『青鞜』を引き継ぐに就いて

伊藤野枝




 新しきものゝ動き初めたときに旧いものから加へらるゝ圧迫は大抵同じ形式をもつて何時もおしよせて来るやうに思はれます。
 青鞜せいとうが創刊当時から今日迄加へられて来ましたあらゆる方面に於ける圧迫がこの種のものであることは今更云ふ迄もない事ですが更に私たちの主張が従来の歴史的事実からあまりに離れてゐたと云ふ事が――それは勿論人々から圧迫を受けたり反抗されたりするも重なる原因ですが――予想以上に人々を驚かし惑はし不思議がらせました。そしてその懸隔があまりにひどかつた為めに、私たちは容易に他の人々と近づくことが出来ませんでした。そうして誤解を重ねあやしつれ先入見の為めにお互ひにその間隔を近づけやうとはしなくなりました。けれどもまた却つてそれが衆人の好奇心を呼びました。そして不思議にも私達は他の雑誌のやうには経営の困難を感ずるやうな事はありませんでした。しかし私たちの真面目な思想や主張は流行品扱ひにされました。皮相な真似のみをしたがる浅薄な人達の行為が私共の上に迄及びました。そして私たちは世間で八ヶやかましく云へば云ふ程自己の内部に向つてすべてを集注しやうとしました。
 それは私たちにとつては実に一番適当な又真実な態度で御座いました。けれどもそれが為めに世間との隔たりはだんだん遠くなつて仕舞ひました。誤解はとけずにそのまゝ私たちに対する世間の人たちの固定観念となつて仕舞ひました。
 けれども私たちはなを一層自分自身のことについて考へなければなりませんでした。実際それに私たちの私生活は社会とは没交渉であることが最も自然らしく思はれました。それで出来るけ社会とのわずらはしい交渉を止めやうとしました。
 併し世間の人達の好奇心が何時迄も続く筈はありません。私たちは必然に社会との隔たりにぶつかりました。私たちはまづ経済的の苦痛を知らなければならないやうになりました。そうして今やつと私たち、少くとも私丈けは自然社会と自分を前にして考へなければならなくなりました。
 私はづ此処迄に至る私の気持を洗ひざらひ此処に拡げて見やうと思ひます。
 最初青鞜を創刊する時の態度が第一に既に間違つてゐたやうに思ひます。私はその当時の事は本当にくわしくは知りませんけれども少くとも今迄に私の知り得た事から察しても平塚氏の仕事であつたことは疑ひのない事実だと思ひます。処がそれは全く違つた形式で発表されました。社員組織だと云ふのです。私はたゞ一概にそれを悪いとは思ひませんけれどもそれは可なり根拠のない共同組織であつたらしく思はれます。或は私の臆測かも知れませんが――極く女らしい謙譲の心持から責任をもつて確とした権威をもつた経営者たることを辞して共同責任とされたことが第一歩のあやまちであつたかもしれないと私は思ひます。それ故各自の人が自分の勉強とか仕事とか云ふものと雑誌と云ふものが何となく違つたものに思はれた事がそれを証拠立てゝゐると思ひます。そうして最初の創刊当時に仕事を執つてゐた人達は漸次に自分の仕事に去つて仕舞ひました。創刊後満一ヶ年を経て私が入社して事務を手伝ふやうになつたときは既に木内、物集もずめ、中野、保持やすもちの諸氏とは顔を合すことは全くなかつたのでした。そして尾竹氏も去らうとして居られる時で編輯は平塚氏を助けて小林氏と私と三人でした。経営は東雲堂にまかしてあつた頃でした。子供のやうな遊びずきの尾竹氏がいろいろなものに向つて好奇心をもつてはそれに引きつけられては丁度子供が珍らしい見聞したことを話すやうな調子で無邪気に発表した楽屋落ちが意外に物議を醸した頃でした。それは尾竹氏や他人の人々にとつては何でもない事でした。吉原に行つたと云ふことは単にあの中のことを見たいと云ふ要求から何も別に行つてはいけないと云ふ制限もないから行つて見た迄だ。お酒を呑んだとて罪悪とは云はれまいそれは各人の嗜好に属するものではないか、マントを着て歩かうとそれはその人の趣味だ何もそれがわれ/\の生活中の重要な部分をなしてゐるのではないと云ふ風に私たちは世間の人が何を云はうと耳を貸さなかつたのです。私たちは本当に正直で世間見ずでした。私たちは世間と云ふものをさうまで頑迷だとは思ひませんでした。私たちはいくら何でもそれ等の些々ささたる行為が私たちの全てだと見做みなして終はれやうとは思ひませんでした。
 やがて私たちは私達自身を教育する為めに相当の智識を得る途を開かうとしてある計画を立てました。そしてそれは先きだつて先づ講演会を開きました。それは私たちの考へてゐたのとはまるで反対の結果を得ました。私たちは重なる誤解の為めに各方面に同情を失ひました。計画は見事に破れました。私達の努力は遂ひに無駄になつて仕舞ひました。そうして私たちの行為にあらゆる障害を加へられるやうになりました。また至る処であやまつた世間の好奇の目に映じた外面的な皮相な行為を真似て得意らしく往来を濶歩して人々の嘲笑的好奇心を集めて喜んでゐるやうなえたいの知れない女達がぞく/\現はれました。そうして社員組織の禍ひは此処にも及んでそれ等の厄介な人達の行為の責任がすべて青鞜社に持ち込まれました。をとなしい内輪な平塚氏と純下町式娘の小林氏と小さな私と三人が生真面目な顔して編輯してゐる青鞜社が女梁山泊と目されるやうな滑稽な事になつて来ました。私たちは腹の底から涙の惨み出るやうな口惜しさ情なさに幾度か遭遇しました。そして私たちはだまつて各自勉強をつゞけて充実を計るより他に道はなかつたのです。
 侮蔑されながらも好奇心でのお客様が多かつた為めか雑誌の発行部数はずん/\ふえて行つたらしく思はれます。経営の方も左程苦労しなくてもよさゝうに思はれ出しました。それに社の為めに新らしい計画のために職を辞して来たY氏の為めに――その計画が破れて氏は職を失はれた――何とか生活方法を立てなければならなくなつたので氏が内部で働かれることになつたのですが氏のともすれば感情に依つてのみ人を知らうとする態度は書店との交渉に何時も嫌はれ勝ちでした。そうしていろんな時を経てついにY氏の手によつて経営されることになりました。そうして経営の方面にY氏がかゝつて私がそれを手伝ひ平塚氏を助けて小林氏が編輯することになりました。けれどもその頃からもうもとのまゝの発行部数では少し多いと考へられるやうになりました。そうして素人の手にはなか/\うまくはゆかなくなりました。そうしてそのころから平塚氏は独立して家をお持ちになることになりました。社の当時の経済状態は二人の人の生活費を出すことは可なり困難らしく思はれました。そうして私と小林氏は専ら書くことになつて一と先づ編輯の手伝ひも経営の手伝ひも止めて仕舞ひました。私の生活もその頃からいそがしくなりました。子供の為めに大部分の時間を費さなければならなかつたのです。その間可なり社の事情とは遠くなつてゐましたのでよくは知りません。けれど平塚氏とY氏の間に何かのことがあつたらしいことは察せられます。その頃は平塚氏もまたY氏も自分自身の内生活の為めに可なり苦しんでゐられた時でしたしその頃のことは平塚氏によつてもつとはつきり説明されるでせう。私はかくその間の事柄はあまりよく知らない。
 種々な折衝があつた後平塚氏が一人で経営されることになりました。
 けれども漸く好奇の目が醒めて来ると、いまゝでとは経済状態もずつと変つたらしく思はれますし一方には又重なる圧迫のために社員の大部分は退社を余儀なくされて残つてゐる人達ちも割り合ひに周囲をはゞかる人達の方が多く、沈黙してしまつたりして雑誌の上にも生々したものが見えなくなつて何となく寂しさが漂つたやうな風に思はれて来ました。で経営の困難とその上たつた一人で何から何まで小面倒な仕事を執ると云ふことは――また時間の余裕のない事と一緒に――平塚氏にとつてどの位辛かつたかと云ふ事は私にも充分お察しが出来ます。それはあまりに氏のどの点から云つても不適当な労働でありました。そしてそれは殆んど半年間続きました。私は氏のその仕事に出来る丈けのお手伝ひはしたいと思ひましたけれど丁度私も前にも云ふ通りに子供のこと家のことに大半の時間は割かれそしてなを喰べることの労役にも服しなければならないと云ふやうな忙しい生活の中からとてもお手伝ひが出来さうにも思はれませんでした。
 併し六ヶ月間の不当な労働が平塚氏を極度の疲労に導きました。氏は何とかしてもう少し時間を得やうと務められました。経営は左程迄に苦しいと云ふでもないのですがとにかく厄介なので何処か適当な書店にまかせやうとなすつたのでした。併し何処も々々々とり合つてはくれませんでした。そしてそれらの商人との交渉に費された多くの時間が更に氏を困惑させました。そうして氏は十月号の編輯を終ると旅に立たれる事になりました。後は私が当分代理することにして。
 その頃から私の思想の方向がだん/\変つて来たのを幾らかづゝ私は感じ出しました。今迄はどうしても自分自身と社会との間が遠い距離をもつてゐるやうに思はれました。そして社会的になることはともかく自分自身を無視することのやうに考へられてゐました。それが何時の間にかその矛盾を感ぜられなくなつて来たことです。私は幾度も幾度もそれを考へ直して見ました。けれどもどうも前の自分の考へ方がまだ行くところまでゆきつかなかつたのだとしか考へられなくなりました。そうして今迄一番適当な態度だと思つてゐた態度にあきたりなくなりました。今は社会的な運動の中に自分が飛び込んでも別に矛盾も苦痛もなささうに思はれました。たゞ併しまだ考へ方が進んだ丈けで私の熱情は其処まではまゐりません。
 十一月号の編輯をしてゐる間に私はいろいろなことを考へました。私は充分に働かうといたしましたけれど家のことや子供に大部分の時間をそがれてどうしても思ふやうに動けませんでした。そうして遅れながら雑誌が出来上つたとき私は私の仕事の間抜さ加減がいやになつて仕舞ひました。そのみすぼらしさがかなしくなりました。私は何を考へるひまもなく直ぐに御宿おんじゅくの平塚氏の処へ長い手紙を書きました。
 それはおもに雑誌が不出来なことゝとてもこんな事では駄目だから十二月号の編輯もお断はりしたいと云ふことそれから私にはその少し前から平塚氏の生活と雑誌の仕事とが別々になつてゐるやうな気がしてそれが平塚氏の為めにもまた雑誌の為めにもよくないと思つてゐましたのでその際私は思ひきつて平塚氏に雑誌をすつかりあなたのものにして――事実さうなんですから――そしてずいぶんいま迄入つてゐた不純なものゝために満されたと誤解されてゐることもそのまゝになつてゐますからこの際すべてそれ等を人々の前へ掃き出して隅々まで人々の目が届くやうにあいまいなものなんかないやうにして立派にあなたのものとしてとり入れそして経営なすつたらどうでせう。私はそれが一番最上の方法だと思ひます。けれどもしあなたの精力がそれを許さないでそしてまたいろ/\続けてゆく上にあなたが真実に苦痛をお感じになれば私はあなたから私に全責任を負はして頂いて私の仕事としてもよろしう御座います。然し今のやうな状態では何となく私のやつてゐることがどつちつかずでそしていろ/\な点にもあなたに対する心づかいが私自身を不快にしていけませんからとても十二月号は出来さうもありません。こう云へばあなたは屹度きっとそんな心遣ひなんか止せと仰云おっしゃるかもしれませんけれども私には矢張り駄目です。とにかく熟考なすつて下さい。私は今自分のやつた仕事のあまりのみすぼらしさに腹立たしさと悲しさとで一杯になつてゐますからまだ本当の考へでないのかもしれません。何しろ私も考へますがあなたも考へて下さい。と云ふやうなことを書き送くりました。
 折り返し氏から返事が来ました。それには自分はとにかく前から考へてゐるがまだそれはきまらない。あなたの云ふ二つの方法についても考へるけれども十二月号だけはとにかくやつて欲しいと云ふのでありました。私も一たん約束したことではあるしするから編輯にかゝることにしたのですけれど何をやつてゐてもそのことばかり頭にこびりついてゐて他のことを何にも考へることが出来なかつたのです。
 だんだん考へてゐますうちに平塚氏があんなにも苦痛に思ふのならば或条件のもとに自分が続けて行つて見ればやれないこともないだらうから行つて見やうと云ふやうな気になりました。それには私の生活の形式もすつかり違へなければならないし種々厄介なことはあるけれどもその位は当然だと思ひました。勉強する時間がどうかと思はれましたが事実今迄はまつたく勉強を怠つてゐましたしまたそれを見出すことも困難でしたけれどももし私たちの日常生活の形式をへるとすれば私は当然その位の時間は見出せると思ひました。そうしてとにかく雑誌をつゞけてゐる間は語学の勉強だけでも満足が出来る。私がこれから十年ひとりで忙しい思ひをした処でまだ三十だ。まとまつた勉強はそれからで沢山だ。十年のうちには少しは手伝ひをしてくれる人位は出さうに思はれます。そう思つて私は私の仕事にしてやつて見る気になりました。そうして私は平塚氏が何時もまとまつた勉強の時間のないことやまとまつた仕事をしないことを苦痛にしてゐられるのを知つてゐますのでもし私がうまくやつて行つて平塚氏が安心して自分の勉強をしそして何かの仕事を仕出かされたら自分もどんなにかうれしいだらうと考へました。そうして直ぐに手紙を書いてその心持を伝へやうといたしました。そうして私は私が雑誌を引きつがして貰ふとすればそれに添ふ条件なども考へました。すると私は常々私を快く思はない人たちのあることに気づきました。また何でも間違つた早合点をばかりする人のあるのを考へました。それで私は其処に妙な誤解をされることになると折角、更に一歩切り開いて進まうとするのを妨げられるやうな気がいたしました。私はいろいろに考へました。けれどもとう/\私は私の心持をありのまゝに書きました。そうして私はいろいろな誤解をのぞく為めすべての責任は私が背負ひます。ただ署名人にかゝるやうなことは決していたしませんから署名人にはあなたになつて頂きたいと云ふことを書きました。私はその手紙を書いて出してしまつてからもいろいろに迷ひました。そうして平塚氏の返事を待ちました。それが十一月十三日だつたとおもひます。そして十五日に思ひがけなく平塚氏が訪ねて見えました。氏は御宿を立つとき私の手紙を見なかつてこちらへ帰つて来ると同時に廻送されて曙町あけぼのちょうのお宅で見たと仰云ひました。
 そうして氏は御宿を立つときまで私の手紙を見なかつたので廃刊にするか休刊にするかの決心であつたと仰云ひました。何だか私はそれを聞くと意外な気がしたと同時にどうしても私がやると云ふ決心はいよいよ堅くなりました。氏は今の処何にも書く気になれないしとても雑誌の経営などは出来ないからあなたにやつて貰へば私も一番安神あんしんだけれどたゞだんだん経営は困難になつて行くし先きに行つてあなたの困るのが見えてゐるからそれをあなたに云つてあげたいと思つて来た。とても今のまゝではやつてゆけないからと氏は私の為めにもう一度考へ直せとすゝめられました。けれどもその時私はもう再び考え直す迄もなく何処までもどんな苦痛に会つてもやる処まではやつて見る気ですと云ひました。平塚氏は繰り返し/\私が考へ直すことをすゝめられました。けれども私が万一のゆきつまつたときの恐れの為めに止めると云ひ出せば氏は矢張り御宿を出るときに考へられたとほりに休刊か廃刊になさるに相違ない休刊は廃刊よりも更に愚な事だ止めるのならば廃刊の方がいゝとなります。
 創刊後もう三年以上も続けて来てまださう行きつまつたと云ふほど迫つてもゐないのに廃刊するのは如何程考へ直してゐても惜しい [#「惜しい 」はママ]殊にこの創刊後とやかく云はれ続けては来たけれどもそれでも幾多の若い人達を助けて来たことを思へば猶更捨てられません。私自身が先づ一番に青鞜によつて育てられました。歌津ちやん、がそうです数へ出すときりのない位です。そうしてまだこれからが更に長い大きな未来をもつてゐるのです。これからどんな人が生れるかも知れません。私はそのことを思ひますととても思ひ切つて投げ出す気にはなれません。殊に私は或る時にふと目に触れた私共に対する批評の中に『彼等は人々の好奇心によつて生れたものだ。人々の好奇心が失くなつて存在しやう筈がない。』と云ふ言葉が雷のやうに私の頭を横切りました。私はあやふく涙が出さうになりました。『どんな苦痛と戦つてもやつてゆく!』私は固く/\決心したのでした。
 私は私の為めにわざ/\、他人ならば困難な事実やなんかを覆ひかくしても自分のいやな事をひとに押しつけやうとする処に、私の処まで出掛けて来て親切にそれ等を話して考へ直せと云つて下さる平塚氏のやさしい気持に感謝しながらもさう決心したのでした。そして私は大きな重いものを背負ひました。けれど其処で私を最も暗い気持ちに誘つたのは私の年が若過ぎると云ふことゝそれから子供を充分に見ることの出来ないことでした。それから世間のいろいろな間違つた取り沙汰に答へるのも一苦労でした。
 世間の表面に立つて仕事をすると云ふのには私はあまりに若過ぎました。私はその為めに屹度知つてゐる人からはたよりない不安を抱かれるだらうと思ひました。又馬鹿にもされさうに思はれました。あんな小供に何が出来るものかと思つてゐる人達だつて屹度あるでせう。けれども兎に角年の如何にかゝはらず自分のやる丈けのことはやつて見ます。助手の資格しかない田舎者の私がどんなことをやり出すか見てゐて頂きたい。兎に角私はこれから全部私一個の仕事として引きつぎます。私は私一人きりの力にたよります。私は誰の助力ものぞみません。そうして今迄の社員組織を止めてすべての婦人達のためにもつと開放しやうと思ひます。十一、十二と二ヶ月間やつた私の経験では経営は左程困難ではありません。この分ならどうにかやつてゆけます。けれどももし私の力が微弱な為めにもつと困難になつて来たら私は或は雑誌の形式をもつと縮小するかもしれません。或は又もつとひどくて雑誌の形式がとれなくなるかも知れません。併し私の力のつゞくかぎりはたとへ二頁でも三頁でも青鞜は存在させるつもりです。或はそうなつたときにその微弱な誌上にもつとも尊く真実な純なるものがきらめくかもしれないと思ひます。私はさうなることを望みはしませんけれどももしさう云ふ場合ひに相遇したときの要心に今から断はつて置きます。
 平塚氏は半年もしたらまた書けるやうになるかもしれないと仰云ひました。私はその時に本当にいゝものが頂けることを確信してゐます。

 私は一方にさう云う仕事のことで考へながらも子供を育てゝゆかなければなりません。私はたゞあたり前に背丈が延びてさへゆけばいゝと云ふやうな育て方では気がすまない、私は出来ることなら一日子供についてゐてその一挙一動も注意して育児と云ふこと丈けを仕事にして見たいと云ふやうな欲望もかなり強いのです。それで仕事の事にばかり時間をとられて子供の為めに空かしておく時間のないことがまた私は苦痛でたまりません。これ迄一ヶ年以上私は少しも他手ひとでゆだねずに乳も自分の以外にはやらずに育てゝ来ました。私は子供をおいて外出するやうな事も全く稀なのでした。此度は一々連れ出すことは出来ませんからおいてゆかねばなりませんけれども私にはそれがたまらなく苦痛なのです。時々留守の間に私を思ひ出しては子供が其処にかかつてゐる私の不断着の傍にはい寄つてそれをながめては泣き出すなど云ふ話を帰つて来て聞きますと涙がにじみ出ます。私の仕事の価値も疑はしくなる程です。本当にそれは不思議な程私を悲しませます。考へてゐますと私の最上のそして真実な一番尊い仕事と云へば子供を育てる事らしくさへ思はれて来ます。私はこんな幼い子供にたまらない寂しさを感じさせる事を平気で忍ぶことが出来ないのです。そしてそれがいゝ結果を子供の上にもたらすとは思ひません。けれども矢張り私は仕事をしなければなりません。私は子供に留守をさせることに慣してしまはふとして忍んでゐます。幸ひに子供は安心してなつくことの出来る小父おじさんと小母おばさんを見出しました。私は漸く気安く外出することが出来るやうになりました。
 その次には私が雑誌を引きついだことについての世間の評判です。
 最初私と平塚氏はこの話は二人きりのことにして一月に発表することにしやうとしたのでしたが [#「したのでしたが 」はママ]思ひがけなく意外の人から洩れて噂はうわさを生んで私たちが知らない間にいろんな憶測がだん/\に誇大されてさも誠しやかに話されてゐたのです。それで私は一層十二月号に発表してしまはふと思ひましたが平塚氏からの注意で矢張り十二月は止して一月に発表することになつたのですが少々の誤解はそれで仕方がないとして置きました。併しそれ程ひどからうとは思ひませんでした。
 或る日私の処へ読売新聞の記者が面会を求めました。会ひましたらば此度あなたと平塚氏が何かあつてお別れなすつたさうですがどんな事があつたのですとのことでした。私は前のやうな事情をかいつまんで話して見ましたが何だか信をおかないやうな顔してゐました。そしていろいろなうわさばなしをもちだしてあれもこれもと私に真偽をたしかめるのでした。それは一つも事実ではなくみんないい加減な捏造でした。それは平塚氏が懐妊されたと云ふこと、奥村氏と平塚氏は別れると云ふこと、私と平塚氏と衝突したと云ふことなど重なことでした。私は一々否定しましたけれど、可なりしつこく聞きましたので私は笑つてやつたのでした。私は実際世間の人たちのひとり合点な浅薄な取さたにあきれました。私たちには何でもなくわかる平塚氏の心持ちを少しも理解することが出来ないです。本当に唯だもう表面に具体的にあらはれた事実より他に何にも見ることが出来ないでそれに依つてのみ物を判断しやうとし、またそれを間違ひのないことゝのみしてゐる人達の気持ちが私にはむしろ不思議に思はれるのでした。
 本当にこの広い世間に平塚氏の此度の態度を真実に理解し同情をもつことの出来る人が幾人ゐるのだらうと思ふと私は何故か悲しいやうな気になりました。
 私にしても平塚氏にしても雑誌をやることになつたつてならなくつたつて以前と少しも改まつた気持ちにはなりません。いろいろな取沙汰が新聞で紹介され続けてゐても私と平塚氏はいそがしさにはがき一枚もろくに取りかはさなくても私達の友情には何のかはりもなくおなじ気持ちでゐられる程私達の間は平なのです。
 聞けば時事新報の記者柴田氏はわざ/\御宿まで出かけて真相をたゞさうとなすつたさうです。私は何と云つていゝか笑つていゝか、怒つていゝかわからなくなります。本当にたゞ妙な世の中だと云ふより他仕方がありません。
 其処で私はこの雑誌の経営を自分の仕事として引き受けはしましたが私は今迄どほりの規則ではやり度くありません。
 先づ私は今迄の青鞜社のすべての規則を取り去ります。青鞜は今後無規則、無方針、無主張無主義です。主義のほしい方規則がなくてはならない方は、各自でおつくりなさるがいゝ。私はたゞ何の主義も方針も規則もない雑誌をすべての婦人達に提供いたします。但し男子の方はお断はりいたします。男子でももし婦人に関する事柄について重要なことをお書き下すつたのならそして多数の婦人のためになる事なら場合によつては掲載いたしますこともありますが併し矢張り主として婦人の専用であることは以前どほりです。立身出世の踏台にしたいかたはなさいまし、感想を出したい方はお出し下さい。何でも御用ひになる方の意のまゝに出来るやうに雑誌そのものには一切意味を持たせません。たゞ原稿撰択はすべて私に一任さして頂きます。私は書かれたものが何であるにしても真実な心で書かれたものならば本当に尊敬いたします。虚偽は一切排斥いたします。真面目に本当に自身を育てゝ行かうとなさる敬虔な婦人達の前に何かのお役にたつべく提供いたします。私の煩雑な労役の苦痛は例へ一人の人でも雑誌の存在の無意義でないことを思つて下さる方があればそれで償はれます。否、否間違つてゐました。自分でその無意義でないことを見出すことが出来ればそれでいゝのでした。私は間違つてゐました。
 私は自分の仕事の価値については考へる丈け愚だと思ひます。理屈はどうにでもつきます。今の処私は自分が単なる一個の雑誌経営編輯の労働者で終つてもいゝと思つてゐます。併し何時迄も同じ処に考へが止まつてゐるわけでもありませんからこの考へがまたどうかはつてゆくかわかりませんが兎に角今の処では出来得るかぎり努力しやうと思つてゐます。

 大分くどく書きましたが要するに平塚氏の仕事を私が引きついでやると云ふことには何の曲折もありません。ほんとうに普通のいきさつです。私たちには世間でさう云ふことを何か大した所謂いわゆる事情でもあつてのことのやうに云ひはやすのがおかしくてたまらない位です。平塚氏ももつと静養し勉強なすつたらまたきつと此度はいゝものを沢山おかき下さる筈です。
 兎に角これ以上に私はくだ/\しいことを云はうとは思ひません。今何を云つてもわからなくても時はずん/\すべてを引つづいて進んで行きます。そのうちに自然に解る時が来ることを私は信じます。何時でも私は平塚氏に対しては私の手をとつて歩けるやうにして下すつた先輩として又やさしい友人として能ふかぎりの尊敬と親しみを持つてゐます。何時迄も/\平塚氏は私の唯一の離れがたい最も貴重な私の友人であることを信じます。恐らくは此度も私のこの心持ちを受け入れて下さる丈けの愛を私の上に持つてゐて下さることゝ自信いたして居ります。
(三、十二、九)
[『青鞜』第五巻第一号、一九一五年一月号]





底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
   2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「青鞜 第五巻第一号」
   1915(大正4)年1月号
初出:「青鞜 第五巻第一号」
   1915(大正4)年1月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:酒井裕二
校正:笹平健一
2023年12月27日作成
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