二人の男

島田清次郎




 九月のある朝。初秋の微風が市街の上空をそよそよとゆれ渡つてゐた。めづらしく平穏な朝で、天と気は澄みわたり、太陽の光りが輝やき充ちてゐた。北輝雄は未だ夏期なつぬるみの去らない光明を頭からいつぱい浴びながら、無細工な大きな卓机にもたれかゝつていゝ気持でうつとりしてゐた。やうやく三十分前ばかりに眼を醒ましたところだつた。彼の勉強室でもあり、仕事室でもあり、応接室でもあり、また食堂でもあり、一日の働きの疲労をねぎらひ、新しい次の日の精力を恵んで呉れる寝室でもあるその一室には、未だ昨夜からの薄ぎたない寝床がそのまゝに敷かれてあつた。窓際からは、本郷の高台の深い樹木の茂みや折り重なつた建築の断層が蒼い天の下に見え、窓先の無果樹の大きい葉がそれらの視望をゆすぶつてゐた。彼は決して、八畳の部屋に雑然と置かれた卓机や、書架や、一方の壁にはりつけてある世界地図や天体の星図や、地図の上にかゝげてある耶蘇と釈迦の肖像などと部屋の中央に敷かれてある夜具の不調和を見ないわけではなかつた。いつもだつたら彼等自身への申分けのやうに、顔を苦々しくしかめて夜具を押入へ投げ入れ、庭園の井戸端へ出て冷たい水を浴びて来なくては承知しなかつたであらうが、今朝は、ふつと眼を醒ますと、さあつと朝光の流れがまともに彼の頭上に溢れかゝつてゐたのだ。昨夜雨戸をしめることを忘れて寝た偶然が思ひがけぬ喜びの因となつたのである。彼は蒼い天に輝く太陽を仰いだとき自分は祝福されてゐると信じないわけにゆかなかつた。この天と太陽は今朝は自分一人のために自由で無果で偉大で熱烈であるのだと思はずにゐられなかつた。それ故彼はむつくり起き上がつて椅子に腰かけ卓机にもたれかゝつたまゝ、一切から解放された美はしい光輝にうつとりしてゐた。微風がそよぐたびに、無果樹の緑紫の色葉がゆれるほか、この瞬間の彼自身にとつて全宇宙と雖も何するものであらう!
「いゝな。」
と彼は無意識にうなづいた。あゝ、生気と力と美に荘厳されたこのひとゝきの世界よ。
 が、このひとゝきは、おのづから生じた何故とも知らぬ深い大きい溜息で破られ、彼の魂に不快な暗い陰影が生じて来た。それは魂の高揚と充実がほぐれかゝる空隙にしみいる悲痛な、暗い生活の陰影であつた。(何故自分はこの壮大な歓喜に永住することをゆるされないのであらうか。何故自分はこの悦ばしき高揚に脈うつてゐられないのであらうか。)彼はまた深い大きい溜息をついた。もう歓喜の波は遠のいてしまつて、悲壮な気持が、彼の苦闘と勝利につらなる現実の生活に対し、堅い堅い「きつと勝つて見せるぞ」と云ふ信念となつて相対してゐた。
 彼の部屋はある旧華族の有つ果樹園の中の一室きりの平家だつた。以前、この果樹園の持主が本気で果樹の栽培をやつてゐた時分は手軽な休み所として建てたものであつたらしいのを、今年の春以来、自分の住居として借りてゐるのである。都会の真中で新鮮な空気と広大な天地を求めるにはこれより他に道が無かつたのだ。やがて、北は夜具をたゝみ、障子を明けて戸外へ出た。巴丹杏や林檎や蜜柑の樹が雑草の生ひ茂つた荒れはてた庭園いつぱいに枝を交へて、どれも虫がついて早熟したらしい果実が鹿野子色、黄色、緑金色の色合を澄み渡つた秋空にはしらせてゐた。井戸端に来ていつものやうに素つ裸かになつて骨つ節の太い肉附のひきしまつた自分ながら頼もしい皮膚の表面へ肉体からだをいたはりながら頭からつゞけざまに冷水を浴びる。白い水に日光がきらきら光りほんのり血がのぼつてくる健やかな美しさ。十杯もあびてゐるうちに、身内から凛々たる精気が一種の戦慄となつて湧きのぼつてくる。彼はぶるぶる武者ぶるひをしてしばらく木の間がくれに向ふの丘のあたりに見える建築を眺めてゐたが、そのあたりが大学の在るところなのに気づくと、どう云ふものか刺戟され、「さあ。」といふ気になつて、自分の部屋にかへつた。
 朝起きの牛乳屋が寝てゐる間に土間に置いていつた牛乳と堅いパンが北の朝飯であつた。彼は幸福な太陽と大空との恍惚からはなれて、パンをむしりながら、新聞の外国電報欄を注意深く読みながら壁間の世界地図の上にその一字一句を明確に具象化することのたのしみにうつつてゐた。非常に根深い革命の事実は、鉄蹄の下に全地上を蹂躙する帝王や英雄の仕事の楽しみをもつてさへ彼の魂を誘惑しさうでならなかつた。実際近頃彼の心境はナポレオンを一概に批難し去る気にはなれないで、むしろ、あらゆる新聞が軽々しく論決を下す論調に腹立たしさを感ぜずにはゐられなかつた。ほんとうに、国家と国家の戦に流す国民相互の血が一片の理論や解釈によつて片付けられるほどに無意義でもなく、軽々しくもなく、その必然な真義はもつと止むを得ない根本的な命運であり宇宙的な進化であることを認識するならば、階級戦、――上と下との二つの力がきしみあふ革命に流す同胞相互の血を、まるで現代の被征服階級の単なる讐復慾や残忍さ愚昧さやまたは卑劣な野心家の策略などの生みだした仕事だと速断することはあまりに不快でもあり、嫌悪に値することだつた。そこにはもつと重大な深い必然性を認めないわけにはゆかない。お互に血と血を流し合ふことは決して容易なことではない。たとへどんなに野獣のやうな表現をとらうともその厳粛な内面の意義を崇高で悲壮な人類の進化の一歩でないと誰が断言できようか。
 凡そ多くの人間の欠点は事実のうはつらだけを見てその事実を裏付けてゐる重大な内面的意義を透観することをしないことにある。このことは凡そ習俗に通有する性質ではあるが、ことに日本人中のある階級の人間はひどいのである。民衆には言葉はなくとも直観があつて、火薬のやうに火のつけられるのを待つてゐるが彼等一部の人間は内容が空虚で、たゞ論理と形式の空音ばかりしかもつてゐない。――が、こんなことは凡そつまらないことのおびたゞしいものだ。自分はもつと緊要な仕事を持つてゐたのだ、と、彼は気づいた。――それに今日は朝寝をして、もう正午に僅か長針の二まわりもない位ではないか。あゝ、それにしてもこの祝福された朝に、自分が全力をそゝいで仕事の出来る幸福さを思つてくれ! 自分は今、何として、幸福なんだらう!
 北は新聞を捨てゝ原稿用紙を取り出した、地図の上からは群集も叫喚も砲声も消え失せてしまつた。彼はペンを握つていつものやうに書きはじめたが、たゞ、涙がにじみ出さうでならなかつた。あゝ、にじみ出る涙に無理はないのだ。彼が未だ幼稚で初々しい少年の胸底深くにもあの悲痛な、己れの一生を貧しき者、弱き者の運命のために捧げようとはじめて決心してから何と云ふ永い苦しい燃え立つた年月が過ぎ去つてゐることだらう。その間の艱難と辛苦と忍耐に充ちた放浪の生活が彼には今も生き生きと未だに甦つてくる。其間に出あつた多くの善良な苦しめる人々の魂が今も生き生きと未だか、未だかと迫つてくる。幾度となくかみしめた己れの無智と無力を嘆ける涙よ、あゝ、何時までも不正なゆるしがたいこの現実の事実に指一本さへ触れることの出来ない哀れな自分であるのかと幾度せまつてくる胸を抱いたことであらう。張りつめた一念だけあつて力のない不甲斐なさを嘆き憤る裏から、更に奮ひ立ち湧きのぼる新しい感激の涙があつた。が、今や、かく、言ひ得るよろこびよ。(自分はもはや零ではない。自分はもはや無ではない。自分は完全なる一ではないであらうが、何分の一、何十分の一、何百分の一、何千分の一、何万分の一である。自分の出来る仕事は実にも未だ微小でこの地上に生滅してゐるもろもろの事業に比べては全く見えない位かもしれない。自分は自分の仕事の弱小に羞じよう。しかし、決して、決して、失望はしまい。たとへどんなに微小であらうともこの自分が、この自分の眼で人類の現代と未来を注視してゐるのだ。あるときは涙にぬれながら、あるときは憤怒に燃えて輝きながら、又あるときはかすかなる望みのほゝゑみをもつて、自分は地上に生滅する人間の生活現象の、ほんとうの意味をはつきりさせたがつてゐるのだ。)と。彼は恐ろしい冒険の気持でそれを書きつゝあつた。そして極めて少数の彼の知己がどうにか彼の仕事のために彼の時間を持つことの出来るやうに力を添へて呉れてゐた。まことに文章は彼にとつては地の脊髄である真理をあらはし、虚偽と醜悪を征服することであつた。彼は人間の感覚では想像出来ない凄まじい猛烈さで進行してゐる巨大な生物地球の表面に毒煙のやうにむらがり泥海のやうに氾濫し、毒草のやうにはびこつて人類を苦しめてゐるもろもろの害悪をはつきり識認した。彼はせめて彼の世界に於てでもその害悪と虚偽を洗ひ清めずにはゐられなかつた。もちろん彼はペンと紙によつて、自己の内生活を照破することだけで満足するのではなかつたが、内心に静かに湛えられてゐる認識と思想はやがては地上に新しき風雲と雷電を呼び起す偉大なる実現の地均しであることの信念が彼の足並を乱させなかつたのである。
 午前十一時過ぎでもあつたらうか、彼が急流のやうにせきたつ思想に押し流されまいために、筆を止めて窓から何気なく戸外を眺めてゐると、この小石川の高台の庭園の、古ぼけた根の腐つた裏門を開けて、二人の青年がはいつて来るのが見えた。無果樹の葉蔭で向ふからは見えないが彼からはすつかり見える。一人は大学の制服を着けた背の高い脂肪質な、顔色の白い眉の優しい二十四五の男で、もう一人は新しい仕立上げらしい背広に、草色のソフトをかぶつた背の低い、がつしりした体格で、襟元に一文字に結んだまゝ黒いネクタイがその角ばつた髭あとの青い顎によい対照をなしてゐた。藤井と丘だつた。どうして二人がいつしよに来たのかしれないが雑草に蔽はれた小径を歩くたびに二人の靴先に芝草がひつかかつた。
「こゝです。あの小さい平家が北君の住居です。――留守でなければいゝが。」
と、背の高い大学生は立止つて少し微笑して云つた。
「ありがとう。忙しい中をほんとうにありがとう。」
「それぢや、また、この次会はう。明後日は僕の教室で実験があるからもし暇だつたらやつて来たまへ。」
「あ、ありがとう。今日はありがたかつたよ。ほんとうに、君にとつぜん出合つてよかつた。こんなところだとは知らなかつた。」
「なあに、ぢや、さよなら。北さんによろしく。」
「さようなら。」
 藤井は途中で出あつて自分の住居を丘に教へたものらしく、裏門のところで別れていつた。あとは言ひようもない静かな、ひつそりした、秋の白日の果樹園だつた。藤井は遺伝専攻の帝大生である。実業家の家庭教師を勤めて可成の苦学をやつてゐた。北が彼に有する興味はその専攻の遺伝学上の博識と苦学をやつてゐる境遇とに於てであつて、脂肪の多い生白いからだやしなやかな人柄ではあるが、怒りも喜びもそをつと秘密にしてをくやうな陰性な極端に悪く云へば男妾的な性格をあまり好いてはゐなかつた。が、藤井は北がはじめて彼の思想上の著作を発表した当時から、奉仕的な友情をさへ見せて近づいて来てゐた。自分の何処が彼にとつて興味があるのか、殊によつたら何かの犬かも知れないぞと北は邪推したこともあつたが、結局、彼とてもよい友人ではあつたのだ。が、太い短い眉毛の下に落ちくぼんだ大きい瞳を光らせて、口ごもりながら二三度頭をゆすつて何か重大事を思ひ込んでゐるらしい強烈な恐ろしい視線を茂みをへだてゝこちらの方へ向けて立つてゐる丘に就いては少し異なるものがあつた。
 実は昨夜、先輩のX氏を久しく訪ねなかつた詫びがてら、本郷の街を逍遥した道すがら寄ると、入り口に立つて取次の返辞を待つてゐる間に、高いひきつつたやうな聞いたこともない調子の話し声が襖越しにきこえる。だめかな、と考へながら会ひたくて会へないで帰る淋しさにおそはれかけたとき、襖が開いて乱れた足どりで背広をきた一人の青年がX氏におくられて出て来た。北は背の低いその青年にあまり注意しないで、久しぶりに顔を見るX氏のどこか弱々しい、涙にぬれたあとのやうな笑顔を見た悦びに浸たつてゐた。するとX氏が「丘君、それぢやW氏にお会ひの節はよろしく」と云つた。運命と云ふものは不思議なものでないか。北のもうらうとしてゐた注意がぱつと一瞬に燃えてその青年を照らし出した。あゝ、君だつたのか、と彼は不意な久しい後でのふたゝびの対面の悦びと驚異といぶかる気持とを交錯しながらそこに棒立ちになつてしまつた。
「北です、北輝男です。」と彼はどもつた。
「おゝ、北君!」
と丘は昔ながらの短気さうな、太い眉毛の下に窪み込んだ凶悪な瞳を三角形にひきつらせ、さすがに情熱で厚い赤い唇をふるはせて彼を見守つた。
「――僕、丘です、あの柔道をやつた丘直太郎です。……何年位会はないだらう。六年にもなるかしら、僕はおぼえてゐる。級仕合に君に負けた口惜しさから君をあの桜の並木で袋たゝきにしたことをおぼえてゐる。うん、あれから、もう君は学校へ出なかつたが、あれから――どうしてゐたか?」
(君こそ)と北は云ひたかつたが無言のまゝ、丘を熟視しながら彼は悲しい愁ひの湧いてくるのに委してゐた。久しく会はなかつたX氏を見た感動へ更に深刻に強く六年振りで、忘られずに無意識の蔵に秘められてゐた彼に不意に会つた感動が彼を震撼させた。が、純粋な感情を自由に外へ流れ出すことを制抑することに慣れた彼は彫像のやうに沈黙してしまつた。
「何処に、今、君はゐるのです。」
と丘は更に哀願するやうに云つた。北は矢張り答へなかつた。
「まあ上りたまへ、丘君も上りたまへ。」とX氏が云ふのにつれて彼と丘は上つた。彼はX氏の客室の青白い光を浴びながら静かに自分の住居と、自分の苦心になつた思想上の処女作がX氏によつて世に出で、今は更に新しい著作の稿を起してゐることを簡単に、彼の神経を痛めないやうに告げた。丘は北が高等学校を中途で止した翌年大学の法科へはいり、そこを出て今はある大会社の貿易係にゐることを告げ、そして狂暴な痛烈な自嘲をひそめて「かくれたる革命党員だよ」と云つたりした。
 そんな話をしてゐるところへ女中さんが、珈琲を運んで来た。その時の茶碗が自分とX氏自身のとは同じ底の深い品のいゝ美しい草花の模様のある和蘭ものらしいのであつたが丘へは普通の平つたい硬質陶器の茶碗であつた。北は丘の眼がす敏くその相違を発見したことを見てとつて、はつとせずにゐられなかつた。彼が心配し予期したやうに丘は叱るやうに、泣くやうに、孤独なるものが呟やくやうに、彼の住所を幾度も聴き返して手帳に書きとめて、ぷいとかへつていつてしまつた。そして彼はそのかへつたあとのたえがたい痛みをもつ淋しさをも早くも今朝は忘れてしまつてゐたのである。むろん昨夜の今朝、こうして訪ねてくるものとは夢想だにしなかつた。
 丘は十分間ばかりも井戸端の傍に佇んだまゝ黙つてゐた。大方、いよいよとなると急に呼ぶ気もしないのだらう。あたりは静かで、庭園のもの寂びしさに日は照り輝やいてゐた。空は燃て白銀の波をたゝせ、此上もない静かな世界に、彼はふたゝびペン先が紙面を走る触音をかすかにリヅミカルに響かせはじめた。が、北は丘がゐると云ふ意識から身動きもならない、息づまるやうなある束縛を感じないわけにゆかなかつた、(この朝の大いなる静寂のうちに、不思議な運命のめぐりあはせをひかへつゝ我が祝福されたる創造はなされつゝあるのだ!)丘とても何時までも黙つて佇んでゐるわけにもゆかなかつたか、丘は横手の上り口に廻つた。
「北君、居られますか※(疑問符感嘆符、1-8-77)
 返事は与へられず丘はたゞペンの奔る音のみを聴いたであらう。
「北君、居られますか。」
「どなた※(疑問符感嘆符、1-8-77)
「僕です。丘です。昨夜、X氏のところで出遇つた丘です――今、仕事をしてゐらつしやるんですか。」
「ううん、もう直きだ。はいりたまへ。」
 障子を無雑作にあけて、はいつて来た丘は髪を長くした、岩丈な身体つきの、久留米絣の単衣に黒い帯を下腹で堅くしめつけた、若き北輝男に対面した。
「さあ上りたまへ。」
 北は立上つて、人に会ふときのくせとしてしばらく丘を直視した。
「今、大学で知り合つた藤井に途中であつて、あいつが君を知つてゐて、教へてもらつたところだつた。なあに人類学上の識見は僕は少くとも藤井以上です。今、結婚と生児の制限率に関する研究をやつてゐるんだが確かに博士論文位の価値はあるものだよ、純正社会主義の実現を基礎づけあらゆる反対を根本的に破砕するものなんだ。」
「ほう。」
と彼は面くらひながら丘をもう一度はつきり落付いて見つめた。額は狭く、低く、偏狭だが頭蓋の中央は高く、石塊のやうにもり上り、短い太い眉毛の下の窪んだ瞳はどうかすると三角形になるほど引きしまつて病的に輝やき、下顎は角ばり、歯の出た、熱情が固く岩のやうに凝結してしまつた顔容である。熱情家の自己感の強い男が、世間に苦しめられ、裏切られて、偏屈者にこりかたまつたといふ感じだ。どうかするとたしかに人を殺せる男になつたな、この丘君は、と彼は考へた。そして内心仕事をしてゐる最中にかうして訪ねられたことをひどく後悔した。藤井のやうに利巧で手触りの軽快な、柔軟な人間との接触はある場合には恰度美しい女とのたわいもない愛慾半分の会話のやうに、ある慰安と休息になるものだが、丘のやうな人間との対話は全か、でなければ零である場合が多い。此方の云ふことは向ふに通じない。向ふの云ふことは一向きな、熱情としては肯定出来ても、理性からは三文の価値もない偏屈な論理を固執する、しかも、それをもつて征服しようとのしかかつてくる。――彼は殊によつたらこれで今日一日は打ちこはしかも知れないと考へながら、一方かうした男は一つ帰依してくると一生を棒にふつてもかまはない場合もあると考へ直して、とにかく彼は彼自身をなだめた。――が、ぶちこはしどころではなかつたことは後に知られることなのである。
「昨夜は失敬しました。」
「いゝえ、僕こそ。」
と丘は部屋中をぐるりと一瞥したのち、北の卓机の上の原稿紙に瞳を落して、さも感動を制し切れないやうに、
「やつてゐるんだね? すてきだ! やらなくちや、君、さうさ、やらなくちや、君、大した勢だな、ぞくぞくするよ、全く、――全く」独り言のやうに語尾を低くしたが、又調子を高めて、
「それで、君はあれつきり高等学校を中途で止したのだねえ。」
「えゝ、あれつきり。」
「仕合に勝つてなぐられるやうな野蛮人といつしよにゐる必要はないと思つてだらう。が、それがよかつたのだ! 僕のやうに学校を卒業したものは、卒業したときにはもう完全な資本家の走狗の標本になり切つてしまつてゐるのだから。もうだめだ! ろくな思想が湧いて来ないや! 少し何か書いて、読み直すと、どうだ、まるで口まねになつてしまつてゐるのだ! うん、君はよく止めたねえ! 僕の生涯の失敗は大学を卒業したことにあるのだよ。己れには君の純一と果断がなかつた。大学を出たばつかりに、己はこうして新しい洋服は着てゐるが、内陣は空つぽだ。――あの大学の蓄音器先生と辞典先生めらが、己をこんな石頭にしてしまひやがつた。」
 丘は何か言はうと努力しながら、言ひたいことが言へず、別なことばかりが口から出るらしかつたが、忽ち熱のこもつた、語調の重い、口調で語りはじめた。眼は藪の下に燃える火のやうに眉毛の下に輝やいてゐた。
「僕は君の書いたものを昨夜、実は一つ読んだのだ。(次の世界戦)といふあの論文の予言的な一節だ。現世界大戦乱の後に来るであらう次の大戦争は地上を通じてこの資本家階級と労働者階級との全一的対峙戦であるかも知れない、このことは必然な人類の生活のリヅムであると云へる。しかし自分等はこの戦ひをして武器と武器の戦でなしに勝敗を決し勝つべき者をして勝たしめることが果して出来ないのであらうか。革命をして流血の革命たらしめず、内面的理解の革命たらしめ得ないだらうかといふやうな君の思想にしてからが(地上を通じての資本家と労働者)といふ考へ方には非常な君の思想の欠点があると思ふんだ。僕はむしろ次の大戦は平等化せる社会主義国家と国家との戦であると思ふがどうだらう。そしてその場合には社会主義的精神の完全に実現されたる国ほど勝味があるのだ。此度の世界大戦によつて諸国民の世界的交通が自由になつて、全世界的な階級戦が次の大戦となると考へるよりも僕はむしろ現世界大戦によつて諸国家の対内的改革が社会主義の実現となり、そして、その社会主義的諸国家が各自自分の国家の膨脹と生存を主張して次の大戦を呼び起すに違ひないと僕は信ずる。君の部屋には世界地図もはつてあるから、まるきりの空想家でもあるまいが、地図を見ることを知つてゐる人の思想としては少し空虚でないかと僕は考へた次第だよ。」
 北は黙つて注意深く聴いてゐた。
「どうも君は国家や民族の差異をあまり重大視してゐないらしいのが僕には理解出来ない気がする。僕は階級的差別を高調すると共にもつと地理的環境や人種的差別を重んぜずにはゐられない。僕達は実際皮膚が黄色いのだから、実際体格が小さくて髪の毛が黒いのだから。僕達はいかに理論を組立てゝも細長い小群島に生れたのだから。僕達はどうしたつて、支那のあの豊饒な大陸や南洋の諸島が必要なんだから。発足点をこゝにをかずにはゐられんではないか。――この発足点は、同じように僕は僕達は実に貧乏人であることを明白に認識することにもあるのだ。僕達は皮膚が黄色いことが動かすことの出来ない現前の事実である如く、僕達は被征服階級であり、社会の下積となつてゐるものであり、一日ぢゆう働きづめに働きながら、何のために働いてゐるのか自分でもわからず、不充分な食料と不快な住所ととぼしい衣服とに満足して空しく消え失せてゆく向上心を涙ながらに見送つてゐなくてはならない人間であることも事実である。僕はどうしたつてこの事実より外に真理はないのだと思ひます。これ以上の真理はあつても、それ以外の真理はあるまい。したがつて僕は社会主義者であると共に国家主義者である。プロレタリアツトであると共に日本主義者である。僕のこの峻烈な立場からいつて、どうしても君の態度が生温くて、稀薄であるやうで実は反感をさへ感じてゐる。むろんこれが生温いのが当然であるはずの大学教授輩の思想なら僕は唯唾でもはきかけてをればそれで済むことなんだけれど、少くとも君がだよ、未来日本の予言者であり   であらうとする君の思想のうちに発見される傾向としては、第一何故どうして、そんな風になるのか不思議な位だよ。僕はこうも思つた。――若し君が真に生温い思想をもつてゐるのなら現代の進化のために君に強力をもつてしても沈黙してもらはなくてはならないかもしれない、とね。」
 何か答へなくてはならないのだらうが、北は何も言へなかつた。丘が今、めづらしい白熱した雄弁で語つてゐることは自分自身も幾度かくりかへして頭脳の熔鉱炉で融かし、ふみ越えた思想であつたからだ。丘も黙つて自分を見上げた。この上黙つてゐては、勝手に此方が負けたやうに早合点されるのも嫌であるし、それに自分は丘のしやべつてゐるうちに外面の剛直らしい裏に、正直な、人間らしい、真情のかよつてゐるのをも発見してゐたから。
「しかし、」と北は静かに云つた。「君が云ふ真理以上の真理もある。」
「奇蹟かね※(疑問符感嘆符、1-8-77) それとも不滅の真理と云ふんかね。――不滅、永遠と云ふことがすでに幽霊じみて、宗教的で、変ぢやないかね。永遠の真理と云ふことは(永遠に実現されない真理)といふことぢやないかね。何故なら、実現されゝば恐らくその真理にはもう用はないのだから。僕の国家社会主義はむろん永遠の真理ではないかもしれない――今日ある二三のつまらぬ官僚の古手等の公唱してゐる国家社会主義はあれあニセモノだよ。あれといつしよにしては困るよ、あれは私利の仮面、己のは真理だ、現実的真理だよ、しかし、実に目前に吾等がやらうと思へば実現出来るだけ、それだけ僕達には偉大なる真理であると感じられる。実際、今日、日本を救ふものはこれより外にいかなる経綸があり得ようか。内面的平等化の充実によつて、自分等の生を地上に充溢させるより外には!」
 彼は息をついで更につゞけた。
「僕達は日本民族だから日本民族の生存と栄えを主張し努力する。同じように僕達は第四階級であるからして、第四階級の生存と栄えを主張し努力する。僕のこの主張は一見極めて野蛮で、非文明的で、主我的のやうに見えるが、現代には之が正義でそして真理なんである。それは僕達が第四階級であると云ふこと自身が自己主張を真理ならしめてゐるのだ。僕達がアングロサキソンであつたりチユウトンであつたり印度人であつたり、ホツテントツト人であつたり千万長者であつたり大工場主であつたならそれは真理ではない。何故なら、それは必ず理知より来る虚偽であるからだ。そして、今日の国際聯盟は世界的大強盗の相談だよ。そんなに早く永久平和が来てたまるかい。君の云ふやうな(地上を通じての階級戦、そしてその勝利、平和)といふことは同時に国家民族の消滅と地上渾一の実現を意味するぢやないか、二十世紀といふ現代に於いて国内に於ては社会主義の実行、国外に於ては諸民族との競争、何よりそれが今日の第一の必要だ。そしてそれは必ず実行されるに違ひないのだ。僕はさうしたら、先づ今日   階級の          し、今日民衆の膏血によつて紅白粉で嬌態をつくつてゐる令嬢と称し夫人と称する         つけて、人類創草以来の祖先達の遺恨を晴らしてやらなくては承知しないのだ。ほんとに僕は、苦しい時、虐げられるとき、どうにもこうにもならない時、僕はさうした勝利の日を想像して僅かに自分の     制抑してをる。一切の屈辱一切の苦痛は僕をして、さうした日の復讐をいつそう合理的だと云ふ信念を堅めるに過ぎない。今日絹をきて、ぜい沢な食事をとつてゐる紳士といふ               にして令嬢と夫人をことごとく赤い腰巻     銀座街頭に行列を作らせなくては僕は承知出来ないものだ。そして同じように僕は地球全部にはびこる白人種を    にはゐられないのだ。」
 丘は深い溜息をもらしたが、北は悲しい気持になつてゐた。あゝ悩める勇士よ、苦しまぎれの絶叫よ。それには深い真理がある。しかし自分は、深淵にもがく人間ではなく、丘ではない。丘の言葉をもつて云へば「それ以上の」「宗教」に住するものである。深淵に下り立つて来た人間である。北は涙含んで、はじめとはまるで別な気持で丘をみつめた。虐げられ、圧しつぶされた魂神、生きようとする意思の絶叫、北はしばらくして云つた。
「丘君、御両親はお達者ですか。」
「え、両親は達者です。――しかし父が鉱山に失敗してからはずうつと僕の細腕の厄介者ですよ。」
「御兄弟は?」
「妹が二人ゐます。」
「ほう、それは、僕……うらやましい。」
「さあー」
と丘は苦笑したけれど、彼はこの瞬間実際うらやましい気がした。両親共に健かに生きてゐて、とにかく大学教育を受け今では自分の一家を支へてゐる、家には若くて、しとやかでまめまめしい妹達が二人までゐる、ほんとうにいゝ平和で、暖かで、つゝましやかな家庭でないだらうか、そうした家庭に、若い主人として、兄として、よき子として、喜びを与へ幸福を享けて生きてゆけるなら少し位の苦痛は忍んでもいゝやうにさへ彼には思へた。少くとも彼自身などよりもずつと順調な前生涯をおくつて来た丘を彼はじいつと見つめて黙つて腕を拱ぬいてゐた。
「すべて現実は想像するやうに甘く美しい者ではない。大きな圧制力が僕の家庭の幸福も歓喜もしぼり出し僕の人間の人間らしさをもしぼりとるのだ。とかく大破壊をしなくてはいけない。根本的に大破壊をしなくてはいけないのだ。よく人は大いなる行動の前には大いなる準備をしなくてはいけないと云ふが、その言葉は真理でもその適用が誤つてゐる場合が多い。大なる破壊的行動は個人の小さい行動でなく全民衆の時代的行動です。ですから其準備も時代的です。明治五十年は最もよき準備時代だつたではないか。現代はもはやその行動の時代でなくてはならない。全国民にはもはやその下地が出来上つてゐるにもかゝはらず一人の先覚者なく、一人の献身的努力者がないのではないか。偉大なるロシヤ人         の攻撃者はあつても実際、一人の   さへゐない日本かと思へば情けないではないか。こういふ悲痛をかみしめてゐる僕なればこそ、君などに対してもはがゆくてならないのだ。何故もつと端的で  的であつてくれないのかと云ふ憾みがたえずあるのだ。愛すべき青年、ユダヤの耶蘇も云つてゐる、今日のことを今日なせ、明日のことは明日でよいのだ。もつと  的、  的、もつと  的自覚と国家的自覚の執拗さがあつてくれなくてはならないと僕は考へるのだ。生じつかな人道と博愛ほど人類を毒するものはない。」
 正午の空が晴れ渡つてゐた。果樹園では重り合つた深い緑色の枝葉の蔭に緑金色の蜜柑が閃めいてゐた。
「第一、同情すべき理由がどこにあるか! ダーウインの進化論以後に於て、更にマルクスの資本論乃至唯物史観以後に於て、彼奴等支配階級に対して同情を感ずると云ふことは、コペルニクス以後に太陽が地球の周囲を廻ると考へるよりももつとひどい誤謬でありこつけいであると僕は思ふのだ。殊に、――それは、そうした同情や涙を感じてゐるらしい人間が特に君である場合に、捨てゝ置けない。君が上流の子弟であるか、もしくは中流の子弟であるなら、彼等に同情を感じてゐることも無理ではないし、僕だつてふうん、と鼻先であしらつてをけばそれでよいことなんではあるけれども、君が特に第四階級の出身であり、経歴から云へばあくまで自分一人の力をもつてこの資本主義的勢力の横溢してゐる現代社会をどうにか自分を屈服させずに、男らしく、生きて来た人間でもあり、然かも若いぴちぴちした青年であるのだし、ほんとに、僕ははじめて君にX氏の処であひ、改めて君の豪いことを和蘭製のコーヒー茶碗に知つて、奇蹟を目のあたり見たやうに感じたのだ。然るに君は、君までが鼻もちのならぬ流行性の人道主義に感染してか涙を底にたゝえてゐるやうなことを言つてゐるらしいのを認識せずにはゐられないことは非常に心細いことなんだ。君までが、やつぱりお定まりの  かいと思ふとたまらない気がするのです。非常に心細くて寂しい。もつと白熱的な復讐と憎悪に燃えきり、地球全体の              では承知しないほどの  的観念に燃えてゐなくてはほんとうでないのぢやないか。君は、君は、ほんとに、ほんとに彼等に同情しますか?」
「――」
「同情しますか。それとも憎みますか。」
「憎めませぬ――可哀想です。」
「それは不徹底だ! でなければニセ聖者ぶりだ。」
「でも、人類と云ふ生物全体が、同情すべき生物ではないのかしら。」
「しかし、そんな稀薄な同情はうそです、そして危険だ! ほんものぢやない。捨てゝしまへ! その感情を捨てゝしまへ! 内より燃ゆる憎悪の熱火で焼き尽してしまへ!」
「僕は憎むよりか憐はれむ感情が強い。」と北は覚えず微笑した。
「それがいけないのだ! 僕等は彼等を憐むやうな地位に、現在立つてゐると考へるのかい。憐むべきは僕等なんだ。彼等は今憎まれるのが正当なのだ。生じつか今、彼等を憐れみなどするから、だからいつまでたつても僕等の頭が上らないのだ。彼等は強者で支配者で、僕等は弱者で被征服者だ。」
僕等は弱者かもしれぬが僕は弱者ではないぞ! したがつて僕は憎むよりも憐はれむでやるのだ。ほんとうの勝利者は常に涙をたゝえてゐるものだよ。僕はむしろ憐はれむ。――君の感情は一時の波だ。しかし僕の感情は波の底を流るゝ永遠の潮流だ。」
「それが今、何の役に立つのです。」
「立ちますとも! 丘君、この感情が世界を救ひもするのだよ。」
「君も、やつぱり、ひとり隅つこでの自分勝手なホラ吹きらしいな。」と彼はがつかりしたやうだつた。
「Oh, No! だよ。僕は君達の仲間だ。僕が君達の仲間なればこそ、君達の勝利はたしかなんだ。僕は永久の強者で僕は永久の勝利者なんだから、僕の仲間入りするところは常に月桂冠が輝やくのだ。君達の勝利が確かなればこそ、僕は彼等を憎めず、憐はれさを感ずるのではないか。僕は君達より生じて、君達を超越したもの、君達は憎むのが役目で、憎まなくてはならない。しかし、僕は憎まなくともよいのですよ。僕にはそんな必要がないのだからね。」
「しかしそう云はれると僕は心細い。」
「どうして心細がる必要があらう。こんなに心強いことがどこにある、丘君、勝利はたしかだ、僕が苦しんでゐる君達に憐びんを感ぜず威張つてゐる彼等にあはれを感じることは何と云ふ心強いことだらう。」
「ううむ。さうかもしれない、しかし北君、僕は僕達の勝利を確信したところで、それが僕が彼等に憐れみを感じなくてはならない理由であり得ようか。僕はあくまでも憎む。憎む。実に憎む! あゝ僕達の数知れぬ友人達、数知れぬ父と母、数知れぬ祖父と祖母が如何に彼等に苦しめられたことであらう!              。あゝ僕達がこうして話してゐる間にも、有望な青年が殺され美はしき純潔な少女が犯され、ふみにじられてゐることを思へば、実に                    しても尚あきたりないのだ。憐れみは彼奴等が             屍とともに感じてやつてもいゝ――いや、彼奴等がことごとくするときこそやつてもいゝ!」
「――」
「君は勝敗が事実に示されないうちに早くも彼等を憐れむでゐる。僕はそれほど、根本的の自信がなく偉大でも無いのだ。無くてもいゝのだ。僕は飽まで憎み、飽までのろふものだ。こう云ふ僕にとつて君の言葉は、小しやくな目ざはりだ。勿論個人の人格として云へば、君の方が偉大なんだらう、偉大なんだらうが、僕は偉大でなくともいゝのだ。とにかく現代に於て僕等が勝たねばならないのだ。僕等は実際勝利をこの目で見るまでは安心出来ないのだ。」
 丘は黙つた。北も黙つてゐた。めづらしい熱情だつた。わかりすぎるほど彼には丘の心がわかつた。たゞ丘には北の心がよくはつきり分らないらしかつた。北の胸はこうした男をむざむざ殺すのは惜しいものだと云ふ想ひでいつぱいになつた。彼は云はずにゐられなかつた。
「丘君、君には妹さんがゐるさうだつたね。」
「あゝ二人ゐる。」
「失礼だがおいくつ?」
「十九に十七ですよ。」と丘は青みばしつた顔にはじめて微笑を浮べた。さすがに妹の回想はわるくないらしい。彼はさう咲きほこる花のようには美しくなく、どこか手堅い質実な内気な、優しいであらう彼の妹を想拠した。
「丘君。」
「――?」
「怒つちやいけないよ。君達の時代は君一人が絶叫しなくとも、                           。奇蹟のやうに、君の現実的要求よりももつとよい状態で一時にどつとやつて来さうな気さへする。――怒つちやいけませんよ。君が今、一生懸命にさうしたことをしなくとも、もつと静かに、二人の妹さんの運命を見守つて上げる方がどんなにいゝことでないのだらうか。と僕は今、思ふ。僕は両親があつたり妹があつたりすれば、僕は……どうしたか一寸分らないな。」
「…………」
 二人は顔を見合はして黙つてしまつた。寂しい。寂びしい。人生の脊髄に触れた淋しさだ。丘はやがて瞳を外らした、そうして複雑な苦しみに堪えてゐるらしかつた。
 ざわざわ樹の葉がゆれる音がして、窓先にいつもの郵便配達夫があらはれた。少年らしい桜色の顔に快活らしく微笑むで、右手を高く上げて北に彼は云つた。
「お手紙ですよ。」
 一束の封書が卓上におかれた。その少年は北が郵便を受取るときの歓喜でいつぱいになる気持を知つてゐるのである。ほんとに孤独なる者にとつてよき便りは生活を豊富にするなくてならぬものゝ一つである。
「北君、たいへんお邪魔した。今日はこれで失敬します。」
「いけない! もつとゐたまへ!」
と北はづつしり重い封筒を手にもつたまゝ彼の前に立ふさがつた。
「たいへん失礼した。僕は今本郷の根津にゐますから、またどうぞお遊びにいらつしやい。妹達もきつと悦びますから。――たいへん失礼しました。」
「それぢや、僕もそとまで出よう。」
 丘にはそれがよつぽどうれしかつたらしく、にこにこして靴をはいて、さうしてもう一度丁寧に頭を下げて幸福さうに北を待つのだつた。小径を歩む彼と丘を正午過ぎた太陽は幸福さうに輝やかしてゐた。北は路々丘に云ひたくて云へないことを独り黙想してゐた。
「人生の経済的基礎の改革はもちろん必要で重大で必然な人類の運命であるに相違はあるまい。実際今のまゝではいけないことは分りすぎたことだ。しかしその革命が最後ではない。その革命から僅かに新しい人生の歩みが始まるとも言へよう。経済的改革はたゞ、最も重要な、そして最初になされねばならない手段であることはたしかであらう。自分は、自分は――その単なる一つの序幕のために犠牲となるには、もつと強い、深刻な、偉大な愛と力とを人間に感じてゐる。自分の出生は単なる一つの波をゆり動かすだけではない、単なる一の嵐を捲きおこすだけではない。嵐のあとの寂びしい廃墟に真正なる偉大を建立することが自分の任務である。丘君よ僕にこの自覚がある、何んで君の時代が来ないものか。それにしても今の世に、君一人が君の力で両親と妹を守ることは大きな仕事であることをいふのは一個の僕の任務だ。それ以上は君自身君の道をとれよだ。たゞわれわれの生活の主潮を、生涯の仕事と運命を、大きな人類の生活のいかなる部分へ結びつけるかの相異を知つてからなら何をやつてもいゝ。何をやつても無意味ではない。何をやつてもその価値に高下はない。貧乏と疾病と犯罪とが何より先に地上から全滅されなくてはならないことは分りきつてゐる。君の言ふことは真理だ。君の感情も真理だ。あゝ君達にとつてはほんとに彼等はずたずたに   いても飽足りない奴等だらう。彼等の一切の文明はことごとく根底からたゝきつぶしても惜しくないニセ文明であらう。ほんとに自分もそれを思へば涙となつて天地に慟哭しても足りないのだ…………が丘君、僕は実にこの何とも云ひようのない慟哭と身もだえの境地から苦しみに鍛錬されながら一歩を超越してゐるのだ。君達の双腕にうなる実力は地球を左右し得るものであり、君達は必勝の強者であることを信ぜよ 君達は徐々に、彼等に歯をむいて絶叫するよりも寧ろ憐愍の涙を眼底にたゝえることを知つて来るであらう。彼等滅亡するものの運命を静かに見送つてやらうではないか。一皮下ひとかはしたの人間苦は彼等といへども同じことだ。唯誕生の僥倖がもたらした幸福がたまたま悲劇を作るのだから仕方がない。彼等は可哀想な奴等だ。彼等が真に憐愍に値する人間であることを感じられ真珠のやうな涙が眼底に浮んで来たとき、そのときは地上には彼等の のみしか無いであらう。」
 空気は静かで動かず、たゞ正午の初秋の太陽が輝やかに照りつけてゐた。蜜柑の青い果が葉蔭にいくつものぞき出てゐた印象が北に甦つた。彼は大またに、腕をきつく振り 口笛を吹き鳴らして小径を歩んだ。門際から坂下への緩い傾斜を下りると、谷をへだてゝ本郷の高台が白日に輝やかされて荘厳な風景を現出してゐた。
「北君、」
と丘はにこにこしてどもりながら小児がものをねだるやうに云つた。
「黙つて、唯々諾々として僕につきあつて呉れませぬか。」
 北もいゝ気持になつてゐた。ほんとに久振りで昨夜とつぜんめぐりあつた旧友とこうして心ゆくまで話し合ひ、融け合ひ、了解し合ふことは何と云ふくらべもののない無垢な人生の美であらう。
「ゆきますよ、どこへでも。」
「黙つてついて来るのですよ、いゝですか、きつとですよ。」
 北は笑つた。そして二人は電車に乗つた。
 丘は浅草行きだと車掌に云つた。
 しばらくして彼は丘の後につきながら、泥濘と水溜と小便の臭気とで息がつまりさうで、歩めさうもない小路を歩んでゐた。彼が二三年前に一度通つたことのある街で、その時は両側の低い平家の硝子戸にしきられた窓から路に敷いた花崗岩へ火光がきらきら流れ、三寸許り透明にすかした硝子戸の内部から無数の女のいじらしい瞳と声が「ちよいと書生さん、あら、素通りは残酷よ、ちよいとう!――あら、此の間の方、黒い帽子の方、お寄んなさいな、」とよんでゐた。が今は何もかもがすつかり変りはてゝゐた。白い、都会の空には太陽が慄えてゐた。両側の家は昔の凶事のあつた家のやうに×形の丸太棒で戸を閉じられてゐるものが多かつた。すべてが廃墟の寂寥に充ちてゐた。とても、こゝがあの夜の灯びと婬蕩と赤い蹴出しとの街であるとは信じられなかつた。三番目の街角に出たとき、丘は一軒のおでん屋にはいつた。店には誰もゐないで、おでんの銅釜が冷めたく光つてゐた。
「ゐるかい、お染。」と丘は叫んだ。
「誰れ。」
とあらい模様の暖簾がゆらいで、十五六としか見えない少女が顔を出した。北は濃い紫色に反射する白粉を塗つた少女の生白い瞳と額によつた悲痛な早老の皺を見のがさなかつた。
「まあ、兄さんなの。」
「ゐるかい?」
「今、恰度…………客が来てゐるのよ。」
「誰れだい?」と丘は声をひそめて、「何度も来る奴かい?」
「いゝえ、さうぢやないの、今のさつき、ひよいとこゝを覗いたから、おはいんなさいな、と一度気を引いてみたら、もういゝ気になつて上つて来やがつたのよ。」
「さうかい。ま、上らう。」と丘は北とその小さくてすでにしぼみかけた哀れな蕾とを見比べて、「遠慮のいらない己の友人だよ。」
「そおお、おはいんなさいな。」
 丘のあとについて北も上つた。上り口は四畳半で、桐の箪笥や神棚や火鉢や鏡台が注意深く、整頓して割に暖かい心でぬくめられてゐた。丘は火鉢の正面にあぐらをかいて、傍にあつた莨箱から長い煙管につめて北の部屋へ来てゐた時とはまるで異つた様子で、顔には(どうです、北君、ま、黙つて、そおつとこのまゝにしてをいてくれたまへ)と云ふやうな表情を浮べて白い煙をふかしはじめた。少女は自分に座布団や茶をすゝめながら丘に話した。
「昨夜はどうしてゐらつしやらなかつたの。」
「そをそをこゝへばかり来ておれるかよ。」
「だつて姐さんがずいぶん鬱ぎこんでゐたわよ。」
「何んだつてさ。」
「もしや誰れかと喧嘩でもしたんじやないかしら、あの人は喧嘩早いから、もしや悪漢にでもぶつかつてひどい目にあつてゐるんぢやないかしらつて、ほんとに兄さんは果報者よ。」
「馬鹿をいへ、どこの世界に婬売に思はれて果報者つてやつがあるものかな。」
「うそ、うそ、それぢや姐さんが泣いてよ、それよか、今日は少しゆつくりしていつて姐さんを可愛がつてあげてちようだいな。」
「糞喰へだ。」
「まあ、口惜しい。この人は。」
と彼女は火鉢にすりよつて、半分自分に遠慮しながらも、火箸をもつて丘を打つまねをした。
「さあ、可愛がるの、それとも可愛がらないの、どつちなの、可愛がるなら堪忍してあげてよ、可愛がらないならわたしがその眼玉を抜いてあげるから、どつちなの、え、どつちなの。」
「可愛がるよ、堪忍、堪忍、あゝ可愛がるよ、きつと可愛がるよ――」
「きつとだね、観音様にかけても可愛がるのよ。」
「可愛がるとも! 全世界をかけてもだ! どうだ、それでもういゝだらう。」
「生命にかけても?」
「あゝ、生命にかけても。」
「お稲荷さまにかけても?」
「あゝ、お稲荷様にかけてもだ。」
「まあ、おかしな人、そんなに可愛がるくせにどうして糞喰へなんて云ふの。」
「糞喰へだ。」
「また、この人は! ほんとにわたし口惜しい、――ほんとに姐さんどうしてゐるんでせう。あの奴、イヤな奴 いつまでへばりついてるんだらう。」
 彼女は丘を見上げた。
「姐さんを呼びませうか」
「いけない、お商売の邪魔になるよ。」
「だつてあんまり永いわ、ほんとにいけすかない奴、かまはない、わたし、呼んでよ。」
 彼女は階級をのぼつて、中ほどから「お染姐さん。お染姐さん。」と喚んだ。返辞はしなかつた。今度は少し上ぼせたやうに彼女が二人に云つた。
「兄さん、二階へいらつしやいな、店の方の三畳が明いてゐますから。」
 丘はむつくり立ち上がつた。北も彼のあとから暗い、ぎしぎしたゆむ階段をのぼつた。紫色の菱形の模様の銀紙とであしらつた襖が隣の部屋とをわづかに境してゐるのみであつた。丘はさすがに辛さうにどたり音をたてゝ三畳いつぱいに横に倒れた。今までひつそりしてゐた隣室ではざわざわ衣ずれの音がしはじめて、男の呟やくのがきこえたが、やがて赤ら顔の、インバネスを着た四十男が、ちらり横顔を見せて下りていつた 寝床などがそのまゝな隣室の襖をあけて、お染があらはれた。細い、長い、淋しい顔は蒼いと云ふよりか布のやうに真白だつた。で彼女は帯をひきづりながら、
「何んだつてあんなに階下でざわざわさわいだりするの。」
と彼女は少女を叱りつけた。
「意地になつて、いつまでもしがみついてゐるぢやないか。」
 北は首を垂れてゐた。彼女は黒襦子に友禅染を打ちあはせた帯を引きづつたまゝ仰向けにねころがつてゐる丘の頭元へべつたりすわつて、彼の頭を自分の膝の上へのせながら、
「どうして、――昨夜は来なかつたの。」
 丘は黙つてゐた。
「かんにんしてちようだいな。」
「――」
「怒つたの、どうして黙つてゐるのよ。わたしは忘れやしなくつてよ。昨夜もあなたのあの…………寂しさに野辺に立ちいて樹をゆれど、樹をゆすれどもさゆるぎもせず…………と云ふ歌を胸のうちで暗誦して泣いてゐたのよ。」
 彼女は淋し気に鬢にもつれる髪毛をか細い指先でかきあげ、蒼黒い罪業の円輪の染め出された瞳を閃めかしてそつとさゝやくやうに云つた。
「嫉いてゐるの? 心配しなくてもいゝことよ、微塵だつて、――わたしはもう今ぢや一どきに百人きたつて平気なんだもの、何とも感じないのだから。向方が感じるのが不思議なくらいなんだから。丘さん、あなたお一人よ、わたしの魂もからだもゆり動かす力をもつてゐるのはひろい世界にあなたお一人よ。」
 彼女は彼の顔をなでた。指先が彼の瞳に触れたらしかつた。
「あら、泣いてゐるの! あなたは!」
「――お前もやつれて容貌きりやうがおちたと思つてよ。」
「そおつ」淋しくわらひ、「でも貴方だつてずい分――何と云つたらいゝんでせう。……瘠せて骨だつて、凄くなつて、ほんとにいゝわたしの情夫になりきつてしまつたのね。」
「さうかもしれないな、お前の職業がプロステイチユシヨン――分るかい、婬売であるやうにだね、己の仕事だつていはゞ男児が魂神を売つてお飯にありつく精神的プロステイチユシヨンだからね。無理もないよ、瘠せる位は、お染。」
「さう悲観しちや嫌、さうしたわたしでも貴方といふ人があればこそこの世の楽しみもあるんだもの。生きたお染を       するのはほんとに貴方お一人よ、あとはみんなわたしの屍骸を       てゐるんだから。」
「己だつて――」と丘は北の方を顧みた。女も北を見た。「己だつて生きた己と話するのはお前と、このこゝにゐるこの北君位のものだ。」
「まあ、この人は、さうするとあたしの情人いゝひとが貴方で、貴方のいゝ人が北さんと云ふ寸法なんですの。たいへんね、北さんこそいゝ御迷惑だし、――ほんとにこれぢやわたし北さんに誰れかをとりもたなくては気がすまなくなつてよ。」
「可愛いことをいつてらあ。」と涙ぐんだやうな声で丘は言つた。「いゝかい、北君はあらゆる男の情人いゝひとになるんだよ。己も一度は万人の情人になりたかつたけれど、結局、お前一人の情人になつてしまつたよ。」
 彼は嗚咽き出した。北は何も言へなかつた。

 夕方北輝男は小石川の高台への阪路を、彼の侘住居へかへりかけてゐた。夕日があかあかと空を染めてゐた。彼は丘の思想よりも丘の淋しい生活と魂神とに、今沈みゆく太陽を引きもどせるものなら引きもどしたいやうなたまらない嘆きを感じてゐた。
「僕の代りに、せめて君だけでも偉くなつてくれ、たのむよ、たのむよ、」と入り口の暖簾の下に座つて手を合はして彼を見送つた丘のすがたが彼の眼底からはなれなかつた。彼は拳をにぎりしめて渾身獅子のごとくうなつた。
「飽まで自分は燃えさかり、照り輝やく太陽のごとく、偉大で、光明と熱に充溢してゐるぞ!」
 実に一九一八年の秋のある日のことであつた。(ある長篇の一節)(一九一九年六月)
(「新潮」大正9年1月号)





底本:「編年体大正文学全集 第九巻 大正九年」ゆまに書房
   2001(平成13)年12月10日第1版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第三十二巻第一号」新潮社
   1920(大正9)年1月1日発行
初出:「新潮 第三十二巻第一号」新潮社
   1920(大正9)年1月1日発行
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入力:西村達人
校正:岩澤秀紀
2012年2月8日作成
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