『本当にどうかして貰はないぢや困るよ、明日は是非神田の方に出掛けなきやならないんだからね』
母親はさう云つて谷の生返事に、
『何にも明日に限つた事ぢやないんだらう? 神田なら――』
谷は何時ものやうに気のりのしない調子で相手になつてゐた。
『そんな
『行く筈にしてゐたつて、お母さんだけ其のつもりでも、俺の方ぢやそんな筈は知らないんだからなあ。金がないと行けないのかい。』
『あたり前ですよ、そんな事。』
『俺だつて別にあてがある訳ぢやないんだから、屹度出来るかどうか分らないよ。』
『それぢや困るぢやないか。
『出来ればどうかするよ。だけど何もさう神田に行くのに大騒ぎする事はないぢやないか、大した用があるんぢやなし、遊びに行くのに――』
『お前はそんな事を考へてるから、いゝ加減な返事ばかりしてゐるんだね。誰がわざ/\肩身のせまい思ひをして遊びになんか出かけるものか。お母さんはいくらおちぶれても、長いつき合ひの人達に義理を欠くやうなことをするのは御免ですよ、第一お前の恥になるぢやないか。』
『俺は恥にならうと何しやうとちつともかまはないよ。お母さんももういゝ加減にあんな下だらない交際は止めて仕舞つちやどうだい?』
『余計なお世話だよ、そんな事までお前の指図を受けてたまるもんかね。それよりは少し自分の事でも考へて見るがいゝや。何だい本当に、親に散々苦労をさして、一人前になりながら、たつた一人の親を楽にさす事も知らないで、大きな顔をおしでないよ。親を苦しめる事ばかりが能ぢやないよ、何時までも/\ブラ/\してゐて、世間の手前も恥かしい。私しやお前のお蔭で何処に行つても、肩身を狭めなきやあならない。全体どんな了見でゐるのか知らないが、親の事なんかどうなつてもいゝのかい。お母さんが行く先々でお前の事を何んつて云つてるか知つてるかい。その内にやあ少しはどうにかなる事と思ふから口惜しい思ひをしながらも耐へてゐるものゝ――何時までも呑気にしてゐられたんぢやあ、私の立つ瀬はありやしない。よく考へて御覧、下だらない奴から何んとか彼とか云はれて、お前だつてそれで済ましちやゐられまい。私しやそんな意気地なしには生みつけやしないよ。』
『お母さんは生みつけない気でも、俺はかう云ふ人間なんだよ、下だらない奴の云ふ事なら、何も一々気にする必要はないぢやないか』
『下だらない奴に、云はれないでも済む事を、いろ/\云はれるから口惜しいんぢやないか。お前はかまはないだらうけれど、お母さんは嫌やだよ』
『お母さんも随分わからないなあ、下だらない、何にも知らない奴に云はれなくてもいゝ事を云はれるのだから、何云はれたつて構はないぢやないか。何が口惜しいんだい? 相手にならなきあいゝぢやないか、済ましてお出よ。だから下だらない奴とのつき合ひなんかよせつてんだよ』
『お前さんと私とは違ふつて云つてるぢやないか。お前さんはいくらでも済ましてお出よ、私しやいやだよ』
『ぢや勝手にするさ』
『あゝするとも。だからどうとももつと私の肩身の広いやうにしてお呉れ。』
『俺がそんな事知るもんか』
『知らないとは云はさないよ。どうしてそんな口がきけるんだい! お母さんの肩身を狭くしたのはお前ぢやないか』
『冗談云つちや困るよ。お母さんさへ馬鹿な真似をしなきやあ、何一つ不自由しないでも済むんぢやないか。俺があたり前なら勉強ざかりを十年も棒にふつたんだつてお母さんが無茶をやつたせいぢやないか! お母さんはもう若い時から散々勝手なまねをして来たんぢやないか。俺だつて偶にや自由な体にでもならなくつちややり切れるもんか。世間の奴等が何を云やがつたつて、俺は嫌やな奴に頭を下げて少しばかりの金を貰ふよりは、少々食ふに困つたつて、かうやつてる方がいゝんだからそのつもりでゐてくれ。楽をしやうと思ふなら俺の事なんかあてにしないでゐて貰ひたい』
『まあ本当に
もう相手にはならないと云ふやうに谷は黙つて返事をしなかつた。勢こんだ母親の言葉もだん/\に愚痴つぽい調子におちて行つて、何時か涙をもつた震え声になつて聞えなくなつた。
逸子は黙つて聞いてゐた。母親の愚痴は、直ぐ前に座つてゐる谷よりは、間に隔てゝ聞いてゐる逸子の胸へ却つてピシ/\と当つた。かうした機会の度毎に繰り返される愚痴は、何時でも
『あゝ、またどうしても行かなければならないのか』
逸子は母親の愚痴を聞く辛らさも随分たまらない事だつたけれど、行きさへすれば
谷が失職してからもう二年になる。その間だん/\に苦しくなつて来る家の中の重荷は皆んな、自然に逸子にかゝつて来たのだつた。
始めの内は、それでも、他の家の老人にくらべてはずつと物わかりのいゝ母親は、別に大してそれを気にするでもなかつたけれど、窮し方がひどくなつて来ると、
と云つて、逸子にも一家の経済を持ちこたへる程のいゝ仕事がある訳では決してなかつた。彼女は、殆んど誰にも明かされぬ家の内情を明かして、龍一から、困るたびに可なりな補助を受けてゐた。けれど逸子にしても、何時までもいゝ気になつて、彼の補助を仰ぐのも、あまりに面目ない話だつた。彼女は、どうかして龍一の補助を受けないやうにしたいと思つた。しかも龍一の親切な心遣りも逸子の、逝つた旧師の恩恵が手伝つてゐる事を思ふと、つまらない、その場のがれの埋め合はせに利用する事が、一層苦しいのだつた。
けれど、たまに少しばかり彼女の書くものゝ稿料と云つた処で何のたしにもならなかつた。それでも、例へわづかでも、金になると知つては、家の者は一切無頓着に、そればかりをあてにしてゐた。逸子にとつては、それがまた、どの位恐ろしい事だか分らなかつた。自分の書いた、未熟な、幼稚なもの――それを金に代へると云ふ事は、考へる程空おそろしい気がした。どんな事があつても、そんな事はしたくない。さう思ひながら家の者がそれを当てにしてゐる、そして、自分も、自分で金を得やうとすれば、それしか仕方がないのだと思ふと、逸子は、どうする事も出来ないやうな悲しみを感ずるのだつた。そしては、何とかの方法で金のとれるやうな事をしたい、タイプライタアでも教はらうか、雑誌記者にでもならうか、等と思つて見る。けれどそれはまた、それ/″\に今の逸子には見のがしのならない不都合が伴つてゐるのだつた。
時々は、逸子も困り切つて、どうする事も出来ないやうな事があつた。
『もう、此度ばかりは私にもどうも出来ませんから、あなたが何とかして下さいな、何とか都合して貰へないと、本当に困るんですよ』
『うむ』
さう云つた
『どうするつもりなんです。』
だん/\苦しくなつて催促すると
『どうつて仕様がないんだもの。』
彼はさう云つてすましてゐた。
それでも、逸子は、むきになつて彼に就職を強ひる事は出来なかつた。彼は二度ともとの仕事に返る気はなかつたし、逸子もその仕事が彼を一番苦しめるいろ/\な束縛や情実の多い事を考へると、すゝめる気にはなれなかつた。と云つて、彼にはいくらかの語学の素養があるだけで、他に役立つやうな能はまるでなかつた。その上、他人と一緒に仕事をする等と云ふ事も出来ないやうな多くの素質を持つてゐた。
『自分がどんなに黙つてゐたからとて、どの位の無理をしてゐるか位は、彼にだつて解らない筈はないのだから、何時まで、
さう思ひ返しては黙つてゐた。しかし、此の頃では何んだか、自分の体さへもてあつかつてゐるやうに見え始めた彼が、果してどの程度まで、自分の事を支へてゐるかは矢張り、出来る
『ねえ、あなたはこの先き、何を一体やつて行く気なのです。何かしやうと思ふ事は極まつてゐるのですか。』
『さあ、その何をしやうかと云ふ事が、本当にまだ極まらないんだ。
さう云はれると逸子は取りつき端もない心細さを感じるのだつた。彼も、自分もまだ一人前の人間ぢやない、自分達の歩く道さへ極まつてはゐないのだ。満足にたべて行くことさへ出来ないのだ。それだのに、子供を連れて、年老つた母親にすがられて、どう彷徨しなければならないのだらう? これから先きまだ、どんなに母親を苦しめ、自分達も苦しまなければならない事か? 考へつめてゆくと逸子の眼にはその将来の惨めさに対する涙がしみ出すのだつた。
『このまゝでは仕方がない。何うにかしなければ』
さう云ふ漠然とした、けれど性急な焦慮が直ぐ後からも真向からも迫つて来るのだつた。
ブラリと口もきかずに出て行く谷の後姿を見送りながら、逸子はまた龍一の処へ行かうか、行くまいかと迷つてゐた。母親がどうしても都合してくれと云ふ金が、さうまで必要な金でないと云ふ事は解り切つてゐた。神田へは、何時ものやうに、知り合ひの家で、四五日呑気な日を送る為めに、ゆくので、少々の手みやげを買ふ金や、小遣ひや、雇人達への僅かな心づけが入用なのであつた。逸子はそれよりも、まだもつと苦しい必要に迫まられる時があるのだと思ふと、成るべくなら嫌やなおもひをして龍一の処にゆきたくはなかつた。けれど、明日にも母親がどうかして出かけやうとしてゐるのに、それが出かけられないとなると、また、つまらない不快な、愚痴や、嫌味を聞かねばならないとおもふと、それも苦しかつた。谷がどうかして呉れるかも知れない、とも思つて見たが、それは、自分が嫌やなおもひをしないで済ましたいと思ふ心から出る
何を考へるでもなく、ぼんやりした逸子の眼にも、高く爽かに、隅々まで晴れ渡つた空が第一に気持よく映つた。その高い真青な空が、直ぐ前の家の屋根と板塀に、低く遮ぎられた下でまだ水気の去り切れぬ、白つぽい洗濯物が、静かな風に揺れてゐる。庭の隅の小さな銀杏も、何時の間にか美しく色づいた。ぢつと座つてゐると気持よく乾き切つた空一杯に、響き渡るやうな
『自分では、うつかりしてゐるうちに、何時か、もう斯うして家庭と云ふものゝ内に閉ぢ込められて仕舞つたのだ。私はもう、自分ひとりきりの自由と云ふものはないのだ』
さう思ふと、逸子は、こんな境遇まで造作もなく引き込まれて来た事が、何となく口惜しいやうな、不思議なやうな気がするのだつた。そしてぼんやりしてゐた頭の中には急に種々な考へが雲のやうに
『こんな生活をする筈ぢやなかつた。』
幾度も繰り返してさう思つた。けれど、うつかりしてゐるうちに、其処までおされて来てゐるのは、間違ひのない事実だつた。後悔をして見た処で、今更その事実を、どうする事が出来やう? と彼女は思つた。
逸子は、自分の現在の生活が、どんなに彼女を悔ましめてゐるかと云ふことは、充分に自覚してゐた。然し彼女は、その生活の何処にあやまりがあるかと云ふ事は、出来る丈け考へまいとしてゐた。彼女自身の明かな意識の上では、是非それを考へなければならないといふ事は思ひながら、他の潜在意識は、常に、彼女の現在の生活に就いての思索を妨げてゐた。その潜在意識の根になつて強く働いてゐるものは、その思索の結果が、現在の生活に対する絶望となり、破壊となるのを恐れる心持であつた。
結婚と云ふ彼女にとつては、思ひがけない、迷惑が始めて迫つて来たのは、彼女がまだ学校にゐた十七の夏であつた。結婚と云ふ多くの事実は、彼女もぼんやり今まで見てゐた。学校の教育がその準備の為めにされてゐる事も知つてゐた。けれど、彼女は、幼い時から教へられたやうに、自分だけは、他の人と違つて、家庭生活に没頭すべき女としてゞはなく、一人前の人間として働くに必要な知識を受ける為めに、勉強してゐるのだと思つてゐた。彼女の知識欲とそれに対する憧憬は、限りなく続いてゐた。そうして彼女は、自分がやがて一人前の人間として全く自由になる日を夢見てゐた。それだのに、思ひがけなく結婚と云ふ問題につき当つた。しかもそれが逸子の周囲で、利用しやうとする程、彼女にとつては不利な事であつた。逸子は最初から耳も貸さなかつた。しかし殆んど強制的に約束は極められた。同時に彼女には悪夢におそはれるやうな日が続いた。彼女は、結婚と云ふ事によつて、自分の今までの長い夢がみんな消えて、つまらない束縛の中に一生をすごさねばならないと云ふ事に耐えきれなかつた。結婚生活にはいれば、そのまゝ思ひ切らねばならぬ、いろ/\な自分の欲求があらん限りの力をもつて彼女を責めた。そして彼女はそれに打ち克つ事が出来ないで、其処から逃げた。彼女は其の場合に、自分のその約束の破棄から、それにあづかつてゐる周囲の者が、どれ程の迷惑や侮辱や苦痛を受けやうと、そんな事を考へてゐるひまはなかつた。彼女はただ、決して下だらない動機から皆に迷惑をかけるのではないと云ふ自信を頼みにしてゐた。又彼女は例へ今、周囲の多くの人達に、自分が、いくらかづゝの迷惑や、苦痛を与へたとしても、若し彼等が、もう少し彼女を自由にさしてくれたら、そのやうな責めは負はずとも済む事なのだから、この場合、彼等の苦しむのは当然のことだと云ふ理屈をも考へてゐた。同時にまた、やがてそれ等のすべてを償ふべき将来がはつきり自分だけには見えてゐた。
逸子を、そんなにも勇敢にして其処から逃れしめたのには、さう云ふ彼女を苦めるいろ/\な理由もあつたが、更らに彼女をそれに対する情熱を煽つた他の力があつた事には、彼女自身も最初は気づかないでゐた。それが谷と、彼女の恋愛であつた。それは、最初には、彼女が気づかない程度で、
谷は、はじめは、彼女が未来に対して持つてゐる夢想に興味を持つた、少数の人々の中の一人であつた。彼女がひたすらに、自己の道に進んで行かうとする切な気持の理解者の一人であつた。そして、彼女の第一の闘争に力添へをしたのであつた。逸子は本当に他意なく彼に近づいて行つた。殊に彼女が、両親の家から逃れ出て来てからは、彼の知る限りの、彼女の周囲の誰彼が、彼女を出来る丈け困惑させて両親の許に戻さうとしてゐる事が激しく彼の反感をそゝつた。とう/\彼は、逸子を彼に近づけまいとする彼の雇ひ主と衝突した。彼はそれを機会にして長い間縛られてゐた仕事から自由になつた。彼はその当座本当に晴々とした顔でゐた。けれど、彼一家の窮乏は目前に迫つてゐた。彼には母親や弟妹があつた。しかし、彼の処置に対して不平を云ふ者はなかつた。それは一緒にゐる逸子への遠慮も多少は手伝つてゐたに相違なかつた。
それを思ふと逸子は辛らかつた。彼女はせめて、この一家の為めに出来る限りの助けにならうと思つた。彼の家族との本当に近い交渉に
両親と、彼女の折り合ひは容易につかなかつた。
彼女が再び両親の家から逃れ出て、谷の許に駈け込んだ時から、二人は本当に離れがたい関係の中にゐた。そうして逸子には、その苦しい闘争の中から自分を救ひ出した恋愛が、どんなに偉大なものに見えたであらう?『自分をあの苦しみに打ち克たしめ、そして正しい道に導いた偉大な力!』それが彼女の恋愛に対する唯一の驚異であつた。その驚異が限りない魅力となつて彼女を惑はした。それが為めに彼女は多くの損失を忍ばねばならなかつた。しかし少々の物質的な損失位は何の顧慮にも価ひしなかつた。彼女はたゞもう、好きな書物によつて幾らかづゝでも知識を得て、未知の世界に這入つてゆくやうなうれしさばかりを想つてゐた。
谷一家の窮乏はます/\激しくなつた。同時に、何時の間にか、遠慮のない家族の一員として取り扱はれるやうになつた逸子の上にもその悩みは、ひし/\とかゝつて来た。もとより、谷の自由で失職したとは云ふものゝ動機がすべて逸子の上にかかつてゐるとすれば、彼女には到底一家の人の苦しみをよそに見てゐることは出来なかつた、その上にまた、やがては呪ひがましい言葉さへ、それとなく彼女の上に投げられるやうになつた。そして逸子は、初めて、今までとは
やがて彼女は、本当に何の用意もなしに、子供を産んだ。その事実の前にも彼女はまた、考へなければならない多くの事があつたのだ。しかし、彼女は、たゞもう眼前に持ち来たされたさういふ大きな事実には、単純な諦めによる承認を片つ端から考へてゆく事より他に何にも知らなかつた。どんな意外な不自然や、どんなに困る事柄が持ち込まれても、彼女はそれを、とても抵抗する事の出来ない、目に見えぬ大きな力の支配によるものだとしてあきらめるより他はなかつた。彼女は、もはや、最初に、両親と争つた時の聡明をきれいに失くして仕舞つたのだ。或は失くしたのではなく、最初から聡明ではなかつたのかもしれない。何故なら、彼女を聡明に、若しくは聡明らしく見せた彼女の主張は、たゞ一に彼女自身の利益と両親のそれとが衝突したのに対して、彼女自身の利益を護る事の方が正しいと云ふ事が、偶然に彼女の熱情を、より強く煽つた丈けに過ぎないから。それ故、彼女がその争ひの後に持つた安心と誇りが、再び従前のレベルにまで彼女を引き戻すのは、何の不思議もない事かもしれなかつた。けれど、彼女は決して、再び自分が其処に戻つてゐるのだなどゝ云ふ事には気がつかなかつた。それから後も一と足/\に、確実に自分の道を歩いてゐるつもりだつた――少くとも彼女自身の物の観方や考へ方の上では――。だが、それが間違つてゐたのだつた。その安心が逸子をして到底たゞでは出られないやうに深味へ陥れてゐるのであつた。何物も正しく観、また考へる事をせずに、只だ『最初の一歩が決して間違つてはゐなかつた。』と云ふ丈けの自信が、無条件に今も同様に間違つてはゐないと思はせてゐる事が逸子には大きな禍であつた。一と足/\に思慮をこめて歩かねばならない時をうつかりして引かれるまゝに歩いて来たのが、彼女を窮境におしこめた。
けれど、と云つて逸子は決して其の自信に
現在の生活の何処かに、間違ひがあることに気づきながら、それから出る事の出来ないのは、第一には谷に対する愛には別だんに何の変化も来てはゐないと云ふ事から、もし現在の生活の不自由を逃れる為めに家庭生活から出るとしても彼と離れて仕舞ふ事の出来ないと云ふ事は明らかに逸子には解つてゐた。しかし、彼との関係が断てない間は、彼を通じての間接の関係を奇麗に断つて仕舞へない事もまた見のがしは出来なかつた。一時は、遠ざかる事があるとしても、それは到底永つゞきはしないだらうと云ふ事は、彼がある上に、またもう一つ新たな絆をもつた子供が、彼女からは離しがたいものであると同時に、彼の方の係累の上にも同じ、離しがたいものである事によつて、明らかに考へられるのであつた。さうなると、彼と、子供とに執着がある間は、この不自由から逃がれる事は到底出来ない事になるのであつた。と云つて、彼を棄て、子供を棄てゝ、自分の自由を通す事が出来るかどうかと云ふ事になつて来ると、問題は、また一層大きくなつて来るのだつた。
逸子は
然し、要するに、出来る丈け楽な気持ちに、いやなおもひをせずに、日が暮れさへすれば、さう云ふ
云ふがまゝに、嫌やな顔も見せずに、出してくれた金を受取ると逸子はほつとした。けれど、かうして、出して貰ふ度びに、まともには龍一の
『どうだい、少しは勉強するひまは出来るかい?』
龍一は重い唇を動かしてきいた。
『駄目です。一日中、用事に
『子供がゐちやそれもさうだらうが、他の人と違つて、あんたは何とかして勉強だけは続けなきやいけないよ、子供の世話や家のことなんかは、成る丈け他の人にでもやつて貰ふやうな工夫をしたらいゝだらうにね』
『えゝ』
逸子はさう返事をするのさへ悲しかつた。何一つ家の中で、自分の手を待つてゐない事はないのだ、それでなくても、若し、一つ二つの事を手伝つて貰つて、
龍一は、逸子の悄れた様子を見ると可愛想な気がして、それ切りで、他の話に移つた。けれど、話は何時の間にかまた元の処に戻つてゆくのだつた。
『谷さんの仕事が、早く見つかるといゝね、そしたら、少しは楽になれるだらう。何しろ毎日の食ふことの心配からしなくちやならないやうぢや、なか/\落ちつく事も出来まいね』
『えゝ、これでその方の心配がなくなればずつと違ひますわ、だけど彼の人も何時の事だかあてにはならないんですもの、私も、もう少し何とか考へなければならないとおもつちやゐるんですけれど』
彼女は、何時までも龍一と、そんな話をつゞけるのは、何となくだん/\に自分の片身を狭めるやうな辛らさを感じるので思ひ切つていとまを告げて帰つた。
『お前さんも、あんまり呑気だよ、用達しに行つた時と、遊びに行つた時とは違ふからね。子供を他人に預けてゆきながら、何時までも
『どうもすみません』
と云つた限り子供を抱いて次の間に這入つた。けれど、母親の気持は何時まで経つても直らないと見えて耳を覆ひたいやうな毒口が後を追つかけて来るのだつた。とう/\逸子もたまらなくなつて云つた。
『
『あたりまへさ、好きで出られてたまるもんかね』
逸子は、そのまゝで黙つてしまつた。不断耐へてゐる云ひたい事のありつ丈けがこみ上げて来るのをぢつと押へて、無心に乳房に吸ひついてゐる子供を抱きしめながら、
『もうあんな事云はれて金なんか出すものか』
と思ひ/\机の上の財布に眼をやつた。其の中には、母親の必要を充分にする金額の三四倍もの金が這入つてゐた。とにかく先刻までは、其の金で、どんないやな思ひをしたにしろ、もう自分の手で自由に使ふことの出来る金だと思ふと何となく、追つかけ/\強い口をきいてゐる母親に対して、皮肉な嘲笑を投げたくなるのだつた。
『いくらでも、何とでも云ふがいゝ。その位云へば、金をくれとはまさかに云へまい。』
意地の悪い逸子の考へは、それからそれへと募つて行つて、果ては、もう少し何とか云ひたい事を云つて、この金で何処か旅行でもして来やうかしら、それとも、もう此のまゝこんな煩さい家は出て仕舞はうか。そんな事まで逸子は考へてゐた。
逸子が、次の間には無関心に、そんな考へを続けてゐる間に母親が何時か黙つてしまつた。谷は朝出かけたまゝで、夕飯過ぎまで帰らなかつた。母親と逸子と二人とも意地悪く黙りこくつて何時までも各々に不機嫌な顔をし合つてゐた。夜になると逸子は子供を早くねかして仕舞ふと、そのまゝ机の前に座つて、四五日も前から半ば読んでそのまゝになつてゐる書物を開いた。座ると不思議に険しい気持が去つてゆつたりと落ちついた気分になり、久しぶりで染々と、書物に対する事が出来たやうな快さを感ずるのであつた。
余程更けてから谷は、ぼんやり帰つて来た。気がついて見ると母親はまだ茶の間で、彼の帰りを待つてゐるらしかつた。逸子は、帰つて来た彼の顔を
『何処を歩いてたの今時分まで』
『
『それで、何とか出来たかえ』
『駄目だ』
『それぢや困るぢやないか、お前は本当にどうしてさうなんだらうね。あんまり意気地がなさすぎるぢやないか、たんとのお金でもないのに。』
『明日どうかするよ』
『明日ぢや間に合ひはしませんよ』
『ぢや仕方がないや』
『仕方がないつて、それぢや済みませんよ、だから、朝もあんなに念を押しといたんだのに、お前のやうに当てにならない人間はありやしない。』
『だつて、いくら念を押したつて間に合はないものは仕様がないや、それよりはお茶を一杯おくれよ』
『お前はそれで済ましてゆけるけれど、お母さんは困つて仕舞ふぢやないか、お前が何時までも、さうやつて意気地なくのらくらしてゐるから、何だつて彼だつて皆家の中の事に順序がなくなつて仕舞ふぢやないか、お前が第一
母親は、今までひとりで長い事考へためてゐた事をまた片つぱしから谷の前に並べやうとしてゐた。だが、それは矢張り今朝散々並べたてた愚痴と何のちがひもなかつた。けれどやがて、何を、何う云つても、平気な顔で、聞いてゐるのかゐないのか分らないやうな谷の態度に、何の手ごたへも感じなくなつた母親は、とう/\終りには、独り言のやうな調子から涙声になつて、黙つてしまつた。逸子は、同じ極りきつた事だ聞きたくもないと思ひながら、どうしても、その愚痴が耳について、一たん其処に向いた注意がどうしても、書物の上に帰つて来なかつた。けれど、まだ、逸子の固く閉ぢた先刻の気持は、何処までも開かないで遠い冷たい気持ちで、次の間の話を聞いてゐた。心の奥底の方の何処かでは、いゝ気味だと云ふやうな笑ひさへ浮べてゐるのであつた。
次の朝も、てんでに、自分の冷たい気持をかばふやうに、出来る丈け不機嫌な顔でゐた。朝の仕事を一とわたりして仕舞ふと、逸子は他に対するのとはまるで反対に、自分ひとりは極めて
『坊や、をとなしいね、母ちやんは何してるの、また御本かい、本当に仕様のないお守りさんだね、昼日中子持ちが机の前で本を読んでゐるなんて、とんでもない話だ、
逸子は頓着なしに、そのまゝ強情に机の前から離れないでゐた。彼女の気持はもうすつかりこぢれて仕舞つてゐた。遅く眼をさまして起きた谷は、まだ御飯がすむと直ぐせき立てられて立つて来たが、暫く椽側にしやがんでゐた後に逸子の方に向いて
『お前の方ではどうにかならないかい』
と出来るだけ平気な顔で聞いた。
『駄目ですよ、あなたはまた他人におしつける気でゐるんですね。偶にはひとをあてにせずに何とかしなさいね、あんまりだわ』
逸子はプン/\しながら隣室にも聞こえるやうな声で冷たく云ひ放つた。
『何て意気地のない男だらう』
さう云ふ考へが何の前置きもなく、今、かつとした気持の後から浮んで来ると、何時か書物に向けた注意は離れて仕舞つた。心の底からこみ上て来る
逸子と、子供が植物園で、散々遊び疲れて帰つたのは、もう日暮れに近い時分だつた。予期した通りに、母親の姿はもう見えなかつた。谷は陰欝な顔をして庭先きに突つ立つてゐた。それを見ると、逸子の気持は急に暗い処に引き込まれるやうに沈んで行つた。
『あゝ、つまらない!』
逸子はもう、何も彼も投げ出して仕舞ひたいやうな
二時間も経つと逸子は眠りからさめた。あたりはひつそりしてゐる。漸く自分の時間が来たやうな安易さを感じると同時に逸子は一たん起しかけた体を、また楽々とのばしながら、何処ともなく眼を据えて、何を考へるともなく、ぼんやりしてゐた。しかし、そのまだ醒め切れないぼつとした顔の隅の方から、昼間の不快さが頭をもたげ始めて来ると、逸子はそのまゝ体を起こした。彼女は、
『何故かうなのだらう』
意気地のない自分を忌々しがりながらも、どうしても打ち克てないで、とう/\机の上から眼を放すと、色々な考へが一度におしよせて来るのだつた。
『あの金にどんな顔をして手を触れたらう?』
そんな事を先づ思つて見る。あの遠慮もなく与へた侮辱の後で、あの金を見て、谷がどんな気がしたかは、逸子には充分解つた。夫を思ふと同時に、夕方始めて見たときの暗い顔つきが思ひ出される。少しひどかつたかもしれないけれど、偶には仕方がない。彼の人は、自分では決して嫌な思ひをしないで済す事
『何んだ、まだこれを読んでしまはないのか、こんなものを幾日かゝるんだ?』
谷は、逸子の机の傍に座ると直ぐ、書物の頁を返しながら云つた。
『毎日々々、用にばかり追はれてゐて、読む事も何も出来るもんですか、あなたとは違ひますよ』
今が今まで考へてゐた、谷に対する感情をそのまゝむき出しに、弾き返すやうに云つて逸子は口を一文字に引き結んで黙つた。思ひがけないやうな返事に出遇つた谷はムツとしたやうに後の言葉をそのまゝ引つこめて暫く無言でゐたが、やがて穏やかな調子になりながら話かけた。
『そんなに、用と云ふ用を皆んな、お前がしなくつても済むだらう? いちんちあくせくして騒がないで、何とかもう少し時間の出るやうな工夫をすればいゝぢやないか』
『そんな事は、今更あなたの指図を受ける迄もないんですけれど、そんな事とても駄目です』
『何故だい、家の中の用はお糸だつて、お母さんだつて、やれない事はないんだし、骨の折れないものを読む位の事は、守りをしながらでも出来るだらう? 夜だつて、かうして相応に時間はあるぢやないか』
『さう、はたで見てゐるやうなものぢやありませんよ。どうして、皆書物をよむのは無駄話をするよりもぜいたくな道楽だ位にしか思つてはゐないんですもの。その為めに時間を
『まさか道楽だとも思つてやすまい』
『思つてやすまいつて、今朝だつて、あんなに云つてゐたのが分らないんですか』
『そんなら、黙つてゐないで、道楽でない事をよく話してやればいゝぢやないか、黙つてゐたんぢや何時までたつても、解りはしないよ。』
『さう思ふんなら、あなたが話して下さいな。私ぢや駄目なんですから』
『自分の事は、自分で話せばいゝぢやないか、何故駄目なんだい?』
『私が云つたんぢや、変にとられるばかりです。あたりまへの事だつて彼の人達にや、何一つ、私の口からは云へないんですよ。』
『そんな、馬鹿な事があるもんか、それはお前の余計な、ひがみだ、云はないでゐるだけ自分の損ぢやないか。云ひたい事はずん/\云ひ、為たい事はどし/\構はず為るさ、下だらない遠慮をしてゐるから馬鹿を見るのさ。』
『私と彼の人達の間と、あなたと彼の人達の間は別ですよ、決してひがむ訳けぢやありませんけれど、あなたが、どんな云ひたい事を云はうと、為たい事をしやうと、何んでもない話です、よし一時は怒つたり怒られたりしたつてその場きりで済みますけど、私ぢやさうはゆかないんです。あたりまへな事を一つ云つても十日も廿日も不快な顔ばかりしてゐられたり、辛らい事を聞かされるのぢや、やりきれませんからねえ』
『ぢや仕方がない、どうともお前のいゝやうにするさ』
彼はさう云つたまゝプイと立つて行つた。同時に逸子の頭の中では、彼の冷淡な、おもひやりのない態度に対する怒りが、火のやうに、一時に
逸子は、さう思ふと、もう再び彼と話しても無駄だと云ふ事を知つてゐた。矢張り自分で解決するよりは仕方がなかつた。もうかうなれば、自分のやつた結果が、どう彼に影響しやうと構まうものか、逸子は反抗的にさう云ふ事さへ考へた。そう思つてゐるうちに、ふつと彼女は其処で、彼の或態度に突当つた。夫は、彼自身が、何時も主張するやうな積極的な態度から、始終逃げて許りゐる事であつた。些細な日常の事の間に起て来る他との交渉に対してすら、彼は出来る丈け避けたがつてゐた。
『面倒くさい、いゝ加減にやつてくれ』
さう云つて大抵の事は、逸子や母親にまかしてゐた。或場合には、面倒くさい事以上の不快や損が、その結果の上に表はれて来る事が当然に解つてゐてさへ、矢張り彼は、そのまゝ、其処に座りつきりにしてゐた。
『お前は懐手をしながら勝手なことばかし云つてゐるんだもの、ちつとは、自分で手を出して御覧、それで世間が通つてゆくものだかどうか。』
母親も時々は、彼のさうした態度に怒つて云つた。
『俺は世間なんか相手にしやうと思はないよ』
『さうはいきませんよ、そんなに威張つてお前、ちつとも威張る丈けの事をしないぢやないか、お前がそんな勝手な太平楽を並べるのだつて、皆世間へ向つては私たちが代りをしてやつてるからぢやないか』
逸子の頭には、そんな会話が切れ/″\に、浮んで来るのであつた。
『さうだ、今彼の人の云つた事だつて、私が考へた程の深い考へで彼の人は云つたのぢやないのかもしれない。私は今、ひよつとしたら、私の気のよわいのを叱つたのかもしれないと思つた。何だか、彼の人の冷淡さを怒りながらも、私のコンヴエンシヨナルな遠慮や気がねで、譲歩してゐる態度が彼の人には不快に見えたので、あゝ云ふ冷淡な態度を見せたのかもしれない等とおもつてゐた。けれど、実際は屹度、私と、家の人達との間の面倒な事を知りぬいてゐるものだから、間にはいつて話をするのが煩さいのであんな事を云つたのかもしれない。』
さう考へて来て、逸子はまた彼に対する腹立たしさを呼び戻すのであつた。
『煩さいには違ひないけれど、今日まで、私の苦しんだのに比較すれば、何んでもない事なのぢやないか』
逸子の考へたやうに、谷は、逸子と母親たちの間に這入るのは面倒でもあり煩さくもあつた。殊に、さう云ふ問題では母親と話をするのは、逸子が考へてゐるやうに容易な事では決してなかつた。ひよつとすると、逸子自身が直接に話すよりは、もつと解りが悪いかもしれなかつた。それにまた、一度、仲にはいれば、これから始終、何かの度びに、自分が口を出さなければならなくなるおそれがあつた。それも谷としてはたまらない面倒な事であつた。それよりはどの点から云つても、逸子自身で解決するのが一番正しい事でもあり、案外都合よく行きさうに思はれたのであつた。今は彼女はいろ/\な不安をおそれてゐるけれど、若しどうしても必要に迫まらるれば、どうしても手を下すには相違はないし、一度手を下せば恐れた程の事はなくて済むものと、彼は多寡をくゝつて冷淡に構へてゐたのであつた。
けれど、逸子はだん/\に、彼の態度に対してそれからそれへとさぐり続けていく。
『若しも彼が、たゞ単に煩さいからと云ふだけの理由でなく、自分のコンヴエンシヨナルな態度に不快を感じたからだとしても、果して彼自身は、自分の態度を非難する程、種々な面倒くさいと思はせるやうな小さな事ではなく、もつと大きな、意味をもつた情実に対して強く、勇敢であり得るだらうか? 彼が、それに対して、反抗心と云ふよりは
其処まで考へて来ると、彼女はハタと突きあたつた。同時に、それは彼の態度についてのみでなく、純然たる自分が今自分に就いて考へなければならない根本問題である事に気がついた。
彼女もまた、
『それ程弱くなつてゐても、まだ憎悪と反抗心は自分もチヤンと握つてゐる。彼が出来る丈け、それを抱へながら逃げてゐるやうに、自分も、それを隠くしながら捨てないでゐる。』
隠くす程なら捨てゝ仕舞ふか、それが惜しければ、もつと堂々と持つか、どつちかに今度と云ふ此度は極めなければならないと云ふ事が、逸子には重々しく本当に真面目に考へられた。
『もう、この上は、どんな結果が来ても仕方がない、自分だけの事をやつて見やう、下だらない、遠慮も譲歩もなしにやつて見やう、さうして、本当に自分の生活を確かにするより他はない。』
けれど、その決心の下から直ぐ弱い気持が頭をもたげ出す。
『今まで続けて来た譲歩をみんな取り返した処で、決して自由にはなり得ない、その譲歩の何倍、何十倍も押し戻さなければならない』
それは当然の事だつた。けれど逸子にとつては当然のことでも、他の人にとつては、寧ろ無法としか考へられない事に違ひない。さうして起る両者の争ひが、何処まで続く事だか解らないと云ふ事は、如何に気強くそれに向はうとする逸子の心をでも暗くせずにはおかなかつた。必ず打ち克てると云ふ確信は持つ事が出来ても、それは結局一家内のおさまりをつけると云ふ仕事に過ぎないのだ。一歩外に踏み出せば、矢張り同じものが待ちかまへてゐるではないか。習俗と云ふ不自由と不合理は、何処までもついてまはつてゐるのだ。かうした事を考へてゐる現在の、自分の内にすら潜んでゐるのではないか。ではどうしたらいゝのだらう? 彼女は自然に自分の大事な考への
自分は今、自分自身を育てたい為、いろ/\な不自由から逃れやうとしてゐる。けれど、それは何の為めに自分を育て養ふのだらう? 自分と云ふものが、家庭の中に、育児の中に何故見出せないのであらう? そしてまた、それ以外の何処に見出せるのであらう? 家庭生活の中にだつて育児にだつて、何処にだつて、自分は見出せる。自由になることは出来る。けれど、既成の古い情実を多分に持つた他人の家にはいつた自分は、それ丈け、自分を自由に振舞ふには、自分とは、全るで違つた幾人かの人を犠牲にしなければならないのだ。現在の生活で自分を
考へは矢張り一つ処に帰つて来る。要するに、もう現在の人間生活の総ての部分に、不自由と不合理は当然なものとしてついて廻つてゐるのだ。それに立ち向はうとすれば、唯だ、始めから終りまで苦しまなければならないのだ。諦めて、到底及ばぬ事として見のがして仕舞ふか、苦しみの中にもつと進み入るか、幾度考へ直して見ても、問題はたゞ、その一点にばかり帰つて来るのだつた。
諦めて引き返すか、思ひ切つて前に進み出るか? もう幾十度となく考へた問題ながら、何時でもその一点に来て、どうしてもそれを極める事が出来ないのであつた。
しかし、それは、本当にきまらないのでは決してなかつた。何故なら、『諦める』等と云ふ事は、彼女の平素の主張からも、またこの苦悶の出処を
さうした、多少はつきりした考へが、何処かで
『どうしても、この家からは出なければならない。』
逸子は、考へれば考へる程その覚悟を強ひられた。出来る丈けの努力をして、家族の人達に対抗して、自分の考へを押し立てるとしても、かれ等の力も強い。その周囲の考へも後楯てになる。その上に、嫁と姑小姑と云ふ悪い概念を持つた関係にある。それ等のいろんな事から云つて、この争ひは何時まで続くかしれない。その位なら、もつと根本的なものに迫つてゆく、大きな広い闘争の仲間入りをした方がどの位いゝかしれない。効果の上から云つても、自分の気持の上から云つても、大変なちがひだ。少々の批難位は何んでもない、
『出よう、出よう、自分の道を他人の為めに遮ぎられてはならない。』
一たん其処まで決心が来ると、今まで自分の考へを邪魔してゐた、いろ/\なものゝ姿が
逸子はどうしても家を出やうと決心した。そして谷との間の事もどうにかしてもう少し自由なものにしたい、場合によつては絶縁をしてもいゝと思つた。そして本当に学生時代に帰つて勉強しやうと思つた。それのみが一つの気がゝりだと思つてゐた子供の処置も決して面倒な事はなかつた。家庭の事情から云つても、彼女が連れて出るより他はなかつた。そして、彼女が連れて出るのなら子供はさう不幸な状態にならずにすみさうな方法がとれさうに思はれた。
逸子は其の固い決心から実行に移るべく、種々な具体的な計画について二日ばかりは熱心に考へ続けた。其の間にも彼女の決心を打ち砕かうとする彼女自身の臆病が、次から次へと種々な不安や苦痛の暗示を押しつけるのであつた。けれど彼女の考へは今はもうどのやうなものにも負けまいとする強い張りをもつてそれ等のものは苦もなく突き飛ばしてゐた。
逸子の考へは隅から隅まで片附いた。彼女はその安心と同時に、はじめて二三日ぶりで染々家の内を見まはした。家の日課は滞りなく果たされてゐた。彼女自身もこの二三日考へ事は続けながらも体は忙しく働かしてゐた。本当に珍らしく、彼女がその重大な考へを続けるのを妨げない程、平穏無事だつたのだ。
『此度機会が来たら――』
現在保つてゐる此平穏な空気を、故意に乱すでもあるまいと、逸子は出来上つた決心をそのまゝそつとして、機会を待つた。
毎日、気持のいゝ秋晴れが続いた。彼女は朝から忙しく、洗濯や、掃除や、そんな事に立ち働いて、折々は子供の相手になつてやりながら、呑気らしく子守歌を歌つたりした。そして、夜は疲れた体を横にすると、そのまゝ、ぐつすりと眠り込んでしまふのであつた。子供も、秋風に肌心地がよくなると目に見えて、をとなしくなつて来た。四五日すると母親は陽気な笑顔を見せて帰つて来た。家の中には隅々まで
[『新日本』第八巻第一〇号・一九一八年一〇月号]