靄の彼方

――現代風俗描写への待望――

上村松園




 心忙こころせわしい気もちから脱れて、ゆっくり制作もし、また研究もしたいと年中そればかりを考えていながら、やはり心忙しく過ごしています。そんならそれで、その心忙しい程度に何か出来るかと申しますと、一向何もかもハカどらないのには、自分ながら愛想がつきます。世間の作家たちのことは、あまり知らない私のことですから、どんなものかわかりませんが、私としては、年から年中、あれも描かんならん、これもこうと考えに追い廻されていながら、その割に筆の方は一向ラチの明かないのには、歯痒くて堪りません。
 唯今は、またぞろ、ある宮家に納まるべきものに筆を着けています。これもくに完成しておるべきはずのものですが、未だに延びのびになっています。

     ○

 作家が、年中作品の制作に没頭していると申すことは、その作家にとって仕合せのようでもあって、実は苦しみでもあります。描くべきものをすっくり描き上げてしまい、これで何もかもさっぱりという爽やかな軽い気分に一どなって、さて、改めて研究なり、自分の好きな方へなり、一念を入れてみたら、こんな幸福なことはなかろうと思うのですが、仕事がゆるしてくれません。しかし物は考えようで、制作すべきものが、きれいに一段落ついてこれでオシマイとなったら、何やら心淋しく、また制作が恋しくなるのかも知れません。人の心は得手勝手、まアこんな状態で悩まされてゆくのが、すなわち人生の好方便なのでしょう。

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 私は、私の好みからして、今までのような古い婦人風俗画を描いてきましたが、世間では、私があまりに古い風俗や心持に支配され過ぎているかのように、いう人もあるでしょう。私は古い方を振り返ってみることが、特に好きだというわけではありませんですが、そうすることが、表現に深みがあると思うからです。今、今のことは誰でも見て知っています。今を今のままに描くということは、画としての深みに於て、どうかと思われるような気持ちがします。

 それを、今から振り返って、徳川期を眺めてみると、全く感じがちがいます。明治期でさえも、もう今とは感じがちがいます。それは時代という空気がいい加減にぼかしをかけてくれるからです。今、今のことは万事裸にあらわに見え透きますが、もう五十年七十年と時代が隔たるにつれまして、そこに一と刷毛の美しい靄がかかります。私はこの美しい靄を隔てた、過去の時代を眺めたいのです。
 現在ありのまま、物は写実に、はっきりとゆくのが現代でしょう。はだかは裸、あらわなものはあらわに、そのままに出すのは、今の世の習わしなんですが、私には、どうもそれが、浅まに見えてなりません。

 私は、今の心持に一段落がついたら、現代風俗を描いてみたいという念願があるのです。

 私は、何も過去の時代のみを礼讃らいさんして、現代をのろうというような、気の強いものではありません。現代は現代で、やはりいい処はいいと見ていますし、随分美しいものは美しいという、作家並な感受は致しているものです。この気持ちを生かした、モダンな現代風俗を描いてみることも、決して楽しみでないとはいえないと思います。

 ですが、私がもし現代風俗に筆を執るとしたら、私はどんな風にこれを取り扱い、どんな風の表現によるのでしょうか、それはいざという場合になってみませんと、今からなんともいえないのですけれど、しかし、自分であらまし想像のつかないこともありません。それは、私はモダンをモダンとして、そのまま生まな形では表わすまいと思うのです。そのモダンを、多少の古典的な空気の中に引きこんできて、それをコナしたものを引き出してくるのではないかと思われます。

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 若い人たち――殊に若い閨秀作家けいしゅうさっかたちの作品には、よく教えられることがあります。みな器用になって、表現が巧みになっていることは争えません。けれども、教えられることと、共鳴することとは違うと思います。共鳴する作品というものは、なかなかないものです。共鳴する作品と申しますと、その作品の何ももが、こちらの心持ちへ入ってきて、同じ音律に響くということになるのですから、つまりこちらの個性を動かすだけのものでなくてはならないわけです。
 ところが、てんでの個性を、他の個性が動かす――というような作品は、容易にあるものではなかろうと思います。

 どの道、私の作風は、いずれ私の個性によって、私だけのものですから、こんな表現による作風は、私だけで終わるかも知れません。しかし、そんなことはどうでも、私は過去のみに偏重へんちょうして愛着を感じているわけでもないのですから、いずれ現代のモダン風俗を、私の個性のもつ思想や作味によって、表現してみる時期のあることを、自分で希望もし、期待も持っているものです。





底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
   1976(昭和51)年11月10日初版発行
   1977(昭和52)年5月31日第2刷
初出:「大毎美術 第十一巻第八号」
   1932(昭和7)年8月
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2008年7月9日作成
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