幸徳秋水と僕

――反逆児の悩みを語る――

木下尚江




      一

 君よ。明治三十四年、僕が始めて社会党の創立に関係した時、安部磯雄、片山潜の二君は、年齢においても学識においても、長者として尊敬して居たが、親密な友情を有つて居たのは、幸徳秋水であつた。彼は僕より二つ年下であつた。幸徳を友人にしてくれたのは石川半山だ。
 僕がまだ二十代で、故郷で弁護士をして居た時、石川は土地の新聞主筆として招かれて来た。彼が好んで自分の師友の評判をする時、「幸徳秋水」の名前を頻りと吹聴した。
 石川が始めて故郷岡山を出て東京へ遊学の折、当時東洋のルソーと謳はれて居た中江兆民を、大阪に訪問した。その兆民先生のムサくるしい玄関で、彼は始めて幸徳を見た。幸徳はなた豆煙管をたゝいて、時勢を論じたさうだ。明治二十年の冬、保安条例で兆民が東京を逐はれた時、当時十七歳の幸徳も、師匠に同伴して大阪へ行つたものと思はれる。
『兆民門下の麒麟児だよ』
と、石川は盛んに幸徳を推称した。
 僕が東京へ出て「毎日新聞」へ入社したのは、石川のお蔭であつた。

      二

 三十二年の春、僕が上京後間も無い頃、或朝石川の下宿で話して居ると、襖の外に、
『石川――』
と、やさしく呼ぶ声がした。
『はいれ』
と、石川が大きな声でいふと、スウと襖が開いた。
 見ると、色は小黒いが眉目の秀麗な、小柄な若い男が立つて居る。僕を見て、躊躇して居る様子、
『はいれ』
と石川が又呼んだ。
『可いか――』
というたその口元に、妙に処女のやうな羞恥がもれた。
 これが幸徳であつた。彼は文章と識見とで、当時既に「万朝報」紙上の名華であつた。
 僕に幸徳の事を口を極めて称讃した如く、石川は、僕の事をも幸徳に、輪に輪をかけて話して置いたものらしい。初対面ながら、古馴染のやうな気がしてすつかり打ち解けて語ることが出来た。
 時は日清戦争の後、支那の償金がはいつて、事業熱の勃興と共に、始めて日本に「労働問題」といふ熟語が伝はり、職工の間に組合組織が競ひ起る一方、学者思想家の間には、「社会問題」が盛んに論議される新時代であつた。
 僕の入社した「毎日新聞」でも、社長の島田三郎先生が、去年の暮、旧い関係の政党を脱退して自由独立の身となり、言論文章で新機運を呼び起こさうといふ意気溌剌の折柄で、「青年」「労働者」「婦人」これが先生の三要目で、現に「青年革進会」の会長であり、たしか活版工組合の会長でもあつたやうに記憶する。
 その頃、芝園橋側のユリテリヤン協会といふは、仏教、耶蘇教の自由家若くは脱走家の団体で、会長の佐治実然といふはもと本願寺派の才人、村井知至、安部磯雄などいふは、組合教会の秀才であつた。この協会の中にまた「社会主義研究会」といふのが出来て、これには協会外の人も加入して居た。幸徳もその会員の一人で、僕にも入会を勧めたが、僕は「研究会」といふやうなものは嫌ひだというて、拒絶したことを覚えて居る。

      三

 安部君とは、妙な所で知合ひになつた。
 明治三十二年の暮だと思ふ。埼玉の県会が公娼設置の建議案を通過した。畢竟遊廓新設地の地価をあげて腹を肥やさうといふ魂胆だが、表面の理由は、日本鉄道会社大宮工場の如き、職工労働者の巣窟のために、風教衛生上、公娼設置の急務があるといふのだ。
 これを聞いた大宮工場の労働組合が、憤起して反対運動の声を挙げた。島田先生も応援演説に行かれるので、僕にも同行を勧められた。その朝、大雪の降る中を上野停車場へ行つた。先生と立ちながら話して居る人を見ると、中肉中背、黒の外套に中折帽子、赭ら顔に鳩のやうな柔和な目、如何にも清高の感じのする年少紳士だ。これが早稲田の新教授安部磯雄君であつた。安部君も矢張り大宮へ行くのだ。
 大宮では、かねて会場に借りて置いた劇場が、公娼派の圧迫で急に断つて来た。寺を借りようとしても、貸して呉れない。やむを得ず、長屋建ての狭い「労働倶楽部」を臨時の演説場。庭前を板で囲つて露天の傍聴席だ。
 物々しき警察の警戒――屋内へまで大きな雪が舞ひ込む。聴衆は真つ白になつて、吹雪の中に立つて居た。
 この一挙で公娼案は全滅した。
 当時、砲兵工廠と大宮工場とは、労働運動の中心で、片山潜、高野房太郎などいふ指導者の名は、官署や会社の方面へは、蛇蝎のやうに響いて居た。
 この埼玉における公娼反対の成功が、やがて東京における廃娼運動の勃興を促し、更に多方面へ大小幾多の波瀾を及ぼし、その結果、内務省が急に省令を出して「娼妓の自由廃業権」を承認せねばならぬことになつた。

        四

 新聞社へ幸徳が尋ねて来た。僕の顔を見るといきなり、
『おい、社会党をやらう』
『ウム、やらう』
 かういつて、立つたまゝ、瞬きもせずに見合つて居たが、やがてニツコと笑つて、直ぐに彼は帰つて行つた。
 日を経た後『創立委員会を開くから、呉服橋外の鉄工組合事務所へ来て呉れ』
と、幸徳から知らせて来た。
 どんな顔が寄るかと思ひながら行つて見た。安部君が来て居る。片山君が来てゐる。西川光二郎君といふ「労働世界」の年少記者を、片山が連れて来て居る。「万朝報」の河上清君といふが来て居る。それに幸徳と僕、都合六人だ。
 当時の事だから、お手本は自然ドイツだ。名称は「社会民主党」少し明細な「宣言書」をだす事。宣言書は、幸徳の文章でやるべき所だが、幸徳は辞退して先輩に譲つた。衆望で、安部君が筆をとることになつた。費用は、差当り五円持ち寄りの三十円。幹事二名――片山君と僕。事務所は、神田仲猿楽町の僕の借宅。
 我等の顔は、雲霞の如き前途の希望に輝いた。けれど、幹事といふ僕の眼前には、差迫つた一つの問題がある。党が成立した上は、直ぐ世間へ発表せねばならぬ。東京を振り出しに、西は名古屋、京都、大阪、東は仙台――せめてこれくらゐのところでは、一つ集会をやらねばならぬ。然る所、安部君は教授の繋累で、地方出張の時間の自由が無いといふ。幸徳は、『僕は筆でやるから、演説は是非勘弁して呉れ』といふのだ。
 片山君は学問もあり経験もある。彼が一たび憎悪に燃えて、野獣の如く叫ぶ瞬間、頑強粗野な体躯面貌は、あたかも岩石の聳ゆる如くに聴衆を圧倒する。然しそれがもし壺にはまらぬ場合、兎角満場倦怠の不安がある。
 今や我等は、同志の前へ行くのでは無い。軽蔑と嘲笑との中へ踏み込んで、征服し啓発して行かねばならぬのだ――
 こんなことをひとり思うて居ると、届け出てから五六日、警察署の呼出状が来た。行つて見ると警視庁の「禁止命令」だ。
 さて、政府は党を禁止したのみでなく、宣言書を載せた新聞紙をことごとく告発した。この時まで一般社会は、社会党の問題に対しで、「書生輩の児戯」以上、実は未だ一向に注意を払つて居なかつたものだ。「禁止」次いで「告発」――世間は始めて漸く目を見張つて来た。
 都下の新聞社がいづれも有罪の判決を受け、法の明文に従つて判決書の全文を各紙上に満載した時、犯罪の主体たる「宣言書」が、改めて全部判決書中に掲げられて再び紙上に現はれた時、読者は新奇の熱情に誘はれて、一字も余すまじと精読した。かうした不思議な因縁で、「社会主義」といふ記憶が電気メッキの如くに、国民の心裏に焼きつけられてしまつた。
 ユニテリヤン協会では、今や「社会主義研究会」の看板を持て余ました。それを我々の方へ貰ひ受けて「社会主義協会」と塗り替へて、毎月講演会など開くことにした。三十六年の暮、日露両国の交渉が危機に迫つた時「非戦論」を発表したのも、この社会主義協会だ。

       五

 幸徳が中心に立つ時が来た。幸徳が「非戦論」で「万朝報」を退社したといふことは、当時の青年への一大衝動であつた。彼は同問題で一緒に進退を決した堺利彦君と二人で、数寄屋橋角の古長屋に「平民社」を新設し、「平民新聞」といふ週刊新聞を発行した。堺君といふ人と提携したことが、実に幸徳の幸福であつた。
 幸徳の本領は詩人だ。彼が低く細い声で徐ろに肝胆を吐く時、一種の精気――鬼気ともいふべきものが、相手の肺腑を打つ。彼は虚弱でよく病んだ。
 堺君は常識の人、事務の人、強健で快※(「さんずい+闊」、第4水準2-79-45)、一切万事一人で忙がしく切つて廻すところに、堺君の興味があつた。堺君のゐるところには、初夏のやうな晴れやかさがあつた。
 当時の青年が要求したものは、実は成形した思想などでは無かつた。彼等は混沌を渇望した。大混沌を渇望した。大混沌裏の大創造を渇望したのだ。この渦巻いてゐる若い熱ガスのために、一個の小噴火口を与へたのが、幸徳の平民新聞であつた。
 嗚呼、当時の東京――
 僕は、夕方尾張町の新聞社から平民社へ立寄つた。数寄屋橋角の石垣は、まだ昔のまゝに高く残つて居り、濠端には、竜のやうな老松が、鬱蒼と茂つて居た。電車は開通し始めて居たが、自動車などは夢にも無い。街頭でも家の中でも、ランプとガスだ。
 母が甘い物を好んだので、平民社の直ぐ隣の塩瀬で、よくあんころもちを買つて帰つた。日比谷へ出て、芝の山内を抜け、一の橋、二の橋、中の橋を渡り、仙台坂を上つて、日和下駄を響かせて、南部坂の家庭へ帰る。――目を閉ぢて回想すると、君よ、真に田園の静寂だ。
 僕が今幸徳を語るを見て、「逆徒」の名を語るを見て、必ず恐怖する人があらう。戦慄する人があらう。憤怒する人があらう。
 君よ。僕は逆徒を語るのではない。逆徒を擁護するのではない。「逆徒の悩み」を少しく聞いて欲しいのだ。

       六

 マルクスの「共産党宣言」が、幸徳、堺の二人の手に翻訳されて、平民新聞に満載された。新聞は直に発売を禁ぜられ、幸徳は発行人の名義の下に告発されて刑事の法廷へ立つことになつた。花井卓蔵、卜部喜太郎、今村力三郎などいふ当年の少壮弁護士が自ら進んで弁護の労を取つて呉れた。然る所、問題は有罪無罪でなく、思想その物が主脳であるから、この際誰か同志の中で裁判所といふ機関を通して意思を表白する必要がある――かういふ議論が起つた。それから、僕がその選に当つた。僕は忘れて、未だ弁護士の登録を取消して無かつたので、誠に都合が好かつた。
 花井君が、誰かの法服を持つて来てくれたので、早速借用して入廷した。皆んなが見て笑ふ。被告を無罪にしたいなどいふ私心から、全く離れて、高所から自由に所信を吐く――僕は始めて、ひそかに弁護士の壮美を感じた。
 裁判が確定して、三十八年の春の初、幸徳は市ヶ谷の監獄へ行つた。その朝、平民社へ行くと、丁度幸徳が書物を山のやうに風呂敷に包んで居た。見ると旧新約聖書を一冊、手にして居る。
『それを、どうするのだ』
と、僕は不思議に思うて、問うて見た。
『これか――』
といつて、幸徳は気の毒さうに躊躇したが、
『牢屋で一つ、ヤソの穴探しをするんだ』
 かういつて、笑つた。
 病身の彼は病監に粥をすゝつて、心静かに読書と思索に耽ることが出来た。半歳の監獄生活、夏の暑い最中に帰つて来た幸徳は、最早入獄前の彼では無かつた。マルクスの共産党宣言で入獄した彼は、クロポトキンの無政府主義者として帰つて来た。彼はクロポトキンの事を「先生」と呼んで居た。
 日露戦争は終りを告げて、媾和談判中、幸徳は方向転換の準備として、一年ばかり外国で静養するはずであつた。平民社は幸徳の出獄を待つて解散した。
 十一月、幸徳は愈々米国へ行くことになつた。それについて、彼は一方ならずお母さんの身の上を心配した。
 幸徳のお母さんは、僕の母より二つ三つ年下らしく見えた。小造りな、引締つた無病さうな体格の人で、言葉の少ない、気象の勝れた、エライ婦人であつた。幸徳は生れて間もなく父に死に別れたので、お母さんの手一つに育てられたといふことだ。お母さんは到頭故郷の土佐へ帰つて行かれた。
 明日出発といふ日、角筈の幸徳の家へ行つて見ると、来客の絶え間が無い。幸徳は僕を引つ張つて櫟林へ行つた。切り株に腰をおろして、誰に遠慮もなく腹蔵なく語り合つた。
 アヽ、何といふ距離ぞ。
 一つの言葉が二人の間に置かれてある。「権力否定」といふ一つの言葉が、二人の間に置かれてある。幸徳は無政府主義の理論で説く。僕は神の愛でいふ。やがて話が互の一身の上に落ちた。僕はいうた。
『かうした道を行く身に取つて、年取つた母を連れて居るといふことは、如何にも心苦しい』
『うム――』
と幸徳も軽くうなづいたが、暫くして顔をあげ、
『しかし、君。母でも無かつたら、何をする気も出なからう』
 かういつて、風の寒い武蔵野の暮れ行く空を、茫然とながめて居た。翌日、多勢の友人同志に見送られて、横浜を立つた。

      七

 戦争後の戒厳令時代。
 よく「家宅捜索」が来た。
 予審判事が警官を指揮して、母の病室へまで踏み込み、枕元なる箪笥の中、棚の隅々、無遠慮に取り乱して物を探す――母は白髪頭を枕につけたまゝ、目を閉ぢて、眉一つ動かさない。捜索隊が去つてしまつても、何一つ口にしない。まるで、何事があつたかも知らぬやうな顔をして居て呉れた。
 平民社解散の後、僕は石川三四郎君を勧めて「新紀元社」をてた。キリスト教社会主義とでも、いへばいへよう。徳富蘆花君を引つ張りだした。安部君も助けてくれた。田添鉄二君といふ青年哲人が助けてくれた。月刊雑誌の外に、日曜日の講演会を開いた。
 三十九年の五月六日、これは日曜日であつた。母の脈搏が変つたから外出を見合はすやうにといふ妻の注意に、午後の講演会を断つて、母の側について居た。枕頭には妻が居る。裾の方には、医者が居て呉れた。日が障子に当つて、明るい静かな真昼時、母は眠つたやうに六十八年の呼吸を引き取つた。
 僕の十九の学生時代に、父は死んだ。父の目には、こんな子にさへ一縷の希望を繋いで死んで行つてくれた。けれど母には、一日の喜びも与へず、苦労に苦労の一生を終らせてしまつた。
 母の跡片づけも済んで、さてこれから新鋭の気を以て、改めて仕事にかゝるのだと思つた時、どこからとも知らず、一つの声が響いた。
『誰のために――』
 驚いて目を開くと、まるで夢のさめたやう。
 涙が身の底から、滝のやうにわいて、止め度が無い。
 連日引籠つて思案に暮れた末、思ひ切つて新紀元社へ行つて石川君に話した。
『僕は、もう駄目になつた』
『然うか』
というて、年少の石川君は、さま/″\慰めてくれた。
 差当り北海道の遊説を中止せねばならぬ。
 僕は夏季の遊説をやつて居た。一昨年は上州から信州へ行き、昨年は奥羽へ行き、今年はいさゝか大規模に北海道を廻る予定で、現に石川君の机の上には、同志達から打合せの手紙が、幾通も来て居る。
 一切「謝罪」――
 幸徳は予定より早く帰つて来た。四谷の小泉三申君の宅へ、彼を尋ねて行つて見ると、持つて来たのであらう、バクニンの大きな額面が、玄関の壁に立てかけてあつた。彼は、旧同志を糾合して新運動に着手する心算で、日刊新聞発刊の計画さへも進んで居た。
 僕は世上一切の関係から離れ、孤独の身となつて山へ行つた。

      八

 早くも二三星霜。
「赤旗事件」で、堺君等が千葉の監獄へ送られたと聞くや、土佐に静養して居た幸徳は上京した。その頃、僕の三河島の草屋を、平民社時代の人達が尋ねて来て切りに幸徳を攻撃して聞かす。彼が千代子夫人を離別して、新しい婦人と同棲して居るといふのだ。それで僕に忠告の役を勤めよといふのだ。僕は黙つて居た。
 或日、名古屋のお千代さんの姉さんが見えて、一通の手紙を僕の前へ置いた。幸徳からお千代さんへの郵書で、文句は長いが、要するに「自分は菅野といふ婦人と恋愛に落ちたから、今後御身とは兄妹の関係に過ぎない」といふ宣言だ。
『妹は、泣いてばかり居ります――』
というて、姉さんも目を押へて居る。僕は密に幸徳の苦悩を想うた。捜し/\して幸徳の浪宅を尋ねて見ると、私服の警官が二名、門前に張り番して、訪問客を一々厳重に調べて居た。
 丁度婦人は外出中で、幸徳が一人で居た。彼は詳細に顛末を語つた。僕は目を閉ぢて聞いて居た。語り終つた彼は、一段と声を改めた。
『然し君。僕の死に水を取つて呉れるものは、お千代だよ』
 この一言に、僕は胸がカラリと晴れた。直ぐに話題を転じて、何もかも忘れて久し振りで談笑の世界に戯れた。
『またくるよ』
というて、スイと立つと、畳の上に寝そべつたまゝ幸徳は、
『好い身体だなア――』
と、さも羨ましげに見上げた。やせ枯れた僕をさへ羨むほどに、彼の肉体は破れて居た。人を避けて少し静養したいと思ふ、といふから、僕は熱心に勧めて別れた。
 間もなく湯河原から、転地の通知が来た。僕は、新約全書と碧巌録とを、小包で送つてやつた。
「牢屋で耶蘇の穴探しをしたから、今度は耶蘇の宝探しをして呉れ」と書き添へて。
 碧巌の礼だけいうて来た。後で思ふと、あの時幸徳は既に「基督抹殺論」を書き始めて居たのだ。四十三年六月一日、彼は場河原から市ヶ谷の監獄へ移つた。お千代さんが名古屋から出て来て、病弱な身で、差入物万端世話して居ると聞いた時、僕は「死に水を取つてくれるのは、お千代だよ」というた時の顔を思うた。
 歳末、お母さんが、遙々土佐から上京し、堺君に連れられて、市ヶ谷へ面会に行かれたと聞いた時、僕はツク/″\「母の慈悲力」を思うた。
 数日後、朝、新聞をひろげると、お母さんが土佐で亡くなつた記事が、大きな活字で出て居る。
 僕は直ぐに筆を執つて手紙を書いた。櫟林の会談を書いた。母に死なれた経験を書いた。わき来る感慨を、筆の走るにまかせて書いた。――一刻も早く見せたくて、東京へ行つて郵便に出した。
 幸徳から返事が来た。
『君の手紙で、思ふ存分に泣いた――』
 遺稿「基督抹殺論」は、堺君と高島米峰君の尽力で世に出た。彼は四十一歳であつた。
 丁度、早稲田大学の雄弁会から呼びに来たので、早速承諾の返事を出した。演題は、
「基督抹殺論を読む」
 君よ。妙なことには、これが僕の「演説家」生活の、最後の幕になつた。
〔『朝日新聞』昭八・四・一五ー二〇〕





底本:「近代日本思想大系10 木下尚江集」筑摩書房
   1975(昭和50)年7月20日初版第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
ファイル作成:
2006年9月18日公開
青空文庫作成ファイル:
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