四人の兵隊

長谷川時雨




 出征文人の一員、林芙美子のリユツクサツクのなかへはいつて[#「はいつて」は底本では「はついて」]、わたしの心持も行くといふと奇矯にきこえるが、わたくしの兵隊さん慰問文が、おぶつていつてもらふことになつた。思ひがけない嬉しさなので、どうしてもそのことから書かなければ氣がすまない。
 芙美子は電話で優しくいつてくれた。五通ばかりお書きなさい。よい場處へ、畫鋲で貼つて來てあげます。
 それをきいた時の感は、迦陵頻伽がりようびんがの聲とは、かうもあらうかと忝けなかつた。含みのある、美しきなさけに富んだ聲音こはね――きくうちに、わたしの心は、花が開くときもまたかうもあらうかと思ふ、やはらぎにみたされた。
 ――好いをもつた。
 そんなふうにホク/\した。こどもといつてわるければ、優しい姪がいつてくれるやうな、ポタ/\した、滋味のしたたるやうな嬉しさだ。翼の強い若鳥が、木の實をついばんで來てくれるのを、好い氣になつて孝養をうけてゐるやうな有難いものだつた。
 あたしは幸福しあはせものだ、おもひまうけない戰地へ、前線へ、慰問の手紙をもつていつてもらへる。そして、それが、多くの兵隊さんの目に觸れるやうにしてもらへる――
 あたしの心は嬉しさに濡れてゐる。戰場には、やはり、子とも兄弟とも、甥とも思ふ人たちばかりで一ぱいだ。そこへ、あたしの慰問文が貼つてもらへるのだ。なんと書かうかと、幼兒にかへつたやうに、そればつかり考へてゐる。
 幼少のをり、何處か、よいところへ連れて行かれようとすると、はたの者が、おつむ(頭)に乘つて行かうだの、おせなにくつ付いて行かうの、たんも(袂)へはいつて一緒に行かうかな、などといつたことまで思ひ出して、慰問文は、小學生の作文のやうに書きたいと、いそいそしてゐる。
 にこにこしてゐる日は、にこにこすることが重なるもので、重い慰問袋をぶらさげて、森茉莉さんがニコニコしながらはいつて來ていふには、
 こしらへてゐるうちに、こんなに入れてしまひましたの。なんだか、この袋を貰つた兵隊さん、一番つまらなかないかと、さう思つて詰めてゐるうちに、こんどは、この袋に當つた人、一番幸福しあはせなんぢやないかと思つたりして――
 と、いみじくもいつて、なごやかに笑つてゐる。茉莉さんは鴎外先生のお孃さんで、小堀杏奴さんの姉さんで、可愛い人だ。文壇女流のみなさんから、「輝ク」へよせられる、皇軍將士への慰問袋が、日に日にうづたかく重なつてゆくのも、なんともいへず嬉しい。
 あたくしは今まで、兄弟にも親戚にも、一家から一人の兵士も出してゐないので、肩身がせまかつた。冬の土砂降りの日など、自分は自動車に乘つて、づぶぬれの兵隊の列に行きあつたりするとなんとも濟まなくてしかたがなかつたが、そのあたくしが、自分は生みもしないくせに、四人もの兵隊を、急に甥たちにもつことになつた。
 四人の兵隊は、みんな一人づつ、妹弟きやうだいの子で、三人が三人の妹の、一人は弟の息子。一人の妹が二人の男の子をもつだけで、どうしたことかあとはみんな一粒だねである。
 二人の男の子をもつ妹は、海軍軍人に縁づいて、早くから未亡人になつてゐたが、上の方の子は少年の時から、船のおもちやばかり造つてゐて、帝大工科在學中に機關中尉になり、今時局に、幾分の御奉公をいたすのに間にあつた。下の方の子は南洋へいつて、南洋開拓の些少の土持ちをしてゐる。
 その次の妹は、獨り娘にもらつた養子が豫備少尉で、事變應召に勇んで出たのをはじめにして、つい兩三日前、すぐ下の妹の息子と、わたくしが預かつて、赤ん坊の時から育ててゐた、弟の子が、おなじ隊へはいつた。
 これもつい先日、大尉に昇進した海軍の方のは別として、陸軍の兵隊に出た三人のうち、二人は帝大出、手許のが早大出だが、おなじ隊へはいつた二人と、南洋へいつてゐるのとが同年、氣質は異つてゐるが、仲が好い。
 最近入隊した方の甥の一人は、おとなしい男で、教育學を專攻にして、コツコツとやつてゐたが、兵隊になる感想をきくと、インテリは大衆から浮いてゐるから、僕はみんなとほんとに一緒になれることを、よろこんでゐますといつた。
 この子が少年のころ、親たちが北京に居たので、私の手許にも居たことがあるので、人混みの中などでは、眞つ赤に逆上のぼせ、一たいにデリカな性質なのを知つてゐるので、私の方が案じてゐたのだが、彼は考へ深くさう答へた。
 この優しい氣持のひとり息子は、皮膚も人並より弱いので、彼の母親は、先達てからしきりに太陽燈をかけさせてゐた。外科の博士である彼の父は、健康増進の注射を、毎晩手づからしてやつてゐた。兵隊になつたら強く――國を辱しめるな、といふのが、何處の親にも共通した心持であらうが、親々の氣持は複雜であらう。
 あたしはまた、預つた甥が、病弱な母の體から生れ來て、生後六十日目に、膓捻轉をしたりして、不思議に助かりはしたが、ありとある病氣といふ病氣に、抵抗力のなかつた彼が、元氣な、ガツシリとした體となつて、非常時の今日、國を守る兵の一人となつてくれた、その廿五年間を飛越して、早く死歿なくなつた彼の若い母が、彼を生んだとき私の手を握つて、しぼるやうに陣痛をこらへたので、あたしの中指にはめた指輪がまがつて、指と指の間にはさまり、ダイヤが次の指の肉に喰込んでしまつた痛みを、ふと思ひ出しもするのだつた。
 若い母親が、これ一ツを殘すために生れて來たやうな、短い一生涯を果すと、わたくしは、わたくしの手に殘された、弱い子の行末までも思ひふけつたものだつた。彼が二ツ三ツのをり(たしか青島が陷ちた時)ある日私は車の上で、この病弱な幼兒もいつか戰があればと、輕い子を持上げて見たが、人世、すべてが戰場、鐵砲玉ばかりが怖いものではないと、心で呟いた。
 その觀念が、彼を入隊させる日まで續いてゐたことをたしかめて、私は妹を見ると、その自若じじやくたるに安心した。そして、何處の家も、兵士を出すうちの母の心の、堪へしのぶ強さ、けなげさを思ひやるばかりだつた。いまも心に叫ぶのは、人々よ、母をいたはれといふこと、戰線に送る慰問袋は、故國日本の母をも悦ばすであらうといふことである。





底本:「隨筆 きもの」實業之日本社
   1939(昭和14)年10月20日発行
   1939(昭和14)年11月7日5版
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年1月17日作成
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