三十五氏

長谷川時雨




 直木さん、いつまでも、三十一、三十二、三十三、三十四とするのときいたら、うんといつた。でも、三十五氏はまだいいが、三十六みそろく、三十しち、三十はち、それから三十はをかしい。みそくふなんて味噌ばかりつけるやうで、まだ三十五氏みそこしの方が好いと言つたら、例の、毛の薄い頭の地まで赤くして顎を撫でながら、ふふ、ふふ、ふふと笑つた。あの人物ひとが赤面するなぞとは、ちよつと思へないであらうが、あんなに顏を赤らめる人はなかつた。だが、顎をささへて、輕く首を左右へ動かすか、または輕くうなづく時は機嫌がいいのらしかつた。
 逼塞ひつそく時代の寒い日のある夕方、羽織の下に褞袍どてらを着て、無帽で麹町通りの電車停留場に立つてゐたとき、頭の毛が寒風にそよいでゐた細い、丈の高い姿や、小意氣な浴衣の腕まくりをして、細い脛を出して安坐で話しながら、懷から取出すところの金入れといへば、四六版の本ならスポリとはひつてしまつて、まだ餘りがありさうなほど大きな、しかもいつでもぺかぺかに薄つぺらなのを出し入れするのでつひ笑つたら、これへ一ぱいに入れようと思つてゐるのだと、自分でもをかしいらしいのを妙に眞劍に言つてゐたのが、思ひ出される。
 震災後、大阪のプラトン社に居たころ、三上の用事でたづねていつたら、あの下駄の音ではきもをひやす。あれをきくとかう體が縮んでしまふのだと、本當に肩をすくめ、頭を抱へて小さくなつてゐた。それはなんのことかと思つたらば、京都にとまつてゐた私は、出がけに小雨に降られたので、宿の人の親切から、京阪出來の中齒の下駄を穿はかしてくれたのだつた。プラトン社は社長令夫人の父君の隱宅を使つてゐたので、入口が大阪によくある花崗石の敷詰めてある露路だつた。そこを私はからからと下駄の音をたてて訪ねていつたのだつたが、あにはからんや、大阪の花柳地の女――お勘定をとりにくる女は、雨が降らなくつても穿いてゐるのがその日和下駄だつたといふのだ。それは傍らから故小山内薫氏が説明した。直木氏は、僕はその下駄の音に惱まされてやせるといつた。その時も赤くなつてゐた。
 あの痩てゐる人が、とてもでつかい、角力さんのやうな大きな、赤い派手な座ぶとんを敷くのが好きなやうだつた。もひとつ、でかでかだつたのは去年の夏、紀尾井町の家で見た三面鏡の鏡臺、これは私の知つてるかぎり、どの役者の樂屋用のよりも大きかつた。
 震災の時、直木氏の家は燒け、三上の家は半破はんこはれだつたが、その半破れの家の門内から、邸町の警護に出るところの彼は、痩身長躯に朱鞘しゆざやの一刀、三上は洋服に大だんびらで、しかも誠に無能な二人であつた事を思出さずに居られない。そんなこんなが底にあるものだから、ある時、直木氏がずつとえらくなつてから、この人これで仲々えらいと、みんなの前でいつてしまつたら、苦笑もせず、なかなかこれで傑いか? と繰返してつぶやくやうに言つてゐた。
 それはいいが、去冬逢つた時に、突然と、新聞に廣告したのだが、家政婦がたつた一人しか來てくれないとこぼした。私はうくわつにも、直木氏の周圍が淋しくなつてゐる家庭の事情を忘れて、しかも金澤の家からは自働車で一時間でこられるといふので、病苦がそれほどつのつてゐるとは思はず、自業自得といつてしまつた。その時、みよりの者にでも叱られたやうに、さびしげにやさしく、だまつてうなづいたのを、私は大變痛くこたへた。ふふ、と笑へないものがあつたのだらうと思へばいたましくてならない。
 それとも一ツは、中本たか子が松澤病院から、木挽町の文藝春秋倶樂部の下座敷に、菊池さんに引とられたときに、直木氏は倶樂部の三階に寢とまりしてゐたが、僕は怖くつて怖くつてたまらないのだ、夜中に出齒庖丁はうちやうでももつて、たか子が上つて來はしないかと思ふと、眠れないのだ。と戯言のやうにいつたのを、あの時分、もうよほど衰弱してゐたのだらう。あれは、ほんとのことを言つたのであらう、と、今になつて、直木氏の斷りもいへなかつた善良な、氣の弱さの一面を思出す。
(昭和九年四月 衆文)





底本:「草魚」サイレン社
   1935(昭和10)年7月12日初版発行
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2003年8月8日作成
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