『人形の家』解説

島村抱月




       一

『人形の家』の作者ヘンリック・イブセン(Henrik Ibsen)は西暦千八百二十八年三月二十日、ノールウェーのスキーンといふ小都會に生まれ、千九百六年五月二十三日、七十九歳で同國の首府クリスチアニアに死んだ。彼れの生涯中三十七歳から六十三歳まで、人生の最盛期二十七年間は、本國に意を得ないでドイツ、イタリア等に漂泊の生活を送り、『ブランド』以下『ヘッダ・ガブレル』に至る十餘篇の劇をそのあひだに作つた。彼れの著作目録は、
『カチリーナ』(Catilina--1850)
『勇士の墓』(Kjaempeh※(ダイエレシス付きO小文字)jen=The Warrior's Tomb--1851)
『ノルマ又は政治家の戀』(Norma eller en Politikers Kjaerlighed=Norma or a politician's Love--1851)
『聖ジョンの夜』(Sancthansnatten=St. John's Night--1853)
『オェストラアトのインゲル夫人』(Fru Inger til Oestraat=Lady Inger of Oestraat--1857)
『ゾルハウグの饗宴』(Gildet paa Solhaug=The Feast at Solhaug--1857)
『オラフ・リリヱクランス』(Olaf Liljekrans--1857)
『ヘルゲランドの海豪』(Haermaedene paa Helgeland=The Vikings at Helgeland--1858)
『戀の喜劇』(Kjaerlighedens Komedie=Love's Comedy--1862)
『僣望者』(Kongsemnerne--The Pretenders--1894)
『ブランド』(Brand--1866)
『ペール・ギュント』(Peer Gynt--1867)
『青年同盟』(De Unges Forbund=The League of Youth--1869)
『皇帝とガリリア人』(Kejser og Galiloeer=Emperor and Galilean--1873)
『社會の柱』(Samfundets St※(ダイエレシス付きO小文字)tter=The Pillars of Society--1877)
『人形の家』(Et Dukkehjem=A Doll's House--1879)
『幽靈』(Gengangere=Ghosts--1881)
『人民の敵』(En Folkefiende=An Enemy of the People--1882)
『鴨』(Vildanden=The Wild Duck--1884)
『ロスメルスホルム』(Rosmersholm--1886)
『海の夫人』(Fruen fra Havet=The Lady from the Sea--1888)
『ヘッダ・ガブレル』(Hedda Gabler--1890)
『建築師』(Bygmester Solness=The Master Builder--1882)
『幼きエイヨルフ』(Lille Eyolf=Little Eyolf--1894)
『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』(John Gabriel Borkman--1897)
『我等死者の醒むる時』(Nar Vi Dode Vagner=When We Dead Awaken--1899)
『詩集』(Digte=Poems--1870)
イブセン詩集
イブセン書簡集
イブセン演説及新書簡集
イブセン草稿集
 これ等の作の中でも、殊にその現代の社會を描いた劇において、イブセンは近代劇の父となり王となつたのである。

       二

『人形の家』と言へば、誰でもすぐ婦人問題ということを想ひ出す。イブセンの社會劇は多く問題劇で、『人形の家』はすなはち婦人問題を材料にした劇であるといふ。そして問題を藝術にするのが善いとか惡いとかいふ論爭がそれにともなふ。けれども要するにこの論爭は無用である。すべての劇が問題劇でなくてはならないといふ理由もなければ、一つの劇が問題劇であつてはならないといふ理由もない。劇が藝術としての目的は我々の生命を衝き動かすところにある。それさへあれば、その方法となり、材料となるものが社會問題であると否とは問ふところではない。『人形の家』には婦人問題が材料として用ひられてゐる。婦人の解放、婦人の獨立、婦人の自覺、男女對當の個人としての結婚、戀愛を基礎とした結婚、といふやうな問題が含まれてゐる。そのためこの劇が單なる藝術の力以外に廣く世界を刺戟したことは否まれない。ヱドマンド・ゴッス氏がその『イブセン傳』(Ibsen : Edmund Gosse)の中で、
『人形の家』はイブセンが始めての無條件的成功の作である。ただに世間一般の議論を惹き起した最初の作であるのみならず、その仕組及び描寫法において、イブセンが撓まざる現實的作家としての新理想を發揮した點で、その以前の作よりも遙かに進んでゐる。アーサー・シモンズ(Arthur Symons)君が「人形の家はイブセンの劇中傀儡をあやつる針金の用ひられなくなつた第一の作である。」といつたのは當つてゐる。一歩を進めては、この針金の用ひられなくなつた第一の近代劇であるともいへる。もとよりまだその後の作のごとく完全の描寫法とはいへない。事件の湊合せられる距離がおそろしく短くて、初めの幕の邊では、巧みに面白く出來てはゐるが、まだよほど實人生の不可避性と遠ざかつてゐる。しかし驚くべき最後の幕において、ノラが出て行く支度をして寢室から立ち出で、ヘルマーと見物とを驚倒せしめるところ、悶へてゐる夫婦が卓を圍み面と向つて對決する邊にくると、人をして始めて、劇壇に新しきもの生れたりといふ感をおこさせる。同時にいはゆる「うまく作つた芝居」は、俄然としてアン女王の死のやうに死んでしまつた。凄愴なまでに生の力の強烈にあらはれてゐることは、この最後の幕において驚くばかりである。昔のめでたい終局は始めて全然抛棄せられ、人生の矛盾が少しの容赦もなく出てきた。『人形の家』が非凡の演劇であつたことをあんなに突然認められたのは珍らしいことである。ノラの「獨立宣言」は全スカンヂナヴ※[#小書き片仮名ヰ、131-16]アに響き渡つた。人々は毎夜々々興奮して顏蒼ざめ、議論をしたり、喧嘩をしたり、喰つてかゝつたりしながら劇場を出た。
 といつてゐるのは、もつて、この劇がはじめてイブセンの本國で演ぜられた時、世間の問題を刺戟したことの如何に激烈であつたかを想見するに足る。ただにスカンヂナヴ※[#小書き片仮名ヰ、132-1]アのみならず、歐洲の諸國にわたつて、近代の婦人問題を刺戟した、最も有力なものの一はこの劇である。問題劇としての效果はこれで遺憾がないといつてよい。
 けれども、唯それだけでは藝術としての特權がない。その問題なり思想なりの奧から放射してゐるものがなくては、これと似た效果を生ずる一場の煽動演説と何の區別もないことになる。藝術の力はもつと根柢から發するものでなくてはならない。そもそもそれがあればこそ、一篇の『人形の家』もあれほどの刺戟力を有し得たのである。
 藝術の奧から放射してゐるものは生命の光りであり、生命の熱である。藝術は生命の沸騰そのものである。
 生命の沸騰はその個人の全人格に震動を與へて、そこに思想感情の深い覺醒を生ずる。ほとんど思想であるか感情であるかわからないほど深奧な心持を經驗する。假りにこれを説明していへば「人生を如何にすべき」「我が生を如何にすべき」といふやうな、もだもだしい心持である。この心持の中には、社會問題でなく、人生問題が包まれてゐる。人生觀の思想が暗示せられてゐる。すべての近代藝術は、この意味において思想藝術であり、問題藝術である。『人形の家』も先づこの意味において問題劇でなくてはならない。イブセンが千八百九十八年五月二十六日クリスチアニアのノールウェー女權同盟の祝賀會でした演説に、
「私は女權同盟の會員ではありません。私の書いたものには一として主張を廣めるためと意識して書いたものはありません。私は世間の人が一般に信じようとしてゐるよりもより多く詩人で、より少く社會哲學者であります。皆さんの祝杯に對しては感謝いたしますが、ことさらに女權運動のために働いたものとしての名譽をば辭退するほかございません。私は一體女權運動のいかなるものであるかをすら、實際十分に明かにしてをりません。私はこれを廣く人間の問題であるとみました。注意して私の著述をお讀み下すつたら、この意味がわかるだらうと思ひます。もとより女權問題も、他の諸問題と同じく、これが解決は望ましいことでありますが、しかしそれが目的の全部ではありません。私の仕事は「人間の描寫」といふことでありました。勿論、かういふ描寫が合理的に眞實だと思はれると、讀者は自分の感情や氣持をその詩人の作中に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入して、それ等がみんな詩人のものであつたことになりますが、しかしそれは間違ひです。すべて讀者は皆てんでんの人格に從つて、その作を非常に美しい、綺麗なものに作りかへてしまひます。ただに作者ばかりでなく、讀者もまた詩人なのでありまして、彼等は作家の助手であり、時としては詩人みづからよりも一層詩的なのであります。(下略)」
 といつたのは、その「人間の描寫」といふことで、人生問題を暗示する意味を述べたものとみられる。けれどもそれと同時に、婦人問題を婦人問題として材料に用ふることも、初めからのイブセンの計畫であつたことは明かである。千八百七十九年すなはちこの劇の出來る年の七月、ローマからゴッス氏に宛てて送つた手紙は、
「小生は去る九月から家族とともにこの地にをります、そして大部分の時間は新に作りかけてゐる劇のことで塞いでゐます、もう間もなく出來上つて、十月には出版の運びになりませう。眞面目な劇で、近代の家庭状態、ことに結婚とからんだ諸問題を取り扱ふ、本當の家庭劇です。」
 と書いてある。たゞこんな結婚問題、家庭問題、婦人問題をとほして、その上に一段奧深い人生問題の氣持を加へたものと見ればよい。この種の思想なり問題なりは、藝術の中の粘着性となり眞實性となつて殘留する。普通の娯樂的藝術にはこの粘着性と眞實性とがない。感興藝術、情緒の遊戲、感情發散機關、これらの意味を有する娯樂的藝術と眞の藝術との間には、踰ゆべからざる、類の相違がある。

       三

『人形の家』の骨子となつてゐる着想は、早く十年前すなはち千八百六十九年の彼れの作『青年同盟』に現はれてゐる。傳記家イェーゲル氏は更にこれをその前の作『ペール・ギュント』に求めて、ヘルマーがノラに對する利己的性質は、ペール・ギュントがアニトラの愛に對する心持と同じであるとしてゐる(Henrik Ibsen : Jaeger)が、しかし中心人物たるノラの方からみた、婦人問題としての端緒はこゝにない。やはりこれを『青年同盟』に尋ぬべきである。すなはちその第三幕の終りで、ゼルマが夫のエーリック及びその父と別れて家を出るところに、
「ほんたうにまあ、私はあなたがたから殘酷な目にあつてゐました! あなたがたみんな、――卑怯な! 私はいつも貰ふことばかりで、――ついぞあげることがない。あなたがたの中にまじつた物貰ひのやうでした。私のところへきて犧牲を出せとお求めなすつたことは一度もない。私は何をすることも出來ないものになつてゐました。私はあなたがたがいやになりました! あなたがたが憎くなりました!」
 といふのはノラが「あなたには少しも私といふものを理解してゐらつしやらなかつたでせう? 私は今まで大變不法な取扱を受けてをりました、第一は父からですし、その次はあなたからですよ」といふのと同じである。またゼルマが
「どんなにか私はあなたがたの苦勞や心配をたゞ一滴でもいゝからわけて貰ひたいと思つたでせう! けれどもそれを私が頼むと、あなたは笑つておしまひなさる。私を人形のやうにくるみ上げて、子供と遊ぶやうに私とお遊びなすつた。あゝ、私どんなにかあなたと苦勞を一緒にしたいと騷いだでせう! どんなにかこの世の廣い、高い、強いこともしたいと、一生懸命念がけたでせう!(下略)」
 といふのはノラが「私はあなたの人形妻になりました。ちやうど父の家で人形子になつてゐたのと同じことです。それから子供がまた順に私の人形になりました。そして私が子供と一緒に遊んでやれば喜ぶのと同じやうに、あなたが私と遊んで下されば面白かつたに違ひありません」といふ臺辭の前身と見るべく『人形の家』一篇の根原となつたものである。『青年同盟』のこれ等の句を讀んだブランデス(George Brandes)氏はイブセンにすゝめて、これを展開すれば別に立派な大作が出來るといつたと傳へられてゐる。しかし直接この作を刺戟した動機に關して、ゴッス氏の傳はかういつてゐる。
「一般に信ぜられてゐるところによると、千八百七十九年四月、イブセンはデンマルクの法廷におこつた一事件で、ジーランドの或る小さい町の、若い結婚した婦人がやつたことの話を聞かされた、それが彼れの心を新劇の計畫に引きつけたのである。」
 おそらくこの二つはどちらもあつたのであらう。

       四

 それから今一つはフランスの作家ヴ※[#小書き片仮名ヰ、136-3]リエール・ド・リール・アダンが千八百七十年に作つた一幕劇で『謀叛』(La R※(アキュートアクセント付きE小文字)volte: Villiers de L' Isle Adam)と題するものである。フェリックスとエリザベットと、夫婦きりの劇で、エリザベットは夫の打算的な性向に堪え得ずして、終に家を棄て去るが、しかし間もなく歸つてきて、結末はめでたく收まる。その中に次のやうなエリザベットの臺詞がある。
「わからない人ね、私は生きたいのですよ。誰れだつて生を樂しみたいと思ふのが當然だとは思ひませんか? 私、ここにゐると息がつまるやうですよ、もつと眞劍なことがほしいのですよ、廣い天の空氣が吸ひたいのですよ! あなたのおさつが墓場へ持つて行けますか? どのくらゐ私たちは生きられるものだとお思ひなすつて?(間をおいて、考へ込んで)生きる?――私、生きたいとさへ思ふか知ら? 戀人! あなたさうおつしやつてね。お氣の毒さま、違ひます! 戀人なんか私にはありません、この後だつて決して持ちません。私は夫を愛するやうになつてゐました――御覽なさい――そして私が夫から求めたものは、ちらりとでもいゝから、人間の同情でした。それが今ではもう消えてしまつて、愛の誇りなんか私の血管の中で氷りついてゐます。あなたは私が何も知らないで、氣を揉んでゐる間に、私の氣ちがひじみた嬉しさで永久にと思つて捧げるものを、塵芥のやうにひつたくつておしまひなすつたのね。(下略)」
 そして彼の女が義務として爲すべきことをした結果はどうかといふと、たゞ彼の女の若さは亡ぼされ、彼の女の美しさは消え、貴い夕べは簿記帳によつて汚されたに過ぎない。彼の女はもうここに殘つてその義務を果たす力を失つてしまつた。これから少しの自由を樂しまなくてはならない、廣い地平線を見なくてはならない。それが爲に彼の女はたうとう夫と子供を跡にして出て行つた。取り殘されたフェリックスは絶望して卒倒する。けれども次の場でエリザベットは夜明けがたに歸つて來てゐる。
「もう遲かつた!――私にはもう氣力がなくなつてゐる。馬車の窓から夜の暗い中を覗いたとき、自由はいくら欲しくても、私の心は沈んでしまつて、漂泊者といふ冷い感じが身に沁みてきた。鉛の鎖で繋がれたやうな氣持(中略)何處へ行つていゝかわからなくなつて、冷たい朝の空氣に顫えて、私は歸つてきた(下略)」
 といふとフェリックスは「御覽、私だつてつまりそんなに獸ではない」といつて妻の手に接吻する。エリザベットはそれをじつと見おろして、悲しげに、「氣の毒な人!」といふのが終りである。妻が家を出る前後の樣子や、そのあとでの夫の樣子などまで、『人形の家』のノラとヘルマーとの場合に、どこか似たところのあるのは事實である。けれどもイブセンが『人形の家』を書くとき『謀叛』を讀んでゐたか否かは知る由がないから、『人形の家』を『謀叛』から脱化し、若しくは『謀叛』に似せたものだとはいへない。證據のない限りは無關係なもの、暗合したものと見ておくのが至當である。イブセンが、つい十年前に出た他人の作の外形を摸倣する人とも思へないし、著想はすでに『謀叛』よりも早い自作の『青年同盟』に明かにその端緒を見せてゐるのである。かつ『謀叛』は劇としての價値も到底『人形の家』に及ばない。その滑かな饒舌の臭を帶びた臺詞も古いし、感情の誇張、粗大なところも古い。やはりイブセン以前の物といふ感じを免れない。劇の結末は兩者全く相違してゐるのは言ふまでもないが、『謀叛』の結末は、『人形の家』のノラが家を出たきりでその後どうなるであらうかといふ問題をあとに殘してゐるのに比して、答を與へた趣がある。けれどもそれは、エリザベットが悟りを開いて滿足して歸つてきたのでなく、たゞ自分にはもう解決の氣力がなくなつたといつて悲しく歸つてきたのであるから、實は答でなくして問題はそのまゝ殘つてゐるのである。

       五

 それに比べれば、イブセンが通俗趣味に強要せられて結末を變更した、有名な改作の『人形の家』では、親子の愛といふもので解決を與へて、問題を問題としないうちに揉み消してしまつた。今その改作された結末を譯載すると、本書一二六頁の十六行目以下が次のやうに變はる。
ノラ 二人の仲が本當の結婚にならなくてはなりません。左樣なら!
ヘルマー しかたがない――行け!(ノラの手を把つて)併しその前に子供にあつて暇乞をしなくちやいけない!
ノラ 放して下さい! 私、子供にはあひませんよ! つらくてあへないのですもの。
ヘルマー (左手の戸の方にノラを押しやり)あはなくちやいけない!(戸を明けて靜かに云ふ)あれを御覽、子供等は何も知らないで、すや/\眠つてゐる。明日目をさまして、母の跡を慕ふ、その時はもう――母なし子。
ノラ (顫へながら)母なし子!
ヘルマー ちやうどお前もさうであつた。
ノラ 母なし子!(堪えかねて旅行鞄を落して)あゝ、私、自分にはすまないけれど、このまゝ振りすてゝは行かれない(戸の前に半ば體を沈める)
ヘルマー (喜ぶ、優しい聲で)ノラ! (幕)
 かういふ改作が原文の精神を破壞して淺薄なものにしてしまふことは云ふまでもない。であるから、イブセンは已むを得ずして書いたこの改作に關し、次のやうな手紙をヴ※[#小書き片仮名ヰ、139-8]インの一劇場監督者ハインリヒ・ラウベ(Heinrich Laube)に送つた。
 千八百八十年二月十八日、ミュンヘンにて
 拜啓――小生の近作『人形の家』が令名ある貴下の監督の下に「ヴ※[#小書き片仮名ヰ、139-11]イン市劇場」にて開演せられ候由承り大悦罷在り候。
 貴下はこの劇がその結末の彼れが如くなる故をもつて正當にいはゆる「劇」の法則に合ひたるものに非ずとの御意見の由、しかしながら、貴下は眞に法則といふが如きものに多くの價値をおかれ候哉。小生の考へにては、劇の法則は如何やうにも變ぜられ得べく、法則をして文藝上の事實にこそ從はしむべけれど、逆に文藝をして法則に從はしむべきものに非ずと信じ候。この劇が現在のまゝの結末にてストックホルムにおいても、クリスチアニアにおいても、コーペンヘーゲンにおいても、ほとんど空前の成功を收めたるに徴して、この理は明かと存じ候。結末を變更したる作は、小生がこれを必要と認めたるがためにはこれなく、ただ北ドイツの一劇場監督者と、同地方の巡廻興行にてノラに扮する一女優との求めに由りたるものに候。右改作の寫し一部こゝに御送附申上候。御覽の上、かゝるものを用ふるは徒らにこの作の效果を弱むるに過ぎざることを御了知下されたく、希望の至に御座候。小生は貴下が必ずこの劇を原作のまゝにて御演出下され候ことと信じて疑はず候。
頓首
 尚こんな改作をせざるを得なかつた事情については、デンマルクの『ナチョナール・チデンデ』紙に寄せた、次のやうな書簡がある。
 千八百八十年二月十七日、ミュンヘンにて
 記者足下――尊敬する貴紙第千三百六十號において拜見せしフレンスブルグよりの一書面によれば、『人形の家』(ドイツにては『ノラ』)は彼の地にて劇の結末を變更して演ぜられ、その變更は明かに小生の言ひつけにて爲されたるものと有之候。この末文は事實に無之候。『ノラ』の發行せられて間もなく、これが飜譯者にしてまた北ドイツの諸劇場に對する小生の事務監督者たるベルリンのヴ※[#小書き片仮名ヰ、140-13]ルヘルム・ランゲ(Wilhelm Lange)氏より書面まゐり、それによれば、この劇の結末を變更したる一飜案が發行せらるゝのおそれあり、さすれば、北ドイツの諸劇場中には、多分その方を選びて興行するものあるに至るべしとのことに候ひき。
 かゝる出來事を防がんため、小生は絶對的に必要なる場合を慮り、結末の場を變更したるものをランゲ氏まで送附いたし候。即ちノラは家を去らずして、無理にヘルマーに連れられ子供等の室の前に來たり、ちよつとしたる臺詞ありて、戸のところにくづをるゝ、幕下る、といふ場面に御座候。この變更は、小生みづから、飜譯者まで書面にて申遣はし候通り、この劇に對する「野蠻なる暴行」として呪ひ居り候。この改作の場面を用ふるは全然小生の意志に背きたるものに御座候。ドイツ劇場の多くはこれを用ひざるべしと信じ候。
 ドイツとスカンヂネヴ※[#小書き片仮名ヰ、141-5]アとの間に文學上の便宜の存せざる限り、我々スカンヂネヴ※[#小書き片仮名ヰ、141-5]アの作家は當國の法律の保護を受くる能はず、ドイツの作家のスカンヂネヴ※[#小書き片仮名ヰ、141-6]アにおけるもまた同樣に御座候。從つて小生等の劇は、ドイツにおいては、飜譯者、劇場支配人、舞臺監督者及び小劇場の俳優等が暴行に委せられ居り候。小生の作がこの危險に瀕する場合には、小生は經驗の教ゆるところにより、暴行を小生みづから行ひて、もつて一層不注意未熟なる人々の手に取扱はれ飜案せらるゝことを避け申候。
頓首
 當時ドイツでは一般にノラが家を去るのを批難してゐた爲にかやうなことが起こつたのである。

       六

『人形の家』の結末に對する世間の批難は、多く「いくら自分の教育の爲だつて妻が夫を棄てて家を出る法はない、ことに子供を棄てゝ出られるものではない、出た後のノラはどうするのだらう」といふのであつた。そこで、イブセンみづからの右の改竄をはじめとし、世間にもこの通俗的な要求を充たすために種々の作が『人形の家』を種にして現はれた。『後の人形の家』ともいふべき種類のものである。その一は千八百九十年の『英國繪入雜誌』(English Illustrated Magazine)に出たウォルター・ビザントの『人形の家――及其後』(The Doll's House―and After : Sir Walter Besant)で、それによるとノラの娘とクログスタッドの倅とが大きくなつて結婚約束をする。ヘルマーはノラの去つた後亂酒漢になつてしまふ。クログスタッドは倅のこの結婚が不賛成で、ノラの娘の兄弟が書いた僞證で娘を恐喝し、娘はそのために水に身を投げる。
 またアメリカのイドナ・ダウ・チーニー夫人といふ女子參政權論者の女作家は少しおくれて『ノラの歸參、ヘンリック・イブセンの人形の家の後日談』(Nora's Returne; a sequel to The Doll's House of Henrik Ibsen : Mrs. Edna Dow Cheney)と題する小册子を著はした。これでは、ノラは、家を出た後看護婦として教育せられ、コレラの流行に際してヘルマーがそれに罹つたのを看護するため、身分を隱して昔の自分の家に雇はれ、再び彼れの命を救つてやる。病氣が恢復しかけたとき、ヘルマーは看護婦姿のノラをそれと心づき、こゝにめでたく仲なほりして夫婦元どほりになるといふ筋であるといふ。
 その他『人形の家』を滑稽の材料にしたパロデ※[#小書き片仮名ヰ、142-13]ーの類では、千八百九十三年に出來た『ポンチ氏の袖珍イブセン』(Mr. Punch's Pocket Ibsen : F. Anstey)が最も有名で『人形の家』のほかに『ロスメルスホルム』『ヘッダ・ガブレル』『鴨』『建築師』等の作りかへをも加へてある。

       七

 これ等は要するに眞面目に論ずべきものでないが、「妻として夫や子供を棄てる法はない」といふ批難に對して、イブセンが作の上で一種の答辯を與へたものと評せられるのは、『人形の家』につづいて出た『幽靈』である。『幽靈』ではアルヴ※[#小書き片仮名ヰ、143-2]ング夫人が、放埓な夫を棄て子供を棄てゝ家を出ようとしたが、思ひ直して家に留り、家庭の罪惡を子供にも世間にも知らせないやうに、一身を犧牲にしてこれを糊塗してゐた。けれども最後になつて、愛子オスワルドは父の放蕩の報ひを受けて無殘の死を遂げ、一家悲慘の運命に終る。ノラもあの時決心を飜して家に留まつたとしても、それが決して幸福を齎らす所以ではない。といふ意味をこの作に求めようとするのである。
 またノラとヘルマーと、對當の自覺ある個人として結婚したのでないやうな場合に、結局どうすればよいか。この問題に、イブセンが一の解釋を與へたものと言はれる作は、『海の夫人』である。この劇では、エリーダが同じく不當の結婚を自覺し、それから脱して自由な神祕な海の情人の方へ引つけられやうとする。已むを得ずして、夫※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ングルは、それでは自由にしてやるから、一切の責任をエリーダ一人で負うて進退を決せよといふ。自己の自由を許され、責任を負はされて見ると、はじめて夫の家を去るのが自分の本望でないことがわかり、獨立した一個人として改めて夫や先妻の子供等と愛を誓ふ。先づ獨立した自由な一個人になる、その上でほんたうの愛が成りたつたら、そこにほんたうの結婚も成り立つ、といふのがその解釋である。
 こんな風に、婦人の自覺問題、解放問題、結婚問題としてほとんど論文を讀むやうな態度でこれ等の作に對するのがイブセンの本意でないことは前に言つた通りであるが、それと同時に、その奧から放射してゐる人間の光り、生命の熱ともいふべき力が、これ等の問題と切り放ち難い關係を持つてゐることも明かである。この點からいへば、『人形の家』『幽靈』『海の夫人』の三作は、相通じて一の哲學を成すとも見られる。

       八

 イブセンの死後、千九百九年に彼れの作の草稿が公にせられた。その中に『人形の家』もある。今その最後の草稿と思はれるものと完成した『人形の家』とを比較してみると、種々の點に興味がある。その草稿は『近代悲劇稿』と題し、千八百七十八年十月十九日、ローマにてとして、まづ次のやうな着想が書いてある。
 精神上の法則に二種ある、二種の良心である、一は男子に、他の全く異なつた一は女子に。男子と女子とは互に理解しないで、實際の生活では、女子は男子の法則で判定せられる、あたかも女でなくて男ででもあるやうに。
 この劇中の妻君は何が正で何が邪であるかの觀念を有しないで終る。一方には自然の感情、一方には權威に對する信念が、全然彼の女の歸趨に迷はしめる。今日の社會では女子は女子たることが出來ない、今日の社會は全然男性の社會で、法律は男が造り、男性の見地から女性の行爲を判定する裁判組織になつてゐる。
 彼の女は僞署をした、そしてそれを誇りとしてゐる。夫に對する愛から、夫の生命を救ふためにしたことだからである。ところがこの夫は平凡な名譽主義から法律と同じ立場に立つて、男性の眼からこの問題を取扱ふ。
 精神上の葛藤。權威に對する信念に壓せられ眩惑せられて、彼の女は子供を養育する道徳上の權利と能力との確信を失ふ。苦惱。近代の社會では母はある種の昆蟲のやうに、種の繁殖の義務を果たすと、去つて死んでしまふ。生の愛、家庭の愛、夫や子供や家族の愛。そここゝに女らしい思想の破綻。心配と恐怖の突然の囘歸。すべてそれを彼の女ひとりで持ちこたへなくてはならない。大破裂が必然、不可避的に近づいてくる。絶望、煩悶及び破壞。
 大體これだけの着想から、漸次それに具體的形を與へて行つたものと見える。この着想の次には人物を列記して
シュテンボルグ  書記官
ノラ       その妻
リンド孃(夫人) (未亡人)
辯護士クログスタッド
カーレン     シユテンボルグ家の保姆
シュテンボルグ家の女中一人
使の男一人
シュテンボルグ家の三人の子供
醫師ハンク
 これで見ると、主人公のヘルマーといふ名はまだこの腹案には出てゐない。却つて領事の名が主人公の名になつてゐる。筋書及び草案のそれが第三幕からヘルマーといふ名に變つてゐる。
リンデン夫人もリンドといふ名で、夫人だか、未亡人だか、娘だかまだ定まつてゐない。醫師ランクは醫師ハンクとなつてゐて、草案の第二幕からランクとなつてゐる。そこでこの人名の次に三幕にわけた略筋があり、それから本文の草案になつてゐるのであるが、略筋によると、第一幕では、重大な色どりになる醫師ランクがまだ出てこないで、第二幕から出てくる。草案ではもう第一幕から現はれる。またノラがパン菓子を喰ふことは略筋にも草案にもない。從つてこの劇の第一幕で最も輕快な味のある場面、ノラがリンデン夫人とランクを相手に「ランク先生、パン菓子を召し上りませんか」とその口に菓子を入れてやる邊から、「馬鹿つ? と言つたらどんなにいい氣持でせう?」のところなどが草案にはまだ全く缺けてゐる。

       九

 また『人形の家』の色彩の中心になつてゐるタランテラ踊(タランテラ踊はイタリヤの毒蜘蛛タランチユラに刺されたものが、筋肉の痙攣を起こして舞踏するやうな樣子をして苦しむところから、その形に似た踊の名となつたものだと言ひ傳へられてゐる)のことは、略筋にも草案にも全く出てゐない。完成本に始めて現はれてくる。從つて第二幕の如きは、ほとんどすべて完成本で見るやうな面白い場面を逸してゐる。結末、ノラが狂亂的にタランテラを踊つてヘルマーを引とめるところは、その代りに、ピアノをひいて、『ペール・ギュント』の中にあるアニトラの歌を唄つたり踊つたりするが、ランクとの對話でノラが踊りの衣裳を見せたり、絹の靴下でランクを打つたりする微妙なところはあり得ない。のみならずランクがノラに對して自分の心を打明ける前後から、ノラが「私にさういつて下すつたのが惡いんです。おつしやる必要はなかつたのでせう?」といふ臺詞の邊、この劇の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)話として最も趣味の深い一節が草案ではまだほとんど出來てゐない。
 第三幕は草案と完成本と甚しく違つてゐない。こゝはノラをして婦人の自覺、解放を説かしめるところであるから、問題劇としては一篇の骨子にあたり、イブセンもおそらく初から動かすべからざる腹案を持つてゐて書いたのであらうと思はれる。それでも所々肝要のところに、草案から完成本へと改善せられて行つた跡が見える。領事シュテンボルグの假裝舞踏會といふのもなくタランテラ踊もないから、ノラは夜會服を着ただけで、夫婦は子供の會へ行く。あのじみな家の中に花やかな踊子姿をしたノラがでてきてこそ、後の大破裂の場面との色どりもおもしろいのであるが、草案ではまだその考へがついてゐなかつた。またランクが「この次の假裝會には、見えないものにならうと思ふ」といふやうなよい場面も出來てゐない。
 愈※(二の字點、1-2-22)最後にノラとヘルマーとが對決するところ以下は、前にも言つた如く大體において草案と完成本と同一であるが、例へばノラが「お許し下すつてありがたうございます」といつて別室に這入り「人形の衣裳をぬぐのですよ」といふところは、その「人形の衣裳をぬぐ」といふことに全篇の意味と響應する象徴的な味があるのを、草案ではまだ「氣を落ちつけなくちやなりません、ちよつとの間」と極はめて無意味にいはせてある。またヘルマーが「幾ら愛する者の爲だつて、男が名譽を犧牲には供しない」といふのに對して「それを何百萬といふ女は犧牲に供してゐます」といふノラの言葉は、男子の爲に犧牲になることを甘んじてゐた古今幾百萬の婦人に代つて發した、女子の公憤の叫びだと稱せられるが、草案ではたゞヘルマーが「おゝ、ノラ、ノラ!」といふとノラが「それでどうなつたかといふと、お禮一つおつしやるぢやなし、愛の言葉一つ聞くぢやなし、私を救つて下さる考へなんか糸すぢほどもありはしない。たゞ叱り廻して――私の父まで嘲弄して――ちいぽけなことにびくびくして――犧牲になつてどうすることも出來ないでゐるものを、むごたらしく罵り立てゝ」と正面から喧嘩口調で述べてゐる。これを完成本の言葉に比べて、品位、含蓄の上に非常な差のあることは言をまたない。
 こんな風にして、着想から略筋、略筋から草案、それから完成した今日の『人形の家』と漸次精練せられたのが、草稿に見えた千八百七十八年十月といふ日附からでも一年の餘で、いよいよ書物となつて始めて現はれたのは翌千八百七十九年十二月四日、コーペンヘーゲンでである。

       十

『人形の家』が初めて演ぜられたのは、デンマルクのコーペンヘーゲンにある皇室座で、千八百七十九年十二月二十一日のことである。ノラを勤めたのがベッチー・ヘンニングス(Fru Betty Hennings)といふ女優で、これが世界における、この有名なノラ役者の最初の人である。ヘルマーに扮したのはエミール・ポウゼン(Herr Emil Poulsen)であつた。スヰーデンのストックホルムでは翌千八百八十年一月八日戲曲座で開演し、ノールウェーのクリスチアニアでは同月二十日クリスチアニア座で開演した。スカンヂネヴ※[#小書き片仮名ヰ、148-15]ア以外では、ドイツのフレンスブルグで千八百八十年二月に初めて演ぜられ、ミュンヘンでは同年三月三日レシデンツ座で演ぜられた。このミュンヘンの興行に、初めてイブセンみづからも行つてみて、二幕目の終りで幕外に立つて喝采を受けたが、三幕目の終りでは見物の方から烈しい反對論が起こつたといふ。またこの興行の際、イブセンはほとんど稽古毎に出席し、公演の後すべての俳優に温情をもつて感謝したから、きつと申分のない演出だと思つたのであらうと信じてゐると、後日イブセンが知人に語つたところはさうでなかつた。俳優の或者は充分その役柄を理解してゐない、部屋の壁紙の色が望み通りの氣分を出してゐなかつた、ノラの手が適當な形をしてゐなかつた、といふやうな不滿足な點を擧げてゐたといふ。
 なほ同年中にドイツのハムブルヒ、ドレスデン、ハノーヴェル、ベルリン等でこの劇が演ぜられ、それでノラを演じたヘドヴ※[#小書き片仮名ヰ、149-8]ヒ・ニーマン・ラアベ(Frau Hedwig Niemann-Raabe)は、ベルリンのドイツ座にゐたアグネス・ゾルマ[#「ゾルマ」は底本では「ブルマ」](Fau Agnes Sorma)に先だつてドイツにおける最代表的なノラの女優となつた。
 ヴ※[#小書き片仮名ヰ、149-11]インでは千八百八十一年九月はじめて演ぜられた。ロシアでは有名な女優モッヂェスカ(Madame Modjeska)によつて千八百八十一年十一月ペテルスブルグで、また翌年ポーランドのウォルソウで初めて演ぜられた。ハンガリーのブダペストでは千八百八十九年初演、オランダのアムステルダムでも同年初演、ベルギーのブリュッセルでも同年初演、但しこれがフランス語で演ぜられた最初で、結末はめでたい方に變更せられてゐた。パリーで『人形の家』が公演せられたのは、ずつとおくれて千八百九十四年四月二十日、ジムナーズで、女優レジャーン(Mme. R※(アキュートアクセント付きE小文字)jane)のノラのときが初めてゞある。イタリアでは女優デューゼ(Eleonora Duse)がこれを演ずるやうになつた前、千八百八十九年チューリン市で初めて演ぜられ、セルヴ※[#小書き片仮名ヰ、149-18]アでも同年にベルグレード市で初めて演ぜられた。
 イギリスでは千八百八十四年三月三日ロンドンの王子座ではじめて『人形の家』の飜案が演ぜられた。これは『蝶潰し』と題する三幕ものでかの有名な喜劇作者ジョーンスと、ハーマンといふ物語作者との合作(Breaking a Butterfly by Henry A. Jones and H. Herman, founded on Ibsen's "Norah")であつた。その、つまらないものであつたことはいふまでもない。その次が翌年千八百八十五年三月、ロンドンの一素人劇クラブの催しで、初めて原作のまゝを私演したが、しかしこれはあまり眞面目なものでも、注意するほどのものでもなかつたといふ。イギリスにおける眞の『人形の家』の初演は、ずつとおくれて千八百八十九年、アーチャー(William Archer)氏の飜譯が出來てからである。
 アメリカの方はイギリスよりも早く、千八百八十三年十二月、かの女優モッヂェスカによつて、ケンタッキー州ルイズヴ※[#小書き片仮名ヰ、150-11]ルで初めてノラをトラ(Thora)といふ題に變へて演じた。その結果はめでたく收まるやうに出來てゐたと傳へられるが、ドイツで用ひたものに基いたのか、それとも別の脚色を加へたのかは明かでない。
『人形の家』の英語に譯せられた初めは、原作の出た翌年千八百八十年でコーペンヘーゲンのヴェーベル(T. Weber)といふ人によつて『ノラ』と題して飜譯せられた。しかしこの譯者は英語の力の足りない人であつたため、頗るまづいものであつたといふ。次に出た飜譯は千八百八十二年イギリスのロード(Miss H. F. Lord)といふ婦人が同じく『ノラ』といふ題で譯したものである。イブセンを大膽なる女權論者として見た序文がついてゐる。次はモッヂェスがアメリカの興行に用ひたもので、女優の夫や書記やその他の人々相寄つて譯したものであるといふ。
 アーチャー氏の典據的な飜譯が出たのは千八百八十九年で、同年六月七日から二十九日までロンドンの新奇座で女優エチャーチの一座で演じた、その臺本の記念出版である。このとき初めて英語で『エ・ドールス・ハウス』即ち『人形の家』と題せられた。しかしもつと原名に忠實にするためには『エ・ドール・ホーム』(A Doll Home)即ち『人形家庭』とすべきであつたと『イブセン演説及新書簡集』の編者キルドール(Arne Kildal)氏はいつてゐる。とにかくこの譯で『人形の家』の定本が出來たとともに、舞臺に演ぜられた者としても、初めてイブセン劇の完全に近い者がイギリスに見られることゝなつた。この興行の重なる役割は次の如くであつた。
ヘルマー………………ハーバート・ウェヤリング(Herbert Waring)
ノラ……………………ジェネット・エチャーチ(Miss Janet Achurch)
ランク…………………チャールス・チャーリントン(Charles Charington)
クログスタッド………ロイス・カールトン(Royce Carlton)
リンデン夫人…………ジャートルード・ウォーデン(Mrs. Gertrude Warden)
 この劇の第一夜で、イブセンは初めて眞にイギリスにその文名を樹てたと稱せられる。エチャーチはシェークスピア劇を演じても有名な女優であつた。しかしてこの一座は、この興行を打上げると、すぐオーストラリアに航することゝなつて、オーストラリア、ニウジーランド、印度、エヂプトと『人形の家』を演じて囘つた。
 以上の順序で、出版後十年前後のあひだに『人形の家』は歐米全土に擴まつてもつて今日に及んだ。日本では明治三十四年高安月郊氏がはじめてこれを譯した。今ここに公にする譯本は、一旦明治四十三年一月の『早稻田文學』に掲げられたものに小訂正を加へたのである。この譯はアーチャー氏の英譯とランゲ氏の獨譯とを基とした。
 明治四十四年九月二十二日から三日間、文藝協會はその研究所の舞臺開を兼ねて、第一囘私演にこの脚本を演じた。但しこの時は第一幕と第三幕のみで、中間の幕が省かれたため、劇全體としての印象は不完全たるを免れなかつたが、それでも我が國においては新劇としてほとんど前例のない程な成功を得、引きつゞいて同年十一月二十八日から一週間、同協會第二囘公演として、帝國劇場で『人形の家』三幕全部を上場した。
 これが我が國における『人形の家』の最初の興行であるとともに、廣く近代劇としても、在來の女形と稱する男優を用ひず、女優を主として成功した眞面目な劇の最初である。その時の役割は、
ヘルマー            土肥庸元
クログスタッド         東儀季治
ランク             森英治郎
使の男             西原勝彦
子供                きよ子
                  てい子
エレン             横川唯治
アンナ             佐々木積
リンデン夫人          廣田濱子
ノラ              松井須磨子
 同じ一座は、翌明治四十五年三月十四日から一週間、大阪中座で同じく『人形の家』を開演し、これまた好成績であつた。
『人形の家』の歴史は大體以上のやうなものである。

   大正二年三月
抱月生





底本:「人形の家」角川文庫、角川書店
   1952(昭和27)年8月15日初版発行
   1961(昭和36)年4月30日17版発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2008年6月2日作成
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