いつからとなく描きためかきためした写生帖が、今は何百冊と云ふ数に上つてゐる。一冊の写生帖には、雑然として写生も縮図も前後なく描き込んである。が、さうしたものを時折繰りひろげてみると、思ひ掛けもない写生や縮図が見付かつて、忘れた昔を思ひ出したり、
私の絵日記の一番古いのは十三位の幼い頃から始まつてゐる。見るにも堪へない程拙ない筆の跡ではあるが、しかしそこには絵を習ひ覚えた頃の幼い思ひ出がにじみ出てゐて、限りもなく愛着させられる。私の覚束ない筆の写生や模写と並んで、達者な線の絵があると思つて見ると、夫れは松年先生の絵で、日出新聞

松年先生はよく私に墨を
そんな絵を私達はよく模写したものだつた。月に一回十五日に研究会があり、春四月と秋十月には大会があつた。会場は円山の牡丹畑で、

自画像と云つては恐らく此十六歳の時の
其頃の着物は皆
少しハイカラな娘さんは束髪を結つた。江戸ツ子に前を割つて後ろで円く三ツ組にし網をかぶせたりした。色毛糸で編んだシヤツを着たりしてゐる人もあつた。
髷は蝶々が一番普通で、少し若い人達だと前髪を切つて下げてる人もあつた。も少し若い人達には福髷が流行り、七、八つから十一、二迄の娘さんはお
松年先生の塾には女のお弟子が数人ゐたが、其内私は中井

今の様に自動車はなし勿論電車さへ無い頃だつたので、各自お弁の用意をして、後結ひ草履で、朝四時頃から揃つては鞍馬や宇治田原あたりに行つた事がある。写生帖を見ると、宇治田原あたりの田舎家や渓流など丹念に写されて居り、編物をしてゐる楳園さんのお若い娘姿もある。
先生も洋服を着て一緒に行かれたが、内畑暁園、八田青翠、千種草雲と云ふ様な人達が中心になつて、私も後からよくついて行つた。鞍馬から貴船に行つた事があつたが、確か鞍馬で百姓馬や大原女を写したりしてると其頃塾に入り立ての橋本関雪さんが、僕が乗つて見せてやるさけ皆で写しとき、と言はれてその百姓馬に乗られ、馬には恁ふして乗るものやで皆覚えとき、どや色男振りは、などとテンゴ言ひもてそこらを乗廻してゐられた。夫れが私の写生帖に写されてゐるが、矢張り其頃から関雪さんは四角な顔してゐられた。
其頃の画学生には写生と縮図とが半分半分の勉強で、其間々に何か出品があると自分で作図しては先生に見て貰ふ習慣だつた。だから私の写生帖にも一緒くたに縮図と写生が埓もなく描込んである。私はよく博物館に通つて写し物をしたが、それは唐画の山水もあれば応挙の花鳥もあるし、決して人物ばかりと云ふ事はなかつた。明治三十年に全国絵画共進会があつて、そこで小堀鞆音さんの桜町中納言答歌図が出品された。四尺巾位の竪幅で三尺位の中納言が立つた足許にお姫様が坐つてゐる図だつたが、私の写生帖には其全図と人物の部分が二ヶ所も写してある。さうかと思ふとヨチヨチ這ひ廻つてゐる
私の写生帖には私の全生涯の思ひ出が籠つてゐる。
(昭和七年)