余齢初旅

――中支遊記――

上村松園




        海を渡りて

 年々、ずいぶんあわただしい生活がつづいている。こんな生活をいつまでもつづけていてはならないとおもう。
 年中家にいて、電話がかかって来る。人がたえず訪ねてくる。ひっきりなしである、とてもめまぐるしい。その騒然雑然たるさまはとても世間の人たちには想像がつくまいとおもう。
 世間の人々は、私の生活がこんなにわずらわしいとは思っていないにちがいない。もっとおちつき払った静かな深い水底のようにすみ切った生活とでも思っているにちがいない。しかし実際はそれとおよそかけはなれた生活である。
 私は何とかしなければならないとかねがね考えていた。それはむろん健康に障るばかりではなしに心にゆとりがなくなるからである。そこでさる人のすすめに従って田舎の方へ家をつくったのであった。ここには松篁が行っている。松篁もそのことを考えたからであった。私も隠れ家のつもりでそこへ行っている。だけども仕事の手順の上から、ついそこへ行っている間がなかったりして、いかにもいそがしいこの人生の生活の桎梏から解放されて、瞑想にふけりたい、そうした念願はなおいまだ達せられないですぎて来たのであった。

 今度の支那ゆきはその意味において一切のわずらわしさがなく、そしてもしそういうものがあっても向うの人がすっかりそれをやってくれるという約束であった。かりに汽車がさる駅につくとすると、私はだまって汽車をおりればよい。出口で人ともみ合わなくともよい。汽車にのればちゃんと私の座席がそこにとってくれてある。そういったわけで一切合財何から何まで先方の人がやってくれる。私は彼地で一枚の絵もかかなくてよい。皇軍の慰問も京都で色紙をかいてもって行くことにしたので、家を出てからは何にもかかなくてもよいようになっていた。そうして約一ヵ月ほどのあいだぽかんとして、無言の旅を続ければよい。もちろん口をきいても向こうには通じないのだし、人にやってもらった方がゆきとどくわけなのであった。そうして幾年来の生活からきれいさっぱりとかけ離れた旅行をすることになったのであった。生まれてはじめての旅といっていい、私にとっては長距離の、そしてながい日数の旅であった。
 この旅行はよほど前からすすめられていたのであったが、なかなか実現が出来ずにそのままになっていたのを今度おもい切って決行することにしたのであった。

 十月二十九日の晩、たしか十時半すぎであったとおもう。京都駅から汽車にのって出発した。汽車はこれから大阪をすぎ中国筋をまっしぐらに走りつづけて、関門海峡をへて、長崎にゆき、ここから船にのった。三十日は長崎の宿に一泊して、明くる三十一日の午前十時頃に長崎丸にのりこんだのであった。

 天気は大へんよかった。船はたしか六千トンもあったかとおもう。その夜は船の中で寝て、翌日の昼頃にはもう上海へつくことになっていた。
 夜があけて、船室から甲板に出てみると来し方の海水は青々としているけれども、行く手の海は赤い色をしている。それまでは島もなく目を遮るものとてもなかったが、ゆく手には石がごじゃごじゃに乱れ散ったようになっているのが望見される。そのあたりが上海だということであった。
 船では華中鉄道の副総裁である田さんや夫人や秘書の方々と一緒であった。東京から上海へゆかれるので一緒に京都の駅で落ち合って出発したのであった。船の中では私はその人たちと一緒ににぎやかに語り合いながら海をつつがなく渡ってしまったわけであった。静かな航海であった。昼食はそれでも船の中で終えて、それから上陸すると上海北四川路にある新亜細亜ホテルに落着いた。それから皆と一緒に上海の街を自動車でみてまわることになった。租界の外なぞもみてまわった。

        上海素描

 上海というところをずっと一巡したあとの印象はどう表現したらいいのであろう。とにかくとても賑やかなところである。
 そのくせ街幅は東京の銀座などのような広さはなくて、妙に狭いという感じがする。その両側に店が並んでいる。街路の真中を二階つきのバス、自動車、人力車などが通っているし、両側は人、人、人でいっぱいにつまっている。それが混然雑然としてとてもにぎやかであった。
 ちょうど三度ほどそうして市中を自動車で走りまわって、フランス租界のところで降りて、大きなデパートすなわち永安公司があるので、そこへはいってみたりしたのであった。
 そうして私はいろいろのことを感じた。上海は何という不可思議なところなのであろう。街の裏と表とではまるで地獄と極楽とが腹合せになっているというようなところである。
 それから大金持と乞食とがまるでごった返しているのである。にぎやかな街には幾つも露地のような細い横筋の小さな通りがある。そこにはごたごたとした小さな食物の店がある。その家々に支那人が代わり代わり腰をかけて、油っこいものを、さもおいしそうに青天井の下でたべている。軒もひさしもない青天井の下ではさぞかし塵埃もおちて来ようと私にはおもえた。しかし支那人たちはそんなことには一向平気で、さもさもおいしそうにたべているのである。そこを一歩奥の方へはいり込むと、何とおどろくべきことか、まるで乞食の巣のような一種名状すべからざる怪奇なところがあり、うす気味悪い戦慄がおもわず肌を走るのをおぼえる。そこにはどんな深刻な犯罪があるかも知れない。どんな秘密がたくらまれているかも知れない。そういう印象を与える。
 お天気の日には、ごみごみとした悪臭のするところに腰をかけて、のんびりした顔をしてしらみを取っているものがある。何の恥辱もなく、何の不安もなく、あたりまえの顔をしてやっている。のん気な底知れぬ沼のような怪奇さがただようている。そこの外のところに大きな賭博場が二つあり、インテリや金持ちなどが集まるところと、またいまひとつは無頼漢などがあつまって賭博に来るところがあるということであった。それをみせてあげるという話であったが、インテリのも無頼漢の方もどちらもみられなかった。しかしそういう怪奇な家の表を通って来たのであったが、仏租界はそんなに危険ではないらしいという話であったので、毎日大抵租界のしきりを越えてゆくのであった。

 私は自動車のちょうど真中あたりに座をしめていた。そして私の両側に同行の人がのっていた。もう一台の方は男の人たちが乗っていた。二台ずつで毎日市中をみて歩いていたのであった。翌日、自動車でゆくと、大へんな雑とうがあり、そういうところに何ということであろう餓死人が倒れたまま放っておいてあるのだった。私はそれを何ということもなくとっくりとみていたかったが、歩いていると、それはただそれだけではなしに、実はそこにもここにもといったぐあい[#「ぐあい」は底本では「ぐあいい」]にあるのであって、誰も私のように物珍しくみているものなぞはないのである。通行人はそれを知らん顔をして通っているのである。日本ではそんな行き倒れなどがあると大騒ぎになるというところだが、この土地では誰も知らん顔をして通りすぎてゆくのであった。別に人だかりもしない、実に妙な悲惨なところである。
 そうして蘇州へ行った時は、十一月中頃の寒い晩であった。そうすると上海中で昨夜の寒気で百人ほどの死人があったという。話をきいて私はすっかりおどろいてしまったのである。そういうところがあるかとおもうと、租界の外に大きなダンスホールがあったりするのである。そこでは夜の十二時頃から翌日の午前五時頃まで皆が踊り抜いているのだという。こういう歓楽場があり、有閑婦人や、おしゃれ息子や金持ちがゆくところとみえる。一方にはこんなところがあって、とても貧富の差のはなはだしい中産階級というものがないところとおもわれる。
 映画館にもとても立派で大きなものがあって、よくはやっていてちょっとおそくてももう入ることが出来ないということであった。昼のあいだから切符を買っておく。休憩室があってこれがとても広いものであった。それに物資がとても豊富なものであって、自動車も二時間、三時間でも平気で待たしておく。芝居のはてるまで、何時間でも待っているといった有様であった。化粧品でも、毛糸でも、綿布でもふんだんに店頭に積んである。

        支那の芝居

 上海のユダヤ人の経営している大きなホテル、十一階建てのホテルがある。その五、六階から下をみおろすと、向うが海岸みたいなところになっている。そこを自動車が数珠つなぎのようになって並んでいる。ホテルの表でも必ず自動車が五、六台は止まっている。少しも自動車に不自由をすることはない。
 私はこの上海に四日ほどいた。その間に軍の慰問をした。病院にも、鉄砲の玉があたっていて今だに弾痕が残っていて、激戦の日がおもわれるのであった。病院には傷病兵が沢山おられた。私たちがこうしてお訪ねすると皆が非常によろこんで下すったのは私にもうれしいものであった。そしていろいろと歓待していただいたのであった。
 上海神社というのへ参詣する。十一月三日はこちらの明治節のいい日であったので、結婚式が幾組もあった。白装束のや三つ衣裳のあげ帽子をかぶったうら若いお嫁さんがいて、それはいずれも日本の娘さんであった。日本人同志の結婚である。
 私は京都を出発する前にコレラやチブスや疱そうの注射をして行ったのであった。よほど用心してゆかないと蒋介石のテロにあったりしてあぶないなどといろいろそのお医者さんは注意してくれた。日本服を着てゆくと目立つといっておどかされたのであったが、上海の街を歩いてみると、日本服の娘さんや相当の老婦人が平然として歩いている。子守がいたり、沢山日本人がいたので私はすっかり安心してしまったのであった。
 租界の内部の方はなお危険がない。ホテルのそばでは青物市場があってそこへ日本人の女の人が沢山青物を買い出しに行っているのをみたのであった。
 一番終りの日に、支那芝居を一時間ほどみた。女形のいい役者が来ていた。筋書は分らなかった。さわがしい囃子であった。日本の芝居のように道具立てや背景がない。幕が後の方にたれ下がっているだけである。門でも必要なときにかついで出て来るといった塩梅である。門の印だけをおく、役者がその門をくぐってしまうとそれを早速たたんでうちへ入れてしまう。日本の能の道具のような象徴的なものであった。
 もっとも芝居は蘇州でもちょっと田舎芝居をみた。南京から帰る蘇州特務機関長に汽車の中でおめにかかったのであったが、その時汽車の中へ日本人がどやどやとはいって来たが、上海の新聞に私の写真や記事を掲げていたので人々はそれをみていたらしく、汽車に乗り込むとその一行が新聞の主だなと分ったのであろう、向うから私に言葉をかけられた。この人は金子さんという中佐であったが、蘇州の庭園のいいところなどをみせてあげようという話であった。そこでその人の官舎へ来るようにとのことだったので、蘇州のしげのという日本宿に落着いてから、やがてその官舎の方へお訪ねしたわけであった。それは立派な広い大きな官舎で、晩餐の御馳走をいただいたのである。この人はとても話ずきで、それからそれへと話はつきなかった。
 そこからの帰路、芝居をみたのであった。中佐はその時、私の秘書に芝居を案内させましょうと言われたので、自動車で芝居につれて行って下すった。この秘書はまた顔利きであったのか楽屋へはいって見ましょうと言うので、それをみせてもらうことになった。ごみごみした二階へあがってゆくと、それは一つの部屋でみな役者がそれぞれ持役に従った扮装をしているのであった。皇帝やチャリやいろいろの役になっている。皇帝になるのは鼻の高い、いい顔をしている。そこには女役もまじっている。私は物珍しいのでそれをスケッチした。筆を走らせて写していると、写生帖をのぞき込んで、ふふんよく似ているというようなことを言うと、傍に扮装していた役者がまた手をやすめてのぞき込みに来るのである。舞台から帰って来ると襟を直したりして、自分も写してもらいたそうにしてやって来る。そういう田舎芝居の楽屋というものは却ってまた格別なおもしろさがあるものだと私はおもった。
 役者の顔の隈取りはとても日本ではみられないおもしろさがあった。道化役者の鼻先を朱で塗り、そしてまた頬のあたりをすみと胡粉とで一、二筆線を入れたり前額のところへ赤と黄などを塗ったりして、それらが人の意表に出た何とも言いようのない扮装をしているのであって、すべてが象徴的なのであるから、写実的なこまごまとしたことはなくて、頗る簡単なものなのである。何か特別な衣裳をちょっと一枚上にひっかけて来たとおもうともうその持つべき役になりあがっているのである。

        遊君

 芝居を出て、暗い石だたみの道を歩くと、芸者屋がある。二階にあがってゆくと、その部屋には椅子が並べてあって、その端の方に、にやけた男が提琴をひいている、するとやがてそこへ芸者が出てくるのである。芸者は頬紅をつけている、そして今の提琴をひいている男の隣に腰をかけてその楽器に合わせて何か知ら意味の分らない唄を歌うのである。唄が終るとお茶をのんですぐ帰ってしまう。その次に来た芸者も同じように唄を歌って帰ってゆく。これは芸者をみただけなのであったからそうなのかも知れないが、この女たちといい、この部屋といい、どこが美しいというのでもない。美人だというのでもない。そういうところでも男は遊びにゆくものとみえる。やがて私はそうした異様な感慨にふけっていると、白粉気のない若い年頃の芸者が歌を唄うのが専門であるらしい。楽器を演奏するのは男の役目らしい。ここへは駅長さんも一緒に来てくれた。大体駅長さんはその土地、土地のいろいろな状況に通じた人であって、駅に下車するといつも駅長室で私はそれぞれの駅長さんに逢って、いろいろと案内してもらうのであった。揚州へ行ったときもおまんじゅう屋をみせてもらったりした。

        雲林寺

 上海から抗州へ行った。抗州では西湖のいちばんよくみえる高台になったところにある西冷飯店という宿に泊った。昼の二時頃、軍部と軍の病院とを訪問した。それから日の暮れ前にこの宿へついた。私はここで熱を出してしまった。
 実は上海にいたとき風邪をひいたのであった。抗州へ出発するという前の晩に、上海でダンスホールを見に行った。そのことはすでに前に記したが、そのダンスホールは広いホールになっている。その真中は板敷であった。そこでちょっとさむいなと感じた。その時はすでに風邪をひいていたらしい。
 抗州の宿についてみると、何の気なしでいたのだが、しきりとくしゃみが出た。それで薬を呑んで床にはいったのであった。体温計ではかってみると三十七度八分ほど熱が出ていた。お薬を呑んであたたかくして静かに床についたのであった。翌日になってみるとやはり熱がひかないので医者が来て、あたたかくして寝ているとよいというので、この日一日中床についていた。その翌日は、幸いにも熱が下ったが、外へ出るのはひかえて、三日ほどはその宿で静養していたのであった。そして四日目は抗州の山手に二つばかりある寺をみに行った。寺は玉泉寺というのと雲林院である。ここはやはり皇軍の進撃した戦蹟なのであった。山門なども半分はくだけていた。山手でさびしいところなので、まだあぶないものとみえて、軍の方から十四、五人の兵隊さんがトラックに機関銃をつんで物々しく護衛をして下すった。このためか、幸いに敵の襲撃は受けず、つつがなく参詣することが出来たのであった。玉泉寺には大きな池があった。池はきれいなすみ透った水を湛えていた。大きな鯉が幾十尾とも知れず泳ぎまわっていた。寺の坊さんが鯉に餌をやってくれと言ってキビ藁のようなものをもって来たので、それを鯉にやった。その坊さんはちょうど南画の山水の中にいるような坊さんで、鯉にやった餌と同じものをたべているのだということであった。そこから自動車で山手をのぼると雲林院へつくのである。ここには五つ六つくらいの女の子の案内人がいる。いずれも貧家の子であった。それに日本語がいつ習いおぼえたものかうまいものである。私たちが自動車を降りるとその女の子がいきなり走って来て「今日は」と言う。「御案内いたします」なぞと言う。ここには男の子や大人の案内人もいるが、それを出しぬいてこの女の子が一番かせぐらしい。自分が先に立ってどんどん案内してゆく。寺の奥の方には防空壕があった。今はそれも名物のひとつになってしまっている。暗い内部をローソクをひとりひとりが持って、足許を照らしながらはいってゆくが、中はなかなか広く出来ている。そこにはローソクの光に照らし出される寝室や、風呂場や、会議室や、便所などと、いくつにも仕切られた部屋部屋があった。それらはくねくねと曲りくねってつづいているのであった。すると例の女の子は「アスモト御注意下さい」などと案内するのには私もおもわずふき出さずにはいられなかった。
 寺にはむろん仏像が祀ってあった。けれども日本の仏像にみられるような尊厳さ、有難味というものがない。それに塗ったのか貼ったのかは知らぬが仏像の金の色でも、本当の金色ではなくてやけに妙な赤味を帯びているのが不愉快な印象を与えた。
 西湖は十一月の五日から四日間ほど滞在したが、この土地はあまり寒くはなかった。西湖を船でゆくと、湖中に島があったり、島には文人好みの亭があったりして、いろいろと風景に趣のあるよいところであった。蘇堤などもいい風情をもっている。雨の日などはことに蕭々とけぶる煙雨になんとも言えぬ明媚な美しさがあった。
 銭塘江は、向う側が雨にくもってちょうど南画の墨絵の山水をおもわせ、模糊として麗わしかった。

        唐子童子

 南京の紫金山というのは、私の泊っていた宿の窓のところからちょうど額縁にはまったように見られたが、夕方などになると大へん美しい山に見えるのであった。
 山の形は、富士山の峰のあたりが角ばったようになっていて、そこへ夕陽があたるとすっかり紫色になってしまう。そして山麓にある家々の瓦などが、どういう関係からは知らぬが金色に輝いていかにも美しいものであった。
 紫金山という名はなるほどこの光景にふさわしいと思ったが、しかし朝になってみるとあれほど龍宮城かなにかのように美しかった金色の家々がまことにきたならしい家根であって一向おもしろくないものであった。
 抗州の銭塘江には橋が懸っていたが、事変の時、敵兵がその真中のところを爆破して逃げてしまったので、そこで中断されて河中に墜落していた。ホテルの近くに山があって、その山中に道士が棲んでいる。昔から絶えず棲んでいるという話であったが、私は都合が悪くてそれを見にゆけなかった。
 鎮江に甘露寺と金山寺がある。甘露寺からみると下が湖水になっていて、芦や葭がずっと生えている。この芦や葭をとって細工物をするのだという。こういう細工物の産出額は相当大きな金額にのぼるのだそうで、だからここでは芦や葭を非常に大切にするのだということであった。金山寺はずいぶん大きな寺であった。相当遠いところではあったが、自動車で楽にみることが出来た。
 甘露寺へ行くと、石の段がずっと上まで続いている。石段の登り口のあたりにきたない民家がある。そこから四つぐらいから十までくらいのまずしい子供たちが出て来て、その石段をのぼるのに参詣者の腰を後から両手で押してくれるのであった。そして貰う駄賃がこの子供たちの収入になるのであった。その中にやはり貧しい子供には、昔の唐子をおもわせるような髪をしたのがいた。前のほうや、耳の上だけやに毛をのこして、あとはくりくりに剃って、残した毛を三つ組に編んだのや、つまんでしばったのや、いかにも昔の絵にある唐子のような風俗がこんな片田舎に却って残っているのを、不思議ななつかしみをもって眺めずにはいられなかった。
 私の腰を三人ほどの子が押してくれるけれども私はそんなに早く歩くことが出来ないので、子供たちから漫々的、漫々的、めんめんちょとからかわれるのであった。そしてそのなかにかあいらしい子供、唐子をおもわせる、そんな子供も交っているのを見受けたのである。

        煙雨楼

 抗州から上海への帰路、嘉興の煙雨楼というのに立ち寄ってみた。
 嘉興という処はちょっと島みたいになっている。私の泊った家は、外から見ると支那風になっているが、内部は日本風に適した宿屋であった。欄干は支那風にしていて、庭園に太湖せきなどがおいてあった。
 この宿に泊って、朝、手水を使うていると、とても巨きな鳥が人間になれて近々とやって来る。白と黒との染め分けになっている鵲である。これは支那鳥などと俗に言われている、これが沢山いた。しかし日本で見受けるような真黒の鳥もいた。
 煙雨楼へゆくには自動車からおりて少し歩いて、それから船にのってゆくのだが、その船を姑娘船という。若い娘が船を漕いでゆくのもある。姑娘のきれいなのが船をこぐのだという。この船の中が彼女らにとっては自らの家なのである。生活のすべてなのである。私もその船へはいって姑娘を写生した。船の中に赤い毛布をのばして敷き、それにくるまってねるのである。狭い船を自分の家にして住まっている。船には網代の苫のようなものが三つほどあって、真中に鏡台やら世帯道具やらがおいてある。大体母と娘だが、なかには娘だけ二人住んでいるのもあった。
 それら姑娘船の娘たちの中にはなかなかきれいなのもいて、パーマネントをかけたりしているが、それは日本のとはちがって支那風にそれをうまくこなしていて、支那服と髪とがよく調和を保っていた。娘たちはうっすらと化粧をほどこしている。また彼女らはいかにもきめがこまかできれいである。すべて油でいためてたべるというその風習のためなのであろうか、きめが大へん美しい。嘉興の煙雨楼は湖中の島なので景色のいいところであった。

        汪精衛閣下

 上海へ帰って、十三日の朝八時急行で南京へ出発したが、その日の午後三時頃着いた。南京の城内へはいって、首都飯店におちついた。それから着物を着換えて、汪精衛閣下におめにかかることになっていた。午後四時というお約束だったので早速出かけた。
 汪精衛閣下の応接間は非常に広い部屋で、菊の花がとても沢山咲き匂うていた。幾鉢も幾鉢も大きな鉢植の菊が、黄に白に咲き薫っている様は実に立派なものであった。砂子地の六曲屏風に鶴を描いたのが立てられてあって、これは日本の画家の筆になるものであった。
 汪精衛閣下は日本語に詳しいという話であったが、やはり支那語で話されて通訳がそれを日本語にして私に話しかけられるのであった。
「どういう風な画風をやられますか、山水ですか、人物ですか?」
 私は風俗画をやると申し上げた。六十七歳というともはや七十歳にすぐということを華中鉄道の人が言ったので、大へんおどろいて居られた。
「そのお齢でこの遠いところへ、よくおいでになる決心をされた」
 そう言って感心もして居られた。
 私も支那語が分からなかったけれども、しかし雰囲気が至極なごやかで、ごくくつろいだお話を承わったのであった。
 あちらの新聞社の写真班がそこへ来ていた。華中鉄道の人たちも記念の写真を撮ることになっていた。汪精衛閣下はその時、室内は光線が悪かろうと支那語で言って居られて、庭園の中へ出て、御自身で扉をしめられたり、陽ざしのいい明るいところへ御自身で一同を導いてゆかれるのであった。そこにもまた黄菊、白菊が咲き乱れてまことによい香りをはなっていたが、ここらがよろしかろうというので、そこで皆が並んで写真を撮影したのであった。
 お話のはしはしからでも、汪精衛閣下が絵に対してもなかなか深い趣味を有して居られるということがうかがわれて頭がさがるのを覚えた。

        光華門

 翌日、この地に博物館があるというので、それをさっそく観に出かけた。博物館では、きっと昔の人のかいたいい作品が数多く観られることであろうと楽しみにして出かけてみたが、中へはいってみると案に相違して何もこれというほどの観ごたえのあるものがなかった。
 玉石の大きな盤にこまかな文字を書いたものや、乾隆の墨や朱などが沢山あり、その他書の巻子本もあったが、絵画の点ではあれだけの絵画国でありながら見るべきものの一つもなかったというのは、いかにも淋しいおもいがした。
 他には石仏の重い、動かせないようなものがあったり、動物の剥製などがあった。虎や豹や鳥の剥製をみた。
 日本の博物館のように、何時でも行きさえすれば見られるというのではなく、前から申し込んでおいて行かなければならない、私たちが出かけて行ってみると、一つ一つ部屋を鍵であけて観せてくれるという有様であった。
 日本は日本の国体がこういう国体である。万邦無比の国体だから古来の名作だけについて考えてみても数々のものが古くから散じたり、滅びたりしないでちゃんと残っている。
 日本の名家やお寺に行くと、日本古来の名作のみならず、支那の名作逸品が大切に保存されている。大切に異国の文化が保存されきたったのである。これは何という有難いことであろうか。日本の国民として、大きな誇りとよろこびを感ずるのである。ところが支那ではそういうものがなくなっている。支那はああいう打ちつづく革命のために、自国の貴重な絵画を散じほうむってしまったのであるが、の国のために惜しんでもあまりあるものがある。
 それから今度の戦蹟を歩いてみた。光華門を訪うた。折りよくこの戦の時、直接戦争にたずさわっておられた将校の方がおられて、当時の皇軍の奮闘奮戦の模様をいろいろとつぶさに御説明して下さった。城門の上にのぼって、あのあたりに敵がいてこういう攻防戦が展開されたと言ってまことに手にとるように物語って下すった。今ここにあるいているところは支那兵の死骸でいっぱいであった、などとも言われ、城門の下のところに土饅頭の小高いのが彼処此処にみられた。
 松篁の行った時にはまだ骨がところどころに残っていたそうであって、雨などにさらされて秋草がそこに咲いていたりして、なんとも言いようのない神秘な感じがしたと語っていたが、私の行った時はそういうさびしいもの、目を傷ましめるものは何にも残っていなかった。その辺で討死せられた皇軍の方々の墓標があり、花を供してあった。
 将校のお話は真に迫っていて、聴く者みなこみあげてくる涙を禁じ得なかったのである。

        悠々風景

 中山陵や明の孝陵や石人石獣をみたり、紅葉がなかなかきれいであった。
 南京の街はなかなかいい町であった。秦准、これは詩人が詩に詠んだり、画舫などもあり、夏の夜など実に美しいところであったらしいが、今は水はきたないし、画舫はくだけてしまってみるかげもない船があちこちに横たわっていた。橋のきわには乞食がいっぱいいる。そのあたりは食物店が、青天井なりで店を拡げていて、鍋のところに支那人があつまって、油でいためたものを食べている。また、そういう道幅のせまい処で、野天で縫いものをしているものもある。町人の食事も表でやっている。行きあたりのところに小学校があり、級長の子供が棒などもって他人のはいって来るのをとがめている。そのうちに生徒が帰り始める。生徒の服装はまちまちであるが別に見苦しくはない。学校帰りの子供が一銭くらい出して飴湯などを呑んでいるのを見ると、改めて支那人の胃袋について奇異の感をいだく。衛生などということは支那人には全く意味のないものと見える。
 日本の町の横筋は、小路といってもかなりの道幅があって、ここのようにせまくはない。支那の街は大通の横すじの町は自動車がはいると人などとても通れたものではない。どこへ行っても横町は極めて狭いのである。両側の家はぺちゃっとしたもので、壁みたいなものがつづいていて、そのところどころに入口だけが口をあいている。内部をのぞいてみるとどれも暗い家ばかりである。これではなるほど家の中で生活することが出来ないであろう。家の中は寝ることと食べるだけの用をするところであると言っていいだろう。日本の家のように陽あたりがいいというような室がない、だから住民はわざわざ食物を表へ持ち出してたべているらしい。
 支那は石が豊富なのであろうか、どこへ行ってみても街は石だたみになっている。人力車にのると石だたみの上を走るからゆれ通しで苦しい。それに梶棒がやたらに長い。この車にのって行くと、仰向いて車の上で飛びあがってまるで大波にでもゆられて行くような感じであった。
 ごみごみとした通りをすぎると、ちょっとした富豪の家があって、中へはいると庭には太湖石が置いてあって、樹木がつくってある。それを出ると青天井の便所があったりする。散髪も戸外でやっている。それを私がスケッチしはじめると、物見高い子供や大人がよって来る。どこも同じ野次馬風景である。散髪屋も客を放りぱなしでスケッチを見にやって来るのである。客はそれでも文句ひとついうでもなく、だまって散髪屋が帰って来て再びとりかかるまでじっと待っている。
 人が沢山たかって来ると何という異臭の強いことであろうか……。
 女の人が店番をしていて御飯をたべている。大きなおはちの中には黄色いごはんが入っていて、おかずもなしにこちこちたべている。とにかく食べられたら結構というのか、そんなものも食べられない人が多いらしいのである。
 扇屋へ買物にはいったら乞食が二人ほどついて入って来た。乞食もなかなか多い。
 玄武湖に行くと、ここには柳が沢山ある。画舫があり、夏は蓮が咲いて美事であるという。その堤に柳が枝を垂れていて、そのあたりに牛が放ち飼いにされている。牛も極めて鷹揚でおとなしいものである。牛同志角突き合いもせずおとなしくのんびりと歩いている。女の子が一人だけついていてのどかな風光であった。
 時には驢馬が通り過ぎてみたり、豚が行列して沢山やって来たりする。そういう京都などではとてもみられない珍しい景色が見られたのである。

        揚州料理

 南京の帰りに鎮江へ行き、そこで花月という料理屋へ行ってみた。
 この家には畳など敷いてあって、むこうの座敷からは三味線の音が流れて来るといったちょっと内地を偲ばせるものがあった。
 軍と連絡をとってくれた兵隊さんも一緒だったが、このような料理屋で皆とくつろいで一杯やるのはいいとみえて、大へん楽しそうにしておられた。
 やがてその兵隊さんの案内で舟に乗って揚州に行き、柳屋という宿屋へ着いた。
 ここでは駅長さんがいろいろと心配してくれた。私は現代化されていない、わげをゆうた支那らしい女性を写生してみたいと思った。どうも現代支那女性はみな洋風になってしまっていて、若い娘さんはパーマネントをかけている。そうではなしに是非純支那風の女性を描いてみたい。純支那風の人というと中年の婦人にたまたま見かけるだけなので、そういうモデルを探した。ところが揚州は古来美人の産地として有名なところであり、唐の楊貴妃もここの産であったという。揚州へ行けばきっとそういう婦人がいるという話をきいたのであった。ところがここの知事さんのところで働いている恰好の支那婦人をさがして駅長さんがつれて来てくれたのであった。私の求めていた支那風のわげを結った中年婦人であった。幸い宿まで来てくれたので、私は思うぞんぶん横向きや、七三向きの写生をすることが出来た。
 その晩は知事さんが招待をして下すった。日が昏れてから俥にのって出かけた。ここのは揚州料理である。揚州料理はちょっとあっさりとして、普通の油っこい支那料理とは趣を異にしているのが珍しい。
 しかし元来私は小食のたちで、鱶の鰭、なにかの脳味噌、さまざまなものの饗応にあずかったがとても手がまわらず、筍だとか椎茸だとかをほんのぽっちりいただいて、揚州料理も参考までに食べたというにすぎない。

        鶴のいる風景

 南京での招宴にも、美しい娘さんに逢うことが出来た。夜はお化粧を濃くしていたが、ひるは極くうす化粧であった。
 さて揚州で一泊したその翌日、屋根のある船で運河を上った。
 娘と母親の船頭で、その日はまことにいい天気、静かな山水、向こうに橋、橋の上に五つの屋根があって、これを五亭橋というのだそうだが実に色彩の美しい橋であった。その橋際で船をとめ、橋の上にあがって向こうをみおろすと、五、六軒の家屋が散在しているのが望まれ、童子や水牛がいたり、羊が放ち飼いにしてあったり、まことに静かな景色である。秋のことであったから花はないが、桃の咲く時分だったらさしずめ武陵桃源といった別天地はこれであろうとおもわれた。
 それから船をすすめてゆく。藪があったり、なだらかな山があったり、私にはその山が蓬莱山のようにおもわれた。そこにはお堂があって、大きい方を平山堂と呼び、小さい方は観音堂というのだそうである。
 その辺の景色がこれまた非常によいもので、沢があって大きな鳥がおりて来たなと思ってみるとそれは何と丹頂の鶴であった。それに見入っていると、いまにも白髪の老人が童子に琴でも持たしてやって来るのではなかろうかとおもわれるほどまるで仙境に遊ぶ心持ちがされた。風景専門の人がいたら垂涎されるに違いない、いい画題がいくらも見あたった。

        蘇州の情緒

 それから蘇州へ行った。叭叭鳥や鵲の群れて飛ぶのんびりした景色を汽車の窓から眺めていた。童子が水牛にのってのどかに歩いているところや、羊が点々と遊んでいるところなどがみられた。百姓家があったり、家が潰れかかっているさまも却って雅趣がみえて嬉しかった。小川があると、支那の田舎娘が菜を洗っている。どの畠にもお墓の土饅頭が点在するのであった。
 だがまたしても思う……何という支那は大きな国であろう、土地の広大をのみいうのではない。
 汽車は大きくて、中がゆったりとして乗心持もよかった。
 蘇州の寒山寺は別していい寺というほどのこともないが、この寺の向こうには有名な楓橋があって、その橋の上から見下ろしておもいをはせれば、楓橋の夜泊、寒山寺の鐘啻しょうていひびきわたるところ「落月鳴烏霜満天……」の詩が生まれたのもむべなるかなと思ったが、この辺の景色がいい。
 蘇州の獅子林をみたが、ここは太湖石が沢山あって、ずいぶんと広い庭園であった。
 太湖石は絵ではみていたが、真物は絵とはよほど変っていた。第一、太湖石は素晴しく大きなものである。それに真物は絵とちがって黄土色を呈しているのである。
 獅子林は真中が池である。裏手の方に門があり、太湖石があり、笹があり、芭蕉があり、苔もここのはさびて白緑色を呈していて、陽のかげに生じているのは群青色になっている。仇英の描く群青や緑青、また斑をもったきれいな苔を生じた太湖石は、実物をみて大いにこれを美化したものであることがわかった。実際の太湖石は南画の花鳥の傍らにあるかわいらしいものよりも、はなはだ大きなものが多かった。人がくぐれるほどの大きな穴があいている。ついだのもある。はなはだ大きなのは中途で継いであるらしい、そんな形跡がみえた。
 ここの富豪の婦人の部屋などもみせてもらった。朱の色の梯子、欄干があるなど奇麗なものだった。二階の床は木を用いているが、階下の部屋は石だたみで、冬は火の気がないと寒いものだろうと私にはおもえた。門を入るとまた次の門がある。幾つもの門をくぐってやっと主人の居間に達する。支那の富豪たちが外敵に対してどれほど深い用心をしているかが、これをみただけでもよくわかる気がする。ずっと遠いむかしからのながいながい不安の歴史が、おのずと彼らにこのような警戒心を備えさせてしまったのであろう。
 支那人は酒をのんでも決して酔い倒れるようなことがないという。酒を呑んで殺されてもしようがないからだ。呑気きわまる支那人の別の一面にそんなところがあるのを私は知った。

        支那靴

 蘇州から上海へ帰り、街路風景や、食物屋、散髪店などのスケッチをこころみた。
 一体、支那人の着ている服はどういうぐあいにつくられているのであろうかと思い、支那服を一着買うつもりになった。支那服や支那織の布地を売っている専門店の売り場に私の気に入った服が二着並んでいたが、そのうち模様のいい方を一着もとめた。帯にでもするのだろうか、地紋様の美しい布を買っている日本人もあった。私は沢山必要でないが、とてもいい紋様の布地があったのでそれを五、六寸きって売ってくれと言ったところが、売場の支那人が切るのは困ると言ってどうしても売ってくれない。するとちょうど売場の向こう側にいた日本婦人が、突然私の方に向かって、先生この着物にはどちらの帯が似合いましょうか見わけて下さいと言って、着物に対して似合いの帯を二つ持って来て私のまえに拡げるのである。私たちのことが上海の新聞に出ていたので、この櫛巻にした私の姿を知っていたのであろう。そこで私は自分のいいとおもうのを言ってあげた。その日本婦人は大へん喜んでさっそくそれを買ったのであるが、その時その婦人が支那人の店員に切ってあげなさいという意味の言葉を支那語で言ってくれたので、やっとのこと私は欲しかった布地を切って売ってもらうことが出来た。
「ほかの人キラン、今日は特別キル」
 売場の支那人がそんな愚痴をこぼしていた。
 人にすすめられて二階つきのバスにも乗ってみた。バスを降りようとすると、沢山の支那人が降り口に押し合っていて年寄りの私などなかなか降りることが出来そうもない。困惑していると、メンメンチョ、こう言って車掌が乗り手を止めて私を降ろしてくれるのであった。
 支那靴などにもとても美しいものがあった。龍や花紋様が刺繍で色美しく入れてあってなかなか美術的なものである。私はそれも買い入れた。何も支那靴など買って来てそれを穿こうというわけではないが、その美しさにひかれて買ってしまったのである。

        連絡船

 往路の長崎丸は静かな船旅であったが、帰途の神戸丸は上海を出離れるとすぐからすこしゆれだした。人々はすぐ寝こんだので私もそれにならい、ついに船に酔わずに戻ることが出来た。
 長い旅の経験のない私にとって一ヵ月といえば大へんなものであったが、顧みてほんの短い時日にしか思われぬのが不思議である。この年になって日本以外の土地に足跡を残したことは思いがけぬ幸いであったと言わなければならないだろう。

 だがいま自分は日本に向かっているのだと思うと、やはり沸々とした心楽しさがあるように思える。エンジンの響きが絶えず郷愁のようなものを私の身体に伝えて来る。

「陸が見えますよ」
 と、言う声は本当になつかしいものに聞えた。激しい向かい風のなかに見え始めた故国日本の姿はまったく懐かしい限りであった。
 その癖、帰りついて昨日まで支那人ばかりみていたのに、四辺あたりはどこを見ても日本人ばかりなのでどうにもおかしな気持ちがしてしかたがなかった。

 みんなは「支那ぼけでしょう」といって笑っている。あるいはそうかも知れない……。





底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
   1976(昭和51)年11月10日初版発行
   1977(昭和52)年5月31日第2刷
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2008年5月10日作成
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