(二月十五日夜發)
昨夕俄かに「足尾鑛毒問題」解釋の重任を負ひぬ、工業國たるべき日本に於て斯かる疑問の何時までも氷解せざるを見て、余はかねてより我が國運の障碍と思ひければ、敢へて之を承諾したりしなり、
兎に角先づ今回の被害地人民出京紛擾の情况を一瞥せばやと思ひければ、吹上停車場より腕車を舘林に
利根の舟橋打ち渡ればコヽなん被害地人民と憲兵巡査との間に開かれたる最近の古戰場なり、抑も彼等被害人民が今回の上京騷ぎは昨秋來の計畫にして、新年に入りて漸く熟し二月となりては形勢次第に切迫し遂に去十二日の夜、
之を防がんとて利根の川邊に集りたるは憲兵二十警官二百五十餘名、埼玉あたりより應援せるも少なからず、今は止むを得ず捕縛すべしとの一令を發して打ち向ふと共に群集は遂に解散せり、捕縛せられたる者二十四名、負傷したるは彼方にも此方にもありしと云ふ、
さて此の擧にあづかれる被害地人民とは上州に在りては
路傍の電柱、道標などに、「足尾鑛毒被害民上京」「慘死千何百名」など白墨もて書きたるは、一昨日の紀念ならん、一同は去十三日の午後一時頃を以て解散しつ、捕縛されたる廿四名は今朝までに皆な前橋地方裁判所へ押送されぬ、
余は道すがら被害地の概况を看つ、
余は所謂被害地區域に入りてより大に得る所あるが如く感ず、若し夫れ足尾の峯を攀ぢ渡瀬 の流を下るの後は髣髴として「足尾鑛毒問題」なる一個の面影を描くに庶幾 からんか、(二月十五日夜佐野町にて木下生)
(明治三十三年二月十七日 毎日新聞第八八二一號)