背負ひ切れぬ重荷

伊藤野枝




 今から、六七年ばかり以前に、私の郷里で非常に善良なをとなしい一人の女教師が、自宅の前の溜池で自殺を遂げた事があります。
 その死は、いろ/\な意味で、その周囲には深い注意をもつて観られたやうであります。しかし、私の聞いた処に依れば、彼女の自殺の原因らしいものはいくつも有りまするけれど、その何れもが極めて薄弱なもので、その為めに死ぬには、あまりに呆気あっけなさすぎるものでありました。それに此の女教師は、それに対しては極めて周到な用意をして居りました。彼女は、怠らずに日記も書きました。他人との手紙の往復もかなりによくしてゐました。それからまた、時たま、感想めいたものもよく書いてゐたに相違ないのであります。それにも拘はらず、彼女の死後その居室いまには文字を書いたものと云つては、殆んど何一つない位よく仕末されてありました。持物と云ふ持物もまた、何時誰の手に改められてもさしつかへのないやうに、几帳面に整理されてありました。彼女はもう、ずつと前から、人知れず、さうした整理をしてゐたものに相違ありません。それ故、如何に臆測好きな人達でも、全然根拠のない臆測を公然と真実めかして話すのもはばかられるのか、誰れも、その死因は判然しないと云つて居ります。それに、よくさうした若い女の自殺にまつわる種類の臆測をこの女教師の上に無遠慮に持つて来るには、彼女は、あまりに人々の人望を集めすぎてゐました。
 しかし、人々の好奇心は、その解らないとされた点に向つては、内々余計に執拗に働いたやうであります。それ故、彼女を知つてゐる、極く少数の人々の集まる処では、当時何よりも、矢張りそれが問題になつたやうであります。そして其処では、お互ひの臆測が、可なり遠慮がちながらも話されるのでありました。
 その人達によると、彼女の死因は、家庭内の複雑な関係から起る不和によるとも云ひ、彼女の不幸なラヴ、アツフエアからとも云ひ、また生来の多病を悲観してとも云ひます。しかしそれは何れも、死因としては非常に薄弱なものであることは、それを話してゐる人達でさへも認めてゐるのであります。

 その女教師は、その時たしか二十三だつたとおもひます。非常に素直で内気な、どんな事があつても、余程意地くね悪い人でゝもなければ彼女をにくむことは出来ない程善良な人でありました。彼女は生徒を可愛がるよりも、むしろ生徒の方から、いぢらしがられる程の人でありました。どんな悪い生徒に対しても、叱ると云ふやうな事は到底出来ない人でありました。もし教師として、どうしても或る生徒に対して所謂いわゆる訓戒の必要が起つて来ると、彼女は本当にそれをするのが如何にも辛さうに、或場合には、彼女は遅くまで生徒を残しておきながら、どうしても叱る事が出来ずに時間が立つてゆくので自分の腑甲斐なさに愛想をつかしながらも、とう/\そんなに遅くまでも残した事をづわびて、やつとお役目を済まして、生徒を遠くまで送り届けてすらやるのでした。また或場合には、彼女はどうしても小言こごとを云ふ事が出来ずに、その小言を云ふ筈の生徒を悲しさうに見送りながら、何んでもないおはなしをして帰しました。また、或時には、彼女は少しばかり生徒を責めた後で、隅つこの方に行つてポロ/\涙を落してゐたりしました。
 非常に内気で、気が弱かつたやうに、体も彼女は殆んど取り柄がない程悪かつたのであります。心臓も、腎臓も肝臓も、それから視力も非常に弱つてゐました。よく頭痛がすると云ふ事も云つてゐました。その他、彼方此方あちこちいけなかつたやうです。彼女はその体の話が出ると、自分の健康には殆んど何んの望みも持つてはゐないやうに、諦め切つてゐました。随分その悪い健康の為めに悲観したやうな事を云つてゐましたけれど、実際はもう諦め切つてゐて何の未練も持つてはゐないやうでした。従つて、それが悲観の種になる筈はどうしてもないのです。けれども、そのよわい肉体が彼女の心持を内輪に/\と抑へてゐたのは、事実だとおもはれます。
 彼女の家庭内の事情は、何かあるらしいとは云ひますが、それは判然しません。たゞ、当主が彼女の姉の養子で、その姉と彼女とは腹違ひだと云ふこと。従つて、彼女や、彼女の姉妹達や母親などと、その姉夫婦の間に気まづい多少の事は有つたに相違ありません。しかし、かうした他の家庭内の臆測は往々まるで見当違ひなものゝ方が多い位ですから、これも、分らない方が本当だとおもひます。
 彼女のラヴ、アツフエア、これも或点までの事実をもとにした臆測で、やはり信じていゝか悪いか分らない程度のものであります。彼女がある病身な、独身の男に対して、同情を表してゐた事実はあります。しかし、果してそれがラヴであつたかどうかは分りません。
 要するに彼女が何故自殺したか。それはどうしてもはつきり解らないのです。ぼんやりすらも、分らない人には分らないのです。
 けれども、彼女は決して何んでもなく死んだ訳ではないのです。彼女はどうしても死ななければならなかつたのです。人々の間に深い疑問となつてゐるその死因は、不思議にも、私ひとりには書き残されたのであります。彼女の死因は『死なねばならぬ事情』位のなまやさしいものではなかつたのです。彼女の全生活が、苦しい、重い、とても背負ひ切れぬ負担だつたのであります。彼女はその負担からどうかしてのがれようとしました。しかし、それには先づ生きる事から先きに止めなければならなかつたのです。そんな苦しい負担とは一体何んだつたのでせう? 彼女が最後まで呪つた、彼女をその死地に導いたものは実に、彼女の善良さでありました。内気な事でした。気弱な事でありました。

 私は、彼女にたつた一学期教へられた生徒なのであります。そうして、そのたつた一学期で、私達はお互ひに、又とない仲よしであり得るやうになつたのです。私は彼女とはまるで反対に、我儘わがままで強情で小さな反抗心に満ち満ちた不遜な生徒でありました。そしてまた多くの教師達から愛想をつかされ、悪まれてゐました。けれど、私もまたそれ等の教師達に対しては反抗し、侮辱してもいゝだけの理由はちやんと握つてゐたのです。
 私の強情で不遜な事の攻撃は、みんな、受持教師である彼女の処に集まつたやうであります。彼女は、何時でもその職員室で、不良生徒として私の名が出る毎に、本当に辛らさうに頭を下げてゐたと、後でよく私に話して聞かした彼女の同僚があります。それでゐて、彼女はつて私に対して訓戒がましい事を云つた事がありませんでした。
 其の時分から、彼女の心には絶えず、何かの苦悶があつたらしく思はれます。彼女は、そのとき基督教キリストきょうの信仰に這入はいらうとしてゐました。しかしそれも、彼女を捉へる事は出来なかつたやうです。彼女はしよつちゆう、何か考へ事をしてゐました。私はよく、彼女が授業中に、生徒の机のまはりを歩きながら、目に一杯なみだを溜めて何か考へてるらしい様子を不思議に思ひながら、見ました。
 彼女が身を投げたその溜池は、周囲が山になつてゐて、ずつと高い処にありました。私は学校の帰りに、よく彼女に連れられて、其処にゆきました。堤に座つては、私達はよく歌ひました。彼女は私にいろいろ自分の好きな讃美歌などを歌はせては、黙つて何か考へながら、遠くの方を見てゐました。
『ね、本当に立派な人つて、どんな人だとあなたは思ひます?』
 不意に彼女は、こんな事を問ひかけて、私を困らすことが、時々ありました。
『他人から賞められる人が本当に立派な人だとは限りませんよ。賞められなくつてもいゝから本当に立派な人になつて頂戴。決して世間の人から賞められやうなんて思つちやいけませんよ。』
 本当に、染々しみじみと、私の顔を見ながら、涙をためて云ひ聞かされた事が、二三度や四五度ではきゝません。もし私が彼女から先生らしい言葉を受け取つたとすれば、その言葉位のものだと思ひます。
『あなたは、随分強性ごうじょうつぱりで、強いくせに、私と一緒のときには、どうしてそんなにをとなしいの。いけませんよ、私を見習つちや。私と一緒にゐるときには、他のときよりは倍も倍も強性を張つていゝのよ、我まゝになる方がいゝのよ、私の真似なんかしては本当にいやですよ。私は弱虫で泣き虫で、意気地なしなのよ、私のやうに弱虫になつたら生きては行けなくなりますよ。』
 思ひがけない熱心さで、よくそんなことも云つてゐました。

 彼女と別れて、二年後、私が女学校の五年になつたばかりの四月の末頃かと思ひます。私は彼女から長い/\手紙を受け取りました。
 それには、何時もの通りに、自分の方の細かしい消息を書き、私のこの頃の生活を聞きたいと云ふ事、私に会ひたくてたまらないと云ふ事、自分の仕事が、もう本当につまらなくなつた事、この先きの事を考へると、何をする気にもなれない等と、彼女が近頃自分自身の生活に対して持つてゐる感想をうちあけたものでありました。私は、それ等の一字一句もよみ落すまいとして、貪るやうに読み進んでゆきました。
 すると、だん/\に、私には何だか分らないやうな――悲しいやうな、恐いやうな気のする――ことが書いてありました。それは、その七月の末、暑中休暇になつたら帰省する筈の私に会ふ楽しみが、ひよつとしたら、駄目になるかもしれないと云ふ事でした。
『私は本当はもう、とうから生きる力をうばはれて居ります。あなたには、会ひたくて会ひたくて、今かうして手紙を書いてゐるのも、もどかしい程会ひたいのです。会つて、いろんな事を話したいとおもひます。けれども、あなたに会ふのには、まだあと二月も三月も待たねばなりません。待てればどんなにしても待つてゐたいのですけれど、とても、待てますまい。それで私は、もう前から、あなたに会つたら話さなければならないと思つてゐたことを、此処に書いておきませう。もし万一、会へたら、そのときにはもつと/\よくお話します。けれど、とにかく私があなたにけ話しておきたいことを書きます。』
 そう云ふ前置きで、書いてあつたことは、彼女の、三四年間の『苦しみ』でありました。
 その『苦しみ』は、当時の私には、どうしても解しがたいものでありました。それはあまりに思ひがけない、彼女が受けた愛と尊敬による損害に就いてゞありました。
 内気で素直に生れついた彼女は、小さい時から、決して他人の機嫌に逆らふやうな事はありませんでした。彼女は本当に素直ないゝ子供として、大人からの賞められ者でありました。けれど、彼女は、それを嬉しいと思つたことは一度もなかつたと書いて居ります。そのどんなに賞められても嬉しがつて得意になるでもなく、賞められゝば賞められる程、ひかへ目になつてゆく彼女を、大人達は、なほと感心しました。さうして彼女はだん/\大きくなつたのでした。どんなに、賞められやうと感心されやうと、嬉しくも、苦しくもなかつたことが、やがて、少しづゝ苦しくなり出して来ました。自分のその苦しみを感じ出したのは、彼女が本当に一本立ちになつて、大ぜいの子供達の教師になつた時からでした。彼女は、もう、此度はどうでもいゝ処に自分を置いておく訳にはゆかないやうになつたのです。自分の意志を少しづゝ出さなければならないやうになつて来たのです。さうして、他人の意志と、自分のそれとの間に、衝突が起つて来、それに対する判断が必要になつて来ました。今迄は、一も二もなく片づいた事が、さうなると非常にむずかしくなつて来ました。他人の意志よりは先づ自分の意志に就いて、考へて見なければなりませんでした。さうして自他を対立さして見て、何方どちらかにきめなければなりませんでした。さうして、度々、自分の考への方が正しいやうな気がしながら、彼女は永い間の習慣から、他人を不愉快にしたり、怒らしたりするのが嫌やさに、知らず/\、自分の考へを引つこめてばかりゐるのでした。けれど、それが、どうかすると、恐ろしく気がとがめるやうになりました。他人と自分と云ふものに就いて、だん/\に考へ始めました。
 今迄は平気で、自分を譲ることが出来たのに、なまじ自分の考へと云ふものが浮ぶやうになつてから、彼女は一つ他人の考へを受け容れるにも種々いろいろと考へ迷はなければなりませんでした。種々な点で気がとがめたり、不快だつたりしました。また、自分は何んでも他人にゆづつて善人ぶつてるのではないかと云ふ自省、或は他人にさう云ふ風に思はれてはゐないだらうかと云ふやうな事まで、気になり出して来ました。殊に、他人の考へ通りに事をして、それが失敗したとき等は、彼女は何んとも云へぬ嫌やな心持を誘はれて、矢張り、他人が反対しても何んでも自分の意志どほりにするのが本当ではないだらうかと云ふやうな事も考へたりしました。
 けれど、やがて彼女は、基督教の説教を聴くやうになりました。そして彼女は、容易に、その教への中に這入つてゆくことが出来ました。伝道師達が、さも六ヶしさうに説く、他人に対する寛大さや、愛他的な気持や犠牲的行為は、彼女には、何んでもない事でありました。人々は、大変立派な信者だと云つて讃めました。けれど彼女には、すべてが物足りなく寂しかつたのです。もつと深い力強い、何かを彼女は教へて貰ひたかつたのでした。
 やがて、彼女が、本当に自己に目醒めなければならない時が来ました。此度は、他人の意志よりも、本当に彼女自身の決断を待たねばならないやうな事件が後から/\起つて来ました。しかし、そんな事件が起つて来ても、永い間癖づけられてゐるやうに、彼女は先づ自分の意志は引つこめておいて、他人の意志をうかがふのでありました。もしこれらの場合でも、その、自他の意志の衝突に、大して強いものがなければ、彼女は矢張り容易に、今迄どほりの道を歩いて来たに相違ありません。しかし、不幸にも、凡てが、彼女の意志と他人の意志とを、両端に持つてゆくやうな事柄ばかりでありました。彼女の本当の『苦しみ』が其処で深味をましたのです。彼女は其等の事柄に対しては、自分の意志に、充分の強味を認めるのでありました。けれど、もし彼女が、その強味を信じて、自分の意志通りに事を運べば、彼女は忽ち凡ての人を敵にしなければならないやうなはめになるのでありました。そんな事は善良な彼女にはとても堪え切れない恐ろしい事でした。彼女は、それに一つ/\苦しい譲歩を続けて来ました。しかし、とう/\最後に来ました。彼女の周囲のすべてのものが、彼女を、はさみ打ちに合はした。両面から、彼女の真実を問はうとする。その苦境に、彼女はもう長いことゐるのだと云つてゐるのです。

 その長い『苦しみ』の果てに、彼女は、本当に、彼女の真実の道を発見しました。彼女が真直ぐに其の道に突き進むことが出来れば、彼女の『苦しみ』はもう終りになるのです。けれど、彼女は、ハツキリ見えてゐるその道を進むことが出来ないのです。何故なら彼女は、勇気を持たないのです。彼女が本当に、その自分の目に見えてゐる道に進んで行くのは、一方の人達に対する謀反になるのです。けれど、その謀反は、正しい謀反でなくてはならないのです。しかし彼女には、その謀反が出来ないのです。彼女は他人から受ける憤りやくしみと云ふものに耐へる力がまるでないのです。彼女は自分でよくそれを知つてゐました。賞められ者であることは嫌やでならないのですけれど、悪くまれるのも恐いのです。そしてそのどつちもが、強く彼女を捉へてゐるのです。と云つて、そのままでゐれば、彼女はたゞ無暗むやみと苦しむだけなのです。そして後から後からと、その苦しみをますやうな実際問題が出て来るのです。
 彼女は、その発見した自分の不徹底を、卑怯を、嘲けりもし、憤りもし、悲しみもしてゐるのです。それでも、彼女は、其処を切りぬける事が、どうしても出来ないのです。そして、何処までも追つかけて自分を放さない、その不徹底から来る内面的な苦痛と実際問題に対する懊悩から逃れるには、死ぬより他に途はないと思ふ程の自分は卑怯者だと彼女は書いてゐるのです。本当に自分の卑劣さを笑つてくれ、私ほど悪者はない、少しばかり悪くまれるのがいやさにお仕舞まで他人をだまして賞めて貰ひたがつてゐる自分は何と云ふ浅間しい人間だらう?、とも書いてゐます。さうして、私をいゝ例にして、あなたは決して、私のやうな卑怯なまねをしないでも済むやうに、強いしつかりした人になつてくれとも彼女は繰り返し/\書いてゐました。

 私は、何んだか、その手紙を見てゐるうちに、急に今にも彼女は死にさうな気がし初めました。まさか、と思ひながら、もうひよつとしたら死んだかもしれないと云ふ気さへするのでした。しかし、かく私は大いそぎで、返事を書きました。夢中になつて、長い手紙をかきました。何を書いたかそれさへ覚えない程昂奮して書きました。その中で、たゞ、私が帰るまでは、どんな事をしても無事でゐてくれるやうにと、私はそれをいくつ書いたかしれない事だけは、よく覚えてゐます。
 その手紙には、一週間たつても、十日たつても返事がありませんでした。不安で不安でたまらない気持も、その内にはだん/\うすれて来ました。しかし、とう/\五月の上旬の或る朝、私は彼女の友達から、その自殺の知らせを受けとりました。私は何だか、当然のやうな気もすれば夢のやうな、嘘のやうな気もしながらホロ/\涙を落した。その長い最後の手紙は、私への書き置だつたのであります。暑中休暇が来て、私は帰省しました。私と彼女の交りを知つてゐた人々は、種々なことを私に話して聞かせました。そして、彼女の死がどんな風に世間の人達に受け容られたかと云ふ事等には、殊に皆んなが力を入れて話してくれました。彼女が生前、どんなに多くの人望を担つてゐたかと云ふ事を説明する為めに――。
 私は聞く度毎に悲しい事ばかりでありました。そして誰が、その人望や尊敬が彼女を殺したのだ等と考へてゐる人があらう?と思ふと、本当に彼女程気の毒な人があらうかと、つく/″\思はれるのでありました。
 私は今此処で、彼女を最後に追ひつめて行つた実際の事柄を明かにしたいのであります。それは必要な事でもあるとおもひます。その事実を明らかにする事によつて今迄私が書いたやうな抽象的な説明より以上に、本当に、彼女の苦悶が解り、彼女の死因もはつきりする訳であります。けれど、それはまだ、明ら様には云へないのであります。事件に関係のある、現在生きてゐる人達に対する彼女の深い心遣ひが、私には、あまりによく解りすぎてゐて、その彼女の心遣ひを無駄にして仕舞ふ事が出来ないからであります。けれど、このやうに大事さうに私が云ひたてるからと云つて決して、珍らしい事でも何んでもありません。ありふれた事柄なのです。そして、またその事柄よりは、内容の方がはるかに重大な事なのであります。
 彼女の生涯は、まるで他人の意志ばかりで過ぎてしまひました。しかも、彼女はそれに苦しめられつゝ、とう/\最後まで自分を主張する事が出来ないでしまひました。そしてその最後の瞬間に、彼女はやつと自分に返りました。けれど、何と云ふ無意味な生涯だつたのでせう。自分に返つたと云つた処で、たゞ他人の意志を拒絶した丈けなのです。自分に返つたと思つた瞬間には、もう生命は絶へてゐたのです。
 彼女の死は、本当に、種々な事を考へさせます。彼女自身で云ふ通りに、私は彼女を臆病だとも、卑怯だとも、意久地いくじなしだとも思ひます。けれど、世間の多くの人達の生活を見まはすとき、私は卑怯であつても、意久地なしでも、兎に角、彼女程本当に、生真面目に苦しんでゐる人が、どれ丈けあるだらうと考へますと、気弱ながらも、とう/\最後まで自分を誤魔化し得なかつた正直さに対しては尊敬しないではゐられないのであります。
[『婦人公論』第三年第四号、一九一八年四月号]





底本:「定本 伊藤野枝全集 第三巻 評論・随筆・書簡2――『文明批評』以後」學藝書林
   2000(平成12)年9月30日初版発行
底本の親本:「婦人公論 第三年第四号」
   1918(大正7)年4月1日
初出:「婦人公論 第三年第四号」
   1918(大正7)年4月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:雪森
2014年11月14日作成
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