警戒

C・Mに

富永太郎




 酔ひれて、母君の知り給はぬ女の胸にあるとき、「ここにわが働かざりし双手あり」の句を君の耳もとにさゝやき、卒然と君の眼の中に、母君の白き髪と額の皺とを呼び入れるものは何であるか。心せよ、これこそ、世界の構成の最下層から突き出でて、君の心臓の内壁にまで達する、かのへらへらとした気味あしき触手の、節奏なき運動の効果なのである。人はこの触手の存在に気付くことがあまりに少なく、しかもそれのために「ちよろりとやられてしまふ」ことがあまりに多いのである。されば友よ、(君は尊敬すべき生活の殉教者だ)、まづ空間を横ぎるこれらの黒い線條の存在に注意しよう。そして、卑しむに堪へたるかれらの機能に対して、心からの敵意を以て警戒しようではないか。
* Voici mes mains qui n'ont pas travaill※(アキュートアクセント付きE小文字) ―― Verlaine, Sagess e, ※(ローマ数字2、1-13-22), 1.





底本:「富永太郎詩集」現代詩文庫、思潮社
   1975(昭和50)年7月10日初版第1刷
   1984(昭和59)年10月1日第6刷
底本の親本:「富永太郎詩集」創元選書、東京創元社
   1949(昭和24)年10月
入力:村松洋一
校正:川山隆
2014年3月7日作成
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