四条通附近

上村松園




 四条柳馬場の角に「金定」という絹糸問屋があって、そこに「おらいさん」というお嫁さんがいた。
 眉を落としていたが、いつ見てもその剃りあとが青々としていた。
 色の白い、髪の濃い、襟足の長い、なんとも言えない美しい人だった。
 あのような美しい、瑞々した青眉の女の人を、わたくしは母以外に識らない。

 お菓子屋の「おきしさん」も美しい人であった。面屋の「やあさん」は近所でも評判娘だった。
 面屋というのは人形屋のことで、「おやな」という名であったが、人々は「やあさん」とよんだ。
 舞の上手な娘さんで、ことに扇つかいがうまく、八枚扇をつかう舞など、役者にも真似ができないと言われたほどで、なかなかの評判であった。
「やあさん」のお母さんは三味線が上手で、よくお母さんの糸で「やあさん」が舞うていたが、夏の宵の口など、店先から奥が透けて見える頃になると、通りに人が立って、奥の稽古を見物していた。

 小町紅の店が近くにあった。
 いつも繁昌していた。
 その頃の紅は、茶碗に刷いて売ったものである。町の娘さんたちは、みんなてんでに容れ物を持って買いに行った。
 店には綺麗な娘さんの売り子がいて、桃割れを緋もみの裂でつつんだりして帳場に坐っていた。
 お客さんが来ると、器用な手つきで紅を茶碗に刷いてやった。お客も鴛鴦や島田の綺麗な人が多く、小町紅というと、いつでも美しい情景がその店先に浮かぶ。

 紅のつけ方にしても茶碗に刷いた玉虫色のを、小さな紅筆で溶いて、上唇は薄く、下唇を濃く玉虫色に彩ったもので、そこに何とも言えない風情が漂うのであった。

 そうした町中の店先などに見る人たちの風にも、あの頃はどちらかというと、江戸時代の面影が半ば残っていて一入ひとしおなつかしいものがあった。
 先年(昭和九年)帝展に出した「母子」は、あの頃への思い出を描いたものであるが、いわば、わたくしひとりの胸の奥に残された懐かしい思い出なのである。
 ああした一連の風俗画は、わたくしひとりに描くことをゆるされた世界のような気がする。
 こうしたもので、まだまだ描きたいものを沢山もっているので、これから機会のある度に、一つずつ描き残して置きたいと思う。
 世の中が急激に移り変ってゆくのを眺めるとき、わたくしには、余計にあの頃の風俗をのちのちの人のために描き残したい念願がつよまるのである。

 あの頃の京の町の人たちのもの静かで、心の優しかったこと……
 今の人に、もの静かさをもとめるのは無理なのかも知れない。が、優しさだけは、取り返して貰いたいものと思う。そういう意味においても、あの頃の人たちの優しい姿を描き、それを現今の人に見て貰うのも、ひとつの彩管報国なのではなかろうかと思っている。





底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
   1976(昭和51)年11月10日初版発行
   1977(昭和52)年5月31日第2刷
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2008年4月5日作成
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