窓の前には広い
医学士は窓に立つて、畑を眺めてゐて、「あれを見るが好い」と思つた。早く、軽く、あちらへ飛んで行く鳥を見たのである。そして「飛んで行くな」と思つた。鳥を見る方が畑を見るより好きなのである。学士は青々とした遠い果で、鳥が段々小さくなつて消えてしまふのを、顔を
心好げに緑いろに萌えてゐる畑を見れば、心持がとうとう飽くまで哀れになつて来る。「これはいつまでもこんなでゐるのだ。古い古い昔からの事だ。
頭の中には、丁度濁水から泡が水面に浮き出て、はじけて、八方へ散らばつてしまふやうに、考へが出て来る。近頃になつてかういふことが度々ある。殊に「今日で己は六十五になる、もう死ぬるのに間もあるまい」と思つた、あの誕生日の頃から、こんなことのあるのが度々になつて来た。どうせいつかは死ぬる刹那が来るとは、昔から動悸をさせながら、思つてゐたのだが、十四日
学士は平生書物を気を附けては読まない流儀なのに、或る時或る書物の中で、ふいとかういふ事を見出した。自然の事物は多様多趣ではあるが、早いか
「へん。
学士は
「そいつはきつと出て来るに違ひない。人間の思想でさへ繰り返されるではないか。人間そのものも繰り返されるに違ひない。それに己の思想、己の苦痛はどうでも好いのだ。なぜといふに己以外の物体の幾百万かがそれを同じやうに考へたり、感じたりするからである。難有いしあはせだ。勝手にしやがれ。」
学士の心理的状態は一日一日と悪くなつた。夜になると、それが幻視錯覚になつて、とうとうしまひには
丁度昨晩も少しも寐られなかつた。そこで頭のなかは、重くろしい、煙のやうな、酒の
看病人が戸を開けて、覗いて見て、又戸を締めて行つた。
「浮世はかうしたものだ。先生、いろんな患者をいぢくり廻したあげくに、御自分が参つてしまつたのだな」と、看病人は思つたが、さう思つて見ると、自分も心持が悪いので、わざとさも愉快気な顔をして、看病人長の所へ告口をしに出掛けるのである。「先生、御自分が参つてしまつたやうですよ」などと云ふ積りである。
看病人の締めた戸がひどい音をさせた。学士は鼻目金越しに戸の方を見て、「なんだ、何事が出来たのだ」と、腹立たしげに問うた。戸は返事をしない。そこで頗る激した様子で、戸の所へ歩いて行つて、戸を開けて、廊下に出て、梯子を降りて、或る病室に這入つた。そこは昨晩新しく入院した患者のゐる所である。一体もつと早く見て遣らなくてはならないのだが、今まで打ち遣つて置いたのである。今行くのも義務心から行くのではない。自分の部屋に独りでゐるのがゐたたまらなくなつたからである。
患者は黄いろい病衣に、同じ色の患者用の鳥打帽を被つて、床の上に寝てゐて、矢張当り前の人間のやうに鼻をかんでゐた。入院患者は自分の持つて来た衣類を着てゐても好いことになつてゐるが、この患者は患者用の物に着換へたのである。学士は不確な足附きで、そつと這入つた。患者はその顔を面白げに、愛嬌好く眺めて、「今日は、あなたが医長さんですね」と云つた。
「今日は。己が医長だよ」と学士が云つた。
「初めてお目に掛かります。さあ、どうぞお掛け下さいまし。」
学士は椅子に腰を懸けて、何か考へる様子で、病室の飾りのない鼠壁を眺めて、それから患者の病衣を見て云つた。「好く寐られたかい。どうだね。」
「寐られましたとも。寐られない筈がございません。人間といふ奴は寐なくてはならないのでせう。わたくしなんぞはいつでも好く寐ますよ。」
学士は何か考へて見た。「ふん。でもゐどころが変ると寐られないこともある。それに昨晩は随分方々でどなつてゐたからな。」
「さうでしたか。わたくしにはちつとも聞えませんでした。
学士は機械的に答へた。「さうさ。時々はそんなこともあるだらう。」
患者は右の手の甲で鼻柱をこすつた。そして問うた。「先生、煙草を上がりますか。」
「飲まない。」
「それでは致し方がございません。実は若し紙巻を持つて入らつしやるなら、一本頂戴しようと思つたのです。」
「病室内では喫煙は禁じてあるのだ。言ひ聞かせてある筈だが。」
「さうでしたか。どうも忘れてなりません。まだ病院に慣れないものですから」と、患者は再び笑つた。
暫くは二人共黙つてゐた。
窓は随分細かい格子にしてある。それでも部屋へは一ぱいに日が差し込んでゐるので、外の病室のやうに陰気ではなくて、
「この病室は好い病室だ」と、学士は親切げに云つた。
「えゝ。好い部屋ですね。こんな所へ入れて貰はうとは思ひませんでしたよ。わたくしはこれまで癲狂院といふものへ這入つたことがないものですから、もつとひどい所だらうと思つてゐました。ひどいと云つては悪いかも知れません。兎に角丸で別な想像をしてゐたのですね。これなら愉快でさあ。どの位置かれるのだか知りませんが、ちよつとやそつとの間なら結構です。わたくしだつて長くゐたくはありませんからね。」かう云つて、患者は仰向いて、学士の目を覗くやうに見た。併し色の濃い青色の鼻目金を懸けてゐるので、目の表情が見えなかつた。患者は急いで言ひ足した。
「こんなことをお尋ねするのは、先生方はお嫌ひでせう。先生、申したいことがありますが好いでせうか。」急に元気の出たやうな様子で問うたのである。
「なんだい。面白いことなら聞かう」と、学士は機械的に云つた。
「わたくしは退院させて貰つたら、わたくしを掴まへてこんな所へ入れた、御親切千万な友達を尋ねて行つて、片つ端から骨を打ち折つて遣らうと思ひますよ」と、患者は愉快げに、しかも怒を帯びて云つて、
「なぜ」と学士は大儀さうに云つた。
「馬鹿ものだからです。べらばうな。なんだつて余計な人の事に手を出しやあがるのでせう。どうせわたくしはどこにゐたつて平気なのですが、どつちかと云へば、やつぱり外にゐる方が好いのですよ。」
「さう思ふかね」と学士は不精不精に云つた。
「つまりわたくしは何も悪い事を致したのではありませんからね」と、患者は少し遠慮げに云つた。
「さうかい」と学士は云つて、何か跡を言ひさうにした。
「悪い事なんぞをする筈がないのですからね」と、患者は相手の詞を遮るやうに云ひ足した。
「考へて御覧なさい。なぜわたくしが人に悪い事なんぞをしますでせう。手も当てる筈がないのです。食人人種ではあるまいし。ヨハン・レエマン先生ではあるまいし。当り前の人間でさあ。先生にだつて分かるでせう。わたくし位に教育を受けてゐると、殺人とか、盗賊とかいふやうなことは思つたばかりで胸が悪くなりまさあ。」
「併しお前は病気だからな。」
患者は体をあちこちもぢもぢさせて、
「どうもお前は健康だとは云はれないて」と、学士は用心して、しかもきつぱりと云つた。
「なぜ健康でないのです」と、患者は詞短かに云つた。「どこも痛くも苦しくもありませんし、気分は人並より好いのですし、殊にこの頃になつてからさうなのですからね。ははは。先生。丁度わたくしが一件を発明すると、みんなでわたくしを掴まへて病院に押し込んだのですよ。途方もない事でさあ。」
「それは面白い」と、学士は云つて、眉を額の高い所へ吊るし上げた。その尖つた顔がどこやら注意して何事をか知らうとしてゐる犬の顔のやうであつた。
「
「今すぐにお話し申しますよ」と患者は云つて、
「お前の顔には笑ふのは似合はないな」と、学士はなぜだか云つた。
「えゝえゝ」と、元気好く患者は云つた。「それはわたくしも承知してゐますよ。これまでにもわたくしにさう云つて注意してくれた人がございました。わたくしだつて笑つてゐたくはないのです。」かう云ひながら、患者は又笑つた。その笑声はひからびて、木のやうであつた。「その癖わたくしは笑ひますよ。度々笑ひますよ。待てよ。こんな事をお話しする筈ではなかつたつけ。実はわたくしは思量する事の出来る人間と生れてから、始終死といふことに就いて考へてゐるのでございます。」
「ははあ」と、学士は声を出して云つて、鼻目金を外した。その時学士の大きい目が
暫くして、「先生、あなたには目金は似合ひませんぜ」と云つた。
「そんな事はどうでも好い。お前は死の事を考へたのだな。沢山考へたかい。それは面白い」と、学士は云つた。
「えゝ。勿論わたくしの考へた事を一から十まであなたにお話しすることは出来ません。又わたくしの感じた事となると、それが一層困難です。兎に角余り愉快ではございませんでした。時々は夜になつてから、子供のやうにこはがつて泣いたものです。自分が死んだら、どんなだらう、腐つたら、とうとう消滅してしまつたら、どんなだらうと、想像に画き出して見たのですね。なぜさうならなくてはならないといふことを理解するのは、非常に困難です。併しさうならなくてはならないのでございますね。」
学士は長い髯を手の平で丸めて黙つてゐる。
「併しそんな事はまだなんでもございません。それは実際胸の悪い、悲しい、いやな事には相違ございませんが、まだなんでもないのです。一番いやなのは、外のものが皆生きてゐるのに、わたくしが死ぬるといふことですね。わたくしが死んで、わたくしの遣つた事も無くなつてしまふのです。格別な事を遣つてもゐませんが兎に角それが無くなります。譬へばわたくしがひどく苦労をしたのですね。そしてわたくしが正直にすると、非常な悪事を働くとの別は、ひどく重大な事件だと
「面白い」と、学士はつぶやいた。
「その文句はかうです。自然は一定の法則に
「それはさうだ」と、学士は悲しげに云つたが、すぐに考へ直した様子で、又鼻目金を懸けて、厳格な調子で言ひ足した。「だからどうだと云ふのだ。」
患者は笑つた。頗る不服らしい様子で、長い間笑つてゐた。そして笑ひ
「うん。分かる」と、学士はやうやう答へた。
「お互にこゝにかうしてゐて、死の事なんぞを考へて煩悶します。目の前の自然なんぞはどうでも好いのです。我々が死ぬるには、なんの後悔もなく、平気で死ぬるのです。そして跡にはなんにも残りません。簡単極まつてゐます。併し我々の苦痛は永遠です。さう云つて悪ければ、少くもその苦痛の理想は永遠です。いつの昔だか知らないが、サロモ第一世といふものが生きてゐて、それが死を思つてひどく煩悶しました。又いつの未来だか知らないが、サロモ第二世といふものが生れて来て、同じ事を思つて、ひどく煩悶するでせう。わたくしが初めて非常な愉快を感じて、或る少女に接吻しますね。そしてわたくしの顔に早くも永遠なる髑髏の微笑が
「ふん。」
「そこでこの下等な
患者は病院ぢゆうに響き渡るやうな口笛を吹いた。学士はたしなめるやうに、しかも器械的に云つた。「それ見るが好い。お前の当り前でないことは。」
「当り前でないですつて。気違ひだといふのですか。それはまだ疑問ですね。へえ。まだ大いに疑問ですね。無論わたくしは少し激昂しました。
この時学士は自分が好い年をして、真面目な身分になつてゐて、折々突然激怒して、頭を壁にぶつ附けたり、枕に噛み附いたり、髪の毛をむしり取らうとしたりすることのあるのを思ひ出した。
「それがなんになるものか」と、学士は顔を
患者は暫く黙つてゐて、かう云ひ出した。「無論です。併し誰だつて苦しければどなります。どなると、胸が
「さうかい。」
「さうです。」
「ふん。そんならどなるが好い。」
「自分で自分を恥ぢることはありません。評判の意志の自由といふ奴を利用して、大いに助けてくれをどなるのですね。さう遣つ附ければ、少くも羊と同じやうに大人しく屠所に引かれて行くよりは増しぢやあありませんか。少くも誰でもそんな時の用心に持つてゐる、おめでたい虚偽なんぞを出すよりは増しぢやあありませんか。一体不思議ですね。人間といふ奴は本来奴隷です。然るに自然は実際永遠です。事実に構はずに、理想を

「そこでどうだといふのだ」と、学士は悲しげに云つて、寒くなつたとでもいふ様子で、手をこすつた。
「そこでわたくしは自然といふ奴を、死よりももつとひどく憎むやうになつたのですね。夜昼なしにかう考へてゐたのです。いつか
学士は驚いて患者の顔を見てゐる。そして丸で無意味に、「
「わたくしなんざあ湊合なんといふものは屁とも思ひません。口笛を吹いて遣ります」と、患者は憤然としてどなつた。この叫声が余り大きかつたので、二人共暫く黙つてゐた。
患者は何か物思ひに沈んでゐるといふやうな調子で、小声で言ひ出した。「先生、どうでせう。今誰かがあなたに向つて、この我々の地球が死んでしまふといふことを証明してお聞かせ申したらどうでせう。あいつに食つ附いてゐるうざうもざうと一しよに、遠い未来の事ではない、たつた三百年先きで死んでしまふのですね。死に切つてしまふのですね。
学士はまだ患者がなんと思つて
「それは奴隷根性が骨身に沁みてゐて、馬鹿な家来が自分の利害と、自分を
「無論だ。分かる」と、少し立つてから学士は云つた。そして一息に歌をうたひ出した。
「冢穴 の入口にて
若き命を遊ばしめよ。
さて冷淡なる自然に
自ら永遠なる美を感ぜしめよ。」
患者は忽然立ち留まつて、黙つて、ぼんやりした目附をして、聞いてゐて、さて大声で笑ひ出した。「ひひひひひひ。」鶉の啼声のやうである。「そんなものがあるものですか。あるものですか。永遠なる美なんといふのは無意味です。お聞きなさい。先生。わたくしは土木が商売です。併し道楽に永い間天文を遣りました。生涯掛かつて準備をした若き命を遊ばしめよ。
さて冷淡なる自然に
自ら永遠なる美を感ぜしめよ。」
この時日が向ひの家の
「それ、御承知の理論があるでせう。太陽の斑点が殖えて行つて、四億年の後に太陽が消えてしまふといふのでせう。あの計算に誤算のあるのを発見したのですね。四億年だなんて。先生、あなたは四億年といふ年数を想像することが出来ますか。」
「出来ない」といつて、学士は立ち上がつた。
「わたくしにも出来ませんや」といつて、患者は笑つた。「誰だつてそんなものは想像することが出来やあしません。四億年といふのは永遠です。それよりは単に永遠といつた方が好いのです。その方が概括的で、はつきりするのです。四億年だといふ以上は、万物は永遠です。冷淡なる自然と、永遠なる美ですな。四億年なんて滑稽極まつてゐます。ところで、わたくしがそれが四億年でないといふことを発見したですな。」
「なぜ四億年でないといふのだ」と、学士は殆ど叫ぶやうに云つた。
「学者先生達が太陽の冷却して行く時間を計算したのですな。その式は単純なものです。ところで、金属にしろ、その他の物体にしろ、冷却に入る最初の刹那までしか、灼熱の状態を維持してはゐないですね。それは互に温め合ふからですね。そこであのてらてら光つてゐる、太陽のしやあつく面に暗い斑点が一つ出来るといふと、その時に均衡が破れる。斑点は一般に温度を維持しないで、却て寒冷を放散する。あの可哀い寒冷ですね。寒冷を放散して広がる。広がれば広がる程、寒冷を放散する。それが逆比例をなして行く。そこで八方から暗い斑点に囲まれてゐると云はうか、実は一個の偉大なる斑点に囲まれてゐる太陽の面が四分の一残つてゐるとお思ひなさい。さうなればもう一年、事に依つたら二年で消えてしまひますね。そこでわたくしは試験を始めたのです。化学上太陽と同じ質の合金を拵へました。先生。そこで何を見出したとお思ひですか。」
「そこで」と、学士は問うた。
「地球が冷えるですな。冷えた日には美どころの騒ぎぢやあありますまい。それはすぐではありません。無論すぐではありません。併し五六千年立つといふと。」
「どうなる」と、学士は叫んだ。
「たかが五六千年立つと、冷え切ります。」
学士は黙つてゐる。
「それが分かつたもんですから、わたくしはそれをみんなに話して、笑つたのですよ。」
「笑つたのだと」と、学士は問うた。
「えゝ。愉快がつたのです。」
「愉快がつたのだと。」
「非常に喜んだのです。一体。」
「ひひひ」と、学士が忽然笑ひ出した。
患者はなんとも判断し兼ねて、黙つてゐる。併し学士はもう患者なんぞは目中に置いてゐない。笑つて笑つて、息が絶え絶えになつてゐる。そこで腰を懸けて、唾を吐いて、鼻を鳴らした。鼻目金が落ちた。黒い服の裾が熱病病みの騒ぎ出した時のやうに閃いてゐる。顔はゴム人形の悪魔が死に掛かつたやうに、皺だらけになつてゐる。
「五千年でかい。ひひひ。こいつは好い。こいつは結構だ。ひひひ。」
患者は学士を見てゐたが、とうとう自分も笑ひ出した。初めは小声で、段々大声になつて笑つてゐる。
そんな風で二人は向き合つて、嬉しいやうな、意地の悪いやうな笑声を立てゝゐる。そこへ人が来て、二人に