十五の時には黒い夏の日本海が十間ばかり白い泡を吐いて、無人の岩くれ立つた磯を打つのを見た。岩の間には
二十の年には、その頃もう東京に來てゐた時分だが、夏の眞盛り時、房州海岸を半月あまり旅をして、北日本海の海とはまるで違つてゐる、緑の濃い、
だが日本海と格別ちがつたこの
移住民……! これもあとで分つたのだが、わたしの家族はそのとき、親代々住みなれた地方一の城下
わたしの一家はその頃
人間が生れて以來數々のものに觸れてゐるうちに、他の一切のものは忘れても、或るものだけは何時までも覺えて居る、そして墓の中までも之れをその人の身についた財産のやうに持つてゆくといふことは、之れと其の人とのあひだに、何ものか因縁があるので無からうか。人がまさに溺れようとする瞬間、自分の忘れてゐた過去の生涯を吃驚するくらゐ鮮明に、卷物でもひろげてゆくやうに一刹那のあひだに見ると、今日の心理科學は教へてくれる。
そんならわたし共の記憶といふものは全部この心理科學の示す定説のとほり、忘れられてゐるものも死んでゐるのではない。だがその中に特に最初から深く心に沁み込んで覺えて居り、それが人によつてそれぞれものが違ふといふのは、何ものか人それぞれの特殊の
或る人の最初の最も鮮かな記憶といふものは、その人の暗い一生のもとに、暗く
又或る人の記憶には特に道徳的にその人の心を、色なり、

だが私等藝術に從ふものは、特にこの世界の美を
或る人の覺えてゐるのはまだ乳呑兒の頃に、枕の傍で添伏しの母の懷のなかから、樂しく聞いた時計のオルゴオルの
わたし等一家が港へ移住した頃、わたし等一家といふものは至極あはれな、みじめな、大工
大正十二年春・名古屋にて
汽車は

此時はじめて分つたが霙といひたい位な、目にも見えぬ薄い細かい吹雪が汽車の進行する前方から、眞つ直ぐに吹きつける烈風に送られてやつて來て、それが眼と言はず、鼻と言はず叩きつけ、
併し家らしいものは山の
二十年まへわたしの眼界から消えてしまつた生れ故郷の城下町弘前は、この山裾の隅にあるのだと思ふと、前方から吹雪まじりに吹きつけてくる痛い空氣以上に、何かまた別な空氣がこの景色の土地一杯にひろがつて、それがわたしの肺にも這入れば眼にも沁みるやうに思はれ、異常に引きしまつた心持になるのであつたが、山裾のあひだに小さくても、人家の屋根のぎつしり並んだ都會の眺望を當てにしてゐたのに、密雲のもとに反射する光も艶もない雪の山と平野との無人境同樣の景色を見れば、「こんな處で何處に人間が住んでゐるのだらう」と憮然とならざるを得なかつた。
密雲のもとの山脈は灰色のテーブルクロースを不行儀に、平べたく折り重ねて行つたやうに、平原の片側を
「私にも見せて頂戴、よう、よう」
と今年
「駄目、駄目。寒い風がピウピウ吹いてるんだよ。」
「いやいや。見るう。ひろ子も見るう」と足をバタバタやつてゐる。
わたしは窓を離れて妻のベンチの處へ行つた。汽車は終驛が近いので、上野驛以來の乘合客も大半降りてしまつて、車内はわたし等夫婦親子の專有かのやうに、廣くガランとしてゐる。ベンチの凭れ板の列と、默りこくつてゐる些少の乘合客の頭とを越して、車室の突き當りに掛つてゐる掲示板が見透しになつて居り、窓外の險しい景色とは打つて變つて、ここは其處らの窓に蠅でも唸つてゐないかと思はれるくらゐ、ひつそりして暖かくうん氣ざしてゐる。
妻はうしろ向きになつて、昨夜からベンチに敷詰めの毛布をこまめに疊んでゐる。
「貴方どう。もう弘前が見えて」
「いや未だ仲々」
「支度は
「さうかい」
わたしは窓外の景色に少し興が覺めてぼんやり答へた。この汽車を降りたら直ぐ寒暖計が一遍に二十度も落ちるやうな、外氣のなかにさらされるのだと思ひながらその前屈みになつてゐる妻の後姿をぢつと見た。
彼女は肥つてゐる上に思切り着物を着込み、その上に當歳の赤ン坊をネンネコで
「でも岩木山が見え出したよ」
「ぢやもう
「それが家ひとつ、人つ子ひとり見えないんだよ」
わたしは例の遠くの森や林を流れる薄い霧を目に浮べた。
「父ちやん、わたしにも見せて」と長女が再び手を差しだして延びあがる。
「よし父ちやんの故郷を見ろ。えらい處だぞ」と、わたしは毛糸づくめの洋服で之れも着膨れた長女をやつこらさと抱きあげた。
「貴方寒いでせう」
「なあに寒けりや直ぐ厭だといふさ」
わたしは少し
汽車は川べりの勾配を走つてゐて、わたし等の視界に
「どうだ、えらい處だらう。人つ子一人ゐないんだぞ」とわたしは長女の顏をのぞき込んだ。彼女もこの寂しさと荒さを極めた自然の威力に打たれたか、
これぐらゐわたしの心を永いあひだ離れられなかつた故郷に、今、記念品の娘まで指し向けて會合するといふのに、
「ひろ子、あれを御覽。ほらお山だよ、お山」とわたしは長女に鼠色の岩木山を指さした。
故郷の弘前市に着いたのは、これがさうかしらんと遠くから眺めてゐた大村落を通過して、また一と渡り雪の平野の一角を突つ切つてからのことであつた。尤も大村落と言つても雪の水田中に裸な立ち木の林と一緒に群がつた不樣な農家の長いわびしい繋がりで、停車場をのぞいては村のとつつきで四五臺の
弘前市もこれと大同小異で大村落を出てから漸く向うの山裾に見えはじめた屋根屋根の乏しい積み重なりが、わたしの氣分をなほなほ沈ませた。流石に停車場は地方での大驛なので、着車したときはこの汽車を利用して更に今一時間ばかり先きの距離の青森市に北行する乘客が、廣いプラツトフォームに溢れてゐた。雪はここでちらちら降りはじめた。
わたし共は故郷の弘前へ來ても、ここから更に汽車を乘り替へて三里ばかり
雪構ひの曲り角の所は外に出る通路になつてゐた。わたし等が其處を通つた時には、ボロ洋服の上に、犬の毛皮のチヤンチヤンコを着、汚れたコサツク帽をかぶつた逞しい男が、ラツパを持つてせかせか足踏みしてゐた。
市内へゆく乘合の馬橇の馭者であらう。
「だいぶ待たなくちやならないんだネ。」
とわたしは妻にいふ。
「どうして」
「だつて僕等の今の汽車が一時間ばかり延着したらう」
「ええ」
「赤帽に訊くと、そんな事で、此處の發車時間がすつかりゴチヤゴチヤになつたんださうだよ」
「へえ、さう」
と妻は淋しさうに目をパチクリさせてゐる。
今朝がた羽前と羽後の山間でわたし等の汽車は、大雪のため永いこと停車した。冬季休暇で歸郷する學生達は氣輕に車外に飛びだして、忽ちそこで雪達磨をこしらへた。乘合はした水兵の一團もこれに對抗して、同じやうな奴をこしらへた。そして
「困るわね。それではK――さんの家には何時頃着くことになるでせう」
K――さんとは之れから別の汽車に乘替へてわたし等の訪ねてゆくことになつてゐる友人の名である。
「驛員に訊いて見るから、兎に角待合室のなかに這入らう」
急行列車は大丈夫と思つてゐるのに、奧羽線では、今頃から急行列車がそろそろ當てにならなくなるのである。
待合室はどこも皆一杯なので、入り口のところに妻や子供を待たせて置いて、出札口に立つてゐる驛員のところへ行つて、發車の時間を訊く。驛員はこの地方の言葉を丸出しにして、五時何分でなければ貴方の所要の接續の汽車が出ないといふ。ここから他に支線で出る汽車もある筈だから、も少し都合よい時間がないかと更に訊きただすと、わたしにも聞きわけられない訛りのある言葉で説明して、結局要領を得ない。この待合室に一杯詰つてゐる人々も、今皆わたしと同じ運命にあつてそれが同じ事ばかり訊くので、驛員も氣が
妻は座席を讓られたと見えて、二等室入口眞近の
「どうしたの」
「駄目だ。二時間も待たなくちやならん」
「困りますネ」
「うん、弱つた」
私は長靴の兩脚を、雪融けの水でぬかるみになつてゐる叩きに踏ん張つて、これからの善後策に就き妻と話をしたが、それが濟むと身を轉じて待合室の中央に向きをかへ、わたし等を取卷いてゐる群集を見まもつた。
一種異樣な風采の群集である。其の
待合室は雪構ひで外部を覆はれてゐる上に、電氣も未だつかないので、薄暗く、群集はただ黒く渦卷いてゐるやうに見えて居り、その中から一切の騷音が割れかへるやうに溢れてゐる。マントは大頭巾が着いたのを着てゐる。頭には風呂敷を三角に折つた冠り物をしてゐる。こんな冠り物をしてゐるのは、大抵百姓女である。見榮も恰好もなく着るによいだけ厚着をして、どれも皆元氣よく野獸のやうに強い響きをもつた、しかし其のなかに異樣なくらゐ
わたしの故郷の人はどんな人でも話好きだし又上手である。しかし二十年目でこの話の渦卷きに飛びこんだわたしには、あの車中から見た無人境の景色同樣、「おれはお前の父親同然のもので、父親よりも又お前に縁故の深いものだ」と、わけも解らず強く名乘り出されてゐるやうな氣がした。他郷の環境での二十年間にわたる生活は、わたしの眼と耳とを自分の思つてゐた以上に遠く、全然別に育ててくれたのである。
わたしも他郷へなんぞ行かずに、この土地に
長女を連れて停車場の雪構ひした入口をぬけて、田圃向うの市街を一瞥したり、賣店に行つてキヤラメルや繪本をひろ子に買つてやつたりして、また妻のまへに立つてゐると、すぐ傍の二等室のストーヴに當つてゐた人だかりの中で、いかにも傍若無人のさまで足駄穿きの足をこのストーヴに突き出してゐた男が、のそのそわたしの方にやつて來た。四十近い年配で、黒のインバネスを着てゐた、目をシヨボシヨボ
「君はX――君ぢやありませんか」とおづおづした聲で訊く。
わたしは弘前へは出直してくるつもりだつたが、早くも見つかつたかと「さすつたナ」といふ氣で、相手をぢつと見た。
「ああさうです。君は?」
「うむ矢張りさうか」と如何にも人が好ささうに笑ひ出して、その特徴のある眼をなほ近づけ、言葉も俄かに土地の言葉になほした。
「忘れダガ。W――だ。W――……」
忘れダガといふのは、忘れたかと云ふ事である。津輕地方語には濁音が多い。
「あつ、W君、青森の?」
「うん」
わたしは
「君の評判はよく聞いてゐる。あんなになるには隨分苦勞したべ」と彼は優しく
「ああ苦勞したよ」とわたしは苦笑して、
「未だにその苦勞から脱けきらないで、今度は罹災民で都落ちだ」
「そして何處へ行く?」
「板柳だ」とわたしはこの弘前市から三里ほど北の町の名を言つた。
彼は氣うとさうな
わたし共は暫く昔話をしたあと、再會を期して別れた。
この晩わたし共夫婦親子は弘前市の次ぎの驛で、夜遲くまでまた待たされた。ここは支線の汽車の立つ驛で、津輕平原を北に日本海を指してゆく處である。プラツトフオーム[#「プラツトフオーム」は底本では「プラツトフヤーム」]にある四方玻璃窓の待合室で待つてゐたのであつたが、雪はここへ來て以來本降りになつて、もの凄いくらゐ降りこめた。二十年この方睡つてゐたわたしの本能は目ざめて、身體に言ひ知れぬ力が漲つてきた。雪國の人間は雪を見ると氣が張つてくる。わたしはストーヴに足を突き出しながら、故郷の最初の夜の感銘を思ひふけつてゐた。妻はストーヴ前のベンチに腰かけて居睡つてゐた。ひろ子は毛布に厚くくるまれて、父の故郷の土地で最初の熟睡をしてゐた。待合室には
大正十三年六月十七日・津輕碇ヶ關にて
林檎畑のなかの路を夜十二時過ぎにとほる。廣い
わたしはそこでどんな遲い晩でも、この廣い
ところでそれがどれくらゐ私に
「こんな淋しい果物畑の路を淋しいとも思はず、かへつて無限にたのしいとくらゐに思へるのは不思議なことだ。こんな經驗はあの永い東京生活のなかで、一遍だつて味はつたことがない。これといふのも此處は例によつて自分の生れた土地の地續きだからだ」
といつもの觀念に頭のなかの物が移りこむ。自分の生れた土地といふのは弘前の事で、今私の住んでゐる此の村はその弘前から三里離れてゐる。地續きのお
大自然はたとへ死物でも、人間が幾代も掛けて作り出す縁故は、人間の意識を不思議な深さまでくり擴げる。これが深夜無人の境地のやうな廣い林檎畠の路をあるいても、わたしを少しも淋しがらせてくれないのである。
大正十三年十二月・津輕青女子
故郷、故郷! ほかの土地の人間からどんなに詰まらなく見えるところでも、これを故郷とする人間にとつて土地が心に及ぼす作用は異常である。われ等がこの世に初めて生れいでた土地に生えてゐる一と撮みの草だつて一とかけの石ころだつて、
大正十四年夏・津輕青女子
郷里生活をした初めの年の夏、裏日本の北部でこの季節には特有の青い高い空から、すがすがしい微風が吹きおろされ、地上は
ながく咲くのは
とそれこそ聲を長々と引つ張つて、號泣するやうに唄つた一と文句である。
わたしは山間の坂みちから、木の茂みや、屋根で重なりあつた谿底の村が眼に浮んだ。そこには胡桃の大木が、田舍びた滿枝の花を見せて咲きさかつてゐた。
ながく咲くのは胡桃の花よ
純朴な
註一。ボサマは坊樣 で、盲人の男女の唄うたひ、此の地方から北海道までも逍つて歩く。唄はジヨンカラ節、ヨサレ節なぞといふ津輕民謠で、この胡桃の唄も或るジヨンカラ節の一句である。
融雪期が進行していつて其の遠い果てが海まで續くひろびろとした津輕平野で、去年の枯草と今年の新らしい黒い土とが春の日光を浴びる時、またこの平野を圍む山腹のそちこちの澤や、谷が薄い靄を棚引かせて、その奧に山肌の荒い
コブシはこの地方では普通
雜木林をチヨビチヨビ並べて一と筋につらなる村々の
故郷を二十年も離れて日本南方の海の明るさに感心し續けて來た感銘では、今故郷の
友達の眼の長く切れた
【「百姓女の醉つぱらひ」の東京俗語譯】 お前の亭主は幾歳だい。私のは今年二十六だよ。何を笑ふんだネ。お前の母親 の姉だつて、二十も年下の男をもつたぢやないか。わたしはそんなに違やアしないよ。本當に嬉しいね、雪が融けてサ、鯡を日當りの屋根に干す頃になると、田圃の仕事が忙しくなつて、夫 と晝間まで田をこねまはして、そから田の畔へあがつてサ、御飯も食べるし、酒も藥鑵に仕込んだのを二人で仲よく飮むんだよ。コブシの花でも、蕗の薹の花でも、彼處の田の畔から見れば結構この上ない花見なんだよ。弘前 の公園の觀櫻會見たやうに、白粉の香ひがプンプンするやうなものぢやないよ。へん! 二十六の亭主をもつたつて何がキマリが惡いんだよ。わたしのやうに十年も後家を立ててサ、よその家から子供を貰つて、藁の上から育てて見ても(作者註、吾が津輕地方の農村では、今なほ産婦は板敷に藁を敷いて子を産む習慣になつてゐる)、羸弱 くてあんな病氣に取り憑かれて死なれて見ると、派立(本村 の分村)の目病み婆見たいに八十の身空で、世話になる孫子にも嫁にも皆死なれて、村役場から米だの錢だのを貰つて、厩 よりもまだ汚い小屋へ這入つてヨ、乞食をして暮らす樣子が眼に見えて來ようぢやないか。へん! 他人に惡口をいふ隙に、自分の飯茶碗の蠅をお拂ひよ。十年も後家を立てて、彼方の嚊ア此方の嚊アから姦男 をしたの、亭主を取つたのと呶鳴りこまれて、年がら年中おこらせてゐたつて何になるよ。若くたつてわたしを好きだといふから、連れ添つた夫婦だあね。十年も死んだ亭主に義理立てて、この上なに惡口言はれる事があるんだらう。蠅をお拂ひよお前さんの飯の上の蠅をお拂ひよ。はゝゝゝゝゝ。いや、ステキだね、ステキだねえ、春になつて、鯡を干して、馬を出して、春風の吹く中で田をこねて、はゝゝゝゝゝ、お晝になれば、コブシの花を眺めてお酒を飮んでそれからまたノツシノツシと田へ這入つて、はゝゝゝゝ「婆の腰ア、ホウイヤ、ホウ……、婆の腰ア、婆の腰ア、ホウエヤ、ホウ……」
斷り書 ○地方主義の作家はその地方語をもつて創作することを主張するものである、詩、小説、戲曲すべて之れを實行せよといふ。私の右の一篇はその最初の試みを散文詩の上でしたものである。赤子の時より精神に刻みつけられたる言語を離れて、魂に眞實に響く文學的活動はない筈である。作者に於て然り、また同郷人間に於て然りである。○一方地方主義者は國内の各地方語を主宰し、民族全體の文明を負うて鍛へられたる、乃至鍛へられつつある共同語(今日普通に標準語と云はれてゐるもの)をも尊重する。そして文學的に成熟されたるそれの種々の機能、形式をも尊重する。だがそれはそれ、之れは之れである。○共同語は國語の代表的な位置に立つものであるが、國語の全體ではない。地方語、少くも方言をも併せてそれは國語である。○多くの日本人が間違つて讀んでゐるやうに、三保の松原を Mio-no-matsubara と發音しては三保の松原の情景の出ないことは、一度その土地に行つたことのある者の經驗することである。その土地では三保を Miho と h の音を響かせる。上州の吾妻郡に對するアヅマ郡、利根上流の吾妻川に關するアヅマ川も同樣な謬りの例(正しく發音すればアガツマ郡、アガツマ川)である。聲音は言葉の存在の形體である。從つて聲音を無視して言葉はない。○吾日本に於ける漢字の使用は、日本人の言語上の意識を甚しく毀損した。なぜなら漢字は聲音を無視して成つた觀念上だけの指表、即ち目じるしに外ならないからである。○音表文字も觀念の指表たるに止まる場合がある。事實また音表文字も萬國音表文字さへ聲音の完全な寫眞ではない。だが上海英語、英領植民地英語を在來の英語綴字法で記述しても、そこに何等かの土地の臭味を現し得、また桃山時代出版の伊曾保物語平家物語の歐字本がその時代生活を現してゐる。○言葉は國の手形である。そして生活の事實上の運搬をなす。○聲音に不注意な在來日本人は地方語なるものに至つて無自覺である。例へば東北のズウズウ辯と言ふごときも東北地方にはズウズウ音の分布は、何ぞ計らん東京の御膝下の茨城地方に始つて、會津地方を通じ、仙臺山形地方に北上してゐるのに止まり、南部、秋田、津輕の三地方には痕跡がないのである。この點東北のズウズウなる通り言葉は意味をなさない。○これに反し東北には他の地方にない正確な音、例へば「ハ」と「フワ」、「ガ」(喉音)と「ンガ」(鼻音)の如きも明瞭に區別する。東北有名の「シ」と「ス」の混同の樣なのも、實は混同ではなくてそのどちらにも屬せぬ一音 si である。日本語には昔シとスの區別がなかつたのではないかと思はれる。濁音の多いのも日本語の昔の形であると信じる。○地方語の民謠を記述するのに、今迄のやうに音をたださず、平氣で東京語發音化することも、無自覺千萬である。○わたしの此の試作は可成り純粹な津輕の口語で書き得たと信じる。コブシの花を嘆美するあたりも、これ位の事は百姓が普通いふことで、強ひて私が詩的がつたのではない。なほこの百姓女の性質がキツイのも、津輕女性の地方性上の典型として描出したのである。○なほ本二篇の假名づかひは片假名は純發音式、平假名の分は在來の假名づかひに、私の習慣の文部省式を多少交へてゐる。○尚右試作は室生犀星、芥川龍之介氏が後援の月刊雜誌「驢馬」の大正十五年五月特別號に發表されたもので校正に骨の折れる此の樣な作品を當時喜んで發表の勞を採つて戴いた同人諸君にこゝで尚改めて感謝の意を表したい。――大正十五年三月二十六日上京中、深川に於て
斷り書 ○地方主義の作家はその地方語をもつて創作することを主張するものである、詩、小説、戲曲すべて之れを實行せよといふ。私の右の一篇はその最初の試みを散文詩の上でしたものである。赤子の時より精神に刻みつけられたる言語を離れて、魂に眞實に響く文學的活動はない筈である。作者に於て然り、また同郷人間に於て然りである。○一方地方主義者は國内の各地方語を主宰し、民族全體の文明を負うて鍛へられたる、乃至鍛へられつつある共同語(今日普通に標準語と云はれてゐるもの)をも尊重する。そして文學的に成熟されたるそれの種々の機能、形式をも尊重する。だがそれはそれ、之れは之れである。○共同語は國語の代表的な位置に立つものであるが、國語の全體ではない。地方語、少くも方言をも併せてそれは國語である。○多くの日本人が間違つて讀んでゐるやうに、三保の松原を Mio-no-matsubara と發音しては三保の松原の情景の出ないことは、一度その土地に行つたことのある者の經驗することである。その土地では三保を Miho と h の音を響かせる。上州の吾妻郡に對するアヅマ郡、利根上流の吾妻川に關するアヅマ川も同樣な謬りの例(正しく發音すればアガツマ郡、アガツマ川)である。聲音は言葉の存在の形體である。從つて聲音を無視して言葉はない。○吾日本に於ける漢字の使用は、日本人の言語上の意識を甚しく毀損した。なぜなら漢字は聲音を無視して成つた觀念上だけの指表、即ち目じるしに外ならないからである。○音表文字も觀念の指表たるに止まる場合がある。事實また音表文字も萬國音表文字さへ聲音の完全な寫眞ではない。だが上海英語、英領植民地英語を在來の英語綴字法で記述しても、そこに何等かの土地の臭味を現し得、また桃山時代出版の伊曾保物語平家物語の歐字本がその時代生活を現してゐる。○言葉は國の手形である。そして生活の事實上の運搬をなす。○聲音に不注意な在來日本人は地方語なるものに至つて無自覺である。例へば東北のズウズウ辯と言ふごときも東北地方にはズウズウ音の分布は、何ぞ計らん東京の御膝下の茨城地方に始つて、會津地方を通じ、仙臺山形地方に北上してゐるのに止まり、南部、秋田、津輕の三地方には痕跡がないのである。この點東北のズウズウなる通り言葉は意味をなさない。○これに反し東北には他の地方にない正確な音、例へば「ハ」と「フワ」、「ガ」(喉音)と「ンガ」(鼻音)の如きも明瞭に區別する。東北有名の「シ」と「ス」の混同の樣なのも、實は混同ではなくてそのどちらにも屬せぬ一音 si である。日本語には昔シとスの區別がなかつたのではないかと思はれる。濁音の多いのも日本語の昔の形であると信じる。○地方語の民謠を記述するのに、今迄のやうに音をたださず、平氣で東京語發音化することも、無自覺千萬である。○わたしの此の試作は可成り純粹な津輕の口語で書き得たと信じる。コブシの花を嘆美するあたりも、これ位の事は百姓が普通いふことで、強ひて私が詩的がつたのではない。なほこの百姓女の性質がキツイのも、津輕女性の地方性上の典型として描出したのである。○なほ本二篇の假名づかひは片假名は純發音式、平假名の分は在來の假名づかひに、私の習慣の文部省式を多少交へてゐる。○尚右試作は室生犀星、芥川龍之介氏が後援の月刊雜誌「驢馬」の大正十五年五月特別號に發表されたもので校正に骨の折れる此の樣な作品を當時喜んで發表の勞を採つて戴いた同人諸君にこゝで尚改めて感謝の意を表したい。――大正十五年三月二十六日上京中、深川に於て
春の季節をわたし等雪國人種の特に待焦れることは、雪に半年もとざされるからだと云ふぐらゐの事では足りない。寧ろも一つ進んで言ひたいことは、大自然が見せた無類の威力から、吾々人間が放されたいことから起る本能のやうに強い欲求だ。實際また雪ぐらゐ此の威力のすばらしい表現はなからう。暖國人種たる諸君も大自然の威力なら知つてゐると、胸をそらして言ひ放す人があるかも知れないが、諸君の出逢ふそれなぞは、一寸考へまはして貰ひたい、幸福の絶頂か、大自然の氣まぐれ藝當かの二つに過ぎぬ。
熱帶だつてその暑さのために
雪はさうではない。一年のうちきまつて一定季節のもとに降り出し、地球の殆ど半ばを白く凍らせる。それは毎年規則ただしく、嚴格に、必然にやつてくる。世界はこの季節の間、北に向つて進むかぎり、どこまで行つても白いもののほか見るよしもない寂寞とした、單調な、人間にとつて極限までも無力なる死の擴がりである。この決定的なる必然さと無力さ! ここに大自然の底の知れない森嚴と壓迫とを内容とする威力が示される。
人はこの下に膝を屈して「無」の中にぢつと生活するしか
眞つくろな空から粉のやうな雪が、誰かの言葉だが、まるで
廣野の遠くの森がこの雪の中に煙つて見えるのが朝の九時、邊りが軈て雪の他に何ものも見えなくなるのが正午、軈て晩になると、降り積つた雪の重さで、夜の十時頃から家の大屋根の棟が鳴り軋む。幽嚴きはまりない思ひに打たれる。
外に出て見る。月が中天にかかつて密雲にとざされ、あたりには朦朧とした光を放射してゐる。村の通りも見えず、木も見えず、家も見えない、ただ無數に無限にサラサラと降りつむ煙のやうな、靄のやうな粉雪をおろしてくるだけである。
こんな晩、その朦朧とした空に虹が出てゐるのを見た覺えがある。
……だが恁んな靜かな雪降りは一と季節にもさうたんとない。大抵は吹雪が三日四日、ときには七日も凄まじく吹きつづける。兩方の親指と人差指とで作つた、四角ぐらゐの大きさのガラス窓から、風の轟々と鳴る戸外をのぞいて見る。そこは白晝ながら朦朧として、丁度海の底でも見るやうに薄ぐらく、森の骨まばらな巨木が昆布のやうに
顏を窓から離して、また今までとおなじ姿勢にかへる。わたしはこんな日何も讀まず、朝から書齋の爐のはたに默々としてうづくまつてゐる。晝めしを食べたあとも、また書齋にかへると同じ姿勢で默々としつづけてゐる。別に何も考へるでもない、ただ引きりなしの風音に耳を傾けながら、心のさまよつて行くころは、今の人間の世から何千年か先き、何萬年か先きの原始の境涯である。
北緯四十二度、時節は一月初め、歐羅巴や北米ゾーンと違つて亞細亞はこの緯度で十分寒く、首都の東京を離れる二百里で、「白色恐怖」は思ひの儘に威力を振ふ。
人間はこれに對して最初は抵抗する。雪が降るとまるで本能の目ざめのやうに、武者ぶるひして振ひ立つ勇猛な心さへおこる。だが大自然に正面から、そして不用意にあらがうて何の利益のないことは、どんな農民の無智なものも知つてゐる。秋の收穫が十月でをはり、日は一日毎にくらくなる頃、冬のための焚き物や食べ物の貯藏、家根や塀のための雪がこひの支度に取りかかる。その頃雨は毎日降る。瞬く間に山は痩せ林は裸になり、一物もない土地はひろびろと地平線につづき、到來の季節のために世界をあけわたす。やがて毎日の雨は霰と變つて、天の一角を
地方農民はここで覺悟のほぞをきめる。大自然の嚴たる必然さ、人間のただ頭をさげるしかない無力に畏怖し、やつと習慣的な微笑でもつて心の苦痛を慰め、霰の晴れ間に兩手を襟もとに突込みながら、家のぐるりや、肥やしの置き場や、裏のひろびろとした田圃やを見廻るのである。
春が間近になる。夜なぞ外に出ると、星のない眞つ黒な空にも何ものか温かい氣が充ち充ちてゐるやうに思はれる。この頃雪が降れば粉雪ではなくて、牡丹の花びらのやうなボダ雪である。ついでこの雪が空中で融けて、何日か北方を目がけて眞一文字に吹く烈風におくられ、山や、野や、村の雪を融かす雨となる。河や、田に滿々と濁水を湛へて、
雨の降らない日は殘雪の底冷えで朝なぞ寒いが、曉闇の空氣を破つて山の小鳥の一隊が鋭くつぶやきの聲をあげ、屋根をガサガサ鳴らして餌をあさる。それが毎朝殖えてゆく。そして一群の羽音は未だ暗い屋のうへに強くはためき、この永いあひだ雪の音、風の音しか聞かなかつた單調な吾等の思ひを破る。わたしは何度枕に顏をおしあてて俯伏し、この小さい猛禽達の羽音、つぶやきに、斷ちわられたる季節の境を感じ、あの鼠なきといふ胸の迫る感激を覺えたらう。
雪は毎日融ける。日和は毎日續き出す。空には濛々と水蒸氣がたてこめ、畑の上の一面の雪は割れて黒土をあらはし、環境をめぐる山々は青くけぶり、その鋭い山肌の稜を靄のなかに水晶のやうに輝かし、街道は人馬の往來が頻繁になり、子供等は騷ぎ、農家は活氣があふれ、もう春の來たことは何處にも彼處にも見えて來る。
やがて大地の雪は皆消える、蕗の薹が淺みどりの鮮かな姿をあらはし始める。木の肌は光り、大地はうるほふ。
わたし等の體中の血が新たな血でめぐる思ひがし、腕、足の筋肉が力を別にした氣がして、ここらでは百姓女まで勞働用に穿くゴム靴を穿いて新しい大地のうへを歩む。
季節の享樂は最も健全な意味で、かうしてわたし等雪國人種に
昭和三年六月・世田ヶ谷西山