両座の「山門」評

三木竹二




都座(明治二十九年二月)


 一番目「楼門五三桐さんもんごさんのきり」は五幕に分る。宋蘇卿明そうそけいみん真宗しんそうの命に此村大炊之助このむらおおいのすけと名乗り、奴矢田平やだへいと共に真柴久次ましばひさつぐに仕へ、不軌ふきを謀りしが、事あらわれて自尽じじんす。その最期に血書したる片袖を画中より脱け出でたる白鷹もたらし来てその子石川五右衛門に渡す。五右衛門南禅寺の楼門にあり。武智光秀に養はれしため早く真柴久吉ひさよしを恨めり。遺書を見るに及びてますます復讐ふくしゅうの志を固うす。偶々たまたま久吉順礼姿となりて楼門下に来り、五右衛門と顔を見合すを幕切まくぎれとす。これを読まばこの筋の評するねうちなきこと自らあきらかならん。
 九蔵くぞうの此村大炊之助は見ず。宋蘇卿最期の所は気乗に乏しく、鷹までそれにつり込まれて、四、五度も袖を落ししは、頼みがひなく見えたり。矢田平のたて、長いのでは有名な方なるを、訥子とつしの勤むることなれば、見ぬ方大だすかりなり。宋蘇卿の最期にくる所も騒がしきだけなり。
 楼門の幕明まくあきには、とにかくこの座だけの大薩摩あり。幕を切て落すと花の釣枝と霞幕とに装はれたる朱塗の楼門見事にて、芝翫しかんの五右衛門大百だいびゃくに白塗立て、黒天鵞絨くろビロウド寛博どてら素一天すいってん吹貫ふきぬき掻巻かいまきをはおり、銀の捻煙管ねじぎせるを持ち「春の眺は」の前に「絶景かな/\」と云ふ句を加へ「眺ぢやなあ」までを正面を切て云ふ処立派なり。しかし全く春の眺に感服してこの文句が出たとは見えず。とひよを聞きて、ぎつくりしてあたりを見廻すも、五右衛門にはあるまじき仰山なる仕草なり。袖を取りて読むくだりは、例のめちやめちやにて、宋蘇卿を「そうそうけい」と云ふなど大愛嬌なり。「おのれ久吉、今にぞ思ひ、待て居れ」にて、左の手に片袖をつかみ、右の手にて我左の袖をかかげしまま、左の二の腕を握り、右足を高欄へかけ、きつと見え、このこなしにてせりあげになる所もまた立派なり。ただ寛博の前を行儀よく合せたるは拡げてもらひたかりき。
 九蔵の久吉浅黄あさぎのこくもちに白のおひずる、濃浅黄のやつし頭巾ずきんかぶり、浅黄の手甲てっこう脚半きゃはんにてせり上げの間後向うしろむきにしやがみ、楼門の柱に「石川や」の歌をかき居る。道具止ると、筆を墨斗やたてにをさめ、札を肩にかけ、立上り、右に柄杓ひしゃくを持ち、左にかさを持ち、斜に下手に向ひて、柱に記しし歌を読み「順礼に」にて五右衛門が打ち出す手裏剣を右手の柄杓に受け止め、さてその柄杓を左手に取り直してさし上げ、右手を腰のつがひにあて「御報捨」と云ひての見え、これも立派なり。しかし頭巾の色濃すぎて醜く、しやがみて歌をかくも見た目悪し。せり出しは真中にてもきりにはぜひとも水盤の下手へ廻らでは五右衛門との形の釣合悪きに心付かぬは大不承知なり。
 二番目「春景色梅由兵衛はるげしきうめのよしべえ」は三幕なり。男達おとこだて梅の由兵衛古主こしゅうの息子金谷かなや金五郎に、その情婦にて元は由兵衛の古主にちなみある芸者小さんを身受みうけして添はせんため、百両の金の工面にくるしみし折しも、由兵衛の妻小梅の弟なる長吉が、姉の頼にて、おのれが私通せる主人の娘おきみに調へ貰ひし百両を携へて来るに逢ふ。由兵衛は未だ長吉と面を合はしたることなきため、義弟としらずして殺し、その財布を奪ひ、小梅の書状を見て、始めておのれのために調へたる金なるを知るに終る。古来の俳優はただ長吉と小梅との早替りを以て能事おわれりと心得たるが如し。
 九蔵の梅の由兵衛、今より十年前中村座にてなしし時も評はよかりしが、序幕のみにて殺しをば見せざりき。
 向島の場にては、紫縮緬むらさきちりめん錏頭巾しころずきんをかぶり、右の※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみにあたる所に小きじょうを附け、紫縮緬に大いなるからす数羽飛びちがひたる模様ある綿入に、黒手八丈くろではちじょうの下着、白博多の帯、梅華皮かいらぎざめの一本差、象牙の根附ねつけ銀鎖ぎんぐさり附きたる菖蒲皮しょうぶかわさげ煙草入、駒下駄と云ふこしらへにて、きつかけなしに揚幕より出で、金五郎を呼び止めて意見をし、花道にいきかけたる勘十郎に向ひて、堪忍の歌を繰返し、手に持ちし金包を見て、この百両と云ふ。悪漢かかると、何をしやあがると振払ひて、内懐に入る。悪漢胸ぐらを取るに構はず、向ふを見て「花は三芳野、人は武士、情けぶけえ御方だなあ」と云ひ「さてはなせ、はなさねえか」と云ひ、右手を出し、悪漢の手をぢあげてほうりだし「ざまあ見やがれ」と云ひ、懐手にてゆうゆうと上手に入るところすつきりとしてよし。
 大七の場、金五郎のたしなめを上手にてきき居て切迫せっぱつまりしところにて、百両包を投げ出し「なんにも言はずとこの金を、そつくりかへしておしまいなせえ」のところこたへたり。「今ぞ始めの旅衣、よいやまかせ」にて頭巾をかなぐり捨て、糸鬢奴いとびんやっこ仮髪かつらを見せ、緋縮緬ひぢりめんに白鷺の飛ちがひし襦袢じゅばん肌脱はだぬぎになりすそを両手にてまくり、緋縮緬のさがりを見せての見えは、眼目の場ほどありて、よい心持なり。源兵衛「その内逢はう」との道具がわりもよし。
 裏口の場、小梅との引込相応に色気ありたり。
 大川端の場、棒縞ぼうじま糸織いとおりの一枚小袖、御納戸おなんど博多の帯一本差し、尻端折しりはしょり雪駄ばきにて、白縮緬のさがりを見せ、腕組をしながら出て、花道のつけぎはにとまり「金がかたきの世の中とはよく云つたことだなあ」と云ふせりふ、しんみりとせり。長吉を送つてやるとて、仮花道から大廻りして、また本花道へかかり、百両の金を持ち居ると聞き、やたらに欲くなる様子よし。訳を云ひて頼めども聞かぬゆゑ、おどしのためにぬきし刀にて、誤り殺すと云ふ仕悪しにくき仕草をも、充分たっぷりにこなしたり。この役はこの人の外やつて見る人もあるまじ。
 芝翫の源兵衛堀の源兵衛、思の外よし。
 芝鶴しかくの手代長吉と女房小梅との二役、頭巾を取つたり冠つたりするは御苦労なれど、小梅はどうしても女にならず。
 女寅めとらの娘おきみ、美くまた気乗りありてよし。染五郎の金屋金五郎は、元と武家出と云ふ腹もあつて、相応にこなしたれど、菊之助の伝兵衛とはくらべものにならず。猿蔵さるぞうの信楽勘十郎、庄屋めきたる家康公にて一驚を喫はせられし当座なれば、評は預る。滝十郎たきじゅうろうの米屋佐平鶴五郎つるごろうの曾根伴五郎、いつ見ても年を取らで結構なり。喜猿きえんのどび六実は十平次、乞食が侍に化けると云ふ役廻りほどありて、思ひ切つて臭さ味をふりまはせり。団七の医者久庵、思つた割にをかしくなけれど、木登りをして熊だからすだとからかはれ、とど木から落ちて「両人待つた」と云ふ。由兵衛が「何だ」と云ふと「お楽み」といひてうずくまる処は受けたり。同人の角力長五郎は大によし。
 鶴三郎の芸者小さんは柳盛座よりここへぬけたばかりで、立旦たておやまの役を廻されしため、諸新聞の攻撃を受けしこと、気の毒なり。
 大切おおぎり浄瑠璃じょうるり上の巻襖落那須語すおうおとしなすのかたり」、下の巻名大津画噂一軸なにおおつえうわさのいちじく」。上は太郎冠者主人の使にて、伊勢参宮に同行のことを、主人のをぢに尋ねに行きしに、そこなる姫御寮より餞別の酒を賜り、所望によりて那須の語をなす。さて褒美に賜はりし素襖すおうをいたく秘めかくさんとして、酔へるあまりに取落ししを主人に拾ひかくされ、あわてて捜しまはると云ふ筋なり。下は大津絵の襖画ふすまえぬけいでておどると云ふ曲なり。
 新蔵の太郎冠者以下、それぞれにひとりよがりの所を見することなれば悪い気遣あるまじ。
 女寅の藤娘は無法に美しく、升蔵ますぞうの座頭はかるくてよし。(三月四日見物)

明治座(明治二十九年三月)


 一番目はやはり、「楼門五三桐」なれど、都座に比ぶればやや複雑せり。奴矢田平は明の宋蘇卿の遺子順喜歓じゅんきかんが仮の名にて、これしきの一天下を覆がへすになんの手間隙と云ふ意気込にて、真柴久次に仕へしが、老女石田のつぼねに見あらはされ、自尽す。その折矢田平が父より夢中に授かりし片袖を、白斑しらふの鷹来てつかみ、飛去る。この石田の局もまた光秀の臣四天王但馬守の妻にて、久次の放埒ほうらつに乗じてこれを押し込め、真柴の天下を覆さんと云ふ大望を懐きたりしが、手もなく裏をかかれ、久次の放埒は手段なりと聞き、これに手向はんとせしに、おのれの妹に仕立てたる武智の姫君皐月さつきを人質にとられしため力及ばず「武智の姫はなんじの娘のつもりにて尼になす」と云ふ淀の方の言葉をきき「思ひおく事更になし」と、たちまち覚悟して自殺す。能舞台を芝居に担ぎ込んで来たる必要は更に見えず。殊に久次の乱行は反間苦肉はんかんくにくとの事なりしが、それにしては手討になる老臣粟田主膳といふ男こそいい面の皮なれ。楼門の場も筋は無法の極端に達せしものなれど、上下の人物の配合はまた無類の趣向なり。
 団十郎の石田局、矢田平が久次の身替にたてくれよとせがむを「はてさてしつこい、立ちやといふに」と袂を振切り立上らんとして、矢田平が落ししふくさを拾ひ、開けて船切手を見「まちや/\、用がある」と呼止め、切手は左の袂に入れ、立身たちみにて斜に下手に向ひ、左の袂の手をつつぱり、右手にて左の袖口を持ち「おもてをあげい」にてしげしげと眺め「はて、矢田平ぢやなあ」と気味合にていひ、右に廻りて後向になり、また頭を右に向けて見やり、そのままさつさつと上手へはいる所は充分に応へたり。おもてをつけず熊野ゆやの舞一くさりあり。久次の牢輿ろうごしにて連れ行かれしを見送り「まことや槿花きんか一日のさかえ、是非もなき世の盛衰ぢやなあ」との白廻せりふまわしもねうちあり。本行にて竜神の舞は見事にて、棹を捨てると遠寄とおよせになる。これにてちよつと思入おもいいれあり。娘の出にて面をとり、つかつかと舞台の端に出で、見附け柱を抱へて向ひを見込む所よし。赤顔あかがしらを除き、半臂はっぴぬぎ捨て、侍女の薙刀なぎなたを奪ひ、大口おおくち穿きしまま小脇にかいこみたる形は、四天王但馬の妻と見えたり。
 石川五右衛門にて寛博どてらの前をくつろげ、胸を見せたるはよく、やや頭を左に傾けたる形風情あり。のべの銀煙管は市川流なり。「春の眺は」云々をゆつたりとして、句切句切に力を入れての言ひ廻し、句の意味にかなひてよし。「はてうららかな眺ぢやなあ」にて、左手を内懐より出し、右手の煙管を持添へて突立てる仕打あり。鷹のとまりしをふ所にて、煙管にて欄干を叩く外に、鷹の前にて煙管を廻し見るは新し。遺書を読む処は、句ごとに拾ひて読む心持あり。うらみぶる意気込すさまじく「おのれ久吉」にて、右手は内懐より出して片袖をつかみ、左手にて右の腕首をひじとの中ほどを握り、右の足を高欄にかけしまませりあがる。「石川や」の上の句をききて、不審の思入ありて心づき、右の手の片袖をそのまま内懐に入れ、下を見下し、下の句きるると「なんと」といひて刀を取上げ「順礼に」にてえいと手裏剣を打出し「御報捨」にて、高欄に足ふみかけたるまま、半ば刀を抜きかけて、きつと見下す処にて幕となる。
 菊五郎の真柴久吉、浅黄の頭巾は普通にてよし。せり上げの間はすでに柱に歌を書きをはり、立身たちみにてやや下手に向き、墨斗やたての紐を巻き居る体なり。笠は水盤によせかけあり。道具止ると柱に向ひ上の句を読み終り、下の句を読みながら上に思入れあり。「順礼に」にて、柄杓を左手にてぬきとり、これに手裏剣を受け止め、下手に廻り「御報捨」にてそを右手へ取直してわずかにささげ、左手は手洗鉢ちょうずばちの縁にかけ、さげすみたる笑にて幕となる。
 試にある好事家こうずかの望に因りて、両座の楼門をくらべ評せんに、大薩摩やら大道具やら衣裳やら、勿論もちろん銭目かねめだけの事はありて、明治座を勝とす。芝翫の五右衛門は面構へこの役にかなひ、見えなどは幅があつて、総体に芝居らしき処はよし。気の入れ方、仕打、白廻せりふまはしは芝翫の方は論外にて、団十郎とは較べ物にならず。九蔵の久吉は頭巾もまづく、人形のならべ方に心付かぬは老功の人に似合はしからず。菊五郎は「世に盗人の」にて上へ思入あるため五右衛門の受が引立ち、笑ひも真柴大領の腹ありて、九蔵に比すれば遥に好し。
 権十郎ごんじゅうろうの真柴久次、持前の疳癖かんぺきの強き殿様なれば評よし。秀調しゅうちょうの淀の方貫目かんめは確なり。小団次の矢田平思切おもいきって派手にこなしたれば、役者だけのことはありたり。福助の早瀬栄三郎の滝川は対の着附にて引据ゑられし処あざやか/\。その他役々いづれも御苦労。
 中幕、「菅原伝授手習鑑すがわらでんじゅてならいかがみ寺子屋の場、この筋はまづやめておくべし。団十郎の武部源蔵たけべげんぞう、腕組をして考へながら揚幕を出で、花道中ほどにて留り、向ふを見て気を替へ、つか/\と舞台に来り、門口を開けて子供を見廻し「いづれを見ても山家育やまがそだち」といひて、下の句をいはず、力脱けし思入にて戸をしむ。この仕打のやや仰山なるため多数の人は早く家へ帰つてとは取らず、ここで身替の思案がつきし様に取るは無理ならず。小太郎が会釈えしゃくうちも、なほ上手の子供をずつと見廻して漸く心付き、これならばと思案を定める工合得心がいき、貴人高位のせりふよろこびあまり溢れ出でし様にて好し。「品によつたら母もろとも」にて息込み、戸浪となみが「えゝ」と驚くを「これ」と押へ、調子を替へて「若君には、替へられぬは」といふところよし。「すまじきものは宮仕へ」の句を除き「互に顔を」にて刀をつき「我子も同然」にて立ち上り「報はこつちも」はしんみりといひ、右の襦袢の袖口にて眼を拭ふ。さて刀を置き、若君を戸棚に入れ、戸の前にぬかづく。伝授のまきを内懐に入るる仕草は除けり。刀を提げ、表を開き見て、女房に手にて奥へ行けといひ、二重にて入り替り、暖簾口のれんぐちに入る。「撃てば響けと」にて一旦出で、女房を刀のこじりにて押へ入ることあり。入来る両人にて検使を出迎ひ、松王まつおうと行逢ひ、附け廻りにて下手にかはる、松王が「ありのはひる」といふ処「相がうがかはる」などという処にて思入し、「身替のにせ首」にて腹に応へし模様見え「玄蕃げんばが権柄」にてはつと刀をさし、右の小脇に首桶をかかへ、二重を上らんとす。女房が「もし」と追ひすがるを、振かへりてぷつとしかる。次の出は羽織を脱ぎしほしほとして出で「しつかりと」といふ白に力を入れ、刀を引寄せ、小刀をも抜出して揃へ置き、体を斜よりもむしろ後向になし、両手を膝につき松王の方をじつと見込む。「源蔵よく打つた」にてほつと腰をおとす。検使の帰る所にては手をついたるままその方に向き直る。さて膝に手をついて立上り、二重に上り、手真似にて女房に門をしめさせ、暖簾口をのぞき、また手真似にて門口の錠をかけさせ、戸棚を開き菅秀才かんしゅうさいの顔を見て、始めて気のゆるみし心にて、後へべたりと尻餅をつき、手を合せ拝み、また正面を向きて上を見上げて拝む。胸を押へ、女房に飲む真似をして見せ、水呑より水を呑まんとして二重より片足落し、呑み終りて女房に渡し、息をきらする仕草あり。千代が門口を叩くを聞き、女房が物言はんとするを、右手にて後より抱き、左の袖を女房の口に当て、無理に引つ立てて二重に上り、若君を出して奥に伴はせ「はい、只今、誰ぞいぬか、無用心千万な、只今」といひ、刀を左に提げ、右手にて拝み、涙をふき、戸を開く。千代と顔見合せ、ほつとして体をひき「はゝゝゝ」と軽く笑ふ。刀をつきて坐り「されば手前でござる」云々の白あり。上手にやり「御勝手」にて抜き掛く。千代が振かへると刀ををさめ「ふゝゝゝ」と笑ひ、次に右の偏袒かたはだぬぎになり、たすきをかけし襦袢を見せて、切りかけ、二、三度外され、千代が下手に膝をつき文庫にて白刃をうくる仕草あり。「経惟子きょうかたびら」にてびつくりして後へさがり、二重に腰をかく。「何人の」にて刀のむねを左の平手に当てて構ふ。短冊をぎんじのみ込めぬ思入あり、入り来る松王を見て刀をふりかぶり、刀投げ出すを見、なほ疑解けぬ様子にて坐り、白刃持つ手を膝の上に置く。松王のことばの中に刀を納め、襷をとり、肌を入れ、松王が投げ出しし大小を揃へて返す。愁歎しゅうたんの中はじつとうつむき聞き居り「につこりと笑うて」の白は云ひ悪さうにいふ。松王二度目の出よりは脇師の腹ありてよし。すべてのこなし方く本文の意にかなひ、人形流の悪騒ぎなくして、後人の模範となすに足る。
 菊五郎の松王丸、「やれたれよ玄蕃殿」と声かけ駕籠かごより出で、左手に刀をき、下手の床几しょうぎにかかり「助けて返す」にて咳入り「つら改めて」にて右手を懐に入れ、後へ体をのしてきまる。子供を改めるくだりは首を振るだけなり。家に入り源蔵を附け廻りにて、上手に替り、床几にかかる。「しばしの猶予ゆうよと暇取らせ」との白あり。戸浪が寺入てらいりと云ひ掛くると「なゝゝに、馬鹿なことを」と云ひ消す処よし。言訳を聞き終りてほつとする仕打あり。「奥にてばつたり」にてはつと応へし思入ありてよろよろと前に来る。戸浪が立ち上るを「すざり居らう」と叱り、左手の刀の鐺を其方そっちへつき出し、これに右の肘をもたせ、その上に体をのせかけ、口を開き舌を出して大見得あるところぢやぢやがきたり。さて右の拳にて額を叩き、次に平手にて額を押へ、床几にかかる。実検の件は大小を抜とりて下に置き、正面を向きて坐り、先づ首桶に右手をかけ、次に両手にて引寄せ、蓋をとりて前に置き、この上に両手を重ね、正面よりずつと見下し「菅秀才の首に、相違なし」といひ、また玄蕃に向ひ「相違ござらぬ」といひて、蓋をなし、下手に向ひ「源蔵、よく打つた」といひて身をふるはす。首を見ぬ前に松王はすでに我子の身替りに立ちしことはほぼ承知せる事ゆゑ、ここの思入のあつさりなるはよし。短冊を投入れて、次いで家に入り「源蔵殿、先刻は段々」といひながら刀の鐺にて源蔵を押へながら上手に来り、大小を投出して坐り、また右の平手を延し押ふ。女房の歎くを「泣くな/\、えゝ」にて膝をぽんとうち「泣くなと申すに」と叱る。「につこりと笑うて」と聞き「笑ひましたか」とのり出し、女房に向ひて「笑うたと」といひて身をふるはす。「源蔵殿、御免下され」にて懐紙を出し、顔に当てて大手おおでに泣く。総じて松王は品格上々にて貫目も充分にあり、こたふるところも応へたれど、慾をいへば調子がどす一てんばりなるため、やや変化に乏きをうらみとす。八年前竹の屋主人はこの人のこの役を評して、なるほど今代の松王なりといひしが、今日を以て八年前に比するに、その技芸優るとも、劣りはせじ。しかして余はその折も今日もこの評語に団十郎を除きてはの数語を加ふることを※(「足へん+厨」、第3水準1-92-39)ちゅうちょせず。
 権十郎の春藤玄蕃、調子の高いだけがとりどころなり。秀調の戸浪、団十郎の源蔵と相ちて始終寸分のすきなく、まま微に入る妙あり。福助の千代、品格ありて愁歎しゅうたんも騒しからず。菊五郎の松王とは一対の好夫婦なりき。松助の下男三助、生真面目にてよし。市蔵のよだれくり、人の褒むるほどにてはなし。
 二番目「猿廻門途さるまわしかどで一諷ひとふし」、井筒屋伝兵衛の出入屋敷の武士横淵よこぶち官左衛門、伝兵衛の情婦丹波屋お俊を身受せんとすれども、お俊がその心にしたがはざるため、井筒屋手代万八と中買なかがい勘造とに命じて、伝兵衛に贋金にせがねつかひの悪名を負はせ、打擲ちょうちゃくをなす。このうらみを晴さんとて、伝兵衛四条河原に待ち受けて、官左衛門ら三人を殺す。お俊の兄猿牽さるひき与次郎が、盲目の母に貧き中にて孝養を尽せる堀川の住居を、お俊伝兵衛を伴ひて訪ふ。与次郎両人を落しやらんとして、猿にお初徳兵衛の祝言の模様を舞はせて送る。緊急問題は堀川の序ときりとを残して、中をくつてしまふにあり。
 菊之助の井筒屋伝兵衛、花道の出よりお俊との出あひは、かつぷくも調子も、やや若輩じゃくはい過ぎし様なりしが、贋金を見せられ、片膝ついてぱらぱらと金をおとすあたりより、ぐつと引つ立ち、官左衛門に渡しし金も同じ贋金なりと聞き、思はずひ出してのぞき込み驚く所前と一つにならず。官左衛門の悪口はじつと受居りながら、万八の悪口は聞きかねて喰つてかかる処、四郎兵衛に金を渡され、門口まで送つて泣く泣く礼を言ひ、きっとなりてばたばたと内に這入はいり、金包みを官左衛門に打ち附けんとして心附き、坐り直して叮寧ていねいに返す処いづれももっともの仕打なり。官左衛門がお俊を連れ立出しあとを追かけ行かんとして、女房幇間ほうかんに無理に抱きすくめられ「私が心をこれ」と下をたたき「推量して下さんせ」と男泣に泣くところ芝居とは思はれず。河原にての殺しの息込すきなく、お俊の手を取つて花道をけ込むからだのこなしなど、つっころばしの妙を極めし出来なり。黒縮緬裾ぼかしの着附にて堀川に来る所も男前上々なり。
 市蔵の横淵官左衛門、持前の役柄にて手強く応へたり。寿美蔵すみぞうの八坂の四郎兵衛もうけ役ゆゑよし。秀調の茶屋の女房、伝兵衛を抱止むる意気込さすがなり。栄三郎のお俊、今一と息心入れありたし。勘十郎の手代万八よし。又吉またきちの丹波屋六左衛門菊三郎の仲買勘蔵、うつり悪し。勘太郎の中間ちゅうげん宅助よし。和市わいちの幇間は目障りなりき。
 菊五郎の猿牽さるひき与次郎、本物の猿を使つて見すると云ふ触込ふれこみ初日前より高く、当人得意でお辞儀をさせてよろこべども、我はただ菊五郎ほどの名優が人の視聴を引かんため劇にのぼすべからざる動物を劇に上ぼし、愁歎場をして滑稽場とならしめてごうも顧みざる志のひくきに驚くのみ。与次郎の如きは篤実なる所より可笑味おかしみの出る者にて、この役にて名を留めたる坂東寿太郎じゅたろうや二代目三十郎さんじゅうろうは知らず、誰がしてもはしりもとや冗口むだぐち己気おのがきを入れて、与次郎らしき者は近来絶無の姿。久松座の多見蔵たみぞうなど大鼻つまみなりき。菊五郎ももとぼつとをかくる人ならず、ただ申歳さるどしからの思ひ付で出したものなれば、はまらぬはもっともとはいひながら、売込んだ愛敬を振廻し、やたらに気を利せ、洒落しゃれを云ふため、例に因りてその本性を失へり。むだ口の一、二を挙ぐれば、隣のかみさんに水を汲んでやるはまだしも「音羽屋に似て居る」と云はれて「頭のはげた所とあごの長い所だけ似て居ませう」と云ひ、これから寝るとききて「それぢやあ今晩はおたのしみだね」と云ひ、稽古の娘が来ると立たせたり向うへ向かせたりして「けい/\がよく出来た」と云ひ、稽古の間も「大層幅が出て来た」といひ「よう/\、おしい」とほめるなど、気が利けば気が利くほど与次郎に遠ざかり、緊要かんじんな泣かせ場の哀れげのなくなるに心附かぬは、驚き入つたものなり。お俊の着物をでて見、しまひに裾をまくり、手紙を書くと云ふとき堅炭かたずみを持ち来り、お俊の懐中鏡を借りて我顔を写し、見えをして見るも悪るふざけなり。
 寿美蔵の老婆は、毎度かかる役に手覚ておぼえあれば、相応に見られたり。翫太郎かんたろうの長屋の女房は真を得たり。土之助つちのすけの稽古娘はよし。殊に鳥部山は出来たり。三人掛取の内、松助の大屋は本役なれど、権十郎の米屋小団次の古着屋は御馳走の心ならんが、御馳走としてはまづいものにて、ささ事やら何やらで四十分間を費すとはさてもさても。(三月八日及十七日見物)
 諸評者の両座についての評を久々にて見たり。
『東京朝日』の竹の屋主人は相かはらず面白し。「楼門」の優劣を論ずるものを笑ひて、「六万五千の劇通が批評眼といふおっかないものを※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつたところで、娘の子が羽子板屋の店へ立つて気迷きまよいする位なものなるべし」といひながら、御自身もこれを論ぜしは可笑し。九蔵の由兵衛を「奴頭ながらたぼの出て居るちよんまげなり」とて難ぜしは通なことなり。歌舞伎座の番附に事実相違のかどは云々とありしを押へ、「興行ごとに事実相違有無の世話がある様では大変なり」と云ひしが、都座の番附には両優顔競べといふかたりありて、名題は「楼門五桐」と記し、ある新聞には「襖落すおうおとし」に「ふすまおとし」と訓じ、娘千代といひしさへあり。「ふた流この石川に合し、つひに大に山門に脂下やにさがる」といふ句は妙なり。団十郎の五右衛門を評し、「山門がせり上るため見識が下つてはならぬ」といふはよけれど、「このかんがえが先入主となりて、ただ大な声と目をむくだけで気魂精神更に加はらず」といひ、菊五郎の秀吉のみを大に褒めしは例の片贔負かたびいきなり。中幕の両優を「天下無類、古今無類」といふ四字にてすませ、片市と松助のよだれくりと三助とを評せしは大利口なり。栄三郎のお俊が狂言中笑ひしを戒めて、「千万無量の思の中へちよこ/\する猿をたたき廻し、そら御辞儀だほら立つのだと与次郎も何もなしになつて騒ぐ馬鹿らしさ、誰しも笑はぬ者はなく、それを目前に突き付けて見せらるゝなれば、笑ひたくなるは無理はなし、されど其処そこを堪へるもたしなみなり、親父が猿を使ふからは、今に奮発して獅子ししを使つて見せてやると気に張を持て、ほい違つた、獅子を使ふのは西洋曲馬の見世物であつた」といひ、また菊五郎の与次郎を評して、「朴訥ぼくとつな孝行者がたちまち小気の利いた苦労人になつてしまひ、これでは妹もわが道楽のために売つたのかとまで思はる」といひ、「またせがれの道楽には親の意見あり、親の道楽には意見もならず、両人も困るなるべし」といひてあざけりしなど、いづれも可笑し。「菊之助に望むに、町人とて決死の伝兵衛、今少し強くてもよかるべし」とは無理なり。
『読売』の芋兵衛は襖落しといひ、石田局といひ、十二分に能通をならべて留飲をさげしなるべし。ただこの竜神必ず中ほどでさおを捨て、扇を持ち綱の引手を見するが極りの様なるにこれは終まで棹を振り通しにてありしは奇なりといひしが、余が見たるときは、両度とも棹をからりと投捨つるがきつかけにて遠寄を打込みしはき趣向なりとかえりて感伏したり。
 贋阿弥がんあみは芋兵衛と御両人にて、いつもながらの年代記は、御苦労といふべし。殊に贋阿弥は近頃大に型通になられたれど、お誂への「ハテ矢田平ぢやよなあ」、松王がぬつと這入り、懐紙を顔に押当てて泣伏すなどは耳立ちぬ。団十郎の源蔵の花道の思入を難じたるが、これは六二連ろくにれんおだやかならずといひしことあり。友右衛門の型を引合に出されしは当らず。とにかく明治十四年春の評判記を見たまへ。源蔵が若君のつつがなき姿を見て、初めて張つめし気のゆるみしは忠臣の真面目にて、戸棚に入れあれば大丈夫とは知りながら、今更の如く安心せし様を示せるは芝居としての見せ場なり。これを吃又どもまたといひし大向のかけ声に賛成するは大人しからず。菊五郎の松王を徹頭徹尾無類の大出来にて、堀越の源蔵とは月鼈つきとすっぽんの相違ありとは※(「鬲+栩のつくり」、第3水準1-90-34)掻中いっかくそうじゅうなる面白き断定に加ふべし。
『やまと』の弄月庵ろうげつあんは天保生れと自ら名乗りしほどありて、堀越がしたらいざ知らず、今では外に類なき松王なりといひ、源蔵を茶碗に比せば取も直さず青井戸とでも云ふべく、天下一品といふべしといひしは妥なる評なり。
『国民』の斬馬剣禅ざんばけんぜんは自ら青年といひしが、楼門評は味好くせられたり。ただ五右衛門の怨を含む言廻しを、両優とも述懐に精神入り、すこぶ聞栄ききばえありとは、芝翫に対してあまりのお世辞なり。また団十郎の源蔵を弁護して、「思案に余る所より自然に足も止り、急に我家に近づきたるを知り、早足にて帰り云々と見て置けば」といはれしが、これには団十郎首肯すべし。
『絵入日報』の鹿の子が、与次郎の精神を失へりとて菊五郎を難ぜしは、図らず余の意見に合せり。
『日々』の梅痴ばいちは今の劇を腐敗劇と罵りしはよけれど、長吉殺しを近来流行の誤殺劇といひしは目新し。芝鶴を評して、その多能なる点は現時俳優中に匹儔ひっちゅう少しといひしが、この多能は年枝のいはゆる数でこなすといふ事ならばいざ知らず、普通の意味にては受取難し。
『万朝』の蜃気楼は古老の説を訊ぬと見えて、その言ふ所よく当れり。『報知』の松葉は蘭圃らんぽの向を張る楽屋通もなく、至極おとなし。『都』の厭花も前日に比すれば筆馴れたり。中央の素人評、東京の大向評はほんの案内に過ぎず。





底本:「観劇偶評」岩波文庫、岩波書店
   2004(平成16)年6月16日第1刷発行
底本の親本:「めさまし草 巻三」
   1896(明治29)年3月発行
初出:「めさまし草 巻三」
   1896(明治29)年3月発行
※初出時の表題は「芋あらひ」です。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※文中のセリフ、および竹本の詞章などのカギカッコは底本の編者(渡辺保)によります。改行、冒頭の作品名、作品評における場割、芸評における俳優名・役名の太字は編者によります。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年3月9日作成
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