平塚明子(らいてう)

長谷川時雨




       一

 らいてうさま、
 このほどお体は如何いかがで御座いますか。さわやかな朝風に吹かれるといかにもすがすがしくて、今日こそ、何もかもしてしまおうと、日頃のおこたりを責められながら、私は、貧乏な財袋さいふよりもなお乏しい頭の濫費をしつつ無為な日を送っております。
 御あたりはお静かでございますか。田舎いなかでの御生活は、どこやら不如意ふにょいなようでいて、充実されたものであろうと、おうらやましくぞんじます。あなたのお体にもよし、御家庭にもしみじみとした味の出た事と存じます。お子さまがたは、御自分たちのお母さまとして、日夜おそばに親しむことのお出来になるのを、どんなに現わし得ない感謝をもって、およろこびなされている事かと、あたくしでさえ嬉しい心地がいたします。そして風物は悠々ゆうゆうとして、あなたの御健康をよみがえらせていることとぞんじます。

       二

 らいてうさま、
 那須野なすのを吹く風は、どんな色でございましょう。玉藻たまもまえの伝説などからは紫っぽい暗示をうけますが、わたくしの知る那須野の野の風は白うございます。冬など、ふと灰色がかるようにも感じられますが、わたくしには何となく白いように思われます。その白さも、薔薇ばらホワイトではなくて、白夜、白雨といった感じ、夏らしい清新の感がともなっております。
 わたくしは那須野をよく知りません。奥州おうしゅうへ行ったおり、時折通りすぎた汽車の窓からあかず眺めて通ったところで御座います。あの広々した野を見ると、せせこましい、感情にのみとらわれている自分から解きほどかれて、自由な、伸々のびのびした、空飛ぶ鳥のような勇躍をおぼえました。わたくしは山は眺めるのを好みます。海の眺めも好きです。が、野の景色ほどしみじみと好きなものはございません。あかず行く雲のはてを眺め、野川の細流せせらぎのむせぶ音を聞き、すこしばかりの森や林に、風の叫びをしり、草のそよぎに、時の動きゆく姿を見ることが望みでございます。むさしのに生れて、むさしのを知らぬあこがれが、わたくしの血の底を流れているのでございましょう。
 いま、わたくしの目の前、小さな窓も青葉で一ぱいで御座います。思いは遠く走って、那須野の、一望に青んだ畑や、目路めじのはての、村落をかこむ森の色を思いうかべます。御住居おすまいは、夏の風が青く吹き通していることと思います。白い細かい花がこぼれておりましょう。うつ、こてまり、もち、野茨のいばら――栗の葉も白い葉裏をひるがえしておりましょう。塩原へ行く道を通っただけの記憶でも、那須は栗の沢山あるところだと思いました。小さな、一尺二、三寸の木のたけで、ほんの芽えなのに青い栗毬いがをつけていたことを思い出します。
 昨夜は、もう入梅であろうに十五日の月影が、まどかに、白々と澄んでおりました。夏の月影の親しみぶかさ――そんなことを思いながら眺めておりました。そちらの月の夜は、夜鳥よどりもさぞ鳴きすぎることでございましょう。月明つきあかりに、夜空に流れる雲のたたずまいもさぞ眺められることで御座いましょう。そして静寂な中に、ともしびをかこんで、お子様がたのおだやかな寝息に頭をまわしながら、静かに、あなたがたは何をお読みになっていらっしゃるか、何をお思いになっておいでであろうか、または、何についてお談話はなしをなされてであったろうかと、ふと何ともいえぬなつかしみがき上りました。
 らいてうさま、あなたのお健康からだは、都門ともんを離れたお住居すまいを、よぎなくしたでございましょうが、激しい御理想に対してその欲求おのぞみが、時折何ものも焼尽やきつくす火のように燃え上るおりがございましょう。けれどもまた、長い御一生に――あなたばかりでなく、お子様がたにも――おだやかな、滋味のしたたるような今の御生活が、しみじみと思い出されるおりがあろうと思いますと、只今ただいまの楽しいお団欒まどいが、尽きない尽きない、幸福の泉のつぼであるようにと祈られます。

       三

 らいてうさま、
 時折来訪される人で、あなたをよく知らないで嫌いだといって、あなたの事といえばよく聞きもしないで悪くキメつけるおじいさんが御座います、紅蓮洞ぐれんどうという人です。その実その人は、決してあなたが嫌いなのではないので御座います。その人として嫌いなはずがないので御座います。奇人ゆえ、ふとした事から嫌いにしてしまうと、もう取返しがつかなくなって、しつこいほど意地わるく悪口をするので御座います。けれどわたくしはその人がひそかにあなたには敬意をもっていることを知っています。奇人にはちがいありませんが、洒脱しゃだつ飄逸ひょういつなところのない今様いまよう仙人ゆえ、讃美するまとはずれて、妙にぐれてしまったのだと思います。そのくせその人が好意を示しているもので、あんまり感心した女はないのです。そして好意を持ちながら侮蔑ぶべつしきっているのです。
 それとは事かわりますが、世の中には、めたいのだが、他人があんまり感心するから嫌だといったふうな旋毛曲つむじまがりがかなりにあります。口に新時代の女性を謳歌おうかしながら、趣味としては、義太夫節などにある、身を売って夫を養う妻を理想として矛盾を感じない男もあります。
 近代生活思潮に刺戟しげきをうけながらも、その不安をごまかして、与えられる物質だけに満足して、ものうい日々をおくるのを、高等な生活のように思いこんだ婦人たちは、あなたが新しい女と目されて、社会の耳目を※(「奇+支」、第4水準2-13-65)そばだたせたおりに――無気力無抵抗につくりあげられた因習のからを切り裂いて、多くの女性を桎梏しっこくおりから引出そうとしたけなげなあなたを、男が悪口する以上な憎悪ぞうおの目をもって眺めさげすみました。知識階級にある男たちまでがい気になってあなたの恋愛――他人に何らの容喙ようかいをも許されないことにまで立入って、はずかしげもなくあげつらい得々とくとくとしていました。しかしそれは日本人の癖で、ちょっと他の者が答えかねる事を――いやしさを、口にするのが、妙な風に感心させようとする手段で、他をはずかしめると共に自らを低くする事に平気なのです。無神経なのです。それをまた得々として雷同するものが多いのはなさけないことです。
 あなたはそうした意味であらゆる人の、口のにおかかりでした。けれど、んな、やっぱりその内心は、今様仙人とおなじ型だったのです。
 あなたはほんとによくお働きでした。あれではとてもたまりません、『青鞜せいとう』時代――「新婦人協会」時代――その間に御自分だけの生活としても、かなり複雑な――あなたの恋愛、母親となったあなた、それは一つひとつにはなすことの出来ない、あなたの思想と密接な関係のあったものとはいえ、時代にさきだって事にあたったあなたには、どの一つでも勇気と自信のいることでした。あなたのなさった事がみんな無意味でなく、空論ではありませんでした。
 もともと仙人とは空気を食べてたふうのものでしょうから、今様仙人が空論を吐くのは、ゆるすとして、その他の人が口だけで、とやかくさげすむのを憎みます。このごろ、あなたがしょうにあたっておいででないという事が、新婦人協会の内部うちわもめをおこしたというのを聞き、今更と思う思いがいたしました。

       四

 らいてうさま、
 昨年、一昨年、一般社会に普選ということが問題とされかまびすしかったおり、あなたもまた、婦人参政権を求め、婦人もまた一個の人間としての扱いを要求し、めざましい御活動で、各地を遊歴なさいましたその折にも、例の京童きょうわらんべは、あなたのあれが商売だともうしました。商売とは、昔者むかしものの言葉でいえば、世渡りの綱で、心にもない事も言って生活のしろを得る――というふうに、そうした言葉で、その折にもそうした意味に用いられました。
 わたくしはかなりの憤おりを感じました。親譲りの財産でもないかぎり、またありあまった収入の道があって体が暇な人がするお道楽なら知らず、食べないで働けるものではありません。昔の高僧とよばれる人でさえ、人間を救いながら喜捨きしゃはうけていました。与えられた食物をかてにして救いました。それがすこしも賤しい事でも何でもありません、立派な生活です。一本の敷島しきしまを煙にしてもそれだけの失費があり、自分の足で歩くのだといばっても、跣足はだしではあるけない世の中に衣食するものが、得るものがなくてなんで過してゆけましょう。ましてその人は、洋画家の収入の僅少きんしょうなのを知っているのです。それに幼少な子たちさえおありになるあなたの御家庭が、なかなかついえのある事を思わず、またそうした苦悩をしのんでも、志した道に精進して、婦人の覚醒かくせいに力をつくされる、社会的な、広義な愛を――新人の味わう悲痛を知ろうとしないのに、憎らしささえ覚えました。
 らいてうさま。あなたは、言うにいえない、人知れぬ苦い涙を、幾度おあじわいなさいましたろうとおいとしく思います。あなたは、優しい夫君、いとしいお子たちに取りまかれて、静かに出来るだけの日を静養なさいまし。そして心身ともに以前に倍しておすこやかになり、ともすれば懶惰らんだに、億劫おっくうになりがちなわたしたちのために、発奮させる原素となって下さいまし。

       五

 らいてうさま、
 わたくしはもう「煤烟ばいえん」を読んだおりの感想を思い出すことが出来ません。たしか寒い、雪の中を、あなたが気強さを守り通して、一人で山の方へ立っておしまいなさったということをおぼえておるだけです。そのうち、「煤烟」の作者を、ずっと後に見かけた事があります。大柄な、ふとった、近眼鏡をかけた色の白い、髪を短くかった方でした。以前からお連添つれそいになっている藤間勘次さんが、藤間静枝の「藤蔭会とういんかい」の第一回に出られた時のことで、日本橋の常盤ときわ倶楽部で御座いました。その折にわたくしは何故となく「煤烟」は男の方から見ただけで書いたものだという気持がしました。その後、『青鞜』から尾竹紅吉さんの『サフラン』が生れ、『青鞜』が伊藤野枝いとうのえさんのお手に移ってやめられてから、『青鞜』の第二世という『ビアトリス』があらたに生れ、そしてその同人山田田鶴子やまだたずこさんに時折お目にかかる機会が来たときに、山田さんから伺ったはなしでは「煤烟」の作者は、幾度「煤烟」をくりかえそうとなすっているかと、ほほえまれるので御座いました。
 あの事件――あなたのお名がわたくしにも親しみ深くなったおり、あなたの処女作でおありだろうと思う、たしか二場ばかりの脚本を載せた小さな雑誌の寄贈をうけたことがありましたが、「煤烟」の中のあなたらしい女性をとりあつかった題材で、脚本そのものは、平ったくもうせば、よかったとはもうせませんが、わたくしは大変興味をもって読みました。そのまたあなたが禅をお学びだということもそのうち承わりました。
 いつぞや有楽座で、チェホフの「叔父おじワーニャ」を素人しろうとの劇団の方たちが演じたおり、奥村さんがギターをく役をなさった事がありました。あの節お招きを頂きながら田端たばたのアトリエへうかがわなかったのを、いまでも大層残念に思っております。お宅が芝居のおけいこばになっているから見に来てくれるようにとおことづてのあったおり、わたくしは何ともいえぬ和気藹々わきあいあいとしたものを感じました。わたくしもあなたがたを取巻く劇中の一人のはやくになって、田端の画室のかりけいこ場へ登場して、御家庭にも親しんでみたいと思っておりましたが、なかなか家を出ないのがわたくしの癖で、そうしなければと思っているうちが、何んでも一番心持が緊張している時で、さあという段になると気が重くなるのがわたくしの悪い習慣なのでございます。
 あなたをぜひ美人伝に入れなくてはならない方だと、わたくしがいったのを、人づてにお聞きになって「どうぞお書き下さい。だが、どんな風にお書きになるでしょう」と仰しゃったというおことづてを伺ったのも、もう三年も前になります。どんなふうにといって、あなたは単に美人伝ばかりの人ではありませんから、わたくしは、あっさりと、あなたのお名を加えて自分の満足だけに致すのです。貴女の伝記は、思想家として――近代女性の母としてあるべきです。
 あなたというお方は、気持の優しい方だと思います。知らない方は、あなたをまるで違ったふうに思っているでしょうと思います。女丈夫だから、若く、ねんごろにつかえる夫を持ったなどと推測にすぎることを言って平気なものもありますが、それは大変あやまった事で、あなたほどの方が夫から敬されたのはあたり前です。それ以上の親しみと愛が、そんな事を包んでしまうのを知らないのです。妻というものは台所の俎板まないたと同様、または雑巾ぞうきんぐらいに見てよいものだといってはばからないものがあることゆえ、妻の偉さを知っているものを白眼で見て、うらやましさから起る嫉妬しっとにしか過ぎません。なんであなたほどのかたが、妻におもねり、機嫌ばかり取っているような、そんな男を男と見ましょうか、伴侶はんりょとして選みましょうか。見せかけだけでしか標準をさだめ得ない、世の中の軽薄さを思わせられます。
 田村俊子さんがおかきになった日記の中で、読んだことがあります。みじかい文のなかに、あなたという方がくっきりと浮いて見えたのをおぼえております。見つけだしましたから書いて見ましょう。

十一月廿四日、夕方平塚さんが見える。今日は黒い眼鏡がないので顔の上から受ける感じが明るい。話をしている間に深味のあるはりをもった眼が幾度も涙でいっぱいになる。この人を見ると、身体じゅうが熱に燃えている、手をふれたら焦げただらされそうな感じがするでしょう、とある人のいった事を思いだす。厚い口尻に深いくぼみを刻みつけて、真っ白な象牙ぞうげのような腕を袖口から出しながら、手をあごのあたりまで持っていって笑うとき、ちょっと引き入れられる。私はこの人の声も好きだ。

 わたくしはあなたのお顔を、天平てんぴょう時代の豊頬ほうきょうな、輪廓のただしい美に、近代的知識と、情熱に輝きもえひとみを入れたようだとつねにもうしておりました。
 らいてうさま、
 あなたがれそぼちて、音楽会の切符を持ち廻られたり、劇場と特約した切符を売ったり、なれない場処で、芝居の座席の割りつけに苦心してお出でなさるのを見るのはお気の毒のようにさえ思いおりました。くれぐれも只今の御生活を、お身体からだの滋養となさって、御休養を切に祈ります。これからの激しい世波よなみを乗り越すには、気力も、体力も、智力の下に見る事は出来まいと思います。御自愛なさいまし、らいてうさま。
――大正十二年七月――

附記 明治四十四年十月、平塚らいてう(明子)さんによって『青鞜』が生れたのは、劃期的な――女性覚醒かくせい黎明れいめいの暁鐘であった。このブリュー・ストッキングを標榜ひょうぼうした新人の一団は、女性擾頭たいとうの導火線となったのだった。
『青鞜』創刊の辞に、
原始、女性は太陽であった。真正の人であった。
今、女性は月である。他にって生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白あおじろい顔の月である。
さてここに『青鞜』は初声うぶごえを上げた。
現代の日本の女性の頭脳と手によって始めて出来た『青鞜』は初声を上げた。
女性のなすことは今はただあざけりの笑を招くばかりである。
私はよく知っている、嘲りの下に隠れた或ものを。
そして私は恐れない。
(中略)
――私どもは隠されたる我が太陽を今や取戻さねばならぬ。
わたくしは新らしい女である。わたくしは太陽であると、らいてうさんは叫んだ。
「新らしい女」という名が、讃美、感嘆、中傷、侮辱、揶揄やゆと入り交って、最初は青鞜社員から社友に、それからは一般の進歩的婦人の上にふりそそがれた。
『青鞜』は最初、社会的に全然地位も自由ももたない婦人たちが、文芸を通じて心の世界に自由を求め、そこに自分の生命を見出そうと、中野初子なかのはつこ(日本女子大学国文科出身)木内錠子きうちていこ(同)保持研子やすもちよしこ(同)物集和子もずめかずこ(夏目漱石門人・物集博士令嬢)平塚明子ひらつかはるこ(日本女子大学家政科出身)の五人の発起だった。
 この人たちの勇気と決心は、婦人解放運動の炬火きょかとなったのだ。
『青鞜』の編輯は、最終のころは、伊藤野枝さんにかわっていた。野枝さんは後に大杉栄おおすぎさかえ氏夫人となって、震災のおり×されてしまった。
この附記は、らいてうさんの出発点をよく知らぬ人のために、蛇足だそくかもしれぬがしるしておく。





底本:「新編 近代美人伝(上)」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年11月18日第1刷発行
   1993(平成5)年8月18日第4刷発行
底本の親本:「近代美人伝」サイレン社
   1936(昭和11)年2月発行
初出:「婦人画報」
   1922(大正11)年9月
※編集部の付けた註は除きました。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2007年4月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について