母の話

アナトール・フランス

岸田國士訳




挿絵
  前がき
 アナトール・フランスは本名ほんみょうをアナトール・チボーといい、フランスでもだいりゅうの文学者であります。千八百四十四年、パリの商家しょうかに生まれ、少年の頃から書物しょもつの中で育ったといわれるくらい沢山たくさんの本を読みました。それもただ沢山たくさんの本を読んだというだけでなく、昔のえらい学者や作家さっかの書いた本をじつに楽しんでんだのです。
 彼は、小説しょうせつ戯曲ぎきょく評論ひょうろん伝記でんき、そのいろいろなものをきましたが、すべて、立派りっぱな作品として長くのこるようなものが多く、中でも、小説と随筆ずいひつとには、世界的せかいてき傑作けっさくが少なくありません。
 ここにのせた「母のはなし」は、その追憶風ついおくふうの小説『ピエール・ノジエール』の中の一しょうで、これだけめばアナトール・フランスがみんなわかるというようなものではありませんけれど、まずまず、どんな人か見当けんとうがつくでしょう。
 非常にものしりですが、わざわざむずかしいことをいわない。なんでもないことをいっているようで、よくんでみると、なかなかだれにでもいえないことをいっている。ちょっと皮肉ひにくなところがありますが、やさしい微笑びしょうをたたえた皮肉で、世の中の不正やみにくさに、それとなくするど鋒先ほこさきを向けています。
 何よりも、りきかえること、大声おおごえを立てることがきらいです。どんなことでも、静かに話せばわかり、また、静かにはなわなければ面白おもしろくないという主義しゅぎなのです。
 熱情ねつじょうも時には素晴すばらしい仕事をさせる武器ぶきですが、冷静れいせいは常に物の道理を考えさせる唯一ゆいいつの力です。
 アナトール・フランスは、また、世界で屈指くっし名文家めいぶんかです。文章は平明へいめい微妙びみょう調子ちょうしととのっていて、その上自然な重々しさをもっています。これをんだ泉の水にたとえた人がいますが、実際じっさいフランス語でこれを読むと、もう百倍もうつくしい文章だということがわかります。
 千九百二十四年、すなわち大正十三年に、彼はにました。これで一時代じだいが終わったといわれるほど大きな事件じけんでありました。(訳者)


「わたしには、どうも想像力そうぞうりょくっていうものがなくってね。」と、母はよくいったものだ。
想像力そうぞうりょくがない」と彼女かのじょがいったのは、それは想像力そうぞうりょくといえば、小説しょうせつを作るというようなことだけをいうものとおもっていたからで、そのじつ、母は自分じぶんではらずにいるのだけれど、およそ文章ぶんしょうでは書きあらわせないような、まことにあいすべき、一しゅ特別とくべつな想像力をもっていたのだ。母は家庭向かていむきのおくさんというたちの人で、うちの中の用事にかかりっきりだった。しかし、彼女かのじょのものの考え方には、どことなく面白おもしろいところがあったので、うちなかのつまらない仕事しごともそのために活気かっきづき、うるおいがしょうじた。母は、ストーヴやなべや、ナイフやフォークや、布巾ふきんやアイロンや、そういうものに生命いのちきこみ、話をさせるじゅつを心得ていた。つまり彼女は、たくまないお伽話とぎばなし作者さくしゃだった。母はいろいろなおはなしをして、ぼくたのしませてくれたが、自分じぶんではなんにも考えせないと思っていたものだから、僕の持っていた絵本えほん土台どだいにしておはなしをしてくれたものだ。
 これから、その母のはなしというのを一つ二つ紹介しょうかいするが、僕は出来できるだけ彼女の話しっりをそのままつたえることにしよう。これがまた素敵すてきなのである。


   学校

 だれがなんといっても、ジャンセエニュ先生せんせい学校がっこうは、世界中せかいじゅうにある女の子の学校がっこうのうちで一番いい学校がっこうです。そうじゃないなんておもったり、いったりするものがあったら、それこそ神様をうやまわないで、人の悪口わるくちをいう人だといってやります。ジャンセエニュ先生せんせい生徒せいとはみんなおとなしくて、勉強家べんきょうかです。ですから、この小さな人たちがじっとお行儀ぎょうぎよくしているところは、見ていてこんないい気持きもちのことはありません。ちょうど、それだけのすうの小さなびんならんでいるようで、ジャンセエニュ先生せんせいは、そのびんの一つ一つへ学問という葡萄酒ぶどうしゅをつぎんでいらっしゃるのだというがします。
 ジャンセエニュ先生せんせいは高い椅子いす姿勢しせい真直まっすぐにして腰掛こしかけていらっしゃいます。厳格げんかくですけれど、やさしい先生せんせいです。かみはひっつめにって、くろかたマントをしていらっしゃる、もうそれだけで、先生せんせいうやま気持きもちがおこると一しょに、先生せんせいがどことなくきになるのです。
 ジャンセエニュ先生せんせいは、なんでもよくお出来できになるのですが、この小さな生徒せいとたちに計算けいさん仕方しかたをおおしえになります。先生せんせいはローズ・ブノワさんにこうおっしゃいます。
挿絵
「ローズ・ブノワさん、十二から四ついたら、いくのこりますか。」
「四つ。」と、ローズ・ブノワさんはこたえます。
 ジャンセエニュ先生せんせいはこのこたえではおりません。
「じゃ、あなたは、エムリーヌ・カペルさん、十二から四ついたら、いくのこりますか。」
「八つ。」と、エムリーヌ・カペルさんはこたえます。
 そこで、ローズ・ブノワさんはすっかりかんがんでしまいます。ジャンセエニュ先生せんせいのところに八つのこっているということはわかっていますが、それが八つの帽子ぼうしか、八つのハンケチか、それとも、八つの林檎りんごか、八つのペンかということがわからないのです。もうずいぶんまえから、そこのところがわからないであたまなやましていたのでした。六の六ばいは三十六だといわれても、それは三十六の椅子いすなのか、三十六の胡桃くるみなのかわからないのです。ですから、算術さんじゅつはちっともわかりません。
 反対はんたいに、聖書せいしょのお話は大変たいへんよく知っています。ジャンセエニュ先生せんせい生徒せいとのうちでも、地上ちじょう楽園らくえんとノアの方舟はこぶねことをローズ・ブノワさんのように上手じょうずにお話しできる生徒せいとは一人もいません。ローズ・ブノワさんは、その楽園らくえんにある花の名前なまえ全部ぜんぶと、その方舟はこぶねっていたけものの名前を全部っています。それから、ジャンセエニュ先生せんせいと同じ数だけのお伽話とぎばなしを知っています。からすきつね問答もんどう驢馬ろばと小犬の問答、雄鶏おんどり雌鶏めんどりの問答などをのこらず知っています。動物どうぶつむかしは口をきいたということをひとからいても、ローズ・ブノワさんはちっともおどろきません。動物どうぶつが今ではもうくちをきかないなんていうひとがあったら、かえって驚いたでしょう。ローズ・ブノワさんには、自分じぶんの家の大きないぬのトムとちいさなカナリヤのキュイップの言葉ことばがちゃんとわかるのです。実際じっさい、それはローズ・ブノワさんのおもっている通りです。動物どうぶつはいつの時代じだいにも口をききましたし、いまでもまだ口をきくのです。しかし、とりけものは自分のお友だちにしか口をききません。ローズ・ブノワさんは動物どうぶつきで、動物どうぶつの方でもローズ・ブノワさんがきです。だからこそとりけもののいうことがわかるのです。相手あいて気持きもちをのみむのには、おたがいなかよくし合うことがなによりです。
 今日きょうも、ローズ・ブノワさんは読方よみかたならったところをちっとも間違まちがえずに諳誦あんしょうしました。それで、いいおてんをいただきました。エムリーヌ・カペルさんも、算術さんじゅつ時間じかんがよく出来できたので、いいおてんをいただきました。
 学校からかえってると、エムリーヌ・カペルさんは、いいおてんをいただいたということをお母さんにおはなししました。それから、そのあとでこういいました――
「いいおてんって、なんのやくつの、ねえ、おかあさん?」
「いいお点っていうものはね、なんのやくにもたないんですよ。」と、エムリーヌのおかあさんはおこたえになりました。「それだからかえって、いただいて自慢じまんになるのです。そのうちに、あなたもわかってきますよ。いちばんとうと御褒美ごほうびっていうのは、名誉めいよにだけなって、べつとくにはならないような御褒美ごほうびです。」

   大きいもののあやま

 みちというものはかわによくています。それは、かわというものがもともとみちだからです。つまり、川というのは自然しぜん出来できた道で、人は七ひとびのくつをはいてそこを歩きまわるのです。七ひとびのくつというのはふねのことです。だって、ふねのことをいうのにこれよりいい名前なまえがありますか? ですから、みちというのは、人間にんげんが人間のためにこしらえた川のようなものです。
 みちは、川の表面ひょうめんのようにたいらで、綺麗きれいで、くるまくつそこをしっかりと、しかし気持きもちよくささえてくれます。これはわたしたちのお祖父様方じいさまがたつくってくださったもののなかでもいちばん立派りっぱなものです。このお祖父様方じいさまがたはおくなりになったあとにお名前なまえのこっていません。わたしたちは、ただそのお祖父様方じいさまがたがいろいろいいことをしてくださったということをっているだけです。ほんとうに有難ありがたいものですよ、みちっていうものは。そうでしょう、みちがあるおかげで、方々ほうぼう土地とちに出来る品物しなものがどんどんわたしたちのところへはこばれて来ますし、おともだち同士どうしらくったりたりすることが出来ます。
 それで今日きょうも、おともだちのところへ行こうと思って、そのお友だちはジャンというのですが、ロジェとマルセルとベルナールとジャックとエチエンヌとは国道こくどうへさしかかりました。国道こくどうは日にらされて、きいろい綺麗きれいなリボンのように牧場まきばはたけ沿って先へとび、町や村を通りぬけ、人の話では、ふねの見える海までつづいているということです。
 五人の仲間なかまはそんなとおくまでは行きません。けれども、おともだちのジャンのいえへ行くのには、たっぷり一キロは歩かなければならないのです。
 そこで五人はかけました。おかあさんにちゃんとお約束やくそくをしたので、五人だけでってもいいというおゆるしが出たのです。ふざけないで歩くこと、けっして傍道わきみちをしないこと、馬や車をよけること、五人のうちで一ばん小さいエチエンヌのそばを決してはなれないこと、そういうお約束やくそくをしてたのです。
 そして五人はかけました。一れつになって規則正きそくただしく進んで行きます。これくらいきちんとして出かければ、もうぶんはありません。しかし、それほど立派りっぱ一糸乱いっしみだれないなかに、一つだけいけないところがあります。エチエンヌがちいさすぎるのです。
 エチエンヌは非常な勇気ゆうきふるい起こします。一生懸命しょうけんめい、足をはやめます。みじかあしせいいっぱいにひろげます。まだその上に、うでります。しかし、なんといっても、ちいさすぎます。どうしても仲間なかまについて行けません。おくれてしまいます。これはわかりきったことです。哲学者てつがくしゃといわれる人たちは、同じ原因げんいんがあればいつでもおな結果けっかになるということを知っています。しかし、ジャックにしてもベルナールにしても、マルセルにしても、またロジェにしても、哲学者てつがくしゃではありません。四人は自分じぶんあしおうじた歩き方をします。可哀かわいそうなエチエンヌも、やっぱり自分のあし相応そうおうあるいているのです。調子ちょうしそろはずがありません。エチエンヌははしります。いきらします。声を出します。それでもおくれてしまいます。
 大きい人たちは、つまりおにいさんたちなんですから、ってやればいいのに、エチエンヌの足にあわせてあるいてやればいいのにと思うでしょう。ところがそれは駄目だめなのです。そんな心掛こころがけは、このたちにはそもそも註文ちゅうもんするだけ無理むりなのです。そういうところは、この子たちも大人おとなおなじです。「すすめッ」と、世間せけんつよい人たちはいいます。そうしてよわひとたちをおいてきぼりにします。ですが、このおはなしがどうなるか、おしまいまできいていらっしゃい。
 ところで、この四にんの、大きい人たち、つよい人たち、元気げんきひとたちは、きゅうちどまります。地面じめんに一ぴきの生きものがんでいるのを見つけたのです。なるほどぶはずです、そのきものというのはかえるで、みちばたの草原くさはらまで行こうと思っているのです。その草原はかえるさんのお国です。蛙さんには大切たいせつなお国です。そこの小川おがわのそばに自分のお屋敷やしきがあるんですから。そこでかえるさんはんで行きます。
 蛙というものは、天然自然てんねんしぜん細工物さいくものとして、これはたいしたものです。
 この蛙は緑色みどりいろです。まるで青い木の葉のような恰好かっこうをしています。そうして、そういう恰好かっこうをしているので、なんだか素晴すばらしくみえます。ベルナールとロジェとジャックとマルセルは、それをいかけはじめます。エチエンヌのことも、真黄色まっきいろ綺麗きれいな道のことも忘れてしまいます。おかあさんとのお約束やくそくわすれてしまいます。もう四人は草原くさはらの中へはいっています。しばらくすると、草がふかしげっているやわらかい地面じめんに、足がめりんでいくのがわかります。もう少し行くと、ひざのところまでどろの中にはまりみます。草で見えなかったのですが、そこは沼になっていたのです。
 四人は、やっとこさでそこから足をひきぬきました。くつも、靴下くつしたも、ふくらはぎ真黒まっくろです。緑の草原くさはらせいが、いいつけをまもらない四人の者に、こんなどろのゲートルをはかせたのです。
 エチエンヌはすっかりいきを切らして四人にいつきます。四人がそんなゲートルをはかされているのを見ると、よろこんでいいのか、かなしんでいいのかわからないような気持きもちです。そこで、大きい人やつよい人には大変たいへん災難さいなんが降りかかってるということを、無邪気むじゃきな頭の中でいろいろとかんがえてみます。ゲートルをはかされた四人のほうは、しおしおとひっかえします。だって、そんな恰好かっこうをして、おともだちのジャンのところへけるはずがないでしょう? 四人がお家へかえったら、みんなのおかあさんは、そのあしをごらんになって、四人がわるいことをしたということがちゃんとおわかりになるでしょう。反対はんたいに、ちいさなエチエンヌの清浄無垢せいじょうむくなことは、その薔薇ばらいろのふくらはぎに、後光ごこうのようにあらわれているでしょう。

挿絵 大野隆徳





底本:「日本少国民文庫 世界名作選(一)」新潮社
   1998(平成10)年12月20日発行
底本の親本:「世界名作選(一)」日本少國民文庫、新潮社
   1936(昭和11)年2月8日
※大野隆徳(おおのたかのり)(1886-1945)の著作権は切れていると考えて挿絵もいれました。
入力:川山隆
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年1月15日作成
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