樋口一葉

長谷川時雨




       一

 秋にさそわれて散る木の葉は、いつとてかぎりないほど多い。ことに霜月は秋の末、落葉も深かろう道理である。私がここに書こうとする小伝の主一葉いちよう女史も、病葉わくらばが、霜のいたみにたえぬように散った、世に惜まれるひとである。明治二十九年十一月二十三日午前に、この一代の天才は二十五歳のほんに短い、人世のなかばにようやく達したばかりでってしまった。けれど布は幾百丈あろうともただの布であろう。蜀江しょくこうにしきは一寸でも貴く得難い。命の短い一葉女史の生活のページには、それこそ私たちがこれからさき幾十年を生伸びようとも、とてもその片鱗へんりんにも触れることの出来ないものがある。一葉女史の味わった人世の苦味にがみあきらめと、まけじ魂との試練を経た哲学――
 信実のところ私は、一葉女史を畏敬いけいし、推服してもいたが、私の性質さがとして何となく親しみがたく思っていた。虚偽いつわりのない、全くの私の思っていたことで、もし傍近くにいたならば、チクチクと魂にこたえるような辛辣しんらつなことを言われるに違いないというようにも思ったりした。それはいうまでもなくそんな事を考えたのは、一葉女史の在世中の私ではない、その折はあまり私の心が子供すぎて、ただえらいと思っていたに過ぎなかった。明治四十五年に、故人の日記が公表おおやけにされてからである。私は今更、夢の多かった生活、いつも居眠りをしていたような自分を恥じもするが――幾度かその日記をひもときかけてはめてしまった。愛読しなかったというよりは、実は通読することすらいやなのであった。それは私の、衰弱しきった神経がいとったのであったが、あの日記には美と夢とがあまりすくなくて、あんまり息苦しいほどの、切羽せっぱ詰った生活が露骨に示されているのを、私は何となく、胸倉むなぐらをとられ、締めつけられるような切なさに堪えられぬといった気持ちがして、そのため読む気になれなかった。
 しかし、今はどうかというに、私も年齢よわいを加えている。そして、様々のことから、心の目を、少しずつ開かれ風流や趣味に逃げて、そこから判断したことの錯誤あやまちをさとるようになった。この折こそと思って、私は長くそのままにしておいた一葉女史の日記を読むことにした。すこしでも親しみを持ちたいと思いながら――
 で、お前はどう思ったか?
と誰かにたずねてもらいたいと思う。何故ならば、私はせまい見解を持ったおりに、よくこの日記を読まないでおいたと思ったことだった。ひねくれた先入観があっては、私はこの故人を、こう彷彿ほうふつと思い浮べることは出来なかったであろう。よくこそ時機のくるのを待っていたと思いながら、日記のなかの、ある行にゆくと、まぶたを引きこするのであった。それで私に、そのあとでの、故人の感じはと問えば、私はこう答えたい気がする。
 ふきにおいと、あの苦味
 お世辞気のちっともない答えだ。四月のはじめに出る青い蕗のあまり太くない、土から摘立てのを歯にあてると、いいようのないさわやかなかおりと、ほろ苦い味を与える。その二つの香味こうみが、一葉女史の姿であり、心意気であり、魂であり、生活であったような気がする。
 文芸評に渡るようにはなるが、作物を通して見た一葉女史にも、ほろ苦い涙の味がある。どの作のどのひとを見ても、幽艶、温雅、誠実、艶美、貞淑の化身けしんであり、所有者でありながら、そのいずれにも何かしら作者の持っていたものを隠している。柔風やわかぜにもたえない花の一片ひとひらのような少女、はぎの花の上におく露のような手弱女たおやめに描きだされている女たちさえ、何処にか骨のあるところがある。ことに「にごり江」のおりき、「やみ夜」のおらん、「闇桜やみざくら」の千代子、「たまだすき」の糸子、「別れ霜」のおたか、「うつせみ」の雪子、「十三夜」のおせき、「経づくえ」のお園――と数えれば数えるものの、二十四年から二十八年へかけての五年間、二十五編の作中、一つとして同じ性格には書いてないが、その底の底を流れて、隠しても隠しきれないねた気質は、日記から読みとった作者の、どこか打解けにくいところのある、寂しい諦めと、我執がしゅうを見のがされない。

 私は一葉女史の作中の人物をかりて、女史に似通っている点をあげて見たいと思った。も一つは、どの作が作者の気に入っていた作か知りたいと思った。それよりも深く知りたいのは、どの作のどの女性が、最も深く作者の同情を得、共鳴のあるものかということであった。最も高く評価されたのは「濁り江」のお力、「十三夜」のお関、「たけくらべ」のみどりであったが、すべての女主人公を一固めにして、そして太く出た線こそ、女史の持っているほんとうの魂だという事が出来るであろう。
「経づくえ」は小説としては「にごり江」や「たけくらべ」にくらべようもない、その他の諸作よりも決してすぐれてはいない。その構想も『源氏物語』の若紫を今様いまようにして、あのはなやぎを見せずに男を死なせ、遠く離れたのちに、男が死んだあとで、十六の娘がその人のなさけを恋うという、結末を皮肉にした短いものである。けれども、その少女お園の心持ちは、内気な少女おとめには、よくうなずかれもし、残りなく書尽かきつくされてもいる。我と我身がうらめしいというような悩みと、時機を一度失えば、もう取返しのつかない、身悶みもだえをしても及ばないくいちがいが、穏かに、寸分のすきもなく、傍目わきめもふらせぬようにぴったりと、くいというかたちもないものの中へ押込めてしまって、長い一生を、っと、きえてしまった故人の、恋心の中へとつき進めてゆかせようとするのを、私は何とも形容することの出来ない、涙と圧迫とを感じずにはいられない。――動きのとれない苦しみを知る人でなければと思うと、私はお園の上から作者の上へと涙をうつすのであった。

 ――私の書方かきかたは、あんまり一葉女史を知ろうために、急ぎすぎていはしまいか。
 或る人は女史を決して美人ではないといった。また馬場孤蝶ばばこちょう氏の記するところでは、美人ではなかったが決して醜い婦人ではない。先ず並々の容姿であったとある。親友の口からそうきわめがつけられているのを、見も逢いもせぬ私が、何故なぜ美人にしてしまうのかと、いぶかしまれもしようが、私が作物を通して知っている一葉女史は、たしかに美人というのをはばからぬと思う自信がある。写真でも知れるが、あの目のあの輝き、それだけでも私は美人の資格は立派にあるといいたい。脂粉にいろどられた傾国けいこくの美こそなかったかも知れないが、美の価値を、自分の目の好悪こうおによって定める、男の鑑賞眼は、時によって狂いがないとはいえない。あまりお化粧もしなかったらしい上に、余裕のある家庭ではなし、ことに、
――なまめかしいという感じを与える婦人ではなかった、つやはない、如何いかにもクスんだ所のある人であった、娘というよりは奥さんといいたいような人であった。当時の普通一般の女を離れて、男性の方に一歩変化しかけたように感ぜられる婦人であった。挙止きょしは如何にもしとやかであった。言葉はいかにも上品であった。何処に女らしくないというところはげ得られないにかかわらず、何処となく女離れがしているように感ぜられた。多分は一葉君の気魄きはくの人を圧するようなところがあったからであろう。要するに、共に語って痛快な婦人の一人であったろう。男が恋うることなしに親しく交わりえられる婦人の一人だと私は思っていた。 ――馬場氏記――
とあるのから見ても、そうした婦人ひとで、並々の容色と見えれば、厚化粧で人目を眩惑げんわくさせる美女よりも、確かであるということが出来ようかと思われる。
 その上に、もし一度ひとたび興起り、想みなぎきたって、無我の境に筆をとる時の、ひとみは輝き、青白いほおに紅潮のぼれば、それこそ他の模倣をゆるさない。引緊ひきしまった面に、物を探る額の曇り、キと結んだ紅いくちびる懊悩おうのうと、勇躍とを混じた表情の、ひらめきを思えば、類型の美人ということが出来よう。
 誰に聞いても髪の毛は薄かったという事である。背柄せがらは中位であったという。受け答えのよい人で話上手じょうずで、あったとも聞いた。話込んでくると頬に血がのぼってくる、それにしたがって話もはずむ。冷嘲れいちょうな調子のおりがことに面白かったとかいう。礼儀ただしいのでからだをこごめて坐っているが、退屈をするとびんの毛の一、二本ほつれたのを手のさきでいじり、それを見詰めながらはなす。話に油がのってくると、あいだをへだてていたのが、いつの間にか対手あいてひざの方へ、真中にはさんだ火鉢ひばちをグイグイ押してくるほど一生懸命でもあったという。
 半日に一枚の浴衣ゆかたをしたてあげる内職をしたり、あるおりは荒物屋あらものやの店を出すとて、自ら買出しの荷物を背負せおい、あるよい吉原よしわら引手茶屋ひきてぢゃやに手伝いにたのまれて、台所で御酒のおかんをしていたり、ある日は「御料理仕出し」の招牌かんばんをたのまれて千蔭ちかげ流の筆をふるい、そうした家の女たちから頼まれる手紙の代筆をしながらも、
小説のことに従事し始めて一年にも近くなりぬ、いまだよに出したるものもなく、我が心ゆくものもなし、親はらからなどの、なれは決断の心うとく、跡のみかへり見ればぞかく月日ばかり重ぬるなれ、名人上手と呼ばるゝ人も初作より世にもてはやさるゝべきにはあるまじ、非難せられてこそそのあたひも定まるなれと、くれ/″\せめらる、おのれ思ふにはかなき戯作げさくのよしなしごとなるものから、我が筆とるはまことなり、衣食のためになすといへども、雨露しのぐためのわざといへど、拙なるものは誰が目にも拙とみゆらん、我れ筆とるといふ名ある上は、いかで大方のよの人のごと一たび読みされば屑籠くずかごに投げらるゝものはかくまじ、人情浮薄にて、今日喜ばるゝもの明日は捨てらるゝのよといへども、真情に訴へ、真情をうつさば、一葉の戯著といふともなどかは価のあらざるべき、我れは錦衣きんいを望むものならず、高殿たかどのを願ふならず、千載せんざいにのこさん名一時のためにえやは汚がす、一片の短文三度稿をかへてしかして世の評を仰がんとするも、むなしく紙筆のつひへに終らば、なお天命と観ぜんのみ。(一葉随筆、「森のした草」の中より)
おろかやわれをすね物といふ、明治の清少せいしょうといひ、女西鶴さいかくといひ、祇園ぎおん百合ゆりがおもかげをしたふとさけび小万茶屋がむかしをうたふもあめり、何事ぞや身は小官吏の乙娘おとむすめに生まれて手芸つたはらず文学に縁とほく、わづかにはぎが流れの末をくめりとも日々夜々の引まどのけむりこゝろにかかりていかで古今の清くたかく新古今のあやにめづらしき姿かたちをおもひうかべえられん、ましてやにほの海に底ふかき式部が学芸おもひやらるるままにさかひはるか也、ただいささか六つななつのおさなだちより誰つたゆるとも覚えず心にうつりたるもの折々にかたちをあらはしてかくはかなき文字たにはなりつ、人見なばすねものなどことやうの名をや得たりけん、人はわれを恋にやぶれたる身とやおもふ、あはれやさしき心の人々に涙そそぐ我れぞかし、このかすかなる身をささげて誠をあらはさんとおもふ人もなし、さらば我一代を何がための犠牲などこと/″\しくとふ人もあらん、花は散時ちりどきあり月はかくる時あり、わが如きものわが如くして過ぬべき一生なるに、はかなきすねものの呼名よびなをかしうて、
    うつせみのよにすねものといふなるは
        つま子もたぬをいふにや有らん
をかしの人ごとよな(一葉随筆、「さおのしづく」より)
と、心を高く持っていたこの人のことを、私は自分の不文を恥じながらも、忠実に書かなければならないと思う。ともかくも、私はまずこの人の生れた月日と、その所縁のつづきあいとを書落さぬうちにしるしておこう。

       二

 一葉女史は江戸っ子だ、いや甲州生れだという小さな口論争くちあらそいを私は折々聴いた。それはどっちも根拠のないあらそいではなかった。女史が生れたのは東京府庁のあった麹町こうじまちの山下町に初声うぶごえをあげた。明治五年にはほかにどんな知名の人が生れたか知らぬが、私たち女性の間には、ことに文芸に携わるものには覚えていてよい年であろう。数え年の六歳に本郷ほんごう小学校へ入学した。その年は明治の年間でも、末の代まで記憶に残るであろう西南戦争のあった年で、西郷隆盛が若くから国家のために沸かした熱血を、城山の土にそそいだ時である。翌年の七歳には特に手習てならい師匠にあがった。一葉女史の筆蹟が実に美事であるのも、そうした素養がある上に、後に歌人で千蔭流の筆道の達者であった中島師についたからだ。十五年の夏には下谷したやいけはたの青海小学校へ移り、その翌年に退校した。その後は他で勉学したとは公にはされていない。十九年になって中島歌子刀自とじもとへ通うまでは独学時代であったろうと考えられる。
 それまでが女史の両親のそろっていた勉学時代、少女時代で、甲州は両親の出生地であった。父君は樋口則義ひぐちのりよし、母君はたきといって、安政年間に志をたてて共に江戸に出、母は稲葉家いなばけに仕え、父は旗本菊池家に奉公し、後に八丁堀はっちょうぼり衆(与力同心)に加わった。そして維新後に生れた女史は、両親の第四子で二女である。甲斐かいの国東山梨郡大藤村は女史の両親を生んだなつかしい故郷なので。
 小説「ゆく雲」の中には桂次けいじという学生の言葉をかりて、
我養家は大藤村の中萩原なかはぎわらとて、見わたす限りは天目山てんもくざん大菩薩峠だいぼさつとうげの山々峰々垣をつくりて、西南にそびゆる白妙しろたえの富士のはをしみて面かげをしめさねども、冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ、うおといひては甲府まで五里の道をとりにやりて、やう/\まぐろの刺身が口に入る位――
とある。その後の章には、
小仏こぼとけの峠もほどなく越ゆれば、上野原、つる川、野田尻、犬目、鳥沢も過ぎてさるはし近くにその夜は宿るべし、巴峡はきょうのさけびは聞えぬまでも、笛吹川の響きに夢むすびく、これにもはらわたはたたるべき声あり勝沼よりの端書はがき一度とゞきて四日目にぞ七里ななさとの消印ある封状二つ……かくて大藤村の人になりぬ。
と故郷の山野の景色がかなり細叙してある。

 父則義氏は廿二年ごろに世を去られた。それからの女史の生活は流転をきわめている。陶工であった兄の虎之助氏は早くから別に一家をなしていたので、女史は母滝子と、妹の国子と、疲細かぼそい女三人の手で、その日の煙りを立てなければならなかった。廿四年廿歳の時から廿九年までの六年間が製作の時代であった。
 生活の流転は、その感想、随筆、日記、があからさまに語っている。女史の幼時にも彼女の家は転々した。本郷に移り下谷に移り、下谷御徒町おかちまちへ移り、芝高輪たかなわへ移り、神田かんだ神保町じんぼうちょうに行き、淡路町あわじちょうになった。其処で父君を失ったので、その秋には悲しみの残る家を離れ本郷菊坂町きくざかちょうに住居した。その後下谷したや竜泉寺町に移った。俗に大音寺前だいおんじまえという場処で、吉原の構裏かまえうらであった。一葉の家は京町きょうまちの非常門に近く、おはぐろどぶ手前側てまえがわであったという。ここの住居の時分から、女史の名は高くなったのである、そして生活の窮乏も極に達していた。荒物店あらものやをはじめたのも此家ここのことであれば、母上は吉原の引手茶屋で手のない時には手伝いにも出掛けた。女史と妹の国子とは仕立したてものの内職ばかりでなく蝉表せみおもてという下駄げた畳表たたみおもてをつくることもした。一葉女史のその家での書斎は、三畳ほどのところであったという。荒物店の三畳の奥で、この閨秀けいしゅうの傑作がつづりだされようと誰が知ろう、それよりもまた、その文豪が、朝は風呂敷包みを背負って、自ら多町たちょうの問屋まで駄菓子を買出しにゆき、蝋燭ろうそくを仕入れ、羽織を着ているために嘲笑ちょうしょうされたと知ろうか。彼女の家から灯が暁近くなるまでれるのは、彼女の創作のためばかりではなかった。あの、筆をもてば、倏忽たちどころに想をのせて走るとうとい指さきは、一寸の針をつまんで他家の新春の晴着はれぎを裁縫するのであった。半日に一枚の浴衣ゆかたを縫いあげるのはさして苦でもなかったらしいが、創作の気分のみなぎってくるおりでも、米の代、小遣こづかい銭のために齷齪あくせくと針をはこばなくてはならなかったことを想像すると、わびしさに胸が一ぱいになる。明治廿五年の正月には、元日ですら夜まで国子氏と仕立物をしていたという事を日記が語っている。
国子当時蝉表せみおもて職中一の手利てききなりたりと風説あり今宵こよいは例より、酒うましとて母君大いによい給ひぬ。
――片町といふ所の八百屋やおやの新いものあかきがみえしかば土産にせんとて少しかふ、道をいそげばしとど汗に成りて目にも口にもながれいるをはんけちもておしぬぐひ/\して――
とあるのにもその生活の一片が見られる。父の則義氏は漢学の素養もあり文芸の何物かをも知っていられたが、母君は普通の気量きがさな、かなり激しい気質の人であったらしい。日記にあらわれた借財のことは、廿年の九月七日にはじまっている。そして、
――我身ひとつのゆえりせばいかゞいやしきおりたちたるぎょうをもして、やしなひ参らせばやとおもへど、母君はいといたく名をこのみ給ふたちにおはしませば、賤業をいとなめば我死すともよし、我をやしなはんとならば人めみぐるしからぬ業をせよとなんの給ふ、そもことはりぞかし、わが両方ふたかたははやく志をたて給ひてこの府にのぼり給ひしも、名をのぞみ給へば成りけめ。
とあるにも母君の面影が知れる。そうした気位が高くていながら、乏しい暮しのために、しかもそうした堅気かたぎの士族出が、社会の最暗黒面であるさと近くに住居して、場末の下層級の者や、流れ寄った諸国の喰詰くいつめものや、そうでなくてもやみの女の生血いきちから絞りとる、あぶぜに下滓かすを吸って生きている、低級無智な者の中にはさまれて暮していなければならなかった母君の、ジリジリした気持ち――(気勝者きしょうもの)といわれる不幸ふしあわせな気質は、一家三人の共通点であった。
 一葉女史が近視眼だったのは、幼時土蔵の二階の窓から、ほんの黄昏たそがれの薄明りをたよりにして、草双紙くさぞうしを読んだがためだという事ではあるが、そうした世帯の、細心ほそしん洋燈ランプの赤いひかりは、視力をいためたであろうし、その上に彼女は肩の凝る性分で、かつて、年若い女史にそう早く死の来ることなどは、誰人たれも思いよらなかったおり(死の六年前に)医学博士佐々木東洋氏が「この肩の凝りが下へおりれば命取りだから大事にせよ」と言われたということなどを思って見ても、早世は天命であったかも知れないが、あまり身心を費消させた生活が、彼女の死を早めさせたのだ。

 私は頃日このごろ馬琴ばきん翁の日記を読返して見て感じたのは、あの文人が八十歳にもなり、盲目にもなっていながら、著作を捨てなかった一生が、女史のそれと同様に、焼火箸やけひばし咽喉のどもとに差込まれるような感じをさせることであった。
 女史の記録を読むと、明治廿四年――(一葉廿歳の時)十月十日に兄の家は財産差押えになるという通知をうけたくだりに、金三円ばかりもあれば破産の不幸にも至るまいという書状からしても、つえとも頼む男兄弟の、たよりにならなかったことがしれ、かえって妹たちの方が苦しいなかからその急を救った。
「家の方は私の稽古着けいこぎを売ってもよいから」といって、親子のあぶらであり、血となるだいの金四円を、母を車に乗せて夜中ではあれど届けさせた。
 ある時は貧にうんじた老女の繰言くりごととはいえ、
「あなわびし、今五年さきにうせなば、父君おはしますほどに失なば、かゝる憂き、よも見ざらましを我一人残りとゞまりたるこそかへす/″\口をしけれ、我ことばを用ひず、世の人はたゞ我れをぞ笑ひ指さすめる、くにも夏もおだやかにすなほに我やらむといふ処、虎之助がやらむといふ処にだにしたがはゞ何条ことかはあらむ、いかに心をつくりたりとて手を尽したりとて甲斐かいなき女の何事をかなし得らるべき、あないやいやかかる世を見るもいや也」
と朝夕に母にかきくどかれては、どれほどに心苦しかったであろう。おなじ年(廿六年四月十三日の記に)、
母君ふけるまでいさめたまふ事多し、不幸の子にならじとはつねの願ひながら、折ふし御心みこころにかなひ難きふしのあるこそかなし。
とあるに知る事が出来る。
 朝には買出しの包みを背負って、駄菓子問屋の者たちから「ねえさん」とよばれ、午後には貴紳の令嬢たちとひざを交えて「夏子の君」と敬される彼女を、彼女は皮肉に感じもした。けれども恩師中島歌子は、一葉の夏子を自分の跡目をつぐものにしようとまで思っていたのであった。であればこそ、同門の令嬢たちも、一葉という文名嘖々さくさくと登る以前にも、内弟子同様な身分である夏子を卑しめもしなかったのであろう。
 ある時、女史は雨傘を一本も持たなかった。高下駄あしだ爪皮つまかわもなかった。小さい日和洋傘ひよりがさで大雨をおかして師のもとへと通った。またある時は(新年のことであったと思う)晴着がないので、国子の才覚で羽織の下になるところは小切こぎれをはぎ、見える場処ところにだけあり合せの、共切ともぎれを寄せて作った着物をきていったことがある。勿論もちろん裾廻すそまわしだけをつけたもので、羽織が寒さも救えば恥をも救い隠したのである。そうしても師のもとへ顔をだす事をおこたらなかったわけは、ほかにもあるのであった。歌子は裁縫や洗濯せんたくを彼女の家に頼んで、わりのよい価を支払らっていた。師弟の情誼じょうぎのうるわしさは、あるおり、夏子に恥をかかせまいとして、歌子は小紋ちりめんの三枚重ねのひきときを、表だけではあったが与えもした。
蓬生よもぎう日記」の十月九日のくだりには、
師の君に約し参らせたる茄子なすを持参す。いたく喜びたまひてこれひるの時に食はばやなどの給ふ、春日かすがまんぢうひとつやきてひたまふとて、おのれにもなかばわけて給ふ。
とあるにも師弟の関係の密なのが知られる。けれども歌子は一葉をよく知っていた。あるおり『読売新聞』の文芸担当記者が、当時の才媛について、萩の屋門下の夏子と龍子たつこ――三宅花圃みやけかほ女史――の評を求めたおり、歌子は、龍子は紫式部であり夏子は清少納言であろうと言ったとか、一葉も自分で、清少納言と共通するもののあるのを知っていたのかとも思われるのは、随感録「さおのしづく」に、
少納言は心づからと身をもてなすよりは、かくあるべき物ぞかくあれとも教ゆる人はあらざりき。式部はおさなきより父為時がをしへ兄もありしかば、人のいもうととしてかずかずにおさゆる所もありたりけんいはゞ富家に生れたる娘のすなほにそだちて、そのほどほどの人妻に成りたるものとやいはまし――仮初かりそめの筆すさび成りける枕の草紙をひもときはべるに、うはべは花紅葉もみじのうるはしげなることも二度三度見もてゆくに哀れに淋しきこのなかにもこもり侍る、源氏物がたりを千古の名物とたゝゆるはその時その人のうちあひてつひにさるものゝ出来いできにけん、少納言に式部の才なしといふべからず、式部が徳は少納言にまさりたる事もとよりなれど、さりとて少納言をおとしめるはあやまれり、式部はあめつちのいとしごにて、少納言は霜ふる野辺にすて子の身の上成るべし、あはれなるは此君やといひしに、人々あざ笑ひぬ。
と同情している。
 とはいえその間に女史一代の天華は開いた。
「名誉もほまれも命ありてこそ、見る目も苦しければ今宵は休み給へ」
と繰返しいさめる妹のことばもききいれず、一心に創作に精進しょうじんし、大音寺前だいおんじまえの荒物屋の店で、あの名作「たけくらべ」の着想を得たのであった。けれどもまた、漸く死の到来が、正面に廻って来たのでもあったが、そうとは知りようもなく、ただ家の事につき、母を楽しませる事についても、一層気掛りの度合どあいが増したものと見え、彼女は相場そうばをして見ようかとさえ思ったのだ。
 私は此処まで書きながら、私も母の望みをみたそうと、そんな考えを起した事が一再ならずあったので、この思いたちが突飛とっぴではない、全く無理もないことだと肯定する。その相場に関して、「天啓顕真術本部」という、妙な山師のところへ彼女がいったことから、すこしばかり恋愛をさがしてみよう。
 荒物店あらものやを開いた時のことも書残してはならない。
 ――夕刻より着類きるい三口持ちて本郷いせ屋にゆき、四円五十銭を得、紙類を少し仕入れ、他のものを二円ばかり仕入れたとある。
今宵はじめて荷をせをふ、中々に重きものなり。
ともいい、日々の売上げ廿八、九銭よりよくて三十九銭と帳をつけ、五厘六厘の客ゆえ、百人あまりもくるため大多忙だとしるしたのを見れば、
なみ風のありもあらずも何かせん
     一葉ひとはのふねのうきよなりけり
と感慨無量であった面影が彷彿ほうふつと浮かんでくる。

       三

 廿七年二月のある日の午後に、本郷区真砂町まさごちょう卅二番地の、あぶみ坂上の、下宿屋の横を曲ったのは彼女であった。その路は馴染なじみのある土地であった。菊坂きくざかの旧居は近かった。けれども其処を歩いていたのは、謹厳深つつしみぶかい胸に問いつ答えつして、様々に思い悩んだ末に、天啓顕真術会本部を訪れようとしていたのであった。
 黒塀くろべいの、けやきの植込みのある、小道を入って、玄関に立った彼女は、その家の主、久佐賀くさか先生というのは、何々道人とでもいうような人物と想像していたのであろう。秋月と仮名かめいして取次ぎをたのんだ。
 彼女は久佐賀某に面接したおり、
あい見ればまた思ふやうの顔したる人ぞなき)
と、『つれづれ草』の中にあることばを思出しながら、四十ばかりの音声の静かにひくい小男にむき合った。
 鑑定局という十畳ばかりのへやには、織物が敷詰められてあり、額は二ツ、その一つには静心館と書してあり、書棚、黒棚、ちがい棚などが目苦めまぐるしいまでに並べたててあり、とこには二幅対にふくついの絹地の画、その床を背にして、久佐賀某は机の前に大きな火鉢を引寄せ、しとねを敷いていて彼女を引見したのであった。
申歳さるどしの生れの廿三、運を一時にためし相場をしたく思えど、貧者一銭の余裕もなく、我力にてはなしがたく、思いつきたるまま先生の教えをうけたくて」
と彼女は漸くに口を切った。それに答えた顕真術の先生は、
「実に上々のお生れだが金銭の福はない。他の福禄が十分にあるお人だ。すぐれたところをあげれば、才もあり智もあり、物にたくみあり、悟道のえにしもある。ただ惜むところはのぞみが大きすぎて破れるかたちが見える。天稟てんぴんにうけえた一種の福を持つ人であるから、あきないをするときいただけでも不用なことだと思うに、相場の勝負を争うことなどはさえぎってお止めする。貴女はあらゆる望みを胸中より退のぞいて、終生の願いを安心立命しなければいけない。それこそ貴女が天から受けた本質なのだから」
と言った。彼女は表面つつましやかにしていても、心の底ではそれを聴いてフフンと笑ったのであろう。
「安心立命ということは出来そうもありません。望みが大に過ぎて破れるとは、何をさしておっしゃるのでしょう。老たる母に朝夕のはかなさを見せなければならないゆえ、一身をにえにして一時の運をこそ願え、私が一生はぶれて、道ばたの乞食こじきになるのこそ終生の願いなのです。乞食になるまでの道中をつくるとてもだえているのです。要するところは、よき死処がほしいのです」
と言出すと、久佐賀は手を打っていった。
おっしゃる事は我愛する本願にかなっている」
 彼女と久佐賀との面会は話が合ったのであろう。月を越してから久佐賀は手紙をもって、亀井戸の臥龍梅がりょうばいへ彼女を誘った。手紙には、
君が精神の凡ならざるに感ぜり、爾来じらいしたしく交わらせ給わば余が本望なるべし
などと書いたのちに、
君がふたゝび来たらせ給ふをまちかねて、として、
  とふ人やあるとこゝろにたのしみて
      そゞろうれしき秋の夕暮
と歌も手もつたないが、才をもって世を渡るに巧みなだけな事を尽してあった。とはいえ、それを受けたのは一葉である。そんな趣向で手中にはいると思うのかと、すぐに顕真術先生の胸中を見現みあらわしてしまった。日本全国に会員三万人、後藤大臣並びに夫人(象次郎しょうじろう伯)の尊敬一方ひとかたでないという先生も、女史を知ることが出来ず、そんな甘い手に乗ると思ったのは彼れが一代の失策であったであろう。
 彼女は久佐賀の価値ねうちを知った。彼れは世人の前へかぶる面で、彼女も贏得かちうることが出来ると思ったのであろう。彼女の手記には利己流のしれもの、二度と説を聴けば、いとうべくきらうべく、面につばきをしようと思うばかりだとも言い、かかるともがらと大事を語るのは、幼子おさなごにむかって天を論ずるが如きものだ、思えば自分ながら我も敵を知らざる事の甚だしきだと、自分をさえ嘲笑あざわらっている。けれども久佐賀の方では、自分の方は名と富と力を貯えているものだと、慢じていたのであろう。そしてその上に、一葉の美と才と、文名とを合せればたいしたものだと己惚うぬぼれたのであろう。他の者にはもらすのさえはじているだろうと思われる貧乏を、自分だけがよく知っていると思いもしたのであろう。まだそれよりも、彼女が親と妹のために、物質の満足を得させたいと願っている弱みを、彼れは自分一人が承知しているのだと思い上っていた。それのみならず彼れは、一葉を説破しえたつもりでいたかも知れない。
 久佐賀は、金力を持って、さも同情あるように附込つけこんでゆこうとした。そうした男ゆえ、俺ならば大丈夫良かろうといかりをおろしてかかったのかも知れない。ともかく彼れはやんわりと、勝気なる、才女を怒らせないような文面をもって求婚を申入れた。それは廿七年の六月九日のことで女史が廿三歳の時である。
(貴女の御困苦が私の一身にも引くらべられて悲しいから、御成業の暁までを引受けさせて頂きたい。けれどもただ一面識のみでは、お頼みになるのも苦しいだろうから、どうか一身を私にゆだねてはくれまいか。)
 そんな風な申込に対して苦笑せずにいられるだろうか? いうまでもなく彼女は彼れを評して、笑うにたえたしれもの、投機師とののしっている。世のくだれるをなげきて一道の光を起さんと志すものが、目前の苦しみをのがれるために、尊ぶべきみさおを売ろうかと嘲笑した。とはいえ、救いは願っていたのである。そうした悲しい矛盾を忍ばねばならなかった貧乏は、彼女に女らしさを失わぬ返事をしたためさせた。
(どうかそういう事は仰しゃらないで、大事をするに足りるとお思いになるならば扶助をお与え下さい。でなければ一言ひとことにお断り下さい)
と彼女は明らかな決心を持って、とはいえ事の破れにならぬようにと、余儀なく祈る返事を出した。その後も五十金の借用を申込んだこともある。久佐賀も彼女の家を度々たびたび訪ずれた。
 久佐賀と懇意になったのち、直に彼女の一家は本郷へ引移った。荒物店を譲って、丸山福山町の阿部家の山添いで、池にそうた小家へ移った。其処は「守喜もりき」という鰻屋うなぎやの離れ座敷に建てたところで、狭くても気に入った住居であったらしかった。家賃三円にて高しといったのでも、質素な暮しむきが見える。現にこのあいだ、歌舞伎座で河合、喜多村の両優によって、はじめて女史の作が劇として上場されたあの「濁り江」は、この家に移ってから、その近傍の新開地にありがちな飲屋の女を書いたものであった。女史は其処に移ってからもそうした種類の人たちに頼まれて手紙の代筆をしてやった。ある女は女史の代筆でなくてはならないとて、数寄屋すきや町の芸妓になった後もわざわざ人力車に乗って書いてもらいに来たという。「濁り江」のお力は、その芸妓になった女をモデルにしたともいわれている。そしてそこが終焉しゅうえんの地となった。
 引越しの動機が彼女の発起でないことは、
国子はものにたえ忍ぶの気象とぼし、この分厘にいたくあきたるころとて、前後のおもんばかりなくやめにせばやとひたすら進む。母君もかくちりの中にうごめき居らんよりは小さしといへど門構への家に入り、やはらかき衣類にても重ねまほしきが願ひなり、されば我もとの心は知るやしらずや、両人とも進むること切なり。されど年比としごろ売尽し、かり尽しぬる後の事とて、この店を閉ぢぬるのち、何方いずかたより一銭の入金のあるまじきをおもへば、ここに思慮をめぐらさざるべからず。さらばとて運動の方法をさだむ。まづかぢちょうなる遠銀えんぎん金子きんす五十円の調達を申込む。こは父君存生ぞんしょうの頃よりつねに二、三百の金はかしおきたる人なる上、しかも商法手広く表をうる人にさへあれば、はじめてのこととて無情なさけなくはよもとかゝりしなり。
(「塵中日記」より)

 私はもうこの辺で、その人のためには、茅屋ぼうおくも金殿玉楼と思いなしていおとずれた、その当時はまだ若盛りであった、明治文壇の諸先輩の名をつらねることも、忘れてならない一事だろうと、ほんの、当時の往来だけでもあっさり書いておこうと思う。
 第一に孤蝶子――馬場氏が日記の中ではばをきかしている――先生の熱心と、友愛の情には、女史も心を動かされた事があったのであろう。その次には平田禿木ひらたとくぼく氏であろう、この二人のためにはかなり日記に字数が納められている。そしてこの二人の親密な友垣の間にあって、女史は淡い悲しみとゆかしさを抱いていたのであろう。
「水の上日記」五月十日の夜のくだりには、池にかえるの声しきりに、燈影とうえい風にしばしばまたたくところ、座するものは紅顔の美少年馬場孤蝶子、はやく高知の名物とたたえられし、兄君辰猪たついが気魂を伝えて、別に詩文の別天地をたくわゆれば、優美高潔かね備えて、おしむところは短慮小心、大事のなしがたからん生れなるべけれども歳は、廿七、一度おどらば山をも越ゆべしとある。
 平田禿木は日本橋伊勢町の商家の子、家は数代の豪商にして家産今ようやくかたぶき、身に思うこと重なるころとはいえ、文学界中出色の文士、年齢は一の年少にして廿三とか聞けり。今の間に高等学校、大学校越ゆれば、学士の称号目の前にあり、彼れは行水ゆくみずの流れに落花しばらくの春とどむる人であろうといい、(親密々々)これは何の言葉であろうと言い、情に走り、情に酔う恋の中に身を投げいれる人々と、何気なくは書いているものの、けて風寒く、空には雲のただずまい、月の明暗する窓によりて、沈黙する禿木氏と、燈火ともしびの影によく語る孤蝶子との中にたって、茶菓さかを取まかなっていた女史の胸は、あやしくも動いたのであろう。
 此処へ川上眉山びざん氏がまた加わらなければならない。彼女は初めて逢った眉山氏をどう見たろうか、彼女はこう言っている。
年は廿七とか、たけ高く、女子の中にもかゝる美しき人はあまた見がたかるべし、物言ひ打笑うちえむとき頬のほどさと赤うなる。男には似合しからねど、すべて優形やさがたにのどやかなる人なり、かねて高名なる作家ともおぼえず心安げにおさなびたり。
とて、孤蝶子の美しさは秋の月、眉山君は春の花、えんなる姿は京の舞姫のようにて、柳橋やなぎばしの歌妓にもたとえられる孤蝶子とはうらうえだと評した。
 馬場氏の思いなげに振舞うのが、禿木の気を悪くするのであろうと、わびしげにも言っている。そして眉山氏も一葉党の一人になってしまった。禿木は孤蝶子との間に疑いを入れて、ねたましげでもあったであろう。それもそのはずで、
孤蝶子よりの便りこの月に入りて文三通、長きは巻紙六枚を重ねて二枚切手の大封おおふうじなり。
とある。同じ中に、
優なるは上田君ぞかし、これもこの頃打しきりてとひ来る。されどこの人は一景色ひとけしきことなり、よろずに学問のにほひある、洒落しゃらくのけはひなき人なれども青年の学生なればいとよしかし
とあるは、柳村、びん博士のことである。その他に一葉の周囲の男性は、戸川秋骨とがわしゅうこつ、島崎藤村、星野天知てんち、関如来にょらい正直正太夫しょうじきしょうだゆう、村上浪六なみろくの諸氏が足近かった。
 正太夫は緑雨りょくうの別号をもつ皮肉屋である。浪六はちぬの浦浪六と号して、撥鬢奴ばちびんやっこ小説で溜飲りゅういんを下げてしかも高名であった。渋仕立しぶじたての江戸っ子の皮肉屋と、伊達小袖だてこそでで寛濶の侠気を売物の浪六と、舞姫のように物優しい眉山との三巴みつどもえは、みんな彼女を握ろうとして、仕事を巧みすぎて失敗した。眉山はいて一葉の写真を手に入れたのちに、他から出たうわさのようにして、眉山一葉結婚云々と言触いいふらしたのでうとまれてしまった。
正太夫年齢は廿九、せ姿のめんやうすご味を帯びて、唯口許くちもとにいひ難き愛敬あいきょうあり、綿銘仙めんめいせんしまがらこまかきあわせ木綿もめんがすりの羽織は着たれどうらは定めし甲斐絹かいきなるべくや、声びくなれどすき通れるやうの細くすずしきにて、事理明白にものがたる。かつて浪六がいひつるごとく、かれは毒筆のみならず、誠に毒心を包蔵せるのなりといひしは実に当れることばなるべし
と評した斎藤緑雨を、そう言ったほど悪くはあしらいもしなかった。かえって二人は人が思うより気が合った。皮肉屋同士は会心の笑みをうかべあいもした。妻帯の事についてもかなり打明けて語りあっている。でありながら最後に(彼れの底の心は知らぬでもない)と冷たくあしらったのは、あまり正太夫が自分の筆になる鋭利な小説評が、その当時の文壇の勢力を左右した力をもって、折々何事にもあれ一葉の行方を差示さししめし顔に、その力量をほのめかして、感得させようとしたのから、反抗を買ってしまった。浪六にはその前年から頼んであった金策のことで、大晦日おおみそかの夜も待明まちあかしたのであったが、その年の五月一日になってもまだ絶えて音信をしなかったので、
誰もたれも言ひがひのなき人々かな、三十金五十金のはしたなるにそれをすらをしみて出し難しとや、さらば明かに調ととのへがたしといひたるぞよき、えせ男作りて、ひげかきそらせどあはれ見にくしや
[#ルビの「は」は底本では「ほ」]きだすように言われている。その他に樋口勘次郎は、身は厭世教を持したる教育者で、しかも不娶めとらず主義の主張者でありながら、おめもじの時より骨のなき身になったといって、
勿体なくも君を恋まつれる事幾十日、別紙御一覧の上は八つざきの刑にも処したまへ
とて熱書を寄せもした。されば、
にくからぬ人のみ多し、我れはさは誰と定めて恋渡るべき、一人のために死なば、恋しにしといふ名もたつべし、万人のために死ぬればいかならん、知人しるひとなしに、怪しうこと物にやいひ下されんぞそれもよしや。
と思慕の情を寄せてくれる人々に対して誠を語っている。とはいえ、それは思われるに対してである。物思う側の彼女をも、思われたただ一人の幸福者をもしるそう。

       四

 さても、さほどまでに多くの人々に懐かしまれた女史の、胸の隠処おくがに秘めた恋は、片恋であったであろうか、それともまた、互に口に出さずとも相恋の間柄であったであろうか。日記に見える女史の心は動揺している。すくなくとも八分の弱身はあったように見られる。はじめから女史はその人を恋人として見たのではない。最初は小説の原稿を見てもらうために、先生として逢い、同時に、原稿を金子きんすに代えることも頼んだのだ。その人の友達が一葉の友でもあったので、二人を紹介したのがはじめだった。ところが、その人は、友達のように親しく一葉に同情し、友達よりも深い信実心まごころを示した。いかほど用心深い性質さがでも、若い女には若い血潮が盛られている。十九の一葉はその人を心から兄と思い慕った。そしてその慕わしさは恋心となった。
「よもぎふ日記」二十六年四月六日の記に、
こぞの春は花のもとに至恋の人となり、ことしの春はうぐいすの音に至恋の人をなぐさむ。
    春やあらぬわが身ひとつは花鳥の
        あらぬ色音にまたなかれつゝ
とある末に、
もゝのさかりの人の名をおもひて、
    もゝの花さきてうつろふ池水の
        ふかくも君をしのぶころかな
とある。桃の花のうつらう水というのこそ、彼女の二なき恋人の名なのである。その人こそ現今いまも『朝日新聞』に世俗むきの小説を執筆し、歌沢うたざわ寅千代の夫君として、歌沢の小唄こうたを作りもされる桃水とうすい半井なからい氏のことである。
 半井氏を一葉はどれほど思っていたであろうか、そして半井氏は――
 昔時むかしは知らずやや老いての半井氏は、訪客の談話が彼女の名にうつると、迷惑そうな顔をされるということである。そして一ことも彼女については語らぬということである。関如来氏の談によれば、ある日朝から一葉が半井氏をたずねたことがある。彼女の声が、訪れたということを格子戸こうしどの外から告げられると、二階に執筆中の半井氏は不在るすだと言ってくれと関氏に頼んだ。関氏が階下へおりてゆくと、彼女は上って坐って待っていた。関氏は何時いつも彼女の家を絶えずおとずれる訪客の一人であって、いつも彼女に饗応きょうおうをうける側の人であったので、こういう時こそと、自らが主人気取りで、半井氏が留守ならばとしきりにいとまを告げようとする女史を引止めたうえに、すしなどまでとって歓待した。そしてひるごろまで語りあった。階上の半井氏は、時がたつにしたがって、階下に用事があるようになったが、さりとて留守と言わせたのでおりる事は出来ず、人を呼ぶことは出来ず、その上灰吹はいふきをポンとならして煙管キセルをはたくのが癖であることを、彼女がよく知っているので、そんな事にまで不自由を忍ばなければならなかったので、彼女が辞し去ったあとで、こんな事ならば逢って時間をつぶした方がよかったとつぶやいたということである。その一事ひとことをもってすべての推測を下すのではないが、憎くはないがこの女一人のためには、何もかも失ってもと思い込むほどの熱情は、なかったのであろう。その、どこやら物足らなさを、彼女の魂の中の暴君が、誇をきずつけられたように感じ、恋もし、慕いもしたが、また悔みもした。
 勝気の女はかなしかった。女人の誇りを、恋人の前でまで、赤裸せきらに投捨てられないものの恋は、かなしいが当然で、彼女は自ら火をけたほのおを、自らの冷たさをもって消そうと争った。
 彼女の恋愛記は成恋でもなければ勿論もちろん失恋でもない。恋というものに対して、自らの魂のなかで、冷熱相戦った手記であると同時に、肉体と霊魂との持久戦でもあった。彼女もまた旧道徳に従って、ひそかに恋に苦しむのを、恋愛の至上と思っていたらしい。
 彼女を恋に導いた友達――野々宮某女は、思いあがった彼女の誇りを利用して、巧みに離間しようとして成功した。とはいえ、その実それは、一葉自身の弱点でもあった。
 恋するものの女らしさ――私はそう思う時に女心の優しさにほほえまずにはいられない。それは彼女が初めて島田まげった時のことである。その日彼女が半井氏を訪れたのは、人の口に仇名あだながのぼり、あらぬ名をうたわれるのを憤って、暫時、絶交しようと思っての訪問であった。そうした日であるのに、珍らしくも一葉は島田髷の初結はつゆいをした。その日は二十五年六月二十五日のことである。
「しのぶぐさ日記」には、
梅雨つゆ降りつゞく頃はいとわびし、うしがもとにはいと子君伯母おば二処にしょ居たり、君は次の間の書室めきたるところに打ふし居たまへり。雨いたく降りこめばにや雨戸残りなくしめこめていとくらし、いと子君伯母なる人に向ひて、御覧ごろうぜよ樋口さまのおぐしのよきこと、島田は実によく似合給へりといへば、伯母君も実になり/\、うしろ向きて見せたまへ、まことに昔の御殿風と見えて品よき髷の形かな。我は今様いまようの根の下りたるはきらひなどいひ給ふ。半井君つとたちて、いざや美しうなりたまひし御姿みるに余りもさし込めたる事よとて、雨戸二、三枚引あく、口の悪き男かなとて人々笑ふ。我もほゝゑむものから、あの口より世になき事やいひふらしつると思ふにくらしさに、我しらずにらまへもしつべし。
とある。けれども、何のためにさまで憎く思ったかといえば、その前日、彼女が師の家にて同門の友達と雑談にふけったおり、誰彼のうわさに夜をふかすうちに、かしましきがつねとて、誰にはかかる醜行あり、彼れにはこうした汚行ありとあげつらうを聞いて、彼女はもう臥床ふしどに入ろうとした師歌子の枕もとへいって身の相談をしようとした。それは、それより前の日に、伊藤夏子という人が席を立って一葉をものかげに呼び、声をひそめて、
「貴女は世の中の義理の方が重いとお思いなさるか、それとも御家名の方がおしいと思いなさるか」
と聞かれたので、
「世の義理は重んじなければならないものだと私は思います。けれども家の名も惜くないことはありません。甲乙がないといいたいけれど、どうも私の心は家の方へ引かれがちです。何故なぜというのに、自分ばかりのことでなく、母もあれば兄妹きょうだいもあるので」
と答えた。
「では言わなければならないことでありますが、貴女は半井さんと交際を断つ訳にはいかないでしょうか」
といった。
 彼女は友の視線があまりまぶしいので、何事と知らねど胸の中にもののたたまるように思われた。
「妙なことを仰しゃるのね。それは何時いつぞやもおはなししたとおり、あの方はおとしも若いし、美しい御顔でもあるし私が行ったりするのは、はばからなけりゃなるまいと思っています。幾度交際を断とうと思ったかも知れはしません。けれど受けた恩義もあり、そうは出来かねているのよ、私というものの行いに、汚れのないのを御存知でありながら……」
と彼女はうらみもした。
「そりゃあ道理はそうですけれど――まあ訳はいずれ話しますが、どうしても交際が断てないというのならば、私でも疑うかもしれませんよ」
 そういって友は立別れた。一葉は、ふとその日のいぶかしい友の言葉を思い出したので、歌子によってその惑いを解いてもらおうとしたのであった。
「半井さんの事は先生がよく御承知であって、訪問をお止めにならないのを、何ぞ噂するのでございましょうか」
と歌子にたずねた。すると歌子の返事は、実に意外に彼女の耳に鳴り響いた。
「では、行末の約束を契ったのではないのか」と。
 彼女は仰天して、七年の年月を傍においた弟子の愚直な心を知らないのかと、うらみ泣いた。
「でも、半井氏という人は、お前は妻だといい触らしているというではないか。もし縁があってゆるしたのならば、他人がなんと言おうとも聞入れないがよい。もしそうでないのならば、交際しない方がよいだろう」
と歌子はさとした。それ故にこそ彼女は梅雨の日を訪ずれたのである。そして、絶交する人の目に、島田に結んだ姿を残そうとしたのである。
 愛するあまりに、妻とも言ったであろうかの恋人に、その故に絶交しなければならない彼女は、たった一月前には思う人の病を慰めるためにと、乏しい中から下谷の伊予紋いよもん(料理店)へよって、口取りをあつらえたり、本郷の藤村へ立寄ってむし菓子を買いととのえたりして訪れていた。ある時は、朝早くから訪れて午過ひるすぎまで目ざめぬ人を、雪の降る日の玄関わきの小座敷につくねんと、火桶ひおけもなくまちあかしていたこともあった。彼女が手伝って掃除そうじすると、まめやかな男主あるじは、手製のおしるこを彼女にと進めたりした。彼女はその日のことを記した末、
半井うしがもとをいでしは四時ころ成りけん、はく皚々がいがいたる雪中、りん/\たる寒気をおかして帰る。中々おもしろし、堀ばた通り九段のあたりふきかくる雪におもてむけがたくて頭巾ずきんの上に肩かけすつぽりとかぶりて、折ふしばかりさし出すもをかし、種々の感情胸にせまりて、雪の日といふ小説の一編あまばやの腹稿なる。
とある。恋に対して傲慢ごうまんであった彼女にも、こうした夢幻境もあった。恋という感想に、
我はじめよりかの人に心をゆるしたることもなく、はた恋しゆかしなどと思ひつることかけてもなかりき。さればこそあまたたびの対面に人げなき折々はそのことゝもなく打かすめてものいひかけられしこともありしが、知らず顔につれなうのみもてなしつるなり。さるを今しもかう無き名など世にうたはれてはじめて処せくなりぬるなん口惜くちおしとも口惜しかるべきは常なれど、心はあやしき物なりかし、この頃降りつゞく雨の夕べなどふと有し閑居のさま、しどけなき打とけたる姿などそこともなくおもかげに浮びて、の時はかくいひけり、この時はかう成りけん、さりし雪の日の参会の時手づから雑煮ぞうににて給はりし事、母様の土産にしたまへと、干魚の瓶漬送られしこと、我参る度々に嬉しげにもてなして帰らんといへば今しばし/\君様と一夕の物語には積日の苦をも忘るるものを、今三十分二十五分と時計打眺めながら引止められしことまして我ためにとて雑誌の創立に及ばれしことなどいへば更なり、久しうわずらひ給ひその後まだよわよわと悩ましげながら、夏子さま召上りものは何がお好きぞや、この頃の病のうち無聊ぶりょうたえがたくそれのみにて死ぬべかりしを朝な夕なに訪ひ給ひし御恩何にか比せん、御礼には山海の珍味も及ぶまじけれどとて、兄弟などのやうにの給ふ。我料理は甚だ得手なり殊に五もくずし調ずること得意なれば、近きに君様正客にしてこの御馳走ごちそう申すべしと約束したりき。さるにてもその手づからの調理ものは、いつのよいかにして賜はることを得べきなど思ひいづるまゝに有しこと恋しく、世の人のうらめしう、今より後の身心ぼそうなど取あつめて一つ涙ひぬものから、かく成行なりゆきしも誰ゆゑかは、その源はかの人みづから形もなき事まざ/\言触しうしたればこそ……
とあるが、その実は野々宮某という女友達の嫉妬しっとから言触らされたのを知らなかったのである。
 彼女は恋人から離れたと思い信じたが、彼女の心はそうゆかなかった。或時は、
吹風のたよりはきかじおぎの葉の
    みだれて物を思ふころかな
とまで思い乱れ、またある時は伯父おじの病床に侍して(かゝる時の折ふしにもなお彼の人を忘れ難きはなぞや)といい、ある時は用もなきに近きみちをえらんでゆき、その人の住む家の前を通りて見、その家の下女げじょ行逢ゆきあいて近状を聞き、(万感万嘆この夜ねむることかたし)と書いたのは、彼女の青春二十一歳のことであった。次の年の一月二十九日雪の降るのを見つつ、
わが思ひ、など降る雪のつもりけん
    つひにとくべき中にもあらぬを
と嘆き四月の雨の日の記には、
わが心より出たるかたちなればなどか忘れんとして忘るゝにかたき事やあると、ひたすら念じて忘れんとするほど、唯身にせまりくるがごとおもかげのまのあたりに見えて堪ゆべくもあらず、ふと打みじろげばかの薬の香のさとかをる心地して思ひやる心や常に行通ふとそゞろおそろしきまでおもひしみたる心なり、かの六条の御息所みやすどころのあさましさを思ふにげに偽りともいはれざりける。
    おもひやる心かよはゞみてもこん
        さてもやしばしなぐさめぬべく

    恋は、
見ても聞きてもふと思ひむるはじめいと浅し、
いはでおもふいと浅し、
これよりもおもひかれよりも思はれぬるいと浅し、
これを大方おおかたのよに恋の成就じょうじゅとやいふならん、あいそめてうたがふいと浅し、
わすられてうらむいと浅し、
逢んことは願はねど相思はん事を願ふいと浅し、
名取川なとりがわ瀬々のうもれ木あらはればと人のため我ためををしむたぐひ、うきに過たる年月のいつぞは打とけてとはかなきをかぞへ、心はかしこに通ふものか、身は引離れてことさまになりゆく、さては操を守りて百年ももとせいたづらぶしのたぐひ、いづれか哀れならざるべき、されど恋に酔ひ恋に狂ひ、この恋の夢さめざらんなかなかこの夢のうちに死なんとぞ願ふめる、おもへば浅きことなり――誠入立いりたちぬる恋のおくに何物かあるべきもしありといはゞみぐるしく、憎く、憂く、つらく、浅間しく、かなしく、さびしく、恨めしく取つめていはんにはいとわしきものよりほかあらんともおぼえず、あはれその厭ふ恋こそ恋の奥なりけれ……
 彼女の恋の信仰は頑固であった。彼女は何処までも人生のほろにがさを好んだ。
 暖かくかなしい心持をいだいて帰った雪の途中で出来上った小説「雪の日」は、その翌年に発表された。十六になる薄井うすいの一人娘おたまが、桂木かつらぎ一郎という教師と家出をしたというのが筋である。「なかだちは過し雪の日ぞかし」ともあれば「かくまでに師は恋しかりしかど、ゆめさらこの人を夫と呼びて、ともに他郷の地をふまんとは、かけても思ひよらざりしを、行方なしや迷ひ……窓の呉竹くれたけふる雪に心下折したおれて、我も人も、罪は誠の罪になりぬ」
とある。言わずともわが身――世馴よなれぬ無垢むく乙女おとめなればこうもなろうかと、彼女自身がそうもなりかねぬ心のうちを書いて見たものと見ることが出来よう。

 彼女は恋に破れても名には勝った。困窮はたえ忍び得たが病苦には打敗うちまけてしまった。彼女の生存の末期は作品の全盛時にむかっていた。『国民の友』の春季附録には、江見水蔭えみすいいん星野天知ほしのてんち後藤宙外ごとうちゅうがい、泉鏡花に加えて彼女の「別れみち」が出た。評家は口をそろえて彼女をたたえた。世人はそれを「道成寺どうじょうじ」に見たて、彼女を白拍子しらびょうし一葉とし、他のものを同宿坊と言伝えたほどであった。それは二十九年一月のことである。その年の四月には咽喉のどれ、七月初旬には日々卅九度の熱となった。山竜堂さんりゅうどう樫村かしむら博士も、青山博士も医療は無効だと断言した。十一月の三日ごろから逆上のぼせのために耳が遠くなってしまった。そして二十三日午前に逝去せいきょした。かつて知人の死去のおりに持参する香奠こうでんがないとて、
我こそは達磨だるま大師になりにけれとぶらはんにもあしなしにして
といい、また他行のため洗張あらいはりさせし衣を縫うに、はぎものに午前だけかかり、下まえのえり五つ、そでに二つはぐとて、
宮城みやぎのにあらぬものからから衣なども木萩こはぎのしげきなるらん
恬然てんぜんと一笑した人の墓石は、現今も築地つきじ本願寺の墓地にある。その石の墓よりも永久に残るのは、短い五年間に書残していった千古不滅の、あの名作名篇の幾つかである。
――大正七年六月――


昭和十年末日附記 随筆集『筆のまに/\』は、佐佐木竹柏園ちくはくえん先生御夫妻の共著だが、その一二五頁「思ひ出づるまに/\」大正七年六月の一節に「自分がいつか夏目漱石さんの所へ遊びに行って昔話などをした時、夏目さんが、自分の父と一葉さんの父とは親しい間柄で、一葉さんは幼い時に兄の許嫁いいなずけのようになっていた事もあったと言われた。明治の二大文豪の間に、さる因縁があったとは面白いことである」とあった。





底本:「新編 近代美人伝(上)」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年11月18日第1刷発行
   2001(平成13)年7月9日第5刷発行
底本の親本:「近代美人伝」サイレン社
   1936(昭和11)年発行
初出:「婦人画報」
   1918(大正7)年6〜8、10月
入力:小林繁雄
校正:門田裕志
2006年1月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について