ものの真相はなかなか小さな虫の生活でさえ
微妙な心の動きは、わが心の姿さえ、動揺のしやすくて、
火の国
子さんは、故伯爵
実家だと思っていたほど、可愛がられて育った、
芸術の神は
だが、子さんは明治四十四年の春、廿七歳のとき、伯爵母堂とともに別居していた麻布
人身売買と、
だが、そのままでは、子さんはありふれた家庭悲劇の女主人公になってしまう。甘んじて強いられた犠牲となったのかどうか。それは彼女の後日が生きて語ったではないか。
この手紙は今年の春(大正十一年)中野の隠れ
只今お手紙ありがたく拝見いたしました。実はわたくし、二、三日前からすこし気分がすぐれませんので床 についております。急に脈がむやみと多くなって、頭がいやあな気持ちになる、なんとも名のつけられない病気が時たま起りますので。でも今日は大分 よろしゅう御座いますから、早速御返事申上げて置こうと、床の中での乱筆よろしく御判読願い上げます。(中略)仰せの通り世間のとかくの噂 の中にはずい分、いやなと思う事もないでも御座いませんけど、これも致方 がないなり行きだと、今までもあまり気にかけたことも御座いません。
私信の一部を公にしては悪いが、わたしの筆に幾万言をいつぞや
「別府 には さまの御別荘がおありですから、それはよろしう御座いますの。随分前から御一緒に行くお約束になっていて、やっと参りましたのよ。伊藤さんがお迎えながらいらっしゃるはずでしたところ、風邪 をおひきになったって電報が来たものですから、さまは急いでお帰りになりましたの。だから残念でしたわ。」
語る人のあでやかな
白蓮さんは伝右衛門氏のことを、此方 が、此方がといわれるので、何となく御主人へ対して気の毒な気がして返事がしにくかった。それに、あの人の歌は、どこまでが芸術で、どこまでが生活なのか――あの生活が嫌 なのだとはどうしても思われない。
手紙のことといい、武子さんの話の断片といい、この歌の評といい、突然なので、知らない読者には解しかねるであろうが、この間には、例の白蓮女史この結婚は、無理だというのが公評になっていた。作品を通して眺めた夫人は、キリスト教徒のためされた、踏絵や、火刑よりも苦しい
――これは前のつづきではない。前章は、大正十一年の二月に書いたのだが、その続きがどうしても見当らない、図書館にも幾度かいって探してもらったが、続きの
こんなこととは、子さんの兄さんの柳原伯が、わたくしの母をわざわざ横浜の手前の
「お困りだそうだから――」
わたしはただ笑った。ありとある新聞が、徹底的に書きつくしたのに、今になってと。だが、その、今になってが困るのかなと思った。だが、母の弱さにも
白蓮さんを見たのは、歌集『踏絵』が出て、
「白蓮」は藤原氏の娘なり「王政ふたたびかへりて十八」の秋、ひむがしの都に生れ、今は遠く筑紫 の果 にあり。――半生漸 くすぎてかへり見る一生の「白き道」に咲き出でし心の花、花としいはばなほあだにぞすぎむ。――さはれ、その夢と悩みと憂愁と沈思とのこもりてなりしこの三百余首を貫ける、深刻にかつ沈痛なる歌風の個性にいたりては、まさしく作者の独創といふべく、この点において、作者はまたく明治大正の女歌人にして、またあくまでも白蓮その人なり。ここにおいてか、紫のゆかりふかき身をもて西の国にあなる藤原氏の一女を、わが『踏絵』の作者白蓮として見ることは、われらの喜びとするところなり。
こういう書きかたであって、しかも『踏絵』が次に示すような、哀愁をおびた、
だが、わたしは、そのおりの印象を、ふらんすの貴婦人のように、
たしかに、わたしは『踏絵』のうたと序文によっぱらいすぎてはいたが、昔ならば、
われは此処 に神はいづくにましますや星のまたたき寂しき夜なり
われといふ小さきものを天地 の中に生みける不可思議おもふ
踏絵もてためさるる日の来 しごとも歌反故 いだき立てる火の前
吾 は知る強き百千 の恋ゆゑに百千の敵は嬉しきものと
天地 の一大事なりわが胸の秘密の扉 誰 か開きぬ
わが魂 は吾 に背 きて面 見せず昨日 も今日も寂しき日かな
骨肉 は父と母とにまかせ来ぬわが魂 よ誰れにかへさむ
追憶の帳 のかげにまぼろしの人ふと入れて今日もながむる
船ゆけば一筋白き道のあり吾 には続く悲しびのあと
誰 か似る鳴けようたへとあやさるる緋房 の籠 の美しき鳥
われといふ小さきものを
踏絵もてためさるる日の
わが
追憶の
船ゆけば一筋白き道のあり
歌集のようになるが、もう二、三首ひきたい。
わが足は
毒の香たきて静かに眠らばや小がめの花のくづるる夕べ
おとなしく身をまかせつる
殉教者の如くに清く美しく君に死なばや白百合の
昔より
息絶ゆるその
三十三歳の豊麗な、
だが、その時でも、どこまであの生活がいやなのか、あの歌のどこまでが真実なのかといったのは、彼女をよく知っていた人だと私は前にもいったが――
大正十年十月廿二日の、『東京朝日新聞』朝刊の社会面をひらくと、白蓮女史
その記事によると、十月二十日午前九時三十分の特急列車で、福岡へかえる伝右衛門氏を東京駅へ見送りにいったまま、白蓮女史は旅館、日本橋の
次の日、廿三日の朝刊社会面には、伝右衛門氏へあてた、子さんからの最後の手紙――絶縁状が出た。全文を引かせてもらうと、
私は今貴方 の妻として最後の手紙を差上げます。
今私がこの手紙を差上げるということは貴方にとって、突然であるかもしれませんが私としては当然の結果に外ならないので御座います。貴方と私との結婚当初から今日までを回顧して私は今最善の理性と勇気との命ずる処に従ってこの道を取るに至ったので御座います。御承知の通り結婚当初から貴方と私との間には全く愛と理解とを欠いていました、この因襲的結婚に私が屈従したのは私の周囲の結婚に対する無理解とそして私の弱少の結果で御座いました。しかし私は愚 にもこの結婚を有意義ならしめ出来得る限り愛と力とをこの中に見出して行きたいと期待し、かつ努力しようと決心しました。私が儚 ない期待を抱いて東京から九州へ参りましてから今はもう十年になりますがその間の私の生活はただ遣瀬 ない涙を以ておおわれました。私の期待は凡 て裏切られ私の努力は凡て水泡に帰しました。貴方の家庭は私の全く予期しない複雑なものでありました。私はここにくどくどしくは申しませんが、貴方に仕えている多くの女性の中には貴方との間に単なる主従関係のみが存在するとは思われないものもあります、貴方の家庭で主婦の実権を全く他の女性に奪われていたこともありました。それも貴方の御意志であった事は勿論 です。私はこの意外な家庭の空気に驚いたものです。こういう状態において貴方と私との間に真の愛や理解が育 まれようはずがありません。私はこれらの事についてしばしば漏らした不平や反抗に対して貴方はあるいは離別するとか里方 に預けるとか申されて実に冷酷な態度を取られた事をお忘れにはなりますまい。またかなり複雑な家庭が生む様々な出来事に対しても、常に貴方の愛はなく従って妻としての価 を認められない私はどんなに頼り少く淋しい日を送ったかはよもや御承知なきはずはないと存じます。
私は折々我身の不幸を果敢 なんで死を考えた事もありました。しかし私は出来得る限り苦悩を、憂愁を抑 えて今日まで参りました。この不遇なる運命を慰めるものは、唯 歌と詩とのみでありました。愛なき結婚が生んだこの不遇と、この不遇から受けた痛手 から私の生涯は所詮 暗い帳 の中に終るものだと諦 めた事もありました。しかし幸 にして私には一人の愛する人が与えられて私はその愛によって今復活しようとしているのであります。このままにして置いては貴方に対して罪ならぬ罪を犯すことになることを怖 れます。もはや今日は私の良心の命ずるままに不自然なる既往の生活を根本的に改造すべき時機に臨みました。虚偽を去り真実につくの時がまいりました。依 ってこの手紙により私は金力 を以って女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別 を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を護 りかつ培 うために貴方の許 を離れます。永い間私を御養育下された御配慮に対しては厚く御礼を申上げます。
二伸、私の宝石類を書留郵便で返送致します。衣類などは照山 支配人への手紙に同封しました目録通り、凡 てそれぞれに分け与えて下さいまし。私の実印は御送り致しませんが、もし私の名義となっているものがありましたらその名義変更のためには何時 でも捺印 致します。
今私がこの手紙を差上げるということは貴方にとって、突然であるかもしれませんが私としては当然の結果に外ならないので御座います。貴方と私との結婚当初から今日までを回顧して私は今最善の理性と勇気との命ずる処に従ってこの道を取るに至ったので御座います。御承知の通り結婚当初から貴方と私との間には全く愛と理解とを欠いていました、この因襲的結婚に私が屈従したのは私の周囲の結婚に対する無理解とそして私の弱少の結果で御座いました。しかし私は
私は折々我身の不幸を
二伸、私の宝石類を書留郵便で返送致します。衣類などは
十月廿一日
子
伊藤伝右衛門様
この手紙が出るまでもなく、前日の家出だけでも、事件はお
おなじ廿三日の、おなじ欄に、伝右衛門氏の九州福岡での談話が載った――
「天才的の妻を理解していた」という見出しで、
勿論、
それは柳原さんや、
私は田舎者の無教育ですから、子が住んでいる文学の世界などは毛頭知りません。だからその点遠慮して、どんな事をしようが、何一ツ
「忘れがたき別府の
雑誌『解放』は、吉野博士を中心にして、帝大法科新人会の人たちが
この事件についての、世間の反響の一部分を、おなじ新聞からとってみると、廿三日のに、九大の
上京前に訪問したら、涙ぐんで、めいりこんでいて「伊藤が愛がないのでさびしくてしかたがない。高い崖 の上からでも飛降 りて死んでしまいたい」といっていたが、感情が昂 じてこんな事になったのか、ある意味で白蓮さんはうたを実行されたのだ。
と語っている。また、九条武子さんは、まあと大きな吐息をついて、
只今が初耳でございます、随分思いきった事をなさいましたねえ。あの方とは、昨年お目にかかりました後 は、お互にちょいちょいゆき来 はしておりますが、唯うたのお友達というだけ、それほど深い話もありません。先日も九州でおめにかかりましたが、それほど深いお悩みのあることは、素振 にもお見せになりませんでした。御主人は太っ腹な、それは気持ちのいい方です。まさか短気なことは遊ばしはしませんでしょうね。お年もとり、御思慮も深い方ですが、どうなる事でしょう。
と、さすがに友達の身を案じて、じっとしてはいられぬという
子さんは、お父さまにつかえているつもりだといって、平生 からさびしそうにしていたが、(私が)妾 になったのもうけだされたのも、奥さまからなので、嫌 だけれど納得したのに――
といっている。廿三日附朝刊には、論説も「子事件について」とあって、その概略をつまんでみると、
子の事件はあくまで慨嘆すべきものか、あるいはかえって謳歌 すべきものか、吾人 はこれを報道した責任として、ここにいささか批評を試みたい。(略)
彼女の精神生活は甚だ同情すべきものだが、技巧と粉飾が臭気の高い歌で訴えるように事実苦しみぬいていたかどうか。(略)この行動が、はたして自動的か他動的か、これもまた批判してその価値をさだめる有力な材料でなくてはならない――
――子事件の真相と子の思想とによってわかるるものと思う。更に細論の機会をまたんとす。
といっている。彼女の精神生活は甚だ同情すべきものだが、技巧と粉飾が臭気の高い歌で訴えるように事実苦しみぬいていたかどうか。(略)この行動が、はたして自動的か他動的か、これもまた批判してその価値をさだめる有力な材料でなくてはならない――
――子事件の真相と子の思想とによってわかるるものと思う。更に細論の機会をまたんとす。
廿五日ごろになると、帝大法科の教授連が批判回避の申合せをし、白蓮問題は、
「法廷に立て」伝右衛門が白蓮女史に送った手紙誰が書いたのか、甚だもって伝右衛門らしくない。彼がとる態度は、有夫
「栄華の反映」自分を崇拝している年下の男の方が、自分の弱点を知る石炭みたいな男より我儘が出来るのが当然だが愛がなくてもの同棲十年は、相当
天才は不遇な
「鉄箒」欄がいっている伝右衛門の手紙というのを引きたいが、夕刊紙かまたは他紙のであったのか、見当らなかった。震災が中にあったので、とっておいた参考紙も失なってしまったのでいまではわからない。
で、柳原家の方では、合理的処置――円満離婚の上で自邸に引取る方針だ。その上で当事者の考えで解決するといい、宮崎氏は、子はきっと保護する。ただ父に(
――今日の見合いの方法に、改良を加え青年男女に正当な接触を与えるのが、今日の社会のために望ましい事である。私は本紙に、近代の恋愛観というのを草 し、連載中子事件突発。近代生活の重要な問題として、概括的に一般に恋愛と結婚について述べたかの一文の中に、今回の事件について、凡 て私の見解にはあまり明瞭 すぎて、露骨なほど明かに書いておいたから、いま質問を受けるのを遺憾と思う。
――今度の行動には多くの欠点手落ちがあった。絶縁状が相手に落ちないうちに発表され、自分が独立しないで多くの人に依頼したこと、自ら妾 を夫に与えていた事、非難の点多し。これは外面的な、従属的なことである。
――今度のようなことは、男でも女でもちょっと思いきって決行出来ないのが普通だ。それを断行した事によって、このインフェルノから救われたのは、独り『踏絵』の女詩人ばかりではなく、伝右衛門氏にとってもまた幸福であったことを考えねばならぬ。(概略)
――今度の行動には多くの欠点手落ちがあった。絶縁状が相手に落ちないうちに発表され、自分が独立しないで多くの人に依頼したこと、自ら
――今度のようなことは、男でも女でもちょっと思いきって決行出来ないのが普通だ。それを断行した事によって、このインフェルノから救われたのは、独り『踏絵』の女詩人ばかりではなく、伝右衛門氏にとってもまた幸福であったことを考えねばならぬ。(概略)
白蓮さんの方で、着物も指輪も手紙をつけて送りかえしたといえば、伝右衛門氏の側では、絶縁状は未開封のまま突きもどすといい、正式に離婚をするといっている。各々の立場が違って、宮崎氏の方は、子さんの環境から見ても、どこまでもああした、自覚的態度を強調させようとし、事件が
廿三日には隠れ家も知れて、黒ちりめんの羽織を着て、
そのころ、丁度ワシントン会議のあったころで、徳川公爵や、加藤友三郎大将の両全権が、
と、いうだけでも、どんなにこの事件が、
だが、ああいった武子さんは、自分で綿入れを縫って隠れ家へ届けている。
わたしが訪ねたのは、もう写真班の攻撃もなくなった、子さんの廻りも、やっと落附いてきた時分だった。山本安夫と表札は男名でも、子さんと台所に女の人がいただけだった。ふと、
長男
子さんは働きだした。
いつわらぬ心境を歌にきこうと、最近、以前のと近ごろとの歌を自選してくださいとおたのみしたらば、こんなのが来た。
筑紫のころ
われはここに神はいづこにましますや星のまたたきさびしき夜なり
和田津海 の沖に火もゆる火の国にわれあり誰 そや思はれ人は
われなくばわが世もあらじ人もあらじまして身をやく思ひもあらじ
われなくばわが世もあらじ人もあらじまして身をやく思ひもあらじ
その後
思ひきや月も流転 のかげぞかしわがこし方 に何をなげかむ
かへりおそきわれを待ちかね寝 し子の枕辺 におく小さき包
子らはまだ起きて待つやと生垣 の間 よりのぞく我家のあかり
子をもてば恋もなみだも忘れたれああ窓にさす小さなる月
ああけふも嬉しやかくて生 の身のわがふみてたつ大地はめぐる
かへりおそきわれを待ちかね
子らはまだ起きて待つやと
子をもてば恋もなみだも忘れたれああ窓にさす小さなる月
ああけふも嬉しやかくて
なんという落附いた境地だろう。この安心立命の地を、武子さんはどう眺めたろう。おおそういえば、子さんは面白い話をしたことがある。武子さんが九州へゆかれたとき、伊藤伝右衛門氏は、筑紫の女王のところへ、本願寺の
本願寺さまだってお手
それが、何もかもを語っているとおもう。出来ない辛抱は、今の道にくるまでの、新らしい生活にもあったかもしれない。けれど、澄みたる月は
――昭和十年九月十七日――
子さんの生母 さんのことも、このごろわかったが、もうお墓の下へはいっていて、子さんは墓参りをしただけで、なんにも言えなかったのだ。若くて死んだお母さんは、柳橋でお良 さんと名乗り、左褄 をとった人だった。姉さんは吉原芸妓の名妓だったが、その老女は、子さんを姪 だということを、どんな親しい人にも言ったことがないほどかたい人だった。この姉妹は幕末の外国奉行新見豊前守 の遺児だという。ここにも悲しき女 はいたのだ。