支那人の文弱と保守

桑原隲蔵




         緒論

 個人に就いて觀察しても、一人一人にその個性がある樣に、國民なり民族なりにも、それぞれ特有の氣質性癖をもつて居る。それを國民性又は民族性と申すのである。一つの國民なり民族なりの間には、隨分種々なる人間があつて、何等統一する所がない樣であるが、他の國民や民族と比較すると、自然に國民毎に、民族毎に、各自の特質をもつて居る。
 支那人にも無論その民族性がある。支那人の尤も顯著なる民族性は、文弱的であること、保守的であることである。支那人が概して文弱・保守であるといふことは、廣く世間に知れ渡つて居つて、決して耳新しい事ではない。併し歴史上の事實と照らし合せて見ると、この支那民族の特質が一層明瞭になる。故に我が輩はこの論文に於て、主として歴史上の事實を基礎として、支那民族の文弱で保守であることを證明せようと思ふ。

         一 支那人の文弱(上)

 支那人が平和的文弱的である原因は種々あらうが、その主要なるものを擧げると、次の如くであらうと想ふ。
 (一)[#「(一)」は縦中横]支那人の先天的性質がむしろ文弱的である。
 (二)[#「(二)」は縦中横]支那人の間に行はれた古來の學説は、一般に平和思想を鼓吹した。先づ儒教を觀ると、その祖師たる孔子は、弟子の子貢に治國の要件を尋ねられた時、足食、足兵、民信之の三箇條を擧げて居る。即ち一國に財政と軍備と、上下の信用が必要であると答へた。子貢は更にこの三者の中で、已むを得ざる事情の爲、その一を去るべき必要ある時は、先づ何れを去るべきかと尋ねたら、孔子は先づ軍備を去ると答へた。子貢が最後に財政と信用との二者の中で、是非その一を去らざるべからざる場合には、如何すべきかと尋ねた時、孔子は財政を去ると答へて居る。要するに孔子の考へでは、立國の要素は信用に在る。上下相信ぜぬ國は亡國である。故に信用が第一で、次が財政、軍備は更にその次に來るべきものである。この孔子の意見は、萬古に亙れる眞理であつて、決して軍備を輕視したものでない。孔子自身は有文事者、必有武備と申して居る位で、文弱一點張りの人ではない。併し孟子などは、仁者無敵主義を鼓吹する餘り、仁義だに行はば、軍備は論ずるに足らぬかの如き口氣を漏らし、可使梃以撻秦楚之堅甲利兵矣などと、武器無用に近き意見を述べて居る。兔に角後世の儒者は、多く軍備を輕視する傾向をもつて居ることは、爭ふべからざる事實である。
 併し儒教はむしろ弊の少き方である。孔子と前後して出た老子の如き、墨子の如き、何れも極端な平和主義を説いて居る。不爭を主張する老子、兼愛(博愛)を主張する墨子は、軍備を無用とし、戰爭を排斥するのは當然のことである。かかる學説の影響を受けた支那人の間には、自然戰爭を厭忌する氣風が増進したに相違ない。
 (三)[#「(三)」は縦中横]先天的に利害打算の念慮の發達した支那人は、小にしては爭鬪、大にしては戰爭、何れも危險の割合に、利益が伴はぬことを夙に承知して、成るべく戰爭や鬪爭をせぬ慣習を養成した。實際支那の塞外の北狄などは、たとひ之を撃破した所が、得る所失ふ所に及ばず、功は勞を償はぬ憾がある。多少の歳幣を贈つて、始めから彼等と戰爭せぬが利益である。支那歴代の政策は、利禄を以て北狄を懷柔して、北邊を侵擾せしめぬ樣に力めて居る。〔往古の支那人は、必しも後世の如く、しかく怯懦ではなかつた。故に漢時代には、胡兵五而當漢兵一とさへ稱せられた。事實『史記』や『漢書』『後漢書』をみると、荊軻とか聶政とか、傅介子とか段會宗とか、陳湯とか班超とか、快男子が中々多い。所が歴代の誤つた打算主義・妥協主義の積弊が、代一代と支那人の氣骨を銷磨[#「銷磨」は底本では「鎖磨」]させ、遂に今日の如き怯懦至極な支那人を作り上げたものと想ふ。〕
 支那人が文弱である原因は兔に角、支那人は個人としても腕力沙汰は甚だ稀で、團體としても戰爭は好まぬ。支那人の所謂喧嘩は喧嘩口論である。この意味での喧嘩ならば、支那人は世界有數の喧嘩好きかも知れぬ。支那の學堂や官衙など、人の群集する場所には、必ず禁止喧嘩と掲示してある。實際支那人は口喧しいが、決して手出しはせぬ。吾が輩の支那留學中、殊に北支那留學中には、殆ど支那人の掴み合を見たことがない。非常な權幕で口論する場合でも、手出しはせぬ。稀に掴み合を始めても、我々日本人から見ると、極めて悠長なもので、傍で見て居ても齒癢さに堪へぬ程である。
 掴み合すらせぬ支那人が、戰爭で血を流すことを好まぬのは當然である。支那の武といふ字は、止戈の二字から成立した會意文字である。故に武とは武器(戈)を用ふるのではなく、武器を用ゐぬことである。亂暴者が凶器を振り舞はすのを差抑へるのが、武の本意である。『左傳』に武の意義を解釋して、武禁※(「(楫−木)+戈」、第3水準1-84-66)ヲサム兵とあるのがそれである。『易』に神武不殺と申して居る。武の神髓は不殺に在る。みだりに人を殺害する者は武とはいへぬ。
 支那では唐時代から武廟といふものが出來た。之は孔子の文廟に對して、周の太公望といふ軍師を本尊として、軍の神と崇めたもので、歴代の名將をもここに從祀してある。所が北宋の太祖が曾て武廟に詣り、そこに從祀してあつた秦の白起を指して、この人は降卒數十萬を坑殺した。不武の甚しきもの、武廟に列すべき資格がないとて之を排斥した。さきの神武不殺といふ句と對照すると、武の本意がよく發明される筈と思ふ。
 春秋五霸の一人にも數へられる宋の襄公は、楚と泓といふ河の邊で戰をしたことがある。宋の軍勢は敵軍の河を濟る最中を攻撃せんとした時、襄公は君子は人の困厄に乘ず可らずとて之を許さぬ。やがて敵軍が河を濟り終り、未だ陣を布かざるに乘じて、宋軍が攻撃を開始せんとした時、襄公は復た禮に背けりとて之を許さぬ。敵の用意整へるを待つて、堂々と戰を開いたが、却つて宋軍敗亡いたし、襄公自身も痛手を負ひ、遂に之が爲に落命したことがある。いはゆる宋襄之仁とて、後世の物笑の一となつて居るが、併し『公羊傳』を見ると、當時の世評は非常に襄公を褒めて、たとひ戰爭に負けても禮儀を忘れぬ所が君子である。雖文王之戰、亦不此也と申して居る。
 支那の文學を見渡しても、尚武的のものは甚だ稀で、その反對に兵役の厭ふべきこと、征戰の苦しきことを詠じたものが頗る多い。既に『詩經』を見てもこの憾はあるが、後世の詩文となると、一層この傾向が目に附く。東漢の陳琳の飮馬長城窟行に、
兒愼莫擧、生女哺用脯。君獨不見長城下。死人骸骨相※(「てへん+掌」、第4水準2-13-47)※(「てへん+主」、第3水準1-84-73)
とあるのは、唐の杜甫の兵車行に、
信知生男惡。反是生女好。生女猶得比鄰。生男埋沒隨百草
とあると同樣、男子は兵役に就かねばならぬから、出生せぬ方が、若くば成長させぬ方が望ましい。女子にはかかる苦勞がないから、男子を生むよりは、むしろ女子を生む方が、利益であると云ふ思想を、露骨に述べたものである。その兵車行に出征の士卒の一族が別を惜しむ有樣を敍して、
耶孃妻子走相送。塵埃不見咸陽橋。ヒキ衣頓※(「てへん+闌」、第4水準2-13-61)道哭。哭聲直上干雲霄
とあるが、衣を牽き袖に縋つて哭泣するなど、隨分女々しきことではないか。唐の王翰の涼州詞に、
醉臥沙場君莫笑。古來征戰幾人囘。
の句がある。洒脱の樣にも見えるが、出征軍人の心得としては、不都合千萬と申さねばならぬ。唐の李白の戰城南も、唐の李華の弔古戰場文も、何れも戰爭を詛うたものである。
 その尤も極端なものは、唐の白居易(白樂天)の新豐折臂翁といふ新樂府である。この樂府は當時の都の長安附近の新豐といふ土地に住居する、右臂の折れた老翁の一生を歌つたもので、この翁が二十四歳の時、雲南征伐に徴發されたが、出征が厭はしき儘、夜中われと我が手で、その右臂をたたき折り、生れも付かぬ不具者となり、遂に兵役を免除されて故郷に歸り、八十八歳の今日まで長命して居る。折つた臂は時々に痛を起して、徹霄眠られぬ程の苦痛はあるが、六十餘年前に雲南地方へ出征した人は、皆異域の鬼となつて、一人も故郷の土を踏んだものはない。之に比して折臂の翁の一生が、遙に幸福であると述べて居る。
臂折來來六十年。(中略)至今風雨陰寒夜。直到天明痛不眠。痛不眠。終不悔。且喜老身今獨在。不然當時瀘水ホトリ。身死魂孤骨不收。應雲南望郷鬼
いかに邊功を戒むる目的で作つた樂府とはいへ、隨分手嚴しいものではないか。〔されど白居易のこの記事は、決して一片の空想でなく、率直なる事實である。隋末から唐時代にかけて、當時の青年が、吾とわが手や足を折傷して、之を福手・福足と稱して、兵役に就くことを避けた事實が、信憑すべき歴史に明記されて居る。〕
 かかる國柄であるから、支那では古から軍人となることを不面目として、兵役に就くのを非常に嫌忌する。一例を示すと、唐時代には、文官の方の進士の科には志望者が多いが、軍人の方の武擧には殆ど志望者がない。當時軍人の位置は極めて低い。一家の中で軍人となる者があると、その父兄等は之を非人扱にした。唐代の兵制は我が國のそれと同樣で、地方から京師の守護に番上するのであるが、これを衞士とも侍官ともいふ。當時相罵る時には侍官と稱した。日本なら差當り賤民とか隱亡とかいふ格である。軍人の位置の低いこと、殆ど想像以上といはねばならぬ。
 軍人の位置の低いのは、決して唐時代に限つた譯ではなく、支那歴代を通じての現象である。支那の諺に好鐵不釘、好人不兵といふことがある。他に使途のない人間が兵役に就くべく、滿足の人間は決して軍隊に入るべきものでないといふ意味である。また鐵到了釘、人到了兵といふ諺もある。人間社會の最下底に零落する意味である。支那では兵卒と乞食とは、略同樣に認められて居る。我が國の、花は櫻木、人は武士といふに對照すると、その間に自然國民性の相違も察せられるかと思ふ。
 兵役がしかく卑下せられる支那人の間に、餘り勇將の現はれ來る筈がない。支那の歴史を觀ると、軍人の中に隨分英雄豪傑が多い樣であるが、實際はいかがであらうか。日本の軍人の標準に當て篏めると、多大の割引せなければならぬ樣に思はれる。その一例としてここに唐の李勣と我が蒲生氏郷とを比較して見たい。
 唐の太宗は貞觀十九年(西暦六四五)に高麗征伐に着手して、水陸兩道から高麗を攻めた。その時の總大將は有名な李勣で、太宗自身も遼東に出掛けて、軍事を監督するといふ、中々大仕掛の征伐をやつた。やがて唐軍は遼東の諸城を陷れて、愈※(二の字点、1-2-22)高麗の都城の平壤に押寄せるといふことになつた。所がその途中に安市城がある。この城は今の奉天省の蓋平縣の東北に在つて、中々要害堅固に構へてある。そこで太宗は李勣に向ひ、安市城は地險にして兵強く、殊に城主は智略凡ならずと聞く。この城こそ孫子の兵法に謂ふ所の、城有攻といふものに當る。この城には押への兵を置き、直に前進して根本の平壤を擣かんと申されたが、李勣は之に反對して、安市城をその儘にしては、軍威を損すること夥しい。この要害な安市城を攻め落せば、他は戰はずして風靡せんとて、是非安市城攻撃を主張したから、太宗は不安心ながらも、總大將の面目を立てる爲、
公(李勣)爲將。安得公策。勿吾事
とて強いては爭はずに、李勣の意見に從つた。かくて安市城攻撃の全責任は、李勣の雙肩に懸つた。李勣は士卒を悉くして、安市城を攻め立てたけれど、三ヶ月に及んで城は拔けぬ。その中に雪は降り出す、糧は乏しくなる。唐軍は散々の體で本國に引き揚げた。
 唐の太宗といへば、三代以後の明君である。その赫々たる武功に汚點を印したのは、安市城の失敗である。この失敗の責任は、さきに太宗に反對して、安市城攻めを主張した李勣に歸せなければならぬ。李勣にして言責職責の何物たるかを知つたなら、是非安市城を攻め落さなければならぬ筈である。到底攻め落すことが出來ずば、自から責を引いて處決する位の覺悟があつて欲しい。然るに李勣は吾不關焉を極めこんで、長い一生を送つたのは、支那第一流の名將と仰がれる李勣の所作としては、甚だ感心出來ぬと思ふ。
 我が豐臣秀吉が天正十五年(西暦一五八七)に、九州征伐に着手した時、略これと同樣の事件が起つた。豐前の秋月種實の兵は、島津の後援を得て、巖石城に立籠つた。巖石城は音に聞えた險阻である。城將熊谷越中も一廉の武將であるから、秀吉は蒲生氏郷を巖石城の押へとして、本軍を前進せしめようと計畫した。氏郷は之を無念に思ひ、是非巖石城の攻撃をと願ひ出たが、秀吉は容易に許さぬ。強願再三に及んで、秀吉も終に氏郷の請を許した。そこで氏郷はこの城を得攻落さねば、切腹と覺悟を定め、必死の勢で攻め立て、僅に一日の中に、さしもの巖石城を陷落さした。この軍威に風靡して、間もなく九州平定の功を收むることが出來た。
 安市城と巖石城とは、必ずしも同樣に行かぬかも知れぬ。併し李勣が氏郷と同一の覺悟をもつて居つたら、今少し何とか良き結果を收め得られたに相違ない。武將としての氏郷の聲望は、遙に李勣の下に在らうが、自分の責任を重ずるといふ點では、萬々李勣に優つて居る。
 責任の自覺、自覺に對する決心、之が我が武士道の神髓である。支那の軍人はここに缺陷がある。支那の梁啓超は曾てその『飮氷室文集』の中に、日本人には日本魂がある。即ち武士道である。然るに支那人には中國魂が見當らぬ。日本と支那との強弱の岐るる原因はここに在る。故に支那今日の最大急務は、日本人の日本魂に劣らぬ中國魂を製造するに在りと主張したことがある。中國魂はしかく容易に製造し得るであらうか。西洋人の中には、支那にも日本に於けるメッケル、トルコに於けるゴルツの如きものあらば、有力な軍隊が組織されると信じて居る者が多い。メッケルやゴルツでも、支那人に中國魂を與へることは容易であるまい。梁啓超の所謂中國魂の成否が、支那の今後の運命の岐かるる所であらう。

         二 支那人の文弱(下)

 兵役を苦にし、戰爭を厭ふ支那人は、概して外國に對して侵略を行はぬ。支那人は古代から華夏と誇稱して、四圍の異族を東夷・西戎・南蠻・北狄などと排斥して居るけれど、特別の場合の外は、決して之に兵力を加へぬ。輝徳不兵とか、遠人不服修文徳以來之とかいふのが、支那人の蠻夷に對する大方針である。勿論この方針は理想で、實際に施しての効果は頗る疑はしい。
 支那の北邊に居る塞外種族は、殺戮を以て耕作となし、掠奪を以て本業とする蠻民である。如何に支那人が平和に眷戀しても、彼等は容赦なく侵略を加へる。殷時代の※(「けものへん+熏」、第4水準2-80-53)鬻、周の※(「けものへん+僉」、第4水準2-80-49)※(「けものへん+允」、第4水準2-80-30)、秦漢時代の匈奴、隋唐の突厥・囘※(「糸+乞」、第3水準1-89-89)、宋の契丹・女眞・蒙古の如き、皆それである。併し支那人は決して此等の北狄に對して、兵力を以て對抗せぬ。時には以夷制夷の策を採ることもあるが、多くの場合、金帛を贈つてその歡心を買ひ、彼等の侵入劫掠を緩和するのが、歴代慣行の政策であつた。明治四十四年の秋、支那人(漢人)が革命を起して、滿人(清朝)より獨立した時の檄文に、
漢人實耕。滿奴食之。漢人實織。滿人衣之。
と憤慨の辭を連ねてあるが、この事實は決して清朝時代に限つた譯でない。支那は往古から、北狄の寶藏金庫たるべき運命をもつて居る。南北朝の末に出た突厥の他鉢可汗は、
但使我在南兩兒(北齊と北周)常孝。何憂於貧
というて居る。北狄の君主は、何時もこの他鉢可汗の心を心として、支那を脅迫して榮華を盡したのである。支那にも稀には秦の始皇帝や、漢の孝武帝の如き、豪傑の君主が出て、北狄征伐をやつたこともあるが、兵を窮め、武を涜す者として、支那國民間の評判は決して宜しくない。功を異域に建てた軍人なども、餘り國内では歡迎されぬ。
 西漢時代に西域の副校尉に陳湯といふ豪傑があつて、當時漢の大累をなした匈奴の※(「至+おおざと」、第3水準1-92-67)支單于を襲ひ殺して、稀有の大功を建てたことがある。所が當時の丞相の匡衡といふ儒者は、制を矯めて――當時陳湯は遠く西域に在り、至急を要することとて、天子の許可を待つに由なかつたのであるが――兵を動かした者に賞を加へては、從來これに倣つて、事を塞外に起すもの續出すべしとて、痛くその功を抑へた。豪傑の陳湯は他の事情もあつたが、かかる大功を建てたに拘らず、その晩年は實に憐むべき悲境に陷つた。
 また唐の玄宗時代に、大武軍の牙將に※(「赤+おおざと」、第3水準1-92-70)靈筌といふ者があつて、當時塞北に跋扈して、屡※(二の字点、1-2-22)唐を侵略した突厥の可汗の默啜の首を獲て、之を朝廷に獻じたことがある。この時にも宰相の宋※(「王へん+景」、第3水準1-88-27)といふ者が、※(「赤+おおざと」、第3水準1-92-70)靈筌に厚賞を加へると、年少氣英の天子に邊功を獎める結果を生ずべしとて、彼の功を抑へたから、※(「赤+おおざと」、第3水準1-92-70)靈筌は不平と失望との爲に、遂に慟哭吐血して死んだと傳へられて居る。
 支那人が文弱で怯懦であることは、古き時代から諸外國人の間に知れ渡つて居る。元時代に支那に十數年間滯在したイタリーのマルコ・ポーロは、
蠻子マンジ(南支那人)が若し侵略的種族であつたら、彼等は優に全世界を征服し得るほどの多人數である。されど讀者は杞憂することを要せぬ。此等の蠻子は何れも缺點なき商人、又は怜悧なる職工たるに適するのみで、兵士たるべき資格は全然具備して居らぬ。
と申して〔居り、また清初に支那に布教したスペインのナヴァレットも、
支那人は學問を修め、商業を營み、美術骨董品を作るには適當であるが、戰爭をなし得る柄でない。
と述べて〕居る。
 この點から考へると、日清戰役前後から始まり出し、日露戰役によつて一層流行し、今日猶ほ世界の一大問題となつて居る所謂黄禍論――黄人種が行く行く白人種を壓倒すべしといふ議論――は、頗るその根據を失ふ譯である。勿論黄禍論は可なり複雜であるが、若し黄禍論を戰爭の方面のみに限り、また黄禍の主人公を支那人のみに限つて考へるならば、確に荒誕不稽の論と斷言し得るのである。成る程過去千五百年の間に、アジア人が歐州に侵入して、隨分白人を壓迫した事實はある。西暦五世紀には匈奴の侵入があつた。十三世紀には蒙古の侵入があつた。十五世紀からはトルコの侵略も始まつた。併し此等の殺伐な塞外種族と、文弱なる支那人とを同一視するのは、確に間違であらうと思ふ。
 〔近く百年間の歴史を見渡すと、支那は隨分諸外國相手に交戰して居る。若し義和團の亂に關する北清事件を加へると、殆ど世界の列強のすべてと交戰して居る。されど此等の交戰は、多くの場合、支那にとつて不本意の交戰であつた。支那人の立場から觀ると、これらの戰爭は諸外國から押賣されたものである。去る明治四十年にオランダで開かれた第二囘萬國平和會議で、戰鬪開始の時期が問題となり、或は通告を要すといひ、或は通告を要せずといひ、彼此議論を鬪はした時、列席の支那委員は、戰鬪開始に先だつて通告するのはよいが、相手がその通告に應ぜざる場合は如何にすべきか。我が支那の如きは、何等戰鬪の意思なきに、屡※(二の字点、1-2-22)諸外國から戰鬪を押賣された。今後も他國から戰鬪開始の通告を受けても、我が國では容易に之に應ぜぬ積りであるから、この場合の規定が必要であると申出たが、滿場から笑殺されて仕舞つたといふ。笑殺されても、支那委員の言ふ所は先づ事實である。澤山な戰爭をしても、支那人は決して好戰でなく、又文弱でないともいへぬ。
 支那人の文弱は一概に輕侮すべきでない。無暗な好戰より文弱の方が、世界の平和の爲にも喜ばしい。されど現在は民族競爭の時代である。武裝の時代である。この時代に、然も時代の犧牲となつて、尤も痛切に列強の壓迫を受けて居る彼等支那人が、依然文弱の氣風を改めぬならば、彼等の前途の爲に痛心に堪へぬ。殊に其の文弱が高遠なる理想に本づくのでなく、目前の怯懦を藏する爲めの文弱の如きは、支那の將來に對して大なる禍根と思ふ。〕

         三 支那人の保守(上)

 支那人は文弱的であると同時に、保守的である。支那人がしかく保守的であるのは、種々の原因があることと思ふ。
 (一)[#「(一)」は縦中横]支那人の先天的性質が保守的である。
 (二)[#「(二)」は縦中横]上古から支那人の文明が、その四隣の異族の間に卓越して居つた。故に支那人は古から自國の文明を自負し、之を唯一絶對のものの如く妄信して、その維持保存に力を用ゐた。この慣習が第二の天性となつたのである。
 (三)[#「(三)」は縦中横]支那人の間に久しく偉大なる勢力を有して居つた儒教そのものが、保守尚古的である。孔子も述而不作、信而好古というて居る。彼は要するに先王の祖述者で、古代の謳歌者である。尤も孔子は温故而知新、可以爲師矣というて、古を好むと同時に、現在に對する用意を忽にせぬから、保守主義一方の人ではないが、併しその末學になると、多く保守思想に囚はれて居ることは、爭はれぬ事實である。孟子の如きは、
先王之法アヤマツ者、未之有也。(中略)故曰爲高必因丘陵。爲下必因川澤。爲政不先王之道。可智乎。
というて居る。兔に角『孟子』七篇の中には、保守尚古の氣分が充滿して居る。
 儒教のみでなく、支那に起つた諸學説は、概して保守主義に傾いて居る。莊子が當時の學者を評して、尊古而卑今、學者之流也と申して居る位であるから、儒者のみが保守的と非難する譯ではないが、儒教が尤も勢力を有しただけ、殊に漢以後は儒教が國教ともいふべき位置に立つただけ、支那人の間に及ぼした感化影響の大なることは否定出來ぬ。
 併し我が輩はここでその原因を研究するのが目的でない。支那人が保守的である事實と、その影響を述べるのが主意である。
 西晉の武帝の時代に、今より約千六百年前に、有名な杜預といふ人があつた。當時の都は洛陽で黄河に近い。河北から洛陽に往來するには、必ず孟津の渡で黄河を横切らねばならぬ。所が黄河の流急にして、往々渡船が轉覆して、諸民が難澁した。そこで杜預は、黄河に舟橋を架して、この憂を除かんことを獻議した。武帝はこの杜預の申出に對して、群臣の意見を徴したが、何れも古代の聖人すら、黄河に舟橋を架せなんだといふ事實を楯にして、
殷周所都。歴聖賢而不作者。必不立故也。
とて反對した。併し杜預は群臣の反對にも拘らず、殷・周の聖賢すら着手せなかつた、黄河の舟橋を見事成功して、叡感に預かつたことがある。
 それより四百年程以前に、西漢の孝武帝の時代に、匈奴征伐に苦心したことがあるが、その時齊人の延年といふ者が上奏して、黄河の流を北に移し、匈奴と中國との國境を經て、東海に注がしめたならば、一は以て中國の水災を避くべく、一は以て水軍に不得手な匈奴の侵入を防止し得べく、誠に一擧兩得の良策であると申出でたが、豪傑でも孝武帝は矢張り支那人である。
〔黄〕河スナハチ大禹之所道也。聖人作事、爲萬世功、通於神明。恐難更改
と申し、即ち聖人の禹が定めた黄河の水道を移し改めることは、吾々にて出來る筈がないとて、遂に採用を見合せた。採用せなかつたことの可否は別として、採用せぬ理由が可笑ではないか。
 〔孝武帝より約百年後の孝成帝時代に、黄河の氾濫を防止すべく、※(「こざとへん+是」、第3水準1-93-60)防修築の議が起つた時、
經義。治水有河深一レ川。而無※(「こざとへん+是」、第3水準1-93-60)防壅塞之文
といふ説が勝を制して、※(「こざとへん+是」、第3水準1-93-60)防の修築は見合せとなつた。この經義とは『書經』の禹貢篇の決九川四海、浚※(「田+犬」、第4水準2-81-26)[#「さんずい+會」、読みは「かい」、483-2]川の文句を指すものかと想ふ。河口を切り開き河底を浚渫するのは治水の要諦で、格別不思議とするに足らぬが、但その論據を、二千年以前の事實を記した經書に求めた點が、支那人的で面白いでないか。〕これと類似の事例は、支那史上に頗る多く、一々列擧するに堪へぬ。
 一體支那人は師古と稱して、古代の聖賢の行ふたことでなければ[#「なければ」は底本では「なけねば」]信用せぬ。聖賢の行はぬ新事業をやり出すと、不トコロノ非行として排斥する。秦の始皇帝や、宋の王安石らの改革が、不評判であるのは、他にも原因があるが、主としてこの支那人の保守思想に適せぬからである。
 是故に彼等支那人の間には、先例といふことが豫想以上の大なる勢力をもつてゐる。〔これに就いて面白い事實がある。梁の武帝時代に、領内の州を整理した所、從來中央政府の帳簿によると、百七州あるべきものが、實際調査すると、八十二州しかない。その餘の二十餘州の所在が判明せぬ。併し舊帳簿に登録してあるからといふので、所在不明の二十餘州を削除せずに、本の儘に百七州としたといふ。領内の行政區の所在不明といふのも支那式だが、更にその所在の判明せぬ州をその儘に、保存繼承した點が面白いでないか。これが支那人氣質である。〕
 去る光緒二十六年の十二月(明治三十四年一月)に、西太后が陝西の西安府の行在で發布した、變法自強の上諭の中に、禍天下者、在一例字とある通り、先例に拘執繋縛されて、支那人は如何程その國運の進歩を阻害したか知れぬ。支那人は古人以外に一機軸を出して、即ち自分で先例を作り出すことを、自我始古とか、自我作フルキコトとか稱するが、その始古といひ、作故といふ字句の間にも、明に彼等の尚古思想があらはれて居る。
 古人や先例に託すれば、支那人は容易に得心するから、この弱點を利用して、惡事をなし遂げる者が支那に多い。西漢の末に出た王莽といふ大惡人は、漢の天下を簒奪する爲に、萬事昔の周公といふ聖人の言行を模倣する。周公は一飯に三たび哺を吐き、一沐に三たび髮を握つて、天下の士を待つたといふから、王莽も恭謙天下の士に下つた。當時の人は何れも王莽を周公の再來と信じ、四十八萬七千五百七十二人の多數の人士が上書して、王莽に特別の恩賞と待遇を加へんことを出願して居る。かくて王莽は天下の人望の己に歸するのを待つて、時の天子の平帝を毒害した。昔武王が病氣の時、周公が武王の延命を天に祷つたことが、『書經』に載せてあるので、王莽は早速その眞似をやり、自分の毒害した平帝の爲め、身を以て之に代らんことを天に祷るなどの狂言をやつて居る。『春秋』は魯の哀公の十四年を以て終つて居るから、漢も哀帝の即位後十四年目に終るべき筈など言ひ振らして、遂に樂々と漢の天下を簒ひ、代つて天子の位に即いた。王莽は引經文奸とて、一言一行經書や聖人に託して、大惡をなし遂げたのである。〔王莽はその死後に於てこそ、逆臣元凶として指彈※(「にんべん+繆のつくり」、第4水準2-1-85)辱されたけれど、その生前に引經文奸頃には、聖人君子として崇拜されたのである。唐の白樂天の、
周公恐懼流言日。王莽謙恭下士時。若使當年身便死。至今眞僞有誰知。
といふ詩は、この間の事實を詠じたものである。〕
 三國の魏の文帝曹丕(曹操の子)も亦、堯舜の禪讓といふ先例を借り來つて、首尾よく東漢の天下を簒奪した。支那では古來革命に二の形式がある。一は禪讓といひ、徳ある者を求めて、之に天下を禪るので、堯と舜、舜と禹などがそれである。一は放伐といひ、兵力に訴へて雌雄を爭ひ、雄者が天下を取るのである。殷の湯王が夏の桀王を放ち、周の武王が殷の紂王を伐つたのがそれである。二の中で放伐の方が評判が惡い。戰國時代から兩漢時代にかけて、學者は多く放伐を抑へて禪讓を揚げる。そこで曹丕は東漢最後の獻帝を脅迫して、天下を己に禪らしめ、然も外面だけは再三之を固辭する。堯が舜に天下を禪つた時、その二女娥皇・女英の姉妹を舜に配したといふので、曹丕も獻帝の二女を後宮に迎へるなど、形式的のことまで眞似をやつて居る。今も河南の許州附近に受禪碑があつて、當時の禪讓のことを記して、
唐禪一レ虞。紹天明命。釐嬪二女。欽授天位
など文字を列べてあるが、實に滑稽至極と申さねばならぬ。
 しかしこの方法が案外好評であつたので、その以後支那の革命は、大抵この似而非なる禪讓の形式を採つて居る。その裏面を窺ふと、或は願後身世世、勿復生天王家(劉宋の順帝)といひ、或は願自今以往、不復生帝王家(隋の恭帝)といひ、似而非なる禪讓の犧牲となつた君主の境遇、眞に憐むべきものがあつても、兔に角形式の上では、堯舜の先例その儘になつて居れば、それで支那人は承知するのである。
 支那人は何事をするにも、必ず古人を引き出して來る。西晉の武帝はその太子の惠帝(司馬衷)の暗愚で不評判なるを憂ひ、その才能の程度を實驗する爲に、特に密封にて或る問題を與へて、太子にその答案を提出せしむることにした。その答案の結果如何によつて、太子の廢立を斷行する決心であつた。所が太子の妃の賈氏は中々油斷ならぬ人物で、武帝の眞意を測り知つて、由々しき大事と考へ、祕書の張泓といふ者に命じて、太子に代つてこの答案の草稿を作らしめた。張泓は不用意に、例の如く詩曰とか書曰とか、孔子曰や孟子曰を連發して答案を作つた。その草案を見た賈氏は、太子は暗愚にして、『詩經』や『書經』を知らぬ筈であるのに、かく詩・書や聖賢を引用しては、直に代作の馬脚露見すべしとて、悉く詩曰、書曰の句を削り去り、議論の經路は極めて迂遠ではあるが、歸着は間違つて居らぬ樣な、薄馬鹿らしい答案に改作せしめて、首尾よく武帝の眼を眩まし、太子の位置を完全にしたことがある。暗愚では困るが、普通の人間なら、その論文には必ず經書や古人を引用せねばならぬ慣習は、この事件を見ても明かである。
 〔隋の煬帝は高句麗征伐をやつたことがある。その時百萬の大軍を、左右の二軍各十二隊、併せて二十四隊に分つた。所が統監部から此等諸隊の向ふべき目的地を指示する場合に、六七百年も以前の漢時代の地名を使用して居る。玄菟(郡名)とか樂浪(郡名)とか、蓋馬(縣名)とか黏蝉ネンテイ(縣名)とか、沃沮(種族名)とか肅愼シユクシン(種族名)とか、甚しきは※(「あしへん+(榻−木)」、第4水準2-89-44)頓の如き、古代の人名まで使用して居る。此等の地名の的確なる位置は、隋時代に多く不明であつた筈と思ふ。尠くとも隋の統監部では確知せなかつた筈と思ふ。殊に滑稽なのは※(「あしへん+(榻−木)」、第4水準2-89-44)頓である。※(「あしへん+(榻−木)」、第4水準2-89-44)頓とは東漢末に遼東方面で勢を振つた、烏丸種族の酋長の名である。無知な統監部は、人名を地名と間違へたらしい。かかる指令を平氣で發する統監部も、かかる指令を呑氣に受ける部隊も、共に呆れ果てたものでないか。抑※(二の字点、1-2-22)不明な地方や、存在せぬ土地へ、發向すべき命令を受けた當時の各部隊は、如何なる行動を取つたであらうか。世間では支那人を實際的といふ。それも半面の眞理であるが、同時に他の半面では、彼等は存外非實際的なところもある。戰爭の如き生死存亡に關する大事件にも、彼等は呑氣に古代の地名を使用する。不確でも不明でも、古代のものがよいといふ、支那人氣質の一端であらう。〕
 古人や先例を引き出せば、支那人は得心もし信用もするから、自然支那には古人の名に託した僞書が多い。『神農本草經』とか『黄帝素問』とか、『子夏易傳』とか『子貢詩傳』とか、或は『關尹子』或は『鬻子』等、古人の名を負ふた僞書は、一々列擧するに堪へぬ程である。世界の中で支那ほど僞書の多い國はなからうと想ふ。支那の大學者で、僞作家の嫌疑を受けて居る人が尠くない。漢の劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)、魏の王肅、隋の劉※(「火+玄」、第3水準1-87-39)など皆それである。古書を僞作する動機は種々あるが、所詮は支那人が古書を尊信するといふことと、離るべからざる關係が存するものと思ふ。

         四 支那人の保守(下)

 支那人は一般に模倣は上手であるが、應用が不得手である。之は勿論彼等の先天的素質にもよることならんが、一は古人の手本のみに重きを置く、いはゆる依樣畫胡蘆といふ、後天的原因も亦與つて力が多いことと思ふ。それも畢竟先例に重きを置くと同樣、型に捉はれ易い氣質をもつて居るからである。
 三十餘年間支那に居つたスミスといふ米國の宣教師は、曾て支那の教師は無冠の帝王であると評したことがある。支那では教師の一擧一動は、すべて學生の手本となるからである。支那の學生はすべて教師の授ける所を鵜呑にする。教師の身振や習癖まで眞似するのに苦心する。
 支那人の挨拶でも文章でも、その他萬般のこと、多く型に入つて居つて、時には滑稽の感を起さしむることがある。北宋の仁宗時代の事であるが、さる年洪水があつて、天子は使者を派遣して、その實地を視察せしめた。その時の使者の復命に、『書經』に堯時代の洪水の有樣を記してある文句をその儘に、蕩蕩ツツミノボル陵と述べて、大眼玉を頂戴した笑話がある。明末に明の巡撫が清軍に降服した時、この巡撫は肉袒牽羊、作法も辭令も、すべて『左傳』をその儘に眞似をしたから、さしもの清軍も大笑をしたといふ逸事もある。
 今から六七十年も前に、南支那に住んで居つたフランスの宣教師に、ユックといふ人があつた。或る用向の爲に、北京へ飛脚を差立てることになつた。その頃ユックの經營して居つた學校の支那人の教師が北京の産で、彼の年老いたる母親は、一人淋しく北京に暮らし居る。幸ひの機會であるからとて、ユックはその支那人の教師に、母親へ手紙を差出すことを注意してやつた。その教師は非常にユックの好意を感謝しつつ、直に隣室に勉強中の一學生に、
私は自分の母親に手紙を差出さうと思ふから、御前は一つ代作してくれ。飛脚は間もなく出發する筈故、今から至急認めてくれ。
と命令した。側に聞いて居つたユックはその教師に、
彼の學生は君の親類でもあるのか。それとも君の母親に面識でもあるのか。
と尋ねると、その教師は、
否彼は一面識もない。勿論我が母親の年齡も住所も知る筈がない。
と答へた。ユックは一面識もない學生が、いかにして君の代作が出來るかと尋ねると、支那人の教師はさも不思議相な顏付をして、
私は彼の學生に一年以上文章の作製法を教へた。最早書式や熟語を可なり知つて居る筈である。子から母へ差出す手紙の代作位は容易なことである。
と答へた。彼是する間に、さきの學生は命ぜられた通り、手紙を認め、且つ封緘して持つて來た。教師は文書の文面をも改め見ずに、その儘封筒に住所を書き添へて、飛脚に渡したといふことである。この事實は一面では、支那人の孝行は、極めて形式的であるといふ證據にもなり、又一面では彼等の手紙は極めて紋切型のものであるといふ證據にもなると思ふ。
 支那人は一般に精神よりも、形式に重きを置く傾向がある。これも彼等の保守氣質と關係せしめて、説明することが出來る。上に述べた通り、支那人は先例を重んじて之を固執する。長い年月の間には、種々の事情の爲、先例そのものの精神がとくに失はれても、その形式だけを大事に守つて行く。支那人の習慣のうちには、名實隔離して、他國人から觀ると隨分奇妙なことが多い。
 支那人は孝を百行の本として、最大の善行と認める。忠孝と併稱する中にも、支那では孝が國家なり社會なりの基礎となつて居る。歴代の政府は、何れも孝行を獎勵する。孝道尊重は確に支那人の一美點に相違ないが、ただ何事にも精神を後にして、形式を先にする支那人は、孝行といへば、裸體で氷上に臥して、親の病氣の平癒を神に祷るとか、昔の二十四孝の極端な手本を、その儘に眞似する者が尠くない。勿論之には名聞利慾の爲といふ動機も加はつて居るが、兔に角極端な眞似をする。そこで政府は孝行を獎勵しつつも、流石に極端な形式的孝行は時々禁止して居る。
 〔支那は禮儀第一の國である。あらゆる禮儀の中でも、喪禮が古來尤も重大視されて居る。されど後世になると、支那の喪禮は形式のみで精神がない。五胡時代に後燕の昭文帝の皇后の喪禮を行うた時、百官が宮廷に會同して哀を擧げた。一同大聲を揚げて形式的に哭するのみで、泪など流す者は一人もなかつた。昭文帝は彼等の空々しい擧動を心憎く思ひ、目附役に命じて、泪を流して居らぬ者を調査して處分させた。百官達は意外の處分に恐惶して、次の式日からは、皆懷中に唐辛一包づつ用意して置き、哭する場合には、唐辛を含んで強いて泪を出して處分を免れたといふ。
 支那程喪禮の喧しい國はなく、支那ほど喪禮に實哀の伴はぬ國はない。今日でも支那の葬式は、外觀の形式の仰々しい割合に、肝心の死者に對する哀情が伴はぬ。葬列には職業的泣男まで加へるといふが、喪主その人は喫煙しつつ談笑するなど、われわれ日本人から見ると、腹立しく感ぜられる場合が多い。單に喪禮のみに限らず、あらゆる支那の古代の禮教が、その形骸のみを留めて、その精神を失ひつつあるのは、慨しい極みである。〕
 いくら保守的の支那人でも、長い年月の間には、種々の必要上、隨分制度改革を實行した場合も尠くない。併しかかる場合でも、支那人は決して在來の制度を捨てぬ。舊の制度はその儘に保存して、新しき制度をその上に添加するのである。支那人の改革は要するに新しきものを増加することで、舊きものを廢止したり、乃至之を改良することを意味せぬ。歐陽脩などは、唐の官制を精而密とか、簡而易行とか、盛に賞讚して居るが、その實、唐の官制は周と秦・漢と、三國以來の新官制とを、殆ど取捨を加へずに合同したもの故、その官制には主義も精神もなく、冗官重複頗る多い。之に比較すると、わが太寶の官制の方が、遙に簡にして要を得、出藍の譽を受くべき資格が十分にあると思ふ。
 清朝の兵制の變遷を見ても同樣である。清朝は最初緑旗(緑營)の兵で地方を守備し、八旗の兵は一面皇城の守備に當り、一面地方の緑營の監督をした。この緑營と旗兵で天下を彈壓したが、時を經る儘に、旗兵も緑營も腐敗して、實戰に間に合はぬ樣になる。長髮賊の起つた時には、各地方で義勇兵が組織されて、これが旗兵・緑營以上の手柄を建てた。そこで亂後もその義勇兵(勇兵)をその儘に保存して、一團の常備軍が出來上つた。併し從前の旗兵や緑營に手を着けぬから、つまり二重の兵制を維持せなければならぬことになつた。日清戰役後、支那で段々洋式の新軍が組織される樣になつても、矢張り從前の兵隊を全く解散せぬ。
 支那人の遣口やりくちはすべてこれである。故に支那には嚴密の意味の改革といふことが甚だ稀で、從つて支那には進歩がない。支那の梁啓超が、曾て北京で我が矢野(文雄)公使に面會した時、明治十四年に出來た黄遵憲の『日本國志』によつて、種々の日本のことを質問すると、矢野公使は、
『日本國志』は約二十年前の書物である。日本の十年間の進歩は、支那の百年以上に當る。『日本國志』で日本の今日を忖度するのは、丁度『明史』に據つて支那の現状を論ずると同樣、事實を距ること遠い。
と答へた。その後梁啓超は日本に渡來して見ると、矢野公使の言、人を欺かざることを發見したというて居る。
 支那は早くから西洋の新文明に觸接したが、例の保守と自尊とが邪魔をして、中々新文明を採用させぬ。所が日清戰役と日露戰役とによつて、流石に四千年來の長夜の夢を醒まして、變法自強を唱へることになつたのは、よくよくの事で、支那人も自白して居る通り、支那開闢以來未曾有の現象である。保守的な支那人の間に、この革新の氣運が何時まで繼續するかは可なり疑問である。たとひ繼續することにしても、支那人は日本と違つて、古來殆ど自國の文明のみを保持して來たので、他國の文明を攝收して、國運の増進を圖つた經驗が多くない。西洋の新文明を輸入するにしても、如何にして其國の舊文明と調和せしめるであらうか。
 東西の文明の調和といふことは、我が日本にとつても重大なる問題に相違ないが、併し我が國は或は三韓、或は隋唐と、古來外國の文明を取つて、自國のそれと調和せしめた經驗に乏しくない。かかる經驗のない支那は、この問題の爲に、一層の苦心を要すべき筈である。
(大正五年五月『支那研究』所載)





底本:「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」岩波書店
   1968(昭和43)年2月13日発行
底本の親本:「東洋史説苑」
   1927(昭和2)年5月10日発行
※著者自身の「自餘の二十篇は大抵舊作の原文に依つたが、今回付刊の際、全篇を通讀して心附いた點は、若干増補を加へた。その増補の箇所には〔 〕符を附して識別して置いた。」(『東洋史説苑』辨言九則の五)により、〔 〕を使用している。
入力:はまなかひとし
校正:染川隆俊
2002年2月25日公開
2004年2月20日修正
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