新らしき女の道

伊藤野枝




 新らしい女は今迄の女の歩み古した足跡を何時までもさがして歩いては行かない。新らしい女には新らしい女の道がある。新らしい女は多くの人々の行止まつた処より更に進んで新らしい道を先導者として行く。
 新らしい道は古き道を辿る人々しくは古き道を行き詰めた人々に未だ知られざる道である。又辿らうとする先導者にも初めての道である。
 新らしい道は何処から何処に到る道なのか分らない。従つて未知に伴ふ危険と恐怖がある。
 未だ知られざる道の先導者は自己の歩むべき道としてはびこる刺ある茨を切り払つて進まねばならぬ。大いなる巖を切り崩して歩み深山に迷ひ入つて彷徨さまよはねばならぬ。毒虫に刺され、飢え渇し峠を越え断崖をぢ谷を渡り草の根にすがらねばならない。くて絶叫祈祷あらゆる苦痛に苦き涙を絞らねばならぬ。
 知られざる未開の道はなを永遠に黙して永く永く無限に続く。然も先導者は到底永遠に生き得べきものでない。彼は苦痛と戦ひ苦痛と倒れて、此処より先へ進む事は出来ない。かくて追従者は先導者の力を認めて新らしき足跡を辿つて来る。そして初めて先導者を讃美する。
 然し先導者に新らしかりし道、或は先導者の残せし足跡は開拓しつゝ歩み来し先導者にのみ新らしい道である。追従者には既に何等の意義もない古き道である。
 かくて倒れたる先導者に代る先導者は更にまた悲痛に生きつゝ自己の新らしき道を開拓しつゝ歩いて行く。
 新らしきてふ意義は独り少数の先導者にのみ専有せらるべき言葉である。悲痛に生き悲痛に死する真に己を知り己を信じ自己の道を開拓して進む人にのみ専有さるべき言葉である。何等の意義なき呑気のんきなる追従者の間には絶対に許さるべき言葉でない。
 先導者はづ確固たる自信である。次に力である。次に勇気である。しかして自身の生命に対する自身の責任である。先導者は如何なる場合にも自分の仕事に他人の容喙ようかいを許さない。また追従者を相手にしない。追従者はまた先導者の一切に対する批判者の資格を有しない。権利がない。追従者は唯だ先導者に感謝しつゝその足跡をたどるより他はない。彼等は自から進む事を知らない。彼等は先導者の前進にならつてやうやくその足跡を辿つて進む事が出来るのみだ。
 先導者は先づ何よりも自身の内部の充実を要する。斯くて後おもむろにその充実せる力と勇気と、しかして動かざる自信と自身に対する責任をもつて立つべきである。
 先導者は開拓しつゝ進む間には世俗的の所謂いわゆる慰安などは些もない。終始独りである。そして徹頭徹尾苦しみである。悶えである。不安である。時としては深い絶望も襲ふ。唯口をついて出るものは自己に対する熱烈な祈祷の絶叫のみである。故に幸福、慰安、同情を求むる人は先導者たる事は出来ない。先導者たるべき人は確たる自己にくる強き人でなくてはならぬ。
 先導者としての新らしき女の道は畢竟ひっきょう苦しき努力の連続に他ならないのではあるまいか。
[『青鞜』第三巻第一号附録、一九一三年一月号]





底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
   2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「青鞜 第三巻第一号附録」
   1913(大正2)年1月1日
初出:「青鞜 第三巻第一号附録」
   1913(大正2)年1月1日
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:雪森
2014年11月14日作成
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