大門通り界隈一束

続旧聞日本橋・その一

長谷川時雨




 あたしの古郷ふるさとおとめといえば、江戸の面影と、を、いくらか残した時代の、どこか歯ぎれのよさをとどめた、雨上りの、杜若かきつばたのような下町少女おとめで、初夏になると、なんとなく思出がなつかしい。
 つち一升、かね一升の日本橋あたりで生れたものは、さぞ自然に恵まれまいと思われもしようが、全くあたしたちは生花きばな一片ひとひらも愛した。現今いまのように、ふんだんに花の店がない時分だから、一枝の花のいとしみかたも格別だった。紅梅が咲けば折って前髪に挿し、お正月の松飾りの、小さい松ぼっくりさえ、松の葉にさして根がけにした。山吹の真白なじくも押出して、いちょうがえしへかけた。五月の節句には菖蒲しょうぶの葉を前髪に結んだり、矢羽根やばねに切ったのをかんざしにさしたものだった。
 新藁しんわらは、いきなひと投島田なげしまだばかりに売れるのではなく、素人しろうとでも洗い髪を束ねたりしてよく売れた。つばめの飛ぶ小雨の日に、「新藁、しんわら」と、はだしの男がすねに細かい泥をねあげて、菅笠すげがさか、手ぬぐいかぶりで、駈足で、青い早苗を一束にぎって、売り声を残していった。
 水玉という草に水をうって、涼しくかけたものだが、みんな一時いっときのもので、赤くひからびるまではかけていない。じきにかけかえる手数はいとわなかった。一たい、平日ふだんから油んだ髪をきらっていたから、菅糸すがいとだって、葛引くずひきだって、金紗きんしゃ元結もっといぐらいな長さの、金元結の柔らかい、よりのよい細いようなのを、二、三十本揃えたもの。芝居の傾城けいせいかつら[#「鬘」は底本では「鬢」]にかけてあるのと同じ)だって、プツンとって、一ぺんかけただけだった。
 深窓しんそうな育ちでも、どこか女伊達だてめいた気風をもって、おそろしく仁義礼智の教えを守って――姿の薄化粧のように、魂も洗おうとした。この二行ばかりの文章は、文飾のようにもとられようが、濃かれ薄かれ、そんな気持ちはたしかにあったのだ。人と、その性質は別としても、その地方色としては――

 古い日記をくりかえして見ると、父が話してくれたことが書いてあるので、此処ここへ抜いて見よう。
 ――父の晩酌のとき、おい仁坊まさぼうのおまつりの半纏はんてんのことから、山王様さんのうさまのお祭りのはなしが出る。まさしの両親とも日本橋生れで、なくなった母親は山王様の氏子うじこ此家こちらは神田の明神様の氏子、どっちにしても御祭礼おまつりにははばのきく氏子だというと、魚河岸から両国のきわまでは山王様の氏子だったのが、御維新後に、日本橋の川からこっちだけが、神田明神の氏子になったのだと、老父ちちが教えてくれた。
 あたしたちは神田明神へお宮参りをしましたが、お父さんは山王様へお宮参りにいったのですかときくと、そうだといわれる。
 それからそれへと古いはなしが出る。以下は老父ちちの昔語り――
 玄冶店げんやだなにいた国芳くによしが、豊国とよくにと合作で、大黒と恵比寿えびす角力すもうをとっているところを書いてくれたが、六歳むっつ七歳ななつだったので、何時いつの間にかなくなってしまった。画会なぞに、広重ひろしげも来たのを覚えている。二朱にしゅもってゆくと酒と飯が出たものだった。
 国芳のうちは、間口が二間、奥行五間ぐらいのせまい家で、五間の奥行のうち、前の方がすこしばかり庭になっていた。外から見えるところへ、弟子が机にむかっていて、国芳は表面に坐っているのが癖だった。豊国の次ぐらいな人だったけれど、そんな暮しかただった。その時分四十位の中柄ちゅうがらの男で勢いの好い、職人はだで、平日しじゅうどてらを着ていた。おかみさんが、弟子のそばで裁縫しごとをしていたものだ。武者絵むしゃえの元祖といってもいい人で、よく両国の万八まんぱち――亀清楼かめせいのあるところ――に画会があると、連れていってくれたものだ。
 国芳の家の二、三軒さきに、鳥居清満とりいきよみつが住んでいた。
 大坂町のかみなり師匠は、冬でも表を明っぱなし、こまよせから、わざと見えるようにしてある。あがり口の板敷のところに、いけない児童を空俵に入れたり、火のついた線香をもたせたりして、自分の傍には弓の折をひきよせておいて、がみがみ大声で呶鳴どなりちらしている。空俵へ入れるのは、これから河へ流してしまうというのだ。他のおとなしい児童こたちがふるえながら詫すると、それをしおに俵から出してやる。見えすいた広告法だが、やかましい師匠にやらなければ、いけないと思っている、無学町人の親たちには、それが大層評判がよかった。
 国芳の家のそばにも手習師匠があった。私が七歳ななつであったころに、四十位な年配ねんぱいで、小笠原の浪人加賀美暁之助かがみぎょうのすけという人だった。この人のほうは立派な人物で、大橋流の書もいし、絵は木挽こびき町の狩野かのうの高弟で、一僊いっせんといって、本丸炎上の時は、将軍の居間の画を描いたりしたほど出来たし、漢学も出来る、手をとって教えてもらった。撃剣もおしえた。色は黒かったが人品の好い人で、御家内ごかないも武家の出だから品のあるひとだった。

 三馬さんばったことがある。そうさ、五十四、五に見えた。猿のしるしのある家で、化粧水を売っていたっけ。倉の二階住で、じんきょやみのくせにめかけがあった。子供心にも、いやなじじいだと思ったよ。
 歌川輝国うたがわてるくには、うちのすぐ前にいたのさ。うまや新道――油町と小伝馬町の両方の裏通り、馬屋新道とは、小伝馬町の牢屋ろうやから、引廻しの出るときの御用を勤めるという、特別の役をもっている荷馬の宿があったから――の小伝馬町側に住んでいた。くさ双紙ぞうしの、合巻ごうかんかきでは、江戸で第一の人だったけれど、貧乏も貧乏で、しまいは肺病で死んだ。やっぱり七歳ななつぐらいから絵をおしえてくれた。その時分三十五、六だったろう。豊国の弟子だったから、豊国の描いたものや、古い絵だの古本だの沢山あった。種彦たねひこがよこした下絵の草稿もどっさりあった。私は二六時中しじゅう見ていても子供だからそんなに大切にしなかったし、おかみさんのおもよというのは、竈河岸へっついがしの竃屋の娘で、おしゃべりでしようのなかった女だから、輝国が死んでから、そういうものはどうなってしまったかわからなかった。
 住居すまいは入口が格子で、すこしばかり土間があって、二間に台所だけ、家賃は(今の金で)三十銭位だとおぼえている。それでもお酒は大好きで、たべものはてんやものばかりとっていた。貧乏でもそういうところはおごっていた。芝の泉市せんいちだの、若狭屋わかさやだのという絵双紙屋から頼みにきても、容易なこっては描いてやらなかった。その時分、定さんという人がよくやとわれてきたものだ。輝国が絵――人物や背景を描くと、その人は、軒だとか窓だとか、縁側だとか、ふすまとかいったものの、模様や線をひきにくる。腕はその当時いい男だといわれていたのに、弁当も自分持ちで、定木じょうぎも筆も持参で来て、ひどい机だけかりて仕事をして、それで一日がたった天保銭一枚(当時の百文・明治廿年代まで八厘)。今の人がきくとうそのようだろう。
 寿鶴亭じゅかくていという八人芸(時雨しぐれ云、拙著『旧聞日本橋』の中には、この寿鶴の名が思いだせないで○○さいと書いたのと同じ人)の上手なのがすぐ近所にいた。娘に、油町の辻新つじしんという大店おおだな権助ごんすけを養子にして舂米屋つきごめやをさせ、自分たちは二階住居をしていた。賑やかな人で、自分の家の二階で八人芸をやっていると、まったくだまされるほど、大勢おおぜいっているようにきこえた。かみさんは新宿あたりのあがりもの(遊女の)で、強者したたかものだった。孫娘のおつるというのを手塩にかけて育てていたが、それが後にめかけにいって大層出世をしたとかきいた。たしか、大鳥圭介おおとりけいすけさんのところへだときいた。
 辻新といえば、あすこのうちかしら――出入りの鳶職とびしょく――が、芝金しばきん直弟子じきでしで、哥沢うたざわの名とりだった。めっかちの、その男のつくったのが「水の音」という唄だ。自分の名の音がよみこんである――
 今日はこの位にしておこうといって、父上はまくらにつかれる。こういう事は、いつもきき流しにしてしまって、あとで記録しておけばよかったと、いつも後悔するから、今夜こそ書いておこう。
と止めてある。父は天保十三年の生れ、七歳ななつの時といえば嘉永元年だ。外国船がしきりに渡来して、世の中は刻々にむずかしくなっていたころだと思う。





底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
   1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
   2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「桃」中央公論社
   1939(昭和14)年刊行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2003年7月4日作成
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