江戸の女を語るには、その階級から語らなければならない。
武家と町人――それはその時代の何處にもカツキリとされた區別であるが、江戸にはもひとつの別階級がある、職人である。
下町娘の總稱は、町人、職人を一つにまとめて、日本橋、京橋、芝、神田、下谷、淺草、本所、深川に住んでゐた、下町つ子の娘をさしてさう呼ぶ。だが、その下町娘の中に二種類があるといはなければならない。富裕な町人の娘の階級と、さうでない層の娘。私はあとの方のをこそ下町娘であると思ふ。いま、歌舞伎劇などで、下町娘の代表になつてゐる
黄八丈に黒繻子の襟、緋 鹿 の子の半襟、絞りばなしの鹿の子の帶。結綿 島田に朱ぬりの差櫛、花簪。
出來れば、下町生れの娘はみんな、そのおつくりを好んだに違ひない。また、似よつたおつくりもしたかつたであらう。だが、江戸時代でも、明治のはじめでもさうであつたであらうが、あたしの知つてゐる下町の娘はもつと働いたから、あんなゾベラ/\とした姿をしてゐなかつた。一體に
では、富裕の町人の娘たちはどうであつたかといへば、お姫さまより顏が美しかつたといへよう。おんなじやうな深窓の育ちではあるが、その人たちのおつくりには、上方づくりの濃艶さがあつた。芝居では、油屋お染とお半の扮裝が代表である。大問屋、大町人は
私はむしろ、山の手とよばれた武家の家族の中にも、凛とした梅の花の、下町娘と共通のよさを感じる。山の手が野暮になつたのは明治維新に、諸國入亂れの士族さんのグループに占領されてからであらうと思ふ。質素な、白丈長をキリリと島田の根にまいた、紫矢がすりに黒じゆすの帶、べつこうの櫛に銀の
だから――と、いふ、いま、江戸の下町娘をもとめるのなら、日本中いたるところに見出し得られる。ことに、近代東京においてもかなりにある。
情熱の女にも、幾分の理智をもたさなければ現代に生きてゆけはしない。いま、もし、現代の下町娘を選べといへば、朝の學校通ひの娘の中に、工場に腕を出して働いてゐる娘の中に、明敏な瞳をひらき、胸をはつた、あんまり白粉つ氣のない娘を求めだすだらう。それが最も近代的な、そして力強い未來をたのむことの出來る、代表的な東京娘である。
それから、くだけていへば下町娘は決して美人ではない、感覺的にも性的魅惑はもつてゐない。むしろ、そんなものが八ツ口からでもこぼれでたら恥づべきだと思つてゐるところがあつた。自然の色氣――それは避けないが、殊更に、女の匂ひを利用しようとはしなかつた。情にもろいこと、涙もろいこと――それが
「サンデー」から私へ求めたのは、西鶴が街を通る美女を書きのこしたやうに、あたしの眼に殘る下町娘のよさを、話のやうに書けといふのであつた。それはもとより、江戸時代から轉化してきた明治中期のでよいのであらうが、女の子の眼に殘つたのは、中年の文豪の見た――着物などは通して見てしまつた、個々の女の、肌のよさとは違ふ。
ふと、思ふと、下町娘の美より多く、わたしは年増の美の方が目に殘つてゐる。年増の美は下町の
本所に住む、角力の髮を結ふ職人があつた。その人が年をとつてからの思ひ出ばなしに、ある夕立の日、本所の裏町にすんでゐたが、外から駈けこんで、いきなりガラリと長屋の板戸をあけると、土間の薄暗がりに、すつとたつてゐた人影がある。アツといつて立ちすくむと、その人は笑ひながら出て來て、
「すまなかつたねえ」
といつた。キモを落付けて見ると、拔けるやうな美女!
――拔けるやうなといふ譬をよく美女の場合にきいたが、一枚繪から拔けだしたといふのか、魂がぬけだしてきたといふのか、ともかくおもしろい言葉である――
「傘の中より洩りますが、しぶきがこないだけでもおしのぎになれませう。」
と止めた。さうはいつたが、自分は家の中にはいれなかつたほど、その
「一ツ目の辨天樣へおまゐりに來て――」
と女はまた笑つた。家の中を見廻して、歸る時に
下町の好みは、髮をザングリと油でかためずに、ものものしく結ひあげない。櫛の齒も幾度もいれず、
着物が地味だから半襟と前かけの紐がきはだつた。朱塗りの櫛が効果のあるやうに、簪もあんまり大きいのは

いま
――昭和四年十月・サンデー――