私が生れた鹿児島の
城山の見える其家で長兄をのぞく私達兄弟五人は皆生れたのであるが、無心の子供心には、あさ夕眺めた城山も、桜島の噴煙も、西郷どんも、朱欒の花のこぼれ敷く庭の記憶もなく只
年若な官員様であった父は、母と幼い長子とを神戸に残して一足先に鹿児島へ赴任すると間もなくあの西南戦争で命からがら燃えつつある鹿児島を脱出して、桜島に逃げ民家の床下にかくれて芋粥をもらったり、山中に避難している中官軍の勝になったので、県の書類丈を身にしょっていたのをもって碇泊中の軍艦に辿りつき漸く命びろいしたと云う。
母達も其翌春かにはるばる鹿児島に上陸した時は、只まっ暗な焼野原で一軒の宿屋もなく漁師の家に一と晩とめて貰ったが言葉はわからず怖ろしかった相である。だが十七年もすみついてすべてに豊富な桃源の様なさつまで私の兄姉達は皆鹿児島風にそだてあげられた。私は長姉の死後三年目に生れたので父母が大変喜んで、旧藩主久光公の久の一字にちなみ長寿する様にと命名されたものだとか。三四歳迄しか住まない其家の事も只母からきくのみで四十年来一度も遊んだ事はないが、兄
一体私の父は松本人。母はあの時じくの香ぐの木の実を常世の国から携え帰った田道間守の、但馬の国
台北の官舎では芭蕉や仏桑花、蘭など沢山植えてあったが、私のまっ先に思い出すのは父が一番大切にしていた一株の仏手柑である。指をもつらした様な面白い形の仏手柑はもいで籠に盛られて父の紫檀の机の上や、彫刻した支那の大テーブルの上に青磁の花瓶などと共にかざられていた。
仏手柑は香気が高くて雅致のあるものだった。
台湾では文旦という形の尖ったうちむらさきや普通の丸いざぼんや、ぽんかん、すいかん(ネーブル)等を籠に入れて毎日の様土人が売りにきた。
ぽんかんの出盛りの頃になると百も二百も買って石油鑵に入れておいては食べ放題たべた。お芋だのお菓子の嫌いだった私は、非常に果物ずきで、蜜柑畠には入って、枝のぽんかんをもいでは食べ食べした事や、唐黍をかじり、香りの高い鳳梨をむいたり、び
其頃母からおちごという牛若丸のような髷にいつも結ってもらって友禅の被布をきておとぎ文庫の因幡の白兎や、松山鏡を読みふけり乍ら盆の蜜柑をしきりに飽食する少女だった私は、南国というものによほど縁があると見え、嫁して二十五年余り、小倉の町にすみ馴れて年毎に柑橘の花をめでるのである。
静かな屋敷町の塀の上から、或は富野辺の大きなわら屋根の門口から、まっ白い膚橘の花が匂ってきたり、まっ白に散りしいたりしているのは中々感じのいいものである。朱欒の花は夏橙や柚の花よりずっと大きくて花数もすくないが、膚橘の方はもみつけた様に花を咲きこぼす。もといた堺町の家の
塀外の膚橘かげを掃きうつり
私の見た中で朱欒の巨樹は福岡の公会堂の庭にあるのがまず日本一と勝手にいってもいいだろう。八方から支え木で支えた老樹の枝は何百という朱欒をるいるいと地に低くたれていた。
先年大阪でひらかれた関西俳句大会の翌日、飛鳥川をわたり、橘寺へ行った時鐘楼の簷にかけてあった美しい橘の実の幾聯も、橘のかげをふみつつ往来し、或は時じくの香ぐの実の枝をかざして歌った万葉人と共になつかしいものの一つであった。今南国の小倉辺では深緑の葉かげにまっ青な橙がかっちり実のり垂れ、街の人々はふぐやちぬが手に入る度びに、庭のだいだいをちぎって来ては湯豆腐々々としきりにこのき酢の味をよろこぶ時候となってきた。
つい四、五日前も門司の桟橋通りの果物店の前に佇んで富有柿や林檎やバナナに交って青みかんや台湾じゃぼんが並べられているのを見ると、私の生れたあの鹿児島の家の朱欒ももうゆたかに実り垂れているのであろうと思い出されるのであった。
(大正九年十月三十一日)