釣れない時

君は何を考へるか

佐藤惣之助




 フイロソフイストは、「人は考へる為めに生れて来た」といふが、われわれフアンテエジストは、「人は空想する為めに生れて来た」と云つてもよい程、用もない時は空想ばかりはしらせてゐる。殊に一個の文章を書かうとする前、一つの考案をまとめる前、さういふ時には、この空想の加速度によつて、多くその文章が破棄されることすらある。従つてその空想の奔馬は自在に荒れ狂つて、遂には果てしもない無有郷へ行くか現実をどうどうめぐりして、そのまま没落してしまふ。
 釣りに行つて、イザ釣らうとする時、又竿をのべてアタリを待つ時、しおの調子の悪い時、月の明るい時、遥かな港や村をふりかへる時、同じやうに空想の奔馬は天を馳り地を潜る。そしてよく現実がお留守になつて、太公望的期待の心境に陥るか、又はロビンソー・クルーソー式の感情に偏することがある。(釣りに行つては決して現実的の事は断片的にしか考へられない。又考へてゐたら決して釣れないのがふしぎである。)例へば、
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 岩魚いわな、ヤマメ、鮎に行つた場合にいて。鳥、魚、昆虫にも、各自の生層を通じて、自在に会話の出来る瞬間といふものが、有るのではないか。

 樹木は「善」の象徴である。いわく彼は何んにもしないから。

 海が渓流を引くのか、水が海と山を結ぶのか、水とは白い冷い火ではないのか、或は最もよき食物であり、流れるパンではないか、ターレスは智者だつた。水を愛する者は感情家だといふことだ。

 この山には、日本のジプシー、山窩さんかはゐなかつたか、彼等は鮎を何で釣るか。

 神農民は、あらゆる草木を舐めて後、何故鮎をムシヤとやらなかつたか。

 ギリシヤの神々は釣りをした。日本の神々も釣りをされたに違ひない。釣りをしない民族は不幸だつた。

 パミール高原やアマゾンの奥で、一度は釣つて見たいものだ。雲南や青海省の方面の釣信を聴きたいものだ。

 もし自分がこのまま帰らなかつたら滑稽だ。心臓がパタリと止まつて。

 山姥やまんばといふものは猿も同然だ。

 うわばみ、熊、狼、などといふものは、想像するほど人に危害を加へるものではない。うまく行くとよく馴れる。

 仙人になるといふことも、ある一歩のところまでは本当に出来る。

 生食、裸形生活、雨露の問題、それを練習するには三年かかる。それ以前に誰しもがたおれるからつまらん。

 山を下りて行つたら、世の中が一日で変化してゐたり、山峡づたひにペルシヤに出たり、深い無限の竪穴があつたり、桃花郷があつたり、ナポレオンと釈迦と、ガンヂーとヒツトラーなどが向ふから歩いて来たり。

 女児を生後一ヶ月から渓流で教育したら、一人を唖にし、一人を聾にし、一人を裸にし、一人を鉄仮面にし……。

 一日一人で笑つてゐたら発狂するだらう。

 そんな空想をのんきにはしらせて釣り歩るく。然し川釣りになると、町や村も近いし、夜は灯が多いし、あたりに必ず人間もゐるから、馬鹿馬鹿しい空想も起らない。然し夜陰に一人で小舟で釣つたり、あしの中に隠れてゐたりすると、古い昔の事やら季節的なものがよく眼について、大変におもしろい。然し本当に空想が雲のやうに湧くのは海だ。それも船頭や他の仲間がゐたのでは面白くない。防波堤で徹夜したり、岩礁で一人釣つたり、島蔭で釣る時は、時に空想自在である。例へば、

 なる程海は動いてゐる。何万年も動いてゐる。万物は海から這ひ上つて来たに違ひない、植物も動物も――そして人間、火は上昇した、水は沈んだ。水と火、万物の母。

 海藻から、覇王樹から、柳から、蘆から、植物は這ひ上つて来た。

 プラングトンから、水母くらげから、貝殻から、甲足類から、彼等は人間を目的にしないでやつて来た。

 人間――それは最も海にとつて必要のない化物だ。

 気層に羽のあるもの、地層に足のある者、水層にひれのある者。世界は三段になつて出来てゐる。

 鼻糞の白い日は、人間も貝殻の生活だ。

 海と女――或は女の方がよく海を知つてゐるかも知れない、潮時の出産、月のもの……。

 女の半面の片側のもの、魚。

 魚は恋を知らない、痛疼感がない、然し彼は驚く、彼は怒る。

 上層を遊弋ゆうよくする奴も、下層にへばりついてゐる奴も低脳だ。インテリ性の魚は中層を往く。

 魚は波浪の音以外の音を嫌ふ。

 上層が銀、中層は紫、最深層は紅、紅の魚は深い。

 魚は近眼か、老眼か、どうも組織が反対ではないのか。

 海は恋を嫌ふ。陸の灯は遥かに遠い。

 海には甘水がない、こいつは不思議だ。

 暴風しけはやむを得ないが、食料がなければ船は死刑台だ。

 人間は貝殻のつもりなら生きられる。然し魚の真似は出来ない。

 海から見た海、円い海、円い空、水平の一線。中の風、浮くもの、あとは何んにも見えず。

 一個の人間、一個の蟹、浪にとつては同じこと。

 鴎は空に、魚は潮に、人間は中ぶらりん。

 日本は海から見た時のみ蒼古そうことしてゐる。

 地震、浪はささやくだけだ。

 海は明るい、真の闇といふものは海底にしか存在しない。

 魚は発光器を持つから発声器を持たない。

 魚は泣かない代りに、魚は笑ふ。

 海は階級だの、貨幣だのに関係のない時にのみ面白い。

 海では魚よりも釣餌に苦労する。

 魚のホテル、釣りのかかり、釣徒の難所。

 このまま自分が帰らなかつたら悲惨だ。陸上の家族が。然し自分が海津に腐肉を啄かれるのは痛快だ。

 海と死、紙一重。

 海は聾である。盲目である。彼は漂流者の五官を奪ふ。

 白帆――希望、島――休息、船――足であり翼である。

 世界には血よりも塩が多い。

 風、取去ることの出来ない世界の呼吸だ。潮の世界の血液だ――青い。

 羽は欲しくないが鰭は欲しい。呼吸機関と鰭の推進器はつながらない限りはない。

 紙のモーター・ボート、海の蝶々。

 海水浴者は海を怖がる。釣徒は海を可愛がる。

 定まつて釣れない時には、そんな事を考へて、海といふよりも、大きい明るい自然に対して、ぼんやりと驚歎してゐる。さうしてゐる時は無論虚無的になつてゐるが、然し何か大きいものに抱かれてゐるやうで、生きてゐることがいとしく、又有難いとも思ふ。そんな意味で、われわれフアンテエジストのためには、釣りが何よりの自由権であり、夢想郷への形影問答でもある。
(七年・十・十五)





底本:「集成 日本の釣り文学 第二巻 夢に釣る」作品社
   1995(平成7)年8月10日第1刷発行
底本の親本:「釣心魚心」第一書房
   1934(昭和9)年4月発行
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:岩澤秀紀
2012年7月1日作成
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