彼女こゝに眠る

若杉鳥子




 そのつきは、紺碧こんぺきそらまくからくりいたやうにあざやかだつた。
 夜露よつゆれたくさが、地上ちじやうあふれさうないきほひで、うづめてゐた。
『おかへんなさい、かへつてください。』
『いえ。わたしはもうかへらないつもりです。』
『どこまでひとをこまらせようといふんです。あなただつて子供こどもぢやああるまいし。』
 くさなか半身はんしんぼつして、二人ふたりはいひあらそつてゐた。をとこはげしくなにかいひながら、すぶるやうにをんなかた幾度いくど小突こづいた。
『いえ、わたしはあなたがなん仰有おつしやつても、あなたにいてゆくのです。それよりほかわたしくみちはないんです。』
 をんなけはしいをとこ眼鏡めがねなかつめながらいふのだつた。
馬鹿ばかなツ、いてゆくつたつて、何處どこくといふんです。』
何處どこまでゝも――けれど、それがもしあなたの御迷惑ごめいわくになるとでも仰有おつしやるなら、わたし此處ここでおわかれします。でも、うちへはもうかへらない覺悟かくごです。』
 をんなすこひややかにいひはなつと、あをざめて俯向うつむいた。二人ふたりあひだに、しばら沈默ちんもくつゞいた。
 だまつてをんな凝視ぎようししてゐたをとこは、まへとは全然ぜんぜんちがつたやさしさでいつた。
『ね、わかつてください。ぼくねぐらさへつてゐない、浮浪人ふらうにんひとしいをとこなんですよ。』
つてます、そんなこと。』
『それにです、明日あすどうなるかもわからないからだなんです。』
『みんな、よくわたしわかつてゐるんです。』
今夜こんやあなたのおとうさんが、ぼく罵倒ばたうしてしたのも、おやとして無理むりなことではありません。まつたぼくといふをとこは、あなたをなにひとつ幸福かうふくにしてあげることなんかできない人間にんげんなんですから……』
『ぢやあ、あなたはわたし輕蔑けいべつしてらつしやるんだ。』
『なにいつてるんですツ』
『だつてあなたは、わたしがやつぱし、ちゝのいふ意味いみ幸福かうふく結婚けつこんもとめ、さうしてまた、それに滿足まんぞくしてきてられるをんなだとしかおもつてない……』
『さうぢやない、さうぢやないが……』
『いえ、あなたは、わたしといふをんなが、あなたの足手纒あしてまとひになる厄介やくかいをんなだとおもつて、そのくせいままで……』
昂奮こうふんしないでおきなさいツ。ではこれから自分達じぶんたちみちが、どんなにけはしい、文字もじどほりの荊棘いばらみちだつてことが、生々なま/\しい現實げんじつとして、おぢやうさん、ほんとにあなたにわかつてゐるんですか……』
 彼等かれらあらそ[#ルビの「あらそ」は底本では「あら」]ひは、際限はてしもなくつゞいた。さうしてけてつた。
 ……だがそのはじめて、彼女かのぢよ戀人こひびとはげしい熱情ねつじやうとうじたのだつた。

 彼女かのぢよが、戀人こひびと片山かたやまと一しよ生活せいくわつしたのは、わづかかに三ヶげつばかりだつた。かれがそのぞくしてゐるたう指令しれいのもとに、ある地方ちはう派遣はけんされたのち彼等かれら滅多めつた機會きくわいもなかつた。
 そのあひだ彼女かのぢよは、無産者むさんしや××同盟どうめい支部しぶはたらかたはら、あるデパート專屬せんぞく刺繍ししう工場こうぢやうかよつて生活せいくわつさゝへた。そのうち、三・一五事件じけんとして有名いうめいな、日本にほん×××ゐん全國的ぜんこくてき大檢擧だいけんきよおこなはれた。それ以來いらい片山かたやま消息せうそくれなくなつた。
 彼女かのぢよは、片山かたやま一人ひとりためには、過去くわこの一さいてた。肉親にくしんともたなければならなかつた。もつとも、母親はゝおや實母じつぼではなかつた。
 たゞ一人ひとりたのみとする片山かたやまわかれた彼女かのぢよは、まつたさびしいうへだつた。彼女かのぢよは、片山かたやま同志どうしのKうちせて、かれ居所ゐどころさがしてゐたが、そのかれが、I刑務所けいむしよ未決監みけつかんにゐるとわかつたのは、行方不明ゆくへふめいになつてから、半年はんとしもののちだつた。
 それから彼女かのぢよ[#「 それから彼女は」は底本では「それから彼女は」]毎晩まいばん惡夢あくむた。片山かたやま後手うしろでしばげられてうへからるされてゐる、拷問がうもんゆめである。
 あるときは、隣室りんしつてゐるKの夫人ふじんゆすおこされてましたが、彼女かのぢよにはそれがたんゆめとばかり、すことができなかつた。何故なぜなら、そのころ、さういふ野蠻やばん戰慄せんりつすべきうはさが、世間せけんやかましくつたはつてゐたからだ。
 彼女かのぢよ毎晩まいばんぐつしよりと、寢汗ねあせをかいてをさました。寢卷ねまきがみのやうにはだにへばりついてゐた。
 そのも、あさはや彼女かのぢよあがらうとしたが、自分じぶんにどうむちうつてても、全身ぜんしんのひだるさには[#「ひだるさには」はママ]てなかつた。あがるとはげしい眩暈めまひがした。周圍しうゐがシーンとして物音ものおとがきこえなくなつた。からだはエレベーターのやうに、地下ちか地下ちかへと降下かうかしてゆくやうな氣持きもちだつた。そしてつひ彼女かのぢよ意識いしきうしなつてしまつた。
 もなく、K夫人ふじんあひだうすま[#ルビの「うすま」はママ]けて吃驚びつくりした。瞬間しゆんかん自殺じさつかと狼狽らうばいしたほど彼女かのぢよ多量たりやう咯血かくけつなかにのめつてゐた。
 しかし、夫人ふじんしづめて、ちかくにゐる同志どうし婦人達ふじんたちあつめた。近所きんじよから醫師いして、かく應急手當おふきふてあてほどこされた。
 病氣びやうき急激性肺勞ギヤロツピングコンザンプシヨン診斷しんだんされた。
 しかしそのとき周圍しうゐ事情じじやうは、病人びやうにんをKうちかしてことゆるさないので、ぐに何處どこへか入院にふゐんさせなければならなかつた。
 だが、入院にふゐんするとしても、誰一人たれひとり入院料にふゐんれうなどを持合もちあはしてゐるはずがないので、施療せれう患者くわんじやあつか病院びやうゐんれるより仕方しかたがなかつた。ところで一ばんさきに、結核けつかく療養所れうやうじよ交渉かうせふしてたが、寄留屆きりうとゞけがしてないので駄目だめだつた。そのうちにも、病人びやうにん容態ようたいは、刻々こく/\險惡けんあくになつてゆくので、たうとう、そこからあまとほくない、府下ふか××むらのH病院びやうゐん入院にふゐんさせるより仕方しかたがなくなつた。それはキリストけう教會けうくわい附屬ふぞく病院びやうゐんなので、そのこといては、大分だいぶ異議いぎ持出もちだしたものもあつたが、この場合ばあひこくも、病人びやうにん見過みすごしてことはできなかつた。さうして彼女かのぢよなにらずに、婦人達ふじんたち見守みまもられながら、しづかに寢臺車しんだいしやはこばれた。

 冷氣れいきのやうに彼女かのぢよからだひたしてゐた。
 硝子ガラスそとには秋風あきかぜいて、水底みなそこさかなのやうに、さむ/″\とひかつてゐた。
 此處ここはどこなのかしら――彼女かのぢよあがらうと意識いしきなかでは藻掻もがいたが、からだ自由じいうにならなかつた。
 西にしそらはいま、みどろなぬまのやうに、まつゆふやけにたゞれてゐた。K夫人ふじんつて西窓にしまどのカーテンをいた。
 病人びやうにん不安ふあん室内しつないたゞよはしてゐたが、なにものをいひたさうに、K夫人ふじんうごはうつてゐた。
『あなたはいま重態ぢうたいなんですから、おをおちつけて、しづかにしてゐなければいけませんのよ、此處ここ? 此處ここですか……』
 K夫人ふじんはいひしぶつたが、どくさうに病人びやうにんていふのだつた。
此處ここは、御存ごぞんじでせう、ほら××むらのH病院びやうゐんですのよ。それは宗教しうけう病院びやうゐんになんか、あなたをおれしたくなかつたんですけれど、せまつたことではあるし、經濟的けいざいてきにどうにもならなかつたもんですからね、まつた仕方しかたのないことでした。』
 病人びやうにんはK夫人ふじんかほしたで、小兒こどものやうにあごうなづいてせた。うへはう一束ひとたばにしたかみが、彼女かのぢよを一そう少女せうぢよらしく痛々いた/\しくせた。
 K夫人ふじん病人びやうにんみゝもとにくちせてさゝやくやうにたづねた。
とほくにゐるかたで、おひになりたいかたもありませう?』
 彼女かのぢよだまつてくびつた。そのにはなみだがいつぱいにたまつた。
『でも、らしてだけははういんですのよ、ようとおも氣持きもちがありさへしたら、すぐにてくれるかもしれませんからね、ね、電報でんぱうちませうね?』
 K夫人ふじん言葉ことばに、病人びやうにん感謝かんしやするやうに、素直すなほうなづいた。
 隣室りんしつには、Aの夫人ふじん、Cの母堂ぼだうわかいTの夫人ふじんあつまつてゐた。病室びやうしつはうでのせはしさうな醫員いゐん看護婦かんごふ動作どうさしろふくすれおと、それらは一々病人びやうにん容態ようたいのたゞならぬことを、隣室りんしつつたへた。
 そこへ今朝けさ片山かたやまかり出獄しゆつごくたのため辯護士べんごしところかけてつたKもどつてた。
 疲勞ひらう睡眠すゐみん不足ふそくとに、Kあをざめてひげさへ[#「髭さへ」は底本では「髮さへ」]ばしてゐた。
『どうもこまつちやつたんです。』
 K婦人達ふじんたちるなりさういつた。
片山かたやまさんのことですか?』
『それもどうものぞみはないらしいですがね、それよりもかねことですよ。先刻さつきぼく此處ここはひらうとすると、れいのあの牧師ぼくしあがりの會計くわいけい老爺おやぢめるのです。それから事務所じむしよつていままでゐたんですが、施療せれう村役場むらやくば證明書しようめいしよのない患者くわんじやには絶對ぜつたいにできない規定きていだといふんです。だから十ぶん入院料にふゐんれう前金ぜんきん即時そくじをさめろといふんです。だが、ないものははらへないからそこは宗教しうけうちからで、なんとか便宜べんぎはかつてはくれまいかと嘆願たんぐわんしてたんですが、彼奴あいつはどうして、規定きてい規定きていだから、證明書しようめいしよもなくかねもないなら、すぐに病人びやうにんれてゆけつてひどことをぬかしやがる、此方こつちもついかつとして呶鳴どなつてちやつたんですが…………』
『だうりで先刻さつきから幾度いくども、證明書しようめいしよちですかつて、婦長ふちやうさんがかほしました。』
『十ぶん入院料にふゐんれう前金まへきんをさめろですつて、今日けふ明日あすにもれない重態ぢうたい病人びやうにんだのに――ほんとに、キリストさま病院びやうゐんだなんて、何處どこまち病院びやうゐんちがところがあるんだ。』
 Cの母堂ぼだうまで憤慨ふんがいした。
 Kはすぐに、村役場むらやくば證明書しようめいしよもらひにつたが、失望しつばうしてかへつてた。證明書しようめいしよなるものが下附かふされるには、十かゝるか二十日はつかかゝるか、わからないといふことだつた。事態じたいはそんなものをつてはゐられなかつた。

 そのあさは、もう病人びやうにん爪先つまさき紫色むらさきいろめて、[#「チアノーゼが」は底本では「チノアーゼが」]てしまつた。
 彼女かのぢよは、生命いのちの、えるまへあかるさで、めづらしくK夫人ふじんはなしかけた。
『Kのおくさん、わたしはいまなん幸福かうふく――』
『え、幸福かうふく?』夫人ふじん微笑びせうかへした。
わたしはかうしてみなさんにかこまれてゐると、氣持きもちいサナトリウムにでもてゐるやうですよ、私達わたしたちためにも、病院びやうゐんやサナトリウムが設備せつびされてゐたら、此間このあひだくなつたSさんなんか、屹度きつとまた、健康けんかうになれたんでせうにね。』
 Sとは、極度きよくどめた生活せいくわつをして、献身的けんしんてき運動うんどうをしてゐた、わか一人ひとり鬪士とうしだつた。
今日けふあしから、ずん/\つめたくなつてゆくのが自分じぶんにもわかるんです。わたしりあのSさんのやうにみなさんにもうおわかれです、でもねわたしいまおほきなおほきな丘陵きうりようのやうに、安心あんしんしてよこたはつてゐますのよ。』
 夫人ふじんなみだうなづいた。
 それが彼女かのぢよ最期さいご言葉ことばだつた。
 證明書しようめいしよとか、寄留屆きりうとゞけとか、入院料にふゐんれうとか、さうしたくさりかれてゐることを、彼女かのぢよすこしもらなかつたのである。
 幾回いくくわいものカンフル注射ちうしやほどこされて、みな彼女かのぢよ身内みうちものが、一人ひとりでもてくれることのぞんでゐたが、電報でんぱうつたにもかゝはらず、誰一人たれひとり、たうとうなかつた。
 あきれた。彼女かのぢよ屍體したい白布しろぬのおほはれて、その屍室ししつはこばれた。
 そして病院びやうゐんがいふには、入院料にふゐんれうつてないかぎり、けつして屍體したいわたさないと。
 それが宗教しうけう病院びやうゐんだつた。
 翌日よくじつ同志達どうしたちみんなから醵金きよきんした入院料にふゐんれうつて、彼女かのぢよ屍體したいりにた。すると、黒衣こくいばうさんたちが、彼女かのぢよ周圍しうゐいたが、K斷然だんぜんそれを拒絶きよぜつした。
 怜悧れいり快活くわいくわつな、おほきいつてゐたうつくしい彼女かのぢよいま一人ひとりをんなとして力限ちからかぎたゝかつた。そしてつひやすらかにねむつた。





底本:「若草6巻2号」宝文館
   1930(昭和5)年2月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林幸雄
校正:大野裕
2001年1月17日公開
2013年10月8日修正
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