頼襄を論ず

山路愛山




 文章即ち事業なり。文士筆をふるふ猶英雄剣を揮ふが如し。共に空を撃つが為めに非ずす所あるが為也。万の弾丸、千の剣芒、し世を益せずんば空の空なるのみ。華麗の辞、美妙の文、幾百巻を遺して天地間に止るも、人生にあひわたらずんば是も亦空の空なるのみ。文章は事業なるが故に崇むべし、吾人が頼襄らいのぼるを論ずる即ちかれの事業を論ずる也。
 頼春水大阪江戸港に在りて教授を業とす。年三十三にして室飯岡氏襄を生む、時に安永九年なり。正に是れ光格天皇御即位の年、江戸の将軍徳川家治の在職十九年、田沼意次おきつぐ父子君寵をたのんで威権赫灼かくしやくたる時となす。
 王政復古の頂言者、文運改革の指導者たる大詩人はかくの如くにして生れたり。呱々こゝ乳をもとむる声、他年変じて社会を呼醒し、人心を驚異せしむる一大喚※くわんけう[#「口+斗」、277-上-10]と変ずべしとは唯天のみ之を知りたりき。
 あくれば天明元年、春水本国広島藩のまねきに応じて藩学の教授となれり。其婦と長子とを携へて竹原に帰り父を省し、更に厳島いつくしまの祠に詣づ、襄は襁褓むつきの中に龕前がんぜんに拝せり。竹原は広島の東十里に在り煙火蕭条の一邑いちいふにして頼氏の郷里たり。春水の始めてつかふるや当時藩学新たに建つに会し建白して程朱ていしゆの学を以て藩学の正宗となさんと欲す。議者其偏私を疑ひしかば彼は学統論を作りて其非難を弁駁べんばくせり。
 春水の斯の如くに程朱の一端にはしりし所以ゆゑんのもの、決して怪しむに足らず、何となれば渠は選択の時代に生れたればなり。けだし徳川氏天下を平かにせしより、草木の春陽に向つて※(「くさかんむり/出」、第3水準1-90-76)ばうさつするが如く、各種の思想は泰平の揺籃えうらん中に育てられたり。久しく禅僧に因りてたれたる釈氏虚無の道は藤原惺窩せいくわ、林羅山らざんの唱道せる宋儒理気の学に因りて圧倒せられ、王陽明の唯心論は近江聖人中江藤樹とうじゆに因りてとなへられ、古文辞派と称する利功主義は荻生徂徠に因りて唱へられ、古学と称する性理学は伊藤仁斎に因りて唱へられ、儒教と神道とを混じたる一種の哲学は山崎闇斎に因て唱へられ、各種各色の議論はあたかかなへの沸くが如く沸けり。元禄より享保に至るまで人おの/\、自己独創の見識を立てんことを競へり。斯の如くにして人心中に伏蔵する思想の礦脈はこと/″\穿うがち出されたり。支那二十二朝を通じて顕れたる各種の思想は徳川氏の上半期に於て悉く日本に再現せり。創始の時代は既に過ぐ、今は即ち選択の時代なり。紛々たる諸説より其最も善きものを択んで之に従はざるべからずとは志ある者のつとに唱導する所なりき。渠は斯る空気の中に※[#「てへん+妻」、277-下-3]息し、柴野栗山、尾藤二洲、古賀精里等と共に宋儒を尊信して学統を一にせんとするの党派を形造りたりき。幕閣が異学の禁をきたるは寛政元年にして蓋し此党派の輿論を採用せしに過ぎざる也。
 春水の名は其二弟春風杏坪と共に此時既に学者間に聞へたりき。彼は朱子派の儒者として端亮方正たんりやうはうせいの君子として、殊に善書の人として、其交遊の中に敬せられたりき。彼の未だ出でゝ仕へざるや其朋友等相共に広言して曰く百万石の聘にあらずんば応ぜざるべしと。襄が春水より継承せし血液は此の如く活溌なるものにてありたりき。而して春水の室、即ち襄の母も亦尋常の婦人に非らず、襄が幼時の教育は実に彼女の自ら担当する処なりき。思ふに頼氏二世共に婚姻の幸福を有せり、春水は学識ある妻を有し、襄は貞節なる妻を有す、頼氏何ぞ艶福に富めるや。
 烏兎※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)々呱々の声は※(「口+伊」、第4水準2-3-85)いごの声に化せり、襁褓中の襄は長じて童子となれり、教育は始められたり。藩学に通へる一書生は彼が句読の師として、学校より帰る毎に彼の家に迎へられたり。而して母氏も亦女紅の隙を以て其愛児を教育せり。後来の大儒は※(二の字点、1-2-22)しば/\温習をおこたり屡※(二の字点、1-2-22)睡れり。聡明なる児童には唯器械的に注入せらるゝ句読の如何いかに面白からざりしよ! 彼は此時より他の方向に向つて自ら教育することを始めたり。彼は論孟をなげうちて絵本を熟視せり。義経、弁慶、清正の絵像を見てあどけなき英雄崇拝の感情を燃せり。嗚呼あゝ是れ渠が生涯の方角を指定すべき羅針に非ずや、彼は童子たる時より既に空文を厭ひて事実を喜べり。
 此頃政治世界の局面は松平定信に因りて一変せり。将軍家治の晩年は正に是れ天下災害しきりに至るの時なりき。天明三年襄年四歳信州浅間山火を発し灰関東の野を白くし、次で天下大に飢へ、飢民蜂起して富豪を侵掠す。若し英雄ありて時をすくはずんば天下の乱近くぞ見へにける。是より先き定信安田家より出でゝ白河の松平氏を継ぎ、賢名あり、年ゆるに及んで部内の田租を免じ婢妾を放ち節倹自ら治む。寛政七年元旦慨然として歌ふて曰く少小欲天下器、誤将文字人知、春秋回首二十七、正是臥竜始起時。此年家治こうじ家斉十五歳の少年を以て将軍職をげり。時勢は定信を起して老中となせり。定信てり、先づ従来の弊政をめ、文武を励まし、節倹を勤め、以て回復をはかれり。当時松平越州の名児童走卒も亦皆之を知る。襄も亦其小さき耳の中に越州なる名詞を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)んで忘るゝ能はざりしなり。誰れか図らん後来此人乃ち襄が著書を求むるの人ならんとは、人間の遭際もとより夷の思ふ所にあらず。
 頼氏は寧馨児ねいけいじを有せり。襄の学業は駸々しん/\として進めり。寛政三年彼れ年十二、立志編を作りて曰く噫男児不学則已、学当群矣、古之賢聖豪傑、如伊傅周召者亦一男児耳、吾雖于東海千歳之下、生幸為男児矣、又為儒生矣、安可奮発立志以答国恩、以顕父母哉。翌年春水の祗役しえきして江戸に在るや、襄屡※(二の字点、1-2-22)書を広島より寄せて父の消息を問ふ、書中往々其詩を載す。春水が交遊する所の諸儒皆舌を巻きて其夙才しゆくさいを歎ぜり。薩州の儒者赤崎元礼、襄の詩を柴野栗山に示す。栗山は儒服せる豪傑なり、事業を以て自ら任ずる者也。襄後年之を評して曰く奇にして俊と。彼は固より英才を詩文の中にらすことをいさぎよしとせざりき。今や友人春水の子俊秀かくの如きを見て、彼は曰へり、千秋子あり之を教へて実才を為さしめずすなはち詞人たらしめんと欲する、宜しく先づ史を読んで古今の事を知らしむべし、而して史は綱目より始むべしと。元礼薩に還るとき広島を過ぎ襄に語るに此事を以てす。嗚呼是れ天外より落ち来れる「インスピレーション」たりし也。当時栗山の名が如何計いかばかり文学社会に重かりしかを思へば彼の一言が電気の如く少年頼襄をして鼓舞自ら禁ずる能はざらしめたるや知るべきのみ。大なる動機は与へられたり、大なる憤発は生ぜり、彼が後年史学を以て自ら任ずる者けだし端を此に発す。
 史学なるかな、史学なるかな、史学は実に当時に於ける思想世界の薬石なり。禅学廃して宋学起り宋学盛んにして陽明学興る。一起一倒要するに性理学の範囲を出でず、抽象し又抽象し推拓し又推拓す、到底一圏を循環するに過ぎず、議論いよ/\高くして愈人生に遠かる。斯の如きは当時の儒者が通じて有する所の弊害なり。史学に非んば何ぞ之をすくふに足らん。曰く唐、曰く宋、或は重厚典雅を崇び、或は清新流麗を崇ぶ、時世の推移と共に変遷ありといへども、究竟清風明月を歌ひ神仙隠逸を詠じ放浪自恣なるに過ぎず、絶へて時代の感情を代表し、世道人心の為めに歌ふものあるなし。斯の如きは当時の詩人が通じて有する所の弊害なり、史学に非んば何ぞ之を済ふに足らん。今や二個の岐路は襄の前に横はれり、一は小学近思録の余り多く乾燥せる道なり、一は空詩虚文の余り多く湿潤せる道なり。憐れなる少年よ、なんぢ若し右に行かば爾の智慧は化石せん。爾若し左に行かば爾の智慧は流れ去らん。只一道の光輝あり、爾をして完全なる線上を歩ましむるに足らん、即ち史学也。
 寛政八年襄年十八、叔父頼杏坪に従つて東遊し昌平黌しやうへいくわうに学び尾藤二洲の塾に在り。此行一の谷を過ぎて平氏をとむらひ、湊川みなとがはに至りて楠氏の墳に謁し、京都を過ぎて帝京を見、東海道を経て江戸に入る。到る処俯仰感慨、地理に因りて歴史を思ひ、歴史に因りて地理を按じ、而して其の吐て詩藻となるもの乃ち宛然たる大家の作也。孤鴻既に※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)群に投ず、彼の才の雄なる同学の諸友をして走り且たふれしめたるや想見するにへたり。彼が線香一※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)の間を課して四言三十首を作り以て其才を試みしは実に当時に在りとす。
 読者若しかれが楠河州を詠じたるの詩を読まば如何に勤王の精神が渠の青年なる脳中に沸々ふつ/\たるかを見ん。渠をして此処こゝに至らしめたるものは何ぞや。嗚呼是れ時勢なるのみ。夫の勤王に狂せる上野の処士高山彦九郎は昔しかつて春水と相るものなりき。而して彼が寄語海内豪傑好在而已と遺言して筑後に自殺したるは実に寛政五年にして襄が年十四の時なりき。蓋し元和偃武えんぶ以来儒学の発達と共に勤王の精神は発達し来り、其勢や沛然はいぜんとして抗すべからず、或は源光圀みつくにをして楠氏の碑を湊川に建てしめ、或は新井白石をして親皇宣下の議を呈出せしめ、或は処士竹内式部をして公卿の耳にさゝやひて射を学び馬を馳せしめ、或は兵学者山県大弐をして今の朝廷は覊囚の如しと歎息せしめ、或は本居宣長となりて上代朝廷の御稜威を回想せしめ、或は蒲生君平となりて涙を山陵の荒廃堙滅いんめつそゝがしめ、勤王の一気は江戸政府の鼎猶隆々たる時に在りて既に日本の全国に※(「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1-89-18)はうはくしたりき。寛政四年即ち彦九が死せし前年にあたりて柴野栗山大和に遊び神武天皇の御陵を訪ひ慨然として歌ふて曰く遺陵纔向里民求、半死孤松数畝丘、非聖神開帝統、誰教品庶脱夷流、廐王像設専金閣、藤相墳塋層玉楼、百代本支麗不億、幾人来此一回頭。而して自ら陪臣邦彦と署す。襄や実に斯の如き時勢に生れたり。むべなるかな彼が勤王の詩人としてちしや。夫れ英雄豪傑は先づ時勢に造られて、更に時勢を造るもの也。襄の幼き耳は勤王の声に覚されたり、而して彼は更に大声之を叫んで以て他の未だ覚めざるものを覚さんとせり。
 なる儒者尾藤二洲は春水の妻の姉妹を妻として春水と兄弟の交ありき。襄後年彼を評して曰く雅潔簡遠と。彼の人と為り実に斯の如くなりき。彼は今春水より其鳳雛ほうすうを托せられたり、彼は喜んで国史を談じたりき、而して是実に襄の聞くを喜ぶ所なりき。夕日西に沈んで燈を呼ぶ時、一個の老人年五十二、一個の少年と相対してしきりに戦国の英雄を論ず。一上一下口角沫を飛ばして大声壮語す。二更、三更にして猶且とゞめざるなり、往々にして五更に至る。時に洒然しやぜんたる一老婦人あり室に入り来り少年を叱して去らしむ。老人顧みて笑ふ。当時会話の光景蓋し斯の如し。
 襄亦柴野栗山を訪へり。襄が栗山に於ける因縁誠に浅からざるなり。今にして相遇ふ多少の感慨なからんや。栗山問ふて曰く、綱目を読みしや否や、答へて曰く未だこと/″\く読む能はずと雖も只其大意を領せりと。嗚呼唯大意を領せりの一句即ち襄が終身の読書法也。栗山うなづきて曰く可也。
 襄江戸に在る一年にして去れり。而して彼は終に再び江戸の地をむことを得ざりし也。彼の還るや時正に初夏東山道を経て帰れり。夾山層巒翠※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)天、濛々山駅雨為煙、蓋し当時の光景也。
 父は光れり、子は曇れり。久太郎義近年兎角放縦に有之浪遊に耽り候故、親戚朋友切誠懇諭も仕候得共不相改、当月五日竹原大叔父病死仕候に付為弔礼家来添差遣仕候処途中より逐電仕候と悲しむべき報知の頼杏坪より九月十九日付にて其友篠田剛蔵に達したるときは正に是れ春水が赤崎元礼と共に特典を以て昌平黌に経を説きし年なりき。宿昔青雲の志今や漸く伸びて声名海内に揚れる時に方りて、其愛子は、特に竜駒鳳雛として、望を交友より属せられたる愛子は、蕩児たうじとならんとせり。一栄、一辱、一喜、一憂、世態大概斯くの如し。然れども頼家も日本も頼襄が一たび血気の誘惑に遇ひしが為めに多く損ずる所あらざりし也。当時大坂の中井履軒は襄を責めて不孝の子なりとなし相見ることを許さず、親戚なる某は襄を以て無頼の子なりと云ひ藩人は襄を以て国恩をないがしろにするものなりと議せしかども襄の叔父は善く襄の志を知るものなりき。彼が篠田に与へたる同じ書簡の一節は襄の為めに好個の弁護者たるに足れり。曰く「然し狂妄なりとも宿志も有之事と相見候へば」と襄の挙動は如何にも狂妄に見へしなるべし。然れども叔父は其中に一片の志あるを看取せり。叔父既に之を看取す。後人何ぞ紛々をする。
 頼襄の誘惑が如何程強きものでありしか、而して彼の為せし過は如何程大なるものでありしか、而して彼が此過失の為めに陥りし(或は好んで進み入りし)境遇は如何なるものでありしか、彼の伝を書くものは皆彼の為めに之をめり。之を諱みしが為めに終に曖昧あいまいに陥れり。頼襄の生涯は猶一抹の横雲に其中腹を遮断しやだんせられたる山の如くなれり。只之が結果として知るべきは長子元協を生みし新婦御園氏の離別と京坂間をさまよひ歩きしことゝ数年間家に籠居せしことゝ仕籍を脱し叔父春風の子代りて元鼎春水の嗣となりしことのみ。而して彼自らは当時境遇を写すに窮愁の二字を以てせり。彼は実に此間に於て人生無数の憂患を味ひし也、人間の生涯が如何計り辛酸なるものであるかを味ひし也。之を聞く広島より厳島いつくしまに至る途上に一個の焼芋屋(?)あり、其看板は即ち彼の書きし所なりと。彼れの家に錮せらるゝや屡※(二の字点、1-2-22)大字を書して之を売れり。思ふに其看板は即ち彼が当時の筆なり。千古の文士も一たびは焼芋屋の看板書きとなり下れり。
 不名誉なる放蕩の結果は彼をして其父の志に違ひ頼家の嫡子たる権利を失はしめたり。然れども彼れ頼家の嫡子たる権利を失ひしが為めに著述を以て世に著るゝを得たり。
 閉門脩史出門遊、時追吟朋画楼、落日蒼茫千古事、毛陶戦処是前洲。彼が日本外史の編述は当時に始れり。彼の自ら記す所に因りて之を按ずるに文化三年六月には外史を草して既に織田氏に及べり。彼時に年二十七、而して其年三十に及んでは既に全く稿ををはれり。知るべし日本の文学史に特筆大書して其大作たるを誇るべき日本外史は実に一個の青年男児に成りたるものなることを。是れ実に驚くべし。しかも人し何故に彼が外史の編述に志したるかを知り更に其著の目的と其結果とのはなはだ相違せしことを察すれば更に一層の驚歎を加ふべし。けだし彼は其生涯の後年に於てこそ所謂閑雲野鶴、すこぶる不覊自由の人とはなりたるなれ当時に在りては猶純乎たる封建武士の子たりし也。而して彼の人と為りも亦容易に父母の国を離れ得るものに非りし也。彼は温情の人なり、恩に感じ易き人なり、知遇にむくゐん為には何物をも犠牲に供し得る人なり、彼なんぞ容易に父母の邦を棄得んや、容易に天下の浪士となり得んや、彼は智識に於てこそ極めて改革的進歩的の男子なりしなれ情に於ては極めて保守的の人物たりし。冑山昨送我、冑山今迎吾、黙数山陽十往返、山翠依然我白鬚、故郷有親更衰老、明年当復下此道。彼は封建の世界、道路の極めて不便なるときにすら、故郷の母を省する為には山陽道を幾たびも往還することを辞せざりき。彼が菅茶山に与ふる書を読むに其邦君の仁恕なるを称し且曰く天下之士誰不其国恩襄則可最重矣と。彼は如何にしても其邦君を忘るゝ能はざりき。斯の如きの彼なるに彼は青年の時に於て既に封建を非とし自ら封建以外の民たるを期せりとは吾人の決して想像し能はざる所なり。されば彼の外史を書くや亦実に此を以て大日本史が水藩に於るが如く芸藩の文籍となさんと欲せしに過ぎざるのみ。彼が備後に在るとき築山奉盈に与ふる書に曰く愚父壮年之頃より本朝編年之史輯申度志御坐候処官事繁多にて十枚計致かけ候儘にて相止申候私儀幸隙人に御坐候故父の志を継此業を成就仕、日本にて必用の大典と仕、芸州の書物と人に呼せ申度念願に御坐候と。其松平定信に与ふる書に曰く少小嗜国乗、毎病常藩史之浩穣、又恨其有一レ闕云々。彼の光を大日本史と競はんとするに在りしや知るべきのみ。而して其の躰裁ていさいに至りても亦一家私乗の体を為し藩主浅野氏の事を書するときは直ちに其名を称せざるが如きいよ/\以て外史の本色を見るべき也。其後に至りて所謂拮据きつきよ二十余年改刪かいさん補正幾回か稿を改めしは固より疑ふべからずと雖も筆を落すの始より筆をくの終りに至るまで著者の胸中には毫末がうまつも封建社会革命の目的若くは其影すらもあらざりしなり。誰れか図らん此眇々べう/\たる一書天下に流伝して王政復古の預言者となり社会の改革を報ずる暁鐘とならんとは。
 文化七年の冬襄年三十、備後に行き菅茶山の塾を督す。築山奉盈に与ふる書又曰く去冬此方へ参候一件家長共私へ一向知らせ不申間際に相成漸発言仕候、私好み不申事に御坐候へども已に願出の義今更辞退も難仕急に追立られ罷越候、其以来書生の世話無怠仕候へども何分不納得之義に御坐候へばつまらぬ者に御坐候と。然らば則ち彼の備後に行きしや固より其の好む所に非ざりし也。紙上功名添足蛇、漫追老圃桑麻、野橋分径斜通市、村塾臨流別作家、読授児童生字、行沿籬落狂花、笑吾故態終無已、時復談兵書白沙。誠に草屋にて馬子牛飼の外は談話する人もなし、回頭故国白雲下、寄迹夕陽黄葉村、彼が当時の落莫知るべき也。独り茶山の彼が才を愛して其薄命をあはれみ誦讐応和以て日を度るあるのみ。彼が菅茶山翁遺稿の序に曰く余読書処、与翁室水竹相対、毎評論、使童生※(「敬/手」、第3水準1-84-92)巻往復、以筆代舌、如此周歳と。当時の状見るが如し。然れども彼は終に此所に止る能はざりし也。彼が広島に在るや既に都会に住して名を天下に成さんとするの志あり。而して病雀籠樊ろうはんに在り宿志未だ伸びず其備後におくられし所以は以て彼が冲霄ちゆうせうの志を抑留し漸く之を馴致せんが為めのみ。而も彼れ奚ぞ終に籠中の物ならんや。彼は福山家老の方に詩会に招かるゝとき菅太中の養子のあしらひにて呼棄てにせらるゝに不平なり、妻を迎へよと勧めらるゝに不平なり、出でゝ事ふべしと勧めらるゝに至りて愈不平なり。即ち書を茶山に与へて曰く使襄禽獣、則可、苟亦人也、則何心処之、亦何面目以見天下之人乎と。彼は斯の如くにして去て京師に遊べり。時に文化八年年正に三十一。其書懐の詩に曰く聊取文章結草、効身未必在華替。其歳暮の詩に曰く一出郷関歳再除、慈親消息空如何、京城風雪無人伴、独剔寒燈夜読書。
 彼が京都に住せしより声名は遽然きよぜんとして挙がれり。此時に当りて学界の諸老先生漸く黄泉に帰す。文化四年には皆川淇園七十四にてき、柴野栗山七十二にて逝き、文化九年には山本北山六十一にて逝き、文化十年には尾藤二洲六十九にて逝く。旧き時勢は旧き人と共に去れり。文界学の新時代は来れり、而して頼襄は実に其代表者となれり。彼が感慨に富める詠史の詩は翼なくして天下に飛べり。彼の豊肉なる字躰は到る処に学ばれたり。竹田陳人が所謂挙世伝播頼家脚都門一様字渾肥といふもの、決して諛辞ゆじに非りし也。彼は斯の如くに天下より景慕せられたり。書生は皆頼氏の門に向つてはしれり。文運は頼氏に因りて一変せられたり。彼は実に精神世界の帝王となれり。其一言一行は世人の熱心に注意する所となれり。其の言ふ所は輿論となるに足り、其詩賦は一世を鼓舞するに足れるものとなれり。彼が一度大所へ出でゝ当世才俊と呼ばるゝものと勝負を決したしてふ志願は成れり。而して彼は実に天下に敵なきものとして立てり。
 文化十年春水年六十八、孫元協を携へて東遊す。茶山之を襄に報ず。襄驚喜淀川を下りて彼等を大阪に迎へ、京都に一屋を借りて歓待旬余弟子をして周旋せしむ。相見ざること数年互に久濶を序す。思ふに春水既に老す、老ひては即ち子を思はざるを得ず。彼たとひ一たびは襄が家学を継承せずして仕籍を脱したることを悲めりと雖も襄の名天下に高きに及んでは即ち亦其老心を慰むる所なきにあらざるべし。吾人は濃情なる父と子が幼孫を傍らに侍せしめて往事を語り悲喜※(二の字点、1-2-22)こも/″\至れるの状を想見して彼等の為に祝せずんばあらず。翌年襄始めて帰省し孤枕曾労千里夢、一燈初話五年心の詩あり、爾来じらい殆んど年毎に往返す。
 文化十二年襄父の病を聞きて再び帰省す。父は死せずして元鼎死す、即ち元協を以て承祖の嗣となす。父の病少しくゆるを以て京に還る、襄が賢妻小石氏をめとりしは蓋し此前後に在り。此年除夜の詩に曰く為客京城五餞年、雪声燈影両依然、爺嬢白髪応白、説看吾儂共不眠と。嗚呼爺嬢豈唯白髪を添へしのみならんや。翌年二月襄生徒を集めて荘子を講じつゝありしとき、たちまち飛報あり電の如く彼の心を撃てり、曰く春水の病急なりと。彼は巻を投じて起てり、百里を五昼夜にして行けり。至れば即ち父の霊は既に其肉を離れてありし。孝子の恨何ぞ極まらん。彼は再び弟子の為めに荘子を講ずることをせざりき。彼の喪中に在るや嘗て其友篠崎承弼に語りて曰く、詩文為生、不作、聊断酒肉与一レ内、欲罔極之万一耳と。彼は父の為に三年の喪を服せんと欲せり。いたく自ら節抑して以て其無限の悲哀を顕はせり。彼は自ら父の志に背くこと多きを知れり、是を以て父の死を悲しむや極めて切なりき。
 文政元年彼は三年の喪を終りて終に鎮西ちんぜいの遊を試みたり。是より先き彼は屡々五畿及び江濃尾勢の諸国に漫遊せしかども未だ嘗て千里の壮遊を試みざりし也。此に於てか門人後藤世張を随へ手抄杜韓蘇古詩三巻、詩韻含英一部と外史の草稿とを携へて京を発し淀川を下り、大阪より篠崎承弼に送られて尼崎に至り、雨には即ち淹留えんりうし晴には即ち行き広島に至りて父の墓に謁し赤間関に淹留すること半月、年々摂酒附商舟、磊落万罌堆岸頭、清※[#「酉+票」、281-下-25]尤推鶴字号、駕人酔夢楊州の詩あり。蓋し彼が酒をしむに至りしは此時に始まれる也。後来梁川星巌やながはせいがんをして其死を聞きて人伝麹蘖遂為災と歌はしめたる程の大酒家も三十九齢の当時までは酒量極めて浅かりし也。嗚呼彼は遂に酒のとりことなれり。吾人は問吾底事恋此間、豊筑無酒似赤間の詩を読む毎に未だ嘗て彼の為めに歎ぜずんばあらず。夫れ春水杏坪共によはひ古稀こきを超へたり、頼氏固より長寿也、襄にして自愛せば其五十三齢に猶十年若くは二十年を加へ得べかりし也。思ふて此に至る吾人は星巌が飲を嗜まずして七十に達したるを彼の為に祝せざるを得ず。世に為す所あらんとするの士鑑みざるべからず。然りと雖も彼が酒を嗜む太甚はなはだしきに至りし所以のもの実に其父を喪ひたる無限の憂愁を散ぜんとするに由る。果して然らば彼の志亦あはれむべき也。
 彼は赤間関を発して始めて九州の地を踏めり。今詩集に因りて其の行程を案ずるに先づ豊前に入り、筑前を、長崎に留連し、天草洋を航して島原に上陸し、熊本に至り、南下して薩摩に入り、大隅より再び肥後にかへり、更に豊後に行き、筑後河を下り、豊前より再び赤間関に至り、其所にて新年を迎へしが如し。蓋し其足迹の達せざる所唯日向一州あるのみ。九州の名山大川所謂温泉岳、高良山、阿蘇山、霧島山、耶馬渓やばけい、筑後河の類皆彼の詩中に入らざるはなし。彼は詩に於ても実際脈なり、其詠ずる所こと/″\く取つて以て風土記に代ふべき也。吾人之を徳富蘇峰氏に聞く、其熊本を発する時の詩に大道平々砥不如、熊城東去総青蕪、老杉夾路無他樹、欠処時々見阿蘇と曰ふが如きは真に熊本市外の写真と謂つべしと。蘇峰氏は熊本県の人也、其言証とするに足る。蓋し彼と雖も時としては想像より搆造したる詩を作らざりしにはあらざりし。然も其実歴せし状況を見るがまゝに写し出すの伎倆に至つては日本詩人中彼を推して第一となさゞるを得ず。彼の詩は未だ嘗て実地を離るゝ能はざる也。彼は高き理想の中に住するの人に非ず。彼は唯只温情なる多血なる日本国民として日本国民なるが如く見る所を見しまゝに聞く所を聞きしまゝに写し出せり。而して自然に吾人をして快読に堪へざらしむ。彼の詩は日本人に衣するに支那の衣裳を以てせしむるものなり。自然に是れ唐に非ず宋に非ず将た又明清に非ず、頼襄の詩也、日本人の詩也。
 長崎は淫風の極めて太甚はなはだしき地なり。襄の彼地に在るや屡々しば/\遊里に誘はれたりき。今日と雖も娼閣の壁上往々其旧題を見るといへり。然れ共彼の集に因りて之を察するに彼は喜んで狭斜の遊を為せしものに非りき。彼自ら詩を作りて其所懐を述べて曰く誰疑山谷堕泥犂、懶学樊川張水嬉、唯使心膓如鉄石、不妨筆墨賦氷肌。又曰く未茗椀換※(「角+光」、第3水準1-91-91)、何復繊腰伴酔眠、家有縞衣侍吾返、孤衾如水已三年と。彼は喪に在るの間其愛妻とすらきんを共にせざりし也。如何ぞ独り長崎に於てのみ堕落せんや。いはんや彼の此行固より空嚢くうなうたりしをや。古より名士は※(「言+山」、第3水準1-91-94)ばうせん多し。吾人たとひ好む所に佞する者に非るも彼の為めにゑんを解かざるを得ざる也。
 文政二年は赤間関に迎へられたり。広島に帰り母を奉じ京師に入り西遊の行を終り更に母を伴ふて嵐山に遊び奈良芳野の勝を訪ひ侍輿百里度※(「山+隣のつくり」、第4水準2-8-66)※(「山+旬」、第3水準1-47-74)、花落南山万緑新、筍蕨侑杯山館夕、慈顔自有十分春の詩あり、終に送りて広島に還る。蓋し彼れ父に報ゆる能はざる所を以て之を母に報いんと欲せし也。是を以て平素の節倹なるにも似ず、母に奉ずる太だ厚かりし。爾来十年屡々広島に往復し母に伴ふて諸方に遊び其笑顔を見るを以て無上の楽とはなしたりき。
 当時山陽外史の名隆々日の上るが如し。文人若し其許可を得ればあたかも重爵厚俸を得しが如くに喜びたりき。然れどもひるがへつて彼の家政を察すれば即ち貧太甚しかりき。文政六年彼れ家を鴨河の岸三本木に買ひ水西荘と称す。所謂山紫水明処なり。然も行て其旧迹を見しものゝ言に因れば一間の茅屋のみ。即ち其見るに足らざる一草舎に佳名を付したるに過ぎざるや知るべきのみ。彼は自ら詩を作りて当時の境遇を序したりき。曰く
今朝風日佳、北窓過新雨、謝客開吾秩、山妻来有叙、無禄須衆眷、八口豈独処、輪鞅不門、饑寒恐自取、願少退其鋭、応接雑※(「女+無」、第4水準2-5-80)、吾病誰※[#「金+乏」、282-下-25]鍼、吾骨天賦予、不然父母国、何必解珪※[#「王+且」、282-下-25]、今而勉齷齪、無乃欺君父、去矣勿我、方与古人語、
 星巌集を読めば彼も亦屡々貧を歌へり。千古の文人と雖も文学の趣味唯貴族の間にのみ行はれし封建の社会に在つてはからふじて不覊ふき独立の生計を為すを得しのみ。当時文人の運命真に悲しむべし。
 しかく貧なりと雖も彼の家庭は幸福なるを得し也。彼の妻は彼の死後貞節を以て市尹しゐんより褒称はうしようせられし程の人なり、彼も亦其妻に対して極て温情なる夫なりき。彼九州に遊びし時家をおもふの詩あり、曰く客蹤乗興輙盤桓、筐裡春衣酒暈斑、遙憶香閨燈下夢、先吾飛過振鰭山、と。彼は其詩に屡々家庭の消息をらせり。而して一も其夫妻相信じ子女膝下しつかを廻る香しき家を想像するの料たらざるはなし。思ふに短気にして剛直なる彼を和らげて大過なからしめ家を治むる清粛にして敢て異言なからしめたるもの小石氏の如きは、名士の婦たるに恥ぢずと謂つべし。
 彼が大納言日野資愛の門に出入し詩酒徴逐ちようちくの会に侍せしは思ふに西遊より帰りし後に在らんか。日野氏は尋常の公卿に非りし也。彼は和漢の学に精通せり。其星巌集の序を読めば彼が多少人才を監識するの才を具せるを見るに足る。然れども襄は臣礼を取りて日野氏につかへざりき。只賓として友として日野氏と交れり。且曰く魚は琵琶の鮮に非れば喫する能はず、酒は伊丹の醸に非れば飲む能はずと。而して日野氏は善く之を容れて其無礼をとがめざりき。彼が詩に所謂吾骨天賦予なるものは空言に非る也。
 文政十年母と杏坪翁とを奉じて嵐山に遊び遂に再び奈良芳野に行き更に近江の諸勝を訪ふ。京に還りて菅茶山の病を聞き往て之れを問ふ。会ふに及ばずして卒す。忘年呼小友、知己独此翁の詩あり。彼が菅茶山翁遺稿の序に曰く嗚呼吾先友海内数公、既漸凋落、独有翁在、猶碩菓之不一レ食、而今復如此、吾将誰望哉、と。秋風落葉をはらふが如く名士漸く墓中に入る、多情なる彼は深く人間のたのむべからざるを感ぜしならん。
 此年将軍家斉軍職に在りて太政大臣を兼ぬ、是れ蓋し史上未曾有の事なり。彦根の城主井伊直亮なほすけ、桑名の城主松平定永は京都につかはされて大拝の恩を謝せり。定永は即ち定信の子也、此行定信其臣を襄の家に遣り礼を卑くして外史を求めしむ、定信の賢は襄の稔聞する所なり。襄は喜んで之に応じたり、其知己の義に感ずれば也。後三年を隔てゝ天保元年定信卒す、襄乃ち文を作りて之を祭れり。当時天下第一の賢人は天下第一の文人を知れり。彼が心血の塊たる外史は松平定信に因りて其有用の著なることを証せられたり。彼が宿昔の心事ほゞ成れりと謂つべき也。
 襄の交遊天下にあまねし、必しも一々之を記す能はざる也。而して其尤も莫逆ばくぎやくなるは即ち篠崎承弼の如きあり。彼は襄に推服して置かざりしなり。之を聞く承弼は中才の人なりと雖も極めて博聞強記なりしかば襄は屡※(二の字点、1-2-22)彼に問ふて疑を決する所ありしと。其年輩に於て襄よりも老人なるは即ち太田錦城は十五歳の兄なり、大窪詩仏は十四歳の兄なり。其年襄よりも若きは即ち斎藤拙堂は十八歳の弟也、梁川星巌は九歳の弟也、大塩平八郎は十六歳の弟也。襄と平八郎と交を訂せしは蓋し襄の晩年に在り、当時平八郎年壮にして気鋭、陽明の学ををさめて議論風生ず、而して襄は未だ嘗て之と学術を論ぜしことあらざりき。唯杯酒の間に於て交情を温めしのみ。而も彼の烱眼けいがんは早くより平八郎の豪傑なるを看取せり。古賀溥卿は嘗て平八郎が江戸に来りしとき恐るべき人物なりとして遇ふことを許さゞりき。二人の眼明かなりと謂つべき也。
 天保元年襄胸痛を患ひしが久ふしてへたり。此年古賀溥卿其藩侯の為めに絹一幅を寄せて画を求む、襄は故人の求めなりとして之を甘諾する能はざりき。彼は儒者たるを甘んぜざる者なり、何ぞいはんや詩人文人たるを甘んぜんや。又何ぞ画師の如く遇せらるゝを喜ばんや、即ち二絶句を作りて其布に大書し之を返せり、其一に曰く曾謝横経弄翰儒、寧能余技備観娯、胸中書本猶堪献、彷彿※(「幽」の「幺」に代えて「豬のへん」、第4水準2-89-4)鳳七月国、顴高く眉ちゞまれる老人は其眼を光らせて筆をふるへり。彼時に五十一、英気堂々なほ屈する所なき也。而して健康は彼の雄心に伴はず、病は突然彼をして永く黙せしめたり。
 東山六六峰何処、雲鎖泉台惨不開、歳在竜蛇争脱[#「戸の旧字+乙」、283-下-27]、人伝麹蘖遂為災、一朝離掌双珠泣、五夜看巣寡鵠哀、彼此撫来最惆悵、海西有母望児来。是れ梁川星巌が東海道に於て襄の訃音ふいんを聞きて寄せし所なり。其言何ぞ悲しきや。襄は天保三年九月二十三日を以て其の愛妻及び十歳の又二郎と七歳の三木三郎とを残してけり。是より前一年長子元協年既に二十、江戸に祗役しえきする為めに広島より至り、襄と京師に相遇ひ、江戸に至らば新に室を築いて父を迎ふべしと約せり。襄喜んで再び江戸に下り大に其伎倆を試みんことを期せり。三年の春画富士に題して曰く自芙蓉三十年、空於図画雲煙、再会盪胸当日、白頭相照両※[#「白+番」、284-上-7]然と。然れども芙蓉は終に再び日本大詩人の面目を見ることを得ざりき。六月十二日彼は喀血かくけつせり、而して医は其不治なるを告げたり。襄曰く吾上に母あり、志業未だ成らず、たとひ死せざるを得ざるも、猶医療を加ふべしと。彼は母の憂へんことを恐れて往復の書牘しよとく必らず自ら筆をること常の如くしたりき。而して其晩年の著述たる政記を完成せんことを欲して死する迄眼鏡を着けて潤刪じゆんさんに怠らざりき。彼が通議の内庭篇は実に死するにさきだつ三日蓐を蹴て起ち草せし所なりき。思ふに松平定信は実に幕府後宮のそしりに因りて将軍補佐の任をむるに至れり、目前の事斯の如し。彼が此篇ありし所以決して偶然ならざる也。而して其文整々堂々格律森厳がうも老憊の態なし。其精力過絶なること斯の如し。而も彼は終に眠れり。
 彼が遺物として日本に与へたるものは即ち外史二十二巻、政記十五巻、通議二巻、日本楽府一巻、其他文集詩鈔の類となす。彼が生涯の梗概は吾人既に之をかゝげたり。要するに彼は漢学者なり、然れども彼は日本人なり。彼は日本人として日本の英雄を詠ぜり。日本人として日本の歴史を書けり、彼は感情に於て歴史的なり。此故に王朝の盛時を追懐しては現時の式微を歎じ、寛永の士風を追懐しては近世の軽薄をのゝしり、楠公の為めに慷慨の涙をそゝぎ、北条氏の専権に切歯せり。然れ共彼は又智識に於て歴史的なり。彼は革命にくみする者に非ず、哲学的の理想を有するものに非ず、此故に彼は物徂徠の如く想考的の政論を為す能はず。時勢と事情との二つは常に彼の立論の根拠たりし。思ふに彼をして安政文久の際に在らしむるも彼は決して純乎たる王政復古論を唱へ得るものに非ず。必らず島津斉彬しまづなりあきら氏一流の見に同じく先づ公武合体論を為して時の宜きに通ぜしめんと欲するに過ぎざらんか。然も彼に因りて日本人は祖国の歴史を知れり。日本人は日本国の何物たるかを知れり。日本国の万国に勝れたる所以を知れり。独り理論的を知れるのみならず詩の如く歌の如き文字を以て之れを教へられたり。後来海警屡※(二の字点、1-2-22)至るに及んで天下の人心俄然がぜんとして覚め、尊皇攘夷の声四海にあまねかりしもの、いづくんぞ知らん彼が教訓の結果に非るを。嗚呼あゝ是れ頼襄の事業也。
(明治二十六年一月)





底本:「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房
   1969(昭和44)年6月5日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
入力:kamille
校正:鈴木厚司
2008年11月11日作成
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