人格を認知せざる国民

新渡戸稲造





 道友会へ出席するのは、今夕こんせきで二回目ですが会員になることを許されたのを、私も有難い事と常に感謝している。道友会は心のいものを集めて一所いっしょに話をしようという趣意でったものと承知している、今も出かけに、家内がドコへ行くと聞くから、道友会へ行くと答え、道友会とはんだというから、心のいものの会じゃと答えたら、ソウか、お前も心の善い人のうちかと笑う、私も笑うて出て来たような次第です。
 ことに今夕のように、皆様がおそろいで私を歓迎して下さるのは、私にとりては実に有難い。かくもうしても、私の心情をお話しないと、有難いというのが、ただ表向おもてむきの挨拶のように聞こえましょうが……。
 御承知の通り、日米の関係が四、五年来妙になっておる。ソコで講師の交換でもすれば、幾分か両者間の誤解をく一助にもなろうかと考えるものがあるに至った。最初この事をいい出したのは米国側で、ある米人からある富豪が出資して、米国から第一流の人物、例えばルウズベルトの如き人物を送るから、日本からこれと交換に第一流の人物、例えば東郷大将の如きを送ってくれるかどうかと、掛合うて来た。この掛合に接して、日本の政府は、話があまり大き過ぎるから、実行が六つかしいと考え、かつは真面目な計画であるかドウかと疑うて返答をせずにいた。ところが暫らくたってから、同じ人から、貴国からの返事が遅いものだから、きに出資を申出た富豪がモウ出資を見合せるといい出した、右の次第だから御返事には及ばぬといって来た。ソコで日本政府も、はじめて真面目まじめの計画であったことを承知し、ソレではと盛り返した。始めに第一流の人物を交換したのではあとが六ずかしい、始めは二流、三流、もしくば四流で交換してはドウかと返事を出した。先方もこれに同意をして、ソレでは最初はヨイ加減のものをということで、私が第一に行くことになったのでした。
 さて私は米国へ行て六ヶ所の大学で講演し、そのほか、教育会、婦人会、実業団体等、様々の会へ招待されて演説し、一切で百四十四回演壇に立った。紐育ニュウヨークに於ての如きは、今日はトテも起きられぬと思うたことが二回もあった、ソレでも無理に起きて、冷水摩擦をやったり葡萄酒で元気をつけたりして、一度も違約したことなく、任務を下手ながらも尽して帰った。しかるに帰ってみると、ブラブラしていたとか、帰りようが遅いとか、あるいは日本の悪口をいったとかなぞと、かみはその筋より、下は新聞雑誌より非難されている。その際に皆様が歓迎して下さるのは、私にとりては実に有難い。世間ではかれこれいうが、吾々は見る所が違うぞ、失望するなと、いう趣意で、この歓迎会をお開き下されしことは、全く感謝の念に堪えません。

[#「二」は底本では「一」]

 私は米国へ七たび行きましたが、この度は一つの任務を以て行ったので、従前六回見た社会とは違う社会、即ち上流社会、もしくば中流の上ともいうべき社会を見て来た。私は日本にいては上流社会との交際が至て少ないから米国の上流社会と、日本の上流社会との比較は出来ぬが、米国の中流社会と、日本でお互のおる社会とを比較して、感じたことを一つ申したいと思う。
 私は今度、殆んど何事に就ても、少なくとも、十中七、八までは、日本は西洋に及ばぬということをせつに感じた、殊に精神方面の事で、例えば親切とか、同情とか、あるいはまた小供の教育とかいうような事に就て見ると、日本はマダマダ遠く西洋に及ばぬ。コウいえば米国に心酔して来たという人があるかも知れぬが、全く日本人はマダマダ及ばない。
 例えば自分に背かぬという精神、正しいと思えばその通りをやるという真面目に於て、日本人の到底及ばぬものが、米人にある。もっともこの弊害もあって、道徳がとかく個人主義に流れるということもあるが……しかし私は、同じく国家のために尽さぬにしても、不真面目でありながら口先ばかりで、天下国家を云々うんぬんしているものよりは、退しりぞいて一人を守る人の方が国のためになりはせぬかと考える。忠君愛国を無暗むやみに振り廻わして、天下を闊歩かっぽしている不真面目な人よりは、むしろ退いて一身を守っている人の方が、いざという時に天下国家のためになりはせぬか。
 費府ひふは、桑港そうこうに次で市政の紊乱びんらんせる所であった、ぜソウなったかというに、費府はクエーカー宗の人々の建てた市で、クエーカー宗ではおのれをただしくすということに重きを置くものだから、市の重なる人々が市政に与からぬ、善い人が政治に手を出さぬものだから、市政が次第に紊乱したのである。ケレども腐敗がその極に達し、これではならぬと、ブランケンドルが憤起すると、今まで黙していた真面目な人々が一時に立て応援したから、たちまち腐敗を一掃することが出来た、費府は遠からずして米国の模範市となることでしょう。
 傍観は如何いかにも不親切だが、しかし不真面目にさわぎをする連中よりは、一び出たらやると言う修養をして傍観している方、ソノ方が健全な精神的状態ではなかろうか。
 この心を養うの道、西洋の方に余計にありはせぬか、日本の活動家というものは無暗むやみに働いてばかりいる、これでは駄目だめだ。ソレでせんだって二、三回生徒なぞにもいうたことがある。身体からだが悪いから二、三年休みたいと。「山深くなんにかいほりを結ぶべき、心の中に身はかくれけり」で、何にも鎌倉へ引込むの、何々のと、場所を引込むのではないが、うるさい仕事を減じて、一、二年聖人の書を読む余裕が欲しいと思うている。
 私は今年こんねん、五十一歳になる、普通のかたならば働き最中、ソレにおめおめ引込む、甚だ意気地いくじない次第だが、如何いかにせん日本では、無理に余裕を造らねば、余裕が出て来ない。西洋では日々イクラか余裕が得らるるが、日本では自分の書斎で考えていても、れか這入はいって来る、電報がかかる、訪問客が来る、折角せっかく考えていたことを中途で妨げられて、またヤリ直すことが幾度いくどあるか知れぬ。ソレで精神修養どころか、ああまたかと、精神状態が下る。西洋の耶蘇ヤソ教の家では家族の祈祷会のほかに、銘々のしつで個人で神に交わり、日曜日にはおたがいに訪問することを遠慮する。また教会へ行て自分より劣った牧師の説教でも拝聴し、この人も自分と同じことを思うているかと強味つよみを得て帰る。日本ではコウいうことがうまく行かぬ。


 また話をするにしても、西洋人にむかっては精神上の話が出来るが、日本人には出来ぬ。情けない事だが、道友会なればこそ、これだけの話も出来るのである。
 時々、胸襟きょうきんを開いて話をしては馬鹿を見る、度々「お前もか」というような目にあいて、失望することが多い。要するに吾々日本人は、人格なるものを認知し得ないのではなかろうか。
 階級で人をはかったり、衣服で人を度ったり、ないしは成功で人を度ったり、官吏ならば、勅任だの、奏任だのと、官等で人を度ったり、あるいはまた学問や技芸で人を度ったりして、人格で人を度らぬ、附属で人を度って人格で人を度らぬ。全く今の日本には男一匹の交際が少ない。
 赤裸々の交際というものは、殆んどあるなく厚い厚い衣服を着て交際している、ドテラを着て交際している。私はコンナ風か、コンナ風かと幾度か失望したが、序手ついでにダマされ通しに行こうかと思うている。
 れの句か知らないが英語で
  汝には何人なにびとも英傑であり、如何いかなる婦人も淑女であり、そして如何なる場所も神聖であれ
という句があるが、コウいう心持こころもちでおれば、至る所に青山せいざんありで、い心持がしようと思う。おのれをあざむくのかも知れないが、幾度いくどダマされても、私はこの心持でおりたいと思う。米国の中等社会の人々と交際してみて、私は日本に於てよりは、人と交わりやすい。精神上の話をしても分ってくれる。もし意見が違えば明白にソウいうてくれるから、誠に交わり易いと思う。
 これが私の、道友諸君に申上げたい、所感の一です。


 日本人間の、右のようは悪風あくふうな、形式的教育、私は忠君愛国を悪いとはいわないが、忠君愛国一天張いってんばりの形式教育によりて、大分助長されているものと思う。忠君愛国一天張で、お前嘘をいうなというような、人道教育のないということは、この悪風の原因の一でなかろうか。(大正元年十一月廿六日夜、道友会に於ての講話筆記にて、文責記者に在り)
〔一九一三年一月一日『道』五七号〕





底本:「新渡戸稲造論集」岩波文庫、岩波書店
   2007(平成19)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「道 五七号」日本教会
   1913(大正2)年1月1日
初出:「道 五七号」日本教会
   1913(大正2)年1月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:田中哲郎
校正:ゆうき
2010年7月6日作成
2011年4月12日修正
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