たやすく郷党に
容れられ、広く同胞に理解されるには、兄の性行に
狷介味があまりに多かった。画一平板な習俗を懸命に追うてただすら他人の批評に気をかねる常道の人々からは、とかく
嶮峻な
隘路を好んでたどるものと危ぶまれ、生まれ持った直情径行の気分はまた少なからず誤解の種をまいてついには有司にさえ
疑惧の眼を見はらしめるに至った兄は、いまさらのように天地のひろさを
思い祖国のために尽くす新しき道に想到したのであった。そしておのが手で守りたててきた東京美術学校を去って
橋本雅邦その他の同志と日本美術院を創立したのは明治三十一年(一八九八)の夏、兄の三十七歳の時のことである。
それからの三年を院の事業の内地での足がために費やし、
横山、
下村、
菱田などいう当時の新進気鋭の士の協力を獲て、明治中葉の画壇に一新気運を喚起した後、明治三十四年(一九〇一)の末に至り、
鬱勃の元気に駆られ、孤剣一路、東のかたインドの地の訪問を思いたった。けだし、英国の治下に独立の夢まどかならぬこの不幸の国民と相いだいて、往古の盛時をしのび、大恩教主の法の光をひとしく仰ぐわれら東邦民族の合同をも策し、東洋百年の計も語らってみたかったためであろう。
古のギリシャにあこがれの誠をいたすにつれ、今のギリシャの悲境を見るに見かねて、これが救済に
馳せ向かわんとした情熱の人詩人バイロンに、
風
において性行において大いに類似を示した兄には、そうした大志を自分はいかにもふさわしく考えるのである。その兄のローマンチックな行動は、しかし、時のインド総督カーゾン
卿の目に異様の冷光をひらめかせたらしく、豪族タゴール一家の周到な
庇護によってわずかに事なきを得は得たものの、ついに久しくかの国に足をとどめかね、また漂然としてさらに西し、かつては美術取調委員の班に列して
浜尾氏らと一巡したヨーロッパの一部を再遊した上で、翌年の秋のなかばに兄は帰朝した。このインドの旅中に筆を染め諸方の客舎に稿を続けて、翌三十六年の二月にロンドンのマレー書店から公にしたのが、アジア民族のために芸術の立場から気を吐いた、あの「アジアは一なり」で始まる『東邦の理想』一巻二四四ページである。
かかる文筆の上の飛躍も因を成して兄は、米国最高の文芸の府をもってみずから誇るボストンの地に多くの知己を得た。そして翌明治三十七年以降は大正三年の病没の年に至るまで、そこの世界屈指の美術博物館に、日本およびシナの部の首脳として、毎年の半ばをかの地に過ごすに至った。兄が『日本の目ざめ』一巻をニューヨークのセンチュリ会社から出版したのもこの年の十一月である。
こうした異郷の空のほとんど定期になった半歳の間、ドクタ・ビゲロ、ミセス・ガードナその他の新旧の友人からの心づくしの数々にかかわらず、感傷に満ちた兄は、その動きやすい詩心に、本国の思い出も深く、
五浦の
釣小舟さては
赤倉のいで湯のことを、いかになつかしく思い浮かべたことであろう。
一つにはそうしたやるせないさびしさの心やらいもあって、故郷の昔の恋しさのあまり、茶事の物語にことよせて
大和心のやさしい動きをイギリス文字に写し試みたのが、察するに、親友ジョン・ラファージ画伯に奉献のこの『茶の本』(明治三十九年五月にニューヨークのフォックス・ダフィールド社出版の一巻一六〇ページ)であったのだと思われる。
この書は訳文からも知られるとおり、茶の会に関する種々の閑談やら感想やらを媒介として人道を語り
老荘と
禅那とを説き、ひいては芸術の鑑賞にも及んだもので、バターの国土の民をして、紅茶の煙のかなたに
風炉釜の煮えの別天地のあることを、一通り
合点行かせる書物としては、おそらくこれを極致とすべきかと、あえて自分は考えるが、さてその章句の中に宿された茶事に関する理解を、兄はどこから得たものかと思いいぶかる読者もあろう。兄のその方面の心得は、明治の十三年に大学(一八八〇)をおえて後、まだ自分たちと同じく
蠣殻町の父の家に住居のころ、
一六か
三八か日取りは記憶せぬが月に数回、師を
聘して正式に茶の湯の道を学んだのが始めで、教えに見えたのは
正阿弥という幕末の有名な茶人と記憶する。
稽古のたびごとに、うら若かった
嫂といっしょに、いたずら盛りの
小伜かく申す自分も、ちょこなんとお
相伴して、窮屈な茶室にしびれを切らせながら、結構な御ふくあいなどと、こまっちゃくれた
挨拶を無意識に口にしたものであった。
兄はその後もこの道の修業を積むおりがおりおりはあったであろうが、
嫂の師事した
石塚宗匠からの間接の教えも、大いに悟入に資したことと思う。また茶に関する書物の渉猟も、禅学のそれと並んで、年とともに進んだに違いない。そういう方面の多くの書きものの中で、まず大いに兄を芸術鑑賞の立場からも動かしたろうと思われるのは、なんと言っても
陸羽の『
茶経』であったろうと自分は想像する。あの
天狗の落とし子のような彼のおいたちがすでに
仙人らしい
飄逸味に富んでいるが、茶に沸かす川の水の清さを
桶の中から味わい分けた物語のごとき、いやしくも文芸の道に一片の了解をいだく者の、会心の
笑みを漏らさずには読み得ぬ一節ではあるまいか。
その会心の笑みともいうべきものを、旅情の慰安に筆にしようとした兄のボストンの居室の机の上にはきっと一冊の『茶経』が開かれていたに違いない。座右にはまだ類似の書物が二三冊あったかもしれぬが、たぶんはかつて読んだり耳にした事のおぼろげな記憶をたどって、点茶、生花、およびそれらが教えるくさぐさの文学芸術の精髄のことどもを、それからそれへと書きもて行った結果が『ザ・ブック・オヴ・ティー』の一巻で、これが本の形で生前に兄が公にした最後のものである。そしてそれが兄の筆から出た英文の著作の中では、未単行の『
白狐』を除いては、いちばん永久性に富んだ心にくい作品である。『東邦の理想』に対しては議論の余地が史実そのほかの点からあるいは出る余地もあろう。『日本の目ざめ』はその扱う事がらの性質上、現実味の薄らぐおそれが無いでもない。しかしこの『茶の本』は人心の機微に立脚した文字で長くその
馨を世に残すにたる
檀香とも言うべきもの。それがドイツ語にもフランス語にも訳されて広く欧米人に、出版後半世紀ならんとする今も、かなり広く読まれるのもけだしこのためにほかならぬ。
そうした本邦人の著作を、外国の文字でつづられてあるというゆえをもって、自国の者がその存在をさえ知らずにいることを遺憾に思って、
洋々塾の
村岡博氏が、原文の一字一句をもゆるがせにすることなく多大の労苦を物ともせずに、章一章こくめいに日本語に写して塾の雑誌『
亡羊』に、昭和の二年(一九二七)四月の創刊号から前後十号にわたって掲載し、翻訳者としての最善を尽くし、昨年八月ついに業をおえられたのであるが、同人雑誌の狭い読者だけにその恵みをわかつべきでないことはその読者たちの数々の声からも明らかである。それで兄の嗣子
一雄氏とも相談してこれを岩波文庫に収めることにした。もっとも広い読者の鑑賞にこれをささげたいからである。ただしこの種の読み物は、内容にいっそうふさわしい
装帳で少数の
好事の人にのみ示すべきもの、と考える人々も少なくない。岩波書店主もまたあるいはその一人であられるかも知らぬ。それももとより一理あって自分もそれに異論はない。しかしそれにはまたしかるべき時機がおのずからそのうち生じてくることと信ずる。それはそれとして、それと同時にこの『茶の本』を茶色表紙の岩波文庫の一本に数えるのもまた大いに意義の深い事ではなかろうか。
それからこの本の名を
鴻漸のそれに習って『茶経』と言わずに『茶の本』としたわけは、原文が陸羽の書物のそのままの英訳でないことを思い合わせる時、なまじいに、あの本の名を借り用いては、意外の連想から、本書の姿を見ひがめ、『茶経』そのものとの不即不離の関係を危うくする恐れがあることを村岡氏は懸念されたためである。
昭和四年一月三日
洋々塾にて 岡倉由三郎