旗本移転後の始末

勝海舟




 維新の際、旧旗本の人々を静岡に移したのは凡そ八万人もあつたが、政府では十日の間に移してしまへと注文したけれども、それは到底出来ないから二十日の猶予を願つて汽船二艘で以て運搬した。併しその困難は非常なもので、一万二千戸より外にない静岡へ、一時に八万人も入り込むのだから、おれは自分で農家の間を奔走して、とにかく一まづ皆の者に尻を据えさせた。
 この時、沼津の山間で家作も随分大きい旧家があつたがそこへ五十人ばかり宿らせて、おれも共に一泊した、その家の主人は、今一寸名を忘れたが、七十あまりの老人で、おれに挨拶していふには、拙者の家は当地での旧家だが、貴人を宿させたのはこれで二度目だといふから、二度とは何時々々と問ふたら、昔し本多佐渡守様を泊めたのと、今夜勝安房守様を泊めるのだといふ。本多佐渡守を泊めたことについては、何か記録でもあるかと尋ねたら、記録はないけれども、口碑に伝はつて居るといふ。然らば、その仔細を聞かせよといつたら、老人が話すには、それは太閣様小田原征伐の一年前で、明年ここへ十万の兵が来るから、予め糧米や馬秣を用意する為に小吏では事の運ばぬを恐れてか、本多様は自分でここえ御出になつたのだといふ。然らば明年になつて糧米馬秣は如何にしたかと問ふたら、答へるには十万の兵が来た為に米は却つて安くなつた。これは去年から皆の人が沢山貯へて置いたからだ。且つ又上様(家康)の御仕合には、沼津の海岸は常に浪が荒くつて、糧米などを大船から陸揚げすることはむづかしいのに、この当時には丁度天気がよくつて浪も穏やかであつた為に、他国からも糧米を容易に輸入することが出来たからだ。それからといふものは、此地方では風波の平穏なのを、「上様日和」と称すると答えた。古人の意を用ゐたのは昔はこの通りだ。さて、彼の八万人を静岡へ移してから、三四日経つと沢庵漬はなくなり、四五日経つと塵紙が無くなりおれも実に狼狽したよ。





底本:「日本の名随筆 別巻95 明治」作品社
   1999(平成11)年1月25日第1刷発行
底本の親本:「亡友帖・清譚と逸話 〔復刻原本=海舟全集第十巻〕」原書房
   1968(昭和43)年4月20日
入力:ふろっぎぃ
校正:浅原庸子
2006年2月16日作成
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