永遠の夫

ドストエーフスキイ

神西清訳




一 ヴェリチャーニノフ


 夏が來たというのに、ヴェリチャーニノフは案に相違して、ペテルブルグに踏みとどまることになった。南ロシヤの旅行もおじゃんになったばかりか、事件はいつ片づくとも見えない始末だった。事件というのは領地に關する訴訟だったが、風向きはすこぶる思わしくなかった。つい三月ほど前までは、とても單純で、ほとんど議論の餘地もないものに見えていたのだったが、どうかした拍子にがらりと雲行きが變ってしまったのである。
『おまけにどうも、何もかも惡いほうへ變りだしやがって!』
 とそんな文句を、ヴェリチャーニノフはさも忌々しそうに、よく獨り言にくり返すようになった。彼は腕利きの、報酬の高い、有名な辯護士をやとって、費用の點は少しも惜しまなかった。それでも、やはりもどかしく、信用の置けない氣持がして、自分までが事件に首をつっこむようになった。つまり書類を讀む、自分でも書く、そして大抵は辯護士の手で屑籠へ捨てられる。また裁判所から裁判所へ駈けずり※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ってみたり、調査をしてみたりするのだったが、おそらくこれが、よほど事件の運びの邪魔になったのである。少なくも辯護士は苦情を鳴らして、彼を別莊へ敬遠しようとした。ところが彼のほうでは、別莊へ行くだけの決心さえつき兼ねたのである。ほこりっぽさ、蒸暑さ、神經をいらだたせるあのペテルブルグの白夜、――そうしたものを、彼はペテルブルグで滿喫していたわけなのだ。彼のアパートは大劇場ボリショイ・テアートルの近所にあって、ついこのあいだ借りたばかりだったが、これも同じく失敗だった。まったく彼の言い草じゃないが、『何もかも巧く行かん!』なのである。彼のヒポコンデリーは、日ましにひどくなるばかりだった。とはいえこのヒポコンデリーの兆候は、だいぶ前からあるにはあったのである。
 彼は世間をひろく渡って、いろいろなことを見てきた男である。もはや決して若いとはいえぬ、三十八か、ひょっとしたら九にもなろうという年配だが、そもそもこの『老年』という奴は、彼自身の言い草によると、『まるで拔き打ちに』彼を襲ったのだった。しかも彼自身の解するところにしたがえば、彼が老いこんだのは年齡の量によるというよりは、むしろ言ってみればその質によるものなので、もしすでに老衰がはじまっているものとすれば、それは外部からよりも却って内部からなのであった。うち見たところ、彼は今なお血氣壯んであった。背の高い、堂々たる恰幅の男で、髮の毛は淡色で房々していて、頭の毛にも、またほとんど胸の半ばにとどきそうな亞麻色の長い髯にも、白毛なんぞはただの一筋だってなかった。ちょいと見ると、どこか少し間のびのした、だらしない男に見える。だが、もっと眼をこらして眺めると、諸君はたちどころに、昔は最高の上流社會の子弟として教育を受けたことのある、育ちのいい一人の紳士を、彼のうちに見いだされるだろう。わざと氣むずかしげな、のろくさした態度を身につけてはいたものの、彼の物腰はいまだに濶達で、きびきびしているばかりか、優美でさえあった。そして、今になってもまだ彼は、非常に根づよい、上流社會によく見られる例の不遜なまでの自負心に滿ちていたが、その程度たるや、單に賢明なだけではなく時としては俊敏ですらあり、まず申しぶんない教養と、疑うべからざる才能とを具えているさすがの彼にしても、自身まさかそれほどだとは思っていなかったに相違ない。さばさばして、ほんのりと紅味のさした顏の色つやは、そのむかしは女のような優しさをたたえて、婦人れんの目を引いたものだったが、今でもやっぱり彼を一目見て、『なんて健康そうな人だろう、櫻色とはこのことだ!』と言う人もある。とはいえ、この『健康そうな』せっかくの男ぶりも、ヒポコンデリーのため散々に害なわれていた。ぱっちりした眼は空色をしていて、十年ほど前には、やはりすこぶる魅力があった。それはじつに明るい、じつに愉しげな、苦勞のなさそうな眼で、出會いがしらに誰でも、思わず知らず引き入れられてしまうほどだった。それが、やがて四十の聲を聞こうという今日になっては、すでに小皺に圍まれているその眼に、明るさも善良な色もほとんど消え失せてしまったばかりか、逆にあまり品行の芳ばしからぬ消耗した人間によく見られる冷笑癖や狡猾さが、あらわれていた。なかでも一ばん頻繁にあらわれるのは嘲笑の色であり、そのうえ以前にはなかった新らしい陰影までが添わってきた。それは悲哀と苦痛の影――そこはかとないようでいて、そのじつははげしい、一種放心したような悲哀の影であった。一人でいるような時には、とりわけこの悲哀が色濃くあらわれた。そしてこれは妙な話だが、つい二年ほど前までは騷々しくって陽氣で浮き浮きした性質で、おどけた話をするのがあんなに得意だったこの男が、今ではまったくの孤獨ほどに好きなものはないのであった。彼は大ぜいの知人をわざわざ振り捨てた。それは、自分の財政状態がめちゃめちゃになってしまった今日なお、決して振り捨てるには及ばない人たちだった。もっともそれは、虚榮心も手傳ったので、つまり彼のような猜疑心も深く虚榮心も強い男は、今までの知人たちとつき合っては行けなかったのである。しかもまたこの虚榮心までが、孤獨な生活のなかで次第に形を變えだしていた。それは弱まるどころか、却って逆ですらあったが、とにかくそれは、むかしは見られなかった一種特別な虚榮心に變化しはじめたのである。というのはつまり、彼の虚榮心は時おり、從來よくあった動機とはまったく打って變った動機のために、傷つけられだしたのである。――それは意想外な、むかしなら夢にも思いよらなかったような動機、今までのにくらべれば『一そう高尚な』動機であった。『ただし、もしそう言えるならばさ。もし本當に、高尚な動機とか低級な動機とかいうものが、あるならばさ……。』これは彼自身の付け加えた言葉である。
 じつに彼は、そこまで行き着いてしまったのである。むかしなら氣にもかけなかったに相違ない何ものか高尚な動機と、今では鬪っているのである。彼は(われながら意外千萬にも)、内心どうしても笑い飛ばしてしまえぬ『動機』は一切、自分の意識と良心の聲にしたがって、高尚な動機と名づけていた。内心笑い飛ばせないなどということは、いまだ曾てなかったことなのである。ただし言うまでもなく、それは内心での話なので、人なかになると話はぜんぜん別である。彼は自分でよく心得ていた――然るべき事態に立ち到りさえすれば、あすの日にも彼は、みずからの良心の神祕的かつ敬虔な判斷をあえて無視して、大ぴらに、しかも極めて平然と、それら一切の『高尚な動機』などというものの存在を否定するだろうし、また自分が先頭に立って、もちろん身に覺えがあるなどという素振りは鵜の毛ほども見せずに、それらの動機を笑い飛ばすであろうことを。そして、これまで彼を支配していた『いろんな低級な動機』を克服して、彼は近ごろではある程度の、いや、むしろすこぶる著しいほどの思想の獨自性をかちえていたにもかかわらず、實状はまさに右に述べたとおりだったのだ。それに實際、朝の寢床を起き出ながら彼が、その夜の不眠のあいだに訪れたわれとわが思念や感情を、恥かしく思いはじめたことも幾度だったか知れたものではないのである。(ときに彼は、このごろはずっと不眠症に惱んでいた。)自分が、大切なことにも些細なことにも、一切について極度に猜疑深くなってきたことは、彼ももうよほど以前から氣がついていて、だからできるだけ自分を信用せずにいるに限る、と思っていた。がしかし、もはやどうしても實在するものと認めないわけには行かない事實が、生じつつあった。最近では時とすると夜ふけに、彼の思念や感覺が平生にくらべてほとんど一變してしまうことがあるし、しかもその大部分は、その日の前半に彼を訪れていたものとは、似てもつかぬものであった。これには彼もギョッとして、かねて知合いの仲ではあったが、とにかく有名なある醫者に、相談をもちかけたことさえあった。もちろん冗談にまぎらして口を切ったのである。ところが相手の返事はこうだった――夜間不眠の際とか、または一般に夜間に、思念や感覺が變化をきたすという事實、さらには二つに分裂をさえきたすという事實は、『はげしく物を考えたり激しく物を感じたりする』人々にあっては、ひろく認められる事實である。一生がい變らずにきた信念でさえ、夜陰と不眠のメランコリックな影響のもとでは、時として急變をきたす例もある。つまり突如として、わけもいわれもなしに、最も致命的な決斷をとってしまうのである。しかし言うまでもなく、これはすべてある程度にとどまるものであるけれど、もし本人が自己の分裂を感じる度合いが過度になっており、ために苦痛を覺えるまでに至っているとすれば、それはもはや疾病の域に進みつつある立派な兆候なのであるから、ただちに何らかの方法を講じなければならない。最もいい方法は生活を根本から變えること、食餌を變えること、またはいっそのこと旅行に出ることである。下劑もむろん有效である、云々。
 ヴェリチャーニノフは、その先の言葉には耳を借そうともしなかった。もうそれだけで、自分が病氣だということは、完全に證據だてられたのである。
「してみると、あれはみんな病氣なのだ。あの『高尚な』動機という奴は、みんなただの病氣に過ぎないんだ!」
 と、彼は時おり獨りごとに、さも忌々しげに叫ぶのであった。そんな考えを受け入れることは、じつにやりきれない思いだった。
 ところが間もなく、これまで夜のまに限っておこったのと同じことが、朝になってからもくり返されるようになった。違う點といえば、夜よりも苦痛の度合いが強いこと、そして悔恨の代りに怨恨を、感動の代りに嘲笑を伴なっていることである。實際のところそれは、日とともにますます頻繁に、しかも『不意に、なんの理由もなしに』彼の記憶にのぼりはじめた彼の過去の、それも遠い遠い過去の生活の、さまざまな出來ごとなのであったが、それが一種特別の形をとってあらわれだしたのだ。例えばヴェリチャーニノフはもうよほど以前から、物おぼえの惡くなったことを歎いていた。彼は知人たちの顏を見忘れて、そのため途で行きあった彼らの感情を害するのだった。つい半年前に讀んだ本でさえ、近ごろでは、何が書いてあったかすっかり忘れていることもあった。それなのに、一體どうしたことだろう?――この打ち消すべからざる、日ましにはげしくなるこの物覺えの惡さ(それを彼はひどく氣に病んでいた――)にもかかわらず、遠い過去にぞくする一切のこと、十年十五年とたって、今では忘れ果てている一切のことが、今ごろになって突然記憶にのぼることがあるというのは! それも巨細にわたってなまなましい印象を伴ない、じつに驚くばかりの精確さをもってあらわれるので、まるでもう一度現實に體驗している思いがするのである。想いおこされた事實のなかには、それが想いおこされたということ自體がすでに奇蹟としか思えぬほどに、きれいに忘れていたものもあった。だが、じつはそれだけの話ではないのである。そもそも世間をひろく渡って來た人で、その人なりの思い出がないなどということは、あろうはずがない。ただここで大切なのは、そういう思い出のすべてが、まるで何者かの手によって前もって料理されでもしたように、事實ファクトに對するまったく新しい、意想外な、そして何よりもまず、まるっきり夢想も及ばぬような見方でもって、現在に立ち返って來たことである。思い出のうちのある種のものが、今では彼の目に、純然たる犯罪のように映るのはなぜだろうか? しかもそれは、彼の智力がくだす判斷だけの問題ではないのだ。なぜなら、自分の陰氣で孤獨で、おまけに病的な智力なんか、彼は信じないでもいられたであろうから。しかも事態は、彼をして呪いの聲を發せしめるまでに進んでいた。ほとんど涙を――よしんば外にあらわれる涙でないまでも、少なくも内心の涙を、さそうまでになった。實際にこれがつい二年前なら、お前はそのうちに涙を流すぞ、などと人に言われたにしても、まに受けはしなかったに相違ない。それはそうと最初のうちは、甘い思い出よりは苦がい思い出のほうが、よく思い出されるのだった。社交上のいろんな失敗や無念さが、思いおこされた。例えば彼が『ある陰謀家に中傷され』て、その結果ある家へ出入りを差しとめられたこと、――また例えば、これはそう古い話ではないが、公衆の面前で完膚ないまでに侮辱されたにもかかわらず、とうとう決鬪を申込まずにしまったこと、――また、非常な美人が集まっている席上で、辛辣きわまる厭がらせを言われながら、なんの應答もできなかったこと、――そんなことが思い出された。また、二つ三つ借りっぱなしになっている借金のことも思い出された。それはいずれも取るに足らぬ金高にはちがいなかったが、とにかく紳士どうしの借金であり、かてて加えてその相手は、こっちからすでに絶交していて、惡口を言いふらしている人たちなのであった。じつに馬鹿げたことで蕩盡してしまった二つの財産――それは二つとも相當なものだった――のことも思い出されて、やはり彼を苦しめた(もっともこれは、よほど癇のたかぶったときに限っていたが)。しかし、そうこうするうちに、『高尚な』ほうのことも思い出されはじめた。
 一例をあげると、突然、それこそ『わけもいわれもなし』に、忘れていたどころかきれいさっぱり忘れていたあるお人好しの老官吏の面影が、念頭によみがえって來たりした。それは、ごましお頭をした馬鹿げた男だったが、彼はいつだったか遠いむかしのこと、衆人環視のなかでその男を侮辱し、しかも何一つ返報を受けずに濟んだことがあったのだ。事のおこりは、ただ空いばりがしてみたかっただけのことで、つまりせっかく浮かんだある滑稽な巧い洒落を、無駄にするに忍びなかっただけの話である。もっともその洒落は、大いに彼の男ぶりを上げ、人々の口から口へ、くり返されたものだった。この一件はすっかり忘れていたので、そのいきさつが殘らず、不思議なほどはっきりと、すぐさま腦裡に浮かび出ながら、くだんの老人の苗字さえ思い出せない始末だった。彼はその老人が、嫁入りざかりの歳を過ぎてまだ自分と一緒に暮らしていて、そろそろ市中に何かと噂の立ちはじめていた娘のことをその時、しきりに辯解していたのを、ありありと思い出した。老人はいきりたって抗辯しだしたが、そのうち急に公衆の面前でおいおい泣きだしたものだから、一座は幾らかしんみりしたほどだった。とどのつまり一同は、冗談はんぶん老人を三鞭酒シャンパンで醉いつぶして、げらげら笑いころげて、それでお仕舞いになった。そして今、『わけもいわれもなしに』ヴェリチャーニノフが、その爺さんが赤ん坊のように兩手を顏に押し當てて、おいおい泣きだした姿を思い出した時、突然彼には、まるで自分がついぞあのことを忘れたことなど、ありはしなかったような氣がしたのである。おまけに奇妙なことには、あの時は一部始終がすこぶる滑稽なような氣がしていたのに、今ではまるで反對で、とりわけそのこまかな點、つまり兩手で顏を蔽ったことなどは、滑稽どころの騷ぎではないと思われるのだった。それからまた彼は、ほんの冗談口に、ある小學教員のすこぶる美しい細君の惡口を言い、しかもその惡口が當の夫の耳にはいったことを思い出した。ヴェリチャーニノフは間もなくその町を去ったので、彼の惡口がどういう結末を告げたかは知らなかったが、今になって彼はいきなり、あれは一體どんな結果になったろうかと、想像しはじめたのである。――そしてもしその時突然、ある少女についての、ずっと近ごろの思い出が浮かんでこなかったら、彼の想像はどこまで擴がって行ったかわかったものではなかった。それは賤しい町人の娘で、彼のほうでは別に好きだったわけでもなく、また正直のところ、そんな女と關係をつけたことを恥じ入ってさえいたものだが、にもかかわらず、われながら有耶無耶のうちにその女に子供を生ませ、その擧句あっさり赤ん坊もろとも振り捨ててしまったのだった。ペテルブルグを去る時にも、別れの言葉さえ交わさなかった始末である(もっとも、その時間もなかったのだけれど)。この娘のことは、その後になってまる一年もかかって尋ねてみたが、もうその時はなんとしても搜し出せなかった。それはそうと、こうした種類の思い出は、幾百となく浮かびあがってくるのだったし、おまけに一つ一つの思い出が、その後ろに何十という別の思い出を曳きずってくる體たらくだった。そのうちだんだん、彼の虚榮心もちくちく痛みだして來た。
 彼の虚榮心が、ある特別な形に變化していたことは、前にも一言しておいた。これは本當のはなしだったのである。どうかするとちょいちょい(もっともこれは、たまのことだったが――)彼はひどい自己忘却に陷ることがあって、自家用の馬車のないことも、てくで裁判所から裁判所へ歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)っていることも、身なりがいささかだらしなくなっていることも、一向恥かしく思わないほどだった。――そしてそうした場合、昔なじみの誰かが往來で彼に嘲けりの視線をくれようが、あるいはわざと知らんふりをしようが、彼は實際のところ、厭な顏一つしないで濟ませるだけの氣位は具えていたはずだ。この平氣な顏は、まさに本心から出たもので、必らずしも見得や外聞だけのものではなかったのである。言うまでもなく、そんなことはたまにしかないことだった。つまりそれは、自己忘却と興奮の刹那だけのことではあったが、とにかく彼の虚榮心は、次第に今までの普通だった動機から遠ざかって、絶えず彼の心に浮かんでくるある問題の周りに、集中しはじめたのである。
『どうやら、こりゃあ』と、彼は時どき自嘲的な調子で考えはじめるのだった(一體彼は、自分のことを考える際には、ほとんど常に自嘲的な調子でやりはじめる男だったが)、『どうやらこりゃあ、誰かしら俺の行状を叩き直してやろうとお節介を燒く奴があって、さてこそこんな厭らしい思い出だの、「悔恨の涙」だのを差し向けてくると見えるわい。どっこい、そうは問屋が卸さんぞ! 所詮は空彈でぽんぽんやるようなものさ! そもそも俺は先刻承知なんだ。承知どころか知り拔いているんだ。そんな悔恨の涙をいくら流したところで、そんな自己譴責をいくらやったところで、馬鹿げた四十づらをさげながら、この俺にゃ一家の見識なんていうものは、雀の涙ほどもありはせんのだ! 論より證據、あすの日にも何か誘惑がやって來てみろ。そうさな、例えばまたしてもあの教師の細君が俺の贈物を受けたという噂を、弘めるのが俺にとって好都合だといった場合が、生じたとして見ろ、――てっきり俺は、そいつを弘めるにきまってるさ、けろりとしてな。――おまけに事は今度が初めてじゃなくて、二度目なんだから、初めての時より一段と醜惡で厭らしいものになるだろう。それともまた、あの公爵の小倅が今ここへ出てきて、もう一ぺんこの俺を侮辱して見ろ。あいつは母ひとり子ひとりの大事な息子で、十一年前にこの俺がずどんと一發、片脚折っぺしょってやった奴だが、――俺は即刻奴に決鬪を申込んで、もう一ぺん松葉杖の厄介にならせてやる。要するに空彈に過ぎんのだ。なんの足しにもなりはせんのだ。第一、自己を脱却するすべときたら、爪の先ほどの心得もないこの俺が、むかしのことを思い出したところでなんになるものか!』
 さて、教師の細君との悶着は二度とくり返されず、誰ひとり松葉杖の厄介になるような目には逢わされなかったけれど、唯もしそうした羽目に立ち到ったら、てっきりそうした騷動が再演されずに濟むものじゃないという考え一つが、ほとんど死なんばかりの苦痛を彼に與えるのだった。……時たまではあったけれど。だが實際のところ、人間のべつ幕なしに、くよくよしてばかりもいられないものである。幕あいには、一服やりに、ぶらぶらしても差支えないわけだ。
 じつのところ、ヴェリチャーニノフもよくそれをやった。つまり彼は、幕あいの漫歩を試みる氣ではいたのだが、にもかかわらずペテルブルグの彼の生活は、時とともにますます面白くなくなるばかりだった。とうとう、七月も間ぢかになってしまった。時どき彼の頭には、何もかも、例の訴訟までもほっぽり出して、行き當りばったりにどこかへ、それも出し拔けに、思いもかけずといったあんばい式で、例えばいっそクリミヤへでも遠走ってしまえという決意が、ひらめくことがあった。だが大抵は一時間もすると、もう彼はその考えを輕蔑して、まずこういった嘲笑を吐きかけるのが常だった。――『この厭らしい想念ときたら、一度はじまったら最後、またこの俺に些かなりと人格というものがある以上、どんな南へ逃げ出したところで、金輪際やまるものじゃないんだ。だからつまり、そんな想念から逃げ出すには當らんし、また第一そうする理由もありはしないんだ。』
『それにまた、逃げ出してどうしようって言うんだ』と、彼はやけくそで理窟をこねつづけた、『なるほどこの町はすこぶるほこりっぽい、蒸暑い。おまけにこの宿ときたら、何から何までえらく薄ぎたない。また、いろんな用件で眼の色を變えている連中にまじって、俺がうろつき※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)る裁判所ときたら――それこそ二十日鼠みたいなせわしなさ、古着市場へでも行ったような騷ぎだ。どこへも出かけずに、この町に居殘っている連中、朝から晩まで鼻先をちらちらしている奴らの顏という顏には、――奴らの利己心だの、惡氣のない無自覺な鐵面皮さだの、おっかなびっくりな小心さだの、鷄みたいにこせこせした根性だのが、無邪氣なくらい出しっぱなしになっている、――まったくこの町こそ、大眞面目で言って、ヒポコンデリー患者にとっちゃ極樂淨土なのだ! 何から何まで、あけっぱなしで、はっきりしている。誰ひとりとして、別莊だの外國の温泉場だのでわが國の奧さんがたがよくやるような、かくし立てということを、てんで入用とも考えちゃいないのだ。――だからつまり、何ごとにまれ、ざっくばらんで率直にやりさえすりゃ、それだけでもう、ぐんと尊敬に値いするというわけなんだ。……いいや、どこへだって行くことじゃないぞ! よしんばここで身を滅ぼそうとも、金輪際ここは動かんぞ……』


二 帽子に喪章をつけた紳士


 七月の三日だった。息苦しさと暑氣は、ほとほと我慢がならなかった。その日はヴェリチャーニノフにとっても多忙な日だった。午前中は、てくや馬車で駈けずり※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)らなければならなかったし、おまけにまだその先には、是非とも今晩のうちにある必要な人間――これは法律通で五等文官の地位にある紳士だが――を、どこか黒河チョールナヤ・レーチカ譯註。ペテルブルグの西北約五十キロ、フィンランド灣に臨む避暑地。)あたりの別莊に訪ねて、不意打ちを喰わせなければならない用件が横たわっていた。五時を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ると、ヴェリチャーニノフはやっとのことで、ネフスキイ通りの警察ポリツエイスキイ橋のたもとにある、あるレストラン(すこぶるあやしげな板前だが、とにかくフランス料理の)のドアを押して、いつものとおり隅っこの定めのテーブルに陣どり、つね日ごろ變らぬ夕食を命じた。
 彼は毎日一ルーブルの夕食をしたためることにして、ただし飮物は別勘定ときめていた。そしてこれを、自分の傾いてきた財政状態に捧げられる賢明な犧牲と觀念していた。一體どうして、こんなきたならしい物が食えるのだろうと、心のなかでは呆れながら、それでいてその都度、まるで三日三晩も絶食したあとのような旺盛な食慾をもって、最後の一きれまで、きれいに平らげてしまうのだった。
『こりゃどうも病的だわい。』
 と、彼は時どき自分の食慾に氣がついて、獨りごとを言うのだった。ところが今日はその彼が、すこぶる御機嫌ななめのていでいつものテーブルに陣どると、腹だたしげに帽子をそこらへほうり出し、そのまま頬杖をついて考えこんでしまったのである。もし今この時、隣のテーブルで食事をしている客が、どうかしたはずみで浮かれだしたり、それとも注文を伺いに來たボーイが、彼のお望みを最初の一言でさとらなかったりしたら、それこそ一大事である。平生は大いに禮儀正しく振舞うすべも心得ているし、また時と場合によっては、物に動ぜぬ尊大さを見せもする彼ではあるけれど、今日の樣子では、てっきり士官學校の生徒みたいにわめきだして、おそらく一悶着もちあげるに相違ない。
 スープが出たので、彼はスプーンを手にとったが、一すくいもせぬうちに、いきなりスプーンを卓上へ投げだして、椅子から飛びあがらんばかりの恰好をした。ある思いもかけぬ考えが、突如として彼を襲ったのである。というのは、つまりその瞬間――どういう筋道をたどってだかは皆目わからないが――やにわに彼は、自分の煩悶の原因をはっきり悟ったのである。それは、もうこれで數日のあいだぶっ通しに、いや最近ひきつづき惱まされつづけてきた、ある特に格別な煩悶であったが、それがどうしたわけだか彼にまつわりついたなり、どうしても離れようとしないのだった。ところが今や彼は、一足とびにその全貌を見拔いたのである。自分の五本の指のように、はっきりと見てとったのである。
『こりゃあみんな、あの帽子のせいなんだ!』と、彼はまるで靈感にでも打たれたもののように呟やいた、『あの胸くその惡い喪章を卷いた、あの忌々しい山高帽子だ。あいつ一つが一切の原因だったのだ!』
 彼は考え始めた、――そして考えこめば考えこむほど、ますます彼は不機嫌になり、『その出來ごとの全體』なるものが、いよいよ彼の眼には異樣に見えてくるのだった。
『だが待てよ……一體あれは、出來ごとというほどのものかしらな?』と、彼は自分を信ぜずに、異を立ててみた、『あれに、なにかしら出來ごとらしいものが、ちょっぴりでもあるかしらん?』
 事の次第は、つまりこうなのである。かれこれもう二週間ほどにもなるが(たしかなところは覺えていなかったが、とにかく二週間前のように思われた)、彼は初めて往來で、それはポヂヤーチェスカヤ街とメシチャンスカヤ街の街角のへんだったが、帽子に喪章をつけた一人の紳士に出くわしたのだった。その紳士というのは、別にこれという取り立てて變ったところもない世間並の人品で、さっさと通り過ぎて行ったけれど、ただ、その時ヴェリチャーニノフの顏を、ちょいと氣になるほどじっと見つめて、その途端にどうしたわけだか、彼の注意がひどく相手へ引きつけられてしまったのだった。少なくともヴェリチャーニノフには、相手の顏つきが見覺えのあるような氣がした。たしかにいつかどこかで、その顏を見かけたことがあるのである。
『と言ったところで、何しろ俺も生まれてこのかた、何千と知れない顏にお目にかかってきたものなあ――一々思い出すわけにも行かんて!』
 二十歩も行き過ぎると、そうした妙な第一印象だったにもかかわらず、彼はもうその出會いのことを、忘れているようなふうだった。ところがその印象は、終日ぬぐい去られなかったばかりか――かなり奇妙な印象をとどめたのだった。つまり、なんだか一種特別な、漠然たる憎念として殘ったのである。彼は二週間たった今になって、そうしたことを殘らず、はっきり思い浮かべた。同時にまた、一體どこからそんな憎念が湧いてきたものやら、その時はまったく見當もつかず、ましてあの日、ひと晩じゅう彼を苦しめたあの不愉快きわまる氣持を、その朝の出會いに結びつけたり思い合わせて考えたりしようなどとは、思ってもみなかったこと――そんなことまで思い出した。ところがその紳士のほうでは、躍起になって自分のことを思い出させようとかかってきて、そのあくる日もまた、ネフスキイ通りでヴェリチャーニノフと顏をつき合わせ、またもや一種異樣な目つきで彼を見つめた。ヴェリチャーニノフはぺっと唾を吐いたが、吐いた途端に、俺はなぜ唾なんか吐いたのだろうと、けげんに思った。――實際、一目見るや否や、漠然とした、當てどもない嫌惡の情をそそるような、そんな顏つきがあるものである。
『いや、俺はたしかに、あいつにはどこかで出くわしたことがあるぞ。』
 と、彼はその出會いから半時間ほどして、すっかり考えこんで呟やいた。それからまたしてもその晩は、一晩じゅうじつに不愉快な氣持ですごしたのである。そればかりか夜なかになると、何か厭らしい夢まで見たのであるが、それでもやはり、その新らしい一種特別な憂鬱の原因が、殘らずさっき出會った喪章の紳士にあるなどとは、その晩一再ならずその男のことが思い浮かべられたにもかかわらず、一度だって念頭にのぼりはしなかった。それどころか却って、『あんな碌でなし』のことがこういつまでも思い出されてくるのが、この大事な場合として癪にさわってならなかった。そんなわけだから、自分の不安な思いの一切はその男のせいではあるまいか、などという考えが萬いち念頭にきざしでもしたら、彼はおそらく屈辱をさえ感じたに相違ない。ところが、それから二日すると、彼らはまたもや、ネヴァ河をかよう蒸汽船の出口の人ごみのなかで、ぱったり出會ってしまった。この三度目の時になるとヴェリチャーニノフは、帽子に喪章をつけたその紳士が、相手を彼と知って、人ごみにへだてられ揉みくしゃにされながら、わざわざ人波を掻きわけて彼のほうへ近づいて來たに違いない、てっきりそうに違いないと感じた。そればかりか、『臆面もなく』彼にむかって手を差しのべたようにさえ思われた。のみならず、ひょっとしたら大聲を出して彼の名を呼んだのかも知れないのだ。もっともその聲を、ヴェリチャーニノフははっきり耳にしたわけではないが、しかし……
『だが一體、あん畜生は何者なんだろう? もし本當にこの俺を知っていて、それほどそばへ來たいんなら、さっさとやって來たらよさそうなもんじゃないか?』
 と彼は、辻馬車に腰をおろし、スモーリヌィ修道院(譯註。ネヴァ河べりにある。當時は貴族女學校になっていた。)のほうへ向かいながら、さも忌々しそうに考えた。それから半時間のちには、彼はもう自分の辯護士と議論をして、大聲でわめき散らしていたのだが、晩がたから夜へかけてはまたもや、なんともかとも厭らしい、奇怪きわまる憂鬱に沈んでしまったのだった。
『こりゃ黄疸にでもなったのじゃあるまいか?』と、彼はじっと鏡を見ながら、疑わしげに自分に問いかけるのだった。
 それが三度目の出會いだった。それから五日ほどというものは、彼はさっぱり『誰にも』出くわさず、『あの野郎』なるもののことは、噂にさえ聞かずにすごした。でありながら、帽子に喪章をつけたくだんの紳士のことは、ひっきりなしに念頭に浮かんでくるのだった。こうなるとヴェリチャーニノフも、幾ぶんあきれぎみで、自分の氣持を槍玉にあげざるを得なかった。
『じゃあつまり、あいつのことが胸くそが惡くてならんとでもいうのかね?――ふん!……だがあの男だってきっと、このペテルブルグで、どっさり用事を抱えこんでいるに違いなかろうじゃないか、――それにしても、あの喪章は一體誰のためなのかな? 向うではたしかに俺を知っている。だが俺のほうじゃどうも思い出せん。しかしさ、なんだってああした連中は、喪章なんかつけるんだろう? あの男にはどうも似合わんがなあ。……だが待てよ、もっと近くへ寄って眺めたら、奴が誰だったか思い出せそうな氣もするなあ。……』
 すると彼の思い出のなかで、何ものかがうごめきはじめたような氣がした。それはよく知っていながら、どうかした拍子にひょいと度忘れした言葉を、一所懸命思い出そうとしているようなあんばいだった。その言葉はじつによく知っているし――おまけに自分がそれを知っているということも、ちゃんと心えているのである。また、その言葉の意味も知っているし、現にそのつい鼻先まで來ているのだが、それがどうしたものかいくら頑ばっても、その言葉のほうで思い出されるのを厭がって、いつかな出てこない。――まあそんな工合だった。
『あれはその……たしかもうだいぶ以前に……どこやらであったことだな……たしかその時……その時それ……。ええ、勝手にしろ。あったことか無かったことか、どっちだって構わんじゃないか!……』と、彼は急に忌々しげに叫んだ、『それに第一、とるにも足らんあんな野郎のことを、くよくよ氣に病むなんて、俺の名折れになるだけのことだ!…』
 彼はもの凄い劍幕でいきり立った。ところがその晩になって、さっき自分が『もの凄い劍幕で』いきり立ったことをふと思い出すと、ひどく不愉快になってしまった。妙な仕草をしているところを、誰かに見つかったような氣持だった。彼はどぎまぎして、あきれたり不思議がったりした。――
『して見ると、わけもいわれもなしに……たった一つの思い出のことで……俺があんなにむしゃくしゃするのは、やっぱり何かしら曰くがあるに相違ないぞ……。』
 彼は自分の想念を、中途でおっぽり出してしまった。
 ところが、そのあくる日になると、彼は一そう向っ腹を立てることになった。だが、今度は腹を立てる理由が立派にあるし、自分が怒るのも當り前だと思われた。相手が『前代未聞の無禮な仕打ち』をしたのである。というのはつまり、四度目の出會いがあったのだった。喪章をつけた紳士は、まるで地面から湧いて出でもしたように、またもや姿をあらわした。それはちょうどヴェリチャーニノフが、往來で例の五等官を首尾よくつかまえたばかりのところだった。これは前にも言ったとおり、彼にとっては必要な人物で、よくよくの場合には不意に別莊へでも押しかけて行って、つかまえるほかはあるまいと覺悟を決めてまで、いまだに探し※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)っていたところであった。なぜそれほどに執心かというと、この役人はヴェリチャーニノフにとってほとんど一面識もない間がらながら、とにかく今度の訴訟事件について是非とも會って置かねばならぬ人物なのに、向うは相變らずぬらりくらりとすり拔けてばかりいて、今になってはもう、ヴェリチャーニノフに會うのが厭さに、百方手をつくして逃げ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)っているとしか見えないのだった。だから、やっとこさでその彼に出くわしたと思うと、すっかり嬉しくなって、ヴェリチャーニノフは相手の目色をうかがいうかがい、彼と肩を並べて足早に歩を運びながら、なんとかしてこの白毛頭の老獪漢がうっかり口を滑らして、自分が久しい前から待ちあぐみ求めあぐんでいるある一言をひょいと漏らしそうな、そういう話題のほうへ彼をおびき寄せようと懸命になっていた。ところが、相手の古狸もなかなかさる者で、急所を笑いにはぐらかしたり、聞こえぬふりをきめこんだり、いとも巧みに引っぱずして行く――という實もって氣が氣でないその瞬間に、ヴェリチャーニノフの視線はふと、往來の向うがわの歩道に、帽子に喪章をつけた例の紳士を見いだしたというわけであった。彼はそこにつっ立って、じっと二人のほうを見つめていた――少なくもそれは明らかだった。おまけにどうやら、嘲笑をさえ浮かべているらしかった。
『ええ、くそ!』五等官の後ろ姿が見えなくなると、ヴェリチャーニノフは、せっかくの大きな魚を取り逃がしたのも、あの『破廉恥漢』が不意に姿をあらわしたせいだと思って、すっかり業を煮やしてしまった。――『畜生、あいつめ、俺の内ぶところをさぐろうとしているんだな! なんにしろ、俺のあとをつけ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)していることはたしかだ! 誰かに頼まれたのかな……。おまけに……おまけにあいつは、たしかにせせら笑いやがったぞ! ようし、斷然目にもの見せてくれる……ちぇっ、ステッキがないのが殘念だわい! よしステッキを買おう! このままじゃ濟まされん! 一體あいつはどこの何者だ? なんとしても奴の正體が知りたいものだ。』
 そしてとうとう――この(つまり四度目の)出會いののち、ちょうど三日たって、私たちは前に書いたようにあのレストランで、すっかりもう興奮しきって、幾ぶんは茫然自失の氣味でさえあるヴェリチャーニノフの姿を、見いだすわけである。なんぼ傲岸な彼でも、そうした自分の状態だけは認めないわけには行かなかった。今度という今度は、彼も一切の事情を思い合わせてみて、自分にとっついた鬱ぎの蟲、このただごとならぬ悶々の情、そしてこの二週間にわたる不安な思い――それらの一切の原因は、『とるにも足らぬくだらん奴ではあるけれど』、やっぱりあの喪章の紳士にほかならぬことに、思い當らざるを得なかった。
『なるほど俺は、ヒポコンデリー患者かも知れんな』と、ヴェリチャーニノフは考えた。『で、そのせいで、蠅ほどのことが象ほどに見えるのかも知れん。だがしかし、こうしたことはみんなおそらくは幻想に過ぎんだろう――などと思ってみたところで、それで一體氣が休まるものだろうか? まったく、あんなならず者が出てくるたびごとに、人間一匹が根もとからひっくり返されてしまうものだとしたら、つまりそりゃ……つまりそりゃあ……』
 じつをいえば、今日の(というのは五度目の)出會いが、ヴェリチャーニノフをひどく動顛させたのは、象ほどのことが、まるで蠅ほどにしか見えなかったからであった。その紳士は、例のとおり素早くそばをすり拔けて行ったのだが、今日はヴェリチャーニノフのほうは見向きもせず、いつものように彼を知っているような素振りも見せず、――打って變った伏眼になって、なんとかして相手の目にふれたくないと念じているような樣子だった。ヴェリチャーニノフは、くるりとあとを振り返ると、あらん限りの聲で呼びかけた。――
「あ、もしもし君! 喪章の先生! 今日は逃げるんですかい! 待ちたまえ、君は一體何者なんです?」
 この問いも(そして絶叫も)、すこぶる筋のとおらぬものであった。だが、そのことにヴェリチャーニノフが氣がついたのは、もうどなってしまったあとの祭だった。この叫びに應じて、例の紳士は振り返って、ちょっと足をとめ、困ったような顏をし、にやりと笑い、何やら言いたげなふりをし、何かしたげな素振りを見せ、――ほんの一瞬間、ひどく戸まどったような物腰をありありと示したが、急にそびらを返すと、そのまま振り向きもせずに、ずんずん向うへ行ってしまった。ヴェリチャーニノフは、呆れてその後ろ姿を見送った。
『だが待てよ』と彼は考えた。『本當のところは、奴が俺につきまとっているのじゃなくて、逆にこっちが奴につきまとっているんだとしたら、ただそれだけのことだとしたら、一體これはどうなるんだ?』
 夕食を濟ますと、彼は急いで例の五等官の別莊へ押しかけて行った。相手は留守だった。『朝がたお出かけになったまま、まだお歸りになりません。今日は誕生祝いのおよばれで、まちへおいでになったのですから、夜なかの二時か三時すぎでなければ、まずお戻りはありますまい』という挨拶だった。じつに『失敬きわまる』挨拶だと思ったので、一時はカッとしてしまって、ヴェリチャーニノフはその足で誕生祝いの席へ乘りこんでやろうかと思ったし、また實際にも馭者にそう言いつけたのだったが、途中で道のりの遠いことを考えだすと、そのまま馬車を乘り捨てて、大劇場ボリショイ・テアートルのそばの宿まで、足を引きずり引きずり歸って來た。彼は運動の必要を感じていたのである。興奮しきった神經を鎭めるには、不眠症であろうがなかろうが、是が非でも夜の熟睡が必要だった。ところでぐっすり眠るためには、せめて肉體なりと、くたくたに疲らせなければならなかった。というわけで、彼が宿へたどりついたのは、何しろちっとやそっとの道のりではなかったから、もう十時半だった。――そして實際へとへとだった。
 この三月に引き移ったその宿のことを、彼は自分ながら言いわけがましく、『ほんの一時の雨しのぎ』だとか、あの『忌々しい訴訟沙汰』のおかげで、思いもかけずペテルブルグで『沈沒に及んで』しまったとか、さも憎さげにくさしたり罵ったりしていたが、――そのじつどうしてこの宿は、彼がいうほど惡くもなく、ぶざまでもなかった。なるほど入口は少々暗いし、門のくぐりのへんは『薄ぎたない』には違いなかったけれど、二階にある彼の住まいときたら、ひろびろした、明るい、天井の高い二た間から成り立っていて、あいだにある薄暗い控間でへだてられている。というわけで、ひと間は往來に面し、もうひと間は中庭に臨んでいた。窓を中庭へ開いているほうの部屋の横手には、小さな隱れ間が附いていて、これは寢室に使うようになっている。ところがヴェリチャーニノフは、この小部屋に本だの書類だのをごちゃごちゃと散らかして、寢るのは大部屋の一つ、つまり往來へ窓を開いた部屋にしていた。寢具はソファのうえに敷いてもらった。家具類は相當に使いふるしたものではあったが、なかなか立派だったし、そのうえ貴重な骨董品も幾らかはあった。それは以前、工面のよかったころの名ごりで、陶器や青銅製の玩具だの、大きな正銘のブハラ絨毯などといったたぐいである。二枚ほど相當な畫も殘っていた。とはいえそれらは一切合財、ペラゲーヤという小間使の娘が彼を一人殘して、ノーヴゴロドの親戚へ休暇をとって歸っていってからというもの、何もかも散らかり放題、投げやり放題になっていて、おまけに埃だらけになっているという始末だった。とにかくまだ、紳士の體面だけは保って行きたいと思っているヴェリチャーニノフであってみれば、年ごろの獨身娘が、同じく獨身の世なれた男のもとに召使われているという妙な事實に思い到るたびに、そのペラゲーヤの奉公ぶりには至極滿足ではありながら、やっぱり顏を赤らめずにはいられなかった。この娘は、今では外國へ行っている彼の知り合いの家庭に使われていたのだが、彼がこの春今の宿を借りた時から、こっちへ住み替えて來て、部屋の整頓をしてくれたのだった。しかし彼女が歸って行ってからも、彼はほかの小間使を置こうという氣にはなれなかった。また急場のしのぎに從僕をやとうほどのこともなかったし、だいいち彼は、從僕というものが嫌いでもあった。といったわけで、部屋の掃除には毎朝マーヴラという家番の女房の妹に來てもらうことになっていて、彼は外出するたびに鍵をその女に預けるのだった。ところがその女は、ただ金をとりこむだけの話で、まったく何一つしてくれず、どうやら手癖もよくないらしかった。彼のほうではもう諦らめて、一切見ないふりで濟まし、やっと一人っきりの生活ができるようになったことに、むしろ滿足を感じていた。とはいえ、物にはすべて程あいというものがある。――で時どき、蟲のいどころの惡い時などは、そうした『薄ぎたなさ』が、神經にさわってなんとしても我慢がならず、歸宅するごとにまず大抵は、むかむかするような氣持で部屋へはいるのであった。
 ところが今日ばかりは、ろくろく着物も脱がぬうちから、いきなり寢床へ飛びこんで、もう一切何ごとも考えまい、是が非でも『今すぐさま』眠ってしまおうと、いらいらして腹をきめた。そして不思議なことには、頭が枕にふれるが早いか、たちまち睡りに落ちてしまった。これはここ一カ月來、たえてなかったことだった。
 彼は三時間ほど眠ったが、落着きのない睡りだった。熱病の時に見るような、なんだか妙な夢を見た。なんでもそれは、彼が何か犯罪をおかして、それをかくしているところらしく、おまけにどこからとも知れず、ひっきりなしに彼の部屋へ押しかけて來る人々が、異口同音に彼の罪を鳴らすのであった。集まった群衆はおそろしいほど澤山で、おまけに引きもきらずあとからあとからと部屋へはいってくるので、ドアはもうしまらなくなって、あけっぱなしになっていた。ところが彼の全身の注意は、やがて一人の奇妙な男に集中されてしまった。それはその昔、彼が非常に親しくしていた友人で、今では死んでいるはずなのに、どうしたものか群衆にまじって、いきなり彼の部屋へはいって來たのだった。ヴェリチャーニノフにとって、何よりももどかしくてならないのは、その男が何者なのかわからず、名前も度忘れして、なんとしても思い出せないことだった。彼にわかっていることは、その昔自分が非常に好きだった男、ということだけだった。押しかけて來たほかの連中は、この男の口から、ヴェリチャーニノフの有罪無罪をきめる最後の一言が漏らされるのを待っているらしく、みんなじりじりしていた。しかしその男は、テーブルの前に腰をおろしたまま身じろぎもせず、默然と口を利こうともしなかった。喧騷はやまず、いらだたしい空氣はますます濃くなって行った。と突然、ヴェリチャーニノフはカッとして、その男が口を開こうとしないのを理由に、彼を毆りつけた。そしてそのため、異樣な快感を覺えた。彼の心臟は自分のしたことに對する恐怖と苦痛のため、じいんと凍りつく思いだったが、しかもその惡寒のなかに、快感がこもっているのだった。怒りの燃え狂うにまかせて、彼は二度三度とつつけざまに毆りつけながら、忿怒と恐怖からくる一種醉い痴れたような氣持は、ほとんど狂氣の境にまで來ていたが、しかもそのなかには、無限の快感もこもっているのだった。そして彼は、もはや自分のふるう鐵拳の數も覺えず、のべつ幕なしに毆りつづけた。彼はあれを一切合財、殘る隅なく粉碎してしまいたかったのだ。と不意に、何ごとかがもちあがった。一同はもの凄い叫び聲をあげて、何ものかを待ち設けるように、ドアの方を振り向いた。するとその瞬間、戸口の鈴が三度けたたましく鳴ったが、その亂暴さ加減といったら、まるで鈴をドアからもぎとろうとでもするようだった。ヴェリチャーニノフは、はっと眼を覺ますと、たちまちわれに返って、がばと寢床からはね起きざま、戸口へ駈け寄った。今鈴が鳴ったのは夢ではない。何者かが本當に、今しがた案内を乞うたのだ――と、彼は固く思いこんだのである。
『あんなにもはっきりした、あんなにも眞に迫った、ありありと耳に聞こえる鈴の音が、ただの夢に過ぎんとしたら、あんまり不自然過ぎるじゃないか!』
 ところが意外なことに、その鈴の音もやっぱり夢だったことがわかった。彼はドアをあけて、玄關へ出てみた。階段まで覗いてみた。――が、人っ子ひとりいなかった。鈴はだらりと、搖れもせずにさがっていた。意外ではあったが、とにかくほっとした氣持で、彼は部屋へひき返した。蝋燭に火を移しながら彼は、ドアがただしめたきりで、錠もおろさず掛金もかけてないことを思い出した。もっともこれまでも、歸宅してついなんの氣なしに、夜の戸じまりをし忘れることは再々のことだった。そのためペラゲーヤから、小言をくったことも二三度あった。彼はドアの錠をおろしに控間へとって返して、もう一度あけて玄關を覗いて見、そして内側から掛金をおろした。しかし鍵を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)すのは、やっぱり億劫なのでやめにした。時計が二時半を打った。してみると三時間眠ったわけである。
 夢のおかげですっかり氣が立ってしまったので、彼はすぐさま寢床へ戻る氣はしなかった。で彼は、三十分ほど――つまり『葉卷を一本すいきるあいだ』、部屋のなかをぶらぶら歩いてみようと決心した。手早く服をつけると、彼は窓ぎわへ寄って、厚ぼったい花緞子の窓掛をもたげ、その外にある眞白な捲上げカーテンを少し上げてみた。往來はもう、すっかり明るくなっていた(譯注。いわゆる白夜である)明るいペテルブルグの夏の夜は、いつも彼の神經をいらだたせずにはおかないし、ことに近ごろでは彼の不眠症をつのらせるばかりなので、彼は二週間ほど前わざわざ自分の部屋に、すっかりおろしてしまえば光を透さぬ厚地の緞子の窓掛を、つけさせたのであった。明るい光の流れこむにまかせ、テーブルのうえにともした蝋燭のことも忘れて、彼は相變らず何やら重苦しい惱ましい感情をいだきながら、部屋のなかを行きつ戻りつしはじめた。夢の印象が、いまだに作用していた。あの男に自分が手を振りあげた、毆りつけた――そこからくる深刻な苦悶が、まだうずいていた。
『しっかりしろ、あの男なんかいやしないんじゃないか。この世にいたことだって、ありはしないんじゃないか。あれはみんな夢なんだ、一體何を俺はくよくよしているんだ?』
 ひどく腹だたしい氣持で、まるでそこに自分の一切の惱みが凝り固まっていでもするように、彼はいよいよ自分は病氣になりかけた、『病人』になりかけている、と考えはじめた。
 自分が老いこんできたこと、ないしは老衰してきたことを意識するのは、彼にとっていつも辛いことだった。で彼は、むしゃくしゃした時には、わざと自分をじらすため、この二つのことを意地惡く誇張して考えるのが常だった。
「老境さ! すっかり老いこんできたのさ」と彼は歩きながら呟やいた、「記憶力はなくなるし、幻影には脅かされるし、夢は見るし、呼鈴は鳴るし……。ええ、畜生! 今までの經驗で知っているが、俺があんな夢を見るのは必らず熱病のおこる前觸れだったっけ……。一體あの喪章先生の『一件』だって、やっぱり夢らしいぞ、いやそうにきまってる。俺が昨日考えたことは、ありゃ斷然ほんとだったのだ。つまりこの俺が、この俺のほうで奴につきまとってるんで、向うが俺につきまとってるんじゃないんだ! あいつを種に夢物語をでっち上げておきながら、自分で怖くなってテーブルの下へ潜りこんだという次第なんだ。それになぜ俺は、あの男のことを野郎だなんて呼んだんだろう? すこぶる立派な紳士かも知れんじゃないか。そりゃ御面相はあまりぞっとはしないが、さりとて別にこれと取りたてていうほど厭らしいところもないんだ。身なりだって十人並みだ。ただあの眼つきがなんとなく……。いや、またはじまったぞ! またしてもあいつのことだ! ええ、奴の眼つきがこの俺になんだというんだ? あの……碌でなしがいないじゃ、俺が生きて行けないとでも言うのかい?」
 彼の頭のなかにつぎつぎに浮かびあがってきた想念のうちで、やはり彼の心をひどく傷つけたある一つの想念があった。つまり不意に彼は、あの喪章の紳士は、その昔彼が友達づきあいをしたことのある男に違いない。そして今になって彼と出くわすたびに嘲笑を浮かべるのは、何か彼の過去の大きな祕密を知っているからなのだ。そのうえ現にこうも尾羽打ち枯らした彼の境涯を眼にするからなのだ――どうしてもそうに違いないと思ったのである。窓をあけて夜氣を吸おうと思って、彼は何氣なく窓ぎわに歩み寄った。と突然、彼はぞっと顫えあがった。曾て見たことも聞いたこともない異樣な何ごとかが、思いがけずも眼前で行われつつあるような氣がしたのである。
 窓はまだあけてはなかったけれど、彼は急いで窓の壁ぎわに退すさりこんで身をかくした。と忽然として彼の眼には、往來の向う側、ちょうど家の眞向いにあたる人氣のない歩道のうえに、帽子に喪章をつけた例の紳士の姿が映った。紳士は顏をこちらへ向けて歩道に佇んでいたが、たしかに彼が覗いているとは露知らず、何ごとか思いめぐらすようなふうで、じろじろと家の樣子を窺っているのだった。打ち見たところ、何かしきりに思案しながら、決心を固めようとしているところと見える。片手をもちあげて、ちょいと指を額に當てるような恰好をした。とうとう決心がついたと見え、素早くあたりに眼をくばると、爪先だちに足音をしのびしのび、大急ぎで往來をつっ切って來た。果然、彼は門口のくぐり(それは夏になると時には朝の三時ごろまで閂をかけずにあることがあった)を拔けて、はいって來るではないか。『さあやって來たぞ』という考えが、さっとヴェリチャーニノフの腦裡にひらめくと同時に、やにわに彼も爪先だちになって、控室の表戸のほうへ一散に走り寄ると、――そのまま息を殺し、はやる心に片唾を呑んで立ちすくみ、おののく右手をつい先刻おろしておいたドアの掛金にそっとかけながら、今にも階段に聞こえてくるはずの相手の足音に、一心こめて、きき耳を立てた。
 心臟の鼓動があんまりはげしいので、爪先だててのぼって來る見知らぬ男が聞きつけはせぬかと、彼は心配だった。一體何ごとがはじまったのか、さっぱり合點は行かなかったけれど、一切の成り行きは十層倍もの強度で感知されるのであった。まるで先刻の夢が現實と溶け合ったような工合だった。ヴェリチャーニノフは生れつき豪膽な男であった。時には危險に當面して泰然自若たることを、一種見榮のようにして愛する男であった。――それも誰一人見ている者はなくても、自分で自分に感心するだけで結構なのであった。ところが今の場合は、そのうえにまだ何物かがあった。今しがたまでヒポコンデリー患者であり、疑心暗鬼の愚痴男だった彼は、がらりと一變してしまって、今はもう全然別人の觀があった。引っつったような聲なき笑いが、胸底からこみあげてくるのだった。しまっているドアのかげから、彼は見知らぬ男の一擧一動を想像していた。『や! いよいよのぼって來るな、とうとうのぼりきったぞ、あたりをきょろきょろ見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)してやがる。階段の下の樣子をきき耳たてて窺ってるな。息を殺してるな。ほれ、しのび足でこっちへ來るぞ……。や! 把手ノブに手をかけたな、引っぱってる、あたってみてるぞ! ははあ、さては奴さん、錠がおりてないつもりでいたんだな! してみると、俺が時どきかけ忘れるのを御承知と見えるわい! また把手を引っぱってやがる。一體こんなことで掛金がはずれるとでも思ってるのか知らん? このまま別れるのは殘念だなあ! 空しく歸すなんて殘念じゃないか?』
 そして實際のところ、萬事は彼が思い描いているとおりに展開してきたのであった。何者かが本當にドアの外に佇んで、そっと音も立てずに錠をあたって、外から把手を引っぱっているのであった。つまり『こうなってはもう、目的あってやっているにきまってる』のである。しかしヴェリチャーニノフのほうでも、問題を解決しようという決心はすでについていたので、彼は一種の法悦をもって、あせらずあわてず、じっと潮時を狙っていた。やにわに掛金をはずす、さっとドアをあけはなす、そして『怪しの者』といきなり顏を合わせる――彼はそれがやってみたくて堪らなくなった。『もし、あなたはここで何をしていらっしゃるんです?』と言ってやろう。
 實際そのとおりになった。潮時をとらえると、彼はやにわに掛金をはずして、ドアをどすんと突きあけた拍子に――帽子に喪章をつけた紳士とすんでのことで鉢合わせをするところだった。


三 パーヴェル・パーヴロヴィチ・トルーソツキイ


 相手はまるで唖みたいにその場に棒立ちになってしまった。二人は閾のうえで鼻をつき合わせてつっ立ったまま、身じろぎもせずに、眼と眼を睨み合っていた。そのままの状態で暫く過ぎた。と突然、――ヴェリチャーニノフはこの來訪者が誰だったかを思い出した!
 同時に來訪者のほうでも、ヴェリチャーニノフがはっきり自分を思い出したことを、見てとったらしかった。そういう氣配が彼の眼差しにひらめいた。一瞬のうちに彼の顏は殘る隈なく、なんともいえぬ甘い微笑に溶けこんでしまった。
「あなたは、たしか、アレクセイ・イヴァーノヴィチさんでしたな?」と彼は、ほとんど歌でもうたうような調子でいった。なんともいえぬ優しさのこもった、したがってこの場には滑稽なほど不似合いな聲だった。
「してあなたは、本當にあのパーヴェル・パーヴロヴィチ・トルーソツキイなんですか?」とやがてヴェリチャーニノフも、當惑そうに口を開いた。
「あなたとは九年ほど昔、Tでおちかづきでしたな。それも、――こうしたことを申してお氣に障りませんなら――お互いにすこぶる親しい間がらでしたな。」
「左樣、左樣……まあそんなところで……ですが、今は夜中の三時ですよ、だのにあなたはかれこれ十分間も、このドアがしまってるかあいてるかことことやってみて……」
「三時ですって!」と來訪者は時計を出してみて、むしろ慨歎に堪えんといったふうの驚きの色を浮かべて叫んだ、「なるほど三時だ! 失禮しましたな。アレクセイ・イヴァーノヴィチ、あがってくるとき時間を考えるのが本當でした。まったく汗顏の至りですよ。二三日うちにまた伺ってお話をするとして、今夜はこれで……」
「いや、それはいけません! お話があるならあるで、いっそいますぐ承わることにしましょう!」とヴェリチャーニノフは急いで言い直した、「どうぞまあ閾をまたいで、なかへおはいりください。――だってあなたは、もともとなかへはいられるおつもりだったじゃありませんか。まさかこの眞夜中に、錠前をしらべにだけ來られたわけでも……」
 彼は興奮する一方どうやら狼狽ぎみで、一體どうしたものやらわれながら見當がつき兼ねた。しまいには氣恥かしくなってきた。とにかく自分の描いていたとてつもない幻影からは、祕密も危險も――何一つ出てはこずに、たかがパーヴェル・パーヴロヴィチなんぞの馬鹿げた姿が出現しただけだったのだ。とはいえしかし、これが單にそれだけの話だとはどうしても思えなかった。何かしら朧ろげながら不氣味な豫感がするのである。客を肘掛椅子につかせると、自分も坐る間ももどかしいといったふうで、その椅子からすぐ一歩ひとあしの寢臺に腰をおろし、膝のうえに兩手をそろえて前屈みになって相手が口を切るのをじりじりしながら待ち受けた。彼は貪るようにじろじろと見やりながら、暗に相手を促すのであった。ところが不思議なことに、向うはいつかな口を開こうとはせず、今すぐ口を切る『義務のある』こともどうやら氣づいていないらしかった。それどころか、あべこべに何か待ち受けるような眼つきで主人を眺めているのであった。もっとも、彼は初手から捕鼠器ねずみとりにかかった鼠のような、一種の氣まずさを感じていたのだから、單に氣おくれがしていただけかも知れない。しかしヴェリチャーニノフはカッとなってしまった。
「あなたはどうしたんです!」と彼は叫んだ、「まさかあなたは夢でも幻でもありますまいね! 亡者ごっこをやりにみえたんですかね? さあ、あなたのそのお話というのを承わろうじゃありませんか!」
 客はもじもじしはじめ、にやりと笑って、用心深く話しだした。
「お見受け申すところ、私がこんな時刻に、しかも――こんな妙な工合にして伺ったのが、何よりもまずあなたをお愕かせしたようでして……。つまりその、昔のことどもや、私どもがどんなふうにお別れしたかを思い出しますと――私は今なお不思議でならないくらいで……。それはそうと、私はじつはお邪魔にあがろうなどとは思ってもいなかったのでしたが、それがこんなことになっちまったのは、その――ほんの偶然で……」
「何がほんの偶然です! 現に私はこの窓から見ていたんですが、あなたは爪先だちで往來をつっ切って來たじゃありませんか!」
「ああ、あなたは御覽でしたか! それじゃあなたは、私なんかよりよっぽどお詳しいはずだ!――ですがこんなことを申していては、あなたをますますいらだたせるだけですな……。じつはこういうわけなんです。私は自分の用向きで三週間ほど前から當地に來ているんです……。私があのパーヴェル・パーヴロヴィチ・トルーソツキイだということは、あなたもお氣づきのとおりです。そこで私の出て來た用向きというのは、じつは他の縣へ轉任になるように運動をしていますんで、その椅子がきまればかなりの昇進になるわけなんです……。それはそうと、申し上げたいのはこんなことじゃなかったっけ!……お望みとなら肝腎かなめのところを申し上げますが、じつは私はこれでもう三週間ちかくも、この町をうろつき※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)っているんでして、それがどうやら、その用向き、つまり轉任の件ですな、それをわざわざどっちつかずに引っぱっているような工合なんですよ。そして實際の話が、そのほうの片がついたにしてもどっち道おなじことで、きっと片がついたことなんか自分で忘れちまって、相變らずのこうした氣持でこのペテルブルグに居坐っているに違いありません。まるで自分の目當てを失ったような、しかもそれが却って嬉しいような――つまりそういった現在の氣持で、私はうろつき※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ってる次第なんです……」
「というと、どんな氣持でしょうな?」とヴェリチャーニノフは眉を顰めた。
 客は落していた眼差を彼のほうへ向け、帽子をとりあげて、今はもうきっぱりと物に動ぜぬ面持ちで例の喪章を指さした。
「つまり――私の氣持はこれです!」
 ヴェリチャーニノフは茫とした眼つきで、その喪章と客の顏を交る交る眺めていた。と不意に彼はさっと頬を紅らめると、おそろしく動搖しはじめた。
「じゃ、あのナターリヤ・ヴァシーリエヴナが!」
「左樣! ナターリヤ・ヴァシーリエヴナです! この三月のことでした……。胸を惡くしましてな、ほとんどあっという間で、ほんの二三カ月のうちのことでした! そして私は――御覽のとおり一人ぼっちで生き殘ったわけでして!」
 言い終えると、客は感きわまって兩手を左右にひろげ、喪章のついた例の帽子を左手につまみあげたまま、少なくも十秒ほど禿げた頭を低く垂れていた。
 相手のこの樣子と身ぶりとが、俄かにヴェリチャーニノフを立ち直らせたようだった。嘲けるような、むしろ挑みかかるような微笑が彼の唇をちらりとかすめた――が、それもほんの一瞬間に過ぎなかった。というのも、あの婦人(それは彼がじつに遠い昔に知り合いだった婦人で、しかもすでに忘れ果てていたのだった)の死んだという報らせが、今やわれながら意外なほどはげしい感動を彼に與えたからだった。
「まるで夢のようです!」と彼は最初に唇に浮かんだ言葉をそのまま呟やいて、「であなたは、なぜすぐいらして報らせてくださらなかったんです?」
「御同情くだすって有難う。あなたが同情してくださるのを拜見して、しみじみ有難いと思います。それも……」
「それも?」
「つまりその、こんなに永年お會いせずにいたのに、私の悲しみにのみか私個人にさえ、じつに深い同情を寄せていただいて、ただただ感謝のほかはない――と、それを申し上げたかっただけです。もっとも私だって別に親しいかたがたの氣持を疑っていたわけでもないんでして、當地でも探しさえすりゃ今すぐだってしんからの親友が見つけ出せるわけです(早い話があのステパン・ミハイロヴィチ・バガウトフですな)。しかしです、アレクセイ・イヴァーノヴィチさん、あなたとの御交際は(いやおそらく親友の交りでしたな――今なお感謝の念をもって思い出されてるところをみると)、何しろ九年間も絶えていたんですからなあ。あなたは私どもの町へは戻っておいでにならなかったし、手紙のやりとりもなかったのですし……」
 客はまるで樂譜を見ながら歌でもうたうような調子で喋っていたが、そのあいだじゅうゆかへ眼を落していた。とはいえ絶えず上目を使うことを忘れなかった。一方主人のほうも幾ぶんわれを取り戻した。
 刻々に、ますます強まって行くばかりの何やらすこぶる奇妙な印象を受けながら、パーヴェル・パーヴロヴィチの話に耳を傾け、その顏をじろじろ眺めていたが、相手がふと口をつぐんだ時、じつに突拍子もない入り亂れた考えが、いきなり彼の頭に湧きあがった。
「それにしてもなぜ私は、今の今まであなただということが思い出せなかったんだろう?」と彼は急に活氣づいて叫んだ、「もう五度ばかりも往來で行き會っていながら!」
「左樣、それなら私も覺えていますよ。いつもあなたのほうでひょっこり私の前に出てらっしゃるんです。――二度でしたか、それとも三度でしたかな……」
「そうじゃないですよ――いつもあなたのほうでひょっこり出てこられるのですよ、私のほうからじゃありません!」
 ヴェリチャーニノフは起ちあがると、いきなり大聲をあげて突拍子もなく笑いだした。パーヴェル・パーヴロヴィチはちょっと言葉をやめて、じっと彼を見つめていたが、すぐまた話をつづけた。
「あなたが私の顏が思い出せなかったのはですな、――まづ第一にお見忘れだったのでしょうし、それにまた、私はその後疱瘡をやりましたのでね、その痕が少し顏に殘っているせいでしょう。」
「疱瘡ですって? なるほどそう仰しゃれば、あの男には痘痕あばたがあったっけ! ですがなんだってまたあなたは……。」
「そんな目に逢いやがったかと仰しゃるんですか? 何がおこるかまったく知れたものじゃありませんよ、アレクセイ・イヴァーノヴィチ。よくある圖ですよ!」
「ただどうも、馬鹿に滑稽ですな。まあとにかく先をおつづけください、先をおつづけください、どうぞあなた!」
「私は幸いあなたと行き會えたのですが……。」
「お待ちなさい! なんだってあなたは今、『そんな目に逢いやがった』なんて仰しゃったんです? 私はもっと丁寧な言い方を考えていたんですよ。じゃ、どうぞ先をつづけてください、どうぞ先を!」
 どうしたわけか彼は次第に氣が晴れ晴れして來た。戰慄的な印象はまったく別の印象にとって代えられた。
 彼は足早に室内を行きつ戻りつしていた。
「私は幸いあなたと行き會えたのですが、そもそも當地へ、このペテルプルグへ出かけて參る時から、必らずあなたを探しあてようと思っていたわけでした。ところで、先ほどの話のくり返しになりますが、私はやっぱり御覽のとおりのみじめな氣持でして……三月さんがつからこっち私の心はすっかり臺なしになっちまって……。」
「いや、なるほど! 三月からこっちね……。まあちょっとお待ちなさい、あなたは煙草は召上がりませんか?」
「御承知のとおり、ナターリヤ・ヴァシーリエヴナの存命中は。」
「そうそう、そうでしたね。だが三月からは?」
「卷煙草一本ぐらいならばね。」
「じゃ一つこれをどうぞ。まあそれをやりながら、先をおつづけください! どうぞ先を話してください! じつにどうもあなたの話は……」
 そう言いさして、自分は葉卷に火をつけると、ヴェリチャーニノフは素早くまた寢臺に腰を据えた。パーヴェル・パーヴロヴィチは暫く默っていた。
「ときに話は違いますが、あなたはひどく興奮してらっしゃるようですね。おからだのほうはどうなんです?」
「へっ、私のからだの工合なんか糞くらえですよ!」とヴェリチャーニノフは急にむかっ腹を立てた、「先をつづけてください!」
 すると主人の興奮のていを見て、今度は客のほうがだんだん滿足そうな自信ありげな樣子になった。
「だが一體何を話しつづけることがありましょうかな?」と彼は再び口を開いた、「まあ思ってもみてください、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、まずここに打ちのめされた一人の男がある、それもただ打ちのめされただけじゃなくて、謂わば徹底的に打ちのめされた男なんですな。つまり二十年にわたる結婚生活のあとで生活ががらりと一變してしまい、別にこれといった目當てもなしに、ほとんどまあ茫然自失のていで、しかもその茫然自失のなかに一種の陶醉をさえ見いだしながら、埃っぽい街なかを、まるで曠野ステップを歩くような氣持でうろつき※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)っている男なんです。とすれば、その私が、ひょっとして往來で知合いの人に出逢った時、たといそれがしんからの友達だったにしたところで、やっぱりそうした瞬間――つまり茫然自失の状態でいる瞬間に、その相手に近づきたくないばかりに、わざと避けるようにするのは、こりゃあまず自然の成行きじゃありませんか。ところがまた別の瞬間には――過去のことがいちいちはっきり思い出されてきて、そのつい昨日のことのように思われながら、しかも今に返す由もない過去の生活の目撃者であり關係者である誰かに會いたくて堪らなくなり、そのためもう胸がどきどきして抑えきれず、それが日中ならまだしも、夜陰をおかしてまで親しい友達のところへ駈けつける、そしてそのため相手をわざわざ夜中の三時過ぎに叩きおこすような羽目になる、といった氣持になることもあるのです。なるほど私は時刻については思い違いをしていましたが、友情については果して思っていたとおりだったのです。だって今このとおり過分なほどのおもてなしを受けていますものね。時刻のことはまったく一言もありませんが、實もって正直のところ、まだ十二時前とばかり思っていたのです。なにせ、こうした氣分でいるものですからね。まあ己れの悲哀の杯をのみながら、ついそれに醉い痴れたといった工合です。しかもこの私を打ちのめしたのは、じつは悲哀じゃなくて、むしろこの新らしい境涯なんでして……。」
「それはそうと、あなたはなんて妙な言い※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しをなさるんでしょうな!」ヴェリチャーニノフは急にまたひどくまじめな氣持に返って、暗い顏色をして言葉をはさんだ。
「左樣、いかにも言い※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しまで妙でしょうて……」
「しかもあなたは……冗談を言っておられるのでもない!」
「冗談ですと!」とパーヴェル・パーヴロヴィチは悲しげな當惑の色を浮かべて絶叫した、「しかも選りに選って、こんなお話をしている時にですか……」
「ああ、それを仰しゃらないでください、お願いです!」
 ヴェリチャーニノフは起ちあがって、再び大股で歩きはじめた。
 そうしてものの五分ほど過ぎた。客も椅子を起とうとして腰をもちあげたが、ヴェリチャーニノフが「そのまま、そのまま」と叫んだので、すぐさまおとなしく肱掛椅子に身を沈めた。
「それにしてもあなたは、じつに變りましたなあ!」とヴェリチャーニノフは急に相手の前に立ちどまって、再び口を切った。――不意にこの考えに愕かされたといったふうだった。「おそろしい變りようですよ! まったくひどい! まるっきり別人ですなあ!」
「別に不思議はないですよ。何しろ九年ですからね。」
「いや、そうじゃない、年月の問題じゃない! 外見からいうとあなたはまだそれほど變ってはいない。あなたの變ったのはほかの點ですよ!」
「それだって、九年という年月のせいだろうじゃありませんか。」
「それとも、この三月さんがつ以來ね!」
「ふ、ふ」とパーヴェル・パーヴロヴィチは人の惡い薄笑いを漏らした、「あなたもなかなか面白いことを考える人だ。……ところで不躾ながらお尋ねしますが、――そもそもわたしのどこがそんなに變りましたかね?」
「變ったのなんのって! 昔のパーヴェル・パーヴロヴィチさんはじつに手堅い、分別のある人でしたよ、じつに才物でしたよ。ところが今のパーヴェル・パーヴロヴィチさんときたら、まったくのやくざ者ヴォーリアンじゃありませんか!」
 彼は極度に興奮状態に陷っていた。そういう状態になると、平生どんなに控え目な人でも餘計なことを口走りはじめるものである。
やくざ者ヴォーリアンですって! あなたはそうお思いですか? そしてもう『才物』じゃなくなったと仰しゃるんですね? ふむ、才物にあらずか?」とパーヴェル・パーヴロヴィチはさも樂しそうにしのび笑いをした。
「いや『才物』なんかどうでも宜しい! 今じゃ賢こ過ぎてこまるぐらいかも知れませんぜ。」――『俺も隨分と傲慢な人間だが、この野郎ときたら俺に輪をかけた傲慢者だわい! それに……それに一體、奴は何を目當てにやって來たんだろうな?』とヴェリチャーニノフは絶えず考えていた。
「ねえ、懷かしい何ものにも換えがたく貴いアレクセイ・イヴァーノヴィチさん!」と、客は突然はげしい興奮に驅られて、椅子のなかで身もだえした、「こんな話をしてなんになるもんですか? 私たちは今社交界にいるわけじゃないんですものね。綺羅を飾った豪勢な社交場裡にいるわけじゃないんですものねえ! われわれ二人は、心を許しあった舊友なのだ、昔馴染なのだ、そして謂わば誠心誠意でもって今ここに再會して、曾ての何ものにも換えがたいお互いの交誼を偲び合い、且つはまた貴くも懷かしい環としてわれわれ二人の友情をつなぎ合わせてくれた亡妻のうえを、偲んでいるところですものねえ!」
 そう言いながら、彼は自分の感情の大法悦にうっとりとなって、またも先刻のようにぐったりと頭を垂れ、今度は例の帽子で顏をかくした。ヴェリチャーニノフは嫌惡と不安を半々につきまぜた氣持で、その姿にじっと眼を注いでいた。
 ――『だが、もしもこれが單に奴のお芝居だったらどうなる?』という考えが彼の頭にひらめいた。『いいや、違う、斷じて違う! どうやら醉っ拂ってもいないらしい。――いやしかし、醉っ拂っているのかも知れんぞ。赤い顏をしてるからな。だが、よしんば醉っ拂ってるにしたところで、――所詮おなじことだ。一體なんであんなおべんちゃらを言い出したんだろうな? この野郎め、一體何が欲しいのかな?』
「あなたは覺えて、覺えておいでですか?」とパーヴェル・パーヴロヴィチは少しずつ帽子を顏から離しながら、ますます深く追憶に溺れこんで行くらしい樣子で叫んだ、「われわれのやった郊外の遠乘りや、夜の集まりや、それからまた、あの客好きなセミョーン・セミョーノヴィチ閣下のお宅の氣のおけない夜會で、舞踏をしたり罪のない賭事に興じたりしたことを、あなたは覺えておいでですか? また私ども三人で、讀書に靜かな宵をすごした時のことを? それから、私どもが初めてお近づきになった時のことを? あの朝あなたは何か用向きのことで、問合せに私のところへおいでになったのでしたね、そして、いささか語氣を荒らげそうな雲行きになった時、不意にあのナターリヤ・ヴァシーリエヴナがはいって來たもので、十分後にはもうあなたは家のもの同樣の、心を許しあった友達になってしまわれたのでしたね。そして、それからまる一年というもの、――ちょうどそれ、トゥルゲーネフ氏の『田舍夫人』という芝居そっくりで……」
 ヴェリチャーニノフはゆっくりと歩を移しながら、ゆかに眼を落したまま、焦躁と嫌惡の情をもって相手の言葉を聽いていた。とはいえ、じっと聽き入っていたことは事實である。
「私はその『田舍夫人』という芝居のことなんか、ついぞ思ってみたこともありませんでしたよ」と、彼はいささか度を失って相手を遮った、「それにあなたは、昔はついぞそんなめそめそした聲で話をしたことも、またそんな……よそゆきの文句で喋ったこともなかったですね。一體どうしようと仰しゃるんで?」
「まったく、私も昔は默りこみがちの男でしたね、つまり今よりは無口でしたな」とパーヴェル・パーヴロヴィチはいそいで相手の言葉を引きとった、「知ってのとおり、昔の私は亡妻が何か話しはじめると、むしろ聽き役に※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)るほうが好きだったものです。あなたも覺えておいででしょう、まったく家内の話は機智に富んだいい話でしたものね……。ところで、その『田舍夫人』――とりわけ、あの『ストゥペンヂエフ』のことですが、なるほどあなたが思ってみたこともないと仰しゃるのはごもっともです。なぜって、あの話は私と亡妻が二人きりでした話でしたものね。つまりあなたがって行ってしまわれたあとで、追憶にふさわしい靜かな折々に、あなたのことを思い浮かべながら、――私どもの初めてお目にかかった時のことをあの芝居に引きくらべて考え考えしたのでした。……だって本當にそっくりそのままですものねえ。ことに、あの『ストゥペンヂエフ』ときたらもう……」
「なんです、その『ストゥペンヂエフ』っていうのは、くそ面白くもない!」とヴェリチャーニノフはどなって、思わずどしんと足踏みをした。この『ストゥペンヂエフ』という言葉を耳にすると同時に、ある不安な追想が彼の胸に翳りはじめ、そのためもうすっかり混亂してしまったのである。
「いや、その『ストゥペンヂエフ』というのは、その芝居の、芝居の登場人物なんですよ。つまりあの『田舍夫人』という芝居で『おっと』の役割をする人物なんです。」とパーヴェル・パーヴロヴィチは甘ったるい猫撫聲を出した、「ですがね、この話はもう私どもの尊くもまた美しい追憶の、まったく別の時代にぞくするものなんです。というのはつまり、それはあなたがすでにお發ちになったあとのことでして、そのころはもうステパン・ミハイロヴィチ・バガウトフという人がちょうどあなたそっくりな友人を、私どもに惠んでくだすっておられたわけでして、これはそれ以來まる五年のあいだつづいたのでした。」
「バガウトフですって? それはどういう人です? そのバガウトフというのは何者なんです?」と、ヴェリチャーニノフはいきなり化石したように立ちどまってしまった。
「バガウトフ、――詳しく言えばステパン・ミハイロヴィチ・バガウトフですが、これはあなたが發たれてから、ちょうど一年たって、私どもに友情を惠んでくだすった人です。……ちょうどあなたとおなじ友情をね。」
「ははあ、あいつか、そんなら私も知っている!」とヴェリチャーニノフはやっと思い當って叫んだ、「バガウトフ! そうそう、やっぱりあなたの役所に勤めていた……」
「そうです、そうです! 知事の官房に勤めていたんです! ペテルブルグの最上流社會からやって來た、じつに優美な青年でしたよ!」と、感きわまってパーヴェル・パーヴロヴィチは大聲を立てた。
「そう、そう、まったくそう! 俺は何をぼやぼやしてたんだ! するとあの男もやっぱり……」
「そうです、あの男もやっぱり、そうなんです!」とパーヴェル・パーヴロヴィチは、主人がうっかり口を滑らした言葉を引きとって、相變らずの感激口調でくり返した、「あの男もそうだったんです! その時ですよ、私どもがあの客好きのセミョーン・セミョーノヴィチのお宅の私設舞臺で、例の『田舍夫人』を上演したのは。――ステパン・ミハイロヴィチは『伯爵』の役を、私は『おっと』を、それから亡妻は『田舍夫人』をそれぞれ演ずることになっていたんですが、――ところが亡妻の主張で私は『夫』の役をとりあげられちまった次第なんです。ですからつまり私は『夫』の役は演じなかったんですが、――まあ、その役どころじゃないといったわけでしてな……。」
「こりゃ大笑いだ、あなたがストゥペンヂエフになるなんて! あなたはなんといったってパーヴェル・パーヴロヴィチ・トルーソツキイですよ、ストゥペンヂエフなんかじゃないさ!」と興奮のあまり身を顫わさんばかりの勢いで、ヴェリチャーニノフはずけずけと遠慮會釋もなしに言ってのけた。「それはそうと、そのバガウトフはここにいますぜ、このペテルブルグにいますぜ。私はこの春あの男を見かけましたよ、この眼でちゃんとね! 一體なぜあなたは、あの男のところへも會いに行かないんです?」
「いや、これでもう三週間というもの、ほとんど毎日のように訪ねて行くんですが、その都度會ってもらえませんのさ! 病氣で會えん! とこう言うんです。ところがどうでしょう、あの人が本當に病氣で、しかもきわめて重態だということが、手近かな人の口からわかったじゃありませんか! 何せ六年越しの親友ですからねえ! ああ、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、このことはくり返して申し上げますがね、人間こうした氣持でいると、時にはいっそ本當に地の底へ沈みこんでしまいたいといった氣になるかと思えば、また別の瞬間には、誰でもいい、昔の生活のそれ、謂わばその目撃者とか、關係者とかいった人間を探しだして、いきなりこう抱きついて、ただもう泣いて見たいような――まったくただもう聲をあげて泣いてみたいような、そんな氣にもなるんですよ!……」
「ところで、まあ今日はここらでお開きにしようじゃないですか、どうです?」とヴェリチャーニノフは鋭い語勢で言い放った。
「いや、結構です、結構すぎるくらいですよ!」そう言ってパーヴェル・パーヴロヴィチは即座に席を起った、「もう四時ですものね。それに、何しろこんな身勝手なことでせっかくお寢みのところをすっかりお騷がせしてしまって……。」
「じゃあ、私のほうからもそのうちお訪ねしましょう、きっとお訪ねしましょう、きっとお訪ねしますよ。そしてゆっくり落着いてお話を承わるとしましょう。……ところで、ざっくばらんのところを伺いたいんですが、あなたは今夜醉っておいでじゃありませんかね?」
「醉っている? 飛んでもない……。」
「こちらへお出かけの前か、それともその以前に、召上がったんじゃありませんか?」
「これはまあ、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、あなたはてっきり熱病にかかっておいでですな。」
「とにかく明日伺いましょう、早目に、そう一時までにね……」
「もうとうから氣がついていたんですが、あなたはどうもまるで熱に浮かされてらっしゃるようだ」――さも會心の至りといった調子でパーヴェル・パーヴロヴィチは相手を遮って、おなじ話題に執着した、「本當になんともお恥かしい次第です、私がこのとおりの口不調法なもんで、そのため……。いや、もう失禮しましょう! あなたも横になって、少しお寢みになってください!」
「だが、あなたはなんだって宿所を仰しゃらないんです?」ふと氣づいて、ヴェリチャーニノフは相手の後ろ姿に浴せかけた。
「おや、申し上げませんでしたか? ポクローフスキイ・ホテルにおりますよ。」
「ポクローフスキイ・ホテルというと?」
「ポクロフ寺のすぐそばです。あそこの横町にあるんですが、――さてと、なんといったかなあ、あの横町は。おまけに番地まで忘れちまった。とにかくポクロフ寺のすぐそばですよ……。」
「いいです、探しましょう!」
「じゃどうぞいらしてください。」
 彼はもう階段にかかっていた。
「お待ちなさい!」とまたもやヴェリチャーニノフは叫んだ、「あなたは私をまいて逃げるんじゃないでしょうね?」
「と仰しゃるとどういう意味です、その『まいて逃げる』というのは?」とパーヴェル・パーヴロヴィチは階段の三段目からくるりとこちらを振り向いて、眼をまるくして、微笑みながら訊き返した。
 返事の代りにヴェリチャーニノフはばたんとドアをしめて、念入りに錠をおろし、そのうえ掛金をしっかりかけた。部屋に戻って來ると、まるできたない物にでもさわったように、ぺっと唾を吐いた。
 部屋のまんなかにものの五分ほどじっと立ちつくしていたが、やがて上着ひとつぬがずにどさりと寢臺に身を投げると、たちまちのうちに寢入ってしまった。消し忘れた蝋燭はそのまま卓子のうえで、じりじりと燃えつきて行った。


四 妻と夫と情夫


 彼はぐっすり寢こんで、九時半きっかりに眼をさました。素早く半身をおこすと、そのまま寢臺のうえに坐りこんで、すぐさま考えはじめた――『あの女』が死んだことについてである。
 彼女が死んだということをいきなり昨夜聞かされた時の、あの全身を搖するようなはげしい感銘は、いまだに彼の身うちに一種の胸騷ぎ、いやむしろ痛みをとどめていた。この胸騷ぎ、または痛みは、昨夜パーヴェル・パーヴロヴィチがいたあいだだけは、ある奇妙な考えのおかげで一時和げられていたのであるが、それが今眼がさめるとともに、九年前にあったことの一切が、極度にありありと、俄かに彼の眼の前に描き出されたのである。
 その女というのは、『あのトルーソツキイという男』の今は亡き妻のナターリヤ・ヴァシーリエヴナで、彼がある所用で(それもやはりある遺産相續にからまる訴訟沙汰であったが)まる一年もT市に滯在していた時彼が戀し、その情夫になっていた女であった。――もちろん用事そのものは、そんなに長い滯在を要するものでもなんでもなかったので、長逗留の本當の原因はこの情事にあったのだ。まったくこの情事といい、またその際の彼の愛情といい、すこぶる強烈に彼を支配していたもので、彼はまるでナターリヤ・ヴァシーリエヴナの奴隷みたいになっていたほどだった。だからこの女が、ほんの假初かりそめの氣まぐれからそうしてくれと言いだしたなら、彼は即座にどんな奇怪きわまる馬鹿げたことでもやってのける氣になったに相違ないのである。これほど首ったけになったことは、あとにも先にもついぞないことだった。
 その一年の終りがきて、どうしても別れなければならぬことになると、ヴェリチャーニノフはその悲しい日の近づくにつれておそろしい絶望にとらわれてしまった。まったく身も世もあらぬ絶望で、その別離はほんの僅かのあいだですむあてがついていたにもかかわらず、いっそナターリヤ・ヴァシーリエヴナを夫の手から引っさらって駈落ちしよう、夫も世間も棄てて一緒に外國へ逐電してしまおう、とそんな話をナターリヤ・ヴァシーリエヴナに持ちだしたほどだった。ところがこの婦人の冷笑と小ゆるぎも見せぬきっぱりした態度に逢って(もっとも彼女は初めのうち、このもくろみにまったく贊成していたのであったが、思うにそれは單に退屈まぎれのほんの氣なぐさみのつもりだったに違いない)、やっと思いとどまって、餘儀なくひとりで立去った次第だった。それだのにまたどうしたことだろう? 別れてまだふた月もたたぬうちに、彼はもうペテルブルグで、彼にとっては永久に解けぬ謎である次のような疑問を、われとわが身に掛けているのであった。『俺は本當にあの女を愛してたのだろうか、それともあれはみんな、ただの「出來心」にすぎなかったのかしら?』しかもこんな疑問が彼の胸に湧いたのは、何も彼が浮氣なたちだったせいでもなければ、また別に新らしい色事がはじまっていたせいでもなかった。ペテルブルグに舞い戻っての最初のふた月というもの、彼は一種自己忘却みたいな状態で暮らしていたので、すぐさま以前の交際仲間に吸い寄せられ、女などはいくらも見る機會はあったとはいえ、その一人だってろくろく眼にははいらぬような始末だった。それはそうと、たとい今言ったような疑問がいくら胸中を往來しているにしたところで、一たんT市へ舞い戻ったら最後、途端にまたもやあの女の蕩かすような魅力のとりこになってしまうだろうことは、彼もちゃんと心得ていたのである。それから五年たってのちも、彼のこの信念に變りはなかった。とはいえ五年後となっては、彼はもはやそうした自分を意識するのが癪にさわるようになり、『あの女』のことを思い出すたびに憎惡の念を感ぜずにはおられなかった。彼はTですごした一年を思うと氣恥かしかった。このヴェリチャーニノフともあろうものが、あんな『痴情』にとらわれるなんて、あってよいことか――彼はわれながら腑に落ちないのだった。で、あの戀情についての追憶の一切は彼にとって不面目としか思えぬようになってしまい、彼は思い出すたびに危く涙がこぼれそうなほど赤面し、きりきりと良心の苛責を覺えるのであった。もっともそれからさらに數年たったころは多少は心の平靜を取り戻すことができた。彼はあの出來ごとなどはすっかり忘れようと努力し、――また實際にもほとんど忘れかけていた。そこへ突如として、九年後の今になって、昨夜ナターリヤ・ヴァシーリエヴナの訃報を耳にしたのを機會しおに、再びあの當時のことが俄かに奇怪な色彩をもって、眼前によみがえってきたのである。
 さて今、雜然と腦裡にむらがり寄る亂れた想念をいだきながら、寢臺のうえに坐りこんでいる彼には、ただ一つのことがはっきりと感得され意識されるのであった。それは、昨夜あの報らせを耳にした時は、あれほどまでに『全身を搖るがすばかりの感銘』を受けたにかかわらず、それでいて彼女の死そのものについては、案外すこぶる平氣だということであった。
『一體俺は、あの女を可哀そうだとも思わないのだろうかしら?』
 と彼は自分に訊いてみるのだった。もっとも、今になってはもはや彼があの女に憎惡を感ぜず、したがってまた今までよりは一そう公平な、當を得た判斷をくだせることは事實であった。そして、これは何も今更はじまったことではなかったが、別れて九年の歳月の流れるあいだに形成された彼の意見によると、ナターリヤ・ヴァシーリエヴナは、田舍の『上流』社會にざらに見られる平凡な貴婦人の一人にすぎず、そして、更に彼の言葉を借りれば、『まったくのところただそれだけの代物だったかも知れんのさ。それをこの俺ひとりで勝手にあんな幻影の女を作り上げていたのかも知れんのさ』なのである。とはいえその一方では、この自分の見解には何か間違いがありはしまいかという疑念も、絶えず頭を離れなかった。そして今もその疑念が萠したのである。それにまた、事實もこの見解と矛盾するのである。現にあのバガウトフという男だってやはり、何年かのあいだ彼女と關係を結んで、しかもやっぱり『蕩かすようなあの女の魅力の俘』になっていたらしいではないか。あのバガウトフは、正銘のペテルブルグの上流社會出の青年だったし、且つ彼が『なんの取柄もない男』(というのはヴェリチャーニノフが彼に加えた評言であるが)であって見れば、彼が立身出世できる世界は、ペテルブルグを除いてはほかにないはずである。しかるにその後が、ペテルブルグという自分にとっては掛けがえのない地の利を抛擲してまで、T市で五年の歳月を空費したのも、誰ゆえかと言えば、ほかならぬあの女のためなのだ! しかもその彼がやがての果てにペテルブルグへ舞い戻ったのも、もとをただせばやっぱり自分と同樣、『弊履のごとく』振り棄てられたからに相違ないのだ。してみるとあの女にはやっぱり、何かしら普通の女には見られぬ――男を惹きつけ、奴隷にし、心のまま操る一種の力が具っていたのだ!
 とはいえ、またその一方では、それほど男の心を惹きつけ奴隷にするほどの腕のある女とも思えなかった。つまり『どっちかというと美人のほうじゃなかったし、ひょっとしたら不器量なほうだったかも知れない』のである。ヴェリチャーニノフが彼女を知った時は、もう二十八になっていた。大して美しいとは言えぬ顏ではあったが、それでも時として氣持のいい生氣を帶びて輝くこともあった。だが眼つきに難があった。その眼差しには何かどぎつすぎるところがあらわれていたのである。それにひどく痩せ形だったし、知育のほうも貧弱きわまるものであった。もっとも才智にかけてはなかなか優秀で、むしろ俊敏なほうであったけれど、それなりにまずきまって偏頗な物の見方をしていた。ものごしは田舍町の婦人のそれで、おまけに正直のところ、いろんなてくだを弄する癖があった。趣味は洗煉されてはいたけれど、主としてそれは衣裳の着つけにしかあらわれなかった。はきはきした氣性で、ともすれば人を抑えたがる傾きがあった。何ごとにまれ、彼女といい加減なところで妥協することはできぬ相談で、『一切か然らずんば無』だった。困難な問題にぶつかった場合に彼女の見せる不屈さと根づよさには、驚嘆すべきものがあった。生れつき鷹揚なところがあったが、一方それと並んでほとんど常に、底の知れないほど意固地なところもあった。この奧さんとは議論してもなんにもならなかった。二々が四などということはてんで受けつけないからである。いついかなる場合でも、自分が間違っていたとか自分が惡かったとか思ったことはついぞなかった。しょっちゅう、一々數え切れぬくらい夫を裏切っていながら、それが少しも良心の重荷にはならない女だった。ヴェリチャーニノフ自身が彼女にくだした比喩によれば、彼女は、自分が本物の聖母だと思いこんでいる『鞭身教の聖母』みたいなもので、ナターリヤ・ヴァシーリエヴナは、自分の一擧一動に極度の自信をいだいていたのである。情人に對しては忠實であったが――それも厭きのこないうちだけのことだった。情人を苦しめることも好きだった代りには、その報酬を與えることも好きだった。型からいえば情熱的で、殘酷で、肉慾的な女だった。彼女は淫蕩な生活を憎んで、ほとんど信じられぬほどにいきり立ってそれを非難するのだったが、そのくせ自分も淫蕩な女だったのである。しかもどんな事實を並べ立てたところで、彼女に自分の淫蕩さを氣づかせることはとてもできない相談だった。『あの女はきっと「本心から」それを知らずにいるんだ』と、まだT市にいたころヴェリチャーニノフはよく考えたものである。(ついでに言っておくが、そういう彼だって彼女の淫蕩生活のお仲間だったのである。)
『つまりあの女は』と彼は考えるのだった、『まるで不貞の妻たらんがために生まれてきたような女の一人なのだ。ああした女というものは、決して老孃オールド・ミスになんかなれるものじゃない。そうした要求から必らず嫁に行く――これがああした女の自然法則なのだ。そこで夫が最初の情人になるわけだが、それも婚禮が濟んでからときまっている。實際あのてあいほど巧く手取り早く嫁に行く連中はないものな。さて最初の不貞については、必らず夫のほうに罪があるものだ。といった調子で、極度の誠心誠意さで次々に男をこしらえる。だからああした女はいつまでたっても、相變らず自分が絶對に正しいもの、したがってもちろん自分には罪とがなんぞ全然ないものと思っているのだ。』
 ヴェリチャーニノフは、そうした型の女が實際にいるものと固く信じこんでいた。が同時にまたその一方では、女に對應するような夫、つまりそうした型の女に對應するのを唯一の使命として生まれてきたような夫の型も、やはり存在するものと信じていた。彼の見解によれば、そうした夫の存在の意義は、謂わば『永遠の夫』たるところに、或いはもっと的確に言えば、一生涯ただただ一個の夫たるにとどまって、それ以外の何ものでもないところに存する。『この種の男はただただ妻帶せんがためにのみこの世に生まれ、生長してゆくのだ。そして一たん妻帶したのちは、よしんば獨自の立派な性格の持主であったにしても、ただちに自分の妻の腰巾着に變じてしまうのだ。こうした男の主要な特徴は、一種めかし立てていることである。太陽が輝かずにはいられないと同じ理窟で、こうした男は寢取られ男にならずには濟まない。しかし彼はその事實に決して感づく折がないばかりか、自然の法則によって一生涯決して悟れぬことになっているのだ。』といったわけでヴェリチャーニノフは、この二つの型の存在することは固く信じて疑わず、そしてT市にいたころのパーヴェル・パーヴロヴィチ・トルーソツキイこそは、その一つの型の完全な代表的人物だと確信していたのである。昨夜のパーヴェル・パーヴロヴィチが、T市にいたころ彼の知っていたパーヴェル・パーヴロヴィチではなかったことは、もちろん申すまでもない。とても信ぜられぬほどの變りようだと彼は思ったが、とはいえヴェリチャーニノフは、彼が變らざるを得なかった次第も、またそれがまったく自然だということも、よく知っていたのである。トルーソツキイ氏なる人物が、あの昔のままの人間でいられるのは、ただ妻の存命しているうちだけのことで、今となってはあの男はもう、いきなり中有にほうり出された完全體の破片かけら――つまりなんともたとえようもない、何かしら奇態な代物にすぎないのである。
 Tにいたころのパーヴェル・パーヴロヴィチについては、次のようなことがヴェリチャーニノフの記憶に殘っていて、彼は今それを思い出したものである。――
『もちろん、T時代のパーヴェル・パーヴロヴィチは單に夫にすぎず』それ以外の何ものでもなかったのだ。よしんば彼が夫たると同時にまた、官吏であったにしたところで、それは官職なるものが彼にとって、請わば夫婦生活の義務の一つとなっていたからにほかならない。彼自身としてもすこぶる勤勉な官吏ではあったが、底を割っていえば彼のその勤務も、女房のためであり、また彼女のT市における社交上の地位のためにほかならなかったのである。彼はそのころ三十五歳で、幾らかの財産――といっても決して馬鹿にはならない財産があった。役所では別にとり立てていうほどの手腕も示さなかったが、さりとて無能ぶりを發揮したわけでもない。縣内の上役と見れば誰彼の選り好みなしに交際つきあって、すこぶる受けがいいという評判であった。ナターリヤ・ヴァシーリエヴナはT市の人々の尊敬をほしいままにしていた。とはいえ、別段それを有難がるでもなく、當然受くべき敬意を受けるまでだといった顏をしていた。しかし自宅での客のもてなしはすこぶる手に入ったもので、おまけにパーヴェル・パーヴロヴィチまでが彼女のお仕込みのおかげで、縣下のどんな高官貴紳をもてなす場合でも、恥かしくないだけの行儀作法を身につけていた。おそらく(とヴェリチャーニノフには思われた)、この男には相當の才智もあったのだろう。ただし、ナターリヤ・ヴァシーリエヴナは亭主がお喋りをするのをあまり好まなかったので、せっかくの才智も大して人眼にふれる機會がなかったのであろう。それのみならず彼には、いろんな惡いところもある一面、さまざまな美質も持って生まれていたらしい。ただ美質のほうはいつも陰にかくれてばかりいて表面にあらわれず、一方惡い性癖のほうはほとんど完全に抑壓されていたとみえる。例えばヴェリチャーニノフは、トルーソツキイ氏には時として、親しくしている連中を嘲笑したがる傾向の生ずることのあったことを記憶している。しかしこれは固く禁ぜられていたのである。また時には何か面白いことを言いだすのが好きであったが、これにもまた監視の眼が光っていて、何かたわいのないことをてみじかに話すことしか許されなかった。彼はまた家庭の外での友人同志のつきあいに加わって、おまけに酒杯をともにしたがる傾向があった。しかしこのあとのほうは、未然のうちにその禍根を絶たれていたといってよい。しかも特筆に値する事實は、よそ目には誰一人として、この亭主が女房の尻に敷かれていると氣づく者がなかったことである。ナターリヤ・ヴァシーリエヴナは打ち見たところ、まったく從順な妻に見えたし、のみならず自分でもそう信じていたかも知れない。パーヴエル・パーヴロヴィチのほうでは、ナターリヤ・ヴァシーリエヴナに首ったけだったかも知れないが、そんな氣振りは誰一人の眼にも映らず、また見ようとしてもおそらくは不可能だったに違いない。これもやはりナターリヤ・ヴァシーリエヴナが家のなかで然るべく采配をふるっていたからである。
 T市にいた一年のあいだにヴェリチャーニノフは一再ならず、こんな問いを自分にかけて見たものである。――一體あの亭主は、自分の女房と俺との仲を、少しも疑ってはいないのだろうか? と。彼は三四度このことについて、本氣でナターリヤ・ヴァシーリエヴナに問いただしたことがあったが、返事はいつも同じで、やどは何一つ感づいてはいないし、またこれから先も感づくことは決してありはしない、それに『こうしたことがらは、あの人の知ったことじゃありませんもの』と、幾ぶん心外だといった語調で答えるのであった。彼女についてはまだ特筆すべきことがある。それはパーヴェル・パーヴロヴィチのことをついぞ嘲笑ったことはなく、彼がどんなことを言っても、それが滑稽だとも大してみっともないことだとも思わず、もし誰か他人に對して何か無禮でも働こうものなら、極力彼をかばったに相違ない。子供がないものだから、彼女が社交婦人型に變って行ったのはむしろ自然の數であったが、さりとて彼女にとっては自分の家庭も無くては叶わぬものだったのである。社交界のさまざまな樂しみに全心を打ちこんでゆくことの決してできない女で、家にいるときは家事や手藝にいそしむことがすこぶる好きだった。パーヴェル・パーヴロヴィチは昨夜、T市にいたころ靜かな晩を讀書にすごしたことを追想していたが、それは實際よくあったことで、ヴェリチャーニノフが讀み役に※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ることもあれば、パーヴェル・パーヴロヴィチが引き受けることもあった。これはヴェリチャーニノフにとって意外だったが、トルーソツキイは朗讀がすこぶる上手だった。そういう時ナターリヤ・ヴァシーリエヴナは何か針仕事をしながら、しんみりとなごやかな面持ちで聽いているのが常だった。讀まれたのはディケンズの小説とか、ロシヤの雜誌に載っているものとかだったが、時には何か『堅いもの』が讀まれることもあった。ナターリヤ・ヴァシーリエヴナはヴェリチャーニノフの教養の高さに敬服してはいたが、といって別に口に出してそれを言うでもなく、謂わばもうできあがって濟んでしまった事實として、別に今さら言うものはないといった扱いをしていた。一般に話が書物のこととか學問のことになると、それは有益なことかも知れないけれど自分の知ったことじゃない――といったふうな冷淡な態度をとるのが常だった。一方パーヴェル・パーヴロヴィチは時としてそうした話にかなりの熱を示すことがあった。
 T市での情事は、ヴェリチャーニノフのほうがすっかりのぼせあがって、ほとんど狂氣せんばかりになったところで、いきなり破れてしまった。自分が『幣履のごとく』振り棄てられたとはつゆ氣づかずに彼がって行くようにと、萬事は巧みに仕組まれていたとはいえ、底を割って言えば、手もなくぽいとほうり出されたのに違いなかった。それにはこんないきさつがあった。――彼が立去る一と月半ほど前のこと、幼年學校を出たばかりの子供みたいな砲兵士官がひょっこりT市にあらわれて、トルーソツキイ家へ出入りをするようになった。そこで三人組が變じて四人組になったのである。ナターリヤ・ヴァシーリエヴナはこの乳くさい少年士官を愛想よく迎え入れたが、それはまるで子供でもあやすような態度だった。ヴェリチャーニノフは何一つ完全に氣づかずにいたし、またそのころだしぬけに一時的とはいえ、とにかく別れ話を切り出されたのであって見れば、感づくの感づかぬの騷ぎではなかったのだ。その時、彼が是非とも大至急にT市を立退かなければならぬ理由として、ナターリヤ・ヴァシーリエヴナが數えたてた無慮無數の理由のなかには、どうやら姙娠したような氣がするということもはいっていた。だからよし三月でも四月でも、とにかく至急に一時身をかくしてもらわなければ困る、そうすれば後日になって妙な噂が立ったにしても、何ぶん九カ月もたったあとのことであって見れば、夫が何かの疑いをはさむ餘地がよほど少なくなるはずだ――というのである。どうもかなり牽強附會な論法であった。ついでヴェリチャーニノフのほうから、いっそパリかアメリカへ駈落ちしようという亂暴な提案が持ち出されたのち、彼は孤影悄然とペテルブルグへ立ち去ったのだった。『何の疑念もいだかずほんの一時のつもりで』――つまりたかだか三月ぐらいのつもりだったのである。それでなかったらたといどんな理由を並べたてられ、どんな理窟で押してこられたところで、彼は立去らなかったに相違ない。それからちょうど二カ月して、彼はペテルブルグでナターリヤ・ヴァシーリエヴナからの手紙を受取ったが、それには二度と再び歸って來てくださるな、今ではもう他の男を愛しているからとあった。また例の姙娠については、あれは自分の思い違いだったとしてあった。今さら思い違いだなどと報らせてもらうまでもなく、彼にはすでに何もかも明瞭だった。例の少年士官を思い出したのである。という次第で、事は永遠に終りを告げてしまった。それからまた數年して彼は、バガウトフなる者が登場して、まる五年のあいだ居坐っていたという話をふと風の便りに耳にした。今までになくこの關係が長つづきをしたという事實について、彼がくだしたいろんな解釋のなかには、てっきりあのナターリヤ・ヴァシーリエヴナももうよほど老けてしまったのだな、それで昔よりしつこくなってるんだな、という考えも加わっていた。
 彼は一時間ちかくも寢臺のうえに坐り込んでいた。やがてふとわれに返ると、ベルを押してマーヴラに珈琲を持って來させ、急いで飮みほし、着物を着て、十一時きっかりに宿の門を出てポクロフ寺をめざした。例のポクローフスキイ・ホテルを探そうというのである。そのポクローフスキイ・ホテルなるものについても、今ではもう昨夜と違った、一種特別の謂わば朝の感じともいうべきものが彼の胸に形作られていた。なかんずく昨夜の自分のパーヴェル・パーヴロヴィチに對する態度を思うと、われながら幾ぶん氣恥かしいほどだった。まずこの氣持をなんとか解決しなければならなかった。
 戸口の錠前についての昨夜のいろんな幻想は、偶然の暗合だとか、パーヴェル・パーヴロヴィチが酩酊のていだったこととか、まだなんとかかんとか理窟を持ち出して説明をつけていた。ところがなんだって自分が今、あの女のもとの亭主のところへ、せっかくこうして二人のあいだにあったことは殘らずきわめて自然にひとりでに結着がついてしまっているものを、今さらまた新らしい關係をつけに出かけて行くのか――ということになると、正直のところ彼にははっきりした解釋がつき兼ねるのだった。彼は何物かに吸い寄せられているのだ。あの時彼は何か一種特別な印象を受けとり、その印象のお蔭で、こうして吸い寄せられて行くのだ。……


五 リーザ


 パーヴェル・パーヴロヴィチは『まいて逃げ』ようなどとは考えてもいなかったし、それにまたなんだって昨夜ヴェリチャーニノフが彼にそんなことを訊いたのやら、それは神樣しか御存じあるまい。何しろ當の本人にも、どうした譯やらさっぱり見當がつかないのである。ポクロフ寺のそばの小店で行き當りばったりに尋ねて見たら、ポクローフスキイ・ホテルならついそこのあの横町だと教えてくれた。そこでホテルに行くと、トルーソツキイさんは、このごろこの中庭につき出ている翼屋のマリヤ・スィソエヴナの家具つきの部屋に『御逗留中で』という挨拶だった。鼻のつかえそうな、ぼちゃぼちゃと水の撒いてある、ひどく不潔な石の梯子段をつたわって、その教えられた部屋のあるという翼屋の二階へあがって行くと、彼はふと人の泣聲を耳にした。泣いているのは七つか八つの子供らしかった。いかにも苦しそうな泣聲で、押し殺そうとしながら、しかもあとからあとからとこみ上げてくる歔欷なのである。それとともに地團駄を踏む音と、やはり押し殺してはいるが、はげしい怒りに燃えたどなり聲――わざと嗄れた裏聲を出してはいるけれど、明瞭に大人の男聲である――が聞こえた。その大人は泣き叫ぶ子供を鎭めようとしているらしく、その泣聲が外に漏れるのをひどく苦にしている樣子だったが、そのくせ自分のほうが子供よりひどくがなり立てるのだった。それは無慈悲などなり聲で、子供のほうはまるで泣きながら赦しを願っている風に思えた。階段をあがりきると小さな廊下で、兩側にそれぞれ二つの戸口があった。ヴェリチャーニノフはそこで、でっぷり肥った、背の高い、なりふり構わず髮をばさばさにした女房に逢ったので、パーヴェル・パーヴロヴィチの住居はどこかと尋ねて見た。すると彼女は、泣聲の漏れてくる戸口を指して見せた。この四十女のでっぷりと赤黒い顏には、何か忌々しげな色があった。
「ほれまあ、大した道樂もあったものさあね!」そんな口小言をいいながら、女はさっさと梯子段のほうへ行ってしまった。ヴェリチャーニノフはノックしようと思ったが、思い返していきなり案内もなしにパーヴェル・パーヴロヴィチのドアをあけた。あまり廣くはない部屋には、粗末な色塗りの家具が亂暴に、しかし豐富に並べ立てられてい、その眞中にパーヴェル・パーヴロヴィチが服を着かけたところと見え、まだ上着もチョッキもなしの姿で突っ立っていた。興奮のあまり滿面に朱を注いで、どなりつけたり、手ぶり身ぶりを使ったり、それのみかおそらく(とヴェリチャーニノフには思われた)足蹴にかけてまで、まだ八つばかりのいたいけな女の子を、押し默らせようとしているところであった。女の子にはお孃さん然と黒い毛織の短い子供服が着せてあったが、一見してみすぼらしい代物に違いなかった。彼女はまぎれもないヒステリーの發作をおこしているらしく、ヒステリックにしきりにしゃくり上げながら、兩手をパーヴェル・パーヴロヴィチのほうへ差し伸べている。その樣子は、彼のからだにすがりつき、抱きついて、何ごとかを哀訴し哀願しようとしているらしいふうである。と、一瞬にしてがらりと場景が一變してしまった。客の姿をみとめると、女の子はきゃっと一こえ叫んで、隣の小部屋へ矢のような勢で駈けこんでしまうし、パーヴェル・パーヴロヴィチのほうは一瞬間、思い惑うふうに見えたが、たちまち顏じゅうが例の微笑に溶けこんでしまった。ちょうど昨夜、階段口に突っ立っていた彼の鼻先へ、いきなりヴェリチャーニノフがドアをあけはなした時に見せた微笑と、寸分たがわぬ微笑であった。
「これはアレクセイ・イヴァーノヴィチ!」と彼は意外に堪えんといった聲で叫んだ、「まさかあなたがおいでくださろうとは……とにかくまあこちらへ、こちらへどうぞ! ま、その安樂椅子におかけください、それともこっちの肱掛椅子になさいますか。私はちょっと御免を蒙って……。」
 そして彼は、チョッキを着るのを忘れて、いきなり上着をひっかけた。
「まあ他人行儀はおよしなさい、どうかそのままで」と言いながら、ヴェリチャーニノフは木の椅子に腰をおろした。
「いや、その段じゃありません、とんだ恰好を御覽に入れて。さあこれでどうやら恰好がつきました。おや、あなたはまたなぜそんな隅っこへなんぞ? さあこちらへ、この肱掛椅子にどうぞ、テーブルのそばへお寄りなすって……。いやまったく思いがけませんでしたよ、あなたがいらしてくださろうとは!」
 そう言いながら、彼のほうでも籐椅子の端っこへ腰をおろしたが、ヴェリチャーニノフと肩を並べる位置にではなく、この『思いがけぬ』客の顏がよく見えるように、長椅子をくるりと半囘轉させたのである。
「思いがけないなんて、なぜです? ちょうど今ごろお伺いすると、昨夜ちゃんとお約束しといたじゃありませんか?」
「來てはくださるまいと思ったのです。今朝目がさめて、昨夜のことを殘らず思い返して見ましたら、もうとても、おそらく永遠に、あなたにお目にかかれる望みも絶えた、とそんなふうに思われたんですよ。」
 ヴェリチャーニノフはそのあいだにぐるりを見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)した。部屋のなかは雜然たる有樣で、とこは取りっぱなしになっているし、着物はそこらに脱ぎっぱなしだし、テーブルのうえには飮み乾した珈琲カップがあるかと思えば、パン片がころがっている、まだ半分も飮んでないシャンパンの壜が、栓もせずに立っている横には、コップも伏せずにあるといった始末であった。彼は横目でちらりと隣室を盜み見たが、そこではこそりとも音はしなかった。女の子はかくれたまま、じっと息を殺しているらしい。
「これをってらっしゃるところじゃなかったんですか?」とヴェリチャーニノフはシャンパンを指さした。
「昨夜の飮み殘しですよ……」とパーヴェル・パーヴロヴィチはへどもどした。
「いや、まったくあなたは變りましたなあ!」
「じつは、ひょいとこんな惡い癖がつきましてね。まったく妻が亡くなってからのことなんです。嘘は申しませんよ! なんとも我慢ができんのでしてね。ですが今日は御心配には及びませんよ、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、大丈夫今日は醉っちゃおりませんし、したがって昨夜お宅でやったような管を卷く氣づかいはありませんからね。とにかく正直の話が、こんなことはみんな妻が亡くなって以來のことなんですよ! まったく假りに半年前に誰かが、私がやにわに心をもち崩して今日のようなぐうたらになると言ったところで、またその私の姿を鏡に映して見せてくれたにしたところで、とても本氣にしやしなかったに違いないでさ!」
「じゃあなたは、昨夜は醉ってらしたんですね?」
「じつはね」とパーヴェル・パーヴロヴィチは小聲で白状して、やり場に窮した眼を伏せた、「ですが、本當をいうとあれは醉いの絶頂じゃなくて、幾ぶんもう下り坂だったんですよ。私がそれを申すのはつまり、私の酒はあとのほうがむしろ惡いということがわかって頂きたいからなんです。酒っ氣はもう幾らも殘っていない、そのくせ一種殘忍な氣分と無分別な氣持だけは尾をひいている、おまけに悲哀という奴が一そう身にしみて感じられる、とまあそういった工合で。もっとも悲しいからこそ飮むんでしょうけどね。そうなるともう私は、愚にもつかん厭がらせでもなんでもどしどしとやってのけるようになるんですし、人に赤恥をかかせるぐらい平氣の平左です。昨夜はさだめし、よほど變なところをお目にかけたでしょうね?」
「覺えがないと仰しゃるんですか?」
「覺えがないどころか、殘らず知っていますよ……。」
「そら御覽なさい、パーヴェル・パーヴロヴィチ、私もてっきりそんなことだろうと思って、そう解釋していたんですよ」とヴェリチャーニノフは和解するような口調で言った。「それに私も、昨夜はあなたの前で少々げきしすぎましたよ……おまけに妙にいらいらして失禮でした。これははっきり白状させてもらいます。じつは時にどうも氣分のよくないことがあるんでして、そこへあなたがいきなり眞夜中に見えたものだから……。」
「そうそう、眞夜中でしたからねえ!」とパーヴェル・パーヴロヴィチは、さも驚いたように、また自分を非難するように、頭を振りながら言った、「まったくなんという魔がさしたもんでしょうなあ! あなたのほうでドアをあけてさえくださらなけりゃ、私は決してお寄りはしなかったはずなんですよ。戸口のところで引き返したに違いないんです。じつはね、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、私は一週間ほど前にも一度お訪ねしたことがあるんですがね、あいにくお留守だったんです。で、とにかくもう二度とお訪ねはしないはずだったんです。こう見えても私だって多少の自尊心はありますものね、アレクセイ・イヴァーノヴィチ。現在自分がこんな……境涯になっているとは百も承知でいながら、やっぱり拔け切れないものでしてね。往來でちょいちょいお目にかかった時にも、私はいつもこんなふうに考えていたのです――『私だということがわからんはずがない、だのに外方そっぽを向いて行く、なるほど九年の歳月は爭われんものだ』とね。ですからおそばへ寄ってみようという氣にもなれなかったのです。ところが昨夜ペテルブルグスカヤ區を振り出しにぶらぶら歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)っているうちに、つい時間まで忘れちまったのです。みんなこれと(と彼は酒壜を指さした)、それから感情のさせたことなんです。いやはやなんともはや、馬鹿げた話でして! ですから、もしこれがあなたのようなかたでなかったら、――だってあなたは、昨夜のような醜態があったにもかかわらず、昔の友誼に免じてこのとおり訪ねて來てくだすったですものね、――私には定めし、昔の交誼を結び直そうという希望も失せてしまったに違いないのです。」
 ヴェリチャーニノフはじっと耳を澄ましていた。この男は打ち見たところ、誠意をもって一種の權威をさえもって、語っているらしい。それにしても彼は、そもそもこの部屋へはいって來た瞬間から、この男の言うことには何一つ信を置いてはいなかったのである。
「ときに、パーヴェル・パーヴロヴィチ、するとあなたは、一人ずまいというわけでもないんですね。さっきあなたのそばにいたあの娘さんは、あれは誰のお子さんなんですか?」
 パーヴェル・パーヴロヴィチはむしろこの問いが意外だといった面持ちで眉を釣り上げたが、そのくせ晴々と樂しげな眸でヴェリチャーニノフを眺めた。
「誰の娘かって仰しゃるんですか、驚きましたね。あれはリーザじゃありませんか!」と、彼は人懷こい微笑を浮かべて口走った。
「リーザというと?」ヴェリチャーニノフは呟き返したが、その瞬間不意にどきりと胸にこたえたものがあった。あまりにも突然な衝撃だった。先刻この部屋へはいって來てちらとリーザの姿を認めた時も、意外の感はあるにはあったが、とはいえ豫感だとか特別な想念だとかいうものは、爪の先ほども浮かんではこなかったのである。
「そうですよ、うちのリーザですよ、うちの娘のリーザですよ!」とパーヴェル・パーヴロヴィチはにこにこした。
「娘さん? じゃあなたとナターリヤさん……亡くなられたナターリヤ・ヴァシーリエヴナとのあいだには、お子さんがあったと仰しゃるんですか?」おずおずとさも訝かしげにヴェリチャーニノフは問い返したが、その聲はもうほとんどひそひそ聲に近かった。
「なんだってまたそんな? あ、そうでしたか、なるほどこりゃあ、あなたのお耳にはいるわけはないはずでした! まったく私は何をぼやぼやしてたんだろう! あの子を授かったのは、あなたがお發ちのあとのことでしたものなあ!」
 パーヴェル・パーヴロヴィチは妙に興奮して、椅子から跳びあがったほどだった。とはいえそれはやっぱり嬉しさのあまりだったらしい。
「私はちっとも知らなかった」とヴェリチャーニノフは言って、さっと蒼くなった。
「ごもっともです、ごもっともです、まったくお耳にはいるはずはありませんよ!」とパーヴェル・パーヴロヴィチは感動に聲をくもらして、おなじ文句をくり返した、「あなたも覺えておいででしょうが、私も亡妻も、もうとても子供はできないものと、二人して諦めておりましたのですよ。そこへ思いがけなく神樣のお惠みがあったわけです。その時の私の氣持といったら、これは神樣にしかわかっては頂けませんよ! たしかあれは、あなたがお發ちになって、ちょうど一年してからだったでしたな! いやそれとも、いや一年じゃない、とてもそうはならない、ちょっとお待ちください。あの時あなたがお發ちになったのは、私の覺え違いでなければ、たしか十月でしたな、それとももう十一月にはいってからでしたかな?」
「私がT市を發ったのは九月のはじめでしたよ、九月の十二日です。今でもよく覺えていますが……。」
「おや、九月でしたかしら? ふむ……何だってそんな思い違いをしたもんだろう?」パーヴェル・パーヴロヴィチはひどくびっくりした樣子だった、「じゃまあ、そうすると、ええとどうなりますかな。――あなたの發たれたのが九月の十二日と、そしてリーザの生まれたのが五月の八日とすると、――九、十、十一、十二、一、二、三、四――つまり八カ月と少しになりますね、ね! せめてあなたが御存じだったらと思いますよ、亡くなった家内がどんなに……。」
「見せては頂けませんかしら……ここへ呼んでくださいませんか……」と、妙にうわずった聲でヴェリチャーニノフは口ごもった。
「よござんすとも!」とパーヴェル・パーヴロヴィチは、自分の言いかけていたことなど、まったく無用のことのようにあっさり思いきって、せかせかと言った。「すぐ、今すぐ御覽に入れましょう!」そして急ぎ足でリーザのいる小部屋へはいって行った。
 それから三四分はたしかにたったと思われる。隣りの小部屋では何か早口にひそひそと囁き合う氣配がして、リーザの聲もかすかにそれにまじって漏れて來た。『引っ張り出されるのが厭だと謝ってるんだな』――とヴェリチャーニノフは思った。やがて二人は出て來た。
「何せこのとおり、はにかんでばかりいましてな」とパーヴェル・パーヴロヴィチは言った、
「どうも恥かしがりで、そのくせ氣位が高くて……まるで亡妻に生き寫しですよ!」
 出て來たリーザはもう泣いてはいなかった。目を伏せて、父親に手を引かれている。見ると年の割には身丈が伸びてすらりとした、非常に美しい少女だった。彼女は大きな空色の眼を、物珍らしげに、ちらと客のほうへあげた。しかし彼の顏を無愛想に一瞥するなり、すぐまた目を伏せてしまった。子供というものは知らない人と二人きりにされると、部屋の隅へ逃げて行って、そこからこのついぞまだお客に來たこともない目新らしい人の顏を、妙に生まじめな不審そうな眼つきでじろじろと眺めるものだが、ちょうどそれと同じ子供らしい他所他所しい生まじめさが、彼女の眼差しにも浮かび出ていた。と同時にまた、何かしらもう子供の考えとはいえぬようなものも、どうやらあらわれているらしい――とそんな風にヴェリチャーニノフには思われた。父親は娘を彼のすぐそばまで連れて來た。
「そらね、この小父さんはお前のお母さんを御存じだったかただよ、お父さんたちの仲好しだったんだよ。だからちっとも怖くはないんだよ、さ、おててをお出し。」
 少女はかるく會釋をして、おずおずと手を差しのべた。
「私どもでは、ナターリヤ・ヴァシーリエヴナが、あのお客を迎える時膝頭でやる禮を、この子に教えるのを嫌って、こうして英國流に、かるく會釋をしてお客に手をさしのべるように仕こんで置いたんですよ」と、父親はヴェリチャーニノフの顏にじっと眼をつけながら、言いわけがましく言葉を添えた。
 ヴェリチャーニノフは見つめられているとは知っていたけれど、もうこうなっては自分の動搖を押し包もうともしなかった。彼はじっと身じろぎもせず椅子にかけたまま、リーザの手をわが手に握りしめて、その子の顏につくづくと見入っていた。一方リーザは何かひどく氣にかかることがあるとみえ、自分の手を客にあずけていることも忘れて、父親の顏から眼をそらさなかった。彼女はおどおどした樣子で、父親の話を何一つ聞きもらすまいと耳を澄ましていた。ヴェリチャーニノフは早速その大きな空色の眼に目をつけて、これはと思いあたったが、何よりもはげしく彼の胸をうったのは、彼女の顏の人並はずれた、拔け出るばかりの美しい白さと、もひとつ髮の毛の色合いであった。これらの特徴は、彼にとってあまりにも意味深いものだったのである。これに反して顏だちや唇の恰好は、ナターリヤ・ヴァシーリエヴナをさながらに彷彿させた。一方パーヴェル・パーヴロヴィチは、そのあいだに何かしきりに喋りはじめていた。ひどく熱のこもったしみじみとした語調でやっているらしかったが、ヴェリチャーニノフの耳には一言もはいってこなかった。彼がちらと耳にはさんだのは、こんな最後の一句だけだった。――
「……というわけでね、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、この子を授かった時の私どもの喜びようときたら、とてもあなたには御想像もつきはしませんよ! 何しろこの子が生まれてからというもの、この子が私の一切になってしまったわけでして、ですからよしんば不幸にして、私の靜かな幸福が消えてしまったにしたところで、――このリーザだけはこのとおり私の手許に殘っていると、まあこう考えているんですよ。これだけはまあ、私が固く信じて來たことなんですよ!」
「で奥さんのほうは? あの人はどう思っておいででした?」とヴェリチャーニノフは訊いた。
「家内ですか?」とパーヴェル・パーヴロヴィチはちょっと鼻白んで、「あなたは家内を御存じだから覺えておいででしょうが、何しろあのとおりの至って口數の少ない女でしたからな。がその代り、臨終の床でこの子と別れの言葉を交わした時の樣子といったら……そのきわになって平生胸の底に押し包んでいたことを、すっかり出してしまったというわけですよ! 今私は『臨終の床で』と申しましたね。ところがじつは、息を引きとる前の日になると、にわかに興奮してぷりぷりしだしましてね、――こんな藥なんかで癒そうとしているが、自分のはただほんの當り前の熱病に過ぎない、第一今のお醫者は二人ともてんで盲目なんだ、あのコッホさん(御記憶でしょう、私どもの町で一等軍醫をしていたあの老人ですよ)、あのコッホさんさえ歸ってみえたら、二週間もすればもうお床上げができるんだ、とこんなことを口走る始末なんです! それからまた、臨終がもう五時間さきに迫っているという時になると今度は、三週間すると叔母さんの誕生日だ、誕生祝いには是非とも行ってあげなければならないなどと、そんなことを言い出したものです。この叔母さんというのはリーザの教母でしてね……」
 ヴェリチャーニノフは急に椅子をたったが、リーザの小さい手はやっぱり放さなかった。この娘が父親の顏にじっと注いでいる燃えるような眼差しに、何かなじるような色のあるようなのが、彼にはどうも氣になってならなかったのである。
「お子さんは加減がお惡いんじゃないですか?」と彼はあわてたような、何か變てこな調子で訊いた。
「そんなことはないはずですがね。もっとも……何しろ御覽のとおりの状態だもんでして」とパーヴェル・パーヴロヴィチは憂わしげな心痛の色を見せて、しんみりと言った、「どうも一風變った子でしてね。ただでも神經質なところへ持ってきて、母親が亡くなったあとでは二週間ほど病みつきましてね、すっかりヒステリックになってしまいました。そら先刻も、あなたがはいっていらっしゃる時、泣聲がしてましたでしょう、それから、『これ、リーザ、これ!』って、あれもお耳にはいりましたでしょう? 事のおこりはそもそもなんだとお思いです? みんなそれこの子が、お父さんが行ってしまう、あたしを捨てて行ってしまう、って言い出したからなんですよ。つまりその、ママが生きてらっしゃるころみたいにもう可愛がってはくださらないんですもの――とそう言って、この私を責めるんです。まだ玩具でもかかえて喜んで遊んでいるはずのこんな小っぽけななりをして、頭のなかじゃそんなとんでもないことを考えてるんですからねえ。もっともここではこれという遊び相手もないには違いないんですが。」
「じゃそのあなたは……あなたは本當にこのお子さんとお二人きりの暮らしなんですか?」
「まったくの親一人、子一人です。そのほかは女中が日に一度、身の※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りの世話にちょっと來てくれるだけでして。」
「すると外出される時は、お子さんを一人殘して行かれるわけですか?」
「ほかに仕樣もないじゃありませんか? 昨日なんぞは、それ、あの小部屋に閉じこめて錠をおろして出かけたんでして、そのため今日はこうしてあめが降りだしたという次第なんです。だってあなた、考えてもみてください、ほかになんとも仕樣がなかったんですよ。一昨日おとといなんかはこの子は私の留守に階下したへ降りて行きましてね、男の子に石を頭へぶつけられたという始末ですものね。さもなけりゃまた、おいおい泣き出しちまって、やたらに屋敷うちの人にとびついて、お父さんはどこへ行ったか? って訊き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)るんですよ。外聞が惡くってやりきれませんやね。もっとも私のほうも相當なもんでしてね、ちょっと一時間ほどと言って出かけちゃ、朝歸りといったことをやらかすんで、現に昨日なんかもそうだったんです。まあいいあんばいに、ここの主婦おかみが錠前屋を呼んで來て錠前をはずしてくれたから、とにかく助かったようなもんですが、――まったくいい恥っさらしですよ。われながらつくづく人でなしだと思いますよ。それもこれもみんな私の心に締りがなくなったせいでして……」
「お父さん!」と少女はおずおずと心配そうに口を入れた。
「そら、またお前は! 性もこりもない奴だ! さっきお父さんはなんと言ったかね?」
「もう言わないわ、言わないわ」とおそろしさに顏色を變えて、急いで父親の前に兩手を合わせながら、リーザはくり返した。
「とにかくあなたがたは、こうした環境の生活をつづけるわけにはゆきませんね」とヴェリチャーニノフは、もう我慢がならぬといった調子でいきなり口を切った。權威のこもった聲だった。――「だってあなたは、……あなたは財産のある人じゃありませんか。それをなんだってあなたは、こんな――第一こんな翼屋の、しかもこんな下卑げびた環境のところにおられるんです?」
「翼屋になんぞと仰しゃるんですか? ですがもう一週間もすれば、この町をつことになるかも知れんのですし、それによしんば財産があるにしたところが、それでなくても隨分と出費がかさみましたんでねえ……」
「いや、もう澤山です、澤山です」と、ますますじりじりして來るばかりのヴェリチャーニノフは相手を遮った。まるで、「もう何も言うな、貴樣が何を言おうとしてるかぐらいちゃんと知ってるぞ、貴樣がどんな魂膽でそんなことを言うかも、こっちが先刻御承知なんだ!』[#「御承知なんだ!』」はママ]と浴びせかけでもするような勢いだった。――「それよかまあお聽きください、物は相談ですがね、今あなたはたかがもう一週間の滯在だと仰しゃったですな、しかしそれがまた二週間にならないものでもないです。そこでじつは、當地にさる知り合いの家がありましてね、それがもうこの二十年來、わが生まれた家も同然の心易さで出入りをしている家なんです。ポゴレーリツェフといううちなんですがね。亭主のアレクサンドル・パーヴロヴィチ・ポゴレーリツェフというのは三等官でしてね、そういうこともまあ、あなたの今度の御用件の何かの足しにならないものでもありません。今は一家をあげて別莊のほうへ行っています。貸別莊なんかじゃありません。豪勢な自分の別莊があるんです。細君のクラーヴヂヤ・ペトローヴナ・ポゴレーリツェヴァというのが、姉か母親みたいに私のことを可愛がってくれるんでしてね。八人の子持ちなんです。どうでしょう、早速ですが今すぐ、リーザさんをこの私がその家へお連れしようじゃありませんか……善は急げで、この私が一っ走り行って來ましょうよ。……喜んで預ってくれますよ。そしてあなたが發たれるまでのあいだ、わが娘のように、生みの娘のように可愛がってくれますよ!」
 彼はおそろしく苛だっていたが、別にそれをかくそうともしなかった。
「どうもそれはできそうもありませんな」と、パーヴェル・パーヴロヴィチは澁面をつくり、狡るそうに(とヴェリチャーニノフは思った)彼の眼を覗きこみながら言った。
「それはまたなぜです? なぜできないんです?」
「なぜってあなた、こんな小さな子を、それもいきなり、どうして手放せましょう。――もちろんそりゃあ、あなたのような眞心のこもったかたが仲に立ってくださるのですから心配はないわけでして、そこをとやかく申すのじゃありませんが、それにしてもやはり見も知らぬ家へやるんですからなあ。それにまた、先樣がそういう御大家のことであって見れば、どんな扱いを受けるものやら、この私にもとんと見當がつかんものでして。」
「だから今も、この私が内輪の者同然に出入りをしている家だと申し上げたじゃありませんか」とほとんど怒氣を含んだ聲でヴェリチャーニノフはどなりだした。「クラーヴヂヤ・ペトローヴナにしたってこの私がひと言たのむと言ったら、リーザさんの面倒をみるのをどんなに喜ぶか知れませんよ。まるで私の娘でも預るつもりで……ちぇっ糞! 現にあなただって、ただ文句が並べたいばかりにそんなことを言っておられることを、御自分でも知り拔いておられるんじゃありませんか。……さあ、もうかれこれ言うことはないでしょう!」
 彼は思わずどしんと足踏みまでした。
「いや私の言うのは、すこぶるその變なことになりはしないかということなんですよ。私だってやっぱりせめて一二度はお伺いしてからでなくちゃね、さもないと、まるで父親てておやがないみたいになりはしませんかな? へ、へ、……おまけに向うがそんな格式の高いお家柄ときちゃあね。」
「なあに、ごく氣さくな家ですよ、決してあなたの言われるような『格式』ぶるのなんのという家じゃありません!」とヴェリチャーニノフは叫んだ、「それに今も言うとおり、何しろ大ぜいの子供ですからね。あそこへ行けば娘さんはきっと生き返ったようになるでしょうよ、何しろそれが大眼目なんですからね……。で、もしなんでしたら、あなたは明日お引合わせすることにしましょう。それにどうせ一度は禮を言いに行かなきゃなりませんものね。もしお望みでしたら、毎日でも御一緒に行って見ましょうよ……。」
「でも、やっぱりなんだか……。」
「まだそんなことを! ちゃんと自分で知り拔いているくせに――あなたの惡い癖ですよ! じゃこうしましょう、今日は夕方から私のところへおいでになって、一晩泊ってください。そして明日は、十二時には向うへ着くように、ひとつ早目に出かけるとしましょう。」
「何から何まで親切に取計らってくだすって、お禮の言葉もありません。おまけに泊れとまで仰しゃってくださる」――感動に聲をうるませて、パーヴェル・パーヴロヴィチは急に折れて出た、「じつにはやいたみ入った次第ですよ……ところで、その別莊というのはどこにあるんですか?」
「あのうちの別莊はレスノーエにあるんですよ。」
「ただ、どうしたもんでしょうなあ、この子の衣裳は? 何しろそんなお家柄の邸へ行くんですし、おまけに別莊だときちゃあ、――わかってくださるでしょう……父親の氣持としてですな!」
「衣裳がどうだと仰しゃるんです。ちゃんと喪服を着ていますね。このほかに何か着せたい衣裳があるとでも仰しゃるんですかね? いやいや、これが一番です、これほどお誂えむきの衣裳がほかにあるもんじゃありませんよ! ただその下着だけは、もう少しきれいな奴と取りかえるんですな、その襟あてもね……(襟あても下着の覗いてる部分も、實際ひどく汚れていた。)」
「なるほどこりゃあ、すぐ着かえさせなくちゃなりませんわい」とパーヴェル・パーヴロヴィチはせかせかして言った、「そのほかの入用の下着類もすぐ揃えてやることにしましょう。マリヤ・スィソエヴナのところに洗濯に出してあるんですよ。」
「じゃひとつ馬車をそう言って頂きましょうか」とヴェリチャーニノフは相手の言葉を遮った、「それもできることなら大急ぎで願いたいですな。」
 ところが困ったことができた。リーザがどうしても厭だと言い出したのである。先ほどからの話の模樣を彼女は怖ろしそうにじっと聽き耳をたてていたのだが、もしヴェリチャーニノフがパーヴェル・パーヴロヴィチを説きつける合間に、氣をとめて彼女の顏をさし覗く暇があったなら、必らずやそのいたいけな顏に、身も世もあらぬ絶望の色の浮かんでいるのを認めたに違いないのである。
「あたし行かないわ」と彼女はきっぱりと、小聲で言った。
「ほうらね、どうです、母親そっくりですよ!」
「あたし母さんになんか似ていないわ、母さんになんか似てはいなくてよ!」とリーザは、母親そっくりという言葉が彼女にとっては怖ろしい譴責の聲とひびくと見え、まるで父親の前にその身の明かりを立てようとでもするかのように、懸命に自分のかぼそい兩の手を揉みながら、叫び返すのだった、「お父さん、ねえお父さん、もしお父さんがあたしを捨てるんなら……。」
 と言いさして彼女はいきなり、あっけにとられているヴェリチャーニノフにとびついて來た。
「もしあなたが、あたしを連れて行くんなら、あたしもう……」
 が彼女にはその先を言いつぐ暇がなかった。パーヴェル・パーヴロヴィチが、ほとんど頸根っこを押えんばかりの劍幕でぐいと彼女の片手を引っとらえると、今はもう包みきれぬ憎惡に顏を引っ攣らせながら、無理やりに例の小部屋へ引きずり込んでしまったのである。そこでまたもや暫くのあいだ、ひそひそ聲や、押し殺した泣聲やらが洩れてくるのだった。ヴェリチャーニノフはすんでのことに自分もその部屋へ出かけて行くところだった。しかしパーヴェル・パーヴロヴィチのほうがそれより先に戻って來て、妙に歪んだ微笑を浮かべながら、あの子はすぐ行くことになりましたと告げた。ヴェリチャーニノフはつとめて彼の顏を見まいとして、そっぽを向いた。
 そこへマリヤ・スィソエヴナもやって來た。それは彼がさっき廊下へさしかかった時出會ったあの女房で、持って來た下着類を、リーザの小さな可愛らしい手提袋に詰めこみはじめた。
「じゃあ旦那、あんたがこの娘っ子を連れて行きなさるんですかね?」と彼女はヴェリチャーニノフに話しかけた、「じゃ、あんたは家庭うちがおありなさるんですね? なんぼかいい功徳でござんすよ、ねえ旦那。このおとなしい子を、焦熱地獄から助け出してやりなさるとはねえ。」
「もういいじゃないかね、マリヤ・スィソエヴナさん」とパーヴェル・パーヴロヴィチは呟きかけた。
「あらまあ、マリヤ・スィソエヴナさんだなんて! みんなしてそんな呼び方をして人をおひゃらかすんだよ。ぜんたいお前さんとこが焦熱地獄でないとでもおいいかね? 物ごころのついた子供にさ、恥っさらしの幕ばかり見せてさ、それで濟むとでもお思いですかね? さあ馬車が參りましたよ、旦那。――レスノーエまででしたね?」
「そう、そう」
「じゃあまあ、道中お氣をつけなすって!」リーザは眞蒼な顏をして、眼を伏せながら出て來ると、手提袋をとり上げた。ヴェリチャーニノフのほうにはちらとも眼をやらず、じっと自分を抑えて、別れぎわになっても、先刻のように父親に抱きつこうともしなかった。それどころか、父親の顏は見るのも厭だといったふうにみえた。父親は樣子ぶって彼女の髮に接吻して、それから撫でてやった。すると彼女の唇が引っ攣って、顎がぴりぴりと顫えだしたが、眼はやっぱり父親のほうへあげずにいた。パーヴェル・パーヴロヴィチはどうやら顏色が惡く、兩手はわなわなと顫えていた。彼のほうを見まいとあらん限りの努力をしていたヴェリチャーニノフにもそれだけは、はっきりと見てとれた。彼はもうただ一つのことしか考えていなかった――一刻も早くここを出て行きたい。
『で一體これが、俺の罪だろうか』と彼は考えた、『いやいやこうなる約束ごとだったんだ。』
 どやどやと階下したへ降りて行った。そこでマリヤ・スィソエヴナはリーザと接吻を交わした。そしていよいよ馬車に乘りこんでしまってから、リーザははじめて眼をあげて父親を見て――いきなり兩手を打ち合わし、何かひとこえ高く叫んだ。もう一瞬間の餘裕があったら、彼女は馬車を飛び出して父親に抱きついたに違いないが、車はもう動き出していた。


六 閑人の新らしい妄想


「おや、加減が惡いんじゃないの?」とヴェリチャーニノフはびっくりして尋ねた。「馬車をとめて、水を持ってこさせましょうね……。」
 彼女は彼の顏をふり仰いで、非難をこめた燃えるような眼でじっと見た。
「あたしをどこへ連れて行くのよ?」と彼女はだしぬけに鋭い聲で口走った。
「とてもいいお家へ行くんですよ、リーザ。そこの人たちは今、それは立派な別莊にいるの。大ぜいおともだちがいてね、みんなで可愛がってくれますよ、とてもいい人ばかりなんだから。……私のことを怒るんじゃありませんよ、リーザ、私はあんたのためを思って……。」
 もしこの瞬間に、誰か平生の彼を知っている人が彼を眺めたとしたら、さだめし彼の姿が奇怪なものに映ったに違いない。
「あなたはまあ、――あなたはまあ、――あなたはまあ、――ほんとになんて惡い人でしょう?」と、じっとこらえている涙のため、息をはずませながら、怨みに燃えた美しい瞳を彼のほうへきらりと投げかけて、リーザは言った。
「リーザ、私はただ……」
「いいえ、惡い人、惡い人、惡い人、惡い人よ!」と彼女は兩の掌を揉みしぼった。ヴェリチャーニノフは途方に暮れてしまった。
「リーザ、ねえ可愛いリーザ。そんなに駄々をこねて、この小父さんをこまらせるんじゃありませんよ、ね、いい子だから!」
「お父さんが明日來てくださるって、あれは本當なの? 本當?」と彼女は、おっかぶせるような勢いで返事を迫った。
「本當だとも、本當だとも! 小父さんが連れてきてあげよう。しっかりつかまえて連れてきてあげますよ。」
「お父さんはまた嘘をつくのかもしれないわ」とリーザは足もとに眼を落して囁くように言った。
「じゃ、お父さんはあんたを可愛がってくれないと思うの、リーザ?」
「可愛がってなんかくれないわ。」
「あんたを酷い目に逢わせたかい? え、逢わせたかい?」
 リーザは暗い眼つきで彼を眺めると、そのまま默りこくってしまった。そしてまたもや向うへ顏をそむけてしまって、意固地に顏を伏せたまま動かない。彼は一所懸命に少女を宥めすかしはじめた。熱心こめて話し聞かせているうちに、自分までが熱病にかかったみたいになってしまった。リーザは疑わしげな敵意を含んだ態度ではあったが、それでも耳を傾けていはした。とにかく彼女の注意をひき得たと思うと、彼はひどく嬉しくなった。で、そもそも酒飮みというのはどういうものであるか、ということまで講釋して聞かせたりした。私はあなたが可愛くてならない、だからお父さんが惡いことをしないように、よく見張りをしてあげよう、とも言った。やがての果てにリーザもやっと眼をあげて、まじまじと彼の顏を眺めた。それから彼は、お母さんもよく知っていたという話をしはじめて、この話が彼女の心をひくのを見てとった。次第に彼女の口もほどけてきて、少しずつ彼の質問に返事をするようになったが、相變らず用心深く、強情な態度で、ほんの一言か二言しか口に出さなかった。肝腎な質問になると、彼女はやはり一言も答えなかった。話が以前の彼女と父親との關係にふれると、彼女は一切片意地な沈默を守り通すのだった。話をしているあいだ、ヴェリチャーニノフは先刻のように彼女のかぼそい手を握りしめて、それを放さなかった。彼女のほうでも別に振りほどこうとはしなかった。とはいえまた、この少女がそのあいだじゅうずっと沈默を守っていたわけでもなくて、曖昧な返事の合間合間には、やはりいろいろと口を滑らしてしまうのであった。例えば、前にはお父さんのほうがお母さんよりも私を可愛がってくれた、お母さんは私をあまり可愛がってくれなかった、だから私お母さんよりお父さんのほうが好きだったとか、けれどお母さんがいよいよもう駄目だという時になって、ちょうどみんなが部屋を出ていて私と二人きりになった時、お母さんは一所懸命に私に接吻してさめざめとお泣きになったとか……だから今ではお母さんが誰よりも好きだ、世界じゅうの誰よりも好きだ、そして毎晩毎晩この一番好きなお母さんのことを思い出しては泣いている――とかいった類いのことである。しかしこの少女はじつに傲慢な娘で、ふと餘計なことを喋ったと氣がつくと急にまた自分に閉じこもってしまって、それなり固く口をつぐんでしまうのであった。そればかりか、自分に餘計なことを喋らせたヴェリチャーニノフをさも憎らしそうに睨んだりするのである。
 向うへ着くころになると、彼女のヒステリックな興奮状態はほとんど消えてしまったが、その代りにおそろしく陰氣になってしまい、まるで頑なな人嫌いのように、挺でも動かぬ暗鬱な意固地さで、むっつりと不機嫌な樣子になってしまった。その一方、これまで一度も閾をまたいだことのない見知らぬ人の家へ連れて行かれるということのほうは、今のところでは大して苦にしてはいないらしかった。彼女を苦しめているのはまったく別のことであることが、ヴェリチャーニノフにはみてとられた。彼女は父のことが恥かしいのだ。つまり父親が、まるで彼女を彼の手へ投げ渡しでもするように、すこぶる手っとり早く彼と一緒に出してよこしたということが、彼女には恥かしいのだ――とヴェリチャーニノフは推量した。
『この子は病氣なんだ』と彼は考えた、『それも、よほど重いのかも知れない。苛めて苛めて苛め拔かれたんだ。……ええ、醉いどれの汚らわしい畜生め! 今こそ奴の正體がわかったぞ!』
 彼は馭者をきたてた。靜かな別莊、新鮮な空氣、ひろびろした庭園、子供たち、彼女にははじめての變った生活、それからまたやがて……そうしたものに彼は望みをかけていた。そして、やがてその先がどうなるかということについては、彼はまったく樂觀しきっていた。――充實した明るい希望が輝いているのである。ただ一つ彼がはっきりと意識していたのは、――自分がこれまでについぞ、今この瞬間に味わっているような感じを經驗したことがない、この感じこそ一生涯自分の胸から消え去ることはあるまい! ということであった。『これこそ生の目的なのだ、これこそ人生というものなのだ!』と彼は勝ち誇ったように心に叫んだ。
 いろんな想念が今や彼の腦裡をかすめるのだったが、彼はそれらをみなやりすごして、そのどれひとつにも氣をとめようとはせず、こまごました點からは頑固に眼をつぶっていた。そうしたこまごました點を考慮の外に置くと、萬事はじつに明瞭で、確固として不動のものに見えてくるのであった。そして眼目ともいうべき一つの目論見が、ひとりでにできあがってしまったのである。ほかでもない、彼は『われわれが總がかりになれば、あの胴慾野郎をうんといわせることもできそうなものだな』と空想したのである、『そして彼奴はリーザをペテルブルグに置いて行く、ポゴレーリツェフの家に殘して行く。もちろん初めはほんのいっときとか、假りにとかいうつもりでだが、とにかく一人で發って行ってしまう。そしてリーザは俺の手に殘る。それでもう結構だ。これ以上何を望むことがあろう? それに……それにあの男だって、もちろんそうなることを望んでるんだ。でなけりゃ、なんであんなにあの子を苛めることがあろう。』
 やっと目ざす家に着いた。ポゴレーリツェフ家の別莊は、じつに素晴らしい場所であった。まず一番先に彼等を出迎えたのは、どやどやと別莊の表段へ躍り出た子供の一團であった。ヴェリチャーニノフは隨分久しくこの家に顏を見せなかったので、子供たちのはしゃぎようといったらなかった。みんなこの小父さんが大好きだったのである。なかでも年かさな連中は、彼がまだ馬車を降りないうちから、早速もうこんなことを言って囃し立てた。
「裁判はどうなったの、裁判はもう濟んだの、小父さん?」
 すると一番ちいさな子までがそのあとについて、上の子たちの眞似をしてきゃっきゃっと騷ぎ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)った。彼はこの家に來ると、きまって例の訴訟の一件でなぶり物にされるのである。が、やがてリーザの姿を認めると、子供たちは早速ぐるりと彼女のまわりに輪をつくって、子供に特有の物めずらしげな顏つきで、無口のまま穴のあくほど彼女の姿を點檢しはじめた。そこへクラーヴヂヤ・ペトローヴナも出て來、つづいて主人も姿をあらわした。夫人も主人もやはり笑いながら、裁判のほうはいかがと、初手からその質問を浴びせかけた。
 クラーヴヂヤ・ペトローヴナは年のころ三十七八の、まるまると肥った褐色髮ブリュネットの婦人で、つやつやと林檎のような顏をして、まだなかなか美しかった。夫のほうは五十五六の、利口で拔目のない男だったが、それでいて無類の好人物であった。この家庭はヴェリチャーニノフにとって、どんな意味からしても彼自身の言うように『わが生まれた家』も同然なのであった。だがまたそこには、ある特殊の事情もひそんでいたのである。というのは、二十年ばかり前にこのクラーヴヂヤ・ペトローヴナが、當時まだ學生でまず一介の少年にすぎなかったヴェリチャーニノフのところへ、すんでのことで嫁にこようとしたことがあったのである。それは熱烈な、それでいてたわいもない、美しい、二人にとっては初戀なのであった。結局はしかし、彼女がポゴレーリツェフのところへ嫁ぐことによって幕を閉じたのである。それから五年ばかりして二人は再會して、お互いのあいだの感情はついに明るい靜かな友情に形を變えたのであった。二人のあいだには一種の温かみが永遠に消えずに殘ることになり、その一種特別の光明がお互いの仲を照らすのだった。この關係についてのヴェリチャーニノフの追憶には、一點のやましいところもなく、すべてが清らかであった。そしてそのことが、つまり一點の汚れもない美しいものとして殘った唯一の場合であったということが、いよいよ彼をしてこの關係を尊く思わせることになったのであろう。この家に來ている時は、彼は率直で、無邪氣で、親切で、よく子供の相手をし、僞惡家をきどることもなく、自分の間違いは何によらず素直に認めるし、何ごともかくさずに告白するのであった。彼はよくポゴレーリツェフ夫婦にこんな誓いをたてたものである。それは、もう少ししたら俗世間からさっぱりと足を洗って、彼等のところへ引き移って來る、そしてもう一生彼等から離れずに餘生を送ることにするというのである。この計畫のことを彼はひとりで大まじめに考えていたのである。
 彼はリーザに關しての必要な事柄を、かなり詳細にわたってこの夫婦に説明した。だがわざわざそんな説明をするまでもなく、彼が一ことたのむと言いさえすれば事足りたのである。クラーヴヂヤ・ペトローヴナはこの『孤兒』に頬ずりをして、私の力の及ぶかぎりのことは盡しましょうと約束してくれた。子供たちはリーザをひったくるようにして、早くも庭へ遊びにつれて行ってしまった。半時間ほどの賑かな談笑ののち、ヴェリチャーニノフは起ちあがって別れを告げはじめた。彼は一同がやがて氣づかずにはいなかったほど、ひどくいらいらしていた。みんな呆氣にとられてしまった。三週間も姿を見せずにいて、やっと來たかと思うと僅か半時間で歸って行こうとするのである。自分でもおかしいとみえ、からからと笑いながら、明日また伺いますと約束するのだった。夫婦は彼に、どうも非常に興奮しておられるようだがと注意した。すると彼はいきなりクラーヴヂヤ・ペトローヴナの手をとって、すこぶる大切な用件を言い忘れたという口實のもとに、彼女を別室へ連れ出した。
「あなたは覺えておいででしょうが、――私があなたに、あなたにだけ申し上げて置いたことを。それは御主人さえ御承知ないことなんですが――つまりT市時代の私の生活のことです。」
「ええ、ようく覺えておりますわ。そのことなら、たびたび話してくださいましたものね。」
「いや私はお話ししたのじゃない、懺悔をしたのですよ。しかもあなたお一人にだけね! 私はこれまでついぞ、その女の苗字をあなたに明かしたことがありませんでした。じつは――その女はトルーソツカヤというんです。先刻お話ししたトルーソツキイの女房なんです。亡くなったというのはその婦人なんでして、リーザはその娘――つまり私の娘なんです!」
「まあ本當? 間違いはありませんの?」とクラーヴヂヤ・ペトローヴナは多少の興奮を見せて訊き返した。
「絶對に、絶對に間違いじゃありません!」とヴェリチャーニノフは熱狂して叫んだ。
 そして彼は、そわそわとひどく興奮しながら、できるだけ手みじかに一部始終を彼女に物語った。クラーヴヂヤ・ペトローヴナは前々からその話はすっかり知っていたが、その婦人の苗字だけは知らなかったのである。じつはヴェリチャーニノフとしては、誰か自分の知合いの人間がひょっとしてトルーソツカヤ夫人に出會いでもして、彼ともあろうものがこんな女にあれほどのぼせあがっているとはと意外の感を催しはしまいかと思うと、ひどくそら恐ろしい氣がして、自分のただ一人の心友であるクラーヴヂヤ・ペトローヴナにさえ、今の今まで『その女』の名を明かす勇氣が出なかったのであった。
「そしてあののお父さんはなんにも知らないんですの?」と、彼の話を聞き終ると、夫人はそう訊いた。
「いいや、ちゃんと知ってるんです……。ですがじつは、そこんところがまだはっきり見透せない、それが私にはじつに辛いのですよ!」とヴェリチャーニノフは熱した口調で言葉をつづけた、「知っているんだ、知っていることはたしかなんです。今日も昨日もその氣ぶりが讀めたんです。ただ私は、奴が果たしてどの程度まで知っているか、そこをはっきりつきとめたいんです。だから今私はこんなにそわそわしているんですよ。今晩あの男は私のところへやってくるんです。だがしかし、一體どこからあの男はそれを――というのは一切をという意味ですがね――嗅ぎつけたんだろう、そこがどうも合點がゆかん。バガウトフのことならすっかり知ってるんです、これは疑う餘地がありません。だがこの私のことになると? 御承知のとおり人妻というものは、こうした場合に良人をまるめてしまうことにかけては、なかなか達者なものですからね! 天使がわざわざ天降って來て掻き口説いたにしてもいつかな信用しない良人が、女房の口にかかるところりとまるめられちまうんですからね? ああお願いです、そんなに非難するように首を振らないでください、自分を非難することなら私が自分でやっています。それどころかずっと前々から、われとわが身に苛責の笞をあてているのです!……正直の話が、現に今朝あの男の宿にいた時なんぞも、私にはなんとしても向うが一部始終を知り拔いているものとしか思えず、彼奴の眼の前でわれから進んで危い橋を渡って見せたりして、奴の氣を引いてみた始末なんですよ。これはまるで嘘みたいな話ですが、じつのところ私は、昨夜あいつを酷くぞんざいにあしらってやったことが、妙に氣恥かしく厭な氣持なんです。(この話はまたあとで詳しくお話ししますがね!)あの男が昨日わたしのところへやって來たのも、もとはと言えば、俺は自分の恥辱をよく心得ているぞ、しかもその當の侮辱者も知っているぞということを、私に知らせたいばかりに、つまりその毒々しい欲望がおさえきれなくなったからこそ、のこのこやって來たんです! へべれけに醉っ拂って、非常識きわまる時刻にやって來た理由は、殘らずここにあるんです! もっともあいつの身にしてみれば、それもさらさら無理はありませんや! つまり怨みのたけを述べたてにやって來たという次第でね! それをまたこの私が、昨夜といい今朝といい馬鹿にのぼせあがった應待ぶりをやっちまいましてね! いやはや軽率ともなんとも、まったく馬鹿げきった話ですよ! 自分からのめのめと白状したようなものでしてね! それにしてもなんだって彼奴は、選りに選って私があんなに平靜を失っている時を狙ってやって來たもんだろう。これは確と申しあげときますがね、あの男はリーザを、あの年端もゆかないリーザをまで、そりゃ酷くいびるんですよ。せめて子供を相手にでも怨みを霽らしてやれ、腹いせをしてやれっていう魂膽なんですよ! じつにあいつは執念深い奴ですよ――取るに足らん奴には違いないが、じつに執念深い奴ですよ、むしろ惡鬼羅刹みたいな奴です。もとはあれでも精一ぱい紳士きどりで構えていたもんですが、もともとあいつは大たわけにすぎんのです。だから御覽なさい――あの男が身を持ち崩したのだって、元來が自然の成行きにすぎないんですよ! といった哀れ憫然たる男なんですから、ねえ奧さん、われわれは基督者の目をもって眺めてやらなきゃならないんですよ! ですからね、私はその――あの男に對する態度を斷然變えてみようと思うんです。つまりあの男を愛しいたわってやろうと思うんですよ。これは私の立場からみれば、むしろ『いい功徳』になるわけですよ。だって、なんといったって私はあの男に濟まんことをしているに違いないのですからなあ! それにね、ついでだからこれも申しあげちまいますが、T市にいた時私は急に四千ルーブルの金が入用になったんですよ。するとあの男は、お役に立ちさえすればどんなに嬉しいことかと本心から喜んで、証文一枚とるではなしに、即座にその金を用立ててくれたんです。そしてまあどうでしょう、この私はそれをあの男の手から手渡しに受け取ったんですよ。ねえ、そのお金をあの男から受けたんですよ、まるで親友から受けでもするような平氣な顏をしてね!」
「けどねえ、もう少し仰しゃることにお氣をつけ遊ばせな」と、今までの話全體に對して、クラーヴヂヤ・ペトローヴナは氣づかわしげに注意した、「とてもなんだか有頂天になってらっしゃるわ。それが私ほんとに心配ですのよ! そりゃリーザは今じゃもう私の娘も同然には違いありませんわ、けれどまだまだそこには、未解決な問題がどっさりありますわ! 何よりも大切なことは、この際あなたがもっと愼重におなりになることですわ。あなたが今のような幸福な、有頂天な氣持になってらっしゃる時には、なおさらのこと愼重におなりになる必要があるのよ。一體あなたという人は幸福な氣持になると、とても鷹揚になんでもかでも赦したくなるのが癖ね」――と彼女は微笑しながらつけ加えた。
 そこへヴェリチャーニノフを見送りに一同が出て來た。今まで庭でリーザと遊んでいた子供たちも、彼女を連れてあらわれた。打ち見たところ、子供たちは先刻よりも一そうリーザを扱い兼ねているらしかった。やがてヴェリチャーニノフがさようならを言いながらみんなの前で接吻を與えて、明日はきっとお父さんを連れて來るからと、眞情をこめて約束をくり返した時には、リーザはすっかり怯氣づいてしまった。彼女は默りこくったまま、彼のほうへ眼をあげずにいたが、いよいよ彼が馬車に乘りこもうという瞬間になると、いきなり彼の袖にしがみついて、哀願するような眼でじっと彼を見上げながら、みんなのいないほうへ引っ張って行った。何か彼に言いたいことがあると見える。で彼は早速、彼女を別間へ連れて行った。
「どうしたの、リーザ?」と彼は優しく勵ますように問いかけたが、彼女はまだびくびくとあたりを見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しながら、彼をもっと離れた隅のほうへ引っ張って行くのだった。一同の視線のまったく屆かない場所へ行くつもりらしい。
「どうしたの、え、リーザ、どうしたのさ?」
 彼女はやはり無言のまま、まだ口を開く決心がつかないらしかった。例の空色の大きな眼でまじまじと彼の眼に見入っている、そのいたいけな顏は殘る隈なく、狂氣じみた恐怖の色に蔽われている。
「あの人は……首を縊るわよ!」と彼女は譫言のように呟いた。
「首を縊るって、誰が?」とヴェリチャーニノフは仰天して問い返した。
「お父さんが、お父さんがよ! お父さんは夜なかに細引で首を縊ろうとしてたのよ!」と少女はせかせかと息を切らしながら言った、「あたし見たのよ! こないだも細引で首を縊ろうとしたんですって、自分でそう言ってたわ、そう話して聽かせたわ! もっと前にだって縊ろうとしたの、しょっちゅう縊ろうとしているのよ。……あたし夜なかに見たの……。」
「そんなことがあるもんか!」とヴェリチャーニノフは半信半疑で囁くように言った。
 と、彼女は急に彼に飛びついて手に接吻した。泣きだして、こみあげてくる涙のため息もたえだえに、何ごとかしきりにたのんだり哀願したりするのだったが、何しろヒステリックな片言の連續なので、彼にはさっぱり意味がつかめなかった。そしてこの責め苛まれた子供が、狂氣じみた恐怖にとらわれながら、しかも最後の望みの綱にすがるように、彼にじっと注いだ疲れ惱める眼差しは、その後になっても永久に彼の記憶から消え去らず、夢に現にまざまざと浮かんでくるのであった。
『それにしてもあの子は、それほどあの男を愛してるのだろうか?』――熱に浮かされたような苛立たしい氣分で町へ戻ってくる途々、彼は嫉妬とも羨望ともつかぬ氣持で考えるのだった、『現にあの子はつい先刻も、お母さんのほうが好きだと言っていたじゃないか……いやいや、おそらくあの子はあいつを憎んでるんだ、愛してなんぞいるものか!……』
『それにまた、あの首を縊るというのは一體どうしたことだろう? 一體あの子はなんのつもりであんなことを言いだしたんだろう? あの男が、あの大たわけが首を縊るって?……いや、これは突きとめる必要がある。是が非でも突きとめなくちゃならん! そしてできるだけ早く萬事を解決せにゃならん――洗いざらい解決をつけにゃならん!』


七 夫と情夫が接吻し合う


 彼は『突きとめる』ことをひどく焦った。
『今朝おれは呆氣にとられてぽかんとしていたんだ。ほんとに今朝は冷靜に物を見る餘裕がなかったんだ』と彼は、はじめてリーザを見かけた時のことを思い出しながら考えた、『だが今度こそは――突きとめてやらなくちゃあ。』一刻も早く突きとめたい一心で、彼は眞直ぐにトルーソツキイの宿へやれと馭者に命じかけたが、すぐそれじゃ性急すぎるわいと思い返した。『いやいや、それよか奴のほうから出かけて來るのを待ったほうが上策だ。俺はそのに、この忌々しい訴訟の一件を急いで片づけちまおう。』
 そこで彼は熱にでも浮かされたように、事件の整理にとりかかった。ところが間もなく、今日のような落着かぬ氣持では、とてもそんな仕事に手をつけるわけにはゆかぬことに氣がついた。彼が食事に出かけたのは五時だったが、その時になって不意とある笑止な想念が初めて彼の頭を訪れた。『待てよ、こうして俺は自分からこの事件に嘴を突っ込んで、裁判所から裁判所へとせかせか駈けずり※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ったり、今ではもう俺を敬遠しかけている辯護士を捉まえて御託ごたくを並べたりしているが、そのじつおれは、ただ事件の運びの邪魔をしているのにすぎないのじゃあるまいか』と、ふとそう思ったのである。彼はこの自分の推量が面白くなって、愉快そうにからからと笑った。『ところで、もしこんな考えが昨日おれの頭に浮かんだとしたら、俺はさだめしひどく悄げ返ったに相違あるまいて』と彼はますます面白くなって、こうつけ足したところが、こうした愉快な氣持になったにもかかわらず、その一方では彼はますます落着きのない苛々した氣分になってゆくばかりだった。やがての果てには陰氣な氣持に沈んでしまった。平靜を失った彼の想念は次から次へといろんな題目に取り縋って行ったが、結局のところ彼が本當に求めているものは一つとして捉えられはしなかった。
『俺に必要なのはあいつなんだ、あの男なんだ!』と、彼はやがて斷案をくだした、『まずあいつの謎を解かなくちゃならん。裁斷するのはそのうえでのことだ。ようし――決鬪だぞ!』
 七時に宿へ歸ってみると、パーヴェル・パーヴロヴィチがまだ來ていないので、ひどく意外な氣がした。やがて意外さは忿怒に變り、暫くすると今度はがっかりと氣落ちがして來、とうとうしまいには心配になりはじめた。『わからない、わからない、ああ一體この結末はどうつくんだろう!』と彼は、部屋のなかを歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ったり、安樂椅子にごろりと横になったりしながら、一刻も時間から眼を放さずに、そうくり返した。そろそろ九時近くなって、やっとのことでパーヴェル・パーヴロヴィチが姿を見せた。
「もしこの男が初めから一ぱい喰わす氣でいたのなら、俺をやっつけるに今みたいな機會はまたとないに違いない――御覽のとおり、俺は土臺もうこんぐらかっているからなあ』[#「こんぐらかっているからなあ』」はママ]と、急に元氣づいて、おそろしくはしゃぎだしながら、彼は心に思った。
 なぜこんなに遲くなったのかと、勢いこんだ浮き浮きした調子でヴェリチャーニノフは浴びせかけたがパーヴェル・パーヴロヴィチは妙に歪んだ微笑でそれに答え、昨夜とはうって變ったうち融けた態度で椅子に腰をおろし、例の喪章つきの帽子を氣輕にぽいとそばの椅子へほうった。ヴェリチャーニノフは早くも相手のうち融けた態度を見てとって、それをまず胸に疊んだ。
 先刻までの興奮はどこへやら、至極おだやかな口調で、餘計な言葉は交えずに、彼はまるで上役に報告でもするような調子で、リーザを先方へ送りとどけた話から、向うの人たちが彼女を親切に迎えてくれた話、あそこの生活が彼女にはどんなに藥だか知れないということを物語るのだったが、そのうちだんだんとリーザのことはまるで忘れてしまったような顏をして、目だたぬように話の向きを變えながら、しまいにはポゴレーリツェフ一家のことに話を集中してしまった。つまり、じつに氣心のいい人たちであるとか、自分がどんなに昔から彼等と馴染であるかとか、ポゴレーリツェフという男がどんなに立派な、のみならず有力な人物であるかとか、そういった話をしだしたのである。パーヴェル・パーヴロヴィチは放心したような樣子で耳を傾けていた。そして時々じろりと上目を使って、氣むずかしげな狡るそうな薄笑いを浮かべて、相手を見やった。
「あなたは燃えたち易いかたですな」と、何か特別に厭味ったらしい微笑を浮かべては、呟くように言った。
「ところであなたは、今日は妙にひねくれてますね」と、ヴェリチャーニノフはさも心外そうにやり返した。
「だが私だって、人並みにひねくれてみたってよさそうなもんですな?」と、いきなり部屋の隅から躍り出るような勢いで、パーヴェル・パーヴロヴィチは突然どなりたてた。まるでその一言をきっかけに躍り出してやれと、待ち構えていたようであった。
「そりゃまったく御隨意ですがね」とヴェリチャーニノフは、にたりと笑った。「じつは、何ごとかあなたの身にあったのじゃないかと思ったもんで。」
「そりゃ大ありでさあ!」と、まるで何ごとかあったということを自慢するような口吻で、相手は叫びたてた。
「そりゃまた、何ごとがね?」
 パーヴェル・パーヴロヴィチは、ちょっと返事をためらったが、
「じつはね、例によってあのステパン・ミハイロヴィチに、まんまと一ぱい喰わされたんで……。ほら、あのバガウトフですよ、上流社會出の、ちゃきちゃきのペテルブルグっ兒でさあ。」
「またしても玄關拂いを喰ったんですかね?」
「いいや、そうじゃない。今度はどうぞお上がりくださいってわけでしてな、初めてなかへ通されて、拜顏の榮を得たんです。……ただその、御當人はもう亡者だったんで!……」
「な、なんですと! バガウトフが死んだって?」とヴェリチャーニノフは、何もそんなにびっくりする義理合もなさそうなものを、ひどく仰天して叫び返した。
「そのとおり! 思えばこの六年のあいだ、かわらざる親友でした! それもつい昨日、正午おひる近くに亡くなったのを、私は夢にも知らなかったんです! 考えてみると、私はちょうどその臨終の瞬間に、時候見舞いに訪ねて行ったわけでした。明日葬式を出して埋葬してしまうとかで、もうお棺に入れてありました。お棺には暗紅色の天鵞絨の蔽いがかけてあって、縁どりは金の組紐でしたっけ……そうそう、死因は神經熱だったそうですよ。ちゃんと奧へ通されて、つくづくと死顏を拜んで來たんです! あがる時、故人の莫逆の友人だと名乘ったもので、それで奧まで通してもらえたんですな。ところで、あの男がこの期に及んでやっと、六年間のかわらざる友情で結ばれた心からの友達になってくれたのは、これは一體どうしたわけでしょうかね? ――そこですよ、私の伺いたいのは! じつをいうと私のほうはどうかというと、ただあの男に會いたいばかりに、ペテルブルグ三界までのこのこ出かけて來たとも言えるんですからね!」
「だが、あなたはなんだってあの男のことでそんなにぷりぷりしてるんですね」とヴェリチャーニノフは笑いだした。
「まさかあの男が、故意わざと死んだんじゃあるまいし!」
「だから私だって、このとおり哀悼の意を表しながら物を言ってるじゃありませんか。何ものにも代えがたい親友でした。あの男は私にとって、つまりこれだったんです。」
 と言いざまパーヴェル・パーヴロヴィチは、いきなりまったくだしぬけに、禿げあがった自分の額のうえに二本の指でつのの形をこしらえて(譯者註。他人の妻と通ずることを、その良人に「角を生やさせる」という。この慣用句に基く動作である。)小聲で連續的にひゝゝゝと笑った。彼はものの三十秒ほどそうして角をこしらえたまま、ひゝゝゝと笑いながら、自分の毒々しい鐵面皮さにさながら陶醉したもののような眼つきで、じっとヴェリチャーニノフの眼を覗きこみながら坐っていた。こっちはまるでもう、幽靈でも見たような工合に、その場に釘づけになってしまった。しかし彼の釘づけのていは、ただほんの一瞬間つづいたにすぎなかった。次の瞬間ヴェリチャーニノフの口邊には、せせら笑うような、それでいて鐵面皮なほど落着き澄ました微笑の影が、ゆるやかに浮かびあがってきた。
「それは一體なんのおつもりですかね?」と彼はそらとぼけて、また言葉を長く引っぱりながら訊いた。
「これは角のつもりでさ」と、パーヴェル・パーヴロヴィチはずばりと切って返し、ようようのことで額から指を離した。
「というと……あなたの角ですか?」
「いかにもこの私のです、私の授かり物なんですよ」とパーヴェル・パーヴロヴィチは、またもやじつに厭らしいしかめ面を見せた。
 二人は暫く無言だった。
「いやこれは、あなたもなかなか勇敢な人だ!」とヴェリチャーニノフは口に出した。
「それは私が角をお目にかけたからですか? 時にどうです、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、それよか何か御馳走しては頂けませんかなあ! あなたがTにおいでのころは、まる一年というもの毎日のように、あんないい御馳走をしてあげたじゃありませんかね……。一杯飮ませてくださいよ、咽喉がからからになっちまった。」
「ようござんすとも。そうならそうと、早く仰しゃってくださればよかったのに。――時に何を召あがりますかな?」
召あがりますか、じゃありませんよ。何を一緒にやりましょうと仰しゃい。ねえ、ひとつ一緒にろうじゃありませんか、いかがです」と挑みかかるような、それでいて同時にまた一種奇妙な不安そうな樣子で、パーヴェル・パーヴロヴィチはじっと彼の眼に見入った。
「シャンパンにしますか?」
「でなくて何にしますかね? まだヴォトカの出る幕でもなし……。」
 ヴェリチャーニノフはゆっくりと起ちあがって、呼鈴を鳴らしてマーヴラを階下したから呼び、酒の仕度を命じた。
「喜ばしき再會をことほいで、祝杯をあげるわけですな。何しろ相見ざること九年でしたからなあ」と、要りもせぬ文句を取ってつけたようにパーヴェル・パーヴロヴィチは言って、くすくす獨り笑いをした、「今じゃもうあなたが、いやあなたお一人だけが、私にとってのまことの友だちというわけですからね! ステパン・ミハイロヴィチ・バガウトフ今や亡しですからなあ! 詩人の文句で言えばこうですよ。――

大いなるパトロクルスは今や亡く(譯者註。「イリアッド」中のギリシャの勇士。アキレスの親友で、トロイ勢を追撃中ヘクトルのため仆された。
卑しきテルシーテスは殘りける!」(譯者註。トロイ攻圍のギリシャ陣營中で最も醜惡で卑劣漢。ホメロスによればアキレスに殺されたという。

 この『テルシーテス』という言葉を口にした時、彼は自分の胸を指先でとんと突いた。
『ちぇっ、この豚野郎め、さっさと腹のなかをぶちまけたらいいじゃないか、もともと俺はあてこすりは大嫌いなんだ』とヴェリチャーニノフは心に思った。憎念に胸は煮えくり返って、彼はもう先刻からやっとのことで自制していたのである。
「ちょっと伺いますがね」と彼はさも忌々しげに口を切った、「そんなに眞向からステパン・ミハイロヴィチを非難されるのでしたら(彼は今ではもうこの男をバガウトフなどと呼び棄てにはしなかった)、――その當の侮辱者が死んだことは、あなたには嬉しいはずじゃありませんか。それをなんだってあなたはぷりぷりしてるんです?」
「そりゃまたどんな嬉しさですね? なんだってまた嬉しいんでしょう?」
「私はあなたの氣持になってそう考えるだけですよ。」
「えへへ、その點に關する限り、あなたは私の氣持を誤解してらっしゃるですな。さる賢人の言い草じゃないが、『死せる敵はよし、されど生ける敵はさらによし』ってね、ふ、ふ!」
「だがあなたはその生ける敵なるものを、たしか五年間も毎日見てらしたはずじゃありませんか。いいかげん見飽きはしませんでしたかね」とヴェリチャーニノフは、底意地惡くつけつけと斬りこんだ。
「じゃそのころから……そのころから私が感づいてたと仰しゃるんですか?」と突然パーヴェル・パーヴロヴィチは、またもや隅から躍り出るような勢いで叫びたてた。その樣子には、とうとう待ち構えていた問いを相手がかけてきた、とでもいいたげな喜びの色さえ見えた。――「じゃ一體あなたという人は、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、この私をどんな人間だと思ってらっしゃるんです?」
 と、にわかに彼の眼差しには、あるまったく新らしい思いもかけぬような色が閃めいた。それは、今まで厭らしい澁面ばかり作っていた、毒念に滿ちた彼の顏を、まったく別の顏つきに變えてしまうほどはげしいものであった。
「じゃ、あなたは本當に何一つ感づかなかったんですか!」とヴェリチャーニノフは、あまりのことの意外さに途方に暮れて口走った。
「どうして感づくはずがありましょう。感づくわけがないじゃありませんか! おお、ユピテルのともがら(譯者註。みずからを全智全能と思いあがった人々)よだ! あなたにかかっちゃ、人間も犬っころとおなじなんだ。なんでもかでも自分の狹い了簡で判斷しようとなさる! さあ、これだ! これを一つ鵜呑みにしてもらいましょうか!」――と言いざま、彼は憤然としてテーブルを拳で叩いた。が、すぐさま自分のほうがその音にびっくりして、おどおどした眼つきをした。
 ヴェリチャーニノフはきっと相手を見返した。
「いや、パーヴェル・パーヴロヴィチ、あなただっておわかりでしょうが、そもそもあなたが感づいておいでだったろうと、おいででなかったろうと、私にとってはまったくどっちだっていいことじゃありませんか? もしあなたが知らずにおられるのなら、それはなんといってもあなたの名譽になるんだし……。それはそうと、私にはどうも腑に落ち兼ねるんだが、なんだってあなたは私なんぞを、打明け話の聽き役に選ばれたんですか?……」
「私は何もあなたのことを……怒らないでください、何もあなたのことを言ってるんじゃないんです……」とパーヴェル・パーヴロヴィチは眼を落として、呟くように言った。
 マーヴラがシャンパンを持ってはいって來た。
「そうら來た!」とパーヴェル・パーヴロヴィチは一條の血路を見出した者の喜びを明らかに見せて、叫びたてた。
「コップは、姐さん、コップはどうしたね、よう、素敵、素敵! いやもうこれで何一つ不足はありませんよ。おまけに栓まで拔いてあるんですかい? 大した氣の利きようだ、全く恐れ入ったね、別嬪さん! じゃ、もう向うへ行ってもよござんすよ!」
 そして、みるみる勢いを盛り返して、またもや不敵な眼つきをヴェリチャーニノフに注いだ。
「まあ白状するんですね」と彼はいきなり忍び笑いをした、「こういった話はあなたにとってじつに興味津津たるものがあるんでしょう。今仰しゃったように『まったくどっちだっていいこと』どころじゃないんでしょう。だから、もし私がこのまま話を打ち切って、今すぐ起ちあがって歸ってしまったら、あなたはさだめし悄げ返るに違いないですな。」
「なあに、平氣ですよ。」
『へ、嘘つけ!』パーヴェル・パーヴロヴィチの微笑がそう言った。
「ところで、ぼつぼつはじめましょうか!」と彼は二つのグラスをなみなみと滿たした。
「乾杯を致します!」と彼はグラスを上げながら宣言した、「天國に眠る友ステパン・ミハイロヴィチの健康を祝す!」
 彼はグラスをあげてぐっと飮みほした。
「そんな乾杯は御免を蒙りましょう」とヴェリチャーニノフはグラスを下に置いた。
「なぜですか? 愉快な乾杯じゃありませんか。」
「ねえ、あなたは今ここへいらしった時、もう醉ってらしたんじゃありませんか?」
「ちょっとって來ました。それがどうかしましたかね?」
「いや別になんでもありませんがね。ただ私には、あなたが昨夜も今朝も、わけても今朝などは、亡くなったナターリヤ・ヴァシーリエヴナのことを心から悲しんでおられるように見えたものでね。」
「で、今は家内のことを心から悲しんでいないと、どこの誰があなたに言いました?」とたちまちパーヴェル・パーヴロヴィチは、またもや撥條ぜんまいを引き拔かれでもしたように、躍りかかってきた。
「いや、私はそんなことを言ってるんじゃない。御自分でもおわかりのことと思うが、ステパン・ミハイロヴィチの一件は、ひょっとしてあなたの思い違いかも知れんですからねえ。そして、何しろことは重大ですからなあ。」
 パーヴェル・パーヴロヴィチはにやりと狡るそうに笑って、妙な目くばせをした。
「ははあ讀めた。あなたは、この私がどうしてステパン・ミハイロヴィチのことを嗅ぎつけたか、それが知りたいとみえますなあ!」
 ヴェリチャーニノフはさっと顏を赤らめた。
「もう一度言わせてもらいますが、私にはどっちであろうとおなじことですよ」と言って、『こいつめ、この酒壜もろとも今ひと思いにほうり出せないもんかなあ』と、ぷりぷりしてそう考え、そのためますます赤くなった。
「なあに、いいでさ!」と、相手を力づけでもするようにパーヴェル・パーヴロヴィチは言って、自分のグラスを再び滿たした。
「じゃ只今すぐ、いかにして私が『一部始終』を嗅ぎつけたかをお話しして、あなたのその火のような熱望を滿たして差上げることにしましょう……だって、何しろあなたは燃えたち易いかたですからね、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、おっそろしく燃えたち易い方ですからねえ! えへへ! ときにまず煙草を一本頂きたいですな、というのはこの三月からこっち、私は……」
「さあどうぞ。」
「三月からこっち、すっかり身をもち崩しちまいましてねえ、アレクセイ・イヴァーノヴィチ。それというのも、みんなこうしたことからなんですよ――では聽いて頂くとしましょうかね。――そもそもですな、あの肺病という奴は、あんたも先刻御承知のとおり」――彼は次第に狎々しい口の利きようをしだした、「まことに面白い病氣でしてなあ。肺病患者というものは、自分が明日死ぬなんてことは夢にも考えずに、時々刻々に死に近づいて行くものなんです。そこであのナターリヤ・ヴァシーリエヴナも御多聞にもれず、息を引きとる五時間前だというのに、もう二週間したら四十露里離れた町に住んでいる叔母さんのところへ出かけるつもりでいたんです。それからもう一つ、これは多分あなたも御存じのことと思うが、世の婦人たちに共通な、いやおそらくその婦人たちをめぐる紳士方にさえも共通な、一つの習慣――というよりむしろ惡習がありますな。つまりそれは、戀文にぞくする古反古を手許にっておくという奴ですな。安全なことを言ったら煖爐へほうりこむに越したことはないでしょうにね、そうじゃありませんかな? ところが、連中ときたらどんな紙屑の切れっぱしでも、後生大事に手文庫や針箱のなかに藏いこんで置くんです。それどころか、年代や日付や部類わけにして、番號まで打ってあるという始末なんです。そんなのが御當人にしてみりゃあよほど心の慰めになるんでしょうかね――そこんところは私にはわかりませんけど、とにかく樂しい思い出のための所作には違いないですな。――さて、何しろ亡くなる五時間前までは叔母さんの誕生祝いに出かけるつもりでいたほどですから、ナターリヤ・ヴァシーリエヴナはむろん自分が死ぬなんてことは考えてもいませんでしたし、いよいよ息を引きとるという時まで、相變らずコッホ先生の來られるのを待っていたようなわけです。そんな樣子でナターリヤ・ヴァシーリエヴナが亡くなると、螺鈿と銀で象眼のしてある黒檀の手文庫が、そのまま彼女の書卓のなかに殘ってしまったのです。それは妻が祖父から受けついだ謂わば父祖相傳の手文庫でしてね、ちゃんとこう鍵のかかるようになった、なかなかきれいなものでしたよ。ところでです――じつにこの手文庫からして、一切の事情が暴露することになったんですよ。つまり何もかも洗いざらい、およそこの二十年來あったことが一つ殘らず、御丁寧に日付別け年代別けになって、ばれちまったんです。おまけにまたあのステパン・ミハイロヴィチという男がすこぶる文學好きときてたもんでね、一篇のすこぶる情熱的な戀愛小説を物して雜誌に投稿したことさえあるくらいですから、くだんの手文庫に發見された彼の作品は百篇に垂んとするといった始末でしてね――もっとも五年の月日でしたからなあ。なかにはナターリヤ・ヴァシーリエヴナが手ずから番號を記入した奴までありましたっけ。でどうでしょうな、こんなことは一體良人の身にとって、愉快なことでしょうかね? どうお考えですかな?」
 ヴェリチャーニノフは素早く當時のことを思い合わせて、自分が一通の手紙も一通の覺え書きもついぞナターリヤ・ヴァシーリエヴナ宛に出した覺えのないことを確かめた。ペテルブルグへ舞い戻ってからは、なるほど手紙を二通出すには出したが、それはかねての申しあわせにしたがって上書きを夫妻連名にして置いたのである。またお拂箱を宣言してきたナターリヤ・ヴァシーリエヴナの最後の手紙には彼は返事も出さなかった。
 物語を終えたパーヴェル・パーヴロヴィチは、たっぷり一分間は口を噤んで、にやにやと押しつけがましい微笑を口邊に漂わし、相手の返事を暗に促すのであった。
「どうしてあなたは、私の質問に返事をなさらないんですね?」と、とうとう痺れを切らして、苦痛の色をありありと浮かべながら、彼は口走った。
「と仰しゃると、どんな質問でしたっけ?」
「それ、手文庫の蓋を開いた夫の氣持が、愉快なものかどうかということですよ。」
「おやおや、それが私の知ったことですかい!」とヴェリチャーニノフは苦々しげに片手を振り、椅子を離れて、部屋のなかをあちこち歩きはじめた。
「して私はあえて斷言しますがね、あなたは今私のことを、『自分から寢とられの一件をしゃあしゃあと白状するなんて、この汚らわしい豚野郎め』とお考えですね、へ、へ! なんともはや口喧ましい人だな……あなたという人は。」
「そんなことはちっとも思っちゃいませんよ。それどころかあなたのほうが、當の侮辱者に死なれておそろしく氣が立っていらっしゃるんですよ。おまけに酒もやりすぎておられるようだ。もっとも私としちゃ、それもこれもそうそう御無理のない次第だと思いますがね。あなたが生きたバガウトフを求めてらしった氣持は、私にはじつによくわかるんです、だからあなたの御無念さはさぞかしと察し入る次第ですがね。ただ……」
「だが、そのあなたの御見解によると、私はなんでバガウトフを求めていたことになるんですか?」
「それは私の知ったことじゃないですなあ。」
「いや、てっきり決鬪のことを仰しゃってらしたんでしょう?」
「ちぇっ、くだらない!」ヴェリチャーニノフはますます自制を失ってきた、「私の考えていたのはこれですよ――つまり、いやしくも紳士たる者は……こうした場合にあっても、茶番じみた寢言や、愚にもつかないお芝居や、笑止千萬な愚痴や、へどの出そうな當てこすりや――そういった仕事にまで身を落とすことはあえてしないものだ、なぜってそれじゃますます恥の上塗りになるばかりですからね。それより、正々堂々と正面きって行動するものだ、と思うんですよ――紳士としてね!」
「ほほうなるほど、ですがこの私が紳士なんかじゃないとしたらどうなりますね?」
「それもやはり私の知ったことじゃないですな……それはそうと、そういうことのあったあとで、生きたバガウトフがあなたに入用になったのは一たいどうしたわけなんです?」
「いやそれは、ほんの一目でも友だちの顏が見たかっただけですよ。まあ一本買って、ともに杯をあげたかったんですな。」
「あの男があなたと一杯やろうとは思えませんなあ。」
「そりゃまたなぜね? Noblesseノブレス obligeオブリージュ譯者註。貴族の體面にかかわる)ですかね?――だが、現にあなただって、こうして私と差向かいで飮んでおられるじゃありませんか。あの男のどこがあなたより立派だというんです?」
「私はあなたと一杯やった覺えはありませんよ。」
「なんだってまたあなたは、急にそんなに高慢になられたんです?」
 ヴェリチャーニノフはいきなり、引攣ったような神經質な笑い聲を立てて、
「へっ、糞っ! あんたという人は、じつにその一種『肉食型』の人ですなあ! じつをいうと今の今まで、あなたは一介の『永遠の夫』にすぎんと思ってたんだが、なかなかどうして!」
「そりゃなんのことです、その『永遠の夫』っていうのは?」とパーヴェル・パーヴロヴィチは俄然聽き耳をたてた。
「いやなに、夫の一つのタイプなんですがね……説明すると長くなります。それよかそろそろ引き上げて頂きましょうか、もう歸っておやすみになる時刻ですよ。あんたにはうんざりしましたよ!」
「それに、その肉食っていうのはどういうことです。今たしか肉食型とか仰しゃいましたね?[#「仰しゃいましたね?」はママ]
「ええ、言いましたよ、あなたは『肉食型』だってね。――あなたに對する嘲罵としてね。」
「で、その『肉食型』っていうのは一體どういう意味なんです? 話してくださいよ、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、お願いです、後生です。」
「いや、もう澤山だ、澤山ですよ!」と急にまたもやおそろしく腹をたてて、ヴェリチャーニノフはどなった、「もうお歸んなさい、出て行ってください!」
「どっこい、澤山じゃないですよ」とパーヴェル・パーヴロヴィチも憤然として躍り上がった、「よしんば私のほうでもあなたにうんざりしているにしても、まだまだ澤山どころの騷ぎじゃありませんや。だって私たちはまず一杯やらなけりゃならんですからね! プロジット、かちんとゆかなけりゃならんのですからね! それが濟んだら引き上げますがね、今んところはまだまだでさあ!」
「パーヴェル・パーヴロヴィチ、あなたは今夜ここを出て失せてくださるんですか、否ですか應ですか?」
「そりゃ、いかにも出て失せてはあげますがね、その前にまず一杯いきましょうや! あなたはこの私とは飮みたくないと仰しゃったが、私のほうじゃまた、この私と一杯つき合って頂きたいんですよ!」
 彼はもう道化の面をはずしていた。えへら笑いもしていなかった。またしても俄かに彼の相貌は一變してしまい、つい今しがたまでのパーヴェル・パーヴロヴィチの姿や調子とは、似ても似つかぬものになってしまったので、さすがのヴェリチャーニノフもすっかり見當がつかなくなった。
「さあ飮みましょう、アレクセイ・イヴァーノヴィチ。嫌だなんて言わないでさ!」とパーヴェル・パーヴロヴィチは、ぎゅっと彼の手首をつかみ、異樣な眼つきで相手の顏に見入りながら、言葉をつづけた。それでみると、ただの乾杯だけの話でないことは明らかだった。
「じゃあ、やりますか」と相手は呟くように言った、「だが肝腎の酒が……飮み滓じゃあ……」
「ちょうど二杯分殘ってる、きれいな飮み滓がね。じゃありましょう、かちんとゆきましょうぜ! さ、どうぞ杯をお取りなすって。」
 二人はグラスを打ち合わせて、ぐっと飮みほした。
「さあ、こうなった以上は、もうこうなった以上は……ああ!」とパーヴェル・パーヴロヴィチはやにわに片手で額をひっつかんで、數秒のあいだそのままの姿勢でいた。ヴェリチャーニノフは、今こそいよいよ相手が最後の言葉を吐き出そうとしている、とそんな氣配を漠然と感じた。しかしパーヴェル・パーヴロヴィチは一言も言い出さなかった。彼はただ、ヴェリチャーニノフをじろりと一瞥して、またもや先刻のように、にやりと狡猾そうな、目くばせでもするような微笑を、口もと一ぱいに靜かに浮かべただけであった。
「一體あなたは、この私にどうしろと言うんです、ええ醉っ拂いの先生! 私をからかうんですね!」とヴェリチャーニノフは地團駄を踏んで、狂氣のようにどなった。
「まあお靜かに、お靜かに、なんだってそうがなるんです?」とパーヴェル・パーヴロヴィチはあわてて片手を振った、「からかうなんて、とんでもないこってすよ! あなたにはおわかりですか、今ではあなたが私にとって――それ、このとおりのかたになられたことがですよ!」
 と言うが早いか、いきなり彼の手をとって唇を押し當てた。ヴェリチャーニノフはハッと思う暇もなかった。
「今じゃあなたは、私にとってこういうかたなんですよ! じゃあもう――ここらで出て失せるとしましょうかな!」
「ああ、ちょっと。ちょっと待ってください!」とヴェリチャーニノフはわれに返って、呼びとめた、「つい申し忘れたんですが……」
 パーヴェル・パーヴロヴィチは戸口でくるりと振り返った。
「つまりですね」とヴェリチャーニノフはおそろしく早口に、顏をあからめて、まったくそっぽを向いたまま、呟くようにはじめた。「あなたは明日はどうしてもポゴレーリツェフの家へ顏を出さなきゃいけませんね……お近づき旁々お禮にってわけですな――どうしてもね……。」
「行きますとも、必らず行きますよ、ちゃあんと承知のすけでさあ!」とわざわざ念を押すには及ばんというしるしに片手を素早く振りながら、待ってましたと言わんばかりの勢いでパーヴェル・パーヴロヴィチは相手の言葉を引きとった。
「おまけにリーザさんもあなたのおいでを待ち焦れていますからね。私は連れてくると約束を……」
「リーザ?」と、パーヴェル・パーヴロヴィチはやにわにまた振り返った、「リーザですと? だがあなたは御存じですかな、あのリーザが私にとって何者であったかということを。曾て何者であり、現にいま何者であるかということを? いいですか、曾てあり、現にある、ですよ!」と、彼はほとんど狂せんばかりのていで、急に叫びたてた、「だが……へっ! そりゃまああと※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しでさ。そのほうは一切後※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しにしましょうぜ。……さし當ってはと、じつはねアレクセイ・イヴァーノヴィチ、あんたと乾杯しただけじゃ、どうも私は物足りないんですがね。も一つ、是非とも聽きとどけて頂きたいお願いがあるんですよ!……」
 彼はそばの椅子に帽子を置くと、また最前のように、少々息を切らしながら彼を見つめた。
「私にキスしてください、アレクセイ・イヴァーノヴィチ」と、だしぬけに彼は切りだした。
「醉っていますね?」と、こっちは叫んで、たじたじとなった。
「いかにも醉っちゃおりますがね、それはとにかく、キスしてください。アレクセイ・イヴァーノヴィチ、さあ、キスしてくださいったら! 私だって今しがた、あなたの手にキスしたじゃありませんか!」
 アレクセイ・イヴァーノヴィチは、棍棒の一撃を眉間に喰らいでもしたように、暫らくは口も利けなかった。が突然、彼は自分の肩までしかないパーヴェル・パーヴロヴィチのほうへ身をかがめて、その唇に接吻した。ひどく酒臭かった。とはいえ彼は、自分が相手に接吻したということを、必らずしもはっきり意識していたわけではなかった。
「さあやっと、今だからこそやっと……」と、醉眼をぎらぎら光らせながら、再び狂せんばかりの醉態をあらわして、パーヴェル・パーヴロヴィチは叫びたてた、「今だからこそ言いますがね、あの時私はこう考えたもんでさ――『あの男も本當にそうなんだろうか? もしあの男も、あの男までそうだったとしたら、この先誰一人として信用は置けんことになる!』ってね。」
 パーヴェル・パーヴロヴィチは、急に聲をあげて泣きだした。
「だから、わかってくださるでしょうね、今じゃ本當の友だちは、あなた一人だということがね?……」
 そういうと彼は帽子をかかえて、逃げるように部屋を出て行ってしまった。ヴェリチャーニノフは、ゆうべのパーヴェル・パーヴロヴィチの最初の來訪のあととおなじく、またもや數分間ひとつ場所に、じっと立ちつくしていた。
『ええ、相手はどうせ醉っぱらいの大たわけだ、それだけの話さ!』彼は片手を振った。
『斷じてそれだけの話さ!』と、やがて服をぬいで寢床に横になった時、彼は力をこめてもう一度くり返した。


八 リーザの病氣


 あくる朝、ヴェリチャーニノフは、ポゴレーリツェフ家へ行くためきっと遲れずに來ると約束したパーヴェル・パーヴロヴィチを待ちうけながら、部屋のなかをあちこち歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)っては、珈琲をちびりちびりやったり、煙草をふかしたりしていた。その間じゅう絶えず彼は、自分が朝ふとめざめて、その前夜おのれの頬ぺたに受けた平手うちのことを絶えずじりじりと思い出している男に、つくづく似ているなと思えてならなかった。『ふうむ……さてはあいつめ事の眞相を知り拔いてるんだな、そしてリーザをだしに使って俺に復讐を企んでるんだな!』と、彼はぞっとしながら思った。
 哀れな幼女の愛らしい面影が、ふと物悲しく彼の眼の前を横切った。今日、それもほどなく、もう二時間もすれば、俺のリーザにあえるんだと思うと、彼の胸ははげしく高鳴りはじめた。
『ええっ、このうえ何の文句があるんだ!』と彼は熱をこめて斷定した、『これこそ俺の生活の全部じゃないか、俺の目的の全部じゃないか! 平手打ちがなんだ、じめじめした追憶がなんだ! ……俺のこれまでの生活ときたら一體なんのざまだ? 混亂と悲哀だけだったじゃないか。……ところが今じゃ――まるで別物だ、心機一轉だ!』
 だが、こうした有頂天な氣持にもかかわらず、彼はますます憂鬱になってゆくばかりだった。
『あいつはリーザをだしに使って俺を苦しめようというのだ――これは明白だ! だからこそリーザをあんなにいびるんだ。つまりそれでもって、過去の一切に對して俺に返報しようって魂膽なんだ。ふうむ……もちろんこの俺としちゃ、昨夜のような亂暴な眞似を奴が仕かけてくるのを、そのまま許して置くわけにはゆかんて』――彼はさっと顏を赤らめた、『だが……しかし、これはどうだ、まだやって來ないわい。もう十二時だというのに!』
 彼はじりじりしながら十二時半まで待った。胸の苦悶はますますはげしくなるばかりだった。パーヴェル・パーヴロヴィチは姿を見せない。とうとうしまいに、ずっと前から彼の胸に首をもたげていた想念――つまり、あの男はまたもや昨夜のような不意うちを喰わせたいばかりに、わざとやって來ないつもりだなという想念が、彼を憤激の極に追いこんでしまった。『奴は知ってるんだ、俺の行動が奴の手中に握られてることを! それから、このまま行かずにいればあのリーザがどうなるかということも! だが奴を連れずにどうしてこの俺が、おめおめとあの子の前へ出られよう!』
 とうとう待ちきれなくなって、きっかり晝の一時に、自分からポクローフスキイ・ホテルへ馬車を驅った。宿の者に尋ねると、パーヴェル・パーヴロヴィチは昨夜はとうとうお歸りがなく、今朝八時過ぎに歸ってみえたが、ものの十五分もたたぬうちにまたお出かけになった、という話だった。ヴェリチャーニノフは、パーヴェル・パーヴロヴィチの部屋の戸口につっ立って女中の話をききながら、錠のおりてるドアの把手ノブを無意識のうちにひねってみたり、押したり引っ張ったりしていた。ふとわれに返ると、彼はぺっと唾を吐いて錠前を思いきり、マリヤ・スィソエヴナのところへ案内をたのんだ。だが彼の來たことを耳にすると、自分からいそいそと出て來た。
 この女は氣立てのいい女房だった。ヴェリチャーニノフがあとになってこの女との話の顛末を、クラーヴヂヤ・ペトローヴナに傳えた時の形容にしたがえば、『高尚な感情を具えた女房』であった。昨日あの『じょっちゃん』を連れて行った先の首尾を手短かに問い訊してから、マリヤ・スィソエヴナはすぐさまパーヴロヴィチの行状に話題をむけた。その言葉を借りていうと、「あの娘っ子さんさえいなけりゃ、とうにあんな男は追ったてを喰わしてやるんですよ。ホテルからこの翼屋へ無理やりに移ってもらったのも、じつを申せばあまりと見兼ねる振舞いが多いからなんでございますよ。一體あなた、物ごころのついた子供のいるところへ、よる夜なか變な女を連れこむなんて、なんぼなんでもひどすぎるじゃありませんかね!『おい、このあまはな、俺の氣持ひとつでお前のお母ちゃんになる人だぞ!』とこうどなるんでございますよ。おまけにどうでしょうね。その賣女ときた日にゃ、あの男の鼻面へぺっと唾を吐きかけたんですからね。そして『お前さんがあたいの娘なもんかね、お前さんなんか、うらなりの鬼子だよ』って、こうなんですよ。」
「まさか、そんなことが?」とヴェリチャーニノフは眼をまるくした。
「この耳でちゃんと聞いたんです。いくら醉っ拂っていて、まるで正體がないからといって、そんな眞似を子供の前でしていいものですかね。なんぼ年端もゆかない子供だといっても、それなりにちゃんと物の見分けはつくんですからね! 孃っちゃんはしくしく泣いて、まるでもう生きた心地もないほどの悶えようなんですよ。それからまた近ごろのこと、この屋敷のなかで大ごとが持ち上がりましてねえ。なんでも人の話じゃ議員さんだとか何さんだとかいう話でしたがね、その男が晩方來てホテルの一間を借りたかと思うと、あくる朝にはもうぶらんこ往生をしちまったんですよ。お金をすっかり使い果たした擧句のことだとかいう話でしたがね。どやどやと人だかりがする。ちょうどパーヴェル・パーヴロヴィチが留守だったものですから、あの子は鬼のいない間というわけでその邊を駈けずり※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)っていたんですね。私が見ていると、あの子はその部屋の廊下で、ぎっしりの人垣のあいだから、その有樣を覗いてるじゃありませんか。さも不思議だといった顏つきで首つり人を眺めているんですよ。私はびっくりして、大急ぎでこっちへ引っ張って來たんですがね、まあどうでしょう、あなた――あの子はもう身體じゅうぶるぶる顫えが來て、まるで土色になってるんですよ。おまけにやっとここまで連れて來たと思うと、そのままばったり倒れちまったんです。それからまあそのもがき※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ることといったら、あなた。でもそのうちに、やっとのことで氣がついてくれましたんですよ。きっと驚風かなんかにとっつかれたんでしょう、その時からどっと寢ついてしまったんですの。やがてあの人が話を聞いて歸って來る――それからが大變、もう無暗矢鱈に抓り※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)すんです。あの人はめったに手を上げることはない代りに、もうひどく抓るのが癖でしてねえ。暫くすると今度は一杯ひっかけて歸って來てからに、そばへ寄るなりおどし文句を並べたもんなんですよ、『俺も首をくくるぞ、お前が惡いばっかりに首をくくっちまうぞ。それこの紐で、あの窓掛のとこで首をくくっちまうぞ』って、そう言いましてね、あの子の眼の前でわざわざ輪を結んで見せるんですよ。あの子は可哀そうにもう人心地も何もなくなって――小ちゃな手であの人の袖にしがみついてね、喚きたてる始末なんですよ、『もうしないわ、もうきっとしないわ』ってね。みじめで、とても見ちゃいられませんでしたわ!』[#「いられませんでしたわ!』」はママ]
 ヴェリチャーニノフは何か異樣な話を聞かされることと覺悟はしていたものの、この話にはすっかりもう度膽を拔かれてしまって、暫くは本當にすることもできなかった。マリヤ・スィソエヴナはなおも言葉をついで、次々にいろんな話をしてきかせた。例えばある時のごときは、幸いそばにマリヤ・スィソエヴナがいたからよかったものの、さもない日にはリーザはきっと窓から飛び降り自殺を圖ったに違いない、とも言った。
 彼はまるで自分までが醉っ拂ったような氣持になって、その宿屋の門を出た。『よおし、あいつめ、ステッキで毆り殺してやるぞ、犬っころみたいに腦天をがあんとな!』そんな文句が頭にちらつくのだった。そして彼は長いことその文句をくり返しくり返し吐いていた。
 彼は辻馬車をやとって、ポゴレーリツェフの家をめざした。そろそろ郊外へかかろうというころ、溝河にかかった小橋の袂の四辻で、馬車は停車を餘儀なくされてしまった。その狹い橋を、長い葬式の行列が、やっとすり拔けるようにして渡っているところであった。橋の向う側にもこちら側にも、幾臺かの馬車が犇めき合って、葬列の渡り終えるのを待っていた。歩行者もやはり堰かれていた。なかなか立派な葬式で、お棺にしたがった馬車の列は蜒々とうち連なっていた。ところが驚いたことには、それらの馬車の一つの窓から、パーヴェル・パーヴロヴィチの顏がいきなりヴェリチャーニノフの眼に飛びついて來たのである。もしこの時パーヴェル・パーヴロヴィチが、馬車の窓から身を乘り出して、にやりと頷いて見せなかったなら、彼は自分の眼を信じなかったに相違なかった。うち見たところ、彼はヴェリチャーニノフが眼にとまったことをひどく喜んでいるらしく、馬車のなかからおいでおいでをしはじめたほどであった。ヴェリチャーニノフは馬車を飛び降りると、人垣を無理やりに掻き分け、警官の制止を振りきって、パーヴェル・パーヴロヴィチの馬車がその時はもう橋にかかっていたにもかかわらず、その窓のところへ走せ寄った。なかにはパーヴェル・パーヴロヴィチが一人いるだけだった。
「こりゃどうしたことです!」とヴェリチャーニノフはどなりつけた、「なぜあなたは來なかったんです? なんだってこんななかにいるんです?」
「義理を果たしてるところですよ。――まあお靜かに、そうがなり立てないで――義理を果たしてるところなんですから」とパーヴェル・パーヴロヴィチは面白そうに眼を細めて見せながら、くすくす笑いだした、「莫逆の友ステパン・ミハイロヴィチの哀れ無常なる亡骸を、こうして送って行くところですよ。」
「ばかばかしい! ええ、この飮んだくれのへべれけ先生!」ヴェリチャーニノフは一瞬、われにもあらずたじろいだが、すぐまた前より一そうの大聲でどなり立てた、「さあ降りるんです、そして私の車に乘りなさい、さあすぐ!」
「そりゃできませんな。何しろ義理を……」
「引きずり出しますぜ!」とヴェリチャーニノフは咆えたてた。
「そんなことをしたら悲鳴をあげますよ! 悲鳴をね!」とパーヴェル・パーヴロヴィチは、相變らず面白そうにくすくす笑いながら應酬した。まるで遊戲でもしているような調子だったが、そのくせ座席の向うの隅へ身をにじり退さがった。
「さあ危い、危い、轢き殺されたらどうする!」と警官が叫んだ。そう言われて氣がついてみるとちょうどこの馬車が橋を渡りきったところだったが、その時誰かよその人の馬車が行列を無理やりにつっ切ったため、大騷ぎが持ち上がっていたのである。ヴェリチャーニノフがやむを得ず飛びすさると、たちまちのうちにいろんな馬車や群衆が割りこんで來て、彼はぐんぐんと押しへだてられてしまった。彼はぺっと唾を吐くと、そのまま自分の馬車へ引き返した。
『まあいいさ、どうせあんな男を連れて行くわけにはゆかんからな!』と、驚愕のあまり胸騷ぎのまだ收まらぬ状態で、彼はそう考えた。
 やがて彼がクラーヴヂヤ・ペトローヴナに會って、マリヤ・スィソエヴナから聞いた話や、今しがたの葬列のなかでの奇怪な邂逅のことを傳えると、夫人はすっかり物思いに沈んでしまった。「私、あなたのことが心配ですわ」と彼女は言った、「あなたはそのかたとの關係を一切お絶ちにならないといけませんわ。それもなるべく早いほうがよござんすわ。」
「なあに、飮んだくれの大たわけですよ、それだけの話ですよ!」とヴェリチャーニノフは、むっとしてやり返した、「そんなことをしたら、私があいつを怖がってることになりまさあね! それにリーザというものがあるのに、どうしてあいつと關係を絶つなんてことができましょう。少しはリーザのことも考えてくださいよ!」
 一方リーザはというと病氣で寢ていたのである。昨日の晩方から熱が出たので、今朝は夜が明けるのも待ち兼ねるようにしてまちへ急ぎの使を出して、ある有名な醫者を迎えにやった。その醫者の到着を待っているところなのであった。またもや降って湧いたこの出來ごとに、ヴェリチャーニノフはもうすっかり滅茶苦茶になってしまった。クラーヴヂヤ・ペトローヴナは彼を病床へ案内した。
「わたしは昨日、じっとあの子を見ていましたんですけどね」と彼女はリーザの部屋の前で立ちどまって、相手に注意するような口調で言いだした、「傲慢な氣むずかしい子ですことね。あの子は私どものところにいるのが恥かしいんですのよ。それにまた父親にぽいと棄てられたことがね。それが今度の病氣のもとだと私は思いますわ。」
「棄てた? なんだってあなたは、棄てたなんてお考えになるんです?」
「だってそうじゃありませんの、あの子をこうして見も知らぬ家へ、それもあなたのような……やっぱり見も知らぬ人同然のかた、というより今のような關係にあるかたと一緒に、平氣で手離してよこすんですもの……。」
「だがあの子を連れ出したのはこの私なんですよ、私が力ずくで連れ出して來たんですよ、私には別に不都合があろうとも……。」
「まあまあ、あなたはまだそんなことを! そこに不都合があることくらい、年端もゆかぬあのリーザだって、ちゃんと見拔いていますことよ! 私の考えでは、あの人はてんでここへ寄りつきもしまいと思いますわ。」
 ヴェリチャーニノフが一人で來たのを見ても、リーザは別に驚きもしなかった。彼女はにっと悲しげな微笑を洩らすと、そのまま熱にほてった自分の頭を壁のほうへ向けてしまった。ヴェリチャーニノフのおずおずした慰めの言葉にも、明日はきっとお父さんを連れて來るからという熱心こめた約束にも、彼女は一言も返事をしなかった。病室を出ながら、彼は突然聲をあげて泣きだした。
 醫者は夕方になってやっと到着した。患者の診察が濟むと、彼は最初のひとことでまず一同の度膽を拔いてしまった。こんな手遲れにならんうちになぜ早く呼んでくださらなかったか、と咎めるように言い放ったのである。それに答えて、つい昨夜發病したばかりだと説明してやっても、彼は初めのうちは本當にしなかった。
「まあ今夜の模樣次第と見るほかはありませんな」――とどのつまり彼はそう斷定して、醫者としての注意を與え終ると、明日はなるべく早く伺いますと言い殘して歸って行った。ヴェリチャーニノフはなんとしても今夜はここに泊りたかった。ところが、さっきあんなことを言ったクラーヴヂヤ・ペトローヴナが、今度は自分のほうから、『あの人非人ひとでなしを引っ張って來る試み』をもう一度やって御覽なさいと言いだして、どうしてもきかなかった。
「もう一度ですと?」と、のぼせあがっているヴェリチャーニノフは鸚鵡返しに訊き返した、
「よしきた、今度こそはふん縛って、この手で引っ擔いで來てお目にかけますよ!」
 パーヴェル・パーヴロヴィチをふん縛ってわが手で引っ擔いで來るという想念は、たちまちのうちに彼を、いても立ってもおられぬほど、はげしく捉えてしまった。
「今じゃもう、あの男に對して濟まんなんて氣持はこれっぱかりもしませんよ、これっぱかりもね」と彼は、クラーヴヂヤ・ペトローヴナに別れの挨拶をしながら言うのだった、「昨日私がここでした、あの卑屈なめそめそした言葉は、みんなもう打消しです!」と彼はぷりぷりしながらつけ加えた。
 リーザは眼をとじて臥せっていた。どうやら眠っているらしく、持ち直してきたように見受けられた。歸る前にせめて着物の端にでも接吻しようと思って、ヴェリチャーニノフがそっと彼女の頭のほうへ身をかがめた時、――彼女はまるで待ち受けていたように不意にぱっちり眼を見開いて、こう囁くように言った。
「あたしを連れてって。」
 それは物靜かな、悲しげな願いで、昨日の興奮などは跡かたも見えなかったが、また同時に、とてもこの願いが聽き屆けてはもらえないことを自分でも深く信じているような、一種あきらめのひびきがこもっていた。そしてヴェリチャーニノフが絶體絶命の氣持で、それはとてもできない相談だということを説きにかかるが早いか、彼女は默って眼をとじてしまい、まるで彼には耳も目も借さないといったふうに、それっきりひとことも口を利かなかった。
 馬車が町へはいると、彼は眞直ぐにポクローフスキイ・ホテルへ乘りつけろと命じた。もう夜の十時だったが、パーヴェル・パーヴロヴィチは宿にいなかった。ヴェリチャーニノフは、病的にじりじりしてくる心を無理に抑えて、廊下を行きつ戻りつしながら半時間はたっぷり待った。マリヤ・スィソエヴナは見るに見兼ねて、パーヴェル・パーヴロヴィチは夜の明けるまではとても歸って來まいと斷言する始末だった。『じゃ俺も夜明けに出直して來るとしよう』とヴェリチャーニノフは決心してしぶしぶわが家へ歸った。
 ところが、まだ自分の部屋にはいらぬ先にマーヴラの口から、昨夜のお客が十時前からお歸りを待っていらっしゃいますよと聞かされた時の、彼の愕きはどうだったろう。
「私どものとこでお茶を召上がって、――それからまたお酒を買いにおやりになって、そのお代に青札いのししを一枚くださいましたよ。」


九 幽靈


 パーヴェル・パーヴロヴィチはさも居心地よげにお神輿を据えていた。昨夜と同じ椅子に腰をおろして、くわえ煙草としゃれながら、酒壜を傾けて、四杯目の最後のグラスを滿たしているところだった。土瓶と飮みさしのコップが、卓上のすぐ手ぢかのところに置いてある。眞赤に色あげのできた顏は、柔和そうにてらてらしていた。おまけに夏場らしく上着をぬいで、チョッキ一つになっていた。
「いやあこれは、つい御交誼にあまえましてな!」と彼はヴェリチャーニノフの姿を見ると、上着をひっかけようと急いで席を立ちながら、大聲をあげた、「束の間の歡樂をひとしおならしめんとて、かくは上着をとり……」
 ヴェリチャーニノフは物凄い劍幕でつめ寄って來た。
「あなたはまだ正氣が殘っていますかね? まだ話が通じますかね?」
 パーヴェル・パーヴロヴィチはいささかどぎまぎした。
「いやその、まだそれほどでも……。亡友をしのんで一杯やりましたがね、しかし――まだそれほどでも……。」
「私の言うことがわかりますかね?」
「それを伺いにかくは參上……。」
「よろしい、じゃあ、のっけからびしびしやりますがね、まず第一にあんたは――碌でなしだ!」とヴェリチャーニノフは吐き出すような聲でどなりつけた。
のっけからそれじゃあ、おしまいにはどうなりますかね?」とパーヴェル・パーヴロヴィチはひどく恐れをなしたらしく、情ない聲で異議の申したてにかかったが、ヴェリチャーニノフは耳も借さずにどなりたてた。――
「あんたの娘さんは死にかけてるんですよ、病氣なんですよ。あんたはあの子を棄てたんですか、棄てたんじゃないんですか?」
「死にかけてるって、そりやまた本當ですか?」
「病氣も病氣、極めて重態なんです!」
「いや多分、例のちょっとした發作で……」
「馬鹿なことを! あの子はき・わ・め・て・重態なんです! それでなくてもあなたは當然、顏を出すべき……。」
「お禮を申しあげにね、おもてなしにあずかった御禮を言上にね! もとより百も承知でさ! アレクセイ・イヴァーノヴィチ、まあきいてくださいよ」と言いざま、彼はいきなり兩手でもって相手の手首をしっかと捉え、醉漢特有の感動にあやうく涙をこぼさんばかりのていで、まるで謝罪でもするような調子で叫びたてた、「アレクセイ・イヴァーノヴィチ、まあお靜かに、お靜かに! よしんばこの私がですな、くたばったにしたところで、たった今、ぐでんぐでんのままネヴァ河へはまりこんだにしたところで、――目下の局面からみて別に大したこともないじゃありませんか? それにまた、ポゴレーリツェフさんのところなら、行こうと思えばいつだって行けるんですし……。」
 ヴェリチャーニノフははっと氣づいて、腹の蟲を少し抑えつけた。
「あなたは醉っておいでですよ。だから私には、あなたがそんなことを仰しゃる意味が呑みこめないのです」と彼は嚴かな口調で言いだした、「あなたととっくり話しあうためなら、私はいつ何時なんどきでも、時間を割く用意がありますよ。それもなるべく早くとさえ思ってるんです。……だから現に、今もあなたのお宿へ……。いや、それはそうと今日は駄目ですよ。そんなことよりまず、私はもう斷乎たる手段をとることにきめたんです。つまり、あなたは今晩ここに泊るんですよ! 明日の朝になったら、私はあなたを連れてあの家へ行きます。斷じて放さんですぞ!……」とまたもや彼は喚きたてはじめた、「あんたを縛り上げて、兩手で抱えて持って行くんだ!……ところで、その安樂椅子で寢られますか?」――と息を切らしながら彼は、自分が寢ることにしている安樂椅子のちょうど反對の壁際にある、幅のひろいふかふかした安樂椅子を指した。
「寢られる段じゃありませんよ、私はもうどこでも……」
「どこでもじゃありません、その安樂椅子になさい! さあ受けとってくださいよ、そうら敷布シーツ、それから夜着、枕と(といった物をヴェリチャーニノフは戸棚から引きずり出して、おとなしく手を差し出しているパーヴェル・パーヴロヴィチめがけて、大急ぎでぽんぽんほうり出した)――すぐ床をとるんです、床・を・と・るんですよ!」
 寢道具を抱えさせられたパーヴェル・パーヴロヴィチは、醉眼朦朧とした顏に醉いどれに附きもののだらだらした微笑を浮かべて、さも決心し兼ねたといった樣子で部屋の眞中につっ立っていた。が、ヴェリチャーニノフの二度目の大喝にあうと、急にそそくさと全速力で仕度にとりかかり、卓子を横へ片寄せ、ふうふういいながら敷布シーツをひろげて敷きはじめた。ヴェリチャーニノフはそばへ寄って來て手傳ってやった。客のびっくり仰天した有樣とその從順な樣子に、彼は幾分溜飮を下げたのである。
「その杯を乾して、横におなりなさい」と彼はまた命令をくだした。命令せずにはいられない氣持だったのだ。「一體その酒はあなたが買いにやったんですかね?」
「ええ、私が買いに……。私はその、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、とてももうあなたが買いにやってはくださるまいと思ったもんでね。」
「それを御存じなのは結構。だがついでのことに、その先まで心得て置いて頂きたいもんですね。もう一度くり返して申し上げときますがね、私はもう斷乎たる手段をとることにきめたんですよ。つまりですな、あんな道化芝居の眞似なんかすると、今度こそは承知しませんよ。昨夜みたいな醉ったまぎれの接吻なんか、もう我慢はしませんよ!」
「そのことなら、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、私だって心得てますよ。あんなことはただの一度しか許されないことだぐらいはね」とパーヴェル・パーヴロヴィチは、にやりと笑った。
 この返事を耳にすると、部屋のなかを大股に歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)っていたヴェリチャーニノフは、莊重といってもいい程のまじめくさった顏つきで、急にパーヴェル・パーヴロヴィチの前に歩をとめた。
「パーヴェル・パーヴロヴィチ、ごまかさずに本音をお吐きなさい! あなたは利口なかただ、これはくり返し認めることを躊躇しません。だが、はっきり申しあげますがね、あなたは道を踏み違えておられるんだ! 思ったことをまっすぐに口になさい、思ったことをまっすぐに行動にお移しなさい。そうなったら私も、お望みのことはなんなりとお答えしますよ――これはしかとお約束します!」
 パーヴェル・パーヴロヴィチは例のだらしない微笑でにやりと笑った。それを見ただけでヴェリチャーニノフは赫となってしまった。
「やめなさい!」と彼はまたどなりだした、「胡麻化そうたって駄目ですよ、あんたの腹の底は見透しなんだ! もう一度いいますがね、私は何なりと喜んでお返事をするって、ちゃんと約束したんですよ。つまりお返事のできることならどんなことでも申し上げて、御滿足のゆくようにするつもりなんです。いや、それどころか、お返事のでき兼ねることだって、申しあげる決心なんですよ! ああ、この私の氣持がわかってくだすったらなあ!……」
「あなたにそれまで御親切がおありだとすれば」とパーヴェル・パーヴロヴィチは用心しいしい彼のそばへにじり寄って來た、「差しあたって伺いたいのはこれですよ。昨夜あなたは『肉食型』とやらいうことを仰しゃいましたな、私はあれにすこぶる興味を覺え……」
 ヴェリチャーニノフはぺっと唾を吐いて、前よりも早足に、再び部屋のなかを歩きはじめた。
「駄目ですよ、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、そう素氣なくしないでくださいよ。じつはあれにすこぶる興味を覺えましてね、それでわざわざ御高説を拜聽に伺ったようなわけなんで……どうも私は口不調法でいけませんが、まあお許しを願いますよ。じつはね、その『肉食型』という奴と、も一つ『草食型』という奴のことは、私も雜誌の評論欄で讀んだことがありましてね――それを今朝ひょいと思い出したわけなんです……ただちょいと忘れていたんで。いや正直に言うと、讀んだ時はわからなかったんですな。そこで私が一つはっきりさせて置きたいのは、あの亡くなったステパン・ミハイロヴィチ・バガウトフですな、――あの男は一體『肉食型』だったんでしょうか、それとも『草食型』のほうでしょうか? どっちの部類へ入れたもんでしょうな?」
 ヴェリチャーニノフは相變らず默りこくって、大股に歩きつづけていた。
「その肉食型というのはですね」と彼は憤然としていきなり立ちどまった、「昨夜のあなたが私と一杯やられた時のような、再會の歡びを表するために假りにバガウトフと『シャンパンの杯をあげる』ことになると、相手の杯にひと思いに毒を盛っちまうようなてあいのことを言うんですよ。そうしたてあいは、あんたがさっきなすったような、相手のお棺を墓地まで見送るなんて手ぬるい眞似はしないもんですよ。ええ思っても胸くそが惡くなる――一體あなたは、どんな汚らわしい、とても明るみには出せないような、祕密な下ごころがあって、葬式へなんぞ出かける氣になったんです! そんな道化芝居は、ただもうあんた自身の面汚しになるだけなんだ! あんた自身のね!」
「そりゃまったく仰しゃるとおりで、葬式へなんぞ行く手はなかったんですよ」とパーヴェル・パーヴロヴィチは合槌をうった、「だがあなたはまた、なんだってそう私のことを……。」
「また、そういうてあいはですね」とヴェリチャーニノフは相手に構わず、かんかんになって喚きたてた、「愚にもつかんことを考え出して獨りでくよくよしたり、善惡正邪の總ざらいをやらかしたり、自分の受けた恥辱を、まるで學科を暗誦するみたいにいつまでもうじうじ考えたり、やきもきしたり、道化てみたり澄ましてみたり、他人の頸っ玉へしがみついたり、――あったら自分の大事な時間をそんなことで潰してしまうような、そんな人間じゃありませんよ! ときに、あなたが首をくくろうとしたって話は、あれは本當ですか? え、本當ですか?」
「醉ったまぎれにあるいは口走ったかも知れませんがね――覺えがありませんな。だがね、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、どうもその毒を盛るというやつは、われわれには少々うつりが惡いですなあ。こうみえても歴乎とした官吏だなんてことは二の次にしても、――何しろ私には資産もあるんですし、且つはまた再婚したいとも思ってるもんでしてね。」
「それに、そんなことをすりゃ赤いおべべも着なきゃならんし。」
「そうそう、そのとおりでさ。今どき裁判所でもいろいろと情状酌量の餘地を考えてくれるとはいえ、やっぱりどうも不愉快なことには違いないですからなあ。それはそうと、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、飛びきり滑稽な逸話を一つお聞かせしましょうか。さっきあの馬車のなかでふいと思い出しましてね、あなたに聞いて頂こうと思ってたんですよ。ところが今あなたが『他人ひとの頸っ玉へしがみつく』って仰しゃったもんで、圖らずもまた思い出した次第ですがね。あのセミョーン・ペトローヴィチ・リフツォフ、多分覺えておいででしょうな、あなたがTにいらした時分よく私どもへやって來た男ですよ。さてこの男の弟でね、これもやはりちゃきちゃきのペテルブルグっ兒でしたが、V縣の知事のもとに勤めていたのがあったんです。これもやはりいろんな點で鳴らしていた男でしたがね。ある日のことです、さる集りの席上、滿座の婦人はいわずもがな、自分が思いをよせている當の婦人の面前で、この男がゴルベンコという大佐とちょっとした口論をやらかしたんです。そして相手からひどい侮辱を受けたと思ったが、じっとそれを腹におさめて、表にあらわさなかったんですな。と、そうこうするうちに、そのゴルベンコが、例の彼の意中の婦人を横取りしましてね、とうとう求婚するという始末になったものです。さあそこで、どうなったとお考えですな? くだんのリフツォフはですな、誠心を披瀝してゴルベンコと親交を結んだんですよ、すっかり仲直りをしてしまったんです。それのみか、――結婚式には自分から無理やり新郎の介添人を買ってでましてね、婚禮の冠を捧げもつ役を引き受けたものです。さて新郎新婦がその冠の下をくぐって式場へ來着しますとね、奴は祝辭と接吻をやりにゴルベンコのそばへ寄りましてね、それがどうかというと縣知事をはじめお歴々の居並ぶ前でですな、自分もちゃんと燕尾服を着こんで髮を捲き縮らせた姿でですな――やにわにぐさりとばかり新郎のどてっ腹へ小刀を突きたてた――ゴルベンコはひとたまりもなくどうと倒れるって騷ぎなんですよ! それが、わざわざ新郎の介添役を買ってでたうえでの話なんだから、いやなんともはや破廉恥きわまることですて! ところがまだそれだけじゃないんです! ここが大事なとこですがね、ぐさりとやってしまうと、今度はいきなりそこらじゅう駈けずり※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ってね、『ああとんだことをしちまった! ああ俺は大變なことをしちまった!』ってね、おいおい泣きだして齒の根も合わん始末なんですよ。おまけに誰かれの見境いもなく、婦人たちの頸っ玉へまでしがみついてね、『ああ、大變だ! ああ、とんだことをしちまった!』――へ、へへ! まったく笑っちまいましたね。ここに哀れをとどめたのはゴルベンコですが、これは間もなくもとのからだになりましたよ。」「なんだってそんな話をなさるのか、私には合點がゆきませんな」とヴェリチャーニノフは嶮しく眉をひそめた。
「いやつまり、その小刀でぐさりとやったところをお聽かせしたいと思いましてね」とパーヴェル・パーヴロヴィチはくすくす笑いだした、「何しろ恐怖のあまり禮儀も何も忘れちまって、知事閣下の御面前で婦人の頸っ玉へしがみつくような男ですから、これはもう仰しゃるようなタイプじゃなく、洟っ垂れの大供にすぎませんさ。――だがね、とにかくぐさりとやってのけた、一念を通したのですな! 申しあげたかったのはそこだけですよ。」
「ええ、さっさと出て失せろ!」と、何物かが胸のなかの堰を切りでもしたように、まるで別人のようなうわずった聲で、ヴェリチャーニノフは急に喚きだした、「ええ出て失せろ、その人の腹を探るような小きたない話と一緒に、とっとと出て失せろ。第一あんたからして、縁の下の鼠みたいな小きたない根性なんだ――この私を嚇かそうと企らんだな――子供ばかりいびりやがって――この下種男め――卑劣漢、卑劣漢、この卑劣漢!」彼はわれを忘れて、一言ごとにはあはあ息をきらしながら、喚きたてた。
 パーヴェル・パーヴロヴィチは俄かに引攣ったような顏になった。一時に醉いもさめて、唇はわなわなと顫えだした。
「それはこの私のことですか、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、あなたが卑劣漢とお呼びになるのは、あなたがこの私をそうお呼びになるんですか?」
 その間にヴェリチャーニノフは早くもわれに返っていた。
「いやこれは、いつでもお詫びしますよ」と彼はちょっと間を置いて、暗い沈思のうちに答えた、「だがそれは、あなたのほうが今この瞬間から、思ったことをまっすぐに言動にうつすと、約束される場合に限りますね。」
「私ならそういう場合、無條件で謝罪しますがねえ、アレクセイ・イヴァーノヴィチ。」
「よろしい、じゃそうしましょう」と言って、ヴェリチャーニノフは再びちょっと沈默した、――「どうも濟みませんでした。ところでこれはお斷りして置きますがね、パーヴェル・パーヴロヴィチ、こうなった以上私は、今後はもう一切、あなたに對して債務があるとは認めませんよ。それも、單に今しがたの問題についてばかりじゃなく、一切の事柄について言うのです。」
「いいですとも。なんですね、認めるとか認めないとかいって?」パーヴェル・パーヴロヴィチはにやりと笑ったが、しかし眼は足もとに落としていた。
「あなたがそう仰しゃってくださるなら、なおさら結構です、一そう結構ですよ! さあそのコップをけてお寢みなさい、とにかく今夜はお歸しはしないんだから……。」
「いやお酒はもう、……」とパーヴェル・パーヴロヴィチはややたじろぎの色を見せたが、それでもやはり卓子へ歩みよって、先刻からぎっ放しになっていた最後の一杯を乾しにかかった。もうその前にさんざひっかけていたらしく、杯を持つ手はしきりと顫えて、酒をゆかやルバーシカや、チョッキのうえへだらしなくこぼすのだったが、とにかく最後の一滴まで乾すには乾した。――まるで飮みさしのままでは置けないとでも思っているふうだった。そして空っぽの杯を恭しく卓子のうえに置くと、おとなしく自分の寢床の前へ行って着物を脱ぎはじめた。
「だがやっぱり……泊らないほうがよくはないでしょうかね?」と彼は、なんと思ったか急にそんなことを言いだした。もう片っ方の靴はぬいで、それを兩手に抱えている。
「いや、斷じてよかありません!」まだ根氣よく歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)っていたヴェリチャーニノフは、彼のほうを見やらずに吐き出すように答えた。
 相手は着物をぬいで横になった。それから十五分もするとヴェリチャーニノフも寢床にはいって枕もとの臘燭を吹き消した。
 彼はうとうとと不安な眠りにはいりかけた。何かしら新らたなことが、不意にどこからとも知れず湧いて出て、問題をますますこんぐらかしてしまった――それが今彼の胸を騷がせているのであった。しかも同時に、どうしたわけだか、この自分の不安な氣持が妙に氣恥かしいのであった。そのうちにやっと深い眠りが訪れたかと思うと、不意に、何やら衣ずれのような音がして、彼の眼をさましてしまった。彼は突嗟にパーヴェル・パーヴロヴィチの寢床のほうを振り向いて見た。部屋のなかは眞暗だった(厚地の窓掛がすっかりおろしてあったのである)が、彼の眼には、パーヴェル・パーヴロヴィチが横になってはいずに、半身をおこして、寢床の端に腰かけているように思われた。
「どうしたんです!」とヴェリチャーニノフは呼びかけた。
「なんだか影のようなものが」と暫くたってから、ほとんど聞きとれぬほどの聲で、パーヴェル・パーヴロヴィチが言った。
「なんですと、どんな影です?」
「あすこに、向うの部屋の、戸口のところに……なんだか幽靈みたいなものが見えたんです。」
「幽靈って、誰のです?」と暫く間を置いて、ヴェリチャーニノフは訊ねた。
「亡くなった家内のです。」
 ヴェリチャーニノフは寢床をすべり出て足を絨毯へおろすと、控室ごしに、いつもドアをあけ放しにしてある向うの部屋をさし覗いた。その部屋には窓掛がなく、薄い捲上カーテンだけだったので、こちらにくらべるとずっと明るかった。
「向うの部屋には何にも見えはしませんよ。あなたは醉ってるんです、おやすみなさい!」ヴェリチャーニノフはそう言い棄てて、横になると毛布にくるまってしまった。パーヴェル・パーヴロヴィチは一言も口を利かずに、やはり横になった。
「これまで一度も幽靈を見たことはなかったんですか?」と、ものの十分もたってから、ヴェリチャーニノフは思い出したように訊いた。
「一度なんだか見たことがあるような氣がしますよ」と微かな聲で、やはり間を置いてから、パーヴェル・パーヴロヴィチは答えてきた。
 それから再び沈默がやってきた。
 ヴェリチャーニノフは自分が眠っているのかいないのか、はっきりとは斷定できないような状態でいたが、そのままで小一時間もたったと思われるころ、またしても彼はくるりと半身をねじ向けた。何か衣ずれのような音でもして再び彼の夢を破ったのか――そこのところは自分でもわからなかったが、とにかく漆のような部屋の闇のなかに、何やら白いものが、彼のうえにのしかかるようにして立っているような氣がした。もっともその氣配は、まだ彼の身近かに迫っているわけでもないが、もう部屋の中央には達していた。彼は寢床の端におきなおって、たっぷり、一分間じっと眼をこらしていた。
「あなたですか、パーヴェル・パーヴロヴィチ?」と彼は力のない聲を出した。突然、靜寂を破って深い闇のなかにひびいたこの聲は、われながら異樣なものに思われた。
 返事はなかった。しかし誰かがそこに佇んでいるということは、もはや一點の疑う餘地もなかった。
「あなたなんですか……パーヴェル・パーヴロヴィチ?」と彼は前よりも大聲で同じ問いをくり返した、假りにパーヴエル・パーヴロヴィチが、自分の寢床ですやすや眠っていたとしても、必らず目をさまして返事をするに違いないほどの大聲だった。
 だが返事はやっぱりなかった。その代り彼には、その白っぽい、辛うじて見分けがつくほどの人影が、一そう自分のほうへ近づいて來たように思われた。それから、ある奇怪なことが起こった。ちょうど最前とおなじように、不意に彼の身うちで何物かが堰を切ったのである。そして彼は、滿身の力をふりしぼって、ほとんど一言ごとに、はあはあ息を切らしながら、とてつもない狂氣じみた聲で喚きたてはじめた。――
「ええ、この醉いどれの大たわけめ――この俺がそんな嚇しに――乘るだろうなんて――よくものめのめと――思いつきやがったな――そんなら俺は壁のほうへ向いちまってな、頭からすっぽり毛布を引っかぶって、一晩じゅうふり向いてもやらんからそう思え――そうすりゃ、そんな嚇しなんぞこの俺には屁でもないことが、貴樣にだって納得がゆくだろうて――馬鹿面さげて……夜明けまでそうしてつっ立ってたっておなじことだぞ……ちぇっ、唾でもくらえ!……」
 そう言いざま、彼はパーヴェル・パーヴロヴィチだと思われる姿が立っているほうをめがけて、おそろしい劍幕でべっと唾を吐きかけ、くるりと壁のほうへ寢返りを打つと、約束どおり毛布を頭から引っかぶって、そのままぴくりともせず鳴りをひそめてしまった。死のような靜寂が襲った。その人影がまだ近よって來るのか、それとも同じ場所につっ立っているのか、彼は知るよしもなかったが、胸の動悸は刻一刻と今にもはち切れそうに高まるばかりだった。……そのままの状態で、少くとも五分間はたっぷりたった。と突然、彼からつい二歩ほどのところで、弱々しい、ひどく哀れっぽいパーヴェル・パーヴロヴィチの聲がひびいた。――
「私はね、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、さがし物があって起きたんですがね……(そして彼は必要缺くべからざるある家庭用品の名を言った)(譯者註。尿壺のこと)――自分のところを探したけどないもんですから……そっとあなたの寢床のあたりをさぐって見たいと思いましてね。」
「じゃなぜ默ってたんです……あんなに私がどなったのに!」とヴェリチャーニノフは三十秒ほどじっと相手の氣配を窺っていたが、やがてとぎれとぎれの聲で訊いた。
「びっくりしちまったんですよ。あなたのどなりようが物凄かったんで……度膽を拔かれちまったんですよ。」
「その左手の隅の、戸口の近くにある、小さな戸棚のなかです、臘燭をつけて御覽なさい……」
「いや、明りなんかなくても……」と隅のほうへ行きながら、パーヴェル・パーヴロヴィチは恐縮したような聲を出した、――「ねえ、ひとつ堪忍してくださいよ、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、すっかりどうもお騷がせしてしまって……何しろ一時に醉いが出たもんですから……」
 しかし相手はもう何も答えなかった。彼は依然として顏を壁へ向けたままだったが、とうとう夜どおしその姿勢で押しとおして、ただの一度もこちらをふり向かなかった。果して彼は、こうして先刻の約束を守って輕蔑の情を示したいと思ったのであろうか?――じつをいうと彼は無我夢中で、自分がどうしているかも知らなかったのである。神經の錯亂は次第に募って、やがてはほとんど意識の溷濁状態にまで進み、彼は長いあいだ寢つかれなかった。
 あくる朝、彼が眼をさました時は、もうとっくに九時を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)っていた。まるで脇腹を小突かれでもしたように、やにわにはね起きると、寢床の上に坐り直った。――がパーヴェル・パーヴロヴィチの姿はもはや部屋のなかにはなかった! もぬけの空の、敷っ放しの寢床が殘っているだけで、本人は夜が明けるか明けぬうちに、姿をくらましてしまったのである。
『まずこんなことだろうと思ってたよ!』ヴェリチャーニノフは掌で自分の額をぽんと叩いた。


十 墓地で


 醫者の心配は不幸にして適中して、リーザの容態は急に惡くなった。――それは、その前夜、ヴェリチャーニノフやクラーヴヂヤ・ペトローヴナが思いもよらなかったほどの、惡化のしようだった。ヴェリチャーニノフがその朝かけつけて來た時、病人はまだ意識はあったけれど、全身はまるで火のように熱かった。その状態で彼の顏を見た時、彼女はにっこりと笑いかけ、燃えるような小さな手を差しのべてきたと、彼はのちになってしきりに言い張ったものである。果してそれが事實であったか、それとも彼が氣やすめのためわれ知らず思いついたことにすぎなかったか――その點は彼も確かめてみる暇はなかった。夜が更けるに及んで病人はすでに意識を失って、その後はずっと昏睡状態をつづけた。別莊に引きとられて十日目に彼女は息をひきとった。
 それはヴェリチャーニノフにとっては、歎いても歎ききれぬ日々であった。ポゴレーリツェフ夫婦が彼の身を案じたほど、彼の歎きようはひどかった。その惱ましい日々の大部分を、彼はこの別莊ですごした。いよいよリーザが危篤に陷った最後の數日などは、彼は何時間もぶっとおしにそこらの隅っこに、無念無想のていで坐りこんでいたものである。クラーヴヂヤ・ペトローヴナはそういう彼のそばに寄って來て、氣をまぎらそうとするのだったが、彼はろくろく返事をしないばかりか、時によると彼女と話をするのがいかにも苦痛らしかった。『こうしたことが、これほどまでの心の激動を』彼に與えようなどとは、クラーヴヂヤ・ペトローヴナにとってはむしろ案外なほどだった。そうしたなかでとにかく彼の氣をまぎらしたのは子供たちで、時によると彼等を相手に笑い興ずることさえあったほどである。がしかし、ほとんど一時間おきには椅子を立って、爪先だってそっと病人の樣子を覗きに行くのであった。折り折りは病人が彼の顏の見分けがついているような氣もした。彼女が恢復するなどという希望は、彼もみんなの者と同樣に、爪の垢ほどもいだいてはいなかったけれど、それでもやはりリーザが臨終の身を横たえている部屋から離れようとはせず、大抵は次の間に坐りこんでいた。
 とはいえ、そういうあいだにも彼は二度ばかり、急に思い立ったように非常な活動ぶりを示したこともあった。いきなりお神輿をあげて、醫者を迎えにペテルブルグへ飛んで行って、幾人かの名醫をすぐって連れて來て、立會診斷をやってもらうのであった。二囘目の立會診斷は、患者が息をひきとる前の晩に行われた。その三日ほど前にクラーヴヂヤ・ペトローヴナは、今度こそはどうしてもトルーソツキイさんをどこかで探し出してくる必要があると、ヴェリチャーニノフに向ってしつこく口説きたてた。『リーザに、もしものことがあった場合、あの人がいないじゃお葬式も出せないじゃありませんか』と言うのである。ヴェリチャーニノフは、じゃ手紙でそう言ってやりましょうと言葉を濁した。すると今度はポゴレーリツェフ氏が、そんならいっそ自分が警察の手を煩わして搜索してやろうと言いだす始末だった。でとうとうヴェリチャーニノフは二行ほどの通知を走り書きして、ポクローフスキイ・ホテルへ持って行った。パーヴェル・パーヴロヴィチは例によって不在だったので、彼はその手紙をマリヤ・スィソエヴナにたのんで歸った。
 やがてリーザは、とある夏の夕べ、落日の光とともに息をひきとった。その時になってやっと、ヴェリチャーニノフははっと現實にたち返った樣子だった。クラーヴヂヤ・ペトローヴナの娘の一人の祭日用にとってあった純白の晴着を着せて最期いまわの裝いをさせ、合掌した手には花を握らせて、亡骸を廣間の卓子のうえに安置した時、――彼はやにわに眼をぎらぎら光らせながらクラーヴヂヤ・ペトローヴナのそばへ進んで行って、今この足で『あの人殺し野郎』を引っ張って來ますと宣言した。明日まで待ってみてはという夫人のすすめには耳も借さずに、彼はすぐさままちへ出かけて行った。
 彼にはパーヴェル・パーヴロヴィチのとぐろを卷いている場所の目あてがついていたのである。彼が前後二度もペテルブルグへ出て來たのは、何も醫者を迎えに出て來ただけではなかったのだ。あの惱ましい日ごろ、時として彼には、死にかかっているリーザの枕頭へ父親を連れて來たら、きっとその聲を聞きつけて彼女は氣がつくだろうと、そんな考えが頭にのぼるのであった。すると彼はもう矢も楯もたまらず夢中になって、彼の居場所をつきとめにかかるのであった。パーヴェル・パーヴロヴィチは相變らず例の宿に泊っていることにはなっていたものの、その宿へ行って在否を訊ねるなどは、訊ねるだけでも野暮だった。『もうこれで三日も、寢に歸って來るどころか、てんで寄りつきはしないんですよ』というのがマリア・スィソエヴナの返事であった、『そうかと思うと、ひょっこり醉っ拂って歸って來ちゃ、一時間もしないうちに、またひょろひょろ出かけて行くんでございますよ。すっかりもう撚りが戻っちまったんですわね。』
 その一方ヴェリチャーニノフは、いろんな話のあいだに、ふとポクローフスキイ・ホテルの給仕の口から、パーヴェル・パーヴロヴィチが以前よくヴォズネセンスキイ通りに巣喰ういかがわしい女たちのところへ出かけたものだ、という話を聞きこんだ。ヴェリチャーニノフは早速その女たちの巣窟を探しあてた。そして彼女たちにうんと鼻藥を利かせたり、おごってやったりしてみると、向うでは苦もなくそのお客のことを思い出したのであった。もちろん、それは主としてあの喪章のついた帽子のおかげであるが、思い出すが早いか、たちまちにして彼に對する罵詈雜言が、彼女たちの口をついて出はじめたのには、さすがのヴェリチャーニノフも驚いた。つまりそれは近ごろさっぱり鼬の道なので、女たちの怨みを買っていたわけである。なかでもカーチャという女などは、『あのパーヴェル・パーヴロヴィチならいつでも探し出したげるわよ』と、簡單に引きうけてくれた、『だってあの人ったら、この頃はずっとマーシカ・プロスターコヴァんとこに入り浸りなんだもの。それはそうと、あの人はとっても金使いの荒い人だわねえ。でね、そのマーシカっていうのは、プロスターコヴァ(譯者註。間拔けほどの意)なんて苗字はもったいなさすぎるのよ、プロフヴォーストヴァ(譯者註。ならず者の意)で結構なんだわ。そりゃ酷い女なのよ。今病院へはいってるけどね。あんな女なんか、私にちょいとその氣がありさえすりゃ、今すぐにだってシベリヤへ流し者にされちまうんだよ。たった一言で片がついちまうんだよ。』――そうは言ったものの、その日はとうとうカーチャにも彼の行方は尋ねあたらず、その代りまたの日を固く約束してくれたのであった。ヴェリチャーニノフが今あてにしているのは、つまりこの女の助力なのである。
 ペテルブルグに着いたのはもう十時だったが、彼は早速その女に口をかけて、抱え主に女の不在中の玉代を拂い、さて一緒に連れ立って搜索に出かけた。パーヴェル・パーヴロヴィチを見つけ出してさてその彼を一體どうしようというのか、何か因縁をつけて叩き殺してやる氣なのか、それともただ娘の死を告げて、埋葬には是非とも立ち會ってもらわなければ困ると傳えるために、こうして搜し※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)っているのにすぎないものか――そこのところは自分でもまだ見當がついていなかった。最初にあたってみた先では、まんまと失敗してしまった。つまりマーシカ・プロフヴォーストヴァがつい一昨日パーヴェル・パーヴロヴィチと大喧嘩をおっぱじめてしまい、用心棒か何かに『パーヴェル・パーヴロヴィチがベンチで頭をぶち割られたんで』という顛末が判明したのである。手じかにいうと、長いことかかってなかなか搜し出せなかったのであるが、とどのつまり夜なかの二時になって、やっとヴェリチャーニノフは、どうもそれらしいと教えられて行ったあるうちから出てくる、その出會いがしらに、突然ばったりと彼にぶつかってしまったのだった。
 べろんべろんのパーヴェル・パーヴロヴィチを、街の淑女が二人がかりでその樓へ案内して來るところだったのである。淑女の一人は彼の腕を支えていたが、もう一人彼等のうしろからは、恐喝漢ゆすりと思ぼしい見るからに逞ましい大男がくっついて來て、あらん限りの聲を張りあげて何やら凄文句を並べ立てながら、しきりにパーヴェル・パーヴロヴィチを脅かしていた。その男がどなりたてたなかには、『さんざ人をこき使いやがって、よくも俺をこんな目に逢わせやがったな』という文句もあった。なんでも金のことがもとでのいざこざらしかった。街の淑女たちはひどく怯氣づいて、しきりに先を急いでいた。ヴェリチャーニノフの姿を目にすると、パーヴェル・パーヴロヴィチはいきなり兩手を擴げて飛んで來て、今にも斬り殺されそうな聲で喚きたてた。
「あああなたか、助けてえ!」
 腕っぷしの強そうなヴェリチャーニノフの姿を認めると、恐喝漢ゆすりはたちまち掻き消すように逃げ失せてしまった。勝ち誇ったパーヴェル・パーヴロヴィチは、その後姿に向って握り拳をふりかざし、何やら勝ちどきをあげはじめた。それを見るとヴェリチャーニノフは、憤然として彼の肩をひっつかんで、われながらわけも理由いわれもなしに、相手の齒が、がちがち鳴りだすほどの猛烈な勢いで、兩手でもって搖すぶりはじめた。パーヴェル・パーヴロヴィチはたちまち喚きやんで、いかにも醉漢らしいどろんとした驚きの色を浮かべながら、自分の拷問者を見守るのだった。その先相手をどうしてやったらいいのかわからなかったのだろう、ヴェリチャーニノフはぐいと相手を捩じ伏せると、歩道の小柱くいのうえに腰を据えさせた。
「リーザが死んだんですぞ!」と彼は口早やに言った。
 それでもパーヴェル・パーヴロヴィチは依然として彼から眼を放さずに、街の淑女の一人にからだを支えられながら小柱くいのうえに坐っていた。がそのうちに、言葉の意味がやっと呑みこめたとみえ、みるみるげっそりしたような顏つきになつた[#「なつた」はママ]
「死んだ……」と彼は何か異樣な聲で、囁くように言った。その彼が、例の醉漢に特有の厭らしい、だらだらした薄笑いを洩らしたか、それとも何かの情感に驅られてひん曲ったような顏つきになったか――その邊はヴェリチャーニノフには見別けがつかなかった。が、ほんの一瞬間するとパーヴェル・パーヴロヴィチは、ぶるぶると顫えている右手をやっとのことで持ちあげて、十字を切ろうとした。しかしその十字も切り終えないうちに、わななく腕はだらりと垂れてしまった。それから暫くすると、彼はそろそろと小柱くいから立ちあがって、そばの女にしがみついて、その女に凭れかかりながら、まるで自失したもののように――そしてヴェリチャーニノフがその場にいるのも忘れ果てたもののように、ふらふらと今來た道を先へと歩きはじめた。相手はまたしてもその肩をひっつかんだ。
「おい分からんのか、この醉いどれの碌でなしめ、貴樣がいないことにゃ葬式も出せんのだぞ!」と彼は息をきらせながら喚きたてた。
 相手はくるりと首を捩じ向けた。
「砲兵の……少尉補……あの男を覺えておいでかな?」と彼は呂律の※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)らぬ舌でむにゃむにゃ言った。
「なに、なんだと?」ヴェリチャーニノフは病的にぶるぶるっと身を顫わして、喚き返した。
「それがお前さんの搜してる親父さあね! まあ見つけるがいいや……葬式を出すにな……」
「嘘つけ!」とヴェリチャーニノフは狂氣したように叫びたてた、「憎い一念から貴樣はそんなことを……大かたそんなことでも言い出すつもりだろうと、こっちは先刻御承知なんだぞ!」
 彼はわれを忘れて、その物凄い拳固をパーヴェル・パーヴロヴィチの頭上に振りあげた。もう一瞬間であわや相手を一撃のもとに打ち殺しそうな劍幕だった。街の淑女たちはきゃっと悲鳴をあげて飛びのいたが、パーヴェル・パーヴロヴィチはびくりともしなかった。凄まじい獸的な憎惡からくる一種狂暴な表情が、彼の顏を醜く引き歪めてしまっていた。
「お手前は御存じかな?」と彼は、今までにくらべればずっとしっかりした、ほとんど醉った人とは思えぬほどの語調で言った、「われわれロシアの……をさ?(ここで彼はとても筆にすることのできないような罵詈の言葉を發した。)――知ってるなら、さっさとそこへ出て失せやがれ!」
 そう言いざま、無理やりにヴェリチャーニノフの腕を振りもいだ拍子に、よろよろっとして危く倒れそうになった。淑女たちはその彼を抱きとめて、けたたましい聲をあげながら、パーヴェル・パーヴロヴィチをほとんど引きずらんばかりにして、今度はもういっさんに逃げだした。ヴェリチャーニノフは後を追わなかった。
 その翌日の午後一時に、通常官服を着た、人品卑しからぬ中年の一人の官吏がポゴレーリツェフの別莊にあらわれて、自分はパーヴェル・パーヴロヴィチ・トルーソツキイにたのまれた者だがと名乘り、うやうやしくクラーヴヂヤ・ペトローヴナに、彼女名あての一通の封書を手渡した。そのなかには、三百ルーブルの金と、リーザの身柄に關する必要な證明書類を封入した手紙がはいっていた。パーヴェル・パーヴロヴィチが書いてよこした文面は、手じかではあったが鄭重をきわめ、しかもすこぶる几帳面なものであった。このたび閣下夫人が天涯の一孤兒に寄せられた惠み深き御同情については、ただただ感謝のほかはなく、その善行に報いることは、ただ神のみがよくするところでありましょう、と書いていた。そして漠然と、自分はただ今、極度に健康を害しているため、わが最愛の薄倖なる娘を、手ずから葬ってやるため、そちらへ出向くことは叶いませぬが、萬事はただ閣下夫人の天使のごとき御心ばえにおすがり申しあげます、とも記していた。なおそれにつづく文面の説くところによれば、封入の三百ルーブルは葬儀萬端および娘の病中の諸がかりにあてて頂きたいということであった。萬一、またこの金額中のそこばくが餘った場合には、故リーザの冥福のための永代供養の資にあてて頂きたく、この段つつしんで願いあげます、とも記してあった。手紙を別莊にもたらした官吏は、それ以上のことは問われても何一つ説明できなかった。そればかりか彼の洩らした二三の言葉によって判ずると、彼はただ、パーヴェル・パーヴロヴィチの切なる依頼によって、この封書を閣下夫人に親しく手渡しする役目を引き受けたにすぎないことがわかった。ポゴレーリツェフは『病中の諸がかり』という文句を見ると、ほとんど腹を立てそうになり、ともかくも父親たる者にその子の葬式を營むことを禁ずるわけにはゆかないから、このうち五十ルーブルだけは埋葬費として申し受けるとして、殘る二百五十ルーブルは即刻トルーソツキイ氏に返却するがいいと裁定をくだした。いろいろ考えた擧句、クラーヴヂヤ・ペトローヴナは、その二百五十ルーブルはそのままでは返さずに、亡き少女リザヴェータ(譯者註。リーザの正式の名)の魂の永代供養料として、その金額を受領した旨の菩提寺の受けとりを、彼に送りとどけることにきめた。この受けとりはやがて、すぐさま先方に渡すようにヴェリチャーニノフの手に托された。彼はそれを例のホテルあてに郵送して置いた。
 葬式が濟むと、彼の姿は別莊にみえなくなってしまった。まる二週間というもの、彼はなんの目あてもなしに、ただ一人で都會の中をさまよい歩き、それもすっかり考えこんでいるのでよく他人に突き當るのであった。時によると、日常の最もありふれた事柄をまで忘れ果てて、幾日もぶっ通しに自分の宿の安樂椅子にのうのうと身を伸ばして、寢つづけていることもあった。ポゴレーリツェフ夫婦からは再三、迎えの使がやって來た。その都度、彼は伺いますと約束するのだったが、すぐけろりとその約束を忘れてしまった。クラーヴヂヤ・ペトローヴナはわざわざ自分で見舞いに出かけて來たが、あいにくと彼は留守であった。例の辯護士もそれとおなじ目に逢わされた。しかも辯護士は、彼に報告すべき要件を抱えていたのである。つまりあのさしも行きなやみになっていた訴訟事件が、彼の手ですこぶる手際よく片づけられて、相手かたでは、問題になっている遺産の極めて僅かな部分を補償として受けるだけで、示談にすることを承諾したのであった。あとは當のヴェリチャーニノフの承認をさえ得ればよい段取りになっていたのである。やっとのことで彼を宿でとっつかまえた辯護士は、ついこのあいだまであれほどに口喧ましい依頼人であったこの男が、せっかくの手柄話をまるで別人のような無氣力な、冷淡な態度でふんふんと聞きながす有樣に、呆れ返らずにはおられなかった。
 やがて一ばん暑氣のきびしい七月の日々がやって來たが、ヴェリチャーニノフは季節のことなどは忘れていた。彼の悲哀は、うみきった腫物のように、胸のなかでしきりに疼いて、絶えず苦しいほどはっきりと意識の表面に浮かび出て來るのであった。なかでも最も大きな惱みは、リーザがろくろく彼を知るひまもなく、彼がどんなにか苦しいほどの愛情を、彼女にいだいていたかを知りもせずに、死んで行ったことであった! 彼の眼の前に、あれほど愉しい光明に照らされて、姿をちらりと見せた彼の生き甲斐の全部が、俄かに永遠の闇にとざされてしまったのである。その生き甲斐というのは、あのリーザがくる日もくる日も、毎時間、いや一生のあいだ、絶えず彼の愛情をわが身のほとりに感じていてくれる、ただそれだけのことにほかならなかったのだ――それを今、彼はひっきりなしに思い返すのであった。『どんな人間にしろ、これ以上の生き甲斐は決してありもせず、またあり得るものでもないのだ!』と彼は時折り、暗い法悦にひたりながら思い耽った、『よしんば、まだほかに生き甲斐があるにしても、これより聖らかなやつは一つだってありはしないのだ!』……また、『リーザの愛によって』と彼は夢想するのであった、『俺の今までの腐れ果てた無益な生活は、すっかり浄められ贖われたに違いないのだ。これまでの安逸な、墮落した、老い朽ちた俺をいとしむ代りに、――俺はあの清らかな美しい存在いきものを己れの生き甲斐として、愛しはぐくむはずだったのだ。そしてあの存在のおかげで、俺の過去の一切は赦され、また自分でも過去の一切を赦すことができたはずだったのだ。』
 すべてこうした意識面の想念は、常にありありと眼前一寸に燒きつけられ、しかも常に彼の魂を掻きむしりつづける亡兒の追憶と、固く結びついてあらわれてくるのであった。彼はリーザの蒼ざめた小さな顏を心に描き返し、その顏の表情の一つ一つを想いおこした。お棺のなかに花に埋もれて横たわっていた姿を、思い浮かべ、また、まだそうならぬ前、高熱のため意識を失ったまま、動かぬ眼をぱっちりと見開いていた姿を、思い浮かべるのであった。と不意に彼は、彼女がもう廣間のほうへうつされて卓子のうえに横たえられていた時、その指が一本だけどうしたわけなのか病中に黝ずんでしまっていたのを、ふと發見した時の自分の氣持を思い出した。それを見た時彼ははげしい感動を覺え、その哀れな一本の指がひどく可哀そうになってきた。今すぐにもあのパーヴェル・パーヴロヴィチを搜し出して、打ち殺してやろうという考えが、初めて頭に閃いたのもじつにこのことだったので、それまでの彼は『まるで失神していたも同然』だったのである。――あの子の可憐な心臟を責め苛んでいたものは、生まれつき傲慢な氣持がはずかしめられたという事實だったのだろうか、それとも、俄かに今までの愛情を憎しみに變えて、破廉恥な言葉のかぎりをつくして彼女を面罵し、愕き怖れる彼女を嘲り笑い、擧句の果てに彼女を他人のなかへほうり出したあの父親から受けた、三カ月のあいだの苦惱の生活だったのだろうか?――こうした疑問を、彼は絶えずわれとわが胸につきつけ、無限に形を變えてくり返してみるのであった。『あなたは一體御存じなんですか、あのリーザが私にとって何者だったかということを?――彼は突然、醉いつぶれたトルーソツキイが發したこの叫びを思い浮かべ、今にして初めて、この叫びが決してお芝居ではなくて、彼の本心の聲だったことに思い當った。そこには愛のひびきがこもっていたことを感得した。『なんだってあの人非人は、それほどに可愛い子供にああも辛く當たれたんだろうか、そんなことがあり得ることだろうか?』しかし、この疑問がきざすたびに彼は急いで、まるで拂いのけでもするように、振り棄ててしまうのであった。この疑問のなかには何かしら怖ろしいものが、彼にとってとても堪えられぬ――しかも未解決の何ものかが、潜んでいるのであった。
 ある日のこと、例によって當てもなく歩いていると、いつのまにやら彼はリーザの葬られている墓地にさまよいこんで、彼女の小さな墓の前に出ていた。葬式の日からこのかた、彼は一度も墓地を訪れたことはなかった。くればくるで、餘りにも多くの苦痛を味わなければなるまいと思われたので、訪れる勇氣が出なかったのである。ところが意外なことには、彼女の墓に伏しかがんで接吻をした時、彼は急に心の輕くなるのを覺えた。晴れわたった夕暮で、太陽は西に沈もうとしていた。一面にみずみずしい緑草が生い繁って、あたりの墓標を埋めていた。遠からぬ野薔薇の茂みでは、蜜蜂がにぶい羽音をたてていた。埋葬が濟んでからクラーヴヂヤ・ペトローヴナとその子供たちが、リーザの墓のうえに殘して行った花束や花環が、半ば葉を落としたまま、まだ同じ場所に横たわっていた。長い懊惱の日々のあとで、初めて何かしら希望に似たものが、彼の心をいきいきと蘇えらせさえした。
『ああ、いい氣持だ!』と彼は、墓地の靜寂にひたりながら澄みわたった穩やかな空に眺め入って、心にそう思った。何ものかに對する清純ななごやかな信念が、滿ち潮のように彼の魂をひたひたと滿した。――『この氣持はリーザがおくってよこしたのだ、今あの子は俺と話をしているのだ』――ふと彼はそう思った。
 彼が墓地を出て家路についた時は、もう日はとっぷりと暮れていた。墓地の門からほど遠からぬ道ばたに、屋根の低い木造の家が一軒あって、何か小料理屋か居酒屋のようなことをしていた。あけ放しの窓のなかには、テーブルを前にした客たちの姿が、遠目にもそれと見分けられた。と突然、そのなかですぐ窓ぎわに陣どっている男が、ほかならぬパーヴェル・パーヴロヴィチのような氣がした。向うでもやはり、好奇の眼をみはりながら、窓ごしにこちらをじっと見ているらしかった。彼がそのまま先へ歩いて行くと、まもなく追っかけて來る人の足音が聞えた。うしろから駈けて來たのは、果してパーヴェル・パーヴロヴィチであった。さっき窓から覗いていた時、ヴェリチャーニノフの面上に讀みとられた和解的な表情が、おそらく彼をひきつけ、かつ勵ましたものに相違ない。追いついて肩を並べると、彼はおずおずと微笑みかけた。がしかしそれは、もはや先頃の醉い痴れた笑いではなかった。それどころか、彼は少しも醉ってはいないのであった。
「御機嫌よう」と彼は言った。
「御機嫌よう」とヴェリチャーニノフも答えた。


十一 パーヴェル・パーヴロヴィチの結婚


 この『ご機嫌よう』を返してしまって、彼はたちまちはっと自分に驚いた。今この男に出くわしても、なんの憎惡も浮かんではこないばかりか、今この瞬間における自分の彼に對する感情のなかには、何かしらこれまでとはまったく異ったもの、それのみならず新らしい何物かへの願望までが動くのを感じて、ひどく意外な氣がしたのである。
「じつにいい晩ですなあ」と彼の眼色をじっと窺いながら、パーヴェル・パーヴロヴィチは言った。
「あなたはまだおちじゃなかったんですか?」とヴェリチャーニノフは別に問いかけるつもりはなく、思い耽りながら歩みをつづけながら、何氣なくそう呟いた。
「どうも用件がのびのびになりましてね。しかし、――とにかく椅子は手に入れましたよ、しかもそれが昇進なんでしてね。明後日は必らずつつもりです。」
「椅子がみつかったんですか?」と彼は、今度は本式に問いかけた。
「それがいけませんかね?」と急にパーヴェル・パーヴロヴィチは厭な顏をした。
「いや、ただそう言ってみただけで……」とヴェリチャーニノフは相手の言葉をそらして、眉根を寄せて、横目でちらりとパーヴェル・パーヴロヴィチの樣子を窺った。ところが驚いたことには、着ている服といわず、例の喪章のついた帽子といわず、トルーソツキイ氏の風采たるや、じつに頭のてっぺんから足の先まで、二週間前とは似もつかぬほどきちんとしていた。『だのになんだってやっこさん、あんな居酒屋になんぞ坐りこんでたんだろうな?』と彼は依然として默想をつづけた。
「私はね、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、じつはもうひとつ聞いて頂きたい吉報があるんですよ。」とパーヴェル・パーヴロヴィチは再び口を切った。
「吉報?」
「私は結婚することになったんですよ。」
「え?」
「苦あれば樂あり、これが世間の常道でしてね。ところで私は、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、非常にその何したいんですがね……だが、あなたの御都合が――今夜はお急ぎらしいですね。どうやらそんな御樣子がみえるもんで……。」
「ええ、急ぐんです。……それに、からだの工合もよくないんですよ。」
 彼は急に、この男のそばから離れたくて堪らなくなった。つい今しがたの、何ものか新らしい感情を待ちもうけるような心構えは、瞬くまに消えてしまった。
「じつはそのちょっと……。」
 と言いかけて、パーヴェル・パーヴロヴィチは自分の希望を言い出さずにやめた。ヴェリチャーニノフは默然としていた。
「そういうわけでしたら、いずれ後日ということに致しましょう。またお目にかかる折りがありましたらですな……。」
「そうそう、いずれまた後日に」とヴェリチャーニノフは、相手には目もくれずに歩みつづけながら、口早やに呟いた。また暫く沈默がきた。パーヴェル・パーヴロヴィチは依然として並んで歩いていた。
「じゃあ、またお目にかかるとしましょう」と彼はやがて口を切った。
「ではいずれまた、なにぶんとも……。」
 ヴェリチャーニノフはまたしても氣分を臺なしにされて、家に戻って來た。『あの男』との思いもかけぬ邂逅は、彼にとっては荷が勝ちすぎたのである。寢床にはいりながら、彼はもういっぺん心にくり返した、『なんだってあいつ、墓地のそばへなんぞ來ていたんだろう?』
 あくる朝、彼はとうとうポゴレーリツェフの別莊へ出かけることに決心した。嫌々ながら決心したのである。今は他人から受ける同情が、よしんばポゴレーリツェフ夫妻のそれであっても、彼にとっては餘りにも辛いものだったのである。しかし夫妻のほうであれほどまでに彼の身を案じてくれる以上、義理にもいちどは顏を出さなければ濟まなかった。で、思いきって出かけることにきめると、不意に彼には、あのあとで初めて夫妻と顏を合わせる時、自分がなぜかひどく氣恥かしい思いをすることだろうと、そんな氣がした。『行こうか、行くまいか?』と彼は、急いで朝食をしたためながら、心のなかで押問答をしていた。と突然その瞬間に、のっそりとパーヴェル・パーヴロヴィチがはいって來たのには、さすがの彼ものけぞらんばかりに仰天してしまった。
 昨夜あんな工合にして出逢ったとはいえ、ヴェリチャーニノフのほうではまさかこの男がいつかまた押しかけて來ようなどとは夢にも思っていなかったので、すっかり面くらってしまって、相手の顏を見守るばかりで、きっかけの言葉も口に浮かんでこない始末だった。ところがパーヴェル・パーヴロヴィチはさっさと自分でことを運んで、朝の挨拶を濟ませると、三週間前の最後の訪問の時に腰をおろしたその椅子に、どっかり坐りこんでしまった。ヴェリチャーニノフは突嗟に、あの最後の訪問の時の有樣を、じつにまざまざと思い浮かべた。不安と、それに嫌惡の情をもって、彼は客の顏をじろじろと眺めていた。
「びっくりなさいましたか?」とパーヴェル・パーヴロヴィチは、ヴェリチャーニノフの眼色を讀んで口を切った。
 全體の調子からみると、彼は昨夜よりもずっと打ち融けた樣子にみえはしたものの、同時にまた、昨夜より一そうおどおどしている氣配もうかがわれた。のみならず今朝のいでたちと來たら、なんともはや珍妙極まるものであった。トルーソツキイ氏はただにきちんとした身なりをしているにとどまらず、むしろ伊達者の服裝に近かったのである。――輕やかな夏の上衣、ぴっちりした淡色のズボン、それにおなじく淡色のチョッキ、といういでたちで、そのほか手袋といい、どうしたわけだか急に出現に及んだ金縁の折疊み眼鏡ロルネットといい、眞新らしい下着といい、――まったく五分のすきもなかった。おまけに香水までぷんぷんさせていた。そうした姿を全體として見ると、何かしら滑稽な感じがしたが、それと同時に見る者の心に、ある奇怪な、不愉快な思いを抱かせる何ものかがあった。
「もちろんそりゃ、アレクセイ・イヴァーノヴィチ」と彼は、しきりに身をくねらせながら言葉をつづけた、「こうしてひょっくり伺ったんじゃあ、びっくりなさるのも無理はありませんや――それは私だって思わないじゃありません。しかしね、人間同志の仲には、ある高尚なものが常に存在している、とこう私は思うんですよ。しかも私に言わせれば、それはそのままに保存されなけりゃならん。ではありませんかね? ここで高尚なものと申すのは、つまり周圍一切の事情とか、そこから生ずべき一切のごたごたなどにくらべて、一そう高尚なという意味なんでして……ではありませんかな?」
「パーヴェル・パーヴロヴィチ、改まった前置きなんかは拔きにして、ひとつさっさと願いたいものですな」と、ヴェリチャーニノフは顏をしかめた。
「いや、ほんのひと言ですよ」とパーヴェル・パーヴロヴィチはせきこんで、「私は結婚することになりましてね、じつはこれからすぐこの足で、未來の花嫁のところへ參ろうと思っているわけです。その家の人達もやはり別莊へ行ってますんですが、そこでひとつ折入ってお願いと申すのは甚だ不躾ながらあなたに、その一家の人達とお知己ちかづきを願いましたら、じつに光榮至極に存ずる次第なんです。というわけでして、まことになんともはや申し兼ねる次第なんですが(とパーヴェル・パーヴロヴィチは恭々しく頭をさげた)、ひとつ御同道をお願いできませんでしょうか……。」
「どこへ同道しろと仰しゃるんですか?」とヴェリチャーニノフは目をまるくした。
「その連中のところ、つまりその別莊へなんです。どうもまるで熱に浮かされたみたいな喋りようで、さだめし前後も轉倒、さぞお聞きづらいことでしょうが、その邊は重々お許しを願いますよ。ただあなたが厭だと仰しゃりはしまいかと、そればかりが心配で……。」
 と彼は泣きだしそうな顏になって、ヴェリチャーニノフのほうを見た。
「というと、この私に今、あなたのお嫁さんのところへ一緒に行ってくれと、そう仰しゃるんですね?」と相手の樣子に素早く眼を走らせながら、自分の耳も眼も一切信じられずに、ヴェリチャーニノフは確かめるように相手の注文をくり返した。
「そうなんです」とパーヴェル・パーヴロヴィチは俄かにひどくおどおどしだした、「どうぞお腹立ちなく、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、決して是非ともなどと厚かましいお願いをするわけじゃないんです。ただもう七重の膝を八重に折って、こうして御懇願申しあげるだけなんです。ひょっとしたらあなたが、諾と言ってくださらんものでもあるまいと、じつはそう思いましたような次第で……。」
「だいいち、そんなことは全然不可能じゃありませんか」とヴェリチャーニノフは不安そうにやり返した。
「これはただ私の切なるお願いなんでして、別に他意あるわけではないんです」と相手は哀願をつづけた、「それにまた、これにもやはり、相當の理由のあることは、決して包みかくそうとは思っとりません。ただ、その理由は後日あらためて打ち明けさせて頂くとして、今日のところはただ切に切にお願いを……。」
 と彼は、敬意を表するため椅子から立ちあがりさえした。
「ですが、なんと仰しゃられてもそれは不可能じゃありませんか。あなただっておわかりでしょう……」とヴェリチャーニノフも席から起ちあがった。
「なんで不可能なことがあるもんですか、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、――これを機會に、あなたを友人としてお引合わせしたいと思っていたんですよ。それにまた、わざわざお引合わせするまでもなく、あなたは先刻、あの人たちとはお知り合いのはずじゃありませんかね。それ、あのザフレービニンの別莊にお供しようと申しているんですよ。あの五等官のザフレービニンですよ。」
「え、なんですって?」とヴェリチャーニノフは頓狂な聲をあげた。
 そのザフレービニンというのは、彼が一と月ほど前、ほとんど毎日のように搜し※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)って、とうとう在宅のところを捉えることのできなかった、あの五等官にほかならなかったのである。判明した事實を綜合してみると、この男が例の訴訟事件で、相手かたの利益を圖っていることは、疑いのないところであった。
「そうですとも、正にそうなんですよ」と、ヴェリチャーニノフの度はずれな仰天ぶりに力を得たもののように、パーヴェル・パーヴロヴィチはにこにこした、「正にあの人なんですよ。ほらまだ覺えておいででしょう、いつぞやあなたが、あの人と一緒に歩きながら話をしていらしたことがありましたっけね。あの時私は、あなたがたのほうを見ながら、往來の反對側に立っていたんです。あなたのお話が濟んだら、あの人のそばへ行こうと思って、待っていたんですよ。二十年ほど前には、一つ役所に椅子を並べていたほどの仲なんです。ただし、あなたのお話が濟んだらそばへ行こうと待っていたころは、まだ別にそんな考えがあったわけじゃないんです。ほんの最近、つい一週間ほど前から、だしぬけにそんな氣になったもんでして。」
「ですがね、あなた、先方はどうして、なかなかきちんとした家庭のように見受けられますがなあ?」とヴェリチャーニノフは、無邪氣な驚嘆の色を浮かべた。
「きちんとした家庭だったらどうだと仰しゃるんです?」と、パーヴェル・パーヴロヴィチは佛頂面をした。
「いやもちろん、そんなつもりで言ったんじゃありませんがね……ただあの家へ行って、私の見た限りでは……」
「向うでは覺えていますよ、あなたのいらしたことを、ちゃんと覺えていますよ」と、パーヴェル・パーヴロヴィチは嬉しそうに話を引きとった、「ただあなたのほうでは、あの家の者とはお會いになれなかったわけですな。ところが主人はちゃんとあなたのことを覺えていて、尊敬しておりますよ。私はあなたのことを、あの家の人たちの前で、大いに敬意をこめて吹聽して置いたんです。」
「だが、まだ奧さんが亡くなって三月にしかならないのに、一體どうしたことなんです?」
「いやそれは、何も今すぐ式をあげるわけじゃないんです。婚禮のほうは九カ月か、もしかすると十カ月のちのことになりましょう。それでちょうど一年の服喪期もおしまいになるわけですからね。そこでこれはもう保證しますがね、萬事はじつに巧い工合に運んでいるんです。何よりも有難いことには、フェドセイ・ペトローヴィチは、子供の時分からこの私という人間を知っているんですし、亡くなったさいのことも知っていましたし、また私の暮らしむきのこと、世間の信用、それから相當の資産のあること、また今度はこうして榮轉することになったことまで、知っていますんで、――何から何までが有利な條件になっているわけなんです。」
「とすると、あの人の娘さんを貰われるんですか?」
「その一部始終をひとつ詳しく申しあげるとしましょうかね」とパーヴェル・パーヴロヴィチは嬉しそうに首をちぢめて、「失禮して煙草を一本つけさせて頂きますよ。それにどうせあなたも、今日御自身で御覽になることですからな。そもそもあのフェドセイ・ペトローヴィチのような敏腕家になると、一たん世人の注目を惹きおおせさえすれば、このペテルブルグではなかなか大した椅子に坐れるものでしてね。ところがですな、きまった俸給と、そのほかに何やかやと――まあ臨時加俸とか、賞與金とか、追加手當とか、膳部料とか、それから一時賜金とか――そんなものを除いては何ひとつその、つまりこれと言った資産になるような、重みのある金はないというわけなんです。なるほど見た目にはいい暮らしはしている。しかしあれで家族を抱えているとなると、どうして蓄財なんかとてもできるもんじゃありません。まあ考えても御覽なさい、フェドセイ・ペトローヴィチには娘が八人もあるのに、一人息子はまだほんの子供ときているんです。今あの人にもしものことがあって御覽なさい、――あとはもう雀の涙ほどの遺族扶助料がおりるきりじゃありませんか。そこへもってきて、女の子が八人ですぜ。――いやはや、まあちょいと考えてみてもください、假りにその一人一人に、靴を一足ずつ買ってやるにしても、一體いくらかかりますかな! おまけにその八人のうち五人までが、もう嫁入りざかりなんです。一ばん上のは二十四ですし――(じつに素晴らしい美人ですぜ、まああとでとっくり御覽なさい!)六番目のは十五で、まだ女學校へ通っているんです。ところで、この上の五人の娘にはお婿さんを見つけてやらなけりゃならんのですし、それも婚期を逃がさんよう、できるだけ早くしなければなりません。したがって一家の父たるもの、その娘たちを飾り立てて社交界へ出してやらなければならんわけですが、――それがまた大變な物いりでさあね。ね、そうでしょう? そこへ突如としてこの私が出現したんです。しかもただ出現したばかりじゃない、じつにあの家にとっての最初の花婿候補者としてなんです。かてて加えてこっちの身上は、先樣で先刻御承知だった。というのはつまり、れっきとした財産のあることですがね。ざっとまあ、こうした次第なんですよ。」
 と、パーヴェル・パーヴロヴィチはいい氣持でつづけてきた説明を結んだ。
「で、あなたはその一ばん上の娘さんに求婚なすったんですか?」
「いやその、私は……一ばん上のじゃないんです。私が貰おうというのは、その六番目のほうなんですよ、今も申したようにまだ女學校へ通っている。――」
「へえ?」とヴェリチャーニノフは思わず薄笑いを漏らした、「だって今のお話じゃまだ十五だというじゃありませんか!」
「今は十五ですがね。しかしもう九カ月すれば十六になりますよ、十六歳と三カ月になる勘定です。別に仔細はないじゃありませんか? もっとも、今すぐこんな話を持ち出すのもどうかと思われるので、まだ公然とは何もきり出してないんです。ただ兩親との話しあいだけなんでして。……何はともあれ、萬事はじつに上首尾なんですよ!」
「すると、まだきまったわけじゃないんですね?」
「いや、きまっているんです、ちゃんときまっているんですよ。まあ安心してください、萬事は上首尾なんですから。」
「で、本人は知ってるんですか?」
「つまりそこは體裁のうえから、表向きはまだ聞かされてない振りをしてはいますがね。なあに知らないはずがあるもんですかね?」とパーヴェル・パーヴロヴィチは嬉しそうに眼を細めてみせたが、「どうでしょう、あなたに祝福して頂けるでしょうか、アレクセイ・イヴァーノヴィチ?」と、今までとは打って變った、ひどくおずおずした調子で、彼は言葉を結んだ。
「だって何も、私なんぞの出る幕じゃないじゃありませんか!――それにまた」と彼は急いでつけ足した、「私はどうあってもお供はしないつもりですから、したがってあなたのほうでも、先刻のお話のその理由とやらは仰しゃってくださらないでも結構ですよ。」
「アレクセイ・イヴァーノヴィチ、まあそう……。」
「まったく、私があなたと馬車に並んで坐って、のこのこ出向いて行けるものかどうか、まあ自分でもひとつ考えて御覽なさるがいい!」
 花嫁に關するパーヴェル・パーヴロヴィチの寢言のおかげで、一時はまぎらされていたものの、この時またもや最前の嫌惡と敵意の感じが、むらむらとヴェリチャーニノフに返ってきた。もう一分もこの睨みあいがつづいたら、彼はこの厭らしい客を追い出してしまったに違いない。そればかりでなく、彼は何かしら、自分自身にまで腹が立ってならなかったのである。
「そこを是非ひとつ、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、御一緒にお出向き願いたいんですよ!」とパーヴェル・パーヴロヴィチは感きわまった聲で哀願した、「駄目ですよ、ねえ駄目ですよ。そんなことを仰しゃっちゃあ!」と、ヴェリチャーニノフの苛立たしい、同時に決然とした身振りを讀んで、彼は兩手を振りながら言葉をつづけた、「アレクセイ・イヴァーノヴィチ、ねえアレクセイ・イヴァーノヴィチ、まあそう手っ取り早くきめちまわないでください! どうも私の見るところでは、あなたは私のことを曲解してらっしゃるようですよ。つまりその、あなたにとっても私にとっても、――お互い同志が友だちじゃないことぐらい、私だって重々承知しておりますものね。なんぼ私が頓馬だっても、まさかそれがわからないほどじゃありませんさ。それに、ただ今お願いしていることにしたって、決してあなたにとって、のちのちの御迷惑になるような筋合いのものじゃないんです。第一この私自身が、明後日はもう御當地からきれいさっぱり足を洗って、って行くんですからねえ。つまり、今までのことは一切何もなかったと同然になっちまうわけなんですよ。ですから今日のところはひとつ、ほんの物のはずみということにして、是非お願いしますよ。私はじつのところ、あなたのお心にやどる格別の感情に甘えて、謂わばそれに望みをつないで、こうして伺った次第なんですよ、アレクセイ・イヴァーノヴィチ。――つまり私は、最近になって、あなたのお心のなかに目覺めてきたと想像される、あの感情のことを申すんですが……これではっきりと申しあげているつもりですけれど、それともまだ足りませんかな?」
 パーヴェル・パーヴロヴィチの興奮状態は極點に達した。ヴェリチャーニノフは怪訝そうに相手を眺めていた。
「つまりあなたは、この私に何かしてもらいたいことがあるんですね」と、彼は考えこみながら訊いた、「そしてひどく頑強に主張なさる。――どうもそこが私には腑に落ちないんですよ。もっと詳しいところを伺いたいもんですな。」
「ただもう、私と一緒にお出むきくださるだけで結構なんですよ。そのあとで、またこちらへ戻って來てから、何もかも洗いざらい、懺悔のつもりであなたにお打ち明けしますよ。アレクセイ・イヴァーノヴィチ、どうぞ私の口を信じてください!」
 しかし、ヴェリチャーニノフはやはり斷りつづけた。しかもその拒絶は、自分の胸に、ある重苦しい毒念に滿ちた考えの募るのが感じられれば感じられるだけ、ますます頑強になっていった。その毒念に滿ちた考えは、先刻パーヴェル・パーヴロヴィチが花嫁の話をやりだした、そもそもの初めから、彼の胸にきざしかけていたもので、果たしてそれが單なる好奇心なのか、それともまだ、まったく漠然としている何かの誘惑なのか、そこのところはさだかでなかったけれど、とにかく『承知してやれ、承知してやれ』としきりに彼を唆かすのであった。そうして唆かす聲が内心に強まれば強まるだけ、ますます彼は頑張るのであった。彼は頬杖をついて坐ったまま、あれやこれやと思い迷っていた。パーヴェル・パーヴロヴィチはしきりにその彼の鼻息をうかがって、うるさくせがむのであった。
「よろしい、行きましょう」と彼は突然、不安そうな、ほとんど惑亂したような樣子で承知すると、同時に腰をもちあげた。パーヴェル・パーヴロヴィチは有頂天になって喜んでしまった。
「それじゃあ駄目ですよ、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、今日はひとつおめかしをしてくださいよ」と彼は、着替えを濟ませたヴェリチャーニノフの周りに、小躍りしながら※[#「纏」の「广」に代えて「厂」、180-17]わりついた、「もう一段上等のやつを奮發してくださいよ。つまり御身分に恥かしからぬやつをね。」
『なんだってそんなことにまで口を出すんだろう、おかしな男だなあ?』と、ヴェリチャーニノフは心にそう思った。
「ところで私は、じつはもう一つほかにお願いがあるんですがね、アレクセイ・イヴァーノヴィチ。一たん行ってやろうと御承諾くだすったからには、ついでのことに私の引き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)し役になってくださいよ。」
「というと?」
「早い話が、例えばこの喪章をいかにすべきか、という大問題があるんです。はずしたもんでしょうか、それともこのままつけて置いたもんでしょうかね?」
「そりゃあ御隨意ですなあ。」
「いや、そこをあなたに決めて頂きたいんですよ。もしあなただったら、どうなさいますかね? つまりその、あなたが喪章をつけておられたらばですな。私一個の考えとしては、喪章をこのままにして置けば、つまり心の操が堅固だという證據になるでしょうし、したがってまた先方の受けもいいはずだと、こう思っていたんですがね。」
「いやもちろん、おはずしになるほうがいいです。」
「え、もちろんと仰しゃるんですか、もちろんはずすほうがいいと?」パーヴェル・パーヴロヴィチは小首を傾げた、「いや、やっぱりこのままつけとくとしましょうよ……。」
「じゃ御隨意に。」
 とヴェリチャーニノフは答えて、『やっぱり奴さん、俺の言うことを眞に受けちゃいないんだ。こりゃあいい工合だわい』と心に思った。
 二人は表へ出て行った。パーヴェル・パーヴロヴィチは、めかし立てたヴェリチャーニノフの姿をさも滿足そうにと見こう見するのだった。それどころか彼の顏には、今までよりも一そう深い敬意と莊重の色が浮かんでさえいるらしかった。ヴェリチャーニノフは相手の樣子に呆れると同時に、自分自身についてもさらに一そう呆れ返っていた。宿の門のところに、豪勢な馬車が一臺、彼等を待ち受けていた。
「ほう、車までちゃんと用意してあるんですか? してみると、はじめから私が行くものと思いこんでいらしたんですね?」
「いや、車は自分のためにやとったんですがね、しかしあなたが一緒に行ってくださるだろうとは、九分どおり信じておりましたよ」とパーヴェル・パーヴロヴィチは、さも幸福な人間のような顏で返事をした。
「ねえ、パーヴェル・パーヴロヴィチ」と、やがて二人が馬車に乘りこんで、車が動きだしてから、ヴェリチャーニノフは何か苛だたしげな聲で笑いだした、「それじゃあんまり、私の肚のなかを一人合點なさりすぎるというものじゃありませんかね?」
「しかし、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、だからといってそのあなたが、私のことを頓馬だなどとはまさかおっしゃるおつもりじゃありますまいね?」と、パーヴェル・パーヴロヴィチはしみじみした聲できっぱりと答えた。
『だがリーザは?』とヴェリチャーニノフはふっと心にそう思った。が、聖い物を涜そうとしている自分に愕然としたもののように、あわててその想念を振り拂った。するとまた突然、自分というものがこの瞬間、じつに小っぽけな、取るに足らない物のように思われた。自分を今まで誘惑していた想念が、じつにけち臭い、實に汚らわしいものに思われてきたのである。……そしてまたしても、是が非でも一切を抛擲して、せめて今すぐにでもこの馬車から出てしまいたい、そのためもし必要とあらば、パーヴェル・パーヴロヴィチを叩き伏せたって構わない、とそんな考えがむらむらと涌いてきた。その途端に相手が喋りだしたので、またもや例の誘惑が彼の心を俘にしてしまった。
「アレクセイ・イヴァーノヴィチ、あなたは寶石の鑑定めききができますかね?」
「寶石ってなんですか?」
「ダイヤですよ。」
「そんならできます。」
「贈物を持參したいと思うんですがね。ひとつ御助言を願いますよ、その必要があるでしょうか、それともないでしょうか?」
「私の考えでは、ありませんね。」
「でも、どうしても私は持って行きたいんですがねえ」とパーヴェル・パーヴロヴィチは言い返した、「ただ問題は、何を買ったものかということなんですよ。一揃いそっくり――つまりブローチ、耳環、腕環を組みにしたものか、それともそのなかの一品だけにしたものか、どんなもんでしょうねえ?」
「一體幾らお出しになるつもりなんです?」
「まあ四五百ルーブルですね。」
「ほう!」
「多過ぎますか?」とパーヴェル・パーヴロヴィチはぶるっとした。
「腕環だけにするんですね、百ルーブルも出してね。」
 パーヴェル・パーヴロヴィチは悄げ返ってしまった。彼はなるべく金をかけて、『一揃い』そっくり買いたかったのである。で彼はさかんに駄々をこねた。とにかく二人は商店に立ち寄った。ところがとどのつまりは、腕環を買っただけのことになってしまった。それすら、パーヴェル・パーヴロヴィチの買いたいと思った品ではなしに、ヴェリチャーニノフが指したほうだったのである。パーヴェル・パーヴロヴィチは兩方とも買いたかった。最初は腕環一組で百七十五ルーブルと吹っかけてきた店の主人が、やがて百五十ルーブルまで折れて出た時には、彼は却って殘念な氣さえしたのである。向うでもし二百と吹っかけたとしても、彼は喜んでそれだけ拂ったに相違ない。それほどに金をかけたかったのである。
「私がこんなに急いで贈物をするからって、別に差障りはないんですよ」と、再び馬車が動きだしてから、彼はいい氣持でべらべらやりはじめた、「だって先方は何も上流でもなんでもない、ごく普通の家庭なんですからね。それに無邪氣なお孃さんというものは、贈物が好きなものでしてねえ」と、彼は狡るそうに、しかも樂しそうににやりとして、「あなたは先刻、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、相手が十五だと私が申した時、妙な笑いかたをなさいましたっけね。ところが私は、じつにそこんところに惚れこんじまったというわけでしてね、――つまりその、雜記帳だのペンだののはいっている小っちゃな鞄をぶらさげて、まだ女學校へ通っている、じつにそこんとこなんですよ、へ、へ! この小っちゃな鞄が私をぽおっとさせちまったんですよ! 實際あの無邪氣という奴が私にはもう堪らん魅力なんでしてね、アレクセイ・イヴァーノヴィチ。それにくらべりゃ、お面の美しさなんぞは、私にとっちゃ大した問題じゃないんですよ。友だちと一緒になって、隅のほうできゃあきゃあ笑い轉げてるんです。その笑うことといったらもう、それこそ放圖がありませんよ! 何しろあなた、仔猫が箪笥の上からベッドへ跳びおりて、そこでくるくるとまるまった……それだけでもう大笑いなんですからねえ。おまけに新鮮な林檎の匂いがするんですよ! ところでと、喪章はいっそはずしたもんでしょうかねえ?」
「どうとも御隨意に。」
「じゃ、はずしましょう!」
 彼は帽子をぬいで、喪章を引っぱがすと、そのままぽいと窓の外へほうり出した。そして彼が再びその帽子を、禿げあがった頭にかぶり直した時、その顏にじつに明るい希望の色が輝き出たのをヴェリチャーニノフは見逃がさなかった。
『この男は一體、本當にこれだけの人間なのかしら?』と彼はもう正眞正銘の憎惡に驅られながら心に思った、『俺を引っ張り出したことには、本當になんの下心もないのかしら? 本當に俺の好意に甘えただけのことなのかしら?』――彼はこの最後の假定に、ほとんど立腹せんばかりになって、想像をつづけた。『この男は一體何者なんだろう? 道化か馬鹿か、それとも例の「永遠の夫」っていう奴なのか? いやいや、結局何がなんだかわかったものじゃないぞ!……』


十二 ザフレービニンの家で


 ザフレービニンの家は、先刻もヴェリチャーニノフが言っていたとおり、實際『なかなかきちんとした家庭』だったし、當のザフレービニンもすこぶる確實な地歩を占める官吏で、上長の氣受けも極めてよかった。とはいえまた、先刻パーヴェル・パーヴロヴィチがこの家の收入を評して、『なるほど見た目にはいい暮らしをしているが、あれであの人にもしものことがあって御覽なさい、あとには一文だって殘りはしませんやね』と言ったのも、何ひとつ掛値のない話だった。
 ザフレービニン老は、いそいそと愛想よくヴェリチャーニノフを迎えて、昔日の『仇敵』は今やまったく友人に一變してしまった。
「いやお目出とう、まずまず結構でしたなあ」と、彼は氣持のいい毅然とした顏つきで、最初からそう切り出した、「私もじつは示談にするように主張していたわけでしてな。しかしあのピョートル・カールロヴィチ(ヴェリチャーニノフの辯護士)は、こうしたことにかけちゃまったく國寶的存在ですなあ。どうです? 六萬という金が、勞せず、長引きもせず、いがみ合いもなしで、まんまとあなたの手に轉げこむんですからなあ! 大丈夫三年は長引きそうな事件でしたよ!」
 ヴェリチャーニノフはすぐまたザフレービニナ夫人にも引き合わされた。これはお人好しらしい、疲れたような顏をした、五十恰好のひどく肥滿した婦人であった。やがてお孃さんたちも、一人ずつあるいは二人ずつ手をとり合って、しずしずと裳を引きながらあらわれて來た。ところが順ぐりにあらわれ出たお孃さんの數はすこぶる多數にのぼって、いつのまにやら十人か十二人ほどになっていたので、ヴェリチャーニノフはもう算えることもできない始末だった。はいって來るお孃さんがあるかと思えば、入れ代りに出て行くお孃さんもある、だがじつのところは、このなかには近隣の別莊友達が大ぜい混っていたのであった。一體ザフレービニン家の別莊というのは、何やら得體の知れない、しかし妙に凝った建てかたをした大きな木造の家で、そのうえその時々の建増しが目につくのだったが、總じてすこぶる廣大な庭に臨んでいた。ところがこの庭に臨んでいるのは、この別莊一つではなくて、なお三四軒のよその別莊が、思い思いの方角から同じ庭に面していたわけなのである。つまりこの廣大な庭は、それらの別莊に共通のものなので、したがって自然ここの娘たちが、隣近所の別莊の娘と接近することにもなったのであった。
 ヴェリチャーニノフは最初の二た言三言のやりとりのあいだに、自分の今日の來訪があらかじめ先方で待ち受けられていたことや、自分がパーヴェル・パーヴロヴィチの親友としてこの家庭とお近づきになりに來訪するということが、ほとんど鳴り物入りで宣傳されていたらしいことを、早くも見てとった。それのみならず、この道にかけてはなかなか鋭敏でもあり老練でもある彼の眼光は、まもなくその場の雰圍氣に、何かしら一種特別のものが漂っていることまで見破ってしまった。老夫婦の餘りにも慇懃をきわめるあしらいといい、娘たちの何か妙にとってつけたような顏つきから、その着飾りようといい――(もっともちょうど祭日には違いなかったけれど)――彼の腦裡に一抹の疑念を呼び醒まさずには措かないのであった。こりゃあパーヴェル・パーヴロヴィチにいっぱい喰わされたぞ、もちろん正面切ってそれとは言わなかっただろうけれど、私はまあそう思いますねぐらいのところでかしながら、やっこさん俺のことを、やれ資産のある紳士だとか、『上流社會』の、閨淋しさをかこっている獨身者だとか、だから今すぐとは行かないだろうけれど、そのうちどうかした拍子に急に『發心』して、家庭を持つ決心をおこさんものでもない、いやその可能性は十二分にあるとか、『ことに今度こうして遺産も、轉げこんだんですからねえ』とか、さんざこの連中に氣を持たせたのに相違ない。――そう思って見ると、一ばんうえのザフレービニナ孃、つまり先刻パーヴェル・パーヴロヴィチが『素晴らしい美人』という言葉で表現していた、例の二十四になるカテリーナ・フェドセーヴナに、どうやらそうした氣構えが仄見えるのであった。彼女はその着附けといい、房々した髮の一種風變りな結い上げぶりといい、妹たちを拔いて一段と際立って見えた。その一方、妹たちや他の令孃たちはどうかというと、ヴェリチャーニノフが今日お近づきに訪問して來たのは『カーチャ姉さまが目あて』なので、つまり姉さまを『見に』やって來たのだということは、私たちちゃんと知ってるわと言わんばかりの顏をしていた。彼女たちの眼差しや、その日のうちにうっかりと口を滑らした言葉の端々までが、やがてこの想像がまんざら根のないことではないことを、彼に確信させたのであった。
 カテリーナ・フェドセーヴナは背の高い、それでいて勿體ないほど丸々と肥った金髮の令孃で、非常に愛くるしい眼鼻だちをしていた。見るからにおだやかな、おっとりした、いやむしろぼおっとした氣性であるらしい。『これほどの娘が今まで賣れ殘っているとはおかしいな』と、さも樂しげに彼女のほうをちらちら眺めながら、ヴェリチャーニノフは思わずそう考えずにはいられなかった、『なるほど持參金もあるまいし、また間もなくぶくぶくに肥っちまうに違いないことは目に見えている。だが今のうちなら、望み手は降るほどありそうなものだがなあ……。』殘る妹たちもやはり相當の器量だったが、別莊友だちのなかにも二三かなりに踏める顏や、それどころかなかなかの別嬪さんもまじっていた。そんな品定めをしているうちに、彼は次第に樂しい氣持になってきた。とはいえその一方にまた、ある特別の關心をいだいてこの家の閾をまたいだ彼だったのである。
 六番目のナヂェージダ・フェドセーヴナ、これは例のまだ女學校へ通っている、そしてパーヴェル・パーヴロヴィチがもらうつもりにしている花嫁であるが、肝腎のこの娘は待たせるばかりでなかなか出て來なかった。ヴェリチャーニノフは待ち遠しさのあまりじりじりしていたが、やがてその自分自身に愕いて、ひそかに自嘲の笑いを漏らした。そのうちにやっと彼女が姿を見せると、覿面に一座はさっと色めき渡った。彼女は一人で出て來たのではなく、マリヤ・ニキーチシナという滑稽な顏つきをした、栗色髮の、すこぶるおきゃんで口先の達者な女友だちと連れだっていたが、パーヴェル・パーヴロヴィチがこの友だちをひどく煙たがっていることは、一目でそれとわかってしまった。一體このマリヤ・ニキーチシナは、もう二十三にも手が屆こうという、人を小馬鹿にしたようなすこぶる才はじけた娘で、近所同志の家庭で小さな子供たちのお相手をつとめるおもり役だったが、もうずっと前からザフレービニンのところでは家の者も同然の扱いを受けて、ひどく娘たちのあいだに人氣を博していたのである。特に今となっては、ナーヂャにとっても無くてはならぬ人物であることは、明らかに見てとられた。ヴェリチャーニノフはそもそもの最初の一瞥で、この家の娘たちばかりでなくその友だちまでが、まるで申し合わせたようにパーヴェル・パーヴロヴィチを白い眼で見ていることを看破していたが、やがていよいよナーヂャがはいって來た段になると、この娘もやはり彼を嫌っているのだと、心に斷定せざるを得なかった。同時にまた、パーヴェル・パーヴロヴィチがその事實に氣づかずにいる、乃至は氣づくことを欲していないということも見てとった。
 このナーヂャが姉妹じゅうで一ばんの器量よしなことは、抗う餘地がなかった。――栗色の髮をした小娘で、野生のままの女のような顏つきをし、ニヒリストのような大膽さを具えている。燃えるような眼ざしと、魅するような微笑と(もっともそれは屡※(二の字点、1-2-22)邪惡な色を帶びるのであったが)素晴らしい唇と齒とを持ち、細そりと、均齊のよくとれたからだつきをした、小狡るそうなやんちゃ娘で、その燃え立つような表情にはすでに思春の情がたゆたってはいるものの、同時にまだほんの子供っぽい顏つきであった。十五という年はさすがに、その歩む一歩にも、その口にする言葉の端々にもあらわだった。やがての會話でわかったことだが、パーヴェル・パーヴロヴィチが初めて彼女を見た時には、實際に蝋びきの布の小さな鞄をぶらさげていたのだそうである。しかし今では、もうそんなものはさげていなかった。
 やがて腕環の贈物をする段になると、これは大失敗に終ったのみならず、不快な印象をさえ生じさせてしまった。パーヴェル・パーヴロヴィチは花嫁の御入來と見てとるが早いか、にやにやしながら早速そのそばへ寄って行ったのである。そして、『先日伺った折りには、ピアノの伴奏であなたがお歌いになつた[#「なつた」はママ]あの快い小曲ロマンスのおかげで、大へんに樂しい氣持にならせて頂きました。じつはその御禮のしるしに……』といった前口上で、例の贈物を差し出したのである。ところが中途でしどろもどろになってしまい、絶句したまま、まるで自失した人のように、差し出した腕環のケースをナヂェージダ・フェドセーヴナの手に押しつけて、つっ立っていた。こちらはそれを受けとろうとはせず、恥かしさと怒りとにさっと顏を紅らめて、兩手をうしろへ引いてしまった。そして當惑の色をありありと浮かべている母親のほうへ、彼女はきっと顏を向けると、大きな聲でこう言ったものである。
「あたし厭ですわ、ママ!」
「頂戴してお禮を申しあげなさい」と父親は、穩やかななかに嚴しさを含めた聲で言ったが、彼も内心ではやはり不滿だったのである。『困りますなあ、こんなことをなすっちゃあ!』と、彼はパーヴェル・パーヴロヴィチの耳もとで、訓すような調子で呟いた。
 ナーヂャはしょうことなしにケースを受け取ると、伏眼になって、小さな女の子の流儀で膝頭のお辭儀をした。つまり、いきなり體を沈めたかと思うと、急にまたぜんまい人形みたいにぴょこんと跳ねあがる。あれをやったわけである。そこへ姉のなかの一人が腕環を拜見に近寄って來ると、ナーヂャはまだ開けてもないケースをそのまま渡してしまって、自分は見るのも厭だという氣持を示した。やがて腕環は取りだされて、一座のものの手から手へと渡りはじめた。しかしみな默然として拜見するだけで、なかには露骨な嘲笑の色を浮かべている者もあった。ただ一人母親だけが、まあ大そう可愛らしい腕環ですことなどと、しきりにもぐもぐと唇を動かしていた。この散々の體たらくに、パーヴェル・パーヴロヴィチが穴があればはいりたいような思いでいるところを、ヴェリチャーニノフが助け舟を出した。
 彼は行きあたりばったりに心に浮かんだことがらを手蔓にとって、やにわに大聲を出して、さも熱心そうに喋り立てはじめたのである。そしてものの五分とはたたぬうちに、まんまと客間じゅうの視聽をさらってしまった。彼は社交場裡の座談術を、みごとに身につけた男だったのである。それはほかでもない自分を磊々落々な人間と他人ひとに思わせると同時に、こちらのほうでも聽手一同を自分と同樣の磊々落々な人たちと心得ているといった振りをする、一種の技巧なのである。彼はなお必要と見れば、天下御免の太平樂な幸福人に化けおおせて、しかもいささかたりとも不自然の跡をとどめなかった。また彼は話の急所急所に、ぴりりとくる辛辣な警句や、陽氣な當てこすりや、頓狂な駄洒落やを巧みに織りこむことにかけてもすこぶる心得たものであった。しかもその皮肉にしろ駄洒落にしろ、またそもそもの話全體にしてからが、おそらくはとうの昔から貯藏され暗記され、すでに再三實地に應用されたものに相違なかったにもかかわらず、まったくひょいとしたはずみに飛び出したといった工合に、さり氣なくやって退けるのであった。しかも今の場合は、彼の技巧に加うるに、自然の情の流露までが手傳っていたのである。つまり彼は、自分がそうした氣分になっており、何ものかが彼をぐんぐんとひきずって行くのを感じていたのであった。また彼は、もう數分もすれば必らず滿座の眼を己れ一身に集めて見せる、滿座の耳をただ己れ一身に集めて見せる、ただ俺だけを相手に話をするようにして見せる、俺の話にだけ笑い興ずるようにして見せる――という、燃えるような絶對の信念を、身うちにひしひしと感じていたのであった。
 と、果たせるかな、間もなくどこかで笑い聲が聞え、だんだんに他の連中までが話に口を出すようになり、――(彼はまた、他人を話のなかに引き入れることにかけても、入神の腕前を持っていた)――やがて三人四人の話しだす聲が一どきにかち合うまでになった。ザフレービニナ夫人の懶げな疲れたような顏つきも、今ではほとんど喜悦の色に輝きはじめた。恍惚として彼の話に聽き入り、彼の顏に見入っているカテリーナ・フェドセーヴナの面上にも、やなりおなじ色が見てとられた。ナーヂャは上眼づかいに、射拔くような鋭い眼光を彼に注いでいた。それによって見ると、彼女はあらかじめ彼に對する反感を植えつけられていたらしかった。その樣子が、ヴェリチャーニノフの雄辯にいよいよ油を注ぐことになった。例の『根性まがり』のマリヤ・ニキーチシナになるとさすがに見上げたもので、話の隙をうかがってまんまと一丁、かなり手痛い厭がらせを彼に浴びせかけた。つまり彼女は、昨日ここでパーヴェル・パーヴロヴィチが彼のことを竹馬の友として披露に及んだという仕組みをあらかじめ考えついて、それをさも眞實らしく相手に思いこませて置いてから、彼の年齡を七つもうえに――もちろん明らさまには指さなかったが、はっきりそれを匂わせて――見積って見せたのである。とはいえ、そのマリヤ・ニキーチシナでさえ、しまいには彼に好意を持ってしまった。
 パーヴェル・パーヴロヴィチはこの有樣を見て、まったく呆氣にとられてしまった。もちろん彼にしても、この友人の有する手腕についてはまんざら知らぬわけではなく、最初のうちはその着々として收められる成果をむしろ喜んで、自分でもくすくす笑いをしたり、話に口を出したりしていたのであったが、しかもどうしたわけだか、そのうちだんだんに物思わしい氣分に沈むようになり、やがての果てにはすっかり憂鬱になってしまった。それは彼の惑亂した形相にありありとあらわれていた。
「いやこれは、あなたはこちらでお接待するまでもない、至極手のかからないお客樣ですなあ」と、やがてザフレービニン老は椅子を立ちながら、さも愉快そうな面持ちでそう斷定をくだした。彼はこれから二階の書齋へ引き取ろうというので、そこには祭日だというのに、彼の檢閲を待つ幾通かの書類がすでに用意されていたのであった。――「それをどうでしょう、この私ときたらあなたのことをつい今の今まで、このごろの若い人のなかでも一等陰氣くさいヒポコンデリー患者だと睨んでおりましたよ。――いやはや飛んだ感違いをすることがあるものですて!」
 廣間にはピアノが据えてあった。ヴェリチャーニノフは、どなたが音樂をおやりになるのかと訊ね、そしていきなりくるりとナーヂャのほうを振り向いた。
「あなたはたしか聲樂のほうをおやりでしたな?」
「まあ、誰が申しまして?」とナーヂャは切って返した。
「パーヴェル・パーヴロヴィチが先刻そう言ったじゃありませんか。」
「嘘ですわ。あたしのはほんのお座興よ。聲だって惡いんですもの。」
「私だつて[#「私だつて」はママ]碌な聲じゃありませんがね、とにかく歌いますよ。」
「じゃ、あなた歌ってくださいますわね? そうしたらあたしも歌うことにしますわ」とナーヂャは眼を輝やかせた、「けど今は駄目よ、夕御飯が濟んでからね。本當をいうと、あたし音樂はもう澤山なんですの」と彼女はつけ加えた、「ことにあのピアノときたら、もうそれこそうんざりですわ。だって朝から晩まで、みんなして彈いたり歌ったり、そりゃ大へんな騷ぎなんですもの。――どうにか聞けるのはカーチャ姉さまだけなのよ。」
 ヴェリチャーニノフは得たりとばかりその言葉じりをとらえて、根ほり葉ほり聞くうちに、とどのつまり姉妹のなかで眞面目にピアノの稽古をしているのは、カテリーナ・フェドセーヴナ一人ということがわかった。彼は早速彼女に向って、一曲どうぞと所望に及んだ。彼がカーチャ姉さまに話しかけたのを見ると、一座はみるみる晴れやかな氣分になってきた。なかでも母親などは、嬉しさのあまり顏を紅らめたほどであった。カテリーナ・フェドセーヴナはにこやかに席を起って、ピアノのほうへ歩を運んだが、俄かにこれも、われながら思いもかけず、さっと耳の根まで紅くなってしまった。そして自分がこんなに大きな、もう二十四にもなる立派な大人で、しかもこんなに肥ったなりをしながら、まるで小娘みたいに紅くなったりして――と思うと、急にひどく恥かしくなってしまった。そうした氣持は、ピアノの前に腰をおろした彼女の顏に、はっきりと書いてあったのである。彼女は何かハイドンのものを彈いたが、よし餘韻は失われていたとはいえ、極めて正確な彈奏ぶりを示した。しかし彼女が固くなっていたことも爭われぬ事實だった。彼女が彈き終えると、ヴェリチャーニノフは彼女の彈奏ぶりをではなしに、ハイドンを、それも彼女の彈いたその小作品のことをさかんに褒めちぎりはじめた。――すると彼女の顏にはありありと喜びの色が漂いはじめ、自分へではない、ハイドンへの讚辭を、いかにも有難そうに樂しげな面持ちで、じっと聽いているのであった。これには、さすがのヴェリチャーニノフも驚いて、今までよりも一そうの優しさと注意のこもった眼ざしで、思わず彼女を見直さざるを得なかったのである。『おや、これほど素晴らしい娘だとは?』――と彼の眼が語った。そして滿座の者は一せいにこの彼の眼色を讀みとったらしかった。ことにカテリーナ・フェドセーヴナ自身が人一倍。……
「じつに大したお庭ですね」と、彼はバルコンのガラス戸に眼を轉じて、急に一同に向って言いかけた、「いかがです、ひとつみなさんで庭へ出てみようじゃありませんか!」
「參りましょうよ、參りましょうよ!」と、娘たちの甲高い歡聲がそれに應じた。それはまるで、彼が一座の者のひそかに希望していたところを、ぴったりと言い當てたかのようであった。
 一同は夕食までのあいだ庭を逍遙した。とうから晝寢をしに別間へ退きたく思っていたザフレービニナ夫人も、その時やはりみんなと一緒に庭へ出てひと歩きして見たくてならなかったが、また考え直してバルコンに居殘って休息をとることにし、そのまま早速居ねむりをはじめた。庭に出ると、ヴェリチャーニノフと少女たち一同との仲は、一そう親しさを増した。まもなく彼は、庭つづきのそこここの別莊から、二三人の非常に若い青年が出て來て、彼等の仲間に加わったのを認めた。一人は大學生だったが、もう一人のほうはまだほんの中學生(譯者註。八年制の中學校)にすぎなかった。彼等はすぐさま自分の少女のそばへ走り寄ったし、その少女がいるからこそ彼等が出て來たことは一見して明らかであった。さらにもう一人の『青年』は、すこぶる陰氣くさい、頭髮を蓬々にして、大きな青眼鏡をかけた二十歳ほどの子であったが、出てくるや否やマリヤ・ニキーチシナやナーヂャを相手に、眉の根を寄せながら何やら早口にひそひそ話をしはじめた。そして彼は嶮しい眼つきで、ヴェリチャーニノフのほうをじろじろ見るのであった。打ち見たところ、彼に對して極度の輕蔑的な態度をとることを、自分の義務とでも心得ているらしい。二三人の少女が、早く何かして遊びましょうよと言いだした。何をして遊ぶんですというヴェリチャーニノフの問いに答えて、彼女たちは、鬼ごっこをはじめどんな遊戲でもするけれど、夕方には諺ごっこをするのがまず普通だと言うのだった。この諺ごっこというのは、みんながひと塊まりに坐って、一人だけが一時その場をはずしている。そして坐っている連中が相談をして、何か一つの諺、例えば『急がば※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)れ瀬田の長橋』を選び出す。そこで離れていた一人を呼び戻して、めいめいが順々にそれぞれ一句ずつを考えて、それを鬼に話して聞かせる。一番目に口を開く者は『急がば』という言葉のはいっている文句をいい、二番目の者は『※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)れ』という言葉のはいっている文句を言う、といった工合に運んで行くのである。そこで鬼は、それらの文句をみんな寄せ集めて、問題の諺を當てなければならない。――ざっとこうした遊戲だそうである。
「そりゃきっと面白いでしょうね」とヴェリチャーニノフは言葉を插んだ。
「あら厭だ、とっても詰まんないのよ」と二三人の聲が一せいに反對した。
「でなければ、芝居ごっこをすることもありますわ」と、ナーヂャが彼に向って口を插んだ、「ほらあすこに、ぐるりにベンチの置いてある大きな樹があるでしょう? あの樹のうしろを樂屋に見立てて、役者が坐るんですの。王樣もあれば女王樣もいるし、王女だの青年だの――みんな好き好きの役を選んで、臺詞を思いついて人から順に舞臺へ出て來て、口から出任せに喋るんですの。それでもどうにか芝居らしいものができますわ。」
「それは素晴らしい!」と、再びヴェリチャーニノフは讚辭を呈した。
「あら嘘、とても詰まらないのよ! 初めのうちこそ、いつもなかなか面白くできるんですけど、おしまいのほうがきっと出鱈目になっちまうんですわ。だって誰一人しめくくりのつけられる人がいないんですもの。でもあなたがいらしたら、もっと面白く行くに違いありませんわね。じつをいうと、あたしどもあなたのことをパーヴェル・パーヴロヴィチのお友だちとばかり思っていましたのよ。今になって考えると、あれはみんなあの人の大風呂敷だったんですのねえ。あたし、あなたがいらしてくださったので本當に嬉しいのよ……それにはちゃんとわけがあるの」――と彼女はひどくまじめな、印象の深い眼つきでヴェリチャーニノフの顏をじっと見たかと思うと、すぐさまマリヤ・ニキーチシナのほうへ行ってしまった。
「きっと今晩は、諺ごっこがはじまりますわ」と、今まで彼がほとんど目にもとめなければまだ口を利いても見なかった隣家の娘が、いきなりヴェリチャーニノフの耳に口を寄せて、さも内證話でもするような調子で囁いた、「今晩はきっと、みんなであのパーヴェル・パーヴロヴィチをからかうに違いありませんわ、あなたもそうなさいますわね。」
「あなたが來てくだすったんで、本當に嬉しいわ。あたしたちいつもそりゃつまんないんですもの」と、また別の近所の娘が、さも親しげな調子で彼に話しかけた。これなどは今まで彼が完全に無視し去っていた娘で、それがひょっこりとこの時、どこからか姿をあらわしたのだった。赤っちゃけた髮の毛をした少女で、雀班だらけの顏を、暑氣と歩行とのため滑稽なほど上氣させている。
 そのあいだにも、パーヴェル・パーヴロヴィチの不安な氣持はますます募るばかりだった。庭の散歩が終りに近づいたころには、ヴェリチャーニノフはもうすっかりナーヂャと仲好しになってしまった。彼女はもう先刻のように白い眼でじろじろ眺めるどころか、どうやら彼の思想を仔細に點檢することもやめにしたらしかった。そしてただもう大聲で笑ったり、跳ねたり躍ったり、甲高い聲を立てたりして、彼の手を二度ほどぎゅっと握りしめさえしたのであった。彼女はひどく樂しい氣持になっていて、パーヴェル・パーヴロヴィチのほうなどは相變らず見向きもせず、まるで目にもとまらないといった樣子だった。ヴェリチャーニノフは、これはもう確かに何ごとかパーヴェル・パーヴロヴィチに對する陰謀が企まれているに違いないと見てとった。現にナーヂャをはじめ一群れの少女が、ヴェリチャーニノフをとり圍んで向うのほうへ連れて行き、他の別莊友だちの一群れがいろんな口實をつけてパーヴェル・パーヴロヴィチを別の方角へ誘って行く――といったことも、幾度となくくり返されたのであった。しかしその都度、パーヴェル・パーヴロヴィチは圍みを破って、すぐさまヴェリチャーニノフやナーヂャのいるほうへ一目散に飛んで來て、不安そうな聽耳を立てているその禿げあがった頭を、いきなり二人のあいだにつっこむのであった。しまいには彼はもう遠慮も會釋もなくなってしまって、時によるとその身振りや動作に、呆れるほどの子供っぽい頑是なさを發揮するのだった。
 一方ヴェリチャーニノフは、カテリーナ・フェドセーヴナの樣子にも、あらためてもう一ぺん特別の注意を向けずにはおられなかった。今ではもう彼女の眼には、ヴェリチャーニノフが自分を『見に』やって來たどころか、もうすっかりナーヂャのほうに氣をとられてしまっていることは、もちろんはっきり映っているはずであった。それにもかかわらず、彼女の顏には先刻とおなじく、依然として優しい柔和な色がたたえられているのであった。自分もみんなのそばにいて、新來の客の話に耳を傾けている――それだけでもう彼女は十二分の幸福を感じているらしかった。いじらしいこの娘は、自分ではどうしても巧みに一座の話に割ってはいる術を知らないのだった。
「あのカテリーナ・フェドセーヴナという姉さまは、じつに素晴らしいかたですねえ!」とヴェリチャーニノフは、思い出したようにナーヂャの耳に囁いた。
「まあ、カーチャ姉さまのこと! カーチャ姉さまみたいな美しい氣持には、誰だってとてもなれはしませんわ。あたしたちみんなの天使なのよ。あたしはあの姉さまがとても好きなんですの」と、ナーヂャは嬉しくて堪らなそうな顏で答えた。
 やがて五時の夕食の時刻になった。そしてやはりこの食事までが、普通の獻立てではなくて、今日のお正客のため特に心をくばったものであることは、一見して明らかだった。ふだんの獻立てにてっきり附け加えたものに相違ないと睨まれるなかなか凝った料理が、二皿も三皿も出て來たし、なかの一皿などはじつになんとも風變りな料理で、果して何料理と名づくべきか誰ひとり見當がつかなかったほどであった。食卓用の普通の酒類のほかに、これもやはり今日のお正客のため特に用意したに相違ないトカイ葡萄酒の一本があった。おまけに食事の終りごろには、どういうつもりだかシャンパンまでがあらわれた。ザフレービニン老は杯の度をすごして、すっかりいい御機嫌になってしまい、ヴェリチャーニノフの言うことに一々快い笑聲を立てるような始末だった。やがての果てにパーヴェル・パーヴロヴィチは、とうとう腹を据え兼ねてしまった。競爭心に驅られて、彼は不意に、自分も何かしゃれを言って見ようという氣になって、實際それをやってのけたのである。彼は遙か末座のザフレービニナ夫人のそばに坐っていたのだったが、突如としてそこに、すっかり喜んでしまった少女たちの高笑いが涌きおこったのである。
「お父樣、お父樣! パーヴェル・パーヴロヴィチもしゃれを仰しゃいましたわよ」と、なかの娘が二人して一せいに囃し立てた、「あたしたちのことを『驚くに堪えたる妙なる乙女……』ですってさ。」
「ほほう、トルーソツキイさんまでがしゃれを言われるとは! で、どんなしゃれを言われたのかな?」と、一向振わぬパーヴェル・パーヴロヴィチを引立ててやるように彼のほうへ顏を向けて、さてどんなしゃれが出ることかと聞かぬ先からにこにこしながら、老人は落着き拂った聲でそう應じた。
「あのね、こう仰しゃったんですわ、私たちのことを『驚くに堪えたる妙なる乙女』ですって。」
「なある! さてそこで?」老人はまだせずに、一そう人のよさそうな笑みを浮かべながら、そのつづきを待ち受けた。
「まあお父樣ったら、おわかりにならないのねえ! だってほら、驚くに堪えたると仰しゃって、それから妙なるでしょう。『堪えたる』と『妙なる』とは語呂がおなじじゃありませんの。驚くに堪えたる妙なる乙女……。」
「は、はあ!」と老人はてれくさそうに、音を長く引っぱった、「ふうむ! いや、――この次はまそっと増しなのが承われるじゃろうて!」そう言って老人はさも愉快そうにからからと高笑いをした。
「パーヴェル・パーヴロヴィチ、まったくローマは一日にして成らずですわねえ!」とマリヤ・ニキーチシナが透かさず大聲で野次ったが、「あらあ、大へんだわ、トルーソツキイさんが咽喉に骨を立てちゃった!」と、金切聲をたてて、いきなり椅子から跳びあがった。
 たちまち上を下への大騷動になったが、それこそマリヤ・ニキーチシナの思う壺だったのである。じつのところはパーヴェル・パーヴロヴィチは、てれ隱しに大急ぎで飮んだ酒にむせただけの話だったのであるが、マリヤ・ニキーチシナは眞顏をして、まわりの人々に向って『お魚の骨ですわ、私ちゃんとこの眼で見たんですの、お魚の骨を立ててよく死ぬことがあるんですよ』と、しきりに言い張るのであった。
「背頸を叩くといい!」と誰やらが叫んだ。
「まったくだ、それが一ばんじゃな!」とザフレービニン老も大きな聲で贊成したが、もうその時には志願者が續々としてあらわれていた。曰くマリヤ・ニキーチシナ、曰く例の赤毛の別莊友だち(彼女も夕食に招かれていたのである――)、つづいてはこの騷ぎに氣も動顛したこの家の主婦といった工合で、先を爭ってパーヴェル・パーヴロヴィチの背頸を叩こうとつめ寄せた。跳びあがるように食卓を離れたパーヴェル・パーヴロヴィチは、叩かれまいと身をよじりながら、いやほんの酒にむせただけですよ、咳だってじきにとまってしまいますと、陳辯これ力めた擧句に、やっとのことで一同も、さてはマリヤ・ニキーチシナの仕組んだ狂言だったのかと思い當ったものの、それまでにたっぷり五分はかかってしまった。
「まあ、あんたも隨分おいたさんねえ!……」とザフレービニナ夫人はわざと聲を尖らせて、マリヤ・ニキーチシナをたしなめにかかったが、すぐに我慢がならなくなって、ほゝゝゝと笑い崩れてしまった。滅多に聲を出して笑ったことのないこの人までが笑いだしたので、これまた一種のセンセーションを捲きおこした次第であった。やがて食事が濟むと、一同は珈琲を飮みにどやどやとバルコンへ出て行った。
「だがじつにいい天氣がつづくもんですなあ!」とザフレービニン老はすこぶる滿足そうに庭を眺めながら、しみじみした調子で天の配劑を讚えた、「これで少々雨が降ってくれさえしたら……。ではひとつ御免を蒙って、私はあちらへ休息に參ります。みなさん御機嫌よう、大いに愉快に騒いでください! あんたも愉快にやってくださいよ!」と彼は出て行きしなに、パーヴェル・パーヴロヴィチの肩をぽんと叩いた。
 再び一同が庭へおりた時、パーヴェル・パーヴロヴィチはやにわにヴェリチャーニノフのそばへ駈け寄って、ぐいぐいとその袖を引きながら、
「ちょっとお耳を」と、苛だたしげに囁いた。
 二人はそのまま、人氣のない庭の脇道へまがった。
「いや、此家ここへはもう御遠慮を、いや此家ここへはもう斷じて……」と、彼は激怒のあまり咳きこみながら、ヴェリチャーニノフの袖をつかんで囁いた。
「なんです? なんのことです?」と、ヴェリチャーニノフは目をまるくして訊き返した。パーヴェル・パーヴロヴィチは無言のまま彼を見つめて、何か物言いたげに唇を動かし、やがて忿怒に燃えた笑みを洩らした。
「どこへいらしたのよう? そんなとこで何をしてらっしゃるのよう? もうすっかり支度ができましたのよ!」と、二人を呼ぶ待ち遠しそうな少女たちの聲が聞こえた。ヴェリチャーニノフはちょいと肩をすくめて(譯者註。ちぇっといったふうの身振り)連中のほうへ歩みを返した。パーヴェル・パーヴロヴィチも小走りにあとからついて來た。
「當てて見ましょうか、あの人あなたに鼻拭きを借せって言ったんでしょう?」とマリヤ・ニキーチシナが言った、「こないだも忘れてきたのよ。」
「いつでもそうなのよ!」と、なかの妹の一人が透かさずあとをつけた。
「ハンカチを忘れたんですって! パーヴェル・パーヴロヴィチがハンカチを忘れたんですって! お母さま、パーヴェル・パーヴロヴィチがまた鼻拭きを忘れたんですってよう!――お母さま、パーヴェル・パーヴロヴィチがまた鼻風邪をおひきになったわよう」と、いろんな聲がそれにつづいた。
「じゃなぜ早く仰しゃってくださらないんだろうねえ! ねえ、パーヴェル・パーヴロヴィチ、あなたも隨分つまらない遠慮をなさるかたですわねえ!」とザフレービニナ夫人は歌でも唄うように聲をひきのばした、「鼻風邪だっても油斷はなりませんよ。今すぐハンカチを持たせてよこしますわ。だけど、なんだってああいつもいつも鼻風邪ばかり引いてるんだろうねえ?」と彼女は、家のなかに引っこむ機會の生じたのをこれ幸いとその場をはずしながら、獨り言のようにつけ加えた。
「ハンカチなら二枚も持っていますよ、それに鼻風邪なんか引いてやあしませんよ!」とパーヴェル・パーヴロヴィチは夫人の後ろ姿へ向けて叫んだが、先方は聞きとれないらしかった。それから一分ほどして、パーヴェル・パーヴロヴィチが連中のあとについて、次第次第にめざすナーヂャとヴェリチャーニノフのほうへ近づきながら、ひょろひょろと足を運んでいると、息せき切った小間使が彼に追いついて、果たしてハンカチを持って來た。
「さあはじめましょうよ、はじめましょうよ、諺ごっこをはじめましょうよ!」と、そこここから聲がおこった。まるで何かしらとてつもない面白いことが、この『諺』から出てきでもしそうな、はしゃぎこんだ聲であった。
 ほどよい場所を選んで、みんなはベンチに腰をおろした。マリヤ・ニキーチシナが鬼に當った。そして、立聽のできないようになるたけ遠方に行っているように命令された。彼女のいない留守に、みんなはある諺を選び出して、なかの言葉の受け持ちをきめた。マリヤ・ニキーチシナは戻って來るとたちまちのうちに當ててしまった。その諺というのは、
『苦しい浮世に神のお惠み』というのであった。
 マリヤ・ニキーチシナの次には、青眼鏡をかけて蓬々の髮をした青年が、鬼になった。彼には前よりも一そう嚴しい用心が要求された。つまり向うの四阿あずまやのところに立って、おまけに顏をすっかり垣根のほうへ向けているように申し渡されたのである。陰氣くさい青年は、さも馬鹿馬鹿しいと言ったような、多少は道徳的侮蔑をさえ感じたような樣子で、しぶしぶみんなの言いつけどおりにした。やがて呼び戻された彼は、全然當てることができなかった。そこでもう一ぺんみんなの前を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)って、二度ずつ文句をくり返してもらい、そして長いこと陰氣に考えこんだが、やはり結局ものにならなかった。で、みんなからさんざからかわれた。その諺は、
『神には祈祷、君には忠義、しょせん無駄にはならぬもの!』というのであった。
「ちぇっ、なんて厭らしい諺だ!」と、恥を掻かされた青年は、自分の席へ引き退りながら、忌々しげにぼそついた。
「ああ、つまんない!」という聲がそこここでした。
 ヴェリチャーニノフの番になった。彼はもっと遠くへ追いやられた。そして彼もやはり當てることができなかった。
「ああ、つまんない!」という聲が前よりも澤山聞こえた。
「じゃ今度は私がなるわ」とナーヂャが言った。
「だめよ、だめよ、今度はパーヴェル・パーヴロヴィチだわ。パーヴェル・パーヴロヴィチの番だわ」とみんなは口々に叫んで、やや活氣づいてきた。
 パーヴェル・パーヴロヴィチは、庭の一ばん隅っこにある垣根のところまで連れて行かれて、向うむきに立たされたうえに、後ろを向かない用心に例の赤毛の娘が見張りにつけられた。パーヴェル・パーヴロヴィチはこの時はもう元氣を取り戻して、ほとんど前どおりのはしゃいだ氣分に返っていたのでこの言いつけを嚴守するつもりで、垣根を睨んだまま四邊を見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)そうともせずに、じっと切株のようにつっ立っていた。赤毛は二十歩ほど後方の、つまりそれだけ連中のいるところに近い四阿のそばで彼を見張りながら、妙にそわそわした樣子で、何かしきりに少女たちと目配せを交わしていた。殘っている連中もやはり何ごとかを待ち設けるらしく、幾ぶん不安そうな樣子でさえいることは、明らかに見てとられた。つまり何ごとかが畫策されつつあったのである。と突然、赤毛が四阿のかげで手を振った。それを見ると一同は、ぱっと立ちあがって、別の方角に一目散に駈けだした。
「いらっしゃいよ、あなたもいらっしゃいよ!」と、彼の駈けださないのがさも一大事だといわんばかりの語氣で、十人ほどの聲がヴェリチャーニノフに囁いた。
「どうしたの? え、どうしたのさ?」と彼女たちにつづきながら、彼は尋ねるのであった。
「しっ、聲を立てちゃいけません! あの人をあのまま立たせて、いつまでも垣根と睨めっくらをさせとくのよ。そのあいだにみんなで逃げ出しちまうの。ほら、ナースチャも逃げて來たでしょう。」
 赤毛のナースチャは、何ごとか一大變事が突發したような勢いで、一目散に駈けだしながら、しきりに手を振っていた。やがて一同は、庭のまるで反對の隅にある池の向う側まで駈けて來た。ヴェリチャーニノフもそこまで來てみると、カテリーナ・フェドセーヴナがちょうど少女一同を相手に、ことにナーヂャとマリヤ・ニキーチシナを相手に、はげしい口爭いをしているところだった。
「カーチャ姉さま、お願いだから怒らないでよ!」と言って、ナーヂャは姉に接吻した。
「じゃいいわ、お母さまには申しあげないどきますけどね、私はもう向うへ行きますよ。こんな惡いことをするんですもの。ほんとにお氣の毒な。あのかたが垣根のところでどんな氣がなさるか、考えて御覽なさい。」
 彼女は氣の毒さに堪え兼ねて、向うへ行ってしまったけれど、殘った連中はみんな相變らず、情容赦もない頑固な氣持でいた。パーヴェル・パーヴロヴィチが戻って來ても、彼には注意を向けたりせずに、みなと同じにまるで何ごともなかったような知らん顏をしていること――と、ヴェリチャーニノフも嚴重に申し渡されてしまった。
「そのあいだにみんなで鬼ごっこをしましょうよ!」と赤毛が有頂天になって叫んだ。
 パーヴェル・パーヴロヴィチが連中と再び一緒になったのは、それから少くも十五分はたったあとのことであった。その時間の三分の二は、きっと垣根のそばに立ちつくしていたに相違なかった。鬼ごっこは今しもたけなわで、すこぶる成功を博し、みんなはきゃっきゃっとさかんに浮かれ騷いでいた。忿怒のあまり前後を忘れたパーヴェル・パーヴロヴィチは、いきなりつかつかとヴェリチャーニノフのそばへ歩み寄ると、またもや彼の袖をひっつかんだ。
「ちょっとお耳を!」
「まあまあ、この人ったらちょっとお耳をですって!」
「またハンカチが借りたいんでしょ」と、二人の背後から少女たちは口々に囃し立てた。
「いや、今度こそはもうあなたですぞ。今度という今度は、どうしてもあなたですぞ。あなたのせいですぞ!……」とパーヴェル・パーヴロヴィチはそう言うひまにも、齒をがちがちと鳴らしていた。
 ヴェリチャーニノフはいきり立つ相手を遮って、もっと陽氣になりなさい、さもないと連中はいよいよ、いい氣持になってあなたをからかうばかりだろうと、穩やかな口調で説きなだめた。『みんな面白く騷いでいるなかで、あなただけがぷりぷりしてるもんだから、却って面白がってからかうんですよ』と忠告してやった。するとパーヴェル・パーヴロヴィチはまったく豫想外なほど、はげしく彼の言葉や勸告に動かされてしまった。彼はたちまち鎭まってしまったのみならず、いかにも濟まなそうな面持ちでしおしおと連中のところへ戻って來て、おとなしく遊びの仲間にはいった。それから暫くのあいだは彼も無事で、みんなは別に彼をのけ者にもせずに遊んでくれたので、三十分とたたないうちに彼は再び、ほとんど元どおりの陽氣さを取り戻した。遊びのあいだじゅう、彼は相手を選ぶ必要のある場合には、自分を裏切った例の赤毛か、さもなければザフレービニン家の娘の一人を選んで申しこむのであった。そればかりか、ヴェリチャーニノフがさらに意外に感じたのは、パーヴェル・パーヴロヴィチが、ナーヂャのすぐそばやほど遠からぬあたりに絶えずつき※[#「纏」の「广」に代えて「厂」、211-6]っているくせに、ほとんど一度も思いきって彼女に話しかけようとはしなかったことであった。その樣子で見ると彼は少くも、彼女に輕蔑されきって一顧も與えられずにいるわが境涯を、自分にとっては當然でもあり自然でもあるかのように、甘受しているのだった。とはいえ遊びが終りに近づいたころ、彼はまたしてもみんなに一本乘せられることになってしまった。
 その時の遊びは『かくれんぼ』であった。一たんかくれても、許された範圍内ならばどこへなりとかくれ直していいことになっていた。こんもりした藪へ這いこんで首尾よくかくれおおせたパーヴェル・パーヴロヴィチは、かくれ直そうとそこを拔け出した途端に、家のなかへ飛びこんだらと思いついた。後ろで叫び聲がした。彼は見つけられたのである。そこで彼は大急ぎで梯子段を傳わって、中二階へ潜りこんだ。そこの箪笥の後ろに屈竟の場所のあることを知っていたので、そこへかくれようと思ったのである。ところが赤毛が彼の後からのぼって來て、爪先だててドアへ忍び寄ると、がちゃりと錠をおろしてしまった。一同はすぐさままた先刻のように遊戲を中止して、またもや庭の向うの隅っこにある池の對岸へ走って行った。十分ほどしてから、パーヴェル・パーヴロヴィチは誰も搜しに來ないのに氣づいて、小窓から外を覗いてみた。庭には誰もいなかった。寢ている兩親の目をさますのも憚られて、彼は大聲をあげるわけにはいかなかった。小間使や女中たちにはあらかじめ、パーヴェル・パーヴロヴィチが呼んでも誰も行ってはいけない、返事をしてもいけないと、嚴命がくだされていた。カテリーナ・フェドセーヴナなら開けてもくれるだろうが、あいにくと彼女は自分の部屋に引きとって、椅子によってうつらうつらと夢想に耽っているうちに、やはりいつのまにか寢入ってしまっていたのである。という次第で彼は小一時間も閉じこめられていることになった。やがてそのうちに、偶然そこを通りかかったような振りをして、娘たちが二人三人と、姿を見せはじめた。
「あらパーヴェル・パーヴロヴィチ、あなたどうして私たちのところへいらっしゃらないの? 今とっても面白いことをしてるのよ! 芝居ごっこをしてるところなの。アレクセイ・イヴァーノヴィチが『青年』の役をなすったのよ。」
「パーヴェル・パーヴロヴィチ、本當にどうしていらっしゃらないのよ。あなたこそ驚くに堪えたるみょうなかたじゃなくて!」と、通りかかった他の娘たちが冷やかした。
「なんですねえ、また驚くに堪えたるのなんのって?」と、突然そこへザフレービニナ夫人の聲がした。彼女は今しがた目をさまして、お茶の用意のできるまで庭へ出て、『子供たち』の遊戲を見物しようと、やっとのことで決心して出て來たところであった。
「だってそら、パーヴェル・パーヴロヴィチったら」と言いながら娘たちの指さした小窓を見ると、そこには憎惡に蒼ざめたパーヴェル・パーヴロヴィチの顏が、歪んだ微笑を浮かべながら外を覗いていた。
「まあ物好きな人もあるもんだねえ、みんなが面白く遊んでるのに一人で引っ込んでるなんて!」と、母親は不滿そうに首を横に振った。
 そのあいだにヴェリチャーニノフは、先刻ナーヂャが言っていた『あなたが來てくだすって本當に嬉しいわ、それにはちゃんとわけがあるの』という言葉についての説明を、ついに彼女の口から聞く光榮に浴した。その説明は、とある人氣のない並木道で行われた。マリヤ・ニキーチシナは、ヴェリチャーニノフが何かの遊戲に加わりながらすでにひどく退屈を覺えている樣子を見ると、彼をわざわざ呼び出してこの並木道へ連れて來て、ナーヂャと二人きりにしてくれたのであった。
「あたしもうすっかりわかってしまったのよ」と彼女は、少しも惡びれたところのない辯舌ですこぶる早口にまくし立てはじめた、「あのパーヴェル・パーヴロヴィチはあなたのことを友達だなんてさかんに自慢してたんですけど、そんなことまるでありませんわね。でね、あたしあなたのほかには誰一人、あたしの大事な大事な願いを叶えて下さるかたはないと思いますの。それはね、ほら先刻のあの厭な腕環ね」と言って彼女はかくしから例のケースを取り出して、「これを本當に申し兼ねますけど、すぐあの人に返してくださらないこと。だってあたし、もう一生あの人とは、たとい何ごとがあっても斷然口を利かないつもりなんですもの。それからね、これはあたしから頼まれたということも仰しゃって頂きますわ。それからもうこの先二度と再び贈物なんて大それた眞似はして頂きますまいって、そう言い添えてくださいましな。そのほかのことは、ほかの人からうんとあの人に言ってもらうつもりですわ。いかが、あたしの願いを叶えてくださいます? 承知して頂けます?」
「ああ、そればかりは後生です、勘辨してください!」とヴェリチャーニノフは兩手を振って、ほとんど叫ぶような聲を立てた。
「まあ! なぜ勘辨ですの?」ナーヂャは彼の拒絶に逢ってひどくびっくりしてしまい、眼をみはって彼を見つめた。落着き澄ましていた調子は一瞬にして崩れ、今ではもう泣かんばかりになっていた。ヴェリチャーニノフはからからと笑った。
「いや、私だって別にそのなんですよ……お受けしたいのは山々なんですがね……ただあの男とはじつはちょっとこみ入った事情が……。」
「あなたがあの人とはお友達じゃないことも、みんなあの人の嘘八百だったことも、ちゃんと承知していますわ!」とナーヂャはむっとして素早く遮った、「あたしは決してあの人のお嫁になんかなりませんわ、これははっきり申しあげときますわ! ええ、決して! 第一あたしにはわけがわからないの、なんだってあの人はそんな大それたことを考えついたんだか……。それはそうとして、とに角あなたは、この厭らしい腕環をあの人に返してくださらなくちゃいけませんわ。さもないと、あたしどうしたらいいかわかりませんもの。私どうしても、どうあっても今日のうちに、今日この日のうちにあれをつっ返してやって、ぎゃふんという目に逢わしてやらないじゃ承知できないの。もしそれでお父さまにでも言いつけたりしたら、それこそますます面白いわ。」
 するとその時、そばの繁みのなかから、例の髮を蓬々にした青眼鏡の青年が、だしぬけにぱっと飛び出して來た。
「あなたは是非ともその腕環を返さなくちゃいけませんよ」と彼は、猛烈な勢いでヴェリチャーニノフにくってかかった、「女性の權利を尊重する意味からだけでもですな、もしあなたがこの問題の意味を正しく把握なさるならば……」
 しかし彼は最後まで言いきる暇がなかった。ナーヂャがその袖を力一ぱいぐいぐいと引っ張って、彼をヴェリチャーニノフから引離したのである。
「まあまあ、なんてお馬鹿さんなの、プレドポスィロフ!」と彼女は叫んだ、「向うへいらっしゃい! 向うへいらっしゃい、さ、向うへいらっしゃいってば! そして立聽きなんかするんじゃありません。ずっと離れて立ってらっしゃいと、言って置いたじゃないの!……」彼女は小さな足で地團太を踏みながら彼を追い立てた。そして彼が再びもとの繁みのなかへ潜りこんでからも、ナーヂャは相變らず眼をきらきらと光らせて、兩手を前に合わせて組んで、まるでわれを忘れたもののように、庭の小徑を筋かいに行きつ戻りつしつづけていた。
「あの人たちったらじつにお馬鹿さんですわ、あなたにはとても本當とは思えないくらい!」そう言って彼女は、急にヴェリチャーニノフの前にぴたりと歩をとめた、「あなたは、ほら、笑ってらっしゃるわね。けど私の身にもなって御覽なさいまし!」
「けれど、今の人は別でしょう、今の人だけは別なんでしょう?」と、ヴェリチャーニノフはにやにやした。
「そりゃ勿論もち、今の人は別なの。けど、よくお當てになったわねえ!」とナーヂャは微笑んでぽっと頬を紅らめた。――「あたしの言ったのは、今の人のお友だちのことなんですの。でもそこが妙なんですのよ、あの人の選ぶお友だちときたら、そりゃ變てこな人ばかりですの。そのお友だちが寄ってたかって、あの人のことを『未來の大立物』なんて言うんですけど、私にはさっぱりわけがわかりませんわ。……アレクセイ・イヴァーノヴィチ、あたし誰一人としてたのみこむ人がありませんの。さあ最後のお返事を聞かせて頂戴、返してくださる、それともお厭?」
「じゃ承知しました、返しましょう。こっちへおよこしなさい。」
「まあ、本當にいいかた、本當に親切なかた」と、彼にケースを渡しながら彼女は俄かにはしゃぎ立った、「そのお禮に、あたし今晩じゅう歌を唄って差上げますわね。本當をいうと私とても歌は上手なんですのよ。さっき音樂は嫌いなんて言ったのは、あれは實は嘘でしたのよ。ああ、せめてもう一度だけでもあなたが遊びに來てくだすったら、あたしどんなに嬉しいか知れませんわ。そうしたら私、もうすっかり何もかもお話ししますわ。今のような事だけじゃなしに、何もかもみんなお話ししますわ。だってあなたはそりゃ親切なかたですもの。まるで……まるでカーチャ姉さまのように、親切なかたなんですもの!」
 そして本當に彼女は、みんなしてお茶を飮みに家へ戻ってから、小曲ロマンスを二つも彼に歌って聽かせた。それはまだまったく磨きのかかっていない、ほんの初歩程度の聲であったが、それなりになかなか氣持のいい、力のこもった聲であった。一方パーヴェル・パーヴロヴィチはどうかというと、一同が庭から上がって來た時はもう、分別らしい顏をして主人夫婦と一緒にお茶の卓子の前に納まり返っていた。その卓子のうえにはすでに家庭用の大きなサモヴァルがしゅんしゅん沸いて、セーヴル燒きの家族用の茶飮み茶碗が並べてあった。おそらく彼は老夫婦を相手にすこぶる眞劍な問題を協議していたのに違いなかった、――なぜなら彼は、明後日は當地を去って、九カ月のあいだ戻っては來られなかったからである。庭から上がって來た連中、ことにヴェリチャーニノフには、彼は一瞥もくれなかった。また同時に彼がまだ『言いつけて』はいなかったことも明らかで、その場の空氣はまだまだ平穩であった。
 ところがナーヂャが歌いだすと、彼も早速みんなのいるところへ顏を出した。ナーヂャはわざと、彼の直接仕かけてくる問いには一切返事をしなかったが、パーヴェル・パーヴロヴィチはそのため當惑もしなければ動搖の色も見せず、平氣の平左だった。彼はナーヂャの掛けている椅子の背の後に立って、これは私の席だ、誰にだって讓ってやるものか、といった顏で澄まし返っていた。
「アレクセイ・イヴァーノヴィチがお歌いになりますよ、お母さま、アレクセイ・イヴァーノヴィチがお歌いになるんですって!」と娘たちがほとんど總がかりでピアノのほうへ押し寄せながら、口々に叫んだ。そのピアノの前にヴェリチャーニノフは、自分の歌に自ら伴奏をつけるつもりで、自信たっぷりの樣子で腰をおろしたのである。老夫婦も聽きに出てくるし、彼等と一緒に坐ってお茶をぐ役をしていたカテリーナ・フェドセーヴナも出てきた。
 ヴェリチャーニノフは、今ではほとんど誰にも知られていないような、あるグリンカの小曲ロマンスを選んで歌いだした。――

よろこびの時おんみが唇をひらきて
鳩よりも甘くわれにささやけば……

 彼はこの歌を、自分の肘のすぐそばに、誰よりも身ぢかに立っているナーヂャにだけ向けて歌った。彼の聲にはもはや爭いがたい衰えがあったが、その殘んの聲から推してみても、昔はなかなかいい聲だったことは明らかであった。この小曲ロマンスはヴェリチャーニノフが、二十年ほど昔、まだ學生だったころに、この今は亡き作曲家(譯者註。グリンカを指す)の友人の家で、グリンカその人の口から初めて耳にし得た歌なのであった。それは、その友人の結婚前夜の別宴に文士や藝術家が相つどった席上であった。興の乘ったグリンカは、自分の作品のなかの氣に入っている曲を殘らず歌いかつ彈じたが、そのなかにこの小曲ロマンスもはいっていたのである。そのころのグリンカもすでに聲は衰えていたけれど、ヴェリチャーニノフはその夜この小曲から受けた格別の感動を、長く忘れることができなかった。いわゆる名人とかサロンの聲樂家などという連中には、とてもこれだけの感銘は生みつけられるはずがなかった。この小曲には張りつめた情熱の息吹きがこもっていて、それが句を追い語を追って次第に昴まって行くのであった。この異常な緊張の力がこもっていればこそ、ほんの僅かの調子はずれ、ほんの僅かの誇張や不自然――それはオペラの舞臺などでは易々と合格パスしてしまうものであるが――があっても、曲全體の意味はたちどころに損われ滅ぼされてしまうのである。このささやかな、しかし非凡な一曲を歌いこなすには、眞實というものが是非とも必要であった、純眞にして充溢した感興が是非とも必要であった、正銘の情熱、乃至はその完全な詩的攝取が必要であった。それが缺けていると、この小曲はただに失敗に終るばかりでなく、却ってみっともない、ほとんど破廉恥ともいうべきものになってしまうに違いなかった。なぜというに、これほどまでのはげしい情熱の緊張の力を、嫌惡の情をそそることなしに表白することは不可能なはずではないか。そこを救うのがすなわち眞實と、そして誠心の力なのであった。ヴェリチャーニノフは、曾ては自分も、この小曲を立派に歌いこなせたことのあるのを記憶していた。彼はグリンカの歌いぶりを、ほとんどわが物にし得ていたのであった。それが今はどうだろう、そもそも最初の一音から、最初の一行から、早くも正眞まぎれもない感興の炎までが彼の胸に燃えあがり、その聲にうち顫えるのであった。小曲ロマンスの一語一語を追うて、實感はいよいよ力強く迸り、ますます大膽に露われ、最後の數句になるとほとんど情熱の絶叫が聞きとれるばかりであった。そして彼がぎらぎらと異樣に輝く眼差しをひたとナーヂャに向けたまま、小曲の最後の一節――

今ははやためらいもなく御身の眼に見入りて、
睦言を耳に聞く力も失せつ、くちさし寄せて、
われ欲りす、口づけを、口づけを、口づけを!
われ欲りす、口づけを、口づけを、口づけを!

を歌い終えた時、ナーヂャはほとんど畏怖のためぶるっと身を顫わして、心もち身をすさったほどであった。その頬にはさっと紅いがさし、それと同時にその含羞を帶びた、ほとんど怯氣づいているような可愛らしい顏に、何かこうほだされたような色がちらと浮かんで消えたように、ヴェリチャーニノフには思われた。恍惚の色と、同時に當惑の色とは、聽き入っていた少女たちみんなの顏にも浮かんでいた。一同は、こうした歌いぶりは許されぬことでもあり恥ずべきことでもある、とでも思っているらしかったが、その一方ではまた彼女たちの可憐な顏も瞳もきらきらと燃え輝いて、まだ何かそうした曲を待ち望んでいるようでもあった。そうした顏の並んでいるなかでうっとりと上氣してほとんど凄艶の美をすら帶びたカテリーナ・フェドセーヴナの顏が、ひとしお際だってヴェリチャーニノフの眼をかすめた。
「いや、結構な小曲ロマンスでしたな!」と、いささか畏れをなしたザフレービニン老が呟いた、「ただその……少々はげしすぎはしませんかな? 結構じゃあるが、少しはげし……。」
「はげし……」とザフレービニナ夫人も相槌をうちかけたが、パーヴェル・パーヴロヴィチが中途でその言葉を邪魔してしまった。彼はやにわに前へ躍り出ると、まるで狂人のように、われを忘れるに事缺いて、われとわが手に禁斷のナーヂャの手をしっかとつかみ、彼女をヴェリチャーニノフのそばから引き離して置いてから、つかつかと彼の前へ歩み寄ると、わなわなと顫える唇をしきりにもずもずさせながら、茫然として彼の顏に見入った。
「ちょっとお耳を」と、やがて彼は辛うじてそれだけを口にした。
 もう一分間もそのままでいたら、この紳士はおそらく十そう倍も馬鹿げた振舞いに及ぶ氣になるであろうことを、ヴェリチャーニノフははっきりと見てとった。で彼は素早く相手の手をとると、滿座の者の當惑そうな樣子には眼もくれずに、そのままバルコンへ連れ出し、さらに五六歩ほど庭へ下りて行った。庭にはもうかなり濃い闇が迫っていた。
「あなたは今すぐ、猶豫なしに、私と一緒にお歸り願います。おわかりですね!」と、パーヴェル・パーヴロヴィチは口早やに言った。
「いいや、わかりませんね……。」
「覺えておいででしょうね。」とパーヴェル・パーヴロヴィチは相變らず物狂わしい囁きをつづけた、「覺えておいででしょうね、今朝がたあなたは、私の一切のことを、何もかもざっくばらんに、『最後の一言……』をまで打ち明けるように、御要求だったじゃありませんか。ね、覺えておいででしょう。ところでいよいよその一言を申しあげる時がきたんですよ……だから歸ってください!」
 ヴェリチャーニノフはちょっと思案し、もう一度パーヴェル・パーヴロヴィチの顏をじっと眺め、それから歸ることを承知した。
 不意に二人が歸ると言いだしたので、老夫婦の驚きはもとよりのこと、娘たちはみんなひどく白けた氣持になってしまった。
「ではせめて、もう一杯お茶を召しあがってから……」とザフレービニナ夫人は悲しげな聲を出して引きとめた。
「ねえ君、何をそう激しておられるのかな?」と老人は不滿そうな嚴しい語氣で、パーヴェル・パーヴロヴィチに話しかけたが、こちらはにやにや笑いながら押し默っていた。
「パーヴェル・パーヴロヴィチ、どうしてあなたはアレクセイ・イヴァーノヴィチを連れてっておしまいになるの?」と娘たちは訴えるような聲で口々に言いはじめたが、同時に怒りを含んだ眸を彼に注いでいた。ナーヂャになると、怨みに燃える眼で彼を睨みつける始末に、さすがの彼も今にもべそを掻きそうな顏をしたが、それでもとうとう我を折らなかった。
「いやじつはこういうわけなんです。パーヴェル・パーヴロヴィチがね、有難いことに、私がすんでのことで忘れるところだったある非常に大切な用件を思い出させてくれましたので」と、主人と握手しながらヴェリチャーニノフは笑顏を作った。それから夫人や娘たちにお辭儀をしたが、カテリーナ・フェドセーヴナの前では何か特別の樣子を示し、それが再び滿座の眼に映った。
「私どもは今日の御訪問を忝く存じておりますよ。そしてまたのお出でを一同樂しみに致しておりますよ」と、重みのある口調でザフレービニンは言葉を結んだ。
「ええ、ほんとに樂しみにしてお待ち申しあげますわ……」と夫人はしみじみした調子で夫のあとを受けた。
「またいらしてね、アレクセイ・イヴァーノヴィチ! またいらしてね!」と、彼がパーヴエル・パーヴロヴィチと並んで馬車に乘りこんだ時、澤山の聲がバルコンから降って來た。そのなかにまじって、一ばん小聲で呼ぶ一つの聲が、かすかに耳に傳わって來た――『またいらっしゃいね、大好きな、大好きなアレクセイ・イヴァーノヴィチ!』
『あれは赤毛の聲だ!』とヴェリチャーニノフは心のなかで思った。


十三 どっちが重いか


 彼はともかくも赤毛のことを考える餘裕はあったものの、一方では腹立たしさと後悔の念が、かなり前から彼の胸に重苦しくのしかかっていた。それのみならず、傍目にはいかにも面白おかしくすごした今日の一日ではあったが、それでいて憂愁は日ねもすほとんど彼の胸を去らずにいたのであった。あの小曲を歌う直前などは、その憂愁が極點に達した時で、彼は身の置き場に窮していたのである。だからこそあれほどの熱をこめて、歌い通せたのだろうけれど。
『よくも俺はああまで自分を卑しめることができたもんだ……大事なものから身を振りもぎることがな!』と彼はわれとわが身に譴責の笞をあげはじめたが、あわててまた自分の想念を斷ち切った。第一めそめそすることが恥辱だと彼には思われたのである。そんなことより、早く誰かに向って癇癪玉を破裂させたほうが、よっぽど氣がせいせいするはずだった。
「馬鹿野郎!」と彼は、馬車に並んで腰をおろして默りこんでいるパーヴェル・パーヴロヴィチを横目に睨み据えて、そう毒々しげに囁いた。
 パーヴェル・パーヴロヴィチは頑強に默りこくっていた。おそらくは一心を集中して、言うべきことの準備をしているのであろう。時折り彼は、さも苛だたしげな手つきで帽子をぬいで、禿げあがった額をハンカチでごしごし拭いた。
「ちぇっ、湯氣を立ててやがる!」とヴェリチャーニノフは憎惡に燃えて呟いた。
 もっともただ一度、パーヴェル・パーヴロヴィチは沈默を破って、馭者に問いかけた。雷雨が來るだろうか、どうだろう? というのである。
「そりゃあもう旦那、來ない段じゃありませんや! どうしたって來ますさ。何しろ一んじゅう蒸しましたものね。」
 まったく、空は次第にかき曇って、遠くのほうで稻妻がしきりに光っていた。二人がまちへ着いたのはもう十時半だった。
「私はお宅へお寄りしますよ」とパーヴェル・パーヴロヴィチは、馬車がもう彼の宿までそう遠くはないあたりに來かかった時、豫告でもするような調子でヴェリチャーニノフに話しかけた。
「結構です。ただお斷りして置きますがね、私は非常に氣分が惡いもんですから……」
「いや、長居は致しませんよ、長居は!」
 馬車を棄てて門をはいりかけた時、パーヴェル・パーヴロヴィチは、門番の詰所にいるマーヴラのところに小走りにちょっと立ち寄った。
「なんだってあなたはあすこへ寄ったんです?」と、やがて彼が追いついて部屋にはいって來た時、ヴェリチャーニノフは嚴しい語氣で訊いた。
「いや何、別にその……ただ馭者がね……」
「今夜はお酒は飮ませませんよ!」
 返事はなかった。ヴェリチャーニノフが蝋燭をつけると、パーヴェル・パーヴロヴィチはすぐさま肘掛椅子に陣どった。ヴェリチャーニノフは眉根を寄せて、その前に立ち塞がった。
「私のほうでも、私の『最後の』言葉を言おうとお約束しましたっけね」と彼は、ようやく胸の底に動きはじめたが、まだまだ抑制のできる興奮を感じながら、口火を切った、「その最後の言葉というのはこうです。――私は良心に顧みて、私たち二人のあいだのことは一切お互いに帳消しになったものと認める、したがって私たちはもはやなんの語り合うこともないと考える。いいですか――なんの語り合うこともない、ですよ。であって見れば、あなたはこのままお引き取りになったほうがよくはないですかね。そうしたら私は、あなたの出て行かれたあとにぴんと錠をおろす。」
「じゃ一つ總勘定をつけますかね、アレクセイ・イヴァーノヴィチ!」とパーヴェル・パーヴロヴィチは口走ったが、そのくせ何かしら特に柔和な眼つきで彼の眼に見入っていた。
「な、なに、總勘定ですと?」ヴェリチャーニノフはひどく愕いた、「妙なことを仰しゃるじゃありませんか! 一體なんの『總勘定』をするんです? ははあ! じゃ、それだったんですね? それが先刻あなたが……打ち明けようと約束なすった、あなたの『最後の言葉』なんですね?」
「正にそのとおりでさ。」
「だが、このうえまた總勘定をつけることなんかありませんよ。何しろ私たちは――とっくの昔に總勘定が濟んでるんですからね!」と、ヴェリチャーニノフは威丈だかに言い放った。
「本當にそうお考えですかな?」とパーヴェル・パーヴロヴィチはなんだか妙な具合に手を重ね、指と指とを組み合わせて、それを胸のところへ當てがいながら、變に眞に迫った聲を出した。ヴェリチャーニノフはそれには答えずに、大股に部屋のなかを歩きはじめた。『リーザは? リーザは?』という聲が、彼の胸のなかに呻いていた。
「じゃ、とにかく伺いますがね、一體なんの總勘定をつけようと仰しゃるんです?」と、かなり長いあいだの沈默ののちに、彼は眉根を寄せながら相手を顧みた。トルーソツキイは依然として胸のところに腕組みをしたまま、そのあいだじゅうずっと彼のあとを眼で追っていた。
「もうあの家へは行かないでくださいよ」と、彼は哀願せんばかりの聲でほとんど囁くように言って、いきなり椅子から起ちあがった。
「なんですって? たったそれだけのことなんですか?」ヴェリチャーニノフは意地の惡い笑聲を立てた、「いやはや、今日は一ん日じゅうあなたには度膽を拔かれどおしだ!」と彼は毒々しい口調ではじめたが、途端にその顏つきはがらりと變ってしまった。――「まあ聽いてください」と彼は物悲しげな調子で、深い率直の情をこめて言葉をつづけた、「私はこう思うんです、およそ今日くらい自分を卑しめ辱しめたことは、これまで一度もないとね。――そもそもあなたと一緒に出かけることを承知したのが間違いのもとだった。つづいてあそこであったことに至っては、まったく言語道斷でした……。じつにくだらない、じつに淺ましい限りでした。……私はあんな連中と一緒になって……おまけにわれを忘れて……すっかり外道に踏みこんで、卑劣な眞似をしてしまった。……が、しかしです!」と彼は急に言い直した、「これだけは承知して置いてくださいよ、今朝あなたは、ちょうど私が病氣でいらいらしているところを、いきなりあんなふうに襲われたんですからねえ……いや、いずれにせよ辯解の餘地はありませんや! とにかく私はもう二度と再びあの家へは行きません。またあの家になんの未練もないことを、はっきり斷言して置きますよ」と、彼はきっぱりと言葉を結んだ。
「本當ですね、本當ですね?」と波立つ喜悦の情を包もうともせずに、パーヴェル・パーヴロヴィチは叫んだ。ヴェリチャーニノフは侮辱の眼差しでその彼をちょっと眺めたが、またもや部屋のなかを行きつ戻りつしはじめた。
「どうやらあなたは、是が非でもあの結婚を押し通す肚と見えますね?」と、彼はとうとう堪え切れずに一矢を放った。
「じつはそうなんです」とパーヴェル・パーヴロヴィチは無邪氣な調子で、小聲にそう肯定した。
『よしんばこいつが大たわけで、愚かなればこそ咬みついてくるのだとしたところで』とヴェリチャーニノフは心に思った。『それが俺になんの關係がある? 俺はやっぱりこいつを憎まずにはおられないのだ――たとい憎むにも値しない木端野郎にしたところでだ!』
「私は、例の『永遠の夫』って奴なんでさ!」とパーヴェル・パーヴロヴィチは、さもさも自分を卑下したような卑屈な薄笑いを浮かべながら口走った、「私はね、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、この言葉はずっと昔から知っていたんですよ。あなたがまだT市で私たちと一緒に暮らしておられた時分に、あなたから伺ったもんですからね。それのみならず、あの一年のうちにあなたが仰しゃった言葉は、隨分いろいろと私の記憶に殘っておりますよ。だからこの前に、この部屋であなたがあの『永遠の夫』という言葉をいい出された時も、私は早速ははあと思い當たったんですよ。」
 マーヴラがシャンパンの壜とコップを二つ持ってはいって來た。
「眞平御免なさい、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、あなたも御承知のとおり、私はこれがないじゃいられないものでしてね。無禮な奴だなんて思わないでくださいよ。ただほんの路傍の、齒牙にかけるに足らん奴と思って、お目こぼしを願いますよ。」
「ええ……」とヴェリチャーニノフは嫌惡の色を浮かべながら承知した、「ただ申しあげて置きますがね、私は氣分が惡いんですから……。」
「いやすぐです、すぐです、今すぐ、ほんの一分だけですよ!」とパーヴェル・パーヴロヴィチは急きこんで、「あとにも先にもたった一杯だけ。なんしろ咽喉がその……。」
 彼は貪るように一息ぐっと飮み乾して、また椅子に腰をおろした――ほとんど柔和なと言ってもいいほどの眼つきで、ヴェリチャーニノフをじっと見やりながら。……マーヴラは出て行った。
「ああ厭なざまだ!」とヴェリチャーニノフは呟いた。
「みんなあの別莊友だちが焚きつけるんでさ」と、パーヴェル・パーヴロヴィチは見る見る元氣づいて、いきなり威勢のいい聲を出した。
「え? なんです? ああそうか、あなたはまだあのことを……。」
「みんな別莊友だちのせいでさ! それに當人はまだほんのねんねですものね。ついそのお上品なとこを見せようってんで、ああしてりきみ返るんでさ、それだけのことですよ! なあに、却ってもう可愛いくらいのもので。ところで、いざその――いざ結婚したとなったら、私はもうあのの奴隷になるつもりなんですよ。世のなかへ出て、ちやほやされて見りゃあ……がらりと人柄が變っちまうもんでさあ。」
『ところで、例の腕環を返さにゃならんが!』とヴェリチャーニノフは、外套のポケットのなかのケースをさぐりながら厭な顏をした。
「あなたは今しがた、私があの結婚を押し通す氣だなと仰しゃいましたっけね? いかにもそのとおり、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、私には結婚の必要があるんですよ」とパーヴェル・パーヴロヴィチはさも打明け話をするような、ほとんど相手をしんみりさせずにはおかないような口調で、言葉をつづけた、「でないとしたら、私は一體どうなるでしょう? ほれ、現にこのとおりでさ!」と酒壜を指さして見せて、「しかもこれなんぞは、百ほどもある惡癖のなかの一例にすぎないんですからねえ。私は結婚し直して、新らたに信念を手に入れない限りは、もう生きては行けないんですよ。信念を手に入れたら、生まれ變って眞人間になれると思うんですよ。」
「だが、なんだってそんなことを一々私に報告なさるんです?」とヴェリチャーニノフは危く噴き出しそうになった。とはいえ一方では、じつに奇怪きわまることを耳にしつつあるような氣がしていた。――「そんなら一つ伺いたいもんですがね」と彼は叫んだ、「どういうつもりで私をあの家へ引っ張って行ったんです? この私を連れてって、どうしようとなすったんです?」
「ちょっと試しに……」と言いかけて、パーヴェル・パーヴロヴィチは、なにやら急にどぎまぎしだした。
「何を試しにです?」
「その、どんな效果を來たすか……。だって、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、何しろあの家に眼をつけて以來、まだほんの一週間なんですからねえ(彼はますます狼狽してきた)。そこへもってきて、昨夕あなたにお目にかかったので、ふっとこんなことを考えたんです、『そうだ、俺はまだ一度もあのを、外部の世界に置いて、というのはつまり、あの娘が私以外の男性と一緒にいるところをですな、見たことがないじゃないか……』とね。いやはや今になって見れば、じつもって馬鹿げきった考えですがね、餘計な考えですがね。ところが例の因果な私の性分で、そうと思ったらもう矢も盾も堪らなくなっちまったんですよ……」
 彼は急に顏を上げたかと思うと、さっと紅くなった。
『本當にこの男は本音を吐いてるんだろうかしら?』と、ヴェリチャーニノフは呆れて棒立ちになってしまった。
「で、結果はどうでしたね?」と彼は先を促した。
 パーヴェル・パーヴロヴィチは、にやりと甘ったるい、それでいてどこか狡るそうな微笑を洩らした。
「結句、ほんの可愛らしい子供にすぎませんでした! みんなあの別莊友だちが惡いんです!――今日の貴方に對するあの馬鹿げた振舞いだけは、ひとつ許して頂きたいものです、ねえアレクセイ・イヴァーノヴィチ。もう二度とあんな眞似は致しませんよ。それにもう決してあんな御迷惑もおかけしませんから。」
「また私もあの家には行きませんしねえ。」とヴェリチャーニノフはにやりとした。
「その意味も含めて申しあげたんですよ。」
 ヴェリチャーニノフはいささかむっとした。
「ですがね、世間に男は何も私だけじゃありませんぜ」と、苛だたしげに彼は皮肉った。
 パーヴェル・パーヴロヴィチは再び顏を紅らめた。
「そんなことを仰しゃらないでくださいよ、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、なんだか悲しい氣持になっちまいますもの。私が申すのもなんですが、つまりそれほどナヂェージダ・フェドセーヴナを尊敬しているんですから……」
「いやどうも、これは失禮、別にそんなつもりはなかったんですよ。――私はただ、あなたがひどくその道にかけての私の腕前を買い被っておられるくせに……しかもその……あれほどまでに誠心誠意わたしの徳義心を信用してかかられたのが……なんだか變に思えるんですよ。」
「私があなたを信用してかかったのは、そりゃあつまり、以前のことに……過去の事實に照らしてですよ。」
「と仰しゃると、もしそれが本當なら、あなたは今でも私のことを、立派な紳士と考えていてくださるわけですね?」そう言ってヴェリチャーニノフは、はたと歩みをとめた。もしこれがほかの時だったら、彼はおそらく自分の唐突な質問のあまりの素朴さに、ぎょっとしたに相違ない。
「常々そう思っておりましたよ」と、パーヴェル・パーヴロヴィチは眼を伏せた。
「いや、その私は何も……そんなことを、つまりそういう意味で申したんじゃないんですよ。――私が申したかったのは、あなたがよしどんな……先入主をいだいておられるにせよ……」
「そうです、先入主をいだいているにもせよ、ですよ。」
「だが、ペテルブルグへいらした時のお氣持はどうだったんです?」と、われながら常規を逸した好奇心をおこしたものだとは感じながら、しかもヴェリチャーニノフはもう、この問いを發せずにはおられなかった。
「そもそもペテルブルグへ出てくる時からして、あなたのことは立派な紳士と思っておりましたよ。私は常々あなたを尊敬しておりましたよ、アレクセイ・イヴァーノヴィチ」と、パーヴェル・パーヴロヴィチは瞳をあげて、今ではもう少しの當惑の色も見せずに、はっきりした眼つきで敵手を見つめた。ヴェリチャーニノフは急に怯氣づいてしまった。今この際何ごとかが持ち上がっては困る、ましてやこれが自分から言い出した事柄であって見れば、それにある限界を越えて發展されては困ると、彼はひしひしと困惑を感じた。
「私はあなたという人が好きだったんですよ、アレクセイ・イヴァーノヴィチ」と、パーヴェル・パーヴロヴィチは急に決心がついたように言い放った、「あのT市での一年のあいだだって、やはりあなたが好きでしたよ。もっともあなたは氣がつかなかったでしょうがね」と、彼はいささか顫えを帶びた聲でつづけた。その樣子にヴェリチャーニノフは心底から顫えあがってしまった。――「私はあなたとはとてもくらべものにはならん詰まらん人間でしたから、したがってあなたの注意を惹くこともなかったわけです。それにおそらくは、そんな必要もなかったんでしょうしね。ところで、あれから九年のあいだというもの、私は絶えずあなたのことが忘れられなかったんです。何しろ私の一生にあれほど意味深い年はありませんでしたからね。(パーヴェル・パーヴロヴィチの眼は異樣な輝きを帶びてきた。)――私はあなたの口にされたいろんな言葉や格言、つまりあなたの思想が、忘れられなかったんです。私はあなたのことを思い出すたびに、崇高な感情に對して燃え立ち易い心をもった教養ある紳士、高い教養と深い思慮とを兼ね備えたかた、とそんなふうに考えたものです。『大思想は大智よりも大情から生まれる』――これはあなた自身の言われた言葉でした。あなたはお忘れかも知らんが、私はちゃんと覺えておりますよ。そこで私は、あなたを常々その大情のかたと思っておりました……したがってまた貴方を信じていたわけです――たとい何ごとがあろうともですな……」
 ここまできた時、彼の下顎は急にわなわなと顫えた。ヴェリチャーニノフはまったく怯えあがってしまった。相手のこの思いがけない語氣は、いかなる犧牲を拂っても中斷する必要があった。
「もう結構ですよ、どうぞパーヴェル・パーヴロヴィチ」と、彼は顏を紅らめて、苛だたしさにじりじりしながら呟いた。「なんだって、一體なんだって」と、今度は急に大聲になって、「なんだってあなたは、こんなに神經が興奮してほとんど熱に浮かされたみたいになっている病人を捉まえて、そう絡んでくるんです、そしてぐいぐいと闇のなかへ引きずりこむような眞似をなさるんです……そのくせじつのところは……じつのところは――みんなあなたの描かれる幻影であり、妄想であり、虚妄であり、汚辱であり、不自然であるにすぎんじゃないですか。それに第一、非常に誇張しているんだ――この誇張ということが、何よりも恥ずべきことなんですよ! それに何もかも馬鹿げきったことばかりだ。一體われわれは二人とも、罪深い、卑しい、唾棄すべき人間なんですよ。……それにもしお望みとあれば、もしお望みとあれば、あなたは私が好きどころか、あべこべに腹の底から憎んで憎んで憎みきっている證據を、立派にお目にかけても宜しい。それだのにあなたは嘘をついてるんです、嘘とは知らずに嘘をついてるんです。現にあなたが私をあの家へ連れてったんだって、花嫁を試そうなんていう(へっ、なんて思いつきだ!)滑稽きわまる目的からじゃ決してないんだ。――あなたは昨夜この私の姿を見ると、いきなりむらむらっとしちまって、『へん、どうだい! このが俺のものになるんだぜ。さあひとつ手が出せるものなら出して見ろ!』と、それが言いたいばかりに、私にあの娘さんを見せに連れてったんだ、それだけの話なんだ。――つまりあなたは私に挑戰してきたんだ! そりゃあるいは、あなたは自分でもそうと知らなかったかも知れない。だがあなたが暗々裡にそうした氣持をいだいていた以上、これはどうしてもそうなんだ。……それにまた、憎惡の念をいだかずにあんな挑戰を仕かけてくることなんか、できるものじゃないんだ。で、つまり、あなたが私を憎んでいたということになるんだ!」
 そう大聲にまくし立てながら、彼は部屋のなかを足早やにずしずし歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)った。自分がいよいよパーヴェル・パーヴロヴィチ風情と同列にまで身を落としたのだという屈辱的な意識が、他の何よりも彼にとって腹立たしくもあれば辛くもあった。
「私はあなたと仲直りをしようと思ったんですよ、アレクセイ・イヴァーノヴィチ!」と相手は突然きっぱりした語氣で、早口に囁いた。彼の下顎は再びぴくぴくと顫えだした。一方ヴェリチャーニノフは狂氣のような忿怒に捉えられていた。まるでこれまで一度として誰からも、これほどの侮辱は受けた例しはない、といった劍幕だった!
「もう一度言わせてもらいましょう」と彼は咆え立てた、「あなたという人間は、神經の苛だった病人に……絡んできて、相手が熱に浮かされてるのをいいことに、何か飛んでもない言葉を吐き出させようとかかっているのだ! われわれはお互いに……お互いに別々の世界に住む人間なんです、そこをしかと心得て頂きますよ。そして……そして……お互いのあいだには一つの墓が横たわっている!」と狂氣のように囁いて、突然はっとわれに返った。……
「だが、どうしてあなたにわかりましょう?」と、パーヴェル・パーヴロヴィチは急に引歪んだ顏つきをして、みるみる眞蒼になった。――「どうしてあなたにわかりましょう、その小さな墓が、私の……ここにとってどんな意味を持っているかが?」と叫びざま、彼はヴェリチャーニノフのほうへ歩み寄り、滑稽な、しかし慄然ぞっとさせるような身ぶりで、拳を固めて心臟のうえを叩いた、「私はここにある一つの小さな墓を知っています、そしてわれわれ二人はその墓の兩側に立っているんですが、ただし私のほうがあなたの側にくらべるとずっと重いんです、重いんですよ……」と、依然として心臟のうえを叩きつづけながら、彼はまるで讒言のように囁いた、「重いんです、重いんです、――ずっと重いんです……。」
 突然その時、戸口の鈴ががちゃりとただならぬ音を立てて鳴らされたので、二人ははっとわれに返った。その鳴らしようの亂暴さといったら、まるでそこに立っている何者かが、最初の一撃でその鈴を引きちぎる決心でいるかのようだった。
「私のところへ來る人であんな鳴らしかたをする人はないはずだが」と、ヴェリチャーニノフは困惑の色を見せて呟いた。
「私のところへだってそんな人は來ませんよ」と、これもやはり正氣づいてもとのパーヴェル・パーヴロヴィチに返ったトルーソツキイが、おずおずと囁くように言った。
 ヴェリチャーニノフは眉をひそめて、ドアをあけに行った。
「たしかヴェリチャーニノフさんでしたね?」と控間のほうから、若々しい、びんびんするような、人並はずれて鼻っ柱の強そうな聲が聞こえてきた。
「なんの御用です?」
「じつは」と、ぴんぴんする聲がつづけた、「ただ今お宅にトルーソツキイ某なる者が伺っていることを、たしかに突きとめて參った者です。私は是非ともあの男に即刻會見しなけりゃならんのです。」
 もちろんヴェリチャーニノフは、この鼻っ柱の強い青年を即座に思いっきり梯子段めがけて蹴飛ばしてやったら、さぞ痛快だろうと思った。だが彼はちょっと思案して、身をわきへ寄せると、そのまま彼を通した。
「トルーソツキイさんはあちらにいます、おはいりなさい……。」


十四 サーシェンカとナーヂェンカ


 部屋へはいって來たのは非常に若い男で、年のころは十九ぐらい、あるいはもう少し下かも知れない――と思われるほど、その美しい、鼻っ柱の強そうに空うそぶいた顏には、初々ういういしさが溢れていた。服裝も相當なもので、少くもちゃんと身についた身裝みなりをしている。せいは中背より少し高目で、捲毛をなして渦まいている黒味がかった濃い髮の毛と、ぐりぐりした、眞向から人を見つめる黒眼とが、彼の容貌のなかでは一際目だっている。ただ難をいえば少々あぐらをかいた鼻で、おまけに天井を睨んでいる。これさえなかったら、さぞ美男子だろうにと惜しまれた。彼は堂々と威容を作ってはいって來た。
「私はどうやら、トルーソツキイさんとお話をする――機會――を得たようですが」と彼は、落着き拂った明晰な口調で、さも得意げに『機會』という言葉にわざと力を入れながら述べ立てた。つまりそれによって、トルーソツキイ氏と話をすることが彼にとって、何等の光榮でも滿足でもあり得ないということを、相手に思い知らせようという肚と見えた。(譯者註。上掲の文句のうち「機會」の代りに「光榮」もしくは「滿足」という言葉を置き代えた形が、初對面の挨拶の定式である。
 ヴェリチャーニノフは段々とわかりかけてきた。パーヴェル・パーヴロヴィチもどうやら、朧ろげながら何か思いあたるところがある樣子だった。その顏には不安の色がうかんでいた。とはいえ健氣にも態度は崩さずにいた。
「あなたを存じ上げる光榮を持たぬ私としては」と彼は尊大な調子で答えた、「別にあなたとお話をする筋合いもないはずと存じますがな。」
「いや、まず私の申しあげることをお聽きとり願って、それから、御意見を承わるとしましょう」と青年は自信たっぷりの調子で、逆に訓すやうに[#「訓すやうに」はママ]言ってのけると、胸のところに紐でぶら下げてあった鼈甲の折疊み眼鏡ロルネットを引き出して、それを眼に當てがうと、卓子のうえのシャンパンの壜をためつすがめつした。さて悠々と酒壜の點檢を終えると、彼は眼鏡をたたんで、改めてパーヴェル・パーヴロヴィチに向かって口を切った。
「アレクサンドル・ロボフ。」
「なんですか、そのアレクサンドル・ロボフというのは?」
「私です。まだお聞きじゃありませんでしたか?」
「ありませんな。」
「もっともお耳にはいるわけもありませんからね。私はあなた御自身に關係のある重大問題を抱えて來たんです。ところで御免を蒙って掛けさせて頂きますよ、私は疲れて……」
「おかけなさい」とヴェリチャーニノフは椅子をすすめた。しかし青年は、すすめられる前にちゃんと腰をおろしていた。
 胸のきりきりする痛みは募る一方であったが、ヴェリチャーニノフはこの厚かましいちんぴら先生が面白くてならなかった。その美しい、あどけない、薄くれないの小さな顏には、何かしら微かながらナーヂャに似通ったところがあるな、と彼は思った。
「あなたもおかけなさい」と、向いの席をぞんざいに顎でしゃくって見せながら、若者はパーヴェル・パーヴロヴィチを促した。
「お構いなく、私は立ってましょう。」
「くたびれますよ。それからヴェリチャーニノフさん、あなたはもしなんでしたら席をおはずしにならんでも結構ですよ。」
「はずそうにもはずし場がありませんね。何しろ自分の家ですから。」
「じゃ御隨意に。じつをいうと私はこのかたと談判をしているあいだ、あなたに立會って頂きたいくらいなんですよ。ナヂェージダ・フェドセーヴナがあなたのことを、私の前でさかんに褒めちぎっていましたっけ。」
「ほほう! そりゃまた、いつのまにそんなことを?」
「あなたが歸られたすぐあとです。私もやっぱりあすこの住人でしてね。そこでと、トルーソツキイさん」と彼は、相變らずつっ立っているパーヴェル・パーヴロヴィチのほうを向き直った。
「われわれ二人――つまり私とナヂェージダ・フェドセーヴナとはですね」と、不作法に肘掛椅子のうえにふんぞり返りながら、彼は齒のあいだで投げやりな不明瞭な發音をした、「久しい以前から互いに將來を誓い合った、相愛の間柄なのです。そこへあなたが、二人のあいだへ邪魔にはいられた。で私は、あなたにお立退きをおすすめに上がったわけです。どうでしょう、このおすすめに乘って頂けますかね?」
 パーヴェル・パーヴロヴィチはよろよろっとなった。顏色はじいっと蒼ざめたが、すぐさまその唇には底意地の惡い微笑がにじみ出た。
「いや、とても乘れませんな」と彼はあっさりと一蹴した。
「あれだ!」と若者は脚を組み重ねて、肘掛椅子のなかでくるりと向きを變えた。
「どこのどなたとお話しているのかさえわからんのですからなあ」とパーヴェル・パーヴロヴィチはつけ加えた。「別にこのうえお話をつづけることもあるまいと思いますよ。」
 そう言ってしまうと、彼もやはり腰かけることにした。
「だからくたびれますよと言ったじゃないですか」と若者はぞんざいな調子で一本參って、「今しがたお耳に入れたはずですがね、私の名はロボフ、そして私とナヂェージダ・フェドセーヴナとは、お互いに將來を誓い合った仲だとね。――したがってあなたは、いま仰しゃったような、どこの馬の骨と話しをしているのやらわからん、などということは言えないはずですよ。また同時に、このうえ話をつづける必要がないなどとも、やはり仰しゃれるはずがないと思うんです。假りに私のことは暫く措くとしても、事はあなたが鐵面皮にも追っかけ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しておられるナヂェージダ・フェドセーヴナに關しているんですからねえ。この一事をもってしても、すでにお互いにとっくり談判をとげる十分の根據になるんですね。」
 そうした文句を、彼は妙にきざっぽく齒で濾しをかけるような不明瞭な發音で、言ってのけた。それどころか、まるではっきりと言葉をかけてやるにも足らん奴と、相手をみくびってでもいるような素振りだった。のみならずまたもや例の折疊み眼鏡ロルネットを引っぱり出して、話の最中にちょいと何かのうえにかざして見たりした。
「ですがね、お若いかた……」とパーヴェル・パーヴロヴィチは苛だたしげに大聲ではじめかけた。ところがこの『お若いかた』は透かさず相手の出鼻を折っぺしょった。
「向後いかなる場合といえども、私は斷じて私のことを『お若いかた』などとは呼ばせませんがね、しかし今のところはひとつ大目に見てあげましょう。というのはほかでもない、あなたも御異存はないでしょうが、私の若いということがあなたに對する重大な優越點なんですし、現に今日だって、例の腕環の贈呈式をなすった時には、せめてもうちょっぴりでも若かったらなあと、しみじみ思われたに相違ないですからねえ。」
「畜生、よく舌の※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)る奴だ!」とヴェリチャーニノフはそっと呟いた。
「いずれにせよですな、あなた」とパーヴェル・パーヴロヴィチは言葉に威容を持たせて言い直した、「私にはやっぱり、あなたの列擧された根據なるもの、――その、もってのほかでもあり、かつはまたすこぶる疑わしい根據なるものが――もって討論を繼續する價値あるものとも思われません。私の眼から見れば、すいたの惚れたのといくら仰しゃったところで、ほんの乳臭い、たわいもないものにしか思えません。明日になったら早速あの尊敬すべきフェドセイ・セミョーノヴィチのところへ出向いて、その邊のことを問い合わせることにしましょう。今夜はこれで御免を蒙りたいものです。」
「どうです、こういう男なんだ!」と若者は今までの調子が持ち切れなくなって、血相變えてヴェリチャーニノフのほうを振り向きざま、相手の言い切るのを待ち兼ねたように叫んだ、「ぺろりと舌を出されて、まんまとあの家から追ん出されたくせに、まだ性も懲りもなく明日は親爺さんのところへのこのこ出かけて、僕たちのことを言いつけるって言うんだ!……あんたも隨分とわけのわからん人じゃありませんか(と今度はパーヴェル・パーヴロヴィチに)。そんなことをしたらあなたは、無理やりに少女を掠奪する氣でいるということを白状するようなもんじゃありませんか? それどころか、野蠻な社會状態のおかげで娘の支配權を握っている慾呆け兩親の手から、あのひとを買うようなもんじゃありませんか? あのひとからあんなにつけつけと輕蔑の色を見せつけられたんだから、もういい加減で諦めてもよさそうなもんじゃないですかね? 今日あなたが不作法千萬にも贈物にしたあの腕環だっても、もうちゃんとつっ返してあるじゃありませんか? このうえどうしょうって言うんです?」
「さあね、別に誰からも腕環なんかつっ返された覺えはないですな。第一そんなことがあって堪るもんですか」とパーヴェル・パーヴロヴィチはぎくりとした。
「『堪るもんですか』もないもんだ。ヴェリチャーニノフさんから受取らないとでも仰しゃるんですか?」
『ええ、畜生めが!』とヴェリチャーニノフは思った。
「いやじつはね」と彼は顏をしかめて言いだした、「先刻ナヂェージダ・フェドセーヴナからね、あなたにお返しするようにってこのケースを預かったんですよ、パーヴェル・パーヴロヴィチ。私は斷わったんだが、あの娘が――あんまりたのむもんでね……さあこれ……私も辛いんだが……」
 彼はケースを取り出して、まごまごしながら、あまりのことに唖然としているパーヴェル・パーヴロヴィチの前に置いた。
「なんだって今まで渡さずに置いたんです?」と青年は嚴しい語氣でヴェリチャーニノフに喰ってかかった。
「暇がなかったんですよ、要するに」と、こっちは厭な顏をした。
「妙ですねえ。」
「なん、なんですと?」
「いや、なんとしても妙ですよ、それだけはあなたもお認めのはずです。もっとも、あなたが何かその――感違いをなすってらしたということも、大いにあり得ることとして許せますがねえ。」
 ヴェリチャーニノフはやにわに躍りあがって、この惡たれ小僧の耳朶をんもいでやりたくてならなかった。しかしその前にもう堪らなくなって、相手の鼻先へ向けていきなりぷっと噴き出してしまった。少年の方でもさすがにおかしいと見え、すぐさま笑いだした。ところがパーヴェル・パーヴロヴィチは笑うどころではなかった。もしもこの時、ロボフ少年に向かって呵々大笑しているヴェリチャーニノフが、自分のうえにじっと注がれているトルーソツキイの物凄い凝視に氣づくことができたなら、――彼はたちどころに、この男が今この瞬間、ある戰慄すべき限界を踏み越えようとしていることを、悟ったに違いない。……しかしヴェリチャーニノフも、この凝視にこそ氣づかなかったとはいえ、ここらでひとつパーヴェル・パーヴロヴィチの肩を持ってやらなければならんと感づいた。
「ところでですな、ロボフさん」と、彼は親しげな調子で口を切った、「まあ今度ナヂェージダ・フェドセーヴナに結婚を申しこまれたについては、パーヴエル・パーヴロヴィチとしてもいろいろと考えておられることもあろうと思うが、そういうことに一々觸れたくもないから、そのほうの詮議だてはお預かりとして、ただ今囘の結婚問題に際して、パーヴェル・パーヴロヴィチの身につけておられる資格といったものを、御參考までにあげさせてもらいたいと思うんです。――第一には、氏の閲歴が過去から現在に至るまで殘る隈なくあの尊敬すべき家族に知れ渡っていることです。第二に、氏が現在立派な尊敬すべき地位を社會に占めておられることです。最後に、氏には財産があります。というわけですから、氏があなたのような――おそらくはいろいろと立派な美點も具えておられることでもあろうが、しかしまじめな競爭相手として受取るには何せあまりにもお年のいっていないかたが、競爭相手と名乘って出られるのを見て、驚き呆れるのはさらさら無理のないことだろうじゃありませんか。……したがってまた氏が、あなたにお引取りを願うのも、これまた正當のことだと思いますね。」
「その『あまりにもお年のいっていない』というのは、一體どういう意味です? 僕はもう十九歳と一カ月になっているんですよ。法律の上で僕はもうとっくに結婚する權利があるんですよこれだけ言えば澤山でしょう。」
「だが、現在あなたに自分の娘をやる氣になる父親がどこの世界にあるでしょうか――よしんばあなたが未來の百萬長者、もしくは未來の人類の大恩人であるにしてもですよ。――十九やそこらの年ごろでは自分の身の始末だってできやしません。それをあなたはまだそのうえに、他人の將來をまで、あなたとおなじくまだほんの赤ん坊にひとしい少女の將來をまで、背負って立つ氣でいらっしゃる! どうもあんまり見上げた考えとは言えないようですね、え、どうですかね?――私がこんな差出がましいことを申すのも、あなたがさっき御自分でこの私を、あなたとパーヴェル・パーヴロヴィチのあいだの仲介者のようにお扱いになったからですよ。」
「ああそうか、話は違うが、この人はパーヴェル・パーヴロヴィチというんでしたか!」と若者は空っとぼけた、「なんだって僕には今の今まで、ヴァシーリイ・ペトローヴィチっていうような氣がしてたんだろうな? いや、ところでですね」と、またヴェリチャーニノフのほうへ向き直って、「そんなことを仰しゃったって僕は一向驚きはしませんよ。どうせあなたがたはみんな、そんなとこだろうと思ってましたからね。だがどうもおかしいなあ、あの家じゃあなたのことを、むしろ幾らか新らしい人のように言ってましたがねえ。まあしかし、そんなことはどうでもいいとして、要點はですね、僕としてはただ今あなたから有難い御指摘にあずかったような見下げた考えなんぞは毛頭ないばかりか、むしろ事實はまったく逆だということです。そこんところを一つ、とっくり御説明申しあげようと思います。まず第一に、われわれは互いに將來を誓い合った仲なんです。そのうえになお僕は、二人の證人を立てて萬一あのひとが別の男を愛するようになるか、もしくは單に僕のところに來たことを後悔して離婚を欲するような場合が生じたならば、僕は早速自分が他人の女房と姦通した旨の證文をしたためてあのひとに渡す――それによってつまり、出る場所に出てあのひとの離婚の請願を支持してやる、とこうきっぱりあのひとに約束してあるんです。まだそれだけじゃない、萬一僕があとになってこの約束を破って今の證文を出すことを拒絶するようなことが生じないものでもありませんから、その場合あのひとに安心の行くように、結婚の當日、僕はあのひとにあてて十萬ルーブルの手形を振り出して置く。そうして置けば、萬一僕が例の證文を出し澁りでもしたら、あのひとは即座にその手形を他人に讓り渡して、僕をぺちゃんこにすることもできるんですからね! といった工合で萬事は安全に保證されているんですから、僕はなんぴとの將來をも危險に曝してなんかいないわけですよ。まず、第一箇條はざっとこのくらいです。」
「私は請合いますがね、そんな入れ知惠をしたのは、あの――なんとか言ったっけ――あのプレドポスィロフでしょう?」とヴェリチャーニノフは叫んだ。
「ふ、ふ、ふ!」とパーヴェル・パーヴロヴィチは毒々しげに忍び笑いをした。
「なんだってそこの紳士は妙な笑いかたをするんだろう! いかにも御察しのとおりです――これはプレドポスィロフの思いつきなんです。それにしてもどうです、巧いもんじゃありませんか。いい加減な法律なんぞは慘として顏色なしですよ。そりゃもちろん、僕はあのひとを永久に愛するつもりですし、またあのひとも、お腹をかかえてただもう笑い轉げているだけの話です。――しかしなんといったって、いい知惠には違いないですし、また今になってはあなただっても、これが見上げた立派な態度であり、また萬人が萬人敢行しうるものではないことは、御承認くださるでしょうね?」
「私に言わせると、見上げたどころの騷ぎじゃない、むしろ醜惡ですね。」
 青年は肩をそびやかした。
「またそんなこと仰しゃったって僕は驚きはしませんよ」と、彼は暫く沈默してからやり返した、「僕はもうそんなことには、あいにくととうの昔から平氣になってるんですからね。そんなぼやぼやしたことを仰しゃると、あのプレドポスィロフにずばりと切って捨てられますぜ。――かかる極めて自明なる事がらに對するあなたの無理解は、もとをただせば、第一には長期にわたる放埓な生活により、また第二には長期にわたる安逸により生じたる、最も普通なる感情および認識力の退化にある――ってね。もっともしかし、私たちはまだお互いに理解するに至っていないのかも知れませんね。とにかくあの家で聞いたあなたの評判は馬鹿にいいんだからなあ……。だが、あなたはもう五十ぐらいですか?」
「ひとつ用件に戻って頂きたいもんですな。」
「これは出過ぎたことを申して失禮しました、どうぞお腹立ちなく。別に他意あって言ったわけじゃないんです。じゃ先をつづけましょう。僕は決してあなたが仰しゃったような未來の百萬長者でもなんでもありません。(まったくあなたも面白いことを考える人ですね!)僕は御覽のとおり、これだけの人間なんですが、しかし自分の未來についてはこれでも十分の自信は持っていますよ。僕は英雄になるつもりもないし、また人類は愚か、なんぴとの恩人にもなる氣はありませんが、ただ自分と女房の生活は保障するつもりです。もちろん今の僕には一文もないです。それどころか僕は、小さな時からあの家で養われて來た男なんです……。」
「と仰しゃると?」
「つまり僕は、あのザフレービニナ夫人の遠縁にあたる者の息子なんです。僕の一家がみんな死に絶えてしまって、八歳の僕がひとり取殘されたのを見ると、あの親爺さんが僕を引き取ってくれて、やがて中學校に入れてくれたんです。――これも餘計なことか知れませんが、あの人はあれでなかなかいい人ですよ。……」
「それは知っています。……」
「はあ。ただ文句をいえば頭が少々古すぎてね。しかし、いい人には違いないです。今じゃもちろん、もうとうからあの人の後見のもとからは離れているんです。他人の世話にもならずに、一本立ちの生活がしたかったものですから。」
「で、いつから獨立されたんです?」とヴェリチャーニノフは好奇の眼を光らせた。
「もうかれこれ四カ月になります。」
「ははあなるほど、それでよくわかりましたよ。つまり幼な友だちってわけですね! すると就職口は見つかったんですか?」
「ええ、別に官廳じゃないんですが、ある公證人の事務所で、手當ては月二十五ルーブルなんです。もちろんほんの一時の腰掛けのつもりですが、結婚を申しこんだ時にゃ、何しろこれだけの收入だってなかったんですからねえ。その時は鐵道に勤めて十ルーブルもらっていました。だが、こりゃあみんな一時の腰掛けなんですよ。」
「すると、結婚の申しこみまでしたと言うんですか?」
「正式の申しこみをね。それももう三週間も前のことですよ。」
「で、どうでした?」
「親爺さんは大笑いをして、それからかんかんに怒って、あのひとをそのまま中二階に閉じこめちまったんです。しかしナーヂャは健氣にも氣持を變えませんでした。ところでこの散々の不首尾も、もとはといえば親爺さんが前々から僕に含むところがあったからなんです。つまり僕が四カ月前、まだ鐵道に勤めないうちに、あの人の役所に勤めさせてもらっていたのを、自分から追ん出てしまったからなんですよ。もう一度いいますが、あの親爺さんはまったく立派な人間だし、家庭では磊落で面白い人ですがね、いざ役所の閾をまたぐが早いか、途端に人間ががらりと變っちまうんです。その樣子ときたらとても御想像も及びませんよ! まあジュピターよろしくのていでふんぞり返ってるんですからねえ! 僕は自然、あの人の態度が氣にくわなくなったという氣持を、あの人の前で見せるようになりましたが、僕が追ん出ることになった主な原因は、一に課長次席の奴にあるんです。その先生がね、僕が先生の前で『暴言を吐いた』とかいうんで、上申してやるなんて言いだしたんですよ。本當のところはただ頭が足りないって言ってやっただけの話なんですがねえ。そこで僕はあの連中のところを追ん出て、今じゃ公證役場にいるというわけなんです。」
「で、役所じゃ澤山とっていたんですか?」
「なあに、臨時傭いでさ! もっとも親爺さんがそのほかに食扶持をくれちゃいましたがね。――いや實際親切ないい人ですよ。とはいえ、僕たちは斷然頑張り通すつもりです。もちろんそりゃあ二十五ルーブルじゃ生活の保障どころじゃありませんが、まもなく僕は、ザヴィレイスキイ伯爵の亂脈になった領地の整理に一口乘ることになるはずなんです。そうしたらぽんと三千ははいりますからねえ。それが駄目だったら辯護士になります。何しろ人物拂底の當節ですからね……。おや! ひどい雷だな、雷雨が來ますね。だが降りださないうちに來られてよかった。何しろあすこから徒歩てくって來たんですよ、ほとんど駈けどおしでね。」
「だがしかし、目下そういう雲行きだとすると、いつのまにナヂェージダ・フェドセーヴナと話をする暇なんかあったんです? おまけにあの家じゃあなたを全然寄せつけないとすると?」
「いやあ、垣根越しにだって話はできるじゃありませんか! 先刻あの赤毛のにお氣づきでしたか?」と彼は笑いだした、「つまり、あのが世話を燒いてくれるんですよ、それにマリヤ・ニキーチシナもね。ただ、あのマリヤ・ニキーチシナというのは、相當くえない女じゃありますがね!……なんだってそんなしかめっ面をなさるんです? 雷がお嫌いなんじゃありませんか?」
「いいえ、氣分が惡いんですよ、ひどく身體の工合が惡いんです……。」
 實際ヴェリチャーニノフは不意に胸もとがきりきり痛みだしたので、堪らなくなって肘掛椅子から立ちあがり、部屋のなかを歩いてみようとした。
「ああ、それじゃ僕は、飛んだお邪魔をしたわけですね。――どうぞ御心配なく、僕はもう失敬します!」と、若者は勢いよく起ちあがった。
「邪魔なんかじゃありませんよ、構いませんよ」とヴェリチャーニノフは痩せ我慢を張った。
「なんの構わないことがあるもんですか、『コブィリニコフのお腹が痛む』のに。――そんな文句がシチェドリンにありましたね、覺えておいでですか? あなたはシチェドリンがお好きですか?」
「ええ。……」
「僕も好きなんです。時に、ヴァシーリイ……おっと違った、パーヴェル・パーヴロヴィチ、ひとつ話をつけちまいましょうぜ!」と彼はほとんど笑いだしそうな顏をして、パーヴェル・パーヴロヴィチへ話しかけた、「御理解を扶けるため、もう一度要點をかいつまんで申しあげますよ。あなたは明日、僕の立會いのもとにあの老人夫婦の前で、ナヂェージダ・フェドセーヴナに關するあなたの一切の要求を、正式に取消すことを承諾されますか?」
「いや、斷じて承諾しませんよ」と、苛だたしげな、ぷりぷりした顏つきで、パーヴェル・パーヴロヴィチも起ちあがった。――「なお、もう一度重ねてお願いするが、これでお別かれにしようじゃないですか……。何しろ仰しゃることが一々たわいもない、愚にもつかんことばかりでねえ。」
「いいですかね!」と若者は傲慢な微笑を浮かべて、指を立てて威かした、「計算ちがいをしないでくださいよ! この種の計算ちがいが、やがてはどんなことになるかご存じですか? 御注意までに申しあげときますがね、九カ月ののちにはあなたはあすこですっかり財布の底をはたいちまって、もがきにもがいて、とどのつまりここへ轉げこんでくることになりますよ、――そこで、今度は厭でも應でもナヂェージダ・フェドセーヴナのことは諦めなければならん羽目になるんですよ。萬一それでもまだ諦めがつかんとなると――いよいよもって悲慘なことになりますぜ。まああなたの行手はざっとこんなものですぞ! あらかじめこれだけは申しあげときますがね、現在のあなたの行爲は、乾草のうえの犬っころみたいなもんです――いや失禮、ほんの物の譬えなんですよ――自分の腹の足しにもならんことで、他人の邪魔だてをしているのですぞ。お情けにもう一ぺん言いましょう、――ようくお考えなさいよ。せめて一生に一度なりとも、だらけた自分の心に鞭打って根本的にようくお考えなさいよ。」
「恐縮だが、くだらん説法はやめにしてくださらんか」とパーヴェル・パーヴロヴィチは憤然として叫んだ、「それから今の汚らわしい當てこすりの御禮には、明日早速然るべき手段をとりますよ、眼から火の出るような奴をね!」
「汚らわしい當てこすりですって? 何がそうだと仰しゃるんです? そんなことを考えるようじゃ、あなたこそ汚らわしい人間だ。だがとにかく、明日までお待ちすることにしましょうよ。そのうえでもし……。やあ、また雷だ! じゃさよなら、お近づきになれて大へん嬉しいです。」とヴェリチャーニノフに目禮するが早いか、彼は一散に駈け出した。雷を拔け駈けて、雨に逢わない先にと歸りを急いでいるらしかった。


十五 總勘定


「どうでしょう? どうでしょうね?」とパーヴェル・パーヴロヴィチは、若者が出て行くが早いかヴェリチャーニノフのそばに走り寄った。
「そう、まず運がないものと諦めるんですね!」とヴェリチャーニノフはうっかり口を滑らした。ひどく募ってきた胸もとの痛みが、それほどはげしく彼を責め苛んでいなかったら、まさかこんな言葉は口にしなかったに違いない。パーヴェル・パーヴロヴィチは火傷でもしたようにぎくりとした。
「そこで、あなたは――つまり私が可哀そうなあまり腕環を返してくださらなかったんですね――え、そうですか?」
「その暇がなかったもんで……」
「しんから可哀そうなあまり、つまり親友のなかの親友としてですね?」
「ええまあ、お氣の毒には思いましたね」とヴェリチャーニノフは、むっと顏色を變えた。
 とはいえ彼は、自分が先刻あの腕環を預かることになった次第、またその時のナーヂャがほとんど強制的に自分にこの役目を背負わした云々といったことを、手みじかに話してやって、……
「あなただって私がどうあっても引受けたくなかったことぐらい、わかってくださるだろうじゃありませんか。それがなくっても、厭なことだらけなんですからねえ!」
「あのにぽおっとなって引受けたんですね!」とパーヴェル・パーヴロヴィチは忍び笑いをした。
「そんなことを仰しゃるのは愚劣ですよ。だがまあ、それも大目に見てあげなければなりますまい。だが今しがた自分で御覽になったじゃありませんか、この事件の張本人は私じゃなくてほかの人間だということを!」
「それにしたって、ぽおっとなったには違いありませんや。」
 パーヴェル・パーヴロヴィチは腰をおろして、コップを滿たした。
「一體あなたは、この私があんな鼻垂れ小僧におめおめ讓るとでもお思いなんですか? どうしまして、いやっとこさあの鼻っ柱を折っぺしょってやりまさあ! 明日にも早速でかけて行って、根元から折っぺしょってやりますよ。兩親と力を協せて、あの餓鬼め、子供部屋から燻し出してくれる……」
 彼はほとんど一息に飮みほして、またなみなみと注いだ。概していえば、これまでにない氣輕な振舞いをしだしたのである。
「へっ、ナーヂェシカとサーシェンカか、さても可憐な御一對でさあ――ふ、ふ、ふ!」
 彼は燃えさかる憎念にわれを忘れていた。前よりもはげしい雷鳴がまた聞えた。目の眩むような稻妻が閃くと見る間に、たちまち土砂降りの雨になった。パーヴェル・パーヴロヴィチは起って行って、開いていた窓を閉めた。
「先刻あの男があなたに聞きましたっけね、『雷がお嫌いなんじゃありませんか』って――ふ、ふ! ヴェリチャーニノフ氏が雷をお嫌い、こりゃあいい! コブィリニコフが――ええと、どうだったっけ――コブィリニコフがと……。それからあの五十歳って奴はどうです――ええ? 覺えておいでですかね?」パーヴェル・パーヴロヴィチはさかんに毒づいた。
「だがあなたは、すっかりお神輿を据えちまったもんですねえ」と、痛みのためろくろく聲も出せずに、ヴェリチャーニノフは注意した、「私は横になりますよ……あなたは御隨意に。」
「何せこの降りじゃ、犬っころだって追い出す人はありませんや!」とパーヴェル・パーヴロヴィチは赫となって、相手の言葉を引きとった。とはいえまた、その赫となる權利の生じたことが、むしろ嬉しいといった樣子だった。
「そんならまあ、ごゆるりと腰を据えて、お飮みなさるがいい……なんなら、お泊りになっても宜しい!」とヴェリチャーニノフは口のなかでやっと言って、そのまま安樂椅子に身を伸ばすと、微かに呻吟しはじめた。
「泊ってもいいですと? だがあなたは――怖くはないですかね?」
「何がです?」とヴェリチャーニノフは急に鎌首をもたげた。
「いや別になんですがね。この前の時には、あなたがなんだかひどく怯えられたようだったもんで。それとも私のほうでただそんな氣がしたのかも知れんが……」
「あんたも馬鹿だな!」ヴェリチャーニノフは堪え切れなくなって、そう浴びせかけるとそのまま腹立たしげにくるりと壁のほうへ向いてしまった。
「なあに構いませんや」とパーヴェル・パーヴロヴィチは應じた。
 病人は横になって一分もたつと、急に眠りに落ちてしまった。それでなくても最近ひどく健康を害しているところへ、今日一日の氣の休まる時もない不自然な緊張が、今になって一時に解けたので、彼はもう赤ん坊のように他愛もなかった。しかしそのうちに再び痛みが勢いをもり返して、疲勞と睡魔に打ち勝つことになった。そして一時間もすると彼は目をさまし、やっとこさで安樂椅子のうえに起き直った。雷雨はもう去っていた。部屋のなかには、煙草の煙がいっぱいにたちこめ、酒壜は空っぽになってつっ立ち、パーヴェル・パーヴロヴィチはもう一つの安樂椅子のうえで眠っていた。着のみ着のままで靴もぬがずに、安樂椅子のクッションに頭を乘っけて、仰向きになっている。例の折疊み眼鏡ロルネットは胸のポケットから拔け出して、紐にぶら下がったままだらりとゆかのあたりまで垂れていた。同じゆかのうえには帽子も轉がっていた。ヴェリチャーニノフは暗い眼差しで、その樣子を見やって、別におこそうともしなかった。もうどうしても横になっていることができないので、痛さに身をねじ曲げたまま部屋のなかを歩きながら、彼はうんうん呻いていた。そしてその痛みについていろいろと思い耽りはじめた。
 彼はこの胸部の痛みが心配でならなかったが、それもさらさら無理はなかった。こうした發作はもうよほど以前から彼にはあったのだが、しかしごく稀にしかおこらず、一年に一度か二年に一度程度であった。この痛みが肝臟からくることは彼も知っていた。おこりはじめには、胸のある一點、心窩の下かあるいはも少しうえの邊に、まだ鈍く大して強くはないが、それでいて妙に神經にさわる壓迫感が、わだかまるような感じである。それが時によると十時間もぶっとおしに次第次第に強まって行って、やがての果てにはその痛みが極點に達し、堪えがたいまでに募った壓迫感のため、病人はもう死ぬのじゃないかとまで考えだすほどであった。一年ほど前におこった最後の發作の時などは、やはり十時間もつづいた擧句にやっと痛みが去ったのち、彼は急にぐったりと弱ってしまって、寢床に横になったまま手もろくに動かせない始末だった。で醫者はまる一日というもの、まるで乳呑兒のように、薄めたお茶を茶匙に二三杯と、肉汁にひたしたパンの小切れをしか與えてくれなかった。この痛みはいろいろな拍子からおこるのだったが、いつもきまって前もって神經が掻き亂されている場合に限られていた。またその經過も妙だった。時には普通の罨法をするだけで、おこりはじめの半時ぐらいのうちに、一時にさっと引いて行ってしまった。しかしまた時によると、あの最後の發作の時のように、何をやっても利目がなく、吐劑を次第に量を増しながら服用を重ねて、やっと收まるようなこともあった。その時の醫者はあとになってから、てっきり毒を嚥んだに違いないと睨んだと白状した。
 今はまだ夜の明けるまでには時があるし、よる夜中に醫者を迎えにやるのは厭だった。それに彼はもともと醫者というものが嫌いでもあった。とうとう彼は我慢がし切れなくなって、大きな聲で唸りはじめた。その呻き聲にパーヴェル・パーヴロヴィチは夢を破られた。彼は安樂椅子のうえに起き直って、暫くのあいだそうして坐ったまま、怯えたように聽耳を立て、ほとんど駈け出さんばかりの勢いで二つの部屋を往復しているヴェリチャーニノフの姿を、きょとんとした眼で怪訝そうに追っていた。明らかに平生の酒量を越していると見えるまる一本の酒が、ひどくその身に作用していたので、彼は長いこと正氣に返れずにいた。が、とうとう合點が行ったと見え、ヴェリチャーニノフのそばへ駈け寄った。彼の叫びに、相手は何やらわけのわからぬことを口のなかで答えた。
「そりゃ肝臟からくるんですよ、私は知ってますぜ!」とパーヴェル・パーヴロヴィチはやにわに物凄いほど活氣づいた、「あのピョートル・クージミチも、あのポロスーヒンもやっぱりこれとおなじでしたよ、肝臟からきたんです。罨法がいいんですがね。ピョートル・クージミチはいつも罨法で治してましたっけ。……死なんとも限らないんですぜ! 一走りマーヴラのところへ行って來ましょうか――ええ?」
「いいです、いいです」とヴェリチャーニノフは苛だたしげに手を振った、「なんにも要らないんです。」
 ところがパーヴェル・パーヴロヴィチは、どうした風の吹き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しだか、まるで生みの兒の一命に關することででもあるかのように、半狂亂のていだった。彼は病人の制止も聽かずに、是非とも罨法をやらなくてはいけない、それからまた、薄い茶を二三杯、それも『熱いくらいじゃ足りませんぜ、煮え沸るような奴を』一どきにぐいぐい飮まなくちゃいけないと、一所懸命に言い張った。――彼は許しも待たずにマーヴラのところへ走って行って、二人がかりでいつもがらんどうになっている臺所に火をおこし、ぷうぷうとサモヴァルを吹いた。またその一方では病人を下着だけにして、毛布でぐるぐる卷きにして、寢かしつけることまでやってのけた。おまけに二十分そこそこでお茶もはいるし、最初の罨法具もできあがった。
「これはお皿を暖めたんです、真赤に燒けてますよ!」と彼は、熱した皿をナフキンにくるんだ奴をヴェリチャーニノフの痛む胸もとに當てがいながら、ほとんど熱狂したような聲で言った、「罨法をやろうにも、このほかにはなんにもないんです。取り寄せていたんじゃ暇がかかりますしね。だがこの皿という奴は、なんなら首にかけても請合いますがね、むしろ一等よく利くぐらいのものなんですよ。あのピョートル・クージミチで試驗濟みも試驗濟み、ちゃあんとこの眼と手を使って見屆けたんですよ。手遲れになった日にゃ命とりですぜ。さあお茶を飮むんです、がぶりと一呑みに――火傷ぐらいがなんですか。掛替えのない命ですぜ……御面相なんざ二の次ですよ……。」
 彼のおかげで寢呆け眼のマーヴラは散々の目に逢わされた。皿が三四分ごとには取り換えられるのである。しかし三枚目の皿が當てられ、二杯目の煮え沸った茶を一息に飮みほしてしまうと、ヴェリチャーニノフは急に痛みが樂になったのを覺えた。
「一たん痛みのほうで動搖の色を見せたとなりゃ、こりゃもうこっちのもんですぜ、いい徴候ですぜ!」とパーヴェル・パーヴロヴィチは喚聲を上げて、喜び勇んで新らしい皿と新らしい茶をとりに駈け出して行った。
「痛みさえ壓えつけられたらなあ! 痛みさえ撃退できたらなあ!」と彼はのべつにくり返していた。
 三十分ほどすると痛みはすっかり薄らいでしまったが、その代り病人のほうも困憊の極に達してしまって、パーヴェル・パーヴロヴィチがいくら拜むようにしてたのんでも『もう一皿』我慢しようと言わなかった。衰弱のあまり彼の眼はひとりでに閉じてしまった。
「寢かしてください、寢かして」と彼は力無い聲でくり返した。
「それもそうだな!」とパーヴェル・パーヴロヴィチは贊成した。
「あなたは泊ってってくださいね……今何時です?」
「まもなく二時です、十五分前ですよ。」
「泊ってらっしゃい。」
「泊りますよ、泊りますよ。」
 一分ほどして病人はまたパーヴェル・パーヴロヴィチを呼んだ。
「あなたは、あなたという人は」と、相手が走り寄って來て自分の顏のうえにかがみこんだ時、病人は呟いた、「あなたという人は――私より善人ですね! あなたのお氣持がすっかりわかりました、すっかり……有難う。」
「お寢みなさい、お寢みなさい」とパーヴェル・パーヴロヴィチは囁いて、急ぎ足に、爪先だてて自分の安樂椅子に戻った。
 病人はうつらうつらしながら、それでもなお、パーヴェル・パーヴロヴィチがそっと音を忍ばせて寢床を敷き、着物を脱ぎ、やがて蝋燭を吹き消して、ざわざわさせまいと息の根を殺しながら自分の寢椅子に身を伸ばすのを、耳にしていた。
 疑いもなくヴェリチャーニノフはうとうとしかけていて、蝋燭が吹き消されるとまもなくぐっすりと寢入ってしまったのであった。彼はあとになってそれをはっきり思い出した。しかしその眠りのあいだじゅう、再び眼のさめた瞬間まで引きつづいて、彼は自分が眠っているのじゃない。これほどにへとへとに疲れているとはいえ、なんとしても眠れるものじゃないと、そんなふうな夢を見ていたのであった。やがての果てにその夢は、自分はいまうつつのなかでうなされているのだ、そしてそれが單に幻覺にすぎず、決して現實ではないことを、十分に意識しているにかかわらず、自分のまわりに群がり寄る幻影をどうしても追い拂うことができないのだ――と、そんなふうな夢に變って行った。あらわれてくる幻影は例によってお馴染のものであった。彼の部屋はもう群衆で一ぱいになっているようだった。それに玄關のドアは開け放しで、まだどしどしと人々が家のなかへはいって來て、階段のところで犇めいていた。部屋の中央に据えてあるテーブルに向って、ちょうど一月ほど前に見た夢と同じ夢にあらわれたのと寸分違わぬ一人の男が、腰をおろしていた。あの時と同じく、この男はテーブルに頬杖をついて坐ったまま口を利こうとはしなかった。ただ違っているところは、今日は喪章のついた山高帽子をかぶっていることである。『おや? するとあの時もやっぱりパーヴェル・パーヴロヴィチだったかな?』とヴェリチャーニノフは心に思った。――が、その默りこくっている男の顏を差し覗いた時、彼はそれが全然別人であることを見てとった。『なんだって喪章なんぞつけてるんだろう?』とヴェリチャーニノフは不審に思った。一方そのテーブルのところで犇めき合っている人々の立てる喧騷や話聲や叫喚は、物凄いほどであった。打ち見たところこの連中は、この前の夢の時よりは一そうはげしい憎念を、ヴェリチャーニノフに對していだいているらしかった。彼らはてんでに手を振りあげて彼を威嚇し、聲を限りに何やら彼に喚きかけるのであったが、さて一體何をどなっているのかになると、なんとしても見當がつかなかった。
『いや、これは幻覺なんだ。俺はちゃんと知ってるはずじゃないか!』と彼には思われた、『俺は知ってるぞ、俺はとうとう寢つかれなかったんだ、そして今、苦悶に堪えられなくなっておきあがったところなんだ!』……とはいえまた、その叫喚といい、人々の姿といい、その身振りといい、何もかもがじつにまざまざと手にとるように見え、あまりにも眞に迫っているので、時おりはこんな疑念に捉えられることもあった、――『本當にこれがただの幻覺なんだろうか? この連中は俺をどうしようと言うんだろう、弱ったなあ! だが待てよ……果たしてこれが幻覺でないとしたら、これほどの叫喚に今の今までパーヴェル・パーヴロヴィチが目を覺まさずにいるはずがあるだろうか? それ、あの男は眠ってるじゃないか、向うの寢椅子のうえでさ。』――やがて、やはりこれも前の夢と同樣に、突然何ごとかがもちあがった。一同は階段のほうへ突進して、ドアのところで物淒い押し合いへし合いを演じた。階段口から新らしい群衆が、どやどやと部屋へなだれ入って來たのである。この連中は何か大きな重たそうなものを擔ぎこんで來るところであった。それを擔いでいる連中がどしりどしりと梯子の段々を踏み鳴らす音や、あえぎあえぎ叫びかわすあわただしい人聲が聞えてきた。部屋の中にいた連中が口々に、『持って來たぞ、持って來たぞ?』と叫びだし、一同の眼はぎらぎらと光を帶びて、ヴェリチャーニノフのうえに注がれた。一同は脅かすような身振りをしながら、それ見たかと言わんばかりの顏をして、階段のほうをてんでに指さして見せるのだった。いよいよこれは幻覺ではなく現實なのだということを、今ではもう少しも疑わずに、彼は爪先立ちに伸びあがって、群衆の頭越しに一刻も早く、その連中の擔いで來たものを見きわめようとした。彼の心臟ははち切れそうに高鳴った。と突然――この前の夢の時とまったくおなじに、ドアの鈴を三度力一ぱいに鳴らす音が響いた。そしてまたしてもそのひびきは、どうしてももはや單なる夢とは受けとれないほど、ありありと眞に迫って、聽覺を貫きとおした!……彼はきゃっと叫んで目を覺ました。
 しかし彼は、この前の時のようにドアへ走って行きはしなかった。何かの想念が彼の第一の行動を指導したのか、第一その咄嗟の瞬間にいささかなりとも觀念というものがあったかどうか、――それはわからないが、とにかく彼の耳に、何者かがそうしろと囁いたような工合であった。――彼は寢床から跳びおりると、まるで身を護り襲撃を防ぎとめようとするかのように兩手を前方へぐいと伸ばしながら、パーヴェル・パーヴロヴィチの眠っていた方角めがけて突き進んだ。と彼の兩手は一どきに、やはりすでに彼の頭上へ差し伸ばされていた誰かの兩手に突き當たった。彼はやにわにぎゅっとそれを掴んだ。つまり何者かが、あらかじめ彼のうえにおっかぶさるようにして立っていたのであった。窓掛はすっかり下りてはいたが、そうした厚地の窓掛のない隣りの部屋から最早や白々とした薄明りが射していたので、部屋のなかは眞暗闇ではなかった。その時突然、何物かが彼の左手の掌と指に、鋭い痛みとともにしたたかに切りこんできた。彼は突嗟に、自分がナイフか剃刀の刃に掴みかかって、それをぎゅっと片手に握りしめたのだということを悟った。……その瞬間、何物かがごとりと案外に重そうな音を立てて、床のうえに落ちた。
 ヴェリチャーニノフは腕力にかけてはおそらくパーヴェル・パーヴロヴィチよりも二倍も強かったろうが、しかし二人の格鬪はかなり長く、大丈夫三分間はつづいた。が、やがて彼は相手を床に組み伏せて兩手を後ろへ捩じあげてしまった。それのみならず、なぜかしら彼は、その捩じあげた相手の兩手を縛ってしまわなければ氣が濟まなかった。そこで彼は、傷ついた左手で加害者を抑えつけながら、右手を働かせながら手さぐりに、窓のカーテンの紐を搜しにかかったが、それがなかなか見つからなかった。がやがて搜し當てて、握りしめると、力一ぱい窓から引きちぎった。よくまああんな馬鹿力が出たもんだと、彼はあとになって思いだしてはわれながら驚くのであった。その三分間のあいだ、彼我ともに一語も發しなかった。聞こえるのはただ二人のはげしい息づかいと、格鬪の陰にこもったひびきだけであった。やっとパーヴェル・パーヴロヴィチの兩手を捩じあげ後ろ手に縛りあげてしまうと、ヴェリチャーニノフは彼をゆかにつっ轉ばして起ちあがり、窓掛を拂いのけ、捲上げカーテンを引き上げた。人氣のない往來はもう明るくなっていた。窓を開け放つと、彼は深々と息を吸いこみながら、ちょっとの間たたずんでいた。もう四時過ぎであった。それから窓を閉め、ゆっくりと戸棚のほうへ歩いて行って、清潔なタオルを出すと、流れ出る血をとめようとして左手に固く固く卷きつけた。足下を見ると擴げたままの剃刀が絨毯のうえに轉がっていた。彼はそれを拾い上げ、二つに折ると、パーヴェル・パーヴロヴィチの眠っていた安樂椅子のすぐそばの小卓のうえにその朝から置き忘れてあった剃刀のケースに納めて、書物卓かきものづくえのなかに入れて錠をおろした。そうした始末がすっかり濟んでしまうと彼はパーヴェル・パーヴロヴィチのそばに歩み寄って、つくづくと彼を眺めはじめた。
 その間に、向うはやっとのことで絨毯のうえから起きあがって、肘掛椅子に腰かけていた。着物を脱いだまま、下着一枚の姿で、靴さえも穿いていなかった。彼のシャツの背中と兩袖に血がべったりついていたが、その血は彼自身のものではなく、ヴェリチャーニノフの切られた手から出たものだった。――言うまでもなく、それはパーヴェル・パーヴロヴィチには違いなかつたが[#「違いなかつたが」はママ]、しかし不意にそうした彼にぶつかったとしたら、最初のうちはまず彼だとは氣がつくまいほどに、彼の顏つきは變り果てていた。後ろ手に縛りあげられているので、窮屈そうにしゃちこ張って肘掛椅子に坐っていた。引き歪んだ困憊しきった顏をして、時折ぶるぶると胴顫いをしていた。凝然と、しかしまだその場の仕儀がさっぱり合點が行かないといったふうの妙にぼんやりした眼つきで、彼はヴェリチャーニノフを見つめた。と不意に彼はにやりと鈍い微笑を洩らし、テーブルのうえにある硝子の水差しを顎でしゃくると、半ば囁くように短い言葉を口にした。――
「水が欲しい。」
 ヴェリチャーニノフはコップに注いで、手ずから飮ませにかかった。パーヴェル・パーヴロヴィチはがつがつと水に吸いついてきた。ごくりごくりと三口ほど飮むと、彼は首をもたげて、自分の前にコップを手にして立っているヴェリチャーニノフの顏を、まじまじと穴のあくほど見つめたが、やはり一言も口をきかずに、またもや水の殘りを飮みにかかった。十分に飮んでしまうと、彼はふうと深い溜息をした。ヴェリチャーニノフは自分の枕をとり、自分の服を浚うように手にすると、そのままパーヴェル・パーヴロヴィチをその部屋に錠をおろして閉じこめて、自分はもう一つの部屋に行ってしまつた[#「しまつた」はママ]
 先刻の胸部の痛みは跡方もなく消えていたが、今また、たといほんの短かい間だったとはいえ、一體どこから湧いたかとわれながら訝しまれるほどの力の緊張が一たび緩むと、彼は再び極度の疲憊感に襲われた。彼は今しがたの出來ごとを思いめぐらそうとして見たが、亂れた想念はまだうまくまとまらなかった。受けた衝撃があまりにもはげしかったのである。彼の眼はひとりでに合わさってしまい、それが時には十分間もつづくかと思うと、またはっと目を覺ましてぶるぶるっと身顫いをし、一切を思い出して、べっとりと血のにじんだタオルの卷きつけてある自分のずきずき痛む手をもちあげ、さてまた貪るように熱っぽい思考をはじめるのであった。彼にはただ一つだけ明白に解決のつくことがあった。それはこうである――パーヴェル・パーヴロヴィチが彼に斬りつけようと思ったことはたしかであるが、しかもあの十五分前まではよもや自分が斬りつけようとしているなどとは、自分ながら思いも寄らなかったに違いない。あの剃刀のケースは、昨夜のうちにふと彼の眼に觸れただけで、別にこれといった考えを呼び醒ますでもなしに、そのままただ彼の記憶に殘っただけの話であろう。(一體あの剃刀は、いつもは書物卓のなかに錠をおろして藏ってあるのだが、昨日の朝になってヴェリチャーニノフは、時折の例にしたがって口髭や頬ひげのまわりの無駄毛を剃るために、久し振りで引っ張り出したのであった。)
『もしあの男が前々から俺の命を狙っていたのなら、あらかじめナイフかピストルを用意してくるにきまってる。昨夜まで一ぺんだって見かけたこともない俺の剃刀なんぞを、どうして當てにするものか』と、そんなことも考えのあいだには浮かんできた。
 やがて朝の六時が鳴った。ヴェリチャーニノフはわれに返って、着物をつけ、そしてパーヴェル・パーヴロヴィチのところへ行った。ドアの錠をはずしながら、彼はわれながら自分の氣が知れないと思った。一體なんだって自分は、パーヴェル・パーヴロヴィチをあのまま表へ突き出してやらずに、ここに閉じこめなんぞしたんだろう? しかも開けて見て驚いたことには、囚人はもうちゃんと服を着けていた。なんとかして縛めを解く機會を見つけたものと見える。彼は肘掛椅子にかけていたが、ヴェリチャーニノフのはいって來たのを見ると、すぐさま起ちあがった。もう帽子を手にしている。そのきょときょとした眼差しは、何かあわてたように、こんな言葉を語っていた。――
『何も言いなさんな。なんにも言いっこなし。今さら言ったってはじまらんからな』……
「出てらっしゃい!」ヴェリチャーニノフは言って、「あなたのケースをお持ちなさい」と、出て行こうとする彼の後ろからつけ加えた。
 パーヴェル・パーヴロヴィチはドアのところから引き返して來て、テーブルのうえにあった腕環の函を鷲づかみにすると、そのままポケットへ押しこんで、階段口へ出て行った。ヴェリチャーニノフは彼の出たあとに錠をおろそうと、戸口のところに立っていた。二人の視線はもう一度だけ合わさった。パーヴェル・パーヴロヴィチが突然歩みをとめて振り返ったのである。二人はものの五秒ほど、お互いに眼と眼を見合っていた――まるで躊躇しているようだった。やがてヴェリチャーニノフは、片手を力無く相手に向かって振った。
「さあ、お歸んなさい!」と彼は小聲で言って、ドアをしめて錠をおろした。


十六 分析


 異常なほど大きな喜悦の感じが彼を捉えた。何ごとかが終ったのである、片づいたのである。今まで押しかぶさっていた得體の知れない苦悶が彼を離れて、跡方もなく散り失せたのである。そう彼には思われた。その苦惱はこの五週間つづいていたのであった。彼は左手をあげては、血の滲みだしているタオルを眺めながら、幾度となく獨りで呟くのだった。『そうとも、もう今じゃ何もかもすっかり濟んじまったんだ!』そしてその午前中というもの、この三週間のうちではじめて、彼はリーザのことをほとんど念頭にさえ浮かべなかった。――まるでその切れた指から流れ出た血が、彼のその惱みの『總勘定』をまでつけてくれたかのように。
 自分がおそるべき危險を免かれたのだということを、彼ははっきりと意識した。『ああした連中は』と彼は思うのだった、『つまり、事の一分前までは自分が斬る氣か斬る氣でないかも知らずにいるようなてあいは、――その顫える手に一たびナイフを握り、己れの指に熱い血の最初のしぶきを感じるが早いか、もう斬りつけるどころの騷ぎじゃなく、囚徒たちの通り言葉でいえば「ばっさり」首をそぎ落とすくらいのことはなんとも思わんものなのだ。それは實際だ。』
 彼はそのまま家にいることができなかった。今すぐ自分は是非とも何ごとかをしなければならぬ、あるいは必らず何ごとかがひとりでに自分の身におこってくるに違いない――そういう深い確信をいだいて彼は表へ出て行った。彼は往來を歩きながら心待ちに待っていた。よしんば相手が見も知らぬ人間であってもいい、誰かと出會いたい、誰かと話をしたいと、そういう慾望を彼はひしひしと感じ、ただそれだけのためにやがて、醫者のところへ行こう、この手も然るべく繃帶してもらわなければならんし……という考えに導かれた。顏馴染みの醫者は、その傷を診察すると、不思議そうな顏をして『どうしてこんなに切ったんですか?』と問いかけた。ヴェリチャーニノフは冗談口にまぎらして笑い飛ばしたが、同時にまたすんでのことで一切をぶちまけてしまうところであった。が彼はやっと自分を制した。醫者はその樣子を見て彼の脈をとらずにはいられなかった。すると昨夜の發作がばれてしまったので、ちょうど手許にあったなんとかいう鎭靜劑を今この場所で服用なさいと言いだして、とうとう彼に納得させた。切傷についてもやはり、『別に惡い結果を惹きおこすようなことはないですよ』と言って彼をなだめた。ヴェリチャーニノフはそれを聞くと大聲で笑いだして、惡い結果どころかすでに素晴しくいい結果があらわれているんだということを、相手に斷言しはじめた。事の一切をぶちまけたいという抑えがたい慾望が、この日のうちにさらに二度ばかり彼を襲った。一度などはその相手は、その時はじめて喫茶店で落ち合って世間話をしだしたにすぎない、まったくの見も知らぬ人間だったのである。一體彼という人間はその時まで、人なかで見も知らぬ人間に話しかけることなどは、なんとしても我慢がならない男だったのであるが。
 彼は賣店へ寄って新聞をもとめ、かかりつけの洋服屋へ寄って服を誂えた。ポゴレーリツェフ夫妻を訪問するという考えは今になっても依然として彼には不愉快で、彼はあの夫妻のことを念頭にも浮かべず、いわんやまた別莊へ出かけようなどという氣にはさらさらなれなかった。彼は依然としてこの都會のなかで、何ごとかを待ち構えているかのようだった。レストランへ行って樂しい氣持で晝食をとり、ボーイだの隣りで食事をしている客だのにやたらに話しかけ、葡萄酒を半分ほど空にした。昨夜の發作が再發しはしまいかなどということは、彼は考えても見なかった。彼はその病氣が、昨夜自分がああした虚脱状態のまま眠りに落ち、それから一時間半後に寢床から跳ね起き、あんな馬鹿力を出して加害者をゆかへ叩きつけたあの瞬間に、きれいさっぱり自分を去ってしまったのだと確信していた。
 ところが日暮れごろになると、彼は眩暈めまいを感じはじめ、昨夜の夢のなかにあらわれた幻覺に何かしら似通ったものが、數瞬間ずつ彼を捉えるようになった。彼はもう薄暗くなってから自分の宿に歸って來たが、自分の部屋へはいりしなに、わが部屋そのものにほとんど畏怖に近い感じを覺えた。このアパートの自分の部屋にいるのが、彼には怖ろしくもあれば不氣味でもあった。彼は何べんもその部屋のなかを行きつ戻りつし、これまでほとんど覗いて見たためしのない附屬の臺所にまではいって見た。『昨夜あの連中が皿を燒いたのはここなんだ』――そんな想念が浮かんだ。彼はドアにかたく錠をおろして、平生より早目に蝋燭をともした。ドアをとざしながら彼は、自分が半時間ほど前に門番の詰所の前を通りしなに、マーヴラを呼び出して、『俺の留守にパーヴェル・パーヴロヴィチが來やしなかったかい?』と、まるで彼の來ることが實際あり得るかのような質問を發したことを思いだした。
 念入りにドアをとざしてしまうと、彼は書物卓の蓋を開いて、剃刀のはいっている函を取り出し、『昨夜の』剃刀をひろげてじっと眺めた。白い骨製の柄にちょっぴりと血痕が殘っていた。彼は剃刀をケースに戻して、再び書物卓のなかに納めて錠をおろした。彼は眠りたいと思った。今すぐ横になる必要があると感じていた。さもないと『俺は明日はてんで身體が利かなくなっちまうだろう』と思った。この明日という日が、彼にはなんとなくまるで宿命的な『最後の結着』のつく日のような氣がした。だがまた例の、往來おもてにいたあいだ、今日一日、一刻も彼から離れなかった想念が、今なお依然として群がり寄せ、執拗に執念深く彼の病める頭の扉を叩きつづけるのだった。で彼の想念は相變らずそれからそれへと駈けめぐるばかりで、彼はなかなか寢つくことができなかった……。
『一たんあの男がほんの偶然で俺に斬りつける氣になったということにきまったからには』と彼は依然として考えた、『とすればあの殺意は、よし憎惡に燃えた刹那の單なる空想の形にしても、これまで一ぺんだって彼の腦裡に浮かんだことがあったものかどうか?』
 彼はこの疑問に奇妙な解決を與えた。――つまり、『パーヴェル・パーヴロヴィチは俺を殺そうとは思っていたけれど、この未來の殺人者の腦裡に殺意が浮かんだことは一度もなかったろう』というのである。これを要するに、『パーヴェル・パーヴロヴィチは殺そうとは思っていた、が自分の殺意は知らずにいたのだ。理窟に合わん話だが、しかしそれは實際だ』と、ヴェリチャーニノフは考えたのである、『彼が上京して來たのは、何も就職口を見つけるためでも、あのバガウトフに會うためでもなかったのだ――なるほど就職口も搜してはいたし、バガウトフの家へも再三訪ねて行きはしたし、また奴さんが死んだ時には半狂亂のていにもなったが、それがそもそもの眼目じゃなかったんだ。第一バガウトフなんかは木屑こっぱも同然に輕蔑していたじゃないか。あの男は俺めあてに出て來たんだ。だからこそわざわざリーザを連れて來たんだ……。』
『だがこの俺は一體、あの男が……斬りつけてくるなんてことを、豫期していたか知らん?』と考えて、彼は然りと斷定した。あのバガウトフの葬列に加わって馬車に乘っている彼を見かけたあの瞬間から豫期していたのだ。じつにあの瞬間から――『俺は何ごとかを期待するようになったらしい。……だがもちろんそれは、これじゃなかった。よもや斬りつけてこようとは、夢にも思わなかった!……』
『だがあれは、あれは果たして奴の本音だったんだろうか?』と彼は、やにわに枕から首をもたげて眼をかっと見開いて、またしても大聲をあげた、『あいつが……あの氣狂い野郎が昨夜、下顎をがたがた顫わせながら、拳固で胸板を叩きながら、眞實にこの俺を愛しているなどとほざいていたのは?』
『まったくの本音なんだ!』と、いよいよ熱心に瞑想を押し進めながら、分析のメスをふるいながら、彼はそう斷定した、『一體あのT市から出て來たクアジモド(譯者註。作者がここでトルーソツキイの代名詞のようにして用いているクアジモドというのは、ヴィクトル・ユーゴーの小説「ノートル・ダム・ド・パリ」中の主要人物。ユーゴーはこの人物のなかに、嘔吐を催さしめる底の醜怪な容貌と、すこぶる優美な情操の動きとを併せ與えて、強烈な對照の妙を發揮せしめている)ときたら、二十年のあいだ露ほどの疑念も插まずに貞淑な女房とばかり思いこんできた妻の情夫に、惚れこんじまうくらいの藝當はなんでもないんだ。それほど奴は馬鹿でお目出たくできてるんだ! 奴は九年のあいだ俺を尊敬していた、俺の記憶を胸にはぐくみ、おまけに俺の吐き散らした「金言」をまで後生大事に覺えこんでいたんだ――いやはやこっちは、夢にもそうとは存じ上げなかったわい! 昨夜のあいつの言葉に嘘いつわりのあろうはずはないんだ! だが待てよ、奴が昨夜俺に對する愛を打ち明けて、「ひとつ總勘定をつけましょう」と言った時、果たして奴は俺を愛していただろうかな? いや、憎さ餘っての可愛さだったのだ。これが一等はげしい愛なんだ……。』
『いや實際この俺は、Tにいた時あいつの心に途方もなく大きな印象を與えたらしいぞ、それはたしかにそうだったに違いない。つまり途方もなく大きな、しかも「隨喜の涙のこぼれそうな」印象をな。何しろあいつが、クアジモドまがいの醜怪な容貌へもってきて、根がシルレルもどきの理想家肌のロマンチストであってみれば、そうした現象は大いにおこり得ることなんだ! 奴は俺という人間を百倍にも擴大して崇拜しちまったというわけなんだ。何しろ俺の出現は、哲學者みたいな引込み思案に耽ってる奴の心境にとっては、正しく青天の霹靂だったに違いないからなあ。……だが一體この俺のどこにそうも感心しちまったものか、ひとつ伺いたいもんだわい。實際の話が、俺が眞新らしい手袋をはめて、しかも巧者にぴちりとはめこなすところに、惚れこんだのかも知れないぞ。何しろクアジモドのてあいときたら、審美學が大のお好きだからなあ、いやはやお好きだからなあ! こうしたいとも雅びやかな魂の持主にとっちゃあ、おまけにそれが例の「永遠の夫」型だときた日にゃ、手袋ひとつでもう十分なんだ。あとのところは奴等のほうで勝手に千層倍にもおまけをつけてくれるんだし、もし君の望みとあらば、君のために決鬪することだって敢えて辭しはすまい。俺のその道にかけての凄腕をひどく買い被ったもんだわい! ひょっとしたらこの女蕩しの腕前が、何よりも奴さんを感服させたのかも知れないな。あいつのあの時の絶叫を聞くがいい、――「もしあの人までがそうだとしたら、この先一體誰を信じたらいいんです!」いやまったく、あんなを上げたあとじゃ人間誰しも野獸になっちまうものさ!……』
『ふうむ! 奴は、「俺と抱き合って、思うさま泣いて見たさに」はるばる上京したとかなんとか、例の厭らしい口ぶりで言ってやがったが、つまりは俺を斬るために上京して來たんだ。それを自分じゃ、「抱き合って泣きに」行くんだと思いこんでいたんだ。……おまけに奴はリーザまで連れて來やがった。だから萬一、本當にこの俺が奴と抱き合って泣いてやったとしたら、奴は本當に俺の一切を赦したかも知れんて。何しろあいつは、ひどく俺を赦したがっていたんだからなあ!……ところがそうした奴さんの素志は、俺と顏をつき合わせるが早いか、たちまち醉漢の道化芝居に變っちまったんだ、ポンチ繪に變っちまったんだ、つらに塗られた泥に對するむかつくような女々しい泣言に變っちまったんだ。(あんなつのを、あんな角までおでこんところへ生やして見せたりしやがったっけな!)せめて道化の面でも被って本心を言おう一心で、奴はわざわざ醉っ拂ってやって來たんだ。正氣じゃなんぼ奴だって言い出せまいからなあ……。だがそれにしてもじつに道化ることの好きな男だったなあ、なんとも好きな男だったなあ! 見ろ、俺を無理やりに接吻させた時の、奴の喜びようったらなかったぜ! ただしまだあの時には、抱くか斬るか、どっちの結末にするか見當がついちゃいなかったんだ。もちろん理想を言やあその兩方を一緒にやってのけるに越したことはなかったはずだ。それが一ばん自然な解決法だ!――そうだ、自然は不具者を好まない、だから「自然的な解決」という奴で叩き殺してしまうのだ。そこで不具者のなかの不具者とも言うべきものは、高尚な感情を具えている不具者なんだ。それを俺は自分の經驗によって承知しているんだ、ねえあのパーヴェル・パーヴロヴィチ! 自然は不具者にとっては慈母ではない、繼母なんだ。自然は不具者を生む、だが彼に哀憐を垂れてやるどころか、却って彼を罰するのだ、――しかもこれはすこぶる道理に叶った話さ。一切を赦す抱擁と涙とは、當節じゃもう、立派な人間にだって容易なことじゃ手にはいらないんだ。いわんや俺たち――俺や君みたいな人間の屑においておやさあね、なあパーヴェル・パーヴロヴィチ!』
『まったく俺を許嫁のところへ連れて行くなんて、あいつはどこまで馬鹿なんだか放圖が知れんわい――いやはや! 許嫁だとよ! だがまた一方から考えて見りゃ、ああしたクアジモド野郎だからこそ、ザフレービニン家の御令孃マドムアゼルの無垢な心にすがって、「新生涯への甦生」を期したいといった氣持も生まれてきたに違いないんだ! とはいえ君には罪はないんだ、ねえパーヴェル・パーヴロヴィチ、君にはなんの罪もないんだ。君は不具に生まれついたればこそ、君のいだく空想も希望も、何から何までが一切不具なものにならざるを得ないのは當然の話なんだ。しかも不具でありながら、君は健氣にも自分の空想に疑いを插んだ。さればこそこのヴェリチャーニノフに向かって、己れの崇拜する者への篤い禮を致しつつ、御裁可を仰いできたというわけなんだ。つまり君には、このヴェリチャーニノフの認可が必要だったのだ。つまり、その空想はじつは空想ではなくて、立派な事實なのだという、この俺の證言が必要だったのだ。そこであの男は俺に對する篤い尊敬の念からして、またこの俺が高尚な感情をいだいている男に違いないと信じながら、俺をあの家へ連れてったのだ。――おまけにおそらくは、あの無垢な少女のいるところからほど遠からぬ茂みの蔭で、われわれ二人が相擁して泣きだすようになるに違いないとまで、信じこんでいたかも知れないのだ。そうだ! あの「永遠の夫」は結局は、いつか一度は自分の一切の迷誤のつぐのいに、われとわが身を決定的に罰しなければ濟まない人間だったのだ、そういう約束を背負った男だったのだ。そこでわが身を罰しようがため、奴はついにあの剃刀を引っ掴んだ――いかにもそれは無我夢中ではあったろうが、それでもとにかくひっ掴んだんだ!「だがね、とにかく小刀でぐさりとやってのけた、とどのつまりは知事のいる面前でぐさりとやってのけた、つまりそこですよ!」――これはいつぞやあいつのした話だったっけな。だが待てよ、あいつはあの婚禮の介添人の逸話を俺に話してきかせた時、何かそんなふうな下心をいだいていたのだろうかしらん? そしてまた、あいつがあの夜なかに寢床を拔け出して、部屋の眞中につっ立っていた時、實際何ごとかがあったのだろうか? ふうむ。いやいや、あいつはほんの冗談に佇んで見せただけの話なんだ。あいつはあの時小用に起きたのだが、俺がひどく怯えあがったのを見ると、わざと十分間も返事をせずに默りこくっていたんだ。何しろ俺が奴に怯えているところが、奴にとっちゃひどく痛快だったに違いないものな。……そしてひょっとしたら、ああして暗がりのなかに佇んでいるうちに、實際何ものかの影が初めて奴の頭をかすめたかも知れないな……。』
『だがそれにしても、もし俺があの剃刀を小卓のうえに置き忘れておかなかったとしたら――おそらくは何ごともおこりはしなかったに違いない。そうかな? 果たしてそうかな? だってそうじゃないか、奴は俺をあの日までは避けていたじゃないか! 二週間もばったり俺のところへ足踏みもしなかったし、俺を氣の毒に思って俺から逃げかくれていたじゃないか! 最初はああして俺をではなしに、あのバガウトフをつけ狙っていたではないか! 刃を棄てて哀憐の氣持に移りたいと念じながら、あのよる夜中に跳ね起きて、皿を暖めてくれたではないか!……あの熱い皿によって、あいつは自分をも俺をも救おうと願ったのだ!……』
 曾ては『世馴れた男』であったこの男のずきずきと病む頭は、やがて彼がまったく眠りに落ちるまで、くうなことからさらに一そう空なことへと空轉からまわりをしながら、まだまだ長いこと、これに類した事柄のうえにさまよっていた。……
 あくる朝、彼が眼をさました時には、頭の痛みは前日と同じだったが、さらにそれに、まったく新らしい、夢にも思いがけなかった恐怖の念が加わっていた。この新しい恐怖は、この自分、つまりこのヴェリチャーニノフが(しかもこの世馴れた男が)、今日こそ自ら進んで、パーヴェル・パーヴロヴィチの宿へ出かけて行って、そこで萬事の落着をつけるのだという、われながら意外にも自分の胸中に固く根を張った否定しがたい確信から、生じて來たものであった。――だがなぜ? なんのために? ――その邊のことはまったく自分でも知らなかったし、また知りたいという慾求から嫌惡の情をもって顏をそむけた。ただわかっていることは、なぜかは知らないがとにかく自分が出かけることになる、ということだけであった。
 この氣狂いじみた考え――とよりほかに彼は呼びようを知らなかった――は、しかしだんだんに發達して行くうちに、とにかく一應はもっともらしい體裁と、かなり道理に叶った口實とを有するまでになった。ほかでもない、すでに昨夜のうちから彼は、あのパーヴェル・パーヴロヴィチは宿に戻ると、ぴったりとドアに錠をおろして、それからいつぞやマリヤ・スィソエヴナが話して聽かせたあの會計係の役人のように、首をくくるに違いない――と、そんなふうな氣が漠然としていたのであった。この昨夜來の妄想が次第次第に形を變えて、今では不合理だとは知りながらなんとしても否定しがたい信念に變ってしまったのである。――『なんであの馬鹿者が首をくくることがあるもんか?』と彼はのべつに自分の想念を打ち消した。しかも彼には、いつぞやのリーザの言葉がしきりに思い出されるのだった。……『とはいうものの、俺がもし彼奴だったら、あるいは首をくくらんものでもないわい……』と、彼はふと思った。
 で結局、晝食をとりにレストランへ行く道を變えて、パーヴェル・パーヴロヴィチの宿をめざすことになった。――『ただあのマリア・スィソエヴナに樣子をきくだけにしよう』と、彼はそう思いさだめた。ところが、まだ往來へ出ない先に、不意に彼は門の下で歩みをとめた。――
『本當に俺は、本當にこの俺は』と彼は、羞恥の念に顏を火照らせて叫んだ、『本當に俺は、「相擁して泣かん」がために、彼奴のところへのこのこ出かけて行くんだろうか? 俺たち二人に宿命づけられた汚辱を完成するには、けさがたの、あのたわけた醜態だけではまだ足りないとでも言うのか?』
 ところが幸いなことに、あらゆるまっとうな律氣なる人々を見守り給う神の攝理みこころによって、彼はこの『たわけた醜態』を再び演じないでも濟むことになった。すなわち彼は往來へ出た途端に、ばったりと例のアンクサンドル・ロボフ少年に出くわしたのである。若者は息せき切って興奮していた。
「僕はあなたに會いに來たんです。われわれの友人、あのパーヴェル・パーヴロヴィチは、じつになんたる人でしょうね?」
「首を吊ったか?」とヴェリチャーニノフは荒々しく呟いた。
「誰が首を吊ったんです? そりゃまたどうしたわけです?」とロボフは呆氣にとられて眼をまるくした。
「いや別に……ただちょっと。――で君のお話は?」
「ちぇっ馬鹿馬鹿しい、あんたという人も隨分おかしな頭の※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りかたのする人だなあ! あの人は首なぞ吊りゃしませんぜ。(またなんで首を吊ることがあるもんか?)それどころか、つつがなく退京しちまったんですよ。僕はつい今しがたあの人を汽車に乘っけて、たせてきたところなんです。いやはや、じつにあの人ときたら飮み助ですなあ! 僕たちは三本も倒しちまったんですよ、もっともプレドポスィロフも一緒でしたがねえ。――がそれにしても、あの人はじつによく飮む、凄い飮み助だ! 車室はこのなかで何やら歌を唄っていましたっけが、やがてあんたのことを思い出して、ちょいと投げキスをして、あんたに宜しくと言いましたぜ。だが根性の卑しい男ですね、あんたはどう思います、――ええ?」
 青年はたしかに醉っ拂っていた。ぽっぽっと火照った顏や、きらきら光る眼や、うまく※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)らない舌先が、明らかにそれを實證していた。ヴェリチャーニノフはからからと笑いだした。
「じゃとどのつまり、君たちは兄弟の盃ブルーダーシャフトというわけでめでたしめでたしか! あっはっは! 相擁して泣いたというわけか! ああ君たち、シルレルのともがらよ、詩人うたびとよだ!」
「まあそうやっつけないでくださいよ、ねえ。それよか、どうでしょう、あの人はあすこのことはさっぱりと諦めちまったんですよ。昨日もあの家へやって來ましたし、今日もやって來たんです。そして厭っとこさ僕たち二人のことを言附いいつけたんです。ナーヂャは閉じこめられて中二階にはいったきりなんです。どなっておどかしたり、泣いてすかしたり、そりゃもう大へんな騷動なんですが、なあに僕たち、びくともしませんや! それはそうとあの人はじつに飮みますねえ、あんたの前ですが、じつによく飮みますねえ! それにあの人はじつにモオヴェトン(譯者註。下品なというほどの意)ですよ、いやモオヴェトンじゃまずい、なんて言うのかなあ? ……とにかくしょっちゅうあんたの思い出話をやっていましたが、同じあんたを形容するにしてもその言い※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しがじつに下卑てましてねえ! あなたはとにかく紳士に違いないし、また實際ひと昔前には上流社會の一員だったわけなんですし、それがただ最近になって、こうして落ちぶれなければならん羽目に――貧乏のためだったかな、はてな……。ええ忌々しい、じつはあの人の言うことがよく聞き取れなかったんですよ。」
「ははあ、あの男はそんな言い※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しで、私のことを君がたに話して聽かせたんですね?」
「そうです、あの人なんです、だから怒らないでくださいよ。身輕な市民になったほうが、上流社會になんぞうろついてるよりはましですものね。僕はまたこう思うんですよ、現代のわがロシヤには誰一人として崇拜に値いする人物がいないとね。この崇拜すべき人物がないということは、すなわち時代の由々しい病弊ではありますまいか? あんただってそうお考えでしょう? え、いかがです?」
「そうです、そうですとも。それからあの男はなんと言いました?」
「あの男? 誰のことだろう! ――あっ、そうそう! なんだってまたあの人は、あなたのことをしょっちゅう、『五十づらを下げて、そのくせ身代限りをしたヴェリチャーニノフ』と言うんでしょうかねえ? 僕にはわかんないなあ。なぜわざわざ、そのくせ身代限りをした、なんて言うんでしょうね。ただ『身代限りをした』で結構じゃありませんか! それをあの人はげらげら笑いながら、千度もくり返して聞かせるんですよ。いざ車室はこに乘り込むと、何か歌を唄いだしたんですが、それからめそめそ泣きだしちまって――いやどうも胸糞が惡くなっちまいましたよ。それも、醉ったまぎれの醜態だと思えばむしろ氣の毒なくらいでしたよ。ああ厭だ、馬鹿な奴等はじつに厭だ! やがての果てには、リザヴェータの冥福のためだといって、乞食に金をばら撒きはじめたんです。――それはあの人の細君のことなんですか?」
「娘です。」
「あなたのその手はどうしたんです?」
「切ったんですよ。」
「なあに、じきによくなりまさあ。とにかくあいつめ、いいあんばいにって行っちまいましたがね。だが僕は斷然保證しますぜ、あいつは行き着く先で、すぐまた結婚しちまうに相違ありませんよ。――ね、そうでしょう?」
「そんなことを言って、君だって結婚したいんじゃありませんか?」
「僕ですか? 僕は別問題ですよ――あんたという人は、本當になんて口が惡いんだろう! もしあんたが五十なら、あの人はもうたしかに六十にはなってますね。そこを考えなけりゃ駄目ですよ、ねえ、閣下! ついでだから言っちまいますが、僕はずっと以前には、これでも信念の堅いスラヴ主義者だったんです。だが今じゃ、僕たちは西方から射す曙光を待ち焦れているんですよ。……じゃ、さよなら。あんたの部屋まで行かない先にここでお目にかかれて有難かった。今日はお寄りしませんよ、まあ上がれなんて言わないでください、暇がないんです!……」
 そして彼は駈け出そうとした。
「やあ、こいつはいけねえ」と彼は不意に戻って來て、「僕はあの人からあんたに手紙をたのまれてね、その使いに來たんでしたよ! そら、これが手紙です。なぜあなたは見送りに來なかったんですか?」
 ヴェリチャーニノフは部屋へ引返して、彼の名あてになっている封筒を開いた。
 その封筒の中には、パーヴェル・パーヴロヴィチの書いた文字はただの一行もなくて、ある別の手紙が一通はいっていた。ヴェリチャーニノフはその筆蹟で一目でそれと見分けがついた。それは古い手紙で、書かれた紙も積もる歳月に黄ばみ、インクの色も褪せていた。つまり彼があのときT市を去ってから二カ月後に書かれた、じつに九年前の手紙だったのである、しかしこの手紙は彼の手許には屆かなかった、その代りに當時彼は別の一通を受け取ったのである。そうした經緯は、この黄ばんだ手紙の文意によって明らかであった。この手紙でナターリヤ・ヴァシーリエヴナは、當時この代りに彼が受け取った手紙と同樣に、彼に永久の別かれを告げ、今では別な男を愛していると告白してはいたが、しかしまた同時に、自分の懷姙していることも祕めてはいなかった。それどころか、彼の氣持を慰めるため彼女は、やがて生まれる子はそのうちなんとかして彼に渡すように取り計らうつもりだと約束し、なお二人のあいだにはこれで新らしい責務が生じたこと、そしてそのおかげで二人の友情は、今や永遠に固く結ばれることになったのだということを、くり返し述べ立てていた。――要するに、話の筋道こそあまり立ってはいなかったが、書かれた目的はもう一つの手紙とまったくおなじで、つまり自分への戀は諦めてくれということにほかならなかったのである。もっとも彼女は、もう一年したら赤ん坊を見にT市へ來てもいいという許しを與えていた。彼女がどうして思い直して、もう一つの手紙をこの代りに送ってよこしたかは、神ならぬ身の知る由もなかった。
 讀んでゆくヴェリチャーニノフの顏は眞蒼だった。しかしまた同時に彼は、この手紙を發見したパーヴェル・パーヴロヴィチが、螺鈿の飾りを施した例の父祖相傳の黒檀の手文庫の蓋も閉じあえずに、その前で初めてこれを讀んだ時の姿を、心に浮かべずにはおられなかった。
『てっきりあの男も、死人のように眞蒼になったことだろうな』と彼は、ふと鏡に寫してみた自分の顏に目をとめて心にそう思った、『てっきりそりゃあ、讀んでは眼を閉じ、また急に開けて見たりしたに違いないて。この手紙がただの白紙に變ってくれよと念じながら。……きっと三度ぐらいは、それをくり返して見たに相違ない!……』


十七 永遠の夫


 私たちが前に敍べた出來ごとがあってから、ほとんどまる二年たった。そこでまた私たちはヴェリチャーニノフ氏の姿を、ある夏の日の午さがり、新らたに開通したわが國のさる鐵道を疾走しつつある、客車のなかで見出すのである。
 彼は氣保養がてらある友人に會うために、オデッサをさして行くところであった。がまたそれと同時に、もう一つ、これもまたかなりに心愉しい事情が、彼にこの旅行を思い立たせたのであった。つまり彼はその友人を介して、久しい以前から懇意になりたいと望んでいたあるすこぶる魅力ある婦人と、あわよくば初對面をとげたいものと期待していたのである。この際くだくだしい點には立ち入らずに、彼がこの二年のあいだにまるで見違えるようになった、いやむしろ見違えるほど血色がよくなったということを、記して置くにとどめよう。以前のヒポコンデリーの症状は、今ではほとんど痕跡すらも認められなかった。その病氣の結果として、二年前あの訴訟事件の思わしくなかったころ、ペテルブルグで彼を惱ましはじめていたあのいろんな『囘想』癖や、またあの不安な氣持からは、今ではもう、曾ての自分がいかにも小膽者だったという意識から來る若干のひそやかな羞恥の情のほかは、何一つ殘ってはいなかった。ああしたことはもう二度と再びおこる氣遣いはあるまい、そしてあのことはあのまま闇に葬られて、誰かに嗅ぎ出されるようなことは決してあるまいという確信が、幾ぶんは彼の嘗めた苦勞の償いをしてくれたのであった。なるほどあのころの彼は、世間を見棄てて、身裝りまでを粗末にし、交際仲間の眼を避けよう避けようとしていたのであった。そしてもちろんこの奇怪な行動が、交際仲間の眼を逃がれるはずもなかった。ところがその彼が待つ間ほどなく、悔い改めて、それと同時に新らたに甦生したもののような瑞々みずみずしさと、いかにも自信に充ち滿ちた樣子をもって姿をあらわすことになったので、みんなは直ちに彼の一時の落伍を許してくれたのである。それのみか、彼が道で行き會っても挨拶さえしないまでになっていた連中のほうが、却って一番先にめざとくも彼を認めて、親しげに手を差し伸べてくれた。しかもその連中は、まるで彼が他人の容喙の限りに非ざる家事の都合でどこか遠いところへ行っていて、今しがたそこから歸って來たばかりででもあるかのように、煩さい質問攻めなどは一切せずに、氣輕に彼を迎え入れてくれたのだった。すべての情勢がこうした有利な大角度の好轉を來たした原因は、いうまでもなく例の訴訟が勝訴に歸したという事實であった。ヴェリチャーニノフは都合六萬ルーブルの金がはいっていた。もちろんとり立てて言うほどの金額ではないが、しかし彼にして見ればなかなかの大問題だったのである。第一彼は、この金を、手にするや否やまず自分の足場が再び堅固になったのを感じ、したがって氣がよほど樂になった。彼はまた、いま手にはいったこの最後の金を以前に二つの財産を蕩盡した時みたいに、まるで『馬鹿者のように』もはや使い果たしはしないだろうことを、ひいてはこの金額がもって彼の一生を支えるに足るであろうことを、はっきりと承知していた。
『よしんば、どんなにこの國の社會機構が破壞されようと、あいつらが鳴物入りで何ごとを宣傳して※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ろうと』と、彼は時折、自分の周圍や、またひろく全ロシヤにわたって行われつつある、あらゆる奇怪な信ずべからざるほどの事柄を、目にしたり耳にしたりしながら、考えるのであった、『また、そんじょそこらの人間やその思想が、よしんばどんなに生まれ變ったにもせよだ、俺は依然として、今こうしてしたためつつあるような凝った美味うまい食事ぐらいには事缺くまいて。だからつまり、なんでもござれさ。』
 こうした肉慾的なまでに優柔な考えかたが、次第次第に強まって行って今ではまったく彼を支配するようになり、それが精神にもたらした變化は言わずもがな、肉體的な變化をまで引きおこしたのであった。彼は今ではもう、私たちが二年前に見た『のらくら者』、あんなふうなみっともない事件が續々としてその身におこりはじめていた時代の彼の姿にくらべると、まったく別人の觀があった――快活で、明るく、どっしりしていた。あのころの彼の眼のまわりや額には、そろそろたちの惡い皺が疊まれだしていたものだったが、それも今ではほとんど消えていた。顏の色艶までが變って、當時より色白になり、それにつややかな紅味がさしていた。
 その彼が今、一等車の坐り心地のいい座席に深々と腰をおろしているのである。そして早くもこの時、ある微笑ほほえましい想念を心に浮かべていた。それに次の停車驛が分岐點に當たっていて、新しい支線が右へ分かれているところから、思い浮かんだものであった。――『もし俺が一時この直通線路を棄てて、ちょいと右の線へれさえすりゃ、二た丁場も行くか行かぬうちに、ついでにもう一人、知り合いの婦人を訪問できるんだがなあ!……』と彼は考えるのだった、『あの女はついこのあいだ外國から歸って來たばかりで、今じゃあんな田舍町でしょんぼりくすぶってるんだ。彼女にしてみりゃ退屈きわまる暮らしだろうが、そこがまた俺のつけ目だて。といった次第で、あすこでもオデッサに劣らぬ面白おかしい時が送れそうだな。いわんやそれ、少々行くのが遲れたって、オデッサのほうが消えてなくなるわけでもなしさ……』そうは考えたものの、やはりまだいずれとも決心がつき兼ねていた。彼は『きっかけを待って』いたのである。そうこうするうちにその停車場が近づいてき、彼の待ち受けた『きっかけ』のほうも、やはり遲れずに向うからやって來てくれた。
 その停車場は四十分停車驛だったので、旅客は降りて晝食をとることになっていた。やがて列車がとまると、一二等待合室の入口のあたりは、こうした場合の御多聞に漏れず、せっかちな、あわただしい連中の押し合いへし合う群で埋まってしまった。そして、またこうした場合の慣例であろうが、一騷動もちあがってしまったのである。群衆にまじって二等車から降り立った婦人があった。なかなか人眼をひく器量ではあったが、しかし旅行者にしてはどうもいささかけばけばしすぎる身裝りをしたこの婦人は、兩手でもってほとんど引きずらんばかりに、一人の非常に若い美貌の槍騎兵士官を、自分の後ろに引き連れていた。士官は彼女の手を逃がれようとして、しきりに身をもがいている。若い士官はしたたか醉っていた。一方、どう見ても彼の年上の親戚の者と思われるその婦人は、一度その手を離したら最後、彼が一目散に食堂の酒場へ駈けこむに違いないと睨んでいるらしく、いつかな彼を放さなかった。そのうちに、何しろ押すな押すなの混雜のなかのことだからその士官に、これまた泥のようにべろんべろんになった小商人ふうの男が、どしりとぶつかってしまった。この小商人はこれでもう二日もこの停車場にお神輿を据えて、いろんな取卷き連にわいわい擔ぎ上げられながら、酒は浴びる錢はばらまくといった調子で、いまだに先へ行く列車に乘りこめずにいるのであった。そこでたちまち口喧嘩がはじまって、士官は威丈だかに喚き散らす、小商人は口汚なく罵り立てる、例の婦人はただもうはらはらして生きた色もない、という騷ぎになった。それでも婦人は士官を喧嘩相手から引き離して、手を合わせんばかりの聲で呼びかけた。――
「ミーチェンカ! ねえ、ミーチェンカてば!」
 この呼びかたが小商人の耳にはあまりにも醜態にひびいたらしかった。事實、まわりにたかっていた人々も思わず笑聲を立てたほどだったが、この小商人ときたらそれどころじゃなく、今までの鬱憤にさらに油を加えることになってしまった。彼にはなぜかしらその呼びかたが、良風美俗にもとる由々しき冐涜と思われたのである。
「ちぇっ、『ミーチェンカてば!』だとよ」と彼は、奧さんの金切聲を憎態にくていに眞似ながら、くってかかった、「それも人なかでよ、いけ圖々しいったらありゃしねえ!」
 そうして彼は、その時はもう一番手近かの椅子に崩折れるように身を投げて例の士官をも自分の隣りにやっとかけさせた婦人のほうへ、ふらふらとした足取りで近寄って行くと、侮蔑の眼差しで二人を見くらべながら、鼻唄でも歌うように聲を引伸ばして浴びせかけた。
「ええおめえ、とんだお引きずりだなあ、お裾の邊りが泥んこだあね!」
 婦人はきゃっと叫んで、救いを求めるように悲しげに邊りを見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)した。彼女は恥かしくもあれば怖ろしくもあったのだが、一方青年士官はというと、一刀兩斷に結着をつけようとしてやにわに椅子を蹴って立ちあがった。そして何やら喚きながら、小商人めがけて突進しようとしたが、途端に足を滑らして、どさりとばかりもとの椅子に尻餅をついてしまった。まわりの笑聲はますます高まって行ったが、誰一人として加勢しようとする者はなかった。そこへヴェリチャーニノフが一役を買って出たのである。彼はやにわにむんずと小商人の襟首をつかむと、ぐいと引き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しざま、怯え立った婦人のところから五歩ほどのところへ、つっ放してしまった。それでこの騷動も幕になった。小商人はこの衝撃とヴェリチャーニノフの犯しがたい風貌とにすっかり恐れ入ってしまった。取卷き連中が早速その彼を連れ去った。りゅうとした身裝いでたちをしたこの紳士の、威風凛々たる面構えは、わいわい囃し立てていた野次馬どもにも、大いに威壓的な效果を生んだ。笑い聲はぱったりやんでしまった。婦人は眞紅な顏をして、涙をこぼさんばかりの樣子で、感謝の言葉を雨のように降らせはじめた。槍騎兵は※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)らぬ舌で、『ありやとう、ありやとう!』と言いながら、ヴェリチャーニノフに手を差し伸べようとしたが、その途端に氣が變って、傍の椅子に横になることにし、二つも三つも椅子を占領して、長々とふんぞり返ってしまった。
「これ、ミーチェンカ!」と婦人は兩手をうち合わせて、なさけなそうな聲でたしなめた。
 ヴェリチャーニノフは今の一幕にも滿足だったし、また自分が身を置いた環境にも滿足だった。
 彼はその婦人に心を惹かれたのである。彼女は打ち見たところ、相當裕福らしい田舍出の婦人と見える。隨分と金はかけているらしいが、そのくせ無趣味な服裝といい、いささか滑稽じみた身ぶり物腰といい、――正しく彼女はその一身に、さる下心をいだいて婦人に近づいて來る都會の氣障男に上首尾を約束する、あらゆる條件を具備している女に違いなかった。彼等のあいだに話の絲が結ばれた。婦人は興に乘ってさかんに喋り立て、しきりと自分の夫のことをこぼすのだった。
車室はこから出しなに、いきなり姿をかくしてしまったんでございますよ。だからこんなことになっちまったんですわ。だってあの人ときたら、大事な場合っていうときっと、どこかへ雲がくれしてしまうんですもの……」
「小便に行ったんですよ……」と槍騎兵は呟いた。
「これ、ミーチェンカ!」と彼女はまた兩手をうち合わせた。
『いやこいつぁ、亭主先生あとで酷い目に逢うぞ!』とヴェリチャーニノフは思った。
「御主人のお名前はなんと仰しゃるんです? 私が探しに行って來ましょう」と彼は申し出た。
「パール・パールィチでさ」と槍騎兵はもつれる舌で應じた。
「御主人はパーヴェル・パーヴロヴィチと仰しゃるんですか?」と、ヴェリチャーニノフが好奇心に驅られて聞き返したその時、いきなりにゅうっと見覺えのある禿頭が、彼と婦人のあいだに割つて[#「割つて」はママ]はいった。その瞬間彼は圖らずも、ザフレービニン家の庭の光景だの、無邪氣な遊戲だの、自分とナヂェージダ・フェドセーヴナとのあいだにのべつに割りこんできたあの小煩い頭だのを、一どきにごちゃごちゃと思い浮かべた。
「まああなたは、今ごろになって!」と、奧さんはヒステリックに聲をとがらせた。
 それはまぎれもないあのパーヴェル・パーヴロヴィチだった。彼はまるで幽靈と顏をつき合わせでもしたかのように、ヴェリチャーニノフの前に唖然としてつっ立ったまま、驚愕と恐怖の色を浮かべて相手をまじまじと見守っていた。その茫然自失の態たるや非常なもので、ために暫時のあいだは柳眉を逆立てた細君がいきりたった早口にべらべらまくし立てる御談義も何も、一切耳にははいらぬらしかった。そのうちにやっと、彼はぶるぶるっと胴顫いをすると、途端にはっと自分が直面している怖るべき事態の全容を悟った。年端も行かぬ子供に酒を強いた自分の罪障に思いあたり、ミーチェンカの醉態に思いあたり、そしてさらに『このお方ムッシュが』――と婦人はどうしたわけかヴェリチャーニノフのことをそう呼んでいた――『私どもの護りの神とも、また命の大恩人ともなってくだすったのに、あんたは――あんたという人は、いつも大事な場合というと、見えなくなってしまうんだわ……』云々という次第にも、同時にはっと思いあたった。
 ヴェリチャーニノフは突然大聲で笑いだした。
「いやあ奧さん、この人と私は親友同志なんですよ、子供の時からの友人なんですよ!」と彼は、その時辛うじて蒼ざめた微笑を浮かべたパーヴェル・パーヴロヴィチの肩に、親しげに、また庇うように右の手を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)して、呆氣にとられている婦人に向って叫んだ、「この人はあなたに、このヴェリチャーニノフのことを話しませんでしたか?」
「いいえ、一度も話してはくれませんでしたわ」と細君はいささかぎくりとした。
「じゃあひとつ、君の奧さんに紹介してもらおうじゃないか。君も友だち甲斐のない人だなあ!」
「このかたはね、リーポチカ、今も仰しゃったようにヴェリチャーニノフさんと仰しゃるんだよ、そしてね……」とやりかけて、パーヴェル・パーヴロヴィチはまの惡そうに絶句してしまった。
 細君はさっと氣色ばんで、さも憎さげに眼を三角にして夫を睨んだ。明らかに今の『リーポチカ』(譯者註。オリンピアーダの愛稱である)という呼びかたが氣に喰わぬと見える。
「それにじつに怪しからんじゃありませんかね、ねえ奧さん、結婚の通知一つよこすじゃなし、結婚式に招んでくれるじゃなし、いやはやですよ。しかしあなたはその、オリンピアーダ……ええと……」
「セミョーノヴナですよ」と、パーヴェル・パーヴロヴィチは耳うちした。
「セミョーノヴナでさ!」と、うとうとしかけていた槍騎兵が、突拍子もなくこれに和した。
「つまりあなたはその、オリンピアーダ・セミョーノヴナ、もうその邊でこの人を許してやって頂きたいですな。私に免じて、つまりこうして舊友同志が久々に對面したことに免じてですな。……この人は――いい御主人ですからね!」
 そしてヴェリチャーニノフは親しげにパーヴェル・パーヴロヴィチの肩をぽんと叩いて見せた。
「私はね、お前、ただちょいと……向うへ行ってただけだよ……」と、パーヴェル・パーヴロヴィチは言いわけをやりかけた。
「そして家内に赤恥を掻かせたんでしょう!」と、リーポチカ夫人は透かさず相手の言葉をひったくった、「大事な時にはいもしないで、要りもしない時にゃ邪魔ばかりして……」
「大事な時には――いもせずに、要らない時にゃあ……要らない時にゃあ……か」と、槍騎兵が調子を合わせた。
 リーポチカ夫人は興奮のあまり、ふうふう言わんばかりの有樣だった。ヴェリチャーニノフのいる前でこんな樣子を見せるのはいけないとは、自分でも承知していたので、恥かしさに顏を赤らめたが、なんとしても腹の蟲が承知しなかった。
「要りもしない時に限って、あんたは用心深すぎるんです、そりゃもう用心深すぎるんですよ!」とはっと思うまもなく彼女の聲はつっ走った。
「寢臺の下をのぞいて……色男を探すって寸法さ……寢臺の下をね――要りもしない時にさ……要りもしない時にさ……」と、ミーチェンカまでがおそろしくいきり立った。
 だがこのミーチェンカには、もうどうにも手のつけようがなかった。とはいえまもなく、その騷動もめでたく納まって、新らしい知人同志のあいだには完全な親交が結ばれることになった。パーヴェル・パーヴロヴィチは珈琲と肉汁を買いにやらされた。そのあとでオリンピアーダ・セミョーノヴナはヴェリチャーニノフに向かって、今彼等の一行は、彼女の夫の勤めているO市から、二た月の豫定で、彼等の持村へ避暑に行くところだということや、その村はこの驛から大して遠くない、せいぜい四十露里くらいのもので、素晴らしい家とお庭があるということや、その村莊には町の知人たちも泊りがけで遊びに來てくれるはずだし、また村の近隣にも同じ避暑仲間がいて、なかなか賑かだということ、などを一通り説明して、もしアレクセイ・イヴァーノヴィチ(譯者註。ヴェリチャーニノフのこと)が、むさくるしさもお厭いなく『私どものび住居』を訪ねて來てくださる思召しさえあれば、彼女は彼を『護り神』としてお迎え申し上げる、なんとなれば彼女は、『萬一あなたがいらしてくださらなかったら、どうなったことだろう……』と思い出すと、覺えず膚に粟を生ずることを禁じ得ないからである……といったことを、縷々嫋々として喋りまくったが、要するに歸するところは『護り神』としてお迎え申しあげる、ということにほかならなかった。「そしてまた、命の大恩人としてです、命の大恩人としてです」と、槍騎兵は熱をこめて力説した。
 ヴェリチャーニノフは鄭重に禮を述べて、あなたのお役になら今日のみならずいつでも立ちたいと思っておりますとつけ加え、じつは自分はなんの仕事もない閑人であるから、オリンピアーダ・セミョーノヴナの招待に與かったことはじつに有難い仕合わせに存ずる次第であると答えた。そういう紋切型が一とおり濟むと、彼は直ちに肩の凝らない雜談に話題を轉じて、そのなかに巧みに二つ三つ嬉しがらせを織りこんだ。リーポチカは嬉しさにぽっと顏を紅らめ、そこへパーヴェル・パーヴロヴィチが戻って來たのを捉まえて、アレクセイ・イヴァーノヴィチは本當に御親切なかたで、私どもの村に一と月ほど泊りにいらしてくださいとお招き申しあげたのをすぐ御承知くだすって、一週間したらお出かけになると約束してくだすったと、早速ご披露に及んだ。パーヴェル・パーヴロヴィチは途方に暮れたような微笑を洩らしたまま、うんともすうとも言わなかった。オリンピアーダ・セミョーノヴナは手應えのない夫の樣子に業を煮やして、さも輕蔑したように彼に向かって肩をすくめ、そのまま空を睨む眞似をした。
 やがて彼等は別かれることになった。またしても一しきり禮言がくり返され、またしても『護り神』がとびだし、またしても『ミーチェンカや』という聲が耳をかすめた。その擧句やっとのことで、パーヴェル・パーヴロヴィチは、細君と槍騎兵とを車室へ乘せに連れ去った。そこでヴェリチャーニノフは葉卷に火をうつし、停車場の前の歩廊を行きつ戻りつしはじめた。彼は、パーヴェル・パーヴロヴィチが走せ戻って來て、發車のベルの鳴るまで話しこむに相違ないことを、ちゃんと承知していた。果たして彼の期待は裏切られなかった。パーヴェル・パーヴロヴィチは待つ間ほどなく、眼一ぱいに否むしろ顏一ぱいに不安そうな物問いたげな色を浮かべながら、彼の前に姿をあらわした。ヴェリチャーニノフは笑い出しながら、『親しげに』相手の肘をとつて[#「とつて」はママ]手ぢかのベンチへ引っ張って行き、自分も腰をおろし、彼も隣り合って坐らせた。そのくせ自分は默っていた。彼はまずパーヴェル・パーヴロヴィチに口を切らせたかったのである。
「じゃあなたは私どものところへいらっしゃるんですか?」と、彼は見えもへったくれもなく露骨に本題へはいりながら、舌ったるい聲を出した。
「そうくるだろうと思ってましたぜ! あんたという人は相變らずですなあ!」とヴェリチャーニノフは噴きだした、「一體あんたは」と相手の肩をもう一度ぽんと叩いて、「本當にあんたは、私が實際にあなたがたのところへ泊りに行く、おまけに一と月も泊りに行くなんてことを、よしんば一瞬のあいだでも大まじめに考えたんですかい――はっ、はっ!」
 パーヴェル・パーヴロヴィチは總身をぶるぶると顫わした。
「じゃあなたは――いらっしゃらないんですね?」と彼は、喜びの色をまるだしにして頓狂な聲を上げた。
「行きゃしませんよ、行くもんですかね!」と、ヴェリチャーニノフは得意の笑聲を立てた。とはいえ彼は、なんで自分がこんなに笑いたいのか、われながら合點がいかなかった。しかしまた、時の進むにつれて彼はますますおかしくて堪らなくなった。
「本當ですか……本當ですか、あなたは本氣でそう仰しゃるんですか?」そう言ってしまうとパーヴェル・パーヴロヴィチは、相手の返事がさももどかしいといったりした樣子で、やにわに腰を浮かせた。
「今も言ったじゃありませんか、行かないってね。――あんたはなんておかしな人だろう!」
「弱ったなあ……もしそうだとすると、もう一週間して、あなたはいらっしゃらない、オリンピアーダ・セミョーノヴナは待っている、ということになったら、私は彼女あれになんと言ったもんでしょうなあ?」
「なんでもないじゃありませんか! 私が足を挫いたとかなんとか言って置きゃいいですよ。」
「本當にしちゃくれますまいよ」と、パーヴェル・パーヴロヴィチは情ない聲を長く引っぱった。
「そしてあんたが叱られるか?」ヴェリチャーニノフは相變らず笑いながら、「いやどうも、あんたも氣の毒な人だな、お見受けするところ、あんたはやっぱりあのきれいな奧さんの前で、ぶるぶる顫えておられるようだが――ええ?」
 パーヴェル・パーヴロヴィチは微笑しようとしたが、注文どおりに行かなかった。ヴェリチャーニノフがもともと來訪するつもりはなかったということ――それはもちろん有難かったが、その彼が女房のことをさも馴れ馴れしげに口にすることに至っては、すでに面白からぬことであった。パーヴェル・パーヴロヴィチはぷんとつむじを曲げてしまった。ヴェリチャーニノフはそれを見て取った。そのうちにもう第二のベルが鳴った。遙か彼方のほうで、車室はこの窓からパーヴェル・パーヴロヴィチを呼ぶ心配そうな金切聲が聞こえてきた。彼は坐ったままでそわそわしはじめたが、それでもまだ呼ぶ聲に應じて駈け出すでもなく、何かまだヴェリチャーニノフの言葉を待っていることは、その素振りにあらわれていた。――その言葉とは、言わずと知れた、彼が來ないという重ねての保證であった。
「奧さんの里の苗字はなんというんです?」と、パーヴェル・パーヴロヴィチのやきもきしている樣子なんぞ、まったく目にもとまらんといった調子で、ヴェリチャーニノフは問いかけた。
「うちの持村の僧院長のところからもらったんですよ」と、氣が氣でないといったふうに列車のほうをきょろきょろ見たり、細君の聲に耳を澄ましたりしながら、相手はそう答えた。
「ははあわかった、器量に惚れてもらったんですね。」
 パーヴェル・パーヴロヴィチはまたもやぷんとした。
「ところであのミーチェンカという人は、あなたがたの何なんです?」
「ああ、あれはね、私どもの、と言ってもつまり私のほうの、遠縁に當たる者なんです。今では亡くなっている私の從姉の忘れ形見でしてね、ゴループチコフという苗字なんですが、一度は品行不良の廉で一兵卒に貶されましてね、今また改めて士官に昇進したというわけなんです。……今度の任官についても、用意萬端すっかり私どもの手で調えてやりましたがね……。不仕合わせな青年でさ……」
『いや、なるほど、なるほど、じつによくできたもんだわい。よくもこう何から何まで道具だてが揃ったもんだなあ!』とヴェリチャーニノフは心に思った。
「パーヴェル・パーヴロヴィチ!」と、遠くの車窓から呼ぶ聲が再びきこえた。その聲はもう、いらだちを通り越して、今にも泣きだしそうな調子だった。
「パール・パールィチ!」と別の嗄れ聲も聞こえた。
 パーヴェル・パーヴロヴィチはまたもやそわそわと浮腰になったが、ヴェリチャーニノフはしっかとその肘を捉えて引とめた。
「どうですね、ひとつこれから奧さんところへ行って、あなたが私を斬り殺そうとした事の次第を話して見ましょうか、――え?」
「何を仰しゃる、飛んでもないこってす!」とパーヴェル・パーヴロヴィチは血相變えて仰天した、「それだけは勘辨してくださいよ。」
「パーヴェル・パーヴロヴィチ! パーヴェル・パーヴロヴィチ!」とまた向うでは聲を合わせて呼んだ。
「じゃ、もういらっしゃい!」と、相變らず、穩やかな笑いをつづけながら、ヴェリチャーニノフはとうとう手を放してやった。
「じゃあ、あなたは來ないんですね?」ほとんど決死の覺悟をきめたような面もちで、パーヴェル・パーヴロヴィチは最後にもう一度念を押すように囁き、それのみか大昔の型で、彼の前に兩の手を合掌して拜む眞似までした。
「ええ、誓いますよ、誓って行きませんよ! 駈けてらっしゃい、乘り遲れたらことですぜ!」
 そう言うと彼は、ぐいと勢よく相手に片手を差し伸べた、――差し伸べて、たちまちぎょっとした。パーヴェル・パーヴロヴィチはその手を取らなかったばかりか、却って自分の差し出していた手を引っこめた。
 第三のベルが鳴った。
 忽然として或る奇怪なことが二人のうえに生じた。二人ともまるで人間が變ってしまったもののようだった。つい今しがたまであれほど笑っていたヴェリチャーニノフの身うちで、何ものかが振動したかと思うと、途端にどっと堰を切って迸った。彼はぐいと狂暴な力を出して、パーヴェル・パーヴロヴィチの肩を引っつかんだ。
「もし私が、この私がこっちの手を出したとしたら」と彼は、太い切傷の痕がまざまざと殘っている左手の掌を示して、「あんたのほうじゃ平氣で握り返して來たに違いないんだ!」そう彼は、血の氣の失せた唇をわなわなと顫わせながら、相手の耳に囁きこむような聲で言った。
 パーヴェル・パーヴロヴィチも色を失った。彼もやはり唇を戰かせた。一種の痙攣がさっと彼の顏をかすめて過ぎた。
「だがあのリーザはどうです?」と彼は、※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)らぬ舌で早口に囁くように言い放った、――と突然、その唇も頬も下顎も何もかも一どきに顫えだし、兩眼からはどっとばかり涙が迸った。ヴェリチャーニノフはその前に化石したようにつっ立っていた。
「パーヴェル・パーヴロヴィチ! パーヴェル・パーヴロヴィチ!」と、まるで斬り殺されでもするような聲が車窓から叫んだ。――その途端に汽笛が鳴った。
 パーヴェル・パーヴロヴィチははっとわれに返って、兩手を打ち合わせると、一目散に駈け出して行った。汽車はもう動きだしていたが、彼はどうにかこうにか昇降口にしがみついて、自分の車室はこへぱっと身を飜えして跳びこんだ。ヴェリチャーニノフは停車場に居殘った。そして夕方まで待って次の列車に乘り繼ぎ、もとどおりの本線によってさらに旅をつづけるべく出發した。右へ分かれる支線、つまりあの田舍町にいる婦人のほうへは行かなかった。――その道をとるには、あまりにも白けた氣持になっていたのである。そしてそれを、あとになってどんなにか悔んだことだろう!





底本:「永遠の夫」岩波文庫、岩波書店
   1952(昭和27)年9月5日第1刷発行
   2006(平成18)年2月23日第7刷発行
※表題は底本では、「永遠のおっと」となっています。
※「奥」と「奧」、「蝋燭」と「臘燭」、「物凄い」と「物淒い」、「眞」と「真」、「騷」と「騒」、「パーヴェル・パーヴロヴィチ」と「パーヴエル・パーヴロヴィチ」の混在は、底本通りです。
入力:高柳典子
校正:Juki
2017年10月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「纏」の「广」に代えて「厂」    180-17、211-6


●図書カード