『尚書』の高等批評

特に堯舜禹に就いて

白鳥庫吉




 東洋協會講演會に於いて、堯舜禹の實在的人物に非ざるべき卑見を述べてより已に三年、しかもこの大膽なる臆説は多くの儒家よりは一笑に附せられしが、林〔泰輔〕氏の篤學眞摯なる、前に『東洋哲學』に( 余は近時林氏の注意によりて之を知れるなり)、近く『東亞研究』に、高説を披瀝して教示せらるゝ所ありき。
 茲に今林氏の好意に酬い、且その後の研究を述べて、儒家諸賢の批判を請はんと欲す。而して林氏の説に序を逐うて答ふるも、一法なるべけれど、堯舜禹の事蹟に關する大體論を敍し、支那古傳説を批判せば、林氏に答ふるに於いて敢へて敬意を失することなからん。こゝには便宜上後者によつて私見を述べんとするもの也。
 先、堯典に見るにその事業は羲氏・和氏に命じて暦を分ちて民の便をはかり、その子を措いて孝道を以て聞えたる舜を田野に擧げて、之に位を讓れることのみ。而してその特異なる點は天文暦日に關するもの也。即ち天に關する分子なり。
 次に舜典に徴するに、舜は下流社會の人、孝によりて遂に帝位を讓られしが、その事蹟たるや、制度、政治、巡狩、祭祀等、苟も人君が治民に關して成すべき一切の事業は殆どすべて舜の事蹟に附加せられ、且人道中最大なる孝道は、舜の特性として傳へらるゝを見る。即ち知る、舜の事蹟は人事に關するものを他にして求む可らざることを。
 禹に至つては刻苦勉勵、大洪水を治し禹域を定めたるもの、これ地に關する事蹟なり。禹の事業の特性は地に關する點にあり。
 これらの點より推さばこの傳説作者は、天地人三才の思想を背景にして、之を創作せるものなるべく、漢人殊に儒教が天子に望む所は公明正大、その間に一點の私を插むなからんことなれば、この理想を堯に托してその禪讓をつくり、人道の理想を舜に、勤勉の理想を禹に假托せるならんか。
 なほ考ふるに、舜はもと一田夫の子、いかに孝行の名高しと雖、堯が直に之を擧げて帝王の位を讓れりといへる、その孝悌をいはんがためには、その父母弟等の不仁をならべて對照せしめしが如きは、之をしも史實として採用し得べきや。又禹の治水にしても、洪水は黄土の沈澱によりて起る黄河の特性にして、河畔住民の禍福に關すること極めて大なるもの也。よく之を治するは仁君ともいふを得べし。然るに『書經』は支那のあらゆる河川が堯の時以來氾濫し居たりしに、禹はその一代に之を治したりと傳ふ。かくの如きも事實として肯定し得らるべきか。
 これ傳説の傳説たる所以にして、堯は天に、舜は人に、禹は地に、即ちかの三才の思想に假托排列せられしものなるを知る也。
 更に之をその内容より觀察するに、堯典には帝が羲・和二氏に命じて天文を觀測せしめ民に暦を頒ちしをいひ、羲仲を嵎夷に居らしめ、星鳥の中するを以て春分を定め、羲叔を南交にやりて星火の中するを以て夏至を定め、和仲を昧谷におきて星虚の中するを以て秋分とし、和叔を朔方にをらしめて星昴の中するを以て冬至を定めしめしとあり。この觀測につきては夙に西人が種々の科學的研究あり、又近く橋本〔増吉〕文學士の研究もあれど、卑見を以てするに、嵎夷、暘谷は東方日出の個所を指し、南交は南方、昧谷は西方日沒の處、朔方は北方を意味し、何れもある格段なる地理的地點を指したるものなりとは認むる能はざる也。
 而してその鳥と火とは十二宮中の座次にして、その虚と昴とは二十八宿中の宿名なり。かく東と南とは十二宮により西と北とは二十八宿に據れるに見ば、堯典の暦を作れるものは、十二宮及び二十八宿の智識を有せしものなるや明けし。然らば何故にそが十二宮なり二十八宿なりにて劃一せられずして、却て相混合せるものを擧げしか。これ陰陽思想によりて占星家の手に成りしものなるを考へしむる也。その理は十二宮は太陽運行に基き、二十八宿は太陰の運行に基きしものなれば、陽の初なる東とその極なる南とを十二宮に、陰の初の西とその極の北とを二十八宿の星座に據らしめしものと見らるればなり。
 されば堯典記載の天文が、今日の科學的進歩の結果と相合はず、その十二宮、二十八宿を東西南北の相稱的位置に排列せることが、天文の實際にあはざることも、もとより當然のことなり。この堯典の記事は天文の實地觀測に立脚せるものには非ずして、占星思想より編み上げられ、十二宮二十八宿の智識と、陰陽思想とがその根底となりしものなるを知るべき也。
 又禹貢の九州を見るに之にも一の系統の截然として存するを見る。東を青州といへるは五行によれるものにて、東方は木徳、色は青なるによれるなるべく、西を梁州といへるは、十二宮にて正西に當れる大梁、[#この読点不適当](これ即太白(金星)なり )は一に梁星と呼ばるゝより、之に因みて梁州の名を付せしものゝ如く、南方を揚州といふは、思ふに陽揚相通ぜしめしものなるべく、北を冀州とせるは、冀字北を含むによりて之を採りしものなるべし。作者がその馬脚を示さゞらんと欲して、いかに苦心せるかを察すべき也。
 次に禹貢の記載は北方なる冀州より始る。これ北斗が帝王の座と考へらるゝ思想に基けるものにして、從つて堯舜禹三君は共にこの冀州に都せることゝ傳へらる。
 なほ九山、九澤、九州等と九を撰べるは、易の太陽の數に因めるものにして禹貢には易の思想をも含めるを見る。又九州の土色をいふに、白赤黄青黒等を以てしたるは、五行の數によれるを推すべく、禹に玄圭を賜へりとあるは、禹が治めたる水に縁ある黒色に基けるものならん。この他四岳の如きも實は五岳の思想と同一なるものにて、中央の王座たる一つを省きたるものなるべく、漢民族の山岳崇拜の思想と五行思想の抱合ならんか。
 以上の他、易及び陰陽思想の影響と見らるゝものは少からず。例へば八元八※(「りっしんべん+豈」、第3水準1-84-59)の如きは易の八卦の思想にして、舜に二女を賜ふとあるは、『史記』卷一、五帝本紀には九男二女とありて女には偶數(陰)の最小なるを撰び、男には奇數(陽)の最大なるをあげしもの也。堯が在位七十歳、舜は五十歳といへる如きも陽數を尚ぶ思想より來れるものにして、之を實數として考ふるは蓋し妥當に非ざるべし。又かの夏が田五十歩を民に貸し貢法によりて租を取り、殷が田七十歩を民に與へて助法を行ひしといへるも亦、同一思想に胚胎するものと見るべし。
 かく見來れば禹貢も亦、歴史的地理的事實を傳ふるものとは考ふ可らざる也。禹貢は支那全部を井田に分ちたるものにして、易の思想によりて太陽の數九を以てしたる也。
 堯舜禹の史實として傳へらるゝ記事が創作物なりとせば、そは何れの時代に於いて製作せられしか。換言せば易、陰陽、五行、十二宮、二十八宿等の思想智識はいづれの時代に現はれしか。これ當面の問題也。
 禹の九州の事は『書經』の中にも見え、齊の鄒衍之をいひ、堯舜禹のことは孔子が堯を天に譬へしに徴せば、今日傳へらるゝが如き堯は孔子時代にも知られしなるべく、又『詩經』の時代にも知られし也。次に十二宮、二十八宿の中の星の名は『詩經』に見え、陰陽の思想は『詩經』になく『論語』にも見當らざれども、これらのものに發見せられずとて全然之を否認するは不合理なり。されば他の事實より類推して之も亦同時代のものとするを得んか。然らばこれらの思想智識は春秋時代に於いて孔子時代以前に存せしは明也。されど禹貢の九州が荊州即ち楚の地を含めるに見、一方この地方の知られたるは春秋時代なるに見ば、兎に角周時代まで泝らせ得べきには非ざる也。
 もしこの臆説を眞とせば、次に考ふべきはこの思想は支那本來のものなりや、はた外來のものなりやの問題なり。思ふに陰陽及び天地人三才の思想はカルデアにもアッシリアにも存し、イラン民族に起りしゾロアスターの教は、陰神陽神を設けてその世界觀を説きたり。印度にては三才の思想は梨倶吠陀リグヴェーダに存し、佛教の眞如と無明とは陰陽思想の變形なり。この思想はアリアン及びセミチック種に著きが如し。而して二十八宿は印度にては二十七宿( 初めは二十八宿なりし也、ナクシヤトラといふ )にして、アラビアにては二十八宿なり。この類似は三者偶發的とするよりも、同一起源に基けるものと考ふるを至當とす。その起源に就きては、從來之れが研究に從へる西人の間に考説の區々なるありと雖、とまれセミチック族に起りしものならん。支那より西方に移り行きしものとは考ふる能はず。而してラッセンによれば二十八宿の印度に入りしは、西紀前一一五〇年頃ならんと。その眞僞は明ならざれども、支那に入れるもその前後なるべきか。二十八宿が西方より來れるを推するは、後世の支那歴史の大勢を通觀して歸納せらるゝ所、又西方との交通が比較的夙に行はれしことは、禹貢に流沙、弱水等今の新疆省の地域をいへるによりても旁證せらるべし。現に日を十二時に分つことも、五星( 土星を尚んで中央にする )の思想もアッシリアより支那に入り來れるもの也。
 五星によりて五行思想起り、易は伏羲、神農、黄帝、堯、舜の五帝を作りて、黄帝を堯の前におきたり。『書經』は堯以前につきては何事も載せざるに、後に至りて黄帝をその以前に存せりとするは、偶※(二の字点、1-2-22)その製作の後世のものなるを證するもの也。更に三皇を五帝の前におけるも同樣なり。五星に迷信的思想を附加せるはアッシリアの思想なり。
 然らばかゝる天文五行思想の入り來らざる以前の支那思想界は如何なりしかといふに、そはアミニズムにして、宇宙萬象に生靈ありと考へしもの也( これにつきては已に論じたることあれば今は省略す)。而して宗教的思想より進みて道徳を以て人々の行を規定し行かんと擬したるは儒教なり。この固有思想と五行等の新來思想とが合せる時、その宗教的方面に結びつきしは方士の類なり。後に道教となり風水説となれり。その道徳的方面に結びつきしは儒教也、易也。而して『書經』『禮記』は五行分子多く、孔子の説は道徳的分子に富みたり。
 而してかの陰陽思想は延いてわが國に及び、神代史の構成に影響すること大なりき。
〔明治四十五年二月二十二日、漢學研究會の講演、明治四十五年四月『東亞研究』第二卷第四號〕





底本:「白鳥庫吉全集 第八卷 アジア史論 上」岩波書店
   1970(昭和45)年10月26日発行
初出:「東亞研究」第二卷第四號
   1912(明治45)年4月
入力:はまなかひとし
校正:土屋隆
2004年12月12日作成
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