四日間

ガールシン

二葉亭四迷訳




 忘れもせぬ、其時味方は森の中を走るのであった。シュッシュッという弾丸たまの中を落来おちくる小枝をかなぐりかなぐり、山査子さんざしの株を縫うように進むのであったが、弾丸たまは段々烈しくなって、森の前方むこうに何やら赤いものが隠現ちらちら見える。第一中隊のシードロフという未だ生若なまわかい兵が此方こッちの戦線へ紛込まぎれこんでいるから※(始め二重括弧、1-2-54)如何どうしてだろう?※(終わり二重括弧、1-2-55)せわしい中でちら其様そんな事を疑って見たものだ。スルト其奴そいつが矢庭にペタリ尻餠をいて、狼狽うろたえた眼を円くして、ウッとおれのかおを看た其口から血が滴々々たらたらたら……いや眼に見えるようだ。眼に見えるようなは其而已そればかりでなく、其時ふッと気が付くと、森の殆ど出端ではずれ蓊鬱こんもり生茂はえしげった山査子さんざしの中に、るわい、敵が。大きな食肥くらいふとッた奴であった。俺は痩の虚弱ひよわではあるけれど、やッと云って躍蒐おどりかかる、バチッという音がして、何か斯う大きなもの、トサ其時は思われたがな、それがビュッと飛で来る、耳がグヮンと鳴る。打たなと気が付た頃には、敵の奴めワッと云て山査子さんざし叢立むらだち寄懸よりかかって了った。まわればまわられるものを、恐しさに度を失って、刺々とげとげの枝の中へ片足踏込ふんごんあせって藻掻もがいているところを、ヤッと一撃ひとうちに銃を叩落して、やたらづきに銃劔をグサと突刺つッさすと、けものほえるでもないうなるでもない変な声を出すのを聞捨にして駈出す。味方はワッワッとときを作って、ける、つ、という真最中。俺も森をはたへ駈出してたしか二三発も撃たかと思う頃、忽ちワッというときの声が一段高く聞えて、皆一斉に走出す、皆走出す中で、俺はソノ……もとの処に居る。ハテなと思た。それよりももッと不思議なは、忽然として万籟ばんらい死して鯨波ときのこえもしなければ、銃声も聞えず、音という音は皆消失せて、唯何やら前面むこうが蒼いと思たのは、大方空であったのだろう。やがて其蒼いのも朦朧もやもやとなって了った……

 どうも変さな、何でも伏臥うつぶしになって居るらしいのだがな、眼にさえぎるものと云っては、唯掌大しょうだいの地面ばかり。小草おぐさ数本すほんに、その一本を伝わってさかしま這降はいおりる蟻に、去年の枯草かれぐさのこれがかたみとも見えるあくた一摘ひとつまみほど――これが其時の眼中の小天地さ。それをば片一方の眼で視ているので、片一方のは何か堅い、木の枝に違いないがな、それにされて、そのまた枝に頭がっていようと云うものだから、ひどく工合がわるい。身動みうごきたくも、不思議なるかな、ちッとも出来んわい。其儘で暫くつ。竈馬こおろぎ、蜂の唸声うなりごえの外には何も聞えん。少焉しばらくあって、一しきり藻掻もがいて、体の下になった右手をやッとはずして、両のかいなで体を支えながら起上ろうとしてみたが、何がさてきりで揉むような痛みが膝から胸、かしらへと貫くように衝上つきあげて来て、俺はまた倒れた。また真の闇の跡先あとさきなしさ。

 ふッと眼が覚めると、薄暗い空に星影が隠々ちらちらと見える。はてな、これは天幕てんとの内ではない、何で俺は此様こんな処へ出て来たのかと身動みうごきをしてみると、足の痛さは骨にこたえるほど!
 なにさまこれは負傷したのに相違ないが、それにしても重傷おもで擦創かすりかと、傷所いたみしょへ手をってみれば、右も左もべッとりとしたのりふれれば益々痛むのだが、その痛さが齲歯むしばが痛むように間断しッきりなくキリキリとはらわた※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしられるようで、耳鳴がする、頭が重い。両脚に負傷したことはこれで朧気おぼろげながら分ったが、さて合点の行かぬは、何故なぜ此儘にして置いたろう? 豈然よもやとは思うが、もしヒョッと味方敗北というのではあるまいか? と、まず、さかのぼって当時の事を憶出してみれば、初めおぼろのがすえ明亮はっきりとなって、いや如何どうしても敗北でないと収まる。何故と云えば、俺は、ソレ倒れたのだ。尤もこれははきとせぬ。何でも皆が駈出すのに、俺一人それが出来ず、何か前方むこうが青く見えたのを憶えているだけではあるが、兎も角も小山の上のこのはたで倒れたのだ。これを指しては、背低せびくの大隊長殿が占領々々とわめいた通り、此処を占領したのであってみれば、これは敗北したのではない。それなら何故俺の始末をしなかったろう? 此処は明放あけばなしのかつとした処、見えぬことはない筈。それに此処でこうして転がっているのは俺ばかりでもあるまい。敵の射撃はの通り猛烈だったからな。し一つ頭を捻向ねじむけて四下そこら光景ようすを視てやろう。それには丁度先刻さっきしがた眼を覚して例の小草おぐささかしま這降はいおりる蟻を視た時、起揚おきあがろうとして仰向あおむけけて、伏臥うつぶしにはならなかったから、勝手がい。それで此星も、成程な。
 やっとこなと起かけてみたが、何分両脚の痛手いたでだから、なかなか起られぬ。到底とて無益むだだとグタリとなること二三度あって、さてかろうじて半身起上ったが、や、その痛いこと、覚えずなみだぐんだくらい。
 と視ると頭の上は薄暗い空の一角。大きな星一ツに小さいのがツきらきらとして、周囲まわりには何か黒いものが矗々すっくと立っている。これは即ち山査子さんざしの灌木。俺は灌木の中に居るのだ。さてこそ置去り……
 と思うと、慄然ぞっとして、頭髪かみのけ弥竪よだったよ。しかし待てよ、はたられたのにしては、この灌木の中に居るのがおかしい。してみればこれは傷の痛さに夢中で此処へ這込はいこんだに違いないが、それにしても其時は此処まで這込はいこみ得て、今は身動みうごきもならぬが不思議、或はられた時は一ヵ所の負傷であったが、此処へ這込はいこんでからた一発ったのかな。
 蒼味あおみを帯びた薄明うすあかり幾個いくつともなく汚点しみのようにって、大きな星は薄くなる、小さいのは全く消えて了う。ほ、月の出汐でしおだ。これがうちであったら、さぞなア、好かろうになアと……
 妙な声がする。あだかも人のうなるような……いやうなるのだ。誰か同じくあしを負って、もしくは腹に弾丸たまって、置去おきざり憂目うきめを見ている奴が其処らにるのではあるまいか。唸声うなりごえ顕然まざまざと近くにするが近処あたりに人が居そうにもない。はッ、これはしたり、何のこッた、おれおれ、この俺がうなるのだ。微かな情ない声が出おるわい。そんなに痛いのかしら。痛いには違いあるまいが、頭がただもうぼう無感覚ばかになっているから、それで分らぬのだろう。また横臥ねころんで夢になって了え。ること眠ること……が、もし万一ひょっと此儘になったら……えい、かまうもんかい!
 ようとすると、蒼白い月光が隈なくうすものを敷たように仮の寝所ふしどを照して、五歩ばかり先に何やら黒い大きなものが見える。月の光を浴びて身辺処々ところどころさんたる照返てりかえしするのは釦紐ぼたんか武具の光るのであろう。はてな、此奴こいつ死骸かな。それとも負傷者ておいかな?
 何方どっちでもかまわん。おれはる……
 いやいや如何どう考えてみても其様そんな筈がない。味方は何処へ往ったのでもない。此処に居るに相違ない、敵を逐払おいはらって此処を守っているに相違ない。それにしては話声もせずかがりはぜる音も聞えぬのは何故であろう? いや、矢張やッぱりおれが弱っているから何も聞えぬので、其実味方は此処に居るに相違ない。
「助けてくれ助けてくれ!」
 とれた人間離にんげんばなれのした嗄声しゃがれごえ咽喉のどいて迸出ほとばしりでたが、応ずる者なし。大きな声が夜の空をつんざいて四方へ響渡ったのみで、四下あたりはまたひッそとなって了った。ただ相変らず蟋蟀きりぎりすが鳴しきって真円まんまるな月が悲しげに人を照すのみ。
 し其処のが負傷者ておいなら、この叫声わめきごえを聴いてよもや気の付かぬ事はあるまい。してみれば、これは死骸だ。味方のかしら、敵のかしら。ええ、馬鹿くさい! そんな事は如何どうでも好いではないか? と、また※(「目+匡」、第3水準1-88-81)はれまぶたを夢に閉じられて了った。

 先刻さっきから覚めてはいるけれど、尚お眼をねむったままでているのは、閉じた※(「目+匡」、第3水準1-88-81)まぶたごしにも日光ひのめ見透みすかされて、けば必ず眼を射られるをいとうからであるが、しかし考えてみれば、斯う寂然じっとしていた方がましであろう。昨日きのう……たしか昨日きのうと思うが、を負ってからう一昼夜、こうして二昼夜三昼夜とつ内には死ぬ。何のわざくれ、死は一ツだ。いっ寂然じっとしていた方がい。身動みうごきがならぬなら、せんでもい。ついでに頭の機能はたらきめて欲しいが、こればかりは如何どうする事も出来ず、千々ちぢに思乱れ種々さまざま思佗おもいわびて頭にいささかの隙も無いけれど、よしこれとてもちッとのの辛抱。やがて浮世のひまが明いて、かたみに遺る新聞の数行すぎょうに、我軍死傷少なく、負傷者何名、志願兵イワーノフ戦死。いや、名前も出まいて。ただ一名戦死とばかりか。兵一名! 嗟矣ああの犬のようなものだな。
 在りし昔が顕然ありありと目前に浮ぶ。これはズッと昔の事、尤もな、昔の事と思われるのは是ばかりでない、おれが一生の事、足を撃れて此処に倒れる迄の事は何ももズッと昔の事のように思われるのだが……或日町を通ると、人だかりがある。思わずも足をとどめて視ると、何か哀れな悲鳴を揚げている血塗ちみどろの白い物を皆佇立たちどまってまじりまじり視ている光景ようす。何かと思えば、それは可愛かわいらしい小犬で、鉄道馬車に敷かれて、今の俺の身で死にかかっているのだ。すると、何処からか番人が出て来て、見物を押分け、犬の衿上えりがみをむずとつかんで何処へか持ってく、そこで見物もちりぢり。
 誰かおれを持ってって呉れる者があろうか? いや、此儘で死ねという事であろう。が、しかし考えてみれば、人生は面白いもの、あの犬の不幸にった日は俺には即ち幸福な日で、歩くも何か酔心地、また然うあるべき理由わけがあった。ええ、憶えば辛い。憶うまい憶うまい。むかしの幸福。今の苦痛……苦痛は兎角免れ得ぬにしろ、懐旧の念には責められたくない。昔を憶出おもいだせば自然と今の我身に引比べられて遣瀬無やるせないのは創傷きずよりも余程よッぽどいかぬ!
 さて大分熱くなって来たぞ。日が照付けるぞ。と、眼をけば、例の山査子さんざしに例の空、ただ白昼というだけの違い。おお、隣の人。ほい、敵の死骸だ! 何という大男! 待てよ、見覚があるぞ。矢張やッぱりの男だ……
 現在俺の手に掛けた男が眼の前に踏反ふんぞッているのだ。何の恨が有っておれは此男を手に掛けたろう?
 ただもう血塗ちみどろになってシャチコばっているのであるが、此様こんな男を戦場へ引張り出すとは、運命の神も聞えぬ。一体何者だろう? 俺のように年寄としとった母親があろうもしれぬが、さぞ夕暮ごとにいぶせき埴生はにゅう小舎こやの戸口にたたずみ、はるかの空をながめては、命の綱の※(「てへん+爭」、第4水準2-13-24)かせぎにんは戻らぬか、いとし我子の姿は見えぬかと、永く永く待わたる事であろう。
 さておれの身は如何どうなる事ぞ? おれもまたまツこの通り……ああ此男がうらやましい! 幸福者あやかりものだよ、何もきかずに、傷の痛みも感ぜずに、昔を偲ぶでもなければ、命惜しとも思うまい。銃劒が心臓の真中心まッただなかを貫いたのだからな。それそれ軍服のこの大きなあなあな周囲まわりのこの血。これはたれわざ? 皆こういうおれの仕業しわざだ。
 ああ此様こんな筈ではなかったものを。戦争にたは別段悪意があったではないものを。れば成程人殺もしようけれど、如何どうしてかそれは忘れていた。ただ飛来とびく弾丸たまに向い工合ぐあい、それのみを気にして、さて乗出のりだしていよいよ弾丸たまの的となったのだ。
 それからの此始末。ええええ馬鹿め! おれは馬鹿だったが、此不幸なる埃及エジプトの百姓(埃及軍エジプトぐんの服を着けておったが)、この百姓になると、これはまた一段と罪が無かろう。すしでもけたように船に詰込れて君士但丁堡コンスタンチノープルへ送付られるまでは、露西亜ロシヤの事もバルガリヤの事も唯噂にも聞いたことなく、唯行けと云われたから来たのだ。しもいやの何のと云おうものなら、しもと[#「しもとの」は底本では「しもとの」]憂目うきめを見るは愚かなこと、いずれかのパシャのピストルの弾をおうも知れぬところだ。スタンブールから此ルシチウクまで長い辛い行軍をして来て、我軍の攻撃にって防戦したのであろうが、味方は名に負う猪武者いのししむしゃ英吉利イギリス仕込しこみのパテントづきのピーボヂーにもマルチニーにもびくともせず、前へ前へと進むから、始て怖気付おじけづいてげようとするところを、誰家どこのか小男、平生つねなら持合せの黒い拳固げんこ一撃ひとうちでツイらちが明きそうな小男が飛で来て、銃劒かざして胸板へグサと。
 何の罪もとがも無いではないか?
 おれも亦同じ事。殺しはしたけれど、何の罪がある? 何の報いで咽喉のど焦付こげつきそうなこのかわき? かわく! かわくとは如何どんなものか、御存じですかい? ルーマニヤを通る時は、百何十度という恐ろしい熱天に毎日十里ずつ行軍したッけが、其時でさえ斯うはなかった。ああたれぞ来て呉れればいがな。
 しめた! この男のこの大きな吸筒すいづつ、これには屹度きっと水がある! けれど、取りに行かなきゃならぬ。さぞ痛むこッたろうな。えい、如何どうするもんかい、やッつけろ!
 と、這出はいだす。あし引摺ひきずりながら力の脱けた手で動かぬ体を動かして行く。死骸はわずか一間と隔てぬ所に在るのだけれど、その一間が時に取っては十里よりも……遠いのではないが、難儀だ。けれども、如何仕様どうしようも無い、って行く外はない。咽喉のどは熱してげるよう。いっそ水を飲まぬ方が手短に片付くとは思いながら、それでもしやにひかされて……
 って行く。あしが地になずんで、うごきするごとに痛さはこらえきれないほど。うんうんという唸声うめきごえ、それがやがて泣声になるけれど、それにもめげずにって行く。やッと這付はいつく。そら吸筒すいづつ――果して水が有る――而も沢山! 吸筒すいづつ半分も有ったろうよ。やれ嬉しや、是でまず当分は水に困らぬ――死ぬ迄は困らぬのだ。やれやれ!
 兎も角も、お蔭さまで助かりますと、片肘かたひじに身を持たせて吸筒すいづつの紐をときにかかったが、ふッと中心を失って今は恩人の死骸の胸へ伏倒のめりかかった。如何にも死人しびとくさい匂がもうぷんと鼻に来る。
 飲んだわ飲んだわ! 水は生温なまぬるかったけれど、腐敗しては居なかったし、それに沢山に有る。まだ二三日は命がつながれようというもの、それそれ生理せいり心得草こころえぐさに、水さえあらば食物しょくもつなくとも人はく一週間以上くべしとあった。又餓死うえじにをした人の話が出ていたが、その人は水を飲でいたばかりに永く死切れなかったという。
 それが如何どうした? 此上五六日生延びてそれがなにになる? 味方は居ず、敵はげた、近くに往来はなしとすれば、これは如何どうでも死ぬにきまっている。三日で済む苦しみを一週間に引延すだけの事なら、いっそ早く片付けた方がましではあるまいか? 隣ののそばに銃もある、而も英吉利製イギリスせい尤物わざものと見える。一寸ちょッと手を延すだけの世話で、直ぐらちが明く。皆打切らなかったと見えて、弾丸たまも其処に沢山転がっている。
 さア、死ぬか――待ってみるか? 何を? 助かるのを? 死ぬのを? 敵が来てを負ったおれの足の皮剥かわはぎに懸るを待ってみるのか? それよりもいっそ我手で一思ひとおもいに……
 でないことさ、そう気を落したものでないことさ。いきられるだけいきてみようじゃないか。何のこれが見付かりさえすれば助かるのだ。事に寄ると、骨はけているかも知れんから、そうすれば必ず治る。国へ帰って母にも逢える、マ、マ、マリヤにも逢える……
 ああ国へはこうと知らせたくないな。一思ひとおもいに死だと思わせて置きたいな。そうでもない偶然ひょっとおれが三日も四日も藻掻もがいていたと知れたら……
 眼がう。隣歩きで全然すっかり力が脱けた。それにこのおッそろしい臭気は! 随分と土気色になったなア! ……これで明日あす明後日あさってとなったら――ええ思遣られる。今だってちっともこうしていたくはないけれど、こう草臥くたびれては退くにも退かれぬ。少し休息したらまた旧処もとへ戻ろう。幸いと風をうしろにしているから、臭気は前方むこうへ持って行こうというもの。
 全然すっかり力が脱けて了った。太陽は手や顔へ照付ける。何かかぶりたくもかぶる物はなし。せめて早く夜になとなれ。こうだによってと、これで二晩目かな。
 などと思う事が次第にもつれて、それなりけりに夢さ。

 大分永く眠っていたと見えて、眼を覚してみればもう夜。さて何も変った事なし、傷は痛む、隣のは例の大柄の五体を横たえて相変らずじゃくとしたもの。
 どうも此男の事が気になる。遮莫さもあれおれにしたところで、いとおしいもの可愛かわゆいものを残らず振棄てて、山超え川越えて三百里を此様こんなバルガリヤ三がいへ来て、餓えて、こごえて、暑さに苦しんで――これが何と夢ではあるまいか? この薄福者ふしあわせものの命を断ったそればかりで、こうも苦しむことか? この人殺の外に、何ぞおれは戦争の利益たしになった事があるか?
 人殺し、人殺の大罪人……それは何奴なにやつ? ああ情ない、此おれだ!
 そうそう、おれが従軍しようと思立った時、母もマリヤも止めはしなかったが、泣いたっけ。何がさて空想でくらんでいた此方このほうの眼にそのなみだ這入はいるものか、おれの心一ツで親女房に憂目うきめを見するという事に其時はツイ気が付かなんだが、今となってう漸う眼が覚めた。
 ええ、今更お復習さらいしても始まらぬか。昔を今に成す由もないからな。
 しかし彼時あのとき親類共の態度そぶり余程よッほど妙だった。「何だ、馬鹿! お先真暗で夢中に騒ぐ!」と、こうだ。何処を押せば其様そんが出る? ヤレ愛国だの、ソレ国難に殉ずるのという口の下から、如何どうして彼様あん毒口どくぐちが云えた? あいらの眼で観ても、おれは即ち愛国家ではないか、国難に殉ずるのではないか? ではあるけれど、それはそうなれど、おれはソノ馬鹿だという。
 で、まず、キシニョーフへ出て来て背嚢はいのうやら何やらを背負せおわされて、数千の戦友とともに出征したが、その中でおれのように志願で行くものは四五人とあるかなし、大抵は皆成ろう事ならうちに寝ていたい連中れんじゅうであるけれど、それでも善くしたもので、所謂いわゆる決死連の己達おれたちと同じように従軍して、山をえ川をえ、いざ戦闘となっても負けずにく戦う――いやもっ手際てぎわが好いかも知れぬてな。尤も許しさえしたら、何もほって置いて※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)さっさと帰るかも知れぬが、兎も角も職分だけはく尽す。
 さっと朝風が吹通ると、山査子さんざしがざわって、寝惚ねぼけた鳥が一羽飛出した。もう星も見えぬ。今迄薄暗かった空はほのぼのとしらみかかって、※(「車+(而+大)」、第3水準1-92-46)やわらか羽毛はねを散らしたような雲が一杯に棚引き、灰色の暗霧もやは空へ空へと晴て行く。これでおれのソノ……なにと云ったものかしら、生にもあらず、死にもあらず、謂わば死苦しくの三日目か。
 三日目……まだ幾日いくか苦しむ事であろう? もう永くはあるまい。大層弱ったからな。此塩梅あんばいでは死骸のそばを離れたくも、もう離れられんも知れぬ。やがておれも是になって、肩をならべてていようが、お互に胸悪くも思はなくなるのであろう。
 兎に角水は十分に飲むべし。一日に三度飲もう、朝と昼と晩とにな。

 日の出だ! 大きく盆のようなのが、黒々と見ゆる山査子さんざしの枝に縦横たてよこ断截たちきられて血潮のようにくれないに、今日も大方熱い事であろう。それにつけても、隣の――貴様はまア何となる事ぞ? 今でさえ見るも浅ましいその姿。
 ほんに浅ましい姿。髪の毛は段々と脱落ぬけおち、地体じたいが黒いはだの色は蒼褪あおざめて黄味さえ帯び、顔の腫脹むくみに皮が釣れて耳のうしろ罅裂えみわれ、そこにうじうごめき、あし水腫みずばれ脹上はれあがり、脚絆の合目あわせめからぶよぶよの肉が大きく食出はみだし、全身むくみ上って宛然さながら小牛のよう。今日一日太陽にさらされたら、これがまア如何どうなる事ぞ? こう寄添っていてはたまらぬ。骨が舎利しゃりに成ろうが、これは何でも離れねばならぬ――が、出来るかしら? 成程手も挙げられる、吸筒すいづつも開けられる、水も飲めることは飲めもするが、この重い動かぬ体を動かすことは? いや出来ようが出来まいが、何でもでも動かねばならぬ、仮令たとえ少しずつでも、一時間によし半歩ずつでも。
 で、いよいよ移居ひっこしを始めてこれに一朝ひとあさ全潰まるつぶれ。傷もいたんだが、何のそれしきの事にめげるものか。もう健康な時の心持はわすれたようで、全く憶出おもいだせず、何となくいたみなじんだ形だ。一間ばかりの所を一朝かかって居去いざって、もとの処へかろうじて辿着たどりつきは着いたが、さて新鮮の空気を呼吸し得たは束の間、尤も形の徐々そろそろ壊出くずれだした死骸を六歩と離れぬ所で新鮮の空気の沙汰も可笑おかしいかも知れぬが――束の間で、風が変って今度は正面まとも此方こっちへ吹付ける、その臭さに胸がむかつく。からの胃袋は痙攣けいれんを起したように引締って、臓腑ぞうふ顛倒ひッくりかえるような苦しみ。臭い腐敗した空気が意地悪くむんむッと煽付あおりつける。
 精も根も尽果てて、おれは到頭泣出した。

 全く敗亡まいって、ホウとなって、殆ど人心地なくおった。ふッと……いや心の迷の空耳かしら? どうもおれには……おお、矢張やっぱり人声だ。ひづめの音に話声。危なく声を立てようとして、待てしばし、万一ひょっと敵だったら、其の時は如何どうする? この苦しみに輪を掛けた新聞で読んでさえかみ弥竪よだちそうな目におうもしれぬ。随分生皮いきがわはがれよう、を負うたあし火炙ひあぶりにもされよう……それしきはまだな事、こういう事にかけては頗る思付の渠奴等きゃつらの事、如何どんな事をするかしれたものでない。渠奴等きゃつらの手に掛って弄殺なぶりごろしにされようより、此処でこうして死だ方がいっましか。とはいうものの、もしひょッと是が味方であったら? えい山査子奴さんざしめがいけ邪魔な! 何だと云ってこう隙間なく垣のように生えくさった? 是にさえぎられて何も見えぬ。でも嬉やたった一ヵ所窓のように枝がいて遠く低地ひくちを見下される所がある。あの低地ひくちにはたしか小川があって戦争ぜんに其水を飲だ筈。そう云えばソレ彼処あすこ橋代はしがわりわたした大きな砂岩石さがんせき板石ばんじゃくも見える。多分是を渡るであろう。もう話声も聞えぬ。何国どこで話ていたか、薩張さっぱり聴分られなかったが、耳さえ今は遠くなったか。おのれやれ是が味方であったら……此処からわめけば、彼処あすこからでもよもや聴付けぬ事はあるまい。なまじいに早まって虎狼ころうのような日傭兵ひやといへいの手に掛ろうより、其方がい。もう好加減いいかげんに通りそうなもの、何を愚頭々々ぐずぐずしているのかと、一刻千秋の思い。死骸の臭気はいささかも薄らいだではないけれど、それすら忘れていた位。
 不意に橋の上に味方の騎兵があらわれた。藍色の軍服や、赤い筋や、鎗の穂先が煌々きらきらと、一隊すぐって五十騎ばかり。隊前には黒髯くろひげいからした一士官が逸物いちもつまたがって進み行く。残らず橋を渡るや否や、士官は馬上ながら急にうしろ捻向ねじむいて、大声たいせい
「駈足イ!」
「おおい、待って呉れえ待って呉れえ! お願いだ。助けて呉れえ!」
 競立きそいたった馬のひづめの音、サーベルの響、がやがやという話声に嗄声しゃがれごえ消圧けおされて――やれやれ聞えぬと見える。
 ええ情ないと、気も張も一に脱けて、パッタリ地上へひれ伏しておいおい泣出した。吸筒すいづつが倒れる、中から水――といえば其時の命、命の綱、いやさ死期しごゆるべて呉れていようというソノ霊薬が滾々ごぼごぼと流出る。それに心附いた時は、もうコップ半分も残ってはいぬ時で、大抵はからからに乾燥はしゃいで咽喉のどを鳴らしていた地面に吸込まれて了っていた。
 この情ない目を見てからのおれの失望落胆と云ったらお話にならぬ。眼を半眼はんがんに閉じて死んだようになっておった。風は始終むきが変って、或は清新な空気を吹付けることもあれば、又或は例の臭気に嗔咽むせさせることもある。此日隣のは弥々いよいよ浅ましい姿になって其惨状は筆にも紙にも尽されぬ。一度光景ようすうかがおうとして、ヒョッと眼をいて視て、慄然ぞっとした。もう顔の痕迹あとかたもない。骨を離れて流れて了ったのだ。無気味ぶきびにゲタと笑いかけて其儘固まって了ったらしい頬桁ほおげたの、その厭らしさ浅ましさ。随分髑髏されこうべを扱って人頭の標本を製した覚もあるおれではあるが、ついぞ此様こんなのに出逢ったことがない。この骸骨が軍服を着けて、紐釦ぼたんばかりを光らせている所を見たら、覚えず胴震が出て心中で嘆息を漏した、「嗚呼ああ戦争とは――これだ、これが即ち其姿だ」と。
 相変らずの油照あぶらでり、手も顔もうひりひりする。残少なの水も一滴残さず飲干して了った。かわいて渇いて耐えられぬので、一滴ひとしずく甞めるつもりで、おもわずガブリと皆飲んだのだ。嗚呼ああの騎兵がツイそばを通る時、何故なぜおれは声を立てて呼ばなかったろう? よしあれが敵であったにしろ、まだ其方がましであったものを。なんの高が一二時間せめさいなまれるまでの事だ。それをこうして居れば未だ幾日いくかごろごろして苦しむことか知れぬ。それにつけても憶出おもいだすは母の事。こうと知ったら、定めし白髪しらが※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)ひきむしって、頭を壁へ打付けて、おれを産んだ日を悪日あくびのろって、人の子を苦しめに、戦争なんぞを発明した此世界をさぞののしこッたろうなア!
 だが、母もマリヤもおれがこう※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがきじにに死ぬことを風の便たよりにも知ろうようがない。ああ、母上にもう逢えぬ、いいなずけのマリヤにもう逢えぬ。おれの恋ももう是限これぎりか。ええ情けない! と思うと胸が一杯になって……
 えい、また白犬めが。番人もむごいぞ、頭を壁へ叩付けて置いて、掃溜はきだめへポンと抛込ほうりこんだ。まだ息気いきかよっていたから、それから一日苦しんでいたけれど、彼犬あのいぬくらべればおれの方が余程よッぽど惨憺みじめだ。おれはまる三日苦しみ通しだものを。明日あすは四日目、それから五日目、六日目……死神は何処にる? 来てくれ! 早く引取ってくれ!
 なれど死神は来てくれず、引取ってもくれぬ。此凄まじい日に照付られて、一滴水も飲まなければ、咽喉のどえるをだま手段てだてなくあまつさえ死人しびとかざ腐付くさりついて此方こちらの体も壊出くずれだしそう。そのかざぬしも全くもうとろけて了って、ポタリポタリと落来る無数のうじは其処らあたりにうようよぞろぞろ。是に食尽はみつくされて其主が全く骨と服ばかりに成れば、其次は此方こッちの番。おれも同じく此姿になるのだ。
 その日は暮れる、夜が明ける、何も変った事がなくて、朝になっても同じ事。また一日をあだに過す……
 山査子さんざしの枝が揺れて、ざわざわと葉摺はずれの音、それが宛然さながらひそめきたって物を云っているよう。「そら死ぬそら死ぬそら死ぬ」と耳のはたささやけば、片々かたかたの耳元でも懐しいかお「もう見えぬもう見えぬもう見えぬ」
「見えん筈じゃ、此様こんとこるじゃもの、」
 と声高こえだかに云う声が何処か其処らで……
 ぶるぶるとしてハッと気が付くと、隊の伍長のヤーコウレフが黒眼勝のやさしい眼で山査子さんざしあいだからじっ此方こちらを覗いている光景ようす
すきを持ち来い! まだほかに二人おる。こやつも敵ぞ!」という。
すきは要らん、うめちゃいかん、いきて居るよ!」
 と云おうとしたが、ただ便たよりない呻声うめきごえ乾付からびついた唇を漏れたばかり。
「やッ! こりゃきとるンか? イワーノフじゃ! 来い来い、早う来い、イワーノフが活きとる。軍医殿を軍医殿を!」
 瞬く間に水、焼酎、まだ何やらが口中こうちゅう注入そそぎいれられたようであったが、それぎりでまたくう
 担架は調子好く揺れて行く。それがまたつけられるようで快い。今眼が覚めたかと思うと、また生体しょうたいを失う。繃帯をしてから傷のいたみも止んで、何とも云えぬ愉快こころよきに節々もゆるむよう。
「止まれ、おろせ! 看護手交代! 用意! になえ!」
 号令を掛けたのは我衛生隊附のピョートル、イワーヌイチという看護長。頗る背高のッぽうで、大の男四人の肩にかつがれて行くのであるが、其方へ眼を向けてみると、まず肩が見えて、次に長い疎髯まばらひげ、それから漸く頭が見えるのだ。
「看護長殿!」
 と小声に云うと、
なンか?」
 と少し屈懸こごみかかるようにする。
「軍医殿は何と云われました? 到底助かりますまい?」
「何を云う? そげな事あッてよかもんか! 骨に故障が有るちゅうじゃなし、請合うて助かる。貴様は仕合しあわせぞ、命を拾うたちゅうもんじゃぞ! 骨にも動脈にも触れちょらん。如何どうして此三昼夜ばッかいきちょったか? 何を食うちょったか?」
「何も食いません。」
「水は飲まんじゃったか?」
「敵の吸筒すいづつを……看護長殿、今は談話はなしが出来ません。も少し後で……」
「そうじゃろうそうじゃろう寝ろ寝ろ。」
 また夢にって生体しょうたいなし。
 眼が覚めてみると、此処は師団の仮病舎。枕頭まくらもとには軍医や看護婦が居て、其外彼得堡ペテルブルグで有名なぼう国手こくしゅがおれのを負った足の上に屈懸こごみかかっているソノ馴染なじみの顔も見える。国手は手を血塗ちみどろにしてあしの処で暫く何かやッていたが、やが此方こちらを向いて、
「君は命拾いのちびろいをしたぞ! もう大丈夫。あしを一本お貰い申したがね、何の、君、此様こんあしの一本ぐらい、何でもないさねえ。君もう口がけるかい?」
 もうける。そこで一伍一什いちぶしじゅうの話をした。





底本:「平凡 私は懐疑派だ」講談社文芸文庫、講談社
   1997(平成9)年12月10日第1刷発行
底本の親本:「二葉亭四迷全集」筑摩書房
   1984(昭和59)年11月〜1991(平成3)年11月
入力:長住由生
校正::はやしだかずこ
2000年11月8日公開
2005年12月8日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



●表記について