鳴雪自叙伝

内藤鳴雪




緒言


一 この自叙伝は、最初沼波瓊音ぬなみけいおん氏の「俳味」に連載されしが、同誌の廃止後、織田枯山楼氏の「俳諧文学」にその「俳味」に載りしものと共に終結までを連載された所のもので、今般それを一冊子として岡村書店より発行せらるることとなったのである。
二 誌の毎号の発行に当り、余は記憶に捜って話しつつ筆記してもらい、それをいささか修正したるものに過ぎぬから、遺漏も多く記憶違いも少なかるまい。しかし大概は余が七十六歳までの経歴の要項を叙し得たと信ずる。
三 文中に現今七十四歳とあるは、談話もしくは修正の当時における年齢である。
四 意義に害なき誤字は発行を急ぎし故そのままにしたるものも少なくない。
五 附録の句集は松浦為王氏の選択に任かせたものである。

大正十一年三月
鳴雪識るす
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自叙伝

内藤鳴雪


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 私の生れたのは弘化四年四月十五日であった。代々伊予松山藩の士で、父を内藤房之進同人ともざねといった。同人とは妙な名であるが、これは易の卦から取ったのである。母は八十やそといった。私は長男で助之進といった。その頃父は家族を携えて江戸の藩邸に住んでいたので、私はこの江戸で産声をあげたのであった。幕府の頃は二百六十大名は皆参勤交代といって、一年は江戸に住み次の一年は藩地に住んだ。そして大名の家族は江戸に住んでいた。それに準じて家来も沢山江戸藩邸に居た。その中で単身国許から一年交代で勤めに出るのもあり、また家族を引連れて、一年交代でなく或る時期まで江戸藩邸に住むのもあった。前者を勤番きんばんといい、後者を常府じょうふといった。私の父は弘化三年の冬にこの常府を命ぜられ、松山から引越して江戸へ出た、その翌年に私が生れたのであるから、私は松山でたねを下ろされ、腹の中にかがまりながら海陸二百五十里を来て江戸でこの世に出たのである。
 大名の屋敷はその頃上屋敷中屋敷下屋敷と三ヶ所に分って構えたもので、私の君侯の上屋敷は芝愛宕下あたごしたにあり、中屋敷は三田一丁目にあり、下屋敷は深川や目黒や田町などにあった。この中屋敷で私は生れたのである。ちょうど今の慶応義塾の北隣の高台で、今はいろいろに分割されているが、あの総てが中屋敷であった。慶応義塾の下に春日神社が今でもあるが、あれが、私の産土神うぶすながみで、あの社へお宮参りもしたのであった。
 私の幼時の記憶の最も古いのは、何でも二つか三つ頃にどぶへ落っこちた事である。私どもの住んでいた小屋は藩から立てられたもので、勤番小屋、常府小屋に区別され各役相応の等差があった。私の父は側役そばやくといって、君侯のそばで用を弁じる者即ち小姓の監督をし、なお多少君侯に心添えもするという役で、外勤めの者の頭分かしらぶんというのと同等に待遇されていた。故にその身分だけの小屋を貰っていたが、或る時、私の母の弟で、交野かたの金兵衛といって、同じく常府で居たものが、私を連れて外出しようとした。家の門の前にどぶがあって、石橋がかかっていた。交野の叔父は私の手を引いてそこを渡ろうとした。すると私は独りで渡るといい張った。叔父も若かったから、それならといって離した。私はヨチヨチ渡りかけたと思うと真逆様まっさかさまに溝へ落ちた。小便もし、あらゆる汚ない物を流す真黒まっくろな溝であった。私は助け上げ家に入れられて、着物を脱がせられるやら、湯をあびせられるやら大騒ぎであった。どうもその時の汚なさくささ苦しさは今でも記憶している。
 私の三つの時の七月に母は霍乱かくらんで死んだ。それ以来私は祖母の手に育てられた。私のうちには父母の外に祖母と曾祖母がいた。母がなくなってからはこの二人のばばが私を育ててくれたのであるが、就中なかんずく祖母は我が子のように可愛がってくれた。私も『おばアさん、おばアさん』といってなついていた。夜は床に入ってから寝着くまで祖母の乳を吸うていた。何も出ないのであるがこれを吸わねば寝着かれなかった。牛乳の無かった時代だから定めて私を育てるのに骨が折れたことであろう。
 私は悪い癖があった。それは寝ていて糞をたれることで、このために時々夜半に祖母達が大騒ぎをした。その糞騒ぎの真最中に泥棒が這入ったことがあった。これは私の四つか五つの時であった。この賊は私の祖父の所の下部しもべであった。私の父は菱田という家から養子に来たものでこの菱田の主人即ち私の祖父にあたる左近衛門というは、その頃奥の頭役かしらやくといって、他では奥家老といった役を勤めていた。ここには若党仲間ちゅうげんなどいくらもいた。その中の一人があに計らんや賊の親玉であって、常に私の家の様子をよく知っていたので、この夜半の騒ぎに乗じて這入ったのであった。彼は以前にも、私の父の同役の勤番の鈴木という内へ宵のうちに行って、そこの下部といろいろ話して、その夜主人が当直だということを知って、忍込み大小だいしょうや衣類を盗み、それを有馬藩邸に対した横町の裏門の石橋の下へ隠して置いた。この裏門のあった所は、綱坂つなさかという坂で、昔渡辺綱が居たという処である。間もなく彼は召捕られて屋敷内の牢屋へ繋がれたが、一夜食物の差入口から一つの柱をこわして『牢抜ろうぬけ』をした。よほど無理に抜けたと見えて、柱の釘に肉片が附いていた。そんな事にひるまず彼はその足で直ちに私のうちへ忍込んだのであった。盗み出したのは納戸にあった小箪笥こだんすで、その中から雑用金と銀金具物ぎんかなぐものなどを取り箪笥は屋敷内へ棄てて行った。
 そこで藩にも差置けぬというので幕府の捕手とりての手を借りて召捕ってもらう事にした。もとより公然幕府の手を借りるという事は手数のことだから、ないないで捕手に物をつかって頼んだのであった。かかる者の徘徊するのはまず吉原であるから、捕手は吉原を探っていると、或る青楼の二階へかの男が上がろうとしている所を見つけた。彼は見附かったと知って巧に影を隠した。すると捕手は直ちに品川へ向って、そこのくるわで捕えた。北から逃げた者は直ちに南に向うという捕手の見込があたったのである。そして暫く屋敷の牢屋へ入れて置いたが、やがて牢中で死んだ。
 一体この頃の刑法は、別に明文は無く、幕府及び諸藩では皆前例によって刑罰を与えていた。盗賊でも取った金額が多いかあるいは強盗であると、死刑に処するという事になっていた。かの賊も十分死刑にあたるものであったが、死刑にするとなると藩邸で殺す事は出来ない。是非とも幕府の仕置場即ち鈴ヶ森か小塚ッ原でせねばならぬ。これは大変に手数がかかる事だから大抵は牢屋で毒を一服飲ませて殺したものである。かの賊の死んだのもやはりこの一服で死んだのであった。その男は梅とかいう者であったと覚えている。
 重犯などでなくちょっとした盗みなどをした仲間下部などは、一日か二日後手うしろでに縛って、邸内の人の立集う所にさらして置き、十分諸人に顔を見知らせた上で、『門前払い』即ち追払ってしまう例である。私も度々この『さらしもの』を見たことであった。
 五歳の冬に私は上下着かみしもぎをした。小さな上下に大小をたばさみ、親類うちなど披露にまわった。上下着をしてからは、小っぽけな体でも屋敷外へ出る時には大小をささねばならなかった。もとよりそれは軽い、玩具のようなものであった。屋敷内では上下を着たり袴をはく時の外は脇差一腰だけをさした。脇差だけは子供同士遊ぶ時でも差さねばならなかった。
 私の六つになった年の正月に継母が来た。これを大変珍しいことに思った。この継母は春日という家から来たので、その頃は藩地松山にいたが、おりふしその姉の嫁している山本という家の主人が目付をしていたのが常府を命ぜられて出府したので、それに伴われて来たのである。春日の家とは遠縁であった。従って山本とも知合いであった。まだうちへ嫁して来ないその前年の冬に、私は祖母に伴われて山本の家に行き、もう間もなく母になるべき人に逢った事を覚えている。子供心にも珍らしい改った気がした。
 この冬、十二月二十四日愛宕のいちへ、私のうちの下部しもべは正月の買物に行った。年の市は所々の宮寺にあったが、愛宕の年の市は芝辺では最も盛んで、藩邸の者もこの市で正月の物を調えたもので、うちの下部もその晩新しい手桶や注連飾しめかざりなどを買って帰った。父はすぐその手桶に嘉永四年云々と書き認めていた。その時俄に邸内が騒がしくなって、火の見やぐらで鐘と板木はんぎとあえぜに叩き出した。この火の見櫓はどこの屋敷にもあったもので、火事があると係の者がそれへ上って方角を見定め、高声にその方角を知らせ、そして板木を叩いた。鎮火すると鐘を鳴らした。最も近火で、藩邸も危いという時には鐘と板木とあえ交ぜに打つことになっていた。その非常の音を聞いたので、家の者悉く騒立って見ると、我が邸内の君侯の厩から火が出たのである。今も地形が存しているが、私の家は君侯の住居の近くの高台でその厩は表長屋に近い低い方であったから、私も下女に負われてその火事を見た。この時私は始めて火事というものを見たのであった。
 ついでにいうが、私の藩の上屋敷はその以前、私の二歳の時に焼けた。これは『麹町こうじまち火事』と称した大火で、麹町から愛宕下まで焼けたのである。そこで上屋敷にいた者も一時は君侯はじめ中屋敷の方に住まって、私の家へも親類の丹波などというのが来ていた。後にその上屋敷は建築された。これについては材木を藩地から取寄せ、大工も藩地のを呼寄せて、素晴らしく堅固なるものを作った。これは明治以後残っていたが、一時陸軍省の管轄となり、その後は私有地となって取りこわされた。或る人の話ではその表門は米国の或る好事家の別荘の門になっていて日本の昔の大名屋敷の門としてその主人の自慢になっているとのことである。
 さて私のうちも継母が来てからはにぎやかになった。この継母が来た時私に土産にくれたのは箱根細工の菓子箪笥で、どの抽斗ひきだしをあけても各々菓子が這入っていたので、私は大変喜んだ。継母は心得た人で私を十分愛してはくれたが、しかし実母に離れて以来祖母を母としていた習慣は相変らず続いて、継母が来てからも、やはり夜は祖母と寝た、もうその頃は乳を吸いはしなかったが、祖母も私を人手にかけず、私も祖母のみ慕った。
 私は子供の時一番楽しみだったのは本を読むことであった。その頃には絵本がいろいろあって、年齢に応じて程度が違えてあり、挿画には少しばかりの絵解えときがしてあった。桃太郎やカチカチ山は最も小さい子供の見るもの、それより進んでは軍物語いくさものがたりであった。それには八幡太郎義家や義経や義仲などの一代記があった。こういう本は子供のある家にはどこにもありまた土産にもしたものであった。外へ出て絵草紙屋の前を通ると私はきっとせがんだ。私は玩具よりも絵本が好きなので、殊に沢山持っていた。それから錦画もその頃盛んに行われたが、これも私は好きで沢山持ち、就中軍画が好きであった。菱田の祖父が在番ざいばんで来ている時は私のうちに同居することもあった。この祖父は外出をするごとにきっと私に錦画を買ってくれた。だから私は祖父が外出すると楽しんでその帰りを待った。
 私は絵を見て楽しむ外に、またその画を摸写することが好きだった。小学校で図画を教える今時と違って、当時は大人でも大抵はどんな簡単な物の形も描き得なかった。それに子供の私がいろいろな物を描くので人が珍らしがり、自分も自慢半分に盛んに描いたのはやはり武者絵が多かった。
 私は武者で好きだったのは始めは八幡太郎であったが、少し年を経てから木曾義仲が大変に贔屓ひいきになった。その頃は九郎判官くろうほうがん義経を贔屓にするというのが普通であったが、私は義仲でなくちゃならなかった。絵本でも錦絵でも義仲に関した物を非常に喜んだ。義仲があんな風に討死したのが可哀そうでならなかった。従って静より巴御前の方が好きであった。第一勇気もあると思った。五、六歳になっては、更に源平盛衰記保元平治物語の絵入本を見ることを初めた。文字はまだ読めなかったが、よく父から絵解をしてもらったので、その筋をよく解していた。
 祖父は、私が少し大きくなってからはとんともう錦絵をくれぬようになった。私はこれをひどく淋しく思っていたが、祖父は在番が終って藩地へ帰る時に、特に買ってくれたのが右の保元平治物語の十冊揃いである。
 それから私は仮名ややさしい漢字がわかるようになって、盛衰記や保元平治物語を拾い読みした。これは八つ九つの頃であった。日本の歴史を知った端緒は実にこの二書であった。
 草双紙くさぞうしも好んだが、これは私のうちには無かった。隣の間室まむろという家に草双紙を綴じ合わせたのがあったのを、四つ五つの頃からよく遊びに行って見ることにしていた。この家も常府であったが、藩地に帰る時に、私が好きだからというのでその草双紙を私にくれて行った。その後はそこにあったものの外の草双紙もよその家へ行ってよく借りて読んだ。草双紙は仮名ばかりだから、大概ひとりで読めた。私の内では父が古戦記を見せることは奨励したが、草双紙を見せることは好まなかった。当時の江戸の女たちは皆草双紙を大変に好んだものであったが、うちの二人の祖母もまた継母も田舎出で、そういう趣味がなかった。
 しかし私の実母は、死ぬ少し前に、始めて猿若さるわかの芝居を見た。三代目中村歌右衛門の血達磨ちだるまで、母が江戸へ出て来て始めてこの大芝居を見たのであった。その頃大概の芝居は直きに草双紙になって出た。母はそれを買って愛読していた。それで死んだ時に、祖母は母の棺へこの血達磨の草双紙を入れてやったと後に聞いた。かつて私のうちにただ一部あった草双紙はこうして亡き母のおとぎに行ってしまった。
 継母も始めて田舎から出て来たものだから、一度は芝居を見せねばならぬというので、うちに嫁した年、即ち私の六つの年に、猿若二丁目の河原崎かわらざき座を見せた。その時継母が持って帰った、番附や鸚鵡石おうむいしを後に見ると、その時の狂言は八代目団十郎の児雷也じらいやであった。この時継母と同行したのは山本の家族であった。それから母にのみ見せて祖母などに見せないのは気の毒だというので、父は大奮発して、更に曾祖母と祖母を見せにやった。私はその時ついて行った。これが私の芝居見物の始まりであった。同伴したのは心安い医者などや、上屋敷にいた常府の婆連で、ますを二つほど買切って見た。
 三田一丁目の屋敷から猿若まで二里もある。女子供はなかなかたやすくは行かれぬ。駕籠かごは大変に費用がかかるので、今の汐留しおどめ停車場のそばにその頃並んで居た船宿で、屋根船を雇って霊岸島れいがんじまへ出て、それから墨田川を山谷さんや堀までさかのぼって、猿若に達したのである。
 私は暗いうちに起されて船に乗ったまでは覚えていたが、それから寝てしまって、目の醒めたのは、抱かれて河原崎座の中に這入る時であった。まだ灯がカヤカヤといていた。後に番附や鸚鵡石で知ったが、この時は一番目が嫩軍記ふたばぐんき、中幕勧進帳、二番目が安達原で、一ノ谷の熊谷は八代目団十郎、敦盛は後に八代目岩井半四郎になった粂三郎、相模は誰であったか今記憶せぬ。勧進帳は、富樫が八代目団十郎、弁慶は七代目団十郎、即ち海老蔵であった。海老蔵は一世一代というので、実に素晴らしい人気であった。二番目は二代目嵐璃寛が貞任と袖萩の二役を勤めた。私が小屋へ這入った時は既に始まっていて、平山ノ武者所が玉織姫を口説いてから手にかけて殺す所であった。この平山は浅尾奥山という上方役者であった。
 そのうち敦盛は馬で花道から出て来た。熊谷が扇で招きかえす。太刀打になる。それは私も古戦記や錦絵などでよく知っている事であったからよく解って、興を催して見ていると、暫くすると敦盛は甲冑を解いて、手を合せて坐った。はてなと思っていると、熊谷が後ろにまわって悲しんだ末、首を打った。盛衰記とは筋が違うので変なことだと思った。それからあの平山ノ武者所が花道のうしろから大きな声で何か怒鳴った時、私は不意を打たれて喫驚した。
 三段目になって、藤ノ方が笛を吹いていると障子にぼうっと、敦盛の影がうつッたのをよく覚えている。障子をあけたのを見るとそれは甲冑の影であったのだ。熊谷が首桶を携えて出ようとするおり、奥から義経の声がして、やがて出て来る。すると藤ノ方と相模とが驚いて左右に倒れたような姿になった時、いかにも事々しい心持がした。甲冑をぬぐと熊谷が黒い衣の坊主になっていたのも変に思った。
 勧進帳になったが、これも盛衰記にあるのと筋が違っているので、十分にはわからず、ただ延年の舞ぐらいが、少々目さきに残っている。安達原では、八幡太郎の殿様姿や、貞任の束帯姿が、いつもの甲冑と違っているのに不審をした。宗任の書く『我が国の梅の花とは……』は、最前さいぜんお馴染みでよく分かった。
 その頃芝居の弁当といえば幕の内といって、押抜きの飯と煮染にしめと漬物で、甚だ淡白な物であったが、私は珍しく食べた。私は芝居という所へ始めて這入ったのだから、周囲にあまり人が沢山おり、むやみに騒がしいので、怖いような気がして、舞台と共に見物席の方にも絶えず気を配って、どうも落着かなかった。
 十一歳で家族一同松山へ帰ることになったが、その間に私の家族が大芝居を見たというのは、唯このおのおの一回のみであった。その頃の藩士の生活は、国もとの方でも藩邸でも極めて質素なもので、そうせねば家禄では足りなかった。
 かくの如く十年間に唯一回の大芝居見物でも、家族は非常に満足し、またこれだけの事が父の大奮発であったので、まことに大芝居を見るという事は容易な事ではなかった、小芝居になると、祖母などもその後時々行って、その都度私も伴われた。
 その頃は大芝居と小芝居とは劃然とした区別があったもので、大芝居の役者は決して小芝居には出なかった。小芝居は江戸に沢山あった。私どもの屋敷から行ける所では、まず金杉かなすぎの毘沙門とか、土橋どばしとか、采女原などにあって、土橋では鈴之助という役者が評判であった。毘沙門の小芝居で切ラレ与三よさを見たことを覚えているが、誰がやったのか役者の名は忘れた。与三郎が残酷に切られて、血だらけになったのを、とど俵に押込んで担いで行くのを見た時、いかにも怖しくまた可哀そうに思った。いつであったか土橋の芝居へも行くことになって途中まで出掛けた所、もう楽になっていると聞いて引返した事があった。その時よほど残念に思ったと見えて、いまだにそれを覚えている。小芝居の最も盛んであったのは両国であったが、これは屋敷から遠いので行かれなかった。こういう小芝居を総称して『オデデコ芝居』といった。大芝居を見たという事は大変に自慢になったけれども、オデデコ芝居を見るという事は何の面目にもならなかった。だから皆内々で行ったものである。
 私の八歳の時に、継母は男の子を生んだ。大之丞と名づけられた。そこで私は始めて弟というものを持ったのである。年は七つも違っていたが、それでも弟が少し生い立って来ると、随分喧嘩もした。大之丞が私の絵本などを汚すと、いつも私は腹を立てた。
 私はもう芝居も知り草双紙にも親しんだが、かの間室から貰った草双紙の綴じたのの中に、種彦たねひこが書いた『女金平草紙おんなきんぴらぞうし』というのがあった。この草紙は女主人公が『金平きんぴらのおきん』で、その夫が神野忠知ただともにしてある。この人の句で名高い『白炭や焼かぬ昔の雪の枝』というのが、或る書には『白炭は』とあって名も種知としてある。この異同から種彦が趣向を立てたものであった。その関係からこの本には他のいろいろな句ものっていた。
茶の花はたてゝもにても手向かな
軒端もや扇たるきと御影堂
角二つあるのをいかに蝸牛
元日や何にたとへむ朝ぼらけ
というもあった。これらを読んで面白そうなものだと思ったが、それが三十幾年の後に『俳人』などと呼ばれる因縁であったといわばいえる。
 この草双紙の筋は、忠知が或る料理屋で酒を飲んでいると、他の席にいた侍のなかまが面会したいといって来た。忠知はそれを面倒に思って、家来に自分の名を名乗なのらせて面会させた。すると、その家来が悪心を起して、その席の一人の侍の懐中を盗んだ。それがすぐ発覚したので同席のなさけある一人が、その家来を刺殺して、忠知は過ちを悔いて自殺したといい触らした。この事が後世に伝わり、忠知は切腹したという事になってしまった。忠知はこの異変を聞いて、もとは自分の一時の疎懶そらんゆえと後悔したが、もはや追付かず、表向きに顔を出すことが出来ぬ身になり、その後、金平のお金という女と夫婦になり、そのお金の親の仇を討つというのが大団円になっている。
 こんな複雑な筋のものも段々読み得るようになったので、いよいよ草双紙が好きになった。私が八つ九つの頃に見たのは三冊五、六冊ぐらいの読切り物で、京伝種彦あたりの作が多かった。それから或る家で釈迦八相倭文庫しゃかはっそうやまとぶんこを借りて来て読んだが、これが、長い続き物を見た始まりで、こういう物は一層面白い物だと思った。この本で釈迦の事蹟の俤を知り、後日仏教を知るその糸口はこの本で得たともいえる。『白縫譚』『児雷也豪傑譚』なども追々と読んで行った。
 私は九歳の時君侯へ初めて御目見おめみえをした。御目見えをしないと、いかに男子があっても、主人の歿した際、家禄が減ぜられる定りであった。それで男子は八歳以上になれば、君侯の御都合を伺って、御目見えをして置くのである。私もこのお目見えの時は上下を着用して上屋敷へ行った。なんでも一日か十五日かの式日で、諸士に御面会あるそのついでにお目見えをしたのであった。そばには父が附いていてくれたが、怖いような気がした。このお目見えを済ました子を『お目見え子』といって、その翌年から君侯に対して年賀もするし、その君侯が亡くなれば葬儀を見送り、法事の際には参拝して饅頭などを戴くことになっていた。
 私のお目見えをした君侯は勝善公といって、その後間もなく亡くなられたので、私も上屋敷へ行って葬儀を見送った。葬儀の場合にはたとえ君侯といえども柩は表門から出すことは出来ず通用門から出すのである。表門から死人を出すという事は、幕府から賜わった屋敷ゆえ憚るのである。士以下の葬儀は別に無常門というがあってそこから出した。この葬送の時目についたのは、君側の小姓の上席二人の者が髷を切って、髪を垂らしていたことである。これは徳川の初め頃であれば追腹おいばらをすべき者であるが、それは禁制になっているので髷を切って、君侯の柩の中に収めて、その意を致す事になっているのである。
 私どもの内では料理屋へ行くということも甚だ稀であった。或る年向島の花見に祖母はじめの女連れに連れられて行った。その帰り途に、浅草雷門前の女川田楽おんながわでんがくで夕仕度をしたことを、珍しかったので今も覚えている。その内庭に池があって金魚が居たのを面白がって私は眺めた。その頃私の隣家に父の同役の松田というが居て、その細君が亡くなって、後妻を娶ったが、これがすこぶる美人であるというので、屋敷内で大評判であった。その細君もこの花見に私どもの一行に加ったのであったが、後に継母の親戚の山本が来て、『松田の箱入美人を、菜飯なめし田楽へ連れて行ったのはひどいじゃないか』といって笑った。
 この山本は、こういう戯言を吐くほど磊落な武人でよく絵を描いて、殆ど本物に出来た。私も時々この人の絵の真似をした。この人は、その頃はまだ多くの人の食わなかった獣肉をよく食べたもので、私の家でも時々は猪豚などを煮て、山本にも食べさせ、父や私も食べた。祖母などは見向もしなかった。
 この肉は、江戸中でも、売る店が多くはなかった。私の藩邸近くでは、飯倉の四辻の店で買った。今の三星という牛屋がそれである。この頃は、肉類に限って、古傘の紙をめくったのを諸方から集めて置いてこれに包んだものである。
 或る時、父の弟の浅井半之助という者に、鰻屋へ連れて行ってもらったことがあった。また知合いの中堀藤九郎という人が、シャモ鍋の店へ連れて行ってくれた事があった。大塚という内の子供とよく遊んだものだが、その家来が子供を連れて行くのに誘われて、永坂の更科蕎麦へ行ったこともあった。これらは人込みの騒がしい所で食べることであり、中堀や大塚の家来が酒を飲んで酔っ払うまで居たので、それが子供心に厭わしく感じ、早く帰りたくなって、食べる物も旨く思わなかった。
 父とは、料理屋は勿論、一緒に外出するということはなかった。この頃は男子は婦人と共に邸内は勿論邸外に同行する事は余りなかった。殊に父は藩の枢要の役をしていたから、なお厳重であった。私の知る所では、祖母や母なども、父と共に同行した事は一回も無かった。また男の子と女の子と一緒に遊ぶという事も出来なかったもので、ずっと小さい頃には私も山本の内へ遊びに行って、そこの女の子と時々遊ぶこともあったが、七、八歳の頃からはそれも出来なくなった。
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 子供の頃に最も楽しかったのは正月であった。元日には君侯が登城をする。その時に限り上下でなく衣冠いかんを着け天神様のような風をする。供もそれに準じた服を着た。私の父も風折烏帽子かざおれえぼうし布衣ほいで供をした。まだ暗いうちに、燈のもとでこの装いする所を、いつも私は珍しく見た。君侯の姿はよく見たことはなかった。唯父から聞いたのみである。
 正月には万歳まんざいが来た。太夫は皆三河から来たが、才蔵は才蔵市で雇うのであった。その頃は各大名屋敷とも万歳を呼んだ。私の藩主は勿論私の内も呼んだ。但し君侯へ出る万歳は大小をさしている格のよい万歳であったが、私どもの内へ来るのは一刀であった。万歳にもそういう地位の等差があった。二刀のは礼物を多くせねばならぬ故、私の内などの身分では一刀のを呼ぶのであった。君侯でなくとも歴々の者は二刀のを呼ぶのであった。私どもは内の万歳を見る外に、よその万歳をも見て歩いた。万歳の尻には子供は勿論大供もいて行った。才蔵は随分しつこく戯れたもので、そこに居る若い女などにからかい、逃げ出すと勝手向までも追掛けて行くこともあった。舞が終ると、内では膳に米を一升盛り、銭を包んで添え、そしてちょっと屠蘇とそを飲ませた。
 正月の遊戯で盛に行われたのは凧揚げであった。男の子は大概凧を買ってもらい、またよそから贈られもした。おのおのこれを揚げてたのしむこともするが、唯揚げるばかりでなく、凧合戦をする事が盛んであった。これは子供でなく、二十歳近くの者が先立ってやった。合戦というのは隣屋敷の凧とからまし合いをすることである。私の屋敷では、北隣は久留米藩有馬家、南隣は島原藩松平主殿正、西は砂土原藩小さい方の島津であった。私どもの屋敷ではこの三つの藩邸と凧合戦をした。からんで敵の凧をこちらへ取ったのが勝となっていた。遂には罵りあいを始め、石の投げ合までにも及んだ。そこで藩々の役人等は、互に相済まぬというので青年を戒めたが、その当座は止めていても、ほとぼりが醒めるとまた始めた。それでまずは黙許という姿であった。
 からまし合いは、とても子供では出来ないので、大きい人に貸して、戦に勝つと敵の凧はその勝凧の持主なる子供のものになるので、自分の凧が殖えるので喜んだ。もっとも大概からまし合った凧は折れ破れて揚げることなど出来ぬものであったが、分取品を得た誇りがあったのである。あまり大きい凧は不利益であった。まず西の内紙二枚半というのが戦に適当で、四枚六枚八枚のは唯揚げて楽しんだ。戦には風の向きでよほど得失があったが、巧な者は手繰ることが早いから風の向きのみで勝敗が決するという事もなかった。凧の糸には多く小さな刃が附けてあって、それで敵凧の糸を切るのであった。
 藩邸の凧揚げは右の通りの有様であったが、なお町家でも凧揚げをした。これは往還でも揚げたが、多くは屋根にある洗濯物の干し場で揚げた。町家同志ではからまし合いはなかった。また藩邸のが町家のとからまし合いをするという事は決してなく、そういう事をすると恥辱としてあった。
 凧の種類をいえば、今もある長方形のものの外に奴凧があった。これは主として小さな子の揚げたのだが、奴凧でもかなり大きいのもあった。障子骨というのは縦に三本骨がある凧で、からますには丈夫であるが、それだけ手繰るには不便であった。縦一本の方が工合が宜かった。凧の面には多くは『龍』とか『寶』とか『魚』とかいう文字が書いてあった。絵凧には達磨、金時、義家、義経などが描いてあって、なお障子骨になると、『二人立ち』『三人立ち』といって、二、三人の武者が描いてあった。これは価も高かったので、こういうのを持っている事は誇りになった。凧糸は凧の大小に従って太さに等差があったが、からます時には凧の大きさよりは一、二等ずつ上の太い糸を用いたものである。
 鳥追とりおいは藩邸には来ないのであったが、町へ出るとよく見掛けた。深い笠をかむり綿服ではあるが小綺麗な物を着て、三味線を弾いて歩いた。これはいわゆる『非人』から出たので、この鳥追の中から『鳥追お松』という名代の女も出たのだ。鳥追の女は正月以外の時には浄瑠璃などを一くさりずつ語って歩いたもので、また端唄なども唄ったかと思う。
 正月の中旬になると、甲冑のお鏡開きがあった。武門では年始に甲冑を祭り鏡餅を供えたので、それをお鏡開きの時に割って汁粉にして食べるのだ。君侯の館でもこの事をして、おもなる藩士に振舞われた。めいめいの家でもやった。もう鏡餅は堅くなってるので斧を以て勇ましく打割ったもので、汁粉の膳には浅漬を唯一つ大きく切ってつけた。『ひときれ』という武門の縁起で、斧を以って割るという事も陣中のかたみである。
『ひときれ』といえば、その頃江戸では『辻斬』が実に頻繁に行われた。これは多く田舎出の侍が新身あらみの刀を試すとか、経験のために人を斬るので、夜中人通りの淋しい処に待ち構えて通行人を斬った。斬られるのは大抵平民であった。私が小さい頃稀に邸外へ出たのでも、よくその死骸を見た。斬られた死骸は、しばらくこもを着せてその場に置いて、取引人が引取って行くのを待った。直きに引取人が出ないと、桶に入れて葭簀よしずで巻いて置いたものである。
 或る時、私の内の藩から渡った米俵に鼠が附くというので、家来が葭簀で巻いたことがあった。私はそれを見て、辻斬のように見えるから厭だ、といって取らせたことがあった。
 その頃は、今の芝の公園と愛宕の山とのさかいの所を『切通し』といった。ここは昼の見世物や飲食店が出て、夕方には一面に夜鷹の小屋が立って、各藩邸の下部などが遊びに出かけて、随分宵のうちは賑ったが、これが仕舞うと非常に寂しくなった。その時分になると、ここで辻斬がよくあった。『切通し』という名は勿論山を切って道を通したという意であるが、私は子供心にしょっちゅう人を切るから、『切り通し』だということと思っていた。
 芝の増上寺の境内は、今の公園の総てがそれで、その頃は幕府の御菩提所というので威張っていた。私の中屋敷から愛宕下の上屋敷へ行くのには、飯倉の通りから、この切通しを回ったが、赤羽から増上寺の中を抜けて行くと大変近いのである。私どもの君侯は上屋敷に居られ、中屋敷には若殿が居られたので、この間の藩士の往来は頻繁であった。これらが増上寺の境内を通るので、その抜ける事は許されていたが、もし弁当を携えているとやかましかった。大抵藩士は身分により、一人二、三人の家来を連れており、草履取ぞうりとりが弁当を持ったものだが、弁当を認めると『止まれ』といわれて中を検査された。それは『なまぐさ』があるか否かをしらべるので、あると境内を汚したというので事面倒に及んだ。藩邸に懸合って、遂に藩主までが首尾を損することになった。それで弁当だけは飯倉から遠回りをすることになっていた。しかし少しの賄賂を使うとなまぐさの入った弁当も無事に通ることが出来た。
 私も家族に連れられて増上寺境内は度々通った。怖い心持がいつもした。あの赤羽から這入ると左側に閻魔堂がある。あれも怖かった。長じて後もその習慣で、あの閻魔堂の前は快く通ることは出来ない。その隣に瘡守かさもり稲荷があって、天井に墨絵の龍が描いてあった。それも気味が悪かった。この稲荷は維新の神仏を分ける際に、和蘭オランダ公使の前に移された。前には東照宮の南側の所に天神様もあった。
 東照宮の祭の日にはいつも参詣をした。今の表門はその頃台徳院廟の方へ向いており、外には塀があり、中は石が敷いてあった。この表門から中は履物をつけることを禁じてあったので皆跣足はだしで這入った。増上寺の本堂は明治の初に焼けたが、総て朱塗で立派なものであった。本堂の後ろの黒本尊もやはり跣足で這入ったものである。あの前にはお舎利様があるというので拾う者もあった。
 増上寺に対して、上野の寛永寺が幕府の御菩提所であった。これは三月の花見の時の外は、道が遠いから行くことはなかった。この二つの寺へ将軍が参詣される、いわゆる『御成おなり』の日には、その沿道の屋敷々々は最も取締を厳重にし、或る時間内は全く火を焚く事さえなかった。沿道の大名屋敷では、外へ向った窓には皆銅の戸を下ろし、屋敷内の者は外出を禁ぜられ、皆屋敷内に謹慎していた。幕府から外出を禁じたのではないけれども、もし誰か不敬の行為でもすると、藩主の首尾にも関係するから、各藩主が禁じていたのである。
 藩邸内に住んでいる者の外出について話してみれば、まず私どもの如く家族を携えて住んでる者は毎日出ても差支さしつかえ無い。夜遅く帰っても許された。風呂は歴々の家の外は、自宅に無いので、邸外の風呂屋へ行った。邸内にも共用の風呂はあったが、これは勤番者が這入るので、女湯というものは無かった。だから内の家族などはいつも外の風呂へ行かねばならなかった。宮寺の縁日や花見などにも私どもは度々出かけたが、しかし朝六つ時より早く外出する事は出来なかった。
 その頃盛んな山王神田の祭などは、人が雑沓するから、もし事変に出合って藩の名が出るといかぬというので、特に外出を禁ぜられていた。そこでこの祭を見ようと思う時には、病人があるから医者へ行くと称して、門を出たものである。藩の医者は、邸外に住んでいる方が、町家の者を診ることも出来て収入が多いので、よく外に住んだ。この事は藩でも許していた。それで医者へ行くということを外出の口実にすることが出来た。だから祭の日などはにわかに邸内に病人が殖えた。芝居に行く時には朝が早いから皆病人になって行った。この事は黙許されていた。
 いつであったか琉球人が登城するというので、それを見物に行ったことがあった。その頃は支那人でなくても、琉球人でも皆『唐人』と呼んでいた。私は家族に連れられて、いずれも例の病人になって朝早くから、芝の露月町の知合いの薬屋へ行き、そこの二階で『唐人』の行列を待った。大変寒い日であったが、そこで蒸饅頭のホカホカ湯気の立つのを食べた旨さを今もよく覚えている。また錦画の帖を見せてもらった。それには役者の似顔絵が多かった。似顔絵というものをこの時始めて見た。この日何か事故があって、肝心の『唐人』の登城は中止になったので、大いに失望して帰った。
 花見は大概行くことになっていた。多くは上野と向島と御殿山である。上野の花見の時は、あそこでは食べ物が山内には無いので、皆必ず弁当を携えて行き、毛氈を敷いて、酒など飲むことであった。茶と酒の燗などは茶店に頼んだ。上野へ行くと、多くの女が鬼ごっこをしてる様を珍しく見た。何でも私が八歳頃のことであったが、屋敷から上野までの往復とも歩いて大変人に賞められた。私は祖母育ちゆえ、誠に意気地が無く、外へ出る時は必ず人におぶさって行ったが、或る時途中で、私より少し年上の女の子が負ぶさって行くのを見て、甚だ見苦しい姿だとつくづく思い、自分の負ぶさった形も、人から見たらあんなに見苦しいのだろうと思って、もう再び人の脊に依るまいと決心したので、それで上野の往復にも、人々が負んぶしようしようといったのを肯ぜず、我慢して歩き通して驚かしたのであった。今日でも私はまず年の割合によく歩き得る方である。
 浅草方面へ行くのは、まず梅屋敷の梅見、それから隅田川の花見であった。或る時は屋根舟で花見したことがあった。舟の中から堤を通る知人を見て、私の連れの人が徳利を示して『一杯やろう』といって戯れたことがあったのをおぼえている。一体私は舟を好かない方で、その日も遂には気分が悪いといって寝てしまった。
 人の通行に駕籠に乗るという事は、余儀無き急用の際か、あるいは吉原などへ行く時の外に無かった。遊里へ行く者はケチと思われまいとして乗りもしたが、駕籠賃は大変高かったので、普通の場合には大抵乗らなかった。駕籠舁かごかきは多く辻にいて客に勧めた。彼らは少し暖かくなるとふんどし一つの裸で居た。荷車曳きは寒暑とも通じて裸であった。宮寺には、寒中裸でお参りをする者があった。これは病気が平癒したら裸参りをさせますという祈願を籠めて、それが叶ったので遣らせるのであった。また縁日などに乞食坊主は寒中裸で水を浴びて人に銭を貰った。これは人のために代って行をしているという意味でやっていたのである。今日もある寒詣りもその頃は裸であった。
 私の藩邸から近い縁日では、有馬邸の水天宮が盛んで、その頃江戸一番という群集であった。毎月五日であったが、子供や女連だけでは迚も水天宮の門の中へ這入ることはむずかしいので腕力のある家来を連れて行って、それの後から辛うじて這入った。履物が脱げても拾うことは出来なかった。興行物や露店なども盛んであった。以前は私の頃よりも一層盛んであったそうだが幕府の姫が有馬家に嫁せられて、御守殿ごしゅでんが出来てから、少し静にせよとのことで、それから多少この縁日も衰えたとの事である。
 その次に縁日の盛んなのは、十日の虎ノ門の金毘羅であった。これは京極の邸に在った。その邸の門を出入することも水天宮の如く甚だ困難であった。次には廿四日の愛宕の縁日で、よくこの日は私は肩車に乗って男坂を上ったものだ。
 常府の者の家族の外出は比較的自由であったが、勤番者は、田舎侍が都会の悪風に染まぬよう、また少い手当であるから無暗むやみに使わせぬようとの意もあって、毎月四回より上は邸外へ出ることは許されなかった。その中二回は朝から暮六時まで、二回は昼八時から六時までであった。勤番者はこれを楽しみにした。彼らはその日になると目付役より鑑札を貰ってで、帰るとそれを返付した。
 勤番中にも度々江戸に来た者や、或る事情で一年でなく二年以上勤続した者は、古参といって、新参の勤番者に対して権力を持ち、江戸の事情を教えて注意を加えもした。新参は江戸へ来ると間もなく古参に連れられて市中を見物した。その頃の赤毛布ゲットである。これらの田舎侍は大芝居の見物と吉原の女郎買は一、二回しないと田舎への土産にならぬというので、必ずしたものである。夜は外出が出来ぬから吉原では昼遊をした。吉原の昼間のお客といえばまず田舎侍であった。芝居ははねが夜に入るから一幕は見残して帰らねばならなかった。古参になるとずるく構えて、大切まで見て帰った。しかし時刻が切れるので、高い駕籠を雇うか、さなくば猿若から屋敷までひた走りに走りつづけた。たまたま履物が脱げても顧みずして走ったのである。
 その頃侍は私用の外出の時は雪駄を穿いた。表向きの供のおりや礼服を着したおりは藁草履を穿いた。下駄は雨の時に限った。女はその頃も表附の駒下駄を穿いた。男女とも雨天には合羽というのを着た。今も歌舞伎芝居にはその形が残っている。そして大小の濡れるのを防ぐために柄袋つかぶくろをかけた。
 門限は厳重ではあったが、一面には遅刻する者をかばうために、暮六くれむつ時の拍子木を打ってまわる仲間は、なるべくゆっくりと邸内をまわって、それから門番に報じて門をしめさせた。もう六ツの拍子木が聞えるのに、まだなにがしは帰らぬというと同僚の者は心配して、拍子木打ちの仲間に聊か銭をやって、一層ゆるゆると廻らせた。あるいは、拍子木がもう門へ行きつくという際に仲間を抱き留めて、同僚の駆込むのを待つというような事もやった。門限に全く遅れたとなると、国許へ追い帰され長い間謹慎を申附けられるのである。
 これは少し古い話しだが或る時新参の勤番者が、二人連れ立って向島へ出掛けた。あちこち歩いているうち、或る立派な庭園の前に来掛った。二人は中を見ても宜かろうと思って、這入って方々見まわって、とある座敷の前へ来たのでそこへ腰をかけた。すると一人の女が出て来たので、『酒が飲めるか』と聞いて見た。女は『かしこまりました』といって奥へ行き、やがて酒肴を出した。十分に飲食してさて勘定をというと、女は『御勘定には及びませぬ』といった。うまい所もあったものと思いながら、二人は帰って、得々としてこの事を古参に話した。古参は不審を起し、向島にそんな所は無いはずだがといったが、間もなくそれはその頃即ち十一代将軍の大御所様おおごしょさまの御愛妾の父なる人の別荘とわかった。この別荘の主人は娘の舌を通じて隠然賞罰の権を握っていた。それで諸大名から油断無くここへ賄賂を送り、常に音問していたのである。勤番者風情でそこへ踏込み、大胆にも飲食をも命じたというのであるから、藩の上下は顔色を失った。『どの藩の者ということを聞かれはしなかったか』と古参が聞くと、『なるほど代物はいただきませぬが御名札をいただきたいといったから、松平隠岐守家来何の某と書いて置いて来た。』との答に、いよいよ騒ぎ立ち、藩侯にもどのような禍がふりかかろうも知れぬと、それからいろいろ評議をして、結局、留守居役即ち当時の外交官が、多額の金子を持参し、駕籠に乗り供揃いで向島へ赴き、そこの用人に会って、田舎侍がかくかくの粗忽そこつを仕りましたる儀何とも恐入る次第で御座りまする、どうか御許し下さるようと、ひたすら詫びをして、金子を出した。用人は奥に入り、やがて出て来て、『主人こと今日は珍しい客来で興を催した次第で御座る。』といっただけであった。賄賂のきき目は実に鮮かであった。留守居役は勇んで立帰り、一同も始めて安堵した。かの二人は割腹の覚悟をしていたが、まずまず命拾いをした。この二人のうち一人は私の父ぐらいの年輩で、吉岡某という者であった。今一人の名は忘れた。
 勤番者はよく失策をしたもので、かの蕎麦屋で蒸籠せいろへ汁をぶっかけること等は、少しも珍しい事ではなかった。勤番者は大概一つ小屋に一緒に居た。今の寄宿舎といった風になっていた。勤めも忙しくはないので皆無聊でいたが、さればとて酒を飲んで騒ぐことも出来ぬので、碁、将棋、または貸本を読んで暮した。貸本屋は高い荷を脊負って歩いたもので、屋敷でもその出入を許した。古戦記の外小説では八犬伝、水滸伝、それから御家騒動は版にすることは禁ぜられていたので写し本で貸した。種々な人情本や三馬さんば等の洒落本もあり、春画も持って来るので、彼らはいずれも貸本屋を歓迎した。私も子供の時に親類の勤番者の所へ行って、春画を見せられたことを覚えている。彼らのこんな呑気な生活も、異人と戦争をする準備をせねばならぬ時に至って、追々忙しくなった。彼らは邸外へも出て調練などすることになった。
 異人について騒ぎ出したのは嘉永六年から安政元年にかけての事で、私の七つから八つの年へかけてであった。八つの年には、今度こそきっといくさが起るという噂であった。後に知った所によれば、交易を許さねば軍艦から大砲を打込むというので、こちらも対抗せねばならぬといって幕府も諸侯も騒いだ、武器の用意の揃わぬ藩では、役に立つ立たぬを問わず急いで武器を買集めた。私の藩邸は比較的武器の準備がよく出来ていて、侍以上の者は以前から年々武器の検査をされることになっていた。しかし実戦という事になるとそれは不十分なものであった。
 私の藩は今の鈴ヶ森あたりから、大井村、不入斗いりやまず村へかけての固めを言付かり、私の父もその頃側役から目付に転じていて、軍監をも兼ねるという枢要な地位に居たので、その固めの場所へも勤務した。なんでも大砲が足らぬのに大変に皆が当惑したそうであるが、我が藩では田町の海岸にも下屋敷があるので、ここをも固めねばならぬけれども、大砲が無いので、戸越の下邸の松の立木をたおして、皮を剥ぎこれに墨を塗って大砲に見せかけ、土を堅めて銀紙を貼ったのを弾丸と見せかけ、これを大八車に積んで、夜中に田町の屋敷へ曳込んだということもきいている。或る藩では寺の釣鐘を外して来て台場に飾ったそうだ。素晴らしく大きな口径の砲に見えたことだろう。
 異人即ち米国人と最初の談判は伊豆の下田でしたが、次のは浦賀ですることになった。その際、黒船が観音崎を這入る時には、黒雲を起してそれに隠れて、湾内に入ったという評判であった。蒸気の煙をそう見たのであろう。その時の提督はペルリとアダムスという二人であったが、談判の折、幕府の役人の画心のある者が、二人の顔を窃かに写生した。その画がひろく伝写されたのも見た。ペルリは章魚たこのようで、口もとがペルリとしていると思った。アダムスは大変に大きな口を開いていた。これはあくびでもした所を写したのであろう。
 こんな物を見て珍しがりもしたが、軍がいつ始まるかわからぬという心配は皆抱いていた。軍が始まったら、三田邸は海岸に近い故、直ぐ立退きをせねばならぬ。まず君侯の母にあたる後室と、奥方と、姫君と、若殿の奥方と、それに属する大勢の奥女中が立退くと、その後から邸内の女子供が皆立退くということに定まり、立退の合図としては邸内を太鼓と鐘を打って回るという触れが出た。いつこの鐘太鼓が鳴るかとビクビクしていた。或る夜などは、今夜はきっと鳴るという噂で、夜中に飯を炊いた。弁当は飯に梅干と沢庵を添えて面桶に入れ、これを網袋に入れて腰に附けるのだ。私の弁当は祖母と一緒というのであった。まず行先きは君侯の親類の田安の下屋敷で、軍の模様でそれ以上どこまで行くかわからぬとの取沙汰であった。
 しかし戦端も開かれず、警戒も解かれ、黒船は一旦帰ることになり、もとの太平に立戻った。全く太平になった訳では無論なく、唯ちょっと猶予することになって、いよいよ和戦いずれにか決せねばならぬという国家の一大事になっていたのであるが、太平に馴れた江戸の士民は、全く太平になったと思い込んでいた。けれども幕府や藩々の枢要の人達は油断なく戦備を整えるのであった。
 どうも日本の武器のみでは駄目である。西洋式の大砲を仕入れなくてはならぬ、また軍隊も西洋式の訓練をしなくてはならぬとの意見が方々に起った。私の藩は先々代が彼の海防に留意された桑名楽翁公の甥であったので、大分開けていた。『うえぼうそう』の如きも楽翁公が奨励されたので、私の藩邸でも早くよりこれを行い、私も四、五歳の時にした。この頃亡くなられた君侯は薩州から養子に来た人で、薩州では有名な斉彬なりあきら公が西洋通で、この縁からも、新知識が我が藩に注入されていた。
 それで私の藩邸には、琉球から薩州にも及んで盛んに飼われていた豚を買い入れて沢山飼っていた。これは食用にはしなかった。何でも豚というものは汚物を食うので屋敷内を清潔にしてくれる、それから火事の時には火に向って強い息を吹掛けるから火除けになるという事を聞いていた。子供等はよく『豚狩り』と称してこれを追い回した。残酷にしてはならぬとよく叱られたものである。
 軍隊洋式調練の必要が唱えらるるや、我が藩は直ちに採用して、和蘭オランダ式の銃隊を編成することとなり、その教授のために下曾根しもそね〔金三郎〕の門人なる小林大助というを召抱えられた。邸内でも調練があって、近習等も隊に入って稽古した。私も珍しく思って見物した。雨天には殿中で行われた。進退の合図は太鼓で、これは子供の受持で、藩士の伜などが稽古して打った。私もこの太鼓打になりたいと思って父に願ったが、あんな事はするものでないといって許してくれなかった。
 私の父は西洋嫌いであった。しかるに君侯は盛んに洋式調練を奨励されたので、一時我が藩の銃隊は出色のものになった。服装は、尻割羽織を着、大小を差したままで筒を持った。身分ある者は指揮方を稽古した。筒持つ者は足軽であった。この事は藩地にも及んでそこでも和蘭式の銃隊を編成せんとした。こういう勢になって来たので、これまで門閥によって高い地位を占めてる者は、銃隊に熟した若い者に権力を奪われそうになった。その不平や、夷狄いてきの真似をするのは怪しからぬという憤慨やらで、門閥家の方から反対の声が起った。遂にこのために江戸詰の家老等も改革を押通すことが出来なくなり、君侯も意を曲げられて、銃隊は日本式大砲のみを洋式にするという事になった。
 私の父は、後には藩中でむしろ新知識のある方であったけれども、その頃には全く旧套を守る主義であったので、激しい衝突をした結果、当時目付から側用達という重い役になっていたのを忽ち免ぜられてしまい、側役の礼式という身分で家族を引連れて藩地松山に帰るべき運命になった。これは私の十一歳の時であった。
 父は別に学者ではなかったが、一通り漢籍を読み得た。私は八歳の時から素読をはじめ、論語孟子などを父に授かった。素読のみならず意味を教えてもらった。私はこの漢学に大変興味を持ったので、進みもよく、人に賞められた。或る時父が厠へ上ぼっているのを待ち兼ね、文字を問うためその戸を開けたので、お目玉を喰った事もある。いたずらをする時は『もう本を読まさぬぞ』といって懲戒された事もある。この藩邸内には漢学を授ける所もあったが、私は父のみに学んだ。私はよく『子供らしくもない、学者くさい。』という評を受けた。
 私は豚狩や喧嘩をするよりは読書が好きだった。一つは臆病者であったので外へ出るより内で本を読む方が好きになったのかも知れぬ。その頃の子供の遊びでは、『ねッ木』といって、薪の先を削ったのを土に打込み、次の者がそれへ打当てて土にさし、前のを倒し、倒した木は分捕るという事が流行はやった、独楽こまもよくやったもので、前の独楽を、後の独楽で廻いを止める事をした。その頃は大きな独楽をまわす事が流行っていた。その外、鬼ごっこ、駈けっくら、隠れん坊、すべてそういうような遊びをすると私はいつでも負けた。そうして男のくせに私は雛が大変好きであった。私の内には祖母が二人、それに継母が居たので、いくつかの雛を持っていた。私は節句になると、小さな雛などを買ってもらって立てた。よそへ行って雛の小さな膳で物を食べてみる事もあった。私の内には雛の膳が無かった。これを私は大変に残念に思った。江戸住いになる時に国許で売払ったのだと聞いた。
 寄席へも私はたまに行った。産土神の春日の社の境内に、一つ寄席があった。維新後は薩摩ッ原に移って春日亭といった。あそこで蝶之助という独楽まわしを感心して見たことがあった。義太夫は飯倉の土器坂へ一度聞きに行った。文句はよくわからなかったが、千両のぼりの櫓太鼓の曲弾を子供ながら面白く感じた。
 子供の時の記憶で最も驚いたのは、安政の大地震であった。それは夜の四ツ時で、私はもう眠っていた。私は人に抱かれて外に出た。そして今大地震があったという事を聞いた。それは十月のことで、寝巻のままでは風邪を引くから、一度内に這入って着物を着て、更に外に出た。見ると屋敷から東北は一面の大火事で、空が真赤であった。幸に私の住んでた中屋敷の方は、地盤が堅固なので、唯長家の端が少し倒れたのみで、それも怪我人は出さなかった。上屋敷の方は地盤が悪いので、その辺に倒れた屋敷が沢山あったが、前にもいった如く、嘉永元年に焼けて後極めて堅固に再築したので、そんな地盤の上に在りながら、この上屋敷だけは破損はしなかった。
 我が藩邸と違って他の藩邸は多く潰れた。そして火事となったので死人も多く出た。翌日私の藩邸に親類のある他藩の者は続々避難に来た。皆着のみ着のままで、親を失い、子を失い、実に気の毒な様であった。或る人は、兄が梁などに敷かれている様子で姿が見えぬので、『兄さん兄さん』と呼ぶと、潰れ家の下から返事をした。やれ嬉しやと、『早く出て下さい』というと、『うむ、今出る、今出る。』といったが、いつまでも出て来ない、助け出すことも出来ぬ。そのうち火がまわって、『今出る、今出る。』という声が段々小さくなって絶えてしまったという話しも聞いた。
 大地震のあとはいつもそうであるが、当分のうちは夜となく昼となく地震がある。それで家に落着いては居られぬので、その夜から門前に戸板を囲い畳を地に敷き、屏風を立てまわし、上に油紙など置いて、そこに居た。父は宅に居た。曾祖母もそんな仮小屋は厭だといって宅に居た。祖母継母私下女などは皆この小屋住居をした。
 大地震の夜はその止むか止まぬに、諸大名は直ちに幕府へ御機嫌伺いに登城したが、将軍家は紅葉山に御立退になっていて、私の君侯は自ら提灯をさげて行って親しく御機嫌を伺われたという事を聞いた。幕府からは奏者番や御使番が藩々の屋敷を見舞った。君臣ともに礼儀を尽したものである。
 その翌々年八月に大風があって、地震ほどではなかったが、江戸中大災害を蒙った。この時も私の藩邸はさしたる損害も無かった。
 それからコロリ(虎列拉コレラ)の流行ったことがあった。これはいくら建築が建固でも安心は出来ぬもの。私も子供ながら非常に怖かったが、私の内には幸いに一人も患者を出さなかった。
 異人、地震、大風、コロリ、これらが私が江戸に居る間に脅かされたおもなる事件であった。
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 いよいよ一家国許へ帰ることになったが、私の一家は皆江戸住をあまり好まず、始終『お国へ帰りたい帰りたい』といっていた。しかし父は段々抜擢されて藩政上にいよいよ深く関係するようになったので帰れなかったのが、幸か不幸か今度は前にいった事故から免役となって帰ることになったのである。家族等は免役の事は悲しんだが、帰国という事は喜んで、勇しく江戸を出発した。私は『お国』という所はどんな所だろうと思いつつ辿っていった。
 この旅行についていろいろ準備をせねばならなかった。まず東海道を通るには駕籠を買調えねばならなかった。かつぐ人足は雲助で、五十三次の駅々に問屋があって、そこへ藩の者といって、掛合えば幾人でも雲助を出してくれる。また荷馬も出してくれる。駕籠も竹で編んだ粗末なのは道中どこでもあるけれども、それには士分以上の者は乗れない。それで駕籠だけは家内一同の乗れるだけどうしても自分で弁ぜねばならなかった。そしてそれは東海道を通る間だけにいるので、伏見からは船だから全く不用になるのである。
 父は兵制上の争から不首尾で免役になりかつ帰藩を命ぜられる際でもあり、また一体父の性分として見えを張らぬ方であったから、駕籠を買うことになっても、切棒駕籠は一挺だけにし、あとは垂駕籠たれかごにした。
 大名やその他身分の高い者の乗る駕籠は長棒駕籠ながぼうかごといって、棒が長く、八人で手代りにくことになっている。それを切って四人で舁くようにしたのが即ち切棒駕籠である。切棒は実際においては三人で舁き、一人は手代りで休む。いずれも戸は引戸である。垂駕籠は上から畳表に窓があいてるような物を垂らしてあるので、これは二人で舁く。それで切棒は駕籠も高く、人足賃も高いのである。本来は切棒に父が乗るはずであるが、それに継母と弟の大之丞とを乗せ、私と曾祖母と祖母とを各垂駕籠に乗せ、父は別に駕籠を作らせず、歩きもし、馬にも乗り、また駅々の竹で編んだのに時には乗っても宜いといって、駕籠無しで出発した。家来は二人連れた。その一人は槍を持って行く。それから別に人足を雇って具足櫃ぐそくびつを舁がせる。この槍と具足櫃とは侍たる者の片時も身を離してはならぬ物であった。荷物は江戸から藩地まで『大まわり』と称える藩の渡海を業としている者に藩から托してもらって送らせるので、手近い荷物は葛籠に入れ馬の脊で一行と共に行くことになっている。
 荷馬には本馬ほんうまとカラしりと二種あった。カラ尻は本馬の半分の量目の荷だけ附け、尻の方はカラになってる、そこへ人が一人乗られるのである。だからカラ尻があれば、家来が足を休めるために時々乗ることが出来て便利である。
 私どもは十二年間馴染んだ江戸を出発して、品川鮫洲の茶屋、今もあるあの川崎屋で休んで、そこで見送りの人と告別した。父の弟の浅井という小姓をしていたのが馬で送って来て、その頃の事であるから、兄弟またいつ遇われるやらと別を惜んだことを覚えている。品川までは江戸の人足のカンバンでも着たのに駕籠を舁かせて来たが、品川で雲助を雇うのである。
 雲助といえば、暖くなれば皆裸で、冬でも、着物一枚着てるのはよほどよい方で、むしろを巻いたり、小さい蒲団を縄で結わえ着けたりしてるのもある。品川で始めてこの者どもの手に渡るのである。雲助は駅々の親分を通じて用を聞いていたものである。彼らは戸籍も無く親戚も無く全くアフレ者で、金を少し取れば、酒を飲むか飯盛を買うか博奕ばくちをうつかの外はせず、駕籠の客に対しても何をするかわからぬ物騒な者どもであるが、侍の一行に対しては極めておとなしくした。
 駅より駅への長い間には一行の駕籠が離れ離れになり、一町二町と隔たって舁がれて行く。こうして広い野や淋しい山道を通ることがある。婦女子などはこういう時雲助に対して甚しく不安を感ずべきであるが、武家の一行は全く安心なもので、次の駅で皆無事に揃うのであった。なぜ武家に対して彼らが温順であったかというに、武家は駅の問屋の手を経て雲助を雇う。問屋には雲助の親分が請負的に用を弁じている。もし雲助に悪行があったら、直ちに親分の責任になる。故に親分はその雲助に制裁を加えた。馬子も雲助同様の組織になっていたから荷物も聊か障りなく届いたものである。制裁はなかまどうしで加えさせたもので、軽いので指を一、二本へし折られた。甚しいのは十本とも折られる。あるいは殴って半殺しにする。そうしてその駅を追っ放す。或る駅でこういう制裁を受けると他の駅でも雇ってくれぬ。だから雲助は親分には十分に服従せねばならぬのである。それで問屋から口をかけられた旅人には、全くおとなしくしていた。
 賃銭は武家の払うのは五十年も前の相場で払うので、安政の当時においては不当なほど廉価なものであったが、雲助や馬子はそれに甘んじて仕事をした。それではいかにも引合わぬという疑が起ろうが、彼らの稼ぎには武家以外に平民がある。平民の用は、問屋から武家の用を命ぜられるそのいとまに遣るということになっており、それは『相対雇あいたいやとい』といって、問屋を仲に立てないでいるので、賃も十分に取り、なお酒手もねだった。それで武家の方と差引して生活したのである。それでは平民ばかりを客にしたら大変に宜いはずであるが、それは許されていなかったのである。
 平民の旅行となると雲助のために多くの費用がかかった。就中なかんずく役者などの芸人と認めると一層高い賃を取ったから、芸人等は大抵商人に扮して旅行した。しかしそれが露われるとまた恐ろしく取ったもので、場合によれば手込にもした。
 武家が大勢落合って雲助や馬子の不足する時は、問屋から別に『助郷すけごう』というものを出した。これはその地その地の百姓が役として勤めたもので、馬を持っていれば馬子の代りをせねばならなかった。この助郷は雲助などに比べると相当の着物を着て身形みなりもよく一層温順であるが、それだけ駕籠の舁き方も拙く、足ものろいので、我々はやはり助郷よりも雲助の方を便とした。
 私どもは一定の立場たてば々々で人足や、馬のつぎかえをしつつ進み、その夜は戸塚の宿に泊った。
 私は旅することを初めは面白く思ったが、山の中野の中を連れと離れて舁がれてゆく時は怖しく淋しく、父などと一所になればやっと安心し、立場で茶受けに名物の団子など食べる時には嬉しく、問屋で人足をかえる際には、諸藩の武家をはじめ往来の旅客が集って極めて雑沓するので、はぐれはしまいかと心配した。
 さて戸塚へ泊ると、宿屋の食事は本膳で汁や平がつくので、常に質素な食事ばかりしていたから、大変な御馳走だと思った。そして夕飯朝飯は毎日どこでもこれであるので嬉しかったが慣れぬうちは知らぬ家で寝るという事が不安で、父や祖母と一間に寝たのであるが、戸塚では殆ど眠られなかった。それも慣れては我が家の如く安眠するようになった。戸塚の駅の辺りで屋根の上に一八いちはつの花がさいているのを珍しく眺めた。
 その頃では私の父位の身分の一行であっても、宿を取ることになればその宿は一行で借切ったもので『相宿は許さぬ』と告げ、宿屋もそれを承知したものである。武家の宿と商人の宿とは大抵別になっていた。かくまで威張った武家が可笑おかしいことは、宿をとる時必ず旅籠はたご銭を家来をして値切らせたものである。旅籠銭は一人分が百五十文か二百文あたりであったと覚えている。今の銭でいえば一銭五厘から二銭までの所である。それで本膳の食事を供し、風呂も湧かしたので、今の人の耳には嘘のように聞えるであろう。茶菓子は大したものは出さず煎餅ぐらいであった。今もそうであるが朝は梅干に砂糖をかけて出した。
 宿屋全体を占領するのであるからユックリしたもので、上分かみぶんは二間ぐらいを領し、家来は遥か隔った部屋に居た。日々の昼食は宿屋にいい付けて弁当を作らせ、用意の器に入れさせ、それを昼頃にどこかの駅か立場に着いた時に、駕籠で食った。弁当など持たないでも、食事する所はどこにでもあったが、旅費も乏しかったので節倹したのである。
 侍が単身でもまた一家を連れてでも、旅する際の費用は、決して官から賜らなかった。本来知行を貰っているという事は何らかの場合に公務を弁ずるという請負として貰っているので、それの余力で家族を養うという事になっていたので、藩のために旅行するも公務の一部で、旅費は家禄を以て弁ぜねばならなかったのである。大名の参勤交代でもその通りで皆大名の自弁であった。大名はその上に、時々城やその他の土木工事を命ぜられ、これらも軍役に準じてやはり自弁でせねばならなかった。
 藩の侍の如き、表向きは余力で家族を養うということになっていても、実際においては家禄の全部を使ってやっと家族を養っていたので、旅などする時には家禄の前借をしたものである。また別に侍中の共有の貯蓄があって、それも貰うことになっていた。そういう次第であるから手を詰めた旅行をせねばならぬのである。
 ところがこの頃は東海道を初め、どの道筋でも『川止め』という厄介な事があった。雨が降続いて川が増水すると、危ないというので渡しを止めるのである。東海道の川々、大抵は舟渡しで、大井川と酒匂川さかわがわだけは特別に台輿または肩クマで渡した。台輿は駕籠に乗ったままで駕籠ぐるみに台にのせて渡すので、肩クマというのはけだし肩車の訛りで一人を肩に乗せて渡すことである。大井川の如きは殊に川止めになりやすかった。川止は実に旅客の迷惑であったが、それに反してその川の両岸の土地の者には大いなる幸福であった。それは旅客が泊って金を落すからである。大名となると泊る際には必ず一駅を一行で占有したものであるから、参勤交代が同時である大名と大名とが相次いで来る時、川止となると、前の方の大名が川端の駅に泊ると、次の大名はその次の駅で泊ることにせねばならぬ。川止のためにこの大名達が土地へ落す金は非常なものであった。
 それで少し雨が多いとなると、危険というほどでもないのに、もう舟は出せないといって止めてしまう。これに対してはいかに大名といえども渡る事は出来なかった。またその土地の舟以外の舟で渡るという事は幕府の禁ずる所であった。大井川の如きも人足が渡してくれねばといって、舟を浮べることは勿論禁ぜられていた。なんでも大井川などは早く増水するように特に渡し場の所だけ深く掘ってあるとかいう話も聞いていた。
 私どもの一行も川止にあわぬようあわぬようと念じつつ行ったが、大井川は無事に越した。こういう川越しの際の人足もその役筋から雇ってくれるので安かった。私も台輿で渡ったが目がまうように覚えた。或る日途中で父が力を落した風で投げ首で休んでいた。私があやしんで聞くと、このさきの砂川(遠州)が止まったといった、それで日はまだ高いのに掛川かけがわに泊った。しかし幸にして翌日川が開けた。砂川は小さな川であるが忽ち増水する川であった。私は駕籠の中から、その川のあたりの並木に藁や芥のかかっているのを見て、前日の増水の有様を思うた。その次には三河の大平川が止まった。これも幸にして一泊で川が開いた。止まった川が開いたというと、旅客が先きを争うて渡るので広い川原も怖しいほど雑沓した。大井川の止まった時肥後藩の侍がこの位の水で止まるはずは無い、どうしても渡さぬなら泳いで渡ると息巻いたが、制する者があって、思い止まったということを聞いた。こういう憤慨はよく方々で聞かれたのである。
 川止の外に面倒なのは関所のあらためである。東海道では箱根と新居あらい(遠州)に関所があった。関所は幕府で厳重に守らせたものであるが、既に勤仕している武士となれば、手数はかからぬのであるが、女子供を連れると面倒であった。それは幕府の政略として、諸大名の妻子は必ず江戸に住まわせ、藩地へ帰すことを許さなかったので、もしそれらが身をやつして帰国することが無いかという用心からであったらしい。私ども一行は藩より通行の手形を貰って来たが女は関所で頭髪をかき分けて検査される。手形にはこの女は髪が多いとか、少ないとか、白髪があるとか、頭に疵があるとか書いてあるので、それと引合わせて通したものである。
 子供となると、五歳以上の男児で上下着した者は一人前の武士と見なされていたが、それ以下の男児は、男たる事を証明するために、関の役人の前で前をまくって陰茎を示したものである。女の子は振袖を着けて、それだけで済んだ。道中には所々に藩の用達というものがあって、関所にかかる時には、まずその前の駅の藩の用達を呼んで、関所を通るについて万事その人の手でしてもらうことであった。手形も用達の手から関の役人に差出してもらう。同時に賄賂も差出してもらう。この賄賂は多きを要しないで一定していた。もしこれを出さないと何かいい草をつけて川止め以上の日数を浪費させられることがある。
 関所へかかる前には行装も調えねばならぬ。それで箱根では、そこに近い間の宿で休んで、女は髪をあらためられる支度をして髷をほどき髪を洗っておく、父は旅中の常服としては野服といって、今も芝居で見られる鷹狩装束のようななりをしていたが、関所を通る時には野袴を穿き紋附羽織を着、家来も新しいカンバンに改め木刀をささせ、槍と草履とを持たせ、具足櫃も常はとになり先きになって持たせたが、この際は父の進む前に厳めしく舁がせる。常には継母と弟が乗る切棒駕籠も、この際は父の乗物として、父のあとへ附けた。そういう行列をして関を通るのであった。
 父は関所の役人へ何ら会釈もせず、突袖のまま通ることが出来た。その次には私だが、私は既に十一歳だから、大小を帯び、父と同じ野袴紋附羽織に改めて通るのである。が、父のように素通りすることは出来ぬ。用達に連れられて役人の前に進むと役人が厳格に『名前は』と問う。『内藤助之進』と名乗る。『通らっしゃい』という。すると用達はもう宜しいとささやいたから、そこで通った。弟は例の前まくりをやらせられ、女連は髪をあらためられた。女のあらためはさすがに男はやらないことになっていて一人そのために婆アが雇ってあって、それがあらためた。賄賂は定まり通り納めてあるので、皆無事に通るを得、次の間の宿で休息し、再び常の行装になって、旅行を続けたのである。
 町人百姓は手形を住地の役筋から貰って通ったものである。この手合の女の検査は武家の女ほどやかましくはなかった。町人百姓が何か事故があって手形を貰わなかった時は、関所の前の宿で偽造の手形を高価で売っているのを買って、それで通ることも出来た。この事は黙許になっていた。その偽手形も買わぬ者は関所を通らずして抜道を通った。なんでも手形を持たぬ町人百姓が関所に来ると、役人は『これからどちらへ行ってどう曲ると抜道があるが、それを通る事は相成らぬぞ。』といって、暗に抜道を教えたということである。また或る人の話に、手形の無い者が通りかかると、役人が『こら』と声をかける。その時その者はクルリと向きをかえて、ま歩いて来た方角へ顔を向けてしゃがむ。『手形があるか。』と問う。『ありませぬ。』と答える。『それならば元へかえせ。』と厳しく叱りつける。すると『はい』といって向直って関門を出て、サッサと通ってしまう。こういう事も黙許されていたという。旧幕時代は諸事むつかしい法度があるとともに、またその運用に極めて寛大な所もあったのである。
 しかしその抜道には、よく悪者が居て、追剥強盗などをした。それをもし訴えると関所破りをした事がわかるので、災難に遭っても黙っておく。それをよいことにして悪者が暴行をした。かの伊賀越の芝居でも、唐木政右衛門が岡崎の宿に着く際、この抜道を通ったということに作ってある。
 私達の一行は次の新居の関(遠州)も越したが、ここでも手形を出すとか、検査を受けるとか名乗をするとかいう事は、箱根の通りではあったが、ここは役人の態度が、いかにも穏和であった。例えば、私が通る時老人の役人が『お名前は』と聞いた。名乗をすると、『お通りなさい』といった。箱根の『名前は』『通らっしゃい』とは大変な違いである。
 この新居の関は、この地の小さな大名が、幕府からの命令で、受持っていたのである。箱根となると関東唯一の関で、幕府の功臣小田原藩大久保の受持になっていたから、自然厳重な荒々しい言葉使いをしたものである。
 これらの関所の外に、馬のつぎかえをする時に荷物の貫目を検査する場所があった。それは第一が品川で、次が府中即ち今の静岡、その次が草津と覚えているが、その間にも、一つあったかも知れぬ。この検査の時も、用達に周旋をさせ、問屋の役人に賄賂をつかうと、少々貫目が多くても通してくれた。もし賄賂をつかわないと、貫目が少くても多いといわれることがある。役人の手儘に目方をかけるのであるから、重いも軽いも手加減次第でどうでもなった。その賄賂は殆ど定価のようになっていて、既に江戸出発の折に、幾ら幾らと予算に立てて置くことが出来た。
 旅籠屋では茶代を必ず置かねばならなかった。何でも二百文か三百文ぐらい置いたもののように覚えている。
 武家には温順であるとさきにいった雲助、馬士も時々酒手をくれぐらいのことはいった。武士であるから叱り付ければそれまでのことであるが、やはり乞われれば少々は与えた。与えないと疲れぬのに疲れた風をして、グズグズするという位の復讐にはあうのだ。
 武家宿には、特に何藩の定宿というのも多くあった。松山藩の如きは別に定宿というのは無かったが、幕府の親藩に準じたという訳か、外の外様や譜代よりは、海道筋でも何となく勢力があるらしく、『松山様』といえばどこでも快く宿を引受けた。なお昔は長崎の探題とかであった訳もあろう。
 大名の泊る宿は本陣と称したが、それに次いで『脇本陣』というのがあった。家老あたりの身分のよい者は本陣か脇本陣で泊った。大名の泊る時は、前にもいったように駅の全部を占領したもので、駅の両端には『松平隠岐守泊』というように書いた札を立て、本陣の主人は裃はだしで駅の入口に出迎え、本陣の門には盛砂、飾手桶が置かれた。この本陣と呼ぶのは戦国の名残であること勿論である。
 私どもの一行もたまたま脇本陣に泊ることもあった。こういう所では取扱が非常に丁寧であった。明日は七里の渡しをして桑名まで行くというので、宮(熱田)に泊まった時であった。宮の宿の用達は伊勢屋といって、脇本陣をしていたので、そこへ泊まることになったのである。切棒一挺、あと垂駕籠という体たらくで、こういう所へ泊るのは極まりが悪いと父がいっていた。その垂駕籠を主人自ら鄭重に奥へ舁入れた事を今も覚えている。
 七里の渡しの折、船も旅籠屋と同様、借切りで、同船の者は許さないことであった、これより先遠州の今切いまぎれでも、一里の間船で渡ったのであったが、この時も一艘借切った。すると船頭が一人の商人の便船を頼むといったので、父は承知した。その商人は艪の[#「艪の」はママ]方に小さくなって乗っていた姿が、今も目に浮ぶ。今切はそうでもないが、七里の渡しも風雨の時は止まる。そういう際には長逗留を避けて、佐屋へまわって、即ち入海の岸に沿うて進んで桑名に入るのであった。この事は、かねて藩へ七里の渡しが止まったら、佐屋まわりを致しますということを願って、許しを受けて置かねばならなかった。近江の湖水では矢走やばせの渡しがあるが、これを渡ることは禁ぜられていた。それは比叡颪ひえいおろしの危険を慮かってのことであった。私どもも勢田せたの長橋を渡って大津へ入込んだ。家来二人は矢走を渡りたいといって、姥ヶ餅のそばから矢走へ行ったことを覚えている。これは軽輩だからいのだ。
 東海道の所々に名物がある。しかし一行は節倹を主としていたので、あまりそういう物を食べなかったが、私だけは時々ねだって食べた。その中で、小吉田で桶鮓を食べたことをよく覚えている。小さな桶に鮓を入れたのを駕籠の中へ入れてもらったが、その桶が珍しかった。有名な宇津の山の十団子は、小さな堅いのが糸に通してあるのだ。これは堅くて食べられなかった。
 小夜の中山の夜泣石の由来は、その前の宿で父が大体話してくれた。通りすがりに駕籠から見ると、石は道のまん中に転がっていて、上に南無阿弥陀仏とりつけてあった。大名などの通り道だからというのでかたわらへ除けてみるが、石自身で元へ帰って来るとの話であった。この峠から遥に粟ヶ岳というが見えたが、そこにはかの無間むげんの鐘がある。それを撞けば、生前にはどんな望でもかなうが、死んでから必ず無間地獄に堕ちるという事を聞いたので、粟ヶ岳を見ただけでも怖しく思った。夜泣石と無間の鐘との由来は刷物になっていた。また『刃の雉』というのも刷物になっていた。これは昔或る武士が剣の如き尾羽をもった怪鳥を射殺した話であった。
 矢矧やはぎの橋の長いには驚かされた。それを渡ると、浄瑠璃姫の古跡があって、そこに十王堂があった。私はかつて見た錦画の、姫が琴をひき、牛若が笛を吹いている処を思い出した。
 大津に入るあたりで三上山を見た。彼の田原藤太が射た大蜈蚣むかでの住みかだと思うと、黒くしげった山の様を物凄く感じた。
 さて一行はいよいよ伏見に着いた。京都へはまわりになるから立寄らない。伏見には藩の用達や定宿があるので、そこに落着き、今まで乗った駕籠を棄て値で売払い、一挺の切棒駕籠だけは残して置いた。それから三十石を一艘借切って、駕籠や荷物と一所に乗込んで淀川を下った、枚方ひらかたへ来ると『食らわんか舟』がやって来て、わざと客を罵りながら食い物を売る。私は餅などを買ってもらった。下り船は左右の舟ばたで船頭が竿をさす。時々岸辺の葦に船が触れてサラサラと淋しい音がした。雨が来るととまをふいた。夜船のことだから船中に小田原提灯をともした。その提灯は江戸から携えてきたもので、私どもの旅行には必ずこれを駕籠の先棒へともしたものである。
 一晩船中でおくるのであるから、小便をせねばならぬ。男は船ばたでやるが、女はそれをしかねるので便器を携えて乗ったものであるが、一行の老婆二人も継母も、それには及ばぬといって乗ったが、時を経ると催して来て堪えられなくなった。祖母がまず思い切って船ばたでやった。船頭がそばから『お婆さんあぶない』と声をかけたので、皆が笑った。夜中になって継母もやったようである。私はそのうち眠ったが、目が醒めると、まだうす暗い頃、大阪の八軒家に着いていた。
 大阪には藩の屋敷が中ノ島の淀屋橋の傍にあるので、一行はそこへ行った。既に知らせてあるから、長屋ながら一つの小屋を借りてそこに落着いて、いよいよ藩へ下る船の準備をしてもらった。それまでは少し間があるので、天満の天神など近所の名所を見物に出掛けた。
 この屋敷には留守居という者とその下役が居る。私の藩では、他に産物は無いが、米がかなり沢山出来るので、藩の士民が食べる外に、沢山余る。それを藩外へ売出して、上下共に費用を弁じたものである。年貢の納まるまでは百姓の手で米を売ることは出来ぬので、それが済めば勝手に売出すことが出来るのである。藩は藩の手で船で大阪まで積んで行き、この留守居の手で、大阪相場を聞合わせ、出入の商人に売渡す。これが藩の財政上のおもなる事件になっていた。
 こういう事の外に大阪の留守居には別に肝心な役目があった。それは借金の事である。大名が金を借りる時には必ず大阪の豪商に借りた。その談判は必ず藩の留守居役がやったのである。これはどの藩でも同様であった。各藩の収入では普通の参勤交代等の費用を弁じ得るだけで、その他の臨時費になると、とてもその収入では出来なかった。それに太平が続いて、段々世が贅沢になり、物価が騰貴するに従って、いよいよ豪商に頼る必要頻々と起って来た。借りて、元利を幾分かずつ支払って行く大名には、豪商も直ちに需に応じたが、返し得ない貧乏藩が沢山あるので、そういうのに対しては、たやすくは応じなかった。藩の足もとを見ては、豪商は少しでも利を高く取ろうとした。大阪の留守居はこの談判をうまくせねばならぬ。談判の際大抵豪商とは直接にしないで、番頭を相手に交渉するのであるから、その事なき平素から留守居は時々番頭に贈物をしたり、また酒楼へ連れて行ったりして、機嫌を取るに汲々としていた。よって金貸の豪商に対しては、武士の威厳も何も無く、番頭風情に対しても、頭を下げて、腫物にさわるようにしていたのである。かかる次第であるから大阪の豪商は暗に天下の諸大名を眼下に見下だしていた。貸してくれた際には、別に扶持米ふちまいを与えあるいはそれを増すこともあった。
 この頃の豪商のおもなる者は、鴻池、住友、平野、鹿島などであった。この中で住友は伊予の別子の銅山を元禄以来開いており、その地は幕府領ではあるが、私の藩が預かっていたから住友と特別のしたしみもあった訳だが、それでも金の事となると随分談判に骨が折れた。
 一行はこれよりいよいよ海路を藩地まで行くのである。船は藩の所有で、主としては大阪へ米を積出すに使い、また藩士の往来にも使うものが沢山あった。この外に、昔は海戦に用い、その後は藩主や家老などの重臣の乗用になっている関船せきぶねというがあった。この関船は、中に小さな座敷めいたものが出来ていて、その両側に勾欄があり、欄の外側には多くの船頭が立って多くの櫓を操る、その状蜈蚣の如くである。帆も懸けることは懸けるが、船の運びが櫓でするように出来ているから、帆の力は荷船のようにはかどらぬ。藩主が乗る時には、幟、吹流しを立て、船の出入りには太鼓を打った。
 荷船は荷を積むのがおもで、その一の胴の間というに我々一行の如きが乗るのであるから、頭を高くあげるとつかえる。櫓は舳先やともに三、四挺あるが、櫓で運ぶという事は、よくよく順潮の時に少しやるだけで、もっぱら帆によって行く事になっている。関船もそうだが、荷船に至っては一層、風の悪い時は航海を休む。そういう際は陸の川止のような工合で、或る港で長く滞留せねばならぬ。船中では、一行の食料は、いずれも自分で弁じて積込んでいる。米はカマスで沢山用意し、干物類のようなものを数々用意し、ちょっとした鍋俎板まないた庖丁膳椀皿なども用意しているので、少しも人の世話にならずに食事をするのであるが、飯だけは、船に附いている竈で、家来にたかせる。だから川止めで宿銭をドシドシ取られるような苦痛は無いが長くなると食料を買込む位の費用はかかる。
 私ども一行は大阪で食料等を準備し、藩の所有の荷船を特別に仕立ててもらい、それに乗って大阪を発した。安治川あじがわ口まで下って、汐合や風を見計って天保山沖へ乗出すのである。安治川を下る時両側の家で、川中へ釣瓶を落して水を汲んだり物を洗ったりする様を珍しく見た。この川の或る場所には幕府の番所があって、ここで船の出入を改める。但し改めるのは商船だけで藩の持船になると検査は受けぬ、ここを通る時には、藩の印のついた幟を立て『松平隠岐守船浮けます』と呼上げて通るのである。かつて怖かった箱根や新居の関などとは違って、たやすいものだと私は思った。それから天保山あたりに泊って、翌日出船した。
 安治川の上下や、伏見までの淀川の上下などを藩主がする場合には、別に立派な船を用いたもので、その船は大阪中ノ島の藩邸の前に繋留所が出来て、それに繋がれてあった。私は隙間から覗いたが、金銀の金具が輝き種々の彩色が鮮かに見え、朱塗黒塗などで頗る見事なものであった。大名同士が互に美を競いかかる船に乗ったもので、太平の贅沢の一つであった。
 この藩の船に乗込んでいる者に船手というは、藩の扶持を貰っていて、常には藩地の三津みつの浜というに妻子と共に住まっている。その下に水主かこというものがある。これは藩地の海岸や島方などから、一定の期限があって、順番に徴発したもので、常には漁業などしていた。私どもの乗った船にも上には船手数人、下には水主が数人居た。それらの煮炊万端はもっぱら水主にやらせるので、船手は坐して命令するだけである。この両者は大変に隔があって、水主は悪くすると船手にいじめられる。それでもよく辛抱したもので、その状は私も目撃して、水主は可哀そうなものだと思った。
 私どもの乗った船は四百石ぐらいで、帆は七反帆であった。その帆は紺と白とをあえまぜに竪の段ダラ形で、これが藩の船印の一ツになっていた。風がよいと、艫の方で轆轤ろくろでその帆を懸声をして巻上げる。帆が上がり切ると、十分に風を孕んで船が進む様は、実に勇ましかった。追風でない時は、『ひらき帆』といって、帆を多少横向きにして進むが、風が全く横から吹く時は、直行が出来ないから、右に左に方向をかえて、波状線を画いて進んで行く。これをマギレという。右に向いたのが左にかわる時には、船は殆ど直角に向き直る。すると一方に強く傾いて波も一方のみに受けるので、船体は甚しく傾斜する。私は始めてのことだから、こういう時には覆没を怖れた。風が悪くて港に長く止まる際には、港へ上がって風呂をたててもらって、相当の礼をして這入った。船の艫の方に小さく囲った処に穴があって、そこから大小便をすることになっているので、自分の船のはわからぬが、よその碇泊船のは、その穴から汚い物の落ちる所が見えるので、私は可笑おかしかった。
 当時ノジという小さな漁船があった。それは一家内乗込んで、原籍も無く、一生を船中で暮す者の称である。このノジがよく碇泊中に、肴を買ってくれといってやって来た。大変に安くて捕り立てであるのでうまい。或る時私どもはこのノジから黒鯛を買って俎板で割くと、その腹から糞が出て来て、大弱りをした。黒鯛は他の魚よりも人糞を食うもので、これは碇泊舶の糞を食ったものらしかった。
 一行の船は段々と帰路が捗取って、もはや讃岐の陸近くへ来た。このあたりで航海者はよく金毘羅こんぴらへ向ってお賽銭を上げたものである。それは薪を十文字に結わえ、それに銭を結付けて海に投込むのである。こうした賽銭は漁師などが見付けると、船に入れて、人に托して間違なく金毘羅へ届けたものである。この手数は全く信仰からしたもので、それを私する者は決して無かった。今日でもそうであるが、船に乗る者は深く金毘羅を信じたものである。
 私どもはかねて途中に金毘羅参詣をするという事を藩に願っておいたので、参詣をした。社は朱塗金金具で美々しいものであった。社前に夥しく髪の毛が下っていた。これは難船せんとする際、お助け下さらば髪を切って捧げますと誓った人が、後日捧げたものである。ここからまた船を出して、幾日かを経て、やっと藩地の三津の浜に着いた。
 この着いたことを直ちに藩に届け、親類にも告げた。間もなく親類どもがやって来た。継母の里の春日からは使が重詰を持って来た。その使は、折柄衣山きぬやまにさらし首があるので、まわり道をして来たといった。三津の浜から城下までは一里半もあって、その間に仕置場があったのである。
 その晩は船で寝て、翌日上陸して、浜座敷という所を借りて、そこで入浴し、女連は髪を結いなどして支度をした。迎えに来てくれた親類がそれぞれ準備してくれたので、一行ことごとく切棒駕籠に乗り、父は例の野袴をはいて、江戸から持って来た切棒に乗り、仲間等はカンバンを着て槍を立て草履を持ち、具足櫃もカンバンをた者が担ぎ、合羽籠といって、雨具を入れたものも城下から取寄せてあとに続かせ、行列揃えて城下に向った、父の如きはさほどの身分でもなくかつ不首尾で帰藩したものであるが、これだけの行列はせねばならなかった。
 途中前にいった衣山を通る時三つのさらし首を見た。青竹を三本組み合わしてその上へさん俵を敷いてそれに首が一つずつ載せてあった。私はさらし首を見たのはこれが初であった。
 藩地の住宅は、普通で帰った者は予め屋敷を賜わったものだが、不首尾で帰った者は、直ちには賜わらぬので、暫く借宅をせねばならぬ。私どもは城下はずれの味酒みさけ村の味酒神社の神主の持家を借りた。周囲は田畠で、少しの庭もあったが、全くの田舎住居で、私は道中で始めて見た田舎の景に、ここで毎日親しむことになったのである。
 着いた日には親類や知人が沢山集り、こちらでもうけた物もあり、客の持参した物もあって一同が宴会を開いた。会う人は大概私の初対面の人であった。中には子供も居たが、打解けて遊ぶことは出来なかった。
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 さて暫く経って、やや落つくと、私も十一歳になっているから、文武修行の場所へ入らねばならなかった。
 私の藩は、三代前の藩主が明教館というを設け、これに文武の教授場を総て包括していた。就中学問所(漢学の)が根本になっていて、これには『表講釈』という講釈日があり、月に二回ずつは、士分徒士に至るまで、必ず聴聞に出頭せねばならぬ事になっていた。病気等でも届を出さないで欠席する者は、直ちに罰を受けた。おもなる士分の講釈日には君侯も来て聴かれた。
 武芸の方は、弓術が四家、剣術が三家、槍術が三家、馬術が一家、柔術が一家で、これだけ明教館に附属した所に設けられて、各指南した。この師家には人々の望によって、自由にどこへでも入門することが出来た。馬術は木馬の型ばかりを教え、実際のは他の広い場所で教えた。
 私はまず学問所へ入門することになった。その時は上下を着て、誰かに伴われて行った。行き着くと、学問所の教官に導かれ、講堂という広い堂へ行って、大きな孔子様の画像を拝し扇子を一対献ずる。これが入門の式であった。
 その翌日から素読を教えてもらいに出た。学問所の課程は最初は素読で、まず論語を終ると一等となり、孟子と大学を終ると二等、中庸小学で三等、詩経書経で四等、易春秋礼記で五等となって、これで素読が終るのである。それから意味の解釈となり、講義や輪講等へ出席する。四書小学の解釈が出来ると六等になり、五経の解釈が出来ると七等になり、それで全課程を終るのである。私は江戸に居る時、孟子の半ばまで父から授かっていたから、その続きをここで習った。等を上るには試読しとうという教官の席で検査を受ける。それは、あちらこちらをあけて読ませるので、どこも読み得ると、終了と認めて何等と定められる。出来ぬ者は、更にさらえ直して来いといって叱られた。
 常の素読は、『助読じょどく』という素読の終っただけの者や、寄宿舎に入って素読以上の事を研究している若者から教えてもらい、それの誤は教官たる先生が訂すのである。
 この素読隊が三つに分れていて、私は三番隊に入った。最初論語は終っていたから、試読席で一等を受けた。先生は、「大変よく出来る。」といって賞めてくれた。孟子大学の終った時も好成績で等が進んだ。それでその年に中庸小学も終り、詩経の部へ進んだ。これは非常な進み方であるので先生は賞めた。勿論これは宅で父から教えてもらったからズンズン進んだのである。今日の課程の如きでなく、当時は力次第で右の如く進むことが出来た。詩経あたりへ行くと、私は大概自分で読んで、わからぬ所を先生や父に聞くという位に行ったから、素読は何らむつかしいものとは思わなかったが、詩経で小戎の篇の小戎※[#「にんべん+戔」、U+4FF4、76-7]収、五※[#「鶩」の「鳥」に代えて「木」、U+6958、76-7]※(「車+舟」、第4水準2-89-64)、游環脅駆、陰※[#「革+引」、U+9777、76-7][#「沃/金」、U+92C8、76-7]続、文茵暢轂、という所と、韓奕の篇の王錫韓侯、淑※(「族」の「矢」に代えて「斤」、第4水準2-13-78)綏章、箪※[#「竹かんむり/弗」、U+7B30、76-8]錯衡、玄袞赤※[#「臼/勿」、76-8]、鉤膺鏤錫、※[#「革+郭」、U+97B9、76-8][#「革+弘」、U+9783、76-8]浅韈、仗革金厄、という所だけは読みにくかった。
 武芸の方は、まず剣術から始めたが宜いというので、三家中で橋本というに入門した。ここは新当流で宮本武蔵から伝った流だと聞いていた。この入門には寄親よりおやというものが入る。それで親類の奥平というのが、橋本の免状を得ている身分であったから、それを寄親に頼んで入門が出来た。この入門は稽古場で先生に面会をするだけのことで、それから先生と高弟達の宅を訪問して頼むのである。この事は学問所の時にも同じで、おもな教官のうちへは回ることになっていた。
 武場は、藩地では地べたでする事になっていた。上には屋根が無いが、おうちの木が多く植えてあって、それでいくらか炎日を避けることは出来た。雨天は武場は休みであった。私の入門した頃はもう寒い頃であった。武場に入れば、直ちに裸になり、薄い木綿筒袖繻袢の腰までのを著、それに古袴をはくのである。そして先輩の人につかってもらい、時々は休む。同等の者が互角試合というをやる事もある。
 やがて寒に入って、寒稽古が始まった。面小手腹当竹刀の外に大きな薪を一本ぶら提げ、朝の弁当も持って、朝暗いうちから出かけるのである。薪は或る場所へ集めて火をたいて温まるのであるが、周囲は先輩が占領して、我々は火に遠い所で震えていたものである。そのうち粥が大きな二つの桶に運ばれる。それに沢庵が大切りにして附けてある。これも先輩がさきへ食ったが、しかしかなり普及していた。この粥は一般の武場へ藩から奨励の為に賜わったものである。そしてかの持寄りの薪で沸かした湯が沸くと、各弁当を食べる。我々の食う時はいつも湯が無くなっていた。弁当の菜はめいめい有合わせを持って行く。藩地では私どもは、猪や鹿などを狩りして来たのを分けてもらい、または店から買って時々食べたので、この菜にも稀には獣肉を持って行った。すると外の者等が覗込んで、『ヤマク(山鯨)を持って来た。』とはいいさまドシドシ奪われてしまって、やっと一きれ位しか自分に食べられなかった。けれどもヤマクを持って行くという事は私どもの誇であった。この菜の掠奪は多くの者がやられたもので、中にはまず菜のなかへ自分の唾をはき込んで、掠奪を防ぐ者もあった。藩地でも獣肉は高価であったから、そう度々食うことは出来ないのである。
 武芸のうちには明教館以外で大砲や小銃の稽古もした。小銃に入門をして或る許しを受けた以上は、銃を持って獣狩に行くことが出来た。まだその頃は、少し城下を離れた山には、鹿などが居たもので、それを打取って来れば、一部分を師匠及び高弟に贈る。なにがしが鹿を獲て帰ったと聞くと、近所からも少しいただきたいといって貰いに来る。それを乞うに任せて分ったので、鹿を得た家でも十分に一家で食うことは出来なかった。かかる有様であるから、ヤマクを弁当の菜に持って行って、皆が騒ぐのも無理はない。
 私は撃剣へ入門をしたが、試合は頗る下手で、同輩と勝負しても常に負けた。頭をドンドン叩かれるのも痛いものであった。強く叩かれると土臭い匂いがする。それに反して、カタはうまかった。その頃カタのことをオモテといった。入門すると或るカタを習って、進むに従って段式というを貰って、段式相当のカタを習うことであったが、私のカタが一番よいといって、先生がいつも誉めてくれた。
 その翌年の春に、君侯の御覧があった。君侯は学問所へは月に二回ずつ来て講釈を聞かれ、武芸の方は春秋二回御覧があった。この時は各流が日をかえて御覧に供するのだが、いずれも晴の場所として技倆を競ったものである。君侯が江戸詰をして居られる一年は、家老が代理をして、これを見分といった。この以外に目付の見分もあった。この御覧には、十五歳以上でなくては出られぬのであるが、学問所の方で三等を得ている者は、年が足りなくても、特に出ることが出来た。そこで私はすでに三等を得ていたから御覧に出て試合をしたのである。私の相手は籾山という者であった。うまくその御胴を打って、それから三番勝負で、私が勝を占めた。これはさきが拙かったからである。
 手習ということは、江戸に居た頃は余りしなかった。尤も継母の姉婿の、かの絵をよく描く山本は、書もよく書くので、これに手本を書いてもらって習ったが、私は一体手習が嫌いであった。しかし藩地に来てからは、他の同年輩の者等と共に、どうしても手習をせねばならぬことになった。
 藩の学問所は、読書は授けるが、手習は授けないので、別に師を選んで随意に入門することであった。私は武知幾右衛門(号は愛山また五友)という人の手習所へ入門した。この人は漢学者で、学問所の方でも教官をしており、私の父とは従来懇意であり、藩でも殊に烈しい攘夷党であった。その頃は父も同主義であったから親しくしていて、私を引立ててもらった。武知先生は維新後も生きていて、八十ほどで亡くなったが、死ぬまで髷を切らなかった。私の父も私も後には頗る開化主義になったので、そうなってからはこの先生によい顔はしてもらえなかった。
 さて手習を始めた所が、よくも出来ず、面白くもないので、ちっとも進まなかったが、先生は漢学の方から、私の読書力のあるのを認め、学問所の等級も知って居られるので、間もなく私を頭取という仲間に入れられた。頭取になると、草紙をいくら習っても随意なのである。頭取にならぬうちは、草紙の数が極まっていて一々検査を受けるのである。こういう楽な仲間に這入ったので、私はいよいよ手習をしなくなった。けれど、清書は勿論先生に見せるのである。私の清書にはよい点はつけてもらえなかったが、そこは読書力の方で差引して、大目に見てくれたようであった。或る時先生が鎌倉の頼朝以下十将軍の名を唐紙へ書いて、これを暗記して書いて見せたものへ遣ろうといった。そこで私はそれ位は最前知っているから直ちに書いて見せると、先生がアアお前が居てはいかんといって顔をしかめたが、約束だからそれは貰った。
 とかくして帰国した一年は終り、翌年になったので、お国で、一種変った新年を迎えた。まず正月の二日には君侯の館へ出て、年賀を述べる、これは江戸と同じである。それから親類を回る。それらの儀式は江戸と多く変らぬが、万歳に至っては、藩地では全く穢多のすることになっていた。三河万歳のような簡単なものではなく、三味線太鼓笛などで打囃うちはやし、初めは滑稽なるものをやるが、そのあとは芝居がかったものをやる。顔は胡粉を塗り、木綿の衣裳を着けていた。この万歳は、江戸屋敷の如く家々でするのでなく、或家でのみさせた。米を一斗とかあるいはそれ以上も与え、与えただけに芸も数多くすることになっていた。穢多であるから、庭で舞わせ庭で粗末な酒肴を与えた。私は一、二回よその内へ行ってこの万歳を見せてもらったが、江戸の芝居を見慣れた目には、いかにも馬鹿げているので、もう見ないことにした。
 三月になって雛祭をした。祖母の雛は十二年前江戸へ行く時に他に預けて置いたので、それをこの節句には飾ったから古い大きな内裏様が一対増したのを嬉しく珍しく思った。私は江戸以来男ながら小さな雛を持っていたのを飾ったが、弟の大之丞が自分にも欲しいなどというのを、私は手を触らせないようにするので、よく喧嘩をした。
 藩地の城下の地面は砂地で、植物に不適当であって、殊に桜の如きは育ちにくいので、城下では一本の桜も珍重する。花見といえば、城下を十町ほど離れた所に江戸山というのがあって、そこに五、六本の桜があるのを大騒ぎで見に行くのである。私もそこへ花見に行った。そこには山内神社といって、享保年間に私の藩で御家騒動のあった時、忠義のために割腹した者を、三代前の文武を奨励した君侯の時、特に神として祭られた、その社がある。花見はこの社の参詣をかねていたものである。
 社のついでにいうが、私の家の持主の味酒神社は大山祇の神を祭ったもので、久しい以前から唯一神道でいて、社は皆檜皮葺ひわだぶき、神官も大宮司と称して位も持っており、その下にも神官が数々居て、いずれも一家を構えて住んでいた。私はよくこの大宮司の内へも遊びに行った。そこの子供に私と同年輩位のがあって、武知先生へも一緒に行く仲間であった。読書は私より遥に劣っていた。神官の家であるから、彼らは特に弓の稽古をしていて、社の構内にあーちが設けてあった。私もここで射てみたが、弓もやはり拙かった。しかし撃剣よりは興味があるので、父にせがんで弓矢を買ってくれといったが、父は、弓など射るよりしっかり撃剣をせよと叱った。私は読書の方では叱られなかったが、武芸の方では、よく不勉強だといって叱られた。
 ある日大宮司の内で遊んでいた時、私のそばにそこの長男が居た。私がちょっと右へ顔をふり向けると、耳の穴が非常に痛かった。長男が私の耳へ小さな藁しべをあてがっていたのである。それから暫く耳が痛んで仕方がなかったが、七十四歳の今日でも、耳の掃除をする折、ある部分に触れると多少の痛みを感ずるのである。
 その頃彼らは私に向って、『今こそお前はおとなしくしているが、今に屋敷を持って、他の士族仲間の子弟と遊び出したら、私達は顧みもしなくなるだろう』といっていた。大宮司は従五位上肥後守といっていたが、藩の士に対しては卑下していた。私はたまたま家主の子であり藩地へ来てはじめての友達であったので唯一の友としていた。しかしなるほど他の藩士の子弟と交るようになってからは、疎遠になってしまった。
 この大宮司へは国学者などがよく来たもので、ある時長く逗留して何か調べ物をしている人があった。大宮司の子等があれは国学の先生で三輪田綱一郎みわだつないちろうという人だと私に話したが、それが後年京都で足利の木像の首を切って晒し物にした浪士の筆頭となったのである。そしてその妻は今の三輪田女学校長の真佐子である。この綱一郎は松山城下を少し離れた久米くめ村の日尾八幡ひおはちまんの神官の子であった。
 五月になると、江戸で初幟をした折の、長い幟と四角なのとを立てた。七歳以上になると立てぬもの故、次々と弟に譲ったので、弟の初幟といっては、別に買わなかった。この正月継母が更に男子を生んだ。それは彦之助と名づけた。
 段々と暑くなった。私も学問所や武場の友達が殖えたので、それらの人とよく遊んだ。その頃子供の遊びとしては城下の外の小さな川へ鮒や鯉を釣りに行くことで、少し荒っぽい方では泥鰌どじょうをすくう。私はあまり殺生を好まなかったが、年上の者等に連れられて行くこともあった。
 あるいはわらび取り、あるいは茸狩きのこがりに、城下近い山へ行くこともあった。山の上で弁当を食うことは宜かったが、茨にかき裂かれなどして茸など取ることは、私には唯面倒な事としか思えなかった。そんなことをするより、内でまだ読まない本をそれからそれへと読んで行く方が面白かった。
 そうしているうちに、或る日私が外から帰って来ると、継母や祖母が憂に沈んでいる。不思議なことと思ったが、父が京都の御留守居をいい付かった故と知れた。
 去年不首尾で帰ってから一年たったので、元来父は藩では才力のあった方ゆえ、長く休ませて置くでもないということになり、それにしても、父は頑固な方ゆえ、京都あたりの留守居でもさせたら、少しは角が取れるだろうとの考えから、こういう役をいい付かった様子である。
 京都の留守居といえば、禄高も増し、よい地位であり、首尾直りの上からは目出度めでたいのであるが、家族等はとかく国を離れることを厭がり、江戸に居てさえ帰りたい帰りたいといっていたほどであるから、今度の京上りも、家族等のためには憂であったのである。私も何だかやや馴染んだこの藩地を離れるのが厭なようであり、親友と別れることも残惜しかった。
 親類等が遣って来ては、我々家族を慰め、長いことではあるまい、そのうちまた藩地へ帰ることになろう、と慰めた。父は別に嬉しいとも悲しいともいわぬ性分であったから、唯黙って京都行きの準備をした。唯、私の文武の修行を怠らせるのを残念がって、長くなるようなら父の実家へ私を預けて修行させることにしよう、といっていた。
 八月いよいよ三津から藩の船に乗って、京都をさして上ることになった。三津までは親類も送って来た。別を惜んで落涙する者もあった。この海路は非常に風が悪かった。追手続きなれば三昼夜で大阪に這入れるが、まず普通は七日かかる。それが、この時の航海は風の都合が悪くて、あちこちの港に泊り、その度入浴したり、米の買足しをしたりして、十九日目にやっと大阪に入ることを得た。父は位地がよくなったので、若党を二人、仲間を一人、下女を二人召連れていた。
 大阪に着して、例の中ノ島の屋敷に一両日滞留した。別に見物はしなかった。この屋敷の留守居の下役に安西あざいという者があった。その家の子が私と同年輩であるから、遊んでいた。松の枝の切ってあったのを投合っていたところが、私の投げたのが彼の額にあたって、傷がついて血が出た。私も心配して帰って告げると、父は相済まぬことをしたといって私を叱り、直ちに安西へ自ら行って詫びをした。父は安西より地位が高いのであるから、先方でも恐縮して挨拶に来た。
 大阪着の晩、私は錦画を一、二枚買って来たら、父が『こんな贅沢な物を買ってはならぬ』といって叱った。留守居という役は、他の藩々の留守居と交際をせねばならぬ、そしてその交際の場所は京都では祇園町であるので、家禄の増高の外に交際費も貰うのであるが、それでもこの役は結局いくらか借財が出来ると覚悟せねばならなかった。父がこの錦画のために叱ったのも、よほど用心して節倹せねばならぬと思っていたからであったろう。京都に入って後も、贅沢な玩具などを買うことは出来なかった。
 私は父に叱られる事が何より怖かった。一度叱られるといつまでもそれを守らねばならぬと思っていた。尤も度々は叱られなかった、叱られた事は今も歴々と記憶している。
 一つ、父の命を守り過ぎてかえって後悔している事がある。それは藩地に居た時のことで、友達に誘われ、城下の外の池へ行って、水をあびていた。そのうち友達が泳ぎ出したので、私も泳ぎたくなって、両手を突いて、足をバチャバチャさせていた。さて帰って来ると、頭の濡れているのを見つけられて、これはどうしたのかと問われた。私は偽りをいうことは出来ぬ性分なので、ありのままにいうと、祖母は、池には人取り池というのがあるといって戒め、父もこの事を聞くや、危険な時に子供同士では助け合うことは出来ぬからといって叱った。その後また友達に誘われてかの池へ行ったが、叱られるが怖さに水に這入るのを躊躇していると、卑怯だ卑怯だと罵られたのでまた這入った。これもわかって今度は父に火のつくように叱られた。それから全く池や川に這入ることはせず、そのため一生泳ぎを知らず、ちょっと艀に乗っても不安な思いをするのである。父の命とはいえこれだけは少し守り過ぎたと思っている。藩には伊東という游泳を教える家があったが、なぜかこれには徒士以下の者が多く入門していた。この伊東の游泳術は神伝流と称して二、三代前の祐根という人が開いたのだが、その後他の藩へも広まって、今も東京の或る水泳場ではこの神伝流を教えている。
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 さて京都の屋敷は、高倉通り六角下ル和久屋町わくやちょうという所で、今まで居た岡本という京都留守居と交代して、ここに落着いた。
 留守居は各藩共に、主として禁裡御所へ対する藩の勤を落度の無いように互に相談し合っていたものである。大名は、参勤交代等の際にも、禁裡御所へ立寄ることは出来ず、稀に、将軍の代理として上京することがあるだけである。京都に対して何かすると、幕府から嫌疑を受けるという恐れもあった。ただ藩主が侍従とか少将とかになった時には、朝廷から口宣を賜わるのでおおらに献上物等もした。その他臨時に献上物をすることもあった。こういう事は、古例を守り礼儀作法を知らねば出来ず、間違があると公家方から談判をされる。そうなると、藩主が幕府に対して不首尾になる。こういう次第で、ウカと近づいてはいかず、近づくにはむつかしい作法がいるというので、藩々からはとかく京都に対しては敬遠主義を取っていた。京都の留守居は、特にこの朝廷に対する藩の関係を注意して勤めなければならなかった。その言合せのために、祇園町に会飲する習わしになっていた。こんなイキな事は父は至って不得手であるが、この役にされた訳は呑込んでいたので、交際はつとめて遣るという決心をしていた。
 京都の邸は小さくて、御殿といって君侯の居られる所も出来ていたが、ここへ来られるのはまず君侯一代に一度もあるかないかという位であるので、この御殿へ留守居が住まっていた。立派な所が我が家になったのである。それから、父がちょっと出るにも、若党二人と草履取を連れる。屋敷を出る時には、皆下座をして『お出まし』という、子供心にこれらの事は嬉しかった。
 節倹をせねばならぬというので、家族は物見遊山に出なかった。それに大之丞の次の弟、彦之助が京に上ってから胎毒を発し、頭が瘡蓋かさぶただらけでお釈迦様のようになり、膿が流れ、その介抱に皆力を尽していた。そのうち皮癬が一家に伝播して、私と曾祖母との外は皆これに罹った。医者は彦之助の胎毒が変じて伝染したのだといっていた、薬風呂をたてて皆が入った。そのうち私もいくらか伝染した。この騒ぎでいよいよ遊山などには出られなかった。
 京都の藩邸へは出入りの人々がある。そのおもな者には、徳大寺殿の家来の滋賀右馬大允というのがある。松山藩はこの徳大寺家を経て朝廷への用を多く弁じていたものであるから、藩からこの滋賀へは贈物などもして機嫌を取っていた。そこでかれからも親しく交際を求め、私の内へよく来た。茶道の千家は利休以来裏表があるが、この裏千家も私方へ出入をした。この千家の玄々斎宗室と呼ぶのが藩士の名義になって二百石を受け、側医者の格で居た。その外銀主と称える平田、呉服商の吉沢、三宅、などいうのが出入した。銀主というのは、大阪以外この京都でも藩主が借金をした、その債主で、今では金も無くなりただ昔の名義で扶持を貰っている者である。呉服商は、朝廷へ参内する時の官服などを命ずる者である。こういう出入の者等には、留守居としては毎月一回はちょっとした饗応をせねばならなかった。そのうち滋賀や千家などは稀に祇園町へも連れて行かねばならなかったらしい。
 父は京都に着くと、まず他藩の留守居に対して、ヒロメの宴を祇園町に張った。その翌日、祇園町から菓子を贈って来たが、その見事なことは、実に家族等の目を驚かした。
 父は役柄とはいえ、絶えず面白く遊びうまい物を食うので、家族にも何か面白い遊びをさせようと思い、出入の者も勧めるので、遂に大英断で、四条の大芝居を見せるということになった。継母は彦之助の胎毒がまだ治らぬので留守をし、私と祖母二人と出入商人で出かけた。
 四条では南座が始まっていた。これが江戸の猿若以来二度目に見る大芝居である。その頃の京都の芝居は、幕数が非常に多かった。七ツ時(午前四時)に提灯つけて出かけて行き、桟敷へ行くと、二間買切で取ってあった。そのうち鍋に餅を入れた雑炊を持って来る。それが朝飯である。
 やがて幕が開くと、忠臣蔵で、序から九段目までした。二番目が八犬伝の赤岩一角あかいわいっかくの猫退治で二幕、それから桂川連理柵かつらがわれんりのしがらみの帯屋から桂川の心中までをった。打出してから帰ると、もう夜半であった。座頭は三升みます大五郎(四代)という京都根生ねおいの役者で、これが由良之助をした。あまり上手ではないとの評判であった。人気のあったのは嵐※(「琴−今」、第4水準2-80-64)りかく(初代)で、これは若狭助、勘平、桂川ではお半を勤めた。嵐璃寛りかん(二代)は判官、平右衛門、桂川の長右衛門を勤めた。片岡市蔵(二代)は師直、本蔵を勤めた。この市蔵はその頃目が殆ど見えなくなっていたそうだが、そういう様子は少しも見せなかった。女形では尾上菊次郎(初代)が顔世とお軽と長右衛門の女房お絹を勤めた。八犬伝の役割は覚えていない。
 忠臣蔵は私もほぼ筋を知っており、八犬伝はその頃読本を見ていたから面白く見た。璃※(「琴−今」、第4水準2-80-64)の若狭之助が師直に対し切歯する所は余り仰山らしいと思った。この頃璃※(「琴−今」、第4水準2-80-64)は大分年を取っていて、お半になって花道に出た時、頬や衿筋に皺が見えた。璃寛の判官は太り過ぎていたので、見慣れた錦画の判官とは違っていて、品格が無いと思った、しかし平右衛門になってはその太ってるのも似合わしかった。長右衛門になるとまた色男としては太り過ぎていて変であった。かつて猿若で平山武者所をやった浅尾奥山が帯屋の長吉をした。大きな体で前髪姿のおかし味は興があった。赤岩一角については、猫の正体を現わした際に指さきがギラギラ光っていたことと、それから源八を欺いて殺そうとする時、寝床の前に、躓かせるためにいろいろの物を並べる赤岩の門弟達の挙動とが目に残っているばかりである。
 私は読本や草双紙を知っているので、それと芝居と違うのが気になった。昼飯は茶屋へ行って、そこで普通の膳が出て食べた、厚焼の玉子のうまかった事を今も忘れぬ。夕飯はちょっとしたものであった。食事は江戸に比してすべて粗末であったが、菓子は立派に高杯たかつきに沢山盛られてあった。出入の商人などは時々私の家族などに面白可笑しく話をしかけ、役者の批評などもした。祖母二人はさほど芝居の趣味をわからぬので、ただ役者の顔を珍らしがって眺めていた位のことであった。
 父が京都の留守居を勤めたのは八ヶ月で、翌年の夏藩地へ帰ったので、家族が京都で芝居を見たというのは唯この一度であった。しかし私は今は新京極というその頃の誓願寺や、錦小路天神、たこ薬師、道場、祇園の御旅には、いろいろの興行物があり、小芝居もしていたので、それを時々覗いた。これは若党などに伴われて行ったのである。若党は藩地より連れて来た外、今一人京都で抱えた。それは前の留守居に勤めていた者である。この三人の若党と、一人の仲間と、いずれも浄瑠璃(即ち義太夫)や芝居が好きであったので、よく伴われて行った。落語の寄席にも、度々行った。私が落語を聞馴れたのは、この京都の机を前に置いて木を以て叩く落語によってであった。就中、女義太夫を若党どもが聞くので、私も連れられて行って、始めてここに義太夫を知った。
 なぜ若党どもが容易たやすくこういう所へ行けるかというに、その頃京都では、二本さした者は無銭で這入ることが出来たのである。京都には二本ざしが少なかったので、興行者の方でもこの特許をさせた。しかし二本ざしも蒲団や茶の代だけは払った。若党はいつも、『若旦那のお供』といって、私をダシに使って行った。そのうち父がこの事について私に異見をして、藩地に居れば文武の稽古をすべき身で、そんな所へばかり行っていてはいけない、と戒めた。
 こう戒めた父が、役目とはいえ祇園町へ頻りに行くのであるから、とかく家庭が総て上調子であった。家来のうち一人は藩地に居る間に聊か義太夫の稽古をしていた。京都抱えの若党も少しはやるので、父の留守には、低声に義太夫をやる。私も好んでそこへ行って、聞慣れ、義太夫本も読んで、面白くなって、それを写したのもある。忠臣蔵四段目、二度目の清書、妹背山三段目、杉酒屋、安達原三段目などは、私は写しもし、またいくらか暗記もした。就中、忠臣蔵の八段目の道行の如きは、口調もよく、短いので、今でもやれる、その他も、一段全部は覚束ないが、一部分々々は随分今でも記憶している。十二歳から十三歳へかけての記憶が七十四歳の今日も存しているのである。
 京都に住んだその年の末に、徳川家茂公に将軍宣下があったため、酒井雅楽頭うたのかみが代理として御礼に上京することになったが、酒井の屋敷は手狭なので、堂上方はじめの訪問を受けるには不便とあって、我藩の屋敷を借りたいと申込まれ、承知して私共はかみノ町の或る町家を借りて一時住むことになった。この際屋敷の御殿も一時の建増をした。
 町家住居をすると、夜々蕎麦屋が、『うどんエそばエハウ』といって売りに来た。温かく煮た蕎麦へ山葵がかけてあるのを、寒い頃なので家来がまず食べ始めてうまいうまいといい、やがて家族も食べて、毎晩上下こもごもこれを呼んで食べた。この位の事は、祇園通いをする父がもう戒め得なかった。
 そのうち新年になった。春駒というものが来る。これは馬の頭に鈴をつけ、それに手綱をつけて打振り打振り三味線で囃し、それが済むと、ちょっとした芝居一くさりをする、私の所ではこの春駒によく銭をやるので、度々来て芸をした。この春駒の中で、金三郎といって、美男であり芸も多少勝れている者があった。下女などは『金さん金さん』といって、後を追うてよそで芸をするのまで見た。
 後にこの金三郎が、尾上多見蔵に認められて、本当の役者になり、やがて名代になって市川市十郎と名乗った。その後東京の春木座が出来した時に、市川右団次の一座に這入って来た。私もなつかしくて見に行ったが、生憎あいにくその日市十郎は病気で欠勤した。それから更に烏兎うと匆々と過ぎて大正三年になって、市川眼玉という老優が東京へ来た。それが昔の市十郎だと聞いたので、行って見た。彼は石川五右衛門をやった。私はこうして、昔の『金さん』と相対した。五右衛門の友市と久吉の猿松の出あいどころではない、即ち五十年目の奇遇であったが、もとより先方は何も知らず、ただ私一人で胸に京都の昔を思い浮べただけである。
 新年にはまたチョロという者が来た。張子の大きな顔の、腰の下まであるのをスポリとかぶり、左右の穴から手を出してササラを持っている。町の子供はこれを見ると『チョロよチョロよ』と囃し立てる。するとチョロはその子供らを殊更に追いまわした。
 酒井雅楽頭は、新年になって上京した、私はその行列を三条通りで見た、赤坂奴が大鳥毛の槍を振り立て拍子を取って手渡ししつつ練って行った。江戸に居た時大名の行列は度々見たけれども、こんな晴れの行列は始めてであった。
 姫路の藩邸の留守居の下役と、私の藩の留守居の下役とは、親類であったので、かの貸した屋敷へも行って見せてもらったが、大提灯や幕や金屏風で飾立てて、そこへ堂上方はじめ頻繁に訪問したそうで、これが自分どもの住んでいた所かと怪しまれた。雅楽頭の引払われてから、その居間を見せてもらったが、そこに紫色をした蕗の薹が一輪ざしに活けてあったことを覚えている。
 間もなく建増も取払われ、私の藩へ引渡されて、また私どもの住居になった。ところがその荷物を運んでる最中に、家来が『先ほど松山から御用状が参りました』といって差出す。父が開いて見ると、『御留守居御免で、松山へ帰足、御目付帰役仰付けらる』、との辞令である。家内一同驚きかつ喜んだ。
 目付というのは藩の枢要の地位で、上に家老を戴いて、すべての政治に関する役である。これは既に江戸で勤めていた故、『帰役』といって、元の座席へ帰って勤めることである。
 こうなったが、代りの留守居が来るまで、暫く在職していねばならぬ。その間に伊勢参宮をした。京都の留守居は、年に一回藩主の代理として参宮をすることになっていたのである。その土産に鹿の玩具や鹿の巻筆などを貰った。
 その頃花時で、私の庭前の大きな桜も見事に咲いたので、或る日内で花見をすることになり、滋賀や千家や出入の商人が来て盛んな宴を張った。皆松山帰りの喜びも述べた。この日は芸子なども来、夜更くるまで篝などをたいて大変に陽気であった。
 これもその頃であったが、円山の何阿弥という茶屋で踊のさらえがあるから来いとの案内が来た。その日は父もそこに行っているであろうから、私にも行くなら行って来いと、祖母がいったので、下役の三好という家の子供と若党も連れて一緒に行った。茶屋へ行くと、もう浚えは済んでおり、父も居ないので、失望しての帰り途、父は自分の馴染の祇園の茶屋鶴屋というのに居るであろうと思って、そこへ寄った。この鶴屋は松山藩の馴染の茶屋になっていて、藩の者はよくここに会し、ただ大宴会となると一力でやることになっていた。父はこの鶴屋にも居なかった。私はいよいよ失望して、悄然と帰った。私がどうしてこの時鶴屋へ父を尋ねて行ったというに、かつてここへ伴われて大変に面白い目を見たことがあるので、またあのような事があると今日の失望が償われると思ったからであった。
 その面白い目を見たというのは、出入商人が父を促がして清水の花見に行った時のことで、私も附いて行った。ある茶店で弁当を開いたが、商人らはそれだけで満足せず、父をせり立てるので、父はやむをえず右の鶴屋へ一行を案内した。座敷へ這入ると、赤前垂の仲居が父に『小縫さんを呼びましょうか』と囁いた。『それに及ばぬ』と父は答えて、外の芸子を呼び舞子も呼んだ。私はこの時『小縫』という名を始めて聞いたが、これは父の馴染の芸子であった。留守居役は各藩共馴染の芸子をたねばならぬのであるが、今私が附いているので、家庭の都合上やむなく、外の芸子で間に合わせたものと見える。私はこの時始めて芸子や舞子を見た。どうも祇園町というは面白い所だと思った。
 京都住居は僅か八ヶ月であったが、私はこの間に祇園町を知り、四条の芝居を知り、小芝居や寄席もしばしば行き、義太夫は暗記するまでに至って、私が後日こういう方面に趣味を辿ることが出来たのは、この京都住居がしおりとなったのである。
 いよいよ京都を去るという前夜、ちょっとした別れの宴を内で開き、滋賀や千家等を招き、席の周旋には『山猫』という者が来た。山猫というのは、祇園町のでなく山の手の方の芸子を呼ぶ称である。誰かが『御留守居さんの出立に、山猫はちと吝い』といった。千家は頻りに祇園町行きを迫って『明朝間に合わせますからちょっと行きましょう』などといったが、父は応じなかった。
 帰藩については、元来なら行列を立てて伏見まで下るべきであるが、節倹主義から、高瀬舟に家族も荷物ものせて下ることにした。あまり見苦しいから止せという人もあったが、父は平気で実行した。この頃高瀬川の上流は田へ水を引くために水が流れていなかったので、特別に金を出して堰を切ってもらい、三条あたりから舟を出してもらった。
 これに乗って段々と行くと、少し先きは砂利であるのが、舟の行くに従って堰を切って水になる工合が甚だ奇であった。そのうち普通の川になってる所へ進んだ。そうして伏見に着いた。見送りの人に杯をあげて別れを告げ、また三十石の客になった。今度は昼船なので、まさか女の小便は出来ぬので、枚方で船を着けて用をすまし、日暮に大阪に着いて、屋敷に上り、一両日逗留した。かつて松の枝を投げて怪我をさせた安西の子供へ、京都土産の玩具をやった。それから帰りの海路は追手がよく四、五日で三津に着した。
 この後維新まで私どもは藩地生活をしたのである。
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 いよいよ藩地の松山へ帰ったが、今回は一昨年江戸から帰った時と違い、父も上首尾で、お目付という権勢のある役となっていたのであるから、借家などはせないで、既に一の邸を賜わり、それを親類の者が掃除などして待受けていた。そこへ帰着した日より住まったのである。それは松山城の北で、傘屋町という所にあった。私も今度は自分の邸というものに初めて住んだのであるから、何だか嬉しい心持がした。一体、城下で士族の邸というと、江戸に住んでいた折のお小屋などに比べれば頗る広い、まず十四畳敷も二間あり、それに準じて居間部屋台所等もカナリ広い。その他門長屋には家来なども住ませる事になっていた。尤も京都に居た頃には藩邸の御殿を仮住居としていたので、それに比すれば規模も小さく※(「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76)そまつではあれど、これが自分の邸だと思うと何だか嬉しい。しかしこの邸は士族屋敷の中では旧い建物で、畳等も汚くなっていたから、祖母や母はこんな汚い所へ住まねばならぬかといって眉を顰めていた。
 その内に、段々と人が来ての話に、この邸は『松前引まさきびケ』の邸であろうという事であった。この『松前引ケ』という事について少しく説明すると、元来この松山城は、もと海岸の松前という所に在って、徳川の初年には加藤左馬助嘉明が住んでいたが、規模が小さいので、この松山へ城替えをした。その時、松前に在った士族邸を、松山へ引いて来て士族を住まわせたのであるが、その後、加藤家に代ったのが蒲生家で、蒲生家に代ったのが松平家(今の久松家)即ち私の旧藩主である。それ故松平家以後は士族屋敷も新築するものが多くなり、寛永から二百年余も経った安政となっては、松前にあった士族邸の存しているものは少なかった。稀にはそれが現存していて、私の父に賜わった邸は、右の『松前引ケ』のものでもあろうかといわれた。それだけ旧いものであった事がわかる。
 この松前からの城移しの事について、ついでながらいい添えて置く事がある。それは松前の風習として漁夫の妻たるものは多く城下その他へ魚を売りに来るが、『ごろうびつ』という桶の中に白魚という魚を入れて、それを頭上に頂いて、『白魚しらいおかエー、白魚かエー、』と言って売り歩く。それをオタタと呼んでいた。このごろうびつという物の起りは、加藤家で城移しをする時、士民共にその手伝いをしたが、松前の漁夫の妻は大きな桶に砂利を入れて運んで城移しの御用を勤めた。その御用櫃といったのを後に訛ってこう言ったものだと伝えられている。これは藩地でもこの地に限る風習で、かの大原女が柴を頂いているように、魚を入れた桶を頂いている姿といい、またその売声といい、一種可笑おかしなものである。
 この私の邸は長く住まわないで、その年末には城山の麓の堀の内という、即ち第三の郭中へ更に邸を賜わった。これは父の実家たる菱田というが住んでいたが、この際外へ移ったので、その跡をそのまま賜わったのである。これもかなり旧い邸ではあったが、傘屋町のものに比すれば、聊か好いので、家族等も少々安んじた。この邸は南堀に沿うた土手の下で、土手の上には並松が植っているし、裏面にははぜの木が植っていた。紅葉する頃になると坐っていてそれを眺める事が出来た。私が漢詩の方で今も南塘と号しているのは、この南の土手の陰に住んでいたからである。
 かく藩地に住む事になったので、私も久しく京都に住んで廃していた文武の修行を再び継続せねばならぬ事となった。殊に読書は私も得意としていたのであるが、一時京都の空気に触れて、芝居や義太夫、乃至落語等に浮かれていた故、藩地へ帰り多くの朋友と出会って見ると、聊かおくれている気がする。そこで再びそれに負けまいという気が起り、いよいよ漢籍の素読を勉強する事になったので、その年から翌年へかけて素読を全く了って五等を貰った。それからは助読といって先生を助け、未だ五等にならぬ輩に素読を授けてやるのである。何だか一つの位を得たような気がして、私も嬉しかった。而してかように先生の助けをする者は、同年輩の者にも数多あったが、多くは読方を忘れて先生から叱られたり、訂正されたりした。私にはそういった失態はなかった。素読を受ける生徒の方でも、なるたけよく読める助読の人を選んで出る風であったから、私はその選ばれる主な目的となっていた。これも少しく心の誇りとしていた。
 前にもいった武知先生の塾へも相変らず手習に行ったが、傍ら蒙求とか日本外史とかいうものを自ら読んでは、分らぬ所を先生にただす事もした。読書力にかけてはこの塾でも私が威張っていた。こんな事で暫く漢学の方を修行したが、武芸の方となると相変らずまずい。それでも厭々ながら橋本の稽古場へ毎日通って、稽古を励んでいたから、藩地の武場では段式といったその階級も追々進み、最初『順逆』から『霊剣格』『剣霊』という辺りへも行った。これらの段式に応じて許さるる型がある。その型だけは、先生の注目を受けて、まず優等という方であった。けれども実地の撃剣が拙かったから、武芸の側では朋友に対しても自然侮られるので、いよいよそれを厭うようになった。
 私の今の母というは、前にもいった通り継母で、実母は私が三歳の時に没した。実母の里を交野といって、そこには私からいうと祖母と叔父とその妻子がいた。叔父は砲術に長けていたが、武人であったから日々の勤というはなくて、至って閑であった。叔父はこの頃武人のよくする猪打や魚取りをする他に貸本を借りて読んでいた。貸本屋は松山の城下にも二軒あって、蔵書はかなり豊富であった。私も叔父の許へ行けばそれを読む事が出来たので、元来読書好きの私は、この貸本を手当り次第読む事になった。けれども当時多くの人が見た写し本の諸藩のお家騒動とか仇討とかいうものは、余りに文章が拙いので、少年ながらも読む気がしない。もっぱら読んだ物は馬琴の著作であった。八犬伝などはこれまで草双紙の方で見ていたが、今度いよいよ読本よみほんの方で見る事が出来たので直に最終まで読み通した。その他『弓張月』『朝夷巡島記あさいなしまめぐりのき』『侠客伝』『美少年録』等を初め、五、六冊読切の馬琴物は大概読んでしまった。
 これらを読むと共に、他の作者の読本は面白くないので、京伝や種彦の物を少しばかり読んで他は打捨って置いた。作者は忘れたが『神稲俊傑水滸伝』だけは聊か物足らず思いながらも読みおわった。それから洒落本とか人情本とかいう物も見たが、これらには未だ充分の趣味を有たず、また叔父も『そんなものを見るじゃない。』といって少しく戒められる風があった。その後いくらか年を取ってからは、随分そういう物も読んで、春水は勿論、その弟子の金水あたりの物が好いと思った。そこで田舎に居ながら、江戸の粋人の生活も聊か知る事が出来た。今日鳴雪が時々昔の江戸の粋人の事などをいうも、つまりその頃読んだ書物の耳学問で、多くは聞いた風に過ぎないのである。今一つ交野で読んだものに一九の『膝栗毛』等がある。これもなかなか面白い物と思った。
 かように貸本の味が分ると共に肝心の漢学の修行を怠る風が見えたので、遂には父が怒って貸本ばかり見るのならば、交野へはやらぬといわれ、父の眼をぬすんで行くという位になった。
 それからこれは祖母の里で、宇佐美というがあった。この宇佐美の祖母の父なる人は当時もう死んでいたが、この人は漢学者で、漢詩を多く作り、また浄瑠璃(義太夫)が好きで、自分で浄瑠璃の丸本を書いたのも二、三種あった。それほど浄瑠璃には詳しかったから、凡ての浄瑠璃本は殆ど皆宇佐美の家にあった。尤もその一半はその家から井上という家へ養子に行った者が借りて江戸まで持って行って、そして前にいった愛宕下の上屋敷の火災の時に焼いてしまったが、その一半はまだここに残っていたので、それを読む事が出来た。浄瑠璃は既に西京で味を覚えていたし、この丸本は一段物と違い、筋も充分分る所から、いよいよ興味をもって読初めた。これも今日私が浄瑠璃なり、芝居なりに親しむ原因となっている。祖母の父の自作の丸本をも私は見たいと思ったが、それも右の井上が借りて行って焼いてしまった。宇佐美家に存していたものは、祖母の甥に当る者が他家の写し本から写し取った一冊だけであったが、私はそれを見たのである。外題げだいを『出世奴孫子軍配しゅっせのやっこそんしのぐんばい』といって秀吉を主人公として作ったものであった。これは今もナカナカよく出来ていたように思う。大阪ではそれを芝居にした事もあると聞いた。
 かように、私がややともすると道楽的読書に傾き、このままで行ったら当時の武士仲間でよわいせられぬ者となるのであったが、ここに一つ真面目に漢学を勉強する機会を得る事が出来た。
 それは漢学の明教館において素読の助けの外、漢籍の意義を講明することも、追々上達して味も生ずるようになったからだ。当時諸外国との関係上、いよいよ横浜を開港場として外国人が住むことになり、幕府では仮条約を結ぶというので、攘夷党は益々奮激して横浜を襲撃せんと企つる者も出来た。私の藩はかつてより横浜の入口神奈川の警衛に任じていて、一の砲台をも築くようになっていたから、それらに対する藩の用務も頻繁になり、私の父は要路に当っていたので度々江戸へ勤番して、神奈川表の警衛にも当っていた。それ故、藩地の宅では、多く父が留守なので、父は私が文武の修行を怠る事を恐れて、親類の水野というに私の漢学の世話を頼んで行った。水野は早くから明教館に出ていて、当時七等を貰っていたのであるが、漢学は余り出来ていなかった。この水野の世話になるという事は、少年ながらも満足には思わなかったが、父の命令でもあり、また水野も誘導するので、時々その家へ行って小学の講義を聴いた。けれども往々不満な解釈を与えるので、私は内心おかしくも思った。
 しかるに或る年、前にもいった君公の御試業があるので、われわれ年輩の漢学生は奮って出講する事となった。尤もその時は君公が江戸に居られたので、家老が代理となって行うのであったが、とにかく漢学生に取っては晴れの場所であった。水野が私に向って、お前ほどに漢学が出来れば是非とも御試業に出たが好いと言ったが、私は一体内気な方なので、馴れた人に対しては随分知っているだけの学問の話もするが、君公代理の前に出て、経書の講釈をするとなると、何だか怖いような気がして容易に出る気にはなれなかった。尤も当時私は既に十六歳に達していた。水野は飽くまでも勧めて止まず、その講釈の仕方までも悉皆口授してくれて、是非とも出ろという事であった。父が藩地にいたら、叱りつけても出すのであろうが、居ないのを幸にして、私はまだ躊躇していたけれども、いよいよその日となる頃には、遂に私も決心がついて出ようと思うようになった。
 そこでその日は明教館の広い講堂で、代理の家老を初め役々が列座している、一面には学校の先生達、一面には明教館の寄宿生及びその他の学生が居並んでいる、その中央へ出て行って一人ずつ講義するのである。この講義をするものは一方に控えていて順々に立って行くのであるが、段々と順番が進んで、私の座席近くまで出て行って、早や私の番が来そうになったので、胸は悸々どきどきするし必死の場合となった。その中に名を呼ばれたので、モウ破れかぶれと中央へ進み出て、見台に対し、いよいよ講義を初めた。それは論語の仲弓為季氏宰、問政、子曰、先有司、赦小過、挙賢才、云々の章であったが、私は自宅で度々練習して行ったから、そのままサラサラとやってしまった。存外渋滞もせずに終って、座へ退いて他の処へ行くと、私の講義を聴いていた水野が、『立派に出来た、好かった。』と喜び顔をした。それから耳をそばだてると彼方でも此方でも『助さんの講義はよく出来た、驚いた。』というような囁きが聞える。それほどの成績とは自ら知らなかったが、それでは自分もなかなか講義が出来るのだと思って、さて外の者の講義を聴くと、時々いい損なったり行詰ったりして見苦しい態を演ずるのもある。ここに至って自分の漢学が、素読のみに止まらず、進んで講義をする事においても人に負を取らないのであると思うと、それでは一番奮発して勉強しようという気が起り、今まで明教館へ行っても昼間の独看席へは出なかったものがそれからは日々出席し、漢籍も多方面に亘って読むことになった。
 明教館では表講釈と称えて君公初め一般の藩士が聴聞に行く事は前にもいったが、学生はそれに出る事は出来ず、学生のためには一ヶ月に度々輪講とか会読とかがあって、それには寄宿生初め、われわれ外来の学生も出席が出来るのである。私は右の輪講会読等へはまだ憚る気がして出なかったが、五等以上の者ならば誰でも行って、館の蔵書を借覧する事の出来る独看席というが設けてあったので、そこへは日々行って勉強した。
 私は以前からもそうであったが、この頃からいよいよ歴史を読む趣味が加わって歴史物を主として読んだ。宅には父が読むので『歴史綱鑑補』があったから、それは既に読んでいて、父から教えてもらった事もあった。その綱とあるのは朱子の通鑑綱目つがんこうもくで、鑑とあるのは司馬温公の通鑑である。この二書の要領を抜いて、批評を加えたものだから、綱鑑補の名があるのでこれは明の袁了凡えんりょうぼんの著である。このお馴染で通鑑と綱目の二書を知っていたから、まず後者から初める事にした。これには朱子の正篇の外に宋元及明史の綱目もあり、また前篇というもある。それに朱子が春秋にならって書いたという事につき、『書法』『発明』というがあって、褒貶の意のある処をそれぞれ説いてあるから、いよいよ面白く思って、他の書物をもいろいろ読んだが、最もこの綱目を愛読した。温公の通鑑では三国の時魏を正統としてあるを、朱子の綱目では蜀を正統として書き改めている。そこが最も気に入った点で、従って通鑑の方に厭気がさし、数年後まで披けて見ることもせなかった。
 それから、日本の歴史では『大日本史』は従来の歴史に北朝を正統としたのを、南朝が正統として書かれている。これがあたかも綱目の意義と同じであるから、これも好んで読んだ。その後に出た岩垣松苗の『国史略』は随分初心者に読まれた物であるが、私は北朝を正統としてあったから、その書に限り読む事を好まなかった。それよりは同じ位のもので、青山延于のぶゆきの『皇朝史略』の方を好んだ。そこで日本の南北朝時代を、通鑑綱目のような体裁で書いた物があれば好いと思い、その結果遂に自分で書いて見ようと思い立った。尤も明教館の書物といってもさほど材料もないが、とかくそれが書いて見たいので及ぶだけ他書をも渉猟して、後醍醐天皇御即位の年より、後亀山後小松両天皇の和睦せられて、南北朝の合一するまでを書き終えた。しかしそれは誠に疎笨そほん[#「疎笨」はママ]極まるもので、今から考えればよくあんな物を書いたと、当年の子供心を可笑く思うばかりである。
 けれどもそれが今もなお存していたら、今昔の感を叙する種にもなったろうが、ちょうどそれを書き終った頃に、父が江戸から帰って来て、留守中私がそんな事に耽っていたのを見ると機嫌が好くなくて、『まだ手前はそんな事をするよりも、充分経書を勉強せねばならぬのだ。』といって、一日大いに叱った。私は父のいう事といえばよく守ると共に、信ずる事も厚かったから、これは自分の過ちだと思い、沢山の草稿になっている手作の南北朝綱目を、庭の大竈の中へ投込んで一片の煙としてしまった。それからは父のいう如くもっぱら経書の研究をする事になった。
 その頃朋友の中で最も親しかった者は、由井弁三郎、錦織左馬太郎、籾山駿三郎等で、いずれも漢籍を好んだ仲間である。これらの友人どもとは明教館で語り合うのみならず、自宅でも経書の研究会を開く事なぞがあった。私の父はさほど漢学を深くも修めていなかったが祖父なるものは徂徠派の学を究め、旁ら甲州派の軍学も印可を受るまでになっていた。それらの文武の書籍も沢山に遺っていたので、私は本箱を探してそれらの物を見たが、就中、仁斎や徂徠春台の経書の解釈に属する書を読んだ。するとこれまで朱子の註釈した経書とは大いに違い、むしろ朱子の註よりも、私の心に適う点も少なくなかったので、その後由井等と共に研究する時には、これらの古学古義派の説をも持出して、彼らを煙に巻いた事もあった。
 しかし、明教館の先生の前へ出ては、そんな事は一言も吐かなかった。もし一言でも吐こうものなら、お目玉を喰うのみならず、退学を命ぜられるのである。寛政年間、桑名の楽翁が当局中に漢学は程朱の主義に従うべきものと一般に規定せられてから、私の藩などでは殊にそれを遵奉していた。明教館にもそれらの明文を掲げてあるくらいだから、もしも仁斎、徂徠の異端なる説を称うるならば、一日たりともそのままには置かれなかった。
 私は十六歳の時に半元服をした。今日こそ生れた時の産髪うぶがみのままで漸次だんだんと年を取って、それを摘み込み、分け方を当時の風にしただけで、ハイカラがっているけれど別にその上の変化はない。しかるに昔は幼者と成年とは非常の変化で、まず生れ落ちた時の産髪は直ちに剃ってしまい、うしろの方へ『じじっ毛』と言って少しばかりの髪を残して置く、それから少しすると耳の上の所へも少しの髪を貯えて、これを『やっこ』と言う。また頭の頂辺てっぺんへ剃り残したものを『お芥子』と称える。なお少し年が行くと前へも髪を貯えて『前髪まえがみ』と言う。これがまず三、四歳の頃であるが、五歳になれば男子は上下着というをして、小さな大小をも帯び、従って髪の風も違って来る。頭の周囲にも髪を垂らしてそのお芥子にも髷を結うし、また前髪もちょっと結んで後へ曲げる。更に年を取れば今まで垂していた周囲の髪を、小さく結ったままの前髪と共に髷へ結い込んで初めて若衆姿となるのである。私も八、九歳の時からそうしていた。半元服と言うのは前髪のついている額を、剃刀を以って角深く剃り込んで、それと共に今まで前髪を結っていたのを解き放すのである。それを『すみを入れる』ともいった。即ち『梅野由兵衛』の長吉の言葉に、『姉さん私もこの暮に、すみを入れら大人おとな役』というのがそれだ。この角を入れると共に、いよいよもう大人となるので、私の藩では遅くとも十五歳位でこの半元服を行うのであるが、私の家には祖母がいつまでも私を子供のように思い、また父は多く江戸へ旅行していたからツイツイ遅れて、十六歳で初めて角を入れたのであった。
 その頃私のじきの弟大之丞というは、薬丸やくまるという家へ養子に行っていたが、そこへ私が遊びに行った時、弟の養母が窃かに『助さんは半元服じゃが、もう元服をしても好い、何だか馬鹿げて見える。』と言ったのを、今でも記憶している。それほど私は身丈なども比較的大きかったので、半元服も大分遅れていた事が分る。
 ついでだがこの薬丸にも沢山の草双紙を持っていたから、かつて私は江戸で随分見ていた草双紙を、この家で再び読むことが出来た。またこの家は家内が草双紙好きで、常に他家からも借りて読んでいたから、当時の草双紙は大概見てしまった。
 それから少し話があとへ戻るが、私は十五歳の頃、馬術の方でも寒川さんがわというへ入門した。一体、武士の家では弓馬剣槍といってこれだけには通せねばならぬのであれど、誰も必しも悉くを兼ることはせない。まず弓術はその頃歴々の子弟等が主として学ぶもので、われわれ身分の者は主として剣、槍、馬術を修めるのであった。私は身体も弱し、学問の方を好むところから、父が槍だけは強いて修行させず、撃剣のみを修行させたが、馬は後日役柄に依って乗らねばならぬ事があるから、是非とも学ばねばならぬといって、遂に寒川へ入門する事になったのである。しかし、これが少し年齢としては遅れてもいたし、また私の脊丈が年の割にして伸びていたから、馬術の稽古場へ出て見ると、私よりも小さい少年が達者に馬を乗りこなしている、そこへ私は初めて乗るのであるから、何だか恥かしい。殊に最初はおとなしい馬へ乗せ、先輩の人に口を引いて歩かせてもらうのが、私よりも小さい少年がひとりで馬を走らせているに較べて甚だ見苦しく感じた。その内にまず独で乗ることも出来るようになったが、或る時葛岡という馬に乗った時に、急に※(「足へん+鉋のつくり」、第3水準1-92-34)だくを以て駈出した。私は未だ鞍が固まらぬから非常に驚いて今にも落るかと思ったが、やっと免れた。その危なそうなのを見て、周囲の人は随分笑ったようであった。そんな事が時々あるので、撃剣の拙いので気が進まぬように、馬術の方も気が進まず、遂に修行を怠る事になった。
 これで武術は何らの成績もなく経過したが、それと反対に漢学の方は漸次と味も加わり、いよいよ進歩する事になった。前にもいった由井とか錦織とか籾山とかいう朋友と経書の研究をともにする外に、度々郊外の散歩を試みた。そこで城下の周囲にある山川または神社仏閣等はあまねく歩き廻って、殆んど足跡の到らぬ所なきに至った。まず山では城下の北方にある御幸寺みきじ山、これは天狗が居ると言って恐れた所だったが、そんな事は意に介せず、度々山頂まで登った、山頂には大きな岩があって、その上に小さい祠がまつってあった。この岩には貝の殻が着いていた。けだし太古の地変で海面が凸起した遺跡であろう。尤もかかる事も奇怪の一つとし、或る季節に祭典を執行する行者が登る外は、他の者は一切足踏みせぬ事になっていた。それを迷信だといって平気で登るのが当時の漢学生等の自慢とするところであった。
 太山寺たいさんじという山には経の森という魔所があって、人の入らぬ所であったが、われわれはその山頂へも登って見た。尤もこの森に対した時は少し恐かった。この太山寺と共に道後の温泉近くに石手寺いしてじというのがある。これらは千年以上の建物があって、また四国八十八個所の中の霊場である。なお天山というがあって、五つの小さい山があったから、詩人は五岳とも呼んでいた。これは南北朝の頃土居得能二氏が長門の探題北条英時を討取った場所だが、ここらへもよく遊んだものである。
 それから毎年正月には椿参り、柳参りという事がある。椿参りは椿の森という社で、伊予津彦の神を祀った場所で、城下からツイ三十丁ばかりの所にあった。その新年の祭日には参詣の人が少しの切れ目もなく途上に続く位であった。柳参りは城下から二里許りの山中で、祭礼当日にはなかなか人の群集したものである。そこには土地の者が大きな椀に味噌汁を盛り団子を拵えなどして、店を出していたが、ちょっと珍らしいので皆が賞翫した。その途中を少し入り込んだ所に脇が淵というがあって、昔大蛇が棲んでいたといい伝えられていた。随分樹木が茂り、岩石が聳立った下が淵なので、私等もそこへ行くと、身の毛が竪つ思いがした。
 山野を跋渉する時にはいつも弁当を携えて行ったものだが、それは黄粉をまぶした握り飯であった。服装は学校へ行くと同様の袴を穿き、大小を帯びていた。この大小というのは五歳の時、上下着をして以来、外出の時には必ず帯びたものである。尤も子供の時には玩具のような大小であるが、漸次だんだんと本物をさすようになる。一体武士の子は三、四歳より一刀を帯びる、それから大小を帯ぶるようにもなれば、いよいよこの一腰は離されぬものとなって、ちょっとでも門外へ踏出す事があればたとい友達と遊ぶ時にも、この一刀は帯びている。わが家へ人が訪ねて来た時にも、必ず一刀は内玄関まで提げて出るのである。他の家を訪問する時にも、帯びている大小の中、大は座敷の次の間まで持ち込んで、そこへ置き、それから座敷へ通って、先方の家人に挨拶する時でも、小の方は帯びている。よほど打くつろいで話でもする時でなければ、小刀は腰から離す事はない。たとえば人の年忌で法会などをする時は、主客共に上下を着て必ず一刀を帯びている。そこで迎えた法師が経を読み終えて、いよいよ食膳につくという時になると、法師が『御免なさい』といって袈裟を脱いで輪袈裟にえる。そこでわれわれもそれに対して帯びていた小刀を脱して座側へ置き、箸をとるのである。それから法師が再び袈裟を着けて帰る時には、われわれも小刀を帯びて見送るのである。こんな風で聊かでも儀式張った時は、家の中においても小刀は帯びていた。また貴人でも鷹野等に出る時は、君臣共に小刀のみである。これは今でも芝居などで誰も見ている事であろう。
 一体、私ども士族の日常生活といえば、頗る簡単で質素なものであった。まず、食物は邸内にある畑で作った野菜をもって菜となし、外に一年中一度に漬けてある沢庵を用いる。魚類は出入りの魚屋から買うのであるが、それも一ヶ月に三日さんじつといって、朔日十五日廿八日の祝い日に限り、膳に上ったもので、その他は『オタタ』の売りに来る白魚位を買った。食用にする醤油等も手作てづくりであって、麦は邸へ肥取りに来る百姓から代価として持って来る。豆は馬の飼料という名義で馬の有無にかかわらず藩から貰うことが出来る。その麦をり、豆を煮たものへ、塩と水とを加え、大きな『こが』という桶に作り込み、その下へ口をつけて醤油を取る。かすもそのまま飯の菜に充るが、なお糠を混じていて糠味噌と名付け、そのままにも喰ったが多くは味噌汁にした。これはちょっと淡泊なもので、野菜などを実に入れて食べるとなかなか甘かった。また煙草飲みはこの糠味噌汁を食べぬとやにが咽に詰るなどといい慣わしていた。衣服は、当時藩から『御倹約の仰出され』という事が度々あって、その条件には男女共に絹布を着てはならぬ、必ず木棉を着よ、また女のかんざしに金銀を用いてはならぬと言って、真鍮位を用いさせた。尤も婦女子や老人は上着は木棉でも、下着だけは絹物を着ることを許され、なお七十以上になると男女共に柔い物が着られた。その他では医者が常に絹布を纏うことを許されていた。
 かように節約主義を取らしめたのは、当時外国人が来て国内も追々殺伐な風が起り、何時戦争が初まるかも知れぬという用意でもあったが、一方では藩侯も普通の参勤交代等の外に、臨時に特別の出張をも度々せねばならぬ事に成り行いた上に、私の藩では前にもいった如く神奈川の警衛の任に当って、砲台等をも築いていたから、いよいよ藩の費用はかさむばかりで、従って士族等への支給も減少する事になったからである。
 この神奈川の砲台について少しお話をすると、これは万延元年に前年からの工事が落成したもので、かの有名な勝安房守が未だ麟太郎といっていた頃にそれへ頼んで設計してもらったものである。それでこの砲台は当時比較的新らしい形式によっていて、幕府が築いた品川沖の台場よりもこの方が実用に適っているといって、わが藩の者は自慢していた。それだけになかなか費用がかかって、八万両も支出したのであった。当時の八万両は、十五万石の松山藩に取っては巨額のもので、遂にその影響が、士族の禄も『五分渡り』あるいは『人数扶持』ということにもなった。それと同時に『出米』といって百姓にも租税以外の米を出させるし、また町人は『出銀』といって金を出させた。
 なおこれも今日の若い人には知られぬ事であろうが、一体何万石などという大名は、その凡てを収入とするのではない。その土地に出来る総米高の称である。この総米高の十分の六を百姓が取って余の四分を藩主へ収める、即ち『四公六民』であって、幕府を初め凡ての租税法となっていた。そこで十五万石ならばその十分の四、六万石がその収入となるのであった。尤もその外に運上などといって種々の取り立てをする事があった。また藩内の城普請、道普請、川普請等の土木工事も百姓を使役する事になっていた。私の藩の松山などは、米のよく出来る所であったから、それらをいずれも米に引直して取り立てていた。そこで実際は米の総出来高の十分ノ六分以上、殆んど七分位までも年貢米として取ったものである。元来この年貢米はもっぱら国家に対して御軍役その他を勤めるために取っているので、藩主一家の生活は言わばその余りを以て弁ずるはずなのである。それから藩士へ何千石何百石と言って与えるのも、その実はヤハリ呼高の四分を与えるので、禄を貰っているのは藩主の負担した御軍役等を禄高だけその下受負をする訳なのである。して見れば藩主が、国家のために多くの費用を要する事があれば、また士族どもにおいても貰っている禄の中を削減せられるは、義務としてやむをえざる事である。その他、町人百姓等は義務ではなけれど、常に政治の下に太平の恩沢を蒙っている冥加みょうがとして、その太平を保つに必要な費用には、自分等が生計を節約しても、出銀出米の御用を勤めねばならぬのである。
 さて、こんな風で私の藩地等でも日本国内が多事になると共に、藩士の江戸へ勤番することも漸次頻繁になって来た。殊に神奈川警衛については絶えず多数の人が交代せしめられていた。右の砲台の出来上った事については、幕府から賞典があって、藩主に対しては特に少将に進められ、家格等も特別の扱いを受くる事になり、築造に関係した藩士どもには、家老以下一同へ幕府から賜わり物があった。私の父も御時服二重と銀二十枚とを頂戴した。御時服というは大きな紋の付いた綸子りんずの綿入で、大名等へ賜わるは三葵の紋、倍臣には唐花からはなという紋のついたものであった。私も父がそれを持って藩地へ帰って来た時には頗る嬉しかった。かように賜わった服は、本人が着るのみならず、願った上で、嫡子に限りその子にも着用せしむる事が出来るので、後々は私もそれが着られるから、一層嬉しかったのである。
 なおこの神奈川警衛中一つ変事があった。それは私の藩で、一人を数人で窘めることを『たかる』といって、藩士の間にも行われていたが、或る時この警衛の勤番中に新海という者が、常に同輩から憎まれていたから、遂にたかられる事になった。即ち、同列の五人ばかりが、一日新海の室へ酒樽を持込んで、強いて酒宴を開かせ、散々に飲み散らした末そこらあたりの器具をわしたり、棚を落したりなどして乱暴を始めた。かような場合に至っても、大概な人は多勢に不勢で敵わぬから、辛抱するのであるが、この新海というは気力もあり、かつ短気であったから遂に堪え切れず、忽ち行燈あんどんを吹消し、真闇にして置いて、同時に一刀の鞘を払って振廻した。そのために居合せた矢野、馬島、川端の三人は各々多少の手疵てきずを負った。外に竹内宇佐美というが居たが、竹内は早く帰宅し、宇佐美は残っていたが幸に疵を負わず、うまく新海を抱き止めた。その内他の人々も来て燈火を点し、総がかりで遂に荒狂う新海を縛してしまった。
 一体いずれの藩にあっても、士族の私闘という事は厳しく戒めてあったが、殊に私の藩では厳しかった。そして一人が抜刀した時に少しでも傷を負う事があれば、傷を負わせた者も、負わせられた者も、双方共に割腹せねばならぬということになっていた。そこで右の如く新海が抜刀して、三人の者に手傷を負わせたのであるから、四人ながら割腹せねばならぬことになった。新海をたかりに行った三人等は、さぞ後悔した事であったろう。尤も一時は新海を発狂という事にして無事に納めようとした者もあったが、当人の新海は飽くまで正気であると主張するし、また警衛場においての私闘は最もいましめねばならぬというところから、藩でも特に制裁を厳にし、遂はいずれも割腹させられる事になった。
 この時新海はさすがに立派に割腹した。即ちそれを見ていた人の話を私は聞いたが、彼は腹を一文字に切ってから、尖切を咽へ刺して前へね切ろうとしたが、切れなかった。そこで自ら手を以て刃を撫でると、刃が反対になっていたので再び抜き取り刃を前にして更に突立て、咽笛を刎ね切って倒れたという事であった。この際これほどの落つきがあるのは容易な事でない。しかるに余の三人は人にたかって置きながら、中には割腹の場合に臨んでおくれを取り、人の介錯を煩わした者もあったそうである。その中の一人を介錯したのは、当日幸いに傷を免かれた宇佐美という者で、即ち前に述べた私の祖母の里方の甥である。
 そこでこの事が藩地へ聞えた時、私の家でも随分と心配した。そして関係者は割腹した者の外も厳罰を受ける法になっていたので、従って宇佐美も隠居を命ぜられ家禄も百二十石を二十石減少せられ、当時男子がなかったので他より養子をさせられて、やっと百石で家名だけは取止めたのであった。私はこの宇佐美が帰った時その家へ行って見たが、譴責中は月代さかやきや髭を剃ることも出来ぬから、長く伸びた月代で髭も蓬々としていたから、何だか怖く、また衰えた風体をしていたので、気の毒に思った。一時は宇佐美も他の死んだ人々へ対して済まぬから自分も割腹すると云ったのを、他から止められたのだそうな。それから宇佐美の住んでいた邸も召上げられて、城北へ別に悪い邸を賜わる事となった。私もそこへ行って見たが、穢い上に、城山の北の麓のやぐらの石垣下なので、その櫓には士分の罪ある者の吟味中囚えて置く牢獄等もあったからなお以て忌わしい感がした。因て私もそれ以来宇佐美へは自然と足が遠くなった。尤も浄瑠璃の丸本は、ちょうどもう見尽してしまった時であった。
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 これも私の十六歳の時即ち文久二年に、藩主が津藩の藤堂家より養子を貰われ、それが初登城の際より、式部大輔と称せられた。そこで従来の例に依って、その補佐役として『側用達』という役が置かれ、私の父は当藩主の世子の頃その役を勤めた関係もあったから、今度もそれを命ぜらるる事になった。けれども政務の方にも必要なので、ヤハリ目付を本役として側用達は兼勤という事であった。この側用達は役の格式も大分上等に属するもので、即ち中奥筆頭格というに列した。従って、その嫡子たる私においても、それだけの待遇を受ける事になり、まず新年の年賀をする場合にも、今までの大書院ではなくて、中書院という所へ出て、その仲間も皆歴々の嫡子のみである、藩主が江戸へ参勤したり、藩地へ帰任したりするのを送迎する際にも、歴々仲間の出る所へ出られる事になったので、何だか愉快ではあったが、私どもの家は士族としてはさほどよい家柄ではないのに、父のおかげを以てかように私までが歴々の嫡子達と一緒になるのだから、仲間の人々からは何か違った奴が入って来たという風で余り言葉も交わしてくれず、多少そこに軽蔑の眼を以て見られるようなので、その点は不快に感ぜられた。
 この頃、国内は段々と騒がしくなって来て、朝廷からは将軍家茂いえもち公に是非とも上洛せよとの勅命が下り、将軍においても遂に上洛せらるる事になったので、藩の世子もその警衛として江戸から京都へ上った。そこで私の父もその供をして、世子が公武の間に立ちいろいろな勤務をせらるるために、父も一層配慮した事であった。それで聊かの風邪等も押して奔走していた結果、遂に熱病に罹って段々と重態に陥った。この事が藩地の私ども家族の者へも伝わったので、一同大いに心配して私は既に十七歳に成っていたから、単身父の看病に京都へ赴くことになった。
 一体、藩士においては私用の旅行は一切ならぬ事になっていたから、同じ伊予の国内で僅か三里隔る大洲領内へさえ、一歩も踏込む事は出来なかったのである。まして遠方へ旅行するなどは、勤務している者は勿論、その子弟では家族の婦人でも一切出来ぬことであった。が、ここに取のけがある。それは神仏の参詣、即ち伊勢大神宮とか、隣国の讃岐の金比羅とかへの参詣は、特に願って往復幾日かの旅程を定め旅行を許される事があった。その他父母の病気が重態で、看護を要するという場合を限り、その父母の居る地へ旅行する事が出来るので、これは勤務している者を初め、一般家族にも許されていたのである。しかし婦人は誰もした例がないが、男子にして十五歳以上にも達していれば、是非看病に行かねばならぬ位の習慣になっていた。
 そこで私もいよいよこの旅行をする事になったが、前にいった十一歳で江戸から帰り、その年から翌年へかけて京都の往来をした外には久しく旅行する事もなく、またこれらの旅は父を初め家族が同行したのであるに、今度は独行せなければならぬ。今日では藩地から京都へは一日足らずに達する事も出来ようが、その頃は船の都合が好くても四、五日、もし悪ければ十日も二十日も日数が掛るのであった。そして百里以上の海陸を経ることである故、旅慣れぬ私は、何だか心細い感じがした、尤も一僕は召連れる事になっていたので、継母の里方春日に久しく出入していた男を特に雇入れた、現に家で使っている僕はまだ若年だからであった。
 こんな私事に属する旅行でも、藩用の船便がある時は、願った上でそれに乗せてもらう事も出来、それなれば同行者も多く、心丈夫なのであるが、折節その便船はなかった。父が重態であるから、何でもかでも、一刻も早く出発せねばならぬのに、大阪へ向けて公私の船を出す三津浜には、差当って大阪へ赴くべき船便は私用のものさえもなかった。そこで、大阪と讃岐さぬきの間を往来する金比羅参詣の船へ乗るが好いというので、それへ乗ることにしたが、その船の出る讃岐の丸亀までは三十里近くの陸を行かなければならない。しかしいよいよその陸路に向って発足する事になった。折悪く私は風邪に罹って少し熱があったが、そのために躊躇すべくもないので、宅を出た日は駕籠を雇い、雨を冒して讃岐街道の土屋という宿まで行って、そこから駕籠を返し、その夜はそこに一泊した。
 ここは山中の部落で、夜は物淋しく、殊更慣れぬ宿りであるから久しく眠に就けなかった。そこで常々好きな書物か何かあれば見たいと想って宿の者に訊ねると、『こんな物がある。』といって、古本を一、二冊出してくれた。その中に三体詩の零本があったから、枕頭の灯をかかげて、『行尽江南数十程、暁風残月入華清』などという詩を繰返し繰返し読んでいる中につい夢地に入った。今でも三体詩中の詩を読む度に土屋の宿の寂寞を想起するのである。
 その翌日は、一僕と共に私も草鞋掛で歩いて、やがて城下から十里ばかり隔った大頭宿に達した。そこから先はいよいよ他藩即ち小松領に入るので、一層心細い感を抱いた。行き行いて関の峠というへ達した。私は風邪を押していたので段々と疲労を覚えて困っていると、この日路傍に馬方がいて、『帰り馬で安いからのって下さい。』と勧めた。鞍を置いた馬には多少乗った事もあるが、荷馬に乗るは初てなので躊躇したが、僕も共に勧めるので遂にそれに乗った。ところが意外にも乗心地が好く、初めて駄馬に乗る味を知ったので、翌日から度々それを雇うて乗った。
 四日目の宿は和田浜といって、最早讃州へ入ったのであった。例の如く夕飯等も済んで寝ていると、俄に或る一方で騒がしい声が起り、また苦痛にうめく声も聞えて来た。寝られぬままに耳をそばだてると、何でも道中によくある胡麻の蠅を働く男を捉えてそれを拷問するのであると判った。僕をして宿の者に訊ねさせると、その宿は今日でいう刑事警察権をも持っていたので、お客様には相済まぬが、役目であるからこんなゴタゴタした事もお聞せ申すのだと答えた。その内に拷問はまた明日にするといって騒ぎは終ったが、一方庭を隔てて止宿している男女が数人あって、その中の一人の女が病気に罹ったので、『久しくここに逗留しているが何時なおって故郷に帰られるであろうか、旅でこんな事になって悲しい悲しい。』と繰返してかこつ傍から、同行の者が頻りにそれを慰めている。前には拷問の呻きを聞き、今またこの悲しい声を耳にして、熟々つらつら旅寝のいぶせき事も知ったし、その上自分も父が旅に病んでいて、それがためにこういう淋しい旅行をするのかと思うといよいよ夢も結ばれぬのであった。
 その翌日、起きて見ると、宿の伜が田舎角力仲間ででもあるらしい大きな肥満した身体でいながら、神棚に向って拍手して一心に礼拝していた。なんでもそれが前夜胡麻の蠅を拷問したかしらであったらしい。かかる荒くれ者でも神に対してする神妙な態度を見れば、いぶせき宿もまた頼もしいような感がした。この和田浜の宿では唐饅頭という飴を餡にした下等な菓子が名物であった。菓子好の私は前夜も朝もそれを沢山喰べた。
 その翌日はまだ日の高い内に丸亀港へ着いた。この港はもっぱら金比羅詣の船が着く処で、旅人の往来も頻繁だから船問屋兼業の宿屋も数々あった。私もある宿屋に投じ、暫く休息した。これから乗る船はその頃渡海船といって、金比羅参詣の客その他商人等を乗せるが、またわれわれ如き両刀を帯した者もそれに交って乗っていた。もうここへ来ると少しも侍の権威はない。他の平民どもと打混じて船中に雑居するのである。
 この渡船の例として、たとえば丸亀から大阪へいくら、広島または下ノ関へいくらと定め、その航路が順風であって僅かの日数で達しても、またはいかほど日数が掛っても、最初定めた船賃に増減はせない。そしてその間三度の食事も一切船の賄いであった。
 私は既に船宿で食事をして乗ったが、夜に入っては船の蒲団を借りて寝た。僕も隣へ寝た。その周囲には知らぬ旅人が沢山寝ていた。多くは無作法な者ばかりであったから、変な感がして容易に眠る事が出来ぬ、その中にいかりを上げ帆を捲いて船を出したが、進むに従って横波が船の腹をドサンドサンと打って動揺して、それが段々ひどくなった。船に弱い私は直ぐ胸が悪くなり、遂には嘔気を催すにも到った。それを僕が親切に介抱してくれた。こんな風なのが何でも半夜さばかり掛った末に或る港へ着船した。
 夜が明けて聞いて見ると、それは備前の国の田ノ口という港であった。備前の国の陸地ではこの田ノ口が最も海中に突出していたから、讃岐よりの航路が短いので、多くの船はここへ着いたものである。
 そこで再び船が出るかと思うと、一向に出る様子がない。最早大分風もみ掛っているようであるに、船頭どもは出船の用意をせないのみか、その主なる者は港へ上って小料理屋で酒を飲み、安芸者でも上げたと見えて、船へ帰ってから惚気のろけ話などするのが聞える。客はいずれも退窟して、『いつ出るのか。』と問うと、船頭は『まだこの風向きでは船は出せぬ。』と殆どあつかむような口気で答える。不平だけれども、自分ではどうも出来ぬから拠所なく黙ってしまう。その中に一人の客は『もう船で行くのは止めて陸にしよう。こう長く待っていては用事が差支える。』といって、支度をして上陸した。すると我も我もと三人五人続いて上陸する。私もかく滞船していては京都へ上るのも遅れる。いっその事上陸して山陽を行こうと思い付いた。一つは前夜の横波で苦んだ事にも懲々こりごりしていたので、初は僕が同意せなかったにもかかわらず、遂に命令的に上陸の支度をさせた。
 この田ノ口港の近傍に由賀山という寺があったが、これはカナリ信仰の多い関西の霊地で、やはり金比羅等に準じて、遠方からも参詣者が絶えなかった。従って宿屋等も相当に賑わっている。私もこの由賀山へ参詣して、いよいよ岡山城下へ向けて陸地の旅を初める事となった。
 これは後に聞いた話であるが、かくの如く私どもその他の船客が上陸したのは、かねてより設けられたわなに掛ったので、前にもいう通り船賃は請負であるから、もしも航路の日数が多くなれば、食料の点で損をする。そこでなるべく乗客は中途で下す方が都合が好い。中途で下りるのは自己の勝手だから、定めの船賃は返さない。かような関係から最初発航した港から次の港へ着くまでは、聊かの風波があればこれに乗じてなるべく船の動揺を烈しくし、次の港へ着いてはこの暴風ではいつ出船するか分らぬという風を見せるために、港の料理屋で酒を飲み女を買うなどという事もして、つとめて気長き態度を装い、乗客をして散々風波で苦んだ末この船にいつまで居ることかと懸念を生ずる所から、遂には船賃を無駄にしても上陸するという心を起さしめるのである。而してそれらの人を吐出すと同時に船はその日にも出帆するのであった。
 岡山城下は長い町で、ちょうど五月であったから、両側の軒先に幟を立てていた。いずれも見上げるような大きな物で、中には糸を網のように編んでそれへ鯉とか人物とかを貼付けたのもあった。これは江戸にも藩地にも例のない珍らしいものであった。なおそれより進んで姫路の城下、明石の城下もやはり長い町であった。一体、街道筋に当る城下の町は通行の旅客に依て利益を得ようとするので多く一筋町になっている。また郷村へ行ってわざわざうねったように道の附いている街道もある。これは附近の村をいずれも旅客の通る道筋にしたいというので、こんな道の付けようをしたのであるが、旅客においては実に迷惑千万な話である。こういう事は前にもいった川止などと共に、街道筋の藩々の為すがままに任せてあったから、いかなる大名といえどもその歩かされるままの道を歩かねばならぬのであった。
 私は何でも四日目に兵庫港へ着いた。この間三泊したのだが、二つの宿は忘れて、加古川という宿だけを覚えている。その宿に泊っていると、按摩がやって来て、『御用はありませぬか。』という。私も風邪を押していたので身体がだらしいから一つ按摩をさせて見ようという気になって、させて見るとなかなか心地好いものであった。これが私の按摩の味を知った最初で、それからは旅行をすれば必ず按摩を呼ぶことにしている。今も按摩に対すればこの加古川の宿の事が連想されるのである。今一つ、忠臣蔵の桃井の家老でお馴染の名前だから記憶しているのである。
 途中斑鳩いかるがの駅というを過ぎた時、聖徳太子の由緒の寺があって、参りはせなかったが、かつて見た書物に、『斑鳩やとみの小川の絶えばこそ我が大君の御名は忘れじ』と歌を詠した乞丐きっかいが、達磨の化身であったという話があるので、ちょっと私の注意を引いた。また阿弥陀の駅で立派な建石に、『前備中守護児島範長公碑』と記してあって、かの備後三郎高徳たかのりの父であるから、さてはここらで戦死したのであったかなどと思いつつ見て過ぎた。
 明石の町へ来ては、ちょっと傍道へ入ると人丸の社があるのだが、参詣もせなかった。このあたりから私は次第に熱気が発して来て、もう歩くことなどは苦しいから、城下の出放れの立場で、例の荷馬を雇うて乗ることにした。この馬へ乗る時片足に非常な疼痛を覚えたので、そのまま床几の上へ転がって暫く苦悶していた。僕や他の人々は馬が噛んだのかと思って心配したがそうではなかった。足を高く揚げたのが少しく無理であったと見えて、かくの如き疼痛を発したのである。これもその時が初まりで今以て時々少しく足を無理に捻るとほぼ二、三分の間非常な痛みを発する。折々にその話をして見るが他の人にはそんな事があるというを聞かぬ。転筋などといって苦しむ事もあるがそれとも違う。けだし筋肉から神経に与える痛みであろうかとも思われる、して見れば甚だしい神経痛を瞬間だけ起すものといってもよかろう。これも明石の城下外れに遺した一つの追憶である。
 有名な須磨明石の浜辺も、馬の上で熱に浮かされながら、夢うつつの間に通過した。折々前から来る人に馬から落ちそうだと注意された事もあった。さような中にも眼を引いたのは浜辺に沿うて小さな白帆が馳せ行く、それがあたかも陸を行くわれわれと伴うが如く見えたのであった。
 遂に兵庫港の宿に着いた。これからは大阪へ度々船が出るから、海路を取ろうというのである。段々熱が出るので暫く蒲団を着て休んでいた。その中に船が出るというから乗ったが、この度は天気も好く風もなかったが、それだけ屋根も何もない船の上に夏の日に照らされて一層頭痛を引起したことであった。
 天保山の入口から安治川を遡って中の島の藩邸へ着いた時はもう日が暮れていた。早速病を押して袴を着け、詰合の目付へ届け出た。私の父は目付でも上席で、多少権勢もあったから、その下にいる人々も私に向っては特によく労ってくれた。その時初めて会った人の中に藤野立馬というがあった。これは漢学者で近頃目付となった者であった。以前は私の藩では漢学者は余り用いられず、武芸者の方が重んぜられたが、世間が多事になり藩と藩との間にも多少外交が喧しくなったので初めて学者の必要を感じ、元は学校の教官位に止まった者が漸次政治向きの役々にも採用せらるるに至った。藤野は最初に抜擢せられた一人であった。後年この人が私に向って話したりまた書いたものを見ると、やはり私の父などが多少漢学の智識があったのでこれらの学者を登用した主唱者らしく思われる。藤野は後に藩の権大参事兼公議人となり、大学本校少博士ともなり、また修史館が出来た時にはその編輯官ともなった。号を海南といい、最初幕府の昌平塾の塾頭もして世間の人にも知られていた。文章が得意であったが実務に当る見識や才能も具えていたようである。
 大阪へ着いたその晩、藩邸の人々の世話になって、夜船に乗り、翌朝伏見へ着いて或る宿屋に小憩した。前にもいった通り、松山を立って以来感冒に罹っていたが、明石を過ぐる頃から大分発熱して、この伏見に着いた時にはもう体も非常に衰弱していた。折から雨天でもあるし、とても歩行は出来ぬので、駕を雇うて京に入ることにした。この駕は、父の顔もあるから切棒にして人足も三人附けねばならぬので、駕賃も従って高くなる。それで供の僕が心配して異論を唱えるのを私はどうしても駕に乗ると命令した。かように病気をしている私と、僕とがそれらの話をしているのを、宿屋の主婦が聞いたので、頗る同情して私を慰めてくれた。
 かくて私は雨を侵して三里の道を駕に乗って京都に入ったが、その頃世子の旅館は、高倉の藩邸は手狭なので、別に寺町の何とかいう寺を借り、それを東海道などの旅行の時の如く本陣と呼んでいた。そして随行の人々は別に近所の寺院を宿にしてこの本陣へ日々交代して勤めていた。因って父もこの随行者のいるある寺にいたので、私はそこへ到着したのであった。しかしその前に世子は既に江戸に行かれたので、右の寺に残っている者は父以下少数の人であった。私は着くや否父の病床に駈込んだが、その時熱をおしていた上に雨の冷気に侵されて、体が麻痺したようになり、ろくろく口も利けぬようになっていた。でも何とか少しばかり見舞を言う。父も私を見てさすがに喜んで、色々温言を与えてくれた。父の病気は幸にもう快方に向い、予後を注意するという位になっていたので、わざわざ看病に行ったけれども、私は何の用もなくなったが、それだけ安心もしたのである。
 父は御目附の外御側御用達を兼務していたから、この度の如く世子が京都へ行かれて朝廷や幕府の間に多少の斡旋奔走せらるる際は、別して補佐の責任も重かったため、病気を押した結果、遂に大患にもなったのであるから、世子その他の人々もこの事については頗る心配されて、療養上の保護も厚く受けていた。従って世子が京都を引上げられる際も、特に御側医師西崎松柏という者を残してもっぱら父の療養をさせられた。また父の弟の浅井半之助というが世子の小姓(他でいう近習)をしていたのを、特に随行を免ぜられて父の看護をすることを許された。なお父が目付であったため、目付手附の卒で伊東与之右衛門というものを、その筋から病気の用弁に残されていた。この外父が身分相応の従僕も三人ばかりいたので、この寺院における父の一行だけでもなかなか多人数であった。
 私は着くや否父の並びに床をとってもらい、打臥したが、右の西崎医の診察ではおこりだというのでその手当をした。数日間は随分熱も高く出て苦しかった。そこで或る京家の人からは禁裏の膳のお下りだから、これを頂くと落ちるといって、少しばかりの御膳を貰ってたべたことなどもあったが、なかなか落ちない。私はいつもそうであるが、熱が出るときまったように頭痛がするので、この度もそれが強く起ったが、ある時多量の鼻血が止めるにも困るほど出て、それが納まると、頭痛も共に止った。その頃は西洋の薬も多少は用いられていたので、西崎医は申すまでもなく漢方家であったにもかかわらず、幾らかその用法を知っていて、機那塩即ちキニーネを服せしめた。がくて飲みにくいから、あの粉を飯粒に交えて幾個かの丸薬にして、それを三回分飲んだ。するとその翌日から発熱をしなかった。瘧は落ちたのである。しかしまだ衰弱しているので、父の方も十分静養せねばならぬところから、更に数日そのまま滞京していた。
 浅井の叔父は、その頃大分酒を飲み、父の枕頭でもちびりちびりと盃をあげるほどの、ちょっと変った気分であるし、父の病も快方に向って安心してもいたろうから、酔うとよく詩吟をした。それは山陽の天草洋や文天祥の正気歌などで、就中尤もよく吟じたのは李白の『両人対酌山花開、一杯一杯復一杯、我酔欲眠卿且去、明朝有意抱琴来。』を繰返し繰返し吟じたのは、今も私の耳に残っている。父もやかましいと思って困ったようではあったが、止めることもしなかった。この叔父は多少詩も作りまた漢学の素養もあったので、親子兄弟三人で随分そんな話もしたのであった。
 藩の公用も父が少し良くなったために、京都に残っている目付や藩邸の留守居などが時々来て相談することもあって、私もわからぬながらそれを病床で傍聴したこともあった。その内父もいよいよ快癒して帰藩の旅をしてもよいということになり、私も勿論快復したので、そこでかつて京都留守居を引上る時に用いた高瀬舟をまた雇切って、伏見へ下り、伏見からは例の三十石の昼舟で大阪へ下ったのであった。西崎医は伏見まで送って来た。浅井の叔父はやはり船も同行したように記憶している。
 大阪からの船は、折から藩の大きな荷船の来ているのが無かったので、別に早船を藩から雇ってそれに乗せられた。この船にも小さな屋根があって、父その他の数人もその下に寝ることは出来た。一体小形で、帆も上げるが主としては櫓を用いた。この櫓は随分早いものであった。これは大阪で雇入れたので、船頭もやはりその船に属した者ばかりである。藩の船手は一人だけ乗組んでいた。前にもいった如く藩の船なら船手も数人いて、藩地の浦々で徴発するかこに向っては頗る威張ったものであるが、この商船となると自分一人であるので、隅に小さくなっていて何事も差図などはせない、全くお客様という顔をしていたのは、誰もひそかに笑った。
 この航路は天気もよく、存外早かったが、ある港で潮待をしていた時、近所に碇泊している或る船の中で味噌汁に菜葉を入れたのを喰っていたのが、私は何だか羨ましくなり直様すぐさま家来に命じ同じ味噌汁を作らせた。こんな船でもやはり米その他菜の材料などは父の手元で積込で三度の食事を弁ずるのであった。尤も大阪で藩邸の者がいわずともそれぞれ実際の支弁はしたものである。
 三津浜へ着くと、親族知己が出迎えに出て、例の如く行列を立て親子駕をならべて松山の邸へ戻った。門には僕が迎え内玄関には二人の祖母や、継母、弟などが待っていて、皆快復して帰ったことを喜び迎えた。就中継母は涙もろい方であったから、父や私が病後の衰弱した様を見ると、悲しさや嬉しさで、私を撫でながら涙を落したことを覚えている。
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 私はもう十七歳になっていたけれど、父の不在のために元服していなかったから、体が全く快復すると共に元服をした。それには昔は烏帽子親ともいった如く、最初の剃刀をあてるものは特に目上の人を選ぶ例であったから、父の実父たる菱田の祖父がそれをしてくれた。同時に助之進という通称の外に師克という実名をつけた。これはその頃名乗といって、通称の外に元服後はなくてはならぬものであった。この方は実母の里交野から実母の姉が中島というへ嫁していた、その夫の隼太というのが明教館の助教で、私も時々教えを受けていた関係もあるから、つけてくれたのである。師克とは、父の実名が同人で易の同人卦からとったので、同じ卦の大師克相遇という爻の詞を採ったということであった。
 元服をすると、最初若い者の仲間に遇えば『お似合お似合』といって額を打たれるのが習慣になっていたが、私は明教館でもまず学問の方では或る造詣をしていたし、撃剣場などでも、父の役目に封して多少憚られていたから、幸に額の痛いほど打たれたことはなかった。しかし自分には変った顔となったのが恥かしかった。この際衣服の袖の八ツ口を全く止めて総てが大人振って見えるようになるのだ。
 元服と同時に撃剣の師匠橋本先生から切組格という段式を貰った。かように大人中間に入ったので明教館の漢学はいよいよ励まねばならず、また由井、錦織、籾山などの学事の交際や、郊外散歩なども相変らずしていた。しかるに私は経書や歴史などの研究は誰よりも優れていたにかかわらず、詩を作ることは全然知らなかった。かつて武知先生の塾へ手習に行っていた時、『ちと詩も作ったらよかろう、それには幼学便覧などを見るがよい。』といわれたので、その本を父に買ってもらったが、どうも面白くないので、そのままになっていたのである。しかるに他の朋友は少しは詩も出来るから、詩の話になれば、私は沈黙しなければならぬのであった。それが口惜しいので、ある日由井と二人で城西江戸山あたりを散歩した時、由井に詩はどうして作るかと問うて、そこで絶句とか律詩とか、平仄押韻などの事を知り、それからは時々自分でも作って見た。尤も多くの初学者はまず幼学便覧などにある二字三字の熟語を上下にはめて、それで五言七言の詩を作るのであるが、私はそんな既成の語を綴り合しては自分の手柄にならぬと思い、何か一つ自分のいって見たいと思う事を、字の平仄を調べた上で、自分限りの修辞を以て作ることにした。勿論漢籍は随分読んでいたので、漢語の使用はかなり出来るけれども、詩の修辞は別段なものであるから、他の詩に熟達した人から見れば、字数だけは五言や七言にはなっていても、全く詩とはならなかったのである。でも自分だけは自惚うぬぼれて満足していた。
 当時は世間の志士などが多く慷慨悲憤の心を述べるために詩を作った。彼の東湖の正気歌とか獄中作なども伝えられていたので、私も徒に花鳥風月を詠ずる時勢に非ずと思い、何か理窟ぽい議論めいた事のみを述べて、いよいよ以て変な詩ばかりを作り、而して朋友の作を軽んじ、議論をすれば食ってかかるから、詩においては殆ど敬遠主義をとられていた位であった。
 この年、明教館にお選みを以て寄宿仰付らるという御沙汰の下に寄宿する者が出来た。従来も同館に寄宿生はあったがそれは希望者が先生の許可を受けて寄宿したものである。しかるに今回のは全く藩命に依って寄宿するので、それだけ名誉でもあるから、十分修業せねばならぬことになるのである。かような事の起った理由は、この頃はもう日本国中が大分騒がしくなって、朝廷幕府各藩の間に互に意見を立て議論を闘わすようなことになったので、自然学問ある人物の必要を来し、従てこれを養成するためであったのである。けれどもこれらの子弟は多く家柄もよくて、年頃にもなれば君公の小姓を勤めるような門閥にもなっていたから、長く漢学ばかりさせておいては、本人やその親も迷惑であるので、他から言草の這入ったのか、段々と抜擢されて小姓になった。そこで仰付られの寄宿生は小姓の下地だという世間の噂もあった。
 私もこの年の秋の末であった。他の両三名と共にお選みを以て寄宿を仰付られた。『助さんもいよいよ御小姓の下地になった。』などとひやかされたが、しかし私は多少得意であった。
 その頃の寄宿舎は講堂その他の学問所に続いて建てられて、新寮旧寮といっていた。新寮は藩命の寄宿生が出来たために新設されたのである。舎の数は旧寮五室、新寮三室、各々寮長があった。これは二人ながら七等以上を貰っていて、もう本人は一通り修業が出来ているけれども、後生の指導のため特に寄宿していたものである。この八つの各室は旧寮の方は宮、商、角、徴、羽、新寮の方は智、仁、勇、と称していた。私の入ったのは仁寮で、同室が他に二人あった。一人は寄宿生として先輩であったが、私は以前より漢学の方は自信があり、先生達にも認められていたので、先輩は勿論、先生達さえ別に恐いとは思わなかった。尤も大原武右衛門、号を観山かんざんという、即ち正岡子規の母の実父に当る人は、経書も歴史も詩文も総ての漢学に熟達し、人物も勝れていたので、この人ばかりは恐れていた。そんなことであるから私も寄宿生となって以来はいよいよ得意となり、また周囲からも多少は推重せられていたようである。そしてこれまでの独看席は官の書籍を借りて独看するのみであったが、寄宿生となると当然輪講や会読にも列し、朝の素読席では生徒へ素読を授けねばならぬので私もそれらに従事した。輪講や会読席へ出て見ると、やはり読書力のない者が多かった。輪講は或る経書についてくじを引いてあたった二、三人が順番に講義をし、終ると一同の質問に対し答弁する。その質問や答弁が間違っていると、控えている先生が正してくれる。あるいは叱りつける。会読の方も籤を引いて順番にするが、これは単に本文を一段ずつ読んで行って、そして他の者と共に意義の解釈については討論するばかり、これも先生に最後の教えを受くることは勿論だ。生徒は予め種々な註釈書を見て一通り意義を調べて置いて出席したものである。そして初心者は何々示蒙などいう仮名交りの解釈と首引して調べたものである。が私は既に自宅でも朋友同志で輪講会読もして聊か牛耳を執っていたのであるから、この寄宿舎の方でも最もよくしゃべった、先生も私の説には多く首肯してくれた。だから大抵の者はこの籤の中るのを非常に恐れていたが、私はかえって希望していたものである。今でも私は俳句を作るよりもその議論をするのが好きであるが、既にこの頃より議論ほど面白くまた得意なものはなかったのである。
 この外になお文会と詩会とがあった。これは月に各一回、これにも先生達数人が臨席して各生徒の作った詩文を批評した。そこで私もいよいよ詩を作らねばならぬ事になった。前述の如く私の詩は理窟ぽい事のみで、花鳥風月を詠むことが出来ないのであるから、この詩会には少々降参したが、当時の寄宿生は詩などもたいして出来なかったので、私の詩もそれに比してはさほど劣ったものでなかった。文会の方は到底まだ論文とか紀行文とかいうほどのものを作る生徒がないので、まず紀事といって、ある仮名書の文章一段を漢文に翻釈させるばかりであった。これは私も読書力があったから、さほどむずかしいとも思わず、紀事の成績はいつも優等で先生から賞讃されていた。詩の方とてもその頃の先生達は今日の俳句でいえば多く月並で、当時流行の尊王攘夷とか慷慨悲憤などを述べれば、それでよいと思っていた。なおこの淵源に遡れば、当時の漢学の程朱主義は、詩文を卑み経義を尊ぶことに傾いていたから、詩作の上にも、あまり詩人めいた詩らしい詩を取らなかったのである。この訳から私の詩も存外首尾が悪くはなかった。その頃父は江戸や京都あたりに旅行することが多いので、私の詩を作り始めたと聞き、山陽詩鈔を送ってくれた。それを開いてみると、歴史を種に尊王主義の慷慨を詠ったものが多いので、あたかも理窟ぽい私の頭と一致して、詩は山陽心酔者となり、益々慷慨の詩を作った。尤も山陽だけの詩の修辞が出来れば上々だが、私のは随分骨っぽくてまず東湖あたりの口真似に過ぎなかった。
 私の恐れた大原観山先生は、自分だけは申分ない詩を作っていられたにかかわらず、後生を率いるにはやり慷慨的に傾いて、私の詩にも度々よいお点や批評を与えられた。そこで私も信ずる所の先生の下にいよいよこの方面を発揮することになった。だからその以来私の四十六歳で常磐会寄宿舎の監督として、寄宿生正岡子規に引きこまれて俳句を初めるまでの間、詩といえばいつもそんなもののみを作っていた。従って長い間に二千や三千の詩は出来たと思うが、今残っているものを見ると、殆ど全部月並であることに自らも驚くのである。
 寄宿舎には従来年末に忘年会をする例になっていて、常には昼する詩会を夜にして、これを開いた。そこで常の詩文会では出席生徒が順番にその宅から持寄りにする豆煎りを食うのみであるが、忘年会の詩会では、いり豆の外に獣肉の汁をこしらえて飯を食うことになっていた。これらの費用も、生徒が少々ずつ醵出して、幹事が城下の魚の棚の肉店へ買いに行った。尤も猪肉は高いから鹿肉にして、ねぎ一束位と共に寄宿舎へ持ちかえって、賄方の鍋釜を借りて煮焚きをした、そんなことで詩会席にいるよりも食事の調理に奔走する者が多いから、先生達もこの日に限り早く帰ってしまう。するといよいよ若い者の世界で、一同大元気となり、互に争い合って肉を食い飯を食った。尤も酒は禁ぜられていたけれどなかなか気焔はあがったものである。なお余興として枕探しなどいうものもあった。それは寄宿舎とはよほど隔っている講堂、即ち表講釈も行われて君公も臨席せらるる広い堂であるが、そこへ或る一人が深更廊下を通って、ねて他の者が隠してある枕を探して持返るのである。これは随分気おくれのするもので、輪講の籤以上中らぬことを希望していた。それに平生憎まれたり軽蔑されたりしている者は、それに乗じて、暗中で悪戯におどかされたり、ひどい目に合わされたりした。また蒲団蒸しといって、或る一人を蒲団に包んで圧伏せ、息も断え断えにさせた事もあった。しかし私は自分の学力や父の役目の関係から、別段人にいじめられたこともなく、かえって荒武者連中にも多少は憚られて、『助さんが居る』とか、『助さんに聞える』とかいって、何ら腕力もなく武芸も劣等なものながら、どうかこうか好い境遇を得ていたのである。
 ついでにいうが、右の如く市中へ肉など買いに行くという事は、婢僕を使っている士分の家では主人は勿論家族でも多くはせなかった。もし買う事があれば、僕を遣わすか、あるいは宅に呼び寄せて買うので、呉服小間物類は別として、そうしていた。そこで私は父の役目もあるから一層この束縛に就いていたのだが、或る年忘年会の幹事に当ったので、他の幹事に率いられて肉を買いに行った。夜分とはいえ少し極り悪く感じていると、他の者が『助さんはさぞお困りであろう。』といって労わりながらも冷やかしたことがあった。
 この寄宿舎は食事だけは藩命の者とらざる者とを問わず、藩より支給せられて、多くは賄方が請負で仕出をしていたが、あるいは小使をして拵えさせた時もあった。まず朝は漬物、昼は煮菜と漬物というあたりであった。そして毎日その頃の七ツ時から六ツ時までは帰省といって、宅の父兄の機嫌を訪ねに戻る例であったから、夕飯だけは各自宅で食った。その出入は当番の先生に一々報告した。また夜遅くなるとか、宅に止宿するとかいう時は、理由を述べて先生の承認を得たのである。かく二度の食事は寄宿舎でするのであるが、若い連中のこととて、菜は少量で不足する。そこで武芸の稽古場へ行くとか自宅に帰っている者とかがあると、これはもう余ったのだと、他人の膳に箸をつけて二人分をたべる。あるいは二人でそれを分けてたべる。そして舌打している所へその本人が帰って来て、大いに面目を失うことも随分あった。また飯も一つの小さい飯櫃で銘々に与えられていたので、大食の者は足らないから、小食の者のを貰って食う。何某は小食だからいつも残飯があるとて大食の者にねらわれた。私などもそのねらわれた一人で、恩恵を施していたものである。
 かくてその年もあけたが、彼の京都で長州兵が禁門に発砲したことがあったり、その前後も藩主や世子は京都江戸へ奔走されていたので、兵員も多人数を要することになり、従来の士分以上では不足を生じた。そこで、特に文武の芸勝れた者は、嫡子および二男三男等も勤仕を命ぜられることになり、武芸の段式で中段以上、学問で六等以上の者は御雇になるということが始まった。これは給料としては一年銀六枚を下さるのみであるけれども、いずれも名誉として勤めた。
 一体戸主以外に嫡子は番入という事があって、幾年目かに廿五歳に達している者はこの番入を命ぜられた。而して親同様に一人前の士分となって、親が死ぬるか隠居をする――六十歳になると隠居するを許された。――までは、別に三人扶持を支給された。またこの外に不時番入といって、不時に番入を命ぜられたが、これは武芸の中段以上、学問の六等以上を、三つ得ている者に限られ、やはり嫡子のみであった。而して二、三男となれば、かような勤仕をする機会がないのみか、一生妻を娶る事も出来なかった。この事は大名旗本及諸藩士も同様であったから、これらの二、三男を冷めし喰いと呼ばれていた。しかるに今度この冷めし喰いが、妻帯とまでは行かずとも、勤仕を命ぜらるる事が、我藩に始まったので、二、三男の喜びは如何ばかりであったろうか。尤も従来二、三男といえども、他家の子のない処へは養子に行く事は出来たから、一生この冷めし喰いでいる者は割合に少なかったのではあった。
 しかるに私は学問では優等生ではあったけれど、この頃の風として同年輩の者は皆或る年数を経た上一様に等を進められたから、まだ六等を貰わなかった。それに武芸の方は劣等生であったので、元服と共に切組格となり、次いで切組とはなったがまだとても中段にはなれない。しかし他の同年輩の朋友は多く武芸の方では中段であるため、段々とお雇になって行く。取残された私は人に対しても恥かしくて気が気でない。この上は撃剣の方で中段を得んものと、この年の下半期には寄宿生でいながら日々橋本の稽古場へ通って人一倍励んでみた。が、半年位の勉強だから、いつも七月と十二月の段式の昇級をさせる時が来ても、私は依然として切組に止まった。元々嫌いな武芸はもうそれだけですっかり気がくじけてその後は勉強をせなくなった。
 その頃藩でもいよいよ戦備をせねばならぬことになったので、軍学をも奨励して、従来あった源家古法の野沢家と、甲州流の某家とに意を嘱して弟子を奨励せしめた。尤もこんな軍法では実用にはならぬのだけれども、藩の軍隊さえ甲冑や槍や火縄筒を用いていたのであるから、この奨励の下に両家へも入門する者が増加した。私も軍法ならぬ[#「軍法ならぬ」はママ]撃剣とは違い、漢学の応用も出来ようから、一つこれで中段を得たいと思い、既に学友の籾山は入門していたから、それにも問合せなお由井を勧めて二人で野沢へ入門した。出てみると、その先輩達が軍法に属する書物を一応読んで聞かせて、それを私どもにも読ませる。総てが仮名文で、漢籍を読む力では実にばかばかしいものであったが中段が得たいばかりに、腹の中では笑いながらもその教えを受けた。またある時は出陣式とか鎧の着初式とかいうのを古式に依って行い、門人の中の或る子供が殿様や若殿様となり、その他も種々なる役人となって、各々小具足を着けて真似事などをした。場所は藩にも奨励の際とて三の丸大書院を明渡してそこでさせた。私も小具足でその席に列し、命令通りの服役をしたことである。けれども漢学の力を応用するような機会もなく、中段は一向に貰えない。
 もうその頃は同年輩の者は得意で御雇を勤め、あるいは京阪に旅行するものもあった。それに引替え私は寄宿舎の中にくすぶっていて、その中でこそ気焔も吐くが、外に出ては、嫡子でいながらひやめし喰いにも追従せられぬので、自分のみすぼらしさをつくづくと感じた。それに私は一両年前よりどもる癖がつき、尤も学校で講義をする時は得意で気の伸びているがためか、別に差支さしつかえもなかったが、人の家へ行ったり、人と遇って話をしたりする時には、吃って口が利けない。人は可笑しがる、私は益々吃る。それが御雇にもなれぬ身だというひがみ心と共に一層募って、父や一家の人々にも大いに心配させた。
 私の如き藩命に依る寄宿生は、多く小姓に出る閥があって、それぞれ出て行ったにかかわらず、私のみは既に足掛け三年もそのままでいる。私の家は曾祖父以来小姓に出る閥でもあるし、父は現在枢要にもいたのであるから、くに小姓位にはなるべきであったが、父は多くの人と異っていて、私を小姓にするのを名誉とせず、それよりもせっかく寄宿生となったからは十分漢学の修養をさせたいと思っていた、故に他より私を小姓にといっても拒絶していたのである。これは祖母があまり私の出身が遅いため心配して人に話した時、その人が告げたのである。しかし、当時の世子はまだ若くもあり、幕命により奔走もしていられたが、一方には文武の修業をせられつつあった。そこでお相手として文武の力を持った近習を要するので、そんなことから終に私も小姓に抜擢されるに至った。父もその時は争わなかったと思われる。そこで祖母はじめ一家の喜びはもとより、私も久々で嬉しい思いをした。それと共に吃る癖がさっぱりと癒って、君前へ出ても何ら差支ないことになった。この事だけでも私が既に相当の年になっていながら、内気で稚気が離れなかったことが分かるのである。
 小姓になると共に寄宿舎を退いた。この際初めて六等を得た。これで御雇の資格も出来たのである。しかし小姓は前にいった番入と同じ勤仕の仲間で、年々父の禄の外に三人扶持を賜って銀六枚などよりは遥かに身分もよかったのである。
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 世子は当時、家茂将軍の長洲再征の御供として、京都に一隊の藩兵を率いて滞在して居られたので、私もそこへ行って勤務をすることになった。私と同時に小姓を命ぜられた者は岡部伝八郎、中村勘右衛門、野口勇三郎であったから、この四人が三津浜から大阪行の藩の船に乗り組んだ。この船は何時いつもの荷船ではなくて、関船といって、常には君公か、家老の乗るのであるが、折節船の都合でそれへ乗せられた。勿論同船者は他にもあって、物頭役の戸塚甚五左衛門とか、平士の長野、岡部、伊佐岡とかいう者も乗組んでいて、戸塚はじめ我々の家来なぞもあるから、随分多人数が乗ったのである。戸塚はモウ老人であったが、大いなる瓢箪酒を持ち込んで、ちびりちびりと飲んでいて、折々私どもへもくれたが、私はその頃全くの下戸で、もし猪口に二つか三つも飲めば吐くという位であったから、断って一口も飲まなかった。関船にはちょっとした座敷造りの狭い間が二つもあって、上の間は戸塚一人で占領し、次の間に私どもの小姓四人が居た。それから平士の三人は舷の或る間に居て、また他の舷には大勢の家来が居た。この家来は、下等な者であるから、退屈の余りには種々のはなしを始めて、中にはのろけ噺しもするし、随分猥褻なこともいっているので、私は始めてそんな噺しを聞いて面白くもあったが、また厭わしくなって来た。この海路はさほど長くかからずに大阪へ着いた。私は出立の頃から少し風邪を引いてるように思っていた、それが段々と熱も加わって、終に一日おきの間歇性即ち瘧となった。私は前にもいった如く、父の看病に京都へ行った時既にこの瘧に経験があるので、そこで自分で治す事も出来ようと思って、ちょうど備後のともに滞船した時、自分で陸へ上って薬屋で幾那塩を買った、この港は例の保命酒の本場であるから、彼方此方に土蔵造りの家屋も見えて、かなり富んでいるように思われた。それから例の如く幾那塩を飯粒の中へ入れて丸薬にして、かつての記憶の如く三度に飲んだ。後から思えばこれは、劇薬の部で分量もよく調べねばならないのに、大概の目分量で飲んでしまったが、別に害ともならず、翌日から全く熱が下った。そのうち大阪へ着いたから、これからはいつもの三十石の夜船に乗るはずなのだが、長州再征なぞの公用のために殆んど空いている船がないというので、終に一晩大阪の藩邸に泊って翌日は陸路を伏見へ行くことにした。これからは同船した一行も銘々勝手に行くことになったが、我々の同僚四人は連れ立つことにして、いずれも歩行で枚方に昼餉をしたため、それから伏見へ着き、なおその足で京都まで行った。この里程は十三里もあるのだから、同行中の年少者たる野口は時々歩き悩んで、路傍の草の上へ倒れたこともあった。しかるに私は瘧が落ちて間もないのだけれど、さほど弱りもせず、他の人々に比しておくれずに歩いた。私は今でも足はかなり達者だが、他の身体の割合に足が比較的丈夫なということは、この頃からもそうであったのだ。
 世子の本陣は、前年と同じ寺町の或る寺であって、その供方の者どもは、いずれも近傍の寺々を借りて置かれていた。そこで私どもはその本陣へ行って到着のことを届け、同僚はじめ他の役々へも挨拶して、それから同僚どもの居る或る寺へ下がって旅装を解いて、いよいよそこへ落着くことになった。同僚は我々どもを加えて二十三、四人も居たろう。先輩では木脇兵蔵、野沢小才次、菅沼忠三郎、それから小林伊織、山本新三郎、この二人は私の従弟である。また小姓の上に立って君側の監督等をしている側役そばやくなるものも三、四人あったが、その中に下村三左衛門というは私の叔父である。その他にも前から顔を知っている者もあるので、兼ていう如く内気な私でも、さほどの心配もなく、最初より親しく交際もした。その上に、私は漢学が出来ているということは多少知られていたのだから、同僚中でも漢学の出来る者は最初からそんな話もするし、その他の人々も何ほどか新参扱いにしなかった。なお一つには父が枢要の位置に居るということにも御陰を蒙っていたのであろう。父もその時やはり世子の御供をして、目付と側用達とを勤めていたのである。
 翌日からいよいよ小姓の勤をするのだが、従来の例としてまず見習いということをさせられる。これは同僚の詰所の一方へ新参の者を並ばせて、何事もさせず、ただ先輩の同僚の執務するのを見せるばかりである。この時間は口をきくこともならずかわやに行くのも断って行く、弁当も古参から食べといわれねば勝手に食うことは出来ない。そうして肝腎の君側の執務は間を隔てているから、何らも知れないのである。つまり太平の余習として何に限らず、古参は新参に威圧を加え、それで位地を保つというような弊が、この小姓などの仲間にもあったのである。この見習いは常なら五日ばかりもさせられるのであるが、軍事を兼ねた旅行先であるから、我々のは二日ばかりでモウ見習いを免された。そこで翌日から世子にも拝謁して直々に御言葉も給わるし、また三度の御膳の給仕もするし、寝床の出し入れから衣服の取扱いまでをするのである。この君側のことはなお次ぎに詳しくいおう。
 小姓の勤めは、朝番というのが、六ツ時から午後の八ツ時まで、八ツ番というのが八ツ時から夕の六ツ時まで、宿番というのが六ツ時から翌朝の六ツ時まで、互に交代したものである。そうして宿番は宵のうちこそ世子も起きられているがその後寝床へ入られても、小姓は不寝番というをせねばならぬ。そこで宿番を宵前、宵後、暁前、暁後と四ツに別けて、代りやって不寝番をする。この不寝番は一人で、他に介というが一人ある。世子が夜中厠に行くといわれると、不寝番が、直に寝ている介を起して、二人でその用を勤めるのである。僅かな距離の厠でも、一人は脇差を持っていて、厠に入られた間はその外に待っている。モウ用達が済んだらしい音がすると、一人は厠の中の手洗鉢のある所まで行って、世子の手へ水をそそぐ。それから床に入られると、もとの如く一人は起きて、一人は介だから寝るのである。この不寝番は、以前はそんなこともなかったらしいが、世子の側に附くものは、文武を励まねばならぬというので、不寝番でも読書することは許された。尤も黙読である。また寒中は火鉢を置くことを許されたのみならず、ちょっとしたドテラ見たようなものを背に着ることも許されていて、それを御不寝羽織といった。この宿番は小姓の外側役も一人居る。側医師というも一人居て、これは小姓の中へ交って不寝番もせねばならなかった。医者で思い出したが、私の京都に着した頃から、風邪が流行していて、我々の同僚も風邪に罹り、遂に前後して誰一人罹らぬ者もないようになった。こんな時は無論引籠りといって、届さえすれば本復するまで勤をせないでもよいのである。私も数日床に就いた。この同僚の居る所は、二十三、四人が三室ばかりに襖を外したままで居るのだから、寝床を敷けば殆んど足の踏場もない位に窮屈であった。そんな風だから風邪の伝染しやすいのは尤である。この頃の風邪の薬は例の葛根湯で、少し熱が強ければ、セキコウを加える。咳がすれば杏仁を加える。この外多少蘭方を知っているものは、葛根でなくて茅根を用いて茅根湯といっていた。
 前にもいう如く、小姓の勤めといっても随分暇があるのだから、その時は外出も勝手次第にしていた。遥か前の号で、江戸藩邸の勤番者の非常に外出の束縛を受けていた事を話したが、この頃はこんな旅行の出先では、余り束縛もなく全く出入自由である。けれども、将軍再征に関する陣中ということは誰れしも心得ているし、長だった者からも監視を加えるからさほど遊蕩に耽ける者はなかった。就中世子の側に仕えているものは、一層謹慎しているから、外へ出て酒を飲むといっても、その頃から流行出した、軍鶏しゃもとか家鴨あひるとかの鍋焼き店へ行く位のものであった。稀に一、二の人はそれ以上の料理屋めいた所へも行ったらしく、帰って来て酔った余り唄の一口か踊の真似をする者があったが、周囲からは眉をひそめて厭わしく見ていた。この者は世子が帰城すると直に免職となった。そんな風で、我々は暇があればまず読書をする。また少しは時世論などもする。また詩歌の出来る者は和歌を作り、詩を作る。同僚中で詩の出来る者は、前にいった菅沼と従弟の山本と、この外に中村粂之助、側役では宮内類之丞、石原量之助、また余り作りはせなかったが、叔父の下村も多少詩を知っていた。それで私は例の時世を詠じた詩や、松山出発以来の途中の詩や、なお着京以来聞き噛った時事の問題に渉る詩などを見せたり互に次韻をしあったりして、いよいよ同僚中でもこんな才のあることだけは認められた。
 この頃の京都は彼の長洲兵が、禁門に発砲した騒動で、その残党を捜索するという事から殆んど人家の大部分を焼き払った後であるので、段々と人家も出来てはいたけれど、皆粗末な板屋葺きで、所々に焼瓦の散っている空地もあった。しかし今日でいう新京極一帯の地は、小芝居から浄瑠璃、落語、その他の興行物や飲食店はなかなか盛んであった。そうして私どもの寓所よりも近かったので、誰も外出すれば、このさかり場を逍遥したものである。私は最前父が京都留守居の時こそ、家来に舁がれてしばしばここへ見物にきたのであるが、今度は文武を励む世子の側仕えをしているという自重心から、芝居浄瑠璃その他の見物は一切せなかった。ただ或る葭簀張り店で蒸し鮓を売っているのを一度食べて、美味かったから、外出すればそれを食べるのを何よりの楽みとしていた。この外は或る時人に誘われて、四条あたりで汁粉店へ入ったことが一度あるのみである。そこで或る時父に出逢った際、(親子でも勤め向がちがうから昼夜別居していて逢う事は稀れであったのだ。)父が雑用が要るなら遣ろうかといったが、私は一ヶ月に貰う四両ばかりの金を、右の蒸し鮓代の外何も遣わぬから、遣い道に困っている位なのでその事をいったら、父が笑っていた。実は漢籍などには欲しい物もあったのだが、藩の城下では自ら買い物するという習慣が余りないので、なんだか本屋へ行くのも間の悪い気がして、それも買い得なかった。これは次の旅行からは、多少腹が太くなって、色々漢籍を購うこともして、それを買い過ぎたといって父から叱られたこともあった。
 家茂将軍の再征は、誰れも知る如く、種々なる事情があって、将軍は京阪に滞留したまま進退きわまるという立場になられたのであったが、終に長防へ討入りという事になったので、松山藩は海路四国の先手を命ぜられた。そこで世子は父たる藩主のこの軍事を補佐したいといって、幕府に願われたので、帰藩する事を許された。
 そこで我々どもも世子に従って京都を出発し、伏見からは、小船で大阪へ着き、それから、藩の方から廻してある関船やその他の船に乗った。尤も君側の者は、前にいった当番をせねばならぬのだから、常に世子の関船に離れないようにしていて、この船も御召し替えという同じ型の関船であった。私は十一歳の時から既に大阪と藩地との航海をした位であるに、船には最も弱く、モウ乗ったと思うと心地が悪くなる。こういうと、それは覆没を恐るるからだという人もあるが、いかに風波のない時でもやはり酔う。あるいはブランコに乗れば一とふりでモウ胸が悪くなる。現今の汽車でもレールが悪くて半日以上も乗っているものなら、モウ食気がなくなる。一体動揺するものに乗ることが私の体には適せぬのだ。そうして左右動は、まだよいが、上下動になると最も困るのだ。そこでブランコと船とが就中閉口せざるを得ぬことになる。けれどもこの船嫌いも、航海をする一回は一回ごとに嫌いになったので、この世子の随行は最初から七回目であったから、今日ほどは弱らなかった。そこで一日だけは世子の側で、勤務もすることが出来たが、少し風波が強くなったので、翌日からは終に引籠った。同僚の日々勤務するに対してなんだか気の毒ではあったが、終に寝たままで幾日か経て藩地の三津浜へ着いた。この海路でまず伊予国の岩城島いわぎしまへ着くと、これから城下まで十八里であるが、モウ松山領内に属するから、なんだか勇ましい心地がする。しかのみならず、今でいえば御馳走船とでもいうべきあまたの小船を、岩城島その他の島から出し、それを漕ぎ連らねて世子の船の案内をする。尤もこれは附近に花栗の瀬戸という難所があるから、そのためもあるのだ。そうして、そこらあたりの島で篝を焚く。ほのかに島人なども浜辺に集うて居るのが見える。これに対する快味は今日の人では判るまい。なお岩城島の山頂で世子の船が見えたというと、狼煙のろしを揚げる。それから主なる島々が受継いで、三津浜の向うの興居島ごごしまに達する。この狼煙に因って、それぞれ出迎え等の準備をするのである。世子が三津浜に着すると、船番所というがあってその座敷で休息する。そこへ家老一同が城下から来て拝謁する。それから行列を調えて城下へ入り込むのである。が、この頃は多事の世の中にもなっていたから、行列などは多少省略されていた。供に附く者なども昔の如き服装をせずむしろ陣中だという様子にしていた。
 松山城は、本丸と二の丸と三の丸というがある。かつてもいった、加藤嘉明がこの城を築いて本丸やその周園の[#「周園の」はママ]櫓等が出来た頃に、会津へ転封されて、その後を蒲生家が貰ったので、まだ出来てない二の丸を造った。この蒲生家も暫時でほろびて、その後を松平隠岐守即今日の久松伯爵家が貰ったので、更に三の丸を造られた。そうして藩主は常にこの三の丸に住居せられたから、世子はいつも二の丸住居となっていた。
 この二の丸は、主なる書院が、一の間、二の間、三の間となっていて、ふすまやその他の張り付けが、金銀の箔を置いて立派な絵が描れていた。定めて蒲生時代の名家の筆であったろうが、無風流な青年の私は、人に聞いても見なかった。ただその廊下から湯殿へ行く処の二枚の襖は、唐木の透かしになって、大きな金の桐の紋が付いていた。これは豊臣太閤の桃山御殿の遺物が蒲生家に伝っていたのを用いたということである。世子の常の居間は最近に造ったもので、こは割合に粗末なものであった。その居間から、右の三ツの書院の縁側を通って、一段下った所が、我々小姓の詰所である。その隣室に側役の詰所がある。この二つの詰所を、御次ぎといった。この外藩政に関係する役人の詰所は、この御次ぎを離れた場所にそれぞれあって、それらの役人はこの御次ぎへはみだりに一歩も踏み入ることを許されていない。家老でさえも、世子に拝謁したいと思う時は、それを御次へ申し込んで、世子の御都合を伺って、その上で御次を通りぬけて、それから廊下を経て御居間へ赴くのである。この家老の御次ぎを通りぬける時は、当番の小姓の先輩が、面番と呼ぶ。そうすると、今まで小刀を抜いて側へ置いていささか休息していた一同が忽ち小刀を帯びてその中の二人だけ一方へ並んで坐る。その前を家老が通るが互に一礼もしない。そうして居間の外の遥か隔った所で、家老は小刀を脱いて置く、(凡て殿中では上下共に小刀のみである。長刀は君公に限り小姓が持つ。)それから、無刀のままで居間の入口から膝行して世子の側へ進んで用談をするのである。常には我々小姓が世子の居間に必ず二人ずつ詰めているが、この時だけは御次ぎの方へ下っている。そうして家老が下って次ぎまでくるや否、小姓二人は直に世子の居間へ前の如く詰るのである。居間は上の間と下の間となっていて、世子は上の間に蒲団を敷いて坐って、その側に小刀が刀架に掛かっている。長刀は少し離れた床の上に置いてある。小姓二人は下の間で世子に対って坐っていて、世子から詞を掛けられない以上一言も発せない。いつも左右の手を畳の上に突っ立てた風に置いている。膝の上にあげる事は許されない。いかにも厳しい容体で、世子を張り番しているかという風だ。世子にはさぞ窮屈だろうと思われるが、習慣上そんな事もないらしい。世子といえどもやはり行儀に坐っていて足一つ横へ出す事もせられない。口をきかぬ時は殆んど睨み合いの姿である。勿論我々の小姓は袴をはいている。世子は袴を穿かれない。それから庭へでも下りて散歩でもしたいと思われると、居間の小姓二人が必ず附添う。一人は世子の小刀を持つ。どちらへ歩まりょうが、影の形に添う如くこの二人は離れない。悪く言えば監視附きの囚人というさまだ。それから厠へ行かれる時は今もいった宿番の時の通りである。この厠についてもちょっと言うが、世子の大便所は引出しの如きものになっていて、籾殻が底に敷いてある。そうして一回一回大便を捨ててしまうので、御下男といって最下等の卒のつかさどる所である。これは男子たる方々の厠の式で、婦人方となると私の聞いている所では、大便所は万年壺といって深く掘って、殆んど井戸のような者であるそうだ。これは始終大便を捨てるということはない。勿論貴き人は一人一個の厠を占有せられているから、生れてから死ぬるか、もしくは他へ縁付せられるまでは、この一つの厠へ用達しをして、その人が居なくなると共に、その万年壺を土で埋めてしまうのである。かように数年もしくは数十年間の大便は深い壺に溜っているのだから、傍へちかづいても臭気紛々たるものであったそうだ。
 また世子の方へ立戻るが、世子は日に一回は必ず御霊前拝というがあって、この時は、袴を着け小刀を帯び、小姓は長刀を持って附いて行く。また少々不快で横に寝たいと思わるる時は、側役を呼ばせてその事を告げられる。側役が宜しう御坐りますというと、それから小姓がしとねを敷くのである。褥の下には別に御畳といって、高麗りの少し広い一畳を敷く。これは御居間方と云う坊主があって、持ち出して敷く。そうして小姓が凡ての夜具をその上へ敷くのである。小姓も侍だから御畳には手をかけない。やはり士分以下の坊主に扱わせるのである。この坊主はその頃の風で袴は穿かず、羽織ばかりを着ている。この坊主は時々居間その他の生花をする事も役である。また世子が入湯をされる時は、湯加減その他風呂場の準備をする。それから世子の背を流したり、衣服を脱がせ浴衣を着せたりすることは小姓の役だ。もし世子が、今少し熱くせよとか、ぬるくせよといわるる時は、まずそれを小姓に告げ、小姓から坊主に告げ、坊主から風呂場の外に居る風呂焚きの仲間に告げる。世子は決して坊主に直接に口をきく事は出来ぬ。けれども実際小姓に告げらるる詞をモウ坊主はきいているから、それぞれ命令通りにするのである。世子がちょっとでも物を書かれた紙の反古は小姓が持ち下って、御火中という或る籠へ入れる。またはなをかむとか唾を吐くとかせられた紙は、これも持ち下って、御土中という籠へ入れる。これは名の如く後にあるいは焼いたり、あるいは埋めたりするのである。それから三度の食事は大概時刻も極っているからまず小姓一人が御次ぎ外の遥か隔った御膳番という役の詰所へ行って、『御手当』という。『畏りました』と御膳番が答えて、それをまた下々の役へ伝えて準備をする。少時経って世子が、もう食事を出せといわるると、また一人が走せて行って、御膳番に『御付方』と告げる。そこでいよいよ出来上った膳部を、御膳番が他の役手を引連れて御次ぎの入口まで運ぶ。すると側役がそこへ出て御膳番と対坐して御毒見をする。これは各々の膳に雛の椀や皿見たような小さな器に、その時世子の食べられる飯その他あらゆる物が少しずつ盛ってあるのを、二人で食べるのである。それが済むと、『御出方』と御膳番が叫ぶから、小姓がその膳部を受取って、世子の前へ据える。この据え方にも極った儀式がある。膳が据わると跡から飯を入れた飯櫃が出る。これも側役と御膳番とが立会で、各々口を袖で覆うて杓子を以て、掻き交ぜて検査した上で出すのである。この飯を盛る役は当番の小姓中で最先輩に限られている。また茶は坊主の今いった、御居間方の次へ付く者が兼て用意をしていて差し出す。これには何故か御毒見はない。尤もこの坊主は、御居間へは出られないから小姓が取次ぐのである。世子の膳具は黒の漆塗りに金で蒔絵がしてあって、中は朱であった。膳も同じ蒔絵である。そこで飯櫃を司っている小姓は最初の一椀を盛る時杓子で飯櫃の飯の上へ久の字を一字書く真似をする。そうして盛って出すが、盆は用いないで、椀の底の方を手で持って出す。世子は小食であったから、大抵二椀位で稀には三椀食われた。副菜は一汁二菜と外に漬物一皿と限られていたが、一椀の飯を尽されると共に一人の小姓は直に下って代りの汁椀を持って出てそれと引替える。汁の外は、平が一つと皿に焼肴とか煮肴あるいは刺身位が盛ってあるのだが、その平の蓋は必ず、小姓が取ったものである。この副菜は御膳番の方で大体好かるる物や好かれぬ物を知っているから、一度ごとに選んだものであるが、さりとて世子が何を食べたいとかいって注文される事は出来ない。もしも食べたい物があるなら、それはあらかじめ奥の方へ小姓を以て通じて、そこで調理せしめられるのである。けれどもそれも一品位に止まっていた。膳部が下った時、いかに食べ残しの物が沢山あったといっても、小姓などはそれを頂戴することは出来ないのであるが、この奥から出したものは、御次ぎへ持ち下って、残ったものは食べられる。これはいつも最先輩の一人二人の口に入るばかりであった。
 今奥といったが、世子が奥へ行かれるのは一ヶ月六回に限られていた。その他は病気があっても、表の居間で臥されるので、奥へ行く事は出来ない。そうしてこの六回も昼間ではなく、六ツ時後の夜に限られていた。またこの奥といっても世子の奥方は江戸の藩邸に居られるから、御妾のみが居るので、これは世子の東西に往来せられる際、別に奥向きの役人が引連れて他の女中と共に往来したものである。ついでにいうが、大名のお妾という者はなかなか勤めにくかった者で、それは君公に対するよりも朋輩の女中と折合いが悪く、いつも女中から、いじめられた者だ。なるほど大勢の空房を守る女の中に、君公の御恩を蒙る者が一人居るのであるから、女性の妬み心はそれに集って、何とか彼とか難癖をつけて、その結果は御暇という事にもさせるのであるが、この世子に仕えていたお妾は、私の知っては長い年でもなかったから、右の御暇のあったような話もきかなかった。尤も私どもは、このお妾を始め凡ての女中の顔を見た事もない。或る式日は奥の老女と中老のみが表の御居間へ、御礼を申上げに出て来る、その顔は見る事がある。昔の風としていかに年を取っていても白粉や臙脂をつけ、なお式日に依ては額に黛を描いている事もあった。帯も何だか左右へ翅を広げたように結んでいた。その外我々が奥の女中と出逢う事は、世子の何かの御用とか、あるいは今いった六回だけ奥へ行かれる時とかに、奥と表の間の廊下の御鈴口という所で出逢うのである。この御鈴口は常には閉めて、表裏に錠が下りて、どちらからか用があれば鈴を鳴らす。すると出掛けて行くが、小姓でも最先輩でなくてはここへ行く事は出来ない。そして用事を話し合うといっても、お鈴口の敷居を互に越す事は出来ない。敷居を隔てて手を突いて話し合う。世子を奥へ送る時でもこの御鈴口限りで、小姓は例の持っている小刀を女中に渡す。それと共に世子は奥へ行かれる。お鈴口はチャリンと錠が下りる。これもなんだか囚人の受取渡しでもするような有様であったのだ。
 他の藩でもそうであろうが、私の藩で家老と他の藩士とは、非常の等差のあったもので、家老はその他の藩士を何役であろうが呼び捨てにする。藩士は某様といって殆んど君公に次いだ敬礼をする、途中で出逢っても、下駄を穿いている時はそれを脱いで地上に跣足はだしで立たねばならぬのだが、それを略して、下駄のまま鼻緒の上へ足を乗せて、型ばかり脱いだ式をした。その位の関係であったにかかわらず、世子から家老の某を呼べとの仰があれば、我々小姓の一人は直に御次ぎの外なる御家老部屋へ行って、そこに厳めしく並んでいる家老に対って、此方は片膝を折って片膝を立てたまま、一礼もせず、『某召します、』と大きく呼ぶ。家老は直に平身低頭して、畏りましたと御受けをする。この時自分は君公の命を伝うるのであるから、なかなか威張ったもので、平常家老に対して頭を下げた不平を聊か漏らす事が出来た。これは小姓の一つの役得といってもよいのだ。一体封権の世では君臣の間という事は厳重であったから、君前においては互に名を呼び捨てにする。家老であろうがまた親であろうが皆呼び捨てだ。詞遣い等も『どうしませい、こうしませい』といって決して敬語を用いない。『兜軍記』の榛沢が、『サア阿古屋立ちませい』という詞がちょうど同じだ。今の活歴芝居で、君前にありながら、『某殿』などとよく呼んでいるのは、封権時代の事実の不調べなのである。
 前にもいったが、世子は文武の修業をしられていたので、武芸では私と同じ橋本新刀流の門であったから、私も御相手という命を蒙ったが、例の下手である故一度も世子との仕合はせなかった。これに反し、漢学講義とか輪講とかいう際は私も加わって相応に口をきいた。また詩会なども時々あって、それは東野の別荘で催おさるる事もあって、ちょっとした酒肴を頂く事もあった。平常でもお次ぎでは、側役を始め我々小姓も、読書することを許されていた。漢文、仮名物、その力に応じて読んだもので、少々は声を出して読むことも許された。以上は多く私の直接に仕えた世子についての様子だが、藩主といえども大概同様であって、ただ横に寝る時側役の許可を得るに及ばぬのと、奥入りを日々することの自由が異っていただけである。
 そこで私も帰藩後は右の如き小姓の勤めをして、漸々とその儀式に馴れるのみならず、世子にも度々詞を交されて親しくなって、別に怖いという感じもなくなった。また私は年齢に比しては世間知らずの青年であったから、世子に対しても随分率直な答えなどをするので、その点は世子にもかえって愛せられていたようであった。
 いよいよ長防討入りという事で、幕府から軍監を差下さるるようになった。元治甲子の初度の征伐は藩主が出陣して、領内の神ノ浦まで本陣を据えられたのであるが、毛利家が恭順したので、間もなく帰陣せられた。そこでこの度は世子が藩主に代って出陣したいと幕布に願い、許可を得られたので、まず三津浜まで出向して本陣をすえられた。私もその際家族と別盃を酌んでいよいよ生死の別れをした。三津浜では藩の船番所を世子の御座所となし、我々は町の人家を徴発して下宿した。これも今日の俳句生活と一つの関係だが、私の下宿は木綿糸の糸車を造る老人夫婦の小さな家であって、この老人は発句を作って何とかの俳号も持っていた。何か書物でも見せろといった時、発句で高点を取った巻などを見せた。なお小さな床には鶯居の名でこの老人へ宛てた手紙を懸軸にしていた。この鶯居は藩の一番家老の奥平弾正という人のことで、かなり発句も出来て藩以外の宗匠達とも交際をしていた。今松山に居る野間叟柳氏などもこの人の門人だと聞いている。かような御家老の手紙を、糸車造り風情が貰ったのだから頗る自慢をして床に懸けて、我々にも見せていたものである。がそれらの発句は私には何らも趣味をたなかったのであるから、今は記憶していない。この下宿には今一人同僚の先輩たる山内駒之助というが居て、これも多少漢学をしていて、かつては明教館の寄宿舎で寮長でいた関係もあるから、殊に親しく話し合っていた。この外同僚中私の従弟の小林伊織とか山本新三郎とかもよく来て、漢学や詩文の話を仕合った事である。この小林は文章がよく出来た。
 長防へ討入るといっても、海を隔てているから、船でなければならない。もうこの頃は大砲の術も漸々発達しているので今までの兵船たる関船では間に合わない。そこで兼て藩から幕府に願って、軍艦を借用したいといった結果、小形ながら蒸汽船二艘をさし越された。勿論その艦長や操縦者は幕府人が乗り組んでいた。この軍艦に藩の軍隊の一の手二の手、これはまだ旧式の隊であるが、外に西洋式の新選隊というのをこの軍艦に乗込ませ、まだ余った兵は藩の和船に乗込ませて、防州大島郡というへ向わせた。この島は敵も少し油断していて守りの兵もさほどおいていなかったので、我藩の兵はその島の上の庄というへ討ちかかって、敵が散乱したに乗じてそこを占領した。同時に幕布の方でも洋式で訓練した歩兵隊というを別の軍艦に乗せて大島郡へ向わせたのが、我藩と諜じ合せ他の港へ討ち込んだ。この大島郡は一時敵対する者がなくなったので、この捷報が聞こえると、世子は気早で多少勇気のあった人だからモウ三津浜には居たたまれず、自分も大島郡へ向おうといい出された。けれど別に適当な軍艦もないし、和船では危険だし、かつその後の様子も判らないのだから、側用達でいる父などは、今少し待たれたがよいといって諫めたが、世子はなかなか承知せられぬ。そこで城下にいる藩主からも暫く持重せよという命が下ったので、世子は渋々ながら止まれた[#「止まれた」はママ]
 この時私も生れて始めて戦場に向うのだという決心をした。この慶応二年さえも我藩の軍隊は、源家古法と甲州流を折衷した旧式編制であって、弓隊こそ廃したれ、銃隊の足軽は丸玉の火縄筒である。士分以上は撰士隊と称して槍を持っていた。そうして身にはやはり甲冑を着け、それぞれに指物を背にした。で、私もやはり具足櫃に甲冑その他を入れ、槍も一本携えていた。かつていった如く下手ながら撃剣は少々稽古していたなれども、槍は少しも習っていない。その習わぬ槍を揮って世子の御馬前を警護して敵と戦わんとしたのは、今から思えば馬鹿々々しい次第である。されどその時は何とも思わず、敵に逢ったら力限り働くつもりで、まさか打ち勝つとも確信がなかったが、敵に討たれて死ぬという事も別段怖くもなかった。この時は十九歳であったが、今の兵隊が二十歳の丁年で従軍して敵に対って別に怖れもせず、勇往奮闘する心理状態の如きも、これから推すと不思議はないのだ。尤も私も少しは戦場の練習をして置きたいと思って、まだ出陣せないで宅にいた頃、座敷で甲冑を着て抜身の槍を手で扱いて見た事があった。持ち馴れぬ槍とて随分重かった。それでまさかの段には槍を捨てて抜刀して切り込もうという考えもしていた。何しろ戦場に向う覚悟といっても、経験のない者は、誰れも私位の考えでいたのが多かったろう。
 しかるに出先の軍隊から急報があって、上下一同に色を変じたのは、大島郡の敗報である。後で聞けば、長州方には大島郡に幕布方が討ち入ったと聞いたので、それは捨て置けぬといって、有名な高杉晋作などが軍隊を率いて密に海路を経て島の後へ渡った。それを我軍は少しも知らず、全島を占領したものと思って、三日目には一の手、二の手、新選隊が三方から源明峠その他の山頂をさして登って行った。すると頂上に敵が現れて突然小銃を乱射した。我兵は不意を討たれたので吃驚した上に、地理も悪いから、一雪崩なだれになって三方共に退軍した。この時二の手で目付役の軍監を兼ねていた佐久間大学(しずたけの佐久間玄蕃げんばの後裔)と、その他四、五の士分が踏止まって敵と戦って、その三人は枕を並べて戦死した。就中佐久間は目覚しく働いたと見えて、敵も感心して、その後戊辰の年長州兵が我藩に征討に向った際、この佐久間の墓を数人で弔ってくれた事さえある。しかのみならずこの佐久間を始め戦死者の遺骸は長州で埋めた上に、標の石を建ててくれたという事である。これらは武門の習いとしても芳しい話だ。そこで我兵は一足退くと勢い如何ともし難く、浮き足となって終に上の庄まで引いた。なおそこも敵に圧迫さるると困難だというので、隊長の家老始め一同の兵が皆軍艦その他の船へ乗り込んでしまった。この有様を想像すると、彼の平家が一ノ谷が敗れて争って船に乗った様にも似ていたろうかと思われて、今でも残念である。
 この幕府の長防再征は、元々騎虎の勢いなので、寄せ手の兵はいずれの口もさほど士気が振っていなかったのだから、芸州げいしゅう口の井伊榊原も夜襲を横合から掛けられて、散々に敗走するし、石州口は、津和野藩は早く長州に内通していたから、長州兵はそこを通り越して浜田領へ攻め込み、浜田藩主は終に雲州まで落ちて行かれた。また九州口はこれも長州兵の方から反対に攻め込んで、小倉藩は随分奮戦したけれども、終に落城して藩主は肥後へ落ち行かれた。こんな際に我藩だけは暫時ながらも敵地を占領したという事は、ちょっと名誉であるが、始めよし後わるしで、一敗して最初の勇気が挫けた。世子の本陣でもこの敗報と共に今いった諸口寄せ手の敗報もそろそろと聞えて来たので、再び進撃することの不得策を知って、終に先手その他を藩地の近島まで引揚げられた。これで見れば、世子の渡海せられなかったのはまだしも名誉を汚さずに幸であったのだ。この頃我藩は幕府から借りた軍艦のみでは足らないので、親類の関係から隣国の高知藩に軍艦を借りたいと言って、承諾を得た軍艦が阿波の鳴門の海峡から大廻りをして来てやっと着いた。けれどもう用はなくなっていたが、藩主と世子はその軍艦の高浜港に繋いであるのを見分に行かれた。因って私もお供をして、始めて小形ながら軍艦というものに乗ったのである。この艦長は袴羽織で応接したが、その他の乗組員は、筒袖服に洋袴で、小刀もさしていなかったのを、私は珍らしく眺めた。
 その後大分日が経ったが、幕軍は少しも盛り返えす様子もなく、従って我藩の軍隊もいよいよ惰気を生じた。けれども幕府から出陣の命は蒙っているので、僅に一里半隔てた城下ながら、世子も帰ることが出来ない。そこで、陣移しの名儀で城下から半里の西山の麓の辻、沢という両村へ引揚げて、庄屋の宅を本陣とした。我々どもも附近の人家を徴発して下宿した。そうして今まで近島にいた軍隊は三津浜まで引揚げた。しかのみならず今度は反対に長州兵が攻めて来るかも知れぬというので、海岸の要所要所へ俄造りの砲台を構えて、新古取交ぜの大砲を据え付けて、幾らかの兵を配置した。尤も三津浜には早くより不充分ながら砲台が出来ていて、三十六ポンドという大砲をすえ付けていた。私どものいる辻、沢村は城下と目と鼻の間であるが、それでも家族の往来は勿論、書状の一通も取交せはせない。これは武門の習いで、出陣すれば全く家のことを忘れるということから来たのだ。けれども家来などの使いは漸々と往来することになって、私の好きな食物位は祖母から送ってくれたこともあった。
 そのうち家茂将軍は薨去せられるし、孝明天皇も崩御遊ばされたので、休兵という達しがあったから、世子も終に城下へ引揚げられて、二の丸へ帰住せられた。そうして我々も自宅へ帰って再び家族に対面した。けれども自分もいくさに負けて帰ったような姿なので、浮き浮きせず祖母始めの顔を見ても別に嬉しくもなかった。それからわれわれの勤務上も常より多くの数で二の丸へ詰めた。その外の役々を始め諸士も二の丸、三の丸に大勢詰めて、これらの人々は皆陣羽織を着用して戦時の警戒は解かなかった。或る夜などは、サァ長州兵が三津浜へ来たといって、城下が騒ぎ出して、私の父は直に馬で三津浜へ馳け付けたが、それは外国船が沖を通過したのを見誤ったので、後では笑いになった。
 既に休兵の命はあったけれど、長州の態度は少しも判らぬから、何時攻めて来るかも知れぬので、軍備は調べて置かねばならぬ。ある日世子は二の丸から本丸へかけての櫓々の武器の検査された。その際天守閣に登られて、私もお供して初めてこの天主閣の眺望をしたのである。最上層には遠祖の菅原道真即ち天満宮が祀ってある。その他にも武器などが置かれてあったが、この天主閣の下は石造の穴蔵のような物になっていた。外へ出るには鉄のかんぬきがあって、外から鉄の閂に錠が下してある。ちょっと見れば外からでなければ入れぬようであるが、別に下層の間に或る押入の唐紙を明けると、そこの板敷は一つ一つ刎ね板になっていて、長い梯子があって右の穴蔵へ下れることになっていた。世子と共に私も下りて見たが、上下周囲凡て石造で暗黒な上に身も冷や冷やする。ここは終に落城という時に、君公や近習等の者が自殺するために設けられたもので、上の天主閣へ火を縦てば、それが焼け落ちて総ての死骸が灰となってしまう。それを敵から邪魔をしようと思っても、鉄の扉だからなかなか明かない。また外から閂があるから最初はまさかこの内に人がいようとは思わないのである。私はここへ下りた時に、幕府その他の不振な事を考えて、早晩長州勢に攻め込まれて、彼は熟練した多数兵、我は熟練せぬ少数兵であるから、とても防禦は仕終しおおせない。そうして世子の気性としては、浜田藩主や小倉藩主の如く他へ落ち行くということは承知せられないから、仮令たとい藩主だけは、いたわって落し参らせるとしても、世子や近習の者は本丸を守って、終にはここで一同枕を並べて死なねばならぬと思うと、今から何だか変な気になったことである。しかるに後から知ってみれば、長州は薩州と聯合の約が出来て、今度は反対に幕布討伐の密計が進行していたのだから、我藩等の如きにはさほど復讐戦をする考えはなかったのである。しかのみならず、この頃我藩からも一時の権略として、或る使者を長州へ遣わしていた。これは大島郡討入の際上陸した幕府兵は散々民家に向って乱暴をした。我藩の如きも乱暴はしなかったが、陣地の防衛のために、幾らかの民家を焼いたことがある。それを大島郡の人民は非常に恨み、かつ幕兵と我兵との区別を知らぬから、総ての乱暴を我藩でしたのだと思っている。そんなことが、漸々と聞えていたので、これらの弁解や挨拶として使者を立てるという口実であったのだ。けれども実は彼の攻め来るのをいささか緩和する方便であったことは勿論だ。これはモウ頼みにならぬ幕府を戴く孤立の藩としてはやむをえぬ状態であったのだ。が、この使者一件は藩主の方で主として決定せられたものであるから、世子は後で段々聞かれたものであるように思われる。
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一〇


 翌慶応三年正月、長州の使者として林半七が来たので、我藩では、三津浜に迎えて応接した。その使命は、第一に俘虜の交換、第二に我藩の向背を尋ねるというのであった。俘虜というと仰山だが、前年大島討入の際、彼の士分一名を捕え帰った。また我藩では世子の小姓の菅沼忠三郎というが内命をびて九州方面へ使者に行ったのを、馬関海峡で長州巡邏船で捕えた。そこでこの両人を交換するのであるが、それよりも主なる問題は、前年我藩から内使を以て大島討入の際、民家を焼いた事の挨拶、裏面には彼の復讐兵を向けるのを緩和するためであった、それを彼からも看破して、それだけでは了解が出来ぬから表向き使者を立てよといい、而してその意は長州の主義を賛成して協同するか否を問うのであった。そこで我藩では一時のがれの方便が、遂に本気の明答をせねばならぬ事になったので、藩庁でも内々騒ぎ出した。そしてそれが外間へも漏れたので、いよいよ紛議が甚しくなった、殊に世子は右の長州への内使一件は後に聞かれたのであったから、例の気性として頗る不満に思われ、その側附の人々も共に憤慨した。それが更に、内外相応じて、一の党派となり、長州の使者を刎首して手切をするがよいと主張する者さえ出来た。が、また一方には最初内使を立てた当局者を始め、他の外間の者も、藩の危難を慮りかく幕府の権威の墜ちた上は、我藩もなるべく隠忍持重して時節を待つ外はない、それには長州の使者に対しても温和的に談判をするがよいと主張した。そこで藩中において初めて両党派が出来た。而して一方からは自ら正義党と称し、他を因循党と罵り、また一方からはその正義党を過激党と呼んだ。けれどもあまりに無謀な挙に出ることだけは出来ぬという事に誰も落ち合い、長州の使者に対してはいずれ当方より使者を以て明答をするという事にしてそれを引取らせる事になった。それからこの問題はなかなか重大であるから、藩限りには決せられぬというので世子は遽に上京して幕府の差図を仰がるることになった。そこで私もお供をして京都へ行き、最前の寺町の寺院へ上下共に暫く滞留した。そして世子は直に二条城に登城され、新将軍慶喜公に謁見して右の事件を言上せられた。間もなく老中からの達しでは、その藩においてこの際兵端を開くことは宜しくない、また幕府から援軍も差立てられ難い、而してかつて出兵の際の放火一件に関しては、その挨拶として使者を立てるだけは、差支ないという趣旨であった。それは世子においては将軍に対して十分強硬なる決心を述べられ、併せて幕府の援助をも求められたからである。が、その頃の幕議としてはとてもそれに応ずる事が出来ぬ所より、余儀なく右の如き指令にもなったのである。そこで世子は直ちに帰藩せられることになったが、この時初めて外国船を借入れて、兵庫港より乗込まるることになった。それで大阪までは船で淀川を下り、それから兵庫までは陸路を取らるることになったが、その日私は非番に当っていたから、同じ非番の同僚とぶらぶら歩きながら兵庫へ行った。前にもいった従弟の山本新三郎なども同行していたので、途中湊川の楠公の碑を弔った。この碑は、その頃は田圃の中に、幾本かの松の木の下にあって、半丁ばかり隔てた庵室みたような家にそこの鍵を預っているから、それへ行きいくばくかの礼を払って案内してもらった。碑は辻堂位の小さな建物の中に建っていて、裏面に楠公の木像が祠られていた。それから右の案内者から碑文並に正成の筆という石摺などを買った。菅茶山かんさざんの詩『客窓一夜聞松籟月暗楠公墓畔村』を想出して、昼と夜とこそ違え同じ感慨を起したことであった。しかるに今日ではここらが神戸の目抜の市街となって、楠木神社も立派な宮居となり、周囲には色々な興行物さえ陣取っている。が、嗚呼忠臣楠子墓という文字に対しては、やはり昔の光景が似合っているように思われる。
 世子が帰藩せられて、幕府の指令を一般に告示されて、いよいよ正式の使者を長州へ差立てらるる事になったが、それには番頭の津田十郎兵衛というが家老代理として命ぜられ、それに目付の藤野立馬久松静馬河東喜一郎が同行した。勿論これは大島討入の際の挨拶というのみであったが、先方からは有名なる木戸準一郎が出て来て、防州宮市において応接した。而して木戸は、長藩の最初からの勤王並に奉勅の始末を縷々弁じ、是非貴藩にも連合せられたいと迫った。けれども我藩の使者は幕府の指令もあるから、この盟約は断然謝絶した。そこで彼は不満足でなお種々問答もあったが、結局不得要領な談判で、我藩の使者は引取った。従てこれだけではまだ長州方面の警戒は解けないのであるが、前にもいう如く、彼には既に薩州と連合して大なる企ても進行していたのであるから、その後は何事もなく経過した。
 しかるに我藩内では、この長州に対する事件からいわゆる正義派また過激派はいよいよ燃え立って、この際因循派の当局者を厳罰せねばならぬということになり、それに世子の側用達の戸塚助左衛門なども内より指嗾しそうしたから、馬廻、大小姓の平士組の有志者も加って、大勢が藩主に謁見してこの厳罰の事を申立てた。また最も過激なる輩の如きは、当局者の居宅へ詰め掛けて、割腹を迫り、承知せねば切殺そうという申合までをした。そこで私の父は多少学問もしているから大義名分位も心得ているのであるが、藩主始め家老その他の重役が、藩の立場の危難を慮るがために長州へ内使を立てるということになったので、それにも反対をしかね、その方便も多少時勢の変化を待つためにもなろうと考えていた。しかるにこれまで父は藩政の要部たる目付で、かつ世子の側用達を兼ねていたのであるから、この度の内使一件については父を首謀者位に見ている者もあったらしい。従て何時過激派が宅へ来て父にも危害を加えるかも知れぬというおそれもあった。そこで私も万一の際は如何したらよかろうかと考えたが、結局父と共に死ぬる他はない。で、もし父に迫るものがあったら、私は飛出して行ってまずその者らに切付けよう、勿論多勢に無勢だから、反対に切殺されるは知れて居れど、父と共に死ぬるのは子たるの道だと思って、余儀なきながらも決心していた。が、幸にそんな事も無くて済んだ。而して、過激派の建議は大体採用さるることになって、当局者はそれぞれ責罰を蒙った。即ち、家老の奥平山城、奉行の近藤弥一右衛門、大島へ内使に立った代官奥平三左衛門は隠居、目付で上席三人の皆川武大夫、野口佐平太と私の父、及び奥平の副使となった矢島大之進は目付支配を命ぜられて、いずれも謹慎せよとの事であった。そしてそれに関係して右の人の子弟もそれぞれ譴責を受けて、私も小姓を免ぜられて目付願取次となった。常に私を愛している祖母などは、この責罰を驚き悲しんで、『お父さんはともかくも、お前までがこんなことになるのはあまりにひどい。』といって愚痴をこぼした。しかるに父は常にもあまり感情を人に見せぬ方であったが、この際も自ら信ずる所があったと見えて、全く平気で一言も吐かなかった。時々親しい人が来て、過激派を悪くいう事があっても、父はそれらについては一切沈黙していた。尤も或る日のこと知人が来て、今度要路者の失敗はまた松尾屋の失敗だと世間でいっているといった。すると父が、憤然として『あの松尾屋と禍福をともにする』ということは意外であるといって、この時ばかりは十分不平の色を見せた。この松尾屋は今でいう御用商人で、奉行辺の権門にはよく出入して利を得ていた者である。で父の如きは彼をいつも憎んでいたのであるから、それと同じ運命になったということは頗る穢わしく思ったのであったらしい。この年の八月、祖母は熱病に罹って死去した。私は三歳で実母に逝かれた以来、厚く深く、保育の恩を蒙ったのであるが、かかる一家の逆境に立っている際、それを悲しみつつ他界せられたのは、一入ひとしお哀悼に堪えないのである。この病中にも、父は大小便まで自ら取扱って、他人に手伝わせず最よく看護した。悪いことはよく続くもので、間もなく父も熱病に罹って床に就いた。そして一時は危篤とまでいわれたので、親族一同心配した。この事が藩主にも聞えたので、従来譴責せられている者へは、そんな例は無いのであるが、特に小姓の水野啓助というものを父の従弟であるという関係から、表には本人の見舞だとして、内々藩主から懇切なるお見舞の言を賜った。その時父は、重病の身を床より起して感泣して御挨拶を申上げた。また当時の目付の第一席たる佃高蔵からは、もし父が死去した時は、まず内報せよということであった。これは、目付支配中に病死すれば、一旦家名は断絶して、忰が既に勤仕している時は三年目に僅に十五人扶持を賜って、家の再興が出来る例なのであるから、私の家もかかる運命に遇わねばならぬのだが、父は長年藩政に勤労しているので、特に父が万一のことがあれば、目付支配の譴責を解いて、家名断絶の不幸を免れしめたいという藩庁の内議であったらしい。かつこの内達は、父にも聞かせて安心させよとの申し添えもあった。それらのため家族は心配中にも藩主の思召や、当局者の厚意に意を強うする所もあった。しかるに幸にして父の病は快方に向って、歳末頃は病床にはいたが、もう大丈夫ということになっていた。
 これは少し前の出来事だが、私と同じ連坐して目付願取付となった野口勇三郎と二人は、藩から洋学修行として江戸表へ行けとの命があった。窃に聞けば、これは世子の思召で、私どもの才を惜み、父の責罰中ではあれど、特にこの恩命を下されたのであるらしい。また多少は久しく輔佐となっていた父に対しても、間接に慰藉されるお心でもあったろうか。さすれば私はこれに対して大に奮発し、この学を十分研究すべきはずであったが、漢学仕込みの私の頭は何だかまだ夷狄の学問を忌み嫌い、その他家庭の事情にもほだされたので、遂に平常信仰する彼の大原先生に縋って、右のありがたい恩命を辞してしまった。そういうと可笑しいが、学才には富む私だから、この慶応時代から外国の学問をしていたら、爾来かなりの大家にはなってはいよう。しかしそのため今日の俳人鳴雪とはなっているかどうか。呵々。
 少し遡っていうが、藩内の紛議やその他世間の状態も段々と劇変するので、藩主の温和なる性質では、もうそれらに直接することが厭わしくなられた。これに反して世子は、勇敢の気性で、進んで難局にも当りたいという風であったから、遂に藩主は世子に世を譲りたいと思い立たれその旨を幕府に出願された。そして、それが聞届けになるべき様子が知れたので、かねて朝廷と幕府のお召もあったからかたがた、世子は上京せられることになった。そこで幕府はいよいよ藩主の退隠と世子の家督相続を聞届けられて、同時にこれまで代々隠岐守と称せらるるのを、特に伊予守と称せよとの命があった。かつ同時に老中上席に列せよとの命もあった。老中上席といえば、往年桑名の楽翁公が十一代将軍の時、この職に当られて以来中絶していたのを、この度我が世子に命ぜられたので、それだけ幕府から、信任を得られたのである。世子はこれまでも、幕府の重職たる会津侯や桑名侯と常に出遇って時勢を慨し政務を論じ居られたので、かく幕府の施設も困難に赴く際、せめては我が世子を挙げて大いに努力してもらいたいとの両侯の考えもあったろう。けれどもあまりに重任であるからなお退いて考案の上お答をしましょうといって、世子は将軍の御前を退かれ、それから随行の家老の菅五郎左衛門、鈴木七郎右衛門、なぞに謀られたが、何しろモハヤ時勢の挽回は出来かねる際で、なまじいにこの重任を受けられるるは公私共によろしくないと申立てたので、世子の気性としては多少不本意でもあったろうが、遂にその言に従って辞表を差出された。が、幕府では容易に聞届られぬので、再応出願せられてヤッとのこと辞職を許された。それは慶応三年の十月で、この時は既に薩長へ向って討幕の内勅が下っていた時である。間もなく土州の山内容堂公は後藤、福岡等を以て慶喜将軍に大政奉還を勧めらるることになって、それには勤王佐幕両党の聯立内閣を作ることを条件とせられたのである。そこで慶喜公も内実困却されている際であったから、この建議を採用して、いよいよ大政奉還を出願せられた。すると薩長などははやくに朝廷の或る人々と謀る所があっていたから直ちに慶喜公の出願を採用され、いわゆる王政復古の大改革となった。そして要路に立つ人々はこの勤王党で、佐幕党は越前の松平春嶽公位の一、二人に止まった。かつ会津侯の守護職とか桑名侯の所司代とかも免職になった。そこで幕府方は驚くと共に不平を起し、就中会桑の如きは火の如く憤って、薩長と戦端を開こうとするまでに至った。そこで新藩主は老中上席を辞退せられたとはいえ、前より職としていらるる溜間詰(今でいえばまず枢密顧問官)の立場よりこの危機一髪の情勢を非常に憂慮せられて、或る夜などは二条城に終夜詰切って慶喜公に持重さるべきよう諫争された。尤も松平春嶽公あたりよりも同じ勧説があったので、慶喜公は遂に会桑侯等を率いて急に下阪せられることになった。そこで新藩主も共に下阪されることになったが、兼て朝廷より御召という命もあったのを、それにかかわらずかかる挙動を執られたので、既にこの時より朝廷向きの御首尾は悪くなった。
 明くれば慶応四年即ち明治元年正月は、早々から彼の伏見の戦争が始まった。私は前にいう如く、父と共に藩地に淋しく住んでいたが、前年末より再び明教館の寄宿を命ぜられて、以前の如く漢学を勉強することになっていた。忘れもせない新年の六日に京都から右の伏見の事変の急報があったので、我藩は上下こぞって驚愕をした。而してまず援兵として藩の一部隊を差向けることになったので、寄宿舎の同窓友人たる武知隼之助というが、これも出陣することになって、その翌日見送をした。それからというものは我藩は人心恟々きょうきょうとしていたが、十日に至って新藩主が帰藩されたという事が伝って士分一同三の丸へ出頭した。そして聞く所では、伏見の開戦以来幕軍は連戦連敗で、遂には大阪城へ籠城せらるることになり、慶喜公もその意を一般に達せられたにかかわらず、一夜会桑侯及び板倉侯を率いて、窃に仏国船に乗って江戸へ退去された。この際我新藩主には何の告知も無かったので我が上下共に非常に落胆した。かくなった原因を追想するに、まだ慶喜公が在京の時会桑藩は直ちに戦端を開こうとしたのを、新藩主は軽挙なきようと慶喜公へ建議せられ、その後公と共に大阪へ下られたとはいえ、会桑両侯は心に釈然たらない、しかも新藩主の実家たる藤堂藩は、幕府のために鳥羽を警戒していながら遂に官軍へ裏返ったので、これも新藩主に取っては、幕府に対して顔がよくなかった。尤も実家の藤堂兵を激励するため小姓で私の友人たる野中右門というを鳥羽まで遣わし、藤堂兵の隊長藤堂帰雲へその意を達せられたが、その頃はもう勅使が藤堂の陣中へ来ていて、方向は変じていたのであるから、野中には早々立帰るようにというので、やむなく大阪へ立戻ろうとした際、頭の上を幕府へ放つ砲弾が飛び出したということである。かようの次第で新藩主には徳川方より聊か嫌疑を受けられた結果であるか、遂においてけぼりを食わされたので、この上は帰藩してあくまで佐幕の旗を翻えし、赤心を明かにしようと決心された。折から前にいった藩の援兵が、その時一隻だけ持っていた藩の汽船に乗って大阪へ着いたので、藩主及びその従兵もそれに乗って、なかなかの満員で混雑を極めながらも上下共無事に帰藩されたのである。間もなく朝廷よりは慶喜公を始め会桑藩は勿論、姫路高松及び松山藩等を朝敵と目されて追討を命ぜらるるということになった。されど我藩の如きは、聊かも朝廷に対して異心あるのでなく、薩長等がみだりに徳川家を排斥し、横暴を極めると見るのみで、今日でいわば政党の圧轢と何の変りもないのであるが、口頭の宣伝や弁論とちがい干戈かんかを以て互に応ぜねばならぬのだから面倒だ。そこでよしや朝敵と目さりょうが、武門の意気地として、直ちに降伏することは出来ない。たとい孤立して滅亡を取るとも是非がない。殊に新藩主は徳川方に疎外せられた憤慨から、一層この志が強固であった。そこで帰藩の翌日であったと思うが、藩士一同三の丸へ出頭せよとのことで、私も出頭して見ると、新藩主及び前藩主はその居間へ、士分以上の者五人ずつ呼出されて、かく成行く上は致方がないから城を枕に討死する、従来の恩義上それを共にしてくるるならば満足であるが、異存ならば藩地を立去っても怨みはないというような熱烈沈痛なる宣告があった。僅に五人ずつがそれを聞くのだから前日の正午より翌朝の夜の明けるまで入替り立替りそこへ出た。私は同じ目付頭取次の仲間五人と、何でもその夜明頃に、この宣告を承った。そして誰一人それに対して異存を唱える者が無かったが、控席へ退いては、右の御達はあまりの思召切りだ、何とか今少し御思案もありそうなものだといって、彼処に五、六人此処に七、八人各々密議をこらす者もあった。私はそのまま帰宅して、まだ病床にいた父にそれを告げたが、父はこの上は致方ないと、嘆息したのみであった。従来伊予は大小八藩あって、我松山藩のみが真面目に幕府に心を尽していたのみで、同姓でも北隣の今治藩は、早くより傍観的であったし、南隣の大洲藩は既に勤王党になっていた。また背面の土州藩は有名なる板垣等が早くより薩長の志士と結んで伏見の戦にもおおいに働いたのであって、なお今度朝廷からは松山征討の命が下った。前面は海を隔てて、長州藩でいうまでもなく討入の怨みもあるし、今般これらも松山征討の命を受けた。そこで我藩は完く孤立無援の地に立ったので、このまま防戦しても遂には落城して、君臣共に討死するということはモウきまっている。そこでその少数ながらも藩の四境を固める兵員を配置して、それらがなかなかの騒ぎであった。その中まず土州軍は久万山まで侵入して、恭順するか防戦するかその決答を聞きたいという公文を送り越した。しかるにこの際我藩はにわかに態度が変じて、この土州軍に向って恭順を表するということになった。後に聞くと土州は右の如く公文を送ったにかかわらず、別に金子平十郎等の内使を以って、我藩の要路者に面談したいと申し来った。そこで最初は道後町において目付の二、三人が応接し、次に味酒神社の社宅において家老鈴木七郎右衛門その他が応接したが、土州の内使の口上には、山内家と松平家とは従来親族の間柄でもあるから、この度の事変は土佐守及容堂の非常に心配さるる所である、而して今日の如く薩長が横暴を極めていては、このまま捨ておかれぬから、早晩土州藩は起て諸藩を糺合してそれを掃蕩せねばならぬ。その際は是非とも貴藩と提携せねばならぬから、それまでは暫く隠忍して恭順を表せられたいというような意味であって、これは今も世間に知れていないだろうが、私は後年その鈴木より直接に聞いた所である。また事理から推しても、前にいった如く新藩主から決心を宣告せられたのみならず、家老鈴木等は籠城派の筆頭であるのだから、俄に恭順態度に変じたるには右の土州藩の勧誘位が是非ともなくてはならぬのである。
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十一


 いよいよわが藩が土州に向って恭順を表した上は、新藩主及び前藩主は、松山城北の常真寺へ退居して、謹慎せられ、土州軍総督の深尾左馬之助は軍隊を率いて松山城の三の丸へ入込んだ。そうして藩主の代理たる家老その他の役人で、城郭軍器また凡ての土地人民を、土州に差出すことになった。そこで私の宅は堀の内といって、この三の丸近傍にも多くの士族屋敷があった、その一に住んでいたから、他の人々と共に立退きをせねばならぬことになって、二番町というに継母の里の春日が住んでいたから、それへ同居する事になった。この藩主が立退かれた際だが、前にもいった過激党はまだ憤慨の気が納まらず、松山城で反抗することは出来ないまでも、遠く江戸に居る会桑軍に投じて、共に薩長と戦おうという考で、それには新藩主を擁立し同志者と共に海路江戸へ廻ろうということに内決していた。すると一方の恭順派はそれを知ったので、さような事があっては折角土州の勧誘に応じた詮もない、つまり藩の存亡にも拘るから、あくまで反対党を阻止せねばならぬ、それには遂に兵器に訴えてもよいとこれも内々準備していた。尤も過激党の江戸脱走は、藩に一隻の汽船があったから、それに乗込む考であったのだがちょうど長州軍が船で三津浜まで来たので、その汽船も分捕せられてしまった。依てこの脱走も挫折して事止みとなったが、その後、徳川家初め他の藩々も段々と恭順を表された形勢からいえば、これは我藩に取っては幸であったのだ。
 土州軍は前にもいった如き、内々の好意もあって、形式的にこそ我藩地を占領したのであるけれど、実際においてはただ三の丸に軍隊を繰込んだまでで、その他は何事にも手を着けない。それで藩の政庁は従来通り役々が出勤して事務を執る。その場所は明教館の学問所が広かったからそこを使用していた。また藩主父子の側仕えをする人々も従来の如く常真寺へ代りあって詰めた。しかも藩主の御機嫌を伺うといって一般の藩士も日々常真寺へ出頭した。けれども余り多勢一緒に行くのは土州軍に対し憚かれという内諭もあったので、その心得で三々五々目立たぬように行ったものである。そうして藩主のみならず臣下一同恭順しているのであるから、外出の際は必ず裃を着た。なお同じ恭順でも高松藩では藩士一同脱刀したという事だが、我藩には皆大小を佩びていた。
 しかるに、一方には長州軍が三津へ来ていたから、土州軍への申込みに、一応松山藩主の謹慎の様子を見届けたい、また城郭等も見分したいとの事であった。そこで土州軍はこれまで我藩へ用捨して、そんな事もせなかったのだが、長州軍へ対する関係から、俄にその総督が常真寺へ来て藩主父子に対面をするし、また本丸二の丸を見聞した。続いて長州総督堅田大和及び副たる杉孫七郎が常真寺へ来ることになった。以前は土州軍からはこの常真寺へも用捨して警護兵をつけていなかったのだが、長州へ対するため、この日から一小隊の警護兵を付けることになった。この小隊長は名を何とかいったが、今向うから長州軍の総督が、これも一小隊ばかりの兵を率いて来るのを見て、我土州で固めている区域へは長州兵は一歩も踏込まさぬもしも踏込むなら打払えといって、隊兵に玉込めをさした。その事が長州へも知れたので、長州の一小隊は遥か隔った所に止め、総督その他が少数の人数で常真寺へ来た。この土州の小隊長の挙動は、後に聞いて土州の総督も賞美しまた我々松山人も頗る痛快に感じたのであった。そこで常真寺の藩主側にあっては、何しろ官軍の総督が来るというので、それぞれ準備をして、一体ならば藩主定昭公は寺の門前へでも出迎われねばならぬのであるが、そこは病気といって、礼服を着用して書院の下の間まで出られて、上の間に通った堅田総督に対し朝廷向よろしくお取成とりなし下されたいとの挨拶をせられた。総督からも何とか口を聞いたであろう。而してそこを立去る際、副たる杉孫七郎は忽ち下座の藩主の側へ来て、ただ今は職務上失礼をしました。御心底は察し入るから、朝廷へは十分にお取成をしましょうというような、個人としての丁寧なる挨拶をした。これも我々松山人には聞伝えて頗る好感を与えた。なお前藩主勝成公もこの際堅田総督に面会されて、伜定昭事不束ふつつかを致して恐入る、よろしく朝廷向のお取成をという挨拶をせられたが、これは朝敵となられたわけでもなく、従四位少将はそのままでいられるのだから、それ相当の態度を以て応接せられたのである。
 かく我藩も恭順を表せられた上は、藩士内に党派などがあっては土州長州へ対して聞えも宜しからぬと、去年責罰された家老初めも総てそれを赦されて、あるいは役付をする事にもなった。そこで私の父は勘定奉行といって、財政の主任になった。また私も再び小姓を申付けられて、今度は前藩主勝成公の側付となった。つまらぬ事だが、私は小姓の再勤であるにもかかわらず、今度は総ての人の末席となった。それは父たる君公の側付の小姓が子たる君公の側付となれば、前の座席をそのまま持込むのであるが、子たる君公の側付が父たる君公の側付となれば、再勤と否とにかかわらず皆末席となるのが慣例なのである。そこで私は遥か後に小姓となった者よりも下に付いて働くことが何だか口惜しいように思った。けれどもこの小姓再勤を、私を愛した祖母に聞かせたら、どの位喜ぶかも知れぬのだに、去年亡くなったのを残念に思った。
 右の如く恭順中であるにかかわらず、藩庁は藩士の進退をするし、また家禄等も、最前いった人数扶持の制法で渡した。それから土州長州両軍の滞在費は総て我藩で支弁せねばならぬ、これがなかなかの物入りであった。また各郡の民政等は既に土州が占領したる上は、土州で扱わねばならぬのだけれど、やはり我藩の代官役に扱わせていた。ただ処々に立ててあった高札だけは、松山藩とあるのを、土州藩と改めてしまった。そうして松山城下は勿論土州の直接管理であったが、なかなか軍規は厳粛、少しも町方を凌虐するようなことはなかった。或る時土州の足軽位な軽輩の者が、古町の呉服屋で買物をして、僅の金を与えて立去り、即ち押買いをしたことがあったが総督はこれを聞くと直ちに斬罪に行って、その首四個を北の城門の外の濠端に晒した。
 しかるに長州軍は我藩地へ来たは来たものの、土州に先を越されているから、僅に三津浜と総ての島方を占領したまでである。そうして我藩の士民も、特に土州には親しむが、長州は余所よそにしているような風もあるので、長州は少し妬ける気味もあったろうか。
 そこで我藩は既に恭順を表した上は一日も早く朝廷の御沙汰のあるのを待っている。また段々と聞く所では、徳川家始めその他の朝敵となった藩々も、奥羽をかけていずれも恭順を表することになったので、最早佐幕主義貫徹の希望もなくなるし、この上はひたすら藩の安全を図る外はないという事に多くの人心が成行いた。しかるに突然朝廷から土州への御沙汰では、『定昭儀は賊徒要路の職に罷在逆謀に組し候罪不軽』とあって、まだなかなか寛典を蒙りそうな様子でない。この事が知れると我藩の温和党は俄に騒ぎ立って、この上は藩主に代って当時大阪に供をしていた家老の菅と鈴木とに割腹させ、その首を差出して申訳させねばなるまいということになって両人の家老の宅へ詰かけ、もし聞入れねば刺殺そうという事まで申合った。すると過激党の側では、そんな卑屈な事をするには及ばぬ、家老二人はどこまでも殺させないといって、壮士等はその邸を護衛して、強いて押掛けて来れば切払うということになったが、藩主始め藩庁ではそんな事の起るのを心配しまた右の朝廷の御沙汰に賊徒要路の職とあるのは、彼の老中上席を勤めていられたものとの誤認であるから、それを弁解されて、その当時既に辞職していらるる事実を明にしたなら、かかる厳重なる御沙汰も自然に取消さりょうと考えて、この事を土州総督へも十分に通告したので、それを山内容堂公等にも十分斡旋せられた結果、五月下旬を以て改めて寛典の御沙汰となって、定昭公は蟄居を命ぜられ、勝成公に再勤を命ぜられて、十五万石はそのまま下さるる事になった。尤も勤王の実効として軍費金十五万円を献納せよという別の御沙汰もあった。そこで我藩上下一同まず愁眉を開いたことである。
 遡っていうが、この以前藩主の奥方と祖母君は江戸の邸にいられたのを、士州総督へ出願の上藩地へ帰らるることになり外国船二隻を借受けて海路より帰着せられて、これは千秋寺という寺にすまわるることになっていた。
 いよいよ我藩も元の如くなったので、土州長州の両軍もそれぞれ退去するし、再勤された藩主勝成公は三の丸へ帰任せられた。そうして定昭公は東野の吟松庵というお茶屋へ移られ、ここで謹慎せられることになった。また私の一家も堀の内の宅へ帰住したが、土州の軍隊の号令厳粛であったとはいえ、随分汚なく住み荒して、私どもの残して置いた調度万端は散々に取り扱って、有る物もあったが無いものも多かった。
 この六月私は妻を娶った。これは継母の里の春日八郎兵衛の長女で、即ち継母の姪に当るもので、予てより約束が調っていたのだけれども、父の譴責やまた我藩の事変のため延引していたのを、もう憚ることもないから婚儀を挙げたのであった。そうして間もなく私は小姓勤務のまま明教館へ寄宿を命ぜられて、また往年の如く学生となった。
 この頃朝廷には諸藩の重役の職名を一定されて、執政参政というものを置かれたので、我藩でも家老は総て執政となり、参政に当る職はこれまで無いのだから、新に抜摘を以て命ぜられることになり、私の父も参政となった。また父と反対党とも目されていた戸塚助左衛門も同職となった。この戸塚は去年要路者排斥建議の殆ど主謀であったから、行為不穏というのでこれも要路者の責罰と共に責罰されて目付願取次となっていたが、その頃或る夜白衣のままで私の宅へ来て、父とは旧同僚でもあった辺から、一個人としての打解けた談をした。父ももとよりそこは同じ襟懐だから、長い時間膝を交えて談し合った。ここらはちょっと面白い交際であったのだが、はからずまた職務上でも坐席を並ぶることになったのだ。なお父の役については、前にいった勘定奉行になって、間もなくまた目付役に復していたのだが、この度家老に次ぐ重職となったので、私の一家は俄に家来なども多くなるし、家内が総て御歴々生活をすることになった。尤もこの年の七月に曾祖母も亡くなっていたので、今は継母と末弟彦之助と父と私とのみになったのである。
 この曾祖母は向井氏で藩では有名な軍学者三鶴の孫だが、戸主たる兄が或る不心得から家名断絶となって、実兄の竹村家に養われ、そこから私の家へ嫁したのである。しかるに向井家断絶より六十余年後、ちょうど私が十一歳で江戸から藩地へ帰った時、右の兄なる人が八十以上の高齢でまだ生きていて、三津浜に潜かに住んでいたが、絶えて久しき妹に面会がしたいと人を以て申越した。すると曾祖母は、『家名を汚した人には生前に逢う心がない。』と毅然として拒絶した。女ながらこんな気性の人で、亡くなったのは八十九歳、それまで小病もなく、時々煩うのは溜飲位であった。而してその終りは全くの老衰で、何の苦痛もなく両手を胸上に合して眠るが如くいた。その状態は今も私の目に残っている。
 この年の末に私は小姓そのままで、経学修行として京都へ行けとの命があった。而して明教館からも七等に進められた。そこで私はいよいよ藩地外で漢学生々活をすることになったので勇ましく出発した。この頃従来松山藩へ幕府から与えている領地家督相続の証として黒印ある書面(即ち将軍の御判物)悉皆を朝廷へ納付せよとの御沙汰があったので、それを入れたる長持を私がこの京都行のついでを以て保護して行けとの命を受けた。そこで出発の際それを先へ立てて、北の城門を出ようとすると、忽ち番所の詰合の者が下座と呼んで一同で平伏するのみならず、常には閉じてある大扉を左右に開いて私どもを通した。これは徳川時代に御判物に対する礼式で今もそれを遣ったのだが、私は初めてこんな待遇に遇ったので、少々面喰ったが、また意気揚々たる感じもした。この旅行は別条もなくて京都へ達し、まず御判物を出張の藩吏へ渡して、私は従弟の山本新三郎の旅宿へ同寓した。当時、藩主勝成公は本領安堵の御礼として、上京されていて、山本は目付となっていたが、これも諸藩一定の職制を定められて公議人公用人という、その公用人をも兼ねていた。この役はもっぱら朝廷向やまた各藩に往来して、藩の朝廷に対する公務を弁ずる者である。そうして段々と山本の話を聞くと、私のこの度経学修業として京都へ来ることになったのは、他の一面には、諸藩の情勢にも注意して何か変った事があれば藩の当局へ報知することをも心得ていねばならぬのであった。そこでそれの便宜を得るには、勤王藩の首たる薩州邸へ入込むのがよいというので、幸にその邸内に水本保太郎というが漢学塾を開いていて、それは我藩の藤野立馬と昌平塾の同窓であるし、また山本もこの頃はそこへしばしば往来して親しくなっているから、それへ既に頼んだということで、私はいよいよこの水本塾へ入ることになった。この山本の旅宿は京都の東北の吉田神社の傍で、藩主の本陣は真如堂であったから、私もあちこち往来して、また藩主にも拝謁することを得た。そうしてこの度入るべき薩州邸は相国寺に隣してかなり広い建物であった。
 私は薩州邸の水本塾へ入ったが、同塾生は過半薩州人で、他に高松藩とか、鯖江藩とか、肥前鹿島藩とかの人もいた。塾長は小牧善次郎で、後昌業といって、現今は御侍講を勤めて誰れも知る人だ。また宮内省で久しく要路に居た長崎省吾も当時は助八郎といっていた。また海軍中将だかにまで進んだ黒岡帯刀もいた。塾生で漢学の力ある人では、右の小牧は勿論白男川勇次郎というがあり、詩をよくする方では、伊地知とか吉国とかいう人もあって、私も親しくなるにつれて応酬をした。この時代の事であるから、塾生一同はあまり勉強をしない。多くはよそで酒を飲んで帰って来て大声で吟声を発しまた時世論をする。それから夜更けて戻った者が、既に寝ている者を起して、雑炊会を始める。それはまかないを呼起して残飯を大鍋へ叩き込んで、それへ葱大根などを切交えて、それを啜り合うのである。酒は欲しいけれども多く得られなかった。そんな事で夜中もガヤガヤ騒ぐが、水本先生は少しも叱らなかった。また一定の教授時間があるというでもなく、時々書生を呼集めて、粗末な肴ながらも酒を振舞う。先生ももとより酒好きであったから、塾生等も何ら憚ることなく酒を飲んだ。私は藩地を出るまでは全くの下戸でツイ三杯も飲めばもう嘔吐するという位であったのだが、この塾生の多数に感化されて、いつの間にか飲み覚え、一合位は傾けることになった。尤もこうして自分も多少の気焔を吐かねば、他の人々と共に同塾が出来ないからである。しかし感心なことには、薩摩人はいい合わしたように他藩人に対すれば頗る温和に接して少しも圧迫することなく、むしろ懐柔しようという風であった。そこで私も別に居苦しきこともなく、また学力や詩才だけは段々と認められることにもなったから、日々面白く暮していた。
 一体牛肉を食うということは昔は無かったので、江戸でこそ輓近ばんきん西洋通の人は多少食ってもいたが、京都ではまだ四ツ足だといって汚らわしいものとしていた。しかるに薩州人はこの牛肉を好み食ったので、それを売る者が邸前へ幾所にもむしろいて切売をしていた、これは皆穢多である。その他鴨川の川原でもそこここに葦簀囲いの牛肉販売店があった。これも薩州人を始め諸藩の荒武者を得意としていたのである。なおこの穢多の住居であるが、西京にも似ず三条の橋を東へ渡ると、大通のじき裏町に穢多町というがあった。そこでは既に牛鍋を食わす店があって、飯でも酒でも売っていた。この事は水本塾の人々の話にも上ったが、誰一人まだ穢多町へ行って牛鍋をつつこうという者はなかった。そこで私は夙よりハイカラになっていて、穢多も同じ人間だと理解していたから一ツこの穢多町の牛鍋を食って来て、薩摩隼人を驚かしてやろうと、或る日単身でそこへ行ったが、随分狭くて汚ない家であったけれども我慢して坐り込んで、牛鍋を命じなお酒や飯を命じた。そうして食っては見たが、実の処穢多の家だと思うと胸の工合がよくないが、ここが辛抱だと思い、酒力を借りて肉も二鍋、飯も二、三椀はやった。そこで水本塾へ帰って来て、今日はかくかくの事をした、これから諸君とも同行しようといったが誰も応じる者が無かったので、私は珍らしく同塾生をやっつけたのである。
 水本先生は酒を飲むから酒楼に行くことも度々で、酔って帰ることも多かったが、また塾生を同行することもあった。それは多く三本木の月波楼とかいうので、私も連れられて行って、いわゆる三本木芸子にも出合った。この頃私は七言律詩を二十ばかりも作って、紅楼の興味や何かを聞かじり半分に詠って、小牧始めの同塾生にも示し、また我藩の山本とか、医者で詩をよくした天岸桝玄などにも見せた。これがそもそも私の漢詩で多少の艶態を詠った始めである。
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十二


段々と話が今日現存の人にも及ぶから今回より人名には多く敬語を加えることにした。
 私は久しぶりで京都に来たのであるから、常に好きな芝居を見ることも楽んでいた一ツである。そこで折節四条の南座が芝居をやっているので、或る日行って見たが、生憎あいにく一等役者ではなく二等位の浅尾浅十郎が座頭に片岡松若が若手の花形、それに中村駒之助が客座で加っていた。『新薄雪物語』の三人笑いやテボの正宗その他を打通しの出し物で、とにかく久しぶりの上方芝居だから面白く見て、二度までも行った。翌明治二年の正月のこの南座は歌舞伎でなくて照葉てりは狂言に替って、少し失望はしたが、こんな物は始めてなのでちょっと面白く見物した。
 ちょっと一事余計な話しを挟んで置くのだが、この頃水本塾へ時々遊びに来る人に矢沢某氏というがあって、薩州での旧水本門人らしいが、その後奥羽征討軍の参謀部に従事してそれも今は解任せられていた。この人は最も詩才に富んでかつて桜を詠じたものに『薄命能延旬日命納言姓氏冒斯花、云云』の七律を作って同塾でも称賛を得たそうだ。しかるに輓近琵琶歌にこの詩を入れて作者は新井白石だといっている。これは白石の雪の詩の七律と間違ったもので、その体裁が全く同様なからである。尤も矢沢の桜の詩も無論それに倣ったには相違ない。
 新年早々東京では旧幕府の諸学校を再興されて、漢学専門の昌平塾を昌平学校と称してそれに国学を併せて教授する校舎が出来た。その他以前の開成所を開成学校と称して洋学を教授し、医学所を医学校と称して医学を教授する所となった。そこで水本先生は、昌平学校の一等教授を朝廷から命ぜられて、俄に東京へ行かるることになったので、われわれどもは頗る失望した。尤もその代りとして重野安繹しげのやすつぐ先生が来られたのであるが、やはり水本の方を慕うが上に、東京の見物もしたいという希望もあるので、薩藩人を始め、他の藩々の人もイッソ水本の教授せらるる昌平学校へ行こうということになった。私も山本公用人にこれを相談して許可を受けたから、他の学生と共に東京へ行くことになった。尤も水本先生は少し先へ出発されるので、走り井の茶屋まで一同が送って行ったが、先生に兼て馴染の三本木芸子なども数人送って来て、酒宴が開かれてなかなか賑かであった。それから見送りがすんで相国寺へ帰る途中寺町を通ったが、ある場所であちらこちらと人立ちがして何だかつぶやいていて変であったので聞いて見ると、今横井平四郎氏が誰とも知れぬ者に殺されたということなので、もう死骸は勿論血なども見えていなかったが、有名な人の凶事にわれわれも驚いた。
 京都の話しはまずこれだけで、われわれもいよいよ東京へ出発することになったが、同行者は多く薩州人で、他に一、二の他藩人もいた。而して塾長の小牧善次郎氏はこれも史官を拝命して陛下の御東幸に供奉することになったので、あとの塾は重野先生と三、四の学生のみが残ってガランと淋しくなった。私は安政年間十一歳で藩地へ帰った以来、再び見る江戸否東京であるから一入ひとしお勇ましく旅行したが、その頃はまだ幕府時代のままで、五十三駅の駅々には問屋があって、それに掛合って馬や駕や人足も出してもらった。尤も書生のことであるから多くは歩いて、よくよく疲れると荷馬の空鞍へ乗って聊か助かる位であった。が、予て私は健足だから、別に苦しくもなかった。宿屋は一行の大勢で泊り込むので、相変らず酒を飲んで雑談に夜を更かしなかなか面白かった。一つ記憶に残っているのは、何処の宿であったか忘れたが、朝早く店先で宿の女房などが騒ぐ声がする、私は何心なく行って見ると、抜身の手槍を持った侍が突立っていて、宿の女房は『ここは薩州様のお宿であります。』と繰返し言っていた。なお私の外にも同行者が段々起きて来て、そこへならんだので、右の侍はそのまま帰って行った。聞いて見るとそれは久留米藩の侍で、それらの数人がこの駅へ泊って、出立の際問屋の応接のしぶりが悪かったか何かで、例の気荒な九州武士の感情に障り、直ちに抜刀したから、問屋の役人は皆逃げ出した、それをあちらこちらと追掛けて、そこで私等の宿へも捜索に来たのであった。けれども薩州人が泊っている上に数人の若人が出て来たので先方も穏かに引取ったのであるらしい。また或る日川越しをする時であったが、旅客の多勢が集っていてその荷物なども容易に舟に積んでくれない。旅客はしきりにあせっている。そこへ或る老人の渡場の差図役が来たが、私の荷物に松山藩と記してあるのを見ると、忽ち「松山様だ、先へ早う。」と呼んで、誰よりも先へ私の荷物を運んでくれた。王政となった今日、松山も何もないのだが、徳川時代の御親藩たる威勢が老人の頭には残っていたと見えて、それには私も頗る今昔の感慨を起したことであった。
 東京へ着した晩は、二本榎の水本先生の母人の家へ他の薩州の人々と共に泊めてもらった。朝起きて見ると、もうその母人は大勢の男女の教場に臨んで、手習の指南や、漢籍の素読を高声に授けていられた。聞く所では水本先生はその尊父の代から江戸の漢学者で、その配遇も女ながらに漢学を修めていられた。その後尊父は亡くなられ、先生は薩州藩に聘用せられて、遂に鹿児島へ行って藩校の漢学の指導をせられていた。そうしてこの母人はやはり江戸に残って、そのまま家塾で幼年男女の教授をせられていたのであるそうな。一見してもなかなか気丈な婆さんだと見えた。その日水本先生はその頃有名な古川端の狐鰻へ学問上の或る知人を招かるるので、私どもにも同行せよとのことで、そこへ行って御馳走になった。客人は肥前人であったが、席上で七言律詩を作って先生に示した。先生は直ちに次韻して唐紙へ揮毫せられた。そして私へも次韻せよとの事であったが、少し臆したのか出来ずと了った。
 その頃我が藩の屋敷は、愛宕下の方の上屋敷は朝敵となった際に没収されたまま返されず、別に小石川見附内の高松の中屋敷を代りに下さった。しかし三田の中屋敷は元の如く下されたのでそこに留守居役や公儀人公用人なども住んでいた。公儀人は藤野正啓氏(海南)、公用人は梯渡氏、留守居は佃杢氏であった。私は藤野氏の寓所へ行って著京を届けて、そのまま泊めてもらった。私は東京へ来ればまず芝居が見たいので、その事を話すと、藤野氏もちょうど見たいと思っている所だと言われて、翌日猿若三丁目の守田座を見物することになった。この座の座頭は沢村訥升とつしょう、立女形は弟の田之助、書出かきだしは市川左団次であった。田之助は私が藩地にいる頃より継母方の伯母の山本が江戸から持帰った錦絵や番附でよく知っていて何だか見ずと贔負に思っていたのであるから、実は他の座よりも守田屋を見る事を藤野氏にも勧めたのであった。尤もその時の田之助は、既に脱疽に罹り横浜の医師のヘボンに片足を切ってもらっていたのだが、うまく他の片足を使って芸をして、何とかいった河竹作物の傾城遠山と飛高川の清姫を勤めた。訥升の安珍や左団次の悪僧剛寂などもまだ目に残っている。
 こんな見物ばかりしちゃいられない、いよいよ昌平学校へ入らねばならぬのだからその手続をしてもらって、間もなく許可されて学生となり入寮した。京都より同行の薩州その他の書生も前後して入寮したので、これら知っている顔とは朝夕打寄って話などもするから別に心細くもなかった。この昌平学校へ段々入って来た寮生でその後世間に知られている人を少しばかり挙げると前にもいったが、薩州藩では黒岡帯刀氏長崎省吾氏の外、川島醇氏西徳次郎氏山本権兵衛氏、大村藩では岩崎小次郎氏、肥前藩では松田正久氏中島盛有氏(当時土山藤次郎)、土州では谷新助氏奥宮正治氏、中村藩では相馬永胤氏、久留米藩では高橋二郎氏、富山藩では磯部四郎氏、高鍋藩では堤長発氏、処士では色川圀士氏村岡良弼氏などである。なお公家の子弟に八氏大名の子弟にも八氏あった。それから私の知っている所で、文章家では肥前藩の於保武十氏中村藩の藤田九万氏、詩家では小田原藩の村上珍休氏などであった。この頃はいずれの藩からも昌平学校が開けたというので、入寮生が頻りにふえる。そこで、幕府以来の旧寮の外にまた新寮が出来て、前後の通計では入寮生が四百人以上にもなったと聞いている。かく多人数が居るにかかわらず、余り勉強はせない。その頃の教官は漢学では水本先生の一等教授の外吉野立蔵氏が二等教授私の藩の藤野正啓氏が三等教授、国学では平田鉄胤かねたね氏が一等教授、矢野玄道氏が二等教授木村正辞氏が三等教授であった。間もなく官制を改められて、太政官その他の諸省が出来たので、昌平学校は大学本校となり、開成学校が大学南校医学校が大学東校となって、教員の職名も改正せられた。そこで水本先生と平田鉄胤氏とは大博士、吉野立蔵氏矢野玄道氏外に青山廷光氏川田剛氏が中博士、藤野正啓氏、岡松辰氏が少博士、これが漢学科、また木村正辞氏その他数氏が中少博士になってこれが国学科、なお大中少の助教があって、漢学では亀谷行蔵氏川崎魯輔氏が大助教塩谷修輔氏岡千仭氏が中助教、また井上頼国氏が中助教であったのだが、多分国学科であったろうか、その他も国学では数々あったが十分に知らない。尤も肥後藩の生駒新太郎氏は最初大寮長で、後に少助教へ転任したのだが、経学家であったから私は心安くしていた。なお少寮長の仙台藩の遠藤温氏と心安くしていた。間もなく私等の数名も経義質問係というを申付けられたが、その頃の事であるから誰も質問に来る者は無いので全く空名であった。それもそのはず博士あたりの講義をせらるる時さえも出席する者は僅の人数であった。実は私も国学の講義で木村正辞氏の古事記を一回聴いたのと、生駒新太郎氏の経書の輪講へ二回ばかり出席したのみであった。しかし私は生来読書が好きだから、他の者よりは勉強して、常に自室に籠って読書をした。書籍は旧来の昌平塾在来のものの外、幕府の紅葉山文庫の蔵書がこの大学に交付されていたから、それを借覧することが出来るので頗る都合がよかった。中には唐本の表紙の裏はベタ金になっているのもあった。これは将軍の座右へも行ったものであろうと思われた。私は藩地の明教館にあった頃漢文では例の紀事といったものはかなり書いていてこれは先生達にも褒められたので、自分にも漢文は出来ると思っていたが、その後御小姓を勤めたり、旅行などしたので、それらの事も全く廃していた。そこで、この大学へ入ったから漢文を書いて見たいと思い筆を執ったが一向に書けない。寮中の先輩に就いて相談すると蘇東坡の文を熟読したらよかろうというので、まず八大家文の東坡の所を頻りと読んで、中には数篇暗誦することも出来た。そうして筆を執って東坡の口真似見たような論文なども書いて見たが、自ら見てさえうまくない。それでも幾つかは書いたのが今も少々残っているが、私は生来文章は不得手なのであった。詩は理窟めいたことばかりいったとしても、それを作る才はあるので、今日は俳句の標準から稀に詩も作って見るが、昔よりは何ほどか詩らしいものが出来る。尤も漢文でも、多年多くのそれを読んでいるから、他人の作は何ほどかわかるが、自分ではもういよいよ気が挫けて二行三行のものさえ書けない。仮名交りの漢文でさえもやはりむつかしい。しかるに最近は口語体の文章が一般に流行するので、それはいつの間にか書き覚えて、今ではどうかこうか、自分の意志を現わし、また人と討論することも出来るようになった。
 その頃の在寮生中にも全く勉強家がないのでもない。私の寮の近傍に居たものでは、前にいった藤田九万氏高橋二郎氏などは随分勉強していたようだ。また文章家の於保武十氏とか詩人で村上珍休氏等とも往来してよく話し合った。また岩崎小次郎氏は大村の藩兵に加って奥羽から帰りだちというので、なかなかの元気で、誰かの書いた和文のナポレオン伝を高声に読んでいたのが今も耳に残っている。また高知の雨宮真澄氏谷新助氏等は随分乱暴家であって、就中谷氏は短刀を抜いて少年を脅迫したことなどもあった。その他戦争戻りの人も少なくなかったが、就中薩州人が多くて、それは皆散髪であったから頗る目に立った。何とかいった人は片腕を失っていた。要するに戦争上りのことでもあるから、人気は一般に荒っぽく、不羈卓犖ふきたくらくというようなことをたっとぶので、それだけ勉強するものは因循党と見做された。一体に多くの学生は昼間は外出して、懐の有無により大小の料理屋へ行って酒を飲み芸者を呼ぶ。また吉原や深川や品川へ登楼もする。そうして帰って来て気焔を揚げるのが誇りという風であった。私の入寮後間もなく、藩地の明教館の学友が上京してここへ入ることになった。それは由井弁三郎氏錦織左馬太郎氏杉浦真一郎氏山川八弥氏の四人で、以前の知人の外更にこれらの人を得たので、それからは多くこの同郷人と諸方へ出掛けることになった。が、私は他の人の如く多くの酒も飲まぬから、料理屋へ行くとか登楼するとかいうことは、附合いなら別段、自動的には余りせなかった。それよりも芝居を見るのが何よりも楽みで猿若の三ヶ町即ち中村座、市村屋、守田座の変り目変り目には必ず行った。尤も書生の懐だから奢ったことは出来ないが、それでもその頃は、桟敷は勿論土間でも茶屋にかからねば這入ることが出来ぬのだから、茶屋にも馴染が出来てそこから行った。そうして土間の割座でもカ、ベ、スの三品はその頃でも買わねばならぬのだから、それを買って土間の一人分と合せて、一分二朱位を払った。その頃われわれの藩から貰う給費は金十両であったが、太政官札が低れて[#「低れて」はママ]いたから、この札にすると十二両となるので、まず芝居だけは十分に見物することが出来た。また父からも時々送金してくれるので、私は寮生中でもまず懐の好い方であった。
 芝居では中村座の座頭が以前市村羽左衛門といった尾上菊五郎、立女形が坂東三津五郎、書出は忘れた。市村座の座頭は後に市川の九代目となった河原崎権之助、立女形は後に半四郎を継いだ岩井紫若、ここも書出は忘れた。守田座は前にいった通り。それから中村芝翫とか坂東彦三郎とかは、あちらこちらと助けに来て、これは特待の中軸になっていた。なお中村宗十郎とか、大谷友右衛門とか中村翫雀とか、東京へ来ては同姓名のあるのを避けた高砂屋福助なども、絶えず大阪から来て、これは客座に名を出していた。この年の七月であった、沢村田之助は久しく引籠っていたのが珍しく出勤したが、もう両足とも切っていたので、痛みを忍びながら寝たまま三勝半七の三勝が病中の所だとして、左団次の半七を相手に一幕だけ顔を見せた。その後またまた引籠ってしまった。その頃の芝居は随分舞台で猥褻な情態をして、それで見物の興を引く弊もあったが、その筋からも何らの干渉をせなかった。一体に、戦争上りで努めて人心を温和に導くという政策ででもあったのか、太政大臣の三条公さえも、維新の最初は吉原の金瓶楼あたりへ通われたという話しもあった。また山内容堂公は殊に頗る遊蕩を試みられたが、これは維新の際の或る不平を漏らされたものらしい。その他各藩の公議人とか公用人とかいうものは、互に交際と称し公然と遊蕩したものである。また高下にかかわらず官吏は今まで下層の生活をしていたものが俄に多くの月給を取るので、総てが奢り散らしたものである。もう百両前後の月給を取る内には、書生の二、三人を置き学資を給して学問をさせていた位である。
 この明治二年に諸藩一同は版籍の奉還という事になって、旧藩主は改めて知事を命ぜられ、執政参政等を大少参事としてなお正権の等差があった。そこで私の父も松山藩権大参事となり、これらと共に藩政にも改革が行われ、その結果私も小姓の役が解けて、干城隊(後に平士上隊と改名)に入ることとなった。尤も留学の命はそのままなのだ。それからこの頃弟の薬丸へ養子へ行っている大之丞が、大学南校の貢進生として藩地より出て来たので、時々昌平寮へも来て面会した。また芝居見物にも随分伴った。
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十三


 前にいったような次第で、私は多少見ぬ書も渉猟して勉強もしたが、わざわざ東京の大学に来ているというほどの益もなく、一面には芝居の見物やその他で遊び散らしているという風であった。そこで同郷の学友中にも、こんな事をして日を消しているのは無益だという説が起って、藩の出張員に向って、いっそ学問修業の命をやめて帰藩させてもらいたいといい出し、その許可を得ていよいよ東京を出発する事になった。尤も錦織左馬太郎は、先へ帰ったので、残っている由井弁三郎、山川八弥、杉浦慎一郎と共に私は三月朔日に東京を出発する事になった。そうしてこの帰途は東海道も陳腐だから、木曾海道を通って、それから伊勢参宮や奈良見物をして見ようといい合ったので、発足の日は板橋駅に泊り、それから段々と予定の道中をした。まだ記憶に残っているのは、妙義山が左り手に当って突兀と聳えていた事と、碓氷うすい峠を上るのに急坂でなかなか骨の折れた事などである。この峠を登る時、牛曳きが皆子供で、一人が十頭余の牛を追い立てつつ下って来る、その頃の事であるから路巾は狭く、最初はなんだか角で突かれそうで怖かったが、別段な事もなく峠へ達した。峠の茶屋では力餅というを売っている、私等の一行もそれを喰って力を得た。浅間山の麓をめぐる時はそのあたりが渺々たる曠原で、かつて噴火した時の大岩石がそこにもここにも転がっている、仰いでその頂を見ると一抹の烟が空に漂っている、その光景をちょっと珍らしく思った。それから随分疲れたのは和田峠を越える時で、別に急坂ではないが爪先上りの登り道が長いので一行も段々とへたばった。峠に立て場があって、赤飯を売っている、それを疲れた余りたらふく喰って少し腹を痛めた。この立て場は往年筑波山の落人で有名なる藤田小四郎が休息して、『将軍酔臥未全醒』、と詠じて壁に記したとの言伝えがあるが、それは後に聞いたので、私は見ずにしまった。それからこの峠を下ると諏訪である。温泉もあるが入らずに通った。ただ諏訪湖の向うに富士のうしろ姿を眺めた景色は今も目に残っている。それから或る駅に泊った時夕飯の菜に、丸く小さい二寸ばかりのものを幾個か皿に盛って出した。ちょっと見てなんだか判らん、かつて聞く所では、木曾の山中の人は蛇を喰うというから、この丸い長いものもあるいは蛇の付焼きではなかろうかと思って、私ども一行は互に顔を見合わせて箸を付け得なかった。そこで給仕の女に聞いて見ると、なんの事だ、チクワであった。喰っては豆腐だか何だか判らぬような味だが、これでも木曾山中では珍味としていたものらしい。宮越駅辺には路傍に旭将軍義仲の碑が建っていて、その兵を挙ぐる時の様子が詳しく記してあった。これはその子孫が後年建てたものらしい。右手の川を隔てて林中に鳥居が見えたが、これは義仲の社であるそうな。この川はいわゆる木曾川で、連日我ら一行と伴って右側を流れていて、折々は岩石に触れて白い泡を吐き、高い叫び声も聞かせていた。また珍らしく見たのは、既に三月の初旬(旧暦)であるに、梅が咲いている。そうしてまた桃も桜も咲いていて、百花ごっちゃまぜの景色である。そうかと思うと岩陰には残雪が白く残っていた。こんな事を漢詩などにも詠んで、木曾海道の主なる嶮岨もやっと終ったが、最後に十三峠というを越した時もかなりに疲れた。これは麓で、一行が酒を飲んだ元気で折からの月夜に乗じて越したのであったから、一人の人間にも逢わなかった。人間といえば、碓氷峠を越して以来連日旅客らしい者には一度も出逢わない、出逢うのはその土地の百姓位の者であった。一体明治の最初はまだ戦争も終らなかったので諸藩の往来も頻繁であったが、昨年函館の五稜郭が落去してちは、諸藩の兵も各引揚げて、上下交々一と休息という場合で、藩士などの往来は全く絶えていたのである。そこで私等の一行が道々つまみ喰いでもして慰もうと思っても、駄菓子一つもない、昼飯を喰おうと思って立場へ来ても、客を見かけて、初めて飯を炊くというような風で、待ちどおしかった。道中記を調べると随分名物も記してあるが、そんな物も一切目に入らなかった。ただ福島駅辺りにいわゆるお六櫛店を見たばかり。それから信州が尽きて美濃に入っては、気候もいよいよ春のたけなわなる様子となって、始めて普通の人間世界に出た気がした。ここらで珍らしく、両刀を帯びた侍の二、三に逢ったが、これは尾州藩の代官の手に属する人であった。このままで行けば、江州へ入って磨針峠すりはりとうげを越えて京都へ入るのであるが、前にもいった通り伊勢参宮をしたいのであるから、太田の駅から船に乗って木曾川を下って、勢州まで行くことにした。船が少しこの駅を離れた頃から、川の水勢は俄に急となり左右に聳えている岩石に触れて急湍は白雪を散らしてその響も雷の如くたけっている。そこでその舟も常のと違って首尾ともに同じ形で、極めて薄い板で幅狭く造り、それを二人の船頭が各々首尾に立ち分かれ、竹竿を巧く使って、岩石をあちらこちらと縫うように避けて舟を下すのである。私等は最初はモウ岩石に触れるかと思って、冷々したが、竿の操りがなかなか巧いのでそんな虞れもない。遂には安心して折からの日和で日向ぼっこをして睡りに入った。この難所は三里余もあったそうだが、それから川幅も広く平流となって、何らの危険もなくなったと共に平凡な景色となった。ただ或る時犬山城が左岸に櫓や石垣を聳えさせているのが目を引いたのみであった。この日は桑名へ着してまた陸路を貪って四日市へ泊った。翌日は追分駅で、例の饅頭をたらふく喰って、これも少し腹を損じたが、これからいよいよ参宮道で周囲には菜種の花が満開である。季節柄田舎からの参宮者も多いので、数々の講中が伊勢音頭を唄いながら、男女うち混じて歩いている。かつては絵で見ていた、三宝荒神、即ち一匹の馬に左右へ炬燵櫓を逆さにしたようなものを付けて三人の女や子供が乗っているのを実際に見た。津の駅では、問屋の役人が私の藩主と津の藩主と親戚であるという事で特に叮嚀に扱ってくれたのがちょっと嬉しかった。山田へ着いた日直に外宮内宮を参拝して、妙見町に止宿したが、その晩奮発して、古市へ登楼した。しかし古市踊りは金がかかるので見ずに終った。翌日は雨が降ったのでやはり流連して、三日目に伊賀を経て奈良に達した。この道は伊賀越と阿保越の二つがあるが、路の便から阿保越を取ったので、例の仇討の古跡は見ずに終った。奈良では猿沢池の傍に止宿して、翌日、春日の社や大仏その他を見物した。猿沢の池畔の、采女の社が池の方を向いて背面に鳥居の建っているのもちょっと珍らしかった。鹿はうるさいほどそこらを歩いていた、若草山は折からの若草で青々としていたけれども登らずに終った。奈良を立って路順なら直に大阪へ行くのであるが、ついでに京都も見たいという者があるので、伏見から道を転じて京都へ入って、三条橋畔の宿屋へ投じた。その翌日は祇園、清水、智恩院大仏、東福寺等を見物した。その頃の高倉の藩邸には留守居を改めて邸監といって、佐治斎宮氏というが住んでいたので、そこへも往って面会したが、我々は東京で文明の新空気を吸っているという誇りから、大気焔を吐いたので、先輩ではあれど彼れは驚いて沈黙していた。それから大阪へ下って、ここの邸監は皆川武太夫氏がいたが、ここでも気焔を吐いた末、一行にはう旅費が尽きていたので、各々旅費の借用を申込んだので、皆川氏は少し渋面作ったが終にいくばくかを流用してくれた。大阪の見物はそこそこに済まして、いよいよ藩船の便で海路は別段の事もなく松山へ帰着した。それからというものは、誰れに向っても例の文明談の気焔を吐き散らした。といって実際どれだけの事を知っているかというに、まず福沢諭吉翁の西洋事情三冊を読んだ位で、その他は江戸が東京となって以来多少の変化した状態を目撃したというだけである。されど藩地のみに蟄居していた者と比ぶればこれでもなかなかの新智識であったのだ。最近の詞でいえば、我々はハイカラである。ハイカラといっても今頃の青年よりは一層突飛な西洋崇拝で、日本の旧来のものは何事も陳腐因循だとして、一も二も西洋でなければならぬという主張であったのが可笑しい。私も今でこそ今日のハイカラ達をそしりもしいましめもするが、以前の私のハイカラは今日の人々よりも数倍のハイカラで、このハイカラ熱からいえば今の若い人々はまだまだ沈着しているのだ。そこで私どもの意見では、松山藩が維新の際に失敗したような事を再び繰り返してはならない、なんでも時勢に適応して、大いに藩力を振わねばならない、それには武備の振興が第一だといって、私は平士上隊でいるから、まず軍隊の調練に熱心に従事した。この頃の藩の軍隊は、蘭式を改めて英式となしていて、士分から卒に至るまで一様に従事させていた。けれどもいずれも熱心がない。それもそのはず、隊長たる者はやはり従来の家柄の老人や半老人で、号令のかけ方さえ、自分にも判らないから、その日のかけ声を扇子へ記して置いて、それを窃に読みながら進退を指揮するという風だから、隊兵の方からも充分馬鹿にしており、従って進退駈引等に号令が懸ってもぐずぐずしていたから、あるいは右向けといって、左向くやら、止れといってもまだ進むというような、不規則至極なものであった。私はそれを見て頗る憤慨したから、同じ隊中に立っても自分だけは本気にやっていた。今も記憶しているが、隣りに居た、背の低い某氏が号令を聞き誤って向きを違えた際、鉄砲を私の頬へ打ち付けたのでなかなか痛かった。そうしてこの頃の服装はやはり袴の股立ちを取って、尻割羽織を着て、頭には塗り笠を頂き、腰には両刀を佩びていた。私はこんな体裁ではいかんと思って、洋服一着を買って、それで出るつもりでいたが、まだ着ないうちに改革があって藩政に参与する事になった。この明治三年は朝廷から再度の藩制の改革があって、これまでの大少参事の外、大属少属、史生、庁掌、を置かれて、なお、藩知事の職権も制限せられ、或る事件以上は一々朝廷の指揮を仰がねばならぬという事になった。そこで、藩政もこれに準じて大改革を行わねばならぬという事になって、それには、私の父などはモウ局に当る気がないので、辞職する事になり、その他門閥家なども、文武両職とも段々と辞職する事になった。そうして引続き大参事でいたのは菅良弼氏鈴木重遠氏の二人、それへ新に抜擢されたのは山本忠彰と菅伝氏が権大参事、小林信近氏と長屋忠明氏が少参事、それから野中久徴氏東条○○氏と私が権少参事になった。以上の参事がまず藩政の内閣のようなものである。それ以下の大少属が、庶務、会計、治農、軍務、刑法、学校というように分科して事務を扱ったのだ。尤も少参事は正権共に一般の藩政に関係しつつ、また右にいった分科を主管する事になっていた。そこで、小林は会計、長屋は治農、野中は刑法、東条は軍務、私は学校を引受ける事になったので、藩の学政は思う存分に改革する機会を得た。予てのハイカラ病はいよいよ発作して従来の学規も教則もまた教官連をも凡てを廃止した。かつてもいった如く、藩学校の明教館は文政の頃我藩の名君定通公が創始せられたもので、学則の第一に『学は程朱に従ふべき事』とあったのだが、私はそれを取り除けて東京の大学の学規の『道の体たるや物として在らざるなく、時として存せざるなし』云々の文を掲げて、学科は普通科、皇典科、洋典科、医療科、算数科というを置いて、その普通科が実は漢学を主として日本の在来の漢籍やその他西洋の翻訳書等を教授させたのである。そうして、以前私どもが教えを受けた、老先生は凡てを免黜めんちゅつして、比較的年の若くて多少西洋の話しも判りそうな者だけを教官に残し、その他は、私の同年輩あるいはそれ以下の聞かじりのハイカラ書生などを用いた。尤も皇典科は藩地で多少それを研究していた神官連を用い、医療科は医者のいくらか学理を心得ているものを用い、算数科も藩地でも名を取っている数学者を用いた。それから洋典科は藩地では人を得られぬので、その頃は慶応義塾が多くの洋学生を養成していたから、そこへ懸合って稲垣銀治氏というを雇った。その後尚銀治氏の紹介で稲葉犀五郎、中村田吉両氏も雇った。尤も稲垣氏でさえ慶応義塾でピネオの文典とか、カッケンポスの万国史とかミッチェルの地理書とかいう位のものを読んだくらいのもので、発音は凡ていわゆる変則読みであった。それから、普通科においても、経書や歴史は以前のものを用いたが、その他西洋物ではやはり西洋事情を第一として、上海出版の博物新編、地球説略、などを用いた。こんなものが藩学校で教えられるので、旧来の先生連は一同顰蹙していたけれども、さすがに何ともいわなかった。また軍隊ではその頃は英式よりも仏式の方がよいという事になったので、特に東京から、武蔵知安氏とその門人の五、六名を聘傭して訓練させた。この武蔵氏一行は、函館の五稜郭に立籠って実戦の経験のある人なので、本名は隠していたがなかなか江戸子気性でテキパキと物をいうし、軍隊に対しても用捨なく叱り付けて訓練していた。そうして一般から見ても当時の藩政の当局者はまず武張った者が多いので、もし命令に違えばどんな厳罰に処せられるかも知れぬという恐れがあったから、他より来た教師であるにかかわらず、よく柔順に服従していた。因てここに始めて我藩にも軍隊らしきものが出来かかったのだ。またその頃は騎馬隊といった騎兵の事に達している何とかいう人を聘用して一小隊位の騎兵をして教練せしめた。凡ての藩兵で仏式に編成するとまず一大隊位のものが出来たので、その上長官を少佐と呼んで、それには、私と同務であった、東条氏が自ら好んで任ぜられた。そうして、その代りに村上質氏が入って来た。この人はなかなか才物で軍政上や武蔵氏の応接等も巧くやっていたようである。これらは多く明治四年の事で、今回の大改革を決行したのは前年の閏十月であった。その大要をいえば、従来の門閥を悉く廃止し、最近の位置の等差に依って、一等士から十等士までの待遇を与え、従来の士分と徒士と、これに准ずる十五人組とを一般に士族と呼び、士分以上を旧士族、それ以下を新士族と分けた。旧士族は一家に付二十俵と、家族一人に付一人半扶持を与え、新士族は一家に付十俵家族一人に付一人扶持を与えた。従って三千石の家老も、九石三人扶持という最下等の士も、士分は同じ収入となったのであるから、随分一同を驚ろかせた。尤もその際一時に一箇年分の家禄は等差に応じて特別に渡したのである。それから今いった十五人組以下の無格、持筒、足軽、仲間の四段の卒は凡て暇を出した。そうして、その需用に応じて、新たに使用する者をやはり卒と称し、軍隊にもまた通常の事務にも従事せしめた。なおこの卒を廃する際にも若干の一時手当を交付したのである。けれども俄かにかく解放せられたので、この卒団のものは、非常に憤怨して陰では散々当局者を罵っていたが、まさか反抗するほどの勇気もなかった。憤怨といえば、士族以上も門閥を失い家禄を奪われたのであるから、随分不平を唱えていたことは勿論である。要するに当時の藩庁はかような空気の中に孤立していたのであったが、大参事の鈴木重遠氏を始めが胆気もあって改革に熱心であったために、何ら顧慮する所なく諸事を断行した。尤も私はただ東京帰りの聞きかじり西洋通の青年であるから、さほど度胸もなく見識もなかったのだが、年の若いだけに別に心配もなく先輩に追随していた。殊に学校の改革は多少自分にも考えがあったから、老先生の眼前で突飛な改革をしてそれには多少得意と興味を持っていた。が、宅へ帰ると永年藩政に勤労して実験にも富んでいる父が控えているので、なんだか極りの悪い感じもあったが、父は藩政の改革に対しては一言もせず、かつ私をも咎めなかった。父は従来富貴功名には淡泊で、ただ昔気質な君に忠義を尽すという一点張りであったから、藩政の局に当っては人言をも顧みず信ずる所は熱心に努めたが、一旦時勢の変遷を看破して身を退いた以上は、忽ち洒々落々として少しも愚痴をいわない。申さば諦めがよい、これから後は貴様達でやりたい通りに遣れといったような風でいた。父は若い時、勝成公の君側に仕えた時分は、その御相手として多少読書もするし、詩なども作っていたが、それ以来忙しい職務となったので、それらも廃してしまった。しかるに最近閑散の身となったので、ぼつぼつ読書もするしまた詩を作る事も始めた。そうして、この詩だけは私にも示して批評を求めた。またその頃の邸地面はかなり広いが上に、隣地の空き邸を幾分貰い受けていたので、そこに畠を拓いて、父は自分で鍬を執り肥を蒔きなどして、そんな事で充分精神を慰めていた。
 その頃東京では段々と脱刀とか散髪とかいう事が始まって、後には廃刀令というのも出たが、まだ最初は随意にやりたい者がやったので、その事が藩地へも知れたから、私は同僚の二、三と共に直に散髪になった。刀の方はその頃の事とて少し、用心もせねばならぬから一刀だけを帯ぶる事にした。この一刀も東京あたりでその頃流行したもので、これまでの大小の、大よりも少し短かくして、その飾りは、奢ったものは純金にし、次は純銀にした。私の同僚でも長屋氏は金があったから、東京へ出張して帰った時金刀を閃かしていたが、私は貧乏だから、やっと銀刀を造ってその真似をした。
 この藩政改革に引続いて藩知事公新邸が出来た。これまで代々の藩主は三の丸に住まわれて、或る点においては公私混合という風であったが、朝廷からの命令で、藩主の暮し向きは、藩の収入十分の一を下附せらるるという事になり、その暮し向きの変更からも別に居宅を構えらるるの必要が生じて、即ち知事の官宅という姿でかような新邸が出来たのである。この新邸落成の祝宴には参事一同をも招き酒宴を開かれたが、以前は家老でさえも膝行して盃を賜わるという風であったのを、そんな虚礼はやめねばならぬといって、知事公と同席で盃の献酬などもして、酔いが回ると雑談もするので、君公に近侍の家職の人達などは、いささか眉を蹙めたが私などは反動的に随分平民主義の態度を執ったのが今から思えば可笑しい。
 その少し以前藩庁の建っていた三の丸が焼けた。これは大賄所という支度を司る役所の引けた後小使部屋から出火したので、既に私どもは退庁していたが、聞くと直に馳け付けたけれど、火勢が盛んで消防どころか、殆ど何一つ出す事が出来なかった。それで松山藩創立以来の日記その他あらゆる重要な書類が悉皆焼けてしまったのは惜しかった。最近私どもが久松伯爵家から嘱托せられて、旧藩の事蹟を調べる時もこの焼失のため頗る不便を感じた。また藩知事公の居間も勿論焼けたので、一時二の丸の方へ転居せられ、間もなく前にいった新邸が出来てそこへ移られたのである。
 この頃徳川慶喜公を始めその他一時朝敵の名を蒙り蟄居を命ぜられた藩主連も、寛典を蒙り平常に復して位さえ賜わる事になったので、前藩主の定昭公も同様の御沙汰を蒙られて、改めて従五位に叙せられた。そうして藩知事勝成公は余儀なき事情で再勤せられたのであるから、定昭公にしてかく平体に復せられた以上は、それに知事の職務を譲りたいと思われ、その筋へ出願の上、いよいよ勝成公は隠居せられて、定昭公が藩知事を拝命せらるる事になった。
 この頃の事である、幕府時代から引続いて切支丹宗門は禁制であって、その信徒は厳刑に処する掟であったにもかかわらず、長崎地方にはこの信徒が絶えなかった。尤も王政維新の際、一時は神道派が勢力を得て仏教さえも廃せらるるかの噂さえあったほどだから、切支丹宗徒は無論厳罰にも処せらるべきであるが、既に外国と交際を開きその公使も来ているし、就中英国のパークスはこの信徒についても種々干渉するので、その取扱いさえ多少寛大にせねばならぬ事情となった。そうして少し以前長崎地方の切支丹信徒は或る藩々へ数十人ずつ分かち預けて、改宗の説諭をなさしめらるる事となり、我松山藩へも三十人ばかりの信徒を預かっていた。しかるに或る時朝廷からの御沙汰に中野外務権太丞がその藩へ出張するとの事で、間もなくその一行が到着したが、その用向きは、兼て預けてある切支丹信徒の事であった。しかるに、藩では、かつては厳刑に処せらるる位な者の事だから、凡てを獄屋へ入れ、男女も区別してあった。因てその事を答えると、さように過酷に扱ってはならぬといわれ、なお説諭方等の事も聞かれたが、実の処藩ではそんな事も余りにせないで、特別の掛員さえ設けてなかった。そこで俄に私へ学校係の外異宗徒取扱係という兼務を命ぜられた。そうして、権少属の和田昌孝氏史生の伊佐庭如夫氏にも同じ命があった。そこで、まず中野権太丞を案内して、獄屋において切支丹信徒の状態を見せた。この獄屋は城下外れの三津口にあって、やはり厳重な格子造りになっていたが、錠前を開けると、権太丞一行がまず這入って行く、そこで私等も這入ったが、獄屋は私には始めての事だから、頗る汚らわしく穢く思った。殊にこの信徒には、他の囚人よりは寛大にして少しの煮焚なども許していたから、その火気が充ちているので、一層臭気も甚だしかった。中野権太丞は、それらを見分した後、今後かような所へ置く事はならぬ、また一家の男女を分ち置くという事も悪いから、それを改めよとの事であった。因てこれらの信徒を置くために、城下外れでお築山という方面に卒の下等に属するお仲間という者を置いてあった棟割長屋があったのを他へ移して、そこへ信徒を住わして、一家は一戸ずつ同居させて、夫婦も子供も団欒させる事になった。子供はこれまでは女監の方に入れていたのである。そうしてこの信徒に或る一人はなんと思ったか早くより改宗したいと申し出たので、それだけは、獄屋以外に置いて特別に労っていたのであるが、この際同じ長屋続きに住う事になったので、その人が他の信徒に対して顔を合すのが極りの悪るそうな風をしていたのも可笑しい。これらは少し後の事で、中野権太丞は右の獄屋を検分した翌日自分にも説諭がしたい、また藩の役人達の説諭の様子も見たいとあったので、町会所という所へ信徒を呼び寄せ、庭へむしろを敷いて坐らせ、権太丞始め我々の藩吏は座敷やあるいは縁側に居並んだ。それからまず権太丞が信徒に向って説諭を始めた。随分厳正な態度で声を荒くして叱りつけるように言ったが、信徒の中の何とかいう頭だった一人が、何らの怖れ気もなく、答弁して、上帝や基督キリストの威霊を主張し、貴君方の御役人がそれを信仰せられないのが、かえって不都合だというような事まで言いかけた。中野はそれを『黙れ』と一喝してやはり説諭を続けた。そうして別席へ退いて、私どもへいうには、今日かように烈しく言ったのは、わざと敵役に廻ったのであるから、藩の方々は、これに反して、温和に説諭さるるがよい、その方が利き目があろうと注意した。そこでこれから私が説諭せねばならぬのであるが、未だ書生上りの無経験者であるから、伊佐庭史生に代って遣ってもらった。この人は弁舌もよく、多少の心学道話などの心得もあったから、権太丞の注文通り温和で寛大なる態度を取り、色々と譬えなどを引いて、なかなか巧く説諭をした。この時も信徒の頭だっている某は随分抗弁もしたが、それも充分に聞き入れつつその心得違いである旨を申し聞け、結局互の言い白らけでその日は引かせたが、中野権太丞も頗る満足して、なお私どもに取扱方を注意して置いて藩地を出発した。けだし他の囚徒を預っている藩々へも赴かれたのであろう。何しろパークス公使の圧迫のためには、日本全国に建てられていたいわゆる三札の中の『切支丹邪宗門禁制之事』とあるのを、『切支丹禁制之事、邪宗門禁制之事』と二行に書き改められた位だから、右の如く宗徒の取扱を寛大にせらるる事になり、わざわざ外務の高等官が、諸藩を廻るという事になったのも不思議はない。そうして、これは後の話しだが、廃藩置県となった際、この信徒は石鐵いしづち県へ引継いで、それから間もなく朝廷より放免の御沙汰があって元の長崎地方へ帰されて、切支丹否基督教もいよいよ黙許の姿となってしまったのである。
 この四年五月妻は長女を生み、順と名づけた。
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十四


 これは昨年大改革の後の事で、父は従来の勤労の関係から、旧家老などにぐ待遇を得て二等士となっていたが、突然知事家より伊勢の藤堂家へ使者に行く事を頼まれた。それは知事家奥向に或る事情があって、参事あたりよりも、それについて配慮した結果、定昭公の実家である藤堂家に諒解を求むる必要があったので、父は外交にも馴れているという事から、実は藩庁の推薦に出たものである。その往復は僅の日数で、帰って後の話しに藤堂家では頗る優待を受けて、漢学者で名を知られている土井※(「敖/耳」、第4水準2-85-13)どいごうが氏やその他画家などを召されて、藤堂知事公も臨席して酒盃を取交わされたという事である。この伊勢から戻って間もなく父は隠居を願って、家督を私へ譲った。家督といっても以前なら、家禄があるのだが、この頃は最う士族一般が平均禄で、前にもいった、一家につき廿俵と家族一人につき一人半扶持とを先代の如くもらうのみである。尤も私は権少参事を勤めているから、この年俸は別に貰っていた。父は隠居と共に櫨陰と号して、それからはもっぱら詩を作りまた拙筆ながら書なども書いた。そうして常に文事の交りをしていたのは、漢学者では伊藤閑牛翁、医師では天岸静里氏などであった。
 この頃東京の藩邸では、公用人が、もっぱら朝廷に対する用弁をしていたのだが、それの監督かたがた、大参事と少参事とが替り合って出張する事になった。そうして大参事は、正権共に公儀人の役目も持った。そこでその頃少参事の小林信近氏が東京へ出張したので、氏がその頃管理していた、刑法課を私が暫時代理した。即ち学校課の外にこの刑罰等に関する事務にも関係したのである。その頃の白洲というは罪人を訊問する処で、刑法課の属官が主任となり、その下に同心とか、手先とかが囚人を直接に取扱った。故に権少参事の私は、それを隙見をするのみであったが、その頃の事とて、罪ありと認めた者が容易く自白せぬ時は、拷問にかけた。拷問法も種々あったがまず軽いのは、灸を握りこぶしほどに大きくかためてそれを衣をまくった膝の上に置いて火を点し、漸々と燃え立っている火が下へ喰入って行く、そこで今に痛くなるぞと言って手先が脅す、囚人も最うたまらぬから、申上ます、申上ますというと、その灸を払い捨ててやる。けれども、強情なのは随分その大きな灸の火に苦痛を忍ぶものもあった。それから、鉄棒挟というがあって、鉄の二本の棒の一方を釘止めにしたその間へ足を挟んで上から締め付ける、すると骨まで挫けそうで痛いから罪人は白状する。あるいはその鉄棒挟みを衣を捲った膝の下へ敷かせて、その膝の上へ大きな石を乗せる、二ツ三ツと乗せると、膝は上下で圧迫されて痛むから白状する。まずこれらの拷問を普通にしたもので、その他にも種々の拷問器具が置いてあったが、これは威かしのためで多くは用いなかった。そこで、今いったような拷問を私も隙見をせねばならぬことになったが、最初は見るに忍びず、また少しは怖いような気もしていたが度重ると、もう何の感もなく、強情な奴にはまだ少し強く責めてやってもよかろうという感を持つようになった。人間の残酷性はつまりかような習慣から養成されるのである。また或る時、かつて私の知っていた士分で某という人が、藩の紙幣の贋物を造ったというので訊問に遇った。隙見だから私の顔は見せないけれども、その人の顔は充分に見えるので、多少気の毒な感がした。これも正権少属が主任となって調べたが、士分の事であるから、最初は椽先へ薄縁うすべりを敷いて、そこへ脱刀した袴姿で坐らせて、段々と訊問したが、存外包み隠さず、ありのままを申し立てたのであった。その翌日また隙見をすると、最う某は袴も脱がされて、白洲の筵の上へ坐らせられて、なお問い残りの事を問われていた。これは士分の格を奪われて、平民扱いにされていたのである。この人は以前の藩の例では死刑を免れぬのであったが、その頃朝廷から新律綱領が頒布されたので、贋金等も百両以下は死刑に処せぬ事となって、この某も何年かの徒刑で済んだ。
 このついでにいって置くが、他の藩々でも多くはそうだが、私の藩でも久しき以前より紙幣を発行していた。これは銀札と銭札との二種があって、銀札は何の都合であったか余り世間には行われないで、もっぱら銭札が行われていた。銭札で大きなのは百もんめ、五十匁、それから十匁、五匁、一匁、五分、三分、二分までがあって、その銭の額やその他の文字の外、七福神とか、鯉の滝登りとかが描いてあった。そうして百匁が六貫文であるから、十匁は六百文、一匁は六十文という定めであった。勿論銭の代りに発行する訳だから、いつでも銭に引換えて遣らねばならぬのだが、藩の威勢と、人民の信用とで必要がなくては、それをせない。必要とは士民誰れに限らず、藩外へ旅行する時と、商人が物貨を藩外で仕込む時とである。この時は御掛屋という役所が立っていて、そこで引換をする。尤も銭のみでなく、金銀をも渡した。こんな事で、何時必要があれば兌換が出来るから、平常藩内での売買は士民共に紙幣で済ませて、何らの不便も感ぜなかったのである。今でいえばその紙幣は彼の日本銀行紙幣も同じようなものであったのだ。そうして兌換の準備の金銭といった処で、年々する旅行とか、貨物買入とかもほぼ極りがあったから、それだけを見込んでお掛屋に備えて置けば、藩内の理財上には何らの支障もなかった。これは後の話しだが、藩を廃して県となった際に、この藩々の紙幣は悉皆朝廷より正貨と引換えられた。その引換えの率は藩々の市価に依るものとせられたが、松山藩の紙幣は、六貫文の百匁が、五貫文の割合であったから、所持している市民も余りに、損をさせなかった。聞く所では、従来財政の困難であった藩や、就中維新前後に多くの藩費を要した藩は、準備金のない紙幣を濫発して、その結果廃藩の頃は非常に低下して、半分以下十分一にもなっていた処があったようだ、そこへ行くと私の藩はかつてもいった、桑名楽翁公の甥に当る定通公が藩の文武を奨励せられ、就中財政に意を致されたために、その後数代を経てもこの遺法を遵守していたから、維新前後に藩費の増大し、殊に、十五万両の献金をさえ命ぜられたにかかわらず、右の如く紙幣と正貨との差が僅かで済んだのは士民の幸福であった。しかし前にもいった昨年の大改革で、平均禄をしたのは随分思い切った処置で、この事は一般の士族に大いなる迷惑をさせたのである。聞けば、他の藩々では幾等かに分って禄制を定めた所が多い。就中薩州とか長州とか、その他重なる勤王藩では、少しも禄制を変じていなかったそうだ。それもそのはず、朝廷では外国に対する国力を養うには、是非とも封建を改めて郡県にせねばならぬという、内々の評議で、それが漏れていたから、藩限りに士族を困らせるような改革はせなかったのである。しかるに、私どもは少しもこれら内議を知らず、まだ藩は永く存置せらるるものと信じ、その藩力を養うためには、士族の禄を減少し、文武の諸政を振興するのが、かつて朝敵となった恥辱を雪ぎ、また時世に応ずる朝廷への報効だと思っていたのである。
 いよいよ四年の七月に朝廷から廃藩置県という御沙汰があった。そこでわれわれは喫驚して、右等改革もその効果を見ることの出来ぬのを遺憾としたが、元来われわれには例の開化主義であるから、日本の国勢においては、廃藩置県は適当であると思って、この上は自分らの企画が無駄になった事よりも政府の大英断に向って心窃に謳歌した。勿論祖先以来戴いた君公と離るる事は人情として忍びない処だけれども、日本の存立上に考え至れば如何ともし難いと諦めた。しかし一般の士民にあってはその点には何らの智識もないから、非常な驚愕を以てこの御沙汰に対した。尤も藩籍奉還後、藩主が藩知事となられた上は、久松家はほんの或る役目を旧藩地に務めていらるるだけで藩地は既に旧来の如き領分ではなく、従って君臣の関係も既になくなっているのだが、領主がそのまま知事となっていられるので、それらの制度や事実が全く判っていなかったのである。そこで今般の廃藩置県は久しく戴いた、殿様を一朝にして失うのだと思う事から、驚いたのも無理はない。しかのみならず知事にして一度藩地を去らるる上は、如何なる人が来て、松山を治めて、如何なる虐政を施すかも知らぬという惧れもあるので、これはどこまでも知事の留任を乞いて、藩であろうが県であろうが、相替わらず、久松家の政治の下にありたいという事を希った。即ちこの廃藩と共に、知事は従来の公家達と同じく華族となって東京へ移住せらるるからである。
 この知事留任の希望は終に具体的の騒動となって、その先発は城下から七里離れた山分の久万くま山であった。この久万山は浮穴うけな郡の一部分であるにかかわらず従来一郡として取扱われていた位広い地域であるが、その全部が互に申合って、竹槍蓆旗で城下へ強訴するという事になった。かような騒ぎが起っては、第一朝廷に対しても済まぬというので、当局はいずれも心配した。就中久万山租税課出張所の権大属藤野漸氏は種々説諭もしたが、なかなか聞き入れぬ。そこでこの上は兵力を以て鎮圧してもらう外はないといって、単身藩庁へ駈け着けた。けれども大参事鈴木重遠氏は剛胆であったから、未だ兵力を借るには及ばん、自分で説諭するといって、少参事長屋忠明氏を具して数人の属官と共に久万山へ赴いた。そうして、租税課出張所において二、三の頭立つ者を呼んで説諭しようとしたが、誰れも出て来ない。かえって総勢はその出張所の門前を吶喊とっかんして過ぎ行きいよいよ城下の方へ向う様子となった。そこでやむをえず鈴木氏も長屋氏と偕に藩庁へ引揚げたが、さすがにまだこの両氏の一行に危害を加える者はなかった。しかるに租税課の少属重松約氏は、いらぬ事だに一人洋服を着ていたから、暗夜の事といい群衆中に、それ西洋人が来たと叫ぶ者があるや否や数人が竹槍を持って重松氏を馬から突落して、かなり重傷を負わせた。既に大少参事は引取るし、藩の官吏に重傷を負わせるという事になったから、一揆はその勢で久万山を下り、浮穴郡の他の部分や久米郡伊予郡へも同様に蜂起の煽動をした。そうして出て来ねば家屋を焼くと威かしたのでいずれも久万山の一揆に加勢することになった。もとより知事公留任の希望というは、藩地全般にそうなのであるから、多くは待っていたといわぬばかりに一揆に加わったのである。そうして手始めに久万山以外の浮穴郡を管轄している租税課出張所を焼いた。そこでここにいた権大属石原樸氏も藩庁へ来て、この上は是非といって出兵を求めた。
 この一揆の起った事を旧知事の久松家にも聞き込まれ、このまま捨て置かれぬといって、まず旧家老あたりの者やその他藩の元老顔をしている者に説諭を托された。従って私の父櫨陰もこの仲間に加って、彼方此方と奔走して説諭をしたのであった。がなかなかそれらの説諭には承服せない、一揆の与党には温泉おんせん郡、和気わけ郡、風早かざはや郡、野間郡等も加わって、残る処は周布郡桑村郡のみであった。この両郡を管轄している租税課出張所の権大属白井守人氏は殆ど身を挺して熱心な説諭をしたのでわずかに防ぎ止めたのであった。しかのみならず、城下に居る士族や解放された卒なども、改革に遭って門閥家禄を失い、あるいは平民に落されたという怨恨もあるから、何か事あれがしと思う矢先にこの一揆が起ったのだから、いよいよそれが城下に繰り込む時は、共に力を協せて藩庁を攻めて、大少参事を殺戮してしまおうという考えの者も尠くなかった。そこで藩庁はかつてもいった如く、三の丸が焼けたので、二の丸に設けられていたが、一揆の起った頃から、大少参事その他属官等も藩庁に詰め切って頻りに鎮圧の評議を凝した。そうしてこの二の丸の高台から眺望すると、城下近くまで諸郡の一揆は押し寄せていて吶喊の声雷の如く起り、また租税課の出張所はその後久米郡も焼かれたので、それらの焔が天を焦がしている。夜に入ってはいよいよ物凄い光景で、藩庁は全く敵国の中に陥っている姿になった。そこで私もいよいよ死を決したが、百姓の竹槍に突かれて嬲り殺しにされるのもつらいから、どうかして敵前に進み出て彼の銃丸に中りたいと思った。勿論彼も猟銃位は沢山持っていたのである。しかし素手でも向われぬから、兼て親の時分に買っていたカラビンという短銃を宅から取寄せて、弾のある限り、それを打ってその後は刀を振りかざして駆け込むという考えであった。
 こうなって来てはさすがの鈴木大参事も兵力を用いるのやむをえないという事になって、一大隊ばかりもあった藩兵を東条少佐に率いしめて、一揆の主力が居る久米村方面へ向けて出陣せしめ新立の橋を渡って石手川の堤に防禦線を張った。そうして一里ばかりも隔った敵陣へ大砲を発したが、そのため一揆の中に二、三名は弾に当って即死した。しかも旧砲術家の用いた火矢というものも放したので、それが敵陣へ飛んで行って地上に立ってシュウシュウと火を吹く。こんな事で一揆は大分荒胆を取られて、そこは百姓の事とて意気地なく忽ちに崩れ立った。こうなると各郡民は己がじしコソコソ引取って、竹槍などもどこかへ隠して、何知らぬ顔で家に居る。そうして主唱者であった久万山の百姓さえもいつの間にかまた山中へ帰ってしまった。思ったよりも脆かったので、私どももほっと息を吐き少しは張り合いのない気もした。それから東条少佐は隊兵を率いて久米浮穴両郡から終に久万山の山中までを廻って示威をした。
 この一揆打払いの少し以前に前知事も自ら家職を率いて一揆に対して説諭をされた。その詞には自分に留任をさせたいという事は辱けないが、それでは朝廷に対して嫌疑を受けて、結局自分の罪となる。この点を考えてどうか鎮静してもらいたいといわれたのだが、騒ぎたった一揆はなかなか静まらない。知事の一行が、進んで行かるればその方は後へ後へと退くが、他の一方の途から一揆の別隊が城下へ向って進む、どうする事もならぬから、前知事も持あぐんで引取られて、終に藩兵の攻撃するに任されたのであった。
 いよいよ一揆が治まった上は、前知事一家は朝廷の御沙汰に従って東京へ移住されねばならぬ。しかるに、その出発に当ってはきっとお止め申すといって再び一揆が起るという噂であったから、そこで藩庁においては各郡の総代たるべき者をよび寄せて大少参事列席の上説諭をした。それには鈴木重遠氏が主としていい聞かされたが、威重あり弁もあったから、意志は充分に徹底した。この頃は最う竹槍蓆旗では抵抗出来ぬと諦めた百姓ばらだから別に抗論もせないが、また承服もせない。一先一般に申し聞せて考えさせようという位な処でいずれも引取った。その後諸郡では、この上は各総代を上京させて、朝廷へ直接に知事の留任を願おうという事に申し合った。これは松山町でも同様で、町人の総代数人を上京せしむる事になった。
 この知事留任の一揆騒動は他の藩にも多くあったので、既に南隣の大洲藩でもなかなかの騒ぎであった。一揆の全部は既に藩庁を取囲むに至ったので、権大参事の山本某というもっぱら藩政の枢軸に当っていた人が、自ら割腹して一揆の反抗心を暫く[#「暫く」はママ]鎮めたという報にも接した。
 しかしいずれの藩も一揆の気焔は間もなく鎮静して前知事はいずれも上京せらるる事になったので、私の藩の知事久松定昭公もいよいよ上京せらるる事になった。少し前に遡っての話しだが、定昭公は最前もいった如く、年壮気鋭の方であったので、既に王政となった上は、またこの下に充分尽力して、かつては幕府に効した力を以てこれからは朝廷に効したいと思われ、養父勝成公に代って藩政に臨まるるに至っては、われわれ大少参事を率いて充分に藩屏の任を揚げんと欲せられたのである。ついては近傍の藩々の知事も同僚であるから互に藩治上の打合せをするため、まず同姓である北隣の今治藩へその事を申し込まれ、彼の藩の知事は大少参事を従えて松山へ来られ、また定昭公も大少参事を従えて今治へ赴かれた事もあった。その他文武その他の藩政も充分にあげらるるつもりでいられたから、廃藩置県の御沙汰にはちょっと出し抜けを喰われたのであるが、時世に着眼の早い公の事であるから、何らの躊躇もなくいさぎよく出発せらるる事になったのだ。そこでその当日は、万一の騒動も起ろうかというので、久松家を始め藩庁でも随分心配したが、幸に何の故障もなく、三津浜へ下って乗船せらるる事になったのは少し意外であった。
 前知事の去られてからの藩庁は大少参事で暫く藩政の残務を扱って、新に命ぜられる、県官の赴任を待ち引続きを為すという運びになった。けれどもそれは翌五年にならねば実際の運びは出来そうもない、そこで私はこの上藩庁に居た所で、残務を扱う外何の用もなく、学校の改革は可笑しいながら、してしまった、別に手を着ける事もない。手を着けた所で、やはり人に引継がねばならぬ、頗るつまらんような気になったと共に、往年藩より命ぜられた洋学の修業を祖母達に止められ、また自分も気弱くて止めたのを残念に思っていた際だから、この機会に、先はともあれ藩庁の存している間に再び洋学修学の命を受けて東京へ出ようと思い付いた。この事を親友のこれまで庶務課の権大属でいた由井清氏に謀って、同氏も同行しようといったから、終に大参事始めに内意述べて、いよいよ望み通りに藩費を以て洋学の修業をせよとの命を受けた。これは四年の年末であったが、私と由井氏と二人の外に、父の里方の従弟に当る菱田中行という少年も洋学修業としてこれは自費で出京する事になった。海路は別に滞りもなく大阪へ着いて、それから東海道を東上した。勿論いずれも書生の身分だから日々徒歩と定め、よくよく足が疲れると荷馬の空鞍に乗った。その頃珍らしかったのは、三河地方の平坦な土地では、人が曳いて土石などを運ぶ、板で囲った小さな荷車に、旅客をも賃銭を取って乗せてたので、私どもも三人一緒にそれに乗った事がある。今日の如く、バネがないから、車輪から立つ砂埃は用捨なく、乗客を襲うので、これには随分閉口した。川口は幕府の時と違って船渡しの手当も充分であるし、また冬の季節でもあったから、別に川止めにも出会わず無事に東京へ着いた。この道中の大磯からであったと思うその頃東京ではもっぱら流行していた人力車というものがあったので、三人ながらそれに乗った。実に早いものだと驚いた事であった。
 東京へ着した時はまだ藩の出張所は何とかいった、京橋あたりの旅店に設けられていた。そうして三田の藩邸は久松家の住わるる私有邸となっていた。私どもはまず藩の出張所へ到着を届けて、そこへ一、二泊させてもらった。その内従弟の中行は三田の慶応義塾へ入塾した。私と由井氏とは芝の新銭座の或る人の坐敷を借りて寓居した。三度の食事はその頃始まっていた、常平舎というから弁当の仕出しをさせた。この常平舎は東京到る所にあって頗る書生どもに便を与えた。中には一家族が煮炊の煩累を避けてこの常平弁当を喰べる者もあるとさえ聞いた。この新銭座に居た頃忘れもせぬのは年越しの晩であったが、つい近傍の浜松町の寄席へ由井氏と共に行った。影絵の興行で、折々見物の席も真闇となる、そこでその真闇が明るくなった際、気が付いて見ると私の懐中がない。今しがた、布団代を払ってそのまま懐中を傍へ置いたのだが、右の真闇に乗じて誰かが盗んだのらしい。席亭へも話して見たが捜索の道がない。やむをえずそのまま帰寓したが、この懐中は最近二分で新らしく買ったのである。金はたった二分残っていたのだから、それらはさほど惜しくもないが、この懐中には実印が入っていた。もしもそれを他人に使用されては如何なる迷惑が来るかも知れぬから、それのみが懸念で堪らぬ。今日なら印形の遺失とか盗難とかの届をするのだが、その頃はそんな道もないから、せめてもの申訳でもあるし、また入用でもあるので、新たに実印を彫刻せしめた。私はかつてもいった通り、母方の伯母聟の中島翁に師克という実名を貰ったが、師克の師は憎まれ者の師直の師と同じなのが厭なので、自分で永貞と改めた。これも易の坤卦から取ったので、そうしてこの度失った実印も永貞と彫っていた。しかしそれを今後名乗るのも気がかりなので、更に素行と改めてそれを実印に彫刻せしめた。これは中庸の文言から取ったのである。しかるに後年何事も成行きに任すという事の当て字で鳴雪と俳号を付けた関係から、この素行までを、ナリユキと読む人があるが、これは元来モトユキと読ませているのである。
 一事言い落したが、私の上京した際、かつてもいった弟の薬丸大之丞は大学南校の貢進生で居たのがこの頃はかような生徒の廃止せられたので、従って藩費も貰えぬ事になっていた。けれどもその頃のま意気書生などにおだてられてどうかして他に学費を得てそのまま修行を続けるつもりだといっていた。藩地の父は頗るそれを心配して私の上京を幸に、大之丞は是非とも郷地へ帰すようにと命じたけれども彼は容易にそれを承諾せなかったが、終に叱り付けて帰してしまった。この際餞別として例の猿若の芝居を見せて遣った。この他にも由井氏と同行したりあるいは自分一人で芝居の見物は随分したのである。
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十五


 今回の出京は、英学の修業が目的であるのだから、その手順を求めたのであるが、私といい由井氏といい、書生としては老書生であるので、まさか少年輩と同じ級で、ABCを習うのも間が悪い。といって自分の都合のよい学校もないから、或る日同郷の先輩藤野正啓氏に相談すると、それは私が、親しくしている岡鹿門の塾へ行くがよい、彼の塾頭には河野某というが、同じ仙台人で漢学の傍ら英学を修めていて、岡の塾は漢学と洋学とを二つながら教授しているからその洋学の方を学ぶといって入門するがよい、私が紹介しようと肯われた。そこで私は由井氏と共にその頃愛宕下町にあった岡塾へ行って、まず岡先生に面謁し、それから塾長をしている河野氏にも逢った。兼て藤野翁からの依頼もあり、私どもはもともと漢学生であるという事を知って居られたので、岡先生も漢学話などをせられて、数時間も居て辞し去った。しかし二人ともサア今日から行こうという気にならず、なんだか横文字の書を開くのがオックウな感じがして、一日一日と遅らした。そのうち或る都合から由井氏とは同寓する事をやめて、私は藤野翁の宅へ頼んで同居させてもらった。そこでいよいよ岡塾へ行く機会を失ったが、この宅にも塾を開かれて、漢学を教授して居られ、塾長は会津人の斎藤一馬氏といって、この人は漢文が巧かった。そんな事から私は持って生れた漢学の嗜好の関係よりこの塾中の人々と交際をして、詩の応酬なども始めた。
 この藤野宅に寓居している時であった。ある日大火だと人が騒ぎ出したから、塾生らと共に行って見ると、今しも和田倉門内の旧大名邸が燃え落ちて、飛火が堀を越して某邸へ移って盛んに燃え揚る所であった。そこでこの火の燃え行くのを見物しつつ段々と歩いて、即ち火事と同行をなしつつ築地まで行った。けれども余りに風が強く砂が眼に入るので遂に堪え切れずして帰寓した。この火はとうとう海岸まで焼け抜けて、西本願寺を始め、その頃有名なる築地ホテルも烏有に帰してしまった。これは明治以後東京始めての大火であったのだ。
 そうこうするうち、明治五年となって、いよいよ旧藩庁が新設石鐵県へ事務を引継ぐ事となり、従って私どもの学資も出所がなくなった。藤野翁はこちらで修業がしたいなら、その学資位はどうかして周旋しようともいわれたが、私は郷里の父が彼の平均禄位では生計が立たず、さぞ困却していようと思うと、この上東京で一人安気にぶらぶらしているのが済まない感が生じた。これは初一念とは違うのだが、小胆な私はこう思い出すと、矢も楯も耐らず、藤野翁の好意には反くけれど、終に帰郷する事に決した。由井氏も同様に帰郷するはずであったが、都合に依り私は一人旅行で東海道を行く事になった。旅贅は未だ旧藩の出張所員からくれたので、豊かでもないが、それで東海道の名所位は少しの廻り道をしても見物しようと思い定めた。頃は三月であったろう、東京を出発して、その時はもう人力車がどこにもあったから、一日の行程も以前よりは早くはかどって、大阪まで着いた。川止めなども旧藩時代の如く殊更らなことをせぬから何の滞りもなかったのである。それから可笑しいのは最初廻り道をしても、名所古跡を訪いたいと思ったのが、人力に乗って駈け出させては、そんな事をして時間を費すのが惜しくなって、何所一つ道寄りをせなかった。要するに、山水その他の見物は私の性質として余り好まない。俳句では随分、景色等の事も詠むが、多くは理想的に描くのである。こんな風だから、まだ俳句を始めぬその頃の私では、かく無風流に旅行して終った事も不思議はないのである。一つ記憶に残っているのは、大阪の或る宿へ着いた時、一番東京風を見せるつもりで、女中に二朱ばかりの祝儀を与えた。するとこの地ではそんな習慣がない所より、宿に居る女中が、後から後から出て来て、それにも遣らずには済まないから、大分散財をした事であった。海路はもう内海通いの汽船があったけれども、凡てが中国沿岸から、九州方面へ通航するばかりで、四国路は多度津の金比羅詣りに便する外どこへも寄らない。従ってわが郷里の三津の浜へは無論寄らないのだが、特に頼むとちょっと着けてはくれるという事を聞いたので、遂に何とか丸という船に便乗した。乗客も随分多くて、中には東京帰りの九州書生などもいて、詩吟や相撲甚句などを唄って随分騒しかった。三津の浜へ着いたのは、夜半であったが、私と今一人の客をはしけへ乗せて、それが港内へまで廻るのが面倒だからといって、波止の石垣を外から登らせて追い上げられた。少し不平であったけれども、もともと特別の便乗なのだから仕方がない。その夜は三津の浜に一泊して翌日帰宅した。
 私の宅は以前の如く堀の内の士族邸だが、召使なども凡て暇をやって、家族で炊事もしている。父は最前もいった如く邸内の畠打をしていたが、その外綿繰りといって、実の交った綿を小さな器械を廻してそれを抜き、木綿糸をつむぐ下地をする賃仕事がある、それをセッセとしていた。昨日まで家老に準ずる重職をしていたものが、そんな有様なのには、私も少し驚いた。聞いて見ると今の平均禄では、家内の喰う事がやっとである、そこで、東京から帰っている弟の大之丞にせめては洋学の修業を継続させたいと思って、幸まだ旧藩以来の先生が居るから、そこへ通わせる、月謝が月々旧藩札五十匁(今の二十五銭)要る、それをこの賃仕事でこしらえるのだといった。私もちょっと胸がつぶれたから、自分でも何か稼がねばならぬと決心した。以前にも度々いったが、父は名利に恬淡で貧富に心を動かさぬ性質だから、自分は頗る平気で居た。その頃旧藩の学校の教員仲間が互いに団結して、経費は月謝を当てにして、旧校舎をそのまま借りて、漢学や洋学数学を教える場所を設けていたので、私もそこの漢学教員の仲間へ加えてもらった。なんでも給料は一ヶ月旧藩札百匁(今の五十銭位)であったろう。旧藩の頃雇い入れた英学の教師稲垣銀治氏もまだそのまま居たので、私は右の漢学の教員を勤める傍、わざわざ東京まで行って果たさなかった英学を幾分でも修めたいと思い、この稲垣氏に就いて、それを習う事にした。そこで、ピネオの小文典とかマンデヴィールのリーダーとか、理学初歩とかを幾分か習って、なお聞きながらに翻訳もして見た。が稲垣氏は間もなく松山を去って東京へ行ったので、私もそれ限り英書を習う機会を失ってしまった。
 この頃は旧藩知事の久松家は東京に住居せられていたが、何分旧大名風の生活が改められないので、経済の点にもよろしくないから、この改革をなすには是非とも私の父を上京させたいという事になった。父は度々いう如くもう世務に関する気はなかったのだけれども、久しく仕えた君家のためとあっては、辞退する心にならず、終に御受けをする事になったが、家令などという職名はいやだといって、御用掛位な位地で上京する事になった。そして幸だからというので、父の使用かたがた英学の修業をさせるために、弟の大之丞を召し連れた。この頃久松家には芝の三田邸を売却されて、日本橋浜町の旧水野邸を買って住居されていたので、父もそこへ寓居した。ついでにいうが、当時はまだ衛生などという事は知らず、ただ交通の便利々々という事のみを誰れもいうので、久松家にもそれに感染せられたのであるが、三田邸は二万数千坪もあって、高台であるし、現今では松方侯爵その他が分割して東京でもよい邸地といわれているのだが、それを僅に三千何百円とかで人手に渡してしまわれたのは実に惜しい。これに反して、浜町は土地が低くて湿気も多いし、水も悪いし、大火ある度に風下となって延焼する虞れもあるというので、その後またまたそこを売却されて、現今の芝公園の紅葉館の隣地へ転任せらるる事になった。この地は鍋島家の末家邸であったかと記憶する。
 この年の十月太政官からの学制頒布があった。それで大学中学小学などという学校の制も定まり、就中小学校は各地にあまねく設置して、一般の児童は事故なき者の外就学せねばならぬ事になった。尤もこの頃は府県に大区小区を置かれて石鐵県は一大区から十五大区まであって、各大区の下に従来の町村を幾つずつか合した小区があった。そうして学制においてもっぱら小学校設置等の事に当る学区取締というのを、他の府県もほぼ同様だろうが、石鐵県は大区ごとに一人を置いた。そこで私は旧藩で学政専任の権少参事でいた関係から、その学区取締を命ぜられて、県庁所在地の松山、即ち第十五大区の学区取締となった。その位置はまず大区長と相対するものなのだ。それであって給料はたった八円、しかし私の家計にはこれでも大分のたすけになった。間もなく大区を合して区域を広められた際、私は松山以外の郡部の学事をも担当することになったが、これまでに例のない小学校というものを創設するのだから、なかなか困難であった。尤も松山は、士族仲間に従来子弟を学問させた習慣もあるので別にやかましい事もなかったが、それも町家となり、更に郡部の農家となると、僅に習字を教える寺小屋位の外学問をさせるという例がないので、全く余計の干渉をして農商業の妨げをすると思い、随分不平を述べた。それを大区や小区の役員と共に私は説諭を加えて、是非とも学制の如く小学校を創設し児童を就学せしめねばならぬのだから、骨が折れる訳なのだ。今日でこそ小学校を設けるといえば、どうかわが町村へ設けてもらいたいといい、子弟の入学が出来なければ苦情をいうという有様だが、その頃は学区取締の方から、どうか小学校をそこに置かせてくれ、児童を暫く貸して教えをさせてくれと、手を合わさんばかりに頼むのだから可笑しい。そこで月謝などを取るという事は思いもよらぬ、幸にその頃文部省は学事普及のため、年々尠なからざる教育依托金というを府県に配布していて、石鐵県も相当の依托金を貰っていたから、それを以て小学校の費用に充てた。月謝は授業料といって松山の各小学校のみに旧藩札五匁(二銭五厘)あるいはその半額を徴収して、それも一家二人以上就学する者には一人の外は免除した、それから学課や教科書も別に出来ていなかったから、私は自分で拵えて、この頃出来ていた福沢物の、究理図解、地学事始、世界国尽し、とかその他文部省出版の単語篇連語篇とかを間に合せに用いた。文部省で東京と大阪とに師範学校を置き、そこから、読本とか、実物指教の掛図とかを頒布したのは、まだまだ後の事である。それから小学校を設けるといっても別に家屋はないから、多くは寺の本堂とか神社の拝殿とかあるいは旧庄屋屋敷などを借り受けたものである。
 既に今いった如き困難がある上に、更に一ツの困難に出逢ったのは旧穢多を就学せしめるという事である。維新の最初に穢多も一般の人民と同様に見做さるるという事は政府の御沙汰に出ている事であるが、久しき間の習慣は彼らを全く人間以下の畜生同様と見ていた。しかるに学制の上ではこの旧穢多もまた普通の人民であるから是非とも就学させねばならない、旧穢多を就学させるという事になれば、さなきだに、児童を学校へ出す事を厭がる父兄は、穢多と一緒に習わせるのは御免蒙るといって、いよいよ命に従わぬ、そして、穢多の方では、もう朝廷から平等に見られているのだから、児童を小学校へ入れたいという、つまり私どもは、この中間に板挟みとなったのだから堪まらぬ。そこで、一方に対っては、旧穢多の歴史上同じ人間であるという事、また朝廷の厚い思召であるという事を説き聞かせるし、また一方に対っては、今日の場合勿論同じ様に取扱うのであるが、久しき習慣はちょっと変ぜられぬから、多少の辛棒をして我々の指図に従ってもらいたいと、懇々と言い聞かせ、まず同じ小学校でも、旧穢多の子弟は、本堂や拝殿の縁側に薄べりを敷いて、そこで学ばせた。それからこの着手の初に、松山の士族学校へは第一にこの旧穢多の子弟を入れて、それを郡部一般の説諭の種にもしたいと思い、私どもは松山附近で味酒みさけ村というがある、そこの口利きの或る旧穢多の家へ行った。そうしてどうか士族の出る小学校へ御前方の子弟を出してもらいたいといって勧めた。最初ちょっと遅疑したが、遂に承諾して十幾人かの児童をその通り通学せしむる事になった。この旧穢多の家で私はわざと旧習を破って見せるために、茶を貰いたいといったら、立派な朱塗りのふたつきの茶台で私その他にも茶を出した。私は直に啜り尽したが、他の者は互に顔を見合わして啜り得なかった。既に説諭に向った役人でさえ、旧穢多の茶が飲めぬのだから、一般の人民が旧穢多を嫌うのに不思議はない。
 この年末であったが、石鐵県の県庁は松山から十一里ばかりある今治の方へ移った。この一大原因としては、県官で九等出仕某という者が、或る夜宿所で誰れとも知れず暗殺された。それ以来県官は松山の士民を頗る疑惑する事になり、今治の方に親しみと便利を感じて遂に移庁するに至ったものらしい。そうしてこの暗殺の嫌疑者として、同郷人の服部嘉陳氏、錦織義弘氏が主として東京へ拘引され、なお従弟の小林信近や親友の由井清氏藤野漸氏相田義和氏なども連類として拘引された。しかし事実がないのでその後いずれも放免される事になった。
 この頃の石鐵県には県令はなくて、参事に土州人の本山茂任氏が居た。権参事は大洲人の児玉某氏が命ぜられたけれども赴任せずに終った。間もなく、政府は小さい県を合併せらるる事となって、我が伊予の国も、石鐵県と神山県と二ツに分かれていたのを合して愛媛県とせられた。そこで宇和島吉田大洲新谷松山今治小松西条の旧八藩と宇摩うま郡の旧幕領とが一ツ管轄に帰したのであるが、相変らず県令は置かれないで、参事として長州人江木康直氏が赴任した。権参事には、大久保某というが命ぜられた。而して県庁も再び松山に移った。私はこの変革があっても学区取締をそのまま勤めて、相変らず面倒な小学校の設置や児童の就学を勧誘していた。
 右は明治六年の事だが、この九月に東京に居る父が大病に罹って危篤だという知らせがあった。そこで私は驚いて、県庁に願って東京へ赴くこととした。或る汽船便で神戸まで達して西村旅館に着いて見ると、昨日この置手紙をして愛媛県の方へ下られた人があるという。見ると弟の大之丞の筆で、父はもう廿二日に死去してその遺髪を持って帰郷する、定めてこの宿に立寄るであろうから知らすというのであった。私はこの手紙を得て落胆するし、号泣もしたが、この上は東京へ行く必要もないので、そのまま汽船便で帰郷した。帰ると一家は皆悲嘆に暮れている。父の病は脚気衝心であった。父は江戸以来この症に罹る癖がある、その上老年にも及んだので終に回復を遂げなかったのであるらしい。行年五十歳。しかし平素の主義として、君家のためにわざわざ東京へ上ってこの病のために斃れたという事は死しても満足した事であったろう。それから松山の代々菩提所としている、正宗寺へ遺髪を葬った。これらの費用や私の上京の途中の費用等に費した金がほぼ五十円位であったが、父は現今の私と同様に蓄財などという事はちっとも出来なかった。それでかつて藩政の末に士族に郷居を奨励するためそれを願うものには藩庁から五十円を給与するという事になっていて、私の内でも、早晩郷居する事に極めて五十円貰った。それと父が家禄平均の際に別の下賜金を貰ったのを合わせて、久米郡の梅本村へ少しばかりの土地を買って家屋を建築した。けれどもそれに移住は出来ないで、父は久松家の用向きで東京へ行く事になった。また私はその頃のハイカラだから田舎住居などはする気がない。因てそれは久く空屋にしてあった。しかるに石鐵県となってかようの輩にいよいよ郷居をせぬなら、かつて、藩から与えた五十円を返却せよとの達があった。そこで私は直ちに梅本の土地家屋を百円ばかりで捨て売りにしてその一半五十円を県庁に納めた。そうして残りの五十円がちょうどこの度の費用を支弁したのである。さて学区取締の給料はというと愛媛県となった界から規則が改まって六円に減額されていた。が、間も無く八円となり十円となった。これと平均額の家禄とで辛うじて一家の生計は営んでいたのである。
 ついでにいうがこの平均家禄は、前にもいった如く一戸に二十俵と一人に一人半扶持の定めであったが、石鐵県となった際、毎戸区々では大蔵省の計算上都合が悪いというので、旧新両士族に属する者の総給与高を平均して旧士族は二十石七斗となったのを毎戸へ同一に下付さるることになった。それから明治八年家禄の奉還を願い出る者には一時の下付金があるという事になったので私は二十石七斗の半額を奉還してその下付金を受けた。更に十一年に一般の士族に家禄返上を命ぜられたので私もその残りの半額に当る下付金を公債証書として貰った。この二回の下付金が何でも七百円位あったかと思うが、下にいう家屋の新築費や、その後東京へ移住して生計の欠乏を補う必要から、時々支消して、明治廿年頃には全く無くなっていた。
 さて住宅については、明治七年頃であった、久しく住んでいた堀内の邸を僅かばかりに売却し、その金を以て継母かつ妻の里なる二番町の春日の長屋を借り修繕を加えて、かつて同居させていた弟薬丸大之丞の家族をも引連れて移転した。その後右の家禄返上に依って下付金を得たので、更に春日邸の一部を譲ってもらい、そこへ二階付の小家屋を新築した。この家屋は十三年に一家東京へ移住して後は人に貸して居ったが、卅六年段々借財が出来たからその償却のために遂に売却してしまった。けれども、現今でも私は愛媛県松山市大字二番町百十四番戸々主という空名だけは持っている。
 文部省では米国人のスカットというを雇って普通教育の伝習として、御茶の水の旧大学本校跡を東京師範学校と名けて師範学科を多くの学生に教えさせ、次に大阪へも大阪師範学校というのを設けて、東京師範学校の卒業生などを以て同様に師範科を教授せしめた。この学校を出た土州人の安岡珍麿というを明治七年に愛媛県へ招聘された。これが我県で文部省の規定に合った小学教育を施すの端緒である。そうしてそれを拡めるため、伝習所というを、松山に置かれて、私は学区取締からその主幹を兼務して、この伝習の事にも当った。そこで松山人は勿論県内の大洲、宇和島、今治、小松、西条等の小学教育に従事するもなる者を呼び集めて伝習を受けさせた。けれども余りに子供らしい事を習わせられるのだから、一般の者が本気で習わない。そこで私はわざとその仲間へ入って他と同様に伝習を受けた。彼の文部省で出来た、掛図の、いと、いぬ、いかり、ゐど、ゐのこ、ゐもり、などというのを、安岡氏が教鞭で指定するに連れて高声を出して読んだ事を今も覚えている。
 これは翌年八年へかけての事であるが、この八年は熊本県で江藤党が騒動を起して、同県の県令たる岩村高俊氏は辛うじて身を免れた位であったが、それが鎮定すると共に、愛媛県の県令に転任された。この人は土州人で、つとに平民主義を持っていたから、普通教育には最も意を注いで、従って私どもの学区取締にも、度々直接して諮問せらるる事もあった。そこで私はいつもハイカラであるから、何らも憚らず、聞き噛りの自由主義などを喋舌しゃべった。それが、あたかも岩村氏の意に投じたので俄に抜擢されて十一等出仕の学務課勤務を命ぜられた。そこで私も今までは松山附近の学事の管理者であったのが、伊予国全体の学事に関係する事となったので、多少得意となった。そうして岩村県令の下にいよいよ小学教育の普及を謀らねばならぬと思って、その頃は東京大阪の外に、仙台と長崎と広島とにも師範学校を設けられ、段々と卒業者を出していたから近接せる広島師範の卒業者を五人我県へ招聘した。そうして県内を六区域に分って、松山伝習所の外に、宇摩郡の川之江、新居郡の西条、越智郡の今治、喜多郡の大洲、宇和郡の宇和島へも伝習所を置いた。尤もいずれも速成であるが、まずまず文部省の規定の教授法等は一般へ習わせる事が出来たのである。
 しかるに間もなく文部省の視学官が視察に来る事になった。それは野村素介氏並に随行員二人であった。そこで私はその一行を案内して県下の小学校を彼方此方と見せたが、野村氏のいわるるに、この県には未だ県立師範学校がない、他の県の多くは師範学校が出来ているから是非それを設けよとの事であった。私はそれに対してそんな師範学校を設くるよりも各地へ伝習所を置いた方が実際教授の普及には裨益があると抗弁した。けれども他の県に師範学校があって見れば、我が県にそれがないのも口惜しいと思って、その事を岩村県令に建議して、それなら相当の学校長を雇って来いという事で俄に出京を命ぜられた。因て直ちに出京したが、野村視学官はまだ帰京していなかった。そこで文部省へ出頭して、良い東京師範学校卒業者を求めた結果、松本英忠氏というを雇入るる事になった。そうして創設したのが現今も存在している松山の師範学校である。この創設と共に各所の伝習所は廃止して、その主任で居た教授法の諸教師は改めて派駐訓導と名けて、相変らず伝習はさせた。それから、中学校もなければならぬというので、これには慶応義塾から草間時福氏というを招聘して主として英書を教えさせ、別に漢書の教場をも設けた、この教師は松山在来の漢学者を用いて、太田厚氏が首坐であった。けれども未だ学制の中学科の制には一致する事が出来ないので、これを変則中学と名けた。この変則中学校には草間氏の周旋で更に西川通徹氏とかなお一、二人の英書の助教を雇ったのである。
 そんな事で愛媛県も初等教育と中等の教育とは、どうかこうか施す事が出来たので、私は彼方ら此方らと巡回して、主としては小学校を視察した。小学校ではいつも臨時試験を行って、私はかつて師範科の伝習を朧気ながら受けていたから、自ら教鞭を執り、ボールドに向って、白墨を使い、生徒の試験をしたのは、今から思えば可笑しい。
 この年妻が長男を生んで、健行と命名した。
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十六


 ちょっと前へ戻るが右の師範学校長を雇うために上京した時、暫く滞留したので例の芝居見物をしたのだが、折節守田勘弥かんやが猿若の小屋を新富町に移して改良劇場を作って、作者は河竹黙阿弥を雇いいわゆる活歴物を多く出していた。私の見たのは仙台萩の実録とかいうので、先代彦三郎の原田甲斐かい、仙台綱宗、神並父五平次、先代芝翫しかんの松前鉄之助と仲間嘉兵衛、助高屋高助の浅岡、板倉内膳正、塩沢丹三郎、先代菊五郎の片倉小十郎、神並三左衛門、茶道珍斎、先代左団次の伊達安芸、荒木和助、大谷門蔵(後に馬十)の酒井雅楽頭、大阪から来た嵐三右衛門の愛妾高尾であった。私はこんな新作物は始めてであるし役者も揃っていたので面白く見物した。この度の旅行は末弟の克家を随行せしめていたので、これにも見せて喜ばした。そんな事で平気で滞京しているうちに、今一人の弟の薬丸兼三が九州辺に居て或る悪竦な[#「悪竦な」はママ]会社の手先に使われて監獄に入ったという事を聞いたので、まず克家を帰県させ、それから私も校長の雇入れが極ったので、実は公務もそこそこに心配して帰県した。これは後の事だが、右の兼三の事件は幸に刑法にも触れずに放免されたが、私はこの事を非常に怒って、養家に対しても済まぬといって終に先方に談合して離縁してもらった。そうしてこの際兼三には遥の祖先が一時称した宇野姓を名乗らせた。またこの際から私は彼と義絶して暫く書信もせなかった。がその後彼は函館へ行って税関の雇員になっていたが、折節米国の金満家の娘が病死して、その嫁入の手当てとして別に積んでいた金を、宗教の宣伝費に充てたいという希望から、函館にその頃までなかった女学校を設ける費用に寄附した。そうしてモウ弟も大分真面目になっていたのでその教頭となった。そうして私も兄弟互の通信をする事になった。そこで何か好い校名を附けてくれといって来たのでその資金の来歴に依って、私は遺愛女学校と名を与えた。この学校は今でも彼の地に存在している。爾来卅年ばかり兼三は教頭を勤めていたが、かような教会学校では老後を保護してくれる見込もないので、遂に東京に帰って来て他に生計を求めたけれどやはり適当な事業もないので、旧友の押川方義氏や上代益男氏等の周旋に依って、更に布哇ハワイへ移住し、児童に日本語を教える学校の教師となった。その妻は会津人で函館の師範学校を卒業しているから、夫婦共稼ぎで学校を受持っている。そうして三人あった娘の二人は布哇で、日本人の夫を持っている。が、最近米国の排日主義で、日本語の学校は非常に圧迫を受けているようだから、兼三も定めし困難している事であろう。これは随分先に走った話であるが、ついでながらいって置く。
 前へ立戻って、右の如く兼三は薬丸家より離縁させたが、私は弟に代って薬丸家の事は出来るだけ世話をするといってその頃居た祖母と、弟の妻であった女とは相変らず私の家屋続きへそのままに同居させていた。その後この薬丸家から他へ養子に行っていた者が、これもある事情で離縁されて帰って、これが一家を経営する事になるから、従って私も薬丸家の世話をせずとも済む事になった。
 愛媛県の学事は岩村県令が熱心に奨励せられるので、私もその下に出来るだけ勉強していた。その頃は文部省が、全国を五大学区に区分して、我県は広島、山口、岡山、島根の諸県と共に第四大学区に属していた。そこで他の大学区にもした事だが、同大学区内の聯合教育会というのを起そうという事になり、我県も承諾したので、明治十年一月県官を広島へ派遣する事になった。即ち広島がこの年の聯合教育会を開く位置に当ったからだ。そこで私は、学務課長の肝付兼弘氏と、外に師範学校長の松本英忠氏及前にいった派駐訓導の一人を率いて出張する事になった。この聯合教育会では、岡山県の学務課長加藤次郎氏というが洋行もした事があるというので、多くの人に知られていて最初の議長となった。けれども諸県の集り勢で、銘々勝手な意見などを立てるので、この加藤氏は、元気のよい替りに短気者であったから、度々怒鳴り付ける、一方には反動的にいう事を聞かないという風で、議場が度々騒いだ。そこへ私が巧く投じて双方を緩解したので、意外に衆望が私に帰して、二度目の議長選挙には私が議長となった。なお次の改選にも当選したのでいよいよ得意となって議場の整理は手に入って来た。ついでながらいうがその翌年は山口で同じ会が開かれて、この時も肝付学務課長と共に私が出張したが、やはり議長に推薦された。けれども、長人気質は、他県人の下に立つ事を嫌うので、殊更に反抗して議長を困らせるような事があったから、私は厭気になって、再度目の議長には山口県の学務課長落合済三氏を当選させる事を運動してそうさせた。その次の年は、岡山県下で同じ会を開かれたが、ここでは三度ながら、私が議長を勤めて別に騒ぎも起らずと済んだ。要するに、今日でもそうだが、諸県の教育当事者が、集ったといっても、別に何一つ仕出かす事もなく、多くは互に議論を闘わして半分は物知り自慢をするという位にとどまっていた。
 忘れもせぬがこの初度の教育会に、まだ広島に居る際、予て多少噂もあった薩州の私学党が、西郷を戴いていよいよ兵を挙げたという報知があった。それから帰県して見るともっぱらこの西南騒動の噂ばかりで、人心が恟々としていた。そのうち熊本城で賊を喰い止めたが、その与党が我県と海を隔ている大分県にも蜂起して、今にも我県へ攻め来りそうになった。しかのみならず、県下でも、宇和島、大洲方面には大分西郷に心を寄せる者もあって、少しも油断のならぬ状況になった。或る日警察課長の武藤某氏がこれから大洲地方へ出張するといって、部下を随えて行ったが、三、四日して帰った時は、多くの国事犯人を捕縛して来て裁判所の方へ引渡した。これは大洲と宇和島との不平党仲間で、大分県の蜂起すると共に、我県でもこれに応じねばならぬといって、密に兵器を貯えて、まず松山の県庁を襲撃するという事に申し合っていて、今やそれを実行せんとする際、武藤警察課長が入り込んで捕縛したのであった。銃器弾薬などは、その人々の家の縁の下などに隠してあったという事である。して見ると、一つ違えば県庁へ打ち込まれて、我々の県官もひどい目に遭うのであった。尤も県庁でも、何時事変が起るかも知れぬというので、多数の県官が、宿直する事になっていて、私も宿直の日は短刀位は用意し、なお元気を付けるために瓶詰の酒位は携帯していた。そんな事で学事は多少捨て置かるる事になったが、いつまでもそうしては居られぬというので、段々と学校の視察員も派遣されて、私は宇和島方面へ行く事になった。そこで、南宇和郡というは、大分県と海を隔てて相対する地方だが、そこの城辺小学校というを視察するため一泊していると、俄に騒がしくなって、今薩州方の軍艦が海岸へ着いたといって、荷物などを片付ける者もあった。そこで私も全く賊軍中に陥ったので、ひどい目に逢うだろうと驚いたが、逃るる路もない、刀を仕込んだ杖一本は携えていたけれども、実に心細い感がした。しかるに右の騒ぎは全く間違いであって、海岸に着いた軍艦は官軍の援兵で、大分県へ赴く途中碇泊したという事が分り、私もホット安心した。そのうち私の止宿している宿屋へも官軍の賄をせよといって来るし、そこらここらに往来する兵隊も見た。それが俄か製の粗末な小倉か何かの服で、鉄砲の外腰には長刀を佩びていた。これは例の抜刀隊に当る覚悟なので、多く、会津、仙台辺りの士族であった。そうして彼らは往年己れ等を賊として攻めた官軍の大将西郷が、今度はアベコベに賊となったから、復讐的に官軍となって征伐するという、或る敵愾心を持っていたのである。私はこんな事で、そこそこにこの地は引揚げた。なお宇和島から遥に隔てた沖の日振島ひぶりじまというにも小学校があるので、そこへも行ったが、最近は大分地方の大砲の音がよく聞えるという事であった。この日振島は昔し天慶の乱に、伊予掾純友いよのじょうすみともが遥に将門に応じて兵を起した根拠地であると聞いたので、目前の西南騒動と思い合せて一種の感慨に打たれた。
 西南の騒動はヤット鎮静したが、その頃我愛媛県は讃岐国をも合併していたので、私はその方の学校の視察にも赴く事になった。この地方で高松人は、早くより土州の立志社に共鳴してその支社を開いていたから、それらの人々はさかんに演説会を開いて自由民権の唱道をしていた。因て県庁から出張した私などは時々あてこすり位は聞かされた事があった。
 しかし自由民権といえば松山の変則中学校の草間時福氏も慶応義塾出身だけに、随分主張していた。のみならず岩村県令も同志社の親分株の林有造氏の実弟であるから、これもその主義は頗る賛成であった。そこで、県庁の下においても草間氏が率先して演説会を開いて自由民権を主張する、先生がそうだから、学生などもそれに加わりなお一般の松山人にも熱心な運動者が出来た、私の末弟の克家も変則中学校の教授の手伝い位をしていたから、私の母方の従弟中島勝載と共にこの演説会に加わって、かなりお喋りをしていた。かような風で、愛媛県下は殆んど同志社の主義の下に立って、暗に政府に反抗する如くにも見えたので、政府はその頃自由民権論に対して多少鎮圧を加えねばならぬという事になっていたから、終に岩村県令も内務省の戸籍局長へ祭り込まるる事になった。
 右は明治十三年の夏に入る頃であったろう。その以前一月には始めて地方官会議というが東京に開かれて、府県の長官もしくは代理の次官を集めて、或る問題を出して評議させらるる事になった。議長は元老院の副議長の河野敏鎌とがま氏で、議案はおもに内務省、大蔵省から出して両者の大書記官が番外員として説明に当った。そこで岩村県令もこの会に加わるために上京せらるる事となって、私に随行を命ぜられたから、またまた東京を見る事が出来た。この会場は和田倉門外たつの口の或る旧藩邸の跡の古建物を用いられ、三室位打ち抜いた長方形の内間に、白木綿を掛けた粗末な板の卓が並べられて、椅子も粗末な籐椅子であった。そうしてその三方の縁側には、本省の官吏や府県の随行員や新聞記者が数多並んで、これも籐椅子に腰をかけていた、陛下にも開会式と閉会式とに臨幸があって勅語を賜わった外に、一回会議を聴聞あらせらるるために臨幸があって、一時間余も私どもは天顔に咫尺しせきしたのである。玉坐は正面の少し高い所に設けられ、卓には錦が掛けてあった。その後ろには、宮方始め、三条太政大臣、その他の大官が着席して居られた。陛下はまだ三十歳位の御年齢でおわしたが勅語は朗々としていかにも確かな御声であった。殊に一時間余も御臨席あらせられた際、玉体は勿論龍顔に少しの御動きもなく、殆んど目じろきさえも遊ばされなかったのは、私どもの一層恐れ入った事である。しかるに新聞記者あたりは、筆記の都合に依ると、椅子を下りて長靴のまま膝を組んで筆記するもあった。我々どもも泥靴のままで控えている。各地方長官さえも、モーニングコート、背広などを勝手に着ていて、フロッコートを着ている者は稀れであった。靴は多くゴム靴で随分半靴などもあった。ましてや我々どもの服はいよいよ区々まちまちで、私はこの上京後新調したモーニングを着ていた。今日と違って、宮内省辺りでもそれに何らの干渉もなかった。議題はもっぱら地方の施設に関する事件であったが、その頃は各地方官も、随分若やいだ意見を述べて、あるいは故意に主務省の議案に反対するかとまで思わるるものもあった。この答弁に当る番外員は、内務権大書記官矢野文雄、大蔵大書記官尾崎某氏であって、矢野氏の弁は論理法に適っていてなかなかうまかった。そうして、地方官の中にも自然に政府党に傾く者と、在野党に傾く者との区別が暗々裡にあったように思われた。まず民権党では、我岩村県令や、高知の北垣県令、千葉の柴原県令などで、官権党は京都の植村府知事、神奈川の野村県令などであった。それから鹿児島からは、県令代理として渡辺大書記官が出ていた。即ち千秋氏である。この他に藤村山梨県令とか、高崎岡山県令とかもよく口を利いた。また東京府知事の松田道之氏は中でも先輩顔をしていて、なるべく議論の纏まるよう注意したようである。そこで議長は河野敏鎌氏であるから、高知人でもあるし、その頃は民権主義になっていたのだが、職務が職務である故公平に扱って、弁舌も明瞭であった。
 私は明治九年の師範学校長を雇いに来た時も岩村県令から視察して来いと言われたので、千葉県へ往って師範学校や中学校を見せてもらったが、また今回も同県へ視察に行く事になった。この頃はまだ諸県でも稀れにある、女子師範学校を見たのを珍らしく思った。
 こんな事をして、県令の随行とはいえ自由行動も出来るのであるから、例の好きな芝居も見た。そうしていると俄に国元から電報があって、継母が大病で危篤に瀕しているという事であった。そこで県令に願って俄に帰県する事にして、この時前にもいった弟の兼三が在京していたから同行せしめたのである。この頃は三菱会社の汽船が沿海の航路を大分占領していて、それは西南の戦争の際、政府が運送の必要上、岩崎弥太郎氏へ巨額の資金を給与して、これまで日本の沿海は米国の汽船がおもに往来していたのを買収して、それに充てた。爾来年々補助金を給与したので、日本沿海だけはヤッと三菱会社の汽船で荷物や旅客を乗せる事になった。けれどもその頃、英国の或る汽船会社が、三菱会社と競争して、これも日本沿海を往来していたので、政府は三菱会社を後援するため、同会社の汽船に乗るには、何の手数もかからぬが、この英国の汽船に乗る時は予め或る筋の許可を得ねばならぬという面倒をさせた。しかるに私が帰県する際ちょうど三菱船がなかったので、やむなく手数をして英国船の方へ乗った。尤も千トン以下で船脚も遅かったが、おまけに風波が起って動揺が甚だしくなった。私は少年の時には和船に乗ってもまださほど酔わなかったのだが、その後は回一回と船に弱くなって、汽船に乗って平穏な時さえも食事などが充分に出来なかった。そこへこの風波だからいよいよ閉口して、臥床に横わって頻りに吐いて、終には胃にあるものは吐き尽して、小量の血を吐くまでになった。私は右の如く船嫌いとはいえ、さほど動揺に逢った事もなかったのだが、今度始めて厳しい動揺に逢って非常に苦痛をした。そこでこの船は四日市へ着く規則なのだが、その沖までは達したけれども、右に廻ると暴風を横に受けるから、それが出来ない。因て無駄に沖中に四、五時間ばかり漂った末、やっと四日市の港に入った。私は元来神戸まで往って、それから別の内海通いの汽船便を取るつもりであったが、モウ船には懲り懲りしたので、四日市へ上陸してそれから陸路を神戸まで行った。その後の航海はまず平穏で、いよいよ松山へ達して帰宅して見ると、継母は既に人事不省に陥っていて、帰県した事を告げたが殆ど知れなかった。そうしてその夜死去したので、それから葬式万端の事を営んだのである。
 そこで前に立戻って、岩村県令は一度地方官会議からは帰県されたが、在京中にモウ内々の話しも済んでいたのであったろう、政府から、内務省の戸籍局長に転任を命ぜられた。我が県の主立った市民は民権主義であったから、人望も同氏に帰していたので、この転任は非常に失望したけれども仕方がない。それで三津浜出船の時などは、旧藩主が江戸へ出発する時、御曳船といって数多の小舟が印の旗を立てて御船唄というを歌いながら、沖まで漕ぎ連れて藩主の船を送ったものだが、その例を再び用いて、盛んに県令の出発を送ったので、岩村氏も頗る満足せられた。
 今回県令の更迭は今もいう如く岩村氏が民権主義に傾くという事からであるから、新来の県令は漢学者で保守主義である。関新平氏というが拝命された。この人は佐賀人でこれまでは茨城県令をしていて、水戸人とは気風が会っていたから、この度の転任と共に茨城県人を数人連れて来て、課長や重なる県官の椅子は段々とそれらに与えた。そうして今まで岩村氏に親しかった者は氏の周旋で内務省へ転任した。それは衛生課長であった伊佐庭如矢氏、勧業課長であった藤野漸氏、その他伊藤鼎氏、辰川為次郎氏、これは皆松山人で、また他から来ていて庶務課長であった南挺三氏もその一行であった。それから租税課長の竹場好明氏、会計課長の篠崎承弼氏は宇和島人であったが、これは留任した。一体岩村県令の民権主義を最も賛成して、その他常に出入りをして県令と親しかった者は我松山人なので、その訳から皆転任せしめられたのである。そこで私だが、前にもいった如く、最初、その頃では異数の抜擢に逢って、学務課で働く事が出来、肝付兼弘氏が他へ転任してからは、学務課長を命ぜられていたのであるが、私の性として新らしい事新らしい事と知識を拡めて行く、そこで明治の始めこそ、福沢風におだてられ、また民約論や三権分立論などを読んで、自由とか民権とかを神の御託宣のように思っていたのであるが、その後ブルンチュリーの国法汎論なども読み、また文部省雑誌といって西洋の新らしい論説を載せたものを読んで、段々と独逸ドイツの国家主義を知る事になったから、余りに突飛な民権主義は同意せられないようになって来た。そんな事で、草間時福氏が変則中学校に拠って福沢風の民権主義を唱うるに至っても、私は学務の当局者でありながら、それほど熱心に賛成せない。そうして岩村県令に対しても、さほど遠ざかるというでもないが、他の同郷人の或る者ほどには親しくないようになった。それが新来の関県令には聞こえていたので、貴公はそのまま学務課長に居てもよいというような内諭があった。けれども、今までの同僚で、殊に同郷人は多く東京へ行くし、また椅子を並べる課長等は新顔も多くなるという事になっては、なんだか、そのまま落着いている気もしないので、終に東京へ転任したいという事を答えた。しかし他の同郷人は岩村氏の転任した内務省へ幸と採用されたのだから、官等はそのままで行く事が出来たが、私は学務課長で転任するなら文部省である。文部省は私に対して何らの縁故も無いから、来るなら今までの二等属を四等属に下げねばあき場がないという事であった。そこで私も少し困ったが、何しろ今までのままでは居たくないので、終に決心して四等属を甘んじて、いよいよ文部省へ転任する事になった。ちょうどこの年の七月であった、大書記官の赤川※[#「韻/心」、U+2296B、288-10]介氏、これは長州人で別に民権主義でもなかったが、長官が代るにそのまま居るのも、難儀だと思ったものか、転任させてもらうことになって、この転任先きは忘れたが、とにかく家族を連れて当地を発して東京へ赴かるるので、私も家族を連れてそれと同行した。この航海は神戸からは三菱会社の船の東京丸というに乗った。この一月に上京する時は、名古屋丸というに乗った。いずれも米国から買入れたので、名古屋丸は旧名ネヴァタ、東京丸はニューヨークといったのである。この途中神戸で楠公神社へ妻と共に参詣したが、福原には妓楼なども出来ていて、旧観を更めていたのに驚いた。それから東京へ着いては兼て願って置いたので、日本橋区浜町二丁目の旧藩主久松伯爵邸の御長屋へ住むことになった。
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十七


 私はこの年の歳末に、久松家の麻布長坂の別邸へ、行くようにとの事であったから、そこへ移った。その頃は東京の物価も余り高くない時であったが何しろ五十円の収入が四十円に減って、しかも都会生活をしなければならぬというのだから、随分困難であった。私の家庭は前にもいった、長女長男の外になお次女せいというを挙げていたので、その頃は親子五人の暮らしであった。それからここへ来ると文部省へは一里と十丁ばかりの距離であるが電車もない時代とて、それを日々歩いて勤めた。衣服も多くは唐桟とうざんに嘉平次平の袴位を着るし、あるいは前にいった、地方官会議の随行の時新調した、モーニングコートを着ることもあった。靴は半靴を好んで穿いた。これは往来の遠いため早く損じて度々新調したものである。それから家族の衣食もそれに准じて粗末なもので辛棒させて、魚や肉などは余りに買わないで多くは浅蜊あさりはまぐりまたは鰯売り位を呼込んで副菜にし、あるいは門前の空地に生い茂っているあかざの葉を茹でて浸し物にする事もあった。顧るに私の一生で生活の困難を感じたのは、この頃が最も甚だしかったように思う。しかしその年末に三等属に昇り、その翌年は二等属に、また翌年は一等属に昇るという風に、漸々と収入は増したのだけれども、都会生活だけにやはり苦しい事は苦しかった。
 翌十四年に副局長の久保田少書記官が、神奈川、埼玉、群馬三県へ巡回する随行を命ぜられたので、それらの地方の学校その他の様子を見る事が出来た。この時神奈川の或る小学校で、教育上に関して久保田氏の代理として演説をする事になったが、或る拍子に詞が滞ると共に思想が散漫して後の語が継げず、頗る不体裁をしでかした。尤も私は藩の学校などでも講義をするのは人よりもうまかったから、人中で喋る事は多少の自信もあったのであるが、忘れもせぬ、学区取締となった最初に、小学校設置の必要を松山の有志者に説き聞かす時、少しいい詰って、出来そこなった事がある。それ以来、大勢の前での演説は少しおくれ気味になっていた所へ、この度文部省出張官の位置としての演説であったから遂に失敗したのである。これは後の事だが、それに懲々こりごりして、文部省勤務中は演説事は断って全くせなかった。その後子規に導かれて俳人生活をする事になって卅年頃に神田の或る学校で講演会を開いた時に思ったよりも巧く喋舌った。次に徒歩主義会の講演を神田橋外の和強学堂で開いた時も出来栄えがよかった。そんな事で私は元気を回復して、今では演説や談話は好んでもする事になって、聴衆が多ければ多いほど弁舌もいくらか伸びるという風になった。
 一体学制の頒布は第一に小学教育の普及を主眼としていたのであるが、まだ強迫就学という事までは進んでいなかった。しかるに私が県地にいて小学教育を督励していた経験では、是非とも強迫就学となし、その教育費も他の租税の如く、賦課するのでなければ結局の目的は達せられないという事を知っていたから、最前地方官会議の随行中文部省に出頭した時もこの意見を述べるし、また九鬼文部大輔にも面会してこの事を話して置いた。けだしこれは他の地方からも私と同じ意見を申し出た者が多かったろうと思う。そんな結果からか、田中文部大輔が法制局へ転任して河野敏鎌氏が文部卿となり、九鬼氏がそれを輔佐せらるる事となった際、遂に強迫就学と学費も租税同様賦課せしめらるるに至った。これが十三年末の大改革で、改正の教育令といった。ちょうどそこへ私は文部省へ転勤したのであるから、主としてこの改革に関する施行規則等の調査に従事した。まだその頃は大学卒業の学士などは一人も官吏となる者はなくて、多くは古い漢学や変則洋学を修めた人達であるから、私の如き自己研究の聞噛り学問をした者であっても、いくばくか用に立つ、また理論を徹底せしめるという事は私の今でも得意とする所であるから、そんな事で位地の低いに関らず、意見は充分に立てる事が出来た。ただ江木千之えぎかずゆき氏が先進者でその頃二等属から一等属になっていたが、これが唯一の議論敵で、それだけ互に親しくもしていた。その後も江木氏が何か主任となって調査する時には、必ず私を係員にして意見を聞かれるので、私も用捨なくそれを述べて頗る知己としていた。それから局長は辻新次氏で、副局長は久保田譲氏であったが、これも私の事務を調査する上には他の人よりも長所のあるという事を認められていたらしく、久保田氏はく人を叱り付ける風であったが、私だけは幸に優待を蒙っていた。そして私の性質としても引受けた事は、飽くまで努力して充分やらねば気の済まぬ風であったから、他の人よりは数倍の用向を引受けてそれぞれに調査を遂げていた。暑中休暇の如きも、他の人は休んでも私のみは一日も休まずに勉強した事もあった。
 この教育令の施行規則は文部省から随分と綿密に干渉して殆ど地方官には何らの活用もさせぬというような風であったので、地方の当局者は時々上京して不平を述べる者もあったが、それに対しての答弁は私が多く引受けて、聞き噛りの独逸ドイツや、米国の或る州の学制などを引用して正面から喝破した。その頃私は独逸主義の国家教育制度を一も二もなく信仰していたのであった。
 私は幸に文部省の位置も段々と進むし、多少生活も豊かになったから、いつまでも久松邸の御厄介になっているのも恐縮だと考え、十七年の二月、上六番町へ家を借りて移転した。この頃は長女の順はもう小学校も終る頃になっていたので、近傍の桜井女学校へ入学させた。校長は、今は誰れにも知られている矢島楫子かじこ刀自であったので、宗教上の教育も受ける事になり、また私の妻も時々説教を聞く事になって、終に母子共に洗礼を受ける事になった。私は元来は漢学をしたのであるが、まさか孔子や孟子の説を唯一に信ずる事も出来ずその後は西洋の翻訳書などを見て、多少智識を博めたので、いよいよ信仰というものはなくなって、むしろ無宗教という事を自分ながら得意としていた。が、一般の人間は何らかの宗教心のあるのがよいと思い、就中婦女子はそれが必要だと考えていたので、右の如く妻や娘が洗礼を受けたいといった時も、快く承諾して、むしろそれを奨励したのである。而してよく先方から招かるるので、私も時々は説教を聞きに行って、その度に説教者にぶつかって種々と議論もした。就中奥野某氏といって我国では最初の基督信者で、彼のバイブルの翻訳者である、彼の人などとも度々議論した。また英人のイーストレーキ氏などとも議論をした事がある。その頃島田三郎氏も多少基督教に傾いていたので、これとも出逢って話をした事であった。そんな事から私は、基督教を一通りは調べて見たいと思って、同志社出身では横井時雄氏、金森通倫つうりん氏、小崎弘道こざきひろみち氏などにも話を聞いた、これは組合教会の方だが、また一致教会の植村正久氏へは就中しばしば行って議論を闘わした。また仏教の方でも島地黙雷しまぢもくらい氏に話を聞こうとしたが、これは余り私どもの如き者を寄せ付けぬ癖があるので、若手の方で平松理英氏北条祐賢氏などとしばしば出逢って話をした。その他村上専精せんじょう氏吉谷覚寿氏黒田真洞氏にも面会した事がある。それから佐治実然氏はもっとも好い議論敵で、なお大内青巒せいらん氏にも交際した。かように基督教も仏教も研究するだけはして見たのだが、それが根本的に私の意に適せず、或る疑点は誰れに質問しても明答を得ない。そこで、自分でバイブルも見るし、仏経も随分読んで見たが、やはり充分に満足が出来ない。そこで今度は、哲学の方面を、翻訳書ではあるが、古今に亘って調べて見たが、これもこの説ならというほどの満足が出来ない。因って私は今日も宗教は勿論、哲学上に一つも同意するものはなくて、唯自分で或る哲理的の宇宙観乃至人生観説を持して、余義なく満足しているのである。私の意見では、何事も事実に説明されたものでなくては信ずるに足らぬ、而して理学はまずその側のものであるけれども、これもまだ絶対的に宇宙の事物を研究せられてはいない。ただ幾分かそれが出来ているから、それを基礎として、知り居るだけの事を知って、その立場立場で比較的確かなというものに満足しているのである。そこで今日よりも明日、更に知る点が出来たなら、またそれに移って行く、要するに事実と共に私の智識は進んで行くのであって、その比較的確かなものを信じて、これに満足をする外はないのだ。この事を話せば際限もないから、ここらで止めて置くが、そんな考えがその頃から出来て、遂に今日に至っても変らないのである。
 十八年の末に森有礼もりありのり氏が文部大臣となって兼て抱いていた学事の改革を実行せらるる事になった。この人は凡ての法令の案文は自分で書く風なのであったが、それを修正して発表するには辻次官からの命でいつも私が筆を執った。私はこれ以前一等属より進んで准奏任御用係というのでいたが、この際更に文部権少書記官に昇進した。翌年は伊藤博文氏の総理大臣の下に官制その他の大改革をせらるる事になったので、あらためて文部省書記官となり、而して往復課長となったのだが、規則の制定や改正などというといつも私は特別にそれに関係した。
 森文部大臣の自分で法令案を書かるる事は前にもいったが、なお学事の方針や施設の心得等に関しては、絶えず各地方を巡回して当局者に親しく講演され、それを筆記したものを印刷して一般へ示さるる例で、この文章の潤色も多く私が担当していた。忘れもせぬ、廿一年紀元節の憲法発布式の日、私は大礼服がないので、――以前拝賀には借着した事もあれど――不参をしていたが、右の大臣の講演筆記の潤色用を急がるるので、特に文部省へ出勤し折からの大雪の寒冷を忍びて、筆を執っていると、俄に電話が掛り、大臣が負傷されたとあったから、急に車を馳せてその官宅へ行って見ると、意外も意外、森氏は西野文太郎という書生に刺され、西野はその場で大臣護衛の斎田某に切殺されて、廊下は血だらけになっている而して医師達は既に集ってもっぱら森氏への手当中であったが、氏は既に昏酔に陥って、時々大声を発して無念らしい唸きをせられていた。私と前後して他の人々も駈けつけて、官舎は忽ち大騒ぎとなった。而して森氏はその夜遂に亡くなられたがこの終焉の記録等も、辻次官の命で私が筆を執った。森氏は英国駐在の公使を久しく勤めて居られたにもかかわらず、普通教育は全く独乙ドイツ式で、挙国兵の基としてまず高等及尋常の師範学校に兵式体操を行わしめ、順次に小学校は勿論、中学校等にも兵式体操を行わしめ、なお一般の学校に人格気質の養成という点を厚く注意せしめられ、またこれまでは他省に属せし工科農科の大学や専門学校を、総て文部省の管理に移し、諸事統一的経済的に学政を敷かれつつあったのだが、一朝この凶変の起ったのは実に惜しい事であった。
 遡っていうが、私が東京へ転任した翌年に次男を挙げて、惟行となづけた。十九年には三女を挙げてらくと命けた。
 私も既に月給は百円ずつ貰っていたので、その頃の物価ではこの金額でもやや寛ろぎが出来るはずだが、夫婦共に会計上に拙いので、他の同僚の如く人力車夫を抱える事も出来ず、雇い車の車夫にやっと看板の仕着せ位をして済ませ、文部省の弁当も判任官以来五銭弁当で甘んじていた。借家は最初の上六番町から下六番へ移り大分奮発して九円五十銭の家賃を払う事になった。こんな生活だけれども月給ではどうかすると不足を告げ、終に借金が出来るようになったので、一つそれらの整理をせねばならぬと思い付いて、廿一年に妻と相談の上彼に次女と次男とを連れさせて一時郷里の松山へ赴かせた。この少し以前、三女らくは実扶的利亜ジフテリアに罹って三歳でなくなっていた。そこで長女順は桜井女学校へ寄宿せしめ、私は長男健行を携えて神田の三崎町に下宿した。この際、従弟で浅井から養子に行った天岸一順というが学問のため出京していたのでこれもこの下宿へ同寓せしめることにした。知人などからは、年を取って官吏生活をしていながら下宿するのは可笑しいじゃないかといったけれども、私は平気でいた。この頃であった、独逸人のスピンネル氏が、基督教を日本へ弘めるために来てこの人は哲学にもなかなか達していたので、その門人で居た同郷人の三並良氏の通弁で度々宗教話を聞いたが、やはり私の意には満足しなかった。廿二年には暑中休暇を貰って松山の妻子を省みた。十三年に東京へ来てから十年ぶりであったので、故郷とはいえ、諸事珍らしくもあり、また人々にも歓迎された。それから翌廿三年には妻子を松山から東京へ迎えたが、この時は私自身讃岐の丸亀まで行って、そこへ妻子を呼び寄せ、松山までは行かなかった。行くと数日の逗留ではとても知人に接する暇もなく、むしろその厚意にそむくからである。この丸亀は折から妻の妹の夫、また私にも父方の従弟に当る菱田中行が基督教の宣伝のため来ていたので、そこへ止宿した。なお長女順も昨年同郷の山路一遊に嫁して、一遊は香川県の師範学校長を勤めていたので、順女もこの丸亀まで来て面会した。それから東京へ着いては、前年から旧藩主久松伯爵家より嘱託せられていた常盤会寄宿舎監督のその役宅へ一同住う事になった。この寄宿舎は本郷真砂町にあったのだが、間もなく私は弓町一丁目に借宅してそこへ一家を構えた。ついでにこの常盤会寄宿舎の事を少々話せば、従来郷里松山から学問の修業として出て来る書生は随分多いが、普通の下宿に居ては費用もかさみ、どうかすると遊び癖も付くという事を、旧藩主久松伯爵家にも憂えられて、廿年の末に右の寄宿舎を設け、彼らの書生を収容さるる事になった。なおその以前に、郷里から出ている俊秀にして資力に乏しい生徒には、学費を給与さるるという事にもなっていたので、この給費生もやはり寄宿せしめらるる事になった最初の給費生中で後年成立たもな人では、佃一予氏勝田主計氏正岡子規氏などである。この監督は最初同郷人の服部嘉陳氏であって、私も給費生の始まった頃からその生話掛の一人で、やはり寄宿舎にも関係する事になっていた。その後服部氏は、病気のため帰郷する事になったので、そこで私がその後任となったのである。
 また廿二年の頃久松家の御事向につき事件が起り、私はこれに対して意見を陳述する機会を得たので、その以前より出来ていた、御家憲の実施を促がし、その結果として諮問員を東京と松山とに置かれ毎年の経費や重要の事件はこの諮問員に諮問されて後ち施行さるる事になった。而て私もその一員に加わる事になって、これは今日に至るまで継続して勤めている。
 そこで文部省の方では廿三年に参事官に任しなお普通学務局の方も兼任していたが、その以前から私は精神衰弱とでもいうものか、事務の調査をする際は能く不眠病に罹る事が始まって、それでも勤めるだけは勤めねば気の済まぬのだから随分と苦しむ事になった。しかのみならず、その頃は大学卒業者も文部へ入って来てなかなか頭の好い者も出来た、即ち先進者では高橋健三氏、それから岡倉覚三氏木場貞長氏沢柳政太郎氏渡辺董之助氏などである。こんな事で私はう独り舞台で働くという訳でもなく、また唯一の知己たる、江木千之氏は内務省へ転任してしまったので、何だか寂寞をも感じ、いっその事辞職して閑散の身分になり、精神の保養かたがた寄宿舎の監督位を勤めようという気になった。而してもう恩給年限に達していたから、その給与を受くれば、その頃は物価も安く、監督役宅に住えば家賃もいらぬという訳なので、遂に決心して辞職をした。辻次官は頗る留められたし、大臣は芳川顕正よしかわあきまさ氏であったが、これも多少厚意を寄せられたのであるけれども、私は役人生活が嫌となるともう一日も勤める気がなくなって、遂に止める事になった。これは廿四年四月である。
 それ以来私は寄宿舎の監督のみを職務としていたが、そう日々の用向きはないので、それからは運動のため日々当てもなく東京市中及び近郊を散歩する事を始めた。而して東京市の彩色の無い絵図面を持っていたのを、散歩の度に通った道路に朱を引きそのため用もない道や、わざわざ廻り道などもして、段々と図面が赤くなるのを楽しみにしていた。また近在の宮や寺や名所などもあまねく廻ったから、今日でも、これらに知らぬ所はない。しかのみならず、寄宿生には時々遠足会という事を催すので、それも私が率先して熟知の名所古蹟等へ伴う事にした。私は身体の人よりも弱いにかかわらず、足だけは幸に達者なので、この書生を率いた時などは、別して痩せ我慢の健足に誇って見せた事である。
 寄宿舎に居る生徒は各々自分の目的に従って学校へ通っていたので、法律や政治や経済やまた文学などと各方面の生徒も居たのだが、正岡子規氏とか、河東碧梧桐かわひがしへきごとう氏の実兄竹村黄塔氏とかは文学専門であって、なお漢学も修めていたから、私は時々この二人と共に漢詩を作り合う事もあった。また同行して郊外へ散歩する事もあって、この際は漢詩の外、七五体の新体詩見たようなものを、互に附け合うような事もして、暢気な遊びをした、これは言志集といって、今も数冊残っている。尤も子規氏はその少し以前から俳句を作り始めていたので、黄塔氏や私もその真似をする事になって、今で見れば変なものだが、連句みたようなものを作った事もある。が、私はまだ本気に俳句を作ろうという気もなかった。而して折々見れば寄宿舎では右二氏の外、五百木飄亭いおきひょうてい氏とか勝田しょうだ明庵(主計かずえ)氏とか藤野古白ふじのこはく氏とか新海非風にいのみひふう氏とか佐伯蛙泡氏五島五州氏とかいうが随分盛んに俳句をやっていたのである。しかるに廿五年の年始に私は二つばかり俳句が出来て、それを子規氏に見せたら、これはなかなか好いといって誉めてくれた。それから私も暇ではあるし、いよいよ俳句を遣って見ようという気になって、作れば作るほど熱心の度を増した。この夏子規氏は松山へ帰省して、彼地でも俳句を宣伝して段々と同好者を生ずるに至った。

 私はまた別に、宇和島人の土居藪鶯氏は兼て知り合いで、これもその頃から俳句を始めたと聞いたので、この人の在勤している、横浜へも行って共に句作し、そこの宗匠に見てもらう事もしたけれどもまだ何らの標準も立たず月並的の句も作るので、子規氏が松山から帰って来ても余り取ってくれない。そこで私は多少憤慨心も起ったので、兼て子規氏から聞いていた蕉門の猿簑さるみの集が句柄が最もよいという事を思い出して、もっぱらこの集を熟読して、その末数句を作って子規氏に見せた。処が意外にも氏が賞讃して、これはいずれも振っている、どうした訳かと聞いたから、猿簑を熟読した事を話したら、氏もそれで判ったといって大いに笑った。それ以来は、寄宿舎の俳句仲間よりも私が最も氏に信用せらるる事になって、私もいよいよ得意になって句作をした。この年子規氏は日本新聞の創設に際して、その文芸欄を受け持つ事になった。これは谷干城たてき氏が我同胞が西洋にのみ心酔して日本という事を忘れるのを憤慨して、それを覚醒するために発刊したので、名さえも日本と名づけて主筆としては、陸羯南くがかつなん氏を用いた。この羯南氏と共に、司法省法律学校の放逐生たる同郷の加藤恒忠氏は子規氏の母の弟である関係から、羯南氏が早くより子規氏を知っていて、この新聞で充分にその才能を発揮せしめたのである。そこで子規氏も得意になって俳句の選をする事は勿論、俳論を縦横に書いて月並派を攻撃して、ここに始めて我々が俳句の今日あるを致した。この影響は一両年経つか経たぬに全国に及んで、新聞という新聞は、俳句を掲げざるなく、書生仲間には到る処に子規風の俳句を真似する事になった。而して子規氏は、好んで旅行もしたものであるが、この歳末に新聞社から切符を貰ったというので、私を促して日光や武州高雄山の吟行を試みた。
 その翌年の一月であった、子規氏が私の宅へ来て、昨夜は非常に面白かった、それは椎の友会というへ行って運座をやって、遂に徹夜したとの事である。そこで聞くと、椎の友会は、伊藤松宇しょうう、森猿男さるお、片山桃雨、石山桂山、石井得中の五氏の顔触れで、月並家の運座には、宗匠のみが選者となるのを改めて、座中の共選という事にしているそうだ。而して私にも次回には出席せぬかと勧めるので、私も直ちに承諾してそれへ出席した。而して運座は一層面白いものだという事が判った。実は以前寄宿舎仲間で俳句を作るのは、唯題位を極めて置いて、各々勝手に句作して、それを互に批評するという位に止まっていた。早く多数の句を作る事を競争してせり吟などと称えていた。それが運座という事に改まって、かつ互選であるという所から、各々多数の点を得るのを興味として、その運座を幾度となく催し、今度は誰れが勝ったとか負けたとかいっていよいよ面白くなり、遂に徹夜をする事にもなるのである。そこでこの椎の友仲間と寄宿舎従来の仲間と、なお私が側では土居藪鶯氏の外同じ宇和島人の二宮素香氏同く孤松氏等をも引込み、また子規氏は大学の手合で大野洒竹氏藤井紫影氏、田岡爛腸(嶺雲れいうん)氏などをも引込み、その一同が会する時はなかなか盛んなものであった。また或る日の事、中根岸の岡野の貸席でこの大会を催している最中、浅草鳥越とりごえ町方面に火事が起って、それが近火だからといって、森猿男氏と片山桃雨氏は俄に帰宅した。それからこの大会も済んだ頃まだ火事は消えず、新築の中村座が焼失したという事を聞いたので、それでは猿男桃雨氏の宅も焼けたろうから見舞って遣らねばならぬといって、私が率先して子規氏や古白氏や松宇氏などと駈着けて見ると、幸に類焼はしなかったが、道具なども片付けて手伝いの人も出入りしていた。そこで例の見舞い客に振れ舞う土瓶らの茶碗酒を我々にも飲ませたが、我々はそこへ腰をかけたままで、もう火事の句数句を作る、また主人も作るという風で周囲の他の人々は呆れ顔をしていた。その頃の我々の俳句に熱心であった事はこの一事でも判るのである。
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十八


 この年から翌年頃へかけてが、私どもの俳句に熱狂していた盛りである。同人が互に往来して俳句を作り俳談を闘わすのみならず、例の各派を合した会なども度々催して、その頃は多くが書生であるから、家を持った私どもの仲間が順番に会席を引受けて、ちょっとした飯と酒とを出す事になっていた。就中宇和島人の二宮兄弟は熱心であったから、その弟の孤松氏宅や、その兄の素香氏を通して仲間に入った桜井静堂氏宅と、私宅では、頻繁に開会した。そうして子規氏は何といっても先覚で中心点ではあるが、この頃いうデモクラシー的に何ら先生顔もしない、そしてわれわれも先生らしくは扱っていないのである。これが我々中間の俳句の特色で、今でも新傾向派などが起ったにかかわらず、この態度は同様である。この頃であった、美術家で有名なる岡倉覚三氏の厳父が俳句をやられるので、私はその俳席へも出た。また牛込の宗匠たる岡本半翠氏は、予て私が文部省の参事官であった頃の筆生であったが、計らずもそれがいわゆる旧派の宗匠であった事を、同人中の土居藪鶯氏から聞いて、この関係からこの半翠氏宅の俳句会へも行く事になった。この会も或る特色は持っていて、従来の運座では或る一枚の紙に題を書いてそれに順次に句を書きつけて折り込んで行く例であったが、どうかすると前の作者の句を見て、自分の参考にするような嫌いもあった、そんな弊を防ぐために、一題ずつに状袋をこしらえて、それへ順次に句を書いた紙片を入れて廻す事にした。この方式は半翠氏門下の発明であったという事で、会名を袋組と称していた。私どもは頗るそれをよい方法だと感じたから、その後は伊藤松宇氏が始めた互選法と共に、この状袋廻しの事をも真似する事になった。その後この方法は久しく行われていたが、袋を順次に廻せば苦吟家に停滞される憂いがあるから、遂には席の中央へ各題の状袋を投げ出して置いて、出来た者がその中へ句を入れる事に改めた。そこで我々の俳句は子規の発達と共に発達したのでその後は半翠氏等の旧派連と出逢う機会もなかったが、遥か年すぎて、私が牛込方面を通っていたら、或る婦人がよび留めて、私は岡本の妻であるが、今先生の通られた事を夫が知って是非御面会したいというから立寄ってくれという、そこでその家へ這入って見ると、半翠氏は病床に横わっていて、聞けば肺病らしかった。それでも私と逢った事を喜んで種々の俳談を交した。なんだか心細く名残惜しいような顔をしていたが、際限もないから私はそこを辞して出た。その後一年ばかり経て、岡本の門人だという人が私の宅へ来て、我師はもう去年亡って、今年は一周忌であるから追悼の句を貰いたいといったので、私も以前の事を思い出して感慨にうたれたから一句作って与えて弔意を表して置いた事である。
 右は後の話であるが、二十六年の末ごろ、私は旧藩主の久松伯爵家から旧藩事蹟取調という事を嘱托せられた。これは二十一年頃、先帝の思召しで、三条公と岩倉公との事蹟を調べて置くようにとの仰せがあったので、それと共に維新の際いわゆる勤王党であった旧藩主が、右の両家と共に事蹟を調べる事になって、その結果二百六十の旧藩主華族諸家もこの調べをする事に御沙汰があった。けれども元々持出す事件があるならば持出せというような事であったから、それを調べぬ家々も多かった。が、私の旧藩主久松伯爵家では熱心にそれを調べられる事になってとても家職では暇がないという事から特別に私に嘱托せられたのである。なお旧藩の頃家老から大参事を勤めてその後は立憲進歩党の老人株で居た鈴木重遠氏も先輩として加わる事になった。この調べをする事蹟の範囲はもっぱら、嘉永年間米国船の渡来より、明治の廃藩までというのであって、久松家から宮内省へ差出さるる事蹟はそれだけなのであるが、いっその事この機会に松山藩の出来た以後の二百数十年間の事をも調べて置きたいという事で、これも私どもの担任する所となった。そうして宮内省からの需めにかかるものを甲種とよび、その他の事蹟を乙種とよんで、共に材料を集める事になったが、残念な事にはかつてもいった如く廃藩の少し前に、三ノ丸が火災に罹って、藩庁の書類は悉皆焼失してしまった。そこでこの上は旧藩地について個人の家々に残っているものを探し出す外はない、尤もこれらも、明治の初年に久松家から当時の老人連に嘱托して旧藩代々の君侯はじめ臣下や人民の特種な事蹟を調べさせられたものが、松山叢談という三十巻ばかりのものになっている。けれども惜いかな昔し気質の老人の手に成ったので、君侯の事歴こそかなり詳いけれども、その他は多く個人的の特種な行為が列記されているというのみで、肝腎な藩の政治法令とか民間の農業商業其他社会方面の事は殆ど全く調べられていない。そんな事から、この度私が嘱托を受けて見ると、それらの洩れたるものをもなるべく調べたいと思って、そのために松山へ赴く事になった。松山には従来久松家の松山方面の家政を取扱う人々が居るので、まずそこへ行ってこの度の取調の事件について充分に話もしていよいよ着手せしむる事になった。またこの取調のため、松山でも残りの老人二、三に嘱托者が出来た。けれども明治の初年と違って偶々あった材料も子孫の世となっては、反古にしてしまったものもあって、辛うじて集ったものも充分なものでなかった、がまずそれらを謄写するとか貰い受けるとかを、松山の掛員へ托して置いて、そして私は帰京した。この松山行きは十三年に出京してから二度目であったが、段々と知人も物故して、今昔の感も尠くなかった。
 この松山行の途中私は京都へ立寄った。それは同郷の河東碧梧桐氏、高浜虚子たかはまきょし氏が子規氏の帰省の機会から俳句を作り始めて、その後大学へ入る目的で京都の第三高等中学校の生徒となっていて、一層俳句を作って、二人ながら発達も速かだという事を、兼て子規氏から聞いていたので、私も懐しく思ってそれを高等中学校前の吉田町の下宿に訪ねたのであった。尤も汽車に乗る事を急いだので、僅か半日ばかり俳談をして、互に句作などをもしただけで、直に二氏と別れた。それからまた帰途にはこの京都へ立寄ったが、その時は二氏には逢わないで、これも同郷の俳人で岩崎宗白氏というを訪ねるためであった。この人は松山城下で錦雲舎という菓子屋の主人であったが、茶事も裏千家の高弟で、また俳句は大阪の芹舎の門人であったので、廃藩後は京都へ住居して水力応用の紡績機械を販売する、傍ら茶と俳諧の宗匠をも兼ねる事になった。そしてこの春頃東京へ来た際私の家には藩の頃出入した関係もあり、殊に俳句を始めた事を聞込だので、訪ねて来て、また私もその旅宿へ行った。そうして俳句についても談話を交したのみならずこの頃まで連句という事は、私どもの仲間でも余りせなかったのを、この宗白氏の口授でその方式を知り、終に席上で両吟をした事がある。そんな関係でこの松山の帰途には宗白氏を訪ね、翌日は氏を連れて嵐山辺へ遊んで、彼の二丁登れば大然閣へも詣でるし、少しばかり大堰川を舟で遡っても見た。その後帰京して後ちもこの人との俳事往復は時々する事になった。なお松山滞在中、宇都宮丹靖氏とか黒田青菱氏とかいう俳人にも出逢った。この丹靖氏は売卜業で八十以上の老人でもとよりいわゆる旧派である。青菱氏は松山では旧家と称する売薬商で、これも旧派たるは勿論だが、外に観世流の能楽も学んでいて、郷里では多くの人に知られていた。それから若手では村上霽月せいげつ氏もこの頃から俳句を始めて、これは以前に東京へ出て書生をしていた頃、私が学校の証人に立っていた関係から、子規氏よりも私に俳句を示されたのが始まりで、度々往復をしていたから、この人とも出逢って俳句を作り逢った事がある。
 ツイいい洩らしたが、二十二年に私は三男和行を挙げた。
 ここでちょっと話を挟むが、子規氏の俳句を始めた頃は主として芭蕉一派の俳句を標本としていたのだが、椎の友会席上で蕪村の句の巧いという話が出た。けれどもそれは俳句題叢に載っているものの外見ることが出来ない。蕪村句集を探したけれどもちょっと手に入らない、ないというといよいよ見たくなるので、終に我々が申し合って、もしも蕪村句集を最初に手に入れたものには賞を与えるという事を約した。間もなく片山桃雨氏が蕪村の句の僅かばかり書き集めた写本を探し出したので、我々から硯一面を賞として贈った。後で聞けば大野洒竹氏の手にあったのを桃雨氏が借りたのであったそうな。しかし蕪村の多くの俳句は相変わらず見る事が出来なかった。そこへ或る時村上霽月氏の報知では、松山の古本屋で蕪村句集の上巻を手に入れたという事だ。私どもは驚喜してそれを貸してくれといってやったが、霽月氏も現本を貸すのは惜しいと思ったか、別に自分が写したのをさし越した。そこで一番に私がそれを写す、子規氏も次に写す、なお椎の友連へもそれを見せた。そうこうしているうち、誰かが告げるに、芝の日影町の村幸店に、蕪村句集の上下揃ったものがあるとの事であった。私は聞くとそのまま人力を雇って馳け付けたが、途中でももしそれが人手に渡りはせぬかと気遣いながら、その店へ行って聞くとまだあるといったので、実に天へも登る嬉しさであった。価もその頃では奮発であったが、二円で買い取って、帰ると直に披読し、その日に子規氏へも報知する、また椎の友会へも段々と告げて、我々一同がここに始めて久渇を医したのであった。が少数ながらも、最初に探し出したという賞は桃雨氏に帰していたから、私はもう賞を貰うことは出来なかった。けれどもその大得意は賞の有無を考えるどころではなかった。そうしてその下巻を直に写して松山の霽月氏に与えて、さきに上巻を見せてもらった報酬をした事である。ついでにいうが、蕪村句集を我々仲間がかく競い読むという事が、段々と俳人仲間にも広がって、世間へも聞えると共に、終に神保町の磊々堂が旧版を再版する事になった。聞けばこれは大野洒竹氏が、私が得た少し後にまた一部を得たのを、堂の主人佐藤六石氏が乞い取って、それを再版に付したのであるそうな。それから少し経って大阪の書肆が土蔵の奥に捨てて置いた蕪村句集の旧版を発見したので、それを刷ったのが世間に出たから、いよいよ蕪村句集は誰れにも見られる事になった。私は今いった最初発見の句集を持っていた上に、別によい初刷本のあるという事を村幸から知らせて来たので、終に若干の価を増し前のと交換して、今も持っている。これには表題に上編と記してあって、月渓の跋文に蕪村の一周忌にこの集を出したのだが、なお翌年の忌には次編を出すといってある。それが下編に当るのであろうけれども終に発行せられずに終ったから、その後刷る版本には表題の上編という文字とこの跋文とは除かれている。なお京阪の俳人仲間が金福寺で蕪村忌を営む事になった頃、これも大阪の或る書肆の蔵の奥にあったという事で、まだ上木せない蕪村の句稿を、水落露石みずおちろせき氏が持ち出した。それが出版されたのが、現今も行われている蕪村句集の拾遺である。
 今いった碧梧桐虚子の二氏はその後京都の高等中学校の改革で仙台の第二高等中学校に移ったが、間もなく、もう大学校などへ入るのは面倒だという事で、自分で退学してもっぱら東京で文学を研究する事になり、就中俳句は子規氏の下で益々盛に遣る事になって、終に子規氏の左右の腕となるに至った。そこで私は最初こそ子規氏が、無二の相手であったが、もうこの頃は碧、虚二氏が成り立ったので、自然に老人役という側へ廻って、世間からも子規氏と私は芭蕉と素堂の関係だといわるる事になった。けれども子規氏の宅の俳句会は勿論、蕪村の輪講など催す時は私は必ず出席して、一番におしゃべりをしていた。尤も私は中途で俳句の作をやめていた事もあったが、間もなく死灰再び燃えて相替らず作る事になったのみならず、子規氏派の俳句の普及すると共に、私も段々と雑誌や新聞の選者を頼まれる事になった。就中ホトトギスは我々の機関であったために、選者たるのみならず、種々の文章なども出していた。
 このホトトギスだが、これは二十九年頃であったろう、郷里の松山で柳原極堂やなぎはらきょくどう氏が久しく俳句を作っていて、また海南新聞の記者をも兼ねていたから、その印刷機械を利用して、子規氏の俳句を宣伝する雑誌を始めた。そうして子規の名の関係からホトトギスと称した。そこで子規氏始め、碧虚両氏や私もそれへ句や文章を出す事になっていたが、惜しいかな地方の隅で発行される雑誌は見るものが少ない。っと二十号まで出した頃、極堂氏が、せめて三百部売れるなら収支が償って継続されるが、それだけ売れぬから、もう廃刊するといって来た。そこで虚子氏はそれなら自分が引受けて東京で発行して見ようといい出したが、子規氏はそうなると全く自分の直轄となるので、責任が重くなる、万一にも読者が少くて維持に困難を生じて廃刊にでもなると自分の恥辱だからといって、容易にそれを許さなかった。しかるに虚子氏は信ずる所があって、熱心にその継続実行を主張して、経済万端は凡て自分が引受けるといったので、子規氏も遂に承知する事になった。これがホトトギス第二巻の一号である。そうして予想以上にこのホトトギスは購読者も出来て、松山では三百を出し兼ねたものが、三千部も出る事になって、虚子氏が鼻を高くすると共に子規氏も大いに安心した。そうして子規氏はかような編輯上の意匠にも富んでいたから、購読者はますます喜んで見る事になったので兼て日本新聞やその他の各新聞で子規氏の俳風を広めていたが上に、この機関雑誌の広く行わるると共に益々我々が俳風は世間に普及する事になった。そこでこの頃小説で有名なる尾崎紅葉氏や、弁護士で有名なる角田竹冷氏や、御伽小説専門の巌谷小波いわやさざなみ氏や、法官の滝川愚仏氏、また森無黄むこう岡野知十おかのちじゅう氏などが連合して、一箇の俳社が出来た、此方でも俳声という雑誌を出して、後には卯杖と改称した。その頃伊藤松宇氏は久しく静岡地方の富士製紙会社に従事していたので、我々との交通も隔ていたが、再び出京して深川の倉庫会社に関係する事になったから、そこで元来なら、我々のホトトギス仲間へ加わるべきだが、どうかしたはずみで、秋声会の仲間となってしまった。が、相変らず私は勿論子規氏なども交際はしていたのである。
 ホトトギス仲間では、少し以前に五百木飄亭氏が徴兵に出て兵隊生活をした関係から、同じ兵隊中で佐藤肋骨氏を俳句仲間に引入れ、また日本新聞に入って来た関係から佐藤紅緑石井露月の二氏も我々仲間へ加わった。また福田把栗はりつ氏も俳句を始めたが、これは漢詩の方が更に得意であった。
 私がそもそも最初に雑誌の選者となったのは、文庫であって、これには選句の中へ簡単なる評語を挟んだので、世間では頗る受けたが、余りに口合的になるので、子規氏は機嫌がよくなかった。また太陽に同人の俳句を出す事も、その頃からで、それは編輯者の泉鏡花氏がよく私に俳句を見せた関係からである。その後岸上質軒きしがみしっけん氏等の人々が替わってこれが編輯を担任する事になってもやはり私の俳句欄はそのままにして終に今日までも継続している。なお万朝報も一週間一回の俳句欄の選者を托せらるる事になって、いわゆる旧派の老鼠堂永機えいき氏、この人が亡ってからは其角堂機一きかくどうきいち氏と共に引受けて、これも今に継続している。その他東京の新聞雑誌は段々と多く関係することになって、多少の出入変遷もあるが、今も新聞では万朝の外、読売新聞と中外商業新報、雑誌では大陽の[#「大陽の」はママ]外、二十種余に関係している。尤も文庫は早き以前に廃刊してしまったが、この雑誌は小国民の改題で、その頃はかようなものに載せる文学的のものは、俳句の外は凡て大家と認めらるる者に限る例であったのを、文庫のみは主としてまだ名を知られない若手の作でも、よい者は載せることにしたので、新進の青年は多くこの雑誌の下に集って、それが発達して今日の大家となっているものも少くないようだ。この事はこの文庫発行者の山県悌三郎やまがたていざぶろう氏の功といってよい。
 二十七、八年に亘った日清戦争の時、五百木飄亭氏は兼て医者の開業免許を取っていたので、看護卒となって服役していたが、その以前より、日本新聞の記者を兼ねていたので、それに報ずる戦地の状況が、他の報告よりも特色を帯びていたので多くの読者には歓迎されていた。そんなことからも、また自分に期する所もあったので、子規氏は病身であるにかかわらず、戦地へ行って見たくなって、それを陸羯南氏にも話したが、羯南氏は子規氏の病体を更に悪くする事を気遣って容易に許さなかった。が、再三熱心にもとめるので、終に日本新聞社から特に派遣する事になった。が、金州方面に達した頃もう戦争も終りを告げていたので、この上はせめてもとまだ充分に服従せないで戦争をしている台湾の方面へ行こうと思って、下の関まで帰った時、再び大いに喀血して、とても台湾行きは出来なくなって、それから神戸の病院へ入ったが、一時は危篤という報もあったので、既に東京に来ていたその母刀自や、虚子氏は看病に赴いた。幸にその時は快方に向って、それから郷里の松山で保養する事になった。そうしてその後小康を得て東京へ帰ったが、その頃から段々と行歩が不自由になって、多くは床に就いていた。尤も時々は車で外出する事もあったので、虚子氏の住んでいた猿楽町の宅へも稀には来た。或日の事子規氏が来た、闇汁会を開くからといって来たので、私も行ったが、闇汁とは、出席者が各々或る食物を買って来て、互に知らさずと厨の大鍋に投げ込む、それが煮え立った頃席上へ持ち出して、銘々の椀に入れて食う時、色々の物が出て来る、肉とか野菜とかの外、餅菓子やパンなども浮み出て来るので、いよいよ興を催おして思わず、飽食するにも及んだ。これが他の同人仲間にも伝わって、その頃はよく諸方で闇汁会を開いたものである。附ていうが、この闇汁は私の旧藩で昔から若いものが時々したもので、それは出席者が闇の夜に網を携えて野外の小川へ投じて、その網にかかったものを何か判らず取帰って鍋の中へうち込む、それから喰おうとすると、下駄の抜け歯が出て来る、蛙の死んだのが出て来る、その他さまざまの汚いものが出て来ても、それを構わず喰うのを勇気があると称して、互に興じ合ったものである。そんな野蛮な事も出来ないがやはりその名を取って、それに似た事をしたのが、即ち我々の闇汁会であった。
 我々の俳句会は久しく子規氏の宅で開いていたが、氏の病もよくならず、余りに大勢の集るも如何という所から、終に虚子氏の猿楽町の宅へ移して、ここで開くことになった。またホトトギスの編輯や発行は最初より、虚子氏の宅であったが誰れか編輯等のよい手助けはないかと求むる際、子規氏が地方からの出吟者で傑出した三人を見出した。それは東京の第一高等学校(この頃中の字を取った)数学教師の数藤五城すどうごじょう氏、法官で居て最初東京に居て台湾千葉と転任した、渡辺香墨こうぼく氏と、今一人は大阪の松瀬青々まつせせいせい氏であった。この青々氏は別に大した業務もなかったというので、それを呼び上せて、右のホトトギスの編輯を手伝わせる事になった。その後青々氏は他より一層発達して、殊に達作で、郭公一題二百句などという多作をして我々を驚かせたが余り長く東京には留らないで、帰阪して後大阪朝日新聞社に入って、今も同社の俳句欄を担任している。この外大阪では水落露石氏、青木月斗げっと氏なども名を出した。尤も露石氏は先年亡って、月斗氏は今も同人雑誌の主筆並に経営者となっている。また石井露月ろげつ氏は、元々医者になる目的で、その学費を弁ずるために日本新聞社に入っていたのであるから、その後開業免許を得ると直に郷里の秋田県へ帰って、女米木めめきの山中で医業を開いて、今日に至っているがその後一度も東京へ出て来ないで、地方の百姓を相手に閑居して、この患者を療養するをこの上もない楽みとしている、けれども絶えず読むものは読んでいると見えて、東京その他の俳事の状況や変遷はよく知っていて、その句作も旧によって健実である。またこの人に次いで秋田地方では、島田五工氏なども、子規氏の俳風に同化して、俳星という雑誌まで出していたが、この頃は心機一転したものか、それを出す事もやめてしまった。
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十九


 今の如く青々氏や露月氏の事をいったついでだから、なお遡って、子規氏と共に俳句を作り始めた古い人々のこともいって見よう。その頃最も才気があって、現代の文芸主義にも早くより通暁していた者では藤野古白氏がある。氏は子規氏の従弟で、早稲田の学校では後に有名になった島村抱月氏と同級であったのだが、はやくより個性とか自我とかいうような意味で文芸を扱うことに気が付いて、それを俳句にも応用した様子が見える。そうしてその頃或る家の女子を思い初めて、それが他に嫁したという失恋から、一時狂的の行為もあったが、再び心を静めて専門に文学を研究して坪内逍遥氏などにも愛せられていたのであるが、余りに抱負が高尚で卒業の論文を書いても書いても意に満たないで、卒業はさせられたものの、また再びふらふらとした気分になった。その時出来たのが「築き島の由来」とかいう劇の脚本で、青年松王が自ら求めて人柱になるという、それを自分にも実行したのが彼のピストルの自殺である。氏の湯島の寓所は私の宅と接近していたから、知らせと共に駈け付けて大学病院へ入れた後、父の漸氏が出京するまでは私は昼夜附添っていた。この看護には碧梧桐氏や虚子氏も加わったのである。しかし二発の弾の一つが脳の中枢を破ったのであるからあえなく落命した。子規氏は病床に居て、見舞う事は出来なかったが、従弟でもあるから哀悼を表する傍ら、その作品を集めたものが即ち古白遺稿である。
 それから新海非風氏だが、これは家庭の境遇から余り学問はしていなかったが、天才的で俳句を作る才は時々子規氏をも驚ろかした。いわゆるせり吟にも多く作って多くの佳句を見せていた。そうしてこの人も古白氏と共に軟派文士肌で別に資力もない癖に吉原通いをして或る妓と馴染を重ねたが、間もなくその妓が年明けとなって、身を任そうと思う男が二人あったそうだが、終に非風氏の方へくじが落ちて、その後は同棲することになった。この妓の家元は江州人で、普通なら年明きの娘も資力のある婿を持たせたいというのだが、最初余義なき金策に、娘を苦界に沈めたことを哀れむと共に、娘の好む婿ならばといって、その資力の有無を問うような貪欲心はなかった。それで、非風氏もなるべく努力して一家を立てて、函館の新聞記者なども勤めることになったが、早くより肺病に罹っていたので、後には細君の実家近くの京都辺りへも流寓して、終に病死した。そうして、あべこべに舅の家から多少の救助を受けた位のことであったろうと思う。私どもは非風氏が一時東京の小石川に家を持っていた頃、子規氏や古白氏などとそこでも句会を開いた事があったが、その後地を隔つると共に非風氏とはただ消息ばかりを知るのみになってしまった。
 五百木飄亭氏は最初大阪で医者の試験に及第したが、未だ丁年に満たないので、医者と称することも出来ず、それから上京して私の寄宿舎へ入ったのだが、年齢よりは老成していたために、推薦せられて舎監にもなった。そうして読書の才もあって、俳句がうまかったのみならず随分漢籍をも読んで、私が未だ読まぬ書を読んでいたのに驚かされた事もあった。その後日本新聞社へ子規氏の後から入って、筆を執っているうち、徴兵の乙種であったので日清戦争に従軍した。尤も医学の素養があるため看護卒となって、戦地の報告を日本新聞へ掲載して異彩を放ったことは前にもいった通りである。凱旋後も長くこの新聞に従事していて、その後は医界時報を田中義之氏と共に経営していたが、終にそれを田中氏のみに任せ今ではいわゆる高等浪人となって朝鮮合併や支那事件などにも野にあって努力していることは誰も知る通りである。
 また勝田明庵氏は他に較べては余りに俳句に熱心でなかったが、それだけ政治や経済の方面には早くより研究をして、寄宿生中でも他の者は暑中休暇などには郷里へ帰省するのだが、氏に限っては見学のため知らぬ地方を巡回して、其所々々の殖産やその他社会的の事を調べて、帰舎すると茶話会席上でそれらを報告するのを得意としていた。そんな風故法科大学を卒業すると共に大蔵省へ出身して、函館の税関長となりまた本省の局長から、次官に進んで終に大臣となった。しかし今でも時々は俳句も作っているようだ。
 以上は寄宿舎で俳句を作っていた同郷人の主なる者だが、その他では、後に自分で婦人科病院を起て、また俳事に関する蔵書に富んでいた医学士の大野洒竹氏、新聞上で筆を執って一時文名を馳せていた田岡嶺雲氏、この二人はもう亡くなった。文学の専門家で、傍らいろはたとえの如き俚諺を集むるを楽みにしていた、藤井紫影しえい氏は、今も京都大学の教授となっている。これらは誰れも知っているから私が説くまでもない。また土居藪鶯氏は、氏の郷里の宇和島の郡長となり、それを罷めて、同地の電気会社の社長となって熱心に努力していたが、惜いかな胃癌にかかって先年亡くなった。二宮兄弟では、兄の素香氏は元来病身であったが、これも帰郷して宇和島の高等女学校長の勤務中に、藪鶯氏よりも先きへ亡った。その弟の孤松氏は夙くより山県公爵に知られて日清戦争には公爵に附いて従軍したこともあるが、その後は自分で新聞や雑誌を経営したり、朝鮮方面の或る事業に手を出したりしていたが、これも近年亡った。この人の主幹となって経営していた雑誌「世界」は、後に「我邦」と改称し、なお藤花学会という愛国主義鼓吹の団体も今は存否如何を知らぬが、孤松氏尽力の形見であった。また椎の友会連中では、伊藤松宇氏と森猿男氏は、地方から帰って来て今も俳壇で先輩となっている事は誰れも見る通りである。その他片山桃雨氏と、石山桂山氏は早くより俳句を止めて、今は消息を絶っている、石井得中氏はこれも亡くなったが、末路は最も窘窮きんきゅうしていて気の毒であった。以下話が立戻って子規氏の事になるが、病床に臥しながらも、俳句に関する研究や努力はなかなか旺んなもので彼の蕪村句集の輪講もその宅で始める事になって、我々どもも興味をもって毎回意見を闘わした事である。尤もこの輪講はやはり互に句作すると同じような興味主義で遣るのだから、普通の輪講などの如く予め下調べなどをせない。それで句に依るとちょっと判らぬことなどもあるので、或る時私が、これからは少し下調べをして来ることにしょうといったら、子規氏は憤然として「先生そんな月並をしちゃいけませぬ」と喝破した。私もなるほどと合点していよいよ無頓着に講義することになった。例えば、座中に、幾人か並んでいて、輪番に講義をする、けれども、我が講義に当る句は知れていても故意と見ない、いよいよ順が来て、その句を朗読し終るや否直に解義する。即ち朗読中にその意味を考えるのである。あたかも昔の題を得てセリ吟すると同じような様子である。が、こうして行くと句の趣味には、むしろ活き活きしたものを捉えてちょっと興味もあるものだ。誤っていたことは他から正す、それに不服があれば飽くまで強弁する。そうして故事来歴等は、私が老人だけに比較的に多く知っていたから、これは得意としてそれを説き聞かせる。要するに心易い同士の議論だから、負けても勝っても結局笑いに落ちる。他の詞でいえば、楽屋落ちの蕪村の句話しであったのだ。けれどもそれをホトトギスに臆面もなく載せた結果は、読者から時々誤謬を指摘したり、あるいは他の意見を報知して来る。これも我々の心得にもなり、また興味であるから、一々それは次号へ載せていたのである。しかるにこの蕪村輪講がその後単行本となり、世間でも多く見ることになったので、更にわれわれの講義に対して非難や注意やあるいは悪口を寄せらるる者さえ出来た。なお蕪村の句が普通教育の教科書へも載ることになったので、学校の先生の参考としても我々の蕪村句集輪講が用いらるることとなった。この点などは私どもの殊に恐縮する所である。けれども元々内輪の団欒の雑談的のものであったのだから、こう世間的のものとなるのは、われわれの意外のみならず、地下の子規氏もさぞ苦笑していることであろう。就中この頃「蕪村夢物語」とかいう或る人の著書が出て、この我々の講義を非難もし是正もして居らるるそうだ。これは今更ながら我々がためには良友だと思っているが、しかし我々と意見を異にする点も少くなかろうから、それらの弁解は私が他日あたるつもりである。聞けばまだ、春の部と夏の部ばかりだそうだから、多忙な私はいっそ満尾して後それをやろうかとも思っている。かように興味中心でやった蕪村講義が、真面目な批評に上ることになった、その恐縮の言い訳でもないが、近来ホトトギス発行所の俳談会では、引続いて小学、中学の教科書に載っている俳句の批評に従事している。これも他の人は知らぬが、多忙なる私はやはり下調べもせぬがそれでも蕪村句集の輪講で後悔しているだけには、なりたけ真面目に批評して、今度こそ当該先生の参考にもしたいと心掛けている。これはせめてもの罪亡ぼしであろう。
 またぞろ話が後の事に走ったが、子規氏の生前は、病苦を忍びながらも和歌の方面にも研究を始めて、古今集以下は月並的に落ちてしまった事を発見して、万葉以前の風を主張し、それと共に、修辞も万葉時代のものを多く用いた。そうして、これも日本新聞において意見を吐いたのでこの子規氏の説に共鳴して指導を受ける者も段々と出来た。その主なる者では、伊藤左千夫氏、森田義郎氏、香取秀真かとりほずま氏、蕨真一郎氏、長塚節氏、岡ふもと氏等である。また赤木格堂かくどう氏と五百木良三氏とは俳句の外この和歌仲間へも這入った。また子規氏は写生文と言うものをも始めたが、この方面では坂本四方太しほうだ氏、寒川鼠骨さむかわそこつ氏などが最も子規氏に見出されていた。そうして、碧梧桐氏や虚子氏も俳句の外この写生文をも盛んに作って、就中虚子氏は現今でも文士中で他人の追随し得ぬ或る技量を現わす事になった。この文章会と和歌の会とは子規氏の宅では度々開かるるのであった。その他子規氏の名の高くなると共に、漢詩家や、書家やその他の文芸家が時々出入する、居士は一々歓迎して意見を闘すという風なので、下女も遣わぬ母刀自と妹さんは、看病の外これらの接客の用向きだけでも昼夜多忙であったのだ。
 近年は碧梧桐氏がいわゆる新傾向の俳句を始めてなかなか多くの共鳴者を得ているが、一体五七五調の俳句と異った口調では誰れも知る如く、芭蕉の頃の「虚栗」蕪村の頃の柴田麦水を中心とした「新虚栗」もあったのみならず、子規氏生前の我々の中でも、一時は随分試みたのであった。それは碧梧桐虚子両氏が若い元気で重もに鼓吹したのである。私は老人だけにそれが不同意で子規氏にも話したが、氏は若い者には何でもかでも勝手にやらして置くがよいといって笑っていた。がこの変調は子規氏も時々試ることになり、私も思わず釣り込まれて幾らか作った。即ち我々仲間で始めて出した「新俳句」の巻頭にある私の句の『百年にして天明二百年にして明治の初日影』もその結果である。がこの変調は一時的のもので、碧、虚二氏も再び五七五調に立戻ってそれで子規氏の生前はそのままであったのだ。
 まだ何かあるかも知れぬが、もう子規氏の終焉の話しに移ろう。前にもいった如く、病床ながら、俳句のみならず、和歌にも写生文にも、昼夜研究と鼓吹とに努めた末が、結核性の病毒は脊髄病となって、しりには穴が明いて、そこからも排泄物もするという次第で、いよいよ苦痛が加わると共に、堪らぬ時は号泣する、この号泣するのが、苦痛をまぎらす事になるといって、周囲を憚らず、子供らしい泣声を発したが、これも氏の特色が現われている。それから重症となってからは、碧虚二氏は勿論、鼠骨、義郎、秀真の諸氏なども、昼夜輪番に身辺に詰めて、母氏妹氏と共に心を尽して看護した。そこで私だが、俳句こそ子規氏に啓発されて多少の趣味を解し、段々と俳句の大家顔もする事になったが、ありようは感情よりも理性を尚び、智識欲の深い人間だけに、どうかすると子規氏と意見の合わぬこともある。また趣味の上にも氏の斬新を好むに反し、古典的に傾く癖もあるので、時々氏と衝突を起す、そうして氏もなかなか熱心に弁ずるが私も負けぬ気で弁ずる、これは従来珍らしくもない、事実であったが、氏が病苦の増し気短くなると共に一層この衝突を起しやすい。そこで私も気付く所があって、陰では氏の病状を気遣うけれども、碧、虚諸氏などの如く日々近寄る事をやめた。また子規氏が希望で母刀自や叔父の加藤恒忠氏の忠告するにもかかわらず、沼津の海岸へ病躯を転地せんといい張った時も、私はそれでは俄に医師の救護を得るにも不便だからといって、氏に益々機嫌を損う事にもなったが、氏といい私といい、その親みは、最初の監督者と被監督者とがあべこべに俳句を教えてもらったその時より何も変りはないのである。ちょうどその頃氏は着色の絵を描く事を始めたので、私は密かに形見を貰う心持ちで、何か描いてくれといって、書画帖を送った。氏はそれに芍薬の画と俳句二つを認めた。そうして氏もこれを形見にするというようなことを書き添えている。そうこうしているうちに卅五年の九月十八日であった。氏がいよいよ悪いとの報知があったので駆け付けると、もう息が絶えていた。実は傍に附いている母妹及虚子氏さえも臨終には気がつかなかったという位で、つまり最近に苦んだ痰が喉につまったのが致死の原因となったのである。一両日前の句に「痰のつまりし仏かな」がしんをなしたのである。それから一同大騒ぎで、親族も知友も庵に集って、後事の営みにかかったのだが、子規氏の遺志では余りに諸方へ報知する事などは月並として厭うだろうというので、新聞の広告は勿論その他にも広く報知をせなかった。そうして、埋葬地はどこらがよかろうかと、詮鑿したが、普通の寺院の墓地よりも律院の墓地が清潔で、子供の襁褓むつきを干す梵妻も居まいからというので、終に田端の大龍寺を卜した。これは私と碧梧桐氏がまず行って、見分したのであった。それから埋葬の日は余り世間へ知らせなかったにもかかわらず、葬会者はなかなか多く葬列も長く引続いて、この人だけの名誉ある終りを飾った。その後墓石の文字は陸羯南氏が書いた。この羯南氏は隣家に住んでいたが、永年特に懇情を尽して万事に注意するし、日本新聞関係としても、病苦で筆を執らなくなったにかかわらず、以前の如く報酬等を交附して、前後共に非常の好誼を寄せられたことである。
 子規氏の死んだのは三十六歳であったが、俳句その他の事業は病気に罹って後の仕事で、即ち病苦中の産物である。そうしてその見識や文才や刻苦勉励の事実は多くの人の尊敬を得て、誰れからも侮蔑や悪言を受けなかった。尤も陰では異説を唱える者もあったろうが、正面では氏を攻撃する者はまずなかったように思われる。しかるに高知の人で、若尾瀾水氏というが、最初は子規氏の句会にも出て我々も知っていたのだが法科大学を卒業した頃であろう、但馬で発行した、某俳誌上に長文を載せて子規氏を散々に罵った。これは何時か子規氏を訪ねた際、氏の態度が倨傲であったという事がもとであって、かような事に及んだのらしい。しかし瀾水氏も正直な人間で、その後岡野知十氏に対しても、最初門前払いを喰ったという怒りから、或る雑誌で散々攻撃したが、一度知十氏に歓迎されたので、忽ち角を折って、反対に賞讃する事にせなった。しかるに惜いかな、子規氏は生前に氏と握手して旧交を復さずにしまった事である。爾来瀾水氏は久しく俳句をやめていたかと思うが、最近郷地の高知で「海月」という雑誌を発行する事になって、もともと正直を知っている寒川鼠骨氏も何か寄与する所があり、また私も輪番の俳句選者を担当する事になっている。
 子規氏の病苦が甚だしくなっては、日本新聞の俳句欄に関しても怠り勝ちとなったので、代理として赤木格堂氏に選句をさせた。そこで子規氏の晩年は両腕であった、碧、虚二氏よりもこの格堂氏に意を嘱する事が深いのだと思わしめたが、格堂氏は反ってそれを迷惑に思い、自分は俳人として起つのは志でないといって、間もなく日本新聞の選者を断り、その後は碧梧桐氏が選者となって数年継続していたが、陸羯南氏が日本新聞を他の人に譲る事になって、暫くは現状のままで居たけれど、羯南氏に代って主筆となった三宅雪嶺せつれい氏やその他の人々は、或る事件から袂を連ねて、日本新聞社を退くこととなった。この時碧梧桐氏も退社して、終に現今の「日本及日本人」の俳句欄を受持つ事になった。尤もこの雑誌はその以前の日本人時代から私も俳句欄を担当していたのだから、改称して大雑誌となると共に、俳句欄は、私と碧梧桐氏と二人でおのおの別に担当する事になって、保守主義欄と、新傾向欄とのあることは誰れも知る通りである。それから日本新聞の方の俳句欄は角田竹冷氏が担当する事になっていたが、同新聞は段々と昔の如く盛んならず、また竹冷氏も彼の世の人となってしまった。
 そこでわれわれの俳句はどうかというに、子規氏の生前こそ、われわれ仲間も、大体の句風は統一されていて、一時碧、虚両氏が唱えた変調は間もなく跡を絶ったのであったが、段々と年を経るに随って、四方太氏の如きは全く俳句をやめるし、虚子氏は、写生的の文章専門となって、ホトトギスこそ経営すれ、俳句は全く擲つ事になった。それから碧梧桐氏は別に新傾向の句風を起す事になって、これに属する者に荻原井泉水おぎわらせいせんすい氏、大須賀乙字おおすがおつじ氏などが出るし、また西京大阪辺でも、大谷句仏おおたにくぶつ氏、水落露石氏等が響応し、なお碧梧桐氏が全国を巡遊するに至って、到る所にこの傾向を普及せしめた。その後一離一合して更に、新傾向派中にも別に一旗幟をたてる者があり、また殆ど旧調に復したものもあるに至った。これらの事は、私が別に申し述べるにも及ぶまい。それから、虚子氏も再び俳句を作って今日の如く盛んに後進を率いる事にもなって「ホトトギス」は相替らず元祖俳誌となっている、また氏の関係していた国民新聞の俳句欄は一時松根東洋城まつねとうようじょう氏の担当になったが、この頃は虚子氏の担当に復している。
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二十


 余りに子規を中心とした、俳句の話ばかりになっていたから、これからは私の身の上について御話をする。私は人と違って旅行するのが面倒、否むしろ嫌いで、機会は随分あったけれどもつとめてそれを避けた。そこで明治十三年出京して以来、わが郷里の松山さえも、前にもいった如く廿二年と廿六年と両度行っただけである。しかるに、明治卅六年において長男の健行が前年を以て農科大学の乙科獣医科を卒業しこの年は宮崎県の農学校に採用されて赴任する事になったので、私もそれと同伴して松山に赴いた。その要件は主として松山の二番町に未だ小さく家屋と土地とを所有していたのを、段々と溜る負債償却のために売却する用向であった。この事は兼て妻の里方の春日寛栗に托して置いたので、松山へ行くと共に同家へ寄寓した。健行も附いて来て一両日逗留したが、これは宮崎へ赴いた。この時は私が俳句を始めてからの二度目の帰郷であったので、旧知の人々の外俳人仲間からも歓迎されて、句会に臨んだ事もある。そして村上霽月氏の如きは、この地の先輩で久しく交っていたから、その頭取として管理されていた農業銀行の別室で饗応を受け、また俳談もした。が、この頃は新聞や雑誌の俳事の関係も段々と多くなっていたので長く旅行する事が出来ないので、松山は僅か三日ばかりの滞留で急いで帰京した。そこでこの往途大阪にもちょっと立寄ったが、それは内国博覧会が盛んに開かれているという事を聞いたのでそれを見物する事と、その他は久しぶりで、松瀬青々氏や青木月斗氏や水落露石氏を訪うためであった。この博覧会に始めて電燈のイルミネーションを見たのである。こんな事は東京よりも大阪の方が先鞭をつけていた。また帰途には郷里の親友の由井清と、伊藤奚疑の二氏が送りかたがた京都見物をするといって、附いて来たので、京都へ廻って月並ながら例の祇園、清水、知恩院、大仏などへ行って、南禅寺の門前の瓢亭で共に酒を飲んだ、この時に京都で始めて電車に乗った。これも東京よりは先鞭をつけていたのである。
 翌卅七年は誰れも知る日露戦争が起って、我々どもの気分もなんだか緊張したのであったが、二男惟行は外国語学校の支那語を学んでちょうど卒業するのであったので、支那方面へ兵を出す必要上から、陸軍省が文部省へ掛合って少し早く支那語の学生を卒業させてもらいたいとあって、惟行も学校を出るや否、陸軍の通訳官となって従軍した。そして少将の山本信行氏が率いた旅団司令部附となったので、金州から上陸して旅順方面へ行った。間もなく海鼠砲台を我軍が占領したので、山本旅団長は副官を従えて砲台を見聞した。惟行も好事心から一緒に行ったが、前面の敵から狙撃されて、山本氏は弾に当って即死した。惟行も戎服の裾に弾が通ったが幸に怪我はせなかった。その後旅順方面で彼の穴籠りなどもして、砲丸の下に往来した末が、旅順の陥ると共にまた奉天から鉄嶺を越して、何とかいった地方までも従軍した。この通訳官は中途から辞職して帰った者も多かったが、忰は幾らか辛抱強いので、一度かなりな大病をしたのも押して務めて終に、出征軍の凱旋と共に帰朝した。一体惟行は私とは違って学問などするよりも、何か金儲けでもして成り立とうという野心を持っていたので、支那の在陣中も機会があれば、支那の有力者などとも交っていたのであるが、この凱旋して間もなく正金銀行に採用されて支那の支店へ行く事になった。そこで北京に居るのだから、支那人との交際も多くなり、一層支那語の研究もする事が出来た。そして支店長の実相寺氏等にもかなり愛されていたので、なおよい機会があらば何か一つの仕事を見付ようとしていたのであるに、支那人との交際には食卓を囲んで互に一つ器の食物を匙で喰い合うような事から、終に肺病の黴菌を貰った。尤我慢な奴であったから、なりたけ寝る事もせなかったが、終に勤務も苦しくなり、先輩からも忠告さるるので帰朝して、家庭で養生する事になった。けれども少しよいと、いかに止めても酒を飲む、外出しては何か割の好い仕事を求めようとする、そんな事で一時はいくらか回復しかけたのも、終に手戻りがして、卅九年の歳末には赤十字病院へ入る事になった。そして翌年の四月の桜の盛り頃に三十歳を一期として志を齎して黄泉に赴いた。私は前にもいった如く、明治廿年に三歳の楽女を実扶的利ジフテリアで失った。その頃はまだ哲学的の悟りも出来なかったので、なんだか非常に可哀そうで、悲しみが長く続いて、三ヶ月ほどは何物を見ても興味を惹かぬ位であった。しかるに、この惟行を失った時は、多少前途の望みもあった奴だけに、私は一層悲哀に沈みそうなものであったが、もうこの時は哲学的悟りがかなり出来ていたから、結局死という事は人間のあらゆる煩悶苦痛を免るる事なので惟行の如く早く世を去るのは、つまり厄介な人間生活の年明けである、息を引取るまでこそ志の遂げざる事を口惜くも思うが、死んでしまえば空々寂々で、楽しみのない替りに悲しみもない、今まで脳で働いていたエネルギーは宇宙に遍満せる絶体エネルギーに帰してしまったのである。そして私も早晩そうなると思うと、彼が先駆けしたのを羨しくも思った。そんな事で今度はさほど悲しみの感じも長く跡へは残らなかった。そこでこの惟行の屍とかつて死した楽女の屍は青山の墓地へ葬って置いたが、楽女の石碑は建てたけれども惟行の方は墓標の木の建っているのみで、久しく石碑を建てなかった。それは私が金に不自由なのと、一つは石碑を建てるならいっそ一家共同の石碑を建て、内藤家代々の墓とするがよいと思ったからである。そして幸に大正八年の末に、下山霜田氏の周旋で私の書いたものが売れて、いわゆる揮毫料が手に入ったので、その中から一番奮発して右の石碑を造る事にした。尤も両児は屍のまま一坪の墓地へ埋めたのであるが、これから私は勿論段々と死んで行く家族も、屍は必ず火葬にして、そしてこの石碑の下へ骨だけを葬る事と極めた。そこで墓石の下には、石で小さな穴倉が出来ていて、まず骨壺の十個位は入れ得る事になっている。年齢からいっても、私がまずこの穴倉の最初に入る、それから妻やその他が附いて来るので、後には随分賑々しくなるであろうと思うとちょっと可笑しい。これはまたぞろ最近の話にも立到った。
 なお卅九年であった、常盤会寄宿舎は随分古い建物で、間取りも不便だという事から、久松家にも改築せられる考えもあったのだが、日露戦争の騒ぎなどで、延引していたのを、いよいよ決行される事になった。この改築中は、八ヶ月ばかり私は四谷の荒木町に移住していた。この頃の家庭は妻と末の男子和行のみであった。長男健行は前にいった、宮崎県より更に台湾の農事試験場に転任していたし、次男の惟行は北京で病み付いた頃であるから宅には居ない、それからいい落したが、次女の静はもう十年も前日清戦争の終った年に、凱旋した同郷人の騎兵大尉の小崎正満へ嫁した。この静や長女の順やそれが生んだ孫や曾孫などのことは、この先で段々と話す事にしよう。さて寄宿舎の改築も出来あがったので、私もそこへ住む事になって前よりは多少清潔にもなったのだが、この監督宅は寄宿舎と違って、古建物を移されたのであるし、門も崖端の狭い道についていたから、人力の乗り付けも出来るか出来ない位で、かなり不体裁なものであったのである。それで惟行の棺を出す時は門から出るにはながえが支えるので、板塀を少し取り除けたというような事もした。
 この寄宿舎を改築の際から、今までは、寄宿生中より抜擢して命じた舎監を特に他の同郷の壮年者に嘱托する事になって、そこで肉弾の著者で名を知られた、桜井忠温ただよし氏、続いて陸軍中で才物の清水喜重氏が舎監となった、が、寄宿舎の学生も最初の頃と違って、真面目に勉強する者が少くなって、どうかすると学問より、父兄から貰う学資を酒代その他に費う者も出来たし、その上年々郷里の松山の中学校を卒業して、出京の上高等学校やその他の専門学校へ入学しようとする者が、一度や二度は、その試験に落第する、その落第者、即ち失望者が寄宿舎へ、転がり込んでいるのだから、いよいよザワザワして真面目に勉強する者が少くなった。それと共に少数の先輩や真面目に学問する者は多数者に圧迫されて逃げ出る者も段々と出来た。また改築以前は二十人ばかりを収容するに過ぎなかったのが、改築後間数も多くなったので、倍数の人数となって、その比例的にガヤガヤ生も多くなったのである。私は一体理論をするには長じているが、これに反して実務を弁じたり、多くの若い者を鞭撻したり、指導したりする事は短所である。そんな事から、私も理窟的には、いって聞かせて、多少矯正を計ろうとしたが、面と対してこそ反抗もせなけれ、陰ではやはり怠けている、夜分は酒を飲んで帰って大声を発する。そんな事が、久松家やその他の同郷人へ聞えると、凡てが私の監督の不行届といわれる、そんな事で私も監督で居る事が、もう厭になった。そして物価もその頃はさほど高くなかったから、いっそ監督をやめてもっぱら俳句の選者位で生活する方が気楽でよかろうと思ったので、その意を告げて、これもちょっとは許されなかったが、終に明治四十年の歳末頃に願いの如く責任を卸して、後の監督は、同郷の秋山好古氏がその時はまだ中将で騎兵監をしていた、それに譲った。そして舎監は法学士の船田一雄氏が少しその以前から嘱托されていたのである。そこで私は監督をやめると共に他に移住せねばならぬ事になったから段々諸方を探した末、やはり寄宿舎の近所の弓町一丁目へ小さいながら家屋を見付けて、そこへ住む事になった。これ以前私は未だ官吏生活をしていた頃、一時松山へ帰していた妻子を再び東京へ引取るために、神田三崎町の下宿から本郷へ借宅して住んだ。それが、あたかも同じ弓町一丁目で、今度は廿八番地だが、以前は廿五番地であった。この廿五番地は内藤何の守とかいった旧旗下の邸で、私の借宅した大屋さんが、その内藤家である。が同じ内藤でも大名華族のを始めとして、この内藤家も甲州出で、有名な武田の四天王内藤駿河守の子孫が徳川家へ仕えた後裔である。そして私の内藤は早くより、丹波国に住んでいて小さな領地を持っていたが、織田信長の手の明智光秀が丹波へ攻込む時打ち負けて、その後は宇野姓を名乗って、越中守宗音入道と称して潜んでいたらしい、その人の自ら署名した略系図は今も存在している。それから越中守の子は瀬兵衛頼有といって幕府の二条城の与力を勤めて、その子の与左衛門頼綱というが久松家の先祖で徳川家康公とは異父同母の弟たる松平隠岐守定勝公に桑名で仕える事になった。そして松山へ転封さるる時随行して、それから長く松山藩士となっていたのである。そんな続き合いなども大屋さんの、内藤家の老人と会った時には話し合った事もある。ついでにいうが、今いった私の家の系図だが、それは本系図のある傍らに略譜として認められたものであるから、右の宇野越中守以前の十五代は近くて誰れも知っていると思ったが総て名さえも記されていない。そして本系図は或る時代に紛失してしまった。この事は私の祖父が熱心に調べたのだけれども分らないで、今日に至っている。尤も丹波の隣国の丹後は細川幽斎の領分であったためか、内藤家の遺族が熊本藩にも幾人か仕えているらしい。そこで私が最近史談会の幹事を同じく勤めている関係から、熊本人の北野直壮氏に調べてもらったが、熊本の内藤諸家もその勤仕以後の人の姓名は知れているが、その以前の系図は伝わらぬという事である。唯私がこの頃国民新聞の徳富蘇峰氏が書かれたる日本国民史を見た時、織田が丹波に攻め込んだ際城を取られた者に内藤忠行というがある。これが恐らく私の家の先祖であろう。そして多くの家には通り字というがあって代々名の一字はそれを用ゆる事になっているが、私の内藤は必ずしもそんな事もせずにいて、古い時代の通り字さえ判らない、しかるに、前にもいった私が、明治五年に実印を失うと共に改名した、それは中庸の文字から素行とつけたのであるが、偶然にも先祖たる忠行の行の字を取った事になるのも不思議である。それから私の男子は、孰れも行の字を付けさせているがこれも先祖の霊の御引合せであろうか。
 今一つついでにいうが、今いった先祖の与左衛門の時代は、島原騒動が治まった頃で、それ以来吉利支丹宗は厳禁で、その宗旨を奉ずる者を訴人すれば御褒美が出るという事までになっていた。ところが、この与左衛門の従弟が吉利支丹信者であったとかいうので、その嫌疑は与左衛門の上にも下って、俄に家禄を奪われて江戸表へ護送せらるる事となった。けれども少しも覚えのない事だから、それを弁解しつつあった末、吹上御殿において三代将軍の御前で訴訟人と対決させる事になって、この時に与左衛門が申し立てた事は事実相違ないという事に判決せられて、それから藩へ帰る事になったが、老中から今後も何らか御尋ねのある事がないとも限らぬから謹慎させて置けという事であったので、与左衛門は以前は大目付とかを勤めたといってあるが、その後は何らの役目をも勤めぬのみか、家族皆謹慎せられて、これまで禄は二百石であったのを三十人扶持と若党と下僕の給米を支給せられる事になった。これが四十年も続いて、二代目の甚五兵衛勝則になって余りに長く謹慎しているので、藩の当局者も気の毒に思って、幕府へ伺ったらあれは一時の事で、そんなに謹慎させるには及ばなかったというので、忽ち謹慎を赦されたが実は馬鹿馬鹿しい事であった。そして改めて百二十石貰ったが、その後の代々は才幹もなかったか、余り役儀も勤めずにいてそして名を出したのは、私の祖父瀬兵衛昶からである。この瀬兵衛は他の役も勤めたが、代官役で、民治の上には功績を立て、即ちその頃の弊として百姓が自ら怠って不作をさせて年貢の軽減を求めるというような事をも、矯正して、それぞれ未進のないようにさせたりあるいは義倉といって村々の共有財産を作って凶歳の準備をさせたりしたので、藩からも度々賞美された。その後廿七年を経て父の代に更に祖父が代官中の功績を追賞されて、若干の金を賜わった事もある。これは私も知っている。この祖父は経書では徂徠学を修め、甲州流の軍学にも達していて、旁ら文章や詩も作っていたので、その遺稿は今も存している。父も久しく藩の枢要に当っていて、参政や権大参事になった事は前にもいった通りである。
 右の如く先祖は、吉利支丹宗の嫌疑で迷惑したにかかわらず、これも前にちょっといったが、私が番町に住んでいた頃、妻や長女は矢島楫女史の誘引で基督信者になった。これは私が例の哲学からの悟りで、婦女子には何らかの宗教心があるがよいと思っていたからだ。けれども先祖の嫌疑を私の代に至って、本物に吉利支丹宗を家族に奉ぜしむるに至ったのは、時世の変遷とはいえちょっと可笑しい。
 私が単純なる俳句の選者生活になって後は、別に責任というほどのものも無く、段々とこの生活では多忙にもなったけれど、今までの如く不得手な役目を担うというのでないから、多忙の中にも自ら興味をもつ事になった。そして、私は俳句の上もいつの間にか古顔で大家という事になったので、若い人には幾らかたててもらうし、広く各地方からも出京する俳人連の訪問を受けるから、それだけ私も位地が出来、自分ながら勢力を持ったような感じが出来た。それと共に俳句の上は勿論予て持っている哲学上の見識もいよいよ鍛練せらるる事になって、今日では、誰の前でもこの点なら憚ず主張するという自信が出来た。それから私が多少名を知らるると共に、俳句の揮毫を頼まるる事も段々と多くなって、それが単に句を書くのみでも愛嬌がないと思って、子供の時分から多少、自己流に描きなぐっていた画のようなものを併せて描く事になって、これも素人画としていくらかの人に賞翫せらるる事にもなった。尤も最初から人物ならどうかこうか形が出来るけれども山水や花鳥やその他の景色画となっては少しも描けぬ。また習って見ようとも思わぬので、此方は全く駄目である。文人がよく描く四君子などでも一枝一葉さえも真似する事が出来ぬ。が、こんな揮毫でも物好きな人には需めらるるので、これに関する収入が選句以外に出来て、爾来物価が騰貴しつつあるにかかわらず、まだ今日でも、どうかこうか活計を立てている。それから、大正六年に今までに住んでいた家屋は余りに狭くて不便なと、妻などに訴えらるるので、終に転宅を思い立って、この時も随分彼方此方と探した末、現今の麻布区こうがい町百七十五番地へ住む事になった。この家は前と比べると聊か間数も殖えて勝手もよいし、前後に庭の空地もあるので、妻などにも多少満足させている。殊に借家難の声が盛んになると共にいよいよこの家屋はわらず長く住みたいと思う事になった。今もこの話をしつつ、南向きの障子から射す、晴日を浴びて、私の寒さ嫌いも大分暖気を覚えるのだ。私は今もいった如くやかましい責任こそ免れたけれど、今とても全く職務を持っていないのではない。それは明治廿二年頃から久松家の御家事に関する諮問員を勤めていて毎年の予算決算から重要な事件の議に与っている。また同家の嘱托で史談会へ関係して後ち、早くより幹事の一員に列していたがこの会の主幹としてもっぱら働いていた鹿児島人の寺師宗徳氏が亡って以来は、ついつい私が専務幹事とでもいうような責任を背負って、今では会計の事から、月々発行する雑誌の編輯や印刷の事務までを引受けて、おまけに校正まで私みずからせねばならぬ事になった。この方面だけでも毎月幾日か、つぶすのだから、その他の俳事の他方面になると共に、いよいよ忙しくなった訳だ。この外かつて徒歩主義会というものを梅原喜太郎氏が設けられた頃、先達に推戴されて一同とあちこち遠足会などもした。その関係から、種々な変った人物にも接した事がある。この徒歩主義会は先年梅原氏が退かるると共に自然と廃止となった。また孔子祭典会のあった頃は、史談会からも誰れかその委員に加わってもらいたいという事で、私がそれに当って、嘉納治五郎氏委員長の下に、漢学の専門家などと共に毎年一回湯島の孔子の廟で祭典を行う時は、私も役員の徽章を付けて用弁をした。が、これは斯文会が組織を拡張する際において合併されて、私も未だ特別会員にはなっているが、その後は祭典があっても、余り出席せない。この外他の府県にもあるが、我愛媛県にも教育協会というがあって、私は文部省の高等官でいたしまた、以前県の学務に久しくいたという関係で、名誉会員に推薦されている。その後同県の宇和島人で、曾根松太郎氏が「教育界」を金港堂より譲り受けられた際に、愛媛教育協会の東京部というを設けられて、私は此方でも文部省専門学務局長の松浦鎮次郎氏官立盲学校長の町田則文氏と共に副会長となっている。今一つ松山に同郷会というのがあって、青年の指導に任じている、その東京部長というのも私が脊負っている。また寄宿舎の監督こそやめたれ、前にもいった如く、この寄宿舎と給費生との事件に関する世話係というを久松家から嘱托せられて、今もその一員である。
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二十一


 私が前にもいった、麻布笄町への転宅は年齢では、七十一歳であった。七十は杜甫の詩に、『古来稀』ともいっていて、それ以来は古稀の祝と称えて誰れもする事である。しかし私は別に祝いたいという感もなく、また祝うとすると金もいるが、その金もないのでそのままにこの年も終えてしまったのであるが、故子規氏の庵で時々開く、旧友会の連中が特に私の古稀を祝って遣ろうとの事で、やはり子規氏の旧庵でそれを催おしてくれられた。その時の中村不折氏の書いた私の肖像は表装までしてもらっている。尤もその肖像の体勢が、私よりも不折氏の方にているという事はその席上での笑柄に上って、少数ながら面白い会であった。それから、郷地の松山の知人達においても、私の古稀に達したということを聞いて高浜近傍の梅信寺という寺の座敷を借りて祝宴を開いて下さった。暑中で殊に伝染病の行われていたにもかかわらず、なかなか大勢集まって、私の娘婿の山路一遊(師範学校長)を、私の代りに主賓として饗応され、なお席上の揮毫の合作や署名の大幅を贈ってくれられたのは、私の嬉しく思う所である。
 私の七十歳の年はこれだけで終って、いよいよ七十一歳となった頃、かつて寄宿舎に居た、勝田主計氏和田昌訓氏が発企して多くは旧寄宿生であった人々と、それに同郷の先輩数人を加えて、醵出された金を以て私の寿碑を郷地の道後の公園に建てらるる事になった。これは主として旧寄宿生というのであったから、わざと広くはこの事を及ぼされなかったようである。それが段々と運んで、この年の九月に竣工したので、その除幕式をするから、私に松山へ来いという事になった。これまでも郷地の人からは度々来い来いといわれたのだが、私は前にもいった如く、新聞や雑誌で多くの俳事を担当しているし、また旅行という事を余り好まぬ方なので、その好意はかたじけのう思いながらも、いつも辞退してばかりいた。しかし今度は寿碑も建てて下さったという訳から、以前の関係もあるし、是非とも帰郷せねばならぬと決心した。そうして妻も殆ど三十年前に松山を見たのみで、どうか今一度見たいという希望もあったから、これをも同伴する事になった。尤も同郷人の歓迎も私夫妻共にという事であったので、そこで九月の十六日老夫妻が始めて一等汽車に乗ってまず京都まで行った。ここには妻からは姪にあたり、私からは従弟の娘にあたる、木村愛子というが居る、この夫は利明といって、これも同郷人だが、西陣の織物の模様を描く絵工であるので、久しく京都に住んでいるのである。そこへ私どもは一泊して、その晩は京都の同郷人の歓迎会に出席した。この会は肉弾の著述で有名な桜井忠温氏が頭で、その他は木村氏の外皆生面であった。尤も中堀貞五郎氏はその祖父や父や兄なる人は私の旧知であったのだ。会の場所は四条烏丸の角の割烹店で京都風の鰻の蒲焼を食べたのもちょっと珍らしかった。この一泊した木村氏の宅は、因幡薬師堂の傍で、東本願寺はじき近くであったから、その翌日大谷句仏師を訪ねた。が折悪しく旅行の留守とかで粟津水棹氏が応接せられた。そして大谷家の表座敷から本堂や祖師堂等を案内せられたが、その宏壮なのに驚いた。例の信者の女の切髪の綱も見たが、私は凡てが髪の毛かと思っていたに、多分は苧糸で、それに髪の毛が絡んでいるばかりであった。なお枳殻きこく御殿も見たければ案内しようといわれたが、私は正午に大阪行の汽車に乗らねばならないから、厚意を謝して直に退出した。いよいよ時刻となったので、再び汽車に搭じて大阪へ着いた。ここの旅宿は同郷人の平井重則氏の知り合いの藤井旅館であった。今夜も同郷人の歓迎会が堂島の川向うの何とかいった大きな料理屋で催されたので、右の重則氏と太田正躬氏とが同伴せられて自動車で乗り着けた。この自動車は東京のよりも大分ゆっくりと馳せた。席上は京都よりも三倍以上の人で旧面識の人も多かった。そして同郷の松山人の外、同県で旧他藩に属する人々も加わって居られた事は、私の特に感謝する所である。私夫婦は明治元年に結婚したので本年はあたかも金婚式にあたるから、私がこの席上の挨拶にその事も披露して、新婚旅行ではなくて、旧婚旅行だと言って一座を笑わせた。この会以外に、私の弟の娘の須磨に居る市橋良子、及び神戸にいる従弟の子の交野国雄にも逢った。その翌日は山陽汽車に搭じて尾の道まで行って、何とかいう旅店に投じた。元来ならこの午後に汽船で郷里の高浜まで行くのだが、その頃高浜の石崎汽船の一艘が修繕中で、午後には便船がないということで、余儀なくここに一泊した。この地にも同郷人の福富恭礼氏が居たので、その案内で或る寺院等を見物したが、随分古い由緒のあるのもあった。翌日はいよいよ内海通いの汽船に乗った。この際同郷の伊与日々新聞社長柳原極堂氏から二人まで社員を差し越された。尤もこれは私の歓迎会の総代という事であった。そこで船中ではこの人々と種々話しをして、それに気を取られて、いわゆる瀬戸内海の島々の風景などは見ずにしまった。尤も私は船嫌いなのでこの航路の横潮にはいつも閉口するのであるから、立って風景を眺めるよりも寝ていて話しをする方が実際勝手もよかった訳もある。夕刻にいよいよ高浜へ着いた。ここには大勢の人に出迎われて、親戚もあれば旧友もあり、多方面の人々であったが、こんな時には哲学で悟を開いた私もやはり訳もなく嬉しい。その晩は従弟で医者である天岸一順の宅へ落着いた。この後ちはこの宅と娘婿の山路一遊の宅とあちらこちらと止宿して、二週間ばかりも滞在したのである。そこでその翌朝からは殆ど間断なく来訪者があって、久濶を話し合うのでいよいよ嬉しくも珍らしくも感じたが、また随分と疲労も覚えた事である。或る日は婿の一遊が松茸狩りに連れて行こうというので、城下からつい二里半ばかりの平井谷というへ汽車で行って、松茸を取った、尤もこれは、山主が予て囲って置いて、それを勝手に採らせて、採った松茸は秤で量って値を取るのである。だから別に捜さないでも松茸は一面に生えているので、いわゆる茸狩という興味はない。けれどもその取ったままの茸を山中の池の堤で石の竈で煮たり焼いたりして、酒を飲み飯を喰う、それだけはちょっと普通の家屋で喰うよりは興味があるのである。
 いよいよ除幕式の日になったので、その日は電車で道後公園へ行ったが、妻及び私の親戚は凡て賓客として待遇せられて、予てこの建碑に厚意を寄せられた人々はいずれも参会した。そして柳原極堂氏の建碑の始末に関する報告があり、旧温泉郡長の大道寺一善氏が私に対する頌賛的の演説があり、私もそれに答えかたがた厚く謝辞を述べて、この碑は私の如きものの記念というよりは、故旧に対して厚い同郷諸君の徳誼の表彰碑だといって置いた。それから直に県公会堂で大歓迎会を開いて下さるというので、それに赴いた。これは県庁の隣に新築されたもので、市の公会堂の萱町かやまちにあるものとは全く別なのである。私は始めて来たのだが、会場も広濶で数多の食卓が並んでいる。ここでも妻及び私の親戚は凡て賓客として待遇せられたのである。そして県官の側では、内務部長や警察部長や、また県立諸学校長や、県会議長や、実業家の主なる人々も出席され、その他の知人や俳句上の同人も多く出席して下さった。この席では郷里の年長者である、旧農工銀行頭取の窪田節二郎氏が総代として私のために頌辞を述られ、次に警察部長大森吉五郎氏と、今一人とが同じく頌辞を述べられた。私も起って挨拶をして、一体私は理窟を調べる智識には、いささか得意もあるが、実務に当っては何らの働きもない、ただ偶然に藩から県と学務の責任者となり、東京へ来ても文部省で教育上の調査を為し、なお松山学生の寄宿舎の監督をして、これが四十余年にもなっているが、人々の幇助を得て幸に大いなる失墜もなかった、しかるに今日かかる盛大なる歓迎を受くるというは望外の事である。が、これは全く私が七十一歳まで長寿を保ってまだ多少働いているという事に同情を寄せられたので、一面からいえば養老の恩典である、養老の典とすれば、私からいうと如何だが、また郷里の美事である、さすれば今後は、私以上に郷里のために力を致した老人に対してもこの典を挙げてもらいたい、そして私はいわゆる『自隗始』の心得でこの歓迎を受けて置くというような事を述べて置いた。それから多くの人が起って来て盃の取やりをされたが、そう酔払っても困るから、多くは吸物椀へ翻して、よき頃を見計って妻や親戚と共に退席した。
 この外郷里の青年のために設けられた、松山同郷会より招かれて、多くの青年少年のために訓諭をした事がある。また伊予史談会というが、私の郷地の老人であるのみならず、東京では史談会の幹事でもあるから、何か話しをせよという事で、これは田内栄三郎氏の宅の楼上で開かれた。そこで私のいったのは、凡て人間として歴史は知らねばならぬ、横に空間の智識を広めると共に縦に時間の智識を伸ばすという事は、必然的のもので、歴史を知らねば、人間の一方面が欠けているのだ、しかるに今の若い者は、西洋辺りの事物は研究するが、わが生れた、日本の歴史はそっちのけにしている。それは不都合じゃないかという事から説き起して、それから私の出合った維新前後の事件や、なお人から聞いた事件を雑えて、一場の責を塞いで置いた。この外にも、学校連中が私が旧来の関係もあるので、会を催して話しを聞きたいと需められたが、婿の一遊が私をいたわってそれを断ってしまった。私はお喋り好きだから、遣ってもよいと思ったのだがそれは機会を失った。それから他の会では、旧友会というのが催されて、多くは明教館の同窓で少年の昔を話し合ったのは特種の愉快があった。俳句会としては、柳原極堂氏が主催で私の檀那たる正宗寺で一回あったが、随分多数の人であった。私はこの席では最近の句風の変調を起した事に話し及んで、これも西洋の文学侵入に伴う結果だから、別に咎めるにも及ばん、私の見解からもっぱら娯楽的に俳句を扱うのだけれども、それはそれ、これはこれで、各作りたい句を作ればそれで可いことだ、というような事を述べて置いた。なお敬晨会というはもっぱら老人のみを以て組織された俳句会で、これも予ての知り合であるから、そこへも出席した、この席中には私よりも年長者として、野間一雲、柳原尚山、真部春甫氏などがある。就中一雲氏は七十七歳で最近病臥して居られたが、私の帰省したのを喜んで病を押して出席された。その後私が帰京して間もなく氏の訃報に接したのは殊に悼む所である。この老人連は私の関係している日本及日本人の毎号へ出吟してくれらるる仲間なのだ。また藩主の祖先を祭った東雲神社の社務所で同県人の能楽を見た。これは毎年定期に法楽の催しがあるので、ちょうど高浜虚子氏及その兄池内信嘉氏も帰県していて一緒に見た。我が藩にはかつては禄を与えて召抱えた能楽師及囃し方も数々あって、藩主御覧の能楽も時々あったから、その名残を今も有志者の仲間で留めているのだ。就中崎山氏というが牛耳を執っていた。衣裳も旧藩主家のを譲ってもらったのだが、モウ古くなって、あるいは綻びをつづくっているのもあって、私も頗る感慨に打たれた。
 私の松山滞在は僅の日数であるにかかわらず、来訪者の頻々たると共に揮毫を需むる人が非常に多かった。それでこの方面にはとても応じ切れぬので、あちらこちらと知人の宅へ逃げて行ってそこで断ることの出来ない分の揮毫をした。この数だけでも五百や六百はあったろう。そこでいよいよ出発する日に迫ったが、その前日においてやっと除幕式や歓迎会を開いてもらった人々に答礼としての訪問を終えた。が漏れたのも尠くない。出発の前夜も道後の船屋別館で、五十二銀行の石原頭取其他が送別宴を開いて下さった。またこの以前に、城下の南外れの亀の井という割烹店で二回までも或る方面の人の御馳走になった。私が主人となって、この亀の井で親戚と最も親しい婦人連を招待した事もある。なお広く郷地の人々を招待したいのであったが、何しろ貧乏な私は、金がないのでその志が遂げられず、御馳走の喰いっぱなしで這々ほうほうていで引上げてしまった。また一つ遺憾なのは、久しぶり即ち十七年目に帰省したのだから一度は城山の絶頂に登って眺望をしたいと思ったが、それも出来ず、道後の公園さえ私の碑の建った場所を見たのみで、山上の陛下の御手植の松さえ見る事が出来ず、温泉の町も昼の光景は見る事が出来なかった。
 前にもいった私の檀那寺正宗寺には、代々の墓もあるから、妻と共に参拝した上に、総ての仏に対する法事を営んで、僧侶と近い親戚とへ午餐を出した。ここの和尚も揮毫を求めたから禅宗でもあるし、かたがた例の達磨の句を全紙に書きなぐって与えて置いた。この寺は故子規居士の石碑もあるから、知る人は時々訪れるらしい。
 こんな風で松山は引上げて、この帰途には大阪で青木月斗氏等の俳句会に臨む約もあるし、また奈良見物や、京都近傍の三井寺石山寺等の参詣も期していたのだが、兵庫へ着くと、姪の婿なる市橋俊之助が停車場に来ていて、流行感冒が猖獗で家族も臥蓐しているといったので、その須磨へも一泊せず、神戸の或る旅店に一泊したままで、直に東京へ急行列車で帰って来た。老夫婦は旅中で流行感冒に罹っては大変であるからだ。
 いい落したが右の松山行をせぬ前に東京において碧梧桐虚子氏その他の催しで、私の祝賀会として、靖国神社の能楽堂で、能楽の催しがあった。これは『ホトトギス』の関係から広く文士連を招待されたので、見所も満員となった。演奏されたものは、『自然居士』と『花筐はながたみ』とで、甲は虚子氏がシテ、碧梧桐氏がワキであった。俳句の上では両氏は殆ど義絶的であったが、能楽となると、こんな風にやらるるのは、両氏においても美事なるのみならず、私には最も感謝する所である。『花筐』はこれも同郷の喜多流で師匠株になっている、金子亀五郎氏がシテで、ワキは同郷の黒田から妻を娶っている宝生新氏が勤めて下さった。この時も私夫婦は勿論、その頃出京していた山路の娘その他親族を招待してもらった。開会の詞は東洋協会理事の同県人門田正経氏が述べられて私もちょっと挨拶した。それから、この会は俳人その他の細君や娘達が、赤前垂れで模擬店を開いて下さったのも嬉しかった。またこの年に同郷文芸会でも、池内信嘉氏の監理していらるる能楽会の大座敷で、古稀の祝会を開いて下されて、特に私のために、池内氏が作られた文句で同郷の森律子氏が、仕舞をせられた。これも頗る賑々しい事であった。また私の監督していた寄宿舎の関係ある人々からは、前にいった建碑の外、祝賀会をも開いて下さって、これは白山の白山閣であった。この割烹店主はかつて寄宿舎の賄をしていた初見嘉四郎氏であったので、この人の発達といい、旧舎生中でも当時大蔵大臣の勝田主計氏なども出席せられたので、一座の親しみは勿論、私も非常に愉快であった。殊に店主の初見氏が白山芸者数名を余興として寄附されたのも深く感謝する所である。
 以上の如き数々の祝賀会に対しては、私が自筆の『迎へしは古来稀なる春ぢやげな』の句を染出した帛紗を配った。が、京都や大阪や松山の厚意を受けた人々へは、未だそれを送っていない。そうこうするうち、早数年を経たが、是非生前に何かの挨拶をせねばならぬのである。今一ついい落したが、俳人側においても中野三允さんいん氏が催しの祝賀会は、牛込の清風亭で開かれ、渡辺水巴すいは氏の曲水吟社で催しの会は上野の花山亭で、倉重禾刀氏の乙卯吟社で催しの会は飯倉の熊野神社で開かれまた南柯吟社の武田桜桃氏等の催しは、日本橋の常盤倶楽部であった。就中常盤倶楽部は殆ど二百名の出席者で私にとっては過分の盛況であった。なおこの外、雑誌、『曲水』『南柯』等では特に私のために記念祝賀号を発行して下さった。また林露竹氏等の千代田吟社からは唐木の書棚を贈られるし、その他の人々からも祝賀の記念物を数々貰ったのは私の名誉とする所である。しかるに私であるが、例の貧乏老人はどうか一番自分にも祝賀の大会を開いて、多くの厚意を受けた人々を招待したいと思うけれども、とても出来ぬ。そこで一夕僅に親族だけを芝浦の某亭(名を忘れた)に案内して小賀宴を開いた。これも旧藩主久松伯爵家の家令で居る弟の克家が多くの幇助をしてくれたことであった。
 私の晩年の思い出は、まずこの古稀の祝賀会であって、その後は別に話す事もない。また私は前途なんの企画する事もなく、ただ担当している多くの俳事を、その日その日と弁じているが、つい生き延びて本年は七十六歳となった。老年に比較して精神だけは頗る健全だが、身体の方は漸々と衰弱して殊に寒気には閉口する。幸に去年からそれを凌いで来て、これからは、いわゆる小寒大寒を凌がねばならぬ。果して凌げるかどうかは神ならぬ私は全く知らないのである。
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附録 鳴雪俳句抄録



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新年の部


元日や一系の天子不二の山
六日はや睦月は古りぬ雨と風
朝拝や春は曙一の人
輪飾や吾は借家の第一号
輪飾の低うかゝりし戸口かな
打ちつれて夜の年賀や婿娘
万歳や古き千代田の門柱
万歳の鼓を炙る竈かな
妻猿の舞はですねたる一日かな
春駒や美人もすなる物貰ひ
鞠唄や妹が日南の二三尺
から/\と切凧走る河原かな
藪入の昼寝もしたり南縁
きぬ/″\や薺に叩き起されつ
病中新年
寝て聞けば知る声々の御慶かな
子規を訪ひて
病む人も頭もたぐる御慶かな


春の部


初東風や富士に筋違ふ凧
仙人や霞を吸ひて寝つ起つ
道尽きて松明振るや雪解川
春雨や酒を断ちたる昨日今日
春雨に杉苗育つ小山哉
浅茅生の宿と答へて朧月
朧夜の雨となりけり渡月橋
小蔀に人のけはひや春の月
片側に雪積む屋根や春の月
陽炎や石の八陣潮落ちて
陽炎や掘り出す石に温泉の匂ひ
桶に浮く丸き氷や水ぬるむ
子鴉や苗代水の羽づくろひ
春寒の白粉解くや掌
梅ちりて鶴の子寒き二月かな
永き日や花の初瀬の堂めぐり
伐り出す木曾の檜の日永かな
寒食の膳棚に吹く嵐かな
掃き溜の草も弥生のけしき哉
陀羅尼品春の日脚の傾きぬ
暖かやかちん汗かく重の内
脱ぎ捨てし人の晴着や宵の春
春の夜の鳩のうめきや絵天井
行春の鴉啼くなり女人堂
夏近き吊手拭のそよぎかな
山畑は月にも打つや真間の里
銃提げて焼野の煙踏み越ゆる
摘草の約あり淀の小橋まで
一畑は接木ばかりの昼淋し
文使を待たせて菊の根分かな
乞食の子も孫もある彼岸哉
踏青や裏戸出づれば桂川
古雛の衣や薄き夜の市
盃の花押し分けて流れけり
堀止めのこゝも潮干や鰌掘り
出代りて此処に小梅の茶見世かな
涅槃繪の下に物縫ふ比丘尼哉
曇る日や深く沈みし種俵
衣桁にも這ふ蚕に宮の御笑ひ
行雁や射よげに飛んで那須の原
あちこちと鶯飛ぶよ芝広し
鶯や折り焚く柴に夜を啼く
二羽打ちて啼かずなりたる雉子哉
柳鮠かき消すごとく散りにけり
汁椀に大蛤の一つかな
雲雀落つ影も夕日の田毎哉
子雲雀や比叡山おろし起ちかぬる
苗代の水の浅さよ蛙の背
野の梅や折らんとすれば牛の声
垣越えて梅折る人や明屋敷
夕日や納屋も厩も梅の影
灯ともして夜行く人や梅の中
荷車の柳曳きずる埃かな
うたゝ寝の覚むれば[#「覚むれば」は底本では「覧むれば」]桃の日落ちたり
奈良坂や桜に憩ふ油売
さくら折つて墓打ちたゝく狂女かな
北面に歌召されけり梨の花
足伸べて菜の花なぶる野茶屋哉
菜の花の行きどまりなり法隆寺
躑躅ぬけば石ころ/\と転がるよ
京都へ嫁入る女子に
暖き加茂の流れも汲み習へ
亡児惟行が記念の帛紗に
為山が藤の花画きたれば
行き行きて行くこの春の形見かな


夏の部


大刀根の泡や流れて雲の峰
池に落ちて水雷の咽びかな
夕立や石吹き落す六合目
五月雨や蓑笠集ふ青砥殿
五月雨の合羽すれあふ大手かな
蓑を着て河内通ひや夏の雨
清水ある家の施薬や健胃散
雨雲の摩耶を離れぬ卯月かな
大沼や蘆を離るゝ五月雲
短夜や蓬の上の二十日月
短夜の麓に余吾の海白し
午睡さめて尻に夕日の暑さかな
涼しさや月に経よむ一の尼
更へ/\て我が世は古りし衣かな
新茶煮てこの緑陰の石を掃ふ
矢車に朝風強き幟かな
灌仏やはや黒々と痩せ給ふ
大団扇祭の稚児をあふぎけり
滝殿に人ある様や灯一つ
折り/\は滝も浴み来て夏書かな
蓬生の垣に蚊遣す女かな
古庵や草に捨てたる竹婦人
百の井に掘りて水なし雨を乞ふ
一杓は我も飲みつゝ打つ水よ
波立てゝ持ち来る鉢や冷奴
時鳥左近の陣の弓の数
月がさす厠の窓や時鳥
貰ひ来る茶碗の中の金魚かな
老い鳥や己が抜羽を顧る
古御所の蓬にまじり牡丹かな
荒れ寺や塔を残して麦畑
萍の泥にたゞよふ旱かな
一八の東海道も戸塚かな
下闇を出づれば鶏の八つ下り
玉葛の花ともいはず刈り干しぬ


秋の部


聴衆は稲妻あびて辻講義
朝露や矢文を拾ふ草の中
暁や鐘つき居れば初嵐
我声の吹き戻さるゝ野分かな
税苛し莨畑の秋の風
三日月や仏恋しき草枕
三日月に女ばかりの端居かな
月の船琵琶抱く人のあらはなり
横雲やいざよふ月の芝の海
古妻の昔を語る月夜かな
空家に下駄で上るや秋の雨
初潮を汲む青楼の釣瓶かな
山の井や我顔うつる秋の水
提灯で見るや夜寒の九品仏
山越や馬も夜寒の胴ぶるひ
堂島や二百十日の辻の人
我が描きし絵に泣く人や秋の暮
行秋の石より硬し十団子
下京や留守の戸叩く秋の暮
七夕を寝てしまひけり小傾城
押し立てゝはや散る笹の色紙哉
呼びつれて星迎へ女や小磯まで
屋根越しに僅かに見ゆる花火かな
小袴の股立とつて相撲かな
小角力の水打つて居る門辺かな
魂棚の前に飯喰ふ子供かな
草分けて犬の墓にも詣でけり
墓拝む後ろに高き芒かな
草市の立つ夜となりて風多し
通夜の窓ことり/\と添水かな
提げて行く燈籠濡れけり傘の下
酔顔の況や廻燈籠かな
踊るべく人集まりぬ月の辻
月ももり雨も漏りしを蚊帳の果
つゞくりの遂に破れて秋の蚊帳
巻きかへて又打ち出だす砧かな
摂待に女具したる法師かな
鳩笛も吹きならひけり湯治人
吹くうちに鳩居ずなりぬ野の曇り
綿取りに金剛山の道問ひぬ
山宿や軒端に注ぐ落し水
豹と[#「豹と」は底本では「豺と」]呼んで大いなる蚊の残りたる
桟橋に舟虫散るよ小提灯
蜩や千賀の潮竈潮さして
宵闇や鹿に行き逢ふ奈良の町
初雁や襟かき合す五衣
眼白籠抱いて裏山歩きけり
大寺の屋根に落ちたる一葉かな
したゝかに雨だれ落つる芭蕉哉
芭蕉破れて雨風多き夜となりぬ
灯ともせば只白菊の白かりし
萱原にねぢけて咲ける桔梗かな
いさかひは木槿の垣の裏表
夜をこめて柿のそら価や本門寺


冬の部


凩の吹きあるゝ中の午砲かな
折りくべて霜湧き出づる生木かな
初霜をいたゞきつれて黒木売
もてあます女力や雪まろげ
大雪の谷間に低き小村かな
月寒し袈裟打ち被る山法師
古塚や冬田の中の一つ松
萩窪や野は枯れ果てゝ牛の声
初冬の襟にさし込む旭かな
小春日の山を見て掃く二階かな
湖を抱いて近江の小春かな
釜に湧く風邪の施薬や小春寺
冬の夜や小犬啼きよる窓明り
僧定に入るや豆腐の氷る時
耳うとき嫗が雑仕や冬ごもり
書を積みし机二つや冬ごもり
門前の籾を踏まるゝ十夜かな
横はる五尺の榾やちよろ/\火
古蒲団縄にからげていた/\し
繕ひて幾夜の冬や紙衾
炭焼の顔洗ひ居る流れかな
風呂吹の一切づゝも一句かな
顔見世や病に痩せて菊之丞
寒声は女なりけり戻り橋
有明や鴛鴦の浮寝のあからさま
鮟鱇の口から下がる臓腑かな
茶の花をまたいで出でつ墓の道
から/\と日は吹き暮れつ冬木立
樹にかけし提灯一つ師走かな
大年の両国通ふ灯かな
煤掃や庭に居並ぶ羅漢達
暁や見附出づれば餅の音
忘れけり四十九年の何とやら





底本:「鳴雪自叙伝」岩波文庫、岩波書店
   2002(平成14)年7月16日第1刷発行
底本の親本:「鳴雪自叙伝」岡村書店
   1922(大正11)年刊
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本には、各章冒頭に岩波文庫編集部が付記した内容の手がかりとなる見出しがありますが、省きました。
※「附録 鳴雪俳句抄録」の誤植を疑った箇所を、近代デジタルライブラリー(http://kindai.ndl.go.jp/)の「鳴雪句集」の表記にそって、あらためました。
※表題は底本では、「自叙伝」となっています。
※「常磐会寄宿舎」と「常盤会寄宿舎」、「幕府」と「幕布」の混在は、底本通りです。
入力:kazuishi
校正:Juki
2009年5月1日作成
2016年2月7日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「にんべん+戔」、U+4FF4    76-7
「鶩」の「鳥」に代えて「木」、U+6958    76-7
「革+引」、U+9777    76-7
「沃/金」、U+92C8    76-7
「竹かんむり/弗」、U+7B30    76-8
「臼/勿」    76-8
「革+郭」、U+97B9    76-8
「革+弘」、U+9783    76-8
「韻/心」、U+2296B    288-10


●図書カード