火の柱

木下尚江




序に代ふ


 れより先き、平民社の諸友しきりに「火の柱」の出版を慫慂しようようせらる、しかして余は之に従ふことあたはざりし也、
 三月の下旬、余が記名して毎日新聞にかゝげたる「軍国時代の言論」の一篇、はしなくも検事の起訴する所となり、同じき三十日を以て東京地方裁判所に公判開廷せらるべきの通知到来するや、廿八日の夜、余は平民社の編輯室へんしふしつ幸徳かうとくさかひの両兄と卓を囲んで時事を談ぜり、両兄いはく君が裁判の予想如何いかん、余曰くときなり、無罪の判決元より望むべからず、両兄いはしからばすなはち禁錮、罰金乎、余曰く余は既に禁錮を必期ひつきる也、然れ共さいはひに安んぜよ、法律はつひに余を束縛すること六月以上なる能はざるなり、つや牢獄のうち幽寂いうせきにしてもつとも読書と黙想とに適す、開戦以来草忙さうばうとして久しく学にすさめる余にとつては、真に休養の恩典と云ふべし、両兄曰く果して然るか、君が「火の柱」の主公篠田長二しのだちやうじとらへて獄裡ごくりに投じたるものに君の為めにしんをなせるに非ずや、君何ぞ此時を以て断然之を印行いんかうに付せざるやと、余の意にはかに動きて之を諾して曰く、裁判の執行ほ数日のかんあり、乞ふ今夜ただちに校訂に着手して、之を両兄に託さん入獄ののち之を世に出だせよ、
 斯くて九時、余は平民社を辞して去れり、何ぞ知らん、舞台は此瞬間を以て一大廻転をなさんとは、
 余が去れる後数分、警吏は令状をたづさへて平民社をたゝけり、厳達して曰く「嗚呼あゝ増税」の一文、社会の秩序を壊乱するものありよつて之を押収あふしふすと、
 四月一日いちじつを以て余は判決の宣告を受けぬ、四月二日を以て堺兄の公判は開廷せられぬ、而して其の結果は共に意外なりき、余は罰金に処せられたり、堺兄は軽禁錮三月に処せられたり、而して平民新聞は発行禁止の宣告を受けたるなり、平民社は直に控訴の手続に及びぬ、
 其の九日の夜、平民社演説会を神田の錦輝舘きんきくわんに開けり、出演せるもの社内よりは幸徳、堺、西川の三兄、社外よりは安部あべ兄と余となりき、演説終つて後、堺兄の曰く、来る十二日控訴の公判開かれんとし花井、今村の諸君弁護の労を快諾せられぬ、しかれ共我等同志が主義主張の故を以て法廷に立つこと、今後必ずしもまれなりと云ふべからず、此際我等の主張を吐露して之を国権発動の一機関たる法廷に表白する、に無益のことならんやと、一座賛同、しかして余つひに其の選に当りて弁護人の位地に立つこととなれり、
 十二日は来れり、公判は控訴院第三号大法廷にひらかれぬ、堺兄にさきだちて一青年の召集不応の故を以て審問せらるゝあり、今村力三郎君弁護士の制服をまとひて来り、余の肩を叩いて笑つて曰く、君近日しきりに法廷に立つ、に離別の旧妻に対して多少の眷恋けんれんもよほすなからんやと、誠に然り、余が弁護士の職務をなげうつてよりすでに八星霜、居常きよじやう法律を学びしことにむかつ遺憾ゐかんの念なきに非ざりしなり、今ま我が親友の為めに同志を代表して法廷に出づるに及び、余が不快に堪へざりし弁護士の経験が、決して無益に非ざりしことを覚り、無限の歓情くわんじやう禁ずべからざりし也、
 既にしての青年の裁判は終了せり、しかして堺兄は日本に於ける社会主義者の代表者として「ボックス」の中に立てり、
 判事の訊問あり、検事の論告あり、弁護人の弁論あり、而して午後二時公判は終了を告げぬ、
 越えて十六日、判決は言ひ渡たされぬ、堺兄は軽禁錮二月に軽減せられたり、而して発行禁止の原判決は全然取り消されたり、
 吾人は堺兄の為に健康を祈ると共に、「発行禁止」の悪例の破壊せられたることを深く感謝せずんばあらず、
 桜花雨に散りて、人生うらみおほき四月の廿一日堺兄は幼児を病妻に托して巣鴨の獄におもむけり、而して余は自ら「火の柱」の印刷校正に当らざるべからず、是れに兄が余に出版を慫慂しようようし、而して余が突嗟とつさ之を承諾したる当夜のこゝろざしならんや、だ「刑余の徒」たるの一事のみ、けいと余と運命をおなじふする所也、
枯川兄を送れるの日、毎日新聞社の編輯局に於て
木下尚江


一の一


 時は九月の初め、紅塵こうぢんひるがへる街頭には赫燿かくやくと暑気の残りて見ゆれど、芝山内しばさんないの森の下道したみち行く袖には、早くも秋風の涼しげにぞひらめくなる、
「ムヽ、れが例の山木剛造やまきがうざうの家なんか」と、石造せきざうの門に白き標札打ち見上げて、一人のツブやくを、つれなる書生のしたり顔「左様さうサ、陸海軍御用商人、九州炭山株式会社の取締、俄大尽にはかだいじん出来星できぼし紳商山木剛造殿の御宅は此方こなたで御座いサ」
「何だ失敬な、社会のとみを盗んで一人の腹をやすのだ、の煉瓦の壁の色は、貧民の血を以て塗つたのだ」
「ハヽヽヽ、君の様に悲観ばかりするものぢや無いサ、天下の富を集めて剛造はいの腹をこやすと思へばこそしやくさはるが、之を梅子と云ふ女神めがみ御前おんまへに献げるともや、何も怒るに足らんぢや無いか」
「貴様は直ぐ其様そんな卑猥ひわいなことを言ふから不可いかんよ」
れは恐れ入つた、が、現に君の如き石部党いしべたう旗頭はたがしらさへ、の女神の為めには随喜の涙を垂れたぢや無いか」
うそ言ふな」
うそぢや無いよ、僕は之を実見したのだから弁解は無用だよ」
「嘘言へ」
「剛情な男だナ、ソレ、此の春上野の慈善音楽会でピアノをいた佳人がつたらう、左様さうサ、質素な風をして、眼鏡を掛けて、雪の如きかほに、花の如をくちびるに、星の如きひとみの、――彼女かれすなはち山木梅子嬢サ」
「貴様、真実ほんたうか」
 との書生は、木立のなる新築の屋根をかへりみつゝ「うも不思議だナ、僕はほとんど信ずることが出来んよ」
「懐疑は悲観のなりサ、彼女かれ芳紀とし既に二十二―三、いま出頭しゆつとうてん無しなのだ、御所望とあらば、僕いさゝか君の為めに月下氷人げつかひようじんたらんか、ハヽヽヽヽヽ」
かし、貴様、剛造の様な食慾無情の悪党に、あゝいふ令嬢むすめの生まれると云ふのは、理解すべからざることだよ」
「が、剛造などでも、面会して見れば、案外の君子人かも知れないサ」
「そんなことがあるものか」
 丸山の塔下を語りつゝ、飯倉いひくらの方へと二人は消えぬ、
 客去りて車轍くるまあとのみ幾条いくすぢとなく砂上にあざやかなる山木の玄関前、庭下駄のまゝ枝折戸しをりど開けて、二人のむすめの手をたづさへて現はれぬ、姉なるは白きフラネルの単衣ひとへに、うるしの如き黒髪グル/\と無雑作むざふさつかね、眼鏡越しに空行く雲静かに仰ぎて、独りホヽ笑みぬ、
 今しも書生の門前をうはさして過ぎしは、此のひとの上にやあらん、むらさき単衣ひとへに赤味帯びたる髪房々ふさ/\と垂らしたる十五六とも見ゆるは、いもとならん、れど何処いづこともなく品格しないたくくだりて、同胞はらからとはほとんど疑はるゝばかり、
「ぢや、ねいさんは何方どちらすきだとおつしやるの」と、妹は姉の手を引ツ張りながら、かほしかめてうながすを、姉は空の彼方あなた此方こなたながめやりつゝ、
「あら、よツちやん、私はすききらひも無いと言つてるぢやありませんか」
「けれど姉さん、何方どつちかへくとおめなさらねばならんでせう、両方へ嫁くわけにはならないんだもん」
左様さうねエ、ぢや私、両方へ嫁きませうか」と、姉は振り返つて嫣然につこと笑ふ、
ひどいワ、姉さん、からかつて」と、妹は白い眼して姉をにらみつ、じつと身を寄せてた取りがり「ね、姉さん、松島さんの方におめなさいよ、わたし、松島さん大好きだわ、海軍大佐ですつてネ、今度露西亜ロシヤと戦争すれば、ぐ少将におなりなさるんですと――ほんたうに軍人はいわ、活溌くわつぱつで、其れに陸軍よりも海軍の方が好くてよ、第一奇麗きれいですものネ、其れでネ、姉さん、昨夜ゆうべ阿父おとつさん阿母おつかさんと話していらしつたんですよ、早く其様さうめて松島様の方へ挨拶あいさつしなければ、此方こちらも困まるし、大洞おほほらの伯父さんも仲に立つて困まるからつて」
「芳ちやんは軍人がお好きねエ」
「ぢや、姉さんは、あの吉野とか云ふ法学士の方が好いのですか、驚いたこと、彼様あんなニヤけた、頭ばかり下げて、意気地いくじの無い」
左様さうぢや無いの、芳ちやん」と、姉は静に妹を制しつ「わたしはネ、誰の御嫁にもならないの」
 妹は眼を円くして打ち仰ぎぬ「――ほんたう」

一の二


 折柄門のかたに響く足音に、姉の梅子は振り返へりつ、
「長谷川牧師が光来いらしつてよ」
 色こそせたれ黒のフロックコート端然と着なしたる、四十恰好かつこうの浅黒き紳士は莞爾くわんじとして此方こなたちかづきたる、れ交際家として牧師社会に其名を知られたる、永阪教会の長谷川なにがしなり、
 妹の芳子はほほふくらし、
いやな奴ツ」とツブやくを、梅子は「あら」と小声に制しつ、
 牧師は額の汗ぬぐひもへず、
「これは/\、御揃おそろひで御散歩でらつしやいまするか、オヽ、『黒』さんも御一緒ですか」と、芝生に横臥わうぐわせる黒犬にまで丁重に敬礼す、是れなん其仁そのじん、獣類にまで及べるもの
「エヽ、本日けふまかり出でまするやうと、御父上から態々わざ/\のお使に預りまして」と、牧師は梅子の前に腰打ちかがめつ「はなはだ遅刻致しまして御座りまするが、御在宅でらせられまするか」
 妹嬢いもとむすめは黙つて何処いづこへかつて仕舞ひぬ、
御光来おいでを願ひましたさうで御座いまして、誠に恐れ入りました」と、梅子の言ふを、
「イエ、なに、態々わざ/\と申すでは御座りませぬ、ほかに此の方面へ参る所用も御座りまする、其れに久しく御父上には拝顔を得ませんで御座りまするから」
 牧師は身をそららしてニヤ/\と笑ひぬ、
 梅子に導かれて牧師は壮麗なる洋風の応接室にりぬ、
 待つ間稍々やゝ久しくして主人あるじは扉を排して出で来りぬ、でつぷりふとりたる五十前後の頑丈造ぐわんぢやうづくり、牧師が椅子いすを離れての慇懃いんぎんなる挨拶あいさつを、かろくもあごに受け流しつ、正面の大椅子にドツかとばかり身を投げたり、
御来宅おいでを願つてはなはだ勝手過ぎたが、こし御注意せねばならぬことがあるので」と、葉巻莨はまきたばこけむりふと棚引たなびかせて「ほかでも無い、例の篠田長二しのだちやうじのことであるが、近頃何かしきりに非戦論など書き立ててるさうだ、勿論もちろん彼奴等きやつらの『同胞新聞』など言ふものは、我輩などの目には新聞とは思へないので、どうせ狂気染みた壮士の空論、元より歯牙しがに掛ける必要もないのだが、かし此頃娘共のはなしして居た所を聞くと、近来教会においても、耶蘇ヤソ教徒は戦争に反対せにやならぬなど、無法なことを演説すると云ふことだが、」
 牧師は恐る/\口を開き「さ、其件に就きましてはわたくしも一方ならず、心痛致し居りまするので」と弁せんとするを、剛造はたばこの灰もろ共に払ひ落としつ「それに梅子などはどうやら其の僻論へきろんに感染して居るらしいので、おほいに其の不心得を叱つたことだ、ことに近頃彼女あれの結婚について相談最中のであるから、万一にも社会党等の妄論ばうろんなどに誤られる様なことがあらば、其れこそ彼女ばかりでは無い、山木一家やまきいつけに取つて由々しき大事なのである、で、今日君を御呼び立て致したのは、社会党を矢張り教会に入れて置かるゝ御心得か如何どうかを承つて、其上で子女等こどもらを教会へお預けして置くか如何を決定したいと思ふのである」
 牧師はして沈黙す、
 剛造はジロリ其を見やりつ「いやしくも山木の家族が名を出して居る教会に、社会党だの、無政府党だのと云ふバチルスを入れて置かれては、第一我輩の名誉に関することで、又たの様な其筋で筆頭の注意人物をれ置くと云ふのは、教会の為めにも不得策だらう、彼様あんな乱暴な人物も耶蘇教信者だと云ふので、無智漢の信用をつないでるのだから」

一の三


 牧師はわづかに頭をもたげぬ、
「御立腹の段は誠に御尤ごもつともで、わたくしに於ても一々御同感で御座りまする、が、だ何分にも篠田が青年等の中心になつて居りまするので」
「さ、其のことである」と、剛造はくちばしれぬ、「危険と言ふのは其処である、卵の如き青年の頭脳へ、社会主義など打ち込んで如何どうするつもりであるか、ツイ先頃もわし子女等こどもらの室を見廻はると、長男せがれの剛一が急いで読んで居た物を隠すから、無理に取り上げて見ると、篠田の書いた『社会革新論』とか云ふのだ、長谷川君、少しは考へて貰ひたいものだ、教会へは及ばずながら多少の金を取られてる、さうして家庭かない禍殃わざはひ種子たねかれでもようものなら、我慢が出来るか如何どうだらう」
 牧師はしきりに額の汗をぬぐひつ、
御尤ごもつともで御座りまする」
「元来を言へば長谷川君、初め篠田如き者を迂濶うくわつに入会を許したのが君の失策である、如何どうだ、の新聞のくちは、政府だの資産あるものだのと見ると、事の善悪にかゝはらず罵詈讒謗ばりざんばうの毒筆をもてあそぶのだ、彼奴きやつ帰朝かへつて、彼の新聞に入つて以来、わづか二三年の間に彼の毒筆に負傷けがしたものが何人とも知れないのだ、わしなども昨年の春、毒筆を向けられたが――彼奴等きやつらの言ふ様な人道とか何とか、其様そんな単純なことで坑夫等の統御が出来るものか、少しは考へて見るがいのだ、石炭坑夫なんてものは、熊か狼だ、其れを人間扱ひにせよと云ふのが間違つて居るぢや無いか、の時にも君に放逐はうちくする様に注意したのだが、自分のことで彼此かれこれ云ふのは、世間の同情を失ふおそれがあるからと君が言ふので、其れも一理あるとわしも辛棒したのだ、今度は、君、少しも心配するに及ぶまい、日露戦争に反対するのだから、すなは売国奴ばいこくどと言ふべきものでは無いか」
 牧師は額押へて謹聴し居たりしが、やがて少しく頭を揚げつ「――一々御同感で御座りまするので――が、何分にも御承知の如き尋常なみ/\ならぬ男なので御座りまするから、執事等も陰では皆な苦慮致し居りまするものの、誰も言ひ出し兼ねて居るので御座ります――如何いかがで御座りませう、御足労ながら貴方から一言教会へ直接に御注意下さりましては、多分一同待ち望んで居ることと思はれまするので――」
わしが教会などへ行つてれると思ふか」と、剛造は牧師をにらみつ「わしは体の代りに黄金かねつてあるはずだ――イヤ、牧師ともあるものが左様さやうに優柔不断ならば、私の方にも心得がある、子女等こどもらも向後一切教会へは足踏みもさせないことによう」
「ア、山木さん、御立腹では恐れ入りまする」と、牧師は周章あわただしく剛造をなだめ、
よろしう御座りまする、わたくしも兼ねて其の心得で居りましたのですから、早速執事等とも協議の上、至急御挨拶ごあいさつに及ぶで御座りませう」
「ウム、ぢや、早速左様さう云ふことに」
 剛造のかほやはらぎたるに、牧師もホとばかりに胸撫で下ろしつ、
「ツイ失念致し居りまして御座りまするが、京都育児慈善会から貴方へ厚く御礼申上げ呉れる様にと精々申して参りました、沢山たくさん義揖ぎえんを御承諾下ださいましたので、京阪地方の富豪を説くにも誠に好都合になりましたさうで、我国でのモルガン、ロックフェラアといふべきであらうなど、非常に貴方を称讃して寄越よこしまして御座りまする」
「なに、ロックフェラアか、いや、ロックフェラアも近頃の不景気では思ふ様に慈善も出来ない」と、剛造はり返つて呵々かゝと大笑せり、
 牧師も愈々いよ/\ゑみかたむけ「新聞で拝見致しましたが、今回九州地方の石炭会社の同盟して露西亜ロシヤへ石炭販売を禁止なされたのも、貴方あなたの御発意と申すことで、実業界からかる愛国の手本が出ますると云ふのは、実に近来の快事で御座りまする」
「ハヽヽヽヽ」と剛造はときは高笑ひ「商売にしてからが、矢ツ張り忠君愛国と言つたやうな流行の看板をけて行くのサ」
 剛造はやをら立ち上がりつ、
「長谷川君、伝道なども少こし融通ゆうづうくやうに頼みますよ、今も言ふ通り梅子の結婚談で心配して居るんだが、信仰が如何どうの、品行が如何のと、頑固ぐわんこなことばかり言うて困らせ切つて仕舞ふのだ、耶蘇ヤソでも仏でも無宗教でも構ふことは無い、男は必竟つまり人物にあるのだ、さうぢや無いか、一夫一婦なんてことは、日本ではだ時期が早いよ――ぢや、君、今の篠田の一件を忘れないやうに、れで失敬する、家内かないの室ででも悠然ゆつくり遊んで行き給へ」
 たばこの煙一抹いちまつを戸口に残してスラリ/\と剛造は去りぬ、
 牧師はひとり思案の腕を組みつ、

二の一


 夜は十時を過ぎぬ、二等煉瓦のちまたには行人既にまれなるも、同胞新聞社の工場には今や目もふばかりに運転する機械の響囂々がう/\として、明日あすの新聞を吐き出だしつゝあり、板敷の広き一室、瓦斯ガスの火せはに燃ゆる下に寄りつどふたる配達夫の十四五名、若きあり、中年あり、稍々やゝ老境に近づきたるあり、はげたる飛白かすりに繩の様なる角帯せるもの何がし学校の記章打つたる帽子、阿弥陀あみだいただけるもの、或は椅子に掛かり、或はとこすわり、或は立つて徘徊はいくわいす、印刷出来しゆつたいを待つ徒然つれづれに、機械の音と相競うての高談放笑なかなかににぎはし、
 三十五六の剽軽へうきんらしき男、若き人達の面白き談話に耳傾けて居たりしが、やがてポンと煙管きせるを払ひて「書生さん方、おうらやましいことだ、同し配達でもお前さん達は修業金の補充たしまいに稼ぐだが、私抔わたしなどを御覧なせい、御舘おやかたへ帰つて見りや、豚小屋からしりの来さうな中に御台所みだいどころ御公達ごきんだち、御姫様方と御四方およつかたまで御控へめさる、これわし脚気かつけの一つも踏み出したが最後、平家の一門同じ枕に討死うちじにツてつた様な幕サ、考へて見りや何の為めに生れて来たんだか、一向いつかう合点がてんが行かねエやうだ」
 しやがんで居たる四十恰好かつかうの男「さうよ、でも此の新聞社などはこし毛色が変はつてるから、貧乏な代りに余り非道もらねいが、外の社と来たら驚いちまはア、さんざん腹こき使つた上句あげく、体が悪くなつたからつてつ払ひよ、チヨツ、誰の為めに体が悪くなつたんだ」
 フカリ/\烟草たばこを吹かし居たる柔順おとなしやかなるおやじ年増としましに世の中がヒドくなるよ、俺の隣に砲兵工廠へ通ふ男があつたが、――なんでも相当に給料も取つてるらしかつたが、其れが出しぬけにお払函はらひばこサ、外国から新発明の機械が来て、女でる間に合ふからだと云ふことだ」
 剽軽へうきんなる男「フム、ぢやア逐々おひ/\女がかせいで野郎は男妾をとこめかけツたことになるんだネ、難有ありがたい――そこで一つ都々逸どゝいつが浮んだ『わたしヤ工場で黒汗流がし、ぬしは留守番、子守歌』は如何どうだ、イヤ又た一つ出来た、今度は男の心意気よ『工場の夜業でかゝあが遅い、餓鬼がきはむづかる、めしや冷える』ハヽヽヽ是れぢや矢ツ張りり切れねい」
「所が、おめい、女房は産後の肥立ひだちが良くねえので床に就いたきり、野郎は車でもかうツて見た所で、電車が通じたので其れも駄目よ、彼此かれこれする中に工場できざした肺病が悪くなつて血を吐く、詮方せうことなしに煙草の会社へ通つて居た十一になる娘を芳原よしはらへ十両でうつて、それも手数の何のツて途中へ消えて、手に入つたのはたつたお前、六両ぢやねいか、焼石に水どころの話ぢやねエ、其処そこで野郎も考へたと見える、いつそ俺と云ふものが無かつたら、女房も赤児あかんぼも世間の情の陰でかへつて露の命をつなぐことも出来ようツてんで、近所合壁へ立派に依頼状たのみじやうのこして、神田川で土左衛門よ」
「成程そんな新聞を見たおぼえもある」と誰やらが言ふ、
「あんな大した腕持つてる律義りちぎな職人でせエ此の始末だ、さうかともや、悪い泥棒見たいな奴が立身して、めかけ置いて車で通つて居る、神も仏もあつたもんぢやねエ」
 秋の夜のけ行く風、肌にみて一座粛然たり、
「だから貴様達は馬鹿だと云ふんだ」突如落雷の如き怒罵どばの声は一隅より起れり、衆目しゆうもく驚いて之にそゝげば、いま廿歳前はたちぜんらしき金鈕きんボタンの書生、黙誦もくじゆしつゝありし洋書を握り固めて、突ツ立てるまゝ鋭き眼に見廻はし居たり、漆黒しつこくなる五分刈の頭髪燈火に映じて針かとも見ゆ、彼は一座怪訝くわいがおもてをギロリとばかりにらみ返へせり「君等はいやしくも同胞新聞の配達人ぢやないか、新聞紙は紙と活字と記者と職工とにて出来るものぢやない、我等配達人もた実に之を成立せしめる重要なる職分をおびて居るのである、しかるに君等は我が同胞新聞の社会に存在する理由、な、存在せしめねばならぬ理由をさへ知らないとは、何たる間抜けだ、……人生の目的がわからぬとは何だ、――神も仏も無いかとは何だ、其の疑問を解きたいばかりに、同胞新聞はこゝに建設せられたのぢやないか、吾々は世の酔夢すゐむに覚醒を与へんが為めに深夜、彼等の枕頭ちんとうに之を送達するのぢやないか、――馬鹿ツ」彼は胸をおさへ、情をみて、又其唇を開けり「君等には篠田主筆の心が知れないか、先生が……先生が貧苦を忍び、侮辱を忍び、迫害を忍び、年歯ねんし三十、なほ独身生活をまもつて社会主義を唱導せらるゝ血と涙とが見えないか――」

二の二


「君、さう泣くな、村井」とポンと肩をたゝいてなだめたるは、同じく苦学の配達人、年は村井と云へるに一ツ二ツも兄ならんか、「述懐は一種の慰藉ゐしやなりサ、人誰か愚痴なからんやダ、君とても口にこそえらいことを吐くが、雄いことを吐くだけ腹の底には不平が、うづいて居るんだらう」
 少年村井も首肯うなづきつ、「ウム、羽山、まあ、さうだ」
「それ見イ、僕は是れで三年配達をつてるが、肩は曲がる、血色はくなる、記憶力は衰へる、僕はツクヅク夜業の不衛生――と云ふよりもむしろ一個の罪悪であることを思ふよ、天は万物ばんもつに安眠のとこを与へんが為めに夜テフ天鵞絨びろうど幔幕まんまくろし給ふぢやないか、然るに其時間に労働する、すなはち天意を犯すのだらう、看給みたまへ、夜中の労働――売淫、窃盗、賭博、巡査――巡査も剣を握つていかめしく立つては居るが、流石さすがに心は眠つて居るよ、其間を肩に重き包を引ツ掛けて駆け歩くのが、アヽ実に我等新聞配達人様だ、オイ村井君、君の崇拝する篠田先生も紡績女工の夜業などには、大分だいぶ間敷ましく鋭鋒えいほうを向けられるが、新聞配達の夜業はドウしたもんだイ、ひとの目にる塵をかぞへておのれの目に在る梁木うつばり御存ごぞんじないのか、矢ツ張り、耶蘇ヤソ教徒婦人ばかりを博愛しツてなわけか、ハヽヽヽヽヽ」
りや羽山さん、出来ました」「村井さん如何いかがです」「ハヽヽヽヽヽ」
 隣れる室のしきゐに近く此方こなたに背を見せて、地方行の新聞に帯封施しつゝある鵜川うかはと言へる老人、ヤヲら振り返りつ「アハヽ村井さん、大分痛手を負ひましたナ、が、御安心なさい、此頃も午餐ひるつくゑで、主筆さんが社長さんと其の話してられましたよ」
「ドウだ羽山、恐れ入つたらう」と村井は雲を破れる朝日の如く笑ましげに、例の鋭きまなこを輝やかしつ「僕は僕の配達区域に麻布本村町あざぶほんむらちやうの含まれてることを感謝するよ、僕だツて雨の夜、雪の夜、みぞれ降る風の夜などは疳癪かんしやくも起るサ、華族だの富豪だのツて愚妄ぐまう奸悪かんあくはいが、へいを高くし門を固めて暖き夢にふけつて居るのを見ては、暗黒の空をにらんで皇天の不公平――ぢやない其の卑劣を痛罵つうばしたくなるンだ、ことに近来仙台阪の中腹に三菱の奴が、婿むこの松方何とか云ふ奴の為に煉瓦れんぐわの建築をはじめたのだ、僕は其前を通るたびに、オヽ国民の膏血かうけつわたくしせる赤き煉瓦の家よ、汝が其いしずえの一つだにのこらざる時のきたることを思へよと言つてのろつてやるンだ、けれどネ羽山、それを上つて今度は薬園阪やくゑんざかの方へ下つて行く時に、僕の悩める暗き心はたちまち天来の光明に接するのだ」
 羽山は笑ひつゝくちばしれぬ「金貨の一つも拾つたと云ふのか」
「馬鹿言へ、古きけやきが巨人の腕を張つた様に茂つてる陰に『篠田』と書いた瓦斯燈ガスとうが一道の光を放つてるヂヤないか、アヽ此の戸締もせぬ自由なる家のうちに、の燃ゆるが如き憂国愛民の情熱をいだいて先生が、ばしの夢にやすんでられるかと思へば、君、其の細きランプの光が僕の胸中の悪念を一字々々に読み揚げる様におそれるのだ」
「一寸お待ちなせエ、戸締のい家たア随分不用心なものだ、れ程貧乏なのか知らねいが」と彼の剽軽へうきんなる都々逸どゝいつの名人は冷罵れいばす、
「君等に大人たいじんの心がわかつてたまるものか」と村井はくわつ一睨いちげいせり「泥棒の用心するのは、必竟つまり自分に泥棒根性こんじやうがあるからだ、世に悪人なるものなしと云ふのが先生の宗教だ、家屋の目的は雨露うろしのぐので、人をふせぐのでないと云ふのが先生の哲学だ、戸締なき家と云ふことが、先生の共産主義の立派な証拠ぢやないか」
「キヨウサンシユギつて云ふのは一体何のことかネ」と剽軽男へうきんをとこは問ふ、
 村井は五月蝿うるさいと云ひげに眉をひそめしが「そりや、其のあれだ、手短に言へば皆ンなで働いて皆ンなでつかふのだ、誰の物、彼の物なんて、そんな差別は立てないのだ――」
「ヘエー其奴そいつア便利だ、電車の三銭どころの話ヂヤねいや」
 頭を台湾坊主に食はれたる他の学生、帽子を以て腰掛をきつゝ「だが、我輩は常に篠田さんが何故無妻なのかを疑ふよ」
 突然異様の新議案に羽山は真面目まじめに首を傾けつ「何でも先生、亜米利加アメリカで苦学して居た時に、雇主やとひぬしの令嬢に失恋したとか云ふことだ、先生の議論の極端過ぎるのも其の結果ヂヤ無いか知ラ」村井は首打ち振りつ、「僕は必ず社会革新の為に、一身の歓楽を犠牲にせられたのだと思ふ」
 時に例の剽軽男へうきんをとこ、ニユーと首を延して声を低めつ「かゝあも矢ツ張り共産主義ツた様な一件ヂヤいかナ」
 一座思はずワアツとばかりに腹を抱へぬ、鵜川老人は秘蔵の入歯を吹き飛ばせり、折から矢部やべと云ふ発送係の男、頓驚とんきやうなる声を振り立てて、新聞出来しゆつたいを報ぜしにぞ「其れツ」と一同先きを争うてせ出だせり、村井のみ悠々いう/\として最後にしついでて行けり、

三の一


「先生、らつしやいますか」と大きなる風呂敷包ふろしきづつみを抱へて篠田長二の台所に訪れたるは、五十の阪を越したりとは見ゆれど、ドコやら若々とせる一寸ちよいと品の良き老女なり、男世帯なる篠田家に在りての玄関番たり、大宰相たり、大膳太夫だいぜんのたいふたる書生の大和おほわ一郎が、白の前垂を胸高むなだかに結びて、今しも朝餐あさげの後始末なるに、「おヤ、まア大和さん、御苦労様ですこと――先生はらつしやいますか」
 松が枝の如きたくましき腕をべて茶碗洗ひつゝありし大和は、五分刈の頭、おもむろにもたげて鉄縁の近眼鏡めがねごしに打ちながめつ「あア、老女おばさんですか、大層早いですなア――先生は後圃うらで御運動でせウ、何か御用ですか」
「なにネ、先生と貴郎あなた衣服おめしを持つて来ましたの、皆さんの所からまとまらなかつたものですから、大層遅くなりましてネ、――此頃は朝晩めつきりひやつきますから、定めて御困りなすつたでせうネ」
「ハヽヽヽ僕も先生もだ夏です、では其の風呂敷の中に我家の秋が包まれて居るんですか、どうも有難ウ」
「大和さん、男は礼など言ふものぢやありません、皆さんが喜んで張つたり縫つたり、仕事して下ださるんですから」
「しかし老女おばさん、そりや先生の為めにでせう、僕は御礼申さにやなりませんよ」
「まア、貴郎あなたは今時の書生さんの様でもないのネ」
 目を挙げて見れば、遠くつらなれる高輪白金たかなわしろかねの高台には樹々のこずえすでにヤヽ黄を帯びて朝日に匂ひ、近く打ち続く後圃こうほの松林にはだ虫の声々残りてながら夜の宿ともひつべし、碧空へきくう澄める所には白雲高く飛んで何処いづこに行くを知らず、金風きんぷうそよと渡る庭のおもには、葉末の露もろくも散りて空しくつちに玉砕す、秋のあはれはかり鳴きわたる月前の半夜ばかりかは、高朗の気ほねとほり清幽の情肉に浸むあしたの趣こそ比ぶるに物なけれ、今しもあふいで彼の天成の大画たいぐわ双眸さふぼうを放ち、して此の自然の妙詩に隻耳せきじを傾け、をくぐり芝生を辿たどり、手を振りたいを練りつゝ篠田は静かに歩みを運びきたる、いちに見る職工の筒袖つつそで、古画に見る予言者の頬鬚ほほひげ
「先生、渡辺の老女おばさんがお待ちなされてです」と呼ばれる大和の声に、彼は沈思のおもてを揚げて「其れは誠に申訳がありませんでした」
「イヽエ、先生どう致しまして」と老女は縁の障子しやうじを開けぬ、
 彼は書斎へ老女を招致せり、新古の書巻わづかに膝をるゝばかりに堆積散乱して、だ壁間モーゼ火中に神と語るの一画を掛くるあるのみ、
「毎度皆様の御厄介に成りまするので、実に恐縮に存じます」
 老女は手もて之ぞさへぎり「なんの先生、貴郎あなたに奥さんのお出来なさる迄は婦人会の方で及ばずながら御世話しようツて、皆さんの御気込おきごですから――」
「しかし老女おばさん、最も良き妻を持つ世界の最も幸福なる人よりも、私の方が更に幸福の様に思ひますよ」彼は茶をきつしつゝく言ひて軽く笑ふ、
「飛んだこと、んなダラシの無い奥様でも、まさか十月になる迄、旦那様に単衣ひとへをお着せ申しては置きませんからネ」とハツハ/\と老女は笑ひ興ず、
「クス/\」と隣室に漏るゝ大和の忍び笑に、老女は驚いて急に口をおほひ「まア、先生、御免遊ばせ、年を取ると無遠慮になりまして、御無礼ばかりして自分ながら愛想が尽きましてネ」
 言ひながら、ツイと少しくひざ乗り出だし、声さへにはかに打ちひそめて「ほんとにまア、先生、大変なことに成つて仕舞しまひましたのねエ、――昨夜もネ、井上の奥さんが先生の御羽織が出来たからつて持つていらつしやいまして、其の御話なんです、わたしはネ、そんなことがあるもんですか、ま先生をそんなことが出来るもんですかつて申しました所が、井上の奥様がサウぢやない、是れ/\の話でツて、私なぞには解からぬ何かむづしいことつしやいましてネ、其れでモウ内相談がまつて、来月三日の教会の廿五年の御祝が済むと、表沙汰おもてざたにするんだとつしやるぢやありませんか、井上の奥さんはア云ふ気象の方なもんですから大変に御腹立でしてネ、カウ云ふ時に婦人会が少し威張らねばならねのだけれど、会長が何しても山木さんで、副会長が牧師の奥さんと来て居るんだから、手の出し様が無いツて、涙を流して怒つて居らつしやるのです、私も驚いてしまひましてネ、明日は早朝に参つて先生の御量見を伺ひませうツてお別れしたのです、先生まアうしたらいので御座いませう」
 懸河けんが滔々たう/\たる老女の能弁をひげを弄しつゝ聴き居たる篠田「老女おばさん、其れは何事ですか、わたしにはすこしもわかりませぬが」
「先生、何です御わかりになりませぬ――まア驚いたこと――先生、貴郎あなたを教会からひ出す相談のあるのをだ御存知ないのですか」
「あア、それですか」と篠田の軽く首肯うなづくを、老女は黙つて穴のあくばかりに見つめたり、

三の二


 渡辺の老女は不平を頬にふくらして「あア其れですかどころぢや有りませんよ、先生、貴郎あなた厳乎しつかりして下ださらねば、永阪教会も廿五年の御祝で死んで仕舞ひます、御祝だやら御弔おとむらひだやら訳がからなくなるぢやありませんか、貴郎あなたネ、井上の奥様おくさんの御話では青年会の方々も大層な意気込で、し篠田さんを逐ひ出すなら、自分等も一所に退会するツてネ、井上さん与重よぢゆうさんなど先達せんだつで相談最中なさうですよ、先生、うして下ださる御思召おぼしめしですか」
 篠田はわづかに口を開きぬ「わたしの故に数々しば/\教会に御迷惑ばかり掛けて、実に耻入はぢいる次第であります、私を除名すると云ふ動機――其の因縁いんねんは知りませぬが、又たそれを根掘りするにも及びませぬが、しかし其表面の理由が、私の信仰が間違つて居るから教会に置くことならぬと云ふのならば、老女おばさん、私は残念ながら苦情を申出まうしいでる力が無いのです、教会の言ふ所と私の信仰とはたしかに違つて居るのですから――けれど、老女さん教会の言ふ所と私の信仰と、どちらが神様の御思召に近いかと云ふ段になると、其を裁判するのは只だ神様ばかりです、只だ御互に気を付けたいのは、斯様かやうなる紛擾ごた/\の時に真実、神の子らしく、基督キリストの信者らしく謙遜けんそん柔和にうわに、しゆの栄光をあわはすことです――私の名が永阪教会の名簿にると無いとは、神の台前に出ることに何の関係もないことです、教会の皆様を思ふ私の愛情は、すこしも変はることが出来ないです、老女おばさんは何時いつまでも老女さんです」
 老女は何時しかかしらを垂れてひざには熱き涙の雨の如く降りぬ、
 やゝひさしくして老女はおもて押しぬぐひつ、涙に赤らめるひとみを上げて篠田を視上げ視下ろせり「どしたら、貴郎あなたのやうな柔和やさしいお心を持つことが出来ませう――其れにけても理も非もなく山木さんの言ふなり放題になさる、牧師さんや執事さん方の御心が、余り情ないと思ひますよ――私見たいな無学文盲にはむづしい事は少しも解りませぬけれど、あの山木さんなど、何年にも教会へ御出席おいでなされたことのあるぢや無し、それに貴郎、酒はめしあがる、芸妓買げいしやがひはなさる、昨年あたりはたしか妾をかこつてあると云ふうはささへ高かつた程です、だ当時黄金かねがおありなさると云ふばかりで、彼様あんなけがれた男に、此の名高い教会を自由にされるとは何と云ふうらめしいことでせう」
 老女は又もおもておほうてサメザメと泣きぬ、
 老女は鼻打ちかみつ、「けども先生、山木さんも昔日むかしから彼様あんなでは無かつたので御座いますよ、全く今の奥様が悪いのです、――わたし毎度いつも日曜日に、あの洋琴オルガンの前へ御座りなさる梅子さんを見ますと、おなくなりなさつた前の奥様を思ひ出しますよ、あれはゼームスさんて宣教師さんの寄進なされた洋琴で、梅子さんの阿母おつかさんの雪子さんとおつしやつた方が、それをおきなすつたのです、丁度ちやうど今の梅子さんと同じ御年頃で、日曜日にはキツと御夫婦で教会へ行らつしやいましてネ、山木さんも熱心にお働きなすつたものですよ、――拍子ひやうしの悪いことには梅子さんの三歳みつの時に奥様がおなくなりになる、それから今の奥様をお貰ひになつたのですが、貴様あなた、梅子さんも今の奥様には随分ひどい目にお逢ひなさいましたよ、ほんたうに前の奥様はナカ/\えらい、好い方で御座いました、御容姿ごきりやうもスツキリとした美くしいお方で――梅子さんが御容姿と云ひ、御気質と云ひ、阿母さんソツクリでいらつしやいますの、阿母さんの方が気持ち身丈せいが低くてらしつたやうに思ひますがネ――」
 老女の心は、はしなくも二十年の昔日むかしに返へりて、ひたすら懐旧の春にあこがれつゝ、
「先生、其頃まで山木さんは大蔵省に御勤めで御座いましてネ、何でも余程幅がいてらしつたらしかつたのです、スルと、あれはかうツと――左様さう/\十四年の暮で御座いましたよ、政府おかみに何か騒が御座いましてネ、今の大隈様おほくまさんだの、島田様だのつてエライ方々が、皆ンなそろつ御退おさがりになりましてネ、其時山木様も一所に役を御免おやめになつたのです、今まで何百ツて云ふい月給を頂いて居らつしやいましたのが、急に一文なしにおなりなすつたのですから、ほんとに御気の毒の様で御座いましたがネ、奥様が、貴郎あなた厳乎しつかりして、丈夫をとこに意見をとほさせる為めには、仮令たとへ乞食になるともいとはぬと言ふ御覚悟でせう、かほは花の様に御美しう御座いましたが、心の雄々しくらしつたことはても男だつて及びませんでしたよ、山木さんの辞職なされたのも、つまり奥様の御勧おすゝめだと其頃一般の評判でしたの、――其れから奥様は学校の教師せんせいをなさる、山木様は新聞を御書きになつたり、演説をして御歩きになつたりして、奥様はコンな幸福は無いツて喜んで在らつしやいましたが、感冒おかぜの一寸こじれたのがもとあへない御最後でせう――私は尋常ひとかたならぬ御恩おめぐみに預つたもんですから、おしまひ迄御介抱申し上げましたがネ、先生、其の御臨終の御立派でしたこと、四十何度とか云ふ高熱で、普通の人ならば夢中になつて仕舞ふ所ですよ、――山木様の御手を御握おにぎりになりましてネ、何卒どうぞ日本の政道の上に基督キリスト御栄光おんさかえあらはして下ださる様、必ず神様への節操みさををお忘れなさるなとつしやいましたが、山木様が決して忘れないから安心せよと御挨拶ごあいさつなさいますとネ、奥様は世に嬉しげに莞爾にこり御笑ひ遊ばしてネ、先生、私は今もの時の御顔が目にアリ/\と見えるのです、其れから今度は梅子をと仰つしやいますからネ、頑是ぐわんぜない三歳みつの春の御嬢様を、私がお抱き申して枕頭まくらもとへ参りますとネ、細ウいお手に、もみぢの様な可愛いお手をお取りなすつて、梅ちやんと一と声遊ばしましたがネ、お嬢様が平生いつもの様に未だ片言交かたことまじりに、母ちやんと御返事なさいますとネ、――ジツと凝視みつめらしつた奥様のお目から玉の様な涙が泉の様に――」
「アヽ、思へば、先生」と老女は涙押しぬぐひつ「だ昨日の様で御座いますが、モウ二たむかし、其の時此の婆のお抱き申した赤児様あかさまが、今の立派な梅子さんです、御容姿ごきりやうなら御学問なら、御気象ならいづ阿母おつかさんに立ちまさつて、彼様ああして世間よのなかの花とも、教会の光とも敬はれてらつしやるに、阿父おとうさんの御様子ツたら、まア何事で御座います、臨終いまはの奥様に御誓ひなされた神様への節操みさをが、何所どこに残つて居りますか」
 老女は急に気を変へて、打ちほゝ笑み「まア、先生、朝ツぱらから此様こんな愚痴を申して済みませぬが、考へて見ますと、成程女と云ふものは悪魔かも知れませぬのねエ、山木様も奥様のおなくなりなされた当分は、我家のともしびが消えたと云つて愁歎しうたんしてらしたのですよ、紀念かたみの梅子を男の手で立派に養育して、雪子の恩に酬ゆるなんて吹聴ふいちやうして在らつしやいましたがネ、其れが貴郎あなた、あの投機師やまし大洞おほほら利八と知り合におなりなすつたのがそも/\で、大洞も山木様の才気に目を着け、演説や新聞で飯のくへるものぢや無い、れからの世の中は金だからつてんでネ、御馳走ごちそうはする、贅沢ぜいたくはして見せる、其れに貴郎、やもめと云ふ所を見込んでネ、丁度俳優やくしやとドウとかで、離縁されてた大洞の妹を山木さんにくつ付けたんですよ、ほんたうにまア、ヒドいぢやありませんか、其れが、貴郎あなた、今の奥様のです、だから二た言目には此の山木の財産しんだいおれの物だつて威張るので、あんな高慢な山木様も、家内うちでは頭が上がらないさうです、――先生、外国人は矢ツ張り目がえて居りますのネ、ゼームスつて洋琴オルガンを寄附した宣教師さんがネ、米国くにへ帰る時、ぜんの奥様に呉々くれぐれも仰つしやつたさうですよ、山木様は余り悧巧りかうだから、貴女あなたが常に気を付けて過失あやまちの無い様にせねばならない、基督キリストの御弟子の中で一番悧巧であつたものが、しゆを三十両で売り渡したイスカリヲテのユダなのだからツてネ、ほんとに先生、さうで御座いますよ、――何ののとかどばつたことは申しますがネ、もう/\女の言ふなり次第なものです、考へて見ると世の中に、男ほど意気地いくぢの無いものは御座いませんのねエ」
 是れは飛んだことをと、言ひ放つて老女は、そつと見上げぬ、
「実に御辞おことばの通りです」と篠田は首肯うなづき「けれど老女おばさん、真実我を支配する婦人の在ることは、男児をとこに取つて無上の歓楽では無いでせうか」
 老女は只だ怪訝顔けげんがほ


 山木剛造は今しも晩餐ばんさんを終りしならん、大きなる熊の毛皮にドツかと胡座あぐらかきて、仰げる広き額には微醺びくんの色を帯びて、カンカンと輝ける洋燈ランプの光に照れり、
 茶をすゝむる妻の小皺こじわいちじるしき顔をテカ/\と磨きて、いまはしき迄艶装わかづくりせる姿をジロリ/\とながめつゝ「ぢやア、お加女かめ、つまりどうするツて云ふんだ、梅ののぞみは」
 妻のお加女はチヨイとえりして「どうするにも、かうするにも、我夫あなた、てんで訳が解つたもンぢやありませんやネ、女がなまなか学問なんかすると彼様あんなになるものかと愛想が尽きますよ、何卒どうぞ芳子にはモウ学問など真平まつぴら御免ですよ、チヨツ、親を馬鹿にして」
「何だか少しも解らないなア」
「其りやお解になりますまいよ、どうせ何にも知らない継母まゝはゝの言ふことなどを、お聴き遊ばす御嬢様ぢや無いんですから――我夫あなたからぢかにお指図なさるがう御座んすよ、其の為めの男親でさアね」
 剛造の太き眉根まゆねビクリ動きしが、温茶ぬるちやと共に疳癪かんしやくの虫グツとみ込みつ「ぢやア、松島を亭主にすることがいやだと云ふのか」
いやなら忌で其れもよう御座んすサ、只だ其のいひぷりしやくさはりまさアネ、――ヘン、軍人はわたしいやです、軍人を愛するつてことは私の心が許しませぬから――チヤンチヤラ可笑をかしくて」言ひつゝ剛造を横目ににらみつ「是れと云ふもみん我夫あなたが、実母おやの無い児/\つて甘やかしてヤレ松島さんは少し年を取り過ぎてるの、後妻のちぞひでは可哀さうだのツて、二の足踏むからでさアネ、其れ程死んだ奥様おくさんに未練が残つて居るんですか」
「何を言ふんだ」と剛造は小声に受け流して横になれり、
 お加女かめはポン/\と煙管きせるたたきながらの独り言「吉野さんの方はどうかと聞けば、ヤレわたしが貧乏人のむすめであつても貰ひたいとつしやるのでせうかの、仮令たとへ急に悪病が起つて耻かしい様な不具かたはになつても、御見棄おみすてなさらぬのでせうかの、フン、言ひたい熱を吹いて、何処どこに今時、損徳も考へずに女房など貰ふ馬鹿があるものか、――不具になつても御厭おいとひなさらぬか、へ、自分がドンなに別嬪べつぴんだと思つて居るんだ、彼方あつちからも此方こつちからも引手ひくて数多あまたのは何の為めだ、容姿きりやうや学問やソンな詰まらぬものの為めと思ふのか、皆な此の財産しんだいの御蔭だあネ、かほつやよりも今は黄金おかねの光ですよ、はゞかりながら此の財産は何某様どなたさまの御力だと思ふんだ、――其の恩も思はんで、身分の程も知らなんで、少しばかりの容姿を鼻に掛けて、今に段々取る歳も知らないで、来年はモウ廿四になるぢやないか、構ひ手の無くなつた頃に、是れが山木お梅と申す卒塔婆小町そとばこまちの成れの果で御座いツて、山の手の夜店へでも出るがい、どうセ耶蘇ヤソなどだもの、何を仕散しちらかして居るんだか、解つたもンぢやない」
 ジロリ、よこたはりて目をふさぎ居る剛造を一瞥して「我夫あなた仮睡たぬきなどキメ込んでる時ぢやありませんよ、一昨日をとゝひもネ、わたし、兄の所で松島さんにお目に掛かつてチヤンと御約束して来たんです、念の為と思つたから、我儘わがまゝそだちで、其れに耶蘇ヤソだからツて申した所が、松島さんのつしやるには、イヤ外国の軍人と交際するには、耶蘇のかゝあの方がかへつて便利なので、元々梅子さんの容姿きりやうが望のだから、耶蘇でも天理教でも何でも仔細しさいないツて、ほんたうに彼様あんな竹を割つた様なカラリとした方ありませんよ、それに兄の言ひますには、今ま此の露西亜ロシヤの戦争と云ふ大金儲おおかねまうけを目の前に控へてる時に、当時海軍で飛ぶ鳥落とす松島を立腹させちやア大変だから、無理にても押し付けて仕舞ふ様にツて、精々せいぜい伝言ことづかつて来たんです、我夫あなた、私の顔をつぶしてもいおつもりですか」
 剛造の仮睡そらねむりして返答なきに、お加女かめ愈々いよ/\打ち腹立ち「今の身分になれたのは、誰の為めだと云ふんだネ、――それを梅子のことと云へば何んでも擁護かばひだてして、亡妻しんだものの乳母迄引き取つて、梅子に悪智恵ばかり付けさせて――其程それほど亡妻が可愛いけりや、骨でも掘つて来てしやぶつてるがい」
「何だ大きな声して――幾歳いくつになると思ふ」と云ひさまね起きたる剛造のいきおひに、
「ハイ、今年こんねん取つて五十三歳、旦那様に三ツ上の婆アで御座います、決して新橋あたりへ行らつしやるなと嫉妬やきもちなどは焼きませんから」
「ナニ、ありや、むを得ん交際つきあひサ」
左様さやうですつてネ、雛妓はんぎよく落籍ひかして、月々五十円の仕送りする交際つきあひも、近頃外国で発明されたさうですから――我夫あなた、明日の教会の親睦会しんぼくくわいは御免を蒙ります、天長節は歌舞伎座へ行くものと、往年むかしからわたしの憲法なんですから」
 奥殿おくどのの風雲うたた急なる時、ふすましとやかに外より開かれて、島田髷しまだまげの小間使慇懃いんぎんに手をつかへ「旦那様、海軍の官房から電話で御座いまする」

五の一


 十一月三日、そらは青々と澄みわたりて、地には菊花の芳香あり、此処都会の紅塵こうぢんを逃れたる角筈村つのはずむらの、山木剛造の別荘の門には国旗翩飜へんぽんたるもとに「永阪教会廿五年紀念園遊会」と、墨痕すみあと鮮かに大書せられぬ、
 数寄すきらせる奥座敷の縁に、今しも六七名の婦人に囲まれて女王によわうの如く尊敬せらるゝ老女あり、何処にてか一度拝顔の栄を得たりしやうなりと、首を傾けて考一考かういつかうすれば、アヽ我ながら忘れてけり、昨夜芝公園は山木紳商の奥室に於て、機敏豪放を以て其名を知られたる良人をつとをば、小僧同然どうやう叱咤しつた操縦せるお加女かめ夫人にてぞありける、昨夜の趣にては、年に一度の天長節は歌舞伎座に蓮歩れんぽを移し給ふこと何年ともなき不文憲法と拝聴致せしに、如何いかなる協商の一夜の中に成立したればか、耶蘇ヤソの会合などへは臨席し給ひけん、
 今日を晴れと着飾り塗り飾りたる長谷川牧師の夫人は、一ときは嬌笑けうせうを装ひて「奥様おくさんが今日御出席下ださいましたことは教会に取つて、何と云ふ光栄で御座いませう、御多用の御体でらつしやいますから、てもむついことと一同断念あきらめて居たので御座いますよ、くまア、奥様御都合がおつきなさいましたことネ――山木家は永阪教会に取つては根でもあり、花でもありなので御座いまする上に、此のまれな紀念会を御家の御別荘で開くことが出来、奥様の御出席をも得たと云ふ、此様こんな嬉しいことは覚えませぬので、しんから神様に感謝致すので御座いますよ、ホヽヽヽ」
 お加女夫人は例の抜き襟一番「教会へもネ、平生しよつちゆう参りたいツて言ふんで御座いますよ、けれども御存知ごぞんじ下ださいます通り家の内外うちそと、忙しいもンですから、思ふばかりで一寸ちつとも出られないので御座いますから、嬢等むすめどもにもネ、阿母おつかさんても参つてられないから、お前方まへがたは阿母の代りまで勤めねばなりませんと申すので御座いますよ、ほんとに皆様みなさんの御体が御羨おうらやましう御座いますことネ、ですから、貴女あなた、婦人会の方などもネ、会長なんて大した名前を頂戴ちやうだいして居りましても何の御役にも立ちませず、一切皆様に願つて居る様な始末でしてネ、ほんとにお顔向けも出来ないので御座いますよオホヽヽヽ」
「アラ、奥様おくさん勿体ないこと、奥様の信仰の堅くてらつしやいますことは、良人やど毎々つねづね御噂申上げるので御座いましてネ、お前などはホンとに意気地いくぢが無くてけないツて、貴女、其のたんび御小言おこごとを頂戴致しましてネ、家庭のく治まつて、良人をつとに不平をいだかせず、子女こどもを立派に教育するのが主婦たるものの名誉だから、ても及びも着かぬことではあるが、チと山木の奥様おくさん見傚みならふ様にツて言はれるんですよ、御一家ごいつけみんな信者でらつしやいまして、慈善事業と言へば御関係なさらぬはなく、ほんたうにクリスチヤンの理想の家庭と言へば山木様のやうなんでせう、――ねエ皆さん」
 一同シナを作つて「ほんたうに長谷川の奥様おくさんの仰つしやいます通りで御座いますよ、オホヽヽヽヽヽヽ」
 おどろいて、更に視線を転ずれば、太き松の根方に設けたる葭簀よしずの蔭に、しきりに此方こなたを見ては私語しつゝある五六の婦人を発見せり、中に一人年老としとれるはすなはち先きに篠田長二の陋屋ろうをくにてる人となれる渡辺の老女なり「井上の奥様おくさん、一寸御覧なさい、牧師さんの奥様が、きつと又た例の諂諛おべつかを並べ立ててるんですよ、それに軽野かるの奥様おくさん薄井うすゐ嬢様ぢやうさん、皆様おそろひで」
 井上の奥様おくさんと呼ばれたる四十ばかりの婦人、少しケンある眼に打ち見遣みやりつ「申しては失礼ですけれど、あれが牧師の妻君などとは信者全体の汚涜けがれです、なにも山木様の別荘なぞ借りなくとも、親睦会は出来るんです、実に気色にはりますけれどネ、教会の御祝だと思ふから忍んで参つたのです――其れはサウと、老女おばさん、篠田様しのださんは今日御見えになるでせうか、ほんとに、御気の毒で、わたしネ、篠田様のこと思ふと腹が立つ涙が出る、夜も平穏おつちりられないんです、紀念式にも昨夜の演説会にもの通り行らしつて、平生いつもの通りきいてらツしやるでせう、自分がひ出されると内定きまつて、印刷までしたプログラムから弁士の名まで削られたんでせう、普通の人で誰がソンな所へ行くものですか、先頃も与重せがれが青年会のことで篠田様に何か叱かられて帰つて来ましてネ、僕は篠田先生の為めなら死んでも構はんて言ふんです、――教会も最早もう駄目です、神様の代りに、黄金かねを拝むんですから」

五の二


 何万坪テフ庭園の彼方かなた此方こなたに設けたる屋台店やたいみせを、食ひ荒らして廻はる学生の一群ひとむれ
「オイ、大橋君、梅子さんが見えぬやうぢやないか」
「又た井上の梅子さん騒ぎか、先刻さつき一寸見えたがナ、僕は何だか気の毒の様に感じたから、挨拶もせずに過ぎたのサ、彼女むかうでも成るべく人の居ない方へと、さけてる様子であつたからナ、山木見たいなおやぢに梅子さんのあると云ふは、君、正に一個の奇跡だよ」
「ほんたうに左様さうだネ、悪魔と天女、まア好絶妙絶の美術的作品とはアレだらうか、僕は昨夜ゆうべも演説会で、梅子さんの為めに、幾度同情の涙を拭いたか知れないのだ、の美しき歌もふるひを帯んで、洋琴オルガンは全く哀調を奏でて居たぢやないか、――厳粛にすわつて謹聴してる篠田先生の方を、チヨイチヨイとて居なすツたがネ、其胸中には何等の感想が往来してたであらうか、――先生は是れ罪なき犠牲の小羊、之をほふる猛悪の手はすなはち自分の父」と語りきたれる井上は、にはかに声を荒らげて「見給へ、剛一は愈々いよ/\奸党にまつたよ、僕等でさへ先生の誠心に動かされて退会の決議をひるがへし、今日も満腔まんかうの不平を抑へて来た程ぢやないか、剛一何物ぞ、いやしくおのれが別荘で催ふさるゝ親睦会であつて見れば、一番に奔走斡旋あつせんするのが当然だ、然るに顔さへ出さぬとは失敬極まるツ」
 大橋は首打ち振り「な、彼の今日こんにち来ないと云ふのが、彼の我党たる証拠だよ、彼はおやぢの非義非道を慚愧ざんきに堪へないのだ、彼は今や小松内府の窮境にるのだ、今頃は、君、自宅うちの書斎で涙に暮れて祈つてるヨ」
左様さうか知ラ」と井上は首を傾けしが、にはかにノゾき込んで声打ちひそめ「君、僕は昨夜ゆうべからの疑問だがネ、梅子さんの胸底にはし、ラブが潜んでるのぢや無からうか」大橋は莞爾につこと打ち笑み「勿論もちろん! 彼女の心が恋愛こひの聖火に燃ゆること、も一朝一夕のゆゑに非らずサ、つひ石心木腸せきしんもくちやうなる井上与重の如きをして、物や思ふと問はしむる迄に至つたのだ、僕の如きはとくの昔から彼女をして義人を得、彼をして才色兼備の良婦を得せしめ給はんことを祈つて居るんだ」
「成程、さうか、何卒早く其れを見たいものだネ」
「所が、君、とほりのことで無いので、作者すこぶる苦心のていサ――さア行かう、今度はの菊の鮨屋すしやだ、諸君決して金権党の店に入るべからずだヨ」
 既にして群集ぐんじゆ眸子ぼうしひとしくいぶかしげに小門の方に向へり、「オヤ」「アラ」「マア」篠田長二の筒袖姿忽然こつぜんとして其処に現はれしなり、
「先生らい」と学生の一群は篠田を擁してをどり行きぬ、
 お加女かめ夫人ははるかに之を見て顔色たちまち一変せり、「まア、何と云ふヅウ/\しい奴でせう、脅喝ゆすり新聞、破廉耻漢はぢしらず
 長谷川夫人も顔打ちひそめつ「ほんとに驚いて仕舞ふぢや御座いませんか」
 庭樹のしげりに隠れ行く篠田の後影うしろかげながめりたる渡辺老女のまぶたには、ポロリ一滴の露ぞコボれぬ「きツと、お暇乞いとまごひ御積おつもりなんでせう」
 篠田はやがて学生の群と別れて、ひとり沈思のあゆみを築山の彼方あなた、紅葉うるはしき所に運びぬ、会衆の笑ひ興ずる声々も、いと遠く隔りて、こずゑに来鳴く雀の歌ものどかに、目を挙ぐれば雪の不二峰ふじがね、近く松林の上に其いただきを見せて、すくはば手にも取り得んばかりなり、心のちり吹き起す風もあらぬ静邃閑寂せいすゐかんじやくの天地に、又た何事の憂きか残らん、時にふさはしき古人の詩歌など思ひ浮ぶるまに/\微吟しつ、岸の紅葉、空の白雲、うつして織れる錦の水の池に沿うて、やゝ東屋あづまやちかづきぬ、見れば誰やらん、我より先きに人の在り、聞ゆる足音に此方こなたを振り向きつ、思ひも掛けず、ソは山木の令嬢梅子なり、

五の三


 あからむかほ嫣然えんぜんとして、梅子は迎へぬ、
「梅子さん、貴嬢あなた此辺このあたりらつしやらうとは思ひ寄らぬことでした、」と篠田は池畔ちはんの石に腰打ちおろし「どうです、天はみどりの幕を張り廻はし、地はくれなゐむしろを敷きらね、鳥は歌ひ、雲は舞ふ、美妙なる自然の傑作を御覧なさい」
「けれど、篠田さん、何故人間ばかり此の様に、罪の心に悩むのでせう」
左様さやう何人なんびとか罪の悩をいだかぬ心をつでせうか」と篠田は飛び行く小鳥の影を見送りつゝ「けれど、悩はやがて慰に進む勝利の標幟しるしではないでせうか」
「ですけれど、わたしはドウやら悩みに悩むで到底たうてい、救の門の開かれる望がない様に感じますの」梅子はだ風なくて散るくれなゐの一葉に、層々みだれ行く波紋をながめて、
「ハア、貴嬢あなたにわかに非常なる厭世家におりでしたネ」
わたしは篠田さん、此頃ツクヅク人の世がいやになりました」
「奇態ですネ――此春の文学会で貴嬢あなたが朗読なされた遁世者よすてびと諷刺の新体詩を、わたしは今も尚ほ面白く記憶して居りますが――」
「今年の春」と梅子はかすかに吐息といき洩らして「浅墓あさはかの頃をわたしはホンたうに耻づかしく思ひます、世をて人を逃れた古人の心に、私は、篠田さん、今ま始めて真実同情を寄せることが出来るやうになりました」
 篠田は仰げる眼を転じて、斜めに彼女かれかへりみたり「わたしは意外なる変化を見るものです――梅子さん、貴嬢あなたの信仰は今ま実に恐るべき危機に臨むで居なさいます――何か非常なる苦悶くもんの針が今ま貴嬢の精神を刺してるのではありませぬか」
 梅子は答へず、
貴嬢あなたの心は今ま正に生死二途の分岐点に立つて居なさる様です、如何どうです、はなはだ失礼でありますが、御差支おさしつかへなくば貴嬢の苦痛の一端なりとも、御洩らし下ださい、年齢上の経験のみは、私の方が貴嬢よりも兄ですから、何か智恵の無いとも限りませぬ」うつむける梅子の頬には二条ふたすぢ三条みすぢびんのほつれの只だ微動するを見る、
「篠田さん、貴郎あなたの高き御心には」と、梅子は良久しばらくしてわづかかほを上げぬ「私共わたくしども一家が、何程どんなに賤しきものと御見えになるで御座いませう、――私は神様にお祈するさへはづかしさに堪へないので御座いますよ――」
「それは何故です――」
 梅子は又たかうべを垂れぬ、長き睫毛まつげに露の白玉ける見ゆ、
「梅子さん、わたし貴嬢あなた苦悶くもんの原因を知ることが出来ませぬが、いづれにも致せ、貴嬢の精神が一種の暗雲におほはれて居ると云ふことは、唯に貴嬢御一身の不幸ばかりではなく、教会の為め、ことに青年等の為め、幾何いかばかりの悲哀かなしみでありませうか」
いゝえ、私の苦悶くもんが何で教会の損害になりませう、篠田さん、私の苦悶の原因と申すは、今日こんにち教会の上に、けても青年の人々かたがたの上に降りかゝつた大きな不幸悲哀で御座います」
「其れは何ですか」
「篠田さん――貴郎の除名問題で」
わたしは今更に自分の無智をづかしく思ひます」梅子は又た語をぎぬ「私は今日こんにちまで、教会はたしかに世の光であると信じて居りました、今ま始めて既に悪魔の巣であつたことを見ることが出来ました、――かも其悪魔が私の父です――今日こんにち会合あつまりは廿五年の祝典いはひでは御座いませぬ、光明ひかりを亡ぼす悪魔の祝典いはひです、――我父の打ちはす神殿の滅亡をひざまづいて見ねばならぬとは、何と云ふ恐ろしき刑罰でせうか」
「其れは貴嬢あなたの誤解です」と篠田は首を振りぬ、「れはあらたに驚くべきことでは無いのです、失礼ながら貴嬢の父上は、神の教会を攪乱するの力を有つて居なさらぬ、梅子さん、わたしが貴嬢の父上にむかつて攻撃の矢を放つたことは昨日今日のことではありませぬ、貴嬢も常に其を御読み下すつたでせう、又た御聴き下だすつたでせう、けれ共私は今日こんにちに至る迄、貴嬢との友誼いうぎの上に何の障礙しやうがいをも見なかつたと思ふ、是れは規定さだめの祈祷会や晩餐会にまさりて、天父の嘉納まします所では無いでせうか、是れは神の殿みやがエルサレムでも無く、羅馬ラウマでもなく、永阪でもなく青山でも、本郷でも無いと云ふ我々の実験ではありませぬか、――社会の富が日々に殖えて人の飢ゆるるのが愈々いよ/\増す、富めるものと貧しきものと諸共に、肉体の為に霊魂を失ふ、是れが神の国への路でせうか、ケレ共何処どこの教会に此の暗黒界の燈火がいて居りますか、基督キリストが出で来り給ふならば、ソして富める者の天国に入るは駱駝らくだの針の穴を出づるよりも難しと説き給ふならば、彼を十字架に懸けるるのは果して誰でせう、王も貴族も富豪もみんさかづきを挙げて笑つて居ませう、けれ共王と貴族と富豪との傲慢がうまんと罪悪とに媚びて、いとの如き生命をつないでる教会は戦慄せんりつします、決して之を容赦致しませぬ」
 篠田は正面にそびゆる富岳の雪を指しつ、「日本国民は此雪を誇ります、けれ共わたしいまだ我国民によりて我神意を発揮されたる何の産物をも見ない、彼等は兵力を誇ります、是れは神の前に耻づべきことです、万国は互にきそうて滅亡に急ぎつゝあるです、私共は彼等を呼び留めますまい、むし退しりぞいて新しき王国のいしずゑを据ゑませう」
 彼は又た梅子を顧みつ「貴嬢あなたは特に青年の為に御配慮です、乍併しかしながら今日こんにちの青年は、牧者のつゑを求むる羊と云ふよりは、※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)おやどりの翼を頼むひなであります、――枕すべき所もなき迫害の荒野に立ちて基督キリストの得給ひしなぐさめは、ひとり天父の恩愛のみでしたか、な、彼に扈従こじゆうせる婦人のきよき同情は、彼が必ず無量の奨励を得給ひたる地上の恵与であつたと思ふ、梅子さん、秋のしも、枯野の風の如き劇烈なる男児の荒涼くわうりやうが、春霞はるがすみの如き婦人の聖愛に包まれて始めて和楽を得、勇気を得、進路をあやまたざることを得る秘密をば、貴嬢は必ず御了解なさるでせう」
 恍然くわうぜんと仰ぎたる梅子のかほは日に輝く紅葉に匂へり、
「御嬢様! どんなに御探おさがし申したか知れませんよ」と忽如こつぢよとして現はれたるは乳母の老女なり「奥様が梅子は何処どこへ行つたかつて、御疳癪おかんしやくで御座います」
「アヽ、左様さうでせう」と言ひつゝ、篠田はヤヲら石を離れたり、
 去れど梅子は起たんともせず、


 十一月中旬なかばの夜は既にけ行きぬれど、梅子はいまだ枕にもかざるなり、乳母なる老婆はかたはら近く座を占めて、我がかしらにも似たらん火鉢の白灰はひかきならしつゝ、梅子をうらみつかき口説くどきつ、
「でも、お嬢様、今度と云ふ今度は、従来これまでのやうに只だいやだばかりでは済みませんよ、相手が名に負ふ松島様で、大洞様の御手をての御縁談で御座いますから、奥様は大洞と山木の両家の浮沈にかゝはることだから、無理にも納得なつとくさせねばならぬと、の通りの御意気込み、其れに旦那様だんなさまも、梅も余りらひして居る中に、年を取り過ぎる様なことがあつてはと云ふ御心配で御座いましてネ、此頃も奥様の御不在の節、私を御部屋へ御招おまねきになりまして、雪の紀念かたみの梅だから、何卒天晴あつぱれ婿むこを取らせたいと思ふんで、松島は少こし年を取過ぎてつは後妻と云ふのだから、梅にはチと気の毒ではあるが、何せよ今ま海軍部内では第一の幅利はばきき、愈々露西亜ロシヤとの戦争でもあれば少将か中将にもならうと云ふ勢、梅の良人をつととして決して不足が有るとは思はれぬ、其上大洞にせよ自分にせよ、とほりならぬ関係があるので、懇望こんまうされて見ると何分にもいやと云ふことが言はれないハメのだから、此処こゝみ込んで承知して欲しいのだと、此婆に迄頭を下げぬばかりの御依頼おたのみなんで御座います――此婆にしましてが、せんの奥様おくさまにお乳を差上げ、又た貴嬢あなたさまをも襁褓むつきの中からお育て申し、此上貴嬢が立派な奥様におなり遊ばした御姿を拝見さへすれば、此世に何の思ひ残すことも御座いません、いつそ御決心なされては如何いかがで御座ります」
 梅子は机に片肘かたひぢもたせしまゝ、ひもとける書上に、空しく視線を落とせるのみ、
「それとも、お嬢様、外に貴嬢あなたさまの思ひ込みなされた御方が御ありなさるので御座りますか、貴嬢も十九つづ廿歳はたちとは違ひ、亡奥様せんのおくさまは貴嬢の御年には、モウ、貴嬢をひざに抱いてらしつたので御座いますもの、何の御遠慮が御座いませう、ればかりは御自分の御気にかなうたのでなければ末始終すゑしじゆうの見込が立たぬので御座いますから、――奥様は何とおつしやらうとも、旦那様はの様に貴嬢のことを深く御心配遊ばしてらつしやるので、御座いますから、キツと婆から良い様に御取りなし致します、御嬢様、ツイかうと婆に御洩らし下さりませぬか」
 梅子は依然ことばなし、
「御嬢様、其れは余りでは御座いませぬか、ばあや婆やといたはつて下ださる平生いつも貴嬢あなたさまの様にも無い――今日も奥様がいつもの御小言で、貴嬢の御納得なさらぬのはわたしが御側で悪智恵でも御着け申すかの御口振、――こんな口惜くやしいことは御座いません、此儘このまゝ死にましては草葉の蔭の奥様に御合せ申す顔が無いので御座います」
 老婆は横向いて鼻打ちかみつ、
「婆や、ほんたうに申訳がないのネ、お前が其様そのやうに心配してお呉れだから、わたしの心を打ち明けますがネ、私は決して人選びをして居るのぢやないのです、私はうから生涯しやうがい、結婚しないと覚悟して居るのですからネ」
「いゝえ、お嬢様、其様そんなことおつしやつても、此婆は聴きませぬ、御容姿ごきりやうなら御才覚なら何に一つ不足なき貴嬢様あなたさまが、何の御不満で左様さやうなこと仰つしやいます、では一生、剛一様の御厄介におなり遊ばして、異腹はらちがひ小姑こじうとで此世をお送り遊ばす御量見でいらつしやいまするか」
「婆や、さうぢやありませぬ、わたし現在いまの様に何も働かずに遊んで居るのを何より心苦く思ふのでネ、――どうぞ貧乏町に住まつて、あの人達と同じ様に暮らして、生涯しやうがい其の御友達になりたいと祈つて居るのです」
「ヘエ――」と老婆はばし梅子の顔打ちまもりつ「それは、お嬢様、御本性ごほんしやうで仰つしやるので御座りますか」
「何で虚欺うそいつはりを言ひませう」と、梅子は首肯うなづき「婆やの親切にホダされて、ツイ、心の秘密を明かしたのです――で、婆や、なんだか生意気らしいこと言ふ様だがネ、誰でも人は胸に燃え立つ火のかたまりをさめて居るものです、火の口を明けて其を外へき出さぬ程心苦しいことはありませぬ、世の中の多くは其れを一人のかたに献げて満足するのです、けれど、し其がならぬ揚合には、もつとも悩んでる多くの兄弟姉妹の上に分配わけるのが一番道にかなつた仕方かと思ふのでネ」
「ぢや、お嬢様も其れを一人のかたにお上げなさればいぢや御座いませんか」
「さア――」と、梅子は行きなやみぬ、
「どうも、お嬢様、貴嬢あなたのお胸には何某殿どなた御在おありなさるに相違御座りません、――御嬢様、婆やの目ががひましたか」
 梅子は差しうつむきてた無言、
「お嬢様、貴嬢は婆やを其れ程までにお隔てなさるので御座りますか、お情ないことで御座ります、あゝ、お情ないことで御座ります」
 梅子はくちびるかみしめて、胸を押へつ、
「婆や――わたしも――女性をんなだよ――」
 固く閉ぢたるまぶたあふれて、涙の玉、膝に乱れつ、霜夜しもよの鐘、響きぬ、

七の一


 数寄屋橋すきやばし門内の夜の冬、雨蕭々せう/\として立ち並らぶ電燈の光さへ、ナカ/\に寂寞せきばくを添ふるに過ぎず、電車は燈華燦爛さんらんとして、時をさだめて出で行けど行人かうじんまれなれば、発車のベル鳴らす車掌君の顔色さへ羞耻おもはゆげに見ゆめり、
 今しもやみいて轟々がう/\へりきたれるは、新宿よりか両国よりか、一見空車からくるまかと思はるゝうちより、ヤガて降り来れる二個の黒影、合々傘に行き過ぐるを、此方こなた土手側どてぎはに宵の程より客待ちしたりける二人の車夫、御座んなれとばかり、寒さにふるふ声振り立てて「旦那御都合まで」「乗つてつて下だせイ」と追ひ掛けきたる、二個の黒影――二重外套ふたへぐわいたう吾妻あづまコウト――は石像の如くして銀座のかたへ、立ち去れり、チヨツと舌打ちつゝ元の車台へ腰を下ろしたる車夫、「あゝ今夜もまたあぶれかな」「さうよ、先刻さつき打つたのが服部時計台はつとりの十一時の様だ」
「時に、オイ、熊の野郎め久しく顔を見せねエが、どうしたか知つてるかイ、何かうめい商売でも見付けたかな」
大違おほちげエよ、此夏脚気踏み出して稼業かげふは出来ねエ、かゝあ情夫をとこ逃走かけおちする、腰のたゝねエおやが、乳のい子を抱いて泣いてると云ふ世話場よ、そこで養育院へ送られて、当時すこぶる安泰だと云ふことだ」
「ふウむ、其りや、野郎可哀さうな様だがかへつ幸福しあはせだ、乃公こちとらの様にピチ/\してちや、養育院でも引き取つては呉れめヱ――、ま、愈々いよ/\となつたら監獄へでも参向する工夫をするのだ」
 雨としきり降り増しぬ、
「そりや、貴様てめいのやうな独身漢ひとりものは牢屋へ行くなり、人夫になつて戦争に行くなり、勝手だがな、女房があり小児こどもがありすると、さう自由にもならねエのだ」
独身漢ひとりもの/\と言つて貰ふめエよ、是でもチヤンと片時離れず着いてやがつて、お前さん苦労でも、どうぞ東京こつちで車をいてておれ、其れ程人夫になりたくば、わたしを殺して行かしやんせツて言やがるんだ、ハヽヽヽヽ、そりやサウと、オイ、昨夜ゆうべ烏森からすもり玉翁亭ぎよくをうていに車夫のことで、演説会があつたんだ、所が警部の野郎多衆おほぜい巡査を連れて来やがつて、少し我達おれたち利益ためになることをいふと、『中止ツ』て言やがるんだ、其れから後で、弁士の席へ押しかけて、警視庁が車夫の停車場きやくまちに炭火を許す様に骨折てほしいつて頼んでると、其処へ又警部が飛込んで来やがつて『解散を命ずるツ』てんよ、すると何でも早稲田わせだの書生さんテことだが、目をき出して怒つた、つかみ掛りサウないきほひだつたが、少し年取つた人が手を抑へて、斯様こんな警部など相手にしても仕方が無い、うしなければ警察官も免職になるのだから、いつそ気の毒ぢやないかツてんで、僅々やう/\収まつたが、――一体政府の奴等、吾達おれたちを何と思つて居やがるんだ」
「そんな大きな声して巡査にでも聞かれると悪イ、が、俺も二三日前に小山を通つてツクヅク思つた、軍艦ふねつくるの、戦争いくさするのツて、税は増す物は高くなる、食ふの食へねエので毎日苦んで居るんだが、かつら大臣の邸など見りや、裏の土手へ石垣を積むので、まるで御城の様な大普請おほふしんだ」
「今日も新聞で見りや、かゝあの正月のくびの飾に五千円とか六千円とか掛けるのだとよ、ヘン、自分の媽の首せエ見てりや下民しものものの首がはらなくてもいと言ふのか、ベラ棒め」
いづれ一と騒動なくば収まるめエかなア」
 銀座街頭の大時計、む気に響く、
「オ、もう十二時だ、長話しちまつた」
「でもだ平民社の二階にや燈火あかりが見えるぜ――少こし小降になつた様だ、オヽ、寒い/\」

七の二


 平民週報社の楼上を夜深よふけて洩るゝ燈火ともしびは取り急ぐ編輯へんしふの為めなるにや、否、燈火の見ゆるは編輯室にはあらで、編輯室に隣れる社会主義倶楽部の談話室なり、
 燈下、卓上テーブルを囲むで椅子いすに掛かれる会員の六七名、
 直に目にうつるは鬚髯しゆぜん蓬々ぼう/\たる筒袖の篠田長二なり「では、差当り御協議したいと思つたことは、是れで終結を告げました――少こし時間ときおくれましたが、他に御相談を要する件がありますならば――」
 外国通信委員渡部伊蘇夫わたべいそをは卓上に堆積せる書類の中より一片紙いつぺんしを取り上げつ「露西亜ロシヤのペテルブスキイ君から今日こんにち、倶楽部宛の書面が来ました、順々に御覧下ださいませうか」
 烟草たばこゆらし居たる週報主筆行徳秋香かうとくあきか「渡部さん、恐れ入りますが、おついでにおみ下ださいませんか」「其れがい」「どうぞ」
「ぢや、読みませう」渡部は起てり、
 主義において常に相親交する、だ見ぬ日本の兄弟諸君、
 余は今ま露西亜ロシヤに於ける同志に代りて之を諸君に書き送らんとするに際し、憤慨の情と感謝の念と交々こもごも胸間に往来して、幾度いくたびも筆を投じて黙想に沈みしことを、幸に諒察りやうさつせよ、
 今や日本の政府と露西亜の政府とは戦場にむかつて急ぎつつあり、露西亜国民の或者は日本を以て一個の狡狼かうらう見做みなしつゝあり、思ふに日本国民の多数もた露西亜を以て暴熊視ばういうししつゝあらん、諸君、アヽ、我等は何等の多幸多福ぞや、独り此間このあひだに立ちてかつて同胞の情感を傷害せらるゝことなきなり、ただれのみならず、彼等の嫉妬しつと憎悪ぞうを奪掠だつりやく、殺傷の不義非道に煩悶はんもん苦悩するをて、愈々いよ/\現在立国の基本社会組織の根底に疑ふべからざるの誤謬ごびうあることを正確に証明せり、
 欧米列国は日本にくみせん、去れど独逸ドイツ露西亜ロシヤの友邦なるべしとは、ほとんど世界の各所に於て信ぜらるゝ所なり、しかども諸君よ、我等は此際分析を要するにあらずや、あへて問ふ、ふ所の独逸ドイツとはすなわち何ぞや、彼等は軽忽けいこつにも独逸皇帝を指して独逸と云ふものの如し、気の毒なるかな独逸皇帝よ、汝は今夏こんかの総選挙に於て全力を挙げて戦闘せり、いはく社会党は祖国に取つて不倶戴天ふぐたいてんの仇敵なり、一挙にして之れを全滅せざるべからずと、多謝す、アヽ独逸皇帝よ、汝の努力によつて我独逸の社会党は、忽然こつぜん八十余名の大多数を議会に送ることを得たりしなり、独逸社会党の勝利は主義につながるゝ全兄弟けいていの勝利なり、独逸皇帝、彼はあはれむべき一個の驕慢児けふまんじなるのみ、
 世の露西亜ロシヤを言ふもの、た一に露西亜の皇帝を見、宮室を見、貴族を見、軍隊を見て足れりとなす、何等の不公平にして又た何等の浅学ぞや、露西亜には不幸にしていまだ真正なる民意を発表すべき国民的機関なきがゆゑに、之を公然証明すること能はずといへども、如何いかに自由独立の健全雄偉の思想と信仰とが、既に社会の裏面に普及しつつあるかは時々じゝ喧伝けんでんせらるゝ学生、農民、労働者の騒擾さうぜうに依りて、乞ふ其一端を観取せられよ、
 陸軍大臣クロパトキンの名は日本国民の記憶する所ならん、しかども彼にとつて目下の最大苦心問題は満洲占領に非ず、日本との戦争に非ずして、露西亜の軍隊に在り、彼等が砲剣によつて外国侵略を計画しつゝある時、よ、社会主義の福音ふくいんは既に軍隊の内部に瀰漫びまんせんとしつゝあるを、平和主義の故を以て露国教会はトルストイを除名せり、然れ共今や学生の一揆、労働者の同盟罷工にむかつて進軍をがへんぜざる士官あり、発砲を拒む兵士あり、我等は既に露西亜の曙光しよくわうを見たり、
 渡部の声は激動せり、其面そのかほは赤く輝けり、冷茶一喫いつきつ、彼は其の温清なるまなこを再び紙上に注ぐ、
 露西亜ロシヤには我等社会民主党の外に社会革命党あり、彼はバクニンの系統に属するものなり、我等は今日こんにちに於ていまだ両者の融和を見るあたはざるを悲むといへども、其の漸次ぜんじ接近親和すべきは疑を要せず、けだし今日に於て皇帝の生命をねらふが如きは、皇帝を了解せざるのはなはだしきものなればなり、我等は露西亜皇帝に対して深厚なる一種の惰感を有す、※(「研のつくり」、第3水準1-84-17)は尊敬に非ずして憐憫れんびんなり、世界のもつとも気の毒なるもの恐くは露西亜皇帝ならん、彼は囚人なり、只だ錦衣玉食きんいぎよくしよくするに過ぎず、
 露西亜が議会を有せんこと、余り遠き将来にあらざるべし、諸君をうらやむの間も、けだし暫時ならんか、
 狂犬をして血にえしめよ、
 去れど我等は兄弟なり、
 渡部は椅子に復せり、拍手は起れり、
「けれど普通選挙を得ざる我等と露西亜と、何の相違がある」と行徳はツブやきぬ、

七の三


最早もう、虚無党の御世話になる必要は無いよ、クルップの男色をあばいてやれば、たちま頓死とんしするし、伊太利大蔵大臣の収賄しうわい素破抜すつぱぬいてやればただちに自殺するしサ、爆裂弾よりも筆の方が余ツ程力があるよ、僕は彼奴等きやつらの案外道義心の豊かなのに近来ヒドく敬服して居るのだ」揶揄やゆ一番、全顔を口にして呵々大笑かゝたいせうするものは、虚無党首領クロパトキン自伝の愛読者菱川硬次郎ひしかはかうじらうなり、其の頓才に満座にはかに和楽の快感をもよほせり、彼は炭を投じて煖炉の燃え立つ色を見やりつゝ「何の運動でも、婦人が這入はひつて来る様になればめたものだ、虚無党でも社会党でも其の恐ろしいのは、中心に婦人が居るからだ、日本でもポツ/\其の機運が見えて来た」
「婦人と云へば、篠田君」と行徳はたいを転じて「僕はネ、君が永阪教会を放逐されたと聞いて、ホツと安心したのだ」
 菱川は大きなる鼻にしわよせて笑ひつ「無神無霊魂の仲間が一人殖えたと云ふわけか」
 一座ふたゝ哄笑こうせう
 行徳も、微笑をらしつ「君等は直ぐ左様さう云ふからこまる――今迄篠田君の身辺まはりには一抹いちまつ妖雲えううんかゝつて居たのだ、篠田君自身は無論知らなかつたであらうが――現に何時いつであつたか、労働協会の松本君の如きも、篠田君は山木剛造の総領娘と結婚するさうぢやないか、しからんことだと云ふから、君達はだ其れ程までに篠田君が解からないのかと冷笑ひやかしてやつたのだ」
 一座の視線、篠田の面上に注がれたり、
「ハア、左様さういふことがあるんですかなア」と篠田は首を傾けぬ、
「なアに」と菱川は口を開きつ「婦人をんななんてものは、く思想の浅薄で、感情の脆弱ぜいじやくなものだからナ、少こし気概でもあつて、貧乏して居る独身者でも見ると、きに同情を寄せるんだ、実にクダらんものだからナ」
「では、菱川君の如きは、差向き天下第一の色男と云ふ寸法のだネ」と行徳は槍を入れぬ、
「ハヽヽハヽヽヽ」と流石さすがの菱川も頭をけり、
かし、篠田君、山木の梅子と言ふのはナカ/\の関秀けいしうださうだネ」と談話の新緒しんちよを開きしは家庭新誌の主幹阪井俊雄なり「文章などナカ/\立派なものだ」
左様さやう、余程意思の強い女性ひとらしいです――何でも亡母おつかさんが偉かつたと云ふことだから」と篠田は言ふ、
「では母の遺伝だナ、山木の様な奴には不思議だと思つたのだ」
や、左様さうばかりも言へないでせう、現に高等学校に居る剛一と云ふ長男むすこの如きも、数々しば/\拙宅うちへ参りますが、実に有望の好青年です、父親おやの不義に慚愧ざんきする反撥力はんぱつりよくが非常にさかんで、自己の職分と父の贖罪しよくざいと二重の義務をんでるのだからと懺悔ざんげして居る程です、思ふに我々のける種子たねつちかふものは、彼等の手でせうよ」
「サウ、赤門あかもんにせよ、早稲田わせだにせよ、一生懸命社会主義を拒絶して居るにかゝはらず、講堂の内面ではかへつて盛に其の卵が孵化ふくわされて居るんだから、実に多望なる我々の将来ぢやないか」と渡部は豊かなる頬に笑波せうはたゝへぬ、
「ヤ、君、最早もう一時だ」と阪井は時計を手にしながら「れから淀橋よどばしまで歩るくのか」
「けれ共、君、さいはひに雨は止んだ」
「オヽ、星が照らして居るわ、我々の前途を」

八の一


 築地つきぢ二丁目の待合「浪の家」の帳場には、女将ぢよしやうお才の大丸髷おほまるまげ、頭上にきらめく電燈目掛けて煙草たばこ一と吹き、とこしなへにうそぶきつゝ「議会の解散、戦争の取沙汰とりざた、此の歳暮くれをマアうしろツて言ふんだねエ」
 折柄バタ/\せ来れる女中のお仲「松島さんがネ、花吉さんが遅いので、又たお株の大じれこみデ、大洞おほほらさんがネ、女将おかみさんに一寸来て何とかして貰ひたいツておつしやるんですよ」
 お才は美しきまゆの根ピクリひそめつ「チヨツ、松島の海軍だつて言はぬばかりのつらして、ほんとに気障きざな奴サ――其れに又た花ちやんもうしたんだネ」
「いゝえネ、湖月の送別会とかへ行つてるので、だ貰へないんですもの」
「しやうが無いネ、今夜あたり其様そんな所へ行かなくツてもいぢやないか」
「オホヽヽヽだつて女将おかみさん、其れも芸妓げいしやの稼業ですもの」
 お才も嫣然にこり歯を見せつ「だがネ、彼妓あのこの剛情にも因つて仕舞しまふのねエ、口の酸つぱくなる程言つて聞かせるに、松島さんの妾など真平まつぴら御免テ逃げツちまふんだもの」
「そりや女将さん、仮令たとへ芸妓だからつて可哀さうですよ、当時流行の花吉でせう、それに菊三郎と云ふ花形俳優やくしやが有るんですもの、松島さん見たいな頓栗眼どんぐりまなこ酒喰さけぐらひは、私にしてもいやでさアね」
「だツて、妾にならうが、奥様にならうが、俳優買やくしやかひ位のことア勝手に出来るぢやないか」
う言やマア、さうですがね、しかしくまア、軍人などで芸妓げいしや落籍ひかせるの、妾にするのツて、お金があつたもンですねエ」
 お才は煙管きせるポンとたゝいて、フヽンと冷笑わらひつ「皆ンな大洞さんの賄賂わいろだアネ――あれでも、まア、大事なお客様だ、日本一の松島さんてなこと言つで、おだててお置きよ、馬鹿馬鹿しい」

      *     *     *

 奥の二階の一室に対座せる二客、軍服の上へムク/\する如き糸織の大温袍おほどてらフハリかぶりて、がぶり/\と麦酒ビール傾け居るは当時実権的海軍大臣と新聞にうたはるゝ松島大佐、むかひ合へる白髪頭しらがあたま肥満漢ふとつちよう東亜※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)きせん会社の社長、五本の指に折らるゝ日本の紳商大洞利八、
 大洞は満面に笑の波をみなぎらしつ「で、松島さん、私共わたくしどもは此際ですから、決して特別の御取扱を御願致す次第ではわせん、だ郵船会社同様に願ひたいので――本来を申せば郵船会社の如き、平生へいぜい莫大の保護金を得て配当を多くして居ると云ふのも、一朝事ある時の為めではわせんか、しかるに此の露西亜との戦争と云ふ時におよんで、私共の船は一噸いつトン三円五十銭平均で御取上げ、郵船会社の方がかへつて四円乃至ないし四円五十銭と申すのは、余りに公平を欠きまする様で――第一に国家の公益で無い様に思ひまするので」
「国家の公益? ハヽヽヽ其れは大洞、君等の言ふべき口上ぢや無からう、かく一旦いつたん取りさだめたものを、サウ容易たやすく変更することもならんからナ」
かし、松島さん、万事貴下あなたの方寸にることでは御わせんか」
仮令たとひ方寸に在らうが、国家の公事ぢや、君等は一家の私事さへもグツ/\して居るぢや無いか」
 大洞のいささし兼ぬると言ひたげなるおもてを松島はギロリ、一瞥いちべつしつ「一体、君は山木の娘の一件をうするんだ、山木に直接に言ふのは雑作ざふさもないが、かく妻にするものを、其れも余り軽蔑けいべつした仕方と思つたからこそ、君を媒酌人ばいしやくにんと云ふことに頼んだのだ、最早もう彼此かれこれ半歳はんとしにもなるぞ、同僚などから何時式を挙げると聞かれるので、其の都度つど、実に軍人の態面たいめんに泥を塗られる様に感ずるわイ、人を馬鹿にするも程があるぞ」
「イヤ、もう、其事にきましては絶えず心配して居りますので、――何分当人が、少こし変物かはりものと来て居りますので――」
「馬鹿言へ、高が一人の婦人をんなぢやないか、其様そんなことで親の権力が何処どこる――それに大洞、吾輩は今日、実にしからんことを耳に入れたぞ」満々たる大盃だいコップ取り上げて、グウーツとばかり傾けたり、

八の二


「はア」と、いぶかる大洞おほほらの面上目懸めがけて松島は酒気吹きかけつ「君、山木はの同胞新聞とか云ふ木葉こつぱ新聞の篠田ツて奴に、娘を呉れて遣る内約があるンださうぢやないか、失敬ナ、篠田――彼奴あいつ、社会党ぢやないか、国賊と縁組みして此の海軍々人のかほに泥を塗る量見か、――此方こつちにも其覚悟があるんだ」
 大洞は始めて安心したるものの如く、両手に頭撫で廻はしつゝカンラ/\と大笑せり、
「何が可笑をかしいツ」コップ取りなほして松島は打ちも掛からんずる勢、
戯謔じやうだん仰つしやツちや、因まりますゼ、松島さん、貴下あなた其様そんな馬鹿気たこと、何処から聞いておいでになりました」
「今日も省内やくしよ若漢わかもの等が、雑談中にしきりと其事を言ひはやして居つた」
「ハヽヽヽイヤうも驚きました、成程、さすが明智の松島大佐も、恋故なれば心もやみと云ふ次第わけわすかな、松島さん、シツカリ御頼おたのみ申しますよ、相手がかく露西亜ロシヤですゼ、日清戦争とは少こし呼吸が違ひますゼ」
 大洞は小盃ちよくを松島に差しつ「わしも篠田と云ふ奴を二三度見たことがありますが、顔色容体全然まるで壮士ぢやワせんか、仮令たとひ山木の娘が物数寄ものずきでも、彼様男あんなものゆかうとは言ひませんよ、よし、娘が嫁うとした所で松島さん、山木もだ社会党を婿むこに取る程狂気きちがひにはなりませんからな、マア/\御安心の上、一日も早く砲火ひぶたを切つて私共わたしどもまうけさして下ださい」
「しかし大洞、山木の娘も篠田と同じ耶蘇ヤソだと云ふぢやないか」
「松島さん、貴下あなたの様に気を廻しなすつちや困まる、山木も篠田には年来の怨恨うらみがありますので、到頭たうとう教会からひ出させたと、いもとの話でわしたが、女敵めがたき退散となつた上は、御心配には及びますまい、ハヽヽヽヽ」
「ウム、其れはづ其れとしても、君、山木が早く取定とりきめないのは不埒ふらち極まる、今日こんにちまで彼を庇護ひごして遣つたことは何程どれほどとも知れたもンぢやない、の砂利の牛肉鑵詰事件の時など新聞は八釜やかましい……」
 と言ひ掛くるを、大洞あわてて押し留めつ
「松島さん、そんな旧傷ふるきずの洗濯は御勘弁を願ひます、まんざら御迷惑の掛け放しと云ふ次第でもなかつた様でわすから」
「それからの靴の請負うけおひの時はドウだ、糊付けのかゝとが雨に離れて、水兵は繩梯はしごから落ちて逆巻さかまなみ行衛ゆくゑ知れずになる、艦隊の方からははげしく苦情を持ち込む、本来ならば、彼時あのとき山木にしろ、君にしろ、首のはずが無いのぢやないか」
御尤ごもつとも至極しごく、であればこそ、松島大明神とく随喜渇仰致すではわせんか――ドウしたのか、花吉、ベラ棒に手間が取れる」
 今は大洞受け太刀となつて、シドロモドロの折こそあれ、ふすまスウといて顔を見せしは、――女将ぢよしやうのお才「どうも松島さん、御気の毒様ですことねエ、これ流行妓はやりつこ情婦いろにした刑罰むくいですヨ、――待つ身のつらさが御解おわかりになりましたでせう、ホヽヽヽヽヽ」

九の一


 松島海軍大佐をして愛妓花吉を待つに堪へざらしめたる湖月亭の宴会とは、何某なにがしと言へる雑誌記者の、欧米漫遊をさかんにする同業知人等の送別会なりけり、
 五ツの座敷ブチ抜きたる大筵席だいえんせきは既に入り乱れて盃盤はいばん狼藉らうぜき、歌ふもあればねるもあり、腕をして高論するもの、を擁して喃語なんごするもの、彼方かなたに調子外れの浄瑠璃じやうるりに合はして、いとをあやつる老妓あれば、此方こなたにどたばたひまくられて、キヤツと玉切たまぎ雛妓すうぎあり、玉山くづれて酒煙濛々もう/\、誠にあしたに筆をして天下の大勢を論じ去る布衣ふい宰相諸公が、ゆふべの脚本体なりける、
 一隅に割拠かつきよしたる五六の猛士、今を盛りの鯨飲げいいん放言、
「だが、君、今夜の最大奇観ともいひつべきは、篠田長二の出て来たことだ、幹事の野郎も随分ずいぶん人が悪いよ、餅月と夏本の両ハイカラの真中まんなかへ、筒袖つゝツぽを安置したなどは」
「所が当人、其を侮辱とも何とも感じないのだから恐れ入るんだ」
「人間も彼程あれほど常識コンモンセンスを失へば気楽なものサ」
「見給へ、彼奴きやつ未だ四角張つて何か言つてるぜ」
「ヤ、相手が珍報社の丸井隠居ぢや、これこそ天然てんねん滑稽こつけいぢや」
 折柄、ツヽと小急ぎに行き過ぐる廿一二の芸妓げいしやを、早くも見て取つたる一人声振り上げ「其れへ打たせ玉ふは、烏森からすもりに其人ありと知られたる新春野屋の花吉殿ならずや」呼ばれて芸妓は振り向きつ「オヽ、ふ貴殿は河鰭氏かはひれうぢ」と晴やかなるまなこゑみを含めて、きツとよろしくにらまへれば「よウ菊三郎ウ」と、何れも手をつてザンザめく、
「あら、う御座んすよ、たんと御なぶり遊ばせ」と、たちまち砕けで群に加はる花吉を、相格さうがう崩しての包囲攻撃、
「近来又た海軍の松島を捕獲したツてぢやないか」「花吉の凄腕せいわん真に驚くべしだ」「露西亜ロシヤに対する日本の態度の曖昧あいまいなのも、君の為めだと云ふうはさだぞ」「松島君に忠告して早く戦争いくさする様にして呉れ給へ」「露西亜との軍費をき上げて、之を菊三郎への軍費に流用する所、好個の外務大臣だ」まことや筆をつてはさぎを烏となし、灰吹から竜をも走しらす記者諸君を、只だ三寸の鴬舌あうぜつもて右に左に叩たき伏せ、有り難たがらせて余ある所、好個の外務大臣とも言ふべかりける、「時に」と、河鰭かはひれは真赤に酔うたる顔突き出し「、花ちやんに御依頼の件があるのだが」とサヽやくを、
「身にかなふことならば」と、花吉の芝居懸しばゐがかりに行く、
や、戯謔じやうだんぢやない、今度は真面目まじめの話だ――ソレ、の向ふに北海道土人の阿房払あはうばらひ宜しくと云ふ怪物けだものが居るだらう、サウ/\、あの丸井の禿顱はげと話してる、――彼奴あいつ誠に人情を解せん石部党で、我々同業間の面汚つらよごしのだ、其処そこで今夜彼奴きやつの来たのをさいはひに、我党の人にしてらうと思ふんだ」
「河鰭さんの我党などにはならない方がう御座んすよ」
「オイ/\飛んだことを言ふ――デ、彼奴きやつに一杯、酒を飲ませてやらうと思ふんだが、我々の手では駄目だから、こゝおいてか花吉大明神の御裾におすがり申すのだ」
 妙案々々、賛成々々などいづれも叫ぶ、
「人がましくも、殿方がつむりを下げての御依頼おんたのみとあるからは、そりや随分火の中へも這入はひりませう、してお名前は」
「篠田ツて言ふのだ、同胞新聞の篠田」
「ヘエ、篠田さん、ぢや、あの、自由廃業をおやりなすつた方でせう」
「さうだ/\、其のとほりの野暮天やぼてんなんだから、是非花ちやんの済度さいどを仰ぐのだ」
「其に彼奴きやつは非戦争論者で松島君の仇敵なんだ」と叫ぶもあり、
「花ちやん、一つ松島君を操縦するの余力を以て」と河鰭の言ふを「そんな、おなぶりなさるなら、や」とツンとスネる、
真平々々まつぴら/\、是れだ/\」と手を合はすを、
「驚いたことねエ、河鰭さん、」と微笑ほゝゑみつゝ花吉は、小盃ちよくを手にしてスイと起てり、

九の二


 一隅の数名は、何れも酔眼を上げ、視線を花吉に注ぎつつあり、三々伍々と入り乱れたる会衆の間を縫ひつゝ花吉は、ヤガて篠田が座を占めたる他の一隅にぞ進みける、花吉は顧みて河鰭等とはるかに目くばせしつ、ピタリ座に着きて膝を進めぬ、「篠田さん、――河鰭さんから」
 談話に余念なかりし篠田は、始めて顔を上げぬ、よ、一個の佳人、慇懃いんぎんさかづきを捧げつゝあり、
 篠田はひざに手を置きて「わたしは酒を用ひませぬから」
「お手にだけなりともおとり遊ばせ」
「イヤ、わたしは一切、用ひませぬから」
 丸井老人ニユウと禿顱はげあたま突き出しつ「花ちやん、篠田先生は御禁酒のだから無駄でげすよ、と云うて美人に使命を全うせしめざるも、心なきしわざなり、かる時局切迫の調和機関、中立地帯とも言ふべかる丸井玉吾、一つ先生の代理と行きやせう」言ひつゝヒヨイと猿臂ゑんぴを延ばして、彼女かれの手よりさかづきを奪へり、
「アラ」
「げに、酒は美人に限ること古今相同じでげす」と丸井玉吾既に一盞いつさんを傾け尽くしつ「イヤ、どうも御禁酒のかたの代理と云ふ法もないわけでげすな、先生、飛んだ失礼を――」と、彼は奇麗きれいに光る禿顱とくろを燈下に垂れて、ツル/\とで上げ撫で下ろせり、花吉は絹巾ハンケチ失笑をかしさを包みて、と篠田を見つ、
「今もネ、花ちやん」と丸井老人は真面目顔「例の芸妓殺げいしやころし――小米こよねの一件について先生に伺つて居た所なんだ」と言ひつゝさかづき差しいだす、
 花吉は是非もなげに酌をしつ「ホンとに米ちやんは気の毒なことしましたよ、の晩もネ、香雪軒かうせつけんの御座敷で一所になりましてネ、世の中がツクヅクいやになつたなんて、さんざ愚痴を言ひ合つて別れたんですよ、スルと丸井さん、其の帰路かへりにヤラれたんですもの――けれど、男の方にも何か深い事情わけがあるんですツてネ」
「サ、其の男のはうを此の篠田先生が御存ごぞんじなので、色々御話を承つて居たのだがネ」
 丸井は火鉢の上に身をかがめつゝ「ぢや、先生、其の兼吉かねきちと云ふのは、恋のかなはぬ意趣晴らしツてわけでは無かつたんでげすナ」
左様さうです、彼は決して嫉妬しつとなどの為めに凶行に出でたのではありません、――必竟ひつきやう、自分の最愛の妻――仮令たとひ結婚はしないにせよ――を、姦淫の罪悪から救はねばならぬと云ふのが、彼の最終の決心であつたのです、彼の此の愛情は独り婦人に対してのみで無いのです、彼が平生、職業に対し、友人に対し、事業に対する観念が皆なれでした、成程、其の小米と云ふ婦人も、今ま貴女の(と花吉を一瞥いちべつしつ)つしやる通り実に気の毒でした、かし彼女かのをんなの如くして生きて居たからとて、一日といへども、一時間と雖も、幸福と云ふ感覚をつことは無かつたでせう、兼吉が執つた婦人に対する最後の手段は、無論正道をばはづれてたでせう、が、生まれてかくの如き清浄な男児の心を得、又た其の高潔なる愛情の手に倒れたと云ふことは、女性をんなとしての満足なる生涯しやうがいでは無いでせうか」
「ナ、成程」
 花吉は黙つて篠田を凝視ぎようしせり、

九の三


「多くの新聞には、兼吉が是れ迄も数々しば/\小米こよねと云ふ婦人に金の迷惑を掛け、今度の凶行も、婦人が兼吉の無心を拒絶したから起つたかの如く、書かれてありましたが、あれは丸井さん、兼吉の為めに気の毒の至極しごくです」と、篠田は其談を継続しぬ、
「兼吉と云ふ男は決して其様そんな性格の者ではありませぬ、石川島造船会社でも評判の職工で、酒は飲まず、遊蕩いうたうなどしたことなく、老母にはきはめて孝行で、常に友達の為めに借金を背負しよはされて居た程です、うも日本では今以て、鍛冶工かぢこうなど云へばただちに乱暴な、放蕩三昧はうたうざんまいな、品格の劣等の者の如く即断致しますが、今日こんにちの新職工は決してソンなものでは無いですからな、――今春このはる他の一人の職工が機械で左腕うでを斬り取られた時など、会社は例の如くほとんど少しも構はない、むを得ず職工同志、有りもせぬぜにを出し合つて病院へ入れたのですが、兼吉は、此儘このまゝにしては、廿世紀の工業の耻辱であると云ふので、其の腕をたづさへて、社長の宅へ面談に参つたのです、風呂敷から血に染つた片腕を出された時には、社長も顔色を失つて、逃げ掛けたサウですが、其裾そのすそとらへて悲惨なる労働者の境遇を説き、資本家制度の残忍暴戻ばうれいを涙をふるつて論じたのには、サスがの柿沢君も一言いちごんの答弁がなかつたと云ふことです、一言に尽したならば、兼吉の如きは新式江戸ツ子とでも言ひませうか」
「しますると、兼吉と小米との交情なか如何いかが致したと申すのでげすナ」
御尤ごもつともです、新聞には大抵、小米と申すのが、賤業せんげふおちいらぬ以前、何か兼吉と醜行でもあつた様にありますが、其れは多分小米と申すの実母はゝから出た誤聞であります、兼吉との婦人とは幼少時代からの許嫁いひなづけであつたのです、しかるに成人するにおよんで、婦人の母と云ふが、職工風情ふぜいの妻にしたのでは自分等の安楽が出来ないと云ふので、無残にも芸妓げいしやにして仕舞しまつたので――其頃兼吉は呉港くれに働いて居たのですが、帰京かへつて見ると其の始末です、わたし数々しげ/\兼吉の相談にあづかつたのです、一旦いつたん婦人の節操を汚がしたるものをめとるのは、即ち男子の道義をも自ら破壊することになるか如何どうかと云ふのです、私は彼に質問したのです、――君は彼女かのぢよの節操破壊を以て自己の心より出でたるものと思つてるか如何どうか――所が彼の言ひまするには、私は決して左様さうは思ひません、全く母親の利慾に圧制されたので、柔順なる彼女は之に抵抗することが出来なかつたのであることを疑はないと云ふのです」
「ほんたうに小米さんの様な温順やさしい人はありませんでしたよ」と、花吉は、吐息といきらしぬ、
左様さうであつたとのことですナ」と篠田は首肯うなづき「しからば君、少しもはばかる所は無い、すみやか彼女かれを濁流より救ひ出だして、其愛情を全うするがいと、忠告致しました、所が彼は躊躇ちうちよして、けれど彼女かれは千円近くの借金を背負しよつてるのでともだへますから、何を言ふのだ、霊魂を束縛する繩が何処に在ると励ましたのです」
「ヘヽヽヽ先生、御得意の自由廃業でげすな」と、丸井はツルリ禿頭あたまを撫でぬ、
「左様です、不道徳なる負債は、弁償の義務がありません、な、弁償を迫る権利がありません、――それで婦人も非常に喜んだサウです、所が何とか云ふ貴族院議員が――」
 と篠田のばし其名を思ひ出し得ざるに、花吉が「あの、金山かなやま伯爵でせう、――小米さんもいやがつて居たんですよ、頭の禿げた七十近い老爺おぢいさんでしてネ」
「花ちやん、頭の禿げたなどは特別恐れ入りやしたわけで」と丸井は赤光あかびかりの脳天ポンと叩いて首を縮む、
「御免の毒様でしたワねエ」と花吉も口をおほうてホヽと笑ふ、

九の四


「大事な所を禿顱はげあたまで、花ちやんにケチを付けられて仕舞しまつた、デ、篠田先生、其れからどうなりました、まるで小説の様でげすなア」と、丸井玉吾は煙草たばこに点火しつゝ後をうながす、
「所で、今ま貴女のおほせられた金山と言ふ大名華族の老人が、其頃小米こよねと申す婦人を外妾めかけの如く致して居たので、雇主やとひぬし――其の芸妓屋げいしややに於ては非常なる恐慌きやうくわうきつし、又た婦人の実母はゝからは、独断に廃業などして、小千円の負債の為めに両親が訴へられても顧みない量見かと云ふ様な脅迫に及ぶ、婦人も実に進退きはまつて、最後の書状を兼吉へ送り越したのです、――到底たうてい自分は此の苦境を逃がれることの出来ぬ何等過去の業果と思ふから、此の肉体をば餓鬼がきの如き男子の飜弄ほんろうに一任するが、かし郎君あなた良人をつとと思ふ心にかつて変動を見たることの無いのは、神仏の前に誓言することが出来る、で、此の心が何時いつか肉体を分離したる未来世みらいせに於ては、幸に我妻と呼んでれよと云ふ意味を、縷々るゝしたゝめてありました、言々げん/\れ涙、語々ごゝ是れ血と云ふのは多分かくの如きものであらうと感じたのです」
「して、其の手紙は今も何処どこにか残つて居ませうか」と流石さすが三面記者の丸井老人、直ぐ種取的たねとりてきの質問、
左様さやう、兼吉は大切に深く懐中に納めて居ましたから、今は必ず監獄署に預かつて居るでありませう――彼は其手紙を握り占めて真に血涙をしぼりました、遊惰なる富民の獣慾の為めに、清浄無垢せいじやうむくなる少女の節操の揉躙じうりんせらるゝのをかへつ喝采かつさい歓喜する社会は果して成立の理由があるかと憤慨して、彼は実に泣きました、丸井さん、日本ではしきりに虚無党を悪口致しますが、現在の社会と比較するならば、虚無党の主張の方がむしたしかに真理に近いものです――私も百方慰め励まして、無分別のこと仕ない様に注意して、丁度ちやうど、夜の十時過、老母ばゝが待つてるからと、帰つて行きましたが、翌朝新聞を見ますると、職工の芸妓殺げいぎころしと云ふ二号題目みだしの二版がある、――アヽ、何故なぜ無理にも前夜一泊させなかつたかと、実に悔恨くわいこんの情に堪へませんでした」
 篠田はしばらく瞑目めいもくしつ「昨日も監獄へ参つて面会致しましたが、彼れも実に夢の様であると申して居ました、――何でも西本願寺辺まで来ました時が、既に十二時近くであつたさうですが、いづれの家も寝静まつた深夜の、寂寞せきばくの月をんで来るのが、小米である、ハタと行き当つたので、兼吉の方から名を呼びかけると、婦人むかふは『イヽエ、よねではありません、米は最早もう死んで仕舞ひました、是れは迷つてる米の幽霊です』と云つてかほをそむけて仕舞しまつたさうです、兼吉の言ひますに、其れ迄は記憶して居るが後はどうしたか少しも覚えない、不図ふと気が付いて見ると、自分は左腕ひだりで血に染まつた小米の屍骸しがいあふむけに抱いて、右手に工場用の大洋刀おほナイフを握つて居たと云ふのです」
 ジツと聴き居たる花吉はそつと涙をぬぐひつ身をふるはして、
彼晩あのばん貴下あなた、香雪軒で桂さんだの、曾禰そねさんだのツて大臣さん方の御座敷でしてネ、小米さんが大盃コツプでお酒をグイ飲みするんですよ、あんなことは今まで一度も無いのですから、どうしたんだらうつてみんな不思議がつて居ましたの、少こし酔つたから風に吹かれた方がいつて、無理に車を返へしましてネ、一人で歩いて帰つたんですよ、――きつとあれから門跡様もんぜきさま参詣おまゐりしたのです、何事も前世からの約束ですワねエ」
「承れば先生、兼吉の老母おふくろを御世話なされまするさうで、恐れ入りました御心掛で」
「イヤ、世話致すなど申す程のことも出来ませんが、此際先づ男のうちと、女のうちを調和させたいと思ひましたが、丸井さん、実に不思議ですなあ、小米の父親は涙に暮れまして、れと申すも手前共の悪るかつたからで、いさゝか兼吉を怨む筋は無いといて居りまするが、母親の方は非常な剣幕けんまくで、生涯楽隠居の金蔓かねづるを題無しにしたと云ふ立腹です、――女性をんなと云ふものは、果してかくの如く残忍酷薄なものでせうか」
 丸井玉吾は鹿爪しかつめらしく首傾け「成程――花ちやんどうでげすな」
「丸井さん、ほんとに女性をんなの方がひどいんですよ」
 篠田は首打ち振りぬ「其れが女性をんなの本来でせうか――必竟ひつきやう女性を鬼になしたる社会の罪では無いでせうか」
 丸井は禿顱あたまでぬ「御最ごもつともで」
 襟かき合はせて花吉は、目を閉ぢぬ、


 烏森は新春野屋の長火鉢を中に、対座したる主婦あるじのお六と芸妓げいしやの花吉、
「ぢや、花吉、お前どうするツて云ふんだ」と、お六はかんざしもて頭掻きつゝ、顔打ちしかめ「濁水どろみづ稼業をして居る身の、思ふ男に添ひ遂げることの出来ない位は、おめえだつて、百も承知だらうぢやないか、是れが松島さんの奥様おくさんになれつて云ふのなら野暮な軍人の、おまけに昔気質むかしかたぎしうとまであるツてえから、少こし考へものなんだが、おめえ、妾なら気楽なもんだあネ、いやになつたら何時でも左様さやうならをキメるまでサ――大洞おほほらさんもサウおつしやるんだよ、決して長くとは言はない、露西亜ロシヤ戦争いくさ何方どつちともまるまでの所、いやでもあらうが花ちやんに、放鳥の機嫌きげんを取つて貰はにやならないのだからつて――わたしだつて、赤児あかんぼの時から手塩にかけたおめえのことだもの、厭だつてもの無理にと言ひたかないやね、けれど平素いつも利益ためになつてる大洞さんのお依頼たのみと云ひ、其れにお前も知つての通りの、此の歳暮くれの苦しさだからこそ、カウやつて養女わがこの前へ頭を下げるんぢやないか、おめえ是れでも未だ解からねえのかエ」
 花吉はがツくり島田の寝巻姿ねまきすがた、投げかけしからだを左のひぢもて火鉢にさゝへつ、何とも言はず上目遣うはめづかひに、低き天井、なゝめに眺めやりたるばかり、
 お六は煙草くゆらしつ、「一昨日をとゝひの晩も『浪の家』から、電話ぢやく解らないツてんで態々わざ/\使者ひとまで来たぢやないか、何が面白くて湖月などにグヅついてたんだ、帰つたともや、頭痛がするツて寝て仕舞つてサ、昨日も今日も御飯もたべず、頭が痛えか、腰が痛えか知らないが、一体まア、どう思つて居るんだ」
 れど花吉は答へんともせず、
 ポンと、お六は灰吹叩きつ「花吉ツ、耳がいのか、おめえの目にや、わたしと云ふものが何と見えるんだ、――何処どこの者とも知れねエ乞食女の行倒ゆきだふれの側に、ヒイ/\泣いてる生れたばかりの女の児が、あんまり可哀さうだつたから拾ひ上げて、乳の世話から糞尿おしめの世話、一人前に仕上げる迄、何程どれほどの苦労だつたとも知れたもんぢやない、チヨツ、新橋の花吉が一人で出来たとでも思ふのか、オイ花吉、此の生命いのちは誰のおかげだよ」煙管きせる取り上げて、花吉の横顔、熱き雁首がんくびにて突ツつきぬ、
 花吉は瞑目めいもくしてかしらを垂れぬ「其の御講釈なら、養母おつかさん、最早もう承はるに及びません、何の因果いんぐわでお前の手などに拾はれたものかと、前世の罪業が思ひやられますのでネ」
「何だ」といきまく養母のおもて、ジロリ横目に花吉は見やりつ「ハイ、乞食のおやふところで、其時泣きじにに死んだなら、芸妓げいしやなどになりさがつて、此様こんな生耻いきはぢさらさなくとも済んだでせうにねエ」唇めて、ツとかほ背向そむけぬ、
「ナニ、芸妓になり下つたト、――あんまりフザけた口きくもんぢやない、乞食のでも宮様だの、大臣さんだのの席へ出られると思ふのか」
「大臣が何だネ、養母おつかさん、お前は大臣なんてものが、其様そんな難有ありがたいのかネ、――わたしに取つちや一生忘られない仇敵かたきなんだよ――、あゝ、思うてもぞつとする、三月の十五日、私の為めの何たる厄日であつたのか」
「三月十五日が、どうしたと云ふんだ」
「お前がわたしを拾つて下すつたのは、今から二十年前の師走しはすの廿五日、雪のチラつく夕間暮ゆふまぐれくお言ひだが、たツた五年の昔、三月十五日の花の夜、十六の春の一人の処女むすめを生きながら地獄へ落しなすつたことは、モウくにお忘れだらうネ」
 花吉は、養母おふくろ尖唇つのくちうらめしげに一瞥いちべつしつ「養母おつかさん、わたしを食つた其鬼が、お前の難有ありがたがる大臣サ、総理大臣の伊藤ツて人鬼サ、――私もネ、其れまでは世間なみの温順おとなしむすめだつたことを覚えてますよ、それが官位の棒で押へられ、黄金かねくさりしばられて、恐ろしい一夜を過ごした後は、泣いてもワメいても最早もう取り返へしは付かず、女性をんな霊魂たましひを引ツ裂れた自暴女あばずれものつぼみで散つた昔の遺恨うらみを長き紀念かたみの花吉と云ふ、一生の恋知らずが、養母さん、お蔭様で一匹出来上りましたのサ――ヤレ侯爵の殿様だの、大勲位の御前ごぜんだのと、聞くさへもけがらはしい、彼様あんなひゝ見たいな狂漢きちがひに高いふちつてフザけさせて置く奴も奴だが、其れを拝み奉る世間の馬鹿も馬鹿だ、侯爵が何だ、大勲位が何だ、人をツケ――」
 頬にかゝれるびんの乱れ、ブツリみ切つて壁に吐きぬ、
「聞いた風なことホザきやがる、ぜに取り道具と大目に見て居りや、菊三郎なんて大根にのぼせ上つて、――」
「オホヽヽヽ養母おつかさん、逆上のぼせあがつてだけは取消にして、下ださい、外聞が悪いから――それや、狸々しやう/″\花吉と異名あだな取る程、酒をみますよ、俳優買やくしやかひでは毎々新聞屋の御厄介にもなりますよ、養母おつかさん、酒でも呑んで気でも狂はせずに、片時かたどきなりと此様こんな馬鹿げた稼業が勤まりますか、俳優々々やくしや/\八釜敷やかましく言ふもんぢやありません、まア考へても御覧なネ、毎日毎夜れ程男の玩弄おもちやになつて居りながら、此世で仇讐かたきの一つもつて置かなかつたなら、未来で閻魔様えんまさまに叱かられますよ、黄金かねはられた怨恨うらみだから黄金でへしてるのさネ、俳優の様な意気地なしでも、男の片ツ端かともや、養母さん、ちツとはしやくも収りまさあネ、あゝ、何卒一日も早く此様娑婆しやば御免蒙ごめんかうむりたいものだと思つてネ」
「ヘン、其様そんなくたばりたきや、小米の様に殺してでも貰ふがいや」
養母おつかさん、可哀さうにも花吉にはネ、兼さんとか云ふ様な、実意のひとが無いんですよ、どう芸妓町げいしやまちなどへウロつく奴に、真人間のある筈が無いからネ――あゝ、ほんたうに米ちやんが、うらやましい――」
 チリヽンと格子戸開きて、「只今たゞいま」と可愛い声してあがり来れるだ十一二の美しき小女せうぢよ、只ならぬ其場の様子に、お六と花吉との顔ばし黙つて見較みくらべつ、狭き梯子はしごギシつかせて、狐鼠狐鼠こそこそ低き二階へ逃げ行けり、其の後影ながめ遣りたる花吉、「の児の寿命もコヽ二三年だ――養母おつかさん、最早もう罪造りも大抵におしなねエ」言ひ棄てて起ち上がりつ、お六の叫ぶ「畜生」をフハリ聞き流がして、ツイとばかり縁端えんさきへ出でぬ、
「――アヽ、いやだ/\」

十一の一


 冬枯の庭園の輝く日さへ一としほ荒寥くわうれうを添ふるが中を、彼方此方あなたこなたと歩を移すは、山木の梅子と異母弟の剛一なり、
 剛一は洋杖ステツキもて庭石打ちたゝきつゝ「だから僕は不平だと言ふんです、姉さんは少しも僕を信用して下ださらんのだもの」
 梅子はいとも莞爾にこやかに「剛さん、可笑をかしいのねエ、私が何時いつ貴郎あなたを信用しなかつたの、私は貴郎の様な学問も品性も優等なるおとゝのあることを、お友達にまで誇つて居る程ぢやありませんか」
虚偽うそツ、し其れならば、姉さん、貴嬢あなたの苦悶を私に打ち明けて下すつてもいぢやありませんか、秘密は即ち不信用の証拠です」
「秘密? 剛さん、私、何の秘密もありやしないワ」
 云ふ顔、剛一は打ちまもりつ「其れ御覧なさい、其の通り姉さんは僕を信用なさらぬぢやありませんか、僕は貴嬢あなたの胸中を知つてます」
 赤く枯れたる芝生の上に腰をおろして、剛一は、空行く雲をながめやりつ「姉さん、今春このはるでしたがネ、僕は学校の運動場で、上野の森を見下しながら、藤野と話したことがありますよ」
 突然の新談緒しんだんちよに「藤野さんテ、華厳滝けごんのたきでお死なすつたみさをさんですか」
左様さうです、世間では彼が自殺の原因を、哲学上の疑問に在る如く言ひはやしましたが、あれぢや藤野の霊も浮ばれませんよ、――僕はウく彼の秘密を知つてますからネ」
「ぢや、剛さん、何か深い原因わけがあつたのですか」
左様さうです、人生の不可解がし自殺の原因たるべき価値あるならば、地球はたちまち自殺者の屍骸しがいを以ておほはれねばなりませんよ、人生の不可解は人間が墓に行く迄、片手にげてる継続問題ぢやありませんか、其様そんな乾燥無味な理窟りくつで、の多感多情の藤野を殺すことは出来ませんよ」
「剛さんとは兄弟の様に親しくて、わたしのことも姉さんと呼んで下だすつたので、ほんたうにお可哀さうだと思つてネ」
「姉さん、藤野は実に可哀さうでした――彼の自殺は失恋の結果なんです」
「エ、――失恋?」
「左様です、の『巌頭がんとうの感』は失恋の血涙の紀念です、――彼が言ふには、我輩は彼女かのぢよを思ひ浮かべる時、此の木枯こがらし吹きすさぶが如き荒涼くわうりやうの世界も、忽ち春霞しゆんか藹々あい/\たる和楽の天地に化する、彼女かれを愛することによつて我あるを知ることが出来る、――彼女はすなはち我が生命であると自白して居ましたよ、そして僕にむかつて、山木、君は果して理想の佳人が無いかと詰問しますからね、僕は言つてつたのです、――山木剛一にも理想の佳人があるツ」
「アラ、剛さん」
「では其人は誰かと聞きますから、僕は藤野に言つたのです――僕の理想の佳人はうちの姉さんである」
「剛さん、マ、何を貴郎あなた」と梅子はサツと、かほかめぬ、
「姉さん、本当です、――すると藤野も非常に感動して、君は実に幸福だと言ひました、左様です、僕は実に幸福です、御覧なさい、藤野の佳人はたちまち他にとついで仕舞しまつたのです、藤野の生命は其時既に奪はれたのです、華厳滝けごんのたきへ投げたのは、空蝉うつせみの如き冷たき藤野の屍骸です、去れど姉さん、貴嬢が独身で居なさらうとも、又結婚なさらうとも、僕は永久に貴嬢あなたを姉さんと呼ぶことが出来るぢやありませんか」
 黙して目を閉ぢたる姉のかほを見上げたる剛一「姉さん、僕は実にかくの如く貴嬢あなたを敬ひ、貴嬢を慕ひ、貴嬢を信じて、何事をもくさないものを、姉さん、貴嬢は何故、僕を信用して下ださらないですか」

十一の二


「姉さん、僕は貴嬢が母のかはつてる為めに、僕を疎遠になさるとか、あしき母より生れたる僕の故を以て……」
 梅子は、急ぎておとゝさへぎりつ「剛さん、貴郎あなたは何をおつしやるんです」
「姉さん、言はせて下さイ、何卒どうぞ十分に言はせて下さイ――僕は常に母の不心得を、仮令たとひ無教育の為めとは言ひながら実に情ないことと思ふのです、大洞おほほらの伯父――まるで不義貪慾どんよく結塊かたまりです、父さんの如きもどうですか、薩長藩閥はんばつたゝかつて十四年に政府を退き、改進党の評議員となつて、自由民権を唱へなすつた名誉の歴史を、何と御覧なさるでせう、――其れがどうです、藩閥政府の未路の奴等に阿媚あびして、国民の膏血かうけつを分けて貰つて、不義の栄耀ええうふけり、其手先となつて昔日むかし朋友ほういうの買収運動をさへなさるとは、姉さん、まア、何と云ふ堕落でせうか」
 剛一は姉の側に膝押し進めつ、「姉さん、僕は、かくの如き人の児と生まれ、此の如き人のをひと言はれることを耻づかしくて堪まらないのです、しかるに姉さん、世間の奴等は何と云ふ破廉耻はれんちでせう、学校の校長でも教員でも、山木剛造の児であり、大洞利八のをひである為めに、僕に対して特別の取扱をするんです、彼等といへどおやぢや伯父の不義を知らんことは無い、だ黄金に阿諛諂佞あゆてんねいするんです――姉さん、貴嬢あなたは僕に比ぶれば余程幸福です、貴嬢の実母おつかさんは実に偉い方であつたさうですし、父さんも未だ堕落以前の人であつたんだから――けれど其の為めに姉さんが僕を軽蔑けいべつしたり、なんかなさる人でないことを確信してるから、嬉しいんです」
「剛さん、其様そんなこと言ふものぢやありません、うぞ其様こと言はないで下ださイ」
「けれど、姉さん、うぞ僕に言はせて下ださい、――一体僕の家は何で食つて居るんです、何で此様こんな贅沢ぜいたくが出来るんです、地代と利子と、賭博ばくちと泥棒とぢやありませんか――や、姉さん、少しもひどい言ひ分ぢやありません、正直ほんたうのことです、――実直に働いてるものは家もなく食物もなく、監獄へ往つたり、餓死したり、鉄道往生したりして、利己主義の悪人が其の血をすつて、栄耀栄華ええうえいぐわをするとは何事です――父さんは九州炭山の大株主で重役だと云ふので、威張ゐばつて居なさる、僕等は其の利益でく安泰に生活して居るけれど、僕等を斯く安泰ならしめてるの炭山坑夫の状態はうです、――現に父さんでさへ、彼等を熊の如き有様だと言うて居なさるぢやありませんか、かし彼等は熊ぢやありません、人間です、同胞兄弟です、僕は暖炉ストーブに燃え盛る火焔くわえんを見て、無告の坑夫等の愁訴する、怨恨ゑんこんの舌では無いかと幾度いくたびも驚ろくのです、僕は今朝『同胞新聞』を見て実に胸を打たれたです――父さんは同胞新聞をうちへ入れることを禁じなさるけれど、僕は毎朝買つて見て居るんです――九州炭山の坑夫間に愈々いよ/\同盟が出来上がらんとして、会社の方で鎮圧策に狼狽らうばいしてると云ふ通信がつてたのです、――僕ははしなくも篠田さんがかつて『労働者中もつとも早く自覚するものは、もつとも世人に軽蔑けいべつされて、尤も生活の悲惨を尽くしてる坑夫であらう』と予言された演説の一節を、思ひ浮べました、姉さん、篠田さんはかつて此事を予言なされたのです」
 剛一は「篠田」の一語に力をめて姉のおもてを見たり、
 ベンチに腰打ち掛けたるまゝ梅子は無言なり、
 剛一は少しく声をひそめつ「僕は姉さんが松島の野郎の縁談を断然拒絶なされたと聞いて、実に愉快で堪まらんのです、彼奴きやつの家を御覧なさい、放蕩はうたうを御覧なさい、軍艦のコムミッションと、御用商人の賄賂わいろぢやありませんか、――貴嬢あなたを妻に欲しいと云ふのも、決して貴嬢の学識や品性を重んじて言ふのぢや無い、だ貴嬢の特別財産を見込むのだ、実に失敬ナ――けれど姉さん僕は貴嬢に一つの疑問があるのです」
「疑問て、剛さん」
「姉さん、貴嬢がほんたうに僕を愛し、僕を信じて下ださるなら、何卒どうぞ僕に打ち明けて安心させて下ださいませんか、僕は姉さんの独身主義と云ふのがからないのです、其れは主義から出た結論でなく、境遇から来た迫害だと僕は思ふのです、――其れは貴嬢の持論に似合はぬ甚だ卑怯ひけふなことだと思ふのです」
「卑怯つて何です」
「其れは、少しく言葉が過ぎたかも知れませんが、かし姉さん、旧思想の黒雲を誰か先づ踏み破る人が出なければ、世に改革の曙光しよくわうを見ることが出来ないと云ふのが、姉さんの主張ではありませんか、――今ま貴嬢あなたただに旧思想のみならず、現時の不正なる勢力のうちに取り囲まれて居なさるのです、何故なぜ、姉さん、貴姉あなたは之を打ち破つて、幾百万の婦女子を奴隷どれいの境遇から救ふべき先導をなさいませんか、神聖なる愛情を殺して、独身主義などと云ふ遁辞とんじを作りなさるのは、僕は実に大不平です」
「剛さん」
「いや、姉さん、僕は貴嬢あなたの理想の丈夫ひとを知つて居ます、貴嬢の理想の丈夫はすなはち僕の崇拝して居る所の丈夫ひとです、僕は実に嬉しくてまらんのです、――僕が此の父の罪悪の家に在りながら、常に心に光明を持つことの出来るのは、姉さん、貴嬢の純潔なる愛の為めです、――此上に貴嬢の理想の丈夫の口から『我が弟よ』と呼んで貰ふことが出来るならば、僕は世界において外に求むる所はありません」
 剛一はムンズとばかりに梅子の手を握りつ「姉さん、僕は常に篠田さんの写真にむかつて『兄さん』と小声で呼んで見るんですよ」
 梅子の手はふるひぬ、
「姉さん、僕は今でも絶えず篠田さんのをしへを受けて居るんです、篠田さんに教会放逐と云ふ侮辱を与へたものは僕の父です、父の利己心です、無論其等の事を意に介する様な篠田さんぢやない、――井上でも大橋でも脱会の決心をひるがへしたのは、篠田さんに懇々こん/\説諭されたからでもありますが、姉さん、篠田さんの居ない教会に、寂しく残つて居なさる貴嬢を見棄みすてるに忍びないと云ふのが、もつとも著しき彼等の動機なんでしたよ」
 良久しばらくありて、梅子は目をしばたゝきつ、「剛さん、軽卒めつたなことを仰しやつてはなりません、貴郎あなたは篠田さんを誤解して居なさるから――」
「誤解? 誤解とは何です」
「いエ、たしか貴郎あなたは誤解して居なさいます、剛さん、貴郎は篠田さんが常に洗礼のヨハネをお説きになつたことを御聴きでせう、又た実に殆どヨハネの如く生活して居なさることも御覧でせう、家庭の歓楽と云ふ如き問題は、最早もはや篠田さんのお心には無いのです、勿論もちろんの様なる荘厳の御精神に感動せざる女性をんなの心が、何処どこにありませう、けれど剛さん、若し自分一人して其の愛情をたいと思ふひとがあるならば、其れは丁度ちやうど申しては、失礼ですが、私共わたしどもの父上や、貴郎の伯父上が、自分の手一つに社会の富を占領したいと思召おぼしめすのと、同じ罪悪です」
 夕ばえの富士の雪とも見るべき神々しき姉のおもてを仰ぎて、剛一は、うでこまぬきぬ、
 鳥の群、空高く歌うて過ぐ、

十二


 日露両国の間、風雲うたた急を告ぐるに連れて、梅子の頭上には結婚の回答をうながすの声、愈々いよ/\切迫し来れり、
 継母の権威さへつひに梅子の前に其光を失ふに及びて、今は父剛造自らかしらを垂れて哀願せざるべからずなりぬ、
 此夜彼が「梅子、相変らずの勉強か」と、いともやはらかに我女わがこの書斎をおとづれしもれが為めなり、
 あらゆる威嚇いかく、甘言、情実、誘惑に対する彼女の防禦ばうぎよ方法は、只だ沈黙と独身主義とのみ、流石さすがの剛造も今はほとんど攻めあぐみぬ、
「デ、梅子、わしは決してお前が篠田などと関係があるの何のともやせぬ、私はお前が其様そんな馬鹿と思もやせぬから少しも気には留めぬが、大洞おほほらしきりに其事を言ふので、誰が言うたか松島大佐も其れが為めにひどく感色を悪るくして居たと云ふのだから、――篠田も最早もはや教会を除名した上は、風評うはさも自然立ち消えになるであらうが、兎角とかく世間は五月蝿うるさいものだから、一層気を付けて――ナ其れに其の新聞にもある通り」と剛造ほ梅子の机上にヒロげられたる赤新聞を一瞥いちべつしつ「篠田の奴、実にしからん放蕩漢はうたうものだ、芸妓げいしや誘拐かどわかして妾にする如き乱暴漢ならずものが、耶蘇ヤソ信者などと澄まして居たのだから驚くぢやないか」
 剛造は低頭うつむける我女わがこの美くしき横顔チラと見やりて、片膝てつ「ぢや、梅子、わし明朝一番※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)ぎしやで九州まで行つて来るから――是れもみんな篠田の仕業しわざだ、坑夫共を煽動せんどうして、賃銭値上の同盟などさせをるのだ、愈々日露開戦になれば石炭が上ると云ふ所を見込んでの悪策いたづらだ、――歳暮ではあり、東京こつちの用事も手を抜く訳にならぬけれど、今日も長文の電報で、直ぐ来て呉れねばどんなことになるも知れぬと云ふのだからよんどころない――実に梅、悪い奴共の寄合よりあひだ、警視庁へ掛合つて社会党の奴等やつら片端から牢へでもブチ込まんぢや安心がならない、――其れで一週間程で帰るつもりだから、其間に松島との縁談、く考へて置いて呉れ、わしは決してお前の利益ためにならぬ様なこと勧めるのぢやない、――兼てお前は別家させるつもりで、小石川の地所も公債の二万円と云ふものも、既にお前の名義に書き換へて置いたのだが、嫁に行くも婿むこを取るも同じことだ、――今こそだ大佐だが、薩州出身で未来の海軍大臣とまでのぞみしよくされて居る松島だから、梅子別段不足もあるまいぢや無いか――モー九時過ぎた、是りや梅子飛んだ勉強の邪魔した」
 剛造はノサ/\と出で行けり、

      *     *     *

 おもむろに眼を開きたる梅子の視線は、いつしか机上に開展されたる赤紙の第三面に落ちて、父が墨もて円くしるしせる雑報の上をたどるめり、
    ※(丸中黒、1-3-26)社会党の艶福、花吉の行衛ゆくゑ
婀娜あだたる容姿は陽春三月の桜花をして艶を失はしめ、腕のすごさは厳冬半夜のお月様をしておもておほはしめたり、新橋両畔の美形雲の如き間に立ちて、独り嬌名けうめいもつぱらにせる新春野屋の花吉が、此の頃にはかに其の影を見せぬは、必定函根はこねの湯気す所か、大磯おほいそ濤音なみおとゆるあたり何某殿なにがしどのと不景気知らずの冬籠ふゆごもり、ねたましの御全盛やと思ひの外、に驚かるゝものは人心、気の知れぬと古人も言ひける麻布あざぶ本村ほんむらの草深き篠田長二のむさくろしき屋台に大丸髷おほまるまげの新女房……義理もヘチマも借金も踏み倒ふしの社会主義自由廃業の一手専売、耶蘇ヤソを棄てて妻を得たとの大涎おほよだれ、筒ツぽ袖には拭き尽せまじ……彼が積年の偽善の仮面めんをば深くなとがめそ、長二君とて木から生まれた男ではごんせぬ、
 梅子は胸を押へてた目をふさぎぬ「――本当だらうか――」

十三の一


 麻布本村の阪を上がり行く牛乳屋の小僧と八百屋の小僧、
其処そこの篠田さんナ、彼様あんな不用心な家見たことがいぜ、暗いうちに牛乳ちゝを配るにナ、表の戸を開けてなかへ置くのだ、あれでく泥棒が這入はひらねエものだ」
「ナニ、年中泥棒につてるださうナ、これから広尾へ掛けて貧乏人の巣だから、まつたもんぢやねエやナ、所がおめえ言ひ分が面白いや、書生の大和ツてひとが言ふにやネ、誰も好んで泥棒などするのでは無いだから、余つてるものがるなら、無いものに融通するのは人間の義務で、他人が困つてるのに自分ばかり栄耀ええうしてるのが、ほんたうの泥棒だとよ」
「ふウム、一理あるナ、――所で近来素敵すてき別嬪べつぴんが居るぢやねエか、老母おふくろ付きか何かで」
母子おやこぢやいよ、老婆ばゝあの方は月の初めから居るが、別嬪の方はツイ此頃だ、何でも新橋あたりの芸妓げいしやあがりだツてことだ」
「へい、筒袖つゝツぽ先生、マンざら袖無そでねエばかりでもいと見えるナ」
「所が言葉の使ひツぷりから察しると、其様さうらしくも無い、馬鹿丁寧なこと言ひ合つてるだ」
「どうも此の界隈かいわいにや、渡辺国武だの、津田仙つだせんだの、矢野二郎だの、安藤太郎だのツてふうかはつた連中のお揃ひだナ」「いづれ麻布七不思議ツてなことになるのだろ、ハヽヽヽヽ」

      *     *     *

 小僧等の目をさへ驚かしたる篠田方の二個ふたり女性をんな、老いたるは芸妓殺げいしやころしを以て満都の口のかゝりたる石川島造船会社の職工兼吉の母にて、若きは近き頃迄烏森からすもり左褄ひだりづま取りたる花吉の変形なり、
 夕日なゝめに差し入る狭き厨房くりや、今正に晩餐ばんさんの準備最中なるらん、冶郎蕩児やらうたうじ魂魄たましひをさへつなぎ留めたるみどりしたゝらんばかりなるたけなす黒髪、グル/\と引ツつめたる無雑作むざふさ櫛巻くしまき紅絹裏もみうらの長き袂、しごきの縮緬ちりめん裂いてたすき凛々敷りゝしくあやどり、ぞろりとしたるもすそ面倒と、クルリ端折はしをつてお花の水仕事、兼吉の母は彼方あちら向いてへつつひの下せゝりつゝあり、
「考へて見ると老女おばさん、ほんとに世の中は面白いものねエ、かうした処でお目にかゝつて、此様こんなお世話さまにならうなどとは、夢にも思やしないんですもの、此頃中のわたしの心と云ふものは、老女さん、昨夜ゆうべもお話した様なわけでネ、自分ながら思案に暮れましたの、どうせ泥水商売してるからにや、普通なみひとの様なこと思つたからとて、せんないことなんだから、いつそ松島と云ふひとの所へ行つて、思ふ存分我儘わがままを働いてらうかなどとも迷つたりネ、自暴やけになつて腹ばかり立つて、仕様しやうも模様も無かつたのですよ、スルと湖月の御座敷で始めて此家こちらの先生様にお目に掛りましてネ、兼吉さんと米ちやんとのお話を承はつてる中に、私の心が妙な風に成つて来ましてネ、仮令たとひ女性をんな節操みさをけがしたものでも、其が自分の心から出たのでないならば、とがめるに及ばぬとおつしやつたお言葉が、ヒシと私の胸をさしましたの、して見ると私などでも余り世間を怨んで、ヒガミ根性こんじやうばかり起さんでも、是れからの心の持ち様一つでは、人様の前へ顔出しが出来るやうになれるかと不図ふと思ひ浮かびましてネ、其れから二日二晩と云ふもの考へ通しましたけれど、如何どうしたらいのか少しも方角が付かぬぢやありませんか、一つ篠田様にお願申して見る外無いと思ひましてネ、二日目の夕方、ブラリと出て新聞社へ参つたのですヨ、――先生様が、じつと私の顔を見つめなすつて、『貴女あなたの御一身はわたくしが御引き受け致しました、御安心なさい』と仰しやつた御一言が、しんと骨にまでとほりましてネ、有り難いのやら、嬉しいのやら、訳なしに涙がき出るぢやありませんか」
 言ひつゝ彼女かれ襦袢じゆばんの袖もてと眼をぬぐひつ「それから老女おばさん、いて後、此家こちらへ連れて来て戴いたのですがネ、あの土橋を渡つて烏森の方を振り返つて見た時には、コヽに廿一年暮らしたのかと思ふと、うらめしい様な、なつかしい様な、何とも言へない気がして胸が張りける様でしたの、アヽ此処こゝの為めに生れも付かぬいやしい体になつたのだと思ひついて、そして先生様の後姿をお見上げ申すとネ、精神こゝろ鞏固しつかりして、かごを出た鳥とは、此のことであらうと飛び立つ様に思ひましたよ――」
「ほんとにねエ」と兼吉の老母ばゝも煙にむせびつ、

十三の二


「それからネ、老女おばさん」と、お花は明朝あすの米かしぐ手をばし休めつ「歩きながらのお話に、此頃湖月で話した兼吉の老母はゝうちへ来て居ると先生様がつしやるぢやありませんか、老母おばさん、わたしどんなに嬉しかつたか知れませんよ、お目に懸つた方でも何でも無いんでせう、けどもよねちやんのおしうとさんだと思ひますとネ、うやら米ちやんにでも逢ふやうな気がするんですもの、――私はう云ふお転婆、米ちやんはの通りの温柔おとなしやでせう、ですけども、うしたわけかく気が合ひましてネ、始終しじゆう往来ゆききして姉妹きやうだいの様にして居たんですよ、あゝ云ふことになる晩まで、一つお座敷で色々語り合つた程ですもの――其の縁につながる老母さんにはからぬお世話様になると云ふのも、ほんとに米ちやんの引き合はせぢや無いかと思はれましてネ」
 小米と聞けば直ちに一粒種の我子のこと思ひ出づる老婆は、セキ上ぐる涙を狭き袖におさへつ「あゝ云ふことになると云ふも、皆な前世からの約束事とあきらめてネ――それにうやつて此方こちらの先生様が御親切にして下ださるもんですから、せめては兼吉がうみの父にも増してたよりにして居た先生様の、御身のまはりなりと御世話致したら、牢屋に居るせがれも定めて喜ぶことと思ひましてネ――」
「ほんとに老女おばさん、どうしたら篠田様のやうな御親切な御心がもてませうかネ――わたしネ老女さん、男なんてものは、みん我儘わがまゝで、道楽で、うそつきで、意気地いくぢなしのものと思つてたんですよ、――先生様しのださまで私、驚きましたの、一寸お見受け申すと、何だか大変にこはさうで、不愛想の様で居らつしやいますが、心底に温柔やさしい可愛らしい所がおありなすつて、れが威あつてたけからずとでも云ふんでせうかねエ――籍の方の詰も落着したから、明日の何とか、さウ/\、クリスマスとか云ふのが済んだなら、大久保の慈愛館とやらへ行くやうにと、今朝もお話下ださいましたけれどもネ、老女さん、私、うやら此家こちらが自分の生まれた所の様に思はれて、何時までも老女さんと一所に居たい様な気がして、まりませんの」
「花ちやん、其様そんなやさしく言うてお呉れだと、何だかお前さんが米ちやんの様に思はれてネ」
老女おばさん、わたし左様さうですよ、始めて此方こちらへ上つて――疲れたらうから早くおやすみツておつしやつて下だすツて、老女さんの傍へ寝せて戴いた時――私、ほんとに母の懐へ抱かれでもした様な気がしましてネ、五体からだのんびりして、始めてアヽ世界は広いものだと、心の底から思ひましたの、――私、老女さん、二十年前に別れた母が未だながらへて居て、丁度ちやうど廻り合つたのだと思つて孝行しますから――私の様なアバずれ者でも何卒どうぞ、老女さん、行衛ゆくゑ知れずの娘が帰つて来たと思つて下ださいナ」
 老婆は涙にムセびつゝ、首肯うなづくのみ、
「オヽ、嬉しい」と、お花は涙一杯の美しき眼に老婆を仰ぎつ「ぢや、今から阿母おつかさんと言つてもう御座んすか――何だかまるで夢の様ですのねネ――昨日までの邪慳じやけんな心が、何処へかつて仕舞つたの――わたしヤ、すつかり生れ変はりましたわねエ――阿母さん、――」

      *     *     *

 障子しやうじ一重ひとへの次のに、英文典を復習し居たる書生の大和、両手に頭抱へつゝ、涙のあられポロリ/\、

十四の一


 十二月廿五日のゆふべは来りぬ、寒風枯草を吹きて、暗き空に星光る様、そぞろに二千年前の猶大ユダヤ野辺のべしのばしむ、
 篠田長二の本村の家には戸障子明け放ちて正面の壁には耶蘇ヤソ馬槽うまぶねに臥するの大画を青葉に飾り、洋燈ランプカン/\と輝くもとには、八九歳より十二三歳に至る少年少女二十余名打ちつどひて喧々囂々けん/\がう/\、兼吉の老母、お花、書生の大和などしきりと其間を周旋しうせんしつゝあり、小急ぎにおとなひ来れるは渡辺の老女なり、
 篠田は自ら出で迎へつ「オヽ、老女おばさん、う来て下さいました、今夜は近所の小児等こどもらを招きまして、基督降誕祭クリスマスを営むことに致しまして、――其上、十二月廿五日と云ふ日に特別の関係ある婦人の新客がありますので、旁々かたがた御光来おいでを願ひました」
「何の、先生、昨夜ゆうべはネ、教会の降誕祭クリスマスで御座いましたが、今年は先生の御顔が見えず、面白い御話を御聞きすることが出来ないツてネ、去年の時のことばかり言ひ出して、皆様さびしい思をしたので御座いますよ、今晩は先生の御宅おうちの御祝に御招おまねきを受けましたので斯様こんな嬉しいことは、御座いません」
 今や式は始まりぬ、少年少女いづれも呼吸いきを殺ろし眼を円くして、いぶかしげに見遣る、
 大和一郎が得意の美音を振り立てて讃美歌の独吟あり、
「ひとにはみめぐみ  地にはやすき
かみにはみさかえ   あれとうたふ
あまつつかひらの   きよき声は
しづかにふけゆく   夜にひびけり」
「いまなほみつかひ  つばさをのべ
つかれしこの世を   おほひまもり
かなしむみやこに   なやむひな
なぐさめあたふる   うたをうたふ」
「おもにをおひつゝ  世のたびぢを
ゆきなやむ人よ    かしらをあげ
よろこばしき日を   うたふうたの
いとたのしきこゑ   きゝていこへ」
「みつかひのうたふ  平安やすききたり
よゝのひじりらの   まちし国に
エスを大君と     たゝへあがめ
あまねく世のたみ   たかくうたはん」
 篠田はつて聖書を読み、祈祷きたうを捧げ、今宵こよひの珍客なる少年少女にむかつて勧話の口を開けり、
貴所等あなたがたわたしとは長く御近所に住つて居りますが、今まで仲よく一所に遊ぶ様な機会をりがありませんでした、今晩はくこそ来て下さいました、――今晩貴所方あなたがたをおよび申したのは、耶蘇基督イエスクリストと云ふお方の御誕生日を、御一所にお祝ひたさうと思つたからです、貴所方あなたがたみんな生れなすつた日がある、其日になると、阿父おとつさんや、阿母おつかさんが、今日は誰の誕生日だからと、何かお祝をして下ださるでせう」
「アイ、二十日はつかが俺の誕生日だツて、阿母おつかあが今川焼三銭買つて、ちやんの仏様へ上げて、あとは俺が皆な食べたよ」と、突如だしぬけに返事したるは、覚束おぼつかなき賃仕事に細きけむり立て兼ぬる新後家しんごけせがれなり、
 クス/\笑ふものある中に篠田は首肯うなづきつ「丁度ちやうど其れと同じく、基督キリストの御誕生日には私共わたしども一同、日本人ばかりでは無い、世界中の人が神様へ御礼を申し上げるのです、基督のことは今ま歌を歌ひなされた、大和先生から段々御聞きなさい、わたしが差当り一つ御話して置くのは、――貴所方あなたがたが忘れない様に聞いておいて頂きたいのは、――二千年昔時むかしにお生れになつた外国人の基督が、何時までも/\世界中の人に、誕生日を祝つて貰ふと云ふ不思議な理由わけです、基督と云ふお方は極々ごく/\貧乏なうちへお生れになつたのです、此の壁にけてある画にある様に、旅の宿屋の馬小屋で馬の秣桶かひばをけを、臥床ねどこになされたのです、阿父おとうさんは貧しき大工で、基督も矢張り大工をなされたのです――く御聴きなさい、貧乏と云ふことはまで耻かしいことではありません、私も貴所方あなたがたみん汚穢きたない着物でせう、私も貴所方も皆な貧乏人です、けれど、貧乏や着物の汚穢のを気にしてはなりませんよ、汚穢きたない心を持つて、奇麗な衣服きものを着て居る人があるなら、其人こそ真正ほんたうに耻づかしい人です」
 お花はいづれも木綿のそろひの中に、おのひといまはしき紀念かたみの絹物まとふを省みて、身を縮めてうつむけり、
 篠田は語りつづく「人間のもつとも耻づかしいのは、虚言うそを吐くことです、喧嘩けんくわすることです、まけることです」
 たちまち座敷の一隅に声あり「お虎さんは、今日俺に鉛筆呉れるなんて虚言うそを言つたぜ」
「ウソ、熊吉さんがわたしに石をつつけたもの」とて早くもメソ/\と泣く、
 彼方あなたの一隅には「松公ンとこちやんは朝から酒飲んでブウ/\ばかり、育つてるぢやねエか」
「何だ手前てめえおつかあは毎晩四の橋へ密売ひつぱりに出るくせしやがつて……」
 お花の目には涙ありき、

十四の二


 少年少女はいづれも基督降誕祭クリスマスの贈物貰ひたれば、歓喜の声振り立てて帰り行けり、
「アヽ、実に今年は愉快なクリスマスを致しました」と篠田は喜色、おもてあふる、
「それに先生、お花さんとやらに、老女おばあさんに、お二人までらつしやるので、何程どんなににぎやかとも知れませんよ、殿方ばかりのおうちは、何処どことなくおさびしくて、お気の毒で御座いましてネ」渡辺の老女はホヽ笑みつゝ「大和さん、貴郎あなたもマア、お勝手の方を御役御免におなりなさいましたのねエ」
「なあに、老女おばさん、花さんは夜が明けると大久保の慈愛館へお行でになるんだから、明日から、僕がた復職するんです」と大和は笑ふ、
 お花はうつむきて何やら気の進まぬてい
「何だかわたしも花ちやんにお別れするがいやでなりませんの」とい兼吉の老母もつぶやく、
老女おばさん」と篠田は渡辺の老女を顧みつ「花さんは大切だいじな体です、将来こののちに大きな事業しごとをなさらねばならぬ役目をんで居られますので、又た花さんの性質にく適当した役目であると思ひますので、矢島の老女史らうせんせいや、島田の奥様おくさんくお話して御依頼しましたが、いづれも快く引き受けて下ださいましたから、当分慈愛館で修業なさるのです」
「ですけども先生」とお花は顔わづかもたげつ、「私の様なものはても世間へ面出かほだしが出来なからうと思ひましてネ、いつそ御迷惑さまでも、おうちで使つて戴いて、大和さんや、老母おばさんに何か教へて戴きたいと考へますの――」
「花さん、何時の間に貴女あなた其様そんな弱き心におりでした、――先夜始めて新聞社の二階で御面会致した時、貴女と同じ不幸におちいつてるひと、又陥りかけてる女が何千何万ともかぎりないのであるから、其を救ふ為めの一個ひとり証人あかしびとにならねばならぬと申したれば、貴女は身をに砕いても致しますと固く約束なされたでせう」
 と篠田はお花をはげましつ「まことに世の中は不幸なる人の集合あつまりと云うても差支さしつかへない程です、現に今まこゝ団欒よつてる五人を御覧なさい、皆な社会よのなか不具者かたはです、渡辺の老女さんは、旦那様だんなさまが鹿児島の戦争で討死うちじにをなされた後は、賃機ちんはた織つて一人の御子息を教育なされたのが、愈々いよ/\学校卒業と云ふ時に肺結核で御亡おなくなり、――大和君のいへと越後の豪農です、阿父おとつさんが国会開設の運動に、地所も家も打ち込んで仕舞ひなすつたので、今の議員などの中には、大和君のうちの厄介になつた人が幾人あるとも知れないが、今ま一人でも其の遺児を顧るものは無い、かし大和君は我もほとんど乞食同様の貧しき苦痛をめたから、同じ境遇の者を救はねばならぬと、此の近所の貧乏人の子女こどもの為め今度学校を開いたので、今夜のクリスマスを以て其の開校式を挙げた積りのです、――兼吉君のことは花さん、既に御聞になつたでせう、兼吉君の阿父おとつさんが、自分の財産しんだいげて保証うけにんの義務を果たすと云ふ律義な人でなかつたならば、老婆おばあさんも今頃は塩問屋の後室おふくろさまで、兼吉君は立派に米さんと云ふ方の良人をつととして居られるのでせう、――私自身を言うて見ても、秩父ちゝぶ暴動と云ふことは、明治の舞台を飾る小さき花輪になつて居るけれ共、其犠牲になつた無名氏の一人の遺児かたみが、父母より譲受ゆづりうけた手と足とを力に、亜米利加アメリカから欧羅巴ヨウロツパまで、荒き浮世の波風をしのぎ廻つて、今日コヽに同じ境遇の人達とへだてなく語り合つて居るのです、私の近き血縁を云へばたつた一人の伯母がある、今でも訪ふ人なき秩父の山中に孤独ひとりで居る、世の中は不人情なものだと断念してどうしても出て来ない、――花さん、屈辱はぢを言へば、貴女一人の生涯しやうがいではない、だ屈辱の真味を知るものが、始めてひとを屈辱から救ふことが出来るのです」
 一座しんみりとかしらを垂れぬ、
「御覧なさい、救世主として崇敬うやまはるゝ耶蘇イエスの御生涯を」と篠田は壁上の扁額がくを指しつ「馬槽うまぶねに始まつて、十字架に終り給うたではありませんか」

十五


 多事多難なりける明治三十六年も今日に尽きて、今は其の夜にさへなりにけり、寺々には百八煩悩の鐘鳴り響き、各教会には除夜ぢよや集会あつまり開かる、
 永阪教会には、過般くわはん篠田長二除名の騒擾さうぜうありし以来、信徒の心を離れ離れとなりて、日常つね例会あつまりもはかばかしからず、信徒の希望のぞみなる基督降誕祭クリスマスさへきはめて寂蓼せきれうなりし程なれば、除夜の集会あつまり人足ひとあしまれなるも道理ことわりなりけり、
 時刻ときにはひまあり、まうで来し人も多くは牧師館に赴きて、広き会堂電燈いたづらに寂しき光を放つのみなるに、不思議やへなる洋琴オルガン調しらべ、美しき讃歌の声、固くとざせる玻璃窓はりまどをかすかにれて、暗夜の寒風にふるへて急ぐ憂き世の人の足をさへ、ばしとどめしむ、
 洋琴の前に座したるは山木梅子、かたへに聴きれたるは渡辺の老女、
「今度は老女おばさんのお好きな歌を弾きませう」と、梅子が譜本繰り返へすを、老女はジツと見やりて思はず酸鼻はなすゝりぬ、
うかなさいまして、老女おばさん」
 老女は袖口にまぶたぬぐひつ「何ネ、――又た貴嬢あなた亡母おつかさんのこと思ひ出したのですよ、――斯様こんな立派な貴嬢の御容子ごようすを一目亡奥様せんのおくさんにお見せ申したい様な気がしましてネ、――」
 答へんすべもなくて、だ鍵盤にうつぶける梅子の横顔を、老女はくとながめ「どうして、梅子さん、貴嬢あなたうまで奥様に似て居らつしやるでせう、さうして居らつしやる御容子ツたら、亡母おつかさん其儘そのまゝらつしやるんですもの――此の洋琴オルガンはゼームスさんが亡母さんの為めに寄附なされたのですから、貴嬢が之をお弾きなされば、奥様おくさんみたま何程どんなに喜んで聴いてらつしやるかと思ひましてネ――オホヽ梅子さん、又た年老としよりの愚痴話、御免遊ばせ――」
「アラ、老女おばさん、そんなこと――此の教会で亡母はゝのこと知つてて下ださるのは、今は最早もう老女さん御一人でせう、うちでもネ、乳母ばあやが亡母のこと言ひ出しては泣きます時にネ、きツと老女さんのこと申すのですよ、わたし、老女さんに抱いて戴いて、亡母はゝ永訣おしまひ挨拶あいさつをしたのですとネ、――私、老女さん、此の洋琴に向ひますとネ、うやら亡母が背後うしろから手を取つて、弾いてでも呉れる様な気が致しましてネ、不図ふと、振り向いて見たりなどすることがあるんですよ、――私ネ、老女さん、此の教会を棄てることの出来ないのは、こればかりなんです――」
「まア、貴嬢あなた、飛んでも無いことおつしやいます、此上貴嬢が退会でもなさろものなら、教会はまるやみですよ、篠田さんの御退会で――」
 思はず言ひ掛けて、老女はにはかに口に手を当てぬ、「ほんとに老女おばさん、篠田さんのことでは私、皆様にお顔向けがならないのです、――老女さん、近く篠田さんに御面会おあひなさいまして――」
「ついネ、此の廿五日にも参上あがつたのですよ、御近所の貧乏人の子女こども御招およびなすつて、クリスマスの御祝をなさいましてネ、――其れに余りお広くもない御家おうちに築地の女殺で八釜やかましかつた男のおやだの、自由廃業した芸妓げいしやだのツて御世話なすつて居らつしやるんですよ、ほんとに感心な方ですことネ――」
「其の芸妓げいしやのことで、老女おばさん、新聞などには大層、篠田さんの悪口が書いてあつたぢやありませんか」梅子の声は低く震へり、
左様さうですツてネ、貴嬢あなた、篠田さんが自分の妾になさるんだとか何とかかきましたつてネ、まり馬鹿々々しいぢやありませんか、ナニ、みんな自分の心でひとを計るのですよ、クリスマスの翌日、の慈愛館へれておいでになりましたがネ、――貴嬢、私のせがれが生きてると丁度ちやうど篠田さんと同年のですよ、私、の方を見ると何時いつでも涙が出ましてネ」
 梅子はホツとかほあからめつ「何と云ふ失礼な新聞でせうねエ」
 此時、ベンチにはボツ/\人の顔見えぬ、長谷川牧師は扉を排して入り来れり、浅き微笑を頬辺けふへんに浮べて、

十六の一


 午後五時三十分、東海道のぼり※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)ぎしや、正に大磯駅を発せんとする刹那せつな、プラットホームににはかに足音いそがはしく、駅長自ら戦々兢々せん/\きよう/\として、一等室の扉をひらけば、厚き外套ぐわいたうに身を固めたる一個の老紳士、平たきおもてに半白の疎髯そぜんヒネリつゝ傲然がうぜんとして乗り入るうしろより、だ十七八の盛装せる島田髷しまだまげの少女、肥満ふとつちようなる体をゆすぶりつゝゑみかたむけて従へり、
 発車の笛、寒きゆふべの潮風に響きて、汽車は「ガイ」と一とりして進行を始めぬ、駅長は鞠躬如きくきゆうぢよとして窓外に平身低頭せり、れど車中の客は元より一瞥いちべつだも与へず、
 だ座には着くに至らざりしの少女は、突如たる※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)きしやの動揺に「オヽ、ワ」と言ひつゝ老紳士のひざに倒れぬ、
 紳士は其儘そのまゝかきいだきて、其の白きものほどこせる額を恍惚うつとりながめつ「どうぢや、浜子、嬉しいかナ」と言ふ顔、少女はこびたゝへしに見上げつゝ「御前ごぜん、奥様に御睨おにらまれ申すのがこはくてなりませんの」
「ハヽヽヽヽ何に奥が怖いことあるものか、あれは梅干ばゝあと云ふのぢやから、最早もうくのうのと云ふ年ぢや無いわい、安心しちよるがい、――其れよりも世の中に野暮やぼなは、其方そちの伯父ぢや、昔時むかしは壮士ぢやらうが、浪人ぢやらうが、今はかく芸人の片端かたはしぢや、此頃の乱暴はうぢや、めひを売つて権門にへつらふと世間に言はれては、新俳優の名誉にかゝはるから、其方そちを取り戻すなどと、イヤ、飛んだ活劇をし居つたわイ、第一其方そち心中こころを察しない不粋ぶすゐな仕打ぢや、ナ、浜子」
「あの時は、御前、うなることかとわたし、ほんとにこはう御座いましたよ、けども御前、伯父も本心から彼様あんなこと致したのでは御座いませぬでせうと思ひますの、御前の御贔負ごひいきに甘えまして一寸ちよつと狂言を仕組んで見たので御座いますよ」
「ウム、其方そちの方が余程物が解わちよる、――アヽ、わづかの間でも旅と思へば、浜子、誰はばからず、気が晴々としをるわイハヽヽヽヽ」
「ほんたうに左様さうで御座いますのねエ、ホヽヽヽヽ」
 人なき一室を我が世とたのしみて、又た他事もなき折こそあれ、「バタリ」響ける物音に、何事と彼方かなたを見れば、今しも便所の扉開きて現はれたる一客あり、陽春三月の花のそら遽然きよぜん電光きらめけるかとばかり眉打ちひそめたる老紳士のかほを、見るより早くの一客は、殆どはんばかりに腰打ちかがめつ、
「是れは/\伊藤侯爵閣下――」
 伊藤と呼ばれし老紳士は、ひざより浜子を下ろしつゝ「ウム、山木か――」
「閣下、久しく拝謁はいえつを見ませんでしたが、相変らず御盛ごさかんなことで恐れ入りまする」
「山木、隠居役になると、貴公等には用が無くなるからナ」
 と侯爵のひやゝかに笑ふを、山木剛造は額撫でつゝ「れは閣下、決して左様な次第では御座りませぬが、――併し今日こんにちは誠にい所で拝謁を得ました、実は是非共閣下の御権威おちからを拝借せねばならぬ義が御座りまして――」
 空嘯そらうそぶける侯爵「金儲かねまうけのことなら、我輩わがはいの所では、山木、チト方角が違ふ様ぢヤ――新年早々から齷齪あくせくとして、金儲かねまうけも骨の折れたものぢやの」
「閣下、実は旧冬から九州へ出掛けましたので――或は新聞上で御覧になりましたことかとも愚察つかまつりまするが、此度このたび愈々いよ/\炭山坑夫の同盟罷工が始まりさうなので御座りまして――」
「ふウむ」と侯爵は葉巻シガーけむよりも淡々あは/\しき鼻挨拶はなあしらひ、心は遠き坑夫より、直ぐ目の前の浜子の後姿にぞ傾くめり、
 浜子は彼方あちら向いて、はるか窓外の雪の富士をや詮方せんかたなしにながむらん、

十六の二


「閣下、近来社会党がナカ/\跋扈ばつこ致しまして、今回坑夫の同盟なども全く、社会党の煽動せんどうから起つたので御座ります、此分では将来何の事業でも発達上、非常な妨碍をかうむりまするわけで、何卒なにとぞ此際厳重に撲滅策ぼくめつさくらるゝ様、閣下より一言、政府へ御指図下ださる義を懇願致しますので――」
 伊藤侯爵は空吹く風と聞き流しつ「二三の書生輩の空理空論を、左迄さまで恐るゝにも足らぬぢやないか、して労働者などグヅ/\言ふなら、構まはずに棄てて置け、直ぐ食へなくなつて、先方むかうから降参して来をらう」
「所が閣下、うやら亜米利加アメリカの労働者などから、内々運動費を輸送し来るらしいので御座りまして、――し外国の勢力が斯様かやうなことから日本へ這入はひつて来るやうになりませうならば、国体上容易ならぬ義かと心得まするので」
「ナニ、山木、別段不思議無いではないか、労働者が労働者の金を輸入するのと、君等実業家連が外資輸入を遣り居るのと、何のちがひもあるまいではないか」
「では御座りまするが、閣下」と、山木は額をでつ「探知致しましたる所では、近々東京に労働者等の大会を開いて、何か穏かならぬ運動を企てまする様子で、うせ食ふことが出来ぬ乱暴漢らんぼうものの集りで御座りまするから、何事が出来しゆつたいせんもはかられませぬ次第で――それに新聞と云ふ程のものでも御座りませぬが、かく同胞新聞など申す毒筆専門の機関を所持致し居りまするから、無智無学の貧民共は、ツイ誘惑されぬとは限りませぬ、もつとも警察が少こし確乎しつかりして居りまするならば彼れ等程のものに別段心配も御座りませぬが、何分にも閣下が総理の御時代とは違ひまして、警察の方なども緩漫くわんまんきはまつて居りまするから――」
 薄き眉ビリと動くと共に、葉巻シガーの灰ふるひ落としたる侯爵「山木、其の同胞新聞と云ふのは、篠田何とか云ふ奴の書きるのぢやないか」
「ハ、篠田長二と申すので、閣下御存ごぞんじで御座りまするか」
や、顔は見たことないが、実にしからん奴ぢや、我輩のことなど公私に関はらず、攻撃を――」
 と言ひさして、浜子を見やれば、浜子はなまめかしく仰ぎ見つ、「御前ごぜん、あのわたしのこと悪口書いた新聞でせう、御前、何卒どうぞかたきつて下ださいな」
「ウム」と首肯うなづきたる侯爵「先年、彼等が社会民主党を組織した時、我輩は末松にいひつけてただちに禁止させたのぢや、我輩が憲法取調の為め独逸ドイツに居た頃、丁度ビスマルクが盛に社会党鎮圧をりおつた、然るに現時いまの内閣の者共が何も知らないから、少しも取締が届かない――可矣よし、山木、早速桂に申し付けよう」
「閣下、誠に有難う御座ります」と山木は足の爪先まで両手を下げつ、「イヤどうも、政府の大小、御世話なされまするので、御静養と申すこともお出来なされず、御推察致しまする」
「ウム、何かと云ふと、直ぐ元老が呼び出されるので、てもかなはん――只だ美姫びきさいはひに我労を慰するに足るものありぢや、ハヽヽヽヽ、なア浜子」
 汽車は早くも大船おほふなに着けり、一海軍将校、鷹揚おうやうとして一等室に乗り込みしが、たちまち姿勢をただしうして「侯爵閣下」
 おもむろに顧みたる侯爵「ヤア、松島大佐か――何処どこへ」
「横須賀からの」

十六の三


「松島さん」と慇懃いんぎん挨拶あいさつする山木剛造を、大佐は軽く受け流しつ、伊藤侯爵と相対して腰打ち掛けぬ、
 夕陽せきやうほ濃き影を遠き沖中おきなかの雲にとどめ、※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)きしやは既にあは燈火ともしびを背負うて急ぐ、
 ポケットより巻莨たばこ取り出して大佐は点火しつ「閣下、た近日元老会議ださうで御座りまして、御苦労に存じます」
「松島、実に困らせをるぞ、権兵衛にこし確乎しつかりせいと言うて呉れ」
「閣下、其れは私共わたくしどもの方で申上げたいと存じまする所です、ヤ、モウ、先刻も横須賀へ参れば、艦隊の連中からは、大臣が弱いの、軍令部が腰抜だのと勝手な攻撃を受けます、元老方からは様々御注文が御座りまする、民間からは出法題ではふだいな非難を持ち掛ける、斯様こんな割の悪い役廻りは御座りませぬ」言ひつゝ、烟草たばこの煙の間より、浜子の姿をチラリ/\と、横目ににらむ、
 大佐の目遣づかひに気つきたる侯爵「や、松島、こゝに居る山木は君のしうとさうぢやナ、――先頃誰やらが来てしきりに其のうはさし居つた、の様子ではても尊氏たかうぢを長追ひする勇気があるまいなどと嫉妬しつとし居つたぞ、非常な美人さうぢやな、何時いつぢや合衾がふきんの式は――山木、何時ぢや、我輩も是非客にならう」
 山木は頭掻きながら「ハ、いまだ何時と確定致す所にも運び兼て居りまする様な次第で――何分にも時局の解決が着きませぬでは――」
「ハヽヽヽヽ、時局と女とは何の関係もあるまい、戦争いくさ門出かどで祝言しうげんするなど云ふことあるぢやないか、松島も久しい鰥暮やもめくらしぢや、可哀さうぢやに早くして遣れ――それに一体、山木、誰ぢや、媒酌ばいしやくは」
「ハ、表面おもて立つた媒酌人と申すも、いまだ取りさだめたと申す儀にも御座りませぬ、いづれ其節何殿どなたかに御依頼致しまする心得で――」
「フム、其りやさひはひぢや、我輩一つ媒酌人にならう、軍人と実業家の縁談を我輩がする、みんな毛色が変つてて面白ろからう、山木、どうぢや」
「ハ、閣下が御媒酌下ださりまするならば、之に越したる光栄は御座りませぬが――」
「松島、君の方はどうぢや」
 苦笑しつゝけむり吹かし居たる大佐「御厚意は感謝致しまするが、其れは最早もう御無用です」
「ナニ、無用ぢや、松島」
 大佐はひやゝかに片頬かたほに笑みつ「はア、閣下、山木には無骨ぶこつな軍人などは駄目ださうです、既に三国一の恋婿こひむこ内定きまつて居るんださうですから」
「フウ、ほかるのか、其りや一ときは面白い、山木、誰ぢや、君の恋婿と云ふのは」
 剛造は顔中撫で廻はして「閣下、其れは松島さんのお戯れで、決して外に約束など有る義では御座りませぬが――」
 ほとんど困却の山木を、松島は愉快げに尻目に掛けつ「然らば閣下、山木の恋婿こひむこをば自分から御披露に及びませう――日本社会党の領袖、無政府主義の張本ちやうほん、同胞新聞主筆篠田長二君と仰せられるのださうでツ」
「ヤ、松島さん」と色を失つて周章する剛造を、侯爵は稍々やゝ垂れたる目尻にキツと角立てて一睨いちげいせり、
「閣下、其れを御信用下だされましては、遺憾ゐかん千万に御座りまする、全く松島様の誤解で御座りますから――」
「松島、事実相違ないか、うぢや」
 大佐は冷然たり「閣下、わたくしも帝国軍人で御座りまする」
「フム」と軽く首肯うなづきて侯爵は又た山木のおもてにらめり、
「閣下、其れは余りに残酷なことで御座りまする、わたくしが社会党などに娘をることが出来まするものか出来ませぬものか、少し御賢察を願はしう存じまする、――近い御話が、閣下、今回このたび炭山の坑夫同盟でも明かでは御座りませぬか、九州の方へは菱川だとか何だとか云ふ二三人の書生をつて奇激な演説などさせて、無智蒙昧もうまいな坑夫等を煽動せんどうさせ、自分は東京に居てすべての作戦計画をして居るので御座りまする、みんな篠田長二の方寸から出でまするので――非戦論などとなへて見ても誰も相手に致しませぬ所から、今度は石炭と云ふ唯一の糧道を絶つ外ないと目星を着けて、到底たうてい相談のならない法外な給料増加の請求を坑夫等に教唆けふさし、其の請求の貫徹をはかると云ふ口実のもとに、同盟罷工をらせると云ふのが、篠田の最初からの目的なので御座りまする、悪党とも国賊とも、名の付けられた次第では御座りませぬ、――閣下、どうしてわたし其様そんなものへ娘をることが出来ませう――其れで坑夫共の生活をさゝへる為めに亜米利加アメリカの社会党から運動費を取り寄せる手筈をする、其ればかりでは駄目ぢやと申すので、近々東京に全国労働者の大会を開く計画する、いづれも其の張本はの篠田で御座りまする、ればこそ先刻も、閣下、彼奴等きやつらの取締に就て、御尽力を歎願したでは御座りませぬか――」
「ウム」と思案せる侯爵「成程――うぢや松島、山木の言ふ所道理至極しごくと聞かれるでは無いか」松島はたばこくゆらしつゝ「かし、閣下、御本尊がきたいと申すものを、之を束縛する親の権力も無いでは御座りませぬか」
 山木は顔突き出し「其れは閣下、全く松島様の御聞き誤りで御座りまする、先頃迄は娘共の参る教会に篠田も居たので御座りました、其れで何かとあらぬ風評を致すものもあつたらしいで御座りまするが、の様な不都合な漢子ものを置くのは、国体上容易ならぬことと心着きまして、私から教会へ指図して放逐致した次第で御座りまする――承りますれば、彼奴等きやつら平生、露西亜ロシヤの虚無党などとも通信し合つて居るさうに御座りまするし、其れに彼奴、教会を放逐された後は、何でも駿河台するがだいのニコライなどへ出入ではひりするとか申すので、警視庁でも、露西亜の探偵ではあるまいかなど、内々注意して居られるとか聞きまして御座りまする」
 侯爵はしきりに首肯うなづきつ「左様さうぢやらう、松島、別段疑惑する点も無いでほ無いか――うぢや、我輩がはからずかる話を聞くと云ふも何かの因縁いんねんぢやらうから、一つ改めて我輩が媒酌人ばいしやくにんにならう、山木、貴公の娘にも必ず異存あるまいナ」

十六の四


 山木剛造は平身低頭「御念ごねんには及びませぬ、閣下、是迄これまでの所、何を申すも我儘育わがまゝそだちの処女きむすめで御座りまする為めに、自然決心もなり兼ねましたる点も御座りましたが、旧冬、わたくし出発の前夜もく利害を申聞け心中既に理会致して居りまする、兎に角私帰宅の上、挨拶致す様にと猶予を与へ置きましたる様の始末、帰京次第今晩にも判然致す筈で御座りまして――特に閣下が表面御媒酌下ださると申聞けましたならば、一身の名誉、一家の光栄、如何ばかり喜びませうか」
「ハヽヽヽ松島と篠田、こりや必竟ひつきやう帝国主義と、社会主義との衝突ぢや、松島、確乎しつかりせんとならんぞ」と侯爵は得意満面に松島を見やりつ「かし松島、才色兼備の花嫁を周旋する以上は、チト品行をつゝしまんぢや困まるぞ、此頃はしきりと新春野屋の花吉に熱中しをると云ふぢやないか」
 浜子は侯爵の顔さしのぞき「御前ごぜん、其の花吉と申す芸妓げいしやは先頃廃業したさうで御座んすよ」
 侯爵は打ち驚き「オ、廃業しをつた――新聞に在つたと、浜子、其方そちう新聞を見ちよるな、感心ぢや――松島、其の根引きぬしは貴公ぢや無いか、白状せい」
 松島のがり切つたる容子ようすに、山木は気の毒顔に口を開きつ「――実は、閣下、其れも矢張篠田の奸策で御座りまする」
「ナニ、花吉を篠田が落籍ひかせをつたと――フム、自由廃業、社会党のりさうなことぢや――彼女あれには我輩も多少の関係がある、不埒ふらちな奴、松島、篠田ちふ奴は我輩に取つても敵ぢや、可也よし、此上は山木のむすめは何事があるとも、必ず松島へらねば、我輩の名誉にかゝはるわい」
 意気軒昂けんかう、面色朱をそゝぎたる侯爵は忽然こつぜんとして山木を顧みつ「かし山木、君もナカ/\ひどい男ぢやぞ、どうぢや、ぽん子は相変らず奇麗きれいぢやろナ、今をつぼみの花の見頃と云ふ所を、突如だしぬけに横合から根こぎにするなどは、乱暴極まるぢやないか、松島のは社会主義に対する帝国主義の敗北、我輩のは金力に対する権力の失敗ぢや」
 頭掻きつゝ山木の困却の態に、侯爵は愈々興を催ふしつ「何程なんぼ花婿が放蕩はうたうして、大切だいじな娘が泣きをつても、苦情を申入れる権利があるまい、ハヽヽヽヽ山木、君の様なおやち機嫌きげん取つて日蔭の花で暮らさせるは、ぽん子の為めに可哀さうでならぬぢや」
 剛造は只だ赤面恐縮、
 大佐はニヤリと浜子を一瞥しつ「が、閣下、山木は閣下に比ぶれば、だ十幾つと云ふおとゝださうですよ」
 剛造ほツと一道の活路を待つ「大きに松島様のおほせの通りで、ヘヽヽヽヽ」
 侯爵も頭撫でて大笑しつゝ「ヤ、松島、最早もうしうとの援兵か、余り現金過ぎるぞ」
「品川々々」と呼ぶ駅夫の声と共に※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)きしやとまりぬ、
「オヽ、もう品川ぢや、浜子」と侯爵は少女の手をりて急がしつ「今夜は杉田の別荘に一泊するから失敬する」と言ひ棄てたるまゝ悠然いうぜん降り立ちて、やみうちへと影を没せり、
 窓にりて見送り居たる松島は舌打ちつ「淫乱爺いんらんおやぢ耄碌まうろくツ」

十七の一


 麹町かうぢまちは三番丁なる清風せいふう女学校には、今日しも新年親睦会、
 校友の控所にてられたる階上の一室には、盛装せる丸髷まるまげ束髪そくはつのいろ/\居並びて、立てこめられたる空気の、きぬの香にかをりて百花咲ききそふ春ともいふべかりける、
 中央の椅子にかゝりたる年既に五十にも近からんと思はるゝ麦沢教授、小皺こじわ見ゆる頬辺ほゝのあたりゑみの波寄せつ「皆さんが立派な奥様におなりなすつたり、阿母おつかさんにおなりなすつた御容子ごようすを拝見する程、私共わたしどもに取つてたのしみは御座んせんのね、之を思ふと私などはくまア腰がまがつて仕舞はないと感心致しますの――いゝエ、此頃は、もう、ネ、老い込んで仕様しやうがありませんの、自分ながら愛想が尽きる程なんですよ――う御見受け申した所、夏野様の旦那様は内務の参事官、秋葉様のは衆議院議員、冬田様のは日本銀行の課長さん、春山様のは陸軍中尉、蓮池様のは大学数授、何殿どなたも国家の大任ですねエ、桜井様のは留学中で御帰朝の後は医学博士、松村様のは弁護士さん――」
 と、次第に読み上げ行きしが、さて其次席につらなれる山木梅子が例の質素の容子ようすを見て、しば躊躇ためらひつ「山木様は独立で、婦人社会の為に御働おはたらきなさらうと云ふ御志願で、こと阿父おとつさんは屈指の紳商でいらつしやるのですから」
 と、相当なる理由を発見して頌徳表しようとくへうを呈したる時、春山と呼ばれたる陸軍中尉の妻女「あら、麦沢先生、山木様はくに御約束で、最早もう近々に御輿入おこしいれになるんですよ」と、黄色な声してくちれぬ、
左様さうですか」と、麦沢女教授はまるくしたるまなこを、たちまち細くしてみつくろひ、「山木様、まア、お目出度めでたう御座います、存じませんでしたもんですから、ツイ、失礼致しましてネ、――シテ、春山様、何殿どなた
「先生が御存ごぞんじなかつたとは驚きましたねエ」と春山は容子つくろひ「あの、海軍大佐の松島様へ」
「オヽ、あの松島さんへ」と女教授は驚きしが「実権海軍大臣などと新聞で拝見する松島さんへ――左様さうですか、山木様、貴嬢あなたにはほんとに御似合の御縁組ですよ」
 一座の視線は皆な沈黙せる梅子の面上に集まりぬ、
 松村と言へる弁護士の妻女は、独り初めより怪しげに打ちもり居たりしが「先生、わたしも山木様の御縁談の御噂おうはさをお聞き申しましたが、只今の御話とはこし違ふ様ですよ」
「エ、松村様、ぢや何殿どなたおつしやるのです」
 松村は梅子の顔恐る/\見やりながら「間違ひましたら山木様、御免下ださいな――あの、同胞新聞社の篠田様へ――」
 麦沢教授は反歯そつぱき出してハツハと打ち笑へり「松村様、何をおつしやる、山木様が何で彼様男あんなひとの所などへおでになるもんですか、わたしも何時でしたか、何かの席で篠田と云ふ人見ましたがネ、貴女あなたあれは壮士ですよ、どうして彼様あんな貧乏人と山木様が御結婚出来ますか」
「いゝえネ、先生、只だ私は山木様の教会と関係のある人から聞いたのですから――」
 と松村の穏かに弁疏するを、の春山はシヤちやり出でつ「わたし良人やどから聞きましたのです、現に松島様が御自分で御披露になりましたさうで、軍人社会では誰知らぬものも無いので御座います」
 いはく松島自身の披露、曰く軍人社会の輿論よろんしかして之を言ふものは、現に陸軍中尉の妻女、何人か又た之を疑はん「山木様はタシカ軍人はおきらひはずでしたがネ」「独身主義の御講義を拝聴した様にも記憶致しますが」「オールド、ミスも余り立派なものでありませんからね」、など、聞えよがしの私語さゝやきも洩れぬ、
 梅子が余りの沈黙に、一座いたくシラけ渡りぬ、
 扉開かれて、歴年の老小使、腰打ちかがめつ「山木様――菅原の奥様が五号室に御待ち受けで御座います」
 之を機会に梅子は椅子いすを離れつ「失礼」と一揖いちいふして温柔しとやかに出で行けり、

十七の二


 第五号教室のピヤノのわきに人待ち顔なる大丸髷おほまるまげの若き婦人は、外務書記官菅原道時の妻君銀子なり、扉しとやかに開かれて現はれたる美しき姿を見るより早く、嬉しげに立ち上がりつ、「オヽ梅子さん」
「銀子さん」
 相見て嫣然えんぜんひざつき合はして椅子いすに座せり、
「梅子さん、ほんとに久濶しばらくですことねエ、私、貴嬢あなたに御目にかゝりたくてならなかつたんですよ、手紙でとも思ひましたけれどもね、其れではどうやら物足らない心地こゝちしましてネ――今日も少こし他に用事があつたんですけれども、多分、貴嬢が御来会おいでになると思ひましたからネ、差繰つて参りましたの」
わたしもネ、銀子さん、此頃しきりに貴女あなたなつかしくて堪らないで居ましたの、いつそ御邪魔に上らうかと考へましたけれどネ、外交のことが困難むつかしいさうですから、菅原様も定めて御多用でいらつしやらうし、貴嬢あなたにしても矢張やつぱり御屈托でいらつしやらうと遠慮しましてネ」
「あら、梅子さん、いやですことねエ、――結婚すると御友達と疎遠になるなんて皆様仰しやるんですけれど、貴嬢まで矢張やつぱり其様事そんなことを仰つしやらうとは思ひも寄りませんでしたよ」
「銀子さん、左様さうぢやありませんよ」
 銀子は熟々つくづくと梅子のかほ打ちまもり居たりしが「梅子さん、貴嬢あなたはほんとに御憔悴おやつれなすツたのねエ、如何どうかなすつて――」
いゝえ、別に如何どうも致しませんの」
「けども、何か御心配でもおありなさらなくて」
いゝえ――心配と云ふ程のこともありませんがネ――」
「心配と云ふ程で無くとも、何か御在おありなさるでせう」
 と銀子は顔差し付けて声打ちひそめ「わたし貴嬢あなた御聴おきゝせねば安心ならぬことがあるんですよ――梅子さん、貴嬢、ほんとにの海軍の松島さんと御約束なさいまして――」
 梅子は目を閉ぢて無言なり、
「梅子さん、わたしネ、其を道時から聴きましても、貴嬢あなたから直接に聴かなければ安心が出来ないんですもの」
「銀子さん、貴女まで其様そんな風評を御信用下ださるんですか――」涙ハラ/\と膝に落ちぬ、
 銀子は梅子の手を握れり「梅子さん、貴嬢は私が、其様そんな風評を信用するものと御疑ひ下ださいますの――」
 梅子は握られし銀子の手を一ときは力をめて握り返へしつ「いゝえ、銀子さん、私は学校こゝに居た時と少しも変らず、貴嬢を真実の姉とおもつて居るんです」
「梅子さん、有難う――うしたわけか、初めて入学した時から貴嬢とは心が会つて、私が一つ年上ばかりに貴嬢の姉と呼ばれる様になつたことは、何程嬉しいとも知れないのです、道時が何か私の非難など致します時には、かし私のいもとに山木梅子と云ふ真の女丈夫ぢよぢやうぶが在りますよと誇つて居るのです――丁度ちやうど昨年の十月頃でしたよ、外交問題が八釜敷やかましくなり掛けた頃と思ひますから――道時が晩餐ばんさんの時、冷笑わらひながら、お前の御自慢の梅子さんも、到頭たうとう海軍の松島の所へ行くことになつたと言ひますからネ、私は断然之を打ち消したのです、梅子さんも御自分で是れならばと信じなさる男子ひとを得なすツたならば、すゝんで御約束もなさらうし、又たひても御勧め申すけれど、軍人は人道の敵だとまで思つて居なさる梅子さんが、ことに不品行不道徳な松島様などに御承諾なさるはずが無い、又たし其れが真実ならば必ず梅子さんから、御報知おしらせがある筈だと頑張ぐわんばつたのですよ、スルとくらしいぢやありませんか、道時が揶揄からかい半分に、仮令たとへ梅子さんからの御報知は無くとも、松島の口から出たのだから仕様しやうるまいなどと言ひますからネ、彼様あんな松島様などの言ふことが何の証拠になりますと拒絶はねつけりましたの、それツきり道時も何も言ひませんでしたがネ、昨日ですよ、外務省やくしよから帰りましてネ、服もあらためずに言ふんです、梅子さんの結婚談も愈々いよ/\進んで、伊藤侯が媒介者となられ、近日中に式を挙げらるゝさうだと、大威張にいふぢやありませんか、私には如何どうしても解らないのです、相手が松島様で、媒介が伊藤侯と云ふんでせう、梅子さん、貴嬢あなたが地獄の子にでも生れ変つて来なすつたのを見た上でなくては、私は仮令たとひ道時の言葉でも、信用することが出来ないんです」
「銀子さん、姉さん、――有難う――」梅子は目を閉ぢて涙をきぬ、

十七の三


「けどもネ、梅子さん、」と銀子はかたちあらためつ「貴嬢あなたまでも独身主義をとほさうと云ふ御決心なの」
 梅子は首肯うなづきつ、
わたしネ、梅子さん、貴嬢あなたの独身主義には、しんから同情を持つてるんですよ――貴嬢の家庭の御事情は私もようく存じて居るんですからネ――けれど私、梅子さん、怒りなすつちやいやよ、日常いつもさうおもふんですの、貴嬢の深い心の底にほんとに恋といふものがないんだらうかと――学校こゝに居た頃の貴嬢のことは私、く知つててよ、貴嬢の御心は、だ亡き阿母おつかさんおもうるはしききよき愛にあふれて、外には何物をもれる余地のなかつたことを――皆さんが各々てんでに理想のひとを描いて泣いたり笑つたり、うつしたりして騒いで居なさる時にでも、真正ほんたうに貴嬢ばかりは別だつたワ――他人様ひとさんのことばかり言へないの、私だつてもネ、梅子さん、笑つちや厭よ、道時のことでは何程どんなに貴嬢の御世話様になつたか知れないワ、私、貴嬢の御恩を忘れたこと有りませんよ――彼頃あのころの貴嬢の御面おかほは全く天女でしたのねエ――けれど梅子さん、今ま貴嬢を見ると、何処どことも無くうれひの雲がかゝつて、時雨しぐれでも降りはせぬかの様に、憂欝いううつの色が見えるんですもの、そりや梅子さん貴嬢ばかりぢやない、誰でも、としと共に苦労も増すにきまつて居ますがネ、だ私、貴嬢の色に見ゆる憂愁いうしうの底には、女性をんなの誰もまぬがれない愛情の潜んで居るのぢや無からうかと思ふんですよ――私などは斯様こんな軽卒がさつなもんですから、直ぐ挙動にあらはして仕舞しまひますがネ、貴嬢の様に強意しつかりした方は、自ら抑へるだけ、苦痛も一倍ひどいだらうと察しますの――」
 うつむける梅子に、銀子は身をスリ寄せつ「し、梅子さん、御気にさはつたならゆるして頂戴ちやうだいな、わたし只だ気になつて堪らないもんですから、心の有りたけを言ふのですよ――私だつて道時のことでは何程どんな耻づかしいことでも皆な打ち明けて、貴嬢に御相談したでせう、其れでこそ始めで姉妹きやうだいの契約のじつがあると言ふんですわねエ――梅子さん後生ごしやうですから貴嬢あなた現時いまの心中を語つて下ださいませんか」
「銀子さん」と良久しばしありて梅子は声ふるはしつ「四年前の貴女の苦痛を、今になつて始めて知ることが出来ました――」
く言うて下ださいました梅子さん」と銀子は嬉しげに「今度はわたしが先年の御恩返しに何様どんな奔走でも致しますよ――梅子さん、ツイ、御名を知らして下ださいな」
「銀子さん、貴女あなたの御親切は御礼の申しやうもありませんが、到底たうてい事情の許さないのですから、只だ此れだけは私に取つて秘密の一ツに許して下ださいませんか――貴女に打ち明けないと云ふのは、私も何様どんなに心苦しいか知れないのですけれど――」梅子は唇をんで声をみぬ、
 銀子はばし思案に暮れしが、独り心に首肯うなづきつ「――梅子さん、私知つてますよ」
 梅子は愕然がくぜんとして銀子を見たり、
「若し梅子さん、間違つてたなら勘弁して下ださいな――あの、篠田長二さんて方ぢやありませんか――」言ひつゝ銀子は凝乎じつと梅子を見たり、梅子は胸を押へてた只だうつむきぬ、
「梅子さん、私、それを或る方から聞いたのですよ――ほんとに不思議なものですねエ、自分では夢にも洩らしたことの無い秘密を、世間が何時いつか知つてるんですもの――たしかに宇宙の神秘ミステリーなのねエ――私、梅子さん、此の風説は心に信じたの、何故なぜと云ふに篠田さんて方の御性質や其の御行動が、如何にも貴嬢あなた嗜好しかうに適合してるんですもの――梅子さん、私はだ篠田さんをお見掛け申したことが無いのです、けども私それと無く道時に尋ねて見ましたの、道時はれ迄もく御目に懸るさうでしてね、大層めて居りましたの、恐るべき偉い人物であると敬服して居るんですよ――けれど梅子さん、私何程どれほど一人で心を痛めたかしれないワ――貴嬢の阿父おとつさんは篠田さんを敵の如く憎んで居らつしやるんですとねエ――まア、うしたらいんでせう――梅子さん」
「銀子さん、皆様みなさんは私の独身主義を全然まるで砂原の心かの様に思つて下ださいますけれど、――すべては神様が御承知です」梅子はハンケチもて眼をおほひつ「銀子さん貴女とお別れして三年の心の歴史を、私の為めに聞いて下ださいますか」

十七の四


「梅子さん、何卒どうぞ聴かして頂戴」
 梅子はばし心に談話の次序じじよ整へつ、「学校時代の私は、銀子さん、貴女御存ごぞんじ下ださいますわねエ――の一時バイロン流行の頃など、貴女を始め皆様みなさんしきりに恋をお語りなさいましたが、どうしたわけか私には、其の興味を感ずることが出来ませんでしたの、貴女に疑はれたことなども私く記憶して居りますよ――私も折々自分で自分を怪しんだこともありますの、私の心が不健全であるのでは無からうか、愛情と云ふものを宿どさない一種の精神病のではあるまいかと――けれど私は只だ亡き母をおもひ、慕ひ想像する以外に、如何いかにしても私の心を転ずることが成らなかつたのです――皆様能く男子の集会などへらつしやいましたわねエ――あら、銀子さん、貴女のこと言ふのぢやなくてよ――けれど私のたのしみは日曜に、青山の母の墓に参詣して、其れから永阪の教会へ行つて、母のいた洋琴オルガンの前にわることの外は無かつたのです、私の文章も歌も何時も母のことばかりなんですから、貴嬢の思想は余り単調だと、先生におこごとうけましたの――其れから学校を卒業する、貴女は菅原様すがはらさんいらつしやる、他の人々かたがたれ方向をおさだめになるのを見て、私も何が自分に適当した職分であらうかと考へたのです――貴女に御相談したことがあつたでせう――貴女も賛成して下だすつたもんですから、私は貧民の児女こどもを教育して見たいと思ひましてネ――亡母はゝの日記などの中にも同じ教育をるならば、貧乏人の児女じぢよを教へて見たいと云ふことが沢山たくさん書いてあるもんですからネ――其れを父に懇願したのです、けれど銀子さん、貴女も御承知の如き私の家庭でせう、父は私が実母はゝの顔さへ知らないのを気の毒に思つて居ます所から、余程私の願ひに傾いて呉れましたけれど……後には父から私に頼む様にして、其れを思ひ止まつて呉れよと言ふのですもの――私は、銀子さん其時そのとき始めて世の中に失望と云ふことの存在を実験したのです」
「銀子さん」と梅子は語をぎつ「其頃私は貴女あなたかつての傷心なげきに同情しましたの、何時でしたか、貴女は夜中に私の寄宿室へやいらしつておつしやつたことがありませう、――如何どうしても菅原様へくことが出来ないならば、私は一旦いつたん菅原様へ献げた此のきよ生命いのちの愛情を、少しも破毀やぶらるゝことなしにいだいたまゝ、深山幽谷へ行つてしま心算つもりだつて――」
「あら梅子さん」と銀子はかほあからめつ「貴女も思ひのほか、人が悪くつてネ――」
左様さうぢやありませんよ」と、梅子も思はず片頬かたほに笑みつ「只だ私も其時始めて、貴女と同じ様な痛苦を感じたと云ふ迄のことお話するんぢやありませんか――それで銀子さん、私は全然まるで砂漠さばくの中にでも居る様な寂寞せきばくに堪へないでせう、さうすると又た良心は私のはなはだ薄弱であることを責めるでせう、墓所はかまゐりましても、教会へ参りましても、私の意気地いくぢないことを叱る様な亡母はゝの声が聞えるぢやありませんか、あゝいつそ死んだならば、斯様こんな不愉快な苦境から脱れることが出来ようなどと、幾度いくたび思ひ浮んだか知れませんよ――う云ふいやな月日を送つて、夜も安然に夢さへ結ぶことなしに思ひ悩んで居た時へ私は――銀子さん――何とも知れない一種の感動に打たれましたの――」
 言ひぶる梅子の容子ようすに銀子は嫣然えんぜん一笑しつ「篠田さんに御会ひなすつたとおつしやるんでせうツ」手を挙げて思ふさま、ビシヤリと梅子のひざを打てり、
 梅子は真紅まつかになりてうつむきぬ、

十七の五


「それから梅子さん、如何どうなすつて」
 と銀子はホヽみつゝうながすを梅子は首打ち振りつ、
「私、いや、貴女あなたはおなぶりなさるんだもの――」
 上気せる美くしき梅子のあどけなきかほを銀子は女ながらにれと眺め「私が悪るかつたの、梅子さん、何卒どうぞ聴かして下ださいな」
「何だか可笑をかしいのねエ」と、梅子ははづかしげにホヽ笑みつ「一昨々年の四月の初め、丁度ちやうど桜の咲きめた頃なの、日曜日の夜の説教をなすつたのが――銀子さん、私、何だか――」
 とかほ背反そむくるを、銀子は声低くめて「其方が篠田様であつたんでせう」
 梅子は俯目ふしめ首肯うなづきつ「左様さうなんです、長く米国に留学なされた方で、今度永阪教会へ転会なされたと云ふんでせう、何様どんな人であらうと思つて居ますとネ、やがて講壇へお立ちになつたのが、筒袖つゝそできはめて質朴な風采ふうさいで、華奢はでな洋行帰の容子ようすとは表裏の相違ぢやありませんか、其晩の説教の題は『基督キリストの社会観』といふのでしてネ、地上に建つべき天国について、基督の理想を御述べになつたのです、今の社会の組織は全く基督の主義と反対の、利己主義を原則とするので、之を根本から破壊して新時代を造るのが、基督教の目的だとおつしやるのです――初め私は、現在の社会の罪悪を攻撃なさる議論の余り恐ろしいので、ほとん身体からだ戦慄ふるへる様でしたがネ、基督の平和、博愛、犠牲の御精神を、火焔ほのほの様な雄弁でおべなすつた時には、何故なにゆえとも知らず聴衆きゝての多くは涙に暮れて、二時間ばかりの説教が終つた時には、満場だ酔へる如き有様でした、――の時の説教は私「今でも音楽の如く耳に残つて居ますの――其晩は私、一睡もせずに考へましたの、そして基督の十字架の意味が始めて心の奥に理解された様に思はれましてネ、嬉しいとも、勇ましいともわからずに、心がゾク/\をどり立つて、思ふさま有りたけの涙を流したんですよ、インスピレーションと云ふのは、彼様あゝした状態さまを言ふのぢやないか知らと思ひますの、其れからと云ふもの、昨日迄の無情の世の中とはうつかはつて、たしかに希望のある楽しき我が身と生れ替つたのです、――そして日曜日が誠に待ち遠くて、教会が一層つかしくて――彼人あのかたの影が見えるとたゞ嬉しく、如何どうかして御来会おいでなさらぬ時には、非常な寂寞せきばくを感じましてネ、私始めは何のこととも気がつかなかつたのですが、或夜、何でも五月雨さみだれさびしい夜でしたがネ、余り徒然つれづれまゝ、誰やらの詩集を見てる時不図ふと、アヽわたしヤ恋してるんぢや無いか知らんと、始めて自分でさとりましたの、――」
 涙に満てる梅子の眼は熱情に輝きつ、ありし心の経過一時に燃え出でて恍然くわうぜんとして夢路を辿たどるものの如し、
 銀子もかつての実験と思ひくらべて、そぞろに同情の涙へ難く「梅子さん貴嬢あなたの御心中は私く知ることが出来ますの」
「けれど銀子さん」と、梅子はうなれつ、「其の心のうちの喜びもつかで、苦痛くるしみの矢はたちまち私の胸に立つたのです、其れは貴女も御聞き及びになりましたやうに、私の父と篠田さんとが、仇敵かたきの如き関係になつたことです、けれど――銀子さん、私は篠田様の御議論が至当だと思ひました、私は常に父などの営利事業に不愉快を感じで居たのです、決して道理にも徳義にもかなつたこととは思ひませんでしたが、篠田様の御議論を拝見して、始めてく父等の事業の不道理不徳義なる、説明を得たのでした、其れで私は、彼人あのかた良人をつとにすると云ふことは事情のるさないものと思ひあきらめ、又た一つには、私の様な不束ふつつかな者が、彼様あのやうな偉い方の妻となりたいなど思ふのは、身の程を知らぬものと悟りましてネ、其れに彼人は既に家庭の幸福など云ふ問題は打ち忘れて、只だひとへに主義の為めに御尽くしなさるのを知りましたものですから、私は心中に理想の良人と奉仕かしづいて、此身は最早もはや彼人の前に献げましたと云ふことをたしかに神様に誓つたのですよ」
 彼女かれは心押ししづめつ「ですから銀子さん、私の心は決して孤独ひとりではありません、――節操は女性をんなの生命ですもの、王の権力も父の威力も、此の神聖なる愛情の花園を犯すことは出来ません、――此頃父が九州からの帰途で、伊藤侯と同車したとやらで、侯爵が媒酌人ばいしやくにんになられるからと、父が申すのです、まア何と言ふけがらはしいことでせう、伊藤侯と云ふものは我々婦人に取つては共同の讐敵かたきではありませんか、銀子さん、私が松島様の申込を拒絶する為めに、仮令たとへ私の父が破産する如き不幸にひませうとも、私は決して節操をけがすやうな弱い心は起しません、父の財産は不義の結果です、私は富める不義の家に悩める心をいだいてあるよりも、貧しき清き家に楽しき団欒だんらんを望むで居るのです――銀子さん、何卒安心して下ださいな」
 梅子の美しきおもては日の如く輝けり、
 銀子は袖かき合はせて傾聴しつ「――梅子さん、貴嬢あなたほんとに幸福ネ――わたしうらやましいワ」
 其の語尾の怪しくもくもりを帯べるに、梅子はひとみこらして之を見たり、

十七の六


「銀子さん、私の何処どこうらやましいことがありますか、貴女こそ婦人中の最も幸福な方だと、私真実思ひますよ」
 答なき銀子の長き睫毛まつげには露の玉をさへ貫くに梅子はいよゝあやしみつ「貴女、何かおありなすつて――」
「梅子さん」と銀子は始めて涙を呑みつ「――男と云ふものはほんとにいやなものだと思ひましてネ、そりや女の方に足らぬ所がありもしませうけれど――」
「けれど銀子さん、道時さんに何もおありなさるんぢやないでせう」
「梅子さん、私、貴嬢あなただから何ももお話しますがネ――矢張有るんですよ――つまり、私の不束ふつつか故に、良人をつとに満足を与へることが、出来ないのですから、罪は無論私にありますけれど、――男もた余り我儘わがまゝ過ぎると思ひますの――梅子さん、是れは世界の男に普通のでせうか、其れとも日本の男の特性なのでせうか」
「けれど銀子さん、道時さんが不品行を遊ばすと云ふ様なことは無いでせう」
 銀子はうつむきて首を振りぬ、
 良久しばしありて銀子はホツと吐息しつ「梅子さん、ほんとに幸福と思つたのは、結婚後の一年ばかりでしたの、私の心が静実おちつくに連れて、次第に私を軽蔑けいべつする様になるんですよ――折々はネ、私の為めに余儀なく此様こんな結婚をして一生不幸を見たなんて、残酷ひどいことさへ言ふんですよ、――言はれて見れば私にも弱点があるから、言ひたいこともジツとこらへて居ますけれども、余り身勝手過ぎるぢやありませんかネ――それにネ、着物だの、何だのも、此頃ちかごろ斯様かう云ふのが流行だなんて自分で注文するんですよ、何処どこ流行はやりかと思へば、貴嬢、皆な新橋辺しんばしあたりのぢやありませんか――婦人をんな矢張やつぱり日本風の温柔おとなしいのがいなんて申してネ、自分が以前さかんに西洋風をとなへたことなど忘れて仕舞つて私にまで斯様こんな丸髷まるまげなどはせるんですもの、私耻づかしくて、口惜くちおしくて堪りませんの――」
 銀子は落る涙ぬぐひつゝ「それに梅子さんほかの方の妻君おくさんなど不思議だと思ひますよ、男子の不品行は日本の習慣だし、ことに外交官などは其れが職務上の便宜べんぎにもなるんだからなんて、平気でいらつしやるんですよ――梅子さん、私は嫉妬心しつとしんが強いと云ふのでせうか」
「嫉妬心――」と梅子も覚えず、顔あからめつ「如何いかなる人でも境遇につと云ふことは余程困難ですから、私は日本の様な不道徳な社会にる婦人は、とても男子をとこから報酬を望むことは断念せねばならぬと思ひますの、受くるよりも与ふるがむしろ幸福ぢやありませんか、貴女が全心を挙げて常に道時さんを愛して居なさるならば必ず慚愧ざんきして、昔日むかしまさる熱き愛憎を貴女に与へなさる時が来るにちがひありません」
「アヽ、梅子さん、其れが真理なんでせうねエ――」
「銀子さん、ほんとに貴女あなたこそ幸福ねエ――何故ツて?――貴女は愛を成就じやうじゆなされたぢやありませんか、現今いまの貴女は只だ小波瀾の中に居なさるばかりです、銀子さん何卒どうぞ、私を可哀さうだと思つて下ださい、――私の全心が愛のほのほで燃え尽きませうとも、それを知らせる便宜たよりさへ無いぢやありませんか、此のまゝがれて死にましても、アヽ気の毒なことしたとだに思つて貰ふことがならぬではありませんか――何と云ふ不幸な私の鼓膜こまくでせう、『我は汝を愛す』と云ふ一語の耳語さゝやきをさへ反響さすることなしに、墓場に行かねばなりませんよ――」
「梅子さん」突如銀子は梅子のひざに身を投げ出し、涙に濡れたる二つの顔を重ねつ「梅子さん――寄宿舎の二階からきらめく星をかぞへながら、『自然』にあこがれた少女をとめ昔日むかしが、恋しいワ――」
 ワツと泣きる声を無理に制せる梅子は、ヒシとばかり銀子をいだきつ、燃え立つ二人の花の唇、一つに合して、ばし人生のきを逃れぬ、
 遠音に響くピヤノとウァイオリンの[#「ウァイオリンの」はママ]節面白き合奏も、神の御園みそのの天楽と聴かれて、

十八の一


 国民の耳目じもく一に露西亜ロシヤ問題に傾きて、只管ひたすら開戦のすみやかならんことにのみ熱中する一月の中旬、社会の半面をかへりみれば下層劣等の種族として度外視されたる労働者が、年々歳々其度を加ふる生活の困苦惨憺こんくさんたんに、やうやくく目を挙げて自家の境遇を覚悟するに至り、沸騰ふつとうせんばかりの世上の戦争熱も最早もはやや、彼等を魔酔ますゐするの力あらず、彼等の心の底には、「戦争に全勝せよ、れど我等は益々くるしまん」との微風の如き私語さゝやきを聴く、去れば九州炭山坑夫が昨秋来増賃請求の同盟沙汰伝はりてより、同一の境遇に同一の利害を感ずる各種の労働者協同して、緩急相応ぜんとの要求日に益々激烈を加へ、四月三日を以て東京市に第一回労働者大会議を開くべきこととはなりぬ、
 其の中堅は社会主義倶楽部クラブにして、篠田長二の同胞新聞は実に其の機関たり、
 歯牙しがにも掛けずありける九州炭山坑夫の同盟罷工今やまさに断行せられんことの警報伝はるにおよんで政府と軍隊と、実業家と、志士と論客とな始めて愕然がくぜんとして色を失へり、声をつらね筆をそろへて一斉いつせいに之を讒謗ざんばう攻撃していはく「軍国多事のげきに乗じて此事をなすづ売国の奸賊をちゆうして征露軍門の血祭ちまつりせざるべからず――」

      *     *     *

 労働者の大会準備の為めに、今宵こよひしも上野鶯渓うぐいすだになる鍛工かじこう組合事務所の楼上に組合員臨時会開かれんとするなり、寒風はだを裂いて、雪さへチラつく夕暮より集まりたるもの既に三百余名、議長の卓上には書類うずたかく積まれて開会のベルを待ちつゝあり、
 此時階下の事務室、扉をとざして鳩首きうしゆ密議する三個の人影を見る、目を閉ぢて沈黙する四十五六とも見えて和服せるは議長の浦和武平ぶへい、眉をげて咄々とつ/\のゝしる四十前後とおぼしき背広は幹事の松本常吉、二人を対手あひて喋々てふ/\喃々なん/\するだ廿六七なる怜悧れいりの相、眉目の間に浮動する青年は同胞新聞の記者の一人吾妻俊郎あづまとしらうなり、
 松本はこぶしを固めてつくゑを打ちつ「実にしからん奴だ、其事は僕もあらかじめ行徳君に注意したことがあつたが、行徳君は無雑作むざふさに打ち消して仕舞しまつた――八ツ裂きにしても此のうらみれない」
かし、松本君、余りに意外な報告なので私は何分にも信用出来ませぬで――」と、浦和は瞑目めいもくのまゝ思案に沈めり、
「イヤ、浦和さん」と吾妻は乗出で「信用なさらぬのは御道理ごもつともです、く云ふ僕が最初は如何どうしても出来なかつたですから、――御承知の如く僕は従来じらい篠田をほとんど崇拝して居たんでせう、彼の秘書官の如く働くので、社員中に大分不平嫉妬しつとの声がさかんなのです、けれど一身の毀誉褒貶きよはうへんごときは度外にきて、だ篠田の為めに一臂いつぴの労をることを無上の満足として居たのです――しかるに段々彼の内状をつまびらかにすると、実に其の裏面に驚くべき卑劣ひれつの野心を包蔵することがいさゝうたがひないので――御両君、僕は実に失望落胆の為めほとんど発狂するばかりに精神を痛めたです――乍併しかしながら更に退しりぞいて考へると、れはいたづらに愁歎しうたんして居るべき時でない、僕の篠田を崇拝したのは其の主義に在るのだ、彼が主義の仮面をかぶつて、かへつて我等同志を売ることを目的として居る売節漢、な最初からの間諜かんてふであると知つた以上は、断然我が主義の為めに之を斬らねばならぬと決心したです、故に僕は今夜あへて両君に密告して、鍛工組合の名を以て此の売節奴ばいせつどを制裁せらるゝことを希望するです」
 明朗なる音声もて滔々たう/\述べ来れる吾妻は、悲憤の涙を絞りつゝ「両君――篠田が山木剛造の娘に恋着して、其の二万円の持参金に眩惑げんわくして、資本党の門に降参したことは、最早や一点のうたがひもない――彼は今度の労働者大会を内部からこはして、其れを結納ゆひなふとして結婚式を挙げるのだ――彼は我々労働者に取つて獅子身中の虫であるツ――」
「僕は吾妻君を信ずる、僕は初めから彼を疑つて居たのだ、今夜もヅウ/\しく来て居るのだ、――可也よし
 と言ひ棄ててち上らんとする松本を、しばしとばかり浦和は制しつ「失礼の様ですが私にはだ理解が出来ません」

十八の二


「僕が篠田の誣告ぶこくでもすると云ふんですか」と、吾妻は憤然ふんぜんとして浦和に詰め寄る、
や、誣告ぶこくなど申すのぢやありませんがネ」と浦和はしとやかに「随分誤解と云ふこともあるものですから――篠田さんが主義を売つて山木の娘と結婚なさるなどとは何分にも想像が着きませんよ、第一、篠田様は山木の為に教会の方を除名されなすつた程ですからナ」
「サ、其れが」と吾妻はセキ込み「君、魂胆こんたんの在る所です、其れ程に仕組まねば我が同志を欺くことは出来ないのだ、現に見給へ、既に除名とまつて居る教会の親睦会しんぼくくわいへ、かも山木の別荘で開いた親睦会へ出席したのは何故なぜであるか、ことに其日山木の娘の梅子と云ふのと密会したのは何故であるか、其上に山木の長男むすこの剛一と云ふのなどは常に篠田の家へ出入でいりして居るでは無いか――ことに君等は知らぬであらうが、彼が表面非常な貧窮と質素とを装ふにかゝはらず、其の実は驚くべき華奢贅沢きやしやぜいたくをして居るのだ、彼を指して道徳堅固な君子だなど思ふのは、其の裏面を知らない者の買ひかぶりである、僕の如きも現にあざむかれて居た一人いちにんのだ、そりや君、酒は飲む放蕩はうたうはする、篠田の偽善程恐るべき者は無い、現に其のおほふべからざる明証の一は、芸妓げいぎの花吉を誘拐いうかいして内々自分の妾にしたのでも判つて居るぢやないか」
左様さうだ/\、がうも疑ふ所は無い」と松本は愈々いよ/\激昂げきかうしつ「現に今度の九州炭山の一件でも知ることが出来る、本来ならば篠田が自身に出掛けておほい煽動せんどうせにやならないのだ、然るに自分は東京に寝て居て、少しばかり新聞でお茶を濁してるんぢや無いか、僕は最初から彼奴きやつが嫌ひだ、耶蘇ヤソばかり振り廻はしやがつて――」
 浦和は眼を閉ぢて沈黙す、
 吾妻は声を打ちひそめて「君、新聞社内では既に篠田の売節を誰一人疑ふものは無いのだ、だ余り目立たずに彼を放逐しなければ社其物の名誉に関するから、非常に苦心してるのサ、――彼が内々消費する金銭のことを考へるに、尋常のもので無いことは明白だ、多分露探ろたんぢや無からうかと云ふ社内の輿論よろんだがネ、――浦和君、僕の心事は君も知つて居るぢやありませんか、僕が何を好んで我が先輩たり恩人たる彼の不利をはかるもんですか、大抵推察して呉れ給へ――」
「モウ、判つたよ、是れ程の証拠があれば充分だ、吾妻君、し君が無かつたならば、我党は非常な運命におちいる所であつた」と、松本は昂然かうぜんとして席を離れ「浦和君、時間が余程過ぎた」と急がしつ、ガチリ、ぢやうを解きて廊下に出でぬ、
 浦和はうでこまぬきたるまゝ其後を追へり、

      *     *     *

 やゝ待ちあぐみたる会員は急霰きふさんの如き拍手をもつて温厚なる浦和議長を迎へたり、議長はおもむろに開会の辞を宣して、今や書記をして今夜の議案を朗読せしめんとする時「議長ツ」と、大声に叫びて幹事松本常吉はち上がりつ「本員は議事に入るにさきだちて、一個の緊急動議を提起せねばなりませぬ」
 彼はふくろふの如き鋭きまなこを放つて会衆を一睨いちげいせり、満場の視線は期せずして彼の赤黒き面上に集まりぬ、
 松本はがい一咳いちがいしつ「我が鍛工かぢこう組合の評議員篠田長二君の身上について、一個の動議を提出するんですから、先づ同君にむかつて暫時退席を要求致します」
 議席はさわぎだてり、我々は真実を以て交はる者なれば、他の議会に見る如き忌避きひ或は秘密等のいとふべき慣例を用ひざるべしとの議論さかんなりしが、篠田はやがて起ち上がりつ、
「我輩も実に其議論の主張者でありますが、既に発議者よりの要求ある以上は、発議者をして充分に言はんとする所をことごとくさしめん為め、つゝしんで自ら退席致します」一揖いちいふして出で去れり、
 其の後影を一睨いちげいしたる松本「諸君――わが組合が尊敬して評議員の名誉をさへ与へたる篠田長二君が、何ぞはからん、かへつて私利私慾の為めに我々の権利と幸福を売つて資本家党に降服したる証拠をとらへたのである」
 松本は議席を見過はせり、
 会衆は再び騒ぎ立てり「畜生」「馬鹿野郎」「除名せよ」「斬つて仕舞へ」等の声は一隅より囂々がう/\と起れり「誣告ぶこく」「中傷」「証拠を示せ」等の声は他の一隅より喧々けん/\と起れり、
「御指揮に及ばず、其証拠を御覧に入れるのです」と松本は手を揚げて之を制しつ「彼は愈々いよ/\山木剛造の長女梅子と結婚の内約とゝのひ、伊藤侯爵が其媒酌人ばいしやくにんたることを承諾したのである、彼は九州炭山坑夫同盟の真相をことごとく大株主にして其重役なる山木に内通して、予防策を講ぜしめ、又た政府のいぬとなつて社会主義倶楽部及び我が組合の運動消息をば、一々府政へ密告して居るのである、さいはひにして彼の内状を最もつまびらかにする、もつとも信用すべき人の口より其の報道を得たのは、天実に我々労働者の前途を幸ひするものと信ずるのである、よつかくの如き獅子身中の虫を退治せんが為めに本組合ただちに彼を除名することの決議をして貰ひたい――緊急動議の要旨はれである」
 松本は昂然かうぜん会衆を見廻して、自席に復せり、満場相顧みて語なし、
 議長浦和はおもむろに其席に起てり「松本君の動議は実に驚くべき問題でありまして、自分においてはおほいに心をくるしめて居りますが、きましては――」
 議長の言なかばなるに、「議長」とよんで評議員席に起立したるは、平民週報主筆行徳秋香かうとくあきかなり、彼は先刻来憤怒の色を制して、松本を睨視げいししつゝありしが、今は最早もはや得堪へずして起ちたりしなり、満場呼吸いきを殺して彼を見たり、彼は篠田と最も親交ある一人なればなり、
「松本君の只今の御説明は、我々の耳には何等の証拠をも与へたるものとは聞えない、我輩も篠田君の親友で、おそらく満場の諸君よりも同君の内状にくはしいであらうと思ふ、我輩は最も親交ある篠田君の一友人として、松本君の指摘されたる事実は、ことごとく無根の捏造説ねつざうせつであることを断言します――そもそも此の誣告ぶこくを試みたる信用すべき人物とは、何物でありますか」
 松本は猛然として、起てり「行徳君は僕を誣告者ぶこくものと言はれた、しからん、――諸君、僕が誣告者であるかいなやは、公明正大なる諸君の判断に一任します、僕は只だ良心の命ずる所にしたがつて此事を言ふのである」
「証人の名を言へ」と呼ぶものあり、
 声する方を松本はにらみつ「証人の名を言ふに及ばぬ、し諸君が僕を信用するならば、あへて証人の姓名を問ふに及ばぬではないか」
 紛々たり、擾々ぜう/\たり、
「審判なしに宣告を下だすことは如何いかなる野蛮の法律もるさぬ」と一隅に叫けぶものあり、
 松本はニヤリと冷笑を浮かべつゝ満場を見渡みわたせり「諸君は証拠を要求せらるゝが、証拠を示さぬのは必竟ひつきやう彼に対する恩恵だ――諸君は彼を道徳堅固なる君子と信仰せられる様だ、恐ろしい君子があつたもんだ、芸妓買げいしやかひつて、自由廃業をさせて、借金を踏み倒ほさして、自宅うちへ引きずり込んで、其れで道徳堅固な君子と言ふんだ、成程耶蘇教ヤソけうと云ふものはらいもんだ」
 ヒヤ/\、大ヒヤなど頓狂とんきやうなる叫喚けうくわんは他の一隅にき上がれり、
 笑声ドツと四壁を動かしつ、

十八の三


 此の光景ありさまて取つたる松本常吉「議長、満場別に異議ないやうです、採決を願ひませう」
 憂色、おもてに現然たる議長が何やらんくちを開かんずる刹那せつなノーツ」と一声、巨鐘の如く席の中央より響きたり、よ、菱川硬二郎は夜叉やしやの如く口頭よりほのほを吐きつゝ突ツ起ちてあり、
「君等は真面目に其様そんなことを言つとるのか――労働者は無智で軽忽けいこつで、離間者の一言でこしもかしも出来るもんだと云ふことを発表しようとするのか――我々の周囲には日夜探偵の居ることを注意し給へ――な、我々の間にも或は探偵が潜伏しとるかも知れないのだ」
「誰を探偵だと云ふのか、菱川君」と松本は疾呼しつこ大声たいしやうす、「僕がそれを答へる前に、松本君、君はほ弁明の義務をんどるぢやないか、君は誰の言を信じて篠田君を探偵と云ふのだ、売節漢と云ふのだ」
「イヤ、其問題は既に経過した、其れとも君は此の松本を指して虚言者と云ふのか」
 菱川の太き眉は釣り上がれり「其れが果して日本の労働者の言語なのか、日本の労働者は三百代言にも劣つた陰険な心を持つとるのか、――君は必ず或者から固く名前を秘する様に頼まれたのだらう、君が信用する或者とは、必ずにくむべき探偵であるに相違ない」
 松本は沸騰ふつとうする怒気に口さへ利かぬばかり、
 行徳は静に言ふ「諸君は少こし考へたならば、篠田君が果して我々同志を売るものか如何どうか知れるではないか、――同君が賤業婦人を救ひ出すのは珍らしいことではない、加之しかのみならず諸君は之を称讃してうるはしき社会的救済事業と認めて来たでは無いか、又た四月の大会の為め、九州炭山坑夫の為め、経費募集のことの為めに苦心焦慮せうりよして居らるゝことは、諸君も御承知のはずでは無いか――」
「彼が募集し得た金を握つて敵陣へ降参する魂胆に、注意して貰ひたい」と松本はさへぎりぬ、
「君等は猜疑心さいぎしんの為めに自殺するのか」流石さすがに行徳もつひ赫怒かくどせり、
 頭を振りつゝ松本はをどり上つて叫ぶ「諸君はよろしく自ら決断せねばならぬ、諸君は果して僕を信ずるか、信じないか」
「労働者諸君、諸君は共和民主々義をてて擅制せんせい君主々義に従ふのか」と、手を振つて菱川は号叫がうけうす、
「勿論、我々労働者は社会主義の空論を排斥するのである、非戦論なんて云ふ書生論にき込まれるものとは違ふのである、我々鍛工かぢこうの多数は現に鉄砲を造り軍艦を造つて飯を食つて居るものである」
 松本は絶叫せり、拍手喝采はくしゆかつさいの響は百雷落下と凝はれぬ、
 今は議長も思ひきはめて起ち立がれり「議長に於きましては、此の重大問題を即決致しますることは、少こしく軽率けいそつの様にも考へます、よつて五名の調査委員を挙げて、一応調査することに致し度存じます、御異議が無くば――」
 松本が周章あわてて起たんとする時賛成々々の声四隅に湧出わきだして議長の意見を嘉納しおほせり、
「あゝ、大事去れり」と行徳は涙をふるつて長大息ちやうたいそくせり、
 菱川は髪逆立さかだてて怒号せり「我が労働者いまだ自覚せず」

      *     *     *

 階下の一室に兀座こつざせる篠田は、にわかに起る階上の拍手に沈思のまなこを開きぬ、
 すきる雪風に燈火明滅、

十九


 正午にはのあり、
 同胞新聞の楼上なる、編輯室へんしふしつ暖炉ストウブほとりには、四五の記者の立ちて新聞をさるあり、椅子にりて手帳をひるがへすあり、今日の勤務の打ち合はせやすらん、
 足音あわただしく駆け込み来れる一人「諸君、――実に大変なことが出来しゆつたいした」
 其声は打ちふるへて、其かほは色を失へり、彼は吾妻俊郎なり、
「何だ、君、そんな泥靴のまゝで」と、立ちて新聞を見居たる一人は眉をひそめぬ「電車でも脱線したと云ふのか」
「馬鹿言つてちや困まる、我社の危急存亡に関する一大事なのだ、我々は全然まるで、篠田の泥靴に蹂躙じうりんされたのだ――」吾妻の両眼は血走りて見えぬ、
「ナニ、篠田さん如何どうなされたと云ふんだ」と、居合せる面々、異口同音に吾妻を顧みたり、
 吾妻は目を閉ぢ、歯を噛締くひしめて、得堪へぬ悲憤を強ひておさへつ「諸君、僕は実に諸君に対する面目が無いです、――従来これまで僕は篠田先生に阿媚あびするとか、諂諛てんゆするとかツて、諸君の冷嘲熱罵を被つたですが、僕はだ先生を敬慕する余りに、左様な非難をも受くることになつたのです、然るに諸君、僕は全くあざむかれて居ました――」吾妻はハンケチもて眼をおほひつ「僕が諸君の罵詈ばり攻撃をさへ甘んじて敬愛尊信した彼は――諸君、――売節漢であつた、うたがひもなき間諜かんてふであつた」
間諜かんてふツ」と一人は吾妻をにらめり、
「馬鹿ツ」と他の一人ほ冷然微笑せり、
 一同の吾妻の言に取り合はざるに、彼は悄然せうぜんとして落涙せり「アヽ、諸君、――僕の言を借用なさらぬは、必竟ひつきやう僕が平素の不徳に依るですから、むを得ないです、が、先生を間諜かんでふと認めたのは、僕の観察では無い、先生とは最も密接の関係ある鍛工かぢこう組合が調査の結果、昨夜の臨時総会において満場異存なかつた決議です――」
「ナニ、鍛工組合が決議した――吾妻、又た虚言うそいちや承知せぬぞ」
「騒いぢやかん、――の松本が例の猜忌さいきと嫉妬の狂言なんだらう、馬鹿メ」
 吾妻は目を挙げて「左様さうです、し松本等の主張ならば、僕も驚きは致しませぬ、しかるにの温良なる、むしろ温柔のきらひある浦和武平が、涙をふるつて之を宣言したのです、余程正確なる証拠を握つて居るらしいです、昨夜はかく、調査委員をえらんで公然之を審判すると云ふことにして散会したさうですが――聞く所に依れば、先生も昨夜は真ツ青になつて、一言の弁解も無つたさうです、僕はかる不祥を聴かねばならぬことを、我が耳の為めに悲むです――」彼はかほおほうて歔欷きよきしたり、
 一同瞑目めいもくせり、拱手きようしゆせり、沈思せり、疑団の雲霧はやうやく彼等の心胸しんきように往来しめけるなり、
 階子はしごに足音聞こゆ、疑ふべくもあらぬ篠田の其れなり、彼は今ま此の疑雲猜霧ぎうんさいむうちに一歩一歩静に足を進めつゝあるなり、
 皆なひとみを扉に集めぬ、
 扉は開かれぬ、
 篠田は入り来りぬ、
 一同期せずして一歩遠ざかりつ、唇を結べるまゝひややかに目礼せり、

      *     *     *

 翌朝の都下新聞紙には左の如き同一の記事を掲げられぬ、何人が通信したりけん、
●社会党と露犬 同胞新聞主筆篠田長二が、外に清貧を仮装しつゝ、内実奢侈放逸しやしはういつふけれることは其筋において注意する所なりしが、鍛工組合に放ても内々調査したりし結果、一昨夜を以て臨時総会を開き、彼に露探の嫌疑けんぎ充分なりとの故を以て審判委員五名を選定せり
「机の塵」「隣の噂」など云へる戯文欄に於て揶揄やゆ、冷評を加へしも少からず「基督教徒キリストけうとの非国家的思想」テフ大標題を掲げて、基督教は売国教なる所以ゆゑんを痛論せる仏教主義の新聞もあり、

二十


 山木剛造の玄関には二輌の腕車わんしや、其のながえそろへて、主人あるじを待ちつゝあり、
 化粧室なる大玻璃鏡すがたみの前には、今しも梅子の衣紋えもん正して立ち出でんとするを、其の後姿仰ぎてありし老婆の声湿うるませつ「では、お嬢様、どうでもいらつしやるので御座いますか――斯様こんなこと申したらば、老人としより愚痴ぐちとお笑ひ遊ばすかも知れませぬが、何となく今日こんにちに限つて胸騒ぎが致しましてネ――」
 梅子は玻璃鏡かがみに映れる老婆の影をながめて微笑しつ「婆や、私だつて、今日此頃外へ出るなど少しも好みはしませんがネ、折角せつかく母様がお誘ひ下ださるのだから、御伴おともするんです――けれど、婆や、別に心配なこと無いぢやないかネ」
「いゝえ、お嬢様、上野浅草へいらしやるのを、心配とも何とも思ひは致しませんが――帰途かへり大洞おほほら様の橋場の御別荘へ、お寄りなさるとおつしやるぢや御座いませんか」
左様さうよ」
「サ、それが、お嬢様、何となく心懸こゝろがかりなので御座います」
何故なぜ――婆や」
 老婆は垂頭うなだれことばなし、良久しばらくありて「近頃、奥様の御容子ごようすが、何分どうも不審なので御座いますよ、先日旦那様が御帰京おかへりになりました晩、伊藤侯がはからずも媒酌人ばいしやくにんつて下ださるからとのお話で、大勲位の御媒酌なんて有難いことは無いと、奥様も大層な御歓喜およろこびいらしつたで御座いませう、其れをお嬢様、貴嬢がキツパリ御断おことわりになつたもんですから……御両所おふたりの御立腹は如何いかがで御座いました、旦那様は随分他人ひとにはひどくおあたりになりましても、貴嬢あなたさまばかりには一目いちもく置いていらしたのが、の晩の御剣幕たら何事で御座います、父子おやこの縁も今夜限だと大きな声をなすつて、今にも貴嬢あなた打擲ちやうちやくなさるかと、お側に居る私さへ身がふるひました――それに奥様の悪態を御覧遊ばせ、恩知らずの、人非人にんぴにんの、なんのと、ても口にされる訳のものでは御座いませぬ、私でさへくちを引ツ裂いてあげたい程に思ひましたもの、貴嬢あなたさま能く御辛抱なされました――其れがマア、不審では御座いませぬか、一週間つや経たずに、貴嬢をお連れなすつての宮寺みやでらまゐり――貴嬢をおれ遊ばして奥様の御遊山ごゆさんは、私初めてお見受け申すので御座いますよ、是れはお嬢様、上野浅草はかこつけで、大洞様の御別荘が目的めあてに相違御座いません、今夜の橋場が、私、誠に心懸りで――どうやら永い訣別おわかれにでもなる様な気が致しまして――」
 梅子はジツと瞑目めいもくしてありしが「婆や、其れ程迄に思つてお呉れのお前の親切は、私、嬉しいともかたじけないとも言葉には尽くされないの、けれど私、何も今日しにに行くと云ふぢやなし」
 いさゝ躊躇ちうちよせる梅子は、思ひ返へしてホヽと打ち笑み「そりや、ばあや、お前が日常いつも言ふ通り、老少不常なんだから、何時いつ如何どんなことが起るまいとも知れないが、かし左様さう心配した日には、うちの中にも居られなからうぢやないかネ、――多分遅くならうと思ふから婆や、何卒どうぞ先きに寝てお呉れよ、寒いからネ」
 老婆は歔欷きよきして言語ことばなし、
 開きかゝりてありしふすまあひより下女の丸き赭面あからがほ現はれて「お嬢様、奥様が玄関で御待ち兼ねで御座んす」
「オ、左様さうでせうネ」と急ぎ行かんとする梅子の袂に、老婆はすがりつ、「――お嬢様、――お慎深つゝしみぶか貴嬢あなたさまへ、申すもクドいやうで御座いますが――何卒お気を着けなすつて下さいまし――御待ち申して居りますよ――」
 仰ぎたる老婆のかほは、滲々さん/\たる涙の雨にれぬ、
 軽く首肯うなづきたる梅子も、絹巾ハンケチに眼をおほひぬ、

      *     *     *

 二輌の腕車わんしやは勇ましくせ去れり、

二十一の一


 上野なる東照宮の境内を遠近をちこち話しながら歩を移す山木のお加女かめと梅子、
「ネ、梅子、左様さうでせう、だから余ツ程考へなけりやなりませんよ、何時いつまでも花のさかりで居るわけにはならないからネ、お前さんなども、いづれかと言へば、最早もう見頃を過ぎたとしですよ、まア、縹緻きりやういから一ツや二ツくしても居れようがネ――私にしてからが、だお前さんの行末を思へばこそ、かうしてウルさく勧めるんだアね、悪く取られて、たまつたもんぢやありませんよ」
阿母おつかさん、勿体もつたいない、悪く取るなんてことあるものですか」
「けれど言ふことを聴いてお呉れでなきや、悪るく取つておいでとしか思はれませんよ」
 樹間隠このまがくれに見ゆる若き夫婦の盛装せるが、むつましげに語らひ行く影を、ツクヅクとお加女は見送りながら「梅子、あれを御覧なさい、まアほんとに可愛らしい、雛人形ひなにんぎやうの様だよ――私も早くお前さんのあゝした容子ようすを見たいと、其ればつかりが、親のたのしみだアね、大きな娘を何時いつまでも一人で置いては、世間体も悪るし、第一草葉の蔭のお前の実母おつかさんに対して、私が顔向けなりませんよ――まア御覧なネ、あの手を引き合つて、うれしさうに笑つて、――男でも女でもあれが一生の極楽世界と云ふもんですよ――羨ましいとは思ひませんかネ」
 ジロリと、お加女は横目に見やれり、
 梅子は他方をながめつゝあり、
「あゝ、恐ろしいお嬢様だこと――」、お加女は目に角立てて独言ひとりごとしぬ、
 二人は無言のまゝ長き舗石しきいしを、大鳥居の方に出で来れり、去れど其処には二輌の腕車くるまを置き棄てたるまゝ、何処いづく行きけん、車夫の影だも見えず、
どうしたつてんだねエ――日がモウ入りかけてるのに、仕様しやうがあつたもんぢやない、チヨツ」と、お加女は打ち腹立てて、まともなく当り散らしつゝあり、
 通りかゝれる職人体しよくにんていの三人連、
「イヨウ、素敵な別嬪べつぴんが立つてるぢやねエか――いけはたなら、弁天様の御散歩かと拝まれる所なんだ」
束髪そくはつで、眼鏡で、大分西洋がつたハイカラ式の弁天様だ、海老茶袴えびちやばかま穿いてねい所が有難い」
「見ねイ、弁天様の御側に三途川原さんづがはらの婆さんも御座るぜ」
いづれ一度は御厄介ごやつかいになりますが聞いてきれらア、ハヽヽヽヽ」「ハヽヽヽヽヽヽ」
 お加女は顔をしかめつ「車夫は何処へ行つて仕舞しまツたらう」
 日は既に森蔭に落ちたる博物舘前を、大きなる書籍のつゝみ、小脇に抱へて此方こなたに来れるは、まがうべくもあらぬ篠田長二なり、図書舘よりの帰途にやあらん、
 梅子ははるかに其れと見るより、サとおもてあからめつ、
 折柄竹の台のかたより額の汗ぬぐひもへず、飛ぶが如くに走せ来れる二人の車夫を、お加女はガミ/\と頭からのゝしりつ、ヤヲら車に乗り移りしが、あたかも其前に来れる篠田は、梅子と相見て慇懃いんぎんに黙礼し、又たスタ/\と歩み去る、
「梅子、早くおしなネ」と言ひつゝ、お加女のチヨイと振り向く時、篠田の横顔、其目に入りしにぞ、「悪党ツ」と口のうちにツブやきつ、恍然うつとり立てる梅子を、思ふさまグイとにらみ付けぬ、

二十一の二


 都会の紅塵こうぢんを離れ、隅田の青流にのぞめる橋場の里、数寄すきらせる大洞利八おほほらりはちが別荘の奥二階、春寒き河風を金屏きんぺいさへぎり、銀燭の華光燦爛さんらんたる一室に、火炉をようして端坐せるは、山木梅子の母子おやこなりけり、
 珍客接待の役相勤むるは大洞の妻のお熊、黒く染めたる頭髪かみあぶらしたたるばかりに結びつ「加女さん、今年のやうにかんじますと、老婆としより難渋なんじふですよ、お互様にネ――梅子さんの時代が女性をんなの花と云ふもんですねエ――」
「でも姉さんは一寸ちつと御変おかはりなさいませんがネ、私ツたら、カラ最早もう仕様しやうが無いんですよ、芳子などに始終しよつちゆう笑はれますの――何時の間にう年取つたかと、ほんとに驚いて仕舞ひますの」とお加女は目を細くして強ひて笑ひつ、
「お客来きやくらいの所へあがりまして、伯母さん、飛んだお邪魔致しましてネ」と梅子の気兼ねするに「ほんとにねエ」とお加女も相和す、
「何の、貴女あなた」と、お熊は刺しつ「日常しよつちゆういらつしやるお客様でネ、家内同様の方なんですから、気兼も何もありやしませんよ、山木の御家内なら、いつ同席いつしよに御馳走にならうつておつしやるんですよ、梅子さん、磊落きさくな方ですから、何卒御遠慮なくネ」
 カラ/\と打ち笑ふ男の声聞えて、主人の利八と物語りつゝ、階子はしご上りきたるは、今しもお熊のうはさせる其人なるべし、
 ふすま手荒らに開かれて現はれたる一丈天、其のきぬの身に合はず見ゆるは、大洞おほほらのをや仮り着せるならん、既に稍々やゝ酒気を帯びたるかほ燈火ともしびに照らしつ、立ちたるまゝに「ヤア、山木の内君――新年先づ御目出たう」
「まア、何殿どなたかと思ひましたら、貴所あなたさまですか――姉さん、ひどいことねエ、知らして下ださらぬもんですから、飛んだ失礼致したぢや御座んせんか」と、お加女はホヽとゑみ傾け「あら、わたしとしたことが、御挨拶ごあいさつも致しませんで――どうも旧年中は一方ならぬ御世話様に預りまして、何卒相変りませず」
「イヤ、左様さう固く出られるとおほいに閉口する――お互様ぢや」と、客は無頓着むとんちやくに打ち笑ひ「知らぬ方でもないので、御邪魔に来ました」
「さア、何卒どうぞ是れへ」とお加女が座をいざりて上座を譲らんとするを「ヤ、床の置物は御免ごめんかうむらう」と、客はかへつて梅子の座側に近づかんとす、
 お熊もきようがりて「其の方がよう御座んす、どうせ、貴所あなた家内うちの人も同様でいらつしやるんですから」と言ふを「成程、其れが西洋式でがすかナ」と利八も笑ふ、
 梅子の左側に客はドツかと座に就きぬ「令嬢失礼致します」
 梅子は慇懃いんぎんに黙礼せるのみ、
「オヽ、梅子」とお加女は顧み「お前さんはだおつに御目にかゝるんでしたネ、此方このかた阿父おとつさんの一方ならぬ御厚情にあづかる、海軍の松島様で――御不礼ごぶれい無い様に御挨拶ごあいさつを」
 さてはと梅子の胸とどろくを、松島はづ口を開きつ「我輩が松島と云ふ無骨漢ぶこつものです――御芳名は兼ねて承知致し居ります」
 去れど梅子はだ重ねて黙礼せるのみ、
 如才なき大洞は下婢が運べるさかづき取つて松島に差しつ「ぢや、貴所あなたさまからお始め下さい」
「梅子、お酌を」と、お加女はうながしつ、

二十一の三


「御酌を」とうながされたる梅子は、うつむきたるまま、微動みゆるぎだにせず、
 再び促がされても、依然たり、
どうしたんだねエ、此のは」と、お加女かめこらへず声荒ららぐるを、お熊はオホヽと徳利てうし取り上げ、
「なにネ、若い方は兎角とかく耻づかしいもんですよ、まア其のうちが人も花ですからねエ――松島さん、たまには、老婆おばあさんのお酌もお珍らしくてう御座んせう」
老女としよりの方が実はこはいのサ」と、松島の呵々大笑かゝたいせうして盃を挙ぐるを、「まア、お口のお悪いことねエ」とお熊も笑ひつ「何卒松島さんお盃はお隣へ――」
左様さうですか、――かし失礼の様ですナ」と、美しき梅子の横顔、シゲ/\見入りつ「では、山木の令嬢」と小盃ちよくをば梅子に差し付けぬ、
「梅ちやん、松島さんのおさかづきですよ」と徳利差し出して、お熊のうながすを、梅子は手をひざに置きたるまゝ、目を上げて見んとだにせず、
「梅子、頂戴ちやうだいしないのかね」と、お加女は目に角立かどたてぬ、
「かう云ふ不調法もので御座いましてネ、誠に御不礼ばかり致しまして」
「なにネ、お加女さん、御婚礼前は誰でもうなんですよ」と、お熊はバツを合はして「ぢやア梅ちやんの名代みやうだいに、松島さん、私が頂戴致しませう」
「こりや奇麗きれいな花嫁が出来ましたわイ」と利八は大笑す、
「あら、旦那、何ですねエ」と、お熊は手をげて、たゝくまねしつ「れでもうぐひす鳴かせた春もあつたんですよ」グツと飲み干してハツハと笑ふ、
 何れも相和して笑ひどよめく、
 梅子の眉ビクリ動きつ、帯の間より時計出して、ソと見やるを、お熊は早くも見とめて「梅ちやん、タマに来て下だすつたんだから、何卒寛裕ゆつくりして下ださいナ、其れに御遠方なんだから、此の寒い夜中にお帰りなさるわけにはなりませんよ、最早もう、其の心算つもりにして置いたのですから、一泊おとまりなすつてネ――ねエ、お加女さん、いでせう」
「ハア、遅くなつたら泊りますからツて、申しては来ましたがネ」
「ぢや、大丈夫ですよ」と、早くもお熊は酒が言はする上機嫌じやうきげんしばらく振りで梅ちやんの琴を聴かせて頂きませう――松島さん、梅ちやんは西洋のもお上手でいらつしやいますがネ、お琴が又た一ときはで在つしやるんですよ」
左様さうですか、――是非拝聴致しませう」と松島はちやくを片手に梅子に見とるゝばかり、
 酒次第に廻りて、席やうやみだる、
「旦那」と小声に下婢の呼ぶに、大洞はばしとばかり退かり出でぬ、
 お熊の目くばせに、お加女も何やらん用事ありげに立ち去りぬ、
 お熊は松島の側近くひざを進めて「ほんとにねエ、さうして御両人おふたり並んでいらつしやると、如何どんなに御似合ひ遊ばすか知れませんよ――梅ちやん、貴嬢あなたも嬉しくていらつしやいませう」と、酔顔斜めに梅子をうかがひ、徳利てうし取り上げて松島にがんとせしが「あら、冷えて仕舞しまつたんですよ」と、ニヤり松島と顔見合はせ、其儀そのまゝスイと立つて行きぬ、微動だもせで正座し居たる梅子、今まお熊さへ出で行くと見るより、ただちに立つて後を追はんとするを、松島、忽如こつじよ猿臂えんぴを伸ばしてたもととらへつ、「梅子さん」
「何遊ばすツ」振りかへりたる梅子のかほは憤怒の色に燃えぬ、
 グイと引きたる男の力に、梅子のたもとピリヽ破れつ、

二十一の四


「何あそばすツ」
 と再び振り向く梅子を、力まかせに松島は引きゑつ、憤怒の色、眉宇びうに閃めきしがたちまちにしてしひおもてやはらげ、
「梅子さん、貴嬢あなた、余り残酷ではありませぬか、成程なるほど今夜の始末、定めて御立腹でもありませうが、少しは御推察をも願ひたい――私の切情は、梅子さん、く御諒承下ださるでせう、貴嬢は私を御存知ありますまいが、私はく貴嬢を存じて居ります――私は前年先妻をうしなつた時、最早もはや終生独身と覚悟致しました、――梅子さん、仮にも帝国軍人たるものが、其の決心を打ち忘れて、斯かる痴態を演ずると云ふ、男子が衷情ちゆうじやうの苦痛を、貴嬢は御了解下ださらぬですか」
 松島は梅子のたもとをシカと握れるまゝ、ジツと其おもてながめり「斯く御婦人に対して御無礼を働きまするも――幾度も拒絶されたる貴嬢に対して、耻辱をしのんで御面会致すと言ふも、人伝ひとづてにては何分にも靴を隔ててかゆきを掻くのうらみに堪へぬからです、今日こんにちいたつては、しひて貴嬢の御承諾を得たいと云ふのが私の希望では御座いませぬ、只だ貴嬢の御口から直接ぢかに断念せよとおつしやつて下ださるならば、私は其を以て善知識の引導と嬉しく拝聴致します、不肖ながら帝国軍人です、匹夫ひつぷ野人やじんの如く飽くまで纏綿つきまとつて貴嬢を苦め申す如き卑怯ひけふ挙動ふるまひは、誓つて致しませぬ、――何卒、梅子さん、只だ一言判然はつきりおつしやつて下ださい」
 梅子はワナなく身をこらへて瞑目めいもくす、
 松島は一きは声ひそめつ、「梅子さん、今にいたつて考へて見れば、我ながら余りの愚蒙ぐもう軽忽けいこつとにあきれるばかりです、私は初め山木君――貴嬢あなたの父上の御承諾を得ました時、既に貴嬢の御承諾を得たるが如く心得、歓喜の余り、親友知己等ちきらへも吹聴ふいちやうしたのです、御笑ひ下ださるな、恋は大人おとなをも小児こどもにする魔術です、――去れば今日こんにち、貴嬢から拒絶されたと云ふことが知れ渡つたものですから、同僚などからほとんど毎日の如く冷笑される、何時いつ結婚式を挙げるなど揶揄からかはれる其度そのたびに、私は穴にも入りたい様に感じまするので、むしろ自殺して此の痛苦から逃れようかなど考へることもありまするがかしれ一に私の罪なので、誰をうらむるはずも無く、親の権力が其子の意思を支配し得ると云ふ野蛮思想から、軽忽けいこつに狂喜した我がおろか慚愧ざんきする外はありませぬ――かし其の為に貴嬢の御名をも汚がすが如き結果になりましては、何分我心の不安に堪へませぬので、――海軍々人はしかく婦人を侮辱するものと言はれては、是れ実に私一人の耻辱のみでは無いのでありますから、今晩は此の罪をもつゝしんで貴嬢の前に懺悔ざんげし、ゆるしたと云ふ一言の御言葉を得たいと思ふので御座いまする――」
 瞑目めいもくせる梅子の心中には、今日しも上野公園にて、はからずも邂逅かいこうせる篠田の面影おもかげ明々あり/\と見ゆるなり、再昨年さいさくねんの春の夜始めて聴きたる彼の説教は、朗々と響くなり、彼を思うて人知れず絞れる生命いのちの涙、身もたまも捧げて彼を愛すと誓へる神前の祈祷いのり、嬉しき心、つらおもひ、千万無量の感慨は胸臆三寸の間にあふれて、父なる神の御声みこえ、天にます亡母はゝの幻あり/\と見えつ、聞えつ、何故などかる汚穢けがれむしろに座して、おほかみの甘き誘惑いざなひに耳をすやと叱かり給ふ、
 松島は膝を正して手をこまぬけり、「何卒我が過去の罪は梅子さん、おゆるし下ださい」
 梅子はかほげぬ「松島さん、貴所あなたは必ず女性をんなの貞節を重んじて下ださいませうネ」
 松島はいぶかしげに梅子を見ぬ「――、其れは勿論もちろんです――」
「松島さん、感謝致します――私には既に誓つた良人をつとがあるので御座いますから――」
 梅子の頬は珊瑚さんごの如くあかく輝きぬ、

二十一の五


「何ですツ」松島の血相はたちまち変はれり「良人があると」
「ハイ」梅子も厳然として松島をにらみ返へせり、
「フム其りや始めて承はる」と、松島は満面軽蔑けいべつの気をあふらしつ「何時いつ結婚なされた」
いえ、結婚は致しませぬ」
しからば、何時いつ約束なされた」
「約束も致しませぬ」
らば御尋ね致すが、御両親も承諾されたのか」
 梅子はホヽ笑みぬ「親の権力も子の意思に関渉することの出来ないのは、貴所あなた、只今御説明なされたでは御座いませぬか」
 グツト詰まりし松島は、ヤガて冷笑一番「ウム婦人の口から野合やがふを自白するんだナ」
「何をおつしやる――」
 梅子のキツとなるを、松島わらつて受けがし、
左様さうだらう、だ結婚もしない、公然約束もしない、父母の承諾を得たでもない、其れで良人があるとすれば、野合の外なからう」
「――貴所あなたは愛の自由と神聖とをお認めになりませぬか」
「神聖も糞もあるかい」
 梅子の柳眉りうび逆立さかだてり「軍人の思想は其程それほどに卑劣なものですか」
「何ツ」松島は猛獅まうしの如くをどり上りつ、梅子の胸をとらへてあふむけに倒せり、「女と思つてゆるして置けば増長しやがつて――貴様きさまの此の栄耀ええうを尽くすことの出来るのは誰のお蔭だ、貴様等を今日乞食にしようと、餓死うゑじにさせようと、我が方寸にあることを知らないか――軍人の卑劣とは聞き棄てならぬ一言だ――貴様の大事な篠田の受売だらう、見とれ、篠田の奴も決して安穏に許るしては置かぬぞ、貴様等の為めに帝国軍人の名誉をきずつけてなるものか」
 力をきはめて押し付くるを、梅子は絶えなんばかりの声振りしぼりつ、「――人道の敵ツ」
 黒髪バラリと振り掛かれる、あをおもてに血走る双眼、日の如く輝き、いかりふる朱唇くちびる白くなるまでめたる梅子の、心きはめて見上たる美しさ、たゞすごきばかり、
 炎々たる情火に松島は、気狂ひ、心もだえて眼さへにくらくなれり、
「――復讐ふくしう――」
 今や心狂ひたる軍人の鉄腕にようせられたる、繊細なる梅子の身は、鷹爪ようさうらはれたる雛雀すうじやくとも言はんか、仮令たとひ声を限りに叫べばとて何処いづこより、援助来らん、一点の汚塵をぢんだも留めたるなき一輪の白梅、あはれ半夜の狂風にむなしく泥土でいどすらんか、
 押へられたるまゝ、梅子はまたゝきもせでにらみ詰めたり、
 松島は梅子を引き起しつゝ、其の繊弱かよわ双腕りやうわんをばあはれ背後うしろとらへんずる刹那せつな、梅子の手は電火いなづまの如くひらめけり、
「キヤツ」と一声、松島の大なるからだはドウと倒れぬ、

      *     *     *

 ふすまへだててうかがひ居たるお熊は、尋常ただならぬ物音にせ出でぬ、
 よ、松島はヒシと左眼を押へて悶絶もんぜつす、手を漏れて流血淋漓りんりたり、
 梅子はスツクと立ち上れり、其の右手には汚血をけつを握りつ、
「来て下ださい」
 絶叫したるまゝ、お熊は倒れぬ、
 何事やらんとけ上がりたる大洞おほほらも、お加女かめも、流るゝ血潮に驚きて、だ梅子のかほを見つめしのみ、
 梅子は始めて唇を開きぬ「警察へ引き渡して頂きませう――私は血を流した罪人です」
 死力をめたる細き拇指おやゆびに、左眼ゑぐられたる松島は、いたみに堪へ得ぬかほわづかもたげつ「――秘密――秘密に――名誉に関はる――早く医者を、内密に――」
「名誉ツ?」梅子は突つ立てるまゝ、松島をにらめり、「名誉とは何事です、誰の名誉に関はるのです、殺人と掠奪りやくだつ稼業かげふにする汝等なんぢらに、何で人間の名誉がありませうか、――女性によせい全体の権利と安寧との為めに、必ず之を公にして、社会の制裁力を試験せねばなりません」
 梅子の視線はお加女の面上に転ぜり「継母はゝうへ、貴女はぞ御不満足で御座いませう、貴女のは、世にも恐ろしき流血の重罪ををかしました、けれど継母はゝうへ、貴女のお望の破操の大悪よりは、軽う御座いますよ――」
 彼女かれの眼光は電光の如く大洞の顔を射れり「処女の神聖をがさん為めに準備せられた此の建物が、野獣の汚血をけつまみれたのは、定めて浅念なことでせう――きずつけるものの為めには医師を御招きなさい、けれど、犯罪者の為めに、何故なぜ早く警官をお呼びなさらぬ」
 大洞は、色を失つて戦慄せんりつするお加女の耳にちかづきつ、「こし気を静めさして今夜の中にそつと帰へすがからう――世間に洩れては大変だ」

      *     *     *

 ヒユウ/\と枝を鳴らせる寒風も、今は収まりて、電燈の光さびしき芝山内しばさんないの真夜中を山木剛造の玄関には、何処いづくにか行かんとすらん、一子剛一のま自転車に点火せんとしつゝあり、
 かたへには一人、の老婆の身を縮めて「剛様、今夜は又たときは寒う御座んすから何卒どうぞ、御気を着け遊ばしてネ――貴郎あなたが行つて下ださるので、如何程どんなに安心で御座いませう」
ばあや、一飛びだ――何せよ、場所が場所だからナ、僕ア心配で堪まらぬのだ、大洞の伯父だの伯母だのツて、婆や、人間のつらしてる畜生なんだ、姉さんの身上みのうへに万一のことでもあつて御覧、の顔して人に逢はれるか」
 早や彼は車を運びて、門の方へ進み行く、
 此時たちま轣轆れきろくたる車声、万籟ばんらい死せる深夜の寂寞せきばくを驚かして、山木の門前にとどまれり、剛一は足をとどめてキツとなれり、
 小門、外より押されて数名の黒影は庭内にあらはれぬ、きなるは母のお加女なり、中にようされたるは姉の梅子なり、他は大洞よりのびとにやあらん、
「姉さんですか」剛一は自転車を投じてせ寄れり、梅子はヒシといだき着きぬ「剛さん――」
 彼女かれは弟の温き胸にかうべをよせて、呼吸も絶えなんばかり、
 剛一はしかと抱きて声励ましつ「凛乎しつかりなさい――」
 老婆は只だ涙なり、「――お嬢さま――」

二十二


 寝床ねだいの上に起き直りたる梅子の枕頭ちんとうには、校服のまゝなる剛一の慰顔なぐさめがほなる、
「ナニ、姉さん、左様さう気をいら立てずと、最少もすこし休んでらつしやる方がいですよ」
「けれどネ、剛さん、彼様あんな猛悪な心が、此の胸に潜んで居るのかと思ふと、自分ながら恐ろしくてたまりませんもの、――私は剛さん、奇魔きれいに死ぬことと覚悟して居たんです、彼様あんな乱暴しようとは、夢にも思やしませんよ、如何どうした突嗟とつさの心の変化か、考へて見ても解らないの、矢ツ張り私の心が、うらみいかりに満たされて居たので、其れであゝした卑怯な挙動ふるまひに出たのですねエ――今朝からネ、一人で聖書を読んだり、おいのりしたりして居たんですよ、私もう――こはくて怖くて神様の御前おんまへへ出られないんですもの――」
 梅子は身をふるはしてかほおほへり、
 剛一も目を閉ぢてばし言葉なかりしが、「――姉さん、篠田さんも其ことを心配してでしたよ」
「エ」と梅子はかしらもたげつ「貴郎あなた、篠田さんにお逢ひになつて――」其顔はあかくなれり、
「ハア、折角せつかくの日曜も姉さんのいらつしやらぬ教会で、長谷川の寝言など聞くのは馬鹿らしいから、今朝篠田さんを訪問したのです、――非常に憤慨ふんがいしてでしたよ」
「私の挙動きよどうをでせう」
左様さうぢやないです」と剛一はあたまりつ「仮令たとひ世界を挙げても、処女をとめの貞操と交換することの出来ない真理が解らぬかツて、憤慨して居られました、何でもの翌日と云ふものは、警察の手を以てのことの新聞へ出ない様に、百方奔走をしたんださうです、日本軍隊の威信と名誉にかゝはるからと云ふんでネ――実にしからんぢやありませんか、今の社会が言ふ所の威信とか名誉とか言ふのは何を指すのです、僕は此の根本を誤つてる威信論や名誉論を破壊し尽さぬ間は、到底たうてい道義人情の精粋を発揮することは出来ぬと思ふです」
「アヽ、剛さん、――世間からは毒婦と恐れられ、神様からは悪魔といやしめられていや生涯しやうがいを終らねばならんでせうか――私、此の右手を切つててたい様だワ――」
「姉さん」と剛一は膝を進めぬ「篠田さんの心配して居なさつたのは其処そこなんです、貴嬢あなたの一生の危機は、先夜の危難の際では無く、虎口を脱れなすつた今日こんにちるとおつしやるんです、――姉さん、貴嬢は今ま始めてすべての束縛そくばくから逃れて、全く自由を得なすつたのです、親の権力からも、世間の毀誉褒貶きよはうへんからも、又た神の慈愛からさへも自由になられたのである、今は貴嬢あなた真正ほんたうに貴嬢の一心を以て、永遠の進退を定めなさるべき時機である、――愛の子か、のろひの子か――けれど君の姉さんが此際、撰択せんたくの道をあやまつ如き、弱くおろかなる人で無いことはたしかに信ずると篠田さんは言うてでしたよ、――姉さん篠田さんは貴嬢をくまであつく信じて居なさいますよ」
 梅子は枕に倒れて、むせび入りぬ、「――神様――何卒――おゆるし下ださいまし――」

二十三の一


 ハイ――といましむる御者ぎよしやの掛声勇ましく、今しも一りやうの馬車は、揚々として霞門かすみもんより日比谷公園へぞ入りきたる、ドツかとり返へりたる車上の主公は、年歯ねんしくに六十を越えたれども、威風堂々としてあんつて顧眄こべんするの勇を示す、三十余年以前は西国の一匹夫いちひつぷ、今は国家の元老として九重こゝのへ雲深きあたりにも、信任浅からぬ侯爵何某なにがしの将軍なりとか、
 陪乗したるは清洒せいしやなる当世風の年少紳士、木立の間に逍遙せうえうする一個の人影を認むるやゆびさしつつ声をヒソめ「閣下、彼処かしこを革命が歩るいて居りまする」
「ナニ、革命」侯爵は身を起して彼方かなたにらみつ「あの筒袖着た壮士の様な男か」
「ハ、閣下、あれが先刻も談柄だんべいに上りましたる、社会党の篠田と申すもので御座りまする」
「フム、松島の一眼を失つたのも、の男の為めか」
「ハ、もつとも松島の負傷については、少こし事情もある様に御座りまするが――」
「イヤ、例令たとへ如何なる事情があらうとも、此の軍国多事の際、有為いうゐの将校に重傷を負はしむると云ふは容赦ならぬ」と、言ひつゝ将軍はなゝめに篠田の後影をにらみつ、「何して居る、いづれ善からぬ目算致して居るのであらう」
「ハ、多分今晩演説の腹案でも致し居るものと思はれまする」
「ナニ、演説――何処どこで」
「ハ、神田の青年館と申すで、非戦論の演説会を」
「怪しからんこと」と将軍の眉は動けり「戦争のことはかみ御一人ごいちにん御叡断ごえいだんに待つことで、民間の壮士などが彼此かれこれ申すは不敬きはまる、何故内務大臣は之を禁じない――ナニ――だから貴様等は不可いかんと言ふのだ、法律などに拘泥かうでいして大事が出来るか、俺など皆な国禁を犯して維新の大業を成したものだ、早速電話で言うてれ、俺の命令だと云うて――輦轂れんこくの下をもはばからず不埒ふらちな奴等だ」
 将軍は昂然かうぜんたり、
 若紳士は唯々ゐゝとしてかうべを垂れぬ、
 馬車は夕陽を浴びつゝ迂廻うくわいして、やがて悠々いう/\華族会館の門を入りぬ、

      *     *     *

 神田美土代町みとしろちやうなる青年会館の門前には、黒山の如き群集の喧々けん/\囂々がう/\たるを見る、
何故なぜ入場を許さない」「集会の自由を如何にする」「圧制政府」「警察の干渉」「僕は社会主義に反対のだからいれて呉れい」「ヒヤ/\」「ノウ/\」「馬鹿野郎」「ワハヽヽ」「ワアイ/\」
 星影まばらに風寒き所、しつ圧されつ動揺するさま、怒涛どたうの闇夜寄せつ砕けつするに異らず、
 鉄門はすでに固くとざされたり、赤煉瓦あかれんぐわへいに、高く掲げられたる大巾おほはばの白布に、墨痕ぼくこん鮮明なる「社会主義大演説会」の数文字のみ、燈台の如く仰がれぬ、
 幾十となき響官の提灯ちやうちんは、えたける人涛ひとなみの間に浮きつ沈みつして、之を制止する声かへつて難船者の救助を求むる叫喚の如くぞ響く「最早もう立錐りつすゐの地が無いのだ」「コラ、垣を越えては不可いかん」「すな/\」「提灯ちやうちんぶれるワ」「痛い/\」「ヤア/\」
 同じく入場し得ざる為め、少しくへだたりて観居みゐたる数名、
「日本も偉いことになつて参りましたナ、此の戦争熱の最中で、非戦論の演説をらうツてんですから」
左様さやう、其れを又た聴きたいてんで、此のさわぎなんですからナ」
かも貴所あなた、十銭傍聴料を払ふんだから、驚くぢやありませんか」
「正直な所、誰でも戦争など有難いもんぢやありませんのサ、――大きな声ぢや言はれませんがネ」

二十三の二


 立錐りつすゐの地なしと門前の警官が、絶叫したるもうべなりけり、しもに広き青年会館の演説場も、だ人を以て埋めたるばかり、爛々らん/\たる電燈も呼吸の為めに曇りて見えぬ、一見、其異に驚くは警官の厳重に排置せられしことなり、
 演壇の右側には一警視の剣をきて、弁士の横顔穴も穿けよとにらみつゝあり、三名の巡査はして速記に忙殺ばうさつせらる、
 今ま演壇には、背広の洋服ヤヽあかつけるを一着なしたる青年が、手を振り声を張上げて騒々擾々さうざうぜう/\たる聴衆と闘ひつつあり、行徳、坂井、松下、菱川、柴等の面々は皆な既に演じ終りたるなりと云ふ、な、いづれも五分十分にて中止を命ぜられしなりと云ふ、ことに最も滑稽こつけいなりしは、菱川が登壇開口、「戦争で第一に金儲かねまうけするのは誰だか、諸君、知つてますか」の一語いまだ終らざるに、早くも「中止」の一喝いつかつひしことなりとぞ、是れには二階の左側に陣取れる一群の反対者も、手をつて哄笑こうせうせしにぞ、警視はほゝふくらしてばし座りも得せざりしと云ふ、
 青年弁士は水ガブ/\とのんで又た手を振り始めぬ、「諸君が露西亜ロシヤ討たざるべからずと言ふけれ共ダ、露西亜の何物を討つと言ふのです」
「露西亜帝国を征伐するんだ」と叫ぶものあり、
 弁士は声せし方にむかつて「果して然らば僕は、我輩は――」
 一隅の聴衆ワア/\と冷笑す、
「我輩は諸君の態度が可笑をかしいと思ふです、すなはち諸君は自家撞着じかどうちやくです」
「何故自家撞着だ――馬鹿、小僧、引ツ込め」と例の階上の左側より騒ぐ、
「主戦論者は其通り無礼背徳だ」と階下より見上げて応戦するもあり、
 弁士は額の汗ぬぐひつ「たまへ、露西亜ロシヤ帝国政府の無道擅制ぶだうせんせいは、露西亜国民の敵ではありませんか、ども独り露西亜政府のみでは無いです、各国政府の政策といへども、其の手段に露骨と陰険の相違はあるか知れませぬが、其の精神は皆な露西亜と同じ侵略主義ではありませぬか」
 喝采かつさいくが如くにして階上左側の妨害を埋没まいぼつする刹那せつな、警視は起てり「弁士、中止」
「見ろやアイ」「民主々義万歳」など思ひ/\の叫喚けうくわん沸騰ふつとうして、悲憤の涙をむすびたる青年弁士の降壇を送れり、
 聴衆の少しく静まるを待つて、司会者の椅子いすを離れたる渡部伊蘇夫わたべいそをは、澄み渡る音声に次の弁士を紹介す「篠田長二君――演題は社会党の……」
 皆まで言はさず、喝采の声、堂を動かせり、篠田は既に演壇に立てり、
 絶叫の声は拍手はくしゆの間に響けり、満場既にひぬ、
 反対者の冷笑熱罵ねつばもコヽを先途せんどき上れり、「露探」「露探」「山木の婿の成りぞこね」「花吉さんへよろしく願ひますよ」
 彼はおもむろに口を開きぬ「諸君――」
 此時、聴衆の頭上を飛ぶが如くにけ来れる一警部が、演壇に飛び上がつて、何事か警視に耳語じごせり、
 瞥視は倉皇さうくわう、椅子を蹴つて起てり「解散――弁士――中止」
 満場総立となれり、警官力をきはめて制すれ共聴かばこそ、「革命」「革命」「革命」
 良久しばし見てありし篠田は、右手を伸ばしぬ、
「静に」
 群衆は舌を留めて篠田を見たり、
「火に油そゝぐ者の火傷くわしやうは、我等の微力に救ふことは出来ませぬ」
 彼は一揖いちいふして去れり、
 満場再び湧き返へれり、玻璃窓ガラスまどの砕くる響すさまし、

二十四の一


 中仙道なかせんだう熊谷くまがやを、午後の六時廿分に発したる上武鉄道の終列車は、七時廿六分に波久礼はくれ駅に着きぬ、
 秩父ちゝぶの雪の山颪やまおろし、身を切るばかりにして、戸々こゝに燃ゆる夕食ゆふげ火影ほかげのみぞ、慕はるゝ、
「馬車が出ます/\」と、炉火ろくわようしてうづくまりたる馬丁べつたう濁声だみごゑ、闇のうちより響く「吉田行も、大宮行も、今ますぐと出ますよ」
 都のちまたには影を没せる円太郎馬車の、寂然せきぜんと大道に傾きて、せたる馬の寒天さむぞらしてわらめり、
 二台の馬車に、客はマバラに乗り込みぬ、去れど御者も馬丁ばてい悠々いう/\寛々くわん/\と、炉辺に饒舌ぜうぜつしつゝあり、
「オヽイ、馬丁さん、早くしてお呉れよ、からだがちぎれて飛んで仕舞しまひさうだ――※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)じやうだんぢやねえよ」と、車のうちなる老爺おやぢ鼻汁はなすゝりつゝ呼ぶ、
「まア、飛ばねえやうに、繩ででもくゝつて置いてお呉れなせえ、此方こつちからだもちぎれねえやうに、今ま一杯つてくからネ」、御者は又た濁酒だくしゆ一椀を傾けつ「べら棒に寒い晩だ」と星晴れたる空を仰ぎながら、ノソリ/\と打ち連れて車台に上りぬ、
 月は出でぬ、
 雪の峰、玲瓏れいろうと頭上に輝き渡り、荒川の激湍げきたんいわほえて、眼下に白玉を砕く、暖き春の日ならんには、目を上げて心酔ふべき天景も、吹き上ぐる川風に、客は皆な首を縮めて瞑黙めいもくす、御者ぎよしや鼻唄はなうたばし途断とぎれて、馬のに鳴る革鞭むちの響、身にみぬ、吉田行なるうしろなる車に、先きの程より対座の客のおもて、其の容体ようだいいぶかしげにながめ入りたる白髪の老翁、やがて慇懃いんぎんに札を施し「旦那だんな、失礼なこと伺ふ様ですが、失つ張り此の山のかたあらつしやりますか」
 対座の客は首肯うなづきつ「ハイ、山のものですが、只今は他郷に流浪るろう致し居りまするので」
「して、山はあたりあらつしやりますか」
粟野あはので御座います」
 老人は良久しばし思案のていなりしが「――し篠田様――の御縁家では――」
「ハイ、篠田の一族で御座います」
「篠田長左衛門様の――」
左様さうです、長左衛門のせがれで」
左様さやうで御座りまするか」と老人はひざの下までかしらを下げつ「先刻からお見受け申す所が、長左衛門様生写いきうつしあらつしやるから、左様さうではあらつしやるまいかと考へましたので」
 老人は早くも懐旧の涙に得堪へぬものの如し「私は小鹿野をかのの奥の権作ごんさくと申しますもので、長左衛門様には何程どれほど御厚情をかうむりましたとも知れませぬ、――さわぎで旦那様はあゝした御最後――が、百姓共の為めにお果てなされた長左衛門様の御恩を忘れてはならねえと、若い者等に言うて聴かせることで御座りまする――ぢやあ、貴郎あなたさまたしかに長二様とおつしやりました坊様で、イヤ、どうも立派な男に御成りなされました、全然まるでせん旦那様に御目に掛るやうで御座りまする」
左様さやうでありましたか」と篠田はうなづき「幼少で飛び出しましたので、誠に知人が少ないですが、故郷の山、故郷の水、故郷の人、事に触れ時に従ひて、故郷程懐しきものはありません」
伯母御様をばごさまは御達者であらつしやりまするか、永らく御目通りも致しませぬが――」
「ハイ、御蔭様で別状も無いやうですが――私も久しく無沙汰ぶさた致しましたから、一寸見舞にと思ひまして」
成程なるほど
「ヂヤ、与太、吉田屋の婆さんにく言うて呉れよ、いづれ近日返金おけえしするつてツたつてナ」と前車まへの御者はわめきつゝ、大宮行の馬車は国神宿くにがみじゆくに停車せり、
「どうせ、貴様てめえから返金かへして貰へるなんて思つちや居ねえツて言つたよ――其れよりかお竹の阿魔に、泣かずにまつてろツて伝言ことづけ頼むぞ、忘れると承知しねえぞ」と後車あとの御者は答へつゝ、篠田と老人とを乗せたる一りやうは、驀地まつしぐらひとせぬ、
「旦那、此界隈かいわいもヒドくさびれましたよ」と老人は歎息かこちつ、

二十四の二


 雪の坂路を、馬車は右に左にガタリ/\と揺れつゝ上り行く、馬の吐息こほりて煙の如し、夜は既に十時に近からんとす、
最早もう丁度ちやうど、十年――廿年になりますナ」と老人は首傾け「イヤ、どうも月月のつと云ふは早いもので、だほんの昨日の様な気が致し居りまするが」長大息を漏らして彼は篠田のかほをシゲ/\見入りたり「土地のことも知らねえ、言葉さへわからねえ様な役人が来て、御維新ごいしんおれたと言はぬばかりに威張り散らす、税は年増しに殖える、働き盛を兵隊に取られる、一つでもいことはえので、其処で長左衛門様の御先達おさきだちで朝廷へ直訴ぢきそと云ふことになつたので御座りましたよ、其れを村の巡査が途方もうそツぱちを吹聴ふいちやうして、騒動が始まるなんて言ひ振らしたので、気早の連中が大立腹おほはらだち闇打やみうちを食はせる、憲兵がつて来るワ、高崎から鎮台が押し寄せるワ、到頭たうとう長左衛門様は鉄砲に当つて、あゝしたことにお成りなされましたので――」
 老人はばし目をふさぎて心に浮ぶ当時の光景をしのびつ「其れからみんなして遺骸おからだを、御宅へかついでめえりましたが、――御大病の御新造様ごしんぞさま態々わざ/\玄関まで御出掛けなされて、御丁寧な御挨拶ごあいさつ、すると旦那、貴郎あなたさまだ、其時丁度ちやうど十二三の坊様が、長い刀を持ち出しなされて、とつちやんの復讐かたきうちに行くと言ひなさる、其れを今の粟野あはのに御座る伯母御様が緊乎しつかり抱き留めておすかしなさる――イヤもう、皆な御庭に座つて泣きましたよ」
 老人は声曇らせて月影におもて背向そむけぬ、
「御老人」と篠田もソゾろ懐旧の感にうたれやしけん、
 たもとより取り出せる襤褸ぼろもて老人は鼻打ちかみ「其れから間もなく御新造様は御亡おなくなり、貴郎あなたさまは伯母御様に手を引かれなさつて、粟野の奥へ行かしやる、――何でも長左衛門様の讐討かたきうたんぢやならねエと言ふんで、伯母御様の所から逃げ出しなすつて、外国迄も行つて修業なすつて、えらかたにならしやつたと云ふことは薄々聞いてをりましたが、――どうも思ひ掛けねエ所で御目に掛りまして、昔時むかしのことがアリ/\と目に見えるやうで御座りやす」
「御老人、貴所あなたの様に、長い目で御覧になりましたならば、世の変遷うつりかはりく御見えになりませうが、て自分一身を顧みますと、実にお耻かしい次第でありましてナ、き父などに対しても、誠に面目御座いません」
「いや/\、左様さうい、何でもえれかたに成らしやつたと云ふ沙汰さたで御座りまする」と、老人は首打ち振り「が、先旦那様せんだんなさまも偉い方で御座りましたよ、二十年前に心配しなすつた通りに、今は成り果てて仕舞ひました、何だだと取られるものは多くなる、れる作物ものに変りは無い、其れで山へも入ることがならねい、草も迂濶うつかりることがならねい、小児こどもは学校へらにやならねい、借金かりが出来る、田地は段々にひとの物になる、旦那今ま此の山中やまで、自分の田を作つて居るものが幾人ありますかサ、――其上に厄介やつかいなものがありますよ、兵隊と云ふ恐ろしい厄介物が、聞けばた戦争とか始まるさうで、わしの村からも三四人急に召し上げられましたが、兵隊に取られるものに限つて、貧乏人で御座りますよ、成程其筈そのはずで、年中働いて居るので身体からだが丈夫、丈夫だから兵隊に取られる、――此頃も郡役所の小役人が帽子シヤツポなどかぶつて来まして、国の為めに死ぬんだで、有難いことだなんて言ひましたが、斯様こんな馬鹿な話がありますか、――近い例証ためしが十年前の支那の戦争で、村から取られた兵隊が一人死にましたが、ヤア村のほまれになるなんて、鎮守のもりに大きな石碑建てて、役人など多勢来て、大金使つて、大騒ぎして、お祭をりましたが、一人息子に死なれた年老としとつた両親ふたおやは、稼人かせぎてが無くなつたので、地主から、田地を取り上げられる、税を納めねいので、役場からは有りもせぬ家財を売り払はれる、抵当に入れた馬小屋見たよな家は、金主からつ立てられる、到頭たうとう村で建てて呉れた自分の息子の石碑の横で、夫婦が首をくゝつて終ひましたよ、ぢいばゝあ情死しんぢゆうだなんて、みんな笑ひましたが、其時もわし、長左衛門様の御話して、かうなることを見透みとほして御座つたと言うて聴かせましたが、若い者等は、ヘイ其様そんな人があつたのかなと驚いて居ましたよ、最早もう村の奴せえ御恩を忘れて居ります様なわけで――」
 老人は鼻汁はなすゝり上げつ「どうせわしなどは明日にも死ぬ身だから、かまやせぬやうな物で御座りますが、子供等が可哀さうでなりませぬ、何卒、旦那――長二様、一つ長左衛門様の魂魄たましひ御継おつぎなされて、此の百姓共を救つて下さりまし――」
 石にや乗り上げけん、馬車は顛覆てんぷくせんばかりに激動せり、
「畜生、何をフザけやがるツ」御者ぎよしやは続けさまにむちを鳴らして打てり、
「オヽ、可哀さうだ、余りひどくしなさるナ」と、老人は御者をなだめつ、
 馬車はやがて吉田に着きぬ、
「では、御老人、お別れ致します」篠田は老人の手をシカと握りて斯く言へり、
 権作爺ごんさくおやぢ幾度いくたびも何か言はんと欲してつひに言ふことあたはざりき、粟野のかたへ雪踏み分けて坂路を辿たどる篠田の黒影見えずなる迄、月にすかして見送りぬ、涙にかすむ老眼、硬きたなそこに押しぬぐひつつ、

二十四の三


 権作老人と立ち別れて篠田は、降り積む雪をギイ/\と鞋下あいかに踏みつゝ、我が伯母のひとり住む粟野あはのの谷へと急ぐ、氷の如き月は海の如きあをき空に浮びて、見渡す限り白銀しろがねを延べたるばかり、
 老夫の旧懐談に心動ける彼は、あふいで此の月明に対する時、伯母の慈愛にそむきて、粟野の山を逃れる十五歳の春の昔時むかしより、同じ道を辿たどり行く今の我に至るまで、十有六年の心裡しんりの経過、歴々浮び来つて無量の感慨おさゆべくもあらず、だ燃え立つ復讐ふくしうの誠意、幼き胸にかき抱きて、雄々しくも失踪しつそうせる小さき影を、月よ、汝は如何いかに哀れと観じたりけん、がるゝ如き救世の野心に五尺の体躯からだいたづら煩悶はんもんして、鈍き手腕、其百万の一をも成すことあたはざる耻かしさを、月よ、なんじ如何いか甲斐かひなしと照らすらん、森々しん/\として死せるが如き無人の深夜、彼はヒシと胸を抱きて雪に倒れつ、熱涙混々こん/\、誰はばからず声を放つて泣きたりしが、たちまちガパとね起きつ、足を踏みしめ、手を振つて、天地も動けと、呼ばはりぬ、

みどりとばり、きらめく星  白妙しらたへゆか、かがやく雪  おほいなるかな、美くしの自然  が為め神は、備へましけむ、

峯の嵐は、眠りたり  谷の流は、夢のうち  くまなき月の冬の影  厳かにこそ、静なれ、

まなこ閉づれば速く近く、何処いづこなるらんことの音聴こゆ  かしら揚ぐれば氷の上に  冷えたるからだ、一ツ坐せり  両手もろてふるつて歌うたへば  山彦こだまの末見ゆ、高きみそら、

感謝の声のあまのぼり  琴の調しらべに入らん時  歌にこもれる人の子が  地上の罪の響きなば  く手とどめて天津乙女あまつをとめ  耻かしの 色や浮ぶらめ、

父の正義のしもとにぞ  けがれし心ひれ伏さむ  母の慈愛の涙にぞ  罪のゆるしを求め泣く  御神みかみよ我をなかれ  神よが子を逐ふ勿れ

神の心を摸型かたとりの  人てふむねを忘れてき  神の御園みそのの海山を  血しほ流して争へり、

万象眠る夜の床  人にはれし人の子の  天地をうらむ力さへ  涙と共にれはてて  むなしく急ぐ滅亡を  如何に見玉ふ我神よ、

天つ御国をつちに  建てんと叫ぶ我がしたに  燃ゆれど尽きぬ博愛の  永久のほのほ恵みてよ、

熟睡うまいの窓につかの  罪逃がれにし人の子を  虚無の夢路にさゝやきて  きよき記憶を呼びさませ、

星のとばり、雪のゆか  くしくおほいなる準備そなへかな  だ頽廃の人の心  悲しくも住むに堪へざるを、

 彼のおもて嬉々きゝと輝きつ、ひげの氷打ち払ひて、雪をつて小児こどもの如くせぬ、伯母の家はの山角の陰に在るなり、

二十四の四


 より燈影ほかげの漏るゝ見ゆ、伯母はねずあるなり、
 細き橋を渡り、せまがけぢて篠田は伯母の軒端近く進めり、綿糸いとつむぐ車の音かすかに聞こゆ、彼女かれは此の寒き深夜、老いの身のほ働きつゝあるなり、
「伯母さん」篠田ほホト/\戸をたゝけり、
 車の音みぬ、れど何のいらへもなし、
 篠田は再び呼べり「伯母さん」
「誰だエ」と伯母は始めていらへぬ、
「伯母さん、私です」
「オ、――長二ぢやないか」倉皇さうくわうとして起ちきたる音して、ゆがみたる戸は、ガタピシと開きぬ、
「まア――」と驚きたる伯母は、雪に立ちたる月下の篠田を、嬉しげにツクヅクと見上げ見下ろせり「く来てお呉れだ、先頃の手紙に、忙しくて当分行くことが出来さうも無いとあつたので、春暖かにでもならねばと思つて居たのに、――ぞ寒むかつたらう、今年は珍らしい大雪での、さア、お入り、私ヤ又た狐でも呼ぶのかと思つたよ」
「狐と間違へられては大変ですネ」と篠田は莞然くわんぜんわらひ傾けつ、かまちに腰打ち掛けて雪にこほれる草鞋わらぢひも解かんとす、
「お前が来ると知つて居りや、湯も沢山たくさんかして置いたのに」と伯母が炉上の茶釜ちやがまをせゝるを、「なに、伯母さん、雪路だから、足も奇麗きれいですよ」と、篠田は早くも上りて炉辺に座りぬ、
 昔ながらの松明まつのあかり覚束おぼつかなき光に見廻はせば、寡婦やもめらしの何十年に屋根は漏り、壁は破れて、幼くてわが引き取られたる頃に思ひらぶれば、いたく頽廃たいはいの色をぞ示す、
「まア、長二、お前ほんとに吃驚びつくりさせて、斯様こんな嬉しいことは無い」と、山の馳走ちそうは此れ一つのみなるほだうづたかきまで運び来れる伯母は、イソ/\として燃え上がる火影に凛然りんぜんたるをひかほながめて「何時いつも丈夫で結構だの、余り身体からだ使ひ過ぎて病気でも起りはせぬかと、私ヤ其ればかりが心配での」と言ひつゝ見遣みやる伯母のおもては、何時いつもながら若々として、神々しきばかりの光沢つやみなぎれど、流石さすが頭髪かしら去年こぞの春よりも又た一ときは白くなりまさりたり、
 ほだの煙は「自然の香」なり、篠田の心は陶然たうぜんとして酔へり、「私よりも、伯母さん、貴女あなたこそ斯様こんな深夜おそくまで夜業よなべなさいましては、お体にさはりますよ」
「なんの、長二」と伯母は白き頭振りつ「身体からだは使ふだけ健康ぢやうぶだがの、お前などのは、心気こゝろを痛めるので、大毒だよ――今ではお前も健康の様だが、生れが何せ、脆弱よわたちで、五歳いつゝ六歳むつになるまでと云ふもの、まるで薬と御祈祷ごきたうで育てられたからだだ――江戸の住居も最早もうお止めよ、江戸はちりごみの中だと云ふぢや無いか、其様そんな中に居る人間に、どう満足ろくなもののはずは無い、今ま直ぐと云ふわけにもなるまいが、何卒どうぞ伯母の健康たつしやな中に左様さうしなさい、山姥やまうば金時きんときで、猿や熊と遊んで暮らさうわ、――其れは左様さうと、今度は少し裕然ゆつくり泊つて行けるだらうの――」
 篠田は頭掻きつゝ、口ごもりぬ「――先日も手紙で申上げたやうな次第わけで、当時差しかゝつた用事がありますので、ほとんど足を抜くことが出来ないのですが――何だか無闇むやみに貴女が恋しくなつたもんですから、今日こんにち不意に出掛けて参つたやうな始末でしてネ――」
 伯母は怪訝けげんな目して良久しばし篠田を見つめしが「――又た明日ゆつくり話しませう、疲れたらうに早くおやすみ、いつもの所にお前の床がある、――気候が寒いで、風邪かぜでも引かれると大変だ」
貴女あなたこそ早くお寝みなさい」と篠田は笑ひぬ、
「何の、わしは寝たよりもめてる方がたのしみだ――此の綿をつむい仕舞しまはんぢや寝ないのが、私の規定きめだ、是れもお前のあはせを織るつもりなので――さア、早くおやすみ」
左様さうですか」と篠田は暗涙をのんで身を起しつ「誠に、恐縮に御座ります」とふすま開きて、慣れたる奥の一室ひとまれり、
 伯母は膝に手を組んでかしらを垂れぬ「――何かたゞならぬ心配があると見える――此の私を急に恋しくなつたと云ふのは――の剛情な男が――」

二十四の五


「長二や、大層早起はやいの、何時起きたのか、ちつとも知らなかつたよ」と言ひつゝ伯母は内より障子開く、
 縁端えんはたには篠田が悠然いうぜんと腰打ち掛けて、朝日のひかり輝く峯の白雲ながめつゝあり、「そりや、伯母さん、私の方が早く寝ましたからネ――が、伯母さん、どうも実に閑静ですねエ、全く別天地です、此の節々が延々のび/\しますよ」
「だから、江戸の様なせゝこましい所で、無駄な苦労せずに、早く先祖代々の故郷へお帰りと云ふのだ――頼朝様よりともさまよりも前から住んで居るので、何殿どなたに頭を下げにやならぬと云ふ様な心配もなしさ」
かし、伯母さん」と篠田は笑みつ「猿や狐の友達もいが、人間は矢張り人間の相手が無ければ、さびしくてたまりませんよ、私は又た伯母さんが、かうして孤独ひとりで居なさると不思議に思ふですよ、どうです、一つ江戸住えどずまひと改正なされたら」
「オヽ、飛んだことを、何の長二や、寂しいことがあるものか、多勢寄つて来るので、夜も寝るのがをしい程にぎやかだ」
「ヘエ、何処どこから其様そんなに人が参りますか」と篠田のいぶかるを、伯母は事も無げに首肯うなづきつ「私の知つとる程の人が、皆な寄つて来るよ、――お前の阿父おとつさんも来る、阿母おつかさんも来る、祖父おぢいさん祖母おばあさんも来なさる、――れに、長二、私の許嫁いひなづけで亡くなつた、お前の義伯をぢさんも来るの、其れにうしてお前もたまには来て呉れる、斯様こんな嬉しいことがありますか」
 ハヽヽと思はずも篠田は笑ひつ「ぢや、伯母さん私も仏様の御仲間入するんですネ」
左様さうサ」と伯母は首肯うなづき「神様か仏様か知らないが、矢ツ張り人間の様だよ、妙なもので、人は生きて居た時よりも、死んだ後の方が皆んな善くなるよ――生きてた時分には、怒り合つたこともあらうし、うらみ合つたこともあらうが、一度死ぬと、悪い所はみんな墓場へ葬つて、善い所だけが霊魂たましひに残るものと見える、其れに死んだ人は、うらやましいことに、年と言ふものを取らないので、誰も彼も皆な若いよ、お前の阿父おとつさんでも阿母おつかさんでも皆な若いよ、――私の亭主も丁度ちやうど二十歳はたちなくなつたが、其時の姿のまゝで目に見える、わしの頭が斯様こんなに白くなつたので、どうやら耻かしい様な気がして、最早もう何時にも鏡と云ふものを見たことが無いよ――」
 ほツほツと片頬かたほに寄する伯母の清らけき笑の波に、篠田は幽玄の気、胸にあふれつ、振り返つて一室ひとますゝげたる仏壇を見遣みやれば、金箔きんぱくげたる黒き位牌ゐはいの林の如き前に、年朧気おぼろげなる一個の写真ぞ安置せらる、れ此の伯母が、いま合衾がふきんの式を拳ぐるに及ばずしてかずに入りたる人の影なり、
 伯母もチヨと其方そなたを見やりつ「いつであつたか、の写真が判らぬ様になつたので、大きな油絵とやらに書き代へようと親切に、お前が言うて呉れたが、ナニ、決して其れには及びませぬよ、写真の顔などは見えなくなる程がいよ、――そりやお前、絵姿なんてものは、きまり切つた顔して居るばかりだけれど、此の心に映る姿は、物も言へば、歩きもする、怒りもすれば笑ひもする、斯様こんな自由自在なものは有るまいよ」
「成程」と、篠田は瞑目めいもくして、伯母が言葉の端々はし/\深く味ひつ、
 伯母はほツほとひとり笑ひつ「私ヤ、まア、勝手なことばかり言つて居たが、長二や、其れよりもお前のよめの決らないのが、誠に心懸こころがかりだよ、どうだエ、だ矢ツ張り心当りが無いか、――江戸あたりのほこりの中には、お前の気にかなつたものは有るまいが、ト云つて山の中にも無しの、ほんに困つて仕舞しまうたよ」と首傾けて屈托くつたくさまなりしが「ほう」と一つおのれひざたゝきつ「どうだエ、長二、お前、亜米利加アメリカとかで大層お世話になつた婦人かたがあるぢや無いか、偉い女性ひとだとお前が言ふのだから、大した人に相違なかろが、一つ其婦人かたを貰ふわけにやなるまいか、異人でも何でむ構やせぬよ、其れに御亭主の無い婦人かただとお言ひぢやないか、エ、長二」
 篠田は腹を拘へて噴飯ふきだせり、
「イエ、本当の話だよ」と伯母は益々真面目まじめ也、
「伯母さん、かねてお話した通り、偉い女性ひとに相違ありませぬがネ、――伯母さんより十歳とをも上のお姿さんですよ」
「何だエ」と伯母は眼をまるくし「其様そんなえら婦人ひとで、其様そんなとしになるまで、一度もお嫁にならんのかよ――異人てものは妙なことするものだの」
「別に不思議はありませんよ、現に伯母さんも左様さうぢやありませんか」
「ナニ、私ヤ、是でもチヤンと心に亭主があるのだよ」
「其れならば、伯母さん、御安心下ださい、私もチヤンと花嫁がありますよ」
 篠田は晃々くわう/\たる雪の山々見廻はして、歓然たり、
「オヽ、お嫁があるとエ」と伯母は驚くまでに打ち喜び「して、れは何時きめました、早く知らせて呉れゝばいに」
「なに、伯母さん、改めてお知らせする程のことも無いのです、最早もうくの昔時むかしのことですから」
「ほツほ、何を長二、言ふだよ、斯様こんな老人としよりをお前、なぶるものぢや無いよ、其れよりも、まア、何様どんな婦人ひとだか、何故なぜ連れて来ては呉れないのだ」
「伯母さん、最早もう貴女あなたにも御紹介おひきあわせした筈ですよ」
うそ言うて」と伯母は口開いてカラ/\と打ち笑ひ「わしがお前のおかみさんを忘れていものかの」
「サ、伯母さん、私の花嫁と云ふのは、其の『おかみさん』のことですよ」
「其のおかみさんの名は何と言ふのだの」
「おかみさんと云ふのです」
「長二や、お前、何を言ふだ」と、伯母は又も声高く笑ふ、
「伯母さん、本当の話です、神様が私の花嫁のです、――父とも母とも花嫁とも、有らゆる一切です」
「ヘエ」と、伯母は良久しばし言葉もなく、合点がてん行かぬ気に篠田のおもてもれり「お前の神様のお話も度々たび/\聞いたが、私には何分どうも解らない、神様が嫁さんだなんて、全然まるで怪物ばけものだの」
「怪物ぢや無い、人ですよ、人の大きいのです、必竟つまり、人が神様の小さいのと思やいですよ」
左様さう云ふものかの」と伯母は思案の首傾けつ、
「現に伯母さん、貴女の所へ私の両親も来る、貴女あなたの旦那様も来るとおつしやつたでせう――怪物でも、不思議でもありませんよ」
「だがの、長二や、其れはみんわしの知つて居る人達だが、お前の嫁の其の神様には、お前、お目に掛つたことがあるかの」
左様さうですねエ――思ひに悩む時、心のさびしい時、気の狂ほしい時、じつと精神をらして祈念しますと、影の如く幻の如く、其のおもても見え、其声も聴こゆるですよ、伯母さんのと格別ちがひありますまい」
「其れは長二や、だお前には早過ぎるやうだよ」と伯母はかうべを振りぬ「私も結局孤独ひとりの方が好いと、心から思ふやうになつたのは、十年以来このかたくらゐなものだよ――今だから洗ひさらひ言うて仕舞ふが、二十代や三十代の、だ血の気の生々なま/\した頃は、人に隠れて何程どれほど泣いたか知れないよ、お前の祖父おぢいさん昔気質むかしかたぎので、仮令たとひ祝言しうげんさかづきはしなくとも、一旦いつたん約束した上は、後家ごけを立て通すが女性をんな義務つとめだと言はしやる、当分は其気で居たものの、まア、長二や、勿体もつたいないが、おやうらんで泣いたものよ――お前は今年幾歳いくつだ、三十を一つも出たばかりでないか、お前がどんな偉い人になつたにしても、マサか仙人では有るまいわ、近い話が、何か身動きもならぬ程に忙しい中を、斯様こんな何の相談対手あひてにもならぬわしを恋しがつて、急に思ひ立つて来ると云ふも、神様の嫁御よめごでは、物足らぬからではあるまいか、エ、長二、お前が何程いくら物識ものしりでも、わしの方が年を取つて居りますぞ」
 篠田はうでこまぬきて深思に沈みつ、
 子を伴へる雌雄の猿猴ましらが、雪深き谷間鳴きつゝ過ぐる見ゆ、

二十五の一


 篠田の寂しき台所の火鉢にりて、首打ち垂れたる兼吉かねきち老母はゝは、いまだ罪も定まらで牢獄に呻吟しんぎんする我が愛児の上をや気遣きづかふらん、折柄誰やらんおとなふ声に、老母はゝは狭き袖に涙ぬぐひて立ち出でつ「オヽ、花ちやん――お珍らしい、くお入来いでだネ、さア、お上りなさい、今もネ私一人で寂しくて困つて居たのですよ――別にお変りもなくて――」
「ハア、――老母おつかさんも――」と、嫣然えんぜんとして上り来れるお花は、かしら無雑作むざふさ束髪そくはつに、木綿もめんころも、キリヽ着なしたる所、ほとんど新春野屋の花吉はなきちの影を止めず、「大和おほわさんは学校――左様さうですか、先生は不相変あひかはらず御忙しくていらつしやいませうねエ――今日はネ、阿母おつかさん、慈愛館からおゆるしが出ましてネ、御年首に上つたんですよ、私、斯様こんな嬉しいお正月をするの、生れて始めてでせう、れも皆な先生の御蔭様おかげさまなんですからねエ――其れに阿母おつかさん、兼さんから消息おたよりがありましテ、私、始終しじゆう気になりましてネ」
 老母の目はたちまち涙に曇りつ「――予審とやらは此頃やうやく済んださうですがネ――」
左様さうですツてネ――其事は私も新聞で見ましたの、――むつしい文句ばかり書いてあるので、くは解りませぬでしたが、何でも兼さんに、小米こよねさんを殺すなんて悪心が有つたのでは無いと云ふやうに思へましたよ、矢つ張裁判官でも人ですから、少しは同情おもひやりがあると見えますわねヱ、だから阿母おつかさん、余り心配なさらぬがよう御座んすよ」
難有ありがたうよ」と老母はまぶたぬぐひつ「此程このほども伜のことを引受けて下だすつた、弁護士の方がいらしつたんでネ、先生様の御友達の方で、――御両人おふたり種々いろ/\御相談なすつていらしつたがネ、君是れ程筋が立つて居るのに、し兼吉を無罪にすることが出来ないならば、弁護士をめて仕舞へと、先生様がおつしやるぢやないか、すると其方そのかたもネ、よろしい約束しようとおつしやるんだよ、花ちやん、私、嬉しくて/\……」
「本当にねエ、阿母おつかさん」と、お花はブル/\と身をふるはしつ「何と云ふ御親切な方でせう、――私、考へるたびに――」と、かほたちまちサとあからめ「の様にお忙しい中で、私共のことまであれも是れもとお世話下さるんですもの、どうして阿母おつかさん、世間態や人前の表面うはべで、出来るのぢやありませんわねエ――近頃は又戦争が始まるとか、いやうはさばかり高い時節ですから、夜分お帰りもぞ遅くていらつしやいませうねエ」
左様さうですよ、おつちりおおやみなさる間も無くていらつしやるので、御気の毒様でネ、ト云つて御手助おてすけする訳にもならずネ――其れに又た何か急に御用でもお出来なされたと見えて、昨日新聞社から直ぐに御郷里おくにへ行らしつたのでネ」
「あらツ」と、お花は驚き顔「ぢや先生は御不在おるすなんですね――まア――何時いつ御帰宅おかへりになるんですの」
端書はがきで言うて御遣おつかはしになつたのだから、詳しいことは解りませんがネ、明日の晩までには、お帰宅かへりになりませうよ、大和さんが左様さう言うてらしたから、だから花ちやん、丁度い所へ来てお呉れだわネ、さびしくて居た所なんだから」
「私、まア――ぢや、私、お目に掛ること出来ないんですか――」
「そんなに急ぐのかネ、花ちやん、たまのことだから、少しは遊んで行つてもいでせう、外のとこぢや無いもの」
 黙つてお花はかしらを振り「明日の正午までには是非帰館かへらねばなりませんの」
 ガラリ、格子戸かうしど鳴りて、大和は帰り来れり「やア、花ちやん、いらつしやい、待つてたんだ、二三日、先生が御不在ので、寂しくて居た所なんだ」
貴郎あなたまでが、――そんナ――」とお花は泣きもでなんばかり、

二十五の二


 晩餐を果てて、三人燈下に物語りつゝあり、「何だか、阿母おつかさん、先生が御不在ともや、其処そこいらが寂しいのねエ」と、お花は、篠田の書斎のかたかへりみつゝ、
「ほんとにねエ、いらしつたからとて、れと云ふ別段のことあるでも無いのだけれど」と、兼吉の老母も首肯うなづきつ、
「本当に私、申訳ないと思ひますワ」と、お花は急に思ひ出したるらしく「先生が私を御世話なすつて下さるのを、世間では彼此かれこれ申すさうぢやありませんか、私ヤ、うせ斯様かうしたからだなんですから、ちつともかまやしませぬけれど、其れぢや、先生に御気の毒ですものねエ」
「なアに、花ちやん」と、大和おほわは番茶み干しつゝ、事も無げに笑ひて、「其様そんなことは先生に取つて少しも珍らしく無いのだ、此頃はひど風評うはさが立つてるんだ――山木の梅子さんて令嬢かたと、先生が結婚しなさるんだツて云ふんでネ、是れには先生も少こし迷惑して居なさる様なんだ、みんな先生をきずつけようとする者の卑劣な策略なんだから、花ちやん、左様さう心配しなさるに及ばないよ」
「左様でせうか」
「けれど大和さん」と老母は顔差し出し「ツイ此頃も、其の山木のお嬢様とやらの弟御おとゝごさんが御来おいでになつたで御座んせう、チラと御聞きしただけですからくは解りませんけれど、其の御姉おあねえさんがどうしてもお嫁に行かないと仰しやるんで、トド、何か大変なことでも出来しゆつたいしたと云ふ様な御話で御座んしたよ」
「ウム、の松島の一件か」と、大和は例の無頓着むとんちやくに言ひ捨てしが、たちまち心着きてや両手に頭かゝへつ「やツ」と言ひつゝお花を見やる、
どうしなすツたの」と、お花も、松島と云ふ一語に顔あからめぬ、
「なアに、花ちやんの為にも矢張り敵なんだよ、の松島大佐がネ」と大和は茶受ちやうけムシヤ/\とみ込みつ「あれが余程以前から、梅子さんを貰はうとしたんだ、梅子さんの実父おやぢも、継母まゝはゝの兄と云ふのも、みんな有名な御用商人なんだから、賄賂わいろの代りに早速承諾したんだ、所が我が梅子嬢はどうしても承知しないんだ、到頭たうとう梅子さんをいざなひ出して、腕力で侮辱を与へようとしたもんだから、梅子さんも非常に怒つて、松島を片眼めつかちにしたんださうな、其れをうちの先生が何か関係でもあつて、左様さうさせたやうに言ひ触らして、先生の事業を妨害する奴があるんだ、或は梅子さんが先生を恋して居なさるかも知れんサ、大分世間で其の評判だから、けれど先生は御存知無いんだ、恋愛は其対手あひてが承諾を与へた場合に始めて成立する、所謂いはゆる双務契約なんだからなア」と、恋愛法理論を講釈したる彼は、グツと一椀、茶を傾けつ「うも美人てものは厄介極まる、僕は大嫌おほきらひだ、」
 老母もお花も転がつて笑ひつ、
「それは、屹度きつと、其のお嬢様も左様さういらつしやいませうよ」と、老母はやがて口をきて「先生様のやうに、口数がおくなくて、お情深くて、何から何まで物が解つていらしつて、其れでドツしりとして居なさるんですもの、そりヤ、女の身になれば誰でもねエ」
「まア、いや阿母おつかさん
エ、本当ですよ」
 お花はランプの光まぶかほ背向そむけつ「けれど、其のお嬢様など、お幸福しあはせですわねエ、其様さうした立派な方なら、仮令たとひ浮き名が立たうが、一寸ちつとも男の耻辱はぢにもなりや仕ませんもの――」
 大和は眼をまるくして、えりあご埋めてうつむけるお花の容子ようすを、マジ/\と見つめぬ、
 此夜お花は眠らぎりき、

二十六


「今日は又た曇つて来た、何卒どうぞ降雪ふらねば可いが」と、空ながめながら伯母は篠田を見送りの為め、其の後に付いて、雪の山路を辿たどり来りしが「其う云ふ次第わけで、長二や、気を着けてお呉れよ、此世にだ伯母一人をひ一人と云ふのぢや無いか、――亭主には婚礼もせずにかれる、お前の阿父おとつさんの様な非業ひごふな最後をする、天にも地にも頼るのはお前ばかりのだ――まあ、之を御覧よ」と、眼下に白き雪の山里ゆびさしつ「お前の阿父おつとさんは此の秩父ちゝぶの百姓を助けると云ふので鉄砲にたれたのだが、お前の量見は其れよりも大きいので、如何どんな災難がいて来ようも知れないよ、――此様こんな年老としとつた上に、逆事さかさまごとなど見せて呉れない様にの――」
 篠田も何とやらん後髪引かるゝやう「伯母さん、何卒どうぞ心配せんで下ださい、重々御苦労を御掛け申して来た今日こんにちですから――れに私ももう三十を越したんですから、後先あとさき見ずのことなど致しませんよ、父にも母にもることの出来なかつた孝行を、貴女あなた御一人の上に尽くしたいのが、私の精神ですからネ」
 伯母は涙きもへず「――長二や、――私や、かうしてお前とるいて居ながら、コツクリと死にたいやうだ――」
 ハヽヽヽと篠田は元気く打ち笑ひつ「何を伯母さん、おつしやる、し貴女に死なれでもして御覧なさい、私はほとんど此世の希望のぞみなくして仕舞ふ様なもんですよ、何卒ネ、おからだを大切にして下ださい、其のうちに又時を都合して参りますからネ」
「忙しからうがの」と、伯母は小さきたもとあふるゝ涙押しぬぐひつ「何卒どうぞ其うしてお呉れよ、年増としましにお前が恋しくなるので、――其れに、た言ふ様だが、わしの一生の御願だでの、一日も早く嫁を貰ふことにしてお呉れよ、――女房にようぼが無いで身締みじまりどうかうのなどと其様そんな心配は、長二や、お前のことだもの少しも有りはせぬが、お前にしてからが何程心淋しいか知れはせぬよ、女など何の役にも立たぬ様に見えるが、偉い他人でも其の真心には及びませんよ、――くどいと思ふだろが、お前の嫁の顔見ぬうちは、わしは死にたくも死なれないよ」
 篠田は答へんすべも無し、

      *     *     *

 顧み勝ちに篠田はひと下山くだり行く、伯母が赤心一語々々に我胸を貫きつ、

神に祈れど得も去らぬ、寂し心のなやみをば、恋てふものと伯母君の、昨日ぞさとし玉ひたる

花の姿の美しと、乙女をとめを見たる時もあれど、慕はしものと我が胸に、影をとどめしことあらず、

地上の罪の同胞はらからに、代る犠牲の小羊と、神の御前みまへに献げたる、堅きちかひの我なるを、

不信の波の何時しかに、心のふちに立ちめて、底のにごりを揚げつらん、今日まで知らで我れ過ぎぬ、

 汝を恋ふるばかりに、やさしき処女の血にさへけがれしを知らずやテフ声、たちま如何処いづこよりか矢の如く心を射れり、山木梅子の美しき影、閉ぢたる眼前に瞭然れうぜんと笑めり、
「おのれ、長二ツ」と篠田は我と我が心を大喝だいかつ※(「口+它」、第3水準1-14-88)しつたして、かくとばかりまなこを開けり、重畳ちようでふたる灰色の雲破れて、武甲ぶかふの高根、雪に輝く、

二十七の一


 壕水ほりみづつる星影寒くして、松のこずゑに風音すごく、夜も早や十時になんなんたり、立番の巡査さへ今は欠伸あくびながらに、炉を股にして身を縮むる鍛冶橋畔かぢけうはんの暗路を、外套ぐわいたうスツポリと頭からかむりて、弓町ゆみちやうかたより出で来れる一黒影あり、交番の燈火にも顔を背向そむけて急ぎ橋を渡りつ、土手に沿うて、トある警視庁官舎の門に没し去れり、
 の黒影はヤガて外套を脱して、一室の扉を押せり、室内は燈火明々めい/\として、いまだ官服のまゝなる主人は、燃え盛る暖炉だんろの側に安然と身を大椅子に投げて、針の如き頬髯ほゝひげ撫で廻はしつゝあり、
 扉の開かれし音に、ギロリとせる眼を其方そなたに転じつ「ヤア、吾妻」
 彼の黒影は同胞新聞の記者吾妻俊郎にぞありける、
 吾妻はその敏慧びんけいなる眼に微笑を含みつゝ、軽く黙礼せる儘、主人と相対して椅子に坐せり、
「川地課長、やうやくさがし出しましたよ」
 言ひつゝ彼はうちなるポケットより一個の紙包を取り出して、主人に渡せり「一日後れりや、屑屋くづやの手に渡る所なんで――大切な原稿を間違へて、反古ほごの中へ入れちやつたてなことで、屑籠くづかごちあけさせて、一々いち/\り分けて、本当にひどい目にひましたよ」
 主人は黙つて其の紙包を開けり、中より出でしはしわクチヤになれる新聞の原稿なり、彼は膝頭ひざかしらにて稍々やゝ之を押し延ばしつ、口のうちにて五六行読みもて行けり、
……彼の主戦論者の声言する所を聞くに日露両国の衝突は、自由と擅制せんせいとの衝突にして、又た文明と野蛮との衝突……と云ふ、吾輩おもへらく決して然らず、だ両個擅制せんせい帝国の衝突のみ、両個野蛮政府の衝突のみ……………………財産の特権、貴族の遊食、………………あらゆる罪悪一に皇帝の名を仮りて弁疎……
 川地は目を揚げて吾妻を見つ「たしかに篠田の自筆か」
左様さうです、間違ありませんよ」
「御苦労/\」と川地は首肯うなづきつゝおのがポケットの底深くをさめ「れがれば大丈夫だ、早速告発の手続に及ぶよ、実に不埒ふらちな奴だ、――が、彼奴やつ、何処か旅行したさうだが、にげでもしたのぢやなからうナ」
 吾妻は微笑ほゝゑみつ「なに、郷里へ一寸ちよつと帰つただけのです、今晩あたり多分帰京かへつた筈です、で、罪名は何とする御心算おつもりですネ」
左様さうさナ」と主人は頬でつゝ「づ不敬罪あたりへ持つて行くのだ、吹つ掛けはるべく大きくないと不可いかんからナ」
「エ、不敬罪ですつて」と吾妻は声やゝ打ちふるへり、
 主人は鋭き眼してにらみぬ「何だ」
「なに、どうもしやしませぬがネ」と吾妻は心押し静めつ「の道、大至急願ひたいものです――僕は最早もう篠田のかほを見るに堪へないですからネ」
 吾妻の額には恐怖の雲かゝる、
「何をビク/\するんだ」と、主人は吾妻を一睨いちげいせり「其様そんなことで探偵が勤まるか――篠田や社員の奴等に探偵と云ふことを感付かれりやなかろな」
「なアに、外の奴等は感付く所か、僕が余り篠田に接近すると云ふので、かへつ嫉妬しつとして居る程です、ですから僕の流言が案外社員間には成効して、陰ではみんな充分に篠田を疑つて居るですがネ――」言ひよどみたる吾妻は、側なる小卓に片肘かたひぢを立てて、悩まし気にかしらさゝへぬ、
「其れがどうしたと云ふのだ、篠田の方は何したと云ふのだ」
「――課長」吾妻の声はふるへり「川地さん、――かし篠田はさとつて居るらしいのです、たしかに覚つて居るらしいのです」
「けれど吾妻、覚つて居ながら、探偵をちかづけて居る理由もなからう――こと彼云あゝいふ悪党が」
「所が、其れが大間違ひのです[#「大間違ひのです」はママ]」と、吾妻は姿勢を正して吐息をつけり「川地さん、正直に言ふと、彼は偉い男ですよ、彼はたしかに僕を探偵と知つてるのです、其れで僕と差向さしむかひの時には、必ず僕に説教するのです、彼は全然まるで坊主ですナ、其真実の言葉が、此の心のすみから隅まで探燈サアチ・ライトで照らし渡る様に感じて、怖くてたまらない」
 彼は瞑目めいもくしてばし胸裡きようりの激動を制しつ「――ト云うて、貴官あなたの方へは、彼の罪迹ざいせきを何か報告せねばならぬでせう――イヤ、其様さうせねば貴官あなた御機嫌ごきげんが悪いでせう――けれど実を言ふと、僕には彼の罪悪と云ふものを発見することが出来ないんですもの――」
 川地のまなこはキラリ輝けり「ぢや、吾妻、今日こんにちまで報告した彼奴きやつの秘密は、虚事うそだと云ふのか」
「――ことごとく虚報と云ふでもありませぬが――悉く真実と云ふ事も困難です――」
「ぢや、吾妻、彼奴きやつが山木のむすめを誘惑して、其の特別財産を引き出す工夫してると云ふのは、ありや真実ほんたうどうだ」
「――あれは少し違つてる様でした――」
「花吉を妾にして居ると云ふのは」
「あれも――少し違つて居ります」
 川地は忿怒ふんぬの声荒々しく「九州炭山の同盟罷工教唆けうさも虚報と云ふのか」
「イヤ、全然まるで虚報といふでもありませぬが――実は篠田は、同盟罷工に反対して、静粛なる手段をることを熱心に勧告したのです、其の往復の書信など僕はく知つて居ますが、けれど勢ひむを得ないと云ふことになつたもんですから、しからば坑夫等を無惨むざんの失敗に終らしめてはならぬと云ふので、最も困難な兵糧方に廻つたのです、だから彼が教唆けうさしたと云ふのは、少こし真実に遠い様でもありますが、彼が無かつたら坑夫の同盟も、今度の労働者団結も成立つことでありませんから、彼が教唆けうさしたと報告したのも、結果から言へば全然虚報とは言はれぬ様にもなる次第のです」例の快弁に似もやらず、吾妻は汗をぬぐひつ、弁疏べんそせり、
「吾妻、まるで貴様は政府をあざむいて、我等を欺いて、機密費を盗んで居たのだ」
「けれど」と、吾妻は少しく椅子いすを後に退け「そりヤ課長、無理ですよ、初め僕が同胞社に這入はひり込んだ頃、僕は報告したぢやありませんか、外で考へると、内で見るとは全く事情が違つて、篠田と云ふ男、実に敬服すべき君子だと申上げたでせう、スルと貴官あなたは大変に立腹して、其様そんなはずが無い、何かあるに相違無い、政府の方針はまでも社会党撲滅と云ふことであるから、し其に好都合な申告をないと、今度は警察の無能と云ふんで、我々の飯の食ひ上げになる、だから何でもいから持つて来い、虚誕うそを組立てて事実を織り出すのが探偵の手腕だと――」
「馬鹿ツ」
「馬鹿ぢやありません、今度も左様さうです、松島が負傷したに就て、軍隊や元老の方からも八釜やかましく言うて来て困る、是非何とかして、篠田をくゝらねばならぬからと言ふんでせう――其りや成程、僕が最初篠田と山木のむすめと、不正な関係がある様に虚誕うそを報告して置いた結果で仕方ないですが――」
 川地は再び大喝せり「馬鹿ツ」

二十七の二


 吾妻のワナ/\とふるへるかほを、川地課長はひややかにながめて「其のざまは何だ、吾妻、貴様も年の若いに似合はず役に立つ男と思つて居たが、案外の臆病だナ、其れでも警察の飯を食つて居るのか」
 吾妻は頭押へつゝ「――そりや僕も、おやぢすねを食ひ荒して、斯様こん探偵にまで成り下つたんだから、随分惨酷ざんこくなことも平気でつて来たんですが、――篠田には実に驚いたのです、社会党なんぞ、どうせ陰険な乱暴なものだと思つて這入はひり込んだのだが、秘密と云ふものがほとんど無いのです――以前始めて社会民主党を組織するツてた時も、左様さうでしたよ、タシか土橋だと思ふが、の渡部と云ふ男の所へ出掛けて行くと、先方がかへつて歓迎して起草しかけて居た宣言書を見せて、一々講釈をされたので、社会主義ツてものは、実にいものだと感服し切つて来たが、僕も本当に左様さう思ひますよ、川地さん、貴官あなたは篠田を悪党だの何のと言ひなさるけれど、こゝろみに一度つて御覧なさい、屹度きつと従来の誤解を慚愧ざんきなさるに相違ありませんよ――僕はう云ふ好人物をきずつけねばならぬかと思ふと、如何にも自分ながら情なくなつて、いつそ自分の探偵と云ふことを白状して、本当の子分にしてもらはうかと思つたことが、幾度いくたびとも知れませんよ、近来は最早もう怖くてたまらぬから、逢はぬやうに/\と、篠田を避けて居るんだ」
 川地は大口開いてカラ/\と笑ひつ「吾妻、貴様もエライ善根ぜんこんがあるんだナ、感心だよ」
仮令たとひ斯様かやうになつても、だ人間には相違無いからネ」と、吾妻は首肯うなづき「かし、もう斯うなるからは、何卒どうぞ篠田にかほを見られない様にして貰ひたいのだが、其の論文にしても、どうも不敬罪とは覚束おぼつかないからナ、裁判は警視庁や内務省がるんで無いからナ――何程どんなに牽強付会をした所で、官吏侮辱位のものだ、二月か三月の重禁錮ぢゆうきんこだ、――僕ア外国へ逃げでもしなけりや、安心が出来ませんよ」
「非常な心配だナ」と、川地は冷笑しつゝ、「其れなら我輩も一ツ善根の為めに、貴様をたすけて篠田を一生娑婆しやばの風に当てないやうにしてらう」
笑談ぜうだん言つちやいけませんよ、何程なんぼ意気地の無い裁判官でも、警視庁の命令に従ひはしませんからネ」
「馬鹿だなア」と川地はポカリ煙草をきつしつ、「裁判官は只だ法廷で、裁判するだけの仕事ぢやないか――法律なんて酌子定規しやくしぢやうぎ拘泥こうでいして、悪党退治が出来ると思ふか――フヽム」
 吾妻はばし川地のおもてながめ居りしが、忽如たちまちあをりて声ひそめつ「――ぢや、又た肺病の黴菌ばいきんでもまさうといふんですか――」
 川地は黙つてスイと起ちつ「吾妻、居室ゐまへ来給へ、一盃いつぱい飲まう――骨折賃も遣らうサ」
 されど吾妻は悄然せうぜんとして動きもやらず「――考へて見ると警察程、社会の安寧をやぶるものは有りませんねエ、泥棒する奴も悪いだらうが、とらへる奴の方がほ悪党だ」
「社会の安寧?」と川地は苦笑しつ「何も、みんな飯のたねサ」
 吾妻は低声独語しぬ「飯の種、――飯の種」

二十八


 大洞おおほら別荘の椿事ちんじ以来、梅子は父剛造の為めに外出を厳禁せられて、ほとんど書斎に監禁のさまなり、継母の干渉かんせふはげしければ、老婆も今は心のまゝに出入することあたはず、いもと芳子が時々来りては、父母が梅子に対する悪感情を、ほこりがに伝達しつ、又た姉の悲哀の容態をば尾鰭をひれを付けて父母に披露す、芳子は流石さすがにお加女かめ夫人の愛児なり、梅子の苦悶くもんを見て自ら喜び、姉を讒訴ざんそして、母を喜ばしむ、ぜんよりも一層真心をめて彼女かれを慰め、彼女をはげまし、唯一のたてとなりて彼女を保護するものは剛一なりける、
 剛一は千葉地方へ遠足におもむきて二三日、顔を見せざるなり、雨蕭々せう/\として孤影蓼々れう/\、梅子は燈下、思ひに悩んで夜のけ行くをも知らざるなり、
「アヽ、剛さんは如何どうなすつたでせう、今夜こよひはお帰りの日取なんだが、今頃までお帰りないのは、大方おほかた此の雨でお泊りのでせう、お一人なら雨や雪に頓着とんちやくなさるひとぢやないけれど、お友達と御一所ごいつしよでは、左様さうもならないからネ」
 彼女かれは机上の置時計を見て独語せり、
「ほんたうに剛さん、私や、貴郎あなたに感謝してますよ、貴郎の様な男らしい男をおとゝと呼ばせ給ふ神様は、何と云ふ恩恵めぐみ深くて居らつしやるでせう、私のうれしく思ふのは、天では神様、そして地では、剛さん、貴郎あなたばかりです――」
 彼女かれたちまち眼を閉ぢてうつむけり「――左様さうぢや無い、私はたしかに身も心も献げたたふと丈夫かたるのです、けれど篠田さん――貴方は少しも私の心、此の涙にひたせる我心を少しも知つては下さいません――其れを御怨おうらみ申しは致しません、けれど何と云ふ情ない世の中でせう、此の純潔な私の恋が――左様さうです、純潔です、必ず一点の汚涜をどくもありません――貴方の為めにわざはひの種となるのです、――篠田さん、我がつま、何卒御赦おゆるし下ださいまし、貴方の博大の御心には泣いて居るのです、私はう決心致しました、私は父から全く離れました、家庭からも全く離れました、教会からも離れました、私は天の神様をのみ父とし母として、地に散在するあはれなる兄弟と、大きな家庭を作ることに覚悟致しました、そして此世を神様の教会と致します、――篠田さん、貴郎あなたは私の此の決心を、叱つて下ださいませんでせうねエ――」
 彼女かれ恍惚くわうこつとして夢の如く、心に浮ぶ篠田の面影おもかげすがりて接吻せり、
「姉さん」と黄色の声して芳子はせつゝ入り来れり、
 梅子は遽然きよぜん我に返へりつ、「あら、芳ちやん、喫驚びつくりしましたよ、どうなすつて」
「姉さん、私、いこと聴いたワ」芳子は姉のかほ打ちながめて笑ふ、
 梅子は又た何か面白ろからぬ我がうはさなるべしと思へば、取り合はん心もあらず、
 去れど芳子は一向無頓着むとんちやくに、大勝利を報告する将軍の如くぞ勇める「姉さん、私、今まいことを聴いてよ、篠田さんは到頭たうとうしばられて、牢屋へ行きなさるんですと」
 巨砲もて打たれたらん如き驚愕きやうがくを、梅子はじつと制しつ「――左様さうですか――誰にお聴きなすつて――」
「今ネ、何処どこからか電話で、――何でも警視庁とか云つてでしたの――しらして来たんです、阿父おとつさん阿母おつかさんに話してらしつてよ、是れでやうやく松島さんへ、おわびが出来るつて、ほんとに左様さうだわねエ」
「ヘエ、そしてよつちやん、う牢屋へ行らしつたのですか」
いゝえ、明日ですつて、」
左様さうですか――」
 梅子はしひて平然と装へり、れど制すべからざるは其顔なり、よ、其のすさまじ蒼白さうはくを、芳子は稍々やゝ予算狂へるが如く、いぶかしげに姉のかほ見つめて、居たりしが、芳子々々と、ケタヽましく呼ぶ母の声に、飛ぶが如くに黙つて走せ行けり、
 梅子は声をんでだうと伏せり、

二十九の一


 宵の雨も何時いつしか雪と降り替はれり、
 麻布本村町の篠田が玄関には、け行く寒き夜を、大和おほわ一郎の兀々こつ/\と勉学に余念なし、雪バラ/\と窓を打ちて、吹き入る風に身をふるはしつ「オヽ、寒い、最早もう何時かナ、未だ十二時にはなるまい――」
 かへりみる台所のかたには、兼吉の老母が転輾てん/\反側はんそくの気はひ聞ゆ、彼女かれも此の雪の夜の物思ひに、既に枕にきたるも、容易たやすくは夢の得も結ばれぬなるべし、
 篠田が書斎の奥よりは、洋紙かみしるペンの音、深夜の寂寞せきばくを破りてれ来ぬ、
 大和はえり掻き合はしつ「アヽ、先生はだおやすみにならんのか、何か書いて居らつしやる様だ、――明日の社説かナ、や、日常いつもやすみの時間に仕事なさるのだから、ほかに何か急用の書き物がおありなさるのであらう、手紙かナ、平民週報の寄書かナ、ア、左様さうだ、露西亜ロシヤの社会民主党へ贈りなさる文章に相違無い――両国の侵略主義者が嫉妬しつと猜忌さいきして兵火に訴へようとする場合に、我々同意者は相応じて世界進歩の為めに、平和の福音ふくいん鼓吹こすゐせねばならぬと言うて居られたから――が、先生も実にお気の毒で堪らぬ――」
 大和は瞑目めいもくして大息たいそくせり、
「――教会を除名されなすつたなどは、別段先生の損失でもなく、むしろ教会の愚劣と偽善を表白したに過ぎないのだが、驚いたのは鍛工かぢこう組合の挙動だ――先生が梅子さんと結婚なさる為めに、主義を抛棄はうきなさるとは、何と云ふ破廉耻はれんちな言ひ草だ、嫉妬深しつとぶかい松本の暴論も、老実な浦和の主張でだ決議には至らぬさうだが、其れがの吾妻の奸策だとは何事だ、もつと彼奴あいついやな奴サ、先生の前でほヒヨコ/\頭ばかり下げて諂諛おべつかばかり並べて、――誰か何時いつやら、政府のいぬぢや無いかと注意したつけが、どうも先生は既に左様さうと知つて居られるらしかつたよ、彼時あのときの御返事を見ると――彼程あれほど敏慧びんけいな頭脳を邪路から救ひ出してるものが無ければ、ただに一人の兄弟を失ふのみならず社会は何程毀損きそんされるかも知れないと、――先生を殺すものは――必竟ひつきやう先生の愛心だ――アヽ」
 薬園阪やくゑんざか下り行く空腕車からくるまの音あはれに聞こゆ「ウム、車夫くるまやぞ寒むからう、僕はうちに居るのだけれど」大和は机の上に両手を組みつ、かしらして又た更に思案に沈む、
「本当に左様さうだ、先生を殺すものは先生の愛心だ、花ちやんを救ふ、すると直ぐ其れが先生にわざはひするのだ、其れに梅子さん――どうも不思議だ、何故なぜ社会は虚誕きよたんを伝へて喜ぶのだらう、が、けむりの立つ所必ず火ありとも云ふぞ、――かし僕が若し婦人ならば矢張り左様さう思ふかも知れない、僕が先生をく思ふの情、是れが女性の心に宿れば恋となるのかナ――アヽ、何卒どうか先生に思ふ存分、腕を伸ばさして上げたいナ」
 風又た吹き加はりぬ、雪の音はげし、
 門戸に低く人の声す、
 大和は耳をそばだてぬ、戸をたゝく音なり、
 何人なんぴとの何等緊急事ならん、此の寒き雪の深夜に――大和はいぶかりつゝ立つて戸を開きぬ、
 吹き巻く雪中、門燈を背にして、黒き影一個立てり、

二十九の二


何殿どなたです」と、大和おほわ雪明ゆきあかりにすかして問ふを、門前の客はそでの雪払ひもへず、ヒラリとばかり飛び込めり、
 あづまコートに御高祖頭巾おこそづきん、――アヽれ婦人なり、
 大和は眼をまるくして怪しげに見つめぬ、
「大和さん」、婦人の声に、大和は愕然がくぜんとして一歩退しりぞけり「ア、貴嬢あなたですか」
「あの、御在宅でいらつしやいますか――是非御面会せねばならぬことが御座いますので」
 深夜の雪道にこゞえてや、婦人の声の打ちふるひて聞えぬ、
しばらくお待ちを願ひます」と、大和は急ぎ篠田の書斎へと走せぬ、
「先生――」驚愕きやうがく怪訝けげんとに心騒げる大和の声はいたくも調子狂ひたり、
 既に文書したゝおはりし篠田は、今や聖書ひもときて、就寝前の祈祷きたうを捧げんとしつゝありしなり、
 彼は静かに顧みぬ「大和君、何です」
「――只今、あの、山木の梅子さんが御光来おいでになりました」
「ナニ、梅子さんが――」篠田も首傾けぬ「お一人でか」
左様さうです、何か至急の御要件ださうで御座いまして、是非御面会をと云ふことです」
「ウム此の雪中を御光来おいでは尋常のことでは有るまい、――早速に」
 梅子は大和に導かれて篠田の室に入り来りぬ、肉やゝ落ちて色さへいたく衰へて見ゆ、彼女かれは言葉は無くて慇懃いんぎんかしらを下げぬ、
良久しばらく御目に掛りませぬでした」と、篠田も丁重ていちように礼を返へして、「此の吹雪ふぶきの深夜御光来おいで下ださるとははなはだ心懸こゝろがかりに存じます、早速承るで御座いませう」
 梅子はわづかかしらもたげぬ「――篠田さん――私、貴所あなた御逢おあひ致しまする面目が無いので御座いますけれど――今晩容易ならぬことを、耳に致しましたものですから――」
 彼女かれ逡巡ためらひつゝ、そつかたへの大和を見やりぬ、
 容易ならぬことの一語に、危殆きたいの念愈々いよ/\高まれる大和は、躊躇ちうちよする梅子の様子に、必定ひつぢやう何等の秘密あらんと覚りつ、篠田を一瞥いちべつして起たんとす、
 篠田は制しぬ「何事か知りませぬが、梅子さん、少しも御懸念ごけねんに及びませぬ、れは私の弟ですから」
 大和は又た座りてホと吐息を漏らしぬ、
エ、篠田さん、大和さんに御遠慮申したのでは御座いませぬが」、梅子は言はんと欲して言ひあたはざるものの如し、
「何でありまするか」と篠田は問ひぬ「何か私の一身に関係しました凶事でも御聞き込みになりましたので――」
「ハイ」と、わづかに梅子は首肯うなづきぬ、
 大和はこぶしを固めぬ、
如何いかなる件でありまするか、御遠慮なくつしやつて下ださい」篠田は火箸ひばしもて灰かきならしつゝあり、
「篠田さん」と、梅子は涙み込みつ「是れは貴郎あなたの少しも御関係ないことです、けれど今の世の中は、貴郎を――拘引こういんする奸策を廻らして居るのです、冷かな手は黒き繩もて貴郎の背後うしろに迫つて居りますよ――」
 梅子は涙輝くひとみげて、始めて篠田を凝視せり、
「やツ」と、思はず声を放つて、大和は膝を進めぬ、
「はゝア――イヤ左様さうしたこともありませう」と篠田はいさゝか怪しむ色さへに見えず、雨戸打つ雪の音又たはげし、
 へずやありけん、大和は口を開きぬ「先生――御心当りがお有りなさるのですか」
や、別に心当こゝろあたりも無いが、災厄わざはひと云ふものは、皆な意外の所より来るのだから」
 大和はた沈黙せしが、やがて梅子のかたひざを向けぬ「山木さん、何時、先生を拘引すると申すのです」
「――明朝――」
「明朝――」とばかり大和はほとんど色を失ひしが「そして、いづれから御聴き込みになつたので御座います――はなはだ差出がましう御座いますが――」
 梅子は悄然せうぜんかうべを垂れぬ、
「――どうぞ、篠田さん、御赦おゆるし下ださいまし――警視庁から愚父ちゝへ内密の報知がありましたのを、はからず耳にしたので御座います、おはずしいことで御座いますが、愚父ちゝなどからも内々警察へ依頼致したのに、相違無いので御座います――篠田さん、――私は貴所あなたの前に一切を懺悔ざんげ致さねばならぬことが御座いますので、御軽蔑ごけいべつをもかへりみずまかり出でましたので御座いますが――」
 畳に両手きたるまゝ、声はふるへて口籠くちごもりぬ、
 大和はと立ちてしつを出でぬ、不安の胸にうでこまねきつゝ、
「梅子さん、快して御心配なさるには及びませぬ」と、篠田は微笑せり「我々の頭上に絶えず政府の警戒が厳酷なので、何時何事の破裂するか、予測することが出来ないのです、れは日本ばかりではありませぬ、万国に散在する私共の同志者は、皆な同一の境遇にるのです――ですから、貴嬢あなたに謝罪して頂くと云ふ様な必要は無いと思ひます」
 良久しばらくして彼女かれは思ひきつて口をきぬ「――貴所あなたの御同志が政府の憎悪にくみを受けて居なさいますことは、兼々承知致して居りまするが、貴所あなたの御一身にのみ、不意の御災難が降り懸かると云ふのは、其処そこに特別の原因がありまするので――そして其の機会を生み出しましたのは――私の――心の弱いからで御座います」
「――何と、篠田さん、御詫おわび致していのか」と、はふり落つる涙を梅子はぬぐひつ「心乱れて我ながら言葉も御座いません――只だ一言ひとこと懺悔させて下ださいませうか」
よろこん御聴おきゝ申すで御座いませう」
……………………………………………………………………
「何卒、篠田さん、御赦し下さいまし――貴所あなたの、御災難の原因もとはと申せば、――私が貴所を御慕ひ申したからで御座います――」梅子は畳に伏せり、歔欷きよき、時にかすかに聞ゆ、
 梅子はおもてもたげぬ「――定めて厚顔あつがましきものと御蔑おさげすみも御座いませうが、篠田さん、――私如きものが、貴所あなたを御慕ひ申すと言ふことが、貴所の御高徳をきずつけることになりまするのはく存じて居りまするから、だ心の底の秘密として、かつて一語半句も洩らしたおぼえのありませぬことは、神様が御承知下ださいます――其れを、結婚の申込をことごとく謝絶致します所から、人を疑つて喜ぶ世間は種々いろ/\の風評を立てまして――貴所あなたの御名誉に関係致しまする様な記事を、数々しば/\新聞の上などでも読みまする毎に、何程自分で自分を叱り、陰ながら貴所に御詫おわび致したで御座いませう――けれど我が心に尋て見ますれば、ひとの伝説を、全く虚妄きよばうとのみ言ひ消すことが出来ませぬので、必竟ひつきやう、貴所に此の最後の――縲絏るゐせつの耻辱を御懸おかけ申すのも、私の弱き心からで御座います」
 梅子はそでみ締めて声立てじとこらへぬ、
「何もおつしやつて下ださいますな」と篠田は目を閉ぢつ「現社会の基礎にをのを置きつゝある私共が、其の反撃にふのは、すこしも怪むに足らぬことで御座います」
「けれど、篠田さん、貴所あなたは今ま御自愛なさらねばならぬ御体で御座いませう」梅子の一語には満身のちからあふれて聞こえぬ、
「自愛致すとは」と、篠田はいぶかる、
此儘このまゝ篠田さん」と梅子はかへつて怪みつ「貴所あなたは入獄なさるので御座いますか」
左様さうです、力を以て来るものには、只だ温順を以て応接する外無いでせう」
「けれど――従来これまで愚父ちゝなどの話に依りますれば、貴所あなたのやうな方は、監獄内で不測の災禍におかゝりなさる恐があると申すでは御座いませんか、出過ぎたことでは御座いますが、しばらく日本を遠のきなさいましては――外国には随分他国に身を逃れると云ふためしもあるやうで御座いますから」
「梅子さん、御厚誼ごかうぎは謝する所を知りません、けれど私の一身には一人探偵が附けてあるのです、取分け既に拘引こういんと確定しましたからは、今くお話致し居りまする私の一言一句をさへ、戸の外に筆記して居るものがあるも知れないです、――し私一己いつこの野心から申すならば、今まむなしく牢獄にとらはれて、特に只今たゞいま御話の如き暴行は、随分各国の獄裡ごくりに実験せられた所ですから、私も決して喜んで行かうとは思ひませぬ、乍併しかしながら、私共同志者の純白の心事が、斯かることの為に、政府にも国民にも社会一般に説明せられまするならば、べうたる此一身にとつ此上こよなき栄誉と思ひます、実は我々の同志者と言はれて居る間にさへ、ほ心術を誤解して居るものがすくなくないので御座いますから――」
 篠田は語り来つて、急に言葉をあらため「余り自身のことを語り過ぎましたが、其よりも貴嬢あなたの将来こそ問題でせう、実は先頃剛一君とも一寸御話致したことでありましたが」
 梅子のかほ真紅しんくを染めぬ「有難う御座います、貴所あなたの温和の御精神をお聴致すにけ何と云ふ私の恐ろしい心で御座いませう、――私は篠田さん、ほんたうに懺悔ざんげ致しました、そして決心致したので御座います、私は兼ねて愚父ちゝから多少の地所と財産とを譲り受けて居りまするので、所詮しよせん不義の結果の財産のですから、一には贖罪しよくざいの為め、此の身とあはせて貧民教育に貢献したいと考へて居たので御座いますが、今度愈々いよ/\着手致すことに決心しまして御座います、申す迄もなく、只だ貴所あなた御指揮ごさしづをと其れのみ心頼こゝろたのみで御座いましたものを、――」
「ア、其れで安心致しました」と、篠田は晴々はればれと微笑を洩せり「梅子さん、誠に良き御計画で御座います、し私が自由の身で在りませうならば、充分御協議致しましていさゝか理想を実行して見たいのでありますが――かし決して御心配なさいますな、社会主義倶楽部の諸君は、無論満腔まんかうの尊敬と同情とを以て、貴嬢あなたの御事業を賛助致しませう」
 篠田のかほは輝き来れり「梅子さん、教会の為の宗教は未練なくお棄てなさい、原因ををさめない慈善事業は偽善者に御一任なさい、富の集中、富の不平均、れが単一なる物質的問題とは何事です、富資とみが年々増殖して貧民が歳々増加する、是れ程重大なる不道徳の現象がありますか、御覧なさい、今日の生活の原則は一に掠奪りやくだつです、個人は個人を掠奪して居る、国は国を掠奪して居る、刑法が言ふ所の窃盗せつたう、彼は児戯じぎです、神の見給ふ窃盗とはすなはち、今日の社会がもつとも尊敬して居る法律と愛国心です、所有権の神聖、兵役の義務、足れ皆な窃盗掠奪の符調に過ぎないのです、かも是れが為めに尤も悩んで居るものは、梅子さん、実に女性によしやうでありますよ、社会主義とは何ですか、一言いちごんおほへば神の御心です、基督キリストが道破し給へる神の御心です」
 彼は机上の一冊を右手めてに捧げつ「何卒、梅子さん、呉々くれ/″\これの御研究をお忘れないことを望みます、人生の奥義あうぎは此のさゝやかなる新約書の中にあふれて、めども尽くることは無いでありませう、――アヽ、梅子さん、何卒どうぞ我国にける、社会主義のマザアとなつて下ださい、マザアとなつて下ださい、是れが篠田長二畢生ひつせいの御願であります」
 梅子は涙きもへず、
 隣房の時計、二ツ鳴りぬ、アヽ、
最早もう、二時」と、梅子はかしらを垂れぬ、警吏の向ふべき日は、既に二時を経過せるなり、曙光しよくわう差しきたるの時は、すなはち篠田が暗黒の底に投ぜらるべきの時なり、三年の煩悶はんもんを此の一夜いちやに打ち明かして、やさしくうれしく勇ましき丈夫の心をも聴くことを得たる今は、又た何をか思ひ残さん、いざ、立ち帰りなんか、――帰りとも無し、
 胸も張り裂けんばかりの新しき苦悩を集中して、梅子は凝乎じつと篠田を仰ぎ見ぬ、
 両個ふたり相見て言葉なし、
 良久しばらくして、熱涙玉をなして梅子の頬を下りぬ、彼女かれは唇を噛んでうつむきぬ、
 突如、あたゝかき手は来つて梅子の右掌めてしかと握れり、彼女かれは総身の熱血、一時に沸騰ふつとうすると覚えて、恐ろしきまでに戦慄せんりつせり、額を上ぐれば、篠田の両眼は日の如く輝きて直ぐ前にかゝれり、
 篠田は一倍の力を加へつ「梅子さん――此れはいまかつて一点のけがれだも見ざる純潔の心です、今ま始めて貴嬢あなたの手に捧げます」
 梅子は左手ゆんでを加へて篠田の右手めてを抱きつ、一語も無くて身を其上に投げぬ、
 風もね雪も眠りて夜は只だ森々しん/\たり、
 既にして梅子は涙の顔をもたげぬ「篠田さんお叱りを受けますかは存じませぬが、暫時しばし御身おんみを潜めて下ださることはかなひませぬか、――別段御耻辱と申すことでも御座いませんでせう――犬に真珠をお投げなさらずとも――」
 篠田は首打ちりつ「如何いかなる場合に身を棄つべきかは、我等が浅慮の判別し得る所ではありませぬ」
「篠田さん、最早もう決して弱き心は持ちませぬ」と梅子も今は心めつ「何時と云ふかぎりも御座いませぬから、是れでお別れ致します、只今の御一言を私の生命いのちに致しまして――で、御一身上、私が承つて置きまして宜しいことが御座いまするならば、何卒どうぞ仰しやつて下ださいませんか――」
 篠田はばし首傾けつ「では、梅子さん、一人御紹介致しますから」と、彼は大和を呼んで兼吉の老母を招きぬ、
 声を呑むで泣き居たる兼吉の老母は、涙の顔を揚げも得ずして打ち伏しぬ、
「梅子さん、此の老女をいたはつて下ださい、是れは先頃芸妓殺げいぎころしうたはれた、兼吉と云ふ私の友達の実母です、――老母おつかさん、私は、或は明日から他行たぎやうするも知れないが、少しも心置なく此の令嬢かた御信頼おたよりなさい、兼吉君は無論無罪になるのであるから、少しも心配なく、其れに両個ふたりが相許るすならば、花ちやんと結婚したらばと思つて居るのです、元より強ふることは出来ないですが」
 篠田は梅子を顧みつ「只今慈愛館に居りまするが、花と云ふ婦人がるのです、芸妓げいしやでありまするが、余程精神の強固なのですから、将来貴嬢あなたの御事業の御手助となるも知れませぬ、」
 梅子は思はず赧然たんぜんとしてぢぬ、彼女かれの良心は私語さゝやけり、なんぢかつて其の婦人の為めに心に嫉妬しつとてふ経験をめしに非ずやと、
 兼吉の老母は正体なきまでむせび泣きつ、
「其から梅子さん、私一身上の御依頼が御座いますが」と、篠田は悄然せうぜんとしてまなこを閉ぢぬ、
「私に一人の伯母があるのです、世をいとうて秩父の山奥に孤独ひとりして居ります、今年既に七十を越して、钁鑠くわくしやくとしては居りますが、一朝私の奇禍きくわを伝へ聞ませうならば――」語断えて涙滴々てき/\
 梅子はこらへずひざすがれり、「御安心下ださいまし――、何卒御安心下さいまし――」
 篠田は梅子の肩、両手もろてに抱きて「心弱きものと御笑ひ下ださいますな――アヽ今こそ此心晴れ渡りて、一点憂愁いうしう浮雲ふうんをも認めませぬ、――然らば梅子さん、是れでお訣別わかれ致します」
「――心は永久に同住ひとつで御座います」
勿論もちろん

      *     *     *

 空は何時しか晴れぬ、陰暦の何日いつかなるらん半ば欠けたる月、けやきの巨木、花咲きたらん如き白きこずゑかゝりて、かへりみ勝ちに行く梅子の影を積れる雪の上に見せぬ、

三十


 窓白く雪の夜は明けんとす、
 篠田はいつもの如く早く起き出でて、一大象牙盤ざうげばんとも見るべき後圃こうほの雪、いと惜しげに下駄をいんしつゝ逍遙せうえうす、日の光ははるか地平線下にいこひぬれど、夜の神がし成せる清新の空気は、静かに来り触れて、我が呼吸をうながす、目を放てば高輪三田の高台より芝山内しばさんないの森に至るまで、見ゆる限りは白妙しらたへ帷帳とばりもとに、混然こんぜんとして夢尚ほまどかなるものの如し、
 篠田の双眸さうばう不図ふと円山まるやまの高塔に注がれて離れざるなり、静穏なるかな、芝のもりよ、幽雅なるかな、円山の塔よ、去れど其の直下、得も寝で悲み、夜を徹して祈れるもの一人あり、美しき雪よ、彼女の目より涙をぬぐへ、すずしき風よ、彼女の胸よりうれひを払へ――アヽ我が梅子、なんぢの為めに祈りつゝある我が愛は、汝が心の鼓膜こまくに響かざる、――父なる神、永遠とこしなへに彼を顧み給へ、彼女に聖力みちからを注ぎて、なんぢ聖旨みむねを地に成さしめ給へ、篠田はを転じて表のかたに出でぬ、
 雪を蹴つて来るものあり「先生――お早う御座います」言ひつゝ彼は、一葉の新聞を篠田の手に捧ぐ、
「オヽ、村井君ですか、御困難ですネ」と、篠田は新聞受け取りつゝ、「何か昨夜あつたと見えますネ、少し遅れた様ですが」
「ハ、夜中に長い電報が参りましたので、印刷が大層遅くなりました――先生、到頭たうとう戦争をるのでせうか――」
「サア、左様さうなりませうネ」
何卒どうぞ、先生、主義の為めに御奮闘を願ひます」慇懃いんぎんに腰をかがめたる少年村井は、小脇の革嚢かばんしかと抱へて、又た新雪あらゆき踏んで駆け行けり、
 中学の校帽凛々りゝしく戴ける後姿見送りたる篠田は、やがて眸子ひとみを昨日おのが造れる新紙の上になつかしげに転じて「労働者の位地と責任」と題せる論文にとわたり目を走らせつ、心は今しも村井が告げたる二面の夜中電報に急げり、
「日露外交の断絶」テフ一項の記事と相並あひならんで、篠田の眼を射りたるものは、「九州炭山坑夫同盟の破壊」と題せる二号活字の長文電報なり、篠田の心は先づ激動せり、
……憲兵巡査の強迫は正面より来り、黄金の魔術は裏面より行はれたり……
首領株三十名今夕突然捕縛せられたり、憲兵巡査の乱暴はなはだしく、負傷者少からず其の多くは婦人小児なり……是れ買収政略の到底効果なきより来れるものと知らる……維持費尽く、
「首領の捕縛」「公権の乱暴」「婦女小児の負傷」しかしてあゝ、「維持費尽く」
 新聞右手めてに握り締めたるまゝ、篠田は切歯せつしして天の一方をにらみぬ、
 白雪一塊、突如高きけやきこずゑより落下して、篠田の肩をしたゝか打てり、
 午前七時半、警官来れり、
 今や篠田の身は只だ一片の拘引状と交換せられんとすなり、大和は其の胸に取り付きて、鏡の如き涙の眼に、我師のかほを仰ぎぬ、
 篠田はおもむろに其背をしつ、「君、忘れたのか――一粒の麦種地に落ちて死なずば、如何いかで多くの麦ひ出でん――沙漠さばくの旅路にも、昼は雲の柱となり、夜は火の柱と現はれて、絶えず導き玉ふ大能の聖手みてがある、勇み進め、何を泣くのだ」
 わだちあとのみ雪に残して、檻車かんしやつひに彼を封して去れり、
(明治三十七年一月―三月)





底本:「筑摩現代文学大系 5 徳冨蘆花・木下尚江・岩野泡鳴集」筑摩書房
   1977(昭和52)年8月15日初版第1刷発行
   1981(昭和56)年11月15日初版第2刷発行
初出:「毎日新聞」
   1904(明治37)年1月1日〜3月20日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「むづしい」と「むつい」と「むつしい」の混在は、底本通りです。
※「何人」に対するルビの「なんぴと」と「なんびと」の混在は、底本通りです。
入力:kompass
校正:松永正敏
2004年8月9日作成
2016年2月22日修正
青空文庫作成ファイル:
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