主党などという場合におけるが如く、「国家の主権は人民にあり」という危険なる学説と混同され易い。また平民主義といえば、平民と貴族とを対立せしめ、貴族を敵にして平民に味方するの意味に誤解せらるるの恐れがある。独り民衆主義の文字だけは、以上の如き欠点はないけれども、民衆を「重んずる」という意味があらわれない嫌いがある。我々が視て以て憲政の根柢となすところのものは、政治上一般民衆を重んじ、その間に貴賤上下の別を立てず、しかも国体の君主制たると共和制たるとを問わず、あまねく通用するところの主義たるが故に、民本主義という比較的新しい用語が一番適当であるかと思う。
 民本主義という言葉は、実は西洋語の翻訳である。この観念の初めて起ったのが西洋であるので、我々は観念そのものと共に名称をも西洋から借りて来た。西洋ではこの観念を表わすに、デモクラシーの文字を以てして居る。民本主義は即ちこの語の翻訳である。西洋でデモクラシーという言葉は、聞くところによれば希臘ギリシャ語から起って居るそうだ。希臘語でデーモスというのが人民で、クラテオというのが支配の意味。この二つから成ったのであるから、デモクラシーとは、要するに「人民の政治」の意味である。今更事新しく説くまでもないが、古代希臘の国家は、今日欧米諸国に見るが如き莫大な地域を有するものではなかった。周囲に多少の属領地を有するささやかな都会そのものが即ち独立の国家であった。従って都会の市民が概して言えば国民の全部であった。しかして地域も狭く、人数もさほど多くないから、これらの市民は総て直接に市政即ち国政に参与することが出来たのである。当時希臘以外の他の多くの国家においては、一人もしくは数人の英雄が、君主または貴族の名において国家を支配し、人民はただこれに盲従するのみであったのに、独り希臘の諸国家においては、人民自ら政治するという特色を持っておった。この特色ある政体を指称するがためにデモクラシーという言葉が生まれたのである。もっとも近代の国家と古代希臘の国家とは、今日色々の点において非常な差異があるから、古代の国家に通用する観念を、直ちに今日の国家に当てめることは出来ない。けれども人民一般を政治上の主動者とするという点だけは、昔の希臘も今日の欧米諸国も同一である。そこで我々は今日の国家の政治上の特色を言い表わすに、昔の希臘に起った文字をそのまま借用するのである。
 しかるに洋語のデモクラシーという言葉は今日実はいろいろの異なった意味に用いらるる。予輩のいわゆる民本主義は、もちろんこの言葉の訳語であるけれども、この原語をいつでも民本主義と訳するのは精確でない。デモクラシーなる言葉は、いわゆる民本主義という言義の外に更に他の意味にも用いらるることがある。予輩の考うるところによればこの言葉は今日の政治法律等の学問上においては少なくとも二つの異なった意味に用いられて居るように思う一つは国家の主権は法理上人民に在りという意味にまたモ一つは国家の主権の活動の基本的の目標は政治上人民に在るべしという意味に用いらるる。この第二の意味に用いらるる時に、我々はこれを民本主義と訳するのである。第一の意義は全然別個の観念なるが故に、また全然別個の訳語を当て嵌めるのが適当だ。しかして従来通用の民主主義という訳語は、この第一の意味を表わすにあたかも適当であると考える。従来我が国では、西洋でこの間の区別を顧みず、ただ一概にデモクラシーと称えたと同様に、第一の意味に用いられた場合も第二の意味に用いたる場合も、等しくこれを民主主義と訳したのであった。かく一つの呼び方のみを以てしては、明白に異なった二つの観念を錯乱混同するの弊害あるのみならず、また民主という名目のために、民本主義の真意の蔽わるる恐れもある。故に予は等しくデモクラシーという洋語で表わさるるものでもその意義の異なるに従ってあるいは民主主義あるいは民本主義とそれぞれ場合を分かって適当な訳字を用うることにしたいと思うのである
 民本主義と民主主義とは、明白に別個の観念ではあるが、西洋で同一の言葉を以て言い表わされただけ、その間の関係がまた極めて近いものがある。従って民本主義の何たるやを解するには、一通り民主主義の何たるやを明らかにする事が必要であり且つ便利でもある。いわんや我が国においては、民主の名に妨げられて、民本主義の適当なる理解を有せざるものが少なくない。ために民本主義の発達は幾分阻礙そがいせられて居るの嫌いなきを得ない。故に国民をして、民本主義の正当なる理解の上に憲政の発達のために尽力せしむるという見地から見ても、この二者の区別を明らかにすることは極めて必要であると信ずる。

民本主義と民主主義との区別


 民主主義とは、文字の示すが如く、「国家の主権は人民に在り」との理論上の主張である。されば我が国の如き一天万乗の陛下を国権の総攬者そうらんしゃとして戴く国家においては、全然通用せぬ考えである。しかしかくいえばとて、民主主義を云々することが、直ちに君主制の国家に在っては危険なる、排斥せねばならぬ主張であると、一概にいうことも出来ない。何故なれば、この主義にも細かく観れば二つの種類があって、その一方はなるほど国体擁護の立場からこれを排斥せねばならぬものであるけれども、他の一方は必ずしもこれを危険視するの必要はないものであるからである。しからば民主主義の二つの種類とはいかなるものをいうか。
 第一に民主主義は凡そ国家という団体にあってはその主権の本来当然の持主は人民一般ならざる可からずという形において唱えられることがある。これを予は絶対的または哲学的民主主義と名づけたい。これは抽象的に国家の本質を考え、その権力の所在は理論上必ず人民でなければならぬと説くのだから、この立場からいえば、共和国が唯一の正当なる国家であって、君主国の如きは不合理なる虚偽の国家である。君主は人民より不当に権力を奪ったものであるという結論に達せざるを得ない。かかる意味で唱えらるる民主主義こそは、我が国などで容れることの出来ない危険思想である。もっともこの考えは、仏国大革命の前後一時盛んに唱えられ、革命の原因は実にこの説に胚胎はいたいして居るのであるが、今日ではもはや、この説の理論上の欠点は十分に認識せられ、君主国においてはもちろん、民主国においてもこの説をそのまま信奉するものは至ってすくなくなった。ただ一部の極端なる社会主義者の間にこの思想が今日なお幾分残って居る位のものである。社会主義そのものは本来現在の社会組織の維持には反対するけれども、国権の所在を動かすことまでも主張するものではない。ただ現在の社会組織を維持せんとするものは、一般に国権の掌握者の保護の下に社会主義の要求をしりぞくるを常とするが故に、社会主義は一転して民主主義となるの傾きはある。現に西洋諸国の社会党は、多くは社会主義の外に民主共和の理想を掲げて、これを二大根本主張として居る。独逸の社会民主党の如きはその最も明白なる例である。この点において我々は、我が国の当局者が何も危険のない社会主義の学問的研究などを無暗に干渉するのをいささか遺憾に思うものであるけれども、社会主義者の実際的運動に対しては、相当に厳しき制束を加うるのを視て、多少これを諒とせざるを得ないと考うるものである。何となれば、社会主義者の運動は多くの場合において、民主共和の危険思想を伴うこと、従来諸国の例に明白であるからである。現に我が国でも幸徳一派の大逆罪は、社会主義者の間から輩出したではないか。社会主義を真面目に研究せんと欲するものは、深くこの点に注意するを要する。要するに国家の本質を哲学的に考察し、国権は絶対的に無条件的に人民にあらざる可からずと抽象的に断定する時、民主主義は我が国の如きにおいて危険視されまた排斥せられても仕方がないのである。
 第二に民主主義は或る特定の国家においてその国の憲法の解釈上主権の所在は人民に在りと論断するの形において唱えらるる事がある。これを予は相対的または解釈的民主主義と名付けたい。これは総ての国家に通じて主権は常に人民に在らざる可からずと主張するのではない。即ち君主国の合理的存在を否認するものではない。君主国もまた民主国と同じく立派に存在する事を得るが、ただ憲法の解釈上疑いが起った場合に、この国の主権は憲法の解釈の上より見て、人民に在りと解さなければならぬと主張する時、この第二の意義の民主主義が成り立つのである。もっとも大多数の場合においては主権の所在という問題は憲法上初めから極めて明白なるを常とする。例えば我が国においては帝国憲法第一条に、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあり、また第四条には「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とありて、憲法の解釈上毫も民主主義を容るべき余地がない。また仏蘭西北米合衆国に至っては、これに反して主権在民の意義極めて明白。これまた民主主義を認むべきや否やを争うの余地は全然ない。されば憲法解釈上の議論としては、改まって民主主義の主張がしかつめらしく唱えらるる場合は極めて尠いといわねばならぬ。しかしながらこの問題は稀に実際上にまったく起らぬでもない。例えば白耳義〔ベルギー〕の憲法においては、第六十条において立派に世襲君主を認めておりながら、第二十五条においては明白に「総テノ権力ハ国民ヨリ出ヅ」ということを規定して居る。更に第二十九条には、「国王ハ憲法ノ定ムル範囲内ニ於テ行政権ヲ有ス」とある。故に白耳義については一体これを君主国と見るべきや民主国と見るべきやが甚だ明白でない。少なくとも憲法解釈上の一疑問として論究せらるるの価値はある。また英国においては、成文の憲法はないけれども、最近時々国家の権力は国王と貴族院と衆議院とより成るパアリアメントに在りということがいわるる。これは現に一九一三年四月十五日、愛爾蘭アイルランド自治法案に関する首相アスキスの演説の中にも現われておった。して見ると英国においては、国王は唯一の主権者ではないように見える。ここにおいて英吉利においてもまた民主・君主の争いは憲法解釈上の一疑問たるを失わない。これらの場合に英吉利や白耳義の憲法を精細に研究し、その国体を民主なりと論ずるの説がありとすれば、我々はこれに民主主義の名称を与うるに躊躇しない。この種の説が日本憲法の解釈として起ると仮定すれば、これまた一危険思想である。しかし日本憲法をいかに牽強付会しても、こんな説の起りよう筈はない。しかれば日本でこの種の民主主義を云々する場合は、必ずそは専ら外国憲法の研究についてである。それならば何も危険として警戒す可き訳のものではないのである。
 解釈上の民主主義の唱えらるる面白い例は独逸帝国にある。独逸ドイツは二十五の独立国家より成る連邦であるが、纏まっては名称の示す如く帝国である。連邦の首長は普魯西プロシア国王これに当り、子孫相継いで皇帝カイゼルと称することになって居る。して見れば君主国たるに一点の疑いないようであるが、独逸の社会民主党は独り一種違った解釈をこれに下して居る。社会民主党がその根本主張の一として共和主義を掲げて居ることは前に述べた。彼らの主張は凡て国家は元来共和国たらざる可からずというに在るのか、あるいは国家としての価値は君主国体よりも共和国体の方が優って居る、従って共和制を理想とするというに在るのか、この点は些か明瞭を欠くようであるけれども、いずれにしても共和主義を旗印の一つとして居ることは疑いはない。しかるになおその上に彼らは独逸憲法上の解釈として独逸は共和国なりと主張せんとするのである。彼らは曰く、独逸は名は帝国というけれどもその法律上の性質は君主国ではない。なるほどこれを組織する各連邦の大部分は明白に君主国である。独逸を組織する二十五の連邦中には、王国が四つ、大公国が六つ、公国が五つ、侯国が七つ。他の三つはいわゆる自由市と称する共和国である。故に少なくとも二十二の独立君主国を含んで居る。しかしこれらの二十二の君主国と三つの共和国とより成るところの全体は君主国ではなく一種の共和国である。ただ普通の共和国と違うところは、彼にあってはこれを組織する単位が個々の人民であるに反し、此に在りては各独立国家そのものが単位である。されば独逸皇帝は世襲でこそあれまた名をカイゼルとこそ称すれその法律上の性質は共和国の大統領と何ら異なるところはない。プロシア国王として彼は君主の待遇尊称を受け得ること、もとより言をたぬ。しかし独逸皇帝としては彼はハンブルグやブレーメンなどの自由市の市長と何らその資格を異にするものではないと。こういう見解を立てて独逸の社会民主党は独逸の憲法を解して一種の民主共和の原則に基づくものと主張して居る。この説のもとより牽強付会たることは論を俟たず、またこの説を取っては帝国議会の構成等の説明がつかないのであるが、しかし彼らは独逸は共和国なりと前提して実際上いろいろの面白い言動をなして居る。例えば彼らが、党議を以て、皇帝万歳並びに宮廷伺候を禁ずるが如き即ちそれである。日本でも西洋でも、普通友人の間でも万歳という言葉を唱うるのであるが、しかし本来の言葉の起りはただ国君に対してのみ唱うべきものであるそうだ。そこでこの意味における万歳は国君のみ独り受くべきものであるから、大統領の資格を有するに過ぎざる独逸皇帝にはこれを与うべきものではないと、こういう理由から社会党員はいかなる場合でも皇帝万歳を合唱しない。議会の開院式閉院式などで議長の発声で万歳を唱うる場合には、社会党員はこぞって退席するを例とする。もっともこれは独逸におけるのみの例ではない。墺太利オーストリアでも伊太利イタリアでも露西亜ロシアでも同様である。また宮廷伺候即ち国君に対する礼を以て儀式上宮廷に伺候するというような事これも社会党は党議を以て禁じて居る。社会党の全盛を占めて居る自由市の市長即ち一国の大統領に当るべき市長は、天長節その他宮廷の重大なる祝賀に際して、臣礼を以て宮廷に伺候せざるはもちろん、祝電をすら発しない。発すれば必ず自分と同格の他の自由市の市長に発する場合と同じような形式を取る。かつて皇帝が事があってハンブルグに行幸された時、市長が皇帝のために盛宴を張り、その歓迎の辞を述ぶるに当って、『我が同役よマイン・コレーグ』と呼び掛けて、座にある人を驚かしたという話がある。この外社会党は独逸帝国刑法の中から不敬罪に関する項目を除くべしということを政綱の一として掲げて居る。不敬罪は君主的栄誉の反映である。共和国に不敬罪というものはあり得ないという理屈に基づく。甚だしきは帝国議会における予算討議の際、皇室費に関して皇帝の賃銀アルバイツ・ローンが高いとか安いとかいう言葉を使うものすらある。これらは無論甚だ不謹慎な言動であると思うのであるが、社会党の立場から言えば、皇帝を以ていわば共和国大統領視して居るのだから、何も不都合はないと解して居るのだろう。独逸皇帝が社会党を見ること蛇蝎だかつの如くなるはまた怪しむを用いぬ。
 以上の如く民主主義は、あるいは国権の所在に関する絶対的理論として唱えらるることがあり、あるいは特定国家の憲法解釈上の判断として主張せらるることもあるが、いずれにしても、国権の法律上の所在はどこに在るかという問題に関して居る。従ってこの主義が初めから君主国体たることの明白なる我が国の如きに通用のないのは、もとより一点の疑いを容れぬ。されば予が近代各国の憲法==民主国体たると君主国体たるとに論なく==の共通の基礎的精神となすところの民本主義とはその名甚だ似てその実頗る異なることは極めて明白であると信ずる

民本主義に対する誤解


 いわゆる民本主義とは、法律の理論上主権の何人に在りやということはいてこれを問わず、ただその主権を行用するに当って主権者はすべかく一般民衆の利福並びに意嚮いこうを重んずるを方針とす可しという主義である。即ち国権の運用に関してその指導的標準となるべき政治主義であって、主権の君主に在りや人民に在りやはこれを問うところでない。もちろんこの主義が、ヨリ能く且つヨリ適切に民主国に行われ得るは言うをたない。しかしながら君主国に在ってもこの主義が、君主制と毫末も矛盾せずに行われ得ることまた疑いない。何となれば、主権が法律上君主御一人の掌握に帰して居るということと、君主がその主権を行用するに当って専ら人民の利福及び意嚮を重んずるということとは完全に両立し得るからである。しかるに世間には、民本主義と君主制とをいかにも両立せざるものなるかの如く考えて居る人が少なくない。これは大なる誤解といわなければならぬ。
 民本主義に対する誤解の大部分は理論上の根柢なき感情論に出づる場合が多い。殊に従来特権を有して独り政権に参与し来った少数の階級は、その特別の地位を損われんことを恐れて、感情上盛んに民本主義に反抗するのであった。けだし民本主義は特権階級の存在に反抗するものなるが故に、彼らの喜ぶところとならざるはもとより止むを得ない。これらの感情に基づく誤解ないし反抗は、我らのここに理論を以て論駁すべき限りではない。ただこれらの少数の階級は本来多くは国家の先覚者たるべき地位に居るものであるのに時勢の変を知らず大勢の推移に眼を掩っていたずらに旧時代の遺物たる特権の擁護に熱中するのは予輩の甚だ遺憾とするところであるしかのみならず彼らのかくの如き態度は一面また憲政の発達を阻礙すること夥しきものがある。この事は少しく特に論弁するの必要がある。
 元来これらの少数特権階級の連中は憲政の進歩の上に一種特別の使命を有して居るものである即ち彼らは従来国家の待遇殊寵を受けておったその地位を利用し常に一歩民衆に先んじ社会を指導し民衆の模範たるの実力を養うと共に謙遜へりくだってまた民衆の友となり民意の代表者となりて公に役するの本分を有って居るものである。換言すれば社会組織の実質的関係において彼らはくまで民衆の指導的精神たるの抱負を有せねばならぬものである。もっとも彼らは社会組織の形式的関係においては飽くまで民衆のしもべを以ておらねばならぬ。即ち表向きはどこまでも民衆の勢力というものを先に立てながら内実において彼らは民衆の指導者となるべき天分を有して居るのであるこの関係がみだれざるときに社会は健全であり憲政も進歩する。もし彼らにして民衆を率いるの実際の識と能となくしかも傲然ごうぜんとして民衆を支配せんと欲するならば、ここに社会は大欠陥を現出する。民衆と親しまざる少数者と指導者を欠く民衆と両々相対抗して徒に紛更を重ね憲政の進歩発達は停滞せざるを得ない。今日憲政の運用※(「足へん+它」、第3水準1-92-33)さたとして振るわざる国は多くはこれらの特権階級が徒に旧時代の夢想に耽るところの国である。過去において彼らは形式的制度の上で一般人民の支配者であった。新時代においては彼らは実質上の精神的支配者たるに甘んじ、またこれを以てその天分と為し、形式的支配者の地位はいさぎよくこれを人民に譲らなければならない。時代の変遷に応じて彼らの態度彼らの心事に一変遷を見ざる以上は憲政の真の発達は期せられない。世人ややもすれば憲政の発達今日意の如くならざるは国民の思想の進歩せざるに在りという。しかしながら国民思想の進歩すると否とは、実は先覚者がこれを適当に指導するや否やによって定まる。少数の先覚階級が依然固陋ころうの見解を改めずしては、いかに口に立憲思想普及の必要を唱えても、国民一般の心裡に健全なる政治思想を扶植することは出来ない。この点において予は社会の上流に居る少数の賢明なる識者階級に向って彼ら自身の立憲思想の真の理解とまた民衆に対する指導の職分の自覚とを希望せざるを得ない。いわんや、国際競争の激烈なる今日、国民の自覚自開によって国家の内面的勢力を充実するの極めて必要なる今日に在っては、これら先覚者の指導によって国民の自奮を促すこと実に焦眉の急に属する。鎖国時代ならば、日本には日本の特色があるとか、支那には支那の特色があるとかいって、世界と没交渉に各々独自の方向を歩んでおってもよかったろう。しかし今日の時勢は、断じてこれを許さない。我々は今や世界と共に進歩し、世界と共に同じ途を競争せねばならぬ運命に置かれてある。
 感情論に基づく誤解の外なお相当の理論的根拠に基づいてあるいは少なくとも相当の理論的根拠に基づくの外観を呈して民本主義を難ずるの議論があるその一つは民本主義と民主主義とを混合し少なくともその間の区別を明白に認識せずしてこれを以て恰も主権在君の大義にもとる説なるが如く考うるものである。従来の用語例では、ただ一つの民主主義という言葉を以て二つの異なれる観念を言い表わしておったのであるから、従ってこの種の誤解を抱くものの在ったのも無理はない。しかしこの考えの誤りなる事は前に述べたところでも明らかであるから、ここに再びこれを論弁せぬ。第二は民本主義発達の沿革に徴して民本主義は常に必ず民主主義と提携するという事実に基づきこの点において君主制と相容れないと観る考えである。この一派は更に主張していう。民本主義の確立は革命という階段を経た。しかして革命は民主主義の流行に基づいて居る。かくして民本主義は歴史的に見れば民主主義と明白に分化せずして共存しておった。ただに過去の歴史において然るのみならず、今日でも民本主義の要求はその激するところ往々にして民主的革命的傾向を帯び易い。即ち民本主義は民主主義を伴い易いのである。して見れば民本主義と民主主義とは理論上明白に別個の観念であるとしても実際の運動として現わるる時は二つのもの必ず一所になる因縁を有して居ると。この説は或る点までは真理である。なるほど憲政発達の歴史を見ると、多くは革命という階段を経て居る。前に述べた通り、近世憲法の発達は細かく見ると三つの違った径路を取っており、その中、米国系統の憲法は何ら抗争すべき特権階級のない新天地に現われたのであるから、この方にはほとんど革命という階段はない。革命という危険な経過を取っていない代り、始めから人民主権の原則に基づいて居るので、米国流の憲法の下においては民本主義と民主主義とは適用上明白に区別して認識されていない。これに反して大陸諸国の憲法は、しばしば述べた如く、特権階級に対する民権の抗争の結果として現われたものであるから、その程度に緩急の別はあるけれども、いずれも共に革命という順序を経て居る。英国は比較的徐々に進歩したものであるけれども、しかし革命的民主思想の発現は歴史上にしばしばその例を残して居る。もしそれ仏蘭西の憲法に至っては、古今に絶する惨憺たる革命の結果として出来たものなること敢て多言を要しない。もっとも特権階級の打破という目的は、仏国ですらこれを十分に達し得なかったから、純粋の民主主義の極度に主張し得ざるを発見した結果、民本主義の観念段々明白に認識せらるるようになったけれども、しかしその初めにおいては二者の観念明らかに区別せられず、かくて欧羅巴大陸の憲法はおおむね等しく革命的民主思想のたまものとして現われたといわねばならぬ。それのみならず、民本主義の観念がやや明白になった後でも、その要求を貫徹せんと努力するに際し、特権階級の強き反抗に逢わんか、彼らはこれを打破せんと熱中するの余り、時々革命的民主思想を以て脅かしたという事例にも富んで居る。故に民本主義と民主主義とはよろしくこれを区別して認識すべしということは談甚だ容易なれども実際の適用にもこれを厳格に相分かたんとするは頗る困難といわねばならぬ。この点において一部の識者が民本主義の流行を憂うるのは、一応の理由はあると思う。しかしながらその起源において革命的民主思想に出でたからといっていつでも危険なものであると断定するの誤りなるは例えば人間が猿より出でたるが故に常に猿の如き劣性を有するものなりとする論法と同一であってもとより取るに足らぬ。のみならず多少の危険を伴う恐れあるが故にこれを禁ずべしというのは、恰も多少突飛な人間の輩出するの恐れあるからといって、女子に高等の教育を授くべからずというが如きものにして、社会国家の進歩発展を念とするものの、もとより採らざるところである。多少の弊害の出現に逡巡しては進歩発達の事業は何一つ手が出せない。国家社会の発達に必要なりとすれば、ドンドンその目的にかなう方法を採るべきである。しかしてこれによって生ずるの恐れある多少の弊害は、我々これを防止するがために大いに奮闘せねばならぬ。我々は徒に安逸を貪って従来の因襲に籠城すべきではない発展は奮闘を要する。我々は立憲国民としてまず快く世界の大勢に門戸を開放し、積極的に国家社会の大進歩大発展を計らねばならぬ。しかしてまた退いてこれに伴うあらゆる災害と大いに戦うの覚悟をきめねばならぬ。これ実に立憲国の先覚者を以て任ずる者の光栄なる責任である。この責任を辞せざるの覚悟ある以上、我々は民本主義を採用しても、何ら国家の将来に憂惧すべき必要はないと信ずるものである。

民本主義の内容(一)==政治の目的


 予は前段において、民本主義を定義して「一般民衆の利益幸福並びにその意嚮に重きを置くという政権運用上の方針である」と言うた。この定義は自ら二つの内容を我々に示す。一つは政権運用の目的即ち政治の目的が一般民衆の利福に在るということで他は政権運用の方針の決定即ち政策の決定が一般民衆の意嚮に拠るということである。換言すれば、一は政治は一般民衆のために行われねばならぬということで、二は政治は一般民衆の意嚮によって行われねばならぬということである。これ実に民本主義の要求する二大綱領である。
 民本主義は第一に政権運用の終局の目的は、「一般民衆のためということにあるべきを要求する 凡そ物には皆それぞれの目的がある。しからば政治は結局において何物を獲んがためになさるるのか、またなさるべきものか。即ち政治の終局の目的如何いかんというに、この点は時代によって必ずしも一様ではない。ずっと昔の時代にあっては少数の強者の生存繁栄が確かに政治の目的であった。この時代においては一般人民はこの目的を助くるための道具に過ぎず、いわば牛馬の如き役目を勤むるものに外ならなかった。我が国の歴史を見ても、古代には皇室とその周囲にある少数の貴族が政権の運用を決定する中心的勢力であり、彼らの利害休戚きゅうせきが即ち全体としての政治の目的と目指すところのものであった。一般民衆の利害休戚の如きは、少なくとも意識的には当時の政治家の顧みるところではなかった。最もよく平民的政治の行われたと称せらるる古代希臘の都市的国家においてすら、市部以外に在住する民衆は、奴隷として市民のために牛馬の用をなしたに過ぎなかったと言うではないか。されば古代においては政治の目的は少数強者の生存繁栄またはその権力の保持に存し、決して人民一般の利福ではなかった。降って中世以後の封建時代に至れば、人民一般の利害休戚はよほど尊重せらるるようにはなったけれどもこの時代といえども人民の利福が政治上の根本終局の目的となったのではない。何となれば、この時代における政治の中心的勢力は、封建諸王侯並びにその周囲にある武士の階級である。しかして武士階級は即ち封建諸王侯の一族郎党に外ならぬ。故にこの時代においては、王室の利害安危その物が実に唯一の天下の大事であった。国土と人民との如きは、当時の観念においては、王室の私有財産に外ならない。ただこの時代においては、国土と人民とが王室のよって以て立つ処の基礎であるという関係がよほど明らかになったから、この根拠をつちかうという意味において民衆が段々尊重せられたのである。これ一つには群雄割拠して互いに争うという時勢の影響でもあろう。凡て国際的競争は政治階級をしてますます民衆に頼るの念慮を深からしむるものである。故に王室の利害休戚そのものが当時実に唯一の国家問題ではあったけれども、しかし「お家」を大事にするためにはそのるところの基礎たる国土臣民をも愛護し、撫育するという必要を感じて、そこで当時の政治は頗る人民をいたわるという事になったのである。故に例えば新井白石の如き、あるいは熊沢蕃山の如き、当時の政治学者のいわゆる政治の要訣ようけつを論ずるものを見るに、一つとして人民を愛護するの必要を説かざるものはない。しかしながら何のために人民を愛護するのかと問えば、「お家の安泰のために必要なればなりというに帰する。ちょうど我々が下女下男を使うにあたって、出来るだけ手当を薄くして給与を節約するよりも、面倒を見てやって親切に厚遇した方が、結局家のためになるという慈善論と同一の筆法である。封建時代におけるいわゆる仁政というものは、畢竟その根本思想はかくの如きものである。故に封建時代においては、賢明なる君侯の下においては、人民は相当に幸福なる生活を営むを得たものである。しかしてこれらの人民は君侯の仁徳を仰いで敬慕措かざるものあり、その間一点の不平がなかったのである。けれども今日の我々から見れば、彼らは畢竟慈悲深い主人の下における幸福な下女の如きもので、権利として自家の利福を主張することを許されたのではない。故に一旦お家の大事となれば、人民の利福は蹂躪せられても彼らに文句はなかった。これを例うれば、一旦主人が破産でもすれば、下女は約束の給料を貰うことの出来ぬはもちろん、着て居るものも脱いで、何も彼も主人の家のために取上げられても仕方がないというのが、封建時代の有様であった。ただ多年仁政を布いておったがために人民に不平はなかったまでの事である。されば平素仁政を布いていなかった処では、こういう場合にはきっと百姓一揆などが起ったものだ。我が民本主義は以上の如き地位に民衆を置く事に反対するものである。即ち政治の終局の目的が一転して「人民一般のため」でなければならぬということを要求するものである。単純なる民衆の利益幸福を要求するに止まるものではない。なぜなれば、人民の利益幸福は、封建的思想の下においても、明君賢相の下においてはこれを期待することが出来るからである。しかし名君賢相がいつでもその位に居るという事は予め期することが出来ない。故に制度としては、封建的組織の下において人民の利福は永久に安全なるを得ないといわねばならぬ。ここにおいて民本主義は、人民一般の利福を以て「政治の終局の目的」とすべく、断じて或る他の目的の手段となすべからざる事を要求するに至った。一部少数のものの利害のために一般の利福を犠牲にするは現代の政治において断じて許すことは出来ない。貴族とか、富豪とか、その他種々の少数者階級の便益のために、民衆一般の利福を蹂躪するが如きは、民本主義の最先まっさきに排斥するところのものである。
 もっともかくいうと人あるいは民本主義を以て我が国建国の精神たる忠君の思想に背くと難ずるものあるかも知れぬ。民本主義は封建時代の「お家のため」という思想に反対する。「お家のため」という事を大きく見れば、皇室のおためということになる。しからば民本主義は、皇室のおために人民の利福を無視する場合にも反対するのかと問う人があるであろう。この批難については次の二つの点を以て答える第一に皇室のおためということと人民の利福の上に立つところの国家のためということとは今日断じて相矛盾することはない。封建時代におけるが如く、国家内に幾多の小国家が併立する場合には、多くの人の中には小国家あるを知って大国家あるを知らないものが少なくない。現に我が国でも昔藩と藩と相敵視して国家を忘れた事例に富むではないか。赤穂義士の如きも、藩的見地から見ればその挙真に讃嘆に値すべきも、国家的見地から見れば、むしろ一種の罪悪である。我々はただ彼らの動機に偉大なる或るものを認むるが故に、今日なおこれを賞讃して措かざるのである。また維新の当時長州藩が英国軍艦の砲撃を受けた際には、対岸の小倉藩辺の人間は小高い山などに上って高見の見物をしておった。文字通りに対岸の火災視しておったとのことである。これ皆国家的観念の乏しかったためである。従って小国家に執着する考えが国家全体の利害と衝突することは決して珍しくはない。この点から見れば、封建時代における「お家のため」は、必ずしも国家のためにはならない。しかしながら今日は皇室は国家の唯一の宗であるから皇室のために国家民人の利害を無視せねばならぬというような場合に立ち到る事は到底考えられない。従って「皇室のため」と「人民のため」と、相逆うことは絶対にないと信ずる。第二に仮りに一歩を譲って二者相逆う事がありとしても民本主義は即ち主権者の主権行用上の方針を示すものなるの立場からして君主はみだりに人民の利福を無視すべきものではないという原則を立つるに何ら差支えはない。ただ仮りに、皇室のおために人民の利福が無視された場合ありとして、この際人民はいかなる態度を取るべきかという問題になれば、これは例えば主人の破産の場合に下女などが、着て居るものまでも脱いで主家を助くべきや否やという類の問題と同一で、本来上下両者の道徳的関係に一任すべき事柄であって、制度として法律上これをいずれかに強制することは却って面白くないと思う。封建時代にあっては、謂わば平素小恩をって、いざという場合には、その全人格を挙げて奴隷的奉仕をせよと迫るのであるが、平常いかに面倒を見てやったとて、万一の場合には月給を渡さなくてもよい、着て居る物も脱げということを今日規則として定めていたとしたら、使わるる者はこれ程不都合な規則はないと思うであろう。主人が不時の窮迫に陥った時、下女がこれを助くると否とはこれを徳義問題として、全然両者の自由意思に任したい。制度として強制するのは、却って両者の円満なる関係を水臭くする所以ではあるまいか。いわんや君臣の実質的関係の如きはもと永き歴史の所産であり法律的制度を以ては一点一画の微も新たにこれを増減することは出来ないものである何となればこれは多年の歴史に薫陶されたる国民の精神に根柢を有して居るからである。陛下の御為おんためには水火もこれをいとわずというのは、日本国民の覚悟である。しかしながらこの覚悟あるが故に、国家は時に人民の利福を無視しても可なり、人民はこれに甘んぜざるべからずと制度の上に定めたならば、これ却って忠良なる国民の精神に一種不快の念を抱かしむる基となるものではあるまいか。故に予は事実国家が国民に多少の度を超えたる犠牲を要求する場合にこれに応ずべきや否やは国民の道徳的判断に一任することにしたい制度としてはどこまでも漫りに人民の利福を無視することはせぬという事に極めて置きたいと思う。かく極めても、我が忠良なる国民は、決して一身の安全を計って君国のために計るに躊躇逡巡するものではない。けだし忠君の思想は建国の精神にして且つ国体の精華である。これを制度の上にわざわざ駄目を押すが如きは、百害あって一益なきを信ずるものである。
 かく考えて見れば、民本主義が制度として十分に人民利福の尊重を力説するのは、我が国において毫も不都合を見ない。人民が各々その自由の判断を以て己れを空しゅうして人のために尽くすのは、もとより民本主義のとがむるところではない。ただこの本来道徳的なるべき行為を制度の上にあらわし、以て人民利福の蹂躪に是認の口実を与うるが如きことは、民本主義の極力反対するところなのである。
 これを要するに、民本主義を基礎とする現代の政治は、「人民のため」ということを終局の目的とする。何物のためにも人民全体の利福はこれを犠牲とするを許さぬ。しかるにこの点は今日各国において十分に貫徹せられて居るかというに必ずしもそうではないその理由の一つはやはり封建時代に多年養われたる思想と因襲とが民本主義の明白に承認せられたる今日なお種々の形において制度の上に残存し、「人民のためという趣意の十分なる貫徹を妨げて居るからである。この傾向は西洋でも、立憲政治が上下両階級の衝突並びにその妥協の結果として発達した国に多い。しかしてこの民主主義の徹底的発現を妨げて居る最も主たる原因は、旧時代の遺物たるいわゆる特権階級の存在である。特権階級が法律上与えられたる特権を、適当に利用するに止まるならば、大した弊害もないといえるけれども、彼らはとかくこの特権を楯として、みだりに民権の発達に反抗する。彼らは過去においては法律上特権を有っておったがために、更に政治上にも特殊の地位を得、従って独り政権に参与するの特典を有しておった。しかして彼らはこれらの特別なる地位を永久に壟断せんがために、ややもすると人民一般の利福と衝突し、「人民のため」の政治に逆うの傾向を示す。元来特権階級の存在そのものは国家にとって決して無用の現象ではない。国家に勲労ある者を優遇し、且つこれに特権を与えて、子孫相継いで国民の指導的精神たらしむるということは元来結構なることである。この意味において、国家が貴族というものを設定し、且つ存置して置くのは、極めて有益なことであると信ずる。しかし実際上多くの場合においては、彼らはその特殊の地位にれ、以て国家優遇の恩に背くこと甚だ少なくはない。甚だしきは、その特権を濫用して、一般の利福をないがしろにするものすらある。故に、近来の政治上においてはこの特権階級は盛んに民本主義の反抗を買うに至って居るようである。
 特権階級に対する民本主義の抗争は、十九世紀の初め、欧羅巴においては相当に激しかった。殊に特権階級がその特権に恋々として民本主義の要求を淡泊に承諾しなかった国においては、この争いは相当に永く続いた。しかし今日となっては、これらの問題は大抵一通りは解決がついたようである。もし今日なおこの種の問題の残って居る処ありとせば、欧羅巴においては露西亜位のものであろう。英吉利では上の階級が十分に一般階級の要求を了解せる事により、独逸においては両者の疎通未だまったきを得ざれども、上の少数者が常に道徳智識において遙かに平民を凌駕し、その実力を以て民衆を服する点において、両国共に上下両階級の争いはこれをほぼ解決して仕舞ったといってよい。ひるがえって我が国は如何というに、不幸にして、一方には民衆の智見未だこの問題を了解し且つこれを主張するまでに発達していない。ただ他方において特権階級は、大体において漸次民衆の要求を理解し、従ってこれに処する所以の道を悟りつつありと認めらるるのであるが、ただ一部のものの間にはあるいは自ら高く標置して民に謙遜へりくだるの雅量なきものありあるいは貴族の特権に気驕りて奮励以て実力を養わんとせざるものありために貴族に関する反感侮蔑の念を知らず識らず民間に挑発しつつある者あるは誠に憂うべきことであると思う。けだし民本主義の要求は、ともかくも世界の大勢である。民本主義と特権階級との関係は、ともかくもいかようにか解決せられねばならない。この両者の関係が平穏の間に解決せられ、以て社会の健全なる発達の素地を作らんとするには、我々は一方において民衆の智見の発達を計ると共に、なお他方において大いに上流社会の反省を希望するの要求がある。
 なおこれに関連して注意すべきは近頃我が国などにおいて右の歴史的特権階級の外に新たにいろいろの特権階級が発生するの傾向があることである。中にも最も著しいのは金権階級である。俗用の語でいわゆる資本家なるものである。しかしてこの階級に対しては従来社会主義の反抗があった。この両者の関係は恰も民本主義の歴史的特権階級に対する関係と似て居る。そもそも社会主義が資本家に対して抗争する所以の根本動機は、これまた社会的利福を一般民衆の間に普ねく分配せんとするの精神に基づく。この点において社会主義はまた民本主義と多少相通ずるところないでもない。ただ社会主義は現在の社会組織に革命的変動を与えんとするが故に、恰も民主主義が君主国において危険視されるが如く、多くの国において同じように危険視される傾きがあった。しかしながら経済上に優者劣者の階級を生じために経済的利益が一部階級の壟断に帰せんとするの趨向はこれまた民本主義の趣意に反するものなるが故に近来の政治は社会組織を根本的に改造すべきや否やの根本問題まで遡らずして差当りこれらの経済的特権階級に対してもまた相当の方法を講ずるを必要として居る。いわゆる各種の社会的立法施設は即ちこれである。この意味において、民本主義が経済的特権階級とも争うということは、近代各国に通有の現象である。今我が国の状態を見るに近時いわゆる資本家なるものが頭をもたげ来りその広大なる金力を擁して漸く不当に社会公共の利益を蹂躪せんとして居る。もっとも這般しゃはんの傾向は亜米利加ほど激しくはないが、しかし最近資本家の勢力というものは著しく加わって来た。殊に日清・日露の両戦役後は著しく彼らの勢力を増した。金権は、いずれの世においても一種の勢力たる事を失わないが、しかし日清戦争以前においては実は金権は遙かに政権の下に屈しておった。更に遡って明治の初年に至れば、金権は即ち節を政権の門に屈し、その庇護の下に漸く財力の増殖を計っておった。例えば三菱の大隈伯におけるが如き、三井・藤田の井上侯におけるが如き、皆それである。しかるに日清戦争は初めて政権をして金権の前に助力を乞わざるを得ざらしめた。かくて金権は初めて政権と対等の地位に立つようになったのである。もしそれ日露戦争に至っては桂公の政府は徹頭徹尾資本家の前に叩頭こうとうしてその財政的助力を求めたのであるここにおいて金権は一躍して時に臨んで政権を左右し得るの大勢力となった。富豪が爵位を貰ったのも、皆この時以後の出来事である。中には男爵を授けらるることを条件として、多額の軍事公債に応ずる事を承諾したものもあると言われて居る程である。かくして金権は政権に迫り自家階級の利益のために種々の不当なる法律の制定を要求したのである。資本家階級の独りこれを便とし、一般民衆のためには最も不都合なる各種の財政的立法の、今日に厳存するのは皆この結果である。かくして我が国においては最近新たに、法律によって不当にその利益を保護せらるる一新特権階級を生じたのである。この種の特権階級は、将来民本主義の要求と接触して、いかにその間の調和を見るかは、我々の最も憂慮し且つ注目するところである。金権階級は事物質上の利害に関するが故に容易に一般民間の声を聞こうとしない。故に我が国において他日もしこの方面の問題に関して、頗る解決に困しむものありとすれば、恐らくそはこの財政的特権階級の問題ではあるまいか。もしそれこの財政的特権階級が歴史的特権階級と結託して傲然民本主義に臨むことあらん乎国家の不祥これより大なるはない。予はこの点に関して切に識者の注意を惹起し、且つ国家の至寵しちょうほしいままにする貴族富豪の反省を乞わざるを得ない。
 これを要するに、政治の終局の目的が人民の利福にあるべしという事、これ民本主義の第一の要求である。一見民衆一般の全体の利益と係わりないように見えても、詮じ詰むれば、全般の利益幸福となるというものならば、そは民本主義にもとらない。終局において民衆一般のためになるかならぬかが標準である。たとえ民衆一般のためになる外観を呈するものでも、これが他の目的の副産物として来るものであってはこれもとより民本主義の満足を買うことは出来ないものである。

民本主義の内容(二)==政策の決定


 第二に民本主義は政権運用の終局の決定を一般民衆の意嚮に置くべき事を要求する 民本主義は、政治の目的を一般人民の利福に置くのみならず、政策の決定についても、一般人民の意嚮を終局において重要視することを要求するのである。終局において人民の意嚮を重く見るということは、必ずしも個々の問題について一々人民一般の意見を聴くという意味ではない。人民の意嚮に反しては何事もしない、すべての政治的活動は明示または暗黙の人民一般の承認なしには行われぬという大体の主義をいうのである。
 政策の終局的決定を人民の意嚮に拠らしむべしとする主張の理論上の根拠は、恐らく何が人民一般の利福なるかは人民彼自身が最もよくこれを判断し得るということにあるのであろう。政治にして人民一般の利福を目的とする以上、その運用はすべからく何がいわゆる人民一般の利福なりやを最もよく知れるものがこれに当るを必要とする。しかして自家の利福の何たるかはその本人が一番よくこれを知って居るものであるから、近代の政治は、人民一般をして終局的にその方針を決定せしむることが最もくその目的に適合すると認めたのであろう。ただにこればかりではなく更にこの主張には実際上の理由もある。そは少数者の政治は啻に適当に多数の要求を按配することが出来ないのみならず、往々にして自家階級の利益の擁護に急なるの余り、その地位を濫用して不当なる政治をなすの弊があるからである。この点において人民一般の意嚮を重んずるの主義は、政治を適当ならしめ、公平ならしめまた清潔ならしむるの効用がある。
 しかるに民本主義のこの第二の要求に対しては世上これを難ずるの議論が相当に強い。今これらの批難を細かく観察して見ると、大体三つの種類があるように思われる。
 第一の批難は民本主義は憲法上君主大権の義に反するとする説である。即ち人民の意嚮を終局に重んず可しというは、君主主義の憲法の精神に背くというのである。この批難にも細かく分かつと更に二つの細別がある一つは先に民本主義全体に対する誤解として挙げたものと同様であるが予のいわゆる民本主義を民主主義と混合し政権運用の終局の決定を人民に移すべしというは則ち主権を君主の手より奪って人民に帰するものなりとなし以て我が国の如き君主国に在っては許すべからざる僻論なりと論ずるのである。この説のあやまりなる事は已に述べた。繰返すまでもなく、民本主義は政治上の主義であって法律上の説明ではない。法律上主権は君主に在りとして、その主権者が主権を行用するに当り、いかなる主義方針に拠るべきかという時に、民本主義は現われ来るのである。何ら君主主義と相矛盾するものではない。君主国体の擁護のために危険なる民主主義を排斥せんとするは、吾人ももとより同意同感であるけれども、ただこれがために、名似て実異なる民本主義の政治的発達までも阻礙するような事があっては、憲政の前途の上に容易ならざる大事であると思うのである。もう一つの批難はたとえ政治上の主義にもせよ君主はその権力を行使するに当って常に必ず人民一般の意嚮を参照せねばならぬと慣行が極ってはそれだけ君主の大権が制限せられ従って君主大権の自由行動を妨ぐる結果となるという説であるしかしこの種の論者は君主の大権なるものは立憲国においては初めから各種の制限を受けて居るものであるという事を心付かざる人々である。制限という言葉を使えばこそ世人はとかくこれを気にするのであるけれども、これに代うるに「」という文字を使ったならばどうか。即ち立憲政治は我儘勝手なる政治にあらず、「道」を以て国家を治むるの政治であるとすれば、「道」は即ち主権の自由行動に対する一種の制限ではないか。しかしてこのいわゆる「道」は法律上にも政治上にも現われ、換言すれば君主の大権は法律上並びに政治上共に各種の制限を受くるのが立憲諸国の通例である。もっとも憲法学者中には憲法による君主大権の制限は自ら自己の行動に加うる制限なるが故に、これを法律上厳格に制限と称すべきものではないと論ずるものもあるから、暫くこの種の理論に譲歩して法律上君主の大権は絶対無制限であるとして置こう。しかし一転して政治上においては如何いかんというに、この方面においては各般の制限を受けて居ることは疑いはない。君主の大権がこの種の制限を受けて居ると否とが実に立憲専制の別るるところであって、いわゆる憲法的諸制度なるものは実に君主大権の制限を目的とする政治的設備に外ならないのである。ただこれらの制限は、客観的に観れば制限に相違ないが、主観的に観れば主権者の取るべき「道」であると言える。この点において国体観念の上において君主が絶対最高の主宰者たるの実は少しも傷つけらるることはないのである。ただこの絶対最高の主体者がいかなる場合にも全然無制限に行動することは、幾多の弊害を生ずるの恐れあるが故に、近代の政治はここに種々の制限を認めたのである。この制限を厭うならば、初めから立憲政治を採用せぬがよい。いやしくも世界の趨勢に従って立憲政治を採用した以上は、君主の大権が諸般の制限を受くるはこれを当然と見なければならない。且つまた君主が各種の制限を受くるという事は、政治上実は極めて有益なことである。人あるいは純粋なる君主国においては啻に君主が法律上国権の唯一の掌握者たるのみならずまた実際において君主独り自ら自由にこれを擅行せんこうするものでなければならぬと主張するものもあるけれども君主は事実上において決して万能の御方ではあらせられぬその御一人の単独の意思を以て何人にも御相談なく天下の事を専断決行さるるという事は決してないのみならずかくする事の極めて危険なる制度たるは申すまでもないされば実際上に照らして見ても今日百般の政務を君主が単独に決裁し給うということは事実いずれの国にもこれを見ない。独逸皇帝ウィルヘルム二世陛下の如き近代稀に観る多才多能の御方でも、複雑なる政務の裁決には幾多大臣の智慧をりるの必要に迫られて居るではないか。されば絶対的の無制限の自由行動という事は、事実上これを望み得ない。よしこれを望み得ても、かくの如きは常に偉大絶倫なる且つ多才多能なる名君の相継いで輩出するという条件のもとに、初めて弊害なく行わるるを得るものである。かく観れば、君主の行動が相当の制限の下になさるるということは、事実必要でもありまた望ましいことでもある。かくの如く立憲政治においては君主の大権は初めから制限を受くるものである制限を受くるを可とするや否やはもはや問題ではないもし問題となるものありとすれば君主の大権がいかなる種類の制限を受くべきやという点にあらねばならぬ。即ち人民一般の意嚮に聴くという制限を受くべきや、または君側二、三者の意見にはかるという制限を受くべきやというような問題に帰する。しかるに一部の論者は、広く人民の意嚮に聴くは君主の大権に対する制限と観るに拘らず、しからざる場合には丸で君主大権の制限を説かないのは、甚だ片手落な議論であると思う。例を以てこれを説くに、今ここに内閣更迭という事件が起ったとする。この場合に後継内閣組織の大任はすべからく議会において多数を占むる政党の首領にこれを託せねばならぬという慣例があるとする。この場合にこの慣行は君主の大権を制限するというて批難するのである。何故なれば君主はもはや自由の意志を以て大臣の任命を専行するを得ないからである。しかしながら君主大権の制限なるが故に悪いというならば、即ち君主の自由行動という趣意をこの際文字通りに厳格に貫こうとするならば、君主は事実上何人にも御相談にならず、全然御一人のお考えのみを以て、総理大臣は誰、内務大臣は誰、陸軍大臣は誰という事をお極めになるという事にならなければならぬ。けれどもかくの如きは事実上果たしてあり得るや否や。実際の事例としては君主はこの際必ず君側の二、三老功の臣に御相談になるが普通である。これが二度三度と繰返さるると、結局大臣の任命については必ず元老に御下問になり、その意見によってこれをお極めになるという事になる。かく極まればこれまた君主の大権に対する明白なる一制限ではないか。予の観るところによれば大臣の任命につき議会の多数党に人を採るのも元老への御下問によって極めるのも共に君主の大権に対する事実上の制限たる事は同一であると思う。ただその制限の種類が同じくない。一つは多数に相談して極めるという形に在り他は少数に相談して極めるという形にあるしからばここに君主は果たしてそのいずれの制限を採るべきものであるかの問題が起る。少数の人のみに相談すべきであるか。多数の人に普ねく相談すべきであるか。かく論ずれば、君主大権の制限なるが故に非なりという理由で、民本主義を排斥するのは正当でない。もし民本主義を有効に排斥せんと欲するならば更に一歩を進めて多数の人に諮るのが常に悪く少数の人に諮るのが必ず善いという趣旨を明白に証明するの必要がある。しかるに我が国においては、明治初年以来多数の人に諮るを以て立国の国是なりとして居る。明治天皇陛下は維新の初め現に広く会議を起し万機公論に決すべしと勅せられて居る。即ち多数の人に相談して公平にして且つ正当な政治を行うという民本主義の精神は、明治初年以来我が国の国是であった。今頃これを否認して少数諮詢しじゅん主義を唱うるのは、政界進化の大勢に逆行するものである。
 第二の批難は凡そ人民一般は本来愚なものであって自ら自家の利福の何たるを知らぬこれを熟知する者はむしろ少数の賢者である従って多数政治は実際の利害得失を比較すると少数政治に比して却って劣れりというのである。この説は近代立憲政治の趨勢に逆行して、貴族政治の古に復らんと欲する一部人士の熱心に唱道するところであるが、一部分はなるほど真理であると思わるる。いかに開明の国においても、一般の人民は大体において直接的確に国民全体の利福の何であるかは明白にこれを知らぬ。しかも少数の賢者の中には、真個国を憂うるの士あって、自己の利福を犠牲に供し、専ら社会公共のために力をいたさんとして居るものの少なからざることは明白なる事実である。しかしながら我々は最もよく人民一般の利福の何たるを知りまたいかに奉公の念に富むところの人でも彼らの最も多く考うるものは概して自家の利益であるという普通の事実を看過してはならぬいわんや賢明なる人といえども少数相比周して万人環視の外に政権の運用を司ることとなっては動もすればその間に弊害を生ずることは免れない。かくて、少数に政治を託して多数人民が心を安んじて居ると、いつの間にやらいろいろの弊害が行われ、また誠に不公平な制度などがいつの間にか立てられているような事になる。凡そ政治上の事は一旦制度の上でこうと極めてしまえばいかにその弊が後に明らかになっても容易にこれを改めることは出来ないものである。制度の改め難きは恰も女房の軽々しく取り換え難いと同様であるのみならず、また立派な人ほどオイソレと女房を換えないように健全な国ほど制度は容易に改め難いものであるから、現在の制度によって不便不利を蒙って居るものは、いつも泣寝入らねばならぬことになる。これを我が国の例に譬えても、塩の専売は悪制なりという。石油消費税、織物税は悪税なりという。この点は政府また各党各派と共に一様に認むるところであるけれども、これを廃せばために生ずる欠陥を何の財源に求むべきやの問題に窮して、いつでもこれが廃止を見合わすことになる。こういう訳であるから政治は須らくその初めを慎むべきものである即ち初めから注意して少数政治に成らぬようにするの必要がある。且つまた、今日は人民一般の程度も大いに進歩して来た。昔のように人民が公の事に無智で且つ冷淡であった時代ならば、政治の事を少数の賢者に一任するのも已むを得なかったであろうが、今日は教育の進歩につれて人民の智見も大いに開けた。公事に関する興味も著しく民間に強くなった。非常に野蛮な国でない限り、民智の不十分を理由としてこれを政治圏外に打捨ておくという事は、今日はもはや時勢の許さざるところであると信ずる。
 且つ今日の民本主義は人民智見の相当の発達を前提とすというもしかしそのいわゆる相当の発達なるものは各種の政治問題について積極的の意見を立て得る程の高い発達を意味するものではない。例えばここに海軍拡張問題とか減債基金問題とかがある。海軍拡張の可否並びに程度如何いかんとか、八四艦隊〔戦艦八隻、巡洋戦艦四隻を根幹とし、これに補助艦艇を付属させた艦隊。八八艦隊などともいう〕の利害得失如何とか、また減債基金を五千万円に復旧するの利害得失如何とか、二千万円の鉄道資金はこれをいかにして得べきか等の細かい点は、専門の政客といえども精密にこれを了解して居るとは思われない。今日の代議士中、この問題の意味をすら理解しておらぬものは少なからずあるだろうと思う。いわんや一般人民に向っては、これらの問題の精密なる了解はよほど進んだ国においてもこれを求め難いと思う。民本主義の行わるる事はそれ程高い智見を民衆に求むるという必要はない。民衆の智見の高いのはどこまでもこれを希望すべきものなる事はいうを俟たぬ。しかしそれ程高くなくとも民本主義はこれを行うに差支えはないのである。その理由は後にも説くが如く、今日の政治はいわゆる代議政治という形において行われて居るのであるが、その結果今日では我こそ人民の利福意嚮を代表して直接国事に参与せんと欲する輩は、自然進んで自家の政見を人民に訴え、以てその賛同を求むるという事になる。そこで人民はこの際冷静に敵味方の各種の意見を聴き、即ち受動的にいずれの政見が真理に合して居るやを判断し得ればよい。更に双方の人物経歴声望等を公平に比較し、いずれが最もよく奉公の任を果たすに適するや、いずれが最もよく大事を託するに足るの人物なりやを間違いなく判断し得るならば、それで十分である。この位の判断は相当の教育を受け、普通の常識を備うるものには誰にも出来る。必ずしも個々の問題について自家独自の積極的政見を有する事を必要としない。この点において今日の開明諸国の人民は概して民本主義の政治を行うに妨げなき程度には発達して居るものと断言して差支えない。しかるに世の立憲政治の運用の思わしからざるを嘆ずるものは、ややもすればその原因を国民の思想の足らざるに帰する。前記高田文相の訓示の如きまたその傾きがある。けれども我々の見るところによれば、もちろん国民に今少し憲政思想を知らして置くのは必要と思うが、しかし今日の我が国民は決して憲政の運用に適せざる程に低い程度のものではないと信ずるしかもなお憲政の運用意の如くならざるものあるはむしろその責任を世の先覚者の頑迷固陋なる思想と態度とに帰せざるを得ないと思うものである。今日の元老・大臣以下幾多の政客の脳中に、果たして憲政の根柢たる民本主義を徹底的に了解して居るもの幾人ありや。更に進んで民本主義の忠実なるしもべたる事を以て名誉とするもの果たして幾人ありや。社会の上流に在るものが、真に憲政の本義を体得するにあらざるよりは、憲政の完成は容易に期し難い。今日の人民が、文相の指摘して居るが如く、総選挙の場合などに時々醜穢しゅうわいな手段に惑わされて不都合な所為に出づる事は、予もまたこれを認むるけれども、しかしこれなども実は人民そのものの罪というよりは、むしろ大部分は制度の罪であると思う。賄賂を取り得べき地位に置かれてしかも潔白を維持するの困難なるは、下層の人民も宮内大臣も海軍大臣も同一である。制度の上で醜穢な手段の出来ないようにして置けば、最も正直に賄賂などに手を出さないものは恐らく人民であろうと思う。
 なお予は更にいわゆる少数賢者の政治なるものはその名美にしてその実弊害の頗る大なるものある事を指摘するの必要を感ずる。世人は動もすれば賢者は常に少数である。故に最良の政治は少数者の政治であらねばならぬ。これに反して多数者の政治はいわゆる衆愚政治に陥るという。これも一応は真理である。けれども少数政治は常に暗室の政治であるということを忘れてはならぬ。いかに立派な人物でも、他人の見ていないところではとかく過ちを犯し易い。閑居して不善をなすは独り小人の事ではない。君子といえどもその独りを慎む事を以て昔から最も困難なる修養としておったではないか。いわんや少数者の政治といっても、いつでも聖賢の如き君子人のみその局に当ると限らないにおいてをや。制度としてはどんな人物がその局に当っても悪い事の出来ないようにして置かなければならぬ即ち悪い事のなし得る機会を作らないのが制度の眼目である。金を貪る機会が与えらるれば、神聖なる宮内大臣でさえも賄賂を取ったではないか。凡そ政治上の事は万人環視の中で最も公明正大に行わるるようにしなければならぬ。我が国においてはいわゆる※(「さんずい+續のつくり」、第3水準1-87-29)とくしょく問題という事が毎度やかましい。これ皆政治を秘密の中にもてあそぶところより来る弊害である。多数政治の形式を取りてさえ、その運用に最も鋭敏なる注意を払わざれば、動もすれば虫がつき易い。まして少数政治の如きは、制度としては何よりも先に排斥せねばならぬものである。世間の人は、議会の不体裁とか、議員の不体裁ふしだらとかを挙げて、動もすれば多数政治の醜穢を云々する。無論多数政治にも訓練を加えざれば幾多の弊害を生ずるは免れない。殊に多数政治は徹底的にこれを行わざれば往々にしてその弊却って少数政治よりも大なる事がある。しかしながら大体からいえば少数政治は密室の政治なるが故にその弊害は多くは天下の耳目に触れずして済み多数政治は明けッ放しの政治なるが故に微細の欠点を誇張して数えらるるの傾きがある故に最も公平に最も精密にその弊害の性質分量を比較したならば少数の政治の方あるいは遙かに多数政治を凌駕して弊竇へいとうの著しきものがあるだろうと思う
 かくいえば民本主義の政治においては少数賢者の階級はまったく用のないものかの如くに誤解するものもあろうがこれは決してそうではない少数の賢者が独立の一階級をなし多数と没交渉に政権の運用を専行する時にはもちろん弊害があるけれども彼らが自ら謙遜へりくだって多数の中に没頭し陽に多数者の意嚮に随従しつつ陰に多数者の精神的指導者として公事に尽す時彼らは真の賢者としての役目を最も適当に尽くすことを得るものである。そもそも多数少数の両階級の関係は、形式実質の両面に分かって観察するを必要とする。近代の政治は、その政治組織の形式的方面においては、多数の意嚮を第一とする。しかしながら社会構成の実質的理想の方面においては、もとより多数専制を容認するものではない。多数政治と言っても、文字通りの衆愚の盲動が政界を支配するようでは、国家の健全なる発達は期せられない。多数者は形式的関係においてはどこまでも政権活動の基礎政界の支配者でなければならぬしかしながら彼は内面において実に精神的指導者を要する即ち賢明なる少数の識見能力の示教を仰がねばならぬのであるかくて多数が立派な精神の指導を受くる時はその国家は本当にエライものである少数の賢者は近代の国家において実にこの役目を勤むべきものである。もし彼らがその賢に誇って自ら高しとし、超然として世外に遊び、降って多数者の中に入りてこれを指導する事を敢てせざる時は、彼らはただにその志を遂げ得ざるのみならず、国家の進歩にもまた何ら貢献すること能わずしておわるの外はない。彼らにしてもし真に国家社会のために尽くさんとせばその賢を以て精神的に多数を指導すると共に、また自ら多数者の役するところとなって、彼らの勢力を通して公に奉ずるの覚悟がなければならぬ。かくの如く多数と少数との相倚り相待つ事の密接なる国が最も健全に発達するのである。少数の政治は弊害もあり、また勢いとしてもこれを今日回復する事は出来ない。さればと言って多数の政治は少数賢者の指導なしにはもと健全なる発達を見る能わざるものである。二者相待って初めて憲政は完全なる発達を見る事が出来るのである。この関係を政治的に見れば多数の意嚮が国家を支配するのであるけれどもこれを精神的に見れば少数の賢者が国を指導するのである。故に民本主義であると共に、また貴族主義であるとも言える。平民政治であると共に、一面また英雄政治であるとも言える。即ち政治的民本主義は精神的英雄主義と渾然相融和するところに憲政の花は見事に咲き誇るのである。もしこの二者の関係が彼此相疎隔せんかその国は決して円満なる発達を見ることを得ない。二者の疎隔によって苦しんだ国は古来その例に乏しくない。あるいは指導者なき平民の盲動は革命的暴虐となって国家を塗炭の苦しみに陥れた事、革命当時の仏国の如きあり、あるいは節操なき衆愚が少数奸雄の操縦利用するところとなって、国民全体の利益を蹂躪して顧みざる事、現代の墨西哥メキシコの如きがある。憲政をしてその有終の美を済さしめんとせば政策決定の形式上の権力は思い切ってこれを民衆一般に帰ししかも少数の賢者は常に自ら民衆の中におってその指導的精神たる事を怠ってはならぬ。この点において予は、我が国の元老を初め、その他いわゆる官僚政治家等の態度に甚だ慊焉けんえんたるものがある。何となれば、彼らは皇室の殊寵と、国家の優遇とをかたじけのうしながら、その最高の地位を利用して時に無責任なる干渉を政界に加うるの外、敢て自ら高処して民衆に接せず、却って民衆的勢力を敵視するが如き態度を取って居るからである。彼らがかく近代政治の本義を了解せざるは我らの頗る遺憾とするところであるが、殊に彼らが少数賢者としての社会的職分を怠りて敢て民衆指導の任に当らざるは、国家のために非常な不幸と言わなければならない。一般の民衆は何と言っても実際においては案外に社会的歴史的の栄誉尊称というものに過分の尊敬を払うものである歴史的社会的の権威を自らに固有する貴族などが同時に実力において高等の人才でありしかして彼らが集まって民衆を指導するの任に当る時に民衆は喜んでその指導に服するものである。独逸がかの如く制度の上において民本主義の徹底的実現を妨げておりながら、しかもよく国運の隆々たるは、上は皇族より貴族富豪の末に至るまで、彼らが悉く社会的に歴史的に優等階級たるのみならず、その実力においてまた優等階級として平民の敬意を集めて居るが故である。うらむらくは我が国においては社会的歴史的の優等階級は必ずしも実力の優等階級ではないこれ已に社会の一欠陥であるしかも実力の優等階級もまた多くは謙遜へりくだって民衆の友民衆の僕たることを甘んぜないそれ更に大いなる社会の欠陥である。予は憲政の健全なる進歩のため、いな社会国家の興隆のために、深く少数賢者の反省を求めたい。殊に貴族富豪の大いに反省して自ら治むるのみならず、またその子弟の教育に真面目に注意するところあり、以て国家の優遇に応うるところあらん事を望まざるを得ない。
 第三に更に一歩を進めてこういう批難をする人もある。曰く民本主義は一般人民の意嚮を重んずるというけれどもしかし一般人民の意嚮即ちいわゆる民意なるものは本来実在するものではない少なくとも衆愚は被動的に少数野心家の煽動に乗って彼方此方に盲動することはあるけれども能動的に或る一定の目標に向って意識的の活動をなすものではない故に民意を取って政策決定の標準となすというが如きは畢竟空論であると。この論は民本主義の理論上の基礎たる「民意」の実在に対する疑いである。そもそも民意なるものの果たして実在するや否やは哲学上社会学上大なる問題であろう。もちろん民意という大いなる意思を有って居る人格者が眼に見えて存在して居る訳ではない。故に目に見ゆる個々の具象のみに執着するいわゆる懐疑派に属する学者が、多数人民の雑然たる集団に意思の主体たるの資格を認めざらんとするのはもとより怪しむに足らぬ。しかれども社会万般の事象を洞察達観するものにとってはこの見えざる意思の主体を認識することは決して困難ではない。もっとも我々の社会においては、同一の問題についても各種の意見が色々行われて居るもので、何が多数の輿論よろんなりやは容易にこれを決することは出来ないものである。けれどもこれらの雑然たる社会の議論は恰も時計の振子の左右に動揺して止まざるが如くほとんど安定するの日なしといえども、しかしながらこれらの議論が自ら或る一定の中心に向ってその周囲に動きつつあるものなることは少しく物事を深く観ずる人の見逃さざるところである。懐疑派の人は動揺のみに着眼する我々は動揺の陰に不動の中心あることを認識する。社会の輿論というが如きものも、現に我々は我々の居る現在の社会の事はよく分からないものであるけれども、暫く時間空間の関係において我々を第三者の地位に置く時は、ほぼその社会の民衆は何を希望し、何を目的として動いて居るかが想定せられないことはない。もちろん人各々観るところを異にし、何を以てその社会の民意なりとするやについても、必ずしも議論の一致を見る事が出来ない場合もある。しかしながら、とにかく今日の学界の多数説としてはいわゆる「民意」の実在を疑わぬようである。この事はなお学問上大いに論弁するを要する問題であるけれども、余りに専門的になるからここにはこれを略する。ただ民本主義の主張は一部の論者の難ずるが如く実在せざる民意という仮定を前提とした荒唐無稽な説でないということを承知して貰えばそれでよいのである
 以上を以て予は民本主義に対する各種の批難を弁駁した。政権運用の終局の決定を民意に置くの不当ならざるはこれを以て明白になったと思う。さてこれより我々はいよいよこの主義を実際に適用すればどうなるかという問題の研究に移らねばならぬ。
 前述の如く、民本主義は一般民衆の意嚮に拠って政策を決定すべしというのであるから、これを極端に徹底せしむるためには人民全体が直接に政権に関与することにならねばならぬ道理であるがこれは事実不可能なる事論を俟たぬ。人民全般の直接政治は、古代希臘ギリシャの都市的国家においては普ねく行われたと称せられて居るが、なるほど地域の狭い、人口の少なきこれらの小国家においては、あるいはこの方法は可能であったろう。それでも少なくとも幼少年と婦人とは政治圏内より除かれておったようである。否、青年の男子といえども、都会の住民即ち市民の外は、この公権を与えられていなかった。そは都市的国家は漸次その領域を都会以外の周囲に拡張したのであるが、これら新領土の住民は悉く奴隷として遇せられ何らの自由を与えられなかったからである。されば古代の小国家においても、人民の直接政治というものは文字通りには行われなかったのである。いわんや今日の如く地域も人口も広大なる国家においては、到底人民の直接政治は行われ得るものではない。幼少年並びに婦人を除いて、直接政治に干与し得るものはこれを公民権を有する男子に限ると見ても、その数は非常なものである。これを皆洩れなく直接政治に干与せしむるのが一番よく民本主義の主張に合するように見えるけれども、事実上到底行われない。そこで今日ではこれらの人民は間接に政治に干与し直接には自らの代表者を挙げてこれに一切の政治をつかさどらしむるという方法を取る事となったこれ即ち今日の代議政治なるものである。即ち人民は、全体としては直接に政治にあずかるの煩に堪えないから、自分達の代表者を公選し、その選に当った代議士をして自分達に代って公事に尽くさしめんとするのである。即ち人民より見れば一種の間接政治である。代表者が政治するという点より見れば代議政治である。かくしてこの代議政治は今日の立憲諸国においては、民本主義的政治の唯一の形式となった。

代議政治


 前段において予は、民本主義の要求を極端に徹底せしむるためには人民の直接政治とならねばならぬけれどもこれは今日の国家においては事実不可能なるが故に、遂に変則のようではあるが代議政治というものが今日あまねく行わるる事になったということを説いた。しからばここに自ら吾々の頭の中に問題となるのは、いわゆる代議政治なるものは民本主義の理想にはかなわないものであるけれども外に致し方がないから止むを得ずこれによって居るものと見るべきやあるいはまた他の方面からの証明の結果として代議政治の方が却ってこれを実際に行って直接政治よりもよりよき結果を生じ得るものであると見るべきやの点である代議政治はどの途今日これを止める事は出来ないこれだけは疑いは無いがただその価値については前記の如く消極的意義を認むるに止まるものと積極的意義を認むるものとの二様の見解が起り得るのである
 まず英吉利の学者政治家の間には代議政治の価値を謳歌するものが非常に多い。もっとも英吉利の政治学には、理論としてはいろいろ間違った謬説が多い。しかしながらその政治的諸制度の実際的価値の認識においては概してその判断を誤らない。されば代議政治についても、そが果たして理論上民本主義の要求に合致するや否やというような方面の議論は比較的おろそかにされて居るけれども、実際の運用上代議政治の良好にして、人民の直接政治の方はむしろこれに比し遙かに弊害多いということは、つとに深く一般の識者から認識されておった。彼らは実に代議政治あるが故に、一般国民は国内少数の賢者を適当に利用する事が出来、また国内少数の賢者もこの制度あるが故に人民の監督の下に己れを節制して十分にその才能を振るう事が出来ると信じておった。国内の民衆悉く積極的に起つことは事実上不可能でもあり、また強いてこれを起たしむることが実際上決して得策でないということを、彼らはよく知っておった。人民一般が悉く理想的の高度の発達をなし、総ての問題に積極的の意見を立て得るようになれば格別、しからざる以上は、実際政治の運用を少数者に託し、一方には意見人格の批判によって何人にこれを託すべきやの選択を誤らず、他方において自己の挙げたる少数者を監督するということを以て満足するの外はない。しからば代議政治は、今日の程度の民衆を基礎としては最良の政治にして、一足とびに直接政治に行くことはむしろ危険であるといわねばならぬ。ただ代議政治は中間に代表者の這入はいる仕組なるが故に、これをいかに制度の上に組織するや、またこれをいかに運用するやに従って、得失利弊一ならざれども、ただ抽象的の議論としては、代議政治は事実止むを得ざるに出でた方法とのみ見るべきものではない。それ自身また直接政治に優る美点もあるといえる。しかしてこの説が特に英吉利に盛んに行われて居るのは一つには英国人が代議政治の運用を誤らずこれによって相当の美果を収めて居るがためでもあろう
 代議政治の運用意の如くならざる他の国においてはこの種の議論は英国程は盛んに唱えられていないしからばこれらの国においてはいかなる議論が唱えられて居るかと言うに、曰く、民本主義の理想から言えば人民の直接政治が一番よいしかしこれが不可能なるが故に止むを得ず代議政治に拠ったしかして代議政治は民本主義の要求を如実さながらに現わしたものでないからそれ自身固有の欠点を有するものであるただこれを措いて外に我々はヨリよき制度を知らないから止むを得ずこれを採用して居るのであるされば我々はこれに由っては完全に民本主義の要求を満足する事が出来ないことは初めよりこれを認めざるを得ない代議政治に伴って種々の弊害に困しむのはこの点より見て実は怪しむに足らないのであると。この説は我が国にも往々にしてこれを聞くが、西洋においては大陸諸国においてしばしば耳にするところのものである。しかしてこの説は従来、いかにかしてその弊害を減少せんとの希望からして、いろいろの矯正策の研究を促した。もっとも現在の代議制度に対する改善矯正の必要は、第一種の代議制度を謳歌する者の間にも講究されておった。この点から見れば代議制度の改善矯正という問題は実は両者共通の問題であった。ただ異なるところは、後者は現在の代議制度の弊害を以て代議制そのものに固有なる欠点に源を発するものなりとなし、前者は代議制そのものには何らの欠点あるにあらず、ただこれが組織並びに運用に宜しきを得ざるものあるがために改善の必要ありとするにあった。即ちその短所弊害の由来本質に関する見解を異にしておったのであるが、研究の方面は両者ほぼ同一であった。あるいは選挙法を改正するとか、あるいは議院の組織を改善するとか、共に同じような事を着眼しておったのである。しかるに最近に至ってこの第二種の考えは段々極端に走って終にあるいは全然代議制度を無用とするの説を生じあるいはまた代議政治の基礎に重大なる動揺を来すが如き新制度の採用を説く者を生ずるに至った
 代議政治の無用を説く者の中に、貴族政治に復らんとする者あることは已に説いた。しかしこれは民本主義を否認するか、少なくともその当然の適用をぐるものであるから今ここに問題とする限りではない。ここに問題となるのは、初めから民本主義を承認しこれに極端に忠実ならんとするの口実の下に代議政治の無用を説くの説である。即ち代議政治は民本主義の理想に合致しない。従来は外に仕方がないから我慢をしておったけれども、その弊の甚だしき、もはや今日は我慢が出来ぬという立場から、遂に代議政治は民本主義の要求に応うるの外貌の許に実は民本主義に敵するものなりとなし真に民本主義に忠ならんと欲する者は須らく代議政治を真向まっこうに否認せざるべからずと論ずるに至ったのである。この議論の明白なる代表者は、近時仏国に起って伊太利、英吉利、亜米利加等に段々蔓衍まんえんして居るサンジカリズムの議論である。彼らは曰く、選挙という段階は、多くの場合において、選挙人と被選人との意思的支配関係を紛更し、民衆一般の意思の正当なる代表は議会において曲げらるることを常とする。故に議会制度は、民衆の意思をして政治上における終局の権威者たらしめんとするの本来の理想を決して完全に実現するものではないと。こういう立場から、代議政治の効用を疑い初めたのであるが、更に下層の労働者は、従来の経験に徴して、議会が到底労働者の支配の下に来らざることを見、つくづくこの感を深うした。元来下層民衆は、数においては遙かに中流上流を凌駕する。故に彼らは代議政治の下においては自己の代表者を以て容易に議会の多数を占領することを得べしと考え、かくて結束して社会党というものを作ったのである。しかるに実際彼らによって挙げられたる代議士は、その数において思う通り多きを得ざるのみならず、一旦当選をするとその選挙区内の多数者たる労働者よりもむしろその区内の有力なる有産者の左右するところとなりがちである。その外無論いろいろの細かい理由もあるが、ともかく議会によって下層民衆の目的を達せんとする当初の期待は経験上木にって魚を求むるよりも困難なる夢想に過ぎないものとなった。ここにおいて彼らは代表の名に惑うて安心するの危険を絶叫し議会によって自家階級の目的を達せんとするの思想を断じて排斥すべきものなりと叫びいわゆる政治反対の旗印を翻した。「政治反対」とは実は選挙を基礎として立つ一切の政治に反対するということである。彼らは、国家が選挙権を労働者に与うるは、あたかも砂を投じて吾人の目をくらますが如きものなり、この虚偽の好餌に迷うて労働者の敵と事を共にするなかれと称し、この点においては社会主義者に対してすら激烈なる反感を示して居る。何となれば、社会主義者は選挙において他の階級と争うからである。サンジカリストはたとえ社会主義者の候補者に向ってでも断じて投票してはならぬと勧告して居る。しからば彼らはいかなる手段によってその目的を達せんとするかというに、即ち「直接行動」ということを説く。選挙だの議会だのということは、法律その他の国家的の間接の設備を俟つのであるからそれでは駄目だ。労働者は須らく自ら直接に且つ現実に自分の力に訴えて目的の貫徹を計らなければならぬというところから思うところを直接の行動にあらわせと説くのである。しかして今日この直接行動は実に腕力の形式をとって居る。この事について彼らは言う。我々は直接行動を現わすに必ずしも暴力に訴うる積りはない。けれども今日上流の階級が我々を圧迫するのは実にこの腕力の手段によって居る。しからば我々の自己解放もしくは自己防衛の運動もまた同じく腕力の手段に出づるは止むを得ないと。かくて彼らはあるいは示威運動をなし、あるいは同盟罷工をなし、殊に彼らは罷工の範囲を鉄道、炭山、電燈等、凡そ人類の日常生活と直接密接の関係ある種類に選み、最小の労力を以て最大の苦痛を社会に与え、以て社会を屈して自家の要求を無理にも容れしめんと企てて居る。彼らは国家を無視し、現に「労働者には祖国なし」と称し、「愛国の美名に迷わされて上流階級の奴隷となること勿れ」と教えて居る。従って戦争などに際し、一国が危急存亡の淵に臨んで居る場合でも、特に武器弾薬の製造所などをえらんで、彼らは労働者を煽動し、以て国家に甚大の苦痛を与えんとして居る。戦争の場合に、直接これに関係ある労働者に総同盟罷工を実行せしめんとするのは、サンジカリズム年来の宿論にして、年々の決議にもこの事は現われておった。
 右は極端な例であるが、そこまで極端にはしらなくとも、代議政治の欠点を認めてこれに重大な補正を加えんとするものにかの人民投票の説がある。即ちこの説は、民本主義の本来の主義から言えば人民が直接に政策の決定に与った方がよい。けれども総ての場合に人民の意見を聞くということは事実不可能である。けれども、代議政治のみに任しておっては民本主義の要求は十分に貫徹するを得ない。ために時々民意に反する政策の決定を見る事があるから、普通日常の事務は従来通り代議政治に任すとして国家の重大事殊に人民の生活関係の上に直接重大の影響を及ぼす如き事項に限っては例外として人民全体の投票を求め以て代議政治の欠点を補い民本主義の要求を少しでも十全に貫くということにしたい。こういう趣意で最近人民投票ということが諸国においてボツボツ唱えらるるようになったのである。もっとも一概に人民投票というても細かく見るとこれに二つの種類がある第一は洋語イニシアチーヴというもので、人民の方から進んで或る種の立法を議会に建議するのである。これは最近瑞西スイスを始め米国の二、三州に認めらるるもので、全然新しい制度である。これに反して第二は議会で決定した事を更に人民にはかるもので、洋語レフェレンダムと称するものである。この制が代議政治の欠陥補正の意味で憲法上に認められたのは十九世紀中葉以来の事であるけれども、制度そのものは実は近頃に初まったものではない。この制度は十五、六世紀の頃から瑞西の諸国にあまねく行われたものである。近世の意義における憲法の上にこの制度の認められたのは、一八四八年瑞西国の一州スウィツ国が初めであり、次いで一八六九年同じく同国の一州ツューリッヒに行われ、それから各州に拡がったといわれて居る。一八七四年の瑞西連邦の憲法もまたこれを認めて居る。もっともこれらの制度を細かく調べて見ると、あるいはこれこれの問題は必ず人民全体の票決を得なければならないといういわゆる義務的のものあり、または人民の一定数の要求、もしくは連邦に属する何州以上の要求ある時は人民投票を行うという選択的なるものもある。その細目の点は区々として一に帰せないが、しかしこれらの制度は瑞西諸国においてその初め特別の理由によって永く行われ来ったので、代議政治の欠点を補うというような新しい考えで出来たものではない。瑞西連邦の憲法にこれを認むるも、当初の主意は旧来の惰性としてこれを認めたに過ぎない。されば新しい考えに基づいてこの制度の採用された最初の憲法はといえば、一九〇一年一月一日から行われた濠洲〔オーストラリア〕連邦の憲法を数えねばなるまい。この憲法はその第百二十八条において、凡そ憲法の改正案はまず議会の各院において絶対多数によって通過し、それから、二カ月以上六カ月以下の期間内に、各州において下院議員の選挙権を有する人民の票決に付するを要すると定めてある。この憲法の外にはこれを実際の制度として採用して居るものは余りない。
 何故に人民投票制は実際上余り採用せられていないか。そは思うに、理論は別として実際は極めてこれを行うに不便であるからであろう。第一人民全体の意見を聞くということは、問題を「然り」「否」によって決し得るが如き最も単純な形にしなければ事実行われない。それにしてもこの方法の実行は事実極めて困難で且つ不便である。もっとも地域人口の狭小なる地方町村などにおいては比較的行われ易い。それでも住民の密集して居る都会でならば幾分行われ得るも、しからざる村落では極めて結果がよくないということである。地方団体において人民投票を行うの例は、瑞西国において相当に頻繁にこれを見るが、その結果は公平に言うて非常な不都合もないが、さればと言うて代議政体の欠点を補うという程の積極的の利益もまた無いとの事である。しからば徒に面倒な手数をかけて馬鹿げた無用の事をするというに過ぎないこういう風に観られて居るので人民投票ということはつまり実験上余り好結果を奏せないものとなって居る。けれども理論の上からは、今日なお欧米の諸国においてもこれによって代議政治の欠点を補うべしとの議論が時々唱えられて居る。
 かくの如く、人民投票は代議政治の欠点を補うとは言うけれども、実際の効用は極めて少ない。のみならずこれを頻繁に行う時は、代議制の根柢を動揺し、その円満なる発達を妨ぐるの恐れがある。故に代議政治が比較的よく運用されて居る国においては、この問題は従来余り唱えられなかった。しかるに不思議にもこの問題は近年に至り代議政治の本場とも言うべき英吉利において頗る盛んに唱えらるる事になった。これによって人あるいは英国においてすらかくの如し。代議政治はいよいよ世界の信用を失い今や正に衰亡に近づけりというものがある。しかしながら暫く皮相の観察を止め英国においてこの議論がいかにしてまた何故に唱えられたかを少しく詳かに考察して見るならば吾人は容易に右の論者の説の必ずしも正当にあらざることを了解するであろうなぜなれば英国において近年レフェレンダムの説は統一党が自由党の挑戦に応じその強襲的圧迫を押し除けんがために唱えられたのであるからである。英国では、人も知る如く、下院においては選挙の模様によってあるいは統一党多数なることありあるいは自由党多数なることあり、彼此相交代するけれども、独り上院は統一党が五分の四以上を占めてつねに変ることがない。従って統一党が内閣を組織する時は、政府と上下両院の議とは容易に纏まるけれども、自由党が天下を取って居る間は、政府は常に上院において統一党の反対を招くことを免れない。そこで自由党政府はグラッドストーン以来常にこの上院の反抗には困しんだものだ。しかして現自由党政府も先年まずロイド・ジョージの財政改革案において上院と大衝突を来した。しかして今度の戦争前に在っては、そのアイルランド自治問題について、また上下両院相反撥しておったこと、人の知るところである。しかして自由党政府は、上院を今のままにして置いては到底自由党政府の政策はこれを実行するによしなきことを思い、ために先に二つの案を立てて上院に肉薄せんとしたのであった。一つは新たに数百の新貴族を作り、これによって上院における自由党員の数を統一党より多からしむるの案、他は衆議院の決定に対しては一定の条件の下に上院は必ず服従せねばならぬということに定むるの案である。しかして第一は貴族院に根本的革命的の改革を加うるものなるが故に、これは最後の手段として取って置き、差当ってはまず第二の案を以て貴族院と争うことに決したのであった。くわしく言えば、財政的法案に関しては、下院の決定に対して上院は異議を挟まざることとなし、それ以外の一般的法案については、下院において三度続いてこれを可決したる場合には上院の否決に係らず、国王の裁可を得てこれを法律とすることが出来るということに定めんとした。なおこの事は後に再び詳しく述ぶるが、とにかく自由党政府はかくの如き案を具して上院の反対党に屈服を迫った。もしこれに応ぜずんば、むなく政府は新自由党貴族を沢山作って貴族院に根本的改革を加うべしと威嚇した。この時在野党は、党内に無論いろいろの異論があったけれども、結局最後の致命的打撃を貴族院の組織の上に蒙るよりも、政府の提案を容るる方がまだしも得策だというので恨みを呑んで屈服した。がこの際統一党員中には退っ引きならぬ政府のこの強襲に対して万一の活路を見出さんがために人民投票ということを唱え出したものがあったのである。そもそもこの問題を主題として争った総選挙の結果は不幸にして政府派の勝利に帰した。政府党が多数を占めておっては屈服するの外はない。が、しかし万に一つ人民投票でこの勢いを翻すことが出来ぬとも限らぬ。しかも人民投票は人民を重んずるという英国本来の政治主義に一見よく適合するので、さてこそ統一派は万一を僥倖して最後の決断を人民の投票に求めんと主張したのである。必ずしもレフェレンダムを以て本来推奨に値するというような確信に基づいて唱えられたものではなかったようだ。これと同じ理由の許にこのレフェレンダムの説は去年の春頃にも特にやかましく唱えられてあった。そは即ち愛蘭自治問題の討議の際においてである。前にも述べた上院の権限を縮小せんとするの法案は、一九一一年八月、国王の裁可を得て「議会法」として発布になったのであるが、政府は今やこの法律によっていよいよ愛蘭自治問題を解決せんと決心して居る。元来この問題はグラッドストーン以来自由保守両党の火花を散らして相争える歴史的難題である。これで敗けては大政党の面目が立たない。そこで反対党はあらゆる手段に訴えて政府の施設に妨害を加えた。果ては愛蘭東北の一角アルスターの統一党員を煽動して内乱を起さしめんとさえした。ロード・カーゾンの如きは、自らこの義軍の頭領たらんと豪語して愛蘭に赴いたのであった。ちょうど戦争の直ぐ前、英国政界の危機は正にその頂点に達し、独逸はために英国はもはや外を顧みるの余裕なかるべしと想像したとさえ伝えられて居る。それ程の大問題であったから、統一党はいかにもして愛蘭自治の実現を妨げんと欲し、その一手段としてここにまたレフェレンダムの説を唱え出したのである。在野党は曰く、かくの如き重大なる問題は、出来るだけ鄭重の手続を尽くし、念には念を押すを至当とする。それには議会の決議だけでは不充分である。この外更に人民一般の意見をも直接に徴して、真に民意のあるところを慎重に究めてから、決行すべきであると。この口実の許に彼らは熱心に人民投票の説を主張したのである。さて内乱の徴いよいよ明白となるや、政治家の中頗る形勢の重大を憂慮するものあり、在朝在野両党の間に立って親切に斡旋の労を取るものさえあったが、その際にもやはり妥協の条件としてレフェレンダムの説を担ぎ出すものがあった。在野党はう、この方法でいよいよ敗北をすれば、その時には立派に兜を脱ぐ。しかしこれに由って真に民意のあるところを明らかにせざる以上は、たとえ議院多数の決議ありといえども直ちにこれに屈する事は出来ないと。こういうような理由で英吉利においては最近レフェレンダムの主張を見たのである。これらの沿革を明らかにする時は、英国の政治家が一般の主義としてレフェレンダムを賛し、これを目して必ずしも代議政治と相並んでその欠点を補うに足るものとなせるにあらざることは明白である。
 以上の如く今日代議政治に対しては、この制度に固有する欠点を認むるものあり、しかしてその中にはあるいはこの制を絶対に否認するものあり、あるいはこれに重大なる補正を加えんとするものもあるが、しかしこれらの説が実際上いずれも大した勢力のある説でない事は、已に明白であると思う。しかしながら代議政治の欠陥を認むる一派の説はこれで尽きたのではない中には代議制に伴う諸々の制度の上に種々の改善を加えてその円満完全なる発展を見んとする議論もまた相当に強く唱えられて居る。この事は、我々のまた注意せねばならぬところである。しかしてこの種の改善論は代議政治そのものに固有の欠陥を認めざるものの間にも唱えられて居る事は、已に述べた通りである。これを要するに代議政治に固有の欠陥を認むるものもあるいはこれを以て民本主義の要求を完全に満足せしめ得べき性質を有する制度なりと認むるものも共に代議制の今日のままに放任し置くべからざるを説くのは同一である。換言すれば彼らは皆これに幾多の改善を加えざれば、代議政治はそのままにては憲政の本旨を達し得るものに非ずと認むるに一致して居る。かくて今日では代議制度が幾多の改善の加えらるべきものなる事一般に認められて居るこれ則ち我々が更に大いに研究努力して憲政有終の美を済さしめざる可からずという所以である。しからば問う。今日の代議政治の許において吾人はそのいかなる部分にいかなる改善を加うるを以て当面の急務とするか
 代議政治においても政界の根本勢力の、人民に在らねばならぬことは言うを俟たぬ。しかるにいかなる形式の政治においても政権の実際的運用を司るものは常に広義の政府である。しかしてこの政府の行動に対して人民は直接にこれを指揮監督するにあらず、代議士団という仲介者をしてその任に当らしむるというのが、代議政治の特色である。ここにおいて代議政治においてはこの仲介者がよく民意を尊重し且つ適当に政府を監督するということが最も肝要な事になるかくて我々は代議政治においては最も着眼を要する二つの方面があるということを認めざるを得ない。一つは人民と代議士との関係である。他は代議士と政府との関係である。この両種の関係が民本主義の本旨に従って最も適当に組立てられて居る時に代議政治の運用がその宜しきを得るのである。しかるに多くの立憲国においては、この両種の関係が不幸にしてその宜しきを得ていないこと決して珍しくない。ためにいわゆる立憲の諸制度は徒に形のみ備わってしかもその運用の実果挙らず、以て民本主義の本旨と背馳するものまた極めて多い。故に我々はこの両面の関係を一々立ち入って吟味し、いかなる点に欠陥の伏在するやを調べ、以て憲政の順当なる発達を阻礙する要素あらば速やかにこれを取除くを心掛けねばならぬ。

人民と議員との関係


 人民と議員との関係について最も大事な点は人民が常に主位を占め議員は必ず客位を占むるということである。この関係を正当に維持する事は、憲政運用の上に最も肝要とするところである。凡そ憲政の弊害は総てこの関係の逆転から来る。独り議員人民の関係ばかりではない。議会と政府との関係もまた同様である。政府を監督すべき議会が政府の籠絡するところとなる時に多大の弊害を生じ、またこれと同じく議会を監督すべき人民が議員の操縦するところとなる時に、憲政の運用はここに幾多の醜悪なる腐敗を以て満たさるる。政府は利を以て議員をさそい、議員また利を以て人民を惑わし、かくして主客その地位を転倒して憲政の組織はあらゆる悪徳を以て満たさるる事になる。故に我々はいわゆる政界の廓清かくせいを計りて憲政の順当なる進歩を見んとせばまず以て議員と人民との関係を正すことに綿密なる注意を加うるを必要とするしかしてこれがために採るべき方法は差当り少なくとも三つあると思う
 第一選挙道徳を鼓吹する事 選挙道徳を説くの必要なる事は、曾て拙著『現代の政治』中「議員選挙の道徳的意義」の篇に詳らかに説いたことがある。特志の読者は別にこれを参照せられたい。ただ一般読者のために簡単にその要点を申せば、元来道徳には選挙道徳だの商業道徳だのといろいろの種類のあるべき筈のものではない。けれども我々はとかく、永い間我々の生活に関係のあった事柄については、そこに一定の慣例因襲が出来るので、自然一種の社会的制裁の支配を受け、相当の徳義を守ることとなるのであるけれども、新奇の事柄が起ると、従来の因習しきたりもないので、まるで徳義を省みないというような事に成りがちである。日本人同士の商売に道徳を守っても、相手が外国人であると丸で約束をも守らないというが如きは即ちこのためである。従って選挙というが如き新しき制度の運用に当っては、とかく我々に道徳が立派に守られない嫌いがある。予輩は日本人一般の道徳的思想というものを押しべて非常に低いものとは思わない。けれども選挙については、そが新しい経験に属するためにや、甚だしく道徳が無視されて居る事を遺憾とする。ここにおいて我々は国民に向って大いに選挙道徳を鼓吹するの必要を感ずるものである。
 しからばいかなる点をとくと国民に了解して貰うのかというに、一つは我々の投ずる一票が一票としては甚だ無力のように見えるけれどもしかしこれが実に国家の運命に関わる重大なる価値あるものであるということである。僅かの金銭や脅迫等のために左右せらるるには余りに神聖なものであるという事である。二つには投票は国家のためにするものであって地方の利益のためにするのではないという事である。地方的利益のみを着眼して選挙するのは、往々にして国家全体の利益を犠牲にするの結果を生ずるの恐れがある。三つには選挙は我々の特権であって候補者から頼まれてするものではない我々が自ら進んで適当なる候補者を国家に推薦するのであるということである。この三つの点をみじみと人民の頭に入れることが今日実に極めて肝要である。中にも第三の点は最も肝要であってこの点が明白でないと往々にして腐敗手段の跋扈ばっこを来すことになる。即ち自分の特権と考えない結果として、あるいは田舎などで小作人が地主や資本家などのいう通りになるという現象を呈する。また選挙民を強いて選挙場にらっし来るために投票勧誘人即ち運動人というものが必要になり、また選挙民に頼まれれば投票するという考えがあるの結果として戸別訪問という馬鹿げた事が流行することになったりする。これ皆権利思想の明白でないためである。
 立憲政治の選挙競争に、堂々たる候補者が戸別訪問をしたりまたは多数の運動員を使うということは、決して国家の誇りではない。しかも弊害の源は常に運動員に在ることは深くいうを俟たぬ。もしそれ一町一村の選挙民が二、三の金持のいう通りになるようでは、そこに隠密なる腐敗手段の盛んに行わるべきことは問わずして明らかである。故に我々は世の教育家その他の先覚者と共にあらゆる機会においてこの選挙道徳を国民に鼓吹したいと思う。もし当局者にして教育機関を通じて国民に立憲思想を鼓吹せんとする考えがあるならば、主としてこの方面を専ら鼓吹すべきであると思う。
 しかしながら選挙道徳の本当の徹底は実際上選挙権の拡張を伴わなければ効果が挙るものではない。選挙権を極端に制限しておっては、せっかく選挙権の尊ぶべき事を説いても、国民の多数はこれ我に関わりなき問題なりとして深く意に留めぬだろう。ちょうど徴兵制度を布いてない英国の労働者が、自らの仲間から出征軍人を出さないために、頗る戦争に冷淡であるのと同様である。選挙に興味を有たしめ選挙道徳に多大の注意を払わしめんとするにはどうしても広く選挙権を一般に与うることが必要である。この事は後に選挙権拡張を論ずる際に更に精しく説くの機会があろう。
 これと牽連してモ一つ注意すべきことは人民に与うるに各種の意見を公平に聴取するの機会を以てするの必要なることである。換言すれば思想の自由言論の自由を尊重して、人民をして妨げなく各種の意見に接し、その間に自由の選択、自由の判断をなすことを得せしむることが必要である。予輩が先に選挙道徳を鼓吹するの必要を説きたるは、国民をして最も公正なる判断をなさしめんがためである。利益や脅迫に動かざらんことを希望するからである。しかしせっかく人民の心的準備が出来上っても、言論の自由が重んぜられずして、或る一種の思想、殊に民本主義の要求には余り適合しないような思想のみが、人民の眼前に現わるるようでは、やはり好結果を齎すことは出来ない。立憲政治の妙趣は人民の良心の地盤の上に各種の思想意見をして自由競争をなさしむる点にある。いわゆる優勝劣敗の理によりて高等なる思想意見が勝を制し、これが人民の良心の後援の下に実際政治の上に行わるる点にある。これには思想言論の自由という事が必要である。故に吾人は選挙道徳を鼓吹すると共に、また大いに思想言論の自由を尊重しまた尊重せしめなければならぬ。しかしてここにいわゆる自由とは、啻に法律上の自由ばかりではない社会上の自由をも意味する。元来思想言論の自由に対する圧迫は、独り政府よりのみ来ると思うならば誤りである。しばしばまた民間よりも来るものである。政府の圧迫は比較的これを指摘しこれを防禦するに易いが、民間の圧迫は、往々輿論の形において発現するが故に、これを戒むること、時として甚だ困難である。先年かの乃木大将自刃の際、少しでもこれに疑点を挟むものを国民が非常に罵倒し迫害し、果てはその邸内に石を投げ込むというが如き挙動に出でたのであったが、これなどは一面において大将の徳をしたうという美徳に淵源しても居るだろうけれども、他方たしかにこれは言論の自由に対する盲目的圧迫の明白なる一例である。新時代の国民の正に心して戒むべき事に属する。これらの点もまた我々が識者と共に大いに力を尽くしてその反省を国民に※(「不/見」、第3水準1-91-88)もとめねばならぬ点である。
 以上は識者先覚者の社会的に努力するによって達せらるべき方面であって、最も根本的の重要なる点であるが、なおこのほかにこれと牽連して制度の上に改善を計るべき方面が二つある。一つは選挙取締の事に関し、一つは選挙権拡張の事に関する。そこで、
 第二に予は選挙法中取締規則を厳重にし且つこれを励行することが必要であると主張する しばしば説くが如く、憲政の運用に最も憂うべきことは主客の顛倒である。議員が人民を籠絡する時は、必ず腐敗と悪政とが跋扈する時である。これに反して人民が議員を支配する時に、初めて憲政の運用は適当の順路を取る。故に議員と人民との間に行わるる醜穢の手段は特に厳罰を以てこれに臨むの必要がある。普通刑法上の類似の罪に比して、選挙法上の罪は更に厳重なる所罰を必要とするのである。しからずんば憲政は逆転して天下は悪政の横行するところとならざるを得ない。故に取締規則を厳重にしかもこれを厳格に励行するということは、極めて必要である。この点は各国皆共に心を注いで居る点である。細目の事は各国選挙法の比較研究に譲るが、この点については我が国の選挙法も実は相当に厳しく出来て居る。ただ遺憾に思うのはその励行において未だ十分ならざるところあり、甚だしきは往々政府自ら自党の運動に対してこの点を寛大に取扱わんとするの傾向ある事である。予輩は最もこの点について情実の行わるるを忌む。選挙罪悪は出来るだけ厳しくこれを糺弾するに非ずんば憲政の成績は挙るものではない
 なお取締規則の事についてモ一つ更に注意すべきは、立憲政治においては例えば収賄罪の如き場合において取るものよりもむしろ与うるものの罪を重くせねばならぬという事である。凡そ人間はいくら立派になっても、誘惑を蒙り易い地位に置けば、人情としてこれに陥り易いものである。故にいかに選挙道徳を鼓吹しても、賄賂などを使うものがあっては、選挙界の廓清は期せられない。現に買収の歴史を見ても多くは選挙人よりこれを求めたるにあらずして議員候補者の方よりこれを提供するのが常である。故に大体において人民には罪がない。与うるものがあればこそ、これを受くるのである。しかして賄賂の行わるるは、選挙を不真面目にするのみならず、後には選挙を自己の特権とするの観念を弱め、結果が更に原因をなして、ますます選挙界の腐敗をしげくする。故に選挙取締の規則においては、受くるものよりも与うるものに厳罰を加うることにしなければならぬ。次に、予は
 第三に選挙権は出来るだけこれを拡張することが必要であると主張する 選挙権が限られて居れば腐敗手段が無遠慮に行われる選挙権が極端まで拡がって来ると到底買収などはし切れなくなるのみならず候補者は金銭その他の利益を以ては到底争い切れなくなるからそこで初めて真面目に自分の識見人格を赤裸々に民衆に訴えて競争するということになる従ってまた一面に国民は大いにこれに由って政治教育を受くるの機会を得ることにもなる。今日のように選挙権を制限して置いては、必ずしも自分の識見人格を訴えなくとも競争に勝てる見込があるから、政党などですら甚だ民間の政治教育を疎略にして居る。故に選挙界の廓清を計るということから観ても、または民智向上の傾向を促進するということから観ても、選挙権の拡張は極めて必要であると信ずる(『現代の政治』五一―五六頁参照)。もっとも選挙権の拡張は以上の立場からばかりでなく選挙の本質に関する理想上の要求としても唱えられて居る。そは、一体選挙ということは広く国民一般の代表者を挙ぐるというが本来の趣意である。もっとも乾燥な法律論よりいえば、選挙は委託に非ず、代議士は国民の代表者に非ずというかも知れぬ。けれども政治上代議士が立派に国民の代表者たることは一点の疑いはない。従って代議士は一部分の階級のみの代表者であってはならない。故にその選挙にあずかるものの範囲は、出来るだけ広きを可とする道理である。昔は天賦人権説などを楯として、凡ての国民の参政権を享有すべきを主張するものもあったけれども、この論の今日に通用せざるはもとより論を俟たない。一部の人はまた今日国民一般の普ねく選挙権を有せざる可からざる所以は、国民が一般に納税と兵役との義務を負担して居るがためなりという者もある。しかしこの論もまたもとより誤りである。何となれば、選挙権はもと国家に対する国民義務の報償として与えらるるものでないからである。故にこれらの論拠より選挙権の普及を説くは誤りである。けれども、しかし選挙の目的が本来国民一般の全体の利益を代表せしむるにあるという政治上の根拠は、今も昔も変らない。そこで我々はこの本拠から選挙権は出来るだけ広き範囲にこれを与うるのが正当であると考えるのである。もっとも出来るだけ広き範囲にこれを与えよというのは必ずしも無制限にこれを許せという意味ではない選挙の目的を達するために必要上または便宜上或る種類の制限を付することはこれを認めなければならない。例えば幼者狂者犯罪人貧民救助を受くるもの破産の宣告を受けたるもの等は、初めからこれを除外せねばなるまい。また一年以上同一選挙区内に住所を有するを要すという条件の如きも、一つには名簿調製上の便宜のために、また一つには定住なき浮浪の徒を除外するために必要であろう。それ以外において更に婦人を除くべきや否やはけだし将来の問題である。今日のところは一般に選挙権は男子の専有に帰して居る。もっとも婦人に参政権を与えて居る国もないではない。例えば露国の芬蘭〔フィンランド〕議会、濠洲〔オーストラリア〕連邦及びその各州ニュージーランド北米合衆国中の数州の如き即ちこれである。欧洲における独立国としては那威〔ノルウェー〕が已にこれを与えて居る。もっとも那威においては、初めは女子に限って相当の制限の下に選挙権を与えておったのであったが、一九一三年以来、男子同様普通選挙制を適用する事にした。しかしてこれらの国を外にして今日少なくとも婦人参政権論が欧洲各国に盛んであることは人の知るところである。
 さもあらばあれかく理論上の要求としては出来るだけ選挙権を広く与うべしというに拘らず実際上種々の制限を設けて居るもの近世各国中甚だ尠くはないその理由にはいろいろあるがその主なるものを挙げると次の二つがあると思う
 第一はたとえ青年男子のみを取るもその中にはなお多数の権利行使に適せざるものがある即ち選挙という公権を実行する程智見の熟せざるもの尠くないというところから制限制度を是認せんとするものである。しかしながらこの説が非常に教育の程度の低い国においては適用あるかも知れぬが、今日の開明国にはもはや通用しない論である。その上今日の立憲政治は、人民に非常に高い見識を要求するものではない。この事は已に先にも詳しく述べたのである。今仮りに一歩を譲って論者の説に一応の理ありとしても権利行使に適するものと否とを何によって区別するか。この点が甚だ明白正確でない。今日現に不適者淘汰の標準として採用せられて居るものは、教育上の制限と財産上の制限と二つである。教育上の制限にはあるいはこれを絶対的の要件とするものあり、即ち一定の学校教育を受けたものに非ざれば選挙権を与えずとするものがある。けれども今日は学校の教育のみが人類教養の有無を分かつものではない。且つまた今日学校教育の非常に普及した世の中においてはこの標準は大した実用が無いかも知れぬ。いずれにしても教育資格を絶対の要件として挙ぐるのは時勢後れである。次にあるいはこれを財産資格に代るを得るものとするのがある。即ちまず財産上の制限を設け、その制限に入らざるものも一定の教育あるものには選挙権を特に与うるとするのである。これは財産的制限の高い国には必要な制度であろう。現に洪牙利ハンガリーに行われて居る。現に我が国でも大隈内閣はこれを採用せんとするの意嚮ありと伝えられて居る。またあるいはこれを複数投票を与うるの要件とするものがある。即ち国民一般は一票の投票権を一様に有って居るが、特に一定の教育を受けたものには二票三票を与うるというのである。現に白耳義ベルギー及び独逸のサキソニーに行われて居るが、この方法は理論上は面白いが実際上は特権階級の擁護に悪用せらるるの傾向ありとて、これら諸国においても批難せられて居る。これら三つの種類があるが、要するに教育上の制限ならば畢竟は蛇足に過ぎまいとは思うけれども、これを設けても大した弊害はない。けだし甚だしき高き制限に非ざる以上、教育の普及したる今日、この制限はあるも無きも同一なるべきを以てである。しかるに納税または財産上の制限ということになるとこれは実に今日の時勢に適せざる極めて不当なる制限である。何となれば今日にあっては財産の有無はもはや人類教養の有無を分かつ有力な標準ではないからである。もっとも財産もしくは納税上の制限が選挙権享有の必要条件となった沿革については相当の理由がある。その訳はこの制度の起源たる英国の国会というものは、モトモト租税を承諾し、予算を討議するための機関であったからである。されば初代の英国国会に在りては租税を納むるものでなければ議員となるの必要がなかったのである。しかして今日の国会はもはや昔とは丸でその意味を一変して居るのだから、昔と同じ理由で以て仍然じょうぜんこの納税資格を法律上に認むる事はもちろん出来なくなった。もし今日においてもなおこの資格制限を維持せんとせばあるいは恒産なきものは恒心なしとかまたはこの制限を設けざれば浮浪の徒また政権に与るの危険ありとかいう類の理屈をねなければならぬ。けれども浮浪の徒の政権に与るの危険は、前に述べた通り、住所の制限によりてこれを防ぐことを得べく、また一定の財産を標準として機械的に恒心有るものとこれ無きものとを分かつことは事実不可能であるが故に、畢竟この種の制限は今日何らの意味が無くなったものといわざるを得ない。故に多少の制限を選挙権の範囲の上に加うるの必要がありとしても財産の有無を以てその標準とするの不当なるは今日は已に余りに明白である。ただしからばこれに代りていかなる標準を採りて制限の基礎とすべきやは極めて困難なる問題である。けれども今日の多数説に従えば制限を付するというその事自身が、已に漸く合理的の根拠を失いつつあるのである。
 第二に選挙権を制限すべしという議論には更にこういう理由を挙ぐるものもある曰く選挙法の目的は一つには適任者を得るに在る何人が適任者なるかは多数の能く決し得るところではなくして少数者のみよくこれを知って居る故に選挙権を制限するは即ちこの目的に協う所以であると。けれどもこの説は選挙権を極度に制限して、一代議士の選挙に与るものの数を十人とか二十人とかに限るならば、あるいは正当という事も出来るが、現今の如く数千数万の人が係わるという場合においては制限選挙も普通選挙も実は五十歩百歩なりといわざるを得ない。故に特に制限選挙でなければ適才は得られないという実際上の根拠あるのではない。それならば選挙人を非常に少数にすればよいかというにこの場合は一見可なるが如くにしてその実却っていわゆる主客顛倒の形を馴致し候補者が不正手段を以て選挙人の意思を籠絡するという弊を導き易い。現に選挙人の極めて少数なる例はこれを間接選挙制度==人民が選挙人を選び、選挙人が更に代議士を選ぶ制度==に見るが、この制度の実際上の経験に徴する時は、亜米利加の大統領選挙の場合におけるが如く、人民が余りに政治に熱心なるがために選挙人は全然人民の意思に左右せられ、以て間接選挙をして有名無実に終らしめて居るのもあるけれども、普魯西〔プロシア〕の下院議員の選挙においては、人民頗る冷淡なるの結果、少数なる選挙人の専横を来し、ために議会においては特権階級の大跋扈を見て居るのである。要するに選挙人の数を制限する時は、あるいは専制者流の乗ずるところとなり、あるいは腐敗手段の毒するところとなり、いずれにしても良結果を社会に与うることはない。即ち請託、買収、脅迫等の不正手段は選挙権者の数少なきに乗じて、盛んに活躍するものである。かくては選挙界の腐敗を来し、更に議会の堕落を導くのみならず、代議士をしてまた公然選挙権者一般の利益に反せしむる事になる。以て憲政の進歩を阻礙すること頗るおびただしい。この点より見ても選挙権は出来るだけ広きに及ばねばならぬことは明白である。
 選挙権が制限せられて居れば、議会は多くの場合において腐敗するか、少なくとも特権階級の利用するところとなる。かくてはせっかく民本主義の要求に促されて設けられた議会も、更に民本主義の用をなさざることになる。こういう理屈からして各国においては一時盛んに選挙権拡張論が唱えられたのであった。彼らは初め憲法の制定、民選議院の設立、この二者に由って民本主義の要求は十分にこれを満足せしめ得べしと考えた。けれども暫くして実際の経験は彼らに教うるに、彼らの要求は民選議院の設立そのものによっては直ちに満足せしめられるにあらずして、民選議院がいかように構成せられるかに由って初めて達せらるべきものなることを以てした。初め彼らは民選議院の空名を得るに急にして実質的組織の問題は深くこれを問わなかったのであるが議院設立後の暫くの経験の結果再び声を新たにして議会改造の必要を叫ばざるを得ざることとなったのである。けだし憲法政治創始当時における民選議院は、多くの国においてその構成は頗る平民的ではなかった。殊に欧洲諸国においては、民衆の勢力に迫られて憲法の制定発布を見たのではあるけれども、歴史的特権階級の惰力もまた陰然として一大潜勢力を有し、憲法は則ちこの二大勢力の妥協の結果として発生したのであるから、議会構成の上にも反動的勢力は多大の利便を留め、もしくは少なくとも彼らはここに民本主義の十分なる発現を妨ぐることを得た。即ち制限選挙制度の如き、一面においてたしかに特権階級の民衆的勢力に対する一防波堤である。これあるがために民本主義の要求は議会において十分にこれを貫徹することを得ないのである。選挙権に対する制限の憲法創設当時いかに高かったかは仏蘭西の憲法史に明白である革命後の第一の憲法(一七九一年)は、財産的制限としては、僅かに三日間の労働に均しきだけの直接税を納むるものという極めて軽微なる制限に止めたけれども、一面においては間接選挙であった。第二の憲法(一七九三年)は初めて普通選挙で且つ直接主義を認めたけれども、これは実行せられなかったのみならず、その普通選挙主義を採ったのも、天賦人権の空論に基づいたものであって、社会の現実なる要求に根柢したものではなかった。故に第三の憲法(一七九五年)では再び間接選挙で、少額の納税資格を認むるという昔の制限制度に復った。かくて革命当初は、財産上の制限は表面割合に軽かったけれども間接選挙制なるとまた年齢の制限が頗る高かったので、畢竟実際の制限は相当に高いものであった。しかるに一八一四年の王政復古の憲法に至っては、著しく反動的分子を加え、選挙権享有の納税資格は、三百フラン以上、被選挙権の方は千法以上という途方もない高いものとなった。後年多少の低減を見たけれども、その制限の高き、有権者は僅かに千分の三を算え、一八三〇年の七月革命の結果、更に財産的制限を二百法に下げても、なお有権者の数は人口総数の千分の六に過ぎなかった。今日世界において最も制限の高き我が国の現制に比してなお五十分の一である。こういう形勢であったから仏国の民衆は間もなく制限の撤廃を要求して大いに反動的勢力と争うたのであるしかしてこの運動は一八四八年の二月革命において漸くその目的を達した。これより仏蘭西は普通選挙制を取り、以て今日に到って居る。
 さて制限の撤廃に因りて、議会を改造すべしとの要求は、これと同じ理由で以て、仏国以外にも当時盛んに唱えられたのである。しかして今や仏国の普通選挙制の獲得に成功せるを見るに及んで、各国もだんだんこれに傚うようになった。かくして今日ではこの制は世界各国に普ねく採用せられて居るあるいは少なくともだんだん採用せられんとするの傾向に進んで居る。欧洲において比較的重き制限を今なお保有するものは洪牙利ハンガリーであるが、しかし洪牙利が普通選挙制を布かないのは、人種関係の上から已むを得ない点もある。洪牙利の政治的中心勢力はいわゆる洪牙利人にある。しかして洪牙利人は全人口の中においては半数に足りない。しかもなお議会において多数を占めて居るのは、制限選挙制の結果である。もし普通選挙制を布けば洪牙利人の政治的優勢は大いに動揺せられるの恐れがある。ここにおいて現在の政府党は、極力普通選挙論に反対して居るのである。それでも時勢の進運に促されて、洪牙利も近き将来においては普通選挙制にならねばならぬ勢いに迫られておったのである。洪牙利を外にしては英国和蘭〔オランダ〕が多少の制限を付している。けれども非常に軽微なる制限にしてほとんどいうに足りない。独逸国内の諸邦の中には、今日なお制限を有するものが多いけれども、最近バーデン(一九〇四年)、ウィルテンブルグ(一九〇六年)は既に普通選挙制を採り、バイエルンヘッセンも大いに制限を低下した。ただ普魯西が今なお六十余年前の旧法を墨守して三級制度、間接主義をあらためざるを最も著しい例外とすべきである。もっともこれには実は相当の理由がある。煩わしければ今は述べぬ。かくて世界の文明国はほとんど皆大体普通選挙制を採用してしまったと見てよい。故に今日東西の文明国中比較的重き制限を付するものとしては僅かに露西亜我が日本とを算うべきである。他の一般文明国においては、普通選挙制を採用すべきや否やは、すでに過去の問題にして、今日の政論には上らない。我が国においても近時だんだん選挙権拡張論は盛んになって来たがしかし普通選挙論の流行を見るまでには未だ大部時が掛るようだ。先般大隈内閣が十円の制限を低下して五円となすという姑息の案を提唱した時ですら、一部の政界に激しき反対があった位であるから、普通選挙の実現を見るはいつの日にあるか、前途遼遠の感なきを得ない。我が国の多数の識者の間には実に不思議な程普通選挙制度に対する誤解と反感とが激しい。もっともこの制度は初めは主として社会主義者の一派によって唱えられたのであった。これがたまたま誤解を招く所以となったのであろう。上流社会がこの制度を喜ばないのは無理もないとして、一般社会までがこの制度を衷心から歓迎しないのは極めて不思議な現象である。もっとも普通選挙制度の採用の案は、明治四十四年第二十七議会において一度衆議院を通過した事はある。しかして当時伝うる者は曰く、衆議院では貴族院の必ずやこれを否決すべきことを確信してこれを通過したのであると。果たして貴族院は大多数を以てこれをしりぞけたのであった。しかれどもこの点の誤解を解いて我々が衷心から普通選挙制の採用にあらずんば憲政の円満なる進行を見る能わざる所以を納得しまたこれを深く国民一般に徹底せしむるのでなければ我が国憲政の前途は実に暗澹たるものである。今日選挙権を制限して居る結果として、我が国の有権者の総人口に対する割合は、僅かに百分の三に過ぎない。昨年三月の総選挙の際に現在せる有権者数は、百五十四万四千七百二十五人に過ぎなかった。これを那威の三割三分を超え、北米合衆国の二割九分を超え、仏国の二割七分強、白耳義の二割三分、伊太利及び独逸の二割二分、更に多少の制限を有する英吉利の一割八分、和蘭の一割三分なるに比すれば非常の逕庭である。洪牙利といえども六分五厘を超え、我が国の二倍以上である。こういう風に選挙権を制限して居れば前に述べたように主客顛倒の弊に陥るの危険あるはもちろんの事選挙権は国民の公権なりという実が挙らない少なくとも国民の心頭に国民の神聖なる権利として選挙を苟且かりそめにすべからざるの念慮を起さしむることが出来ない。小学校や中学校の教師に、立憲思想の養成に努めよと言ったとて、彼ら自身は無論、彼らの親族故旧に選挙権を有して居る者が少なければ、親身にその権利の尊ぶべき所以を味わう事が出来まい。聞く者もまた同様である。自分の父兄、自分の親族やが洽ねくこれを有って居ればこそ、話を聞いても親しみがある。そうでなければ、選挙の話を聞いても自分とは風馬牛相関せざる閑談として受取るの外はない。
 かくの如く選挙権の拡張は取締法の厳重なる励行と共に我が国において焦眉の急務とするところであるこれを諸国の歴史に見ても選挙界の廓清は多くこの二事によって成し遂げられたこの二事をおろそかにしてはいかに選挙道徳を鼓吹して民間の良心を鞭撻しても憲政の理想はこれを実現するに由なきものである。とにかく選挙権拡張論は、我々の最も真面目に研究すべき問題にして、また我々は今後最も熱心にこれを唱道せなければならぬ。世間に誤解があるだけ、我々は一方には識者の反省を求め、また他方には政界の迷夢を開き、以て近き将来においてこれが実施を見んことに努力せねばならぬ。
 選挙法問題は今日どこの国でも憲政改善を説く議論の中心になって居るけれども選挙権の拡張ということは已に解決を見たので西欧各国の問題は更に一歩二歩先へ進んで居るのである露西亜プロシアとは、今なお我が国と同一程度にあるけれども、他の国は最近一九〇七年墺太利が普通選挙制を採用し、一九一二年伊太利がまたこれを採用したるを最後として、大抵解決がついた。しかして今は同じく選挙法問題を論争して居るとはいえ普通選挙制度の精神を更に能く徹底せしむるための議論である。この事は直接我が国の憲政論の上に関係はないようであるけれども、我が国における憲政の重要問題を西洋のそれに比していかに遅れて居るかを明らかにするために、簡単にこれを説こう。即ち西洋では普通選挙制は已にあまねくこれを採用した。更に飽くまでその精神を貫こうという趣意から新たに二種の問題を起して居るのである。一つは純正なる普通選挙主義の要求で、他は選挙区分配改造の要求である。第一の方はたとえ国民全般に選挙権を与えても財産教育等の標準によって一部少数の階級に二票三票を与えては名は普通選挙制でもその実制限選挙制と何らその効果を異にしないというのである。即ち白耳義では財産教育ある者に、一定の標準によりあるいは二票、あるいは三票の投票権を与えて居る。英吉利でも財産を二箇所で有って居るものは、その両選挙区において投票する事が出来る制度になって居る。これがたまたま特権階級の利益の擁護に利用さるるから、民本主義の精神の上から見てその当を得たるものではないというのである。複数投票主義の廃止が、多年英国自由党の宿論であり、また白耳義の社会党自由党の共同の主張であることは、我々の知るところである。殊に白耳義においてはこれがために保守党の政府と衝突をして、しばしば大ストライキの勃発なども見たことがある。第二は選挙区の分配を三十年も四十年も昔のままにして置いては時勢の変に伴う人口の移動に適応しなくなるというのである。時勢の進歩は田舎の人口を減じて都会にこれを集中せしむる。しかして田舎は即ち保守的思想の確実に維持せらるる処、都会は即ち過激なる進歩思想の横溢する処である。故に理論はともかくとして、保守党は旧制を維持するを利益とし、進歩派は人口の移動に従って選挙区の分配を改造する事を利益とする。こういう点からして独逸帝国においては政府と在野進歩派との間に多年選挙区の分配改造に関する争いがある独逸今日の選挙法は一八六七年の人口調査を基礎として居る。その当時の人口は三千九百七十万、そこで人口十万人について代議士一人の割合として議員定数を三百九十七人とした。しかるに最近の調査によれば、人口の全数は増して六千五百万に達し、その増殖の割合は都会に多く田舎に少ない。一八六七年の当時は、人口十万以上の都会の人口は、全体の人口の一割五分六厘であったが、現今は二割一分四厘となって居る。現に伯林ベルリンの如きは人口三百万に達するのに、五十年前の調査を本として、僅かに六人の議員を出して居るのみである。故に進歩派から見れば、もしも選挙区の分配を適当に改むるならば、自分達の党派の議員の数が、更に著しく増すという見込がある。その実益の点は暫く措いて、かくする事が正当であると主張してこの問題を争って居る。ただ独逸政府では、議会における形勢が一変して進歩派が勝利を占むるようでは、今日の軍国主義の維持がよほど危うくなるから極力この要求には反抗して居る。以上二つの問題は共に皆普通選挙制の精神をなお一層徹底的に貫かんとするに在るので今頃遡って普通選挙制を採用すべきや否やを論じて居るような国はほとんどない。これによって見ても我が国は遙かに彼らに遅れて居ると見なければならない。
 なお終りについでを以て一言したきは今日欧洲においては選挙法問題に関し大選挙区とすべきや否や比例代表主義を取るべきや否やの点も盛んに論ぜられて居ることである。最近この問題のやかましいのは仏蘭西である。比例代表主義は已に白耳義において頗る完全に行われて居る。この両者の研究は頗る興味ある問題に属するけれども、今直接の関係がないからここにはこれを説かぬ。ただ英吉利の如き政党内閣の発達したる国においてはこれらの説はほとんど問題にされていない。なぜなれば大選挙区制、比例代表制の如きは、共に少数党に代表の機会を与うるもので、ために即ち二大政党対立の傾向を紛更するからである。英国の政客は議院多数党を以て内閣を組織するの主義を金科玉条として居る。この制度の完全なる運用には二大政党の対立を必要条件とする。故にこの大勢を妨ぐるところの制度は他にいかなる理由あるに拘らず、英国においてはほとんど識者の顧みるところとならない。殊に比例代表論の採用については、一部の政客の間に熱心にこれを希望するものあり、団体を集め私財を投じて熱心にその主義の弘布に努めて居る者もあるけれども、今日までのところ更に政治上実際の勢力とはならない。

議会と政府との関係


 この関係もまた前の人民と議員との関係の如く主客順当の地位にこれを置く事が肝腎である。けだし直接に政権の運用に与るものは政府である。その政府を議会が監督する事によって、初めて政治は公明正大なることを得る。しかるに政府は実権を握って居る者なるが故に、ややもすればその地位を利用して議員を操縦籠絡し、以て本来その監督を受くべきものをば転じて自分の意のままに頤使いしせんとする。ここにおいていろいろ隠密の弊害が生ずる。いわゆる※(「さんずい+續のつくり」、第3水準1-87-29)職問題なるものはいつでもこの間から発生するものである。しかして※(「さんずい+續のつくり」、第3水準1-87-29)職問題は、普通政府側より千なり二千なりの金を議員に頒つという形においてあらわるるものであるが、千とか二千とかの金を政府側が出したというその奥には、更にどれだけの罪悪が潜んで居るか解らない。故に議会が主で政府が従たるの関係を厳重に維持するということは、憲政の健全なる運用の上に極めて必要である。
 この点についても我々は局に当る者の道徳的良心をして出来るだけ鋭敏ならしむることを根本的要件となすものであるが、しかし一般の人民とは違って、議員並びに政府当事者の如きは、いずれも国家のエリヌキの人才にして、普通の道徳上の義務責任は十分に心得て居る人々である。これに政治道徳を説くはあたかも釈迦に説法の嫌いなきに非ざれども、それにも拘らず実際いろいろの失態を生ずるのは畢竟制度の罪ではあるまいか。即ち制度に欠陥あり、ために誘惑に与うるに乗ずるの機会を以てするがためではあるまいか。誘惑に襲わるればよほどの立派な人でも過ちに陥り易い。故に悪い事の出来ないような風に初めから制度をめて置くことが実に必要である。この点より見て我々は第一には監督者たる議員の質をよくすることを焦眉の急務とし、そのためには前段に述べた議員と人民との関係を正当の状態に置く事を最先の急要と認むるものである。この点において議会対人民の正当なる関係は、議会対政府の正当なる関係の前提条件といわねばならぬ。前者を整えずしては後者を論ずるは畢竟空論である。第二には議員と政府との間に動もすれば起り得べき政治的罪悪に対して厳重なる態度を取ることが必要である。不都合な議員がある時に、人民が十分これを監督し、再びこれを代議士に出さないという事になれば、自然不心得の者もなくなる道理である。けれども、万一隠密の手段を以て誘う者あり、議員また秘密の間に不正の利益を貪って後にれるの恐れもないと信ずれば、ここに不正行為が行われぬとも限らない。かくして彼は一時良心の命令に眼を掩い、徒に政府の菲政ひせいを助けて国民一般の利益を犠牲に供することになるかも知れぬ。かくの如き不祥事の発生を避くるためには、不正の利益を受くる者にも、またこれを与うる者にも、厳重なる態度を以てこれに臨む必要がある。ここに厳重なる態度というのは啻に法律上厳しき制裁を加うるというばかりの意味ではない社会的にこれを極力擯斥ひんせき政治上においては再び起つ能わざる如き致命的打撃を与うべしという意味である。良心に忠実にして節操を重んずることは政治家の生命である。不正の利益のために意見を二、三にするが如きは、政治家としては罪これより大なるはない。一体かくの如き事の我々の問題に上るのが、已に立憲国としては不思議な現象である。否むしろ恥ずべき現象である。いやしくも立憲政治の下においては、つまらない人間は初めから議員となるべきものではない。凡そ政治は本来極めて高尚なる仕事である従って高き教養ある人士のみよくこれを司り得べき仕事である。しからば政治家に対して人格の吟味をするが如きはこれ政治家を侮辱するものではないか。人格に疑問を置かるるが如き者は、初めから政治家としての取扱いを受けないのが、西洋諸国の通例である。故に西洋では候補者の学識政見が専ら問題となるけれども、その人の人格を見ねばならぬというような事は、まず無いといってよいのである。人格の如何いかんによりて候補者の月旦をなすべしという議論のあることが、実は決して誇るべき現象ではないのである。いわんや世間一般の俗人の如く、まったく候補者その人の人格をば顧みずして、ただその撒き散らす金の高によって投票すべきや否やを決すべしというが如きは、実に浅ましき限りであるといわねばならぬ。こういう状態であるから、議員の※(「さんずい+續のつくり」、第3水準1-87-29)職問題というようなものも頻繁に起るのである。社会の選良たるべき議員がその実万人の儀表たるべき人格を備えず、従って議員にしばしば※(「さんずい+續のつくり」、第3水準1-87-29)職行為をなすものあるのは、恐らく我が国特有の現象であろう。かくの如くにしては到底我が国において憲政の進歩を見る事は出来ない。これを防ぐには繰返していうが如く、人民をして初めその選挙を誤らざらしめんことが必要であるが、また議員のその職を※(「さんずい+續のつくり」、第3水準1-87-29)すものに向って最も峻厳なる制裁を加うることも極めて必要なのである。即ちその職を※(「さんずい+續のつくり」、第3水準1-87-29)す議員に向っては、独り法律を以て厳しくその罪を罰するのみならず、我々はまた輿論の力を以て彼らを政界から葬ってしまうの覚悟がなければならぬ。
 なおこの点に関して予の更に深く世上の注意を乞わんとする点は誘わるる者よりも誘う者の罪が一層大なりという点である。この事は本誌去年十一月号の内外時事評論中「収賄贈賄罪いずれか重き」という篇中にも大浦問題に関連して説かれてあった。聞くところによれば、大浦子爵自身は初め自分の贈賄行為の不正なる所以を全然悟らなかったということである。彼はあの際もし勢いの馳するままに任して議会の解散を見るに至らば、これ実に国家に非常な損害を及ぼすものである。しかして僅々数万の金を使い、数名の変節漢を作ることによって、議会解散の厄を避くる事を得たのは、これ則ちこの小罪悪によって国家の大厄を救うものなるが故に、自分はむしろ国家のために非常な貢献をなしたものと自信して疑わなかったということである。果たしてしからば子爵の心事や誠に諒とすべきものありといえども、その思想の頑迷固陋なるほとんど度すべからざるものがあるといわねばならぬ。彼は議会解散によって蒙る一時の物質的不利益を以て、政界腐敗の社会風教に及ぼす現在並びに将来の精神的大損害よりも遙かに大なりとする点において、くまで物質主義に中毒して居るかの如くに見える。我々は無論大浦子爵一個人には何らの恩怨がない。しかしながら我が国立憲の健全なる発達のためには子爵の如き頑迷なる思想の存在を呪うものであり、更に一歩を進めて、これを受くる者よりも、これを与うる子爵の如き考えの者が、立憲政治には一番有害有毒であるとの理屈を一般に鼓吹したいと思う。もしそれ大浦子爵を以て一点私腹を肥さず、不正の財を集めてそのままこれを奉公の用のために散じたるものなりとなし、この点を捉えてここに多少じょすべきものありと論ずるが如きは、以ての外の僻論である。
 議員と政府との関係については、前述の如く議員が政府の操縦するところとなるを妨げ得たとしても、さて議員が政府に対して正々堂々の争いをなす場合に政府は政府の権限を楯に取って飽くまで議員の説に屈せざるを許す時はこれまた十分に議員をして政治監督の実をあげしむることは出来ない。議員の政府に対する道徳的独立を全うしたる上で、更に政府の非違をくまでただし、十分に議員をしてその監督の任に当らしむるためには、政府をして議会に対し政治上の責に任ぜしむることが必要である。ここにおいて政治上いわゆる責任内閣の問題が起る。即ち政治上の制度もしくは慣行として責任内閣の主義が確立するにあらざれば議会と政府との正当なる関係は完きを得ない。従ってまた民本主義の要求も十分に貫徹せらるるを得ないのである。
 責任内閣なる制度に対してまた超然内閣という主義がある。これは議会の意思に超脱して内閣は全然絶対的独立の地位を取るべしという趣意である。この主義を執れば、政府はいかに議会から反対されても、時によっては不信任の決議をされても、平気でその地位に留まるというのであるから、極端な事を言えば、どんな勝手な悪政をもどんどんこれを遂行し得る理屈になる。かくては政策の終局的決定を人民一般の意嚮に置くという趣意が通らない。故に超然内閣制は断じて立憲政治の常則ではないもっとも単純な憲法論から言えば国務大臣は独り君主に対してその責に任ずる者であるから議会の反対に逢ったからと言って必ずしも直ちに当然その職を辞せねばならぬ筈のものではない。従って超然内閣でも憲法違反にはならない。即ち違憲なりという訳には行かない。けれども立憲政治の精神に背くものなることは前述の通り明白である従って超然内閣制は非立憲のそしりを免るることは出来ない。世間往々憲法法理の議論と、憲法精神の政治論とを混同して事物の精密なる判断を誤る者あるが、この責任内閣制などを論ずる時にも、法律上許されないという違憲論と、憲法運用の精神に合するや否やの非立憲説とを混同する者往々にしてこれあるが、これは心して慎まねばならぬ。かくて憲政の円満なる運用如何の問題を論ずる場合にはただその事が違憲ならざるや否やの点のみを見たのでは定まらない更に非立憲ならざるや否やの点をも見なければならない。違憲なるものはもとより初めから問題とならない。違憲ならざるものの中にも更に細別すれば、立憲的なるものと非立憲的なるものとある。超然内閣制の如きは、憲法法理の範囲内においては許されて居ることであるとは言え、その非立憲的性質を有するの点よりして、憲政の運用においては断じてこれを否認せねばならぬものである。もしそれ国務大臣は独り君主に対して責任を有すとの憲法法理の論より出発して、政治上の内閣制度はまたすべからく超然内閣たらざるべからずと論ずるに至っては、そのあやまりなること余りに明白にして深く論弁するの必要はあるまい。
 かくの如く責任内閣の制度は憲政運用上欠くべからざるものであるが、ただ然らばいかにして議会は内閣の責任を問うやというに、その方法は一にして足らない。最も単純な方法は弾劾の制度であるけれども段々この制度は実際に余り行われなくなり今日は徒に二三の憲法上に空名を存するに止まることとなったしかして今日責任糺弾のために用いらるる普通の方法は議院内閣の制度である。従って最近においては、大抵の国において、議会に多数を占むる政党の領袖が政府を組織するという例になって居る。この意味において今日の政府は概して政党内閣である。しかして内閣の椅子を占領して居る政党は、あるいは一政党なる事あり、あるいは数政党の連合なる事あるが、畢竟するに議会に過半数を制する政党である。その政党の領袖が政府を組織して居るのであるが、これらの領袖は時に多少の例外はあるが概していえば同時に議会の議員たることが多い。この点において今日の内閣はまた議院内閣であるともいえる。こういう制度が一般に行わるれば政府の責任は即ち彼が議会に依然として多数的信任を維持し得るや否やによって糺弾さるる。もし多数的信任を失えばすなわち辞職して新たなる多数派にその地位を譲らねばならぬ。この議院内閣制の運用が、責任内閣の主義を頗る巧妙に徹底せしめて居るのである。昔時に在りては政府は政府、議会は議会と、全然別物であった。政府は即ち君側の功臣主としてこれを組織し、政党にも、議会にも、何らの基礎を有せざるものであった。かくの如き性質の政府であったから議会の反対などでは容易にこれを動かすことは出来なかった。不信任投票は最も明白に議会の対政府反感を示すものであるけれども、こんな事で政府はビクともしない。もっとも議会と政府と睨み合って居る当時に在っては、議会も軽率に不信任の投票をせぬとも限らないから、これによって軽々しく内閣を動かすという訳にも行かなかったろう。そこで弾劾という制度が発達したのである弾劾は即ち下院原告となり、上院これを裁判して、その結果下院の見るところをなりとすれば内閣は更迭せねばならぬという制度である。しかしてこの場合君主は更に他の功臣を以て内閣を組織せしむるが、彼は本来議会に何らの基礎を有せざるが故に、再び弾劾せらるるを免れんがためには自ら議会の意思を尊重せざるを得ない事になる。従って議会の意嚮は間接ではあるが政府を通じて行われ得ることになる。こういう意味で弾劾の制度も憲政運用の一便法として認められておったのである。しかるにその後段々に政党内閣の制度が流行するようになってからはこの制度の実用がなくなった。どうせ議会の意思を重んぜなければならぬものであるならば、議会に多数を占むる政党の領袖をそのまま挙げて政府に入れた方が捷径である。議会に関係なき官僚が政府を組織するのでは何日イツ何時なんどき議会の弾劾を受くるか判らぬ。したがって政府の恒久性を失うの不便がある。そこで政党内閣が段々に流行するようになったのである。こうなって見るとこの方が弾劾の制よりも一層よく責任内閣の意義を徹底せしむるを得るので、今日では独りこの方法のみが流行するようになった。
 政党内閣制は甲内閣が倒れた時直ちに議会の新多数勢力を代表する乙後継内閣がこれに代るということによってその妙用を発揮する。しかるに後継内閣の組織は、前内閣の倒れた際における議会の多数的勢力というものが明瞭に纏まって居れば、容易に出来るが、しからずんば少なくとも一時は中々手古摺てこずるものである。即ち二大政党対立の国においてはこの点はうまく行われるが小党分立の国においては甚だうまく行かないのである小党分立の国においては、一つの政党で議会に過半数を占むるということは普通あり得ない。従って議会の多数は二党三党の連合によって辛うじて纏まるを常とする。しかしてかかる連合はもと中々纏まりにくきのみならず、また中途時々動揺するを避くる能わずして、ために内閣は動もすれば多数的基礎を失いてしばしば更迭せざるべからざるの悲運に遭遇する。しかも政変後の常として多数的勢力を作るべき新連合は容易に纏まらず、後継内閣の組織出来上るまでにはいつも幾多の波瀾曲折を経るの例にして、立憲政治の運用はために大いに停滞せしめらるる事になる。故に今日政党内閣の制度は責任内閣の主義を最もよく貫くものであるとはいえ小党分立の国においては実は十分にその妙用を発揮することを得ないのであるしかりしこうして一国の政党が二大党派に岐るるや否やは国によって同じからざるのみならずもとこれは勢いの自ら決するところであって一片の理論を以て人為的に作り能わざるものである今欧米諸国の実況を見るに英米系統の国は大体二大党派対立の形勢を呈して居る。もっとも細かく言えば、英吉利においては自由党統一党の歴史的二大党派の外、アイルランド国民党及び労働党がある。また合衆国においては、共和党民主党の外に、一九一二年ルーズヴェルトの創設せる進歩党がある。けれども亜米利加においては従来第三党はしばしば企てられてその度毎に不成功に終った歴史があり、現にルーズヴェルトのこの党も今日は已に孤城落日の悲況にあるということだ。その外に社会党もあるけれどもこれはほとんど無勢力と言ってよい。英吉利の愛蘭国民党は、愛蘭の自治を目的とする特別の党派にして、愛蘭の自治問題の決定と共に消滅すべき運命を有って居るものである。労働党は四十有余名の党員を有して自ら一勢力たるを失わざるも、今日自由党と結ぶ事なくしては独立に何事もなし得ない。党員中、自由党の腰巾着たるに憤慨し、幹部に迫って労働党としての独立の面目を発揮すべき事を訴うるものもあるけれども、しかし大勢は自由党と深き同盟関係を持続することに満足して居る。故に英米の両国は大勢において二大政党対立の形勢に在りと言って不都合は無い英国各植民地もまた同様である。従ってこれらの国においては政党内閣主義は極めて円満に行われて居る。しかるに他の欧羅巴諸国に在っては一として小党分立の国ならざるものはない。これ何によってしかるやというに、あるいは人種の複雑、あるいは建国当初以来各地方地方の反目、その他種々雑多の特別の歴史的沿革に基づくのである。比較的これらの原因の少なき仏蘭西伊太利ですら政党の数は八つ九つある。独逸に至っては十四、五を数え、洪牙利はやや少なく十余りを数うるも、墺太利に至っては大小無慮五十を超える。これらの国においては啻に政党内閣が旨く行われざるのみならず時としては超然内閣の行わるるを許さねばならぬ場合すらあり少なくとも小党分立して相容れざるの結果議会に交渉なき官僚一派の機に乗じて政権を掌握するの特例を開くことまた決して稀でない幸いに必ず政党を以て内閣を組織するの慣例による者といえどもその内閣の寿命は極めて短くしてしかも後継内閣の銓衡にはいつでも多大の困難を感ずるのである。独逸の憲法学者ロエニング博士は嘗て曰った、仏蘭西の内閣の平均の寿命は七カ月で、伊太利は十一カ月半也と(同氏著『十九世紀における代議政体』)。仏蘭西は第三共和国初まって以来今日に至るまで年をけみする事四十五年、その間内閣更迭を見たこと最近の改造までを数えて五十一回に上る、十九世紀では平均七カ月であったから二十世紀に入って幾何いくばくか長くなったのであろうけれども、しかし一九一三年二月現大統領ポアンカレーの就任以後のみを数うると、ブリアン内閣は二月より三月に亙る一カ月。バルツー内閣は三月より十二月に至る九カ月余り。ドューメルク内閣は十二月より翌年六月に至る半カ年。リボー内閣は成立の翌日不信任投票によりて倒れ寿命僅かに一日。これに次いでヴィヴィアニ内閣が出来た。六月成立して間もなく戦乱となり、八月改造して挙国一致内閣を組織し、昨年の十月末に及んだ。目下はブリアン再び総理となって居る。以上の例を以ても仏国内閣の更迭極めて頻繁なるを見るべきである啻に更迭の頻繁な許りではない内閣が倒れた後の始末がまた大変の骨折りだ。この場合通例大統領は即刻上下両院議長を官邸に呼んで後継内閣の組織を相談する。何人を総理とすれば何人と何人とを内閣に網羅する事を得て以て議会の過半数を制し得べきかにつき、苦心惨憺して協議を凝らすのである。しかも幸いにこれと眼差す人の承諾を得ればよし、たまたまその承諾を得ねば五日も六日も長く相談に時を費すのである。かくの如き次第であるから政党内閣制が責任内閣の主義を貫くために極めて適当なりと定まっても小党分立ではその実際の効績は半ばがれると見なければならぬ換言すれば政党内閣制の妙用を発揮するには是非とも二大政党対立の勢いを馴致する事が必要であるしかも二大政党は勢いの決するところにして一応の議論のよくこれを左右し得るところではない故に果たして政党内閣制の旨く行われるものか否かは国によって必ずしも同一ではないのである。ここにおいて問題は起る。我が日本に果たして政党政治は旨く行われ得るや否やと。この問題について予は同じく『現代の政治』中に特別の一篇を設けて精しく愚見を披瀝して居る(同書一八三―二一六頁)。この小論文において、予は第一に政党政治の理論上善いものか悪いものかを決定し、また理論上善いものとしても事実日本において可能なりや否や、即ち我が国における政党関係の趨勢は二大政党に自ら岐るるものなりや否やを解明し、結局その可能なる所以を断定した。なお可能なりとしても日本の国法上これを許すを得るや否やの疑問もあるので、更に進んでその問題に解決を与え、次に政党政治の実行は日本の現状に照らして利益ある所以を説き且つ我が国の政党関係の趨勢は近き将来において政党政治の円満なる実行を見るに至るべき見込ある所以を論じ、最後に政党政治の行われざるによって蒙る不便、またそれが行わるるによりて得べき利益を挙げて全篇を結んだ。この論点からして予は日本における憲政の進歩発達を計る上から二大政党対立の自然的傾向を助長すべくこれを妨ぐる原因あらば極力これを排除すべき所以を天下に訴えんと欲するものである。殊に一部の政客中に些々ささたる感情に捉えられてことさらに異をて、いわゆる小異を捨てて大同に合するの雅量を欠く、十年苦節を守るなどとの美名に隠れて政界のね者たるに終る者の少なからざるを遺憾とするものである。政客に雅量の乏しきは当今我が国の一大憂患である。
 以上予は憲政の円満なる発達のためには責任内閣制度の徹底的に行わるるを必要とする所以を説いた。しかしながらこの点は西洋では実はうの昔に解決が出来て今日はほとんど問題となってはいないのである今日こんな事が問題となって居る処ありとすればこれたまたま憲政の発達頗る後れて居るを示すものであるただ例外としてこの種の問題は露西亜独逸とにおいて唱えられて居るのみである露西亜にこの問題のあるのは、同国が欧羅巴における最後の立憲国として、日露戦争後民間の要求に迫られてやいやながら頗る専制的なる憲法を発布したという事情に徴して明白であろう。独逸帝国に至っては立国の事情から行政権の絶対的独立を主張するの必要があってしかるものである。独逸は元来は普魯西の武力を以て起り、また現に普魯西の武力を以て統一を維持するところの国柄である。内部において普魯西に反感を有って居る諸邦少なからざるのみならず、また所在に歴史的理由によりて独逸政府の強大を喜ばざるもの、例えばアルサス・ローレン人、波蘭ポーランド人、シュレシウィッヒュ・ホルスタイン人、ハノーヴァー人の如きがある。その外少なからざる勢力を占むる天主教徒と社会主義者とはまた熱心に普魯西を中心としての独逸国力の発展膨脹を快とせない。しかしてこれらの本来不統一なる諸要素を纏めて強大なる一国家を作るには、行政権によほど絶大なる権力を与うる事が必要である、のみならず、なお行政権に永続性を持たしめねばならぬ。しかして特別の理由に基づき普通選挙制によって組織する事となった帝国議会が、前記各種各様の意見の代表者である以上、行政当局者をして軽々しく議会の左右する所とならしめては、独逸帝国の基礎が甚だ険呑である。従って独逸帝国では帝国宰相の責任については憲法第十七条の二項において「皇帝ノ命令及ビ処分ハ帝国ノ名ニ於テ発セラレ、帝国宰相ノ副署ニヨッテソノ効力ヲ生ズ。帝国宰相ハコレニヨッテ責任ヲ負ウ」と定むるに止まり、何らその責任を糺すの細目の規定を欠いて居る。従って帝国宰相は専ら皇帝の信任によって進退し、全然議会の勢力の外にある。なおついでに申すが、独逸では我が国などのような政府というものはない。行政権の首脳は皇帝にして、皇帝の下にいわゆる帝国宰相あり、行政全般の実際の当局者として、すべての事務を法律上一身の責任を以て取扱って居る。故に表向き我が国のいわば国務大臣に当る如きものは独逸では帝国宰相一人である。従って彼は帝国宰相にして兼外務大臣という公の称号を有って居る。彼の下に別に外務大臣、内務大臣、陸海軍両大臣、植民大臣等があれども、これは帝国宰相の取扱う各種の事務の役所の主任という性質の者に過ぎない。これらのものが集まって帝国宰相を総理大臣とする内閣を組織するのではない。帝国宰相はこれらの大臣と連帯してその責に任ずるのではもちろんない。故に我々のいう責任内閣に当るものは、独逸では帝国宰相の責任という問題になる。しかしてこの帝国宰相は、事実上皇帝の信任にのみ依頼し、議会の勢力の外に超然として居るから、寿命もまた従って甚だ長い。仏蘭西に比して恰も正反対である。何となれば建国以来仏蘭西と同様四十五年の星霜の間、宰相の職はビスマルクに始まりてこれをカプリヴィに伝え、ホーヘンローヘ公よりビューロー公を経て今日のビートマン・ホルウェッグに至るまで、僅かに五代を数うるに過ぎないからである。それでも従来は未だ議会から不信任の決議をされたという事がなかった。実は議会でもしばしば政府と衝突したのであったが、独逸は四面強敵に囲まれて居る国柄だけ、政客は皆徒に内紛を事とするの不利益を知って居るから、大抵の問題についてはあるいは譲歩しあるいは妥協するのであった。ただ一昨年に至って初めて現宰相に対し議会は明白に不信任の投票をした。しかも一度は波蘭問題について、一度は有名なるツァーベルン事件について。即ち同一年間に前後二回不信任の投票をしたのである。独逸の宰相はかくてもカイゼルの御信任を口実として依然その職に留まるや否や、世間は非常の興味を以てこれを見たのであったが、ビートマンホルウェッグは議会の不信任に屈してその職を退くような事は断然しないという態度を固執してここに初めて独逸の超然主義は明白に決定された。かくの如くして、独逸は今日独り例外として超然主義を執って居る。けれどもこれは超然主義を可とするの理論上の確信に基づいたと見るべきものではなくして実は独逸立国の特別なる事情に基づく已むを得ざるに出でたものである。さればかくの如き特別の事情のない諸国においては、今日一として超然主義を執るものはないのである。
 この点について我が国の状況は如何というに予の見るところでは大体適当なる進路を取って居ると思う。責任内閣の制度が十分に貫かれて居るとはいえないにしても、今日議会の不信任投票は必ず内閣の総辞職を結果せねばならぬという確信は凡ての人に懐かれて居るようだ。さればこそ不信任投票のいよいよ行われんとするを見るや、政府は常に事前に議会を解散するという例になって居る。明治十八年十二月、時の伊藤伯を首班として初めて今日の内閣制度が出来てより、内閣の更迭を見る事前後約二十回に及ぶが、大多数は皆議会との衝突の結果である。その初め超然内閣主義を主張しておった時ですら、議会の反対に逢ってはその地位を持続する事は出来なかった。当時我が国の超然内閣という意味は、議会に代表者を有する政党より超然として居るという意味で、議会の決議より超然として居るという意味ではなかったらしい。三十年代の半ば過ぎより桂、西園寺互いに交代して政権を握るの慣例を開いてから、今日では十分政党内閣の主義が貫かれないまでもしかも議会の多数的勢力と何らかの形において結託せずしては何人といえども内閣に立つ事が出来ないという形勢に立ち至って居る我々はますますこの形勢を助長し発達せしめて政党政治の更に完全なる実行を見んことを期すべきである。この立場より観察して予輩は、時々唱えらるる挙国一致内閣とか、また時々一部の策士によって夢想せらるる人才内閣とかの如きは、たとえこれによって一時好結果を奏することあるべしとしても、憲政の進歩を計る上からは断然これを排斥せねばならぬと信ずる。故に我々は今日この方面においてなお大いに奮闘し且つ大いに論争せねばならぬのである。かくして一部頑迷の見を打破撲滅するは、議会をして十分に政府を監督せしめ、以て政界の中心勢力たるの実を挙げしむるために、極めて必要であると信ずるものである。
 議会が政界の中心勢力たることは憲政の運用上極めて必要である。このために我々は責任内閣主義を説いたのであるが、西洋では更に一歩を進めて居るところがある即ち一二の国では議会殊に民選議院を政界の中心勢力たらしむるためには政府はもはや有力な障礙物ではない今日なお多少でも民選議院の政治的優越を妨ぐるものありとすればそは上院であるそこで最近この上下両院の関係の上に下院の優越的地位を確定せんとするの説が現われて来た。例えば上下両院、各々その見るところを異にし、両々相対峙して下らない場合には、いかにしてこれより生ずる難関を切抜けんとするかの問題が起るが、これはもとより未決のままに放任して置く訳には行かぬ。しかもこれを上院の勝利に帰しては民本主義の要求が貫徹しないから、ここに漸くこの種の問題については結局下院の勝利に解決するの外はあるまいという考えが起って来たのである。もっともかくてはせっかく上院を設けた趣意に背くようにも見える。けれども上院をして下院の決議に対し更に文句を言わしむる所以のものは、もと下院によりて代表せらるる民衆の智見が未だ十分に発達していないという前提に基づくのであった。しかるに今日は民衆の発達頗る高いものがある。従って上院の掣肘せいちゅうを排して下院の優越を認むるも、事実の上にまた甚だしき不都合はないといえる。こういう点から下院の優越を制度の上に認むるの案もまた特に民衆の発達の著しい国においては一面是認せらるるの理由もあるのである但しこの点を制度の上に解決した国は今日まだ極めて尠い。その主なる者は英国濠洲とである。他の国では事実上、上下両院衝突して相譲らざる場合には緊急勅令とか臨時緊急の行政処分等の方法により一時を糊塗ことして居るが、しかし常にこの方法に依頼しては行政権の専横を促すの恐れあるが故に結局は議会それ自身をしてこれを解決せしむる方が好いのである従って将来は上下両院の優越関係の問題は諸国において盛んに唱えらるる事と想わるる。今日のところは英国濠洲とにこれを見るのみであるけれども、近き将来においては多分米国がこの制を採るに至るならんと考えらるる。米国では一九一三年頃よりこの事は既に政界の具体的問題となって居る。単に一片の理論としてならば、この説は既に久しく欧洲諸国においても唱えられておったのである。
 上下両院の衝突の解決法として英濠両国の採るところの方法は同一でない濠洲の方は飽くまで上下両院対等の原則を害わずして解決法を立てて居るが、英国の方は上院の権限を制限し強いてこれを下院の決定に服従せしむる事によって、問題を解決せんとして居る。なお詳しくいえば
 一九〇〇年七月九日の濠洲連邦憲法はその第五十七条において、上下両院の衝突を疏決するために二つの方法を設けて居る。(甲)は両院を同時に解散して新議会をして改めて審議せしむる方法である。詳しくいえば、「下院ノ可決シタル法案ヲ上院ガ否決シマタハコレヲ可決セズ、若シクハ上院ガコレヲ修正シテ通過シタルニ下院ソノ修正ニ同意セズ、且ツ三カ月ノ期間ヲ経タル後下院再ビ同法案ヲ可決シ(同一会期中タルト次期会期タルトヲ問ワズマタ先ニ上院ノ加エタル修正ヲ共ニ可決セルト否トヲ問ワズ)シカシテ上院再ビコレヲ否決シマタハコレヲ可決セザル場合、若シクハ上院ガ更ニコレニ修正ヲ加エ下院コレニ同意セザル場合」には、下院議員の任期満了前六カ月を除き、総督は何時にても「代議院ト元老院トヲ同時ニ解散スルヲ得」るのである(第五十七条第一項)。しかし新議会においてまた必ずしも両院の議相衝突せずと限らない。ここにおいて第二の方法が設けられた。(乙)即ち両院を合同して討議票決せしむる方法である。詳しくいえば、「前項ノ解散ノ後下院ガ再ビ同法案ヲ可決シ(上院ノ加エタル修正ト共ニセルト否トニ論ナク)シカシテ上院コレヲ否決シマタハコレヲ可決セザル場合、若シクハ上院更ニ修正ヲ加エテ通過シ下院コレニ同意セザル場合」には、総督は上下両院議員の合同集会を召集することが出来るのである(第五十七条第二項)。しかしてこの場合には「各議員ハ同会議ニオイテハ下院ノ最終ノ提出案並ビニ一院コレニ加エテ他院ノ同意セザリシ修正条項ニ就イテ討議票決スルモノトス。修正条項ニシテ上下両院議員全数ノ絶対多数ノ賛同ヲ得タル時ハ、コレヲ通過セルモノト見做ス。マタ提出法案(修正アルト否トヲ問ワズ)ニシテ同ジク上下両院議員全数ノ過半数ノ賛同ヲ得タル時ハ、コレヲ以テ議会両院ヲ適法ニ通過セルモノト見做シ」総督に提出して国王の裁可を求むべしとなって居る(第五十七条第三項)。こうなって居れば上下両院の衝突は結局において解決せられ民選議院の意思は原則として最後に円満なる貫徹を見ることが出来るのである。次に
 非常な政界の大波瀾を捲き起し一九一一年八月十八日国王の裁可を得たる英国のいわゆる議会法パーリアメント・アクト」は、一七一六年来の定則たりし下院議員の任期七年なりしを五年に改めたる外、上下両院の衝突の解決のため次の如き新原則を定めた。(甲)財政的法案については、「閉会に先ダツコト少ナクモ一カ月前ニ下院ヨリ回付ヲ受ケタル場合ニオイテ、若シ上院ガ閉会以前ニソノママ(修正ヲ加エズシテ)コレヲ可決セザル時ハ、該案ハ直チニ(上院ノ協賛ヲ要セズシテ)国王ノ裁可ヲ経テ」法律となる。しかして財政的法案とは租税、国庫金の収入支出、及びこれに付随する事項に関する規定のみを包含する法案にして、その認定は下院議長の権限に在りとせられて居る。かくて少なくとも財政事項については上院の権限は有名無実に帰せしめられて居る(乙)財政以外の事項に関する法案については、「下院ニオイテ各会期毎ニコレヲ可決スルコト三度ニ及ビ、上院マタ三度コレヲ否決シタル場合ニハ、第三度目ノ否決ノ後、国王ノ裁可ヲ経テ法律トナル。但シ三会期ハ必ズシモ同一国会ノ継続期間中タルコトヲ要セズ(総選挙によりて中断せらるるも妨げずとの意)トイエドモ、該案ノ最初ノ第二読会結了時トソノ最終ノ第三読会結了時トハ少ナクトモ満二カ年ニ亙ルヲ要ス」とある。これまた手続が多少複雑であるけれども下院をして結局絶対的優勝の地位を占めしむるものたることは同一である
 以上英国の流儀と濠洲の流儀とを比較対照するに、第一に吾人は問題となるところのいわゆる両院の衝突は、「下院の同意せる提案に対して上院が賛成を拒める場合に限り上院の提案を下院の拒める場合は始めより全然不問に付して居る点の両者その符節を合して居る事に気が付くのである。さればいわゆる「両院衝突の解決」とは、独り上院の反対のためにその遂行を阻止せられたる下院の意思にその実現の機会を与えんとするものに外ならない。下院の反対を受けたる上院の意思に至っては、永久にその実現の機会を与えられないのである。第二に吾人は両者取るところの解決の方法の大いに異なるものあるに注意しなくてはならぬ濠洲に在っては、解散によって上下両院に対し一様に反省を求め、なお議合わざる時は両院合同集会するというのであるから、表面上両者を対等に取扱って居る。もっとも事実上は、合同会議において数量的優勝を占むる下院の意思が結局最後の勝利を制する事になるだろう。がしかし稀に上院の議員が下院の反対派と結託して下院の多数党を圧倒するという事もまったく絶無ではない。これに反して英国に在っては、財政事項は初めよりまったく上院の容喙を許さず、その他の事項についても三会期に亙りて同一の案を討論するという複雑なる手続を尽くし、その間に事実上反省、凝議、運動するの余地を与うるの外、結局においては下院の意思に絶対の価値を認め、全然上院の制抑を排斥して居る。上下両院衝突の解決策としてこの両主義のいずれが得策なりやは政治上大いに研究するを要する問題である
 英国主義と濠洲主義との利害得失の対比論はここにこれを精論するのいとまがない。ただこれに関連して疑いのない点は英国においては国民の政治的訓練行き届き且つ天下の英才俊髦しゅんぼうはほとんど悉く下院に集まって居る実状なるが故に下院の決定に最終の権威を付与してもさしたる不都合はないという点である。下院の決定を更に上院に付議するのは些か屋上屋を架するの嫌いないでもない。しかしかかる国情なるが故に英国は英国主義を行うに差支えないので国情を同じゅうせざる他国の軽率にこれを模倣するはもとより宜しくないこの点からいえば実際の案としては濠洲主義の方がむしろ無難であろうかと考える
 以上説くところに由って観ても、憲政運用上西洋の諸先進国がいかに民選議院を重んずるかを知ることが出来る。これ畢竟憲政の本義は民本主義に在りしかして民本主義の徹底的実現は前述べた各種の改革を前提として結局下院をして政治的中心勢力たらしむるに在るからである。かくて諸国の識者はいかにかして下院に与うるに、制度上また事実上、上院や政府に対する優越的地位を以てせんとして非常に苦心して居るのである。今や我が国においては責任内閣の意義漸を以て明白となりつつありこれ甚だ喜ぶべしといえども民衆勢力の直接の代表たる下院の威望甚だ重からざるは頗るこれを遺憾とせざるを得ないこれけだし一つには下院を構成する議員その人の識見品格未だ備わらざるが故である。制度の上でいかに下院を重んず可しといっても、事実上凡庸薄徳の鈍物のみが集まるのでは、天下の威望は決してこれに帰せないのである。人才これに集まらざるが故に、上院に対しても勢威を欠き、政府を組織せんとするに当っても、少なくとも首相はこれを外部に求めねばならぬという不体裁を演ずる。人才集まらざれば勢力帰せず、勢力帰せざれば自ら有為の才を自家勢圏の外に逸する。かくては因果相廻りて責任内閣の制度は十分にその妙用を発揮することが出来ないのである。今日の有様ではいかに下院が威張っても駄目である。いかに下院を重んず可しとの説を叫んでも実際の勢力はこれに具わるまい。この点において我々は一方には大いに議員諸士の自重奮励を求め、また天下の国民に向っては、選挙にその途を謬らず且つ自家選出の代議士を直接間接に鞭撻して怠らざらんことを切望せざるを得ない。もしそれ元老その他の高級政客に向っては、超然として高処し、徒に下院を罵倒して民衆の代表的勢力を蔑視するの態度をる事なく、彼らもまた国民として我々と同様に、国家のために下院をして重からしむる所以の途に協力せられん事を希望せざるを得ない。

(『中央公論』大正五年一月号初出)





底本:「吉野作造評論集」岩波文庫、岩波書店
   1975(昭和50)年7月16日第1刷発行
初出:「中央公論」中央公論社
   1916(大正5)年1月号
※「愛爾蘭」と「愛蘭」の混在は、底本通りです。
※〔 〕内の字句あるいは注記は、編者岡義武氏による加筆です。底本では割注形式で汲まれています。
※イツルビーデはメキシコ独立革命の指導者(Agustin de Iturbide)で人名なので誤記注記しました。
入力:石井彰文
校正:染川隆俊
2024年2月17日作成
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