想い出

絵の道五十年の足跡を顧みて

上村松園




 土田麦僊さんが御在世の折、よく私の筆胼胝だこが笑い話になりましたものです。
 無理もないことで、私が絵筆を執り始めてから、今日まで丁度丸々五十年になります。今年六十七歳になりまするが、この五十年間を、私は絵と取組んで参った訳になります。
 明治八年四月二十三日が私の生まれました日で、父は二ヶ月前の二月に亡くなりましたので、その時分の事ゆえ、写真など滅多になく、私は全然父の顔を知りません。「お父さんはどんな人」と言って尋ねますと、「あんたによう似た人や」と、親類のおばさん達が、笑いながら教えて呉れたものです。姉妹ただ二人きりで、私は母と姉を、父とも母とも思って成長致しました。
 明治十四年、七つの時、仏光寺の開智校と申す小学校に入学致しましたが、この時分から私は絵が好きで、四条に野村という儒者が居られましてこの方から絵を習いました。これが私の絵の習い始めで、その時開智校で教えて戴いた中島真義先生が、私の描きます絵をいつも褒めて下さりまして、ある時京都中の小学校の連合展覧会に私の絵をお選び下さいまして、その時御褒美に硯を頂戴致しました。この硯は永年座右に愛用致しまして蓋の金文字がすっかり消えてしまいましたが、幼い私の中に画家を見付け出していろいろ励まして下さいました中島先生の御恩は一生忘れることが出来ません。
 その時分、家の商売は葉茶屋でございまして、二人の子供を抱えた若い後家の母は女手一つで私達を育てて呉れました。
 明治二十年、十三歳で私は小学校を終えますと、どうしても絵が描きたく、母にせがみまして、その頃京都画壇再興の為に出来ました画学校に入れて貰いました。河原町御池、今の京都ホテルの処に建物がありまして、土手町の府立女学校校長を兼ねました吉田秀穀という先生が校長で、生徒は百人余り、組織は東西南北の四宗に別れていまして、東宗は柔らかい四条派で望月玉泉先生、西宗は西洋画で田村宗立先生、南宗は巨勢小石先生、北宗は力のある四条派で鈴木松年先生がそれぞれ主任でした。私はこの北宗の松年先生に師事致しました。女学生は私の他にも各宗に二人位ずつ居られましたが、何れも途中から姿を消してしまい、ただ前田玉英さんだけが残りまして、その後玉英さんは女学校の絵の先生になられたようにうかがって居ります。
 これを見ましても、当時女の身で、絵の道を立て通す事が如何に困難であったかがわかると思います。
 それについて、私はいまでも時々思いだしまするが、私の姉に縁談のありました時、母はかような事はあまり信じない方でしたが、親類達がやかましく言いますので、その当時建仁寺の両足院にお名前は忘れましたが、易の名人がいやはりまして、姉の縁談を占ったついでに、私の四柱(生まれた年、月、日、時刻の四つから判断する)を見まして、「えらいええ四柱や、この子は名をあげますぞ」と言われました。私は七つか八つの時分の事で、はっきり記憶に残ってる訳でもございませんが、母がよく笑いながらこの事を話して呉れましたのが、未だに時々思いださせるのでございましょう。母が自分の身を犠牲にして一心に私に絵の勉強をさしてくださいましたのも、この易者の言葉が陰で相当力を与えていたかも知れません。
 話が横道に外れましたが、先に申しました画学校も一年程しまして改革になり、松年先生は学校を退かれる事になり、その時、私も御一緒に学校を辞めて、それからは専ら松年先生の塾で勉強する事になりました。松園という号も、その時先生からつけて戴いたものです。
 私はその時分から人物画が好きで、その為、一枝ものや、山水、花鳥画はともすると怠り勝ちで、「あんたの描きたいものは、京都には参考がなくて気の毒だ」とよく松年先生が同情して下さいました。しかし、先輩もなく参考画も思うようにないだけに、無性に人物画が描きたくて堪らなく、その時分諸家の入札とか、或はまた祇園の屏風祭りなどには、血眼になって、昔の古画のうちから、私の人物画の参考を漁ったもので、そして夢中で縮図をしたものでございます。考えてみますると私の母も、絵は好きだったものらしく、それが私に伝わっているのかも知れません。私がまだ子供の時分、私はよく母にねだりまして絵草子を買って貰いましたが、私がねだらなくとも、よく自分から買ってきまして、私に与えて下さいました。また、その頃四条の通りに夜店の古本屋が出て居りましたが、その中から絵の手本のようなものを時々見受けてきて、私に与えて下さいました。そして、たまたま、雨の降っている静かな晩など、私と姉が外から帰ってきますと、母が一人で机に向かって、一心にその手本を写している事が時々ございました。
 大体、母の父、私の祖父という人が、美術が好きであったらしく、私が六つの時亡くなりましたが、商用で長崎などに行きますと、よく皿とか壺とかそういう美術品を買い求めてきた事を子供心に覚えて居ります。
 私は、絵の勉強の傍ら、先に申しました絵の手ほどきの野村先生が儒者であった為か、漢学が何となく好きで、私が二十位の頃、松年先生の御了解を得まして、幸野楳嶺先生の塾で勉強致して居りましたが、楳嶺先生の御紹介で、衣の棚の市村水香先生の漢学塾に通いまして、『左伝』とか、『十八史略』とかの輪講を受けました。『左伝』は特に好きで、その時分、都路華香さん、澤田撫松さんなど御一緒でした。その後先生が亡くなり、長尾雨山先生に就いて矢張漢学を勉強致しましたが、この漢学から受けた知識は、唐美人など描く場合に大変役立ちました。絵の道に役立ったばかりでなく、私の精神修養の上に、目に見えない力をつけていると思います。市村先生の『左伝』の御講義の日など、非常に楽しみでございました。
 松年先生の渋い、筆力雄渾の画風から、楳嶺先生の柔らかい派手な濃麗華麗な画風に移りまして、その間に挟まって、自分を見失いかけ、悩みに悩み、傍ら今申しました漢学の勉強など致し、その頃は、それこそ血みどろの戦いでございました。楳嶺先生とは師縁が薄く、足掛二年、明治二十八年私が二十一の時先生が亡くなられましたので、それから栖鳳先生に師事致しまして、今日に及んで居りまするが、十六の時、第三回内国勧業博覧会に松年先生の御勧めで〈四季美人図〉を初出品致しまして、思いがけなく一等褒状を得、あまつさえ、その時御来朝の英国のコンノート殿下の御目にとまり御買上の光栄に浴しました時から始まり、その後幾多の展覧会に次々と出品致して参りましたが、矢張今もってこれで宜しいという気持ちが致しません。もっともっと良い絵を描かなければという気持ちでございます。御褒美もその間に度々戴きましたが、〈四季美人図〉では十二円戴き、大変使い出があった事を覚えて居りまするが、飛び立つ程嬉しかったような記憶はなく、ただ、明治三十六年に〈姉妹三人〉を描きました時は、何となく嬉しゅうございました。
 私は、あまりモデル等は使わない方で、大抵鏡を三枚仕立てまして、娘なら娘の着付を致し、色々の姿勢を自分で致しまして写しとり、ある時は左手で写すなど色々苦心致しまするが、自分自身でございまするから、誰に遠慮気兼ねもなく、得心の行くまでやれます。〈姉妹三人〉もこうして描いたものの一つで、出来上がった時、何となく嬉しゅうございました。
 私が初めて東京へ行きましたのは、三十二か三の時分で、平和博覧会に、鏑木清方さんが〈嫁ぐ日〉を描かれたのを拝見する為に上京したのが初めてでございます。近頃でも、静かな夜など、ふっと思いますが、その時分の気持ちと、今も、ちっとも変わってないなと思う事があります。もっと前、私が五つか六つの頃、お祭りで親類の家へよばれて遊びに行きました。その町内に絵草子屋があって、欲しくてなりませんが、親類の家なので子供心に買って呉れとも言えず、もじもじしてたところへ丁度家から丁稚が使いに来ましたので、私はその丁稚に、半紙に波の模様のある文久銭を六つならべて描き、「これだけもろうてきて」と母にことづけてやりました。これを見て母が大笑いをしたということですが、口で言えない事を絵にしたものでございましょう。今もってこの話を思い出すとひとりで笑います。
(昭和十六年)





底本:「青帛の仙女」同朋舎出版
   1996(平成8)年4月5日第1版第1刷発行
初出:「美之國」
   1941(昭和16)年7月号
※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、「〈」(始め山括弧、1-50)と「〉」(終わり山括弧、1-51)に代えて入力しました。
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2009年6月11日作成
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