探檢實記 地中の秘密

お穴樣の探檢

江見水蔭




――大評判の怪窟――探檢の勢揃――失敗の第一日――二日目――迷信家の大氣※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)――大發見?――探檢の本舞臺――最初の入窟者――怪窟の構造――其結果――

 大評判おほひやうばん怪窟くわいくつ[#感嘆符三つ、262-10]それは、東京とうきやう横濱よこはまとの中間ちうかんで、川崎かはさきからも鶴見つるみからも一らずのところである。神奈川縣橘樹郡旭村大字駒岡村かながはけんたちばなごほりあさひむらおほあざこまおかむら瓢簟山ひようたんやま東面部とうめんぶ其怪窟そのくわいくつはある。
 發見はつけんしたのは、明治めいぢ四十ねんぐわつの四で、それは埋立工事うめたてこうじもちゐるために、やまつち土方どかた掘取ほりとらうとして、偶然ぐうぜん其怪窟そのくわいくつ掘當ほりあてたのであるが、いはやなかから人骨じんこつ武器ぶき玉類たまるゐ土器等どきなどたのでもつて、はがらず迷信家めいしんか信仰心しんこうしん喚起よびおこし、あるひまた山師輩やましはいじやうずるところとなつて、たちまちのうち評判ひやうばん大評判おほひやうばん『お穴樣あなさま』とび『岩窟神社がんくつじんじや』ととなへ、參詣人さんけいにんきもらず。なんにんときとしては何萬人なんまんにんかずへられ、お賽錢さいせんだけでもなんゑんといふあがだかで、それにれていままではさびしかつた田舍道ゐなかみち[#ルビの「ゐなかみち」は底本では「ゐなかみつ」]に、のきならべる茶店ちやみせやら賣店ばいてんやら、これも新築しんちく三百餘軒よけんたつしたとは、じつおどろくべき迷信めいしん魔力まりよく[#感嘆符三つ、263-9]
 面喰めんくらつたのは神奈川縣かながはけん警察部けいさつぶで、くのごと迷信めいしんを、すがまゝ増長ぞうちやう[#ルビの「ぞうちやう」は底本では「ぢうちやう」]さしては、保安上ほあんじやう容易よういならぬ問題もんだいであるといふので(それにみだりに神社呼じんじやよばはりをこと法律はふりつゆるさぬところでもあるので)奉納ほうのう旗幟はたのぼり繪馬等ゑまとうてつせしめ、いはやから流出りうしゆつする汚水をすい[#ルビの「をすい」は底本では「をす」]酌取くみとるをきんじ、警官けいくわん出張しゆつちやうさしてげん取締とりしまりけたのであるが、それでも參詣人さんけいにんは一かうげん[#「冫+咸」、U+51CF、263-13]い。晝夜ちうや差別さべつなく、遠近ゑんきんから參集さんしふする愚男愚女ぐなんぐぢよは、一みちきもらず。
 其所そこで、その岩窟がんくつなるものが、そもそんであるかを調しらべる必用ひつようしやうじ、坪井理學博士つぼゐりがくはかせだい一の探檢調査たんけんてうさとなつた。それは九ぐわつ十二にちであつた。
 じつ博士はかせをわざ/\ろうするまでもかつたので、これは古代こだい葬坑さうかうで、横穴よこあな通稱つうしようするもの。調しらべたら全國ぜんこくいたところるかもれぬ。現在げんざいおいては、九しう、四こくから、陸前りくぜん陸奧りくおく出羽でばはうまでけて三十五ヶこくわた發見はつけんされてるので、加之しかも横穴よこあなは一ヶしよ群在ぐんざいするれいおほいのだから、あなすうさんしたら、どのくらゐるかれぬのである。なかもつと名高なだかいのは、埼玉縣さいたまけん吉見村よしみむらの百あな實數じつすう二百四十)である。
 それから、今度こんど發見はつけんされた駒岡附近こまをかふきんにも、すですで澤山たくさん横穴よこあな[#ルビの「よこあな」は底本では「よつあな」]開發かいはつされてあるのだが、て、果報くわはうなのは今回こんくわいのお穴樣あなさまで、意外いぐわい人氣にんき一個ひとり背負せおつて、まこと希代きたい好運兒かううんじいな好運穴かううんけつといふべきである。
 横穴よこあな何處どこまでも横穴よこあなであるが、内部ないぶ構造かうぞう多少たせう注意ちういすべきてんもあり。それから瓢簟山ひようたんやま頂上てうじやうおいて、埴輪土偶はにわどぐうを二發見はつけんした關係くわんけいから、四ヶしよ隆起りうきせる山頂さんてうもつて、古墳こふんではいかといふ疑問ぎもんしやうじ、その隆起りうきせる山頂さんてうが、瓢簟形ひようたんがたあるひ前方後圓ぜんぱうこうゑん古墳こふんであるとすれば、その山頂さんてう古墳こふん山麓さんろく横穴よこあなと、如何いかなる關係くわんけいいうするであらうか。山頂さんてうのが主墳しゆふんで、山麓さんろくのが殉死者じゆんししやはうむつたのではるまいかといふ、うした疑問ぎもんをもしやうぜられるのである。
 おほくのれいおいては古墳こふん高塚たかつか)と横穴よこあなとは、別種べつしゆかんがへられてる。よしや同所どうしよらうとも、同時代どうじだいとはかんがへられてらぬ。高塚たかつかよりも横穴よこあなはうが、時代じだいおいわかいとかんがへられるので、高塚たかつか高塚たかつか或時代あるじだいきづかれ、横穴よこあな横穴よこあな其後そののちつくられると、大概たいがいかんがへられてたのであるが、それを坪井博士つぼゐはかせは、同時代どうじだい解釋かいしやくくだされたのである、すこしく考古趣味かうこしゆみいうするものは、へんだなとおもはざるをないのであるが、それにはまたそれだけの理由りゆうる。
 それは瓢簟山ひやうたんやま地形ちけいである。此地形このちけい主墳しゆふん周圍しうゐ陪塚ばいづかつくるをゆるさぬ。すなは主人しゆじんほうむつたつかちかくに、殉死者じゆんししやつかつくるだけの餘地よちいので、むを山麓さんろく横穴よこあなつくつたといふのせつである。はたしてしからば學術上がくじゆつじやう大發見だいはつけんである[#「大發見だいはつけんである」は底本では「犬發見だいはつけんである」]
 それで、かくも、山頂さんてう凸起とつきする地點ちてん調査てうさこゝろみ、はたして古墳こふんであるかいなかをたしかめる必用ひつよう[#ルビの「ひつよう」は底本では「ひつえう」]しやうじたので、地主側ぢぬしがは請願せいぐわんもあり、博士はかせはいよいよ十ぐわつより數日間すうにちかん此所こゝ大發掘だいはつくつ擧行きようかうせらるゝこととなつた。
 此豫報このよほうが一たび各新聞かくしんぶんつてつたへられると、迷信めいしん非迷信ひめいしんかゝはらず、江湖こうこおほいなる注意ちういこれけてはらつた。
 なにるだらう?
 あらためてこゝふ。意味いみおいての大怪窟だいくわいくつが、學術がくじゆつひかり如何どうらされるであらうか。ふか興味きようみもつ此大發掘このだいはつくつむかへざるをない。
 其所そこは、一ぱうおいては、新聞記者しんぶんきしや職務しよくむもつて、一ぱうおいては、太古遺跡研究會幹事たいこゐせきけんきうくわいかんじ本分ほんぶんもつて、坪井博士監督つぼゐはかせかんとくもとおこなはれる所謂いはゆる穴樣大發掘あなさまだいはつくつ參觀さんくわん[#ルビの「さんくわん」は底本では「さんくわい」]出張しゆつちやうすることとはなつた。
 東京朝日新聞とうきやうあさひしんぶん記者きしやにして考古家中かうこかちう嶄然ざんぜん頭角とうかくあらはせる水谷幻花氏みづたにげんくわし同行どうかうして、は四十一ねんぐわつ午前ごぜんくもり鶴見つるみ電車停留場でんしやていりうぢやう到着たうちやくすると、もなく都新聞みやこしんぶん吉見氏よしみし中央新聞ちうわうしんぶん郡司氏ぐんじした。
 其所そこ坪井博士つぼゐはかせは、石田理學士いしだりがくし大野助手おほのぢよしゆ野中事務員のなかじむゐん同行どうかうして、電車でんしやられた。つゞいて帝室博物館員ていしつはくぶつくわんゐん高橋たかはし平子ひらこ和田わだ諸氏しよしる。新聞記者しんぶんきしやとしては、國民こくみん松崎まつざき平福ひらふく郡司ぐんじの三時事じじ左氏さし東京毎日とうきやうまいにち井上氏ゐのうへし毎日電報まいにちでんぱう近藤氏こんどうし、やまとの倉光氏くらみつし日本にほん中村氏なかむらし萬朝まんてう曾我部そがべ山岡やまをか報知はうち山村氏やまむらし城南じやうなん高橋氏たかはしし其他そのた讀賣よみうり、二六、東京日日等とうきやうにちにちとうこと/″\そろつた。
 これに出迎でむかへの村長そんちやう地主ぢぬし有志家等いうしかとう大變たいへん人數にんずである。それが瓢形ひさごがた駒岡こまをか記入きにふしたる銀鍍金ぎんめつき徽章きしやうを一やうけ、おなしるし小旗こはたてたくるま乘揃のりそろつて、瓢簟山ひようたんやまへと進軍しんぐん?したのは、なか/\のおまつさはぎ※[#感嘆符三つ、267-11]
 一先ひとまづ一どうは、地主ぢぬしの一にんたる秋山廣吉氏あきやまひろきちしたくき、其所そこから徒歩とほで、瓢簟山ひようたんやまつてると、やま周圍しうゐ鐵條網てつでうもうり、警官けいくわん餘名よめい嚴重げんぢゆう警戒けいかいして、徽章きしやうなきもの出入しゆつにふきんじてある。
 山麓さんろくには、紅白こうはくだんだらのまくり、天幕テントり、高等官休憩所かうとうくわんきうけいじよ新聞記者席しんぶんきしやせき參觀人席さんくわんにんせきなど區別くべつしてある。べつ喫茶所きつさじよまうけてある。宛然まるで園遊會場えんいうくわいぢやうだ。
 其所そこへ、周布神奈川縣知事すふかながはけんちじる。橋本警務長はしもとけいむちやうる。田中代議士たなかだいぎし樋口郡長ひぐちぐんちやういはなにいはなにういふときには肩書かたがき必用ひつよう[#ルビの「ひつよう」は底本では「ひつえう」]える。高等野次馬かうとうやじうまかず無慮むりよ餘名よめいちうせられた。
 其所そこで、だい一の探檢たんけん所謂いはゆる穴樣あなさま内部ないぶである。まへには此横穴このよこあなまへまで、參詣人さんけいにんせたのであるが、それでは線香せんかうくすべたり、賽錢さいせん投付なげつけたりするので、横穴よこあな原形げんけい毀損きそんするおそれがために、博士はかせ取調上とりしらべじやう必用ひつようから、先日せんじつ警察けいさつ交渉かうしようし、入口いりぐちから三間許げんばかへだてて、棒杭ぼうぐひち、鐵條てつでうり、ひとらしめぬやう警戒けいかい依頼いらいされたのだ。
 今日けふしかし、其博士そのはかせ先導せんだうであるから、我々われ/\自由じいう内部ないぶまでるをた。たゞし、五六人宛にんづゝ交代かはりがは[#ルビの「かはりがは」は底本では「はかりがは」]りである。
 あな間口まぐちしやくすんに、奧行おくゆきしやくの、たかさ四しやく長方形ちやうはうけい岩室がんしつで、それにけたやう入口いりぐちみちがある。突當つきあたりに一だんたかところがあつて、それから周圍しうゐ中央ちうわうとにあさみぞつてある。これみず流出りうしゆつはかつたのであらう。
 みぎごと純然じゆんぜんたる古代こだい葬坑さうかうで、住居跡すまゐあとなんどいふのは愚説ぐせつはなはだしいのである。横穴よこあななかでも格別かくべつめづらしい構造かうぞうではいが、ゆかみぞとがやゝ形式けいしきおいことなつてくらゐで、これ信仰しんかうするにいたつては、抱腹絶倒はうふくぜつたうせざるをない。
 坪井博士つぼゐはかせは、石田學士いしだがくし大野助手等おほのぢよしゆらともに、かね集合しうがふさしてある赤鉢卷あかはちまき人夫にんぷ三十餘名よめいとくして、いよ/\山頂さんちやう大發掘だいはつくつ取掛とりかゝり、また分隊ぶんたいして、瓢箪山西面ひようたんやませいめんに、なかばうづもれたる横穴よこあな、三發掘はつくつ開始かいしされたが、わるときには何處どこまでもわるいもので、東面とうめん地主ぢぬし西面せいめん地主ぢぬしとは、感情かんじやう衝突しようとつなに[#ルビの「なに」は底本では「なか」]つて、西面せいめんはうへ無だんけるとはしからんとかなにとか、すこしの手違てちがひに突入つきいつてつてかゝり、山上さんじやう大激論だいげきろんはじまり、警務長けいむちやう郡長ぐんちやう代議士だいぎしなどがなかつて、かくゆがみなりの圓滿ゑんまん?にきよくむすび、一中止ちうしして發掘はつくつつゞけることとなつたが、西面北部せいめんほくぶ横穴よこあなは、乞食こじきかつんでことがあり、西面南部せいめんなんぶの二には、子供こどもはいつてあそんだこともある。うして二内部ないぶ連絡れんらくしてるといふことわかつたので、んだか張合はりあひけてる。小雨こさめす。新聞記者連しんぶんきしやれんはそろ/\惡口わるくちはじめる。地主連ぢぬしれんはまご/\してる。惰氣滿々だきまん/\たる此時このときに、南部なんぶ横穴よこあなかたで、坪井博士つぼゐはかせは、一せいたかく。
た※[#感嘆符三つ、270-6]た※[#感嘆符三つ、270-6]
 たちま全山ぜんざん高等野次馬かうとうやじうまは、われおくれじと馳付はせつけてると、博士はかせわらひながら、古靴ふるぐつ片足かたあしを、洋杖すてつきさきけてしめされた。ごみと一しよあななかちてたのを、博士はかせたはむれに取出とりだされたので、これは一ぱい[#ルビの「ぱい」は底本では「ぱく」]頂戴てうだいしたと、一どうクツ/\わらひ。
 んなことで一かう要領えうりやうず、山頂さんてうはうでは、わづかに埴輪はにわ破片はへん雲珠うず鞆等ともなど)を見出みいだしたのみ、それで大發掘だいはつくつだいくわいをはつた。
 折角せつかく着込きごんでつた探檢服たんけんふくに、すこしもどろけずしてたくへと引揚ひきあげた。大學連中だいがくれんぢうみなとまみである。
 八曇後晴くもりのちはれ午前ごぜん時頃じごろ瓢箪山ひようたんやま到着たうちやくしてると、發掘はつくつすで進行しんかうして赤鉢卷隊あかはちまきたい活動くわつどうしてるが、一かうかはつたことい。
 それでも、西面南部せいめんなんぶの二横穴よこあなは、大概たいがい發掘はつくつをはり、其岩壁そのがんぺき欠壞けつくわいして、おく貫通くわんつうしてこと判明はんめいし、また石灰分せきくわいぶん岩面がんめん龜裂きれつ部分ぶぶんから漏出らうしゆつして、小鐘乳石せうしやうにふせき垂下すいかしてるのを發見はつけんした。
 一天井てんぜうからほねがぶらさがつてるの、セメントで内部ないぶ[#ルビの「ぬ」は底本では「ね」]つてるのと、高等野次馬かうとうやじうまさはぎとつたらかつた。
 それから一ぱうせうなる横穴よこあなのシキからは、ひと大腿骨だいたいこつ[#ルビの「だいたいこつ」は底本では「だいたいこく」]指骨しこつの一小部分せうぶぶんとが[#「で」は底本では「て」]直刀ちよくたう折片せつべんつば鐵製てつせい寶珠形ほうじゆがたすかし)脛巾金はゞきおよ朱塗しゆぬり土器どき彌生式土器やよひしきどき類似るゐじす)とうでた[#「でた」は底本では「てた」]。これとても一かうめづらしくはい。
 それで西面せいめん横穴よこあなには斷念だんねんして、山頂さんてう主墳探しゆふんさがしに全力ぜんりよくつくこととなつたが、相變あひかはらず埴輪圓筒はにわゑんとう破片はへんや、埴輪土馬はにわどば破片等はへんとうくらゐで、さら石槨せきくわく突當つきあたらぬ。如何どう古墳こふんいらしい。つたかもれぬが、いまいのが本統ほんとうらしい。
 大野助手おほのぢよしゆ顏色がんしよくは、朱塗しゆぬりつたり祝部色いはひべいろつたりしてる。
 其間そのうちに、『お穴樣あなさま』を探檢たんけんする必用ひつようかんじて、東面とうめん參詣者さんけいしや[#ルビの「さんけいしや」は底本では「さんけんしや」]まへから横穴よこあななかり、調査てうさをはつてそとると、鐵條網てつでうもうへだてられた[#「へだてられた」は底本では「へだてちれた」]參詣人さんけいにん[#ルビの「さんけいにん」は底本では「さんけんにん」]なか[#ルビの「なか」は底本では「なら」]から。
野郎やらうおれいまげたお賽錢さいせんめアがツて、ふてやつだ。ぶンなぐるから[#「ぶンなぐるから」は底本では「ぷンなぐるから」]おもへツ』とよばはる。
 なるほど彼等かれら[#「彼等かれらが」は底本では「彼等かれらか」]信仰心しんかうしんもつて、とほ此所こゝまできたりながら、肝腎かんじんのおあなには接近せつきんすることず。やうや鐵條網てつでうもうそとからお賽錢さいせんげたのを、へん男子をとこがノコ/\て、敬禮けいれいず、無遠慮むゑんりよに、あなはいつて加之あまつさへ賽錢さいせんんだのだから、先方せんばうになるとはらつのももつとも千ばん此奴こいつなぐられては大變たいへんだとはコソ/\とした。
 此日このひ鐵條網てつでうもうつい博士對警官はかせたいけいくわん小衝突せうしやうとつつたが、勿論もちろん警官側けいくわんかは誤解ごかいでたので、ほどなく落着らくちやくした。
 んなことだい日目かめ失敗しつぱい
 は、毎電まいでん東京毎日とうきやうまいにち、やまと、日本にほん[#ルビの「にほん」は底本では「にはん」]記者きしやともに、山越やまごしをして、駒岡貝塚こまをかかひづか末吉貝塚すゑよしかひづか[#ルビの「すゑよしかひづか」は底本では「すよしかひづか」]遺跡ゐせきぎ、鶴見つるみ歸宅きたくした。
 九はれさくごと到着たうちやくしてると、新聞連しんぶんれん[#ルビの「しんぶんれん」は底本では「しんぶつれん」]今日けふすくない。坪井博士つぼゐはかせ[#ルビの「つぼゐはかせ」は底本では「つほゐはかせ」]歸京ききやう準備じゆんびをしてられる。博物館はくぶつくわんからは、和田氏わだし一人ひとりだけだ。しかし、高等野次馬かうとうやじうま非常ひじやうおほい。
 東面山麓とうめんさんろく山土さんど崩壞ほうくわいして堆積たゐせき[#ルビの「たゐせき」は底本では「すゐせき」]したる一に、祝部高坏土器いはひべたかつきどき[#「祝部高坏土器いはひべたかつきどきを」は底本では「祝部高抔土器いはひべたかつきどきを」]發見はつけんしたので、如何どう此所ここあやしいと、人類學者じんるゐがくしやならぬ土方どかた船町倉次郎ふなまちくらじらうといふのが、一生懸命しやうけんめいすゝんでほか赤鉢卷隊あかはちまきたい全力ぜんりよく山頂さんてうむかつてそゝぎ、山全體やまぜんたいとりくづすといふいきほひでつてうちに、くはさきにガチリとおとしてなにあたつた。
たぞ/\』
あたつたぞ/\』と山頂さんてう大歡呼だいくわんこである。余等よら夢中むちうつて、驅上かけあがつてると、たのはたが、古墳こふんには無關係物むくわんけいぶつで、石器時代せきゝじだい遺物ゐぶつたる、石棒頭部せきぼうとうぶ緑泥片岩りよくでいへんがん源平時代げんぺいじだいの五輪塔りんとう頭部とうぶ足利時代あしかゞじだい寶篋印塔ほうきよういんとうの一部等ぶとうで、主墳しゆふんには古過ふるすぎたり、あたらぎたり。具合ぐあひ適合てきがふせぬので、またもや大失望だいしつばう
 坪井博士つぼゐはかせは、正午過しやうごすぎ、用事ようじため[#ルビの「ため」は底本では「たみ」]歸京ききやうされたので、あと大野助手おほのぢよしゆ主任しゆにん監督かんとくしてると、午後ごご時頃じごろいた[#ルビの「いた」は底本では「いだ」]つて、船町倉次郎ふなまちくらじらう受持うけもち山麓さんろくから、多數たすう圓石まるいし發見はつけんした。
 さア今度こんど本統ほんとうだ。いよ/\掘當ほりあてた。けれども矢張やつぱり横穴よこあなであらう。主墳しゆふんではるまいが、人氣にんきゆるんで折柄をりがらとて、學者がくしやも、記者きしやも、高等野次馬かうとうやじうまも、警官けいくわんも、こと/″\此所こゝあつまつて、作業さくげふ邪魔じやまとなること夥多おびたゞしい。あなくちかぬのにこれなのであるから、横穴よこあな發見はつけんとなつたら、どんな混亂こんらんしやうずるかわからぬといふので、警戒區域内けいかいくゐきないさらまた小區せうくくわくし、此所こゝにはたれれぬことにして、それから入窟にふくつ順序じゆんじよあらかじさだめた。
 大野おほの――和田わだ――野中のなか――それから新聞記者しんぶんきしや代表だいへうして、水谷みつたにおよといふ順番じゆんばんである。
 大得意だいとくい船町倉次郎ふなまちくらじらうは、さらいうして圓石まるいし取除とりのぞくと、最初さいしよ地面ぢづらより一ぢやう尺餘じやくよ前面ぜんめんおいて、ぽかりと大穴おほあな突拔つきぬけた。
 一どう大動搖だいどうえうはじめた。はやなかたいからである。けれどもなが密閉みつぺいせられてある岩窟がんくつ内部ないぶには、惡瓦斯あくぐわす發生はつせいしてるに相違さうゐない。不用意ふよういると窒息ちつそくしておそれがあるので、蝋燭らうそくをさしれる必用ひつようがある。人足にんそく一人ひとりすゝんで、あななか片手かたてをさしれると、次第しだいちいさつて、のちには、ふツとえた。
危險きけん[#感嘆符三つ、275-7]危險きけん[#感嘆符三つ、275-7]』といふのでだれらうとぬ。
 此時このとき探檢服たんけんふく輕裝けいさうで、龕燈がんどうたつさへてた。なかるのは危險きけんであらうが、龕燈がんどうひかりけて、入口いりくちから内部ないぶらしるには差支さしつかへなからうとかんがへ、單身たんしん横穴よこあな入口いりくちまですゝんだ。
 うして龕燈がんどう横穴よこあな突出つきだして、内部ないぶらしてやうとしたが、そのひかりあた部分ぶぶんは、白氣はくき濛々もう/\として物凄ものすごく、なになにやらすこしもわからぬ。
 やうや見定みさだめると、龕燈がんどうひかり奧壁おくかべ突當つきあたつて、朧月おぼろつきごとうつるのである。
 しかるには危險きけんであるから、窟内くつない散布さんぷして、うしてのちるがからう。それに、だいばんには大野氏おほのしはづだからとかんがへながら、なほいまいはや底部ていぶらしてやうとして、龕燈がんどう持直もちなほ途端とたんに、あし入口いりくちのくづれたる岩面いはづらんだので、ツル/\とあななかすべちた。
 はツとおもつたが、仕方しかたい。すでに一横穴よこあな踏入ふみいれてるのだ。うなると日頃ひごろ探檢氣たんけんきしやうじて、危險きけんおもはず、さらおくはうすゝむと、如何いかに、足下あしもと大々蜈※(「虫+(鬆―髟)」、第4水準2-87-53)だい/″\むかでがのたくツてる――とおもつたのはつかで、龕燈がんどうらしてると、いは隙間すきまからつたくさつるであつた。
 さら取直とりなをして、暗黒々あんこく/\岩窟内がんくつないてらると、奧壁おくかべちかくにあたつてる、る、ひとほねらしいもの泥土でいどまりながらよこたはつてえる。うしてその枕元まくらもとはうに、びて※(「木+汚のつくり」、第4水準2-14-28)くちきごとくなる直刀ちよくとうが二ほんいてある。
 此時このときは一しゆべからざるの凄氣せいきたれたのである。此所こゝこれ、千すう年前ねんぜんひとほうむつた墳墓ふんぼである。その内部ないぶきながらつてつのである。白骨はくこつけるにあらぬか。せるにあらぬかといふ、夢幻むげんきやうにさまよひ、茫然ばうぜんとしてうごかずにうしろから、突然とつぜん、一黒影くろかげ出現しゆつげんした。
 吃驚びつくりしてるとそれは野中氏のなかしだ。
 それから取直とりなほして。
大丈夫だいぢやうぶだ。諸君しよくん來給きたまへ』とよばはつた。
 窟外くつぐわいからは、角燈かくとう蝋燭らふそくなんど、點火てんくわして、和田わだ大野おほの水谷みづたにといふ順序じゆんじよ入來いりきたつた。
 それから五にん手分てわけをして、窟内くつないくまなく調査てうさしてると、遺骨ゐこつ遺物ゐぶつ續々ぞく/″\として發見はつけんされる。それをあやまつてみさうにる。大騷おほさはぎだ。
 いまこの岩窟がんくつ説明せつめいするに、もつとかいやすからしめるには、諸君しよくん腦裡のうりに、洋式ようしき犬小屋いぬごやゑがいてもらふのが一ばんだ。
 地中ちちう犬小屋式いぬごやしき横穴よこあな穿うがつてあつて、その犬小屋いぬごやごど岩窟がんくつ入口いりくちまでは、一ぢやう尺餘しやくよ小墜道せうとんねるとほるのだ。て、犬小屋いぬごやごと横穴よこあな入口いりくちは、はゞじやくすんたかさが三じやくすんある。だからいぬ犬小屋いぬごやはいとき腹這はらばふとおなじく、ひと横穴よこあなときも、餘程よほと窮屈きうくつだ。
 其所そこで、入口いりくちると、其所そこ横幅よこはゞが九しやくすんある。それから突當つきあたりの奧壁おくかべまで一ぢやうしやくながさがある。奧壁おくかべところ横幅よこはゞは、入口いりくちよりすこしくびて一ぢやうしやくすんある。したには小石こいし[#ルビの「こいし」は底本では「こいく」]が一めん敷詰しきづめてある。天井てんぜうたかさは中央部ちうわうぶは五しやくずんあるが。蒲鉾式かまぼこしきまるつてるので、四すみはそれより自然しぜんひくい。其他そのたには、だい一のあなにもあるごとく、周圍しうゐ中央ちうわうとに、はゞ四五すんみぞ穿うがつてあるが、ごど床壇ゆかだんもうけてい。其代そのかはりに奧壁おくかべから一しやくずんへたてて、一れついしならべてあり、それから三じやくへだてて、まただいれついしならべてある。其間そのあひだに、人骨じんこつ腐蝕ふしよくしたのが二三たいどろごどくなつてよこたはつてる。鐵鏃てつぞくがある。直刀ちよくたうが二ほん交叉かうさしてある。鐵環てつくわんくつわ槍先やりさき祝部いはひべ土器等どきとうが、其所此所そここゝかれてある。
 これを調しらべるには、和田氏わだし卷尺まきしやくつ、が一ぱう其端そのはしち、一ぱう燈器とうきつ。大野氏おほのし一々いち/\るといふ役目やくめで、うしてうちに、あたましり衝突しやうとつする。あしむ。[#ルビの「て」は底本では「ゐ」]く。遺物ゐぶつ[#ルビの「ゐぶつ」は底本では「ゐふつ」]ける。遺骨ゐこつける。窮屈千萬きうくつせんばんだ。
 遺骨ゐこつは三四たい合葬がつそうした形跡けいせきがある。其所そこにも此所こゝにも人骨じんこつよこたはつてるが、多年たねん泥水どろみづしたされてたので、れると宛然まるでどろごどく、かたちまつた取上とりあげること出來できぬ。
 以上いじやうごどく、大體だいたい調査てうさんだのであるが、なほこまかに、小石こいしや、どろさらしてたら、玉類たまるゐ金環類きんくわんるゐ發見はつけんもあるのだらうが、それは坪井博士つぼゐはかせ[#ルビの「つぼゐはかせ」は底本では「つほゐはかせ」]られてからにして、かく既發見きはつけん遺物いぶつだけそと持出もちだし、あと明日あすまで封鎖ふうさするがからうと、一けつし、各新聞記者かくしんぶんきしやおよ少數せうすうひと窟内くつないを一けんさしたのち余等よらにんあなからことにした。
 其時そのときは、俵形たはらがた土器どき兩手りやうてつて、眞先まつさきにあなから飛出とびだすと、高等野次馬かうとうやじうまこゑそろへて。
萬歳ばんざい[#感嘆符三つ、279-10]』のさけび。
 地下坑道ちかかうだうからすゝんで敵砲臺てきほうだい陷落かんらくせしめた勇士いうしくやと、われながら大得意だいとくいであつた。
 此日このひかぎり、探檢たんけんにはかなかつた。何故なにゆゑならば、とて主墳發見しゆふんはつけん見込みこみいからであつた。
 大學側だいがくがはでも、その翌日よくじつ新發見しんはつけん横穴よこあなつひ調査てうさつゞけられたのみで、それかぎり、發掘はつくつ中止ちうしされ、十一にちには坪井博士つぼゐはかせ講演かうえんがあつたゞけで、瓢箪山大發掘ひやうたんやまだいはつくつの一段落だんらくいた。
 殘念ざんねんながら、博士はかせ講演かうえん拜聽はいちやうするをなかつたので、博士はかせ瓢箪山ひやうたんやまおよ新發見しんはつけん横穴よこあなつひて、如何どういふせつ發表はつぺうされたか、らぬが、(新聞しんぶんには講演かうえん梗概かうがいたが、新聞しんぶん記事きじには、信用しんようはらはぬ一にんであるので[#「あるので」は底本では「あるで」]しようとせぬ)として、生意氣なまいきながらごとせつするのである。
(一)瓢箪山ひようたんやま頂上ちやうじやうかつ古墳こふんりしこと承認しようにんす。
(二)山頂さんちやう古墳こふん山麓さんろく横穴よこあなとは時代じだいおい無關係むくわんけいなること
(三)だい二の横穴よこあな數人すうにん合葬がつそうしたるは主人しゆじんおよ殉死者じゆんししやれたりと解釋かいしやくせず。身分みぶん格別かくべつ隔絶かくぜつなき武人ぶじんの、同日どうじつ戰死者せんししや合葬がつそうしたるもの考證かうしようす。
 これを一々ろんずるのは、探檢記たんけんき主意しゆいいので、これふでく。
最後さいご此新横穴このしんよこあなからの發見物はつけんぶつ[#ルビの「はつけんぶつ」は底本では「はつけんぶん」]つひて、もつと注意ちういすべきてん附記ふきしてく。それは、供物ぐぶつらしき魚骨ぎよこつ發見はつけんと、俵形土器ひやうけいどきなかから、植物しよくぶつらしきものた二である。れいかつたのを今回こんくわい見出みだしたのだ。俵形ひやうけい土器どきから植物しよくぶつさがしたのは、じつである。あやう人夫にんぷてやうとしたのを、引取ひきとつて調しらべたからである。





底本:「探檢實記 地中の秘密」博文館
   1909(明治42)年5月25日発行
※底本では、「ひょうたん」の「たん」に、「箪(底本における字体は「※(「竹かんむり/單」、第3水準1-89-73)。)」と「簟」をあててある。このファイルでは、「簟」を誤植とみることはせず、二つを底本通り入力した。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:岡山勝美
校正:岩澤秀紀
2012年2月9日作成
2015年5月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

感嘆符三つ    262-10、263-9、267-11、270-6、270-6、275-7、275-7、279-10
「冫+咸」、U+51CF    263-13


●図書カード