樺太脱獄記

コロレンコ Vladimir Galaktionovick Korolenko

森林太郎訳




     一

 己はこのシベリア地方で一般に用ゐられてゐる、毛織の天幕の中に住んでゐる。一しよにゐた男が旅に出たので、一人でゐる。
 北の国は日が短い。冷たい霧が立つて来て、直ぐに何もかも包んでしまふ。己は為事しごとをする気になられない。ランプをけるのが厭なので、己は薄暗がりに、とこの上で横になつてゐる。あたりが暗くて静かな時には、兎角重くろしい感じが起るものである。己はせうことなしに、その感じに身を委ねてゐる。さつきまで当つてゐた夕日の、弱い光が、天幕内の部屋の、氷つた窓から消えてしまつた。隅々から這ひ出して来たやうな闇が、斜に立つてゐる壁を包む。そしてその壁が四方から己の頭の上へ倒れ掛かつて来るやうな気がする。暫くの間は、天幕の真ん中に据ゑてある、大きな煖炉の輪廓が見えてゐた。この煖炉が、己の住んでゐるヤクツク地方の人家の、極まつた道具で、どの家でも同じやうな、不細工な恰好をしてゐる。その内広がつて来る闇が、とうとう煖炉を、包んでしまつた。己の周囲まはりは只一色ひといろの闇である。只三個所だけ、かすかに、ちらちら光つてゐる所がある。それは氷つた窓である。
 何分か立つたらしい。何時間か立つたらしい。己はぼんやりして、悲しい物懐しい旅の心持が、冷やかに、残酷に襲つて来るのに身を任せてゐた。己の興奮した心は際限もない、広漠たる山や、森や、野原を想像し出す。それが己を、懐しい、大切なあらゆるものから隔てゝゐるのである。その懐しい、大切なものは皆つくに我が物ではなくなつてゐるが、それでもまだ己を引き付ける力を持つてゐる。
 その物はもう殆ど見えない程の遠い所にある。殆ど消えてしまつた希望の光に、微かに照らされてゐる。そこへ、己の心の一番奥に潜んでゐる、抑へても、抑へても亡ぼす事の出来ない苦痛が、そろそろ這ひ出して来て、大胆に頭をもたげてこの闇の静かな中で、恐ろしい、すごい詞を囁く。「お前はどうせいつまでもこの墓の中に生きながら埋められてゐるのだ。」
 ふと天幕の平たい屋根の上で、うなる声のするのが、煙突の穴を伝つて、己の耳に聞えた。物思に沈んでゐた己は耳をそばだてた。あれは己の友達だ。ケルベロスといふ犬だ。それが寒さに震ひながら番をしてゐて、己が今どうしてゐるか、なぜ明りを点けずにゐるかと思つて問うて見てくれたのだ。
 己は奮発して起き上がつた。どうもこの暗黒と沈黙とを相手にして戦つてゐては、とうとう負けてしまひさうなので、防禦の手段を取らなくてはならないと思つたからである。その防禦の手段といふのは、神がシベリアの天幕住ひをしてゐるものに授けてくれたものである。火である。
 ヤクツク人は冬中煖炉を焚き止めずにゐる。それから西洋でするやうに、煙突の中蓋を締めるといふ事はない。併し己は中蓋を拵へてゐる。その蓋は外から締めるやうになつてゐるのでその都度己は天幕の屋根の上に登らなくてはならない。
 天幕の外側には雪を固めた階段が、屋根際まで付けてある。己の天幕は村はづれにあつて、屋根の上からはその村の全体が見渡される。村は山々に取り囲まれた谷間に出来てゐる。不断はこの屋根から村の天幕の窓の明りが見える。移住して来たロシア人の子孫や、流されて来た韃靼人だつたんじんの住ひである。けふは霧が冷たく、重く地の上に下りてゐて、少しの眺望も利かないので、不断見える明りが一つも見えない。只屋根の真上に星が一つ光つてゐる。それもどうしてこの濃い霧を穿うがつてこゝまで照らしてゐるかと、不思議に思はれる位である。
 どの方角もしんとしてゐる。河を挾んでゐる山も、村の貧しげな天幕も、小さい会堂も、雪を被つてゐる広いはたも、暗く茂つてゐる森の縁も、皆果てのない霧に包まれてしまつてゐる。己は屋根の上に立つてゐる。広い広い大洋の中の離島はなれじまにゐるやうな気がする。只側に粘土ねばつちで下手に築き上げた煙突が立つてゐて、足の下に犬が這ひ寄つてゐるだけである。物音がまるで絶えて、どこもかしこも寒くて気味が悪い。夜が沈黙して、世界に羽を広げてゐるのである。
 ケルベロスがうなつた。多分ひどいかんが来さうなので、嘆いてゐるのであらう。犬は体を己の足に摩り寄せて、鼻端はなつらを突き出して、耳を立てて、闇の中に気を配つてゐる。
 突然犬が耳を動かして吠えた。己も耳を欹てた。暫くは何も聞えなかつた。その内静寂を破つて、或る音が聞えた。又聞えた。あれは馬の蹄の音である。まだ遠い畑の上を歩いてゐるらしい。
 あの音の工合で察するに、馬に乗つて歩いてゐる人間はまだ二ヱルスト位隔たつてゐる筈だ。己はかう思つて雪の階段を踏んで降りた。顔を剥き出しにして一分間この寒い空気に当つてゐると、頬か鼻かがこゞえてしまふ危険がある。犬も、蹄の音の聞える方角へ向いて吠え続けながら、己に付いて降りて来た。
 間もなく焚き付けたたきゞが煖炉の中で燃え始めた。その薪を兼ねて煖炉の中に積み上げてある薪の山に近寄せると、部屋中の摸様が、今までとはまるで変つて来る。ぱちぱちいふ音が、天幕の沈黙を破る。幾百条の火の舌が薪の山の間々を潜つて閃き昇つて行く。その勢で例のぱちぱちいふ音がするのである。兎に角或る生々したものが飛び込んで来て、部屋の隅々まで荒れ廻るやうな気がする。折々ぱちぱちが止むと、煙突の口から寒空へ立ち昇る火の子のぷつぷついふのが聞える。
 間もなく薪の山のぱちぱちが一層劇しく盛り返して来て、とうとう拳銃をつるべ掛けて打つやうな音になる。
 もう己もさつき程寂しい心持はしない。己の周囲まはりの物が、何もかも生き返つて、動き出す。踊り出す。さつきまで外の寒さを微かに見せてゐた窓硝子まどガラスが、火を反射してあらゆる色に光つてゐる。あたりが一面に闇に包まれてゐる中で、己の天幕が光り赫いて、小さい火山のやうに数千の火の子を噴き出すと、それがちらちら空気の中を踊り廻つて、とうとう白い煙の中で消えるのである。己はそれを想像して好い心持がしてゐる。
 ケルベロスは煖炉の正面にうづくまつて白い色の化物のやうに、ぢつと火を見詰めてゐる。折々振り返つて己の方を見る、その目には感謝と忠実とが映じてゐる。
 どこかで重々しい足音がした。併し犬はぢつとしてゐる。それは飼つてある馬だといふ事を知つてゐるからである。今までどこか屋根の下で、首を頂垂うなだれて寒さにいぢけてゐるのが、煖炉が温まつたので、火に近い方へ寄つて来て、煙突から出る白い煙の帯と、面白く飛び廻る火の子とを眺めてゐるのであらう。
 その内犬が不満らしい様子をして吠えて、直ぐに戸口へ歩いて行つた。己は戸を開けて出して遣つた。犬はいつもの番をする場所で吠えてゐる。己は中庭を覗いて見た。さつき遠くに蹄の音を響かせてゐた人間が、己の天幕の火の光に誘はれて来たのである。丁度今門を開けて、鞍に荷物の付けてある馬を引き入れてゐる所である。
 知人しりびとでない事は分かつてゐる。ヤクツク人はこんなに遅くなつて村に来る筈がない。よしやそれが来たところで、同じ種族のものの所へ寄るに違ひない。火の光を当にして、己のやうな外国人の天幕へ来はしない。
「どうしても移住民だな」と己は判断した。そんなものの来るのはいつもなら難有くはない。併しけふだけは生きた人間を見たいやうな気がする。
 今に面白く燃えてゐる火は消えてしまふ。薪の山を潜つてゐる焔が次第にのろくなつて、とうとう一山の赤い炭が残つて、その上を青い火の舌がちよろちよろするやうになる。その青い舌が段々見えなくなる。さうすると天幕の中は元の沈黙と暗黒とに占領せられてしまふだらう。その時己の胸の中には、又さつきのやうな係恋あこがれが萌して来るだらう。その時分には赤い炭が灰を被つて微かに見えてゐて、それもとうとう見えなくなつてしまふだらう。己は一人になるだらう。一人で長い静かな、物懐しいを過ごさなくてはならないだらう。
 こんな時に人間を恋しがるのは好いが、その人が人殺しでもした事のある奴かも知れない。併し己はそんな事は思はない。一体シベリアに住んでゐると人殺しでも人間だといふ感じがして来る。勿論段々心易くして見たつて、錠前を切つたり、馬を盗んだり、暗夜に人の頭を割つたりする人間が、所謂いはゆる不幸なる人間として理想化して見られるやうになるわけでもないが、兎に角人間には色々な、込み入つた衝動や意欲があるものだといふ事が理解せられて来る。人間はどんな時にどんな事をするものだといふ事が理解せられて来る。人殺しだつて、いつでも人を殺すのではない。我々と同じやうに生きてゐて、同じやうな感じを持つてゐる。それだから寒い夜に自分を暖かい天幕の中へ泊まらせてくれる人に対して、感謝するといふ念をも持つてゐる。併し己の目に、今来た人間が立派な鞍を置いた馬を連れてゐて、その鞍に色々な荷物が括り付けてあるのが見えたところで、その人間がその馬の正当な持主であるやら、又その荷物の中にあるものが、その人間の正当な所有品であるやら、そんな事は容易に判断しにくいのである。
 馬の革で張つた、重くろしい戸が外から開けられた。中庭から白い霧が舞ひ込んで来る。その時旅人は煖炉の前へ進んだ。背の高い、肩幅の広い、立派な男である。衣服はヤクツク人と同じであるが、人種の違ふ事は一目に分かる。足には雪のやうに白い馬皮ばひ製の長靴を穿いてゐる。ヤクツク人の着るゆるい外套が肩で襞を拵へて、耳まで隠してゐる。頭と頸とは大きなシヨオルで巻いてある。そのシヨオルの下の端は腰の周囲まはりに結んである。シヨオルもその外の衣類も、山の高い、庇のない帽も氷で真つ白になつてゐる。

     二

 客は煖炉の側に寄つて、こゞえた指で不細工にシヨオルの結目を解いて、それから帽の革紐を解いた。シヨオルと帽とをけたところで顔を見ると、三十歳ばかりの男の若い、元気の好い顔が寒さで赤くなつてゐる。卑しいやうで、しつかりした容貌である。こんな顔の人をこれまで押丁おうていなんぞで見た事がある。総て人に対して威厳を保ち、人を恐れさせてゐるが、その癖自分は不断用心してゐなくてはならないといふ風の男にこんな容貌があり勝ちに思はれる。表情に富んだ、黒い目が、ちよい/\と、物の底まで見抜くやうな見方をする。顔の下の半分が少し前に出てゐる。これは感情の猛烈な人相である。併しこの男はその感情を抑へてほしいまゝにしないやうに修養してゐるらしい。身分が流浪人だといふ事は直ぐ分かる。どこで分かるといふ事は言はれないが、一目で分かる。この男の心が不安で、心の中で争闘が絶えないといふ事だけは、下唇がぶる/\するのと、所々の筋肉が神経性に働くのとで判断する事が出来る。
 顔の表情は大体からいへば、そつけないのであるが、どこかそれを調和してゐるものがある。それは一種の憂愁を帯びてゐるところに存する。多分疲れたのと、夜の寒さと戦つたのと、今一つは深い霧を冒して寂しい夜道をさまよつて、人懐しい係恋あこがれの情を起してゐるのとに依つて、この憂愁の趣は現はれてゐるのだらう。それが己の今夜の心持と調和して、己に同情を起させるのだらう。
 その内客は上着を脱がずに煖炉の上に肘を突いて、隠しから煙管きせるを出した。そしてそれに煙草を詰めながら己の顔を念入りに眺めて云つた。「御免なさいよ。」
 己も客を注意して見て答へた。「いや、遠慮しなくても好いのです。」
「こんなに出し抜けに飛び込んで来て済みません。只少し火に当らせて戴いて、煙草を一服喫んでしまへば、直ぐに出て行きます。こゝから二ヱルスト程の所に、いつもわたくしを泊めてくれるものがゐますから。」
 話の調子で察するに、この男は人に迷惑を掛けまいと、控へ目にする心掛けを持つてゐるらしい。そして物を言ひながら、ちよい/\丁寧に己の顔を見るのは、己の返事を待つて、その上で自分の態度を極めようと思つてゐるからだらう。
 その冷かな、物の奥を見通すやうな目附きを、ことばに訳して言へば、「魚心あれば水心だ」とでもいふべきだらう。兎に角ヤクツク人なんぞの人に迷惑を掛けて平気なのと、この男の態度とはまるで違つてゐるといふ事に、己は気が付いた。無論己にだつてこの男が宿を借らない積りなら、馬を厩に引き込む筈がないといふ事だけは分からないのではない。
「一体お前さんは誰ですか。名前は。」
「わたくしですか。名はバギライと言ひます。これはこの土地で人がわたくしを呼ぶ時の名で、本当の名はワシリです。バヤガタイ領のものです。聞いてゐやしませんか。」
「ウラルで生れた流浪人だらう。」
 客の顔には満足らしい微笑がひらめいた。「さうです。では何か聞いてゐますね。」
「○○に聞いたのだ。あの男の近所に住まつてゐた事があるさうだね。」
「○○ならわたくしを知つてゐますよ。」
「宜しい。今夜は泊つて行くが好い。まあ、支度を楽にしようぢやないか。己も今は一人でゐるのだ。お前さんが体を楽にする間に、己は茶でも拵へよう。」
 流浪人は嬉しげに泊る事にした。
「どうも済みません。あなたが泊めて遣ると仰やれば、泊りますよ。それでは鞍に付けてある袋を卸して、ちよいちよいした物を出さなくてはなりません。馬は中庭まで入れてはありますが、さうして置く方がたしかです。こゝいらの人間には油断がなりませんからね。中でも韃靼人だつたんじんと来ては。」
 客は戸の外へ出て、直ぐに大袋を二つ持つて這入つて来て、革紐を解いて、食料を取り出した。氷つて固まつたバタ、氷つた牛乳、玉子二三十なんぞである。中で幾らか取り分けたのを部屋の棚に載せて、跡を冷い所に置く為めに、前房へ持ち出した。それからカフタンといふ上着と毛皮とを脱いで、赤い肌着に、土地の者の穿くずぼんを穿いたまゝで、己と向き合つて煖炉の側に腰を掛けた。
 客は微笑ほゝゑみながら云つた。「妙なものですね。正直を言へば、お内のかどを通りながら、さう思ひましたよ。この内で己を泊めてくれるか知らと思ひましたよ。流浪人の中には泊めて遣る事なんぞの出来ない奴がゐるといふ事は、わたくしだつて好く知つてゐます。自慢ではありませんが、わたくしはそんな人間とは違ひます。あなたも話を聞いてお出でのやうですから、御承知でせうが。」
「うん。少し聞いてゐるよ。」
「さうでせう。自慢ではないが、わたくしは横着な事はしてゐません。自分の内の小屋の中に牡牛を一疋、牝牛を一疋、馬を一疋だけは飼つてゐて、自分のはたを作つてゐます。」
 目は正面を見詰めたまゝで、変な調子でこんな事を言つてゐる。話の跡の方の詞を言つてゐる様子は、「実際さうしてゐるのだ」と、自分で考へて見ながら言ふらしく見えた。
 客は語り続けた。「働いてゐますよ。神が人間にお言附けになつた通りに働いてゐるのです。どうも盗みをしたり、人殺しをしたりするよりは、その方が好いやうです。早い証拠が、かうして夜夜中あなたの内の前を通つて、火の光を見て這入つて来れば、優しくして泊めて下さる。難有いわけぢやありませんかねえ。」
 この詞はどちらかと云へば、独語ひとりごとらしく聞えたのである。自分の今の生活に満足して、独語を言つてゐるやうに見えたのである。併し己は「それはさうだね」と返事をした。
 実際己はワシリといふ男の事を、知人しりびとから少し聞き込んでゐる。ワシリはこの辺に移住してゐる流浪人仲間の一人である。ヤクツク領の内で、大ぶ大きい部落の小家こいへに二年程前から住つてゐる。家は湖水の側で、森の中に立つてゐる。移住民の中に、盗賊もあり、人殺しをするものもあり、懶惰人らんだじんが頗る多いが、稀に農業に精出すものもないではない。ワシリはその一人である。農業を精出せば、この土地では相応に楽に暮されるやうになるのである。
 一体ヤクツク人は人の善いたちで、所々の部落で余所よそから来たものに可なりの補助をして遣る風俗になつてゐる。実はこんな土地へ、運命の手にもてあそばれて来たものは、補助でも受けなくては、飢ゑ凍えて死ぬるか、盗賊になるかより外に為方しかたがないのである。ヤクツク人は又土地を通り抜けるものにも補助をして遣る事がある。それは足を留められては厄介だと思ふからである。さういふ補助を受けて、土地を立つて行つたもので、又帰つて来るものはめつたに無い。そんなのでなく、真面目に働かうと思ふものには、土人が補助をして、間もなく相応に自活の出来るやうにさせる事になつてゐる。
 最初ワシリは部落の自治団体から小屋を一つ、牡牛を一疋貰つて、その年に燕麦からすむぎの種を六ポンド貰つた。為合しあはせとその年は燕麦の収穫が好かつた。その外ワシリは、土地のものと契約して、草を苅らせて貰つた。煙草の商ひもした。こんな風にして二年立つ内に相応な世帯が出来たのである。
 土地のものはこの男を相応に尊敬して、面と向つてはワシリ・イワノヰツチユさんといふが、蔭で噂をする時は、只ワシリといふ丈である。牧師が冠婚葬祭の用で歩く時などは、ワシリの小屋へ立ち寄る。それからワシリが牧師を尋ねて行くと、食卓で馳走をする。この土地では我々のやうに教育のあるものが、余所から移住したのを、読書人として特別に取り扱ふのだが、その読書人にもワシリは心易くしてゐる。
 そんな風で見れば、ワシリは面白く、満足して暮してゐられない筈がない。十分な事を言へば、これから結婚でもすべきだらう。一体法律は流浪人の結婚を許さない事になつてゐるが、こんな辺鄙では、金を出して、慇懃に頼めばそれも出来ない事ではない。
 かういふ身の上のワシリではあるが、今向き合つて坐つて見てゐると、そのしつかりした顔付に、多少異様な所がある。最初ちよいと見た時程には、もう己には気に入らなくなつたが、それでもまだ厭な顔だとは思はない。黒目勝の目が折々物案じをするらしく、又物分かりの好ささうに見える事がある。総ての表情が意志の固い所を示してゐる。挙動は陰険らしくない。声の調子からは自信のある人の満足が聞き出される。
 只折々顔の下の方がぴくぴく引き吊つて、目の色がどんよりして来る事がある。不断の話の、穏な調子を破つて、何物かゞ暴露しさうになつて来る。猛烈な意志の力で、或るにがい、悲しい係恋あこがれじみたものの現はれようとするのを抑へてゐるらしく見える。
 この或る物はなんだらう。己は最初それを知らなかつた。ワシリが来て泊つた頃にはまだ解決が付いてゐなかつた。併し今は好く分かつてゐる。流浪が習慣になつた人間は、衣食に苦しまずに平和に生活して、家もあり、牝牛もあり、牡牛もあり、厩に馬もあり、人に尊敬せられてゐるので、それで己は満足だと強ひておのれを欺かうとしてゐる。ところが他国へ来てこんな灰色の生活を営むのが、人に満足を与へはしない。心の奥から山林の恋しさが頭をもたげる。その係恋が今の単調な日常生活を棄てて、怪しく人をいざなひ、人を迷はせる遠い所へ行かせようとする。この心持が意識に上るのを、強ひて自ら押へてゐる。これがかういふ流浪人の心の底に持つてゐる或る物である。併しそれを己の知つたのは余程後の事である。ワシリが己の天幕に泊つた頃は、どうも上辺の落ち着いてゐる、この流浪人の心の底には何か知らぬものがあつて、悩み悶えて、外へ現はれようとしてゐるといふだけの事しか分からなかつた。
 己が茶を入れてゐる間、ワシリは煖炉の側に坐つて、物を案じる様子で、火を見てゐる。茶が出来たので、己はワシリを呼んだ。
 ワシリは身を起しながら、「これは済みません、飛んだお世話になります」と云つた。それから少し興奮したやうにこんな事を言つた。「こんな事をわたくしが云つても、あなたが本当だと思つて下さるか、どうだか、分からないのですが、わたくしはお内の外から火の光を覗いて見た時、ちよつと動悸がしました。この内に住んでお出でなさるのは、ロシア人だといふ事を、わたくしは知つてゐたのです。わたくしのやうに森の中や野原を、いつも乗り廻つてゐれば、霧に出逢つたり、闇の中を歩いたり、寒さに難儀したりするのは不断の事です。そんな時随分煙突から煙の出てゐる天幕の近所を通る事もあります。そんな時は馬が勝手にその方へ向いて歩き出します。併しわたくしは兎角気が進みません。こんな内へ這入つてなんになるものか。事に依つたら焼酎の一杯位飲ませて貰はれよう。だがそんな事は難有くはないと、わたくしは思ふのですね。それがあなたの内の火を見た時、もし泊めて貰はれるなら、泊めて貰ひたいものだと、わたくし、ふいと思ひましたよ。どうも御厄介になつて済みません。わたくしの部落の方へお出でになつたら、どうぞ忘れないで、お寄りなすつて下さい。好い加減な事を言ふのではありませんから。」

     三

 ワシリは茶を飲んでしまつて、又煖炉の火の前に腰を掛けた。無論まだ寝るわけには行かない。主人を乗せて来て汗になつた馬が落ち着いた上で、かひを付けて遣つて、それから寝なくてはならない。食料は枯草で好いのである。ヤクツク地方の馬は余り丈夫ではない。併し飼ふには面倒が少ない。ヤクツク人はバタやその外の食料を馬に付けて、ずつと遠いウチユウル河の方に住んでゐるツングスク人に売りに行く。森の中や鉱山で稼いでゐる所へ売りに行くのである。何百ヱルストといふ遠道を歩かせる。途中では枯草を食はせる事も出来ないのである。
 そんな時には、日が暮れると、茂つた森の中に寝る。木を集めて焚火をする。馬は森に放して置く。さうすると雪の下に埋もれてゐる草を捜して、ひとりで食ふのである。それから夜が明けると、又遠道を歩かせる事になつてゐる。
 飼ふにその位骨の折れない馬だけれど、一つ注意しなくてはならない事がある。それは道を歩かせた跡で直ぐ飼を付けてはならないといふ事である。それから十分に物を食はせた時は、直ぐに歩かせる事が出来ない。一日の間食はせずに置いて、それから使ふのである。
 さういふわけで、ワシリは三時間馬の体の冷え切るのを待たなくてはならない。己も付き合ひに起きてゐる。そこで二人向き合つて坐つてゐるが、めつたに詞は交はさない。
 ワシリは煖炉の火が消えさうになるので、薪を一本づゝくべてゐる。ヤクツクで冬を通した人は、煖炉に薪をくべ足すのが習慣になつてゐるのである。
 長い間黙つてゐて、突然ワシリが「遠いなあ」と云つた。自分で何か考へた事に、自分で返事をしたらしい。
「何が」と己が問うた。
「わたくし共の故郷です。ロシアです。こゝまで来ると、何もかも変つてゐます。馬でさへさうですね。国では馬に乗つて内へ帰れば、何より先に飼を付けなくてはならない。ところが、この土地でそんな事をしようものなら、馬は直ぐに死んでしまふ。人間だつて違ひますね。森の中に住んでゐる。馬肉を食ふ。おまけに生で食ふ。腐つてゐても食ふ。いやはや。恥といふものを知らない。人が宿を借りて、煙草入を出せば、直ぐ下さいと云つて手を出すといふ風ですからね。」
「それは土地のならはしだから為方がない。その貰ふ人も余所で泊れば、人に煙草を遣るのだからな。お前さんにだつて補助をして、今のやうに暮して行かれるやうにしてくれたぢやないか。」
「それはさうですね。」
「どうだね。気楽に暮してゐるかね。」かう云つて己はワシリの顔を見た。
 ワシリは微笑んで、「さやう」と云つたが、跡は黙つて薪を炉にくべてゐる。煖炉の火が明るく顔を照すのを見ると、目がどんよりしてゐる。
 暫くしてワシリが云つた。「まあ、わたくしの事を話し出しては際限がありません。これまで好い目に逢つた事もないが、今だつて好い目を見てはゐませんよ。十八位の時までは、少しは好かつたのです。詰まり両親の言ふ事を聞いてゐた間が、為合しあはせだつたのです。それをしなくなつた時、為合せといふものが無くなつたのです。それからといふものは、わたくしは、自分を死んだものゝやうに思つてゐます。」
 かう云つた時、ワシリの顔は曇つて、下唇がぴくぴく引き吊つた。丁度子供のするやうな工合である。謂はばワシリは「両親の言ふ事を聞いた」子供に戻つたので、只その子供がいたづらに経歴して来た過去の生活の為めに、涙を流して泣いてゐるのである。
 己に顔を見られたのに気が付いて、ワシリは気を取り直した様子で頭を振つた。
「こんな事を言つたつてしやうがありませんですね。それよりは、わたくしが樺太の牢を脱けた時のお話でもしませうか。」
 己は喜んで聞く事にした。この流浪人の物語は夜の明けるまで尽きなかつた。
     ――――――――――――
 千八百七十〇年の夏の夜の事である。汽船ニシユニ・ノフゴロド号が黒い煙を後へ引きながら日本海を航行してゐる。左の地平線には陸地の山が、狭い青い帯のやうに見えてゐる。右の方にはラ・ペルウズ海峡の波がどこまでも続いてゐる。汽船は樺太を差して進んでゐるのだが、島の岩の多い岸はまだ見えない。
 甲板はひつそりしてゐる。只舳の所に、月の光を一ぱいに浴て、水先案内と当番の士官とが立つてゐるだけである。船腹の窓からは弱い明りが洩れて、凪いだ海の波に映じてゐる。
 この船は囚人を樺太へ送る船である。さうでなくても、軍艦は紀律が厳しい。それがこんな任務を帯びて航海するとなると、一層厳しくしてある。昼間だけは甲板の上で、兵卒が取り巻いてゐる中を囚人が交る交る散歩させられる。その外は甲板に出る事は出来ない。
 囚人のゐる室は、天井の低い、広い室である。昼間は並べて開けてある小さい窓から日が差し込む。薄暗いこの室の背景にすかして見ると、窓は衣服に光る扣鈕ボタンが二列に付いてゐるやうに見える。遠いのは段々小さくなつて、その先は船壁の曲る所で見えなくなつてゐる。室の中央に廊下がある。廊下と、囚人のゐる棚との間には鉄の柱を立てて、鉄の格子が嵌めてある。そこに小銃を突いて、番兵が立つてゐる。夜になると薄暗いランプが、ちらちらと廊下を照らしてゐる。
 総て囚人のする事は、番兵の目の前で格子の中でするのである。
 熱帯の太陽がくやうな光線を水面に射下してゐても好い。風が吠えて檣がきしめいて、波が船を揺つてゐても好い。この室に閉ぢ込められてゐる幾百人は、平気で天気の荒れるのを聞いてゐる。自分の頭の上や、この壁の外で、何事があらうと、この波に浮んでゐる牢屋が、どつちの方へ向いて行かうと、そんな事には構はない。
 載せてある囚人の数は、それを護衛してゐる兵卒の数より多い。その代り囚人は一足歩くにも、ちよつと動くにも、厳重な取締を受けてゐる。かうして暴動などの起らないやうに用心してあるのである。
 どんな非常な場合にも船を暴動者の手に取られてしまふ事のないやうに、思ひ掛けない程の用心がしてある。どんな危険にも屈せずに、格子の中の猛獣共が荒れ出して、格子から打ち込む弾丸も効力がなく、格子も破れてしまつたとしても、艦長の手にはまだ一大威力が保留してある。それは艦長が只簡短な号令を機関室へ下せば好いのである、「ワルヴを開けい。」
 この号令が下ると、直ぐに機関室から囚人のゐる室へ熱蒸気が導かれる。丁度物の透間にゐる昆虫を殺すやうな工合である。囚人の暴動はこの手段で絶対的に防がれる事になつてゐる。
 こんな厳重な圧制の下にゐても、囚人等は矢張り普通の人間らしい生活を営んでゐる。
 今宵丁度汽船が闇の空へ花火ひばなを散らして、波を破つて進んで行き、廊下では番兵が小銃を杖に突いて転寝うたゝねをしてをり、例の薄暗いランプの火が絶え絶えに廊下から差し込んでゐる時、その格子の奥では沈黙の内に一悲劇があつた。それは囚人仲間で密告者を処分したのである。
 翌朝点呼になつて見ると、囚人の中に寝台ねだいから起きないものが三人あつた。上官が如何に声を荒らげて呼んでも起きて来ない。とうとう格子を開けて這入つて、頭から被つてゐる外套を剥いで見ると、この三人はもう永遠に人の呼声に答へる事が出来なくなつてゐたのである。
 囚人の仲間には勢力のある枢要人物がゐて重大事件を決行する。その外の人間は、個人としては全く資格を失つてしまつて、只或る「群」としてのみ生活してゐるのである。この群の為めには昨夜のやうな出来事は不意の事である。予期しない事である。そんな事件が起つた時は、一同顔をしかめて黙つてゐる。只波の音と、機関の音とが聞えるばかりである。
 併し決行せられた跡では、この事件の善後策として、どんな事をせられるだらうかといふ想像を、囚人共は話し合ふのである。
 どうも上官等は三人の死んだのを偶然だとも認めず、急病の為めだとも認めないらしい。暴力を加へた痕跡がたしかに知れてゐたのである。そこで糾問が始まつた。併し囚人の返答は言ひ合せたやうである。
 それが外の時であつたら、上官は脅迫とか、減刑の約束とかを餌にして、下手人を告発させる事が出来たかも知れない。併しこの場合には誰も口を開くものがない。それは仲間を庇ふ考へばかりではない。官憲といふものも、色々な威嚇を以て言はせようとするのだから、こはいには違ひない。併し「仲間」はそれより一層こはいのである。現に昨晩番兵を咫尺の間に置いて、仲間はその威力を示したのである。無論寐てゐなかつたものが多数ある。例の三人が毛布けつとの下でうめいた声が、普通の寐息と違ふ事に気の付いたものも多数あるに違ひない。併し誰一人昨夜の刑の執行者を告げるものはない。上官は為方しかたがないので、規則上の責任者に罪を帰した。それは組長とその助手とであつた。二人共その日の内に調べられた。

     四

 組長の助手はワシリであつた。その時は別の名を名告なのつてゐた。
 二日程立つた。その間に囚人一同は例の事件を十分講究して見た。ざつとした考へで言つて見れば、事件はなんの痕跡をも留めてゐない。犯罪者の見付けられやうはない。随つて囚人仲間の規則上の代表者が軽い懲罰を受けて済む筈である。囚人等は、なんと問はれても、皆言ひ合せたやうな返事をした。「寐てゐました」と云つたのである。
 然るに細密に考へて見ると、ワシリの身の上にどうも嫌疑が掛かりさうである。大抵仲間が重大な事件を実行する時は、組長や助手が迷惑をしないやうに十分注意して実行する。今度だつてワシリが犯罪人でないといふ事は、一応明瞭に証拠立てる事が出来るやうにしてある。併し老功と云はれる囚人で、これまで火水ひみづの間を潜つて来た奴がこの事件ではワシリの安全を請け合ふ事を躊躇して、頭を振つてゐる。
 大ぶ年を取つて、白髪頭になつてゐる流浪人が群を放れて、ワシリの前へ来て云つた。「おい。樺太へ着いたらな、お前ける支度をしなくては行けないぜ。どうもまづくなつてゐるぞ。」
「どうして。」
「どうしても何もあるものか。お前一体なん犯かい。」
「再犯だ。」
「それ見ろ。それからいつか死んだフエヂカは誰の名を言つて置いて死んだと思ふ。お前の名だぞ。あいつのお蔭でお前は二三週間手錠を卸されてゐたぢやないか。」
「それはさうだ。」
「それ見ろ。あの時お前、あいつになんと云つた。兵隊が側で聞いてゐたぞ。お前はなんと想つてゐるか知らないが、どうしてもあれは脅迫と聞えたからなあ。」
 ワシリも外の者も、かう云はれて見れば、どうも多少根拠のある話だと思はずにはゐられない。
「そこで好く考へて見てな、銃殺をせられる覚悟をしてゐなくては行けないぜ。」
 大勢の間に不平らしく何かつぶやく声がした。
 一人の男が不機嫌な声をして云つた。「よせ。ブラン。」
「なに。余計な世話だ。」
「お前老耄おいぼれたのだ。銃殺だなんて。その位の事で。お前どうかしてゐるのだ。」
 老人は、何をいふのだといふやうな風で、唾をした。そしてかう云つた。「己はどうもしてゐはしない。お前達がなんにも分からないのだ。馬鹿共。お前達はロシアでどうなるといふ事を知つてゐるだけだ。己はこの土地でどうなるといふ事を知つてゐる。こゝの流義を知つてゐる。そこで助手、お前に言つて置くぞ。黒竜省の総督の前へお前の事件の書附が出ると、お前は銃殺せられるのだ。どうかしたら、一等軽くなつて、ボツクになるかも知れない。そいつは一層難有くない。どうせ寝かされてから、起き上がる事はないのだからな。考へて見ろ。こつちとらは軍艦にゐるのだ。こゝでは陸にゐるより倍厳しくせられるに極まつてゐる。こんな事は言ふやうなものゝ、己は実はどうでも好いのだ。お前方が皆揃つて銃殺せられたつて、己は何も驚きはしない。」老人がボツクと云つたのは、監獄にあるベンチの事である。その上へ倒して鞭で打つ。併し大抵は打ち殺してしまふから、名目みやうもくは減刑でも、実際は一思ひに銃殺せられるより苦しいのである。
 陰気な生活と運命の圧迫とに疲れて、つやの無くなつた老人の目は、どんよりして、何がどうなつても構はないといふ風にくうを見てゐる。老人は物を言つてしまふと、隅の方に引つ込んで坐つた。
 囚人の大勢集まつてゐる所では、直覚的に法律に精通してゐるものがある。さういふ男が或る事件に就いて、しつかり考へた上で、刑の予言をすると、大抵あたるに極まつてゐる。この場合では、誰でも老人ブランの言つた事を、腹の中で成程と思はないものはなかつた。
 そこで一同ワシリの脱獄を幇助して遣る事に決議した。ワシリは「仲間」の為めに危険を冒したのであるから、仲間がその脱獄を幇助せずにゐるわけには行かない。
 第一の準備として、囚人一同は毎日受け取る食料のパンを、少しづゝけて置いて、それを集めてワシリの携帯糧食にする事にした。
 それから一しよに脱獄する人を選抜するといふ事になつた。老人ブランはこれまで二度樺太から脱獄した経験がある。それだから第一に選抜せられた。
 老人は別段に思案する様子もなく承諾して、かう云つた。「己はどうせ前から森の中で、のたれ死をする事に極まつてゐるのだらう。それが好からうよ。只一つ言つて置くがな、己も昔のやうには手足が利かないて。」老人は語り続けた。「精出して仲間を拵へろ。二人や三人では駄目だぞ。あそこを脱けるのは容易な事ではない。どんなに倹約しても、十人の手は揃つてゐなくては駄目だ。己も足腰の立つ間は、一しよに働いて遣る。実は己だつてどこで死んでも、あの土地で死ぬよりは好いからな。」
 かう云つてしまつて、老人はひどく真面目に考へ込んだ。その皺の寄つた頬を伝つて、涙が流れてゐる。
 ワシリは「爺いさん、気が弱くなつたな」と思つて、仲間を勧誘しに掛かつた。
 軍艦は或る岬を曲つたと思ふと、港に近づいた。
 船腹の窓には囚人が群をなして外を覗いてゐる。その興奮した、物珍らしげな目に、高い山のやうになつてゐる島の岸が、次第に暮れ掛かる靄の中に、段々はつきりと見えて来る。
 に入つてから軍艦は港に這入つた。この辺の海岸は、黒い、陰気な大岩から成立つてゐる。船が留まると、直ぐに番兵が整列して、囚人の陸揚げに着手した。
 くらになつた港の所々に微かな火がとぼしてある。波は砂に打ち寄せてゐる。空には重くろしい雲が一ぱい掛かつてゐる。誰も誰も沈鬱な、圧迫せられるやうな思をしてゐる。
 老人ブランが小声で云つた。「これがヅエエといふ港だ、当分はこゝの監獄に置かれるのだ。」
 土地の官憲が立ち会つた上で、点呼が始まつた。一組の点呼が済むと、上陸させられる。数箇月の間船に押し込まれてゐた囚人が、久し振りに陸地を踏むのである。今まで彼等を載せて、波に揺らせてゐた船は白い煙りを吐いてゐる。その煙りが夕闇の中で際立つて見えてゐる。
 目の前に明りが見える。人の声がする。
「囚徒か。」
「はあ。」
「こつちだ。七号舎に這入るのだ。」
 囚人の群はその明りに近づいて行く。列を正して行くのではない。ぞろぞろと不規則な群をなして、押して行くのである。随分ごたごたするのに、いつものやうに、脇から銃床じうしやうでこづかれないのを、囚人等は不思議なやうに感じた。
 囚人の一人が呆れた様子で囁いた。「どうだい。番兵も何も附いてゐないぢやないか。」
 これを聞いたブランが小言らしくつぶやいた。「黙つてゐろ。なんでこゝに番兵なぞがいるものか。番兵が無くつたつて、誰も逃げはしない。島は広いが、荒地ばかりだ。どこへ行つても飢ゑ死にをするより外ない。島より外は海だ。それ、音も聞えるだらう。」
 かう云つた時、丁度風が出て、一行の前に見えてゐる明りがちらついて、それと同時に岸の方から海の音が聞えて来た。丁度猛獣が目を醒してうなるやうに。
 ブランがワシリに言つた。「あの音が聞えるかい。国の諺に、八方水で取り巻かれた、これが不運だといふのである。この土地はどうしても海を渡らなくては逃げられない。それから船に乗る所まで逃げるにも道程みちのりが可なりある。牧場まきばや、森や、警戒線を通らなくては行かれない。己は動悸がする。あの海の音が不幸を予言してゐるやうでならない。どうも己にこの樺太が逃げられれば好いが。己も年が寄つたでな。もうこれまで二度脱けた。一度はブラゴヱシユチエンスクで掴まつた。二度目はロシアまで帰つて掴まつた。そして又こゝへ戻つて来た。どうもこの儘こゝで死ぬる事になりさうでならない。」
「さう云つたものでもないよ」と、ワシリが励ました。
「お前はまだ若い。もう己のやうに年を取つて、体が利かなくなつては駄目だ。あの海の凄い音を聞いてくれ。」

     五

 第七号舎からこれまでそこに住んでゐた囚人を出して、その跡へ今度来たのを入れて、最初の間出口に番兵を付けて置いた。もし番兵を付けなかつたら、これまで厳しく見張をせられてゐた癖が付いてゐるから、それが無くなつた為め、小屋から出した小羊の群のやうに、直ぐに島中にちらばつてしまふからである。
 もう久しい間島に置いてある囚人なら、見張なんぞをするには及ばない。さういふ囚人は土地の様子をくはしく考へてゐるから逃げようとはしない。この島で逃げ出すのは、随分思ひ切つた為事しごとで、逃げたものはきつと死ぬると云つても好い位である。たまに逃亡を企てるものもあるが、それは余程決心した人間で、その決心も熟考した上の事である。そんなのを番兵で取り締まらうとしても駄目である。どうしたつて、逃げようと思へば逃げるし、又無理に留めて置いても苦役には服せない。
 島に来てから三日目に、ワシリはブランに言つた。「お前に相談するのだが、どうだらう。己達の仲間では、お前が一番年上だ。お前が先に立つて指図してくれなくてはならない。糧食の用意もしなくてはなるまいな。」
 ブランは元気のない様子をして答へた。「己も格別相談相手にはなるまいよ。随分むづかしい為事だ。もう己の年では柄にない。だからお前自分で遣らなくては駄目だ。これから三日程立つと、幾組にも分けて為事に出されるだらう。この監獄の外に出るだけなら、その時勝手に出されるのだ。だが品物は持ち出す事が出来ない。どうするが好いといふ事は、お前考へて見なさい。」
「さう云はないで、お前考へて見てくれ。お前の方が馴れてゐるのだから。」
 かう云はれたが、ブランは不熱心で、不機嫌で、只ぶら/\歩いてゐる。誰とも話をしない。どうかするとくうを見て独語ひとりごとを言つてゐる。これで三度目に樺太を脱ける筈のこの年寄の流浪人は、見る見る弱つて行くらしい。
 彼此する内に、ワシリはブランの外に十人の同志を糾合した。いづれ劣らぬ丈夫な男である。そこでブランを捉まへて、元気を付けるやうにして、これまでのやうに冷淡でゐずに、逃亡の計画を立てゝ貰ひたいと云つて迫つた。折々はブランも話に乗つて来た。併し色々話した末には、どうも脱ける事はむづかしいとか、今度の企の不成功になるらしい前兆があるとか云ふやうな事を云つてゐる。
「どうも己はこの島から外へは出られさうでないよ」と云ふのが老人の口癖で、この詞で絶望の心持を表白してゐるのである。
 折々元気が好いと、老人も昔脱獄を為遂しとげた時の事を思ひ出して、夕方になつて、自分は床の上に寝てゐながら、ワシリに島の地理を話し、逃げ出す時、どの道を逃げなくてはなるまいといふやうな事を言つた。
 ヅエエの港は樺太島の西岸にあるから、アジア大陸に向つてゐるのである。こゝの海峡は三百ヱルストの幅である。小船ではとても渡られない。だから逃げようと思ふものは、大抵外の場所から逃げる。
 只逃げるだけの事は余りむづかしくはないらしい。ブランはかういふのである、「死ぬる覚悟でさへあるなら、どこへでも行かれるよ。島は広くて、野と山とがあるばかりだ。土人だつて、どこでも勝手な所に住まふといふ事は出来ない。右の方へ行くと、岩ばつかりある中へ迷ひ込んで、森から出て来る飢ゑた獣に食はれるか、さうでなければ、諦めて戻つて来る様になる。南の方へ行くと、島の果だから、海に出る。その方からは大船でなくては渡られない。それだから逃げる道は只一方しかない。北の方だな。どこまでも海岸に沿うて北へ行くのだ。海さへ見て行けば間違ひはない。彼此三百ヱルストも行くと港がある。そこは大陸までの海の幅が狭いから、ボオトで渡る事が出来るのだ。」
 こんな話をした跡で、ブランはいつもの結論を下す事になつてゐる。「ところが、己が言つて置くがな、そこからだつて逃げるのは容易な事ではない。兵隊が警戒線をいてゐるからな。最初に越さなくてはならない線はワルキといふのだ。しまひから二番目がパンギといふのだ。一番しまひのがポギバといふのだ。大方逃げる奴の亡びてしまふ所だから、そんな名が付いてゐるのだらう。(ロシア語のポギバは滅亡の義。)一体警戒線は上手に布いてあるよ。道が出し抜けに曲る所で、その曲つた角に番兵がゐる。なんの事はない、ぼんやりして歩いてゐる内に、綺麗に網に掛かつてしまふのだ。桑原々々だ。」
「だつてお前二度も遣つた覚えがあるのだから、今度はそこの場所が分かりさうな者だな。」
 老人の目は赫くのである。「それは遣つたとも。だから己のいふ事を聞いてゐて、旨く遣らなくては行けない。今に水車場の普請に己達を連れ出さうとするだらう。その時同志の者が皆望んで出掛けるのだな。食物くひものを持つて出ろといふから、お前方の堅パンを持ち出すのだ。水車場にはペトルツシヤアがゐる。若い仲間の一人だ。そこから旅に立つのだな。三日の間は、ゐなくなつたつて、誰も気は付かない。この土地では三日の中に点呼に出さへすれば、咎めない事になつてゐる。病気だと云へば、医者が為事を休ませてくれる。だが、病院は随分ひどい。それよりか働き過ぎて病気になつて、体が利かなくなつた時は、森の中に寝てゐるに限る。さうすれば空気が好いからひとりでに直る。その時点呼に出て行くのだ。そこで四日目になつて点呼に出ないと逃亡と看做みなされるのだ。逃亡と看做されてから、遅くなつて帰つて来ると、直ぐにボツクへ載せてはたくのだ。」
「己達はボツクに乗る気遣はない。逃げた以上は帰つては来ないのだから」と、ワシリが云つた。
 ブランは又不機嫌になつて、目の色をどろんとさせて云つた。「帰つて来なければ、森の中の獣が引き裂くか、兵隊が鉄砲で打ち殺すのだ。兵隊は己達をなんとも思つてはゐない。捉まへて面倒を見て、百ヱルストも送つて来るやうな事はしない。見付けたところで打ち殺してしまへば、手数が掛からなくて好いのだ。」
「縁起の悪い事をいふな。不吉な事を知らせる烏の啼声を聞くやうだ。いよ/\あした出掛けるぞ。己達の入用な物は何々だと、お前ボブロフにさう言つてくれ。同じ船で来た仲間が取り纏めてくれるから。」
 老人は何やら口小言を言ひながら、俯向いて立つて行つた。その跡でワシリは同志にあすの用意を言つて聞かせた。組長の助手の役は、余程前に辞退したので、代りが選挙せられて、それが跡を務めてゐるのである。
 同志は手荷物の用意をした。着物や靴の痛んでゐるものは、跡へ残る人に取替へて貰つた。さうして置いて、水車場の普請に行けと云はれた時、同志者は揃つて名告なのり出た。
 その日の中に逃亡組は、水車場を離れてしまつて、森の中に這入つた。さて同志の頭数を調べて見ると、ブランがゐない。
 同志は随分粒が揃つてゐる。ワシリと一しよに出て来たヲロヂカは矢張流浪人だが、ワシリと仲の好い友達である。マカロフといふ大男がゐる。これは大胆で、機敏で、これまで鉱山から二度逃げ出した事がある。それからチエルケス人が二人ゐる。思ひ切つた事をする連中だが、仲間に対しては義理が堅い。それから韃靼人だつたんじんが一人ゐる。狡猾で、随分裏切りも為兼しかねない男だが、その狡猾なところを利用すれば、有用な人物にもなりさうである。その外のものも、皆流浪人で、これまでシベリア中を股に掛けて歩いた連中である。
 一日森の中で暮して、その晩も泊つた。翌日まだブランを待つてゐる。それでもブランは来ない。
 第七号舎へ韃靼人を覗きに遣つた。韃靼人はこつそり忍んで行つて、ボブロフを呼び出した。これはワシリの親友で、囚人仲間一同から尊敬せられてゐる有力者である。
 翌朝ボブロフが森の中へ尋ねて来た。「どうだい。何か己がして遣らなくてはならない用があるのかい。」
「外ではないが、どうぞあのブランに来るやうに言つてくれ。あれが一しよに来なくては、出掛けられないのだ。もしまだ糧食が足りないといふなら、少し分けて遣つてくれ。己達はあの爺いさんの来るのを待つてゐるのだからな。」
 この話を聞いてから、ボブロフは第七号舎に帰つて見た。併しブランはまだなんの用意もしてゐない。只あちこち歩き廻つて、くうを見て独語を言つてゐるのである。
 ボブロフが声を掛けた。「おい。ブラン。何をぐづ/\してゐるのだい。」
「なんだ。」
「なんだもないものだ。なぜ用意をしないのだ。」
「己かい。己は墓に這入る用意をしてゐる。」
 ボブロフは少しじれて来た。「それはなんといふ言草だ。お前の同志のものが、もう四日も森の中にゐて、お前の来るのを待つてゐるぢやないか。お前が行かないので、あいつらが戻つて来ようものなら、ボツクの上で叩き殺されてしまふだらう。お前は流浪人になつて、年を取つてゐながら、義理を知らないのか。」
 ブランは涙をこぼしてゐる。「さうさな。もう己はおしまひだ。どうせ己は島から外へ出る事は出来ない。己は年が寄つた。もう生きてゐる事は出来ない。」
「年が寄らうが寄るまいが、それはお前の事だ。一しよに逃げ出して、途中で死んだつて、誰もお前を悪くいふものはない。ところがあの十一人の人間が、お前のお蔭で、ボツクの上で死んだ日には、どうもお前をその儘では置かれないぜ。為方がないから、己は仲間に言つて聞かせる。さうしたらどうなるかといふ事は、お前だつて知つてゐるだらう。」
 ブランは真面目で答へた。「成程、それは知つてゐる。さうなつたつて、誰を恨みやうもない。己もそんなはめになつて死にたくはない。どうも行かなくてはなるまいかな。だが、己はまだちつとも支度をしてゐない。」
「それは己が拵へて遣る。直ぐ遣る。何々がいるのだ。」
「好い上着が十二いる。」
「みんなはもう持つてゐるぜ。」
 ブランは詞に力を入れて繰り返した。「己のいふ事を聞いてくれ。みんなが上着を一枚づゝ持つてゐる事は、己も知つてゐる。だが、二枚づゝなくては行けないのだ。土人のボオトを手に入れるには、てんでに上着を脱いで遣らなくてはならない。それから好いナイフが十二本、まさかりが二つ、鍋が三つだ。」
 ボブロフは仲間を集めて、ブランの云つた事を取り次いだ。
 仲間が不用の上着を持つてゐるものは、皆そこへ出した。この陰気な牢屋の中を出て、自由な天地に帰らうとして、大胆な為事に掛かる同志のものに対して、仲間で誰一人本能的に同情してゐないものはないから、上着の掛替かけがへは惜まないのである。鍋やナイフも只で貰ひ集めたり、又少しの銭を出して、移住人から買ひ取つた。

     六

 新しい囚人が島に来てから十三日立つた。
 翌朝ボブロフがブランを森の中へ連れて行つて、入用の品も運んで遣つた。
 逃亡組は一同祈祷をして、ボブロフに暇乞ひをして出発した。
     ――――――――――――
 こゝまで話して、ワシリは興に乗つて来て、自然に声も高くなつた。
 己は問うた。「どうだつたい。いよ/\出発となつた時は、好い心持だつたらうね。」
「それは好い心持ですとも。低い木の間から、高い木ばかりの揃つてゐる森に這入り込んで、木の枝のざわざわいふのを聞いた時は、生れ変つたやうな心持がしましたよ。同志の者は、みんな勇み起ちました。その中でブランだけは俯向いて、何か分からない事を口の中で言ひながら歩いてゐるのです。どうも出立の時から、好い心持はしなかつたらしいのですね。どうせ遠い道を逃げおほせる事の出来ないのが、胸に分かつてゐたのでせう。少し立つと皆が案内者として、頼みに思つてゐる爺いさんが、どうも頼みにならないやうな気がして来ました。勿論流浪人になつて年を取つた男ではあるし、もう二度もこの島から脱けた事があるのですから、道なぞは心得てゐます。併しわたくしや、友達のヲロヂカが見たところでは、爺いさんが頼み少なく見え出したのですね。
 或る時ヲロヂカがわたくしに言ひました。「今に見ろ。ブランのお蔭で、己達はひどい目に逢ふぜ。どうもあいつは変だからな。」
 ヲロヂカが又かういふのです。「どうも気が変になつてゐるやうだ。色々な独話ひとりごとを言つて、首を振つたり、合点合点をしたりしてゐる。指図もなにもしてくれない。もうさつきから小休こやすみをしても好い頃になつてゐるのに、あいつはずん/\歩いてゐる。どうも変だぜ。」
 わたくしもそんな気がしました。そこでブランの側へ行つて、「どうだね、あんまり急ぎ過ぎるぢやないか、少し休んだらどうだらう」と云ひました。
 さうすると、ブランは一寸立ち止まつて、わたくし共の顔を暫く見てゐて、又歩き出すのです。そしてかういふぢやありませんか。「待て待て。そんなに急いで休む事はない。どうせワルキかポギバに行けば、お前達はみんな弾を食ふのだ。さうすれば、いつまでも休まれる。」
 わたくし共は、呆れてしまひました。それでも喧嘩をしようとは思ひませんでした。それに最初の日には休まずに少し余計に歩いた方が好いのだといふ事も考へたのです。
 又少し歩くと、ヲロヂカがわたくしをこづいて、「どうも間違つてゐるね」と云ひました。
「なぜ。」
「ワルキまでは二十ヱルストだといふ事を聞いてゐた。もうたしかに十八ヱルストは歩いてゐる。うつかりしてゐると警戒線につ付かるぞ。」
 そこでわたくし共は爺いさんに声を掛けました。「おい。ブラン。」
「なんだい。」
「もう追つ付けワルキに来るだらう。」
「まだまだ。」
 かう云つて爺いさんは、ずん/\歩くのです。実はこの時今少しで、大変な目に逢ふところでした。為合しあはせな事には、わたくし共がふいと崖の所にボオトが一艘繋いであるのに気が付きました。そこで皆言ひ合せたやうに足を駐めたのです。
 マカロフが行きなりブランを掴まへて引き戻しました。
 どうも船があるからには、近所に人間がゐなくてはならないと思つたものですから、みんなで言ひ合せて、こつそり横道へ這入つて、森の中へ隠れました。これまで歩いて来た所は、河の縁で、河の両方の岸は茂つた森になつてゐるのです。
 一体樺太といふ所は、春の間いつも霧が立つてゐる所です。その日にも一面の霧が掛かつてゐました。
 丁度わたくし共が森の中の山道を登つて行つて、絶頂に近い所まで行つた時、風が出て谷の霧を海の方へ吹き払つたのです。その時警戒線の全体が、手の平へ乗せて見るやうに、目の前に見えたぢやありませんか。
 兵隊共は営庭でぶら/\歩いてゐる。犬が何疋もそこらを嗅ぎ廻つてゐる。番兵は寝てゐるといふわけです。
 わたくし共は、ほつと息をきました。も少しでうつかりと狼の口の中へ駈け込むところだつたのですね。
「おい。ブラン。どうしたのだい。あれは警戒線ぢやないか。」
「さうさ。あれがワルキだ。」
「お前おこつては行けないよ。お前は同志の内で一番年上だから、今まで皆がお前の指図を受ける積りでゐたのだが、どうもこれからは己達が自分で手筈をしなくてはなるまい。お前に任せてゐた日には、どこへ連れて行かれるか分からないからな。」
「どうぞみんな勘忍してくれ。己は年を取つた。己は四十年この方流浪してゐる。もう駄目だ。己は時々物忘れをしてならない。物に依つては好く覚えてゐる事もあるが、外の事はまるで忘れてしまつてゐる。どうぞ勘忍してくれ。こゝは落ち着いてゐられる所ではない。早く逃げなくては駄目だ。あの警戒線の奴が誰か森の中へ這入つて来るか、犬が一疋嗅ぎ出して近寄つて来たら、この世はお暇乞だ。」
 そこでわたくし共は歩き出して、途中でブランに気を付けるやうに相談しました。わたくしはみんなに選ばれて案内者になりました。休む時の指図や、その外号令をしなくてはならないのです。尤も道はブランが知つて居る筈だといふので、先に立つて歩かせる事にしました。流浪人をしたものは皆足が丈夫で、体が一体に弱くなつても、足だけは利くものです。だからブランなんぞも、死ぬるまで歩く事だけは達者でした。
 大抵わたくし共は山道を選つて歩きました。足元の悪い代りに、危険が少ないのですね。山の中では木がざわざわ云つて、小河がちよろちよろ石の上を飛び越えて流れてゐるばかりで、人に逢はないから難有いのです。移住民も土人も大抵谷の方で、河や海の近い所に住んで、さかなを取つて食つてゐます。殊に海は肴が沢山取れるのです。わたくし共も肴を手掴みにして取つた事がある位です。
 そんな風にして、どこまでも海岸を遠く放れないやうに気を付けて、ずん/\逃げたのです。余り危険がないと思つて、じりじり海の方へ寄つて、とうとう岸を歩き出す。それから少し危険だと思ふと、又山の上に這ひ登るといふわけです。警戒線は、用心して遠廻りに除けて通りました。配り方はそれそれ違つてゐて、二十ヱルストを隔てていてあつたり、五十ヱルストを隔てて布いてあつたりするから、いつ出食はすか分からないのですね。為合せな事には、どれも旨く除けて通つて、とう/\最後の警戒線まで来たのです。」
     ――――――――――――
 ワシリはこゝまで話して間を置いた。それから暫くしてから、立ち上がつた。
 己は「なぜ跡を話さないのか」と云つた。
「馬の世話をして遣らなくてはなりません。もう丁度好い時分でせう。行つてほどいて遣らうかと思ひます。」
 ワシリが中庭へ出るので、己も付いて出た。
 寒さが少しゆるんで、霧が低くなつた。
 ワシリは空を仰いで見た。「大ぶ星が高いやうです。もう夜中を過ぎたのでせう。」
 もう霧が遠い所を遮つてゐないので、今は近い部落の天幕がはつきり見える。部落は皆寝静まつてゐる。どの内の煙突からも白い煙が立つてゐる。稀には火の子が出て、寒空で消えるのもある。ヤクツク人は夜通し煖炉を焚いてゐるが、それでもあたゝまりは長くは持たない。だから夜中に寒くなると、誰か早く目の醒めたものが薪をくべ足すのである。
 ワシリは暫く黙つて立つて、部落の方を見てゐたが、溜息を衝いた。「久し振りで部落といふものを見ますね。もう大ぶ久しい間見ずにゐたのです。ヤクツク人は大抵固まつて住はないで、一人一人別な所に住ひますからね。わたくしもこつちの方へ越して来ませうか。こゝいらなら住み付かれるかも知れませんね。」
「ふん。今お前さんのゐる所には住み付かれないのかね。田地を持つてゐるぢやないか。それにさつきも今の境遇に安んじてゐるやうに云つてゐたぢやないか。」
 ワシリは直ぐには答へなかつた。「どうも行けませんね。この辺の様子を見なければ好かつた。」
 ワシリは馬の側へ寄つて顔を見て、撫でて遣つた。賢い馬は顔を見返していなゝいた。ワシリは、さすりながらかう云つた。「よしよし。待つてゐろ。今に外して遣る。あした又働いてくれなくてはならないぞ。あしたは韃靼だつたんの馬と駈競かけくらをするのだ。」
 それから己の方に向いて云つた。「好い馬ですよ。わたくしが乗り馴らしました。どんな競馬馬と駈競をさせても好いのです。旋風つむじのやうに走りますよ。」
 ワシリは繩を解いて枯草のある方へ馬を遣つた。己はワシリと一しよに天幕の内へ這入つた。

     七

 ワシリの顔は天幕に帰つてからも矢張不機嫌らしく見えた。そして話を為掛しかけてあるのを忘れたか、それとも跡を話したくなくなつたかと思はれる様子をしてゐる。そこで話の結末が聞きたいと云つて催促して見た。
 ワシリは機嫌を直さずに答へた。「なんの話す程の事があるものですか。どんな事を云つて好いか、分からなくなつてしまひました。兎に角随分ひどい目に逢つたのですよ。ああ。併し話し出したものですから話してしまはなくてはなりますまいなあ。」
「それから十二日の間歩きましたが、まだ島の果までは行き付かなかつたのです。一体なら八日で、向岸へ越される筈なのですが、用心をしなくてはならないのと、案内者の好いのがないのとで、無駄をしたのです。海岸を歩けば平地であるのに、岩山に登つたり、谷合たにあひの沼を渡つたりして時間を費したのです。最初出立する時、十二日分の食物を用意したのですから、それもそろそろ無くなり掛かつて来ました。そこで一度分の分量を減らしました。堅パンの残つてゐるのを、成るたけ食べてしまはないやうにして、てんでに食物を捜して、それで飢を凌いだのです。森の中には木の実が沢山あるものですから、成るたけそれを取つて食べるやうにしました。
 そんな風にしてリマンといふ湾のある所へ出ました。この湾の水は常にしほからいのですが、時々黒竜江の水が押して来ると、淡水になつて、飲む事が出来るのです。こゝからボオトに乗つて出れば、黒竜江へ這入られるのです。
 どうしてボオトを手に入れようかと相談したところが、老人はもう疲れ果てゝ、目がどんよりしてゐて、なんの智慧も出ないのです。それでもとうとうかう云ひました。
「どうせボオトは土人の持つてゐるのを手に入れるのだ。」
 これだけの事は云ひましたが、その土人をどこへ捜しに行つたら好いか、又土人の手から船を得るには、どういふ手段を取つたら好いかといふ事は、老人が教へてくれません。
 そこでヲロヂカとマカロフとわたくしとで、同志の者にかう云ひました。
「おい。皆の者はこゝで待つてゐてくれ。己達はこの岸に沿うて歩いて見る。為合しあはせが好かつたら、土人を見付けて、どうにかしてボオトを手に入れようと思ふ。二三艘もあれば結構だがさう行かなければ、一艘でも手に入れるやうにしよう。みんな用心してゐるのだぜ。この辺にも警戒線がいてあるかも知れないから。」
 かう云つてみんなを残して置いて、わたくし共三人は岸を歩き出しました。少し歩いて岩のある所へ来ると、そこに網を繕つてゐる男がゐるのです。このオルクンをわたくし共に逢はせて下さつたのは、実に神のお恵みだと思ひます。」
「なんだい。そのオルクンといふのは。その男の名かい。」
「どうですかねえ。さういふ名だつたかも知れません。併しわたくしの察したところでは、どうもオルクンといふのは酋長といふ事らしかつたのです。兎に角何がなんだか分からなかつたのですけれども。わたくし共は、そいつを驚かして、逃がしてはならないと思つて、用心してそろそろ側へ寄りました。それから間が近くなつた時、突然側へ駈け付けて、その男を取り巻きました。その時そいつが指で自分の顔をさしてオルクン、オルクンといふのです。
 わたくし共はなんの事だか分かりませんが、こつちもどうかして用事を向うへ知らせて遣らうと思つて工夫をしました。とうとうヲロヂカが杖で砂の上へ、ふねの形をかいて見せました。こんな物がいるといふ積りですね。
 さうすると、その男がちよつと考へてゐたが、直ぐに呑み込んで合点合点をしました。それから手の指を出して二本見せたり、五本見せたり、又十本皆見せたりしたのです。なんの積りだらうと、三人で相談しましたが、とうとうマカロフがさとりました。
「おい。これは己達の仲間が何人ゐるかと問ふのだぜ。人数次第で、ボオトが幾ついるといふ事になるのだらう。」
 成程といふので、わたくし共は、そいつに十二といふ数を知らせました。それは直ぐに呑み込んでくれました。
 それからそいつが、こつちの仲間の所へ連れて行けと、手真似でいふのです。最初はどうしようかと思つて考へましたが、外にしやうがないので、連れて行く事にしました。どうも歩いて海は越されませんから、そいつに手伝つて、船を拵へて貰ふ外、為方がなかつたものですからね。
 同志の者も、わたくし共がその男を連れて来たのを見て、最初は不平らしい顔をしました。
「なんだつてそんなものを引つ張つて来たのだい。それでは己達の隠家が知れてしまふぢやないか。」
「黙つてゐろ。連れて来なくつてはならないから連れて来たのだ。」
 こんな事を言ひ合つてゐるのに、例の男は平気で同志の者の中に交つて、みんなの着てゐる上着を手で障つてゐるのです。
 そこでみんなで二重に持つてゐる上着を脱いで遣ると、男はそれを受け取つて、肩に掛けて、山道を下りて行くのです。わたくし共は跡から付いて行きました。
 少し行くと下の方に土人の天幕が並んでゐるのが見えました。小さな村なのです。
 同志の者はちよつと足を留めて心配し出しました。「どうしよう。あいつが村へ帰つて行くと村の者を呼び集めるかも知れないぜ。」
 わたくし共はかう云ひました。「構ふものか。あの天幕は四つある。中に何人づゝゐるとしても知れたものだ。こつちは同勢十二人、一人一人長さが四分の三アルシン位ある、立派なナイフを持つてゐるぢやないか。それにあいつらの体と、己達のやうな大男の体とは、比べものにならない。第一ロシア人は牛肉を食ふのに、あいつらは肴ばかり食つてゐやがる。どうする事が出来るものか。」
 かうは云つたものの、わたくし共は余り好い気持はしませんでした。
 兎に角島の果まで、漕ぎ付けて来た。併しあの向うの地平線に、青い帯のやうに見えてゐる、黒竜江の岸に渡つて、ほつと息を衝く事が出来るだらうか。鳥のやうに羽でも生えてくれれば好いと思つたのですね。
 暫く待つてゐると、大勢の土人が、オルクンを先に立てゝ、遣つて来ます。見ると、それが皆槍を持つてゐるのです。同志の者が、かう云ひました。
「見ろ。あそこを遣つて来やがる。命のある内は降参すまいぜ。あいつらと遣り合つて、死ぬるものがあつたら、それも運だから、諦らめるが好い。お互に助け合つて、出来るだけ防いで見よう。さあ、みんな成るたけ散らばらないやうに、固まつてゐなくては行けないぜ。」
 こんな風に待ち構へてゐましたが、これは全くこつちの誤解でした。オルクンは、わたくし共の様子を見て、疑はれたのだなとさとつたものですから、仲間の槍を皆取り上げて、一束にして一人の男に渡しました。
 そこでお互に腹が分かつたものですから、わたくし共は、村の者と一しよに、ボオトのしまつてある所へ見に行きました。そこで土人は船を二艘出して見せました。大きい方には八人乗られるし、小さい方には四人乗られるのです。
 こんな工合に、やうやう船だけは出来ました。ところが困つた事には、乗り出す事が出来なくなつたのです。丁度その時風が出て、向岸から吹くのですね。波が中々高くて、とてもボオト位では乗り出されません。
 そこで二日間風を待ち合せました。その内に食料がいよ/\無くなつたものですから、木の実と、オルクンのくれる肴とを食つて、命を繋いでゐました。オルクンは正直な、好い奴でしたよ。今でもあいつの事は折々思ひ出します。
 持つてゐた二日目の日が暮れたのに、わたくし共は矢張り島にゐるのです。どんなにじれつたかつたか、口では言はれません。その夜も過ぎてしまふ。三日目になつて見ても、まだ同じ風です。
 その時海を見ますと、風が霧を皆吹き払つてしまつたものですから、向岸が好く見えるのです。それを見るといよいよ溜まらなくなつて来るのですね。
 ブランの爺いさんは岩の上にしやがんで、向岸ばかり見詰めて、何時間立つても動きません。みんなが木の実を取りに行つても、爺いさんだけは立ちもしません。みんなが気の毒がつて、やつと拾つて来た木の実を、少しづゝ分けて遣りました。大方爺いさんは流浪人の係恋あこがれとでもいふやうな心持になつてゐたのでせう。それとも死ぬる時が近づいたのを、自然に知つてゐたのかも知れません。
 さうしてゐる内に、同志の者が皆我慢し切れなくなつて、とうとう夜になつたら、どうなつても構はないから、漕ぎ出さうといふ事に極めました。どうせ昼の内は漕ぎ出されません。そんな事をしようものなら、警戒線から見付けますから。夜ならばその心配だけはありません。そこで命を神に任せて、夜出掛けようといふのです。
 風はやつぱりひどくて、鞭で打つやうに、波がつ附かつて来ます。見渡す限り海の上には、波頭の白い泡が立つてゐます。
 わたくしはみんなにかう云ひました。「さあ、皆来て寝るのだよ。丁度夜中には月が出る。その時船を出すのだ。船では寝るどころの騒ぎではないから、それまで出来るだけ休んで置くのだ。」
 一同わたくしの差図通りに横になりました。わたくし共の隠家は高い岸の岩の側で、下から見上げても、立木が邪魔になつて見えないやうになつてゐました。只ブランだけは横にならずに、やつぱり西の方を見詰めてゐます。
 みんなが横になつたのは、まだ夕日が入らない頃でした。日が暮れるまでには、大ぶ時間があります。わたくしは十字を切つて横になつて、波が岸を揺つたり、森の木が風にざわ付いたりする音を聞きながら、寐入つてしまひました。
 どんな恐ろしい事が目前に迫つて来るか、皆知らずにゐたのですね。
 ふいとブランが小声で呼ぶのに気が付いて、わたくしは眠たいのを我慢して、起き上がつて、身の周囲まはりを見廻すと、ブランがわたくしの上にかぶさるやうになつて立つてゐて、目をきよろきよろさせて、森の方へ指ざしをして、かう云ふのです。「起きないか。来やがつた。連れ戻しに来やがつた。」
 わたくしがその指ざしをしてゐる方を見ますと、木の間に兵隊がゐるぢやありませんか。
 その内の一人で、一番前にゐるのが、銃でこつちを狙つてゐます。今一人はこつちの方へ駈けて来ようとしてゐます。その跡から山を下りて来掛かつてゐるのが三人あります。皆銃を持つてゐます。
 わたくしは直ぐに気分がはつきりしました。そして大声で同志の者を呼びました。同志の者は皆同時に起き上がりました。そしてさつき狙つてゐた兵卒が射撃をしてしまふや否や、みんなで向うへ飛び込んで行きました。」
 ワシリはのぼせたやうな顔をして黙つて、俯向いた。余り熱心に話して、薪をくべる事を忘れたものだから、煖炉の火が燃えなくなつて、天幕の内は薄暗くなつてゐる。
 ワシリはうつたへるやうな調子で云つた。「一体なんだつてこんな話をし出したのでせう。」
「どうでも好いぢやないか。しまひまで話してくれ。それからどうしたのだ。」
「それからですか。兵卒は六人でした。こつちは十二人でせう。なんでもわたくし共の寝てゐる所へ踏み込んで掴まへようとしたのですね。併しこつちは兵卒共に考へる時間を与へなかつたのです。わたくし共は大きなナイフを持つてゐます。向うは只一度打つた切りで、それも慌てゝ狙ひがはづれました。皆山から駈け下りて来るはずみで、踏み留まる事が出来ません。それを下で待ち受けてゐたのですね。
 そこでわたくし共が飛び込んで行くと、向うはしかと防ぐ事も出来なかつたのです。こつちはまるで気の違つた狼のやうな勢で飛び付くのに、向うはやつと銃剣の尖で防いでゐるのです。
 兵卒の一人が銃剣でわたくしを突かうとします。それがわたくしの足をかすりました。わたくしはつまづいて転びました。その上へ兵卒が乗り掛かつて来ました。その兵卒の上へマカロフが飛び付きました。その時わたくしの顔へ、上の方からぬくいものがだらだらと流れ掛かりました。わたくしとマカロフとは起き上がつたが、その兵卒はとうとう起き上がりませんでした。
 わたくしは飛び起きて、周囲を見廻しました。丁度その時同志の二人が、岩の上へ駈け上がつて行きます。その向うに立つてゐるのは警戒線の隊長で、サルタノフといふ士官です。樺太の名高い男で、土人さへ恐れてゐたのです。なんでも囚人がこの男の手で殺された事はたび/\であつたさうです。ところが今度はさうは行きません。向うが危なくなつてゐます。
 二人の同志は例のチエルケス人でした。大胆で素早くつて、まるで猫のやうに体の利く奴です。先づ一人が正面から向つて行つて、サルタノフと岩の上で打つ付かりました。直き側でサルタノフが拳銃を打つたのを、チエルケス人はしやがんで、弾に頭の上を通り越させました。その途端にサルタノフもチエルケス人も倒れました。今一人のチエルケス人は、同志が打たれたと思つて、恐ろしくおこつて飛び掛かりました。まだどうなつたのだか、わたくしにも分からずにゐる内に、弾に頭の上を通り越させたチエルケス人は、胴から切り放したサルタノフの首を握つて立ち上がつて、顔を引き吊らせて笑ひました。
 わたくし共はそれを見て、その場に釘付けにせられたやうになつてゐますと、チエルケス人は国詞くにことばで大声にどなつて、サルタノフの首を高く振り上げて、一廻し廻したかと思ふと、海へ投げ込んでしまひました。わたくし共は呆気に取られてゐると、暫くしてから、どぶんと音がしました。サルタノフの首が海に落ちたのですね。
 その時一番跡から来た兵卒が、岩の上で立ち留まつて、持つてゐた小銃をそこに棄てゝ、手で顔を押へたと思ふと、そのまゝ逃げ出しました。わたくし共は追ひ掛けては行きませんでした。その男が警戒線でたつた一人生き残つたわけです。
 後に聞けば警戒線は、二十人で張つてゐたのです。その十三人が買出しに向岸へ渡つてゐて、風が強いのでまだ帰らなかつたのださうです。そこで残つてゐた七人の内、六人はわたくし共が殺してしまつてたつた一人逃げたのです。
 為事しごとはこれで片付きました。併しわたくし共はまだぼんやりして、互に顔を見合せてゐましたが、とうとう臆病らしい、勢のない声をして、ためらひながら「どうしたのだらう、夢ではなかつたか知らん、本当だつたかなあ」と言ひ合つた位です。
 その時突然、さつきまで皆の寝てゐた場所で、ブランがうなつてゐるのを聞き付けました。ブランは兵卒の打つた、たつた一つの弾にあたつて、致命傷を受けたのですね。
 同志の者が駈け付けて見ると、ブランは落葉松らくえふしようの下で、胸に手を当てて、目に一ぱい涙を溜めてゐます。そしてわたくしを側へ呼んでかう云ふのです。
「どうぞみんなで己の墓を掘つてくれ。どうせお前方はまだ船を出す事は出来ない。向うへ渡つた兵隊と海の上で出逢つてはならないから、夜になるのを待つのだ。だから墓を掘つてくれ。」
「なにをいふのだい。生きた人間を埋める奴があるものか。お前を向岸へ連れて行つて、逃げられる所まで、手の上へ載せてでも行つて遣る。」
「いや/\。運といふものは極まつてゐるものだ。己はこの島から外へは出られないのだ。それで好い。うから己の胸にはそれが分かつてゐた。己はロシアへ帰りたくて、始終樺太からシベリアを眺めてばかりゐるのだ。それがせめてシベリアででも死ぬる事か、この島で死ななくてはならないのは残念だが、為方がない。」
 ブランの話を聞いてゐて、わたくしは妙に感じました。それはまるで別な人間のやうになつてゐるからですね。言ふ事に筋道が立つて、気分がはつきりしてゐるのです。目も澄んでゐます。只声だけが力が無くなつてゐるのです。
 ブランは同志の者を皆側へ寄せて、遺言をしたり、注意を与へたりしてくれました。
「みんな聞いてくれ。己の今言ふ事を忘れるなよ。お前方は己に別れてシベリアへ行くのだ。己はこゝに残るのだ。そこでお前方の行く先は、余り結構ではないぞよ。おまけにサルタノフまで殺したのだから、どこまでまづいか知れないのだ。サルタノフが殺されたといふ事は、直ぐに遠方まで知れる。イルクツクあたりは勿論、ロシアまでも知れるだらう。
 ニコラエウスクではお前方の逃げて来るのを待つてゐるだらう。どうぞみんな用心してくれ。腹が減つても寒くつても、町や村へ寄るなよ。土人はこはがるには及ばない。お前方をどうもしようとは思つてゐない。これから己が大事な事を言ふから、気を付けて聞いてくれ。
 ニコラエウスクの町の入口に屋敷がある。そこに己達の恩人が住つてゐる。タルハノフといふ商人の支配人だ。その男は元この樺太へ来て、土人を相手に商売をしてゐたものだ。或る時商品を持つて、この辺の山道に迷つた。平生土人とは仲が悪くて喧嘩をしてゐたものだから、山の中でまご付いてをるのを見付けると、殺してしまひさうにした。そこへ丁度脱獄仲間が通り掛かつたのだ。その中に己もゐた。初めて樺太を逃げ出した時の事だよ。
 森の中でロシア語で助けてくれといふものゝあるのを、己達が聞いて駈け付けて、その男を土人の手から救ひ出したのだ。
 それからといふものは、その男は樺太から逃げ出す囚人の助けにならうと心掛けてゐる。不断云ふには、己は死ぬるまで樺太の囚人に恩返しをしなくてはならないと云つてゐる。その頃から今までに、大ぶ人を助けたよ。お前方もその男の内へ行くが好い。きつと世話をしてくれるに違ひない。
 もうこれで好い。もうみんなぐづ/\してゐては行けない。ワシリや。どうぞみんなに言ひ付けて、己の墓をこゝへ掘らせてくれ。こゝは丁度好い所だ。向岸から吹いて来る風が、己の墓に当る。向岸から打ち寄せる波が、己の墓の下まで来る。どうぞ直ぐに為事に掛からせてくれ。」
 ブランの言つた事は、こればかりではなかつたのですが、大概こんなものでした。一同ブランの詞に随つて、墓を掘りに掛かりました。
 老人は落葉松の木の下に坐つてゐる。わたくし共は例の小刀で土を掘り上げる。さて穴が出来ましたので、一同祈祷をしました。
 老人はぢつとして坐つてゐて、合点合点をします。その両方の頬からは涙が流れ落ちるのです。
 日が這入つてしまつた頃、ブランは死にました。暗くなつてから、わたくし共はブランを穴の中へ入れて、上から土を掛けました。
 丁度船を漕ぎ出すと、月が登つて来ました。わたくし共は互に顔を見合せて帽を脱いで礼をしました。背後うしろの岸を見返ると、樺太の岩山がごつ/\してゐて、その上にブランの落葉松の枝が靡いてゐたのですね。」

     八

「シベリアの岸に着いて聞けば、サルタノフが残酷に殺されたといふ話が、もう土人にも知れてゐるといふ事でした。風が吹き伝へでもしたやうに、この風説は広まつたのです。同志の者はすなどりをしてゐる二三の土人に出逢つて、その口からこの話を聞いた時、土人等は首を振つて、変な顔附をしました。その顔附は内々喜んでゐるといふ風に見えました。わたくし共は腹の内で思ひました。沢山笑ふが好い。己達はどうなるか分からない。事に依るとサルタノフの首の代りに、この首を取られるかも知れないと思ひました。
 土人はわたくし共にさかなをくれて、こんな道もある、こんな道もあると逃道を教へてくれました。それを聞いてわたくし共は歩き出しました。なんだかおこつてゐる炭火の上を踏んで行くやうでした。物音がすると、一同びつくりする。人家があると、けて通る。ロシア人に逢はないやうにする。自分の歩いて来た足跡を消して置く。実に大変な気苦労をしたものです。
 昼間は大抵森の中で寝て、夜になつてから歩き出します。そんな風にして歩いて、とう/\、タルハノフの家のある所に、或る朝夜の明け切らない内に着きました。
 タルハノフの住ひは森の中にあつて、周囲まはりには丈夫な垣がつてあります。門は締めてありました。ブランの話したのは、これに相違ないと思ひましたから、門の側へ寄つて扉を叩きました。
 門の中では明りを点けて、それから「誰だ」と云ひました。
「わたくし共は流浪人で、ブランといふ男からこちらのスタヘイ・ミトリツチユさんに言伝があつて来ました。」
 丁度その時支配人は留守で手助けをする男が留守番をしてゐました。支配人は出て行く時留守番にかういふ事を云ひ付けたさうです。「樺太から逃げて来たものがあつたら、一人に五ルウベルの金と靴を一足、毛皮を一枚、その外着物と食料とを望むだけ遣つてくれ。逃げて来たものは何人であつても、これだけの事は一人残らずして遣つてくれ。金や品物を渡す時には、雇つてある百姓共を呼び集めて、その目の前で渡して貰ひたい。さうすれば己が帰つた時、百姓共が証人になつて、己に安心させてくれる事が出来るのだ」と云つたさうです。
 この土地へもサルタノフが殺された話は、もう聞えてゐました。それですから留守番はわたくし共の顔を見て、気味を悪がつたやうでした。「サルタノフを遣つ付けたのはお前さん達だね。用心しないと危ないよ。」
「そんな事をしたのが、わたくし共だらうと、さうでなからうと、それはどうでも好いでせう。兎に角あなたは、わたくし共に補助でもしてくれるのですか、どうですか。ブランがスタヘイ・ミトリツチユさんに宜しくと云ひましたよ。」
「ブランはどこにゐるのだね。又樺太に遣られてゐるのですか。」
「えゝ。樺太に葬られてゐるのです。」
「おや/\。あの男は正直な、善い男でしたよ。今でもスタヘイ・ミトリツチユさんが折々噂をしてゐます。きつと亡くなつた事を聞かれたら、ミサの供養でもして遣られる事でせう。一体あの男の本当の名はなんと云つたか、お前さん達は知つてゐますかね。」
「いや。それは知りません。わたくし共は只ブランとばかり呼んでゐました。事に依ると、自分も本当の名を忘れてゐたかも知れません。流浪人にむづかしい名はいらないのですからね。」
「それはさうだね。お前さん達の世渡は随分心細いわけだ。牧師さんが神様にお祈をして上げようと思つたつて、本当の名を知らないから、なんと云つて好いか分からない。ブランだつて、故郷もあつただらうし、親類もあつただらう。兄弟や姉妹あねいもとがあつたか。それとも可哀かはいらしい子供もあつたかも知れない。」
「それはあつたかも知れません。流浪人といふものは、洗礼の時に貰つた名を棄ててしまふ事はあるが、それだつて、外の人間と同じやうに母親が生んだには違ひないのですから。」
「ほんにお前さん達は気の毒な世渡をしてゐるのですね。」
「さやうさ。わたくし共のしてゐるより、みじめな世渡はありますまい。乞食をして、人に物を貰つて食べてゐる。着物だつて同じ事だ。それから死んだところで、墓一つ立てて貰ふ事は出来ない。森の中で死ねば、体はけだものに食はれてしまふ。跡には日に曝されて、骨が残るばかりです。無論みじめな世渡と云はなくてはなりますまいよ。」
 わたくし共の話を聞いて、留守番は余程気の毒に思つたものと見えます。シベリア人は気の毒にさへ思ひ始めれば、物惜しみはしなくなります。わたくし共も、自分で自分の事を話しながら、感動して来ました。この留守番なんぞは、今こつちに同情してゐてくれても、直ぐに欠伸あくびをして寝に這入つてしまふだらう。食べたい程物を食べて、暖かい床に這入つて寝るだらう。こつちはこれから踏み出して、人に隠れて悪病に罹かつた獣か、夜明方の幽霊のやうに、暗い森の中を迷ひ歩かなくてはならないのだと思つたのです。
 留守番はかう云ひました。「そこでわたしはもう寝なくてはならん。こゝの支配人の言ひ置かれただけのものは、相違なくお前さん達に上げる。それからわたしの手から、一人前二十銭づつ添へて上げる。どうぞそれで帰つて下さい。今頃百姓共を皆起す事は止めにしよう。こゝに三人だけは起きてゐて、それが正直な人達だから、跡で証人にするには十分だらう。お前さん達に、長く足を留めてゐられると、こつちも一しよに迷惑をする事になるかも知れない。悪い事は云はないから、ニコラエウスクへは寄らないが好い。あそこには厳しい裁判所長がゐる。通り抜ける旅人を一々調べる。かさゝぎ一羽でも、兎一疋でも、己の前は素通りはさせない。樺太から来た奴なんぞを※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)みのがしてなるものかと、不断言つてゐるさうだ。あの辺を旨く通り抜ける事が出来たら、運が好かつたのだと思ひなさい。市中なんぞへ鼻を突つ込んではなりませんよ。」
 留守番は主人の云ひ付けた通りの金や品物を出して、それに自分の手から二十銭づつ出して添へてくれました。それから肴をくれました。そして十字を切つて、自分の部屋へ引つ込んで戸を締めてしまひました。その内一度けた明りを消した様子で、構内かまへうちは又ひつそりと寝鎮ねしづまりました。まだ夜の明け切るには間があつたのです。わたくし共は、そこを出掛けましたが、一同なんとなく物悲しいやうな心持がしてゐました。
 一体流浪人の心の内には、折々深い悲哀が起るものです。闇の夜や、茂つた森が周囲まはりを包む。雨が濡れ通る。それを風が吹いたり、日が当つたりして、又乾かす。広い世界にどこと云つて、自分の安心して休む所はない。故郷の事は始終恋しく思つてゐるが、さて色々な難儀をしたり危険を冒したりして、そこへ帰つて見れば、犬でさへ直ぐに流浪人だといふ事を見て取るのです。それにお役所は厳しい。やつと故郷へ帰つたと思ふと、又牢屋に入れられてしまふのですね。
 それでもどうかするとその牢屋の中が、今ゐる所に比べれば、却て天国のやうだと思ふ事があります。タルハノフの家を出て、夜道を歩いた時なんぞが、丁度さういふ場合でした。
 わたくし共は皆黙つて歩いてゐました。その時、ヲロヂカがふいとかう云ひました。「どうだい。今時分仲間はどうしてゐるだらう。」
「仲間とは誰の事だい。」
「あの樺太の第七号舎に残して置いた仲間さ。あいつらは今時分安心して寝てゐるだらう。それにこつちとらは、こんなに迷ひ歩くのだ。逃げなければ好かつたになあ。」
 あんまり下らない事を言ふと思つて、わたくしはヲロヂカを叱つて遣りました。「そんな婆あさんか何かのいふやうな事を言つて恥かしくはないかい。お前そんなに意気地がなくて、外の人をまで臆病仲間に引き入れさうにするなら、己達と一しよに出て来なければ好かつたのだ。」
 かうは云つたものゝ、わたくしも気は引き立ちませんでした。一同疲れ切つてゐます。半分眠りながら歩いてゐるのです。流浪人になると、眠りながら歩く事を覚えます。不思議な事には、こんな時にちよいとでも眠ると、直ぐに牢屋にゐる夢を見るものです。月が差し込んで、壁を薄白く照らしてゐると、格子窓の奥の寝台ねだいの上に、囚人が寝てゐるのが見える。その内自分もその囚人の一人のやうに思つて、寝台の上で伸びをする。それで夢が醒めるのです。
 そんな夢ならまだ好いが、夢の中で親父や母親に出て来られては溜まりません。そんな時はわたくしの身の上には、まだ何事もなく、牢に這入つた事もなく、樺太に行つた事もなく、警戒線の兵隊と戦つた事もないのです。わたくしは親の家にゐて、母が髪を撫で付けてくれてゐます。卓の上にはランプが点いてゐる。親父は鼻の上に目金を引つ掛けて、難有さうな本を読んでゐます。わたくしの親父は、人に本を読んで聞かせる男でした。母が小歌を歌ひ出します。
 こんな夢を見て目の醒めた時は溜まりません。なんだか胸に小刀が刺してあるやうな気がします。そんなしんみりした、気楽な部屋の中から、突然真つ暗な森の中へ出たやうに思ふのですからね。
 真つ先をマカロフが歩いてゐます。その跡へ一同続いて、丁度村の子供の跡に付いて、あひるが行列をして行くやうに、一人一人跡先に並んで行くのですね。折々風が吹いて来て、森の木の葉が囁くやうな音を立てゝ、直ぐに又ひつそりします。遠い所に、木の葉の間から海が見えます。その上には空が広がつてゐます。その空のずつと先の地平線の所が、ぼんやり赤くなつてゐる。今少しすると日が出るといふ印ですね。海の見えるやうな所では、波の音が聞え止む事はありません。どこかの余所の国の歌を歌ふやうな時もあり、又腹を立てゝどなつてゐるやうな時もあります。海の歌を歌ふ声は、よく夢にも聞えます。流浪人は海を見ると、胸に係恋あこがれを覚えます。大抵海には縁の遠い世渡をしてゐますからね。
 わたくし共は段々ニコラエウスクに近づいて来ました。次第に人家や部落が多くなります。随つて次第に危険になつて来るのです。わたくし共は用心してそろ/\町の方へ忍び寄ります。夜になると歩いて、昼間は、人間どころではない、獣もゐないやうな森の茂みに隠れてゐるのです。
 一体わたくし共はずつと大きい輪をかいて、ニコラエウスクの側へ寄らないやうにする積りでした。ところが体が疲れてゐて、遠道が歩きたくないのと、食料が段々乏しくなつたのとで、どうもさうしてはゐられなくなつたのです。
 或る日の夕方河の岸に出ました。そこに人が集つてゐます。何ものだらうと思つて、好く見ると監視中の囚人です。(ロシアでは懲役になつて、刑期が過ぎ去ると、それそれの村に返して監視して置く。併し労働は監視を受けて規則通りにしてゐる。)それが肴を取つてゐます。わたくし共はその様子を見定めてから側へ寄つて行きました。「おい、どうだね。」
「うん、どこから来たのだい。」
 こんな風に詞を交して、いろんな事を話す内に、その仲間の一番年上の奴が、わたくしを側へ呼んでかう云ふのです。「お前、樺太を脱けて来たのだらう。あのサルタノフを遣つ付けた連中だらう。」
 正直を云へば、この時わたくしは本当の事を直ぐに云ひにくいやうに思つたのです。勿論相手も同じ罪人ではあるが、物に依つては打ち明けにくい事もあります。殊に監視中の人間は、本当の囚人仲間とは違ひます。この年上の男にしろ、その外の男にしろ、役人の機嫌が取りたいと思へば、直ぐに行つてわたくし共の事を密告する事が出来ます。自分達は兎に角或る自由を得てゐるのですからね。同じ牢屋の中に這入つてゐれば、密告をした奴は分かるから、そんな事は出来ない。こんな手放しにしてある人間は、さういふわけには行きません。
 わたくしが少し詞を控へてゐるのを見て、相手は直ぐにわたくしの腹の中を見透みすかしてしまひました。
「己をこはがるのぢやないぞ。己は仲間の告口をするやうな人間ではない。それに何も己の関係した事ぢやあるまいし。町ではもうあの一件を知らないものはない。それにお前方を見れば、丁度同勢十一人だ。余り智恵がなくつても、その連中だらうといふ事は分かつてしまふ。その辺にうろ付いてゐると、ひどく危ないぜ。あの事件は大騒ぎになつてゐる。こゝの裁判所長は恐ろしく厳しいのだ。まあ、どうしてこゝを切り抜けるか、それはお前方の事だが、旨く行つたら大したものだ。幸ひ己達は少し食料も余計に持つてゐるから、町へ帰つたら、パンや肴を少し位、お前方に分けて遣らう。鍋なんぞもいりはしないか。」
「さうだね。若しお前の方で不用な鍋でもあれば難有いが。」
「好い。遣るとしよう。まだ何か思付いたものがあつたら、一しよに纏めて、晩に持ち出して遣る。仲間は助けて遣らなくてはならないからな。」
 わたくし共はこの話をしてから、重荷を卸したやうな気がしました。そこで帽を脱いで、その男に礼を言ふと、同志の者も皆帽を脱ぎました。段々乏しくなつて来た食料をくれるといふのも難有いが、それよりはこの男の親切な詞が嬉しかつたのです。どの人間もどの人間も、わたくし共に対しては禍の種で、悪くすると命まで取り兼ねないから、わたくし共は避けるやうにしてゐる。それにこの男が始めてわたくし共に同情してくれたのです。
 わたくし共は今の出来事が余り嬉しかつたものですから、もう少しで飛んだ危険を冒すところでした。
 監視中の連中が行つてしまつた跡で、わたくし共は安心して、今まで程用心をしなくなりました。ヲロヂカなんぞは跳ねたり踊つたりしてゐます。その辺に、河の近い所で、ヂツクマン谷といふ所があります。ヂツクマンといふ独逸人が、そこで蒸汽機関を製造した所です。そこへわたくし共は這入り込んで、火を焚いて、その上へ鍋を二つ掛けました。一つの方では茶が煮えてゐる。今一つの方では肴を入れた汁が煮えてゐる。その内に日が暮れて、周囲まはりが暗くなつて、小雨が降り出しました。熱い茶を飲んで、気分が好くなつたものだから、雨なんぞには構はずにゐました。
 そんな風にして野宿をしてゐて、アブラハムの懐にゐるやうな気で暢気になつてゐたのです。こつちから目の前に町の明りが見えるのだから、町からもこつちで焚く火が見えなくてはならないのを、大胆にも気に掛けずにゐたのです。人間は不思議なもので、人一人に出逢つてもならないと思つて、森や野原をさまよひ歩くかと思ふと、こんな事を遣るのです。大きな町の直ぐ前で火を焚いて、なんの危険もない積りで、暢気に話をしてゐます。
 わたくし共の僥倖で、丁度その時ニコラエウスクの町に或る年寄の役人がゐました。その人は或る土地の監獄長をした事のある人です。その監獄は大きくて、種々な囚人が入れてありました。そこにゐた囚人は皆この老人の恩を受けてゐます。シベリアで、ステパン・サヱリイツチユ・サマロフといへば、それを知らない流浪人はない。三年程前にそのサマロフが亡くなつたといふ事を聞くと、わたくしでさへわざ/\牧師さんの所へ行つて、ミサを読んで貰ひました。サマロフさんは実に好い人でした。只口が悪い。恐ろしい悪態をきます。大声を出して足踏みをします。併し残酷な事なぞは誰にもしません。何をするのも公平で、誰にも侮辱を加へるといふやうな事がなく、囚人を圧制しないから、みんなが難有がつて、敬つてゐました。賄賂といふものを取つた事がない。自分の利益の為めに公共の物を利用した事がない。只公共団体が報酬として送る物を受けるだけです。随分家族が多いから、それだけの物を受けなくてはならなかつたのです。
 わたくし共がヂツクマン谷で野宿をした時、この人はもう役を引いて、市中の自宅に住まつてゐました。それでも昔からの癖で、囚人や監視中の人間を世話をしてゐました。
 丁度その晩サマロフさんは、自分の家の石段の上に出て、煙草を喫んでゐますと、わたくし共のヂツクマン谷で焚いてゐる火が見えたのです。それを見てお爺いさんが「あそこで火を焚いてゐるのは何者だらう」と思つたのですね。
 その時石段の下を監視中の男が二人通つたので、爺いさんは、それを呼び留めました。「お前方はこの頃どこで漁をしてゐるのだい。ヂツクマン谷ではあるまいね。」
「いゝえ。あそこでは遣つてゐません。あの谷より上手です。それにけふは帰つてしまふ筈でした。」
「己もさう思つてゐたのだ。それにあそこに見えてゐる焚火はどうだい。」
「へえ。」
「何者が焚いてゐるのだらう。お前方はどう思ふ。」
「知りませんね。旅人りよじんかなんかでせう。」
「さうさ。旅人なら好いが。一体お前方は親切気がない。己にばかり心配をさせて、平気でゐる。お前達も知つてゐる筈だが、あの樺太から牢を脱けて出たものゝ事を、おとつひ裁判長が云つてゐたぢやないか。誰やらが近い所で見掛けたといふ事だつた。あの火を焚いてゐるのは、大方そいつだらう。あんまり気の好い話だ。」
「さうかも知れません。」
「もしさうだつたら、あの遣つてゐる事を見てくれ。己は好く知らないが、裁判所長はもう町へ帰つてゐるか知らん。まだ帰つてゐないにしても、もうそろ/\帰る頃だ。あの火を見付けようものなら、直ぐに兵隊を差し向けるのだ。可哀かはいさうだなあ。サルタノフを殺したのだから、掴まへられると、首がない。おい。早くボオトを一つ出して貰はう。」
 わたくし共は火を取り囲んで、汁の煮えるのを待つてゐました。もう大ぶ久しく、暖かいものを口に入れた事がないのです。その晩は闇で海の方から雲が出て、小雨が降つてゐます。森の中はざわ/\云つて、わたくし共の話声を打ち消してゐます。かういふ闇の夜が、わたくし共流浪人の為めには嬉しいのです。空は暗いほど胸が明るくなるのです。
 突然韃靼人だつたんじんが何やら聞き付けました。一体韃靼人といふ奴は、耳のさとい人間です。そこでわたくしも気を付けて聞いて見ました。どうも耳に漕いで来る※(「舟+虜」、第4水準2-85-82)の音が聞えるやうです。そこでわたくしが河の方へ出て見ると、果してボオトが一艘こつそり近寄つて来ます。舵を取つてゐるのは帽子に前章ぜんしやうの附いてゐる男です。
 わたくしはみんなに声を掛けました。「おい。駄目だぜ。裁判所長が遣つて来た。」
 一同踊り上がつて、鍋を引つ繰り返して、森の中へ逃げ込みます。
 わたくしはこの時、ちらばらになるなと一同を戒めて、先づ様子を見てゐる事にしました。遣つて来る人間の頭数が少なければ、こつちが固まつて掛かれば、まだ勝てるかも知れないと思つたのです。
 そこでわたくし共は木の背後うしろに隠れて待ち受けてゐました。
 ボオトは岸に着きました。陸に上がつて来るのは五人です。その内の一人が笑つてかう云ひます。「馬鹿な奴だ。皆逃げ出したのか。己が今一言言つたら、直ぐにみんな出て来るだらう。一体お前方は大胆な筈だが、逃げる事も兎より上手だなあ。」
 わたくしの隣には、一本の木の幹を楯に取つて、ダルジンがゐて、それがかう云ひました。「おい。ワシリ。なんだかあの裁判所長の声は聞き覚えがあるやうだな。」
「しつ。待て待て。人数が少いぜ。」
 かう云つてゐる内に、船から来た連中の一人が前へ出てかう言ふのです。「おい、こはがるには及ばない。お前方だつて、この土地の監獄で、知つてゐる役人が一人位あるだらう。」
 わたくし共は黙つてゐました。
 その男が又かう云ひました。「なぜ返事をしないのだ。この土地の役人で、お前方が名を知つてゐるのがあるなら云つて見ろ。さうしたら、己達の事が分かるかも知れないから。」
 わたくしが云ひました。「知つてゐても知らなくても、そんな事はどうでも好いが、己達の為めばかりではない。お前方もこゝで出つ食はしたのは不運だ。己達は息のある間は降参はしないぞ。」
 わたくしはかう云つて置いて、同志の者に用意をしろといふ相図をしました。相手は五人で、こつちは十一人だ。どうぞ銃を打たないでくれゝば好いが、銃の音がし出しては、町で聞き附けずにはゐないだらう。兎も角ももう駄目かも知れない。併し素直には押へられたくないものだと思つてゐました。
 その時さつきの男が、老人らしい声でかう云ひました。「おい。子供達。お前方の内に一人位サマロフを知つてゐる奴があるだらう。」
 隣にゐたダルジンが肱でわたくしをつゝきました。「本当らしいぞ。監獄長のサマロフさんだ。」かう云つて置いて、大きな声を出して、「旦那、若しダルジンを覚えてお出なさいますか」と云ひました。
「ダルジンを知らんでなるものか。己の監獄で組長をしてゐたぢやないか。フエドトといつたつけな。」
「さやうでございます。さあ/\、みんな出て来い。難有い旦那がお出になつた。」
 この声を聞いて同志の者は皆出て来ました。
 その時ダルジンがサマロフさんに言ひました。「旦那。あなたがわたくし共を掴まへにお出でなさらうとは、思ひも寄りませんでした。」
「馬鹿な奴だなあ。己はお前方があんまり気の毒だから、わざ/\出て来たのだ。町の直ぐ前で、火を焚くなんて、お前方は気でも違ひはしないか。」
「雨で濡れたものですから。」
「なんだ。雨で濡れたと、それでお前方は流浪人だといふのかい。大方雨に濡れたら、砂糖のやうにけてしまふだらう。併し運の好い奴等だ。裁判所長の見付けない内に、己が煙草をみに内の石段の上に出て来たから、助かつたのだ。若し裁判所長があの火を見付けようものなら、それはお前方を着物の好く乾くやうな所へ入れて遣る所だつた。やれ/\。お前方はサルタノフの首を斬つたといふ事だが、余り智慧は無いと見えるな。早く火を綺麗に消して、河の側を離れて、谷の深い所へもぐつてしまへ。あの奥の方なら、十個処へ火を焚いても、どこからも見えはしない。」
 こんな風に口汚なく言はれながら、わたくし共は爺いさんを取り巻いて立つてゐて、皆揃つて笑つてゐました。
 爺いさんは小言を言ひ止めて、かう云ひました。「己はそこのボオトの中に、パンや茶を入れて来た。どうぞこれから先も、サマロフの事を悪く思はないでくれ。若しお前方が旨くこの土地を逃げおほせて、誰か一人トボルスクへ行つたものがあつたら、あそこの寺に、己の守本尊があるから、蝋燭を一本上げてくれ、己は女房の持つて来た地面と家とがこの土地にあるから、多分こゝで死ぬるだらう。それに大ぶもう年を取つてゐる。それでも故郷の事は折々思ひ出すよ。さあ/\、これで好い。もうお別れにしよう。ところでまだ一つお前方に言つて置く事がある。そろ/\お前方は別れ/\になるが好いぜ。一体何人ゐるのだい。」
「十一人ゐます。」
「やれ/\、馬鹿な奴等だな。イルクツクではお前方の評判ばかりしてゐる。それに皆固まつて歩いてゐるのかい。」
 爺いさんはボオトに乗つて帰つて行きました。
 わたくし共は谷の奥に引つ込んで、茶や汁を煮直して食べて、食料を頭割に分けて、爺いさんの教へた通りに、別れる事にしました。
 わたくしはダルジンと一しよに行く。マカロフとチエルケス人、それから韃靼人と外二人と、それから残つた三人と、かういふ組に別れたのです。
 それから大ぶ久しくなりますが、外の連中にはその後逢ひません。誰が生きてゐるか、誰が死んでしまつたか、知りません。後になつてから韃靼人もこの土地へ来た事があるといふ事を聞きましたが、本当だかどうだか知りません。
 わたくし共はその夜の内にこつそりニコラエウスクの側を通り抜けてしまひました。只或る家の犬が一度吠えたばかりでした。
 翌朝日の出た頃には、もう森の中を十ヱルストも歩いて、街道の近くに出てゐました。
 その時突然鈴の音がしたので、わたくし共二人は木立の蔭に隠れて見てゐると、三頭立の馬車が通ります。それに乗つて、外套を体に巻いて眠つてゐたのが、ニコラエウスクの裁判所長でした。
 それを見てわたくしとダルジンとは、「やれ/\、難有い事だつた、あいつがゆうべ帰つてゐたら掴まへに来ずには置かなかつただらう」と云つて、十字を切りました。」

     九

 煖炉の火は消えた。併しこの時は天幕の中は殆ど煖炉の中のやうに暖かになつてゐた。窓の氷が解け始めてゐる。それを見ると、外の寒気の薄らいだのが分かる。なぜといふに寒の強い時は、天幕の中はどんなに温めても、窓の氷の解ける事はないのである。そこで我々は煖炉に薪をくべる事を止めた。それから己は例の煙突の中蓋を締めに出た。
 霧は実際全く晴れてしまつてゐる。空気が透明になつて、少し寒さが薄らいだらしい。北の方を見ると黒く見える森に包まれてゐる岡の頂の背後うしろに、白い、鈍く光る雲が出て、それが早く空に拡がつて行く。その様子は、巨人が深い溜息を衝いて、その大きな胸から出た息が、音もなく空に立ち昇つて、拡がつて消えるのかと思はれる。極光が弱く光つてゐる。
 己は悲しいやうな感じの出て来るのに身を任せて、屋根の上に立つてゐる。己の目は物案じをしながら遠方を見廻してゐる。夜が偉大な、冷かな美しさを以つて大地を一面に覆つてゐる。空には星がまばたきをしてゐる。平な雪の表面が際限もなく拡がつてゐる。そして地平線には、暗い森がそばだち、遠い山の頂が突出してゐる。この寒さと闇と沈黙との全幅の画図が己の胸へ悲哀と係恋あこがれとを吹き込むのである。
 天幕へ帰つて見ると、ワシリはもう寝てゐた。そのゆるやかな、静かな、平等な呼吸の音が、一間の沈黙を破つてゐるだけである。
 己も床の上に横になつた。併し今まで聞いた物語の印象が消えないので、久しく寐付く事が出来なかつた。
 何遍か己は寐入りさうになつたが、眠つてゐるワシリが寝返りをしたり、何か分からぬ囈語ねごとを言ふのに妨げられた。この男の低い、鈍い、小言を言ふやうなバスの音がたび/\己を驚かして、己に今まで聞いたオヂツセエめいた話の節々を思ひ出させるのである。譬ば己は頭の上で森の木の葉がそよいでゐるかと思つたり、又は岩端から見下して、谷間に布いてある警戒線を見るかと思つたりする。その警戒線の兵営の上が己の目の下で、大きな鷲がゆつくりと輪をかいて舞つてゐたり何かする。
 想像は己を乗せて、狭い天幕の絶望的な闇から逃れ出て、遠く/\走つて行く。障礙のない所を吹く風が、己の頭の周囲まはりに戦いでゐる。耳には大洋の怒つて叫ぶ旋律が聞える。日が沈んで身の周囲は闇になつて、乗つてゐる船が海の大波にゆるやかに揺られる。
 これは己の血が、流浪人の物語を聞いた為めに、湧き立つたのである。己はこんな事を思つた。若しあれだけの事を、牢屋の中に閉ぢ込められてゐる囚人に聞かせたらどうだらうといふのである。己は自分に問うて見る。一体あの話が己にどんな感動を与へたかといふに、己は脱獄の困難や、逃亡者の受けた辛苦と危険とや、流浪人の感ずるといふ、癒やす事の出来ない、陰気な係恋に刺戟せられたのではない。己は只自由といふものゝ詩趣を感じたのである。これはなぜだらう。又今も海や森や、野原が慕はしい、自由が慕はしいと、切に感じてゐるのはなぜだらう。己でさへ海や、森や、野原に呼ばれ、際限のない遠さに誘はれるのであるから、そのやす事の出来ない、窮極のない係恋の盃に唇を当てた事のある流浪人が、どんな感じをするかといふのは、想像し易い事ではないか。
 ワシリは眠つてゐる。併し己は色々な事を思ふので、眠る事が出来ない。この時己は、ワシリといふ人間が、所謂いはゆる親の言ふ事を聞かなくなつた後に、どんな事をして牢屋に入れられ、苦役をしたのだらうかといふやうな問題を、まるで忘れてゐた。己の目に映じたワシリは只青年の血気、余ある力量に駆られて自由を求めようとして走つた人間である。併しどこへ向いて走つたのだらう。
 あゝ。どこへ向いて走つたのだらう。
 この時ワシリは囈語ねごとに何か囁いた。それが己には溜息のやうに聞えた。そしてあれは誰の事を思つてゐるのだらうかと想像した。己は解く事の出来ない謎を解かうとして、深い物思に沈んだのである。己の頭の上には、暗黒な夢の影が漂つてゐる。
 日は入つた。大地は偉大に、不可測に、悲みを帯びて、物思に沈んでゐる。その上に一団の雲が重げに、黙つて懸かつてゐる。只遠い地平線のあたりには空の狭い一帯が、黄昏たそがれの消え掛かる薄明りに光つてゐる。それから向うの遠い山のずつと先から火が一つ瞬きをしてゐる。あれはなんだらう。うに棄てゝ出た故郷の親の家の明りであらうか。己達を、闇の中で待ち受けてゐる墓の鬼火であらうか。
 己は遅くなつてから寐入つた。

     十

 己の目の醒めたのは、おほよそ十一時頃であつたらしい。氷つた窓硝子まどガラスから、やつと這入つた、斜な日の光が、天幕の中のゆかの上に閃いてゐる。もうワシリは天幕の中にゐなかつた。
 己は用があつて村へ行かなくてはならぬ日であつた。そこで橇に馬を附けて乗つて、門を出て村の街道を進んで行つた。
 空は晴れて、気候が割合に暖かである。総て世の中の事は、比較で言ふのである。暖かいと云つても、零下二十度位であつただらう。余所よその国なら、極寒の時稀に見る寒気だが、この土地ではこれが最初の春の音信おとづれである。この土地の極寒には、民家の煙突から立ち昇る煙が、皆蝋燭を立てたやうに真つ直ぐになつてゐるのであるが、けふは少し西へ靡いてゐる。大洋から暖気を持つて来る東風こちが吹いてゐるのだらう。
 この部落に住んでゐる人民の半数は、流罪になつて来た韃靼人である。けふはそれが祭をする日なので、往来が中々賑はつてゐる。そここゝで、人家の門がきしめきながら開かれる。そして中から橇や馬が出て来る。その上には酒に酔つた男が体をぐら付かせて乗つてゐる。モハメツト教徒は余りコオランの経文にある戒律なぞには頓着しない。馬に乗つてゐるものも、道を歩いてゐるものも、妙な稲妻形に歩くのである。どうかすると馬が物に驚いて横飛びをして、橇を引つ繰り返す。そしてその馬は往来を走つて逃げようとする。はふり出されて、雪の中を引き摩られてゐる乗手は、力一ぱいに手綱を控へて、体の周囲まはりの雪を雲のやうに立てゝゐる。馬を駐める事が出来なかつたり、橇から投げ出されたりする事は、殊に酒に酔つた場合には、誰にもあり勝ちの事である。併しさういふむづかしい場合にも、手から手綱を放しては、韃靼人の恥辱になるさうである。
 おや。あそこの真つ直ぐな町の脇に、変つた賑ひがあるぞ。馬に乗つてゐるものが脇へ避ける。歩いてゐるものが矢張り避ける。赤い着物を着て化粧をした韃靼人の女が、往来に出てゐる子供を中庭へ追ひ込む。天幕の中から物見高い奴等が顔を出す。そして誰も彼も、一つ方角を見詰めてゐる。
 長い町の向うの端に、今丁度一群の騎者が現はれた。それが韃靼人やヤクツク人の間で大層流行つてゐる競馬だといふ事は、己には直ぐに知れた。騎者は凡六人位である。旋風つむじかぜのやうに駆けて来る。その群が近づいたのを見ると、どれよりもぬきんでゝ、真つ先を駆けてゐるのは、きのふワシリが乗つて来た鼠色の馬である。一歩毎にその馬と外の馬との距離が遠くなる。一分間の後には、もう一群は己の目の前を通り過ぎてしまつた。
 見物してゐた韃靼人の目は皆輝いてゐる。逆上とねたみとの為めである。
 騎者は皆馬を走らせながら、手足を動かして、体をずつと背後うしろへ反らせて、大声でどなつてゐる。只一人ワシリだけはロシア風に乗つてゐる。体を前に屈めて、馬の頸を抱くやうにして、折々短い、鋭い、口笛を吹くやうな声を出す。それが馬には鞭で打たれるやうに利くのである。鼠色の馬は脚が殆ど地を踏まないやうに早く駆けて行く。
 見物人の同情は、矢張り例の如く勝手かちての上に集まつてゐる。
えらい奴だ」と大勢が叫ぶ。競馬好に極まつてゐる、長年馬盗坊うまどろばうをして来た、この男達は馬の蹄で地を踏む拍子を真似て、平手で腰をはたいてゐる。
 ワシリは全身に泡をかぶつた馬に乗つて、帰つて来る途中で、己の側へ来た。負けた騎者はまだずつと跡になつて付いて来る。
 ワシリの顔は青くなつて目はのぼせたやうに光つてゐる。もう飲んでゐるなと、己は思つた。果してワシリは通過ぎながら、体を背後へ反らせて、帽を脱いで礼をして、己に言つた。「飲みましたよ。」
「それは勝手さ」と己は云つた。
「なに、構ひません。おこつては厭ですよ。酒は飲みますが、決して酔ひはしません。あなたに頼んで置きますがね、お内に預けてある袋を誰にも渡さずに置いて下さい。わたくしが自分で行つて、渡して下さいと云つても、渡しては行けませんよ。分かりましたか。」
 己は冷淡に答へた。「分かつた。だがね、酒に酔つて己の天幕へ来るのは御免だよ。」
「行きはしません」と云ひながら、ワシリは馬に一鞭当てた。馬は鼻を鳴らして前を挙げて駆け出したが、まだ三間も行かない内に、ワシリは又馬を控へて、己の方へ向いた。「好い馬ですよ。大した金になります。わたくしは賭をしてゐます。この駆ける所を見て下さい。これで韃靼人に売れば、直段ねだんはわたくしのいふ通りになります。韃靼人といふ奴は、馬の好いのを、命よりも大切にしますからね。」
「なぜ売るのだね。売つてしまつて、これから先どうする。」
「売らなくてはならないから売ります。」ワシリは又一鞭当てた。併し又手綱を控へた。
「実はわたくしは、この村で知人しりびとに逢つたのです。もう何もかも棄てゝしまひます。御覧なさい。あの青に乗つてゐる韃靼人がそです。『おい/\。アハメツトや。ちよつと来い』。」
 我々の背後うしろから付いて来た、青毛のすらりとした小馬に乗つた男が、己の橇の側へ駆け寄つて、帽を脱いで礼をして、微笑んだ。己も物珍らしく思つて、その韃靼人の顔を見た。
 アハメツトの狡猾らしい顔は相好を崩して笑つてゐる。小さい目が面白げに、横着らしく、又親しげに相手の顔を見詰めてゐる。その見方は詞で言つたら、「分かるでせう、無論わたくしは横着者です、併し横着者でなくては駄目ですね」とでも云つたら好からうと思はれる。
 この幅の広い骨々しい顔、この目の周囲の面白げな皺、この横へ出張つた、薄い耳を見ては、相手も笑はずにゐられない。
 アハメツトは相手が自分を理解してくれたと信じたらしく、満足げに頷いた。そしてワシリを指さして云つた。「友達です。一しよに流浪して歩いたものですよ。」
「今どこにゐるのだね。この土地では見掛けないやうだが。」
「わたくしはこの土地へ旅行券を取りに来ました。鉱山のある土地へ行つて、焼酎を売るのです。」
 鉱山で焼酎を売る事は、ロシアでは厳禁してある。掴まへられゝば、懲役になる。こつそり持ち込む道も危ない。道に迷つて飢ゑ死んだり、カサアキ兵の弾丸たまを食つたり、競争者のナイフで刺されたりする。その代り旨く持ち込めば、同じ目方の金貨とでも替へられる。鉱山で焼酎を売るのは、金を掘るより儲が大きいのである。
 己はワシリの顔を見た。ワシリは俯向いて手綱をいぢつたが、直ぐに又頭を挙げて、火のやうに赫く目をして、戦を挑むやうに己の顔を見た。堅く結んでゐる口の下唇がぴく/\してゐる。
「わたくしはこいつと一しよに森へ行きます。そんな顔をしてわたくしを見なくても好いぢやありませんか。どうせわたくしは流浪人だから、流浪人で果てますよ。」
 最後の詞は、もう馬を飛ばせて、雪を雲のやうに蹴立てながら言つたのである。
 一年程立つてから、己は又村でアハメツトに逢つた。又旅行券を取りに戻つたのである。
 ワシリは又と戻らなかつた。





底本:「鴎外選集 第15巻」岩波書店
   1980(昭和55)年1月22日第1刷発行
初出:「文藝倶楽部 十八ノ一」
   1912(明治45)年1月1日
※底本は本作品の翻訳原本として、ドイツ語版の「SIBIRISCHE NOVELLEN」を、ドイツ語による表題として「DIE FL※(ダイエレシス付きU)CHTLINGE VON SACHALIN.」を掲げています。
入力:tatsuki
校正:しず
2004年10月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について