東漢の班超

桑原隲蔵





 數多き支那古今の人物の中に就いても、吾が氣に入つた人物といふと、一寸選擇に迷惑する。吾が輩の如き、史實調査に從事するものは、人物の表裏功過ともに承知するだけ、それだけ氣に入つた人物は見當り兼ねる。瑕疵のない人物といへば、孔子とか諸葛孔明とかを擧げねばならぬ。支那嫌ひで有名で、堯舜禹湯文武周公の所謂聖人を始め、支那の人物といふ人物に對して、惡罵を浴せかける本居宣長でも、殊に平田篤胤でも、流石に孔子と孔明に對しては、非常に感服して居る。本居は、
  唐人と人はいへども、唐人のたぐひならめや、孔子はよき人
と申して居る。畢竟孔子は支那人とは違ふ、日本人が間違つて支那に生れたかの如き口吻を漏らして居る。平田は孔明に非常な同情を寄せ、支那人は孔子以後無孔子といふが、寧ろ孔子以後有孔明といふが至當だと主張して居る。
 如何にも孔子や孔明は、日本人の立場から論じても、非難すべき點がない。吾が輩も所謂支那の聖人の中で、最も孔子を崇拜いたし、また耶蘇や釋迦以上に孔子を贔屓して居る。吾が輩は又孔明に同情することに於て、平田に讓らぬ積りである。併し孔子や孔明を氣に入つた人物として擧げるのは、餘りに平凡の嫌ひがある。今少し目先きの變つた人物を名指したいと思ふ。
 吾が輩の氣に入つた人物の一人に、東漢の班超がある。彼は班彪の子で、有名な班固の弟である。光武帝の建武九年(西暦三三)の誕生で、正しく巳歳に當つて居る。彼の二十二歳の時に父班彪は世を去つた。元來班彪は其學徳の割合に出世せず、一家は餘程微禄して居つた。故に父逝去の後は、班超は官の筆耕となつて、母親を養はねばならぬ。母の爲とはいへ、三十歳前後、然も人一倍功名心の強い彼は、流石に筆耕生活に堪へ兼ね、時々業をやめ筆を投じて
男子と生れたからは、せめて外國征伐でもやつて、花々しい功績を建て、一生の中に大名位にならねばならぬ。筆や硯を相手に生涯を果してたまるものか。(大丈夫當功異域以取封侯。安能久事筆研間乎)
と嘆息して、無智な仲間達から嘲笑されたこともある。
 兔角する間に、光武帝の子明帝は永平十六年(西暦七三)に竇固を大將として匈奴征伐をやつた。この時班超は竇固の部下に加はり天山の麓の蒲類バル海(今の巴爾庫爾バルクル)の戰ひに功名を建てた。
 一體匈奴征伐を徹底せしめんには、是非匈奴に服從して居る西域諸國の經營を忽にすることが出來ぬ。西漢の明帝の匈奴を征伐する時に、實にこの計畫を採つた。竇固も亦漢武の故智を襲ひ、西域經營に手を着けることとなつた。この使命の選に當つたのが、前に蒲類海で手腕を示した班超で、彼は三十六人の部下を引率して、尤も手近な※(「善+おおざと」、第3水準1-92-81)善國に往き、漢に歸順せんことを勸誘した。最初は※(「善+おおざと」、第3水準1-92-81)善王も漢使一行を厚遇したが、間もなく匈奴の使者が百餘人の大勢で、その國に乘り込み來ると、打つて變つて班超らを虐待し始めた。班超は非常手段の外に良策なきを覺り、不虎穴虎子といふ警句を以て、その同伴者を激勵いたし、三十六人にて匈奴の一行を夜襲して、その正副使以下をみなごろしにした。この蠻勇に恐怖して、※(「善+おおざと」、第3水準1-92-81)善王は遂に漢に降服した。


 明帝は班超の成功を嘉納せられ、改めて彼に西域經營を命ぜられた。班超は依然三十六人の小勢にて、※(「善+おおざと」、第3水準1-92-81)善の西なる于※(「門<眞」、第3水準1-93-54)(今の和※(「門<眞」、第3水準1-93-54))王を屈服せしめ、その翌年(西暦七四)には、謀を設けて、頑強な疏勒(今の喀什※(「口+葛」、第3水準1-15-20)カシユガル)王を擒にして居る。かくて班超は僅々二年の間に、西域の半ばを平定したが、永平十八年(西暦七五)に明帝崩じて、その子の章帝が位に即かれた。この機會に乘じて、西域諸國は連合して、漢の勢力を摧破することを企てたから、章帝も一時西域經營を中止して、班超を召還した。折角の功業を一旦に廢棄せなければならぬ、班超の遺憾は想像に餘りある。幸に彼の威徳に懷ける疏勒于※(「門<眞」、第3水準1-93-54)の人々は、その馬を控へ、その行を遮る有樣に、班超は獨斷にて、西域經營を繼續する決心をした。
 爾後五年の間、彼は全く本國から絶縁されて、僅々三十餘人の部下と共に、疏勒に留まつた。この間彼は尤も完全に尤も有效に、いはゆる以夷制夷政策を實行した。以夷制夷といふことは、已に西漢時代から、支那外交の最高政策と認められ、今日まで慣用されて居るが、班超ほど有效に、この政策を實行した人はあるまいと思ふ。建初五年(西暦八〇)に、始めて本國より千餘人の援兵を送られて以來、彼は一層目覺しい成功を遂げた。即ち章帝の章和元年(西暦八七)には、莎車(今の葉爾羌ヤルカンド)龜茲(今の庫車クチヤ)温宿(今の阿克蘇アクス)姑墨(今のパイ)尉犂(今の烏什ウチ)五國の聯合軍五萬を、詭計を用ゐて、その勢力を分割せしめ、一擧にして之を撃破して居る。章帝の子和帝の永元二年(西暦九〇)には大月氏七萬の侵入軍を、持久の計略をかけて、降服させて居る。かくて和帝はその翌年(西暦九一)に西域都護府を再興して、班超をその都護に任じた。ついで永元六年(西暦九四)には、西域一帶に班超の威風に靡き、監子を送つて漢に歸順するもの、五十餘國に及んだ。班超はこの功勞によつて定遠侯に封ぜられ、年來の素懷を遂げた譯である。この前後二十年に渉れる班超の外交軍略の手腕、誠に感服の外ない。彼の成功は決して偶然でないと思ふ。
 班超は西域都護の任に在ること十三年の間に、漢の國威を遠くペルシア方面まで發揚させた。彼が大秦(ローマ帝國)と交通を開かんために、部將甘英を派遣したのは、永元九年(西暦九七)のことである。甘英が使命を果さずに、ペルシア灣頭から東歸したのは、千歳の下なほ遺憾に堪へざる次第である。
 流石の班超も寄る年波に敵し兼ね、しばしば辭任を歎願したが、朝廷では彼に代り得べき適任者なき故、中々許可とならぬ。最後に彼の妹の班昭は、兄に代つて悲痛なる上書をした。此上書は『後漢書』の班超傳に附載されてあるが、筆情兼ね備はる點に於て、孔明の出師表や、李密の陳情表に比敵し得べき名文と思ふ。出師表は忠義を骨子とし、陳情表は孝行を骨子とし、班昭のは友情を骨子として居る。和帝も班昭の至情に感動されて、班超の歸國を許した。彼は永元十四年(西暦一〇二)八月に、都の洛陽に到着いたし、その翌九月に病死した。年は七十一である。三十年間思慕已まなかつた中國の首都で瞑目したのは、彼にとつて寧ろ望外の幸と申さねばならぬ。


 彼の後任者として西域都護となつたのは任尚である。任尚は烏桓や匈奴の塞外種族と交渉の任に當つた經驗もあり、又西域の事務を管掌した經驗もあり、當時に在つては、最も適當なる班超の後任者と認められて居つた。併しその實任尚は到底班超だけの度量がない。當時塞外に居る胥吏士卒らは、弛刑とて、刑状持ちで執行猶豫された者が多い。これらの吏卒を利用するのは、度胸のある豪傑でなけねば[#「なけねば」はママ]ならぬ。然るに任尚は班超の忠告を無視して、餘りに嚴急な取締をなした故、忽ち部下の反抗を招き、續きて西域諸國も離叛いたし、折角班超の圖も、僅か五年の間に破壞せられ、西域都護府も閉鎖さるることとなつた。
 支那の歴代を通覽すると、塞外經營に力を盡した時代も尠なくない。その時代毎に相當の人物も出て居る。併しその功業に於て、その人物に於て、班超の前に班超なく、班超の後に班超がない。梁啓超が曾て班超を贊して、
  吾讀後漢書。吾乃知我二千年前之先民。有一身而兼克(クライヴ)哈(ヘースチングス)二傑之所長。(中略)斯眞千古之快男兒。斯眞世界之大英雄。斯何人。斯則班侯(定遠侯班超)是已。
と申して居るが、必ずしも溢美過褒といへぬ。
 吾が輩が特に班超に心を寄せる所以は、彼はかかる種類の人物に普通な、殺伐殘忍などいふ缺點は微塵もなく、人格の如何にも温良恭謙なことである。
(一) 彼は母に事へてよく孝に、兄に對してよく悌であつた。
(二) 彼は家風とはいへ、文筆にも達して居つたことは『後漢書』の本傳の上疏を見ても明白である。
(三) 彼は決して塞外人を虐殺せなかつた。戰場での俘虜も、大抵はその生命を全くしてやつた。彼が塞外人の心服を得た一原因は、ここに在ると思ふ。和帝の詔書に班超の功を稱して、「得遠夷之和。同異俗之心」とあるのは此點を指したものであらう。
(四) 曾て李邑といふ者、班超を讒して、西域經營を中止せしめん陰謀を廻らしたことがある。その李邑がやがて班超の許に往きて、その命令を奉ぜねばならぬこととなつた。班超の部下は、この李邑を捕へて讒言の復讐をなさんことを勸めたが、班超は「内省不疚。何※(「衄のへん+おおざと」、第4水準2-88-4)人言」とて、李邑をよく待遇した。かかる度量あればこそよく人和を得て偉功を奏し得たのであらう。
 班超に就いて尚ほ記憶すべきことは彼の一門に人物の多いことである。男といはず、女といはず、彼の一門には人物が多い。かく人物揃ひの一門は世にたぐひ稀であらうと思ふ。其略系は次の如くである。(姓名の右側に○を施してある者は文に傑ぐれ、△を施したのは武に秀でた人である。)
※(「女+捷のつくり」、第4水準2-5-61)※(「女+予」、第3水準1-15-77)
班穉班彪班固
      ├班超班勇
      └班昭(曹大家)
 班※(「女+捷のつくり」、第4水準2-5-61)※(「女+予」、第3水準1-15-77)は西漢の成帝の女官で、古有樊姫(周代の賢婦人)、今有※(「女+捷のつくり」、第4水準2-5-61)※(「女+予」、第3水準1-15-77)と評された程、婦徳の高い人である。怨歌行、自悼賦等はその文才を窺ふに十分である。班彪は實に『漢書』の起稿者で、またその北征賦、王命論の作者として聞こえて居る。班固は歴史家として文章家として、支那有數の人、殊更に紹介するを要せぬ。班昭は支那一流の女教育家である。曹世叔の妻となつたが、世叔早世の後、和帝の信任を受け、宮中に入りて皇后以下、諸女官の師匠となつた。宮中彼を尊びて大家(先生)といふ。故に曹大家として當時に知られて居る。彼は女子教育の目的で『女誡』七篇を作つた。この『女誡』は支那に於ける『女大學』である。班昭は又『漢書』の編纂に關係して居る。『漢書』は班彪が起稿し、班固が實に編纂したけれど、その八表及び天文志だけは、兄の死後に、班昭が續成した。故に『漢書』は班氏の父子兄妹三人の手を經て、完成した譯である。班昭の文才の高きことは、さきに紹介した爲兄求代疏一篇でも證明することが出來る。實に學徳才三絶の賢婦人と申さねばならぬ。班勇は父班超の死後、順帝(章帝の曾孫)の世に朝廷の命を受けて、龜茲、疏勒、莎車、于※(「門<眞」、第3水準1-93-54)等十七國を征服した。故あつて中途にして召還されて、十分の偉功を奏することが出來なかつたが、兔に角東漢の西域經營の最後を飾つた一人である。彼も亦文筆の嗜あつて、今の『後漢書』の西域傳は、多くその記録に本づいたものと傳へられて居る。
(大正六年一月十七日―十九日『大阪朝日新聞』所載)





底本:「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」岩波書店
   1968(昭和43)年2月13日発行
底本の親本:「大阪朝日新聞」
   1917(大正6)年1月17日〜19日発行
初出:「大阪朝日新聞」
   1917(大正6)年1月17日〜19日
※本居宣長の言葉として引かれている「唐人と人はいへども、唐人のたぐひならめや、孔子はよき人」は、『本居宣長全集』筑摩書房、第十五巻所収「鈴屋集」には、「せい人と人はいへとも聖人のたくひならめや孔子はよき人」とあります。
※底本の略系図では、「班※(「女+捷のつくり」、第4水準2-5-61)※(「女+予」、第3水準1-15-77)」と「班穉」を「│」で繋ぎ、夫婦のように扱っていましたが、正しくは姉弟であるので、記号の用い方を改めました。
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2002年1月15日公開
2011年12月6日修正
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